■上編
■【完結編】上編
おまたせしました。白蛇の早苗、【完結編】中編です。
以前の話をお読みでない方は、上のリンクの上編よりお読みください。
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口の中が粘っこい。
息を吸えば、漂ってくるのは鉄さびの匂い。‥‥これは、神奈子様の血の匂い。
口の端を拭った白い腕は、絵の具をこすり付けたみたいに、赤茶けた乾いた血がべっとりと付いていて。
白い鱗で覆われた胸やお腹も、ボロボロになった服も同じ。べったりと、血糊がくっついている。
十分スプラッタ。ばっちりホラー。全くもってPG-12。
鏡に自分の顔を映せば、きっとひどいものが見られるだろう。
年頃の女の子が絶対にしちゃいけないお化粧だ。
でも、これの、この神奈子様の血のおかげで、私は私に戻れたのだ。
――――戻れた?いいや、違う。
‥‥少し、"落ち着いた"だけ。
第一、体はまだ蛇のまんまだし!
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「運が良かったですよね、アナタ」
「ひいい‥‥」
「もう食べませんから。安心してください」
洞窟の隅でプルプル震える仔狸に向かって、早苗は呟く。返ってきたのは小さな悲鳴だった。
人間の言葉で喋ったのだが、そのまま通じる上に向こうの言葉まで分かった。
神様っていうのはこういうモノなんだろうか、と早苗はぼんやり思う。‥‥今の自分の周りの状況を見ると、とてもじゃないが「神様」って言う感じじゃぁ、ないけど。
動物の頭蓋骨はあちこちに転がってるわ、口の周りから胸元と腕にかけて血まみれだわ、椛は腹を押さえて倒れてるわ、小傘は涙目で後ろから抱きついてるわ、今自分が手をとって握っている神奈子様は仰向けに倒れて真っ青な顔してウンウンうなってるわで。なんというか、大惨事。仔狸が悲鳴をあげるのもさもありなんである。・・・・あの狐娘は失神していた。ヤワな神使である。
なによりオカシいのは、こんな光景を目の前にして、慣れてるというか、馴染んでしまっているというか、あまり大変だと思っていない自分だ。――――今の私は、神様というよりは、どっちかって言うと、妖怪なんだろうなぁ、と早苗は神奈子の手を握り直しながら思う。
諏訪子に呪いをかけられ、理性がミシャグジに乗っ取られたあの瞬間、早苗は自分の心の中の、どこか芯の部分を喰われたように感じた。自分が自分で無くなって、荒々しい蛇神の意志が、早苗の一番奥に上書きされた、そんな感じだ。
例えば呪いに掛けられる前、早苗はあんなに必死に里の女の子を庇って戦ったのに、今の彼女の胸には、しち面倒臭い事をしたなぁ、という思いがまっさきに湧いてくるのだ。女の子なんか放っておいて、さっさと大技で吹き飛ばしてしまえば楽だったのに、と。
舌の先でなぞる、鋭く伸びた牙。自分の心も、体と同じようにミシャグジになって、こんな感じで牙を生やしてしまったのだろうと早苗は思う。
彼女はその心の牙と身体の牙を神奈子に突き刺し、椛を叩きのめした。小傘を喰らおうとして。
小傘は、あの子狸の代わりに自分の体を早苗に差し出した。あの幼い仔狸を自分に食べさせまいとして。
その、小傘の行動がほんの少しも理解できないと感じていることに、彼女は改めて、変貌した自分の心の姿を突きつけられた気がした。
「馬鹿なことしますよね、まったく」
青白い顔をして呻く神奈子の顔を見ながら、早苗は後ろにいる小傘に話しかけた。
つっけんどんな台詞が真っ先に出てくる。言いたい言葉は、そうじゃないのに。
「ふえ?」
「今の私はミシャグジなんですから。こんな、動物の一匹や二匹、食べたところで別になんとも思いませんよ」
「‥‥そうなの?」
「そうですよ。第一、狸なんか、幻想郷の人間だって普通に食べるじゃないですか。騒ぎすぎですよ」
静かに吐き出される早苗の声。その声は淡々としていて、悲哀などは少しも感じられない。小傘は、ぎゅう、と早苗のうなじに顔を埋め、早苗の分の悲哀を上乗せするように、消え入りそうな声で呟いた
「‥‥私は、早苗にそういう、ひどい事、してほしくないから・・・・」
「ひどい?・・・・どこがひどいんです?肉なんかいっぱい食べてきましたよ。今まで。人間だったときも」
「・・・・早苗は、そのお肉たちと話をしたことある?」
「は?」
「言葉が通じる相手を食べたことある?」
「ないですけど?」
「言葉が通じる相手を食べるのは、心を食べることなの」
「だから、なんだっていうんです」
「‥‥それをするのが、妖怪なの。それをするから、妖怪なの。わたし、早苗さんには、そういうこと、してほしくない。‥‥妖怪には、なってほしくない」
「・・・・妖怪のくせに、ずいぶん人道的なこと言うんですね」
「わたしは付喪神だもん‥‥人の作ったものから生まれた、妖怪だもん。だから‥‥」
「そういうものなんですか」
「‥‥うん」
ず、と鼻を啜る音。小傘は泣いていた。早苗はアナタ本当に妖怪ですか、とぶっきらぼうに言いそうになり、なんとか口をつぐんだ。
――――彼女は今の自分より、よっぽど人間らしい心を持っている。そう感じ、早苗は胸の中で溜息を付く。‥‥神様としてこの洞窟に閉じ込められていた間、赤いものが混じったお供えを食べていたことは、早苗は小傘には言わないことにした。
すすり泣く小傘の小さな声が、うなじから聞こえてくる。早苗はそれを聞きながら、ぼんやりと神奈子の顔を見つめていた。彼女は、あることを思い出そうとしていた。
それは、泣き方。涙が出てこないのだ。理性が戻った瞬間、来るのが遅い!と、神奈子に涙目で文句を言ったあの時のように、涙が出てこないのだ。
‥‥呪いをかけられて、どんどん人でなくなっていった自分。それをなんとも思わずに、ひたすら冷酷にミシャグジとして振舞っていた数日間。それは、人間の、現人神の早苗にとってはとても恐ろしい日々だったはずなのに、ちっともそんな恐ろしさが湧いてこない。
なんとか涙の出し方を思い出そうとして、早苗はぼんやりと前を見つめていた。‥‥洞窟にさわさわと響く風音が、やけに遠い。
そんな早苗に、小傘がゆっくりと話しかけてくる。
「‥‥強いね、早苗は。全然平気な感じ」
「そうでもないですよ」
「‥‥」
「こわかったですよ」
「そう」
「ありがとう、ございました」
「へ?」
「私のために、命張ってくださって‥‥」
「‥‥」
「?」
「むふ」
「なっ」
「むふ、ふふ。へへへ、珍しいもん聞いちゃった。早苗の素直なお礼なんて」
「噛みますよ?」
「へへ、ごめん。‥‥どういたしまして。ちゃんと、椛と神奈子様にも言ってあげてね、それ」
「‥‥もちろん」
すん、と鼻から息を吸う音。早苗に抱きつく小傘の力が、少し増した。
早苗は遠くを見たまま、ぽつりと告白した。
「小傘さん」
「‥‥?」
「大変です」
「なに!?」
「涙が出ません」
「‥‥へ?」
「どうしましょう」
「‥‥大丈夫だよ。泣いてたじゃん。早苗。神奈子様に噛み付きながらさ」
ぎゅう、と優しく早苗を抱きしめ、小傘がなだめる。しかし、そんな小傘に、早苗は吐き出すように台詞をぶつけた。
