――誰かが、泣いている――
コレは、一体誰の声だっただろう。
遠い記憶の彼方に埋もれた思い出。
埋没した意識の断片が、陽炎のようにゆらりゆらりと揺れている。
――みんなが、泣いている――
大人たちが私の頭を撫でてくれて、大勢の友達が私の名前を呼んだ。
妹分の小さな女の子が抱きついて、私の腕の中でポロポロと泣きじゃくっている。
まるで、コレが今生の別れのように。
もう二度と、私と出会うことが無いかのように。
そしてやはり、私も泣いていた。
視界が滲んでよく見えない。
声にしたい言葉が、伝えたい思いが、涙でぐちゃぐちゃになってしまったみたいに出てきてくれない。
今までありがとうって、言葉にしたいのに。
さようならって、伝えたいのに。
私の口は嗚咽をこぼすだけのガラクタに成り果てていた。
そうして、名を呼ばれる。
今となっては懐かしい名を。
地上に置いてきた、人としての名前を。
私を呼ぶ父の声に、時間切れだと、そう告げられたようで。
胸が、苦しさで潰れてしまうのではないかとさえ思えたのだ。
今となっては、顔も思い出せなくなった誰かを抱きしめる。
泣いて泣いて泣きはらして、何を言葉にしたのかさえよくわからなくて。
手を引かれ、引き離されるまでずっと、言葉にならない嗚咽をこぼしていた気がする。
遠くなっていくみんなの姿。
腕を引かれ立ち止まることも出来ず、ただただ手を振り返すことしか出来なかった自分。
こみ上げてくる涙は、拭っても拭っても、後からポロポロと溢れてしまう。
辛くて、苦しくて、悲しかった、あの日の情景。
ザァッと、景色が揺らいで意識が移ろいで行く。
夢の終わりを自覚する。悲しいけれど、懐かしいと思えるいつかの記憶。
実際に体験した、別れの記憶。人をやめたいつかの思い出。
そうして、私の夢の淵から覚醒する。
いつものように、何も変わらない、私の一日を始めるために。
▼△―――――△▼
天は生きて地は眠る
▲▽―――――▽▲
ボスンッと、そんな間の抜けた音を立てて、スイカほどの大きさのボールが大木の中に吸い込まれた。
「あー!?」と一斉に子供達の声が上がり、ボールを飲み込んだ大木に子供達が集まっていく。
ボールは綺麗に枝へひっかかってしまったようで、幹を揺すっても叩いても落ちてくる気配はない。
「もー、どうすんだよケンちゃん!」
「ぼ、僕にいわれても」
「二人とも、喧嘩してる場合じゃないでしょ!?」
ガヤガヤと騒がしくなる子供達。
喧嘩する子供もいれば、それを止めようとする子供、ボールをどうやって落とそうかと話し合う子供と様々だ。
十人近くも集まればそれ相応に騒がしいもので、人里の広場にそんなに子供が集まればいやでも目立つ。
だからこそ、とある少女がその場に現われたのは、ある意味では必然だったのか。
ふわりと、子供達の居る場所に一人の少女が羽のように舞い降りた。
深い蒼色の長い髪に、桃のアクセサリーが施された黒いハット。真紅の瞳は凛々しく吊り目がちで、肌の色は透き通るように白い。
白をベースにした前垂れとシャツが一緒になったような特徴的な服に青色のロングスカートといういでたちの少女の腕には、子供たちが木に引っ掛けたボールが抱えられている。
「やあやあ、あなた達が木に引っ掛けたのは、このみすぼらしいボールですか? それとも私の隠し持つ黄金のボールですか?
……なーんてね。今度は気をつけなさいよ、ガキンチョ達」
「天子のねぇーちゃんだ!!?」
「こんにちはー! 天子のお姉ちゃん!!」
「背はあるけど胸の無いねーちゃんだ!」
「ねーちゃんねーちゃん、いいケツしてんな触らせろよー!」
「アッハッハ、最後の二人、ちょっとコッチ来いコラ」
ビキビキと額に青筋を浮かべてそっちを笑顔のまま睨みつけると、脱兎のごとく距離をとる下手人の男子二人。
そんな様子に呆れたようなため息をつき、少女――比那名居天子は近くにいた女の子にボールを手渡した。
「ありがとー!」と元気よくお礼を言われては悪い気もせず、ひらひらと手を振って笑みを浮かべながら「どーいたしまして」と、そんな一言。
蜘蛛の子を散らすようにワーッと広がり始め、ドッヂボールを再開した子供達を見やり、天子はやれやれと肩をすくめる。
そんな彼女に、音もなく舞い降りた女性が一人。
緋色の羽衣に身を包み、藤色のセミロングに赤いリボンが施された黒いハットの女性は、物静かな様子で赤い瞳を天子に向けた。
「珍しいですね。総領娘様が人助けとは」
「んー、そうかしら?」
「えぇ。まさか、総領娘様がショタコンだったとは知りませんでした」
「違うし!!?」
一体どういう勘違いよ!? と憤慨しながら女性――永江衣玖に視線を向ければ、彼女はきょとんとした様子で首を傾げておいでだった。
そう、まるで「違うんですか?」といわんばかりに。
その様子から、先ほどの言葉がからかいではなく大まじめな台詞だったという事に気付き、天子は盛大なため息を一つついて、椅子ほどの大きさの要石を作るとそこに座った。
「まぁ、ちょっとした気まぐれみたいなものよ。あの子達を見てたら、なんだか懐かしくってね」
「懐かしい……ですか?」
「うん、懐かしいよ。私も子供のころは、ああいう風だったなァって」
ぼんやりと、頬杖をつきながらドッヂボールに興じる子供達に視線を向ける。
そんな天子の隣に、衣玖は静かに佇んで同じように子供達の様子に視線を向けていた。
ワイワイと楽しそうに笑う子供の様子に、二人はなにを思ったのか。
やがて、天子がポツポツと言葉を紡ぎ始める。
静かに、穏やかに、思い出を懐かしむような声で。
「私さ、こう見えても子供のころは友達が一杯いたのよ? 可愛い妹分もいたし、真面目な奴もいれば、悪戯好きな悪ガキもいてね。
それでもまぁ、やっぱり子供だからみんなで集まっては何をして遊ぼうかって、よく話し合ったものよ」
