危機に陥る場面というのは長い人生において必ず何度か遭遇するだろう。
例え万全の用意をしていたとしても、危機というものは予期しない場所から現れて私達に牙を剥く。
それこそ未来予知ができたりしない限りは絶対に安泰な一生を過ごす事はほぼ不可能と言っても過言ではない。
そしてこの私、宇佐見蓮子は現在進行形でぶっちぎりで人生のトップテンに入る勢いの危機が迫ってきている。
簡潔にして一言で表せる危機、それは。
「……トイレ行きたい」
所謂お小水の我慢が近付いている。
なんという事か、今の私は出したくて出したくて仕方が無い。もうかなり溜まっているのだ。
結構やばい。どれくらいやばいかと聞かれたなら、両手で股間を押さえて形振り構わずにトイレと言う名のユートピアに駆け込みたくなる程度にやばい。
何故こんな状態になってしまったのか。一時間くらい前に飲んだ缶コーヒーが今になって効いてきた?
それとも眠気対策のレッ○ブ○が原因?
いや、もしかしたらどっちかもしれない。カフェインの取り過ぎは尿意を早める事は知っていたのについ飲み過ぎてしまったかもしれない。
トイレに行きたいなら早い行けばだろうけど、困った事に、今いる場所はドが付くくらい田舎道の真っ只中。公共施設などが全く見当たらない。見えるのは電柱と道を照らす外灯と草場くらいのものだ。
いっそ草葉の陰でひっそりと済ませてしまおうか、とも考えたけどすぐに止めた。これでもまだ恥らう乙女な年頃だし、何より今は私一人ではない。
「どうしたの蓮子、あまり顔色が優れないみたいだけど。もしかして疲れちゃった?」
「あー、まあそんなところかな、気にする程でもないわメリー」
「そう。でも確かに今夜は結構歩き回ったから、私も疲れちゃったわ」
「だよねー、私も早くホテルに戻ってゆっくりしたいわ。あははのはーと……」
隣に寄り添う毎度お馴染み言わずと知れた我等のサークル秘封倶楽部の相方、境界が見えちゃう不思議アイの持ち主マエリベリー・ハーンことメリーが肩を回して軽く疲れたと表現してみせた。
今夜は東京からも外れたある場所に境界があるという情報を裏表ルートで入手した私達は現地へ出向き、いつものように秘封倶楽部としての活動に精を出し、調査が終了して帰路に着く途中なのだ。
つまり、外し難い人の目があるという事。
ああ、この場でメリーに「トイレ行きたい」と一言言えればなんと楽だろう。もしかしたらトイレを探してくれたりしてくれるかもしれない。
けれど今はそうはいかない。何故なら、活動を始める前にメリーがトイレに行きたいと慌てた様子で駆け込むのを私は盛大に笑い飛ばしているからだ。
人の事を笑った手前、今更になって自分も同じ行動を取るなんてみっともないし、メリーにも笑われてしまう。
それはこの私のプライドが許さない。だからなんとかしてこの危機を自力でかつ誰にも知られずに突破しなければ。
「ねえ、随分体を縮めてるけど、本当に大丈夫?」
「い、いや大丈夫よ! ちょっと寒いだけだから」
「んー、なら良いけど……」
危なかった。もう少しで気付かれるところだった。
どうやら気付かない内に体を強張らせて足を引きずるように歩いていたようだ。慌てて何事も無いように普通に歩くように努める。けど、これ結構きつい。足を前に出す度にお腹を圧迫する感覚に見舞われ、同時に漏れないようにと下腹に力を入れて我慢。これを繰り返すのだ。
やばい漏れそう。プライドと体裁共々外に溢れ出ちゃいそう。
苦しい、やばい、トイレあるところまであと何メートル?
頭の中を尿意とトイレと我慢する事で埋め尽くされる感覚が分かる。横でメリーが何か言ってるけど今の頭の中に意味を理解する為に回す思考の余裕なんて無い。適当にうんと返しておこう。
どうする宇佐見蓮子、どうする!?
もういっそ出しちゃえば楽になるんじゃね?
いやいやいや、待て待つんだ私の出したいという欲望。それだけはいけない。それは最低最悪の結末で人間の乙女としての全てを失ってしまう。耐えろ、耐えるんだ。きっと我慢した分だけ出す時が気持ち良いから! ね! もう少し待とうよ!
――そうだ、漏れそうだと思うから余計に我慢し辛くなるんだ。もっと耐えられると考えれば良いんだ。
さすが灰色の脳細胞を持つ宇佐見蓮子、土壇場でピンチを切り抜けるべくフル稼動してくれた。
まず限界が近いと考えるからいけないんだ。まだまだ我慢できる。
確か人間の体は600ミリリットルは蓄えられると聞いた事がある。そうね、現在は良くて大体半分くらいってところ?
