「姫って、いつ死ぬんでしたっけ?」
「三週間後ぐらいだったかしら。永琳、ご飯おかわり」
「そうですねぇ。あと20日ほどは生きていられるでしょう。はいどうぞ姫」
言いだしっぺのてゐだけでなく、当の輝夜でさえ、ごくノンビリとした口調だった。三人の会話を耳にしていたイナバ達も、特に気に止めずそれぞれにお喋りを続けている。つまるところ、ちょっとした世間話が飛び交ういつもの夕食風景だ。大きな和室に集まって皆で食べる、楽しい晩御飯。
けれど鈴仙だけは渋い顔をしていた。
「ちょっと。てゐ」
自分を困らせるためにてゐはその話をしたのだろう。口を尖らせ、睨みつける。けれど、てゐは聞えないふりをして飯を食らっている。ぐぬぬ、と唇を咬む。このくそ兎め。
「ウドンゲ」
永琳に声をかけられ、ギクリとする。
「はい」
俯きがちにおずおずと顔を向ける。
弟子の戸惑いを知ってか知らずか、永琳はシレっと念を押した。まるで、至極簡単な用事を頼むかのように。
「姫のお世話をしっかりね。貴方が姫の最期を看取るのだから」
「は、はい」
鈴仙は、その件で永琳に妬まれているのでは、と気をもんでいた。けれど永琳の横顔には、特別けんのある様子は感じられず、口調だっていつも通りだ。強いて言えば自分の目を見て話してほしかったが、それはまぁ食事中でもあるのだし、疑心暗鬼すぎるような気もする。
「よろしくね」
輝夜が、にっこりと笑った。戸惑い交じりに会釈を返して食事に逃げる。
けれどもう、煮魚の味は、さっぱり分からなかった。
そもそもなぜ自分がそんな大役を?
鈴仙にはそれが分からないのだ。もっとふさわしい人が自分の隣にいるじゃないか。
ちらちらと、皆の様子を伺う。誰も彼も、何の疑問もなさそうな顔でいつも通りに食事をしている。
鈴仙だけが、一人そわそわとしていた。
秋風が竹林を揺らし、そして、竹の葉達が互いに触れ合ってざわめく。その声は、ゆるやかな波の音になって永遠亭を包んだ。竹林に囲まれた永遠亭では、日光までもが緑に染まったような、そんな錯覚さえ覚える。。鈴仙はその緑を愛していた。かつて住んでいた月、暗黒に覆われたその世界とは、比べられないくらいに色鮮やかな光景。
黒は、好きな色ではない。月の空を思い出すから。その思いは強く、輝夜の漆黒の長い髪にさえ、美しさよりも不気味さを感じていた。
鈴仙は永遠亭の縁側で、輝夜の髪にくしをとおしている。
「姫」
「うん?」
「私、やっぱりこの役目にふさわしいのは師匠だと思います」
くしが髪をすべり落ちる度、しゅ、しゅ、と澄んだ音。
輝夜は縁側に腰かけ足を揺らしている。
「嫌なの? イナバは」
「そうではありませんが。姫と師匠は私なんかと比べ物にならないくらいに長い間、ずっと一緒にいたんでしょう? 姫の最期にはやっぱり師匠がついているべきですよ。私、なんだか申し訳なくて」
「私がイナバを指名したんだからね。黙って私のお世話をしなさい」
相変わらずに高飛車で、人の戸惑いを楽しんでいるような声。鈴仙は、曖昧な返事をする。
「心配しなくても永琳は嫉妬なんかしてないわ」
「そうでしょうか」
「私が言うのだから間違い無い」
「そこまで理解してあってるんですから、やっぱり私なんかより――」
「お、だ、ま、り。しつこいわよ」
納得のいかないまま、鈴仙は黙り込む。
鈴仙にとって輝夜は、今だによく分からない人物だ。貴族にありがちな、ただ気まぐれで我侭なだけの姫かとも思うけれど、それだけでくくれる人ではないとも思う。
「姫」
「ん、まだ文句があるの?」
「あのう、正直に言いますね。私は姫が何を考えているのかよく分かりません。そんな私で本当にいいんですか」
ぶしつけすぎただろうか、と緊張しながら輝夜の様子を伺う。
けれど少し待っても、輝夜は何も言わなかった。
「姫」
呼びかけても、やはり返事をしてくれない。
前に廻って輝夜の顔を覗き込みたい衝動にかられるけど、それはあまりに露骨がすぎる。
しかたなく、居心地の悪さをひしひしと感じながら、鈴仙は無言で髪をとき続けた。
しばらくして、鈴仙はそれに気づいた。気づいて、息を飲んだ。
「どうしたの?」
鈴仙の手が止まった事をいぶかしんで、輝夜が振り向く。鈴仙はまともに言葉を返す事ができなかった。強張った瞳で、それを示す。輝夜は目線を追って鈴仙の膝元に目を落とし――。
「あら」
そこには、何十本、いや何百本と、輝夜の髪が抜け落ちていた。
床に落ちた数多の髪の毛は、地を這う無数の黒蛇のよう。不吉で、凶兆を運ぶ忌まわしいものに見えた。
姫の毛根は腐り始めているんだわ――鈴仙はぞっとした。
「姫」
ようやく搾り出せた声は、悲鳴に近い。
「やれやれ。苦労してお手入れしてきたのだけれどね」
輝夜は少し困ったように笑うけれど、堂々としていた。竹林に向き直って、どこか名残惜しそうな声で、その上の青空を見上げた。
「くしはもういいわ。死ぬ前に頭がツルツルになっては嫌だもの。大事にしないとね」
はい、と小さく頷く。鈴仙は悲しかった。抜け落ちた髪が死の影となって迫ってくる。さっさっと、床の髪をまとめる。それらは抜け落ちたにも関わらず柔らかく艶やかで「まだ生きていたい」と、訴えているようだった。
鈴仙には、急に輝夜の背中が小さくなって見えた。弱っていく兆候を目の当たりにして、母性本能が刺激されたのかもしれない。
鈴仙は輝夜の髪を一房持ち上げ、ゆっくりと手ですくった。
「イナバ?」
「くしはもう使えませんから、私が手で撫でてさしあげます」
目をつむればシルクと勘違いしてしまいそうなほど、サラサラとしている。鈴仙は泣いてしまいそうになった。顎が震えだす。
「イナバ」
「はい」
「何と言おうと、私の最期は、貴方が看取るのよ」
どんなに疑問があったとしても、今の鈴仙にそれを断るなどできなかった。
「ねぇ姫。起きてください。朝ですよ」
「まだ眠い」