「あれは空涙ですよ。"鰐の空涙"って聞いたことあるでしょう。獲物を食べながら流す涙ですよ。‥‥本能だったんですよ。あれは」
「え‥‥」
「涙って液体は出ますよ。ほら」
無理やりあくびをして見せる早苗。目を瞬かせると、じわりと涙が出てきた。それを指ですくって小傘に見せる。
「泣けないんですよ。泣きたいのに涙が出てこないんですよ。‥‥もう、私、きっと妖怪なんですね。とっくに体は人間じゃないんだし。小傘さん、神社で私の驚き、食べられなかったでしょ」
「それは、神様になったから‥‥」
「こんな神様が居ますか?血まみれで、蛇のカッコして、巣にドクロちりばめて、毒まで持ってて。まるっきりミシャグジ様ですよ」
「で、でもミシャグジ様は神様なんでしょ?」
「いくらミシャグジ様だって‥‥信じる人が居なきゃ只の妖怪なんですよ。わかりますよね?小傘さんなら」
――神と妖怪は同じ――白蓮の説教は、少しではあるが早苗の心情にも影響を与えていたようだ。
とんでもない話だと、早苗は白蓮に言われたときにはそう感じたのだが、今、この体になって分かった。
信仰も得られない、荒神は、ただの乱暴な妖怪と同じなのだ。
「ちがうよ‥‥!」
「違いませんよ」
吐き捨てるように言って、早苗はうつむく。
「たとえ、姿が人間に戻ったとしても、私はもう、人間じゃないんです。それは仮の姿なんです」
「早苗‥‥」
「私は、妖怪になっちゃったんです。私の居場所は、あの神社じゃない。ここになったんです。蛇は蛇らしく穴の中にいるべきなんですよ!」
早苗は自暴自棄になっていた。もう自分は人間じゃない、そう無理やり思い込むことにして、強がって。それを涙が出てこないことへの言い訳にしていた。
――――妖怪になったことを受け入れてしまえば、涙が出ないことなんか、気にならない。だって当然のことだし。妖怪として。‥‥と。
早苗が噛み締めた唇の端からは、牙が覗いていた。小傘が、何を言えばいいのか戸惑う気配が彼女の背中越しに伝わってくる。早苗は何も言わずに、神奈子の顔をぼんやりと眺めていた。
「‥‥じゃ、早苗は神様だ」
「!?」
見つめていた神奈子の紫色の唇が蠢き、小さな声を出した。
予期せぬ神奈子の言葉に、早苗は丸く目を見開く。
「なんで‥‥!」
「‥‥あんたを、信じている人は、ちゃぁんと、いるから」
「適当なこと言わないで下さい!どこに、そんな人が!」
「‥‥可哀想なこと言わないでやっておくれよ。な、小傘、椛」
「うん」
「‥‥そうですね」
「んなっ!」
頭の後ろから小傘が元気に答え、ようやく回復してきたのか、ゆっくり顔を上げながら椛が笑って答えた。
戸惑う早苗の後ろ頭を、いたずらっ子っぽい無邪気な笑みを浮かべて、小傘がぽふぽふと優しく叩く。
「早苗は神様だよ。信じる人がいない?なら私が信じてあげるよ。それで早苗の巫女になってあげる。神様には巫女が必要でしょ。ほら、ちゃんと、巫女の格好だってしてるよ」
そう言うと、小傘は、自分が着ている風祝衣裳を、袖を広げて見せた。
振り向きながらその恰好を見た早苗は顔を真っ赤にしながら、シャー、とあわてた声を出す。
「そっ、それは只のコスプレでしょう!なに、勝手なことを‥‥
それに、大体なんで、小傘さんがうちの風祝の恰好なんかしてるんですか!」
「早苗が居なかったから、代わりにオミクジ売ったり、掃除したりしてたの」
「んなぁ?」
「と、言うわけで、わちきは巫女です。ね」
「私は、狛犬かなぁ。あの娘とセットで、早苗さんの神使」
「!?」
まだ失神している狐娘を苦笑しながら見やり、椛も同調する。
「ちょっと、椛さんまで‥‥!」
「嫌ですか?早苗さんは」
「い、嫌とか、嫌じゃないとか、そっ、そういうことじゃなくて‥‥!」
「ここにいるなんて言わないで、帰りましょう。ね?‥‥またいつかみたいに九天の滝でお酒飲みましょうよ。朝日見ながら。神様がお酒飲みに来るんだったらおおっぴらに接待できますし。うふ」
「呑んべだねえ、椛は」
「うふふ」
「ちょ、椛さん?小傘さん?」
「ねえ、早苗」
「な、なんですか、神奈子様‥‥」
「・・・・この子たち、死にそうな目に遭ってまで、早苗のところまで来てくれたんだよ。あんたを、もとに戻そうと、一生懸命さ。でしょ?あんたたち」
「うん」
「ええ」
「早苗も分かってるでしょ?」
「いや、そ、そう、そうですけど!」
「照れくさいんですね、早苗さんは」
「椛さん?」
「"そらっぺ"言うな、でしたっけ、神奈子様。諏訪弁」
「天邪鬼だもんなぁ、早苗は」
「みんな、ちょっと、勝手なこと言わないで下さい!」
牙を剥いて、汗を流しながら慌てる早苗を、三人は優しく笑いながら見つめる。
ゆっくりと、神奈子は上体を起こす。自然と、早苗の手は神奈子の背中を支えた。
「だいぶ、回復してきたわ‥‥よ、っと。‥‥私は、早苗の信者一号だしね」
「か、神奈子様っ!?」
蛇神姿の早苗を、とろけた目で熱く見つめていた神奈子の様子が早苗の頭によぎる。
そういう意味か?と一瞬だけ早苗は勘ぐった。が。
「‥‥私は、あんたの"母親"なんだから」
「‥‥‥!」
肩周りにべっとりと血をつけた壮絶な姿のまま、神奈子は優しく笑う。伸ばした腕を早苗の髪にかけ、優しく彼女の白い髪を梳いた。
「でも、ごめん。失格だよね。親なんて。こんな、怖い目に合わせちゃって」
「かな、こ、さま」
「もっと早く、助けに来てあげなきゃいけなかったのに。こんな、姿になるまでほっといて‥‥!」
神奈子の目にじわりと涙が浮かぶ。見たこともない神奈子の表情に早苗は慌てた。
「これは、神奈子様のせいじゃ」
「私、神様の試練だとか、過保護すぎるとか、バカみたいなことばっかり言って、私、あんたを、助けに行かなくて‥‥こんな、ひどい目に合わせて‥‥!ごめんね、ほんとにごめんね‥‥!」
「もう、もういいですから!泣かないで下さいっ!神奈子様は神様でしょ!」
「ごめん、ごめん‥‥!」
「ああもう!」
ぎゅう、と、今度は早苗が神奈子を抱く番だった。
「ああ、ああもう!ほんとに!心配性なんだから、神奈子様は!命蓮寺の時だって、諏訪子様が緋想天則作ったときだって、わたわた慌てて!もう、私は一人で大丈夫なんですから!こんな、姿が変わるくらい、そのくらいのことなんか!――――幻想郷に来たときに、そのくらいの覚悟は出来てるんですから!泣かないで下さい!泣くなっ!」
「やっぱり天邪鬼だ。早苗」
「むうっ!」
「来るのが遅いって言ってたのに」
小傘が、背後からニヤニヤと笑いながら早苗に語りかける。
「神奈子様、今回はね、早苗なら大丈夫だって、心配しながらすごい我慢して待ってたんだよ。早苗を信じて。早苗なら大丈夫だからって。そりゃもう必死に。最後の最後でわちきが煽っちゃったけど」
「うん。何時戻ってきてもいいように、毎日早苗さんの分のごはんを作ってさ」
おこぼれをご馳走になっちゃった、と笑いながら椛も援護射撃をする。ぐじゅぐじゅと泣きじゃくる神奈子を胸に抱いて、早苗は頭を振った。
「もう‥‥!別に、私は‥‥良いんですってば、もう!」
「早苗?」
「何ですかっ!」
「自棄になっちゃ、ダメ」