「総領娘様、それはもしや……」
「うん、私がまだ天人になる前の……比那名居地子だった頃の話よ」
パチクリと、衣玖が目を瞬かせたことに天子は気付いただろうか。
天子との付き合いの長い衣玖でさえ、彼女の過去の話はほとんど聞いた事が無い。
驚いたのは、あまり自分の過去を話したがらない彼女にしては珍しい、そんな懐かしむような呟きが意外だったからか。
「珍しいですね、総領娘様がご自身のことをお話になるのは」
「話したこと、なかったっけ?」
「昔から、あまりご自身のことは話したがらないようでしたから」
困ったように頬をかき、「そっかぁ」と呟いた天子は空を見上げた。
彼女自身、天界では不良天人などと呼ばれ、一時期相当荒んでいた時期がある。
衣玖とはその頃からの付き合いではあるが、確かにあの頃の自分なら話なんてしないかと納得して苦笑した。
「まぁ、衣玖にならいいか」
「……総領娘様?」
「ねぇ、衣玖。どうして、私が名前を変えたと思う?」
比那名居地子から、比那名居天子へ。
人間から天人へと成り上がり、地子の名を捨て天子を名乗った少女の心の内。
出会って間もない頃は、ただ増長しているがゆえのことだと、そう思っていた。
けれども、出会って話をするうちに、親密になっていくにつれて、どうしても違和感が付きまとってしまう。
返答に困っている衣玖にクスクスと笑みをこぼして、天子は「ゴメンゴメン」と謝った。
さすがに意地悪な質問をしたと思ったらしく、彼女にしては珍しい謝罪の言葉。
さて、どこから話したものかと、しばしの間目を閉じて逡巡する。
風に乗って流れた子供達の声が、二人の一瞬の静寂をうめた。
数秒だったのか、あるいは数分たっていたか。
そうして、天子はゆっくりと目を開ける。どこか遠くを見ているかのような眼差しで、静かな声で言葉を紡ぐ彼女の心は、はたしてどこにあったのか。
「私達一族はさ、神格化した名居守のついでに天人になったようなものでしょ? ほかの連中のように修行を積んだわけでもなければ、天人の格なんて持ち合わせちゃいない。
確かに、天界の暮らしは裕福だったかもしれない。でもね、周りからの目はとても冷たいものだったわ。
そんな針のムシロのような場所で私がすることって言ったらさ、かつての友達の様子を眺めるぐらいしかなかったのよ。
毎日、毎日、ただただあの頃の友達の様子を、ずっと。
だって、あの頃はあんなにも楽しかった。あんなにも充実してた。天界にはないものが、確かにそこにあったのよ」
静かな言葉に、衣玖はただ黙って耳を傾けている。
するりと鼓膜に入り込むその声には、確かな悲しみが宿っているようで。
「本当はさ、天人なんてなりたくなかった。みんなと一緒に遊んでいたかったし、いつまでも友達のままでいたかった。
みんなと一緒に成長して、みんなと一緒に笑いあって、みんなみたいに結婚して、子供を産んで、子供の成長に満足しながら、最後は孫の顔を見て満足して逝く。
そんな、人間としての当たり前の人生で、私は満足だったのに」
思い返すのは、あの日の情景。あの時の記憶。
天界へと暮らすことが許された比那名居の一族への目は、非常に冷たいものだった。
天人らしくないと、成り上がりめと、不良天人の烙印を押され、全てを否定されているかのような、そんな場所。
暮らしは裕福かもしれない。食事も、寝床も、何一つとして不自由のない、夢のような生活。
けれど、そこには友達がいない。
いつもすがりついてきた妹分も、真面目だった少年も、悪戯好きだった小僧も、誰もいない。
それはまるで、胸にぽっかりと空洞が出来てしまったかのようだった。
一人地上を見下ろせば、かつての友達の姿が見えたのは、唯一の救いだったのか。
毎日毎日、胸のスキマを埋めるように地上を見下ろしていれば、いやでもその事実に気がついてしまう。
いつの間にか、友達は大人になっていて、妹分は真面目な少年と結婚して、悪戯小僧だった彼は意外にも寺小屋の先生になった。
成長を見守って、妹分に子供が生まれたと知れば我がことのように喜んで祝福した。
たとえ、その場に自分がいなくても、せめて思いだけは届くようにと。
けれど時の流れは残酷なもので、地子を残してみんなはどんどん年老いていった。
若々しかった彼らは歳をとり、老い、床に伏せることが多くなり、一人、また一人と、その天寿を全うして行く。
まるで、自分ひとりが取り残されているようで。
その場に行きたいのに、天界から出ることを許されない自分自身が腹立たしくて。
何度も何度も、友が一人息を引き取るたびに涙を流すことが出来ず、時間ばかりが過ぎて行く。
そうして、最後に一人残った妹分。
息子や孫達に看取られながら、今にも潰えてしまいそうなか細い声で。
――もう一度、地子ちゃんに会いたいなァ。
そんな、小さな願いだけを残して、彼女は息を引き取った。
できうることならば、すぐにでもそこへ行きたかった。今すぐにそこへ行って、彼女の手を取って「地子だよ、覚えてる? 頑張ったね」って、そう言葉にしたかったのだ。
みっともなく涙を流したっていい。情けない姿だっていい。
ただもう一度、あの頃のように彼女を抱きしめてあげたかった。
けれど、結局彼女は天界から出ることすらかなわなかったのだ。
勝手に抜け出そうとしたことが親や他の天人に知られ、地上に降りることすら出来ぬまま、地子は自室に押し込められた。
こんなに、悔しいと思ったことがあっただろうか。
こんなに、自分が不甲斐ないと感じたのはいつ以来か。
この身は形だけの天人で、友の死に目に立ち会うことすらも許されなかった。
もはや、地上に大好きだった友達はいない。
みんな自分ひとりを残して、一度も再開することのないままに息を引き取ってしまった。
ならば、この名前だけでもみんなと同じ時間にあれと。
