大妖怪とは何だろう。
力が強ければ大妖怪なのか。多くの妖怪に慕われていれば大妖怪なのか。それとも博麗の巫女と善戦できれば大妖怪なのか。もしもそうだったら、私は声を大にして宣言できるだろう。
ああ、多々良小傘は大妖怪なのだと。
昔の自分なら妄想することも烏滸がましいと、大妖怪のだの字も言えなかった。それほどまでに臆病で、いつもお腹を空かせていた記憶しかない。人を驚かす能力を持っていながら、満足に発揮できず、古くさい手法に拘って人々から嘲笑されていたのが昔の私だ。
あれから何百もの年月を経た。人は変わる。妖も変わる。
多々良小傘は成長して、今や立派な大妖怪の仲間入りを果たした。居着いていた命蓮寺から離れ、今は妖怪の山から少し離れた所に家を構えている。最初は一軒しかなかった見窄らしい麓も、今では私を慕う者達によってちょっとした村になっていた。かつては此処も危ない妖怪が徘徊し、満足に人は住めないと言われていたのに。
改めて自分の影響力が大きいことを知った。同時に自分が背負っている責任の重みも。
いざとなれば村の全員を守らなければならない。時には切り捨てなければならない。
選ばれる妖怪から選ぶ妖怪に変わった。
八雲紫とも肩を並べて話せる日がくるとは、かつての自分も予想だにしていなかった。いや、そもそも自分は何も予想していなかった。
未来など見えていなかったのだ。ただ今日が幸せであれば。お腹を満たすことが出来るのなら、それで満足だと言い、人々を驚かそうと努力を重ねていたのだ。
結局のところ、あのまま古書を読んでいても私は空腹を紛らわすことすら出来なかっただろう。傍観者がいるならば、それで良かったじゃないかと肩を叩くかもしれない。
だけど私は一日たりとて、後悔を欠かしたことは無かった。
いつだって悔やんでいる。出来るのなら過去に戻りたい。
不可能だと知っていても、罪からの逃避行だと知っていても。
私は大妖怪になど成りたくなかった。
「…………雪、か」
目の前をちらつく白い結晶。ふわふわと綿埃のように舞い降りてくる。
道理で寒いと思った。もうそんな季節なのだから。
灰色の空を見上げる。
「墓参りに行かなくちゃ」
遙か遠いあの人に向かって、私は白い息を吐いた。
暮れも押し迫った師走の折。雪も散らつこうかという曇り空の下でも、人間の里には活気と喧噪が溢れ、忙しく走り回る人間達は私に目をくれようともしなかった。老若男女問わず、この時期は多忙を極めるのだという。
妖怪には季節感が乏しい者も多く、かくいう私もその部類だった。どうして人間達が血相を変えて駆け回っているのか理解できない。別に宴があるわけでもなく、よくよく観察してみれば決まって自分の家に戻っているのだ。そんなに慌てて帰らなくても家は逃げたりしないのに。
とはいえ、人間の事情など私の知ったことではなかった。お腹が膨れるのであれば、家の中で何をしていようと関係ない。美食家たる私の味蕾は驚きしか口にしないけれど、食材の如何については問う舌を持っていなかった。要は食べられればいいのだ。食べられれば。
家と家の隙間に隠れ、目立ちたがり屋の傘を畳んだ。幸いにも人間には事欠かず、ひっきりなしに通りを行き来している。誰にしようか目移りしながら、まずはあの健康そうな若者の腰でも砕けさせてやろうではないか。
意気込んで飛びだしたものの、うらめしやの一言を告げる間もなく若者は私の横を通り過ぎていった。忙しないことだ。こちらの言葉を聞くぐらいの余裕、短い人生といえども有っただろうに。
不満を抱えても仕方ない。次だ、次。人間はいくらでもいるのだ。
再び物陰に隠れて、今だと飛びだしてみれば素通りする親子連れ。でんでん太鼓を持った幼子ですら、こちらに視線の一つも寄越しやしない。気付かぬうちに河童の迷彩でも着込んでしまったのかと、思わず頭の上を払いたくなった。
いつもこうだ。この時期は。
人間達は忙しく、私のことなど気にも留めない。いつもなら一笑に付して同情混じりで見下ろしてくるものを、半ば迷惑そうに私を押しのける有様だ。
まこと不愉快である。しかしどうする事もできないのだ。
驚けと言って驚いてくれるのなら、私は今頃大妖怪になっている。この後も古来より綿々と受け継がれた王道鬼手の限りを披露するつもりだったが、この調子では閑古鳥もそっぽを向く。活気づく商店とは裏腹に、私は早々と店じまいならぬ脅かし仕舞いをするつもりだった。
今日も今日とて命蓮寺へ帰り、空腹を肴に秘蔵の酒で悔しさを紛らわせるとしよう。こうなっては酒ぐらいしか私を慰めるものはいなかった。
喧噪から逃げるように表通りを離れる。妖怪の山へ近づくほど、里の活気は薄れていく。いくら守護者が保護していると言えども、その活動範囲には限界があるのだ。山にほど近い外れともなれば、途端に危険性は増してくる。そんな場所に好きこのんで家を建てる者など、よっぽど馬鹿か変わり者ぐらいで滅多に人も寄りつかない。
だからこそ空き家だと思っていた建物から阿求が出てきた時、私は思わず持っていた傘を落としてしまうほど呆気にとられたものだ。
「あれあれ珍しい。稗田の先生がこんな所で何を?」
古典の怪談を漁る為、何度か阿求の屋敷へお邪魔したことがある。面識はあったので、私を見て驚く様子はなかった。しかし何かを考え込むように黙り、しばし私の顔を見つめる。
同性に惚れ込む趣味があるわけでもなし、実に居心地が悪い。身体中がむず痒くなるのを押さえきれず、もじもじと身体を動かした。
「……この辺りには廃墟同然の家も多いですから。中には書物を置いたまま引っ越された方もいるのです。あの家には珍しい本があると聞いて訪れたのですが、どうにも期待はずれでした」
「ああ、阿求は本が好きだからねえ。私向けのはあった?」
「いいえ。小難しい哲学書とか歴史書の類ばかりです。小傘さんにはお勧めしませんよ」
掘り出し物の本があるのかと期待したのだが、世の中は上手くできていない。
羽織を整え、そそくさと阿求は去っていった。山から吹き下ろす冷たい風はまだ若い彼女には辛かったのだろう。冬でも裸足の私からすれば、本番は雪が降ってからだというのに。
傘の妖怪と名乗るだけあって雨やら雪には強いのだ。とはいえ熱燗や鍋が恋しくなる気持ちを抑えることなど出来ず、大根おろしが舞い降りた真っ白な土鍋の中を想像しながら命蓮寺へ帰ろうとしたところで、ふと私は足を止めた。
先程、阿求が出てきた家。どうにも様子がおかしい。廃墟同然と言いながら、庭先の窓から見える花瓶には薄紅色の山茶花が綺麗に咲き誇っている。誰も住んでいないのなら、これは一体どういう怪談話か。
興味をそそられた私は、足音を立てないようにして窓へと近づいた。薪割りの斧は真新しく、束ねられた薪も幾つか積み重なっていた。やはり誰かいるのか。
こっそりと背を伸ばし、窓から中の様子を窺う。
墨の爆ぜる火鉢、色とりどりの背表紙が並んだ棚の上には見慣れない木の人形が置かれていた。内装と呼べるのはその二つぐらいで、後は床に敷かれた唐草模様の布団が一つ。それを膝にかけながら、阿求と同じぐらい若い少年が黙々と本を読んでいた。
触れば倒れそうなほど華奢な外見は少女かと見間違えそうになるのだが、それにしては胸の膨らみが薄い。人間観察には慣れ親しんだ我が眼が、まさか男女の違いを見間違えるはずもないし、あれは絶対に少年なのだ。
髪の毛も肩で揃えられている。小さな口やか弱げな輪郭は女性らしいと言えるけれど、ああいう華奢な男性も最近は増えているのだと屋台の夜雀が語っていた。
布団の少年がページが捲る。何を読んでいるのだろうと顔を突き出し、迂闊にもガラスで阻まれる。不自然に立てた音を聞き逃すほど少年は間抜けでもなかった。本に向けられた視線がこちらへ移り、真剣な眼が私の顔に張り付いた。
逃げ出す道もあろう。妖怪に好意的でない人間も多い。そもそも私にはさしたる目的もなかった。別に彼を驚かそうとしているのではなく、単に誰か住んでいそうだから覗いただけのこと。これを隠そうとした阿求には疑問を覚えても、追求しようとまでは考えていない。
阿求には世話になっている。疑いの眼はあまり向けたくなかった。
「どなたかしら?」
「む、むむむ……」
儚げな口調は良いとしても、花が咲くような声色はしかし。まさか私の眼は節穴だったとしても言うのか。
恐る恐る窓を開き、中の少年を観察してみる。飛び込んできた冬の空気に眉をしかめ、羽織っていた着物の前を強く合わせた。
「あの、もしかして女の子?」
「あら、男の子に見えたのかしら。とても光栄なことね」
これが演技でないとしたら認めざるを得ない。部屋の中に居たのは少年ではなく少女で、私の目はさほど頼りにならないということを。
「ねえ、そこに居たら寒いでしょう。中へ入ってはどうかしら」
寒くはなく、彼女に用もない。中へ入る義理も目的も無いのだが、無碍に断るだけの理由も無かった。ちょうど退屈していたところだと、私は窓から部屋の中に入る。首ぐらいの高さにあったけれど、こんなものは妖怪にとって有ってないようなものだ。
ちょいと飛べば簡単に入れる。しかし普通の人間は驚くことだろう。自分で言うのも何だが、私の外見はただの女の子にしか見えない。巫女服を着ているわけでもなし、その女の子がいきなり空を飛ぶように部屋の中へ入ってきたのだ。さぞや驚いているだろうと期待していたのだが、少女は眉一つ動かしていない。
相変わらず布団に腰を降ろし、興味深そうな瞳でこちらを見ている。私は後ろ手で窓を閉めながら、不思議そうに首を傾げた。
「一応言っておくけど、私は妖怪なのよ」
「知ってるわ。阿求に教えて貰ったもの」
「阿求に?」
「多々良小傘ちゃんっていう、紫の傘を持った可愛らしい妖怪がいるんだって」
窓の外には立てかけられた愛用の傘。よくもまあ気付かれなかったものだ。あれを差したまま覗きこんでいたとしたら、誰かいることは丸わかりだったろう。
自分の失態で恥ずかしくなるやら、可愛らしいと言われて馬鹿にされたようで腹が立つやらで顔は真っ赤に染まっていることだろう。霜焼けでもあるまいし、頬が熱いのはきっとそういうことだ。