「姫の世話を言いつけられてるんですから、起きてくれないと、私、師匠に怒られちゃいますよ」
「そんなの私の知らないわよ」
「そんなぁ。そもそも姫が私を指名したのに。ねぇ、もうすぐ死んじゃうんですよ? 寝てるだけでは勿体ないですよ」
「最期の日々をどう過ごすかくらい、私の自由でしょう?」
廊下に追い払われて、鈴仙は溜め息を吐いた。
「姫は私に何を求めているんだろうね」
御髪を撫でていたあの時だけは、少しだけ輝夜に近づけた気がしたのだが。どうも自分の思いこみだったらしい。
てゐの膝に横たわり、子兎は眠った。上弦を少しすぎた楕円の月の夜。子兎はもう随分前から胸の上下をやめていた。鈴仙の手の平にすっぽり収まるほどの小さな体。すでに、秋の夜風と冷たさを同じくし始めている。それが悲しくて、鈴仙は静かに泣いた。軍人の癖に、と月にいた頃に笑われていたが、死にはどうしても慣れる事ができない。
3ヶ月間ほどしか生きられなかった哀れな子兎。もともと生まれるのが早すぎたのだ。てゐの助けがなかったら、その半分の時間もすごせなかったろう。最期の1時間、永遠亭の庭でてゐの膝に抱かれ、月の光を浴びながら、そして逝った。
庭石に並んで座り、ともに黄昏る。
てゐは最後まで一度も泣かなかった。ただじっと、指の背で子兎の頭を撫でてやっていた。
「てゐはすごいね」
「え?」
「全然泣かないんだもん。私なんて、もう涙が止まらなくて」
てゐはしばらく無言で月を見上げた。その横顔はいつもとは違ってずいぶんと大人びて見える。
「長生きしてるとね。何度も何度もこんな事があるから」
「慣れちゃうって事?」
「ちょっと違うかな。私はこの子達は月に行ったんだと思ってる。お別れじゃなくて、ちょっと遠いところに行っただけだって思うようにしてる。ほら、まだ少し欠けてるけど、ここからでもあの子達が見えるじゃない」
暗い夜空には眩しいくらいに月が輝いている。その表面の模様は、兎が餅をついている姿なのだと言われている。だが鈴仙はその正体を知っていた。
「ねぇ鈴仙教えてよ。月は良い所? 皆は楽しくすごしているかなぁ」
馬鹿正直な鈴仙はつい口ごもってしまう。それでも最後には生来の気の優しさがでた。
「う、うん。良い所だよ」
てゐは、とたんにいつもの悪戯顔になった。
「じゃあなんでそこから逃げてきたのさ?」
「うぐ」
この老獪な兎には自分のつたない誤魔化しなどは通用しない。度重なる経験から鈴仙はそれを理解している。だからもう、余計な事は言わずに黙っていた。
てゐは、くくくと笑いながら、立ち上がった。子兎の亡骸は手の平に抱いている。
「私ね。姫を看取る役は、鈴仙が適任だと思うよ」
「え?」
「死に分かれるのって、やっぱり辛いよ。だから、長生きするほど色んな逃げ方を憶えてしまうの。心に壁を作って、まっすぐに向き合えなくなる。姫は自分の死を真正面から受け止めてほしいんだよ」
「それだけでいいのかな。姫は私にどうしてほしいんだろうって、ずっと悩んでる」
「思ったままを素直に感情に出せばいいんじゃない。私も、そして多分お師匠様にも、ちょっとできない事だよ。かっこつけちゃうからね。その点、鈴仙は単純だ。くくく」
「もう」
そうなのだろうか。自分はただ泣けばよいのだろうか。なんとなく納得してしまいそうになる意見ではあったが。
てゐが勝手口に向かった。
「どこに行くの?」
「この子を埋めに。竹林の奥に秘密の兎塚があるんだよ」
「私も行く」
「いいよ。この子達を弔うのは、私の仕事」
夜空の月へ送るように亡骸をかかげ、ぴょんぴょんと跳ねていく。死んでしまった子兎の代わりに月の下を遊んでいるのかもしれない。
死との向き合い方、接し方を、てゐは知っているのだ。自分は何も知らない。鈴仙は情けなくなる。こんな自分が姫を看取って、本当にいいのだろうか。てゐの言葉を信じるならば、だからこそ、らしいのだが。
「思ったことを素直に……か」
「姫。朝ですよ。起きましょう」
「眠い」
「あと二週間ちょっとしかないのですよ。やっぱり、勿体ないですよ」
「しつこいのねイナバ。起きたくなったら自分で起きる。私の自由だと何回言わせるの」
「私は嫌です」
「なんですって?」
「私は少しでも姫のお側にいたいのです」
少しの無言の後、輝夜がはじめて布団から顔を出した。枕元で覗き込んでいる鈴仙を、怪訝な顔で見上げる。なんとも言えないさまよった声色で、
「イナバ?」
「はい」
鈴仙は瞳を逸らさずにじぃっと見返す。輝夜は少し困ったような顔をして目を逸らした。
「でも、私は眠いし」
「起きてくれないのなら、私も一緒に寝させてください」
「はぁ?」
今度こそ正気を疑うような目で凝視された。かまうもんか、と鈴仙は胸を張る。たとえ姫の心がさっぱり分からなくても、せめて自分の考えだけははっきりと伝えよう。
「……体育会系はこれだから恐い。直情的」
「は?」
「なんでもないわ。じゃあ、入りなさい」
「えっ」
輝夜が布団の端に体をずらして、掛け布団を捲った。
鈴仙は固まる。さっきの言葉は、こうまで食い下がればさすがに輝夜も折れるだろう、と意地を張ったのだ。それがまさか本当に招き入れられるとは予想外だった。
「ああ寒い。早く入りなさい」
「あ、いや、その」
「わけのわからない娘ねぇ。イナバが寝ると言ったんでしょう?」
「あれは姫に起きてもらおうとして」
「だって私は眠いのだから。起きるなんてありえない。さぁ早く」
しまいには腕を掴まれて布団に引き込まれる。あぁ自分などの意見で素直に動いてくれる人ではないのだなぁ、と諦めを感じながら、鈴仙はそれに従ったのだった。