じとりと、早苗の背中から小傘が重い声色を出す。
「素直になりなって」
「‥‥!」
「ね」
早苗が振り返った先で、小傘の表情が、ふっとゆるんだ。
その表情のゆるみに合わせて、早苗の心のつっかい棒が外されたかのように、暖かい物が胸の中に広がっていく。
いつもの、子供っぽくて気まぐれな化け傘はそこには居なかった。妹や子供を心配するような、落ち着いた年上の女性が居た。外見は、少女のままだったが。
その表情に、早苗はなぜかドギマギして顔が赤くなるのを感じた。
「‥‥ず、ずるいですよ。こんな時にかぎって、年上なんですから」
「ぬふふ。オバケは化けてこそだよ、早苗。‥‥さ、何を言えばいいか、わかるね?」
さぁ、と促され、早苗は渋々と神奈子の方を向く。
神奈子の泣き顔を見たとたん、ぐ、と喉の奥から変な声が出た。――――わかる、わけ、ないじゃないですか。何を言えば良いか、なんて‥‥
まごつく早苗をよそに、神奈子は早苗の頬をなでながら、先に話し始めた。
「ああ、早苗に、持ってきたものがあるんだ‥‥」
「え?」
「小傘、あの風呂敷包み、あるかい?」
「はいはい」
明るく返事をすると、小傘は背負っていた小さな風呂敷包みを首から外し、神奈子に手渡す。
神奈子の手の中で、紫色の包みが解かれてゆく。中にあったのは、竹皮の包み。
「おなか、空いてないかと思って、作ってきたんだけどね‥‥」
「――――!」
「あ、おにぎりだったんだ」
小さな蛇の姿でここまで来るために、この荷物は小傘に預けたのだろう。化け熊との戦いの最中、何度も小傘と一緒にもみくちゃにされたはずの風呂敷包みだったが、神奈子が掛けた加護のおかげで、中身は無事だった。
開かれた竹皮の中にあったのは、真っ白い塩むすびが3個。端には飴色の大根の味噌漬けがやっぱり3切れ。
ここ数日、獣の匂いと血の匂いしか嗅いでいなかった早苗の鼻腔に、あまい米と味噌の匂いが吸い込まれていく。
「たべな?」
「‥‥‥‥」
早苗は戸惑っていた。
――――自分はもうミシャグジなのだ。妖怪なのだ。だから、こんな人間の食べ物なんか、食べたいはずがないのだ。
なのに。
「ほら」
――――なんで、おにぎりに私は、手を伸ばしてるんだろう。
いったん伸ばした手は止まらなかった。一つを鷲掴みにして、一気にほおばる。鼻を抜ける、やさしい米の匂い。――小さいころから、いつも食べていた、懐かしい匂い。
「‥‥う」
「早苗‥‥」
「か、かなこ、さま‥‥――――!?」
神奈子と目があった瞬間、信じられないことに、視界が、歪んだ。
「うう‥‥!」
そして、それをきっかけに、胸の奥から堰を切ったように言葉が湧いてきた。
「‥‥こ、‥‥こわ、かったんですから‥‥怖かった‥‥わたし、わたしが‥‥私じゃなくなって‥‥!」
「早苗‥‥!」
「こわがった、こわがったぁ‥‥うう、うううう!」」
「ごめん、頑張った、頑張ったよ。早苗。ほら‥‥」
「わああああ!」
早苗の嗚咽が洞窟に響く。神奈子は、優しく早苗を抱きしめながら、一緒に泣いた。
――――ああ、なんだ。涙、出るじゃん――――
ぼふぼふと、神奈子の肩をたたきながら、早苗は泣いた。
強がっていたのだ。泣けないのではく、泣かないように我慢していただけだ。
それは、今回のこの騒動に限ったことではなくて。
現世を捨てて、幻想郷に来て。必死に信仰を集めようとした。必死に幻想郷の人妖に負けないように頑張った。神奈子や諏訪子に心配を掛けさせまいと、独り立ちできるように必死になった。異変の解決に乗り出して、妖怪退治もやった。―――そして、絶対に、泣いたりなんかしなかった。ともすれば高飛車ともとられないような早苗の不敵な態度は、必死さの裏返し。そして、幻想郷に来た時からずっと必死になっていた間、色んなものが、ダムの水のように早苗の心に溜まっていたのだ。
今、ダムは壊された。溢れ出したものは、怒涛となって流れだし、涙腺に蓋をしていたミシャグジを押しのけた。
「わあああああ!」
――――鼻にツンと来る涙の匂いはすごく久しぶりに嗅ぐ匂いで。そして、それはすごく暖かくて心地の良いもので。
神奈子の胸に顔をうずめて、早苗はひたすら、泣いた。
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「すっきりしました?」
「もふ‥‥」
あぐらを組んだ足の中に仔狸を置いて、やさしく撫でながら聞く椛に、早苗は泣き腫らした目をして答えた。おにぎりをほおばりながら。
神奈子のおにぎりで文字通り“人心地”ついた早苗は、ほっぺたに米粒を付けたまま、神奈子に気になっていたことを尋ねた。
「‥‥神奈子様、今日って、私が蛇になってから何日目ですか?」
「6日目だよ」
「最初の日の真夜中に私は呪いをかけられたんだから‥‥今日でだいたい5日目ですか。残りはあと2日、ああ、よかった。ギリギリ」
「‥‥早苗、呪いの期限知ってるのか」
「ええ。諏訪子様に得意げに言われましたからね」
「な、何の話なの?」
「諏訪子が早苗に呪いをかけたんだよ。人に戻れなくなる呪いを」
「え゛えっ」
「そんな!?」
その言葉に小傘と椛が仰天する。
「アイツ、呪いの期限は一週間で今日明日だって言ってたんだが‥‥計算が合わないな。アイツの勘違いなのか」
「大丈夫。明後日までです。安心してください」
「ほ、ホントに大丈夫なんですか、それ」
「大丈夫ですよ。きっと‥‥ほふ。‥‥えふっ!」
「ほら、お水飲みな‥‥で、これからの話なんだけどね」
おにぎりをほおばりすぎてむせた早苗に「お天水の奇跡」で作った水を差しだしながら、神奈子が話を切り出した。
洞穴の中では、全員が膝を突き合わせて車座になっていた。早苗はそんな全員をぐるりと囲んでいる。ちなみにあの狐娘もヒト型のまま正座して参加していた。
彼女はここで見たことを長老たちに知らせようと、気が付いた瞬間逃げ出したのだが、回復した椛にあっけなく組み伏せられた上、「逃げたらお前を取って食う」と凄まれ、涙目で椛と早苗の間に座らされていた。
せっかくゆっくり話ができる環境にいるのだ。これからのことを相談するのにはぴったりな時間である。大騒ぎはされたくない。生け贄としてささげられた子狸の扱いをどうするのかということもある。生け贄としてささげられたのに何もせずに返してしまったら、愚直なまでにミシャグジ様を畏れ、私刑にかけてまで子狸を生け贄に仕立て上げる彼らのことである。何をしでかすかわからない。「生け贄の役を果たさずのこのこと戻ってきた」とまたこの子狸を嬲るかもしれない。
狐娘は子狸が生け贄にされず、素直に安心していたようで、すっかりいつもの調子に戻っていた。さっきまでは無感情に淡々と、神使として生け贄の用意をしていた彼女なのだが、本当はこの子狸の兄に「自分が身代わりになるから妹を連れて逃げろ」とまで言った優しい娘なのだ。ほっとした後の落差は激しかった。
「‥‥ああ、あたし、すごい不幸っ、ミシャグジ様はおっかないし神使の役目も怖い狼に取られちゃうし、ああもうあたしだめ。まともに神使の役目もできない狐なんか、きっと皮剥かれて千切られて、ミシャグジ様とか狼どものお腹の中なんだ。う、うえええっ、むぴょっ!?」