少女は優しくクスリと笑い、読みかけの本に栞を挟んで閉じた。表紙には難しい単語が並んでいる。どれ一つとして小傘の生活には馴染みのない単語だ。あの本を一生開くことはないだろうし、理解する日も来ないのだろう。
「気を悪くしたのならごめんなさい。阿求は悪くないの。私がせがんで聞かせて貰ったのよ。外の世界を知る機会なんて、そう滅多にあることじゃないもの」
黙る私を怒っていると勘違いしたのか。いや確かに怒ってはいた。許可もなく自分のことを話されるのはあまり気持ちのいいものではない。ましてや私は驚きを糧とする妖怪。あらかじめ心の準備をされては誰も驚かすことなんて出来ないのだ。
ただ阿求許すまじと怒髪天を衝く勢いとまで書けば嘘になる。せいぜい今度の訪問で茶菓子の一つをせびるぐらいだ。謝ってもらってはこちらが逆に困ってしまう。
「別に怒ってないよ。それより外に出られないの? 窓は開いてるみたいだけど何で?」
「生まれつき身体が弱いから、私。外に出るのは危険だし、こうやって部屋の中で本を読むしかすることがないのよ。だから阿求の話は私にとって大切な娯楽なの」
「ふーん」
こんな山の近くで暮らしておきながら外が危険だと。病弱でもあるのなら里の中心部で暮らせばいいものを、どうして此処で生活をしているのか。俄に湧いてきた疑問だが、あまり踏み込んでいいものでもない。
人には人の事情のあるのだ。迂闊に尻尾を踏めば眠っていた蛇が目を覚ますかもしれない。それで何度も痛い目を見てきた。自分の腹が膨れないのなら首を突っ込む気などさらさら無かった。
「ねえ、良かったら小傘ちゃんも何か話をしてくれないかしら。阿求の話は興味深いけれど、どうにもあの子は堅苦しいところがあるから。お伽噺のようにワクワクする話は耳にできないのよ」
「喋るくらいなら良いけど、随分と阿求と親しそうだね。友達?」
「ええ、親友よ」
一応は私も妖怪。病弱な親友を心配したのだとすれば、あの嘘も理解できる。
近所の子供ぐらいにしか見ていないのではないか。一時はそう心配もしたが、しっかり妖怪として認識してくれているらしい。
「では親友様の語りに負けないよう、私もとびっきりのお話を聞かせてあげようじゃないの。なあに時間ならたっぷりあるわ」
幻想郷を揺るがした異変から、揺るがしそうもない異変から、時にはくだらない話を、時には怪談を交えつつ、楽しい時は過ぎ去っていった。
最後まで彼女は楽しんでくれたようだけど、せめて怪談の時は怖がって欲しかった。
皿屋敷で笑われるとは、私の語りもまだまだみたいね。
例えば阿求の書いている小説だったら、ここで私と少女は友達になるのだろう。病弱で伏せっているヒロインと活発で明るい主人公。なるほど物語の広がりを感じる。
しかして現実の私は主人公に非ず。彼女と出会ってから一ヶ月の間、とんと存在を忘れていたのだ。あまり責めないで欲しい。なにしろ彼女は儚げで存在感というものが全く無い。寝て起きてしまえば、ああそんな子がいたっけかなあぐらいの認識になってしまうのだ。
案の定、次の日からは驚かし方の研究に没頭しつつ、ぬえやこいしと遊びつつ、相も変わらない生活を送っていた。転機があったのは雪も積もり、氷柱でちゃんばらが出来るくらいに寒い日のこと。
妙に元気なチルノ達と別れ、私は里の上を飛んでいるところだった。人の寂れた通りを歩く、どこかで見た覚えのある女性。竹林で暮らす医者だと分かるのに、さほどの時間は要しなかった。
そういえば病弱な女の子がいたっけか。この時になってようやく、私は彼女の存在を思い出した。こちらの都合を見計らったように、医者は例の家へと入っていく。問診という奴だろうか、それとも様態が悪化したのか。急いでいる様子もないし、おそらくは前者の方だろう。
無視を決め込んでもいいのだが、気にならないと言えば嘘になる。ちょいと様子を見ようかなと、私は地上へと足を運ぶのだった。
代わり映えのしない外見。窓の向こうには山茶花が顔を覗かせている。
医者は中に入ったようだ。私はこっそりと窓際に忍び、聞き耳を立てた。何やら面白い話をしていたらしく、少女と医者がクスリと笑う声が聞こえてくる。
「……体調は良いみたいね。しっかりと薬も飲んでるみたいだし」
「イナバさんが大袈裟だったんです。冬の寒さにちょっとやられただけですから」
「普通の人なら笑い飛ばせるけれど、あなたはもう少し自分の身体を労るべきね。万が一があってからでは遅いのだから。気を付けるに超したことはないわ」
「永琳先生は優しいですね」
「誰だって病人には優しくなるものよ」
永琳という名前を反芻しつつも、少女の顔を思い浮かべる。幽霊のように腕を伸ばせば通り抜けそうな儚さは、見ている側を心配にさせてしまう。永琳は厳しく怒ると鬼のように怖いとはてゐの談。鬼すらも優しくしてしまうのだから、まこと病人というのは恐ろしい。
かくいう私も思ったぐらいだ。ちょっとばかり寄っていこうかと。時間は余るほどにある。また話をするぐらいなら自分にだって出来るはずだ。
ただ永琳がいては都合が悪い。医者は何かと口うるさいと聞くし、そもそも小傘は永琳のように冷たそうな女性が苦手だった。勿論、常識を投げ捨てた巫女も苦手だし、妖怪と見るや退治してくる巫女も苦手だ。
「それじゃあ私はお邪魔のようだから、これで失礼するわね。次はあの子が来るだろうから、あまり心配させないこと」
「はい、永琳先生」
どうしたことか、今日はまことに都合が良い。念じれば叶うのか。神様も粋な計らいをしてくれる。神様、神様。お腹が膨れるほどの驚きをください。
無駄と分かっていても、ついつい念じてしまうのは最近神とも知り合ってしまったからなのか。豊穣の神に紅葉の神。いずれにせよ随分と気さくな神で、到底願い事を叶えてくれそうにはなかったのだが。
「あなた妖怪でしょ?」
「うわっ!」
突然横から声をかけられ、思わず傘を落として腰を抜かす。おのれ神様。誰が私を驚かせと言った。
姿の見えない双子神を怨みつつ、慌ててお気に入りの傘を拾い上げた。大丈夫、土はついているけれど何処も壊れていない。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、気が付けば玄関からこちらを見つめる永琳の姿があった。
「話し相手になるのはいいけど、あまり彼女を驚かせないでね」
それだけ告げると永琳は立ち去り、後に残ったのは訝しげな顔の私だけ。変な忠告だ。この多々良小傘に対して驚かすなとは、まさか私のことを知らないのか。大妖怪じゃあるまいし、そりゃ確かに知名度は低い。
てゐなら兎も角、永琳ぐらいになると私程度の妖怪は目にも耳にも入ってこないのか。落ち込むやら泣きたくなるやらで、思わず帰りそうになった足を止める。折角お許しが出たことだし、久々に会ってみたくもある。
帰ってもすることなんて無いし、仕方ない。窓を開け、颯爽と部屋の中へと押し入った。
「泣いて驚け、うらやめしやー!」
永琳の忠告も何処吹く風で、決まり文句が炸裂した。
悲鳴は聞こえず、代わりに聞こえてきたのが笑い声とは世間の厳しさが身に染みる。そうだろうよ、そうだろうよ。酒問屋の馬鹿旦那も花屋の看板娘も似たような反応を返したっけなあ。
「お久しぶり、小傘ちゃん」
「うん、一ヶ月ぶりかな。年も跨いだし」
すっかり忘れていたのだが少女は気にした風もなく、紙を畳むように優しく笑った。
そういえば彼女は何と言うのだろう。名前を聞いていなかった。
「上の名前は日向。下の名前は小雪って言うのよ」
「日向小雪。小傘と似てるね」
「私に妹がいたら、きっと小傘って名前でしょうね」
私が妹っぽいと暗に強調された気がする。実年齢は私の方が上だけど、いかんせん見た目は彼女の方が年上だ。何というか放つ雰囲気が年上っぽい。これがチルノの主張なら真っ向から反論するものを、小雪の言葉なら素直に受け入れてしまう自分がいた。
不思議な子だ。いつのまにか馴染んでしまう。
「まぁ、小雪が姉なら不満はないよ。そういえば永琳が来てたみたいだけど、具合が悪かったの?」
「ちょっと体調を崩しただけよ。だけどイナバさんが慌ててしまって、それで永琳先生が往診に来たってわけ」
「ふーん、大丈夫?」
「どうかしら。自分の身体なのに一番よく知っているのは永琳先生だから」
そう言った小雪は、どことなく寂しげに見えた。病弱であることを喜ぶ馬鹿もいない。彼女も心の何処かでは早く元気になりたいと思っているのだろう。
「ねえ、いつ治るの?」
何気ない質問だったが、思った以上に小雪の心を抉ってしまった。こういう時に覚の能力は便利だと思う。私にも心を読む力があったなら、こうして他人を傷つけることは無かったのに。
後悔しても時既に遅く、小雪は唇を噛みしめて布団に視線を落とした。
「あのね、治らないの。私の病気」
「えっ?」
「詳しくは私も分からないんだけど薬や手術じゃ治らないそうよ。もっと高度な医療技術のある所なら兎も角、幻想郷じゃどうしようもないって。だからある意味では不治の病ね」
妖怪と病気は縁遠い。かくいう私も風邪をひいた経験は一度として無かった。だから病人がどれだけ苦しんでいるのか、分かっていると安易な言葉を吐くことは出来ない。そもそも私は小雪がどういう病気なのかも知らないのだ。
しかも一生治らないとなれば、もうどんな言葉を掛けていいのやら。気まずそうに視線を彷徨わせても、会話を変えるだけの物は見あたらなかった。基本的に物の少ない部屋なのだ。せめて私にも分かる本があったなら、そこから話題を切り替えられただろうに。
重苦しい沈黙が部屋に降り、雪の降る音も聞こえてきそうだ。外へ置きっぱなしの傘は大丈夫だろうか。ああそうか、また私は傘をさしたまま忍んでいたのか。道理で二人が笑っていたわけだ。部屋の中から丸見えだったのだろう。
「ごめんなさいね、つまらないことばっかり言って。せっかく来てくれたんだから、もっと明るい話をした方がいいわよね」
沈み込んでいた小雪に気を遣われるとは何とも情けない。しかしここで引き下がったら妖怪の名が廃れるというもの。一ヶ月の短い間とはいえ、私もかなりのパワーアップを果たした。