自分の使っているせんべい布団と違って、寝心地は飛び切り良かった。それにとても良い匂いがする。枕は一つを半分こした。すぐ隣に輝夜の顔がある。輝夜は早々と目を瞑っていた。まじまじと観察する。まつげの立ち方や、唇の張り方、そんな所までが麗しい。黄金率を体言したような、丹精で美しい顔立ちだった。すーっと鼻を吸うと、輝夜のほっぺたの匂いだろうか、お香のようなそれが鼻腔を満たして、それがあまりに良い匂いだったから、つい鈴仙は目を細める。こんな綺麗な女性が世の中にいるんだ、と溜め息を漏らした。ほんのりと憧れのような思いを抱く。
突然、輝夜が目を見開いて、漆黒の虹彩がギョロリと鈴仙を射抜いた。慌てて天井に向き直る。
「イナバ。さっきの言葉は少し嬉しかったわね」
「へ?」
「少しでも私の側にいたいだなんて、そんな言葉を面と向かって言われたのは久しぶり。悪い気分じゃない」
「あ、えと、そうですか、よ、よかったです」
「じゃあお休み」
「は、はい」
そんな事を言う人だとは思っていなかった。不意打ちをくらって、ドギマギする。触れ合った肩が奇妙に暖かかった。なんだか、少しだけ輝夜を理解できたような気がして嬉しかった。
相手を理解したいと願うなら、勇気を出してこちらから気持ちを明かさなきゃ――満足感とともに、鈴仙の人生に新しい教訓が刻み込まれていく。
「お休みなさい、姫」
その後、朝食の用意を終えた永琳がしびれを切らしてやってきて、二人そろって叱られたのだった。
「姫。何をしているんですか」
「赤ちゃんイナバ達が遊んでいるのを見てるの」
「可愛いですね。一緒に眺めててもいいですか」
「どうぞ」
――。
「姫、今日もずっと本を読んでいるのですか?」
「昨日から雨が止まないし、暇つぶし」
「じゃあまた今日も、一緒に読んでていいですか」
「いいわよ」
――。
「イナバ。何をしているの?」
「最近趣味で始めた鼓です」
「側で聞いていてもいいかしら」
「もちろん」
――。
鼓はどれほどの時間放置されていたのか。多少色あせてはいたが、まだ、音は生きている。
ポン、ポン、ポン――
ともすれば竹林の夕風にまぎれてしまいそうな、なんの飾りもない音色。けれど鈴仙は、すぐにその音を好きになっていた。
隣で縁側に座っている輝夜は、いささかつまらなそうではあったが。
「ねぇ。楽器をやるならもっとにぎやかなのにしてよ。キーボードとかトランペットとか、あるでしょう。騒霊がやってるようなの」
「私は好きですよ。この音」
「ふぅん。その鼓、どこにあったの?」
「蔵ですよ。掃除してたら見つけて」
何度か人里で鼓の演奏を見たことがある。それらしく構えてみる。
「ロケットランチャーでも撃つの?」
月の単語で、輝夜がからかった。
「もう。いじめないでください」
ポン、ポン、ポン――
「なんだか最近、いつもイナバと一緒にいる気がするわ」
「姫のお世話をするのが私の役目ですから。師匠のお手伝いも今はお休みしてます」
「あらそうなの」
「……私がお側にいるのは嫌ですか?」
「別に」
輝夜はニコリともせず、夕陽に照る竹林を静かに眺めていた。できればもっと分かりやすく気持ちを教えてほしいものだけど。
少し風が吹いて、夕焼け色の竹の香りが二人の髪を撫でた。
ポン、ポン、ポン――
鼓の音色はたしかに単純で、物足りないかもしれない。けれど単純だからこそ聞く者の心によって千の音を奏でるのだと、鈴仙は思った。どこで聞くか、誰と聞くか、どんな気持ちで聞くか、その全てによって、音を変化させる。己の心の音を聞く楽器なのだ。
鈴仙がそう語ると、輝夜は
「たいそうなことね」
と、あきれたように笑った。そしてどこか嬉しそうに言った。
「そんなに気に入ったのなら、あげるわよ。それ」
「へ?」
「月にいた頃は時々触っていたけど、今はもう」
「じ、じゃあこれ、姫の鼓だったんですか!?」
「蔵にあったんでしょう。そのくらい想像つかないかしら」
「す、す、す、すみません! そうとは知らずに勝手に持ち出して……」
鈴仙は慌てて鼓を返そうとした。けれど輝夜がその手を押さえて、いいから、と首をふった。
「どうせ埃を被っていたのだから」
「で、でも」
「そうだ。丁度いい、それを私の形見にしなさいな」
形見。聞きたくない言葉だった。じきに訪れるであろう夜風の冷たさが、一足先に鈴仙の心に流れ込んだ。
永琳の診たてでは、あと10日ほどで、輝夜は死ぬ。
――ケホッ。
輝夜が小さく咳をした。まだ、ただの咳だと気に止めなかった。
「姫」
「ん?」
「私に鼓を教えてください」
「ええ?」
――ケホッ、ケホッ。
「うーん。それなら永琳に教えてもらいなさい」
――ケホッ、ケホッ、ケホッ
「私は途中で投げ出しちゃったし、永琳の方が上手よ」
「でも、私は姫に教わりたいんです」
「教えるなんで柄じゃないわ。面倒だし」
――ケホッ、ケホッ、ケホッ、ケホッ、ケホッ、ケホッ
「そういうところが姫は……あの、大丈夫ですか?」
――ケホッ、ケホッ、ケホッ、ケホッ、ケホッ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ
はじめは一時の咳ばらいかと思っていた。しかし、だんだんと音がひどくなっていく。とうとう輝夜は、胸を押さえて、息苦しそうに顔を歪めだした。
「ひ、姫!?」
「げほっ……変、ね……ごほっ! おぇぇぇっほ!! はぁっはぁっ……」
これは普通じゃない。鈴仙も気づいて、鼓を置き、輝夜の肩を抱く。背中をさするけれど、喉を切り刻むような激しい咳はいっこうに止まらない。嘔吐のような長い咳も混じり始めた。
鈴仙の顔が青くなった。側で同じく心配そうにしていた何匹かのヒト型イナバに怒鳴る。
「師匠を医療室に呼んで! 姫を連れて行くから! 急いで! 早く行って!」
イナバ達がまさに脱兎となって駆けだす。
「つかまってください!」
鈴仙は輝夜を抱き上げて走った。
どん、どん、どん、と永遠亭に激しい足音が響き渡る。
だが鈴仙に聞こえるのは、耳元で続く、輝夜の激しい咳の音だけだ。
嫌だ! まだ早い! 早すぎる! 死なないで!