今日この日、比那名居地子はみんなと共に死んだのだと、そう示すかのように。
比那名居地子と言う名だった少女は――比那名居天子へと名を変えた。
誰の意志の介入も出来ぬほどに強くなろうと。
誰がなんといおうと、自身の我を通す強さを手に入れると誓うかのように。
少女は父に一方的に名を変えたとそう告げて、周りの反応など気にも留めぬように我が侭に振舞い始めた。
その名の通り、まるで天下を治めている皇帝のように。
流す涙は友が死んだその日に枯れ果ててしまった。
悔しさと悲しさをひた隠すように、虚勢のような意地を上辺に貼り付けて。
心はとっくにガランドウだ。ぽっかりと開いた空洞は、友を失って埋まることなく広がったまま。
まるで、大きな風穴の開いた柱のよう。まっすぐ立っているけれどどこか頼りなく、いつか耐え切れずに折れて潰れてしまいそうな大黒柱。
やはり、所詮は成り上がりかと誰かが口にした。
天人にふさわしくない不良者だと、誰かが呟いた。
天界にいることすらおこがましい天人くずれと、誰かが下品な声を上げて笑っていた。
知ったことか。いいたいことがあるなら好きに言えばいい。
ギィギィと軋み悲鳴を上げる心のまま、少女は自分を見下す『全て』を見下した。
そんな取るに足らない声に負けないように、自分を縛り付ける全てに負けないように強くなるのだと、ずっと心に言い聞かせて。
彼女にとって許せなかったのは、他の天人達でもなければ己が親でもなく……彼らに縛られ、友のもとへ行けなかった不甲斐ない自分自身なのだから。
強くなりたかった。他人の目にも、父の言葉にも、自分を縛るあらゆるものより、ただ強く。
「本当、我ながら単純だったものよね」
憂いを秘めた瞳を子供達に向けながら、天子は自嘲するように呟く。
父の言いつけを破るようになり、天人達のいうありがたい言葉などまるっきり無視して、それまでいい子に守っていた勉学もほとんどしなくなった。
顔を合わせれば今でも喧嘩して、お互いに口汚い言葉で罵倒して、家を飛び出した回数ももはや三桁を越えるだろう。
変わらない退屈な生活。裕福なだけで、娯楽など何一つないくだらない世界。やがて記憶は磨耗し、擦り切れ、今では友の顔を思い出すことすら出来なくなってしまった。
その鬱憤を晴らすように、定期的にやってくる死神を蹴散らせば、少しでも気が晴れるかと思えばそんなことは全然なくて。
「そういえば、衣玖に出会ったのも丁度その頃かしらね」
そんな風に言葉をこぼして衣玖に視線を向ければ、彼女は意外そうな表情できょとんと首をかしげていた。
それも無理ないかと、天子は苦笑する。
何しろ、出会ったといってもニ、三ほど会話を交わしただけなのだ。当時はこんなに長い付き合いになるとは思わなかったし、天子にとっては取るに足らない他人だった。
他人だった――筈なのだ。
「まぁ、本格的に話すようになったのは、あの異変からだけどさ」
「あー、あれですか。私としても、あんな面倒ごとをまた起こされてはたまりませんでしたからね」
「あはは、やっぱりそう思って私と一緒に居たか。でもさ、衣玖はめんどくさがりの癖に真面目な奴だからさ、いつも親身になってくれてたのがわかったのよ。
正直に言えばさ、……うん、すごく嬉しかった」
良くも悪くもあの異変以来、比那名居天子は少しずつ変わり始めた。
今までのように我が侭な性分は変わることなく、けれども先ほどのように困っている子供達を助けてやる余裕を持ち始める。
それは他でもない、異変以来共に居ることの多くなった永江衣玖の影響だった。
口やかましくてめんどくさい奴だって、そう思ってた。
けれども、親身な彼女に触れていくうちに、いつの間にか天子にとっては永江衣玖と言う女性は姉貴分となっていったのだ。
よっと、天子は椅子代わりにしていた要石から飛び降り、背中で手を組んだまま数歩進む。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴の蒼色。
見ていると心が軽くなるような、そんな空を見上げたまま、天子は言葉を紡ぎだす。
「私は、今ここに立っている。かつて暮らしていた、友達と走り回った母なる大地に。
でもね、もうみんなはどこにも居ない。私の知っているみんなは、一人も残らず天寿を全うして私を置いていってしまった。
だからね、私は名を変えた。名前だけでもみんなに持っていて欲しくて、名前だけでも、みんなと同じ場所にいて欲しくて。
友達が死んでしまったその日から、比那名居地子はみんなと一緒に死んだのよ」
まるで謳うように、その溜め込んだ想いを言葉にして。
天子の顔は衣玖のほうからは見て取れないけれど、悲しそうな顔をしているのだと衣玖は思った。
蒼色の髪が風で靡いて、ふと、天子が行くに振り向く。
寂しそうな色を帯びた、そんな赤い瞳で。
「ねぇ、衣玖。私ね、すごく悔しかった。友達のところにいけなかったことも、何も出来なかった自分も。
でもね、本当は……本当はね、寂しかったんだよ」
今にも泣き出してしまいそうな、そんな声。
誰にも理解されず、ただただ強くなろうと足掻き続けた少女の言葉。
親とは喧嘩ばかりで、他の天人は彼女に関わろうともしない。
そんな中で、地上の異変や妖怪退治、神社で起こる宴会は、はたして少女にどう映ったか。
羨ましかった。誰も彼もが楽しそうに笑い、異変が終わればお祭り騒ぎで敵も味方も関係ない。
賑やかな宴会はみんな楽しそうで、嬉しそうで、あの中に混ざりたいと、何度思ったことだろう。
意地っ張りな性分だから、本当のことなんか誰にも告げたことはない。
けれど、友を失ったガランドウの心は。
友達の顔も思い出せなくなった擦り切れた記憶は。
人も、妖怪も関係ないあの大宴会を、羨ましいと……そう、思ったのだ。
「総領娘様」
ふわりと、柔らかな感触に身を包まれた。
きゅっと優しく包む衣玖の腕の中は、温かくて心地よくて。