「御嬢さん‥‥いいから少し静かにしてくれないかなぁ?別にね、命まで取ろうって言ってるんじゃないんだから」
いつもの暴走モードに入りかけた狐娘の後ろ頭をはたき、あくまでも穏やかに、椛が笑顔で彼女をたしなめる。‥‥目を大きく開いたまま。その恐ろしい表情を見て狐娘は小さく悲鳴をあげる。
「絶対嘘だ、絶対嘘だ、さっき取って食うって言ってた‥‥」とぶつぶつ言いながらも静かになった狐娘を、よしよしと撫でる椛。そのやり取りは早苗にとってはミシャグジの時に椛達を脅していた自分の姿を見ているようで妙に恥ずかしく、早苗は目線をそらしておにぎりをほおばる作業に戻った。
狐娘と椛のやりとりに話を中断させられた神奈子に、小傘が首をかしげて尋ねる。
「これからの話って、早苗さんを元に戻す話ですよね」
「そう」
「早苗を諏訪子様のもとに連れて行って、早苗を一時的に諏訪子様の眷属にしたうえで、ミシャグジ様に早苗から離れるように命令してもらうっていうのが、ただ一つの方法なんでしたっけ」
「うん」
小傘と神奈子の問答を聞いていた椛が、しかめ面をしながら、口を開いた。
「‥‥諏訪子様が、それをやるんですよね」
「そうだが」
「正直、今のあの方がすんなりとこの話を受けてくれるとは思いませんが」
文とはたてを引きつれ、自分を襲った諏訪子を思い出し、椛は口をとがらせる。
「そうですよ。早苗さんに襲い掛かってくるんじゃないんですか?早苗さんと遊びたがってるって、さっき神奈子様言ってましたよね」
「そうなんだよねぇ‥‥」
椛に同調し、小傘も神奈子に意見する。神奈子はポリポリと頭をかいた。
「アイツはいま、ミシャグジの匂いに当てられて、大昔の祟り神全盛のころの状態に戻ってしまってるんだ。正直、まともに話が通じるとは思えない。あんたたちの言うとおり、早苗が会いに行ったら襲い掛かってくるだろうね」
「むー」
困った顔をする神奈子。椛がうなる。
「じゃあ、無理やり力づくでいうことを聞かせますか‥‥」
「ねえ椛、あなたもなんだか早苗の匂いに当てられてない?なんかさっきから過激だよ」
「がるる」
「力づくね。難しいよ、きっと。‥‥私なら、アイツをねじ伏せることもできるかもしれない。でも‥‥そうなったらきっとただじゃすまない。私は幻想郷で第二次諏訪大戦なんて、したくない」
「大戦って、そんな大げさな」
「そこをなんとか‥‥」
「‥‥たぶん、妖怪の山無くなるけど、いいのかい」
その言葉に椛と小傘が青ざめる。‥‥今の諏訪子は、神奈子が力をセーブして戦える相手ではないということだ。子狸と狐娘だけが、きょとんとしていた。
「じゃあ、どうすれば‥‥」
「どうするもこうするも無いんじゃないですか?」
つぶやく小傘の向こう側で、それまで黙っていた早苗が、ゆっくり口を開いた。
「私がしなければいけないことはもう決まっているんですよね、神奈子様」
「‥‥」
穏やかに話しかける早苗。神奈子は下を向いた。
椛と小傘が二人の顔を交互に見る。
「早苗さん?」
「今の私はミシャグジです」
べろり、と、長い舌を伸ばして早苗は口の周りについた米をぬぐう。
「そして、風祝でもある」
きょとんとしている椛ら一同をよそに、早苗は神妙な顔をしている神奈子に語り続ける。
「荒ぶる諏訪子様を鎮めるのは風祝である私の役目です。そして荒ぶる神様を鎮めるためには、必要なものがあります」
「!」
――荒ぶる神様を鎮めるために必要なもの――その言葉の意味する物を察し、小傘と椛、狐娘がはっと顔を上げ、椛の足の中の子狸を見る。当の子狸は状況が分からず目をぱちくりさせていた。
「私が、諏訪子様と戦って、負けること」
神奈子はずっと下を向いていた。早苗は話し続ける。
「荒ぶる洩矢の神様をなだめる、生け贄役。ミシャグジを降ろした一年神主。その役を私がしなければ、諏訪子様も、私も元に戻らない。そうですよね」
「‥‥」
「え、え?」
「ちょ、ちょっと待ってください、早苗さん!」
「え、ミシャグジ様が、生け贄って、え?」
はっきりと早苗の口から出た「生け贄」という言葉に神奈子以外の三人があわてる。早苗は片眉をあげて不思議そうな顔をした。
「何かおかしいですか?当初の予定通りですよ。諏訪子様のところに行って、眷属にされるって、こういうことですからね」
「いや、それはっ」
「もうちょっと、こう、穏やかにできないの?」
「無理でしょう。本気で来ないと八つ裂きにするって言われましたし」
『なっ!?』
――――ただし、今日みたいに腰砕けな態度で来てみな。そしたらその場で八つ裂きにしてやるよ。いいか!――――
諏訪子に呪いをかけられたあの日、彼女から言われた言葉が早苗の頭に浮かぶ。早苗をミシャグジにしてまで本気の神遊びをしたい諏訪子。今の彼女なら、躊躇なく神遊びを邪魔する者を手にかける。神奈子を生き埋めにしたように。そんな彼女の目の前に、主役である早苗が「元に戻してください」などと気弱な台詞を言いながら現れたらどうなるか。諏訪子にとって、最悪の興ざめなパターンだろう。そんなことをされたら、彼女は‥‥
その時の光景を想像し、一同は黙り込んだ。
しばしの沈黙ののち、一番に口を開いたのは椛だった。腕組みをしたまま、口をとがらせ、不機嫌な声を出す。
「‥‥な、なんか、納得いきませんよ!早苗さん、これでいいんですか?このままじゃ、早苗さんはただ諏訪子様に良いようにされてるだけじゃないですか!ただ元の姿に戻るためだけなのに、なんでそんな生け贄役しなきゃならないんですか!?」
「私が風祝だからです」
「ですから‥‥!」
「今の諏訪子様を鎮められるのはミシャグジである私だけですし」
「でも!」
「椛さん。今の私からこの風祝の役目をとったら、本当に私はただのミシャグジになっちゃうんですよ」
「それ、は‥‥」
「お願いです。私に、現人神でいさせてください。‥‥せめて、形だけでも」
「‥‥」
諏訪子を鎮める風祝の役目がなければ、今の自分の身も心も存在も、本当にただの蛇になってしまう。早苗はそう言っているのだ。
言い返せずどもる椛。小傘はギュッとこぶしを握って俯いていた。
「いいですよね、神奈子様。やらせてください。そもそもほかに方法はないんでしょう?」
「‥‥正直、危ないよ。一歩間違えば、殺されるかもしれないんだよ。その覚悟はあるかい」
まっすぐに早苗の目を見つめながら、神奈子が口を開く。
しかし早苗は平然とした顔で言い放つ。
「死にませんよ。殺されませんよ」
「‥‥」
「そこは奇跡を喚びますから。というか、諏訪子様の目的は私、ミシャグジを眷属にすることなんですから。殺しちゃったら元も子もないんですよ。殺されることは、ありえません」
「早苗さん‥‥」
椛の心配そうな声が掛けられるが、早苗はニヤリと笑うだけ。小傘も眉毛を八の字にして心配そうな声を出す。
「早苗、大丈夫?無理してない?さっきみたいに強がってない?」
「いいえ。むしろなんだかわくわくしてるんですよ。困ったことに」
「わくわくしてるの?」
「ええ。諏訪子様とケンカするのがなんだかすごい楽しみで‥‥あっ」
ぼだぼだぼだっ!