食いしばった歯の間から、声にならない悲鳴が漏れた。
夜には発熱症状が現れ、それが下がるまでに結局二日もかかった。その間、鈴仙はずっと輝夜の手を握っていた。
「体を壊して、誰かに手を握られて、こんなのいつぶりかしらね」
「気分はどうですか」
「さぁ。最悪だけど、死ぬほどではないわ」
「嫌な事を言わないください」
「怒りなさんな。けど、側にいてくれてありがとう。イナバ」
三日目の朝、ようやく布団からでられるようになった。
だが、輝夜はもう、空を飛べなくなっていた。余命7日にして、輝夜は大地に縛り付けられた。
「あらま」
こともなげに笑う輝夜の気丈な姿が、鈴仙の心を万力のごとく締め上げた。また、長く続いた咳が、鈴の音のようだった輝夜の声を、博麗神社の古ぼけた本坪鈴のようなゴロゴロとした音に変えてしまっていた。
「どうせ出かける予定は無いし。歩ければ十分」
鈴仙と一緒に広い亭内を散歩して、あちらこちらの庭で遊ぶ因幡を眺めて、穏やかに昼を過ごした。鈴仙にはその奇妙な穏やかさが、炎が燃えた後に残った暖かい灰のようなものに感じられて、恐ろしかった。
満月の近づいたある夜。鈴仙はその時も輝夜の側にいた。
部屋の窓から望む月を見上げ、輝夜がぽそりと言った。
「もう一度、空を飛びたい」
「姫」
「何にも邪魔されない空で、またあの月を眺めたい」
鈴仙の唇が震えた。なんて不憫なのだろう。だが、輝夜が笑みの下の本心を自分にだけ明かしてくれた事が、何より嬉しい。悲しみと喜びがない交ぜになって、瞼がツンとした。
「姫、行きましょう。二人で月を見に行きましょう」
「え?」
「姫を背負って飛びます。私が願いを叶えてさしあげます」
「イナバ」
暗い部屋の中、月光を反射する輝夜の大きな瞳が、鈴仙を射抜いた。
「よしなに」
かすれた声。けれど、今まで聞いたどんな声よりも威厳に満ちていた。
鈴仙の飛翔できる最大高度に達した。すでに永遠亭の敷地は見かけ数cm四方ほどになっている。眼下一面の暗い世界には、遠く紅魔館の明かりや、博麗神社や守矢神社、人里の小さな光点までもが一瞥できた。果てを見渡す。世界をぐるりと、黒い地平線が囲っている。
「寒くないですか。どこか体はおかしくありまえんか」
「ええ」
上昇する間、何度となくそのやり取りがかわされた。秋の夜空は寒い。当然、外気を遮断する霊力場を張ってはいるものの、鈴仙は輝夜の体が心配だった。
「綺麗な月」
すぐ耳元で囁かれたその声は、普段の輝夜とはどこか違っていた。心に浮かんだ感情をそっくりそのまま声にだしたような、幼い童女のような声。それはどこかに、死の影を潜めているような気がして、恐ろしくもあった。
「本当に、綺麗」
二人と月の間には、もはや遮るものは何も無い。全天を覆う限りない藍の夜空に、月が輝く。まばらな星が、その輝きを飾っていた。
鈴仙は奇妙な寂寥感に襲われた。あれは故郷なのだ。かつて、自分は確かにあそこにいた。今も仲間はあの輝きの中にいる。逃げだした自分の事を覚えていてくれる者はいるだろうか……。
「私はね、イナバ。月にいた頃。同じようにこうやって空を眺めた事がある」
「はい」
「真っ黒な空に、ぽつんと浮かんだ青い青い星。とても美しかった」
「私も見上げた事があります」
二人が同じ思い出を共有していた事が、鈴仙は嬉しかった。
灰と黒と、僅かな人工物だけの寒い世界で、何よりも美しかった青い星。あの色鮮やかな世界はどんなに暖かいところなのだろう。鈴仙は何度も無想したものだ。そして、たしかにその世界は、想像していた通りの優しい所だった。輝夜にとっては、どうだったのだろうか。
鈴仙の肩のまわされた輝夜の腕に力が篭る。体が強く触れ合って、輝夜の暖かさと柔らかさを、背中に感じた。
「お願いがあるの」
「はい」
強い夜風が、しばし結界を揺らす。
「私が死んだら月に埋めてほしい」
危うく力場の崩壊させるところであった。仰天して、そして同時に叫びたかった。そんな話は聞きたくない!
だが、それでも聞かなければならない。自分には、その義務がある。鈴仙は唇を噛んだ。
「姫は月に帰りたいのですか」
「帰りたい、とは思わないわ。私の家は間違いなく永遠亭。ただ」
また少し沈黙して、力場に打ち付ける風の静かな呻き。
「自分が死ぬと分かってからは、らしくないけど、時々過去を振り返る。何度か、月の事も思い出したわ」
「……」
「つまらない所だったけど。あれは私の生まれた場所で、故郷なの。夜、目をつむって眠りに落ちるまでの少しの間、暗がりにあの青い輝きを思い出すわ。最後の眠りについた後は、それを眺めながら、皆の事を想うのも悪くない」
「……姫は、私が月の兎だから、私を送り人に選んだのですか? 月の姫として、最期を向かえたいのですか」
輝夜は何も答えなかったが、否定もしなかった。自分は師よりも月の匂いが強いはずだ。鈴仙は、輝夜の心に潜む強い望郷に触れたような気がした。
けれど鈴仙の願いは、輝夜とは違う方向を向いている。
「姫。わがままを言っていいですか」
「一生に一度くらい、人のわがままに耳を傾けてもいいかもね」
「私は永遠亭の庭に姫を埋めたいです」
「……。人を金魚みたいに扱うのね」
「そしたら、毎朝、毎晩、皆姫様に挨拶ができます。お話があったらいつだって会いにいけます。姫には……私達のすぐ側にいてほしいです」
いつのまにか、頬に涙が流れていた。鼻がツンとして、唇が定まらない。こんな話、本当はしたくない。
輝夜はそんな鈴仙の様子を気づいているだろうに、触れなかった。
「……まぁ、そのあたりの事は皆で決めてちょうだい。今のは遺言というほどのものでもないし。ちょっとした私の希望。後の事は、生きている貴方達の良いようにすればいい。死んだ者にいちいち気を使う事はないわ」
「そんな」
「そうだ、忘れないうちに本当の遺言を伝えておく」
「は、はい!」
「『永遠亭』の名前は改めなさい。私の死後は『永楽亭』と名乗ること」
「『永楽亭』」
「永遠である事は望まない。いつまでも楽しくあってくれる事を、私は望む。後で書き残すから、皆にも伝えなさい」
「わかりました。必ず」
「じゃあ、そろそろ戻りましょうか」
高度を下げ、迷いの森が下天の全てを覆うようになった時の事だ。
森の一角に、空を赤々と照らしながら鳳凰が舞い上がった。
「妹紅」
耳元に輝夜の呟きを聞きながら、急接近してくる炎に身構える。
激突を危ぶむほどの速度で近づいてきた妹紅は、あと2、3メートルというほどの距離にきて、急停止した。そのあまりの急制動に、纏った炎のいくらかが二人にまで届く。鈴仙は輝夜を守った。
額に脂汗がにじみ出る。輝夜に戦う力は無い。もし妹紅が牙を剥いたなら、命を懸けてでも自分が盾となる。あらん限りの警戒を持って、妹紅と対峙する。
が、すぐに気づいた。妹紅の様子は尋常ではなかった。見たことも無いほどに妹紅の顔が強張っていた。目は血走り、はぁはぁと息をつく口には犬歯がむき出しになり、自身を炎で炙っているのではないかと疑うくらいに、汗が滴っている。
「さっき、お前のとこの兎が伝言を持ってきた。あれは何の冗談だ」
狼のごとく妹紅が喉を鳴らす。
鈴仙は思い当たる。二人で永遠亭から飛び立つ前、輝夜は因幡に何か事付けをしていた。外出を伝えているのかと思っていたが、まさか……。
背負った輝夜を、ちらと後ろ目で伺う。こんな状況だというのに、落ち着きはらっている。
「妹紅。貴方には伝えなきゃと思ってね。因幡から聞いたと思うけれど、私、本当に死ぬの。ほら見て、分かるでしょう? もう自分では空を飛べないし、この体には何の霊力も残っていない」
「ひ、姫っ」
鈴仙の口から悲鳴が漏れる。
冗談じゃない! なぜわざわざそんな事を告げるのか! 妹紅は姫を殺しにくるに決まっている!
