何時もの喫茶店に似た場所。
向かいに座る蓮子は両手で空のカップを抱えている。微かに手を震わせて身を縮こまらせる様は、炉の火に当たる人宜しくカップの中身で暖を取るようにも見えた。斯く言う私自身も寒さに身を固まらせて……もう動く気力さえ残っていなかった。せめて蓮子の隣に移動し、体温を分け合う事が出来ればもう少し暖かかったろうに。
「世界から二人の人間が消えた。ただそれだけの事よ」
彼女は私よりも気丈。
こんな重大な事を、なんでも無いように言ってのける。
「れ、ん……ごめ、んな、さ……」
「いーよ」
顔色は悪かったけれど彼女は笑ってくれた。なのに出来損ないの私の瞳は見るのを拒む。愛しい友人の笑顔は忽ちぼやけてしまう。
私は彼女の顔が霞んでしまわないよう、必死で戦慄く唇を噛む。押し殺した嗚咽が塊となって喉にぶつかって、それ以上は一言たりとも喋れそうに無かった。
唇は呆気なくぷつりと切れて、体内に