今度こそ小雪の肝を冷やすぐらいの怪談を披露できるはずだ。明るい話とは片腹痛い。外の冷気にも負けない極上の恐ろしい話を味わうといい。
「じゃあとっておきの話を一つ」
こうして私は再び心に傷を負ったのであった。
駄目だったかあ、鍋島化け猫騒動。
さすがに二度も会ったのだ。ここで存在を忘れるほど私も薄情ではない。気になる話も聞いたし、自然と足が妹紅の家に向けられたのも無理からぬことだろう。病気のことなら永遠亭なのだが面識があるのはてゐぐらいで、永琳やらウドンゲやらが相手ではまともな交渉すら出来ない。
そもそも私の関心は別のところにあった。自信作の怪談に対抗して小雪も幾つかの話を披露した折のこと。雑学にも明るく、知識量も豊富ときたものだ。完全に打ち負かされた私はこう尋ねた。それも全部本の知識なのかと。
「ええ、そうよ。基本的に外へと出歩いちゃいけないし、危ない妖怪もいるそうだから。勿論、小傘ちゃんみたいに可愛らしい子もいるのは知ってるけど」
後半の世辞は兎も角として、小雪はしっかりと認識しているのだ。あの場所は充分危ないことを。だとしたら何故、彼女はあそこに住んでいるのか。軽く探りを入れてみたのだが、どうにも反応は鈍い。
危なかったり身体が弱いからという理由だけでなく、まるで誰かが許さないから外へ出られないとでも言っているような発言もあったし。何やら裏できな臭い陰謀が蠢いているのではないか。
他人を驚かせるということは、他人の機微に敏感であるということ。これが勘違いであるのなら私の未熟さと割り切れるのだけど、もしも直感が現実であったのなら、私なりに何か出来ることがあるかもしれない。
ならばと身体が向いたのは妹紅の家だった。色々と竹林で仕事をしている彼女の元には様々な話が飛び込んでくるらしい。
里の事情に関してなら慧音も頼りになるのだけど、あちらは石頭が過ぎる。気になる程度では詮索無用と逆に頭突きをされかねない。阿求という選択肢は最初から除外している。親友のことをベラベラと喋るような奴でもない。
妹紅は妹紅でお堅いところがあるものの、自分の興味が惹かれれば多少の情報は提供してくれる。そういった意味ではこういう場合頼りになるのは妹紅の方だった。案の定、彼女は小雪の話に食い付いてきた。
「日向小雪さんね。なるほど、日向家に関しては良くない噂も多々あったけど幾つかは事実だったようね」
妹紅は納得しても、私は相変わらず疑問のままだ。せめて説明をしてくれないと困る。
失礼と空咳をして、妹紅は日向家に関して話し始めた。
「日向小雪さんは日向家の長女だった。日向家は由緒ある呉服屋で、小雪さんには産まれる前から毛並みの良い許嫁がいたそうよ。しかし彼女は病弱でした。これでは満足に嫁へ出すこともできないと、日向家の当主は幼い小雪さんを山に捨てた」
「小雪は里にいるよ」
「ええ、だから噂なのよ。小傘の話が本当なら、実際は里の外れに家を買ってそこへ住ませているということかしら。あわよくば妖怪に襲われて命を落としてはくれないかと期待しながら。いや、これは邪推しすぎなのかもしれないけど」
説得力はあった。あんな危険な所に普通の親ならば住まわせようとはしない。
天涯孤独の身なのかと思いもしたが、実際はもっと酷かった。私には両親というものがおらず、気が付けば妖怪になっていた。だから親など捨ててしまえと安易に言えるのだけど、小雪はそうもいかないのだろう。
聞いたところで私にどうか出来るわけもなく、この話は胸の中に仕舞っておくことにした。
要は小雪が無事ならばいいのだ。遠回しな手口からして、安易に殺すつもりなどないのだろう。だったら存分に長生きして貰って、楽しい人生だと満足すればいい。妖怪から比べれば人間の一生など短いもの。
付きっきりは無理だけど、気が向けば話し相手ぐらいにはなってあげよう。妹紅も小雪の家がある方の警邏を増やすと言っていたし、そうそう日向家の思い通りにはならないはずだ。
私はそう思っていた。
頻繁と言えば語弊があっても昨年よりも通う回数が多くなったのは事実。同情や憐憫の類もあったのだろうけど、それよりも小雪と会いたかったという思いが強い。なにせ相手は人間であり、しかも病で寿命を削っている。会える時に会っておかないと、それこそ別れは何時やってくるか知れたものではない。
薄情な考え方は妖怪だからなのか。それでも安心を偽装して会わずにいるよりかはよっぽどマシだ。そもそも小雪との会話は面倒ではなかった。知識だけでなく応用も利く回転の速さは自分にはないもので、橋姫に倣って妬みをぶつけたくるのも無理はなかった。
健康体なら学者にでもなれただろうに。運命という存在の気まぐれさには頭を抱える。
「本当だったらぬえとかも紹介したいんだけど。あいつは人間を怖がらせることが趣味みたいな奴だからね。まともに会ってはくれないだろうし、会っても脅かすことしかしないだろうなあ」
「鵺? 源頼政が退治したっていう、あの?」
「何政だか知らないけど、ぬえはぬえだよ。封獣ぬえ」
私と違って自由に外を出歩けない小雪は極端に人間関係が狭い。それこそ永琳や阿求ぐらいしか面識のある者がいないのではないか。生まれ育った家が家なのだ。おそらく実家にも心を許せる者はいまいて。
だから私の友達を何人か紹介しようとしたのだけど、考えてみれば誰も彼もが癖の強い連中ばかり。てゐは悪戯しかしないだろうし、チルノはこの季節には辛い。後は傘繋がりでレミリアや幽香や紫という伝手はあるけれど、あの人達が素直に人間と会うはずがなかった。
捨てられた物同盟でメディスンともよく飲むけど、病人に会わせていい子じゃない。もっと普通の奴はいないのかと思うのだが、生憎と該当する妖怪は一人もいなかった。最近知り合った双子の神様は引きこもってしまったし、もう少し上の方にいる連中とは縁がない。
「無理をする必要はないわよ。私は小傘ちゃんがいるだけで充分に楽しいんだから」
「そう言って貰えると助かるなあ。地味に凹みかけてた所だったし」
愉しげに頬を緩めていた小雪が、俄に表情を引き締めた。釣られて窓の外を見てみれば、見覚えのある顔がこちらへと近づいている。幸いにも私には気付いていないようだが、このまま部屋でぬくぬくと待機しているわけにもいかない。
「悪いけど、少しの間だけ隣の部屋に居て貰っていいかしら。寒いとは思うけど我慢して頂戴」
「寒いのは慣れてるから平気だよ」
なるべく足音を立てないよう気を付けながら、こっそりと隣の部屋へと移った。入れ替わるように玄関の開く音がして、稗田阿求が部屋の中へと入ってくる。
阿求は私と小雪が会うことをあまり歓迎していなかった。表だって引きはがそうとはしなかったものの、注意は何度かされたことがある。当然、素直に従うつもりなんて無かった。元から妖怪とはそういうものだし、言われたから止めるようなら最初から通ってなどいない。
「……多々良小傘が来ていたようですね」
「相変わらず渋い顔ね。そんなに彼女が嫌いなのかしら?」
「個人的には好印象ですよ。ただあなたと会うのはどうかと思っているだけです。勿論、無闇に危害を加えるような妖怪でないことは幻想郷縁起の編纂者たる私がよく知っています。しかし用心はしすぎて困るものでもないでしょう」
「こんな所に住んでいるのだから今更という気はするけれどね」
自嘲めいた発言に阿求が息を呑む。妹紅が警邏を強化したところで、小傘が頻繁に通ったところで、ここの危険性が無くなったわけではない。妖怪の中には幻想郷のルールも守れず、巫女に退治されるまで自由気ままにやっている輩もいるのだ。
ルーミアなど可愛い方。問答無用で人を喰らおうとする妖怪を私は何匹か幻想郷で見ている。連中がここに迷い込んできたら、容赦なく小雪を喰らうだろう。ただの人間ですら抵抗は難しいのだから、病弱な彼女なら絶命するのに数秒も掛かるまい。
「ご長男にも良き伴侶が見つかったようですし、戻る気はありませんか?」
「……あそこに私の居場所なんて無いわよ。誰か結婚しようと、何人子供が出来ようと」
実家の話をしているのだろうか。確かにロクでもない家のようだが、此処に住み続けるよりかは危険性も低いはず。針のムシロになる可能性はあっても、殺されるような心配はない。もしも殺せるようならば、とっくの昔に小雪は此処で果てている。
「私も無理に帰れとは言いませんよ。殺されないからといって、あの家であなたが幸せを掴めるとは思いませんから。殺される危険性だって完全に無いとは言えませんからね」
「人は追いつめられたら何をするか分からない。むしろ此処の方が安全かもしれないわよ。あなたも来てくれるし」
「ひ弱な私に出来ることなど話をするぐらいです。それも最近は小傘に取って代わられたようですが」
「妬いてる?」
「寂しいだけです」
小雪の事を思っているのは私だけじゃない。阿求も同じ。確かに腕力では頼りにはならないけど、不思議と頼もしく思えるのはどうしてだろう。
吐く息は白い。冬の厳しさも増してきた。
春や夏ほど妖怪は活発的じゃないし、それこそチルノぐらいだ。この時期に遊ぼうと積極的に誘ってくるのは。だからもう少し増やそうかな。
小雪と会う時間を。
阿求と小雪の会話を聞きながら、私は窓の外を眺めていた。
雪はまだ降っている。
天狗の予報は晴れると言ったが、すまんあれは嘘だった。曇り空から舞い降りてくる、ぼたん雪は夜を徹して降り続けたらしい。人間の里は白銀に包まれ、大人達は雪かきで汗を流していた。
これではしゃぐのは犬と子供ぐらいのもの。寺子屋でもマトモに勉学が出来るわけもなく、子供達にせっつかれて今日は雪合戦となったそうだ。慧音に誘われて私も参加することになったのだが、いやはや子供というのは無邪気で残酷で容赦がない。
弾幕ごっこで鍛えた腕が童に負けるはずはないと、タカをくくっていたのが半刻前のこと。身体中を雪まみれをした格好を見れば、誰もが私を人間と勘違いするだろう。何なのだ。あの寺子屋では巫女を養成しているのか。
誰も彼もがルナティックなのだから私が惨敗を喫するのも無理はない。あそこで真っ向から立ち向かえるのは、それこそ咲夜とか聖の類なのだろう。寒さには強いとは言ったものの、今は兎に角温かいコタツと鍋が恋しかった。
