互いの想いを口にしたことなんて、一度もない。
友達よ。
親友よね。
その程度のことなら数え切れぬほど囁き合ってきた。
でも、それ以上のことは、この胸の内に燻ぶるもののことは、言葉に出来ない。
言葉に出来ないまま、こうして二人で歩き続けてきた。
目の前にメリーの背中がある。きっとそれを言えば彼女は振り返る。
振り返って、その時彼女は、どんな顔をするのだろう。
想像するのさえ躊躇ってしまう。
その一言を、私は言えない。
怖い――から。
それを口にしてしまえば終わってしまう気がして。
何も、言えない。
――そんな夢を見た。
のそりと起き上がる。寝違えたのか前日の読書が祟ったのか、首が痛かった。
カーテンの隙間から陽が差し込んでいる。朝、か。時計を見ると、授業までまだ大分時間がある。
早く起きちゃったか、もったいない。寝直したいところだけど、そういう気分にはなれなかった。
欠伸を噛み殺しながら毛布をめくる。寝巻の上からでも朝の冷たい空気は刺すようだった。
ベッドから降りて冷蔵庫に向かう。カーボンパックされた牛乳を開け、新鮮なそれを一口。
あー。寝起きなせいか変な味ー。歯、磨いてからにすればよかった。
ついでに出そうとしていた食パンとジャムをそのままに冷蔵庫を閉める。
せっかく時間はたっぷりあるっていうのに朝食食べる気なくなっちゃった。
ま、すぐに慣れるでしょ。牛乳パックを持ったままベッドに戻り座り込む。
もう一口――ああ、まだ首痛いや。
サイドチェストに牛乳を置く。
肩を揉んで、首を捻りながら夢の内容を反芻する。
並んで歩いた。
いつの間にか彼女が先を歩いていた。
見えるのは彼女の長い髪。金の髪しか――見えなくなっていた。
曖昧でおぼろげなくせに、言わんとすることははっきりした夢。
背景も何もかも輪郭さえ思い出せないくせに、彼女の後姿だけは鮮明。
それだけでもう、どんな夢だったかなんて語り切っている。
「あーあ」
思春期なんてとうの昔に終えているのに。
我ながら青臭いこと考えてるなぁ。
4コマ目を終えて私はサークル棟の空き部屋に来ていた。
他に用事がなければ来てしまう、私とメリーのたまり場である。
当然のように、メリーは先に来ていて、いつものように文庫本を読んでいた。
見えるのは横顔だけど、彼女の顔が見えるということに安心してしまう。
後ろ姿じゃ――ない。
深々と溜息をつきながら椅子に座る。
「……これ見よがしに溜息なんてどうしたの?」
別に、そういうつもりはなかったけれど。
「ちょっと寝不足っていうか、まあ」
早く起きたには起きたけど、睡眠時間自体は普通だった。
だけどまあ、見た夢が問題だったというか……あれのおかげで寝た気がしない。
「もうすぐテストだっていうのに、これじゃ支障が出るわよ」
「てすと? 蓮子頭良いじゃない。バカだけど」
「るっさいわマジで」
私のことバカとか言うのあなただけだっての。
「あなたなら平気でしょ。大学入試? くはは欠伸が出るほどぬるかったぜとか言ってたじゃない」
「どこの悪役だ私は」
頭のエンジン止まってる時にそういうこと言われると信じちゃいそうなんだけど。
あれ。そんなこと言ったっけ? ……いやいや。言ってない言ってない。
もしかしてここ受ける時にメリーの勉強見てあげたの逆恨みしてるんだろうか。
でもあれ、メリーが悪いわよ。理数嫌い過ぎなんだもの。多少スパルタ教育にもなるわ。
……理数嫌い、か。
「なんていうかさ、ほんと私とメリーって正反対よね」
「ん?」
「私理数系で、あなた文系じゃない? ファジーなのが得意っていうか」
曖昧で、不明瞭なものの中でこそ彼女は輝く。
確定的なものを目指す私とは本当に真逆。
曖昧な――結界の揺らぎを見る彼女の目と。
確定的な――時間を星から読み取る私の目。
専攻から能力まで、徹底して逆。
同じところなんて、性別くらいじゃない?