母に抱かれているような安心感を抱きながら、「ん」と、天子の口から小さな言葉がこぼれ出る。
「私には、あなたの感じる孤独を、残念ながら理解することは出来ません。その想いは間違いなく総領娘様だけのもので、私が軽々しくわかるなどとは口が裂けても申せません。
けれど、私にも少しは……あなたの感じる孤独を和らげることが出来るかもしれません。泣きたいときがあれば、何時でもこの胸を貸しましょう。
ですから、そんなに悲しそうな顔をしないでください。私は……いつもの我が侭で元気のいい、あなたが大好きですから」
最初は、面倒な相手だとしか思わなかった。
我が侭で自分勝手で、終いには天人の宝剣を持ち出して異変を起こし、自分の仕事を増やした増長した娘だと。
だから、これ以上面倒ごとを起こされてはたまらないと、監視の意味合いもかねて近くにいることにした。
それはそれで面倒だったが、しょっちゅう地震を起こされるよりははるかにマシだと思って。
けれども、彼女の寂しげな表情に気が付いたのは、いつの頃からだろう。
彼女の言葉が、背伸びした子供の意地であったと、気がついたのはいつだったか。
そして――彼女の我が侭に振り回されるのも悪くないと、そう思い始めたのはいつからか。
「……衣玖は、ずるいわ」
「そうですか?」
「うん……そうだよ。そんなこと言われたらさ、本当に泣いちゃうじゃない」
その言葉は、はたして天子にとってどれほど意味のある言葉だったか。
ずっと一人孤独であった少女にとって、その言葉にどれだけの価値があったことか。
胸の奥が締め付けられるようで、ぽろぽろと溢れる涙が止まらなくて、嗚咽がこぼれてしまったけれど、それを隠すように衣玖がそっと優しく抱きしめた。
けれども、子供達のうち一人がそれに気付いたようで、トタトタと天子達に歩み寄った。
「天子のおねーちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
「あ、ねーちゃんが泣いてる!?」
「うそ、マジかよ!?」
「ねーちゃんねーちゃん、大丈夫か!!?」
一人が気付けば、あとは次々に気がついて彼女達の元に集まった。
みんな天子を心配している様子が見て取れて、衣玖は微笑ましいと思うと同時に困ったなぁとそんなことを思う。
他人に弱みを見られることを極端に嫌う天子のことだ。今のこの状況は望むような状況ではあるまい。
そんな、衣玖の心配を他所に、腕の中の少女はクツクツと笑った。
「ふっふっふ、誰が泣いてるってガキンチョ達!!?」
「泣いてるじゃんか!」
「目が真っ赤だぞねーちゃん!!」
「シャラップ! 私の目は元々赤色だコラ!!」
強がってはいるものの、子供達の指摘どおり目が赤い。
正真正銘、今まで本当に泣いていたことの証明だが、それを認めようとしないのもまたこの少女らしかった。
そんな彼女の背を押すように、女の子達が集まって彼女に声をかけていく。
「おねーちゃん、男子達が強くて勝てないの。助っ人に来てー!」
「そうだよ、一緒に遊ぼう!」
「ほほーう、天人に遊んでもらおうなんていい度胸ね。いいわ、たっぷりと遊んであげるわ!」
本当、子供達に混じっていてもあまり違和感がないのはいかがなものか。
どさくさに紛れて天子の尻を触ろうとした子供が事前に察知され、女子達から変態扱いされていたがそれもまァ自業自得だし、子供らしく微笑ましい範疇だろう。
そんなふうに眺めていた衣玖の背を、誰かが押した。
「おや?」と思って後ろを振り向けば、別の女の子達が衣玖の背を押しているのが見える。
「天女のおねえちゃんも、一緒に遊ぼう?」
「そうだよ。みんな一緒の方が楽しいよ?」
「あ、あの……私は」
断ろうと思ったが、子供相手に強くは言えない。
そんなふうに困っていた彼女の視線の先、子供達に囲まれて楽しそうな天子の姿が見えて。
―――その刹那、子供達と一緒に遊ぶ、子供の頃の小さな天子の姿を幻視した。
あ、と……小さな言葉がこぼれ出る。
いつの間にか先ほどの光景は消えていて、いつもどおりの天子の姿がそこにあった。
かつては見ることのなかった、比那名居天子の心からの笑顔。
あぁ、あの人はこんな風に笑えたんだと、そんな意外な発見に衣玖は嬉しくて微笑んだ。
ふと、手が差し伸べられる。
かつて人であり、天人へとなり、友達を失った少女が、満面の笑顔で自分に手を伸ばしていた。
「いきましょう、衣玖」
告げられた言葉に、衣玖は何を思っただろう。
微笑ましそうな表情を浮かべ、「はい」と短く言葉にして、かつて孤独だった少女の手をとった。
子供達に押され、けれども二人とも楽しそうに、嬉しそうに、満ち足りた笑みを浮かべながら。
▼
少女はいつも一人だった。
かつての友達は全て死に、その際に名を変えた一人の少女。
その時、間違いなく少女は一度死んだのだ。人間としての名を、せめて友の手向けにと。
他には誰も居らず、自身の不甲斐なさを呪いながら、ガランドウの心を誤魔化しながら生きてきた。
寂しさを押し殺して、強くありたいと願いながら。
そんな少女にも、今は隣に心を許せる誰かが出来た。
一緒に居たいと、そう思える誰かが出来たのだ。
そうして、今日も少女は我が侭に自分勝手に、自由気ままに生を謳歌するのだろう。
隣に立つ大切な人と、共に歩き、笑顔を浮かべながら。
少女の寂しさは、きっと隣に歩む人が包んで溶かしてくれるだろう。
天に生き、地に名を眠らせた少女は、今日も誰かと共に歩んでいる。
―――少女はもう、一人じゃない――
コレは、一体誰の声だっただろう。
遠い記憶の彼方に埋もれた思い出。
埋没した意識の断片が、陽炎のようにゆらりゆらりと揺れている。
――みんなが、泣いている――
大人たちが私の頭を撫でてくれて、大勢の友達が私の名前を呼んだ。