家の隙間に隠れつつ、通りの様子を探り続ける。驚かす為ではなく逃げる為というのが情けない。
「っと」
誰か来たようだ。身を隠し、傘も畳む。
てっきり子供という名の鬼達かと思えば、身なりの良い大人だったようで。この大雪の中で高級そうな着物に身を包むとは、余程の馬鹿か自慢したがりなのだろう。見れば顔つきもどことなく成金っぽい。
隠れて雪玉をぶつけてやろうかと思ったところで、聞き覚えのある名前を口にした。
「それにしても小雪には参ったものですな」
成金の隣にいた男の台詞だ。察するに小雪の関係者なのだろうか。あるいは親族かもしれない。由緒ある呉服屋と言っていたし、あんなにも高そうな着物を着ているのだ。その可能性は充分にあった。
「全くだな。とっくの昔にくたばるものだと踏んでいたのだが、この年まで生きながらえるとは。まこと使えないものほど長持ちするものよのお」
「仕方ありません。重宝すれば磨り減りますから」
「もっともアレは重宝せずとも磨り減っているがな」
下品に乱暴に男達は笑う。
噂は噂と。いっそそうであれば良かったのに。
戻れば良いと安易に言うことも出来なくなった。いやむしろ戻らない方がいい。命あっての物種とは言っても、好きこのんで地獄で暮らすような真似を勧める気にもなれない。シンデレラには魔法使いが来たけれど、幻想郷の魔法使いはどいつもこいつも多忙を極める。彼女は虐められたまま、それこそ精神を病んでしまうかもしれなかった。
隠れたまま雪玉を投げつけ、そのまま逃げ帰る。通りからは男の怒声が聞こえたけれど、それぐらい何だ。
急に小雪の顔が見たくなって、そのまま会いにいってみれば呆れた顔で出迎えられた。姿形は変わらなくとも、服やら髪やらはビショ濡れのまま。捨てられた子犬のように汚れた私の姿を見て、呆れていた小雪がやおらに表情を緩める。
楽しんでくれたのなら嬉しいけれど、あまり笑わないで欲しい。恥ずかしいではないか。
「お風呂を沸かして入ったらどうかしら。風邪をひいてしまうわよ」
「大丈夫、妖怪は風邪をひいたりなんてしないから」
しかし冷たいものは冷たい。タオルだけは受け取り、首もとやら髪の毛の水気を吸い取る。根本的な解決にはならないけど何もしないよりかはマシだ。
何か書いていたらしく、小雪の手には墨の跡がついている。阿求に倣って小説に挑戦しているのか。
しかし小雪は何をしていたのか教えてはくれなかった。考えてみれば阿求も原稿だけは読ませようとしなかった。そういうものなのだろう。
さして私は気にも留めず、小雪と話してから家路に着いた。
睦月も後半。雪の勢いにも衰えが見えて、少しずつ地面が見えてきた頃のこと。
いつものように私は小雪の家にお邪魔していた。最近は遠慮という文字もなくなり、阿求がきても隠れることをしなくなった。最初は嫌な顔をしていたものの、今ではすっかり諦めてしまったようで。小言は言われても追い出されるようなことはない。
間男ではないのだ。そもそも隠れる必要など何処にも無かった。
私は小雪の隣で本を読み、相も変わらず意味不明な単語と睨めっこを繰り広げている。辞書や入門書の類がなければ一ページとして読み進めることは不可能だ。無理をしなくてもと小雪は心配していたけれど、この多々良小傘にも意地がある。これでも読書には自信があったのだから、これぐらいの難敵に屈していたら読書家という称号は返還しなければならないだろう。
これは戦いなのだ。小雪も口も挟まず、自分の本に没頭している。
またしても不可解な単語が出たところで、突如として小雪の苦しそうな声が聞こえてきた。はっと顔をあげてみれば、胸を押さえて蹲る小雪の姿が。咄嗟に駆け寄ったものの、医学の知識は皆無。どうすることもできず、あたふたと落ち着きなく部屋を駆け回るだけ。
永琳を呼びに行こうと思いついたところで、小雪の声が私を呼び止めた。
「待って!」
大声を出したせいか、再び蹲る。本当なら無視して呼びに行きたいのだけど、苦しんでまで止めようとしたのだ。話を聞いた方がいい。私はそう判断して踵を返し、小雪の元へと近寄った。
胸を押さえて冷や汗をかきながら、それでも小雪は健気に微笑もうと努力していた。
「何ヶ月かに一回ほどあるの。前もすぐに収まったし、そんなに慌てる必要はないわ」
「で、でもせめて永琳に……」
「大丈夫よ。どうしても無理なようなら、その時はお願いするけど。今は大丈夫」
呼吸も荒く、目を剥いている小雪を見ていると大丈夫そうには見えないのだけど。どうしてもと頼まれては無視するわけにもいかない。
しばらくは苦しそうにしていたものの、しばらくすると落ち着いてきたようだ。微笑みにも光が戻ってきた。いつもの小雪だ。
「ほらね、大丈夫だった。イナバさんもそうだけど、小傘も心配性なのね」
「だっていきなり苦しそうにするんだもん。誰だって驚いて心配するに決まってるでしょ」
「ごめんなさい。でももう大丈夫だから、不安そうな顔をしなくてもいいのよ」
そうは言われても、何分初めてのことなのだ。妖怪やら妖精は滅多に病気に罹らない。だから看病した経験もないし、病で苦しむ人にどうしてあげたらいいのか。その知識も無かった。
しかしこれからはいけない。小雪がいるのだ。せめて応急処置ぐらい習っておかないと、いざという時にさっきみたいな醜態を晒すわけにはいかなかった。そこで私はふと気が付く。そういえば小雪の病気って何なのだろう。
今までは教えてくれなかったし、機会があれば阿求か永琳にでも訊いてみようか。どちらも素直に教えてくれそうにはないが。病気が分からなければ応急処置も何もあったものではない。
考え込む私を見かねて、小雪が明るい声で提案をする。
「そうだ、一つだけ頼み事があるんだけど」
気を遣われたのは明らかだ。病人に心配されるなど、ますますもって情けない。
ここは素直に引き受けて、少しばかりの挽回と行こう。
「何? 何でも言ってよ、叶えてみせるから」
「頼もしいわね。だったらお願いするけど、雪兎を作ってきてくれないかしら」
「雪兎、ね。分かったわ!」
外に出られない小雪でも、少しは雪の冷たさを味わってみたかったのだろう。大人びている少女の子供らしい願いに思わず笑みが漏れるものの、断る理由など何処にもなかった。私は喜び勇んで外へ飛びだし、早速雪の塊を作る。
身体を作るのは難しいことではない。形さえ整えば完成だ。
問題は目玉。南天の実があれば最高なのだけど、そうそう生えているものでもない。代用する物も見あたらないし、少しばかり表通りの方へ出向くとしようか。ついでに永琳に声をかけておこう。
小雪は嫌がるかもしれないけど、何かあってからでは遅いのだ。かつてのウドンゲの気持ちがよく分かる。
正月気分から抜け出した通りでは人が溢れていた。うっかりすれば踏みつぶされそうになるぐらい、どこにいたのかと思うぐらいの量だ。これでは満足に歩くこともできないと、人通りの少ない方を目指して歩き続ける。
しかし人のいない道というのは商店もなく、露天商の姿も見えない。まさか人様の庭に立ち入って南天の実を拝借するわけにもいかないし、そんな事をすれば慧音のお仕置きは免れない。頭突きは御免だ。
「道ばたに生えてれば楽なんだけど」
「何が?」
「兎の目」
「ええっ!?」
驚きの声で少しだけお腹が膨れた。誰だろうと振り返ってみれば、ウドンゲが訝しげな顔をしている。ああ少しだけ言葉が足りなかったようだ。でもおかげでお腹が膨れたことだし、今は感謝しておこう。ご馳走様でした。
手を合わせる私に対して、ウドンゲの表情は更に厳しいへと変わる。
「まさか私を食べるつもり?」
「いやいや、探しているのは雪兎の目だよ」
ようやく合点がいったとホッと胸を撫で下ろすウドンゲ。兎の目玉など取って嬉しいものでもないし、そんなに狙われるもので無いだろうに。そこまで警戒してしまうほど永遠亭という場所は厳しい所なのか。
まあてゐが住んでいる場所なのだ。マトモであるはずがなかった。
「南天の実なら心当たりがあるわよ。ついてきなさい」
「別に代わりの物でもいいよ」
「だから目玉はあげないって」
いらないというのに。そうまで言われると気になるではないか。価値があるのかな、兎の目玉。
ウドンゲの先導に従い、辿り着いたのは慣れ親しんだ寺子屋の建物。すみませんと中へ入ったウドンゲが、しばらくしてから南天の実を持って帰ってきた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう! でも何処にあったの?」
「裏の方に生えてたのを覚えていたのよ。薬にもなるからね。生息地はなるべく覚えるようにしているの」
未熟な弟子だと言われているが、噂というものは当てにならない。もう充分に立派な医者に見えてしまうのは、南天の実を貰った補正なのだろうか。何にせよこれで目的の物は揃った。
ウドンゲに頭を下げて寺子屋から離れ、再び小雪の家へと戻ってくる。雪兎に目を付ければ、これでようやく完成だ。後は見せるだけとなったが。ただ見せるのもつまらない。
私は多々良小傘。少しばかり驚かせてやろうかしら。
いつものように傘をさしたままだと、部屋の中から丸見えになってしまう。お気に入りの傘を畳んで、こっそりと窓の下まで忍び足。タイミングを見計らって、思い切り窓を開けて飛び込んだ。
「うらめしやー!」
ひゅっ、と奇妙な息を呑む音がした。
小雪は身体を折り曲げて、前屈するように布団へ倒れ込んでいる。一瞬、そのまま寝ているのかと思ってしまった。それぐらいに静かで、それぐらい反応が無くて。持っていた雪兎を投げ捨て、慌てて近くに駆け寄った。
反応はない。息もしていない。
そう、まるで……
「小雪!」
身体を揺すりそうになった手を押しとどめる。相手は病人なのだ。迂闊な事をすれば何が起こるか分からない。まだ助かる可能性は充分にある。今度は止める者もいないし、躊躇するような理由もない。
永琳を呼びに行こう。永遠亭にいるはずだ。
全速力で飛ぶ私だったが徒労に終わることとなる。永遠亭で出迎えたのはてゐだけ。永琳はウドンゲと一緒に里へ出かけたというのだ。