「わあっ!」
「す、すいません、ああ、よだれ止まんない‥‥」
うっかり、ミシャグジの時に何度も思い浮かべていた諏訪子を食べる光景を思い出してしまい、たぱぁ、と大量の涎を垂らす早苗。
涙を流し、人間らしい表情をとって思考は冷静なように見えても、彼女のミシャグジ化が全く解消されたわけではないのである。
その様子を見て引くわけでもなく、むしろ余計に心配そうな切ない表情を浮かべる一同。早苗はごしごしと手の甲で口を拭き、澄ました顔で彼女たちに向かい座りなおした。
「生け贄というのが嫌なら、言い方を変えましょう。私は神楽をしにいくんです。これは神楽なんです」
「神楽?」
「そうです椛さん。これは神楽なんです。大昔の、洩矢の神遊びの再現なんですから。主役は諏訪子様。洩矢の王国をまとめる神様。対する敵役の化け物蛇、荒ぶるミシャグジ様は、私です」
「いや、早苗さん‥‥」
「言ってしまえば、これはお芝居なんですよ。筋書きはもう決まっているんですから。恐ろしいミシャグジ様と、洩矢の神様の一騎打ち。激しいバトルの末に、ミシャグジ様は諏訪子様の足元に跪き、諏訪子様はミシャグジ様を眷属とし、王国に安寧と繁栄をもたらすんです」
「‥‥」
「プラス恐怖を」
皆、下を向いていた。ニヤニヤと、不敵な笑みを浮かべながら舌なめずりをする早苗以外は。
早苗を元に戻すためには、もうこの方法しかない。それは皆理解した。
でも、一歩間違えば荒神と化した諏訪子に殺されるかもしれない。そんな危険な方法しかないなんて、簡単には納得できなかったのだ。
しばらくの沈黙の後、最初に顔を上げたのは神奈子だった。
「‥‥わかった。やりな」
「神奈子様‥‥」
「早苗は覚悟を決めたんだろ」
神奈子はそう言うと、ぱん、と両手で胡坐をかいた両膝を叩く。
「私も覚悟を決めた」
ニヤリと笑い、神奈子は早苗を見る。白蛇は同じく不敵な笑みを返した。もう、おどおどおろおろする頼りない神様はそこに居なかった。
「ぶっとばしてきな、諏訪子を。合法的に憂さ晴らししてきな」
「はい!」
「‥‥わちきも手伝うよ」
同じようにニヤリと笑うと、小傘は三つ指をついて、大げさに早苗に向かって頭を下げる。
「私は、早苗様の巫女でございますので。神様のサポートも、巫女の役目でございますから。ふふ」
「うふ」
「ふっふっふ」
笑いあう早苗と小傘を交互に見つめ、椛はやれやれと頭を振った。
「‥‥巫女さんまでそういうなら、狛犬が出ないなんて許されないじゃないですか」
「お、ついに椛さんもその気になってくれましたか」
早苗の嬉しそうな声に、ぴんと立った白い耳がくりっと早苗のほうを向いた。
「まあ、ね。早苗さんなら、きっと大丈夫ですから。派手な神楽をしに行きましょう。それに、一度あの方には私も噛みついてやらなきゃ気がすみませんから」
簀巻きにされた恨みを晴らさなきゃなりませんからね、と椛もにやりと笑う。
白蛇につられ、ニヤニヤと笑う一同。ただ一人、ついていけない狐娘は、青白い顔をしてぷるぷる震えていた。
「ど、どどどどうしよう。ってか、何この人たち?怖い、怖いって。なに?狼さんまでスワコ様と喧嘩しに行くの?じゃじゃあ同じ神使のわ、わたしもケンカしに行かなきゃいけないわけ?むり、ムリムリムリ絶対無理!みんな神様にお化けに天狗なのに、私はただのしがない狐なんだよ?殺される、死ぬ、絶対死ぬって。うう、ううう。それに、ミシャグジ様、この森から出てっちゃうってことでしょ?そしたら私用済みだよ。ミシャグジ様を逃がした使えない神使だって言われるって。うう、きっと殺される。さもなきゃ、森から追い出されるって。いやぁ、そんなのいやぁ」
「大丈夫。お前には、まだ仕事があるよ」
神奈子が、震える狐娘の肩をぽんと叩く。
「山の神様‥‥?」と恐る恐る彼女の顔を見上げた狐娘の頭に、神奈子はそっと手を置いて、くりくりと撫でた。
「早苗、いや、ミシャグジ様がここから離れても、神気は残る。お前はその神気をしっかりと祀らねばならないんだ」
「‥‥」
「神気はいずれ、分霊となる。早苗を勧請したんだろ?この洞穴に。もう神気はこの洞穴に宿った。たとえここにいる早苗‥‥ミシャグジ様が去ってもね。お前はミシャグジ様の神使として、しっかりとそのミシャグジ様の分霊をお祀りするんだ。いいね?」
「‥‥は、はい」
「ご利益はすごいよ。あの化け熊をあっさり倒す強いミシャグジ様だ。恐ろしい妖怪も、人間の猟師だって怖がって近づかないよ、きっと」
「ほ、ほんとですか」
「ああ。保障する」
「はい‥‥!」
目を輝かす狐娘に、穏やかな笑みを向ける神奈子。その横で早苗は微妙な顔をしていた。
「‥‥それって、ただ単に私の匂いが残ってるってことじゃあ」
「そういうもんじゃないんですか?」
「うーん‥‥なんかこう、野生動物みたいな。マーキングっていうか。縄張り広げてるみたいで」
「分かりやすくていいでしょう」
「だね。椛にはしっくり来るよね」
「ねえ、小傘?それどういう意味です?」
「ご、ごめん。失言」
ギロリと椛ににらまれて、小傘は慌てて眼をそらす。その様子を見て苦笑しながら、早苗は椛の足の中の子狸に視線を移した。
「で、この子なんですけど、どうしましょうか」
「ああ、そうだ」
椛は相変わらずきょとんとしたままの子狸を優しく抱き上げる。いまいち状況がつかめていない様子で、狸はぴすぴすと鼻を鳴らした。
早苗は、貸してください、と椛の手から子狸を受け取る。
狸は一瞬びくりと手足をこわばらせたが、意外と肝が据わっているようで、血まみれのままの早苗の顔を今度は震えもせずにくりくりとした目で覗き込んだ。
「怖い思いをさせちゃって、ごめんなさい。あなたはもう、生け贄ではなくなりました」
「え‥‥?」
「貴女は、立派に私の生け贄の役を果たしました。そして生まれ変わったのです。儀式は終わりました。ミシャグジの加護は、あなたをきっと、一生守りますよ」
「は‥‥はい」
打って変わって優しくなったミシャグジ様に、子狸の女の子はとまどう様子で首をかしげる。
‥‥生け贄の役から逃げ出さないように、狸たちはこの子を私刑にかけた。私の生け贄にするために。‥‥私はこんな子を生け贄として選んで、しかも仲間からいたぶられるような怖い目に会わせてしまった。
早苗の胸に罪悪感が湧く。
「怪我はないですか?どこか痛いところはあります?」
「い、いいえ」
「よかった」
――――せめて、この子には、神様として、ミシャグジとして、飛び切りの加護を授けてあげなくては。
「‥‥みんなにも、釘を刺さないとだめですね」
「?」
「神奈子様。ちょっと、行ってきます」
「‥‥ああ、行っておいで」
「狐さん。貴女も来てください。‥‥あ、あと椛さんも」
「はい?」
「は、へ?」
早苗のしようとしていることを察し、神奈子は立ち上がって早苗の前から退く。
早苗は子狸を抱いて、洞穴の外へと進んでいく。椛がそれに続き、あわてて狐娘もその後を追った。
小傘は早苗が何をしようとしているのか今一分からず、小さく首をかしげた。
「早苗、あの子どうする気なんでしょう」
「えこひいきするのさ」
「え?」
定番だよ、と神奈子は口元を小さくゆるめた。
**************
「ほらあ!静かにしな!あんたたち!」
中でいろいろ泣いたり落ち着いたりしている間に、外はもう明るくなり始めていた。
白み始めた空の下、洞穴の外で「儀式」の終わりを今か今かと待っていた動物たちを、早苗が白い髪をなびかせながらぐるりと見わたし、吠えていた。
早苗としての理性が戻った後だったが、ミシャグジ様としての喋り方は忘れていなかった。忘れていないどころか、すらすらと乱暴なミシャグジ様の口調で喋れた。あの沼での戦いのときに、里の女の子に向かって「わらわ」と言っていた時よりもすんなりと言葉が出てくる。
‥‥おまけに、この乱暴な口調で喋っているとなんだか楽しい。
(あははは‥‥やばいなぁ、これは。元に戻った後でもクセになっちゃったらどうしよう、これ)
本格的にミシャグジになりつつある自分を改めて認識しつつ、早苗は楽しさに負けてニヤけそうになるほっぺたを抑える。そしてあの無愛想で不機嫌そうな、「いつものミシャグジ様」の表情をなんとか保ちつつ、早苗は両手で子狸を持ち、広場に集まった動物たちに掲げて見せた。
べったりと血にまみれた早苗の腕に掲げられ、無傷で戻ってきた彼女の姿に、半獣姿のままの動物達の間にどよめきが広がった。