ま、性別って言っても私は日本人で彼女は外国人。
DNAが全然違う。塩基配列が全く違う。同じじゃない――
「あー」
なんていうか、ほんっとーに思春期みたいなこと考えてるわ。
一卵性双生児でもクローンでも性格は異なるのなんて常識じゃない。
DNAが同じだからって何もかも同じになるわけじゃない。
この世に全く同じ人間は存在しない。
友達との共通項が見つからないくらいで何悩んでるんだろ、私。
「なんか、重症ねえ」
それは多分睡眠不足のことを言ってるんだろうけど。
私の頭の中にもそれは適用される。
「そうかもねえ」
重症だわ。思考が迷路に入っちゃってる。
「最近夢見が悪くてさあ、どーもベンキョーに身が入らないのよね」
「蓮子ならよゆーよゆー。だいじょーぶだって単位落としたら笑ってあげるから」
「メリーさんつめたい。この氷点下女め」
「あら知らなかったの。私の体温は34度ですわ」
「……マジ?」
「うそ」
微妙にありそうなウソつくな。
メリーの手って冷たいからちょっと信じちゃったじゃない。
「それにしても、夢? 珍しいわねあなたが夢がどうのと言い出すなんて。それ、私の役割じゃない」
ん。そういえば、そうだった。彼女の夢の話をよく聞いたっけ。
そんなこともあったっけ――
「ああ、私にカウンセリングして欲しいのね?」
「はい?」
「いいわよ、いつもしてもらってるものね。さあ来なさい」
「いやきなさいっていわれても」
なに? なんでこうなってるの?
来なさいって、あの夢話せってこと?
いや、そりゃ話せるくらいには憶えてるけど。
「夢の相談。ほら」
「相談って」
「夢の悩み。夢で困ってるんでしょ?」
困ってはいる、けど。
困ってるけど――それを、メリーになんて。
「――何を話せばいいのやら」
肝心な部分をぼかして言えばいいのだろうけど、出来ない。
大体どこをぼかせばいいのか……やり方もわからない。
私は、確定的なことばかりで、曖昧にするのは――
言い淀んでいたら、メリーの溜息が聞こえた。
見れば笑ったまま視線を外している。
「夢ねえ」
呟き。
しかしそれは、私に向けられていた。
「最近思うのよね。ああこれが胡蝶之夢なんだって」
「こちょうって、荘子の?」
「そ。荘子の」
胡蝶之夢――蝶になった夢を見た。目が覚めて思う。私が蝶になった夢を見たのか、蝶が私になった夢を見ているのか――とても有名な漢文だ。文学を専攻していない私でも知っている。
高校の時だったか、中学の時だったか一般科目で習った気もする。
ただ、メリーの言い方からしてそれは荘子の説話から乖離したものを指している。
夢と現実の対立。荘子はそれを受け入れよと説いていたがメリーは、その渦中のまま止まっている。
どちらが夢でどちらが現実か。主体を見失ったままその狭間で悩む。
精神のあり方への一解答であった荘子の説話の真逆だ。
メビウスの輪のように捻じれながらも繋がってしまっている。
円環から逃れられない
「……思春期にありがちな悩みじゃないの? もうそういう歳でもないじゃない」
「とんでもない。つまらないほどに現実的な悩みだわ」
笑って彼女は応える。
「私にとってはね」
夢。
メリーの夢。
以前――メリーは夢の中で拾った物を持ってきたことがあった。
現実にはあり得ない、夢の世界の産物を――私は見た。
質量保存の法則が成り立たない、物理学を根底から覆してしまいかねない、夢の産物を。
確かに、彼女ほど間違った意味での、渦中としての胡蝶之夢が似合う者も居ないだろう。
メリーは、マエリベリー・ハーンは、現実の住人でありながら夢の住人でもあるのだ。