迂闊すぎる。ウドンゲと会った時に永琳の場所を聞くなり、言伝を頼むなりしておけばよかった。寺子屋まで引き返した私は、血眼で永琳とウドンゲの姿を捜した。一分一秒の遅れが命に繋がるのだ。
寺子屋の中にもウドンゲの姿はなく、永琳も見あたらない。
「ウドンゲー! 永琳!」
大声を張り上げても返ってくる声は、
「どうしたのよ、南天の実が足りなかったの?」
民家の玄関から顔を覗かせるウドンゲ。すかさず私は腕を掴んだ。
「来て! 小雪が大変なの!」
疑問や反論の声はない。切羽詰まった私の表情を見て、ただ事ではないとウドンゲも気付いたのだろう。真剣な表情をして私よりも早く空に飛び立つ。永琳ではなかったけれど、ウドンゲだって医者の弟子なのだ。適切な処置を施してくれるはず。
慌てて後を追いかけ、小雪の家へと戻ってきた。しかしウドンゲは何故か窓の外に立ちつくし、中へ入る様子は見られない。どうしたことかと横から中を覗いてみれば、そこには永琳と阿求の姿があった。
おそらく阿求が小雪を見つけ、慌てて永琳を呼んだのだろう。ウドンゲの横を駆け抜け、窓を開けてから部屋の中へ飛び込んだ。さっきはピクリとも動かなかった小雪。だけど今は永琳もいるし、きっと良くなって――
「残念だけど」
冷たく、厳しく、淡々と。
永琳は事実だけを述べた。
「ご臨終よ」
小雪は微動だにせず、最後まで儚げな顔をしていた。
皮肉なことに死してようやく、私は小雪の病気を知った。正確な病名は存在していない。医学の世界でも過去に例を見ないものらしく、罹ると多くの病気を併発するのだと永琳は語った。
心筋梗塞も患っており、ちょっとしたショックで心臓を破裂する可能性もあったんだとか。通常の人間なら心臓が止まる程度で蘇生も出来たものを、小雪の身体は普通ではなかった。ちょっとしたショックで充分に死に至るほど、その身体は弱っていたのだ。
「こう言っては何だけど、元から彼女は弱り切っていた。しかもあなたの話が正しければかなり危ない状態にあったのでしょう。ショックがなくとも死に至った可能性は充分にある」
永琳が何を庇っているのか。馬鹿な私にだって分かる。
人を驚かせることが生き甲斐の妖怪。ちょっとした悪戯心が招いたのは、大切な友達を殺してしまったという結果だけ。あのタイミングで都合良く小雪が命を落としただなんて、永琳も本気で思っているわけではないのだろう。
何より私自身が一番よく知っている。
小雪の顔が見ていられずに逃げ出した私は、気が付けば誰もいない丘の上に蹲っていた。山から少し離れた此処には、妖怪も人もあまり近づこうとしない。一人で考えるには最適の場所だった。
地面に蹲り、雪の上に涙を流す。悲しかった。当然だ。小雪は大切な友達であり、守ってあげたい人だった。あの決意は嘘ではなく、こんな結末を招くつもりなんて無かったのに。
もっと小雪と居たかった。話をしたかった。
彼女は病弱だったけど、危ない所に住んでいたけど、こんなにも早く死んでいい人間では無かった。もっともっと長く生きて、愉しい時間を過ごせたはずなのに。よりにもよってこの私が、その未来を奪い取ってしまうだなんて。
なんたる愚かしさ。地面を叩く。だがこの痛みさえ、今は物足りなく感じてしまう。
永琳は私を庇ってくれた。話を聞いても尚、責任は私にあるわけじゃないと。ウドンゲも同意してくれた。だけどそんなわけがない。小雪を殺したのは私なのだ。
だって、こんなにもお腹が満たされているのだから。
もしもあの時既に小雪が死んでいたなら、私は誰も驚かせていない。だから空腹のままだったのに、この満たされたお腹が何よりも私の罪を物語っている。
私が殺した。小雪を殺した。
妖怪と人間だ。種族が違う。殺しても心を痛めない者は数多くいるだろう。
だけど私達は友達だった。友達を殺して罪の意識を感じないほど、私の心は麻痺していない。涙は止めどなく溢れ、積もっていた雪を溶かしていく。嘆いて彼女が戻るのならば、いっそ目が腐って取れてしまうぐらい涙を流してしまいたい。
過去は戻らない。過ちは取り消せない。どれだけ私が悲しんだところで、小雪はもう戻ってはこないのだ。
ああ、どうしてこうなったのか。何故あそこで馬鹿なことを考えてしまったのか。
後悔は尽きず、嗚咽の声も止まることを知らない。小雪を大切に思えば思うほど、私は私を許せなかった。
いっそ自らを殺めてしまおうと思ったところで、そんな度胸は無い。不可抗力で殺すことはできても、故意に殺めることなんて出来ないのだ。例えそれが自分の命だったとしても。
だから私は泣くことしかできない。誰もいない丘の上。日が暮れるまで私は涙を枯らすように泣き続けた。
「此処にいましたか」
涙腺が麻痺して何も出なくなった頃、一番会いたくなかった人物が丘の上に現れた。永琳もウドンゲも私を庇ってくれたけれど、ただ一人だけ。あの場にいて何も声を掛けてこなかった人がいる。
稗田阿求。小雪にとってもう一人の友達。そして親友だった少女。
阿求の顔には何の感情も浮かんでいなかった。同情も憤怒も悲しみさえもない。それが逆に恐ろしかった。気が付けば私は後ずさり、阿求から逃げようとしていた。何を言われたところで、間違いなく私は傷つくだろう。
「あなたは嘘を吐けるような妖怪ではない。古明地さとりの前へ引き出さずとも、その証言に嘘偽りは無いのでしょう。私はあなたを信じます」
感情のない瞳が薄暗がりの中で光を放っている。自然と震える背筋を止められず、手足も微かに揺れ動いていた。
「だからこそ私はあなたを許せない」
「っ!」
友達だったのだ。その友達を殺したのだ。阿求が許してくれる道理など、最初からどこにも無かった。分かっていたはずなのに、どうして私はショックを受けているのだろう。
あれほど責めてくれる誰かを望んだのに。非難してくれる人を捜していたのに。
私はやっぱり傷ついていた。
「小雪を殺したのはあなたです。誰が何と言おう私はそう確信しています。そしてあなたも気付いているんでしょう。だからあの場から逃げ出した。違いますか?」
「………………」
「あなたは自分の空腹が満たされていることに気付いた。それは小雪を驚かせたことの証左。小雪はショックで死にました。心臓を破裂させて死にました。あの状況であなた以外の誰が小雪を殺せたというのですか」
私は何も言えない。唇を噛みしめ、ただひたすらに阿求の鋭利な言葉を真正面から受け止める。言葉という凶器はいたる所を突き刺し、涙の代わりに血を流す。幻の痛みが身体中を走っても、悲鳴すらあげることが出来なかった。
正論という刃は時として人から声を奪い取る。私は何も言えない。言えるわけがない。
「私はあなたを赦しません。小雪を殺したあなたを、どうして許せるというのですか。あの子は確かに辛い境遇にあった。だけどそれでも幸せに生きようとしていた。それを奪い取ることは何人たりとて許せるはずがない! どうして小雪を殺したのですか! あの子の幸せを奪い取ったのですか!」
無表情の仮面が剥がれる。
「あの子を返して! 私の親友を返してよ!」
涙混じりの悲痛な叫び。枯れていた涙腺から再び涙が零れても、私の罪まで流れ去ったわけではない。瞳を潤ませているのは阿求も同じこと。どっちも悲しいんだ。だってどっちも友達だったのだから。
涙を拭い、その手で阿求は拳を振り上げる。勢いよく下ろされた手のひらは、私の頬に季節外れの紅葉を彩った。小気味良い音が丘に響き、じんわりとした熱さが頬に宿る。
「種族は関係ありません。稗田阿求は多々良小傘を一生許さない。そして一生をかけて怨み続けます。ただそれだけが言いたくて、此処まで来ました」
再び無表情の仮面を付けた阿求なれど、頬には生々しい涙の跡が残っている。
「理不尽な要求をしたことは謝ります。しかし私がどれだけ小雪を大切に思っていたのか。それだけはあなたと言えども分かって欲しい」
「分かるよ……だって私にとっても小雪は大切だったんだもの」
「故意に殺していないのは認めましょう。しかしあなたが殺したことに代わりはない。……いや、止めましょう。これ以上はまた手を痛めるだけです」
淡々と紡がれる言葉の陰で隠せない阿求の感情があった。声は上ずっているし呼吸も荒い。せめて冷静になろうと努めているから、そうでなければ今頃は力の限りに殴られ続けていただろう。
それを望んでいる私もいる。だがそれでは阿求が拳を傷つけるだけだ。
例え私が死んだところで事態は何も変わらない。私の罪はどうしたって消えない。
一生背負っていくのだ。友を殺した十字架を。
だからこそ重く、だからこそ悲しい。
去っていく阿求に何も声を掛けられず、私はただ丘の上で佇んでいた。
鬼は人を浚うもの。火車は死体を運ぶもの。私は人を驚かすもの。
それは生まれ持っての特色であり、拒否するのなら己の種族を否定していることになる。私はただ自分の種族としての使命を全うしたに過ぎず、人を殺めたところで妖怪達は責めたりしない。襲われる人間は異を唱えるだろうが、家畜とて人間に文句を言っている。だけど人間が肉食を止めないように、妖怪もまた人を殺めたところで自分を省みたりしないのだ。
当たり前の事をしただけの話。罪悪感を覚える道理はないし、心を痛める必要もない。そう割り切れればいっそ楽になるのだろう。いやもしも殺めたのが小雪でなく全く赤の他人だとしたら、果たして私は罪の意識に苛まれていたのか。甚だ疑問だ。
この年まで生死に関わるような事をしてこなかった。普通の妖怪とは違い、私の食事は人間の精神。ちょっと驚かしただけで死ぬようなものでもないし、人を殺めた経験など有りはしなかった。
だから考えてこなかったけど、もしもそれで人を殺してしまったら。やっぱり私も他の妖怪と同じように平然としていたのだろうか。分からない。まさか確かめて回るわけにもいかないし、そもそも私が感じている罪の意識は人間だの妖怪だの関係ない。
何度も繰り返すが、私が殺したのは友達なのだ。だからこそ苦しい。
例え大妖怪になったところで、妖怪の中の妖怪になったところで、この胸の痛みが取れることはないだろう。私がしたのはそういう事なのだ。