余裕よ余裕。これくらい簡単に切り抜けてみせるわ。
「はい蓮子」
「あ、これはどうも……てメリーさん? 何、このほかほかと湯気が沸く香ばしいスメル漂う液体が入ったコップは」
「何ってコーヒーじゃない。寒そうにしてたから『コーヒー飲む?』って聞いたら『うん』って言ったじゃない」
ジーザス! まさかさっき聞き流していたメリーの言葉の内容がそんなのだったなんて。思わない伏兵が潜んでいたわ。
しかも現れた伏兵が水分でカフェインたっぷりなコーヒーとくる。これは何かの陰謀だろうか?
「どうしたのコーヒーをジッと見詰めて固まったりして」
「え? いやそれはその」
「さっきからモジモジしてるみたいだけど、もしかして、トイレに行きたいと――」
「やーねぇメリーったら! そんな訳無いじゃない! ちょっと考え事してただけだから全然気にしなくて良いわよ! あーおいしそうなコーヒーね、いただきます!」
悟られまいと慌てて手に持ったコーヒーを流し込む。
口の中にコーヒー独自の苦味が広がる。本来なら香りを楽しんでから飲みたいけどそんな暇も無い。今は尿意を早めるだけの液体に過ぎないのだ。
なんだかこの一杯だけで中の容量が450ミリリットルくらいに急上昇した気がする。
あと舌火傷したかもしれない。ひりひりする。
「ありがとうメリー、これで後10年は戦えるわ」
「何よそれ、大袈裟ね。でも私の気のせいだったみたい。いつもの元気な蓮子で安心したわ」
そう言ってメリーは心配そうだった顔を崩し、安堵した様子で優しそうに柔らかく微笑みで返してきた。
くそうずるい。そんな顔を見せられたら文句の一つも言えなくなるじゃない。
結局、私が自分で招いた墓穴という事なのか。
コーヒーの効果が来る前に帰れたら良いなぁ……。
◇
あれからどれくらい歩いただろう、時間の感覚が分からなくなってきた。
いや空を見れば一発なんだけどね。
でも一々時間を計ったら余計意識しちゃうからやらない。
現在状況、もう人生のワーストワンに入れても良いくらいの危機が迫る、もとい漏れようとしてる。
宇佐見蓮子、未曾有の危機だ。
もう余計な衝撃一つでも決壊しかねない。お腹の感覚も痺れて重いものが圧し掛かってるとしか感じなくなってきてる。
脂汗もやばい、主に下半身に集中的に溢れ出てる。人間ってこんなに脂汗掻けるものなんだと逆に感心してしまう。
まともな姿勢なんて保てる訳もない。既に前かがみで少しずつ歩くのがやっとだ。
トイレはまだか。大分歩いてきた筈なのにいまだトイレのトも見付からない。
もしかして私はトイレに嫌われたの? 我慢したばっかりに?
ごめんなさいトイレの神様、我慢した事を怒ってるなら謝ります。だから私にトイレをください。
このままでは私は色んなものが崩壊してしまいます。
あれ、誰かの声が聞こえる。まさか、トイレの神様が本当に私の願いを聞き入れて降臨したのかしら?
「――蓮子! 蓮子ったらしっかりしてよ!」
「あれ、トイレの神様ってメリーそっくり」
「変な幻覚見ないでよ!?」
ゆさゆさと肩を揺らされてハッと我に返ると眼前には必死の形相のメリーがいた。
どうやらありもしない幻覚を見ていたようだ。
「やっぱり蓮子なんか変だよ。一体どうしたのよ」
「でも……」
「蓮子、でもって言葉を使わないで」
肩を掴むメリーの腕の力が一層強くなったかと思うと、引き締めた彼女の目が私を真っ直ぐ覗きこんできていた。
焦りなどは一切無い、本気の顔。メリーのこんな顔見るのは、初めてだ。
「私達はサークルメンバーでしょ。悩みがあるなら話してよ。私は怒らないし笑わない。私は、あなたの力になりたいの」
なんて、力強くて真っ直ぐな目をしているのだろう。
そうか、メリーは本気なんだ。冗談とかではなく、真剣に気に掛けてくれてるんだ、私の事が心配で。
ああ、駄目ね私は。なんでこんなくだらないプライドとかでずっと我慢してたんだろう。
「……聞いて、くれるかな」
「もちろんよ。何でも聞いてあげる」
「実はその、トイレに、行きたい」
「トイレ? やだなんで早く言ってくれなかったの。知ってたらもっと急いで帰ったのに」
「ごめん……」
話してみればどうという事はない。全ては私の思い違いでしかなかった。実に馬鹿馬鹿しい展開だ。
もっと、もっと早くそれに気付いていればこんな苦しい思いをせずに済んだのに。
でも、もう手遅れなんだ。
限界値はとっくにぶっちぎっていてオーバーフロー寸前まで来ている。
例えるならフリ○ク入れた炭酸飲料並のぶっちぎり。
立っているのも辛い。膝が笑ってしまっている。
そして、不意に膝が折れ、その場に崩れ落ちてしまった。
「ど、どうしたの!?」
「いや参ったね。この宇佐見蓮子ともあろう者がこんな様になるなんてね……本当にごめん」
「やめてよそんな言い方! ただのトイレじゃない!」
自分の発言とメリーの言葉がおかしくてつい笑ってしまう。たかだかトイレだというのにこれだけ大袈裟に表現してしまうのだからどうしようもない。
けど、この破裂寸前のフリス○入りペットボトルが決壊すればある意味で私は終わってしまうのだ。絶体絶命には変わりないし、この危機を抜け出す手段も思いつかない。
もはやここまで。詰んだ、か。
頭の中に様々な思い出が流れては消えていく。なるほど、これが死ぬ間際に見えるっていう走馬灯ね。
尿意の限界でも見えるんだなぁ、これ。
「蓮子、あれ!」
丁度犬に眉毛を描いている思い出が流れたあたりでメリーの叫びが私の意識を現世に引き戻してくれた。
どうしたのだろう、そんなに驚いた表情をして。
「あ、あれは……」
なんとか顔を上げてメリーが指差す先を見て、私は目を疑った。
まさかそんな、これは夢なのだろうか。今、私が最も捜し求めていたものが、そこにある。
「間違いないわ」
おおよそ100メートル先、忘れ去られたように存在するのは小さな公園。そしてその中に、まるで私達を導くかのように外灯によって輝かしく照らし出されるもの。
間違いない、あれこそ文明が生み出した人類の英知の結晶の一つ。
「公衆トイレよ!」
これは歓喜の涙を流しても良いのだろうか。紙様、もとい神様はまだ見捨ててはいなかった! 最後の最後に私に転機が回ってきた! ゴールはすぐ目の前にあったのだ!