どちらも実証されてしまっていて、思考ループは永遠に続いてしまう。
相反するものが一つに繋がってしまっている。
まるで、己を喰らい続ける蛇のように――閉じてしまっている。
彼女一人で、胡蝶之夢という説話がパラダイムシフトを起こしてしまう。
「あなたと話しているこれが夢なのか、現実なのか。夢と現の境が曖昧な私にはわからない。例えばこの世界がほんの数分前に眠った私が作った虚構だとか思い始めたら止まらないの。私はマエリベリー・ハーンじゃない別人で、マエリベリー・ハーンになった夢を見ているのかもしれない。自覚なく秘封倶楽部のメリーを演じているだけなのかもしれない。あなたと過ごしたこの数年の記憶も、夢の中なら作れてしまうかもしれないのだから」
夢は、見ている間はどこまでもリアルである、か。
――ああ、頭が痛くなってきた。これはもう思想哲学の世界だわ。
私の得意分野からかけ離れた、彼女の、
「メリーが何を言いたいのか、わからない」
意識せずに、呟く。
「戯れ言よ」
言葉遊びねと彼女は笑う。
ああ、そうかもね。話の主題がいつの間にか切り替えられてた。
私の相談ではなく彼女の相談になっていた。
戯れ言で――言葉遊びだ。
結局、私の悩みになんて1ミリも触れられていなかった。
それで、いいんだけど。
私の悩み事なんて、詰まる所――
「私ね、蓮子のこと好きよ」
脳髄が漂白された。
胡蝶之夢とか、メビウスの輪とか、忘れてしまう。
すき? スキ? 隙? 鋤? 梳き? 空き? 数寄? ――好き?
え、なん――で? そういう態度、とってない筈よ。
私の夢を彼女が知れば、そういう結論に達せれるだろうけど、何も話してない。
あれ、私の夢は、私の悩みは、詰まる所、彼女に想いを伝えられないってことに、なるけど。
どうして――――見透かされてるの?
メリーは、笑っていた。
「難しく考え過ぎなのよ、あなたは」
わからない。
鳥肌が立つくらいわからない。
目の前の、親友のメリーが何を考えているのか、わからない。
何か、境界が曖昧になっている気がする。見慣れたサークル棟の空き部屋に現実感がない。
夢の中で夢と認識する明晰夢。明晰夢と同じに、現実感というものがすっぽりと抜け落ちている。
メリーが語ったあの声だけ、あの話だけが頭の中をぐるぐると回っている。
夢なのか、現実なのか。どちらが――夢だったのか。
「……メリー」
メリーは、笑っている。
シンデレラの運命を決定づけた魔法使いのように。
アーサー王の物語を裏から作り上げた魔術師のように。
現実には存在しえないそういう人種が笑う時は――こんな目をするだろうと、確信する。
細められ、僅かに歪んだ、艶やかな魔性の笑み。
紫色の瞳が……私の四肢を射抜いて動きを奪っていた。
「ねえ蓮子。あなたは――」
彼女が身を乗り出してくる。
私は、動けない。
「――夢の中で「これは夢じゃない」とリアリティを演出する舞台装置?」
繊細に稼動する赤い唇。
「それとも私を現実に繋ぎ止めてくれるくさび?」
ちらちらと覗く白い歯。
「どっちなのかしらねぇ、蓮子」
現実感のない、とても同い年とは思えない艶めかしさで、彼女は問いを口にした。
彼女を肯定する舞台装置。
彼女を肯定するくさび。
夢と現実。
私の解答なくして確定化されることはない事象。
思想哲学のようでありながら量子論の箱の中の猫に等しい曖昧さ。
そんな――夢を見た。
答えられなかった夢。
告げられなかった夢。
まるで夢をなぞるかのような光景。
違うのは彼女が私の顔を見ていることだけど。
私の方こそ、夢に囚われてしまったような感覚。
もし、仮に――答えなかったら、夢が、続く……?