けれど鈴仙も気づいているのだ。復讐を果たしにきたにしては、妹紅の様子は妙だ。まるで、輝夜の死に慌てふためいているような……。
妹紅は二度三度、肩で大きく息をした。食いしばった歯が、炎を照らして赤く光る。今にも飛びかかってきそうだった。
「お前が、死ぬ、って……? ふざけるな!!!」
何の涙だろう。鈴仙は目を疑った。妹紅が泣いている。激昂のあまりの苦やしさか。それとも、鈴仙には分からない別の何かなのか。
ゆらりと、妹紅の右手が上がった。
「殺してやる」
――ヤバイ!
鈴仙の全身が総毛だった。暗闇にギラついた、極限まで研ぎ澄まされた妹紅の眼光がそうさせた。
ヂヂヂヂヂヂヂ! と、かつてない危機感が、アドレナリンを振りまきながら脳を駆け巡る。
天に掲げた妹紅の右腕に太陽と見まごう程の密度の凄まじい炎が収束しつつあった。あたり一帯にかりそめの朝が訪れる。その熱波が、霊力場を突き抜けて二人を襲った。妹紅の腕の肉が焦げ始めていた。
「や、やめてえっ!!」
鈴仙は、ばっ、と両手を広げ、輝夜の壁になる。
「どけ! まとめて焼き殺すぞ!!」
「お前の怒りはこれからは私と師匠で受け止める! もう、姫には手を出さないで! 最後なの! 姫を安らかに死なせてあげて!」
「安らかだと?」
激光の中で、妹紅の唇の片方が、醜くつりあがる。その眉間が痙攣してた。
「安らかだと!? 安らかだと!? そいつは、輝夜はなぁぁぁぁ!!」
妹紅が天に吼えたその瞬間だ。収束しつつあった炎が何の前触れもなしに超新星のごとく爆発した。閃光に白くなった視界の中で、鈴仙は、背中の輝夜を感じながら、全力で防御結界を展開する。土石流の中に立ちはだかっているような強烈な圧力が、爆音と共に数秒間続いた。そしてようやく光が消えて、視界が戻る。耳鳴りがやまない。
「姫! 無事ですか!?」
「ええ、ありがとう」
あたりの森が、消失していた。爆発は十数メートルの中空で起こったのに、妹紅の直下には、大きなクレーターが口を開いている。焦げ付く匂いと、一帯に残る熱波。クレーターの外縁では太い木々が放射状になぎ倒されている。その威力を目の当たりにし、鈴仙は肝を冷やした。もし、あれをぶつけられていたら。
妹紅は、右腕が消し飛んでいた。肩の切断面は黒く炭化している。
今の爆発は暴発だったのだろうか。あまりの高密度エネルギーを制御できなかったのだろうか。それとも……。
「輝夜。お前、本当に死ぬのか」
妹紅は、声も様子も先ほどとは一片していた。幽鬼のごとくかすれた声。さきほどの閃光で、己の怒りまで焼き尽くしてしまったかのようだ。うなだれて、表情は前髪の向こうに隠れていた。
輝夜はあくまで平静だった。
「そうよ。死ぬの」
「なんだよ、それ」
「妹紅。貴方とは本当に……いえ……」
「……」
二人の間にどんな感情があるのか、鈴仙には何一つ分からなかった。1000年の、終わりのない永夜を共に殺しあってきた二人。そんな二人の関係を、常人がどうして理解できるのか。
妹紅は、ふらりと背を向けた。
悲しそうな背中だ、と感じたのは、鈴仙の思い込みなのだろうか。がっくりと力が抜けていて、今にも崩れ落ちていきそうだった。
「……クソったれ……」
林の向こうに去っていくその背中を、二人はいつまでも見つめていた。
「妹紅」
輝夜の小さな呟きにどんな思いが込められているのか、鈴仙には分からない。
輝夜の部屋に戻り、寝間着に着替えさせ、布団をしくにいたって、鈴仙はやっと先ほどの緊張が解けた。それで、心に溜めていた愚痴が噴出し始めた。
「さっきはめちゃくちゃ危なかったんですよ? 余計な事をしないでくださいよ本当に」
「余計な事じゃないわ。必要な事よ。妹紅に私の死を知らせないなんて、おかしいでしょう?」
「そんなに彼女の事が大切なのですか。あれだけ憎みあってたのに」
「ねぇ、貴方なにか変な意地を張ってない? あれでも一応蓬莱仲間だったんだから、何も言わずに死ねないでしょう」
「だって、本当に恐かったんですから。二人とも消し炭になるところだったんですよ」
輝夜は布団にもぐりながら、まぁまぁ、と軽い笑みを返した。
鈴仙はその枕元で、ハァ、と溜め息をつく。大物連中の度胸のすわり方にはとてもついていけない。
「もういいです……。さぁ姫、お寒くはないですか」
「少し、寒いかも」
すでに毛布二枚と、掛け布団と、計三枚の厚物をかぶせてある。
おそらく輝夜の体そのものが冷たいのだろう。
「手の先が冷や水に浸かってるみたい」
輝夜の体はもともと白い。だが、仰いだ手は病的に青白かった。血液がちゃんと通っているのかと心配になるほどだ。
「さすってさしあげます」
両の手で挟んだ細い手は、死人のように冷えていた。
ありがとう、と言って輝夜は目を瞑り、鈴仙に手をあずけた。
しゅ、しゅ、しゅ、と丹念にを手を撫でる。
少し前まで、鈴仙にとって輝夜は、気まぐれで理解しづらく、どこか近寄りがたい人物だった。けれどその印象はこの数日間で大きく変った。もちろん気ままで我侭ではあるけれど、ちゃんと人の心を持った、美しい姫。その姫の小さな体が、死に至る病に犯されている。どうしようもなく、心が震えた。
「あ、あの、姫」
「ん?」
「もしよろしければ。私が姫の体を温めてさしあげますよ。その……恥ずかしながら軍隊式になりますが……」
「軍隊式?」
「あ、ま、それは言葉のあやですが……」
輝夜のきょとんとした顔を、鈴仙はまっすぐに見返す事ができない。とてつもなく馬鹿で恥ずかしい事を、自分は言おうとしている。
「も、もっとも原始的な暖のとり方です。その、互いの体で」
「ああ」
合点がいった、という顔で輝夜が頷いた。それから、一瞬チラッと鈴仙の顔に目をやって、そしてくすくすと笑った。
「兎の体は抱くと温かそうだものね?」
「は、は、は」
おそれおおいことを口走ってしまったが、後悔はしていなかった。姫の冷たい体をぎゅうっと抱きしめて、さすって暖めてあげたいと心から思う。