阿求と別れ、さりとて家へ帰る気にもなれず、ふらふらと里の周りを彷徨いていた。小雪の家に戻れば、まだあの部屋に冷たくなった遺体が置かれているのだろう。満足に死に顔を見てやれなかった。いつかは見なければいけないと知りながらも、それは今ではないと自分を納得させる。
会えるわけがない。こんな気持ちでマトモに小雪の顔が見られるわけがなかった。
せめてもう少し、気持ちの整理がつくまではあの家に足を向けるつもりはない。ただ時間は待ってくれないだろう。妖怪と違って人間には葬式という風習がある。最近は火車対策に火葬を選ぶ家も増えてきた。いずれにせよ葬式が終われば小雪の顔を見ることは出来なくなるのだから、それまでに一度は顔を合わせておいた方が良い。
分かっている。分かってはいるのだ。
しかし分かっているから実行できるのなら、どれだけこの世は楽に出来ているのか。
最早溜息を吐く気力すら無かった。
「あっ、こんな所にいたのね!」
空から聞こえてくる声に顔を上げることもせず、そのまま立ち去ろうとする私。咄嗟に腕を引っ張られなかったら、一体何処へ行っていたというのだろう。
腕を掴まれても抵抗すらしない私。されるがままに引っ張られ、ようやく相手の顔を見る。
ウドンゲだった。どうして彼女が私を引っ張っているのか、些か理解に苦しむ。
「師匠が話をしたいから連れてこいって。あなた顔色悪いよ。昼食はちゃんと食べた?」
唇が引きつった。腹を満たしたものの正体を知っていたら、ウドンゲの言葉は皮肉にしか聞こえない。そんなつもりがあったわけではないのだろう。しかし今の私には心の余裕が無かった。
それ以上に気力が無かったから振り払うことはしなかったけど、内心はウドンゲに苛立ちを覚えていた。八つ当たりだ。小雪を失った悲しみや自分への怒りをごちゃ混ぜにして、それを彼女にぶつけている。お門違いも良いところだが、それを冷静に指摘できるほど私の頭はクールダウンしていなかったのだ。
腕に力が戻ったならば、すぐさま私はウドンゲを叩いていただろう。無気力であったことを感謝すべきかもしれない。理不尽な暴力を振るわずに済んだのだから。
「……師匠の手伝いをしてて怨まれた事もあったわよ。師匠は本当に天才だから、私が足を引っ張ったんじゃないかって。殴られたのも一度や二度じゃないわ」
何が言いたいのか分からない。虚ろな私の瞳に向かって、気恥ずかしそうにウドンゲは答えた。
「だから八つ当たりされるのは慣れてるってこと。別に気にしなくてもいいのよ」
まだ殴ってもいないのに、これも師匠の直伝なのか。それとも本当の師匠は古明地さとりなのか。
ちょっとだけ私は微笑んだ。何がおかしかったのか知らないけれど、微笑みたかったから微笑んだ。
「さあ、着いたわよ」
てゐと遊ぶため、永遠亭には何度か訪れたことがある。しかし中に入ったのは数えるほどで、永琳の部屋となれば全くの未知だった。見ればウドンゲの表情にも微かな緊張が見て取れる。どれだけ通おうとも師匠の部屋というのは慣れないのだろう。
自然と私の身体にも張りが戻ってきた。永琳の部屋まで辿り着いた頃には、もうウドンゲの手は私から離れていた。
「師匠、入ります」
襖を開き、草の匂いが廊下へ流れ込んでくる。仄かに小雪の部屋を思い出すのは、彼女が薬を必要としていたからか。いずれにせよ私にはあまり馴染みのない匂いだ。ウドンゲは平然としていているけど真似することは出来ない。
顔をしかめ、おもむろに敷居を跨いだ。和室には似つかわしくない標本にされた草と天井からぶら下げられた奇妙な根っこが出迎えてくれる。里にあった漢方の店で似たような風景を目にすることが出来た。
机に向かっていた永琳がこちらを向くと、ウドンゲは頭を下げて去っていく。部屋の中には私と永琳だけが残っていた。
「随分と遅かったわね。捜すのに手間取ったということは、あちこち彷徨いていたのかしら」
「……あなたには関係のない話よ」
小雪の最後を看取ったとはいえ、所詮はただの医者。私の苦しみを癒してくれるはずもなく、ましてや小雪を蘇らせてくれるわけでもない。ここから先は坊主の出番だ。医者も私も突っ込むような首を持っていなかった。
「本来なら私もそれに同意したでしょうね。もう私達にはすることが無いと。だけどこれを見つけてしまったのだから。私にはまだすべき事があった」
引き出しから取り出しのは、ただの紙切れ。いやよく見れば、そこには私の名前が書かれていた。多々良小傘。見覚えのない筆跡だけど、誰が書いたのかは不思議と分かる。
目を見開いた。口をまん丸と空けている。言葉のない私に代わり、永琳が淡々と説明を続けた。
「普通は遺族に当てられるものだけど、彼女の場合は事情が事情だから。極親しい一部の人物にだけ宛てたようね。この遺書」
「遺書……」
「私とウドンゲ、それと稗田にも宛てたものが見つかったわ。私としては稗田にお願いしたかったんだけど、そういうわけにもいかないでしょ。だから私が代わりに渡すことになったのよ」
稗田阿求は多々良小傘を許さない。それはどちらかが死んでも変わらない事実。彼女が私に小雪のものとはいえ遺書を渡すなど、到底有り得ない話だった。
永琳はこめかみを揉みながら、疲れたように口を開く。
「医者としてはあなたにも言いたいことは色々とあるんだけど。まぁ、何を言っても余計なお節介にしかならないでしょうね。あなたにとっての特効薬となりそうなのは、この遺書以外に無いのだから」
「で、でもこんなもの何時の間に?」
「さあ。でも有っても不思議じゃないわ。彼女の身体は本当に弱かった。それこそ何時死んでもおかしくないぐらいに。だから私もウドンゲも口を酸っぱくして注意するように言ったのだけど、案外しっかりしていたようね」
永琳宛ての遺書に何か書かれていたのか。寂しげに呟く顔の中に、微かな喜びがあることを私は見逃さなかった。そういえば布団でこそこそと何か書いていたのを思い出す。あれが遺書だったとしたら、かなり前から用意していたことになる。
阿求は私と小雪が出会うことを嫌がっていた。あれは私の能力を鑑みてのことだとしたら、出会う前から小雪の体調は悪かったのだろう。それこそ永琳の言うとおり、何時死んでもおかしくないほどに。
勿論、だからといって私が自分を許せるはずもなかった。引き金を引いたのは、他ならぬ自分なのだから。
「兎に角、これはあなたの物よ。読むなり焼くなり自由になさい」
手渡された遺書はただの紙切れのはずなのに重く感じた。これに小雪の思いが詰まっているのだとしたら、それこそ両手でも持ち上げることは出来ない。しばし遺書を眺めていた私だったが、すぐさま永琳の部屋を後にした。
出来ることなら、これは一人きりで読みたい。兎達の間を駆け抜け、てゐの呼ぶ声も無視して、私は竹林を走っていた。胸の中には小雪からのメッセージがある。燃やすわけにはいかない。
私は彼女の最後の言葉すら聞いていなかった。
彼女は何を思っていたのだろう。遺言は聞けずとも、小雪の心の一部ぐらいはこの遺書に記されているはずだ。
竹藪を抜けたところで、迷いの竹林はいつの間にか背後にあった。この辺りは人間もあまり立ち寄らず、妹紅ですら立ち入らない。兎の気配も無いし一人きりだ。
何度も深呼吸して、岩のように凝り固まった肩をほぐす。まさか怒りや嘆きの言葉が書かれているのではなかろうか。阿求から突き放され、小雪とは別れ、このうえ怨み辛みが残されていたとしたら。私と出会わなければ良かったという後悔の言葉だけが遺書に書かれていたとしたら。
唐突に永琳の言葉が蘇る。燃やすのも私の自由。あれはそういう可能性を示唆していたのではないか。あるいはこのまま読むことなく、火にくべてしまうのが良いかもしれない。小雪からも見放されてしまったら、それこそ私は二度と立ち直ることが出来ないだろう。
どうしよう。燃やしてしまおうか。
いや、何を馬鹿なことを。弱気な自分に渇を入れる。
出会ってしまったのは私の責任。殺してしまったのも私の責任。だったら彼女が何を言いたかったのか。何を伝えたかったのか。それを知るのは私の立派な義務なのだ。
逃れることはできない。いや逃げ出してはいけない。
しっかりと受け止め、改めて罪を背負って生きていかなくては。
私は決意を固め、遺書を開いた。
『多々良小傘様へ』
息を呑んだ。
『この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのでしょう。人の死は突然訪れるもの。あるいは言葉がなく、あなたの居ない所で死んでしまったのかもしれない。そう思うと恐ろしくて、つい筆を取ってしまいました。この手紙が不必要になっていることを、私は心の底から願います』
不幸なことに、彼女の推測は当たってしまった。それもおそらくは予想していなかった形で。
『正直な事を申し上げますと、阿求からあなたの話を聞いたとき。私はあなたに恐怖を抱きました。だって人を驚かす妖怪なのですよ。心臓が弱い私にとっては、それこそ人を食べる妖怪よりも恐ろしかった。だからもしも出会ったら泣いて許しを請うてでもお引き取り願おうと思っていました。あなたと出会った、あの寒い日までは。
私は違った意味で驚きました。可愛らしい紫の傘を覗かせていたのが、他ならぬ恐れていた多々良小傘という妖怪だったのですから。阿求も大言壮語を吐くようになったものだと、密かに呆れていました。確かにあなたは幾度となく私を驚かせようとしていた。だけど失礼かもしれませんが、それはどれも私を楽しませるようなものだった。だから阿求達にも口止めをしていたの。私の病名を話さないでって。言えばあなたは遠慮して、私の所に来なくなるかもしれない。その点に関してはごめんなさい。私の責任よ。
だけどあなたに別の意図があったとしても、それはどれもこれも私にとって素晴らしい時間を与えてくれるものでした。
改めて、ありがとう。小傘』
曇天の空から雪が零れる。また積もるのだろうか。
空気は冷たく、頬も震えていた。
『だけどもしかしたら、あなたの目的が達せられているのかもしれない。ひょっとしたら、私はあなたに驚かされて命を落としてしまったのかもしれない。そうでなければ謝ります。だけどもしもこの不安が現実のものとなっていたら、あなたはきっと自分を責めているのでしょう』