「――……私は」
じゃあ、解答を間違えたら?
夢の中で私は何も言わなかった。言えなかった。
だから今に続いているのだとしたら、間違えてしまったら?
いや、そもそもこれはどういう問題なの? 二択? 公式は?
脳が空転する。意味のないことにばかりリソースを割いて解答どころか問題に至れない。
彼女は待っている。身を乗り出して、噛みつくように顔を近づけて。
制限時間は? 問題文は? 解答欄は?
そも私が望んだのは、
「どっちでもいい」
思考は、停止していた。
脳はもう空転すらしていない。
口を動かすのは反射行動。
目も耳も鼻も、入力装置は一つたりとも稼動していない。
「あなたの傍に居られるのなら、なんだって、いい」
そこに人間らしさなんて欠片も無く、その行動は機械に等しかった。
でも、機械は嘘をつかない。機械からは真実しか吐き出されない。
夢を織る機械があるのなら、きっとそれが紡ぐ夢は何の装飾も施されない原始の色を出すのだろう。
だから私が紡ぐ言葉はそれだった。
「だって、私は、私は……」
装飾されない言葉。
反射からしか出せない言葉。
数式も哲学もない、確定的でも曖昧でもない原始の言葉。
「メリーのこと」
いた、
いたい。
ほっぺたが、いたい。
「あら、よく伸びるわね蓮子のほっぺた」
両の頬を抓られている。
メリーの白くて細い指が、私の頬を。
「ふぇ、ふぇりー、いはいよ」
「正解ね。花丸あげちゃう」
「はにゃまるって」
正解? 正解って、なんの――――
「骨の髄からデオキシリボ核酸まで愛してる」
悪戯っぽく笑って、彼女はそんなことを言った。
頭の漂白、第二弾。だった。
「あ――ぇっと、じゃあ、私は、ええと――」
いつの間にか頬は解放されていた。
何か言い返そうと必死に考えるけど何も思いつかない。
どんどん顔が熱くなってきて、脳まで茹だるようだ。
熱い、熱い――何も、考えられない。
「……降参」
「ふふふ。文系大勝利ね」
「数字と公式で生きてる私じゃそんな突飛な文章出てこないわよ」
「蓮子って私に勝ったことあったっけ」
「それは、それは――その」
「ないよねー」
机に頬杖を突く。
ああもうなにしてんだろ私。
抓られたからだけじゃなく頬が熱い。耳まで熱い。
悔しくて恥ずかしくて、もう、なによこれ。
自然、頭を抱えて蹲ってしまう。
顔を上げられない。
彼女の顔を見れない。
ううううう。
「でもね、そう突飛でもないのよ」
うそつき。
そんなの信じられないわ。
絶対今日この日の為に用意した言葉だったでしょ。
「ただ、ね」
だけど、そんな私の思いを彼女は否定した。
「蓮子のこと、どこまで好きかって考えたらそこまでいっちゃっただけだから」
それは、とても直截的で、本能的で――言葉を返せない。
原始的で、詩的さなんて欠片もなくて。
文系とか関係ないじゃない。
ああ、そうか――
あれもこれも違う違うとか言ってたけど。
ひどく原始的なところで――――彼女と私は、繋がっていた。
彼女に遮られた、一言で言えちゃう言葉で、繋がっていた。
その一言は、機械じゃない私には、恥ずかしくて言えないけれど。
文系と理系の恋、いいなあ。はなまる。
素晴らしい蓮刈頂きました!
ダダ甘で素晴らしかったです!
甘さのボルテージが最高潮に達した時点でスクワット十回を己に科すことにより、両足はテリーマンのようになりました。
本当にありがとうございます
素敵な話をありがとうございました。
例え性格が正反対でも互いに好きならそれでいいのです
「お前ら結婚しちまえよ」
いい連メリでした
いいコンビだよ本当に。