特に狸たちは顔を真っ青にしていた。怖れを含んだささやきが、彼らの間から漏れてくる。――――あの血は、いったい誰の?あの子ではないとしたら、神使殿のか?いや、神使殿は無事だぞ。隣に立ってる――――どういうことだ、あの子では不満だったということか?――――そんな、これ以上どうしろっていうのよ!――――ミシャグジ様の不興を買ってしまった!おしまいだ――――
ざわざわと彼らの間に動揺が広がっていくのを見て、早苗はやっぱりどうするか考えておいてよかった、とため息をついた。
「静かにしなさい!狸ども!‥‥ったく。あんた達の覚悟は見せてもらったよ。あたしのために、こんな小さな子をちゃんと持ってきたんだからね。‥‥安心しなさい。あたしは満足したから。あんた達が口先だけじゃないってこと、確かめたかったのよ」
ギロリと広場を見わたして一同を黙らせ、早苗はゆっくりと子狸を地面に降ろす。途端、狸の青年が動物達をかき分けて駆け出してきた。
彼はこけつまろびつ必死に子狸に駆け寄ると、降ろされた彼女をすぐさま抱き上げ、きつく抱きしめた。
「ああ、あああ!よかった、よかった‥‥!」
「‥‥おにい、ちゃん?」
見慣れない半獣姿の兄の姿に子狸は相手が誰か分からず一瞬戸惑ったが、彼の匂いが嗅ぎなれた兄のものだとわかると、安心して目を閉じ、鼻を彼の胸に押し付けた。
「‥‥あんた達もひどい目に会わせたね。ごめん」
「な、何を言われるんです!」
そういって頭を下げようとした早苗を、狸の青年はあわてて静止した。その様子を見て、早苗は自分がしようとした事に気が付き、頭を止めた。
‥‥彼らにとって、早苗は恐ろしい森の守り神様でなくてはならないのだ。だからこそ早苗はこの森の動物たちに呼ばれたのだ。洞穴に入ったと思ったら一瞬にして別人のように温厚になっていたとあっては、早苗が、ミシャグジ様が守り神様である理由が無くなってしまう。
一言、ぶっきらぼうに「ごめん」ということが、「恐ろしい森の守り神」である早苗が兄妹に掛けられる精一杯の謝罪だった。‥‥キャラクター性まで考えなくちゃいけないなんて、ああ、神様ってのも面倒くさいものだなぁ、と早苗は唇を噛むと、狸の青年、そしてその向こうにいる動物達に話しかけた。
「この子は生まれ変わったの。私はこの子を食べて、新しく力を与えて生まれ変わらせた。この先、この子には一生、ミシャグジの加護がある。この子に仇なす者はたとえ同族であろうとミシャグジの呪いが降りかかるよ。覚えておきなさい!」
「ああ、あああ!ありがとうございます、ありがとうございます!」
「‥‥へ?あたし‥‥」
「そーいうことにしておきなさい。ね」
食べられてないよ?と戸惑いながら早苗を見上げる子狸に小さく微笑むと、早苗は彼女の頭に手を置いた。この子に、ミシャグジ様として加護を授けるために。
目を閉じて手のひらに力を集めるように、集中する。他人に加護を与えるのは初めてのことだったが、なんとなくどうすればいいか、早苗には分かった。
「くう‥‥?」
弱い電気のような感触が鼻先に生まれ、子狸はくすぐったいような感覚に、小さな可愛い声を出した。早苗の手のひらサイズの小さなつむじ風が子狸の額の上で渦を巻く。つむじ風は早苗の霊気を受けて渦巻きの形でぼんやりと光っていた。まるで小さな光の蛇のようなつむじ風は、やがてその体を伸ばし子狸の体に巻きつく。
「ひゃあ‥‥」
先ほどにも増してこそばゆい感覚に、子狸はふるふると身震いをする。蛇の端っこは、いまだに泣きながら彼女を抱きしめる兄の体にも掛かった。彼は、妹を抱きしめていて気が付いていない様子だったが。
「ふんっ!」
「ふえ‥‥」
最後にひときわ強く光ると、風の蛇は溶けるように消えていった。
早苗は少し疲れた様子で手首や肩を鳴らし、ぶっきらぼうに兄妹に話しかけた。
「はい、これでいいわ。ついでにおまけ。あんたにも、加護つけてあげたから。いいお嫁さん見つかるといいね。そういうお願いしてたよね。こないだ」
「は、ああ!ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
「ありがとうございます!ミシャグジ様!」
ふん、と鼻を鳴らしながら笑う早苗に、狸の兄妹はひたすら頭を下げる。
その様子を見て、深い安堵のため息をつく狐娘。手を合わせる森の動物達。
(‥‥ああ、早苗さん。神様だなぁ、ほんとに)
椛もまた、そんな彼らと早苗を見て、微笑む。――――よかった。残酷なだけの神様にならなくて。ねえ、早苗さん――――と。
「ああああ、お姉様‥‥御無事で何よりです‥‥!」
(うっ)
そんな椛を見てまた安心する者もいるわけで。あの狼娘は、洞穴に連れ込まれた「お姉様」が無事な姿で出てきたことに、尻尾をぶんぶん振って喜んでいた。
狼たちは早苗と合わせて椛まで信仰の対象にしてしまったようで、時折彼らの間から「天狗様‥‥」とか「椛様‥‥」とかいうつぶやきが聞こえてくる。
(こ、これはこそばゆいっ‥‥!)
椛の顔が一瞬で真っ赤になった。
天狗も一部地域では信仰の対象であるし、狼はその昔「大神」と呼ばれてやっぱり信仰の対象だったのだから、椛も何度か自分たちに向けられたお祈りやお供えを見聞きしたことはある。その時は自分たちの仲間全体が対象だったので別に何とも思わなかった。しかし今回は「椛」個人が彼ら狼達の信仰の対象になっているのだ。これは椛にとって未知の体験だった。
さっき「私たちは早苗さんを信じてるから」と椛達に言われ、顔を真っ赤にして慌てていた早苗の姿がよぎる。あんな表情になるのもしょうがないかなぁ、これは。と椛は頬をひくつかせながら、一応、ぎこちない動きで手を振ってみる。
途端、一斉に狼達の尻尾が最高速で振られだしたので、あわてて椛は手を引っ込めた。
************
「あれは、ちょっと恥ずかしいですねえ‥‥」
「慣れたら快感に変わるよ」
「無理です‥‥」
早苗と一緒に洞穴の奥に戻ってきた椛の肩を、神奈子ははっはっは、と笑いながら叩く。まだ椛の顔は赤かった。
「さて、それじゃあ、いよいよですね」
一同を見わたし、早苗が表情を引き締める。
「うん」
「そだね」
「諏訪子のもとへ。早苗の一世一代の神楽を舞いに」
「はい」
「動物たちへの説明は大丈夫かい」
「それは大丈夫ですよ。ちょっと居なくなるけど、いないからって何か騒動おこしたらすぐに戻ってくるからって脅‥‥お願いしてきましたから。それに狐さんもちゃんとそのあたりはフォローしてくれるそうですし。ね」
後ろに控える狐を振り返り、早苗はニコリと笑った。「はいいい!」とどこぞの黒づくめの戦闘員みたいに裏返った声で、狐娘は返事をする。
その様子に、小傘は少し意地悪をしてみたくなり、優しく笑って狐娘に問いかけた。
「‥‥ねえ、狐さん。早苗にどんなこと言われたの?早苗はみんなにどんなこと言ったの?」
「え、それは」
「言うの?」
「ひ!」
「言っちゃうんだぁ‥‥ふーん‥‥」
「ひ、ととと、とんでもありませんっ」
「狐さん、狐さん、大丈夫。聞かせてよ。巫女の私がいる限り早苗さんにひどいことはさせないから。ね」
「そ、そんなことは!大丈夫です!ひどいことは言われていませんから!」
「そう?そんな風には見えないけど?」
「いーえ!とんでもありません!ミシャグジ様はほんとにすばらしい方で!ええ!絶対に『なにかあったら皆殺し』とか『あの狸いじめたら皆殺し』とか『ケンカしたら皆殺し』とかそんな怖いことは言っていませんから!ええ!‥‥うわああああああああ!」
早苗の壮絶な笑顔に、狐娘は悲鳴を上げて自分の口の軽さを呪った。
「馬鹿だねえ‥‥本当にお馬鹿さんねえ‥‥あなた‥‥」
「ひいいいいい!」
「早苗、早苗、どうどう。‥‥あーあ、すっかりさでずむが板についちゃって」
「ばらされてもそこまで恥ずかしい内容でもないでしょうに。あんまりいじめちゃかわいそうですよ。ほら。狐さん。安心してくださいな。狛犬の私もいますから。ね」
「‥‥私を取って食うって言ってた狼に言われても全然ありがたくないもん」
「なんだと」
「ひい」
「‥‥あんたはまずそのおしゃべりをどうにかするべきだね」
苦笑しながら、神奈子は椛の袖を引っ張って狐娘への威嚇をやめさせる。
「じゃあ、行こうか。諏訪子がお待ちかねだよ」
「はい」
そうやって、振り返り、いよいよ洞窟の外に向かおうとした時だった。
「――――こんな楽しそうなこと、あなた達だけで独占なんて、ずるいわよ」
「!?」
突然、洞窟にどこからともなく妖艶な声が響いたかと思うと、早苗の足元の地面が消えた!