思わず身体が震えた。遺書の中で想定される最悪の事態が、いま現実のものとなっているのだから。
自然と読み進める速度も落ちる。
だけど止まることは出来ない。
『あなたに罪はありませんと言ったところで、それは嘘になるのでしょう。そんなもの、まずあなたの心が許さない。だから私から何か言ってあげることはできません。言ったとしても意味はないでしょう』
小雪の言葉は事実だった。もしも小雪の死体が喋り、私に罪はないと語ったところで、私は私を許せない。死者が許そうと、他の誰かが許そうと、小雪を殺したという事実だけは変えることが出来ないのだから。
時間も魔法でも解決することはできない。
『死ぬ間際の私がどう思っていたのか。それは私にも分かりません。人の心は移ろうもの。あるいは怨んでいるかもしれないし、憎んでいるかもしれない』
心臓が痛む。
『だけどこれだけは言わせてください。少なくとも今の私は、あなたの手に掛かったところで怨むことはない。むしろあなたの手に掛かるのなら本望です。いつ死ぬとも知れぬ生活は、自然と私の心を蝕んでいました。普段は笑顔で誤魔化していたけど、あなたや阿求がいない時はよく泣いているのですよ。だからその苦しみから解放されたのだとしたら、むしろ私はお礼を言うべきなのかもしれません。まぁ、ほんのちょっとだけ死ぬのは怖いけど』
不思議なものだ。雪に混じって雨が降っている。
いつのまにか遺書の上には水滴が零れ、小雪の文字を滲ませていた。
『最後に一つだけ。あなたの手に掛かったとしても、病に冒されて逝ったとしても、あるいは天寿をまっとうしたとしても。小傘と過ごした時間が楽しかったという思い出だけは、決して色あせない事実だと知って欲しい。部屋の中しか世界が無かった私に、もっと大きな世界を見せてくれてありがとう。
こんな私に何度も会いに来てくれた。それが私にとって最大の驚きです』
水滴が落ちていない文字も滲んでいる。部屋の中で書いただろうに、雨漏りでもしていたのか。
遺書の最後にはこう記されていた。
『多々良小傘の大親友、日向小雪』
曇天の空に私の叫び声が響き渡った。
それは泣き声なのか、それとも喜びの声なのか。当の私にすら判別できない。まるで獣の雄叫びのように、何度も何度も手紙を胸に抱きしめて叫んだ。
遙か遠くの小雪に聞こえるように。
何度も何度も。私は叫んだ。
永琳から葬儀の知らせを聞いた時、私は参加すべきかどうか迷った。おそらく阿求もいるだろうし、何よりも小雪の顔を見る勇気がまだ無かったのだ。彼女はこんな私を大親友と言ってくれた。私達の出会いを嬉しいと喜んでくれた。
だからこそ会わせる顔がない。どの面をさげて葬儀に参加しろと言うのだ。自分が殺めた人間の葬式に。
だけど逃げるわけにもいかない。ここで小雪の顔を見なければ、私は一生後悔して過ごすのだろう。どうして行かなかったのか。せめて顔ぐらい見ておけばよかった。自分のことだ。そうやって悔やんで悔やんで涙を流すことぐらい、今の私にだって簡単に予想できる。
そもそも友達の葬儀だ。参加しないということは彼女の言葉を踏みにじるのに等しい。例え自分が殺した相手だったとしても、いやだからこそ参加する責任があるのだろう。
立派な服なぞ持っていない。この格好で行くしかなかった。だけどせめてもの償いとして、渡せなかった雪うさぎを抱えて行った。あの時と違って簡単に見つかった南天の実が、今は何故だか恨めしい。
親族から疎まれていたとはいえ、一応は名家の長女。かつて過ごした家の方ではなく、里でも最も活気づく通りに日向小雪の実家はあった。優に何十人も入れそうな大きな屋敷へ、黒ずくめの人間が弔問に訪れている。さすがに正面から入ることは出来ないだろう。
だから私はこっそりと裏口から飛んで侵入を果たした。さすがに葬儀の最中だけあって、警備らしい警備はない。多くの人の注意は表の人間達へ向けられており、侵入者など居るわけがないとタカをくくっているのだろう。
長居は不可能だ。この雪うさぎを置いたら、すぐさま立ち去ることにしよう。阿求だってきっと、私がここに居ることを望まないはずだ。
何処でやっているのかは大体の推測が出来る。人が集まっている場所。そこに小雪はいるはずだ。人が居なくなったのを見計らって、少しずつ目的の場所へと近づいていく。
あともう少しで小雪との顔が見えると思ったところで、不意に背後から人の気配がした。咄嗟に私は近くの部屋に隠れる。幸いにも空き部屋だったらしく、中には誰にも居なかった。
息を潜め、後ろから来た人間をやり過ごそうとしたところで。私は聞いてしまった。
「しかし、こんなにも長生きするとは思いませんでしたな」
「まったく。人間一人を養うのだって無料というわけにはいきませんからな。早々に逝ってくれて助かりましたわ」
「それにしても聞きましたか。何でも死んだ原因が妖怪に驚かされたから、だそうですよ」
「聞きました。多々良小傘とかいう妖怪ですな。里でもよく聞く名前ですよ、人間を驚かすどころか人間に驚かされる馬鹿な妖怪だと」
「そんな奴に驚かされてくたばるなど、あの娘の身体はよほど弱っていたようですな」
「くたばり損ないで助かりましたわ。いやあ、多々良小傘様々ですな」
男達は笑いを交わし、そのまま廊下の向こうへと去っていった。
随分と馬鹿にされたものだ。
人間を驚かせない? 逆に人間から驚かされる?
反論はできない。紛れもない事実だった。私はいつもお腹を空かせて、それでも虎視眈々と人間を驚かせようと頑張っていた。しかし結果は伴わず、それどころか普通の子供にも驚かされる始末。大凡妖怪と呼ばれる連中からしてみれば、同族と呼ばれるのも腹立たしいレベルだったろう。人間が馬鹿にするのも分かる。
私は良い。事実だ。だけど小雪のことまで馬鹿にされたくはない。
死んでも尚、小雪は私によって苦しめられるのか。私が情けなかったばかりに、尊厳すらも踏みにじられる。あんな妖怪に驚かされて死んだのかと嘲笑されてしまったのだ。なにもあの二人が特別というわけではないのだろう。親族は一様に小雪を疎ましがっていると聞いた。もしも事実ならば、この先の和室ではもっと酷いやり取りがされているのかもしれない。
想像するだけで吐き気がする。死者を敬えない連中に対して。そして何よりも踏みにじる為の材料を作ってしまった自分に対して。
もしも多々良小傘が山の神様ぐらい威厳のある人物ならば、馬鹿にされはしなかっただろう。それでも喜ぶ輩はいたかもしれない。だけど鶴の一言で黙らせるぐらいの実力があれば、小雪の尊厳は守ることが出来た。
要するに私は弱すぎたのだ。小雪一人を守れないぐらいに。
馬鹿にされて悔しがることしか出来ない。裏口まで戻って、屋敷から飛びだした。手の中の雪うさぎは砕け、跡形も無くなっていた。
せめてあいつらを驚かすことが出来たのなら。小雪は情けない妖怪ではなく、もっと恐ろしい妖怪の手に掛かって死んだことになったとしたら。親族の連中は兎も角として、せめて小雪を知らない連中は思うのではないだろうか。
ああ、なんと酷い目に遭ったのかと。
同情して欲しいわけではない。ただ、馬鹿にして欲しくなかったのだ。
だけどどうすればいい。いつも通りの驚かし方では駄目だと分かっていても、私が持っているのは古典的な怪談の知識だけ。これでは現代の人間は驚いてくれない。どうすればいい。
悩む私の目の前に、最も会いたくない人物が横切っていった。
不意に、彼女を呼び止めた。
「阿求!」
振り返った阿求の双眸に浮かんでいた憎しみにたじろぎ、しかし踏ん張って真正面から睨み返す。ここで引き下がっては何も始まらない。末代まで憎んでもいい。恨み辛みをぶつけてもいい。だけど今だけは、それで引き下がるわけにはいかないのだ。
「どうやったら人を驚かせるのか、私に教えて欲しいの!」
「……それを私に訊きますか。随分と皮肉というか嫌がらせが上手くなったものです。それで、今度は誰を殺すのですか。ああ、私ですね。私を殺すのですね」
露骨に混ぜられた嘲笑の陰に、ちらちらと見え隠れする嫌悪の色。言葉は交わしてくれたけれど、あの時の感情は一過性のものではないのだ。相変わらず阿求は私を憎んでいる。
「お願い! どうしても驚かしたい奴がいるの!」
恥も外聞もあったものではない。私は頭を下げた。額が地面に当たるほど。
これで心を動かせるとは思わない。だけどせめて自分の本気を見せなければ。話を訊く気にもなってくれないだろう。
立ち去る音は聞こえない。立ち止まったまま、阿求は私を見下ろしているようだ。
「誰を驚かすのですか?」
頭を上げて、私は答えた。
「小雪の親族」
阿求は目を閉じた。口も紡ぐ。しばしの沈黙が訪れ、緊張感が背中を押しつぶした。
私が頼れる相手は限られている。それも小雪の事が絡んでいるのだ。相談できるのは永琳か阿求ぐらいのもの。妖怪達は人間なんて気にするなと協力してくれないだろうし、人間は妖怪に協力しようとしない。阿求だって小雪が絡んでいなければ、絶対に助言すらしないだろう。
だが阿求も知っているはずだ。あの連中が死者に対してどんな暴言を吐いているのか。誰もいなかった廊下とはいえ、ああも大っぴらに話しているような奴らだ。何処かで耳にしていても不思議ではない。
一縷の望みに縋り、願い続けること数分。
阿求が重い唇を開いた。
「協力は出来ません。私に出来るのはあくまで助言」
「じゃあ!」
「あなたを許したわけじゃありません。一生かかっても許せるわけがない。だけど彼らには私も腹を立てていたのですよ。あなたが多少はマシな妖怪になるのなら、まぁ小雪を知らない連中は馬鹿にするのを止めるでしょう。それぐらいなら協力してあげてもいい」
歓喜が胸で渦を巻き、再び私は頭を下げた。
「止めてください、気分が悪くなる。そもそもあなたに出来ることなんて殆どないのですよ。人間を驚かす能力を持っていても、それは時代遅れにも程がある。現代では通用しない」
「だ、だったらどうすれば?」
無表情を崩し、悪戯っ子のように顔を歪める。こんな顔の阿求を見るのは初めてのことだった。
「あなたでは無理です。ですがあなたのお友達の力を借りれば」