鈴仙は輝夜の返事を待った。輝夜は少し口元を微笑ませながら、目を閉じ、手をさすられている。ほどなくして、白く小さな唇がゆっくりと開いた。
「よしなに」
夜明けが近い闇の頃、輝夜はまだ鈴仙の胸の中で眠っていた。輝夜の体は鈴仙よりも一回り小さい。病魔に犯されて細くなった肢体は腕のなかにすっぽりと収まった。ギュっと抱き寄せて、己の体温を捧げる。艶やかな黒髪にこっそりと口付けをして、香りを吸った。
もっと早くにこうしてあげたかった。輝夜と距離を置いていたかつての自分を悔やむ。やっと少し分かり合えたと思った時には、もう終わりが近づいている。けれどきっと、これほど切羽つまった状況にならなければ自分は勇気を出せなかったろう。結局自分は、臆病者なのだ。月にいた頃から、これっぽっちも成長していない。
「姫」
輝夜の美しい髪に、鈴仙の涙がしみ込んだ。
「姫、ウドンゲ。貴方達何かあった?」
永琳は目ざとかった。朝食の席で鈴仙をギクリとさせる。
「は、はい?」
鈴仙は、呼吸をつまらせながらも、何げないふりをよそおって輝夜の食事の世話を続ける。
あの夜から数日が経っている。輝夜の余命はもう、つきかけていた。輝夜は一日の大半を布団の中で過ごすようになった。けれどそれでも皆との食事はやめようとしなかった。大広間に布団を敷いて、鈴仙に補助されながら、皆で食事を取る。無理をするなという永琳の言葉を退けて、輝夜がそれを望んだのだ。
「どうも貴方達、何か雰囲気が前と違うのよねぇ……」
「き、気のせいじゃないですか」
てゐやイナバ達までもが、食事の手をとめて永琳の言葉を確かめていた。
人に隠すような事をした、とは思っていないが、二人の秘め事である、という意識はあって、素直に明かしていいものかどうか、鈴仙は迷った。
助けを求めて輝夜に瞳を向ける。
が、その絶妙なタイミングで永琳の鋭い声が突き刺さった。鈴仙は危うく茶碗を落とすところだった。
「それよ! 今の目線も!」
「ひゅいっ!?」
「そんな親しそうに姫を見つめたりしなかったでしょう。俯いて、口ごもるのが今までだったのに。それに貴方達のさきほどからの所作、互いになめらかすぎる」
「そ、そうでしょうか」
さすがと言うか、気味が悪いほどの観察眼だった。
「永琳」
輝夜が助け舟を出した。布団に体を起こしたその姿は、随分と弱々しくはあるが、落着いた佇まいをしている。動揺など微塵も感じられなかった。
「もし、私とイナバに何かあったとして、問題が?」
鈴仙ならばそれだけで萎縮してしまいそうな姫の口調。だがそこはやはり永琳、しれっと返事をした。
「いえ? 弟子がしっかり役目を果たしているようで。良いのですけれど。行き過ぎた粗相があればそれについてはしかりますが」
鋭い視線が永琳から飛んでくる。鈴仙は冷や汗をかいた。だがてゐなどはその様を眺めてニヤニヤとやらしい表情をしている。
輝夜が、かぼそい声で、けれど笑いながらに、言った。
「無いわ。無い無い。安心しなさい」
「そうですか」
「それより」
輝夜が鈴仙の膝に手を置いた。
「ごめんね、イナバ」
「何がです?」
「もう、お米が喉を通らないの」
――え?
「あ……お腹、一杯ですか?」
茶碗の白米は、半分も減っていない。
「ううん。そうじゃないの。体がね、もう受け付けないみたい。飲み込めないの」
「え……」
誰もが食事の手をとめ、顔をあげた。
なんのかんのでそれまでは和やかだった場の空気が、急激にを冷たくなっていく。鈴仙の唇が震えた。
「姫……」
「ですが姫、それでも」
永琳の、落着いた声。
「食べなければいけませんよ。少しでも」
「わかってるけどね」
「わ、私、お粥を作ってきます! それなら食べられますか?」
いてもたってもいられずに、立ち上がる。
「そうねぇ。お粥なら」
輝夜の返事を聞いて、すぐさまは駆け出した。
厨房に一人立って、鍋に白米と湯を落とす。
何時の間にか、鈴仙は泣いていた。呼吸が乱れて、肩が震える。輝夜に付き添って博麗神社の宴会に参加したのはいつの頃だったろうか。永遠亭の庭で、皆でお月見を催したのはいつの頃だったろうか。年の始めに皆でたけのこを食べたのは……。あの懐かしい光景が、遠いところに行こうとしている。
「姫、姫、姫」
涙がぽとりと、粥にとけた――
「おいしいわ」
粥を一口含んで、輝夜は微笑んだ。
「けれど、少し、しょっぱいかしら」
「す、すみません」
まさか、と内心慌てながらごまかし笑い。
「ところで鈴仙。戻ってきてから、目が赤いよ」
てゐが、皆があえて口にしなかった事をわざわざ指摘した。
こんな時までこの性悪兎め、と睨みつける。
「私だって兎だもん」
その下手な返しを笑いながら、輝夜がよしよしと頭を撫でてくれた。優しいその手には、いつの間にか骨が浮くようになった。
鈴仙の瞳に、恐ろしい程紅い落日の空がうつった。陽が暮れようとしている。凪が訪れて、竹林の囁きが止んだ。
今日、輝夜は死ぬ。妖怪特有の感覚で、皆それを感じ取っていた。けれど、輝夜の言いつけにより面々は普段と変らぬ一日を過ごしている。
永琳はいつもどおりに薬の研究を行い、何人か訪れた村人の診察も行った。てゐはこの日もイナバ達の指揮業務をせわしなく行っている。ただよくよく観察してみると、皆なにがしかの折に一瞬の上の空を見せるのだった。
「あの日だけは心の底からウドンゲを妬んだわ」
後の話ではあるが、鈴仙は真顔の永琳にそう言われて、たいそうおっかない思いをした。。
鈴仙だけは、この日も、ずっと輝夜の側に控えていたのだ。
「イナバ、水」
「は」
輝夜にはもうかつての明晰はなく、常に夢うつつの様子にあった。
けれど鈴仙はそれでも構わなかった。自分の目を見つめて、声をかけてさえくれるなら、どのような状態にあっても構わないと思った。それなのに、時折、どうしても涙が流れそうになるのだ。
濡れ手ぬぐい持ち、輝夜の唇に当てる。輝夜の唇は、すでに色を失っていた。頬はこけ、目は虚ろに天を仰いでいた。夢の狭間にもらすように、何度か呟く。