妹分の小さな女の子が抱きついて、私の腕の中でポロポロと泣きじゃくっている。
まるで、コレが今生の別れのように。
もう二度と、私と出会うことが無いかのように。
そしてやはり、私も泣いていた。
視界が滲んでよく見えない。
声にしたい言葉が、伝えたい思いが、涙でぐちゃぐちゃになってしまったみたいに出てきてくれない。
今までありがとうって、言葉にしたいのに。
さようならって、伝えたいのに。
私の口は嗚咽をこぼすだけのガラクタに成り果てていた。
そうして、名を呼ばれる。
今となっては懐かしい名を。
地上に置いてきた、人としての名前を。
私を呼ぶ父の声に、時間切れだと、そう告げられたようで。
胸が、苦しさで潰れてしまうのではないかとさえ思えたのだ。
今となっては、顔も思い出せなくなった誰かを抱きしめる。
泣いて泣いて泣きはらして、何を言葉にしたのかさえよくわからなくて。
手を引かれ、引き離されるまでずっと、言葉にならない嗚咽をこぼしていた気がする。
遠くなっていくみんなの姿。
腕を引かれ立ち止まることも出来ず、ただただ手を振り返すことしか出来なかった自分。
こみ上げてくる涙は、拭っても拭っても、後からポロポロと溢れてしまう。
辛くて、苦しくて、悲しかった、あの日の情景。
ザァッと、景色が揺らいで意識が移ろいで行く。
夢の終わりを自覚する。悲しいけれど、懐かしいと思えるいつかの記憶。
実際に体験した、別れの記憶。人をやめたいつかの思い出。
そうして、私の夢の淵から覚醒する。
いつものように、何も変わらない、私の一日を始めるために。
▼△―――――△▼
天は生きて地は眠る
▲▽―――――▽▲
ボスンッと、そんな間の抜けた音を立てて、スイカほどの大きさのボールが大木の中に吸い込まれた。
「あー!?」と一斉に子供達の声が上がり、ボールを飲み込んだ大木に子供達が集まっていく。
ボールは綺麗に枝へひっかかってしまったようで、幹を揺すっても叩いても落ちてくる気配はない。
「もー、どうすんだよケンちゃん!」
「ぼ、僕にいわれても」
「二人とも、喧嘩してる場合じゃないでしょ!?」
ガヤガヤと騒がしくなる子供達。
喧嘩する子供もいれば、それを止めようとする子供、ボールをどうやって落とそうかと話し合う子供と様々だ。
十人近くも集まればそれ相応に騒がしいもので、人里の広場にそんなに子供が集まればいやでも目立つ。
だからこそ、とある少女がその場に現われたのは、ある意味では必然だったのか。
ふわりと、子供達の居る場所に一人の少女が羽のように舞い降りた。
深い蒼色の長い髪に、桃のアクセサリーが施された黒いハット。真紅の瞳は凛々しく吊り目がちで、肌の色は透き通るように白い。
白をベースにした前垂れとシャツが一緒になったような特徴的な服に青色のロングスカートといういでたちの少女の腕には、子供たちが木に引っ掛けたボールが抱えられている。
「やあやあ、あなた達が木に引っ掛けたのは、このみすぼらしいボールですか? それとも私の隠し持つ黄金のボールですか?
……なーんてね。今度は気をつけなさいよ、ガキンチョ達」
「天子のねぇーちゃんだ!!?」
「こんにちはー! 天子のお姉ちゃん!!」
「背はあるけど胸の無いねーちゃんだ!」
「ねーちゃんねーちゃん、いいケツしてんな触らせろよー!」
「アッハッハ、最後の二人、ちょっとコッチ来いコラ」
ビキビキと額に青筋を浮かべてそっちを笑顔のまま睨みつけると、脱兎のごとく距離をとる下手人の男子二人。
そんな様子に呆れたようなため息をつき、少女――比那名居天子は近くにいた女の子にボールを手渡した。
「ありがとー!」と元気よくお礼を言われては悪い気もせず、ひらひらと手を振って笑みを浮かべながら「どーいたしまして」と、そんな一言。
蜘蛛の子を散らすようにワーッと広がり始め、ドッヂボールを再開した子供達を見やり、天子はやれやれと肩をすくめる。
そんな彼女に、音もなく舞い降りた女性が一人。
緋色の羽衣に身を包み、藤色のセミロングに赤いリボンが施された黒いハットの女性は、物静かな様子で赤い瞳を天子に向けた。
「珍しいですね。総領娘様が人助けとは」
「んー、そうかしら?」
「えぇ。まさか、総領娘様がショタコンだったとは知りませんでした」
「違うし!!?」
一体どういう勘違いよ!? と憤慨しながら女性――永江衣玖に視線を向ければ、彼女はきょとんとした様子で首を傾げておいでだった。
そう、まるで「違うんですか?」といわんばかりに。
その様子から、先ほどの言葉がからかいではなく大まじめな台詞だったという事に気付き、天子は盛大なため息を一つついて、椅子ほどの大きさの要石を作るとそこに座った。
「まぁ、ちょっとした気まぐれみたいなものよ。あの子達を見てたら、なんだか懐かしくってね」
「懐かしい……ですか?」
「うん、懐かしいよ。私も子供のころは、ああいう風だったなァって」
ぼんやりと、頬杖をつきながらドッヂボールに興じる子供達に視線を向ける。
そんな天子の隣に、衣玖は静かに佇んで同じように子供達の様子に視線を向けていた。
ワイワイと楽しそうに笑う子供の様子に、二人はなにを思ったのか。
やがて、天子がポツポツと言葉を紡ぎ始める。
静かに、穏やかに、思い出を懐かしむような声で。
「私さ、こう見えても子供のころは友達が一杯いたのよ? 可愛い妹分もいたし、真面目な奴もいれば、悪戯好きな悪ガキもいてね。
それでもまぁ、やっぱり子供だからみんなで集まっては何をして遊ぼうかって、よく話し合ったものよ」
「総領娘様、それはもしや……」
「うん、私がまだ天人になる前の……比那名居地子だった頃の話よ」
パチクリと、衣玖が目を瞬かせたことに天子は気付いただろうか。
天子との付き合いの長い衣玖でさえ、彼女の過去の話はほとんど聞いた事が無い。