もう動かすだけの力も残っていないと思っていた体の奥から熱いものが込み上げてくるのが分かる。まだ、私は動ける。ここで諦める訳には、いかない。
力を振り絞り、笑う膝に鞭打って立ち上がる。
進むんだ、ゴールに向かって。
「無理しないで蓮子、フラフラじゃない」
「手は出さないでメリー。これは、私のけじめなの」
「でもあなたに何かがあったら……!」
「メリー。もし今あなたにできる事があるとしたら、それは見守る事。それだけで充分なのよ。それだけで、私に力を与えてくれるの。だからそこで見ていて。大丈夫、必ずやり遂げてみせるわ」
本心を言えば大丈夫でもない。できるなら手を借りたいぐらいだ。
けど、これ以上メリーに迷惑をかけない為に、ここは一人で乗り切らないといけない。
自分で撒いた種は自分で刈り取る。それでようやく私達は元通りになれる。
「――分かったわ」
暫く俯いていたが、顔を上げると一つ頷いて了承してくれたメリーに対して笑顔とサムズアップで返し、私はトイレへと足を進める。
足が鉛になったかのように重い。一歩足を踏み出す度にお腹に掛かる圧迫感も凄まじい。
だけど、今はそんなものでさえ耐え切れる自信がある。
見守ってくれる人が、信じてくれる人がいるのだから。
相変わらず重い足取りでも、一歩、また一歩と確実に前へと突き進む。
ゴールまで少しだ。
一歩。公園の入り口を抜けた。
一歩。置いてあるシーソーを横切った。
一歩――着いた。
目の前に照らし出されるのはスカートを穿いた女性を連想させる赤いシルエットを高々と掲げた公衆トイレ。
やった、ついにここまで来た!
私は逆境に押し退け、勝利を収めたのだ!
長かったこれまでの道程は、一人では乗り切れなかっただろう。メリーがいたからこそ、私はやり遂げる事ができたんだ。
ありがとうメリー。あなたこと我が人生最高のパートナーよ。
さあここまで来れば勝ったも同然。いざ行かん、ユートピアへ!
現在トイレは工事中です。ご迷惑をお掛けします
え、何この看板?
トイレ使えないの?
あ、やばい、大丈夫だと力抜いたから緩んで一気に……駄目、もれ――
「蓮子! ついにやったのね蓮子! これでもう……蓮子?」
メリーが分身してます
これはひどい
最後のメリーのセリフがステキですねっ。
メリー優しいな天使か
この後のいたたまれない状況を想像するだけで楽しい
人間の体かな?
文とセリフのテンポが良く、漫画の様にスラスラと楽しく読めましたw
…そうか…トイレの神様は紫様とも似ているやもしれないのですね…!
ワーストですよね。
これはひどかった
>スポポ さん
パ ン
>奇声を発する程度の能力 さん
我々の業界ではご褒美です!
>如月日向 さん
乙女だから蓮子は大丈夫だった、そう信じるのです!
>16 さん
一大事の時に使用不可なっている確率が高いというジンクスがこわいです
>17 さん
きっと天使なメリーが優しくしてくれるよ!
>かすろとぷ公 さん
指摘どうも。修正しました
>21 さん
ありがとうございます。
テンポ良く読めたのなら目標どおりにいけたのでしょうか
>25 さん
確かにそっちの方が合っていますね。修正しました
>28 さん
なんとも無駄な緊張感とも言う
s k m d y
何のステージなのかは誰にもわからないといい割れているが、それを解き明かすのが秘封倶楽部の仕事である。
トイレに行きたいのに近くにトイレがないその絶望感、わかるよ(´・ω・`)