それこそ命を奪うのだって不可能ではない、と阿求は語った。
暗い夜道は妖怪の狩り場。人食い、夜雀、何でもござれ。提灯程度で安心するな。月でも照らせぬ暗闇の正体に、人々は恐れを成すといい。
葬儀の夜。故人を蔑ろにした宴会は終わりを迎え、親族達は帰路についていた。活気で溢れる里の通りも、さすがに丑三つ時が近くなれば昼間の騒がしさを忘れる。今宵の月は半月。照らす道もまだまだ薄暗い。
千鳥足の男を支えるようにして、体つきのしっかりした中年の男性が夜道を歩いていた。見覚えはある。あの廊下で小雪を馬鹿にしていた二人だ。ちょうど良い。運命とやらも偶には粋な計らいをするものだと、物陰に隠れていた私は密かなる感謝を送る。
例えば、暗がりから飛びだした場合。ある程度の大声を張っていれば、大概の人間は驚くだろう。多少。しかしそれは腹を満たすほどの驚きでもなく、やがて怒りに取って代わられる。
私が求めているのは完全なる恐怖を伴った驚き。道の曲がり角でドラゴンに出くわしたような、そんな絶望すら感じる驚きを欲していたのだ。
「ほら、しっかりしてくださいよ。こんな所で寝たら風邪をひきます」
「うぅむ……」
どちらも赤ら顔だが、中年の方は酒に強いらしい。足取りもしっかりしているし、まだ冷静な方だ。泥酔しているのなら酒の悪戯と割り切られそうなものだが、あの調子なら記憶にも残ってくれるだろう。
まぁ、もしもそれでも酒の仕業だと思いこむのなら再び驚かしてやるまでのこと。私の人生は人間と違って長い。この程度の寄り道なら勘定にも入らないのだ。
私は息を潜めた。かつて、これほどまでに緊張した事があっただろうか。
ただ空腹を満たす為ではない。見窄らしい背中には小雪の尊厳が掛かっているのだ。弥が上にも緊張するというもの。ああ、今ならば巫女の凄さが分かる。これだけの圧迫感を感じながら彼女たちは異変を解決していたのだ。あるいは気にしていなかったとしても、これを無視できるだけの度量は素直に認めるしかない。
押しつぶされないよう心の底から踏ん張りながら、男達の前に飛びだすタイミングを計る。遠すぎても近すぎても駄目だ。ましてや通り過ぎてしまったら元も子もない。最良のタイミングを見計わなくては。
普段の私ならば飛びだすだけで満足していた。かつての栄光に縋り、己に慢心して、それでも充分だとタカをくくっていた。だけどもう認めなければならない。飛びだすだけでは、うらめしやーと時代遅れの言葉を放つだけでは、もう人間は驚かないのだ。
だから阿求は言った。友達の力を借りろと。
私には心強い仲間がいる。だけど彼女たちの力を借りずとも、私には私のやり方がある。この道を極めれば、いずれはかつてのように人間達も驚いてくれるはずだ。そう思っていた。
しかし悠長なことを言っている暇はない。こびりついた噂は簡単に払拭できず、人々が忘れ去る頃には定着してしまう。そうなる前に驚かさなくてならないのだから、私だけではどうすることも出来ない。阿求の言葉は正しい。
それだけに自分が情けない。
いや、己を苛むのは後にしよう。男達が近づいてきた。タイミングはもう迫っている。
「まったく、飲みすぎですよ。いくら祝いの席とはいえ……」
唇を噛み、大地を蹴り、そして私は飛びだした。
家と家の隙間。暗がりからただ飛びだしただけの私を、不思議そうな顔で男達は見ていた。やがてその顔が醜悪に歪み、中年の男は千鳥足の男から身体を離す。哀れ千鳥足は崩れ落ち、地面に身体を叩きつけられた。衝撃で唸り、そして中年の方を睨み付ける。
「なにをするか!」
しかし中年は応えない。ただ私の方を見て、唇をわなわなと震わせている。身体も小刻みに震えていた。顔色は暗闇でも分かるぐらいに青く、歯はカチカチと鳴っていた。冬の夜、寒さで凍えているのかと千鳥足は思ったのだろう。
やがて視線の先を追って私を見つけ、提灯が姿を照らした時、震える人間が二人に増えた。
「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
赤ら顔が真っ青に変わる。地面に崩れ落ちたまま、お尻を引きずるように後ずさった。
私は何もしていない。ただ飛びだしただけ。
だが男達には私の姿が想像するのも恐ろしいほどの化け物に見えているのだろう。吸血鬼や鬼のように幻想郷縁起でも取り上げられる妖怪なら兎も角として、人知では理解できない化け物がいたとしたら。そんな正体不明を小さき人間が受け入れられるはずがない。
それが暗がりから飛びだしてきたのだ。驚くなという方が無理というものだ。
ぬえには感謝しなければならない。こうも恐怖を伴った驚き、私一人では永遠に得られなかっただろう。かつて味わった以上の驚きがお腹を満たし、満腹感が私を包み込んでいた。
しかし満足はしていない。一歩、男達へ踏み出す。
「ひいっ!」
童のように幼き悲鳴は、絶対の恐怖を表していた。本当は逃げ出したいのだろう。恐怖たる存在が近づいてきているのだ。あくまで腰が抜けていなければ、という話だが。中年の男も今では地面に尻餅をついている。
近づく度に恐怖と驚きが私の胃袋を満たす。そして手が触れられる距離まで近づいた時、千鳥足の方は失禁すらしていた。
「私は多々良小傘。お前達が馬鹿にしていた妖怪だ」
男達を見下ろす。小さな私の身体でも見下せるほど、男達は身体を縮めていた。
必死で下がろうとしても身体は言うことを聞いてくれない。提灯も置き去りだ。背中に月光を背負えば、私の顔は完全な影になっているだろう。だが男達にとってみれば、それすらも恐怖や驚きに成り得るのだ。
ああそうか、私の驚きには恐怖が無かったのだ。かつての人間は妖怪を恐れていた。だから私の姿を見るだけで驚いていたのに、幻想郷の住人は妖怪をあまり恐れていない。それも私のような脆弱な妖怪となれば、逆に馬鹿にする始末だ。正体不明な存在が既知の物になったからなのか、それとも距離感が近くなったからなのか。
原因は阿求にでも任せるとしよう。問題は私に恐怖してくれる人が居なくなったということ。
古典的な怪談では意味がない。人間は知っている物には恐怖を抱けない。
だから阿求はぬえに頼れと言った。正体を判らなくする程度の能力を持つぬえにとって、人間を驚かすことなど造作もないのだ。
「私は多々良小傘。お前達が馬鹿にしていた妖怪だ」
多くを語る必要はない。情報を与える義理はない。ただ必要な事をだけを伝えればいい。
多々良小傘は恐ろしく、そして人間を驚かせる存在なのだと。
男達の顔色は青を通り越して白く、今にも息絶えそうなほど目を見開いていた。一瞬だけ小雪の姿がちらつき、近づく速度が鈍る。だが心の中で頭を振って、今だけは彼女のことを忘れようと決意した。
もう身体が触れそうなほど接近したところで、更に私は屈み込んだ。少しでも風が吹けば、あるいは顔が触れそうなほどの距離。男達の酒臭い息が肌で感じられる。久しく見ていなかった表情も、間近で見ることができた。
「私は多々良小傘」
男達は身体をビクリと揺らし、私の唇を見つめている。
「日向小雪を殺した妖怪だ」
二人の肩をポンと叩いた。それが合図となったように男達の身体は完全に崩れ落ちた。気絶した人間が相手ではどうすることもできない。これで一端は私の役目も終わりだ。少なくともこの男達から親族に話が伝わるはず。だがまぁ大抵の連中は酔っぱらいの戯れ言と笑い飛ばすのだろう。
あと何回これをすることになるのか。考えてみても始まらない。私は小雪が馬鹿にされないようになるまで、何回でも何度でも繰り返すつもりだ。
小雪を殺めた刀で身内の人間を斬っているようなもの。いくらゲスな相手とはいえ、あまり気持ちのいいものではない。だけどいずれにせよ、私はこの刀を振らなくてはならないのだ。だってそれが多々良小傘という妖怪の生きる目的なのだから。
驚かすのを止めてしまった時、私は多分死ぬのだろう。飢えて死ぬわけではない。生きる目的を見失ったから死ぬのだ。だから例えこれで友人を殺めたとしても、私はこの刀を手放すことはない。
自分が生きる為、小雪を守る為、私は人を驚かせ続ける。背中には罪を背負ったまま、決して消えることがないと知りながら、私はそれでも刀を振るう。
もっと恐れられよう。もっと驚かれよう。
それが私の生きる意味。それが私の目的。
さあ、だからまずは一歩を踏みだそう。偉大なる妖怪達は人間を恐怖させて狂喜に酔いしれる。聞くだけで身を凍らせるような、おぞましい笑い声をあげるのだ。
大妖怪達は決して泣かない。だから私も泣いてはいけない。
「ぐすっ……」
涙混じりの高笑い。暗い暗い夜の道で、私は泣きながら大妖怪への道を歩み始めた。
歪な泣き笑いは夜が明けるまで続いたという。
すばらしいです
過去にプレイしたゲームのお陰で、雪うさぎは俺の涙腺を刺激する凶悪なトリガーアイテム。
小雪ちゃんの手紙のくだりが個人的には最大の涙腺クライシスだった。
食事をするたびに親友の死を思い出すのが小傘に与えられた罰なのか。
いつか痛みが消えることを願うのは俺のエゴなのか。
がんばれ、村の裏メシア!
読み終わった後の、胸に残る寂しさが、このお話の素晴らしさを物語っていると思います。
大妖怪になった小傘の話も読んでみたいです。
本気で泣けた。
小傘は本当に辛い生を受けた存在だということを改めて感じさせられました。
素敵な作品をありがとうございました。
大妖怪となった彼女は紫の傘とどう付き合っているのでしょうね。
あるいは、大妖怪となった小傘のことを、阿求の後代の御阿礼の子はどう記すのだろう。
小雪と小傘の友情だけじゃなく、稗田と小傘の関係の繋がりも気になる話でした。
泣かされたので
小傘自身の力で何とかして欲しかった。
あと、いくら姿形が恐怖を誘うほどに見えていたとしても、直接危害を
加えられないとわかればそこまで恐怖を覚えないはず。
小傘が大妖怪になるとすれば相当数の人を驚かせたのだろうけど、
驚かせれば驚かせるほど「びっくりさせるだけで害は無い」との
噂が流れてそれこそ驚きはどんどん薄まっていくと思う。
個人的には名作だと思う。
生きていくために彼女は後悔をしていくまでの様、見事でした