驚いたのは、あまり自分の過去を話したがらない彼女にしては珍しい、そんな懐かしむような呟きが意外だったからか。
「珍しいですね、総領娘様がご自身のことをお話になるのは」
「話したこと、なかったっけ?」
「昔から、あまりご自身のことは話したがらないようでしたから」
困ったように頬をかき、「そっかぁ」と呟いた天子は空を見上げた。
彼女自身、天界では不良天人などと呼ばれ、一時期相当荒んでいた時期がある。
衣玖とはその頃からの付き合いではあるが、確かにあの頃の自分なら話なんてしないかと納得して苦笑した。
「まぁ、衣玖にならいいか」
「……総領娘様?」
「ねぇ、衣玖。どうして、私が名前を変えたと思う?」
比那名居地子から、比那名居天子へ。
人間から天人へと成り上がり、地子の名を捨て天子を名乗った少女の心の内。
出会って間もない頃は、ただ増長しているがゆえのことだと、そう思っていた。
けれども、出会って話をするうちに、親密になっていくにつれて、どうしても違和感が付きまとってしまう。
返答に困っている衣玖にクスクスと笑みをこぼして、天子は「ゴメンゴメン」と謝った。
さすがに意地悪な質問をしたと思ったらしく、彼女にしては珍しい謝罪の言葉。
さて、どこから話したものかと、しばしの間目を閉じて逡巡する。
風に乗って流れた子供達の声が、二人の一瞬の静寂をうめた。
数秒だったのか、あるいは数分たっていたか。
そうして、天子はゆっくりと目を開ける。どこか遠くを見ているかのような眼差しで、静かな声で言葉を紡ぐ彼女の心は、はたしてどこにあったのか。
「私達一族はさ、神格化した名居守のついでに天人になったようなものでしょ? ほかの連中のように修行を積んだわけでもなければ、天人の格なんて持ち合わせちゃいない。
確かに、天界の暮らしは裕福だったかもしれない。でもね、周りからの目はとても冷たいものだったわ。
そんな針のムシロのような場所で私がすることって言ったらさ、かつての友達の様子を眺めるぐらいしかなかったのよ。
毎日、毎日、ただただあの頃の友達の様子を、ずっと。
だって、あの頃はあんなにも楽しかった。あんなにも充実してた。天界にはないものが、確かにそこにあったのよ」
静かな言葉に、衣玖はただ黙って耳を傾けている。
するりと鼓膜に入り込むその声には、確かな悲しみが宿っているようで。
「本当はさ、天人なんてなりたくなかった。みんなと一緒に遊んでいたかったし、いつまでも友達のままでいたかった。
みんなと一緒に成長して、みんなと一緒に笑いあって、みんなみたいに結婚して、子供を産んで、子供の成長に満足しながら、最後は孫の顔を見て満足して逝く。
そんな、人間としての当たり前の人生で、私は満足だったのに」
思い返すのは、あの日の情景。あの時の記憶。
天界へと暮らすことが許された比那名居の一族への目は、非常に冷たいものだった。
天人らしくないと、成り上がりめと、不良天人の烙印を押され、全てを否定されているかのような、そんな場所。
暮らしは裕福かもしれない。食事も、寝床も、何一つとして不自由のない、夢のような生活。
けれど、そこには友達がいない。
いつもすがりついてきた妹分も、真面目だった少年も、悪戯好きだった小僧も、誰もいない。
それはまるで、胸にぽっかりと空洞が出来てしまったかのようだった。
一人地上を見下ろせば、かつての友達の姿が見えたのは、唯一の救いだったのか。
毎日毎日、胸のスキマを埋めるように地上を見下ろしていれば、いやでもその事実に気がついてしまう。
いつの間にか、友達は大人になっていて、妹分は真面目な少年と結婚して、悪戯小僧だった彼は意外にも寺小屋の先生になった。
成長を見守って、妹分に子供が生まれたと知れば我がことのように喜んで祝福した。
たとえ、その場に自分がいなくても、せめて思いだけは届くようにと。
けれど時の流れは残酷なもので、地子を残してみんなはどんどん年老いていった。
若々しかった彼らは歳をとり、老い、床に伏せることが多くなり、一人、また一人と、その天寿を全うして行く。
まるで、自分ひとりが取り残されているようで。
その場に行きたいのに、天界から出ることを許されない自分自身が腹立たしくて。
何度も何度も、友が一人息を引き取るたびに涙を流すことが出来ず、時間ばかりが過ぎて行く。
そうして、最後に一人残った妹分。
息子や孫達に看取られながら、今にも潰えてしまいそうなか細い声で。
――もう一度、地子ちゃんに会いたいなァ。
そんな、小さな願いだけを残して、彼女は息を引き取った。
できうることならば、すぐにでもそこへ行きたかった。今すぐにそこへ行って、彼女の手を取って「地子だよ、覚えてる? 頑張ったね」って、そう言葉にしたかったのだ。
みっともなく涙を流したっていい。情けない姿だっていい。
ただもう一度、あの頃のように彼女を抱きしめてあげたかった。
けれど、結局彼女は天界から出ることすらかなわなかったのだ。
勝手に抜け出そうとしたことが親や他の天人に知られ、地上に降りることすら出来ぬまま、地子は自室に押し込められた。
こんなに、悔しいと思ったことがあっただろうか。
こんなに、自分が不甲斐ないと感じたのはいつ以来か。
この身は形だけの天人で、友の死に目に立ち会うことすらも許されなかった。
もはや、地上に大好きだった友達はいない。
みんな自分ひとりを残して、一度も再開することのないままに息を引き取ってしまった。
ならば、この名前だけでもみんなと同じ時間にあれと。
今日この日、比那名居地子はみんなと共に死んだのだと、そう示すかのように。
比那名居地子と言う名だった少女は――比那名居天子へと名を変えた。
誰の意志の介入も出来ぬほどに強くなろうと。
誰がなんといおうと、自身の我を通す強さを手に入れると誓うかのように。
少女は父に一方的に名を変えたとそう告げて、周りの反応など気にも留めぬように我が侭に振舞い始めた。