「ひあっ!?」
「早苗さん!?」
「ぬおお!」
「っちょ、小傘?!‥‥わあぁっ!」
「あんたたち!」
あわてて神奈子が手を伸ばすが、遅かった。早苗達は突如として空間に開いた黒い穴に次々と飲み込まれ、あっという間に消えてしまった。
むなしく手を伸ばしたポーズで固まる神奈子だけが、一人洞穴に残される。
一人?‥‥いいや、もう一人、いる。
「どろーん♪」
「ぬあ‥‥」
ちょっとむかっ腹に来るような、きゃぴるん、とした気の抜けた擬音語と一緒に、神奈子の後ろの岩天井の空間に黒い亀裂が走り、紫色のドレスを着た女性がふわりと降り立った。
顔をひくひくと引きつらせながら振り向いた神奈子のほっぺたを、白い長手袋をはめた手が、むにゅ、とつまむ。
視線の先にいたのは、言わずと知れた妖怪の賢者、神隠しの主犯、妖怪少女‥‥
「八雲、紫‥‥」
「ありゃ、そんないやそうな顔しないで頂戴な」
「あんた‥‥」
「なんでこんなとこにいるの、なんて野暮なことは聞かないでね。あんだけ派手なドンパチ何度もやらかされて、この私が気づかないわけないじゃない」
むにむにと神奈子のほっぺたを弄りながら、紫は楽しそうに喋る。
神奈子はじっとりとした三白眼でそんな紫をにらみ返す。紫を足の先から頭のてっぺんまで見て、そして不機嫌そうに聞いた。
「‥‥なんだい、その恰好は」
「森の動物、狸のゆかりんですおぶぅ!」
「立場考えなさいな妖怪の賢者ぁ!」
「え、えー!はぶぅ!」
「あとトシも!」
「ひどい!」
往復で紫のほっぺたを張り飛ばしながら涙目で神奈子がどなる。衝撃で紫の金色の髪の毛の間から覗いた茶色い耳がプルプルと揺れた。お尻の太い尻尾も。
‥‥そう。なぜか紫は狸の恰好をしていた。狸の恰好といっても普段の恰好に尻尾と耳、あとアイマスクを付けただけのものだったが。
「せっかく今の状況に合わせた格好してきてあげたのに、ショックだわぁ」
「どこが合ってるんだい!こっちゃ真剣なんだから!」
「まぁまぁ、山の神様。怒らない怒らない」
「おこらいでか!ったく、おふざけが過ぎるよ!早苗達をどこやったんだい!」
「心配しないで。安全なところ。‥‥おふざけといってもねえ。妖怪は楽しさ優先じゃなくちゃ。ね。それに、普段から騒動起こしてるんだもの、あなた方。たまにはツケを払ってくれたっていいじゃない」
「‥‥ツケを払うって、どういう意味だい!早苗をどうする気なんだ?」
「別に?ただみんなでお酒が飲みたくなっただけですわ。宴会に参加してもらうだけよ」
「おま、宴会って‥‥」
「呪いの期限に関しては心配しなくていいわ。宴会の間だけ進行を止めてあげるくらいのサービスはしてあげるわよ。‥‥うん。大体、呪いに関して心配する必要はないのだから」
最後のところだけ、紫は聞こえないくらいの小声でつぶやいた。
神奈子は気が付かなかったようで、頭をバリバリとかいていた。
「ああ‥‥ったく、ったく!あの子が今あの恰好で皆の前に出て行ったらどうなるか‥‥」
「心配いりませんわ。幻想郷はすべてを受け入れますから。それにね」
「んん?」
「ちょっとは休ませてあげなさいな。あの子。蛇になってからこっち、ずっとドタバタしてたんでしょ?”神楽”をしに行く前に少しは息抜きが必要だと思わない?」
「‥‥そりゃあ、そうだけどさ」
「“老婆心”からのおせっかいだと思ってあきらめてちょうだい。ね」
唇に指を当てて、胡散臭く、ふわりと笑う紫。神奈子は横を向いて深いため息をつき、腰に手を当てて、目だけを紫に向ける。
幻想郷に来てから、それなりに付き合いもある二人だが、紫のこの胡散臭い言動には、いまだに神奈子は完全に慣れ切れていなかった。
「‥‥いつから覗いてた?」
「わりと、最初から」
「‥‥ずっと見てたのか、黙って」
「助けに動かなかったからって恨まないでね」
「別にそんなこと思わないさ。あんたが動くのは異変になりそうなときだけだろ」
「そうよ。今回の騒動に関しては、異変と呼べるようなものじゃない。貴女のとこの家庭問題ですし。それに」
「それに?」
「もし、手遅れであの子が蛇のまま、戻れなくなったとしても、別にどこにも影響はないですから。あの子の姿がどうなろうと、幻想郷はただ受け入れるだけ。残酷に」
「わかってるさ‥‥」
やれやれ、と神奈子は頭を振る。
「で、早苗達が連れてかれた安全なところって、どこだい」
「博麗神社」
その名前が出た瞬間、神奈子はえらい勢いで焦り始めた。
「うわっ!おま、なんてとこに!」
「えー、安全でいいところじゃない。霊夢のおかげで木端妖怪は寄ってこないし、人間もおいそれと来ないからパニックを広げることもないし。休めるところも、温泉だってあるし」
「あそこの巫女に早苗が会ったらどうなると思ってんのよ!」
神奈子の指摘に、紫は一瞬思案し、‥‥ぐるりと目をそらした。
「‥‥ああー、あー‥‥たぶん、退治される?カナっ?」
「かな?じゃないよ!おまえ、わざとだろ。絶対わざとやっただろ。ん?」
「ちがう、違うってば。‥‥ちょっと。この世の終わりみたいな顔しないでよ。あなた霊夢をなんだと思ってるの」
「竜神様もまたいで通る幻想郷最終兵器」
「‥‥そうかもね」
「ああ、無事でいてくれよぉ‥‥」
「今のあの子は強いミシャグジなんだから、大丈夫でしょう」
「そーいう常識簡単にひっくり返すだろうが、あんたんとこの巫女は!」
「あら、私の巫女だなんて‥‥」
「むがー!そういう意味じゃないわあ!」
ぽっ、と赤く染めた頬に手を当てる紫。どかどか足を踏み鳴らす神奈子。
‥‥狐娘は不幸だった。またしてもこういう場面に巻き込まれたのだから。
ただ一つの救いは、彼女の精神のヒューズが切れやすかったことだろうか。
妖怪の賢者と山の神の怒鳴りあいを目にし、彼女はやっぱり失神していた。
涙目で。
**************
「んー」
朝もやの立ち込める麓の神社。鳥居の向こうから差し込む朝日を浴びながら、参道で気持ちよさそうに伸びをしている少女が一人。
当代の博麗の巫女、霊夢である。
まだいつもの紅白衣装ではなく、寝起き後すぐのようで、白い寝間着姿。
リボンもつけていないので、髪も後ろで軽くまとめただけ。普段とは違った、おとなしい雰囲気の女の子がそこに居た。
今の恰好のほうが巫女らしく見えるのはきっと気のせいではない。
「おはよーございます、おてんとさま」
ぱんぱん、と太陽に向かって柏手をならし、手を合わせ。霊夢は顔を洗いに敷地の脇にある井戸へと向かう。
―――― 一日の初めはやはりこれにかぎるわよね。
ひとりごち、からからと釣瓶を巻き上げ、中に入っている冷たい水をぱしゃぱしゃと顔へ。べたつく汗が、キンと冷えた水に流されていく。
「ふう」
タオルで顔をぬぐい、一息つく。
「今日もいい天気ねえ‥‥ああ、暑くなりそう」
そうやって、空を見上げてまぶしい太陽をにらんだ時だった。
「――――ひょわあああああああ!?」
すぼぼぼぼぼぼぼぼ!すぽん、ぽんっ!
「ぎゃあああ!?」
井戸から突然、真っ白くて細長い何かと二つの塊がすごい勢いで噴き出してきた!