「永琳をよく助け、皆と仲良く」
かすかな声。
鈴仙は、視界を滲ませながら、手をついて頷く。
すだれを垂らした窓辺から、夕陽の残り火が僅かに部屋を照らす。
その時ふと、輝夜が鈴仙の顔を見た。乾いた唇で、一言一言、呟く。
「イナバ」
「はい」
「鼓は、上達、したかしら」
視界がいっそう滲み、喉が詰まる。輝夜より鼓を譲りうけた、あの懐かしい日。もう随分と遠くなった。
「……いえ、まだ……」
言葉を搾り出そうとするのに、口が震えて、もう上手く話す事ができない。
「冥土の土産に――」
輝夜の、最後の力をふりしぼるような声が流れ落ちた。
「貴方のへたくそな鼓を、聴いておきたい」
「姫……」
「鼓を持っておいで」
横たわる輝夜の口元が、僅かに微笑んだように見えた。
ポン、ポ、ポン、ポ――
鼓の音は、輝夜の命の鼓動を知らせるように、奥座敷から亭内に広がった。
控えの間には、いつのまにか永琳やてゐ、イナバ達が並んで座している。皆口を閉じ、鼓の音に耳をすませていた。
ポ、ポ、ポン、ポン――
打ち方の強弱を覚えた。正しい姿勢を覚えた。
聞こえますか、褒めてください姫、褒めてください……。
鼓を持つ手が震える。
輝夜は目を瞑っている。聞き入っているのか、あるいは夢を見ているのか。
布団の上下が止まっていない事だけが、唯一輝夜の生を示していた。
鈴仙には鼓の音が輝夜の鼓動に聞こえていた。だから、自分が鼓を打っている間は、輝夜はいつまでも生きていて、音を聞いていてくれる。その思いだけが心にあって、ただひたすらに鼓を打った。自分が泣いているのか、どんな顔をしているのか、もうそんな事はどうでもよかった。
ポン、ポン、ポ、ポン――
輝夜の瞳が開いた。その眼球が転がって、たしかに鈴仙を見た。生きている、まだ、生きている。胸の上下は止まっていない。得たいの知れない衝動が鈴仙の胸をしめつけていて、体をのっとろうとする。必死でそれに抗う。
「姫」
何時の間にか、そう呟いていた。
ポ、ポン、ポ、ポン――
輝夜の口がほんの少し開いた。命を刻む鼓の音の間に、鈴仙は輝夜の最後の言葉を聴いた――
――う、ど、ん、げ
止めてはならない。鼓を止めてはならない。止めたら姫が死んでしまう。崩れ落ちそうになる体を支えて、鈴仙は必死に鼓を打つ。
輝夜の瞳が静かに閉じた。布団が一度だけゆっくりと上下して、もう、二度と動かなくなった。
「――お休みなさい。姫」
涙が一滴、畳の上にぽたりと落ちて、最後の音を奏でた。
鼓の音の終わりは、控えの間にいた永琳達にも伝わった。
イナバ達は互いに顔を見合わせ、おのおのに事態の推移を確認しあった。
姫が、死んだのだ。
「お師匠様」
てゐの目配せに、永琳が頷く。
「ええ、終ったわ」
目を瞑り、深く息をついた。その姿はまるで、仏に祈っているかのよう。てゐの表情にも、さすがにこの時ばかりは、時勢をはかなむような色があった。
「お師匠。私、兎は死んだら月に行くと思ってるんです」
「そう」
「姫様も、死後は月に帰るんでしょうか」
「どうでしょうね。けど、姫がそう願うなら、私は何としても月の連中を説き伏せる」
「……私も、手伝おうかな」
ぎこちなく、部屋の襖が開きはじめた。少し開いて、止まって、また少し開いて、皆が注視していると、開いた先に鈴仙が立っていた。うつむいて、前髪に表情を隠し、手には鼓を下げている。廊下を近づいてくる足音は部屋にいた誰にも聞こえなかったから、しょげながらゆっくりと歩いてきたのだろう。
「お役目ご苦労様」
小さく頷いて、永琳に答える。
畳を塞いでいたイナバ達が通り道をあけると、鈴仙はふらふらと部屋に入り、永琳の対面に座す。深く頭を下げて、声を震わせた。
「姫様は、たった今おかくれあそばしました」
崩れ落ちそうな感情をなんとか支えながらの報告だったのだろう。役目を果たし終えた鈴仙は、鼓を抱いてへたりこんだまま、誰はばかることなくさめざめと泣いた。
イナバ達は心配そうに鈴仙を取り囲み、てゐは居心地悪そう天井を仰ぎ、永琳はじっとその様子を眺めている。
日は暮れかけて、もう外は暗い。窓の向こうの暗い空には、早くも月が夜を輝かせつつあった。
じきに、冬がくる。
――その時だ。
軽快な足音をたてながら、誰かが廊下を歩いてくる。まるで、やっと回復した体に小躍りするような、そんなそんな足音。
てゐが耳をひくつかせた。
「お、来ましたね」
「まったく、はしたない足音をたてて」
「ずうっと寝込んでましたから、自分で動けるのがうれしいんでしょ。それよりお師匠、鈴仙まだ泣いてますけど……」
「ほっておきなさい」
「そですか」
てゐが言い終えるかどうかというところで、部屋の障子が非常識な程の勢いでぶち開けられた。スパーン! と小気味の良い音が響く。
「あー! すっきりした! 健康ってすんばらしい!」
開け放たれた襖の向こうにいるのは、輝夜だ。
「お疲れ様ー」
てゐが言うと、ほかのイナバも後に続いた。皆元気な輝夜を見るのは久しぶりだったから、なんだかんだと騒ぎ立てる。
今しがたようやく衰弱死し、当然蓬莱人であるから、すぐさまリザレクションして元気になった。
「どうでしたか姫」
永琳が口を開くと、さすがに皆、会話を譲って静かになった。
永琳が口にする事はたいてい誰もが気になる事だ。
「寿命を迎えて見取られるという体験は、楽しめましたか」
輝夜は、満足げに頷いた。トタトタと部屋に入ってきて、泣いている鈴仙の隣に腰をおろし、乙女座りを決め込む。
「ええ、初めてだったもの。時間をかけてゆっくりと死ぬというのは。「気は病から」って言うし、普通なら考えないようなことも、たくさん考えた」
「逆ですよ。病は気から。まぁともかくよかったですね。私の薬も上手くいったようで何より」
「蓬莱人を衰弱死させる薬なんて、よく作ったものね。さすが永琳」
「難しい事ではありませんよ。生命活動を緩やかに停止させるだけ。まぁ身もふたも無く言えば毒殺です」
「まぁ恐い」
「あ、それと」
「ん?」
「ウドンゲから聞きましたけど、妹紅をからかったそうですね? 彼女多分、本気で姫が死んだと信じてますよ。ほっておいていいのですか?」
「あはは! あいつもたいがい単純ねぇ。普通こんなにあっさり信じるかしら? ま、いーのいーの。そのほうが静かだし。しばらくしたら、顔を見に行って見る。どんな反応をしてくれるかしらねぇ」
「ひどいですねぇ。妹紅の復讐に同調してしまいそう」
「あらま、なんて不忠者かしら永琳。まぁ、それはさておき」
輝夜は鈴仙を見る。今だにうつむいたまま、ひっくひっく、っと嗚咽を繰り返している。輝夜は、しょうがないわねえ、と苦笑する。
「この子はいつまで泣いているのかしら」
「姫のために泣いているのですよ」
「それはまぁ、可愛いけれど」
それまでは黙って話を聞いていたてゐが、やれやれ、と肩をすくめた。
「ね、見取り役は鈴仙で適任だったでしょ。嘘だってわかってるのに、ここまでのめりこむなんて、私やお師匠様じゃこうはいきませんでしたよ。影響されやすいというか、単純というか」
「まぁまぁ。私自身、本当に死ぬわけじゃないと分かっていても、体が弱っていくうちに結構その気になってたからね。気持ちは分からなくもないわ」
輝夜が鈴仙を庇う。永琳がくくくと笑った。
「二人とも、やっぱり本当に仲が良くなった」
「まぁ、ね。色々と普通じゃなかったから」
震える肩に手を置いて、輝夜が優しく声をかけた。
「いつまで泣いてるの? ねぇ――ウドンゲ」
その場にいた誰もが、「え」、と眉を上げた。代表して永琳が聞いた。
「姫。今、彼女の事を『ウドンゲ』と呼びましたね。イナバではなく」
「私の遊びにつき合って、そして良く役目を果たした褒美。その鼓と、名前をね」
いいなー、と何匹かのイナバが指をくわえた。
「姫……」
と呻きながら、ようやく、鈴仙が顔を上げた。瞳は真っ赤で、頬どころか顔全体がピンク色に染まり、そしてその全てが涙でぐちゃぐちゃだった。
「あらあらひどい顔」
輝夜の笑顔と、鈴仙の泣き顔が、交わった。鈴仙は少しの間、輝夜の生きた微笑みを懐かしそうに見つめた後、発作をおこしたように、またわっと泣いて、輝夜の胸に顔を埋めた。何度も何度もしゃくりあげる。
「こら。姫の召物が汚れる」
永琳が口を尖らせる。が、輝夜は手をふってそれを制した。
鈴仙を抱いてやりながら、よしよしと背中を撫でる。その場にいた各々が、それぞれの思いを浮かべて、二人を見つめていた。
「姫」
「ん?」
「死んじゃいやです。二度とこんな思いはしたくありません。私を置いていかないでください……」
鈴仙の懇願を聞いた輝夜は、きょとんとした顔で、永琳と顔を見合わせた。そして蓬莱人達は、くすくすと笑った。それは優しい笑みではあったが、どこかに、切なさの影があった。
「馬鹿ね」
いとおしげに鈴仙を抱いて、輝夜はそっと耳元に囁きかける。
「それはこっちのセリフでしょう?」
窓辺の月を見上げる。満月から緩やかな楕円に変りつつある。
兎が一匹、楽しげに餅をついていた。
一話で三粒くらい楽しめるお話ですね!
泣きそうだったのに!(笑)
姫様はほんと可愛いが、ほんと酷い(笑)
ハンパない
>わけのわかない娘ねぇ
わからないかと
しんみりしてたのにピンピンしてるじゃないですか
それがいいんですけどね
見事に寿命を迎えられた姫様のために黙祷したいですね。
良かったです。
文章が大変上手く、のめりこみました
そんな私はクレしんの大人帝国のエレベーター追いかけるところで毎回泣きますww
落ちは読めてても感動しました。
まさに夜○話ですね。素晴らしい。
輝夜の死について捻りのないストレートで来るのは逆に斬新で、あっという間に読んでしまいました。
後書きに関しては直して欲しい……と思います。
この作品が消されるのは忍びないです。
それでも鈴仙の演技ではない演技に感動させられました。
もこたん…あまりに迫真すぎて信じちゃったもこたんに共感を覚える。
だって信じちゃったもん…
素晴らしい作品だッ! ハッピッバースデー!
面白かったです
永く、永過ぎる生の中、こんな『戯れ』に身を投じたくなる事も有りますよね。
感動しました。
そしてタイトルが素敵…だと…?
序盤でオチは読めてしまいましたが、過程がとても面白かったです
最後の鼓を叩くうどんげを想像してうるっときました
お美事
誤字
要約
強弱覚えた
そして百合百合してるのかと思ったらそんなことなかった
髪の毛のくだりとかリアルで胸が苦しくなりました
私としては話の前提に蓬莱人のはずの輝夜が死ぬという独創的な設定があるものだと思っていて、輝夜の死ぬ理由は明かされないままでもいいし、その理由が述べられないため最後はすごい展開になると期待していて惹かれていたんですが、残念でした。
最初から蓬莱人の輝夜が死ぬわけないと思いながら読んでいたらよかったんですが。
いいものでした。
そして文章自体の綺麗さ
戯れだと知らされていてものめり込むウドンゲの気持ちが細やかに書かれていて素晴らしい作品でした
じわじわ死ぬのをトライしているとは、盲点で、かなりマジに読めていました。
相当感動していたので、最後のオチはよかったのやら肩すかしやらという感じですが、そこはいつも楽しませていただいているKASAさんの小説、今回もかたすかしあれ、よかったです。ありがとうございます。
永琳もてゐも、飄々としてるようでそれぞれの死生観やそれぞれの良さがにじみ出てた。
元気な輝夜を見たらもこたんは一瞬だけ嬉しそうな、安心した顔になって、猛烈に怒り出しそうな気がします。
秀逸でした。
最後の言葉でスッっと切ない気持ちで終わるのがたまらんですたい。
20日間にも及ぶ永遠亭全員(一匹除く)での大掛かりなドッキリでもあったのに、イイハナシダナー
これはもっと評価されるべき
いや~よかったです。
とても良いお話でした。
やーい妹紅だまされてやんのー