その名の通り、まるで天下を治めている皇帝のように。
流す涙は友が死んだその日に枯れ果ててしまった。
悔しさと悲しさをひた隠すように、虚勢のような意地を上辺に貼り付けて。
心はとっくにガランドウだ。ぽっかりと開いた空洞は、友を失って埋まることなく広がったまま。
まるで、大きな風穴の開いた柱のよう。まっすぐ立っているけれどどこか頼りなく、いつか耐え切れずに折れて潰れてしまいそうな大黒柱。
やはり、所詮は成り上がりかと誰かが口にした。
天人にふさわしくない不良者だと、誰かが呟いた。
天界にいることすらおこがましい天人くずれと、誰かが下品な声を上げて笑っていた。
知ったことか。いいたいことがあるなら好きに言えばいい。
ギィギィと軋み悲鳴を上げる心のまま、少女は自分を見下す『全て』を見下した。
そんな取るに足らない声に負けないように、自分を縛り付ける全てに負けないように強くなるのだと、ずっと心に言い聞かせて。
彼女にとって許せなかったのは、他の天人達でもなければ己が親でもなく……彼らに縛られ、友のもとへ行けなかった不甲斐ない自分自身なのだから。
強くなりたかった。他人の目にも、父の言葉にも、自分を縛るあらゆるものより、ただ強く。
「本当、我ながら単純だったものよね」
憂いを秘めた瞳を子供達に向けながら、天子は自嘲するように呟く。
父の言いつけを破るようになり、天人達のいうありがたい言葉などまるっきり無視して、それまでいい子に守っていた勉学もほとんどしなくなった。
顔を合わせれば今でも喧嘩して、お互いに口汚い言葉で罵倒して、家を飛び出した回数ももはや三桁を越えるだろう。
変わらない退屈な生活。裕福なだけで、娯楽など何一つないくだらない世界。やがて記憶は磨耗し、擦り切れ、今では友の顔を思い出すことすら出来なくなってしまった。
その鬱憤を晴らすように、定期的にやってくる死神を蹴散らせば、少しでも気が晴れるかと思えばそんなことは全然なくて。
「そういえば、衣玖に出会ったのも丁度その頃かしらね」
そんな風に言葉をこぼして衣玖に視線を向ければ、彼女は意外そうな表情できょとんと首をかしげていた。
それも無理ないかと、天子は苦笑する。
何しろ、出会ったといってもニ、三ほど会話を交わしただけなのだ。当時はこんなに長い付き合いになるとは思わなかったし、天子にとっては取るに足らない他人だった。
他人だった――筈なのだ。
「まぁ、本格的に話すようになったのは、あの異変からだけどさ」
「あー、あれですか。私としても、あんな面倒ごとをまた起こされてはたまりませんでしたからね」
「あはは、やっぱりそう思って私と一緒に居たか。でもさ、衣玖はめんどくさがりの癖に真面目な奴だからさ、いつも親身になってくれてたのがわかったのよ。
正直に言えばさ、……うん、すごく嬉しかった」
良くも悪くもあの異変以来、比那名居天子は少しずつ変わり始めた。
今までのように我が侭な性分は変わることなく、けれども先ほどのように困っている子供達を助けてやる余裕を持ち始める。
それは他でもない、異変以来共に居ることの多くなった永江衣玖の影響だった。
口やかましくてめんどくさい奴だって、そう思ってた。
けれども、親身な彼女に触れていくうちに、いつの間にか天子にとっては永江衣玖と言う女性は姉貴分となっていったのだ。
よっと、天子は椅子代わりにしていた要石から飛び降り、背中で手を組んだまま数歩進む。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴の蒼色。
見ていると心が軽くなるような、そんな空を見上げたまま、天子は言葉を紡ぎだす。
「私は、今ここに立っている。かつて暮らしていた、友達と走り回った母なる大地に。
でもね、もうみんなはどこにも居ない。私の知っているみんなは、一人も残らず天寿を全うして私を置いていってしまった。
だからね、私は名を変えた。名前だけでもみんなに持っていて欲しくて、名前だけでも、みんなと同じ場所にいて欲しくて。
友達が死んでしまったその日から、比那名居地子はみんなと一緒に死んだのよ」
まるで謳うように、その溜め込んだ想いを言葉にして。
天子の顔は衣玖のほうからは見て取れないけれど、悲しそうな顔をしているのだと衣玖は思った。
蒼色の髪が風で靡いて、ふと、天子が行くに振り向く。
寂しそうな色を帯びた、そんな赤い瞳で。
「ねぇ、衣玖。私ね、すごく悔しかった。友達のところにいけなかったことも、何も出来なかった自分も。
でもね、本当は……本当はね、寂しかったんだよ」
今にも泣き出してしまいそうな、そんな声。
誰にも理解されず、ただただ強くなろうと足掻き続けた少女の言葉。
親とは喧嘩ばかりで、他の天人は彼女に関わろうともしない。
そんな中で、地上の異変や妖怪退治、神社で起こる宴会は、はたして少女にどう映ったか。
羨ましかった。誰も彼もが楽しそうに笑い、異変が終わればお祭り騒ぎで敵も味方も関係ない。
賑やかな宴会はみんな楽しそうで、嬉しそうで、あの中に混ざりたいと、何度思ったことだろう。
意地っ張りな性分だから、本当のことなんか誰にも告げたことはない。
けれど、友を失ったガランドウの心は。
友達の顔も思い出せなくなった擦り切れた記憶は。
人も、妖怪も関係ないあの大宴会を、羨ましいと……そう、思ったのだ。
「総領娘様」
ふわりと、柔らかな感触に身を包まれた。
きゅっと優しく包む衣玖の腕の中は、温かくて心地よくて。
母に抱かれているような安心感を抱きながら、「ん」と、天子の口から小さな言葉がこぼれ出る。
「私には、あなたの感じる孤独を、残念ながら理解することは出来ません。その想いは間違いなく総領娘様だけのもので、私が軽々しくわかるなどとは口が裂けても申せません。