気配も前兆も何もなかった全く突然の出来事に、さすがの霊夢も飛びずさって悲鳴を上げる。
「ぎゃふっ」
噴き出してきた白い物体は井戸の屋根を吹き飛ばすと、放物線を描いて石畳にべちゃりと落下した。
続いて二つの塊も近くに落ちる。
「ぶっ」
「ぎゃん!」
「あいたたた‥‥」
「‥‥な、なによ、なんなの?」
髪がほどけてしまい、ばらばらと肩から髪を流したまま、井戸から噴き出してきた物体を、目を丸くして見つめる霊夢。
白い物体は女の子の声でうめくと、真っ白い髪を、同じく真っ白い鱗に覆われた手で掻き分けて、頭を振った。ずるずると長い蛇の胴体を蠢かしながら。
「うわ、きもっ!?」
「ひどっ!って、あ、あれ?」
「え、あんた、その声‥‥」
「霊夢さん!?」
「もしかして、早苗!?」
「え、ここ、博麗神社ですか!?」
早苗はがばり、と上体を起こしながら霊夢のほうを振り向く。べったりと血を付けたままの、顔と腕と腹と服を、これでもかと霊夢に晒しながら。
特に顔、その口の周りは血のついた手で何度もぬぐったため、血のりが横に広がり、まるで耳まで口が裂けているかのように見える恐ろしい有様で。
「ひ!?」
その血まみれの早苗の姿を見た霊夢の顔が引きつる。次の瞬間には霊夢の手は懐に伸びていた。
「警醒陣!」
「あばばばばばば!」
青白い光をまとった護符が結界を形成し、早苗の体を縛り上げる。小傘と椛は落下の衝撃で気絶していたのだが、早苗の巻き添えを食う形で護符を受け、声も出せずにより深く昏倒してしまった。
体を襲う強烈な痺れに、早苗はどさりと石畳に倒れこんだ。
「あ、あひゃあ‥‥れ、霊夢さん?」
今の早苗は妖怪寄りになっているためか、霊夢の使う退魔の護符から受ける威力がいつもより大きかった。たった数枚の護符を受けただけなのに、早苗は体かしびれて全く動けなくなった。
地面から見上げた霊夢の表情は、穏やかな笑顔だった。目に見えそうなほどの強烈な冷たいオーラをまとっていたが。
一瞬にして妖怪退治モードに入った霊夢を見て、早苗の顔が青ざめる。
「‥‥残念だわ。早苗。まさか、あなたを退治しなきゃならない日が来るなんて」
「は、はいいい?」
「神様の子孫とか言ってたけど‥‥ふーん‥‥蛇、ね。ついに、本性を表したってわけ?」
「いや、あの、これは」
「いい格好になったじゃない。ねえ。血まみれで。‥‥天狗と付喪神まで引きつれて。‥‥ねえ。何人殺ったの?」
「へ?な、違う、違います!やってない、やってません、これは、この血は!」
「ごまかさなくていいわ。あなた、本当は妖怪なんでしょ?聞いたわよ?慧音から。あの里の‥‥サチちゃんだっけ。人間の姿は仮の姿なんだってね」
「へ?‥‥あああっ!あ、あれは違う、違います!なんていうか、その、言葉のあやで!」
里の女の子を庇って戦ったときの台詞は、いつの間にか一番聞かれてはいけない人物に伝わっていた。
石畳に腹ばいで横たわったまま、必死に早苗は弁解を試みる。
「最初に聞いたときには、とてもじゃないけど信じられなかったわ」
「あ、あのっ!いえ、霊夢さん、説明しますとですね、あれはっ」
「警醒陣」
「あひゃう!?」
「おまけで繋縛陣」
「あばばばばば」
追加で護符が貼りつき、全身を強烈な痺れが駆け抜け、早苗は指一本動かせなくなった。
尻尾の先をぴくぴくと震わせる彼女のもとへ、どこから取り出したのか、お祓い棒を構えて、霊夢が近づいてくる。
早苗と視線が合うと、霊夢はにっこりと笑った。その神々しささえ感じる少女の笑みは、凶悪無比な破魔の笑み。ミシャグジ様とはまた違う、静かな残酷さ。ばらりとほどけて風になびく長い髪が、恐ろしさをさらに際立たせている。
ミシャグジになって、人ならざる身になって。この瞬間、早苗は初めて理解できた。博麗の巫女の、その笑顔の本当の恐ろしさを。彼女と対峙する妖怪の気持ちを。
ミシャグジと化した早苗を、数枚の護符で簡単に封ずるのである。この巫女は。早苗が油断していたのと、理性が戻って自制心が働き、知り合い相手に問答無用で暴れることができないという早苗側のハンデもだいぶ大きいのではあるが。
地面に這い蹲る早苗の頭のそばに立ち、霊夢はにっこりと笑いながら、冷や汗を流しまくる早苗を見下ろす。
そして、おもむろに懐から御札を出し、ゆっくりとお祓い棒を構えた。
体を縛る護符の結界のおかげでしびれが走る体を何とか動かし、早苗は上を向く。
霊夢はお祓い棒を下ろすと、上を向いた早苗の額に、ごりっ、と先端を押し付けた。
「ひぐっ」
なんとか逃げようと、早苗は霊力を膨らまして護符を払いのけようとするが、封印の効果もあるのか、うまく霊力を集められない。霊夢も早苗の意図に気が付くと、護符に霊力を追加して流し込んだ。
「へえ、抵抗するのね」
「り、りゆうもなくこんな目にあ、あってたら抵抗しゅるに決まってますぅ」
「別に理由なんかいいのよ。妖怪は私の敵。あんたは妖怪」
「しょ、しょんな」
さわやかな笑みを浮かべ、霊夢はごりごりとお祓い棒を動かす。
早苗はもう涙目だ。
「理由、理由ねえ‥‥ああ、そうだ。ねえ、早苗?」
「は‥‥はひ」
「あなた、こんな言葉を知ってるかしら‥‥こないだ境内で拾った外の本に、素晴らしい言葉が書いてあったの。“すれいやーず”って本なんだけどね」
「!?」
霊夢の口から懐かしくも場違いなその題名が出てきた瞬間、早苗は霊夢が何を言いたいのか察し、絶望した。
「れ、霊夢さん、あの、ちょっと、待って下さい、おねがひですから」
「登場人物の一人が喋っていた台詞なんだけどね、真理だと思ったわ。単純明快、破邪顕正でね。きっとあの本を書いた人は世の中の正義が何たるものか知ってる人なのね」
「すいません、ごめんなさい、何に謝っているのか分かりませんけどとにかくごめんなさいやめてくださいお願いします!」
舌のしびれを振り払い、ものすごい勢いで早苗は必死に謝った。が。 ささやかな抵抗もむなしく、霊夢の口から、「単純明快で破邪顕正」なあのセリフが紡がれた。
「――――“悪人と妖怪に人権は無い”って。これが、あなたを退治する理由よ」
「ちがっ、“悪人に人権は無い”です!‥‥よ、妖怪は余計だし、それに私は悪人じゃ――――」
「問答無用。人道に背き、そして穏やかな私の朝のひと時を乱してびっくりさせたあげく、せっかく顔を洗ったのにまた変な汗をかかせた罪、その身をもって償いなさい!神技!――――」
「ま、まって、いやああああ!ってかそれほとんど私怨―――」
「――『八方鬼縛陣!』」
宣言とともに霊夢を中心に地面に結界が描かれ拡大し、早苗を巻き込むと同時にすさまじい霊力を吹き上げる!
「ぎゃー!」
‥‥命乞いも許されず。
太陽きらめく博麗神社、その参道にて。怒りの巫女の問答無用の一撃により、夏の青空に向かって、かわいそうなミシャグジ様の悲鳴が響き渡ったのだった。
「さ、早苗、大丈夫かい‥‥って、うわああああ!早苗!」
「あー、遅かったみたいね。てへっ」
「貴様ぁああ!」
「いだだだだだ!ぎぶ!かなちゃんやめて!ごめんなさいごめんなさい!いだだだだだだ!」
飛び出した隙間の先に無残な光景を確認し、怒った山の神様にコブラツイストをかけられた、妖怪の賢者の悲鳴も、追加で。
続く。
そのままスレイヤーズ出てきて笑いました。懐かしい...
あと少しですか!楽しみにお待ちしてます。
もう貴女が諏訪子様のところ行けばいいんじゃないですかねw
氏の霊夢は性格最悪ですねw
早苗タンがんばれ!!!
森の問題が円満解決してよかったです
他人の人権を蔑ろにするやつの人権なんぞ
尊重してやる必要がないって単純明快な論理。
次はラストですが、本気のケロちゃんとの決戦を楽しみに
してます。
個人的にはミシャクジモードで諏訪大戦並みの大立ち回りを見たかったけど
そこまでやっちゃうともう異変ですしねw
まさかここまで面白い内容になるとは思わなかったw
かなちゃんやめてってw
>白蛇(ミシャグジ)の早苗じゃ
以降は「ミシャグジのさなえ」と読んでいます
しかし早苗さんも大変だなぁ、決して手を抜いてはいけないが、万が一にも勝ってしまったらBAD ENDとは
そろそろ続きを読みたいな…。
ゆかたぬきは良いものだ……
ゆかたぬきは良いものだ……