けれど、私にも少しは……あなたの感じる孤独を和らげることが出来るかもしれません。泣きたいときがあれば、何時でもこの胸を貸しましょう。
ですから、そんなに悲しそうな顔をしないでください。私は……いつもの我が侭で元気のいい、あなたが大好きですから」
最初は、面倒な相手だとしか思わなかった。
我が侭で自分勝手で、終いには天人の宝剣を持ち出して異変を起こし、自分の仕事を増やした増長した娘だと。
だから、これ以上面倒ごとを起こされてはたまらないと、監視の意味合いもかねて近くにいることにした。
それはそれで面倒だったが、しょっちゅう地震を起こされるよりははるかにマシだと思って。
けれども、彼女の寂しげな表情に気が付いたのは、いつの頃からだろう。
彼女の言葉が、背伸びした子供の意地であったと、気がついたのはいつだったか。
そして――彼女の我が侭に振り回されるのも悪くないと、そう思い始めたのはいつからか。
「……衣玖は、ずるいわ」
「そうですか?」
「うん……そうだよ。そんなこと言われたらさ、本当に泣いちゃうじゃない」
その言葉は、はたして天子にとってどれほど意味のある言葉だったか。
ずっと一人孤独であった少女にとって、その言葉にどれだけの価値があったことか。
胸の奥が締め付けられるようで、ぽろぽろと溢れる涙が止まらなくて、嗚咽がこぼれてしまったけれど、それを隠すように衣玖がそっと優しく抱きしめた。
けれども、子供達のうち一人がそれに気付いたようで、トタトタと天子達に歩み寄った。
「天子のおねーちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
「あ、ねーちゃんが泣いてる!?」
「うそ、マジかよ!?」
「ねーちゃんねーちゃん、大丈夫か!!?」
一人が気付けば、あとは次々に気がついて彼女達の元に集まった。
みんな天子を心配している様子が見て取れて、衣玖は微笑ましいと思うと同時に困ったなぁとそんなことを思う。
他人に弱みを見られることを極端に嫌う天子のことだ。今のこの状況は望むような状況ではあるまい。
そんな、衣玖の心配を他所に、腕の中の少女はクツクツと笑った。
「ふっふっふ、誰が泣いてるってガキンチョ達!!?」
「泣いてるじゃんか!」
「目が真っ赤だぞねーちゃん!!」
「シャラップ! 私の目は元々赤色だコラ!!」
強がってはいるものの、子供達の指摘どおり目が赤い。
正真正銘、今まで本当に泣いていたことの証明だが、それを認めようとしないのもまたこの少女らしかった。
そんな彼女の背を押すように、女の子達が集まって彼女に声をかけていく。
「おねーちゃん、男子達が強くて勝てないの。助っ人に来てー!」
「そうだよ、一緒に遊ぼう!」
「ほほーう、天人に遊んでもらおうなんていい度胸ね。いいわ、たっぷりと遊んであげるわ!」
本当、子供達に混じっていてもあまり違和感がないのはいかがなものか。
どさくさに紛れて天子の尻を触ろうとした子供が事前に察知され、女子達から変態扱いされていたがそれもまァ自業自得だし、子供らしく微笑ましい範疇だろう。
そんなふうに眺めていた衣玖の背を、誰かが押した。
「おや?」と思って後ろを振り向けば、別の女の子達が衣玖の背を押しているのが見える。
「天女のおねえちゃんも、一緒に遊ぼう?」
「そうだよ。みんな一緒の方が楽しいよ?」
「あ、あの……私は」
断ろうと思ったが、子供相手に強くは言えない。
そんなふうに困っていた彼女の視線の先、子供達に囲まれて楽しそうな天子の姿が見えて。
―――その刹那、子供達と一緒に遊ぶ、子供の頃の小さな天子の姿を幻視した。
あ、と……小さな言葉がこぼれ出る。
いつの間にか先ほどの光景は消えていて、いつもどおりの天子の姿がそこにあった。
かつては見ることのなかった、比那名居天子の心からの笑顔。
あぁ、あの人はこんな風に笑えたんだと、そんな意外な発見に衣玖は嬉しくて微笑んだ。
ふと、手が差し伸べられる。
かつて人であり、天人へとなり、友達を失った少女が、満面の笑顔で自分に手を伸ばしていた。
「いきましょう、衣玖」
告げられた言葉に、衣玖は何を思っただろう。
微笑ましそうな表情を浮かべ、「はい」と短く言葉にして、かつて孤独だった少女の手をとった。
子供達に押され、けれども二人とも楽しそうに、嬉しそうに、満ち足りた笑みを浮かべながら。
▼
少女はいつも一人だった。
かつての友達は全て死に、その際に名を変えた一人の少女。
その時、間違いなく少女は一度死んだのだ。人間としての名を、せめて友の手向けにと。
他には誰も居らず、自身の不甲斐なさを呪いながら、ガランドウの心を誤魔化しながら生きてきた。
寂しさを押し殺して、強くありたいと願いながら。
そんな少女にも、今は隣に心を許せる誰かが出来た。
一緒に居たいと、そう思える誰かが出来たのだ。
そうして、今日も少女は我が侭に自分勝手に、自由気ままに生を謳歌するのだろう。
隣に立つ大切な人と、共に歩き、笑顔を浮かべながら。
少女の寂しさは、きっと隣に歩む人が包んで溶かしてくれるだろう。
天に生き、地に名を眠らせた少女は、今日も誰かと共に歩んでいる。
―――少女はもう、一人じゃない――
天子は強い子
感動しました、面白かったです。
感動です
こういう天子可愛すぎる。
そんな素敵な話を書いて下さった作者に感謝。
でも、それは全てを吹っ切るためで最後はとても爽やか。
どこまでも広がる蒼い空を幻視したような気がします。
なんかやられた感があります
設定を上手く使ってますね。
見ていて楽しくなる関係ですね。今の天子と衣玖さんは。
天は生きて地は眠る、良いタイトルじゃありませんか。
俺の嫁は天に生きている
つらい時、苦しい時にだれもいない。けれどもやっと隣にいてくれる人を見つけられた。
そんな天子に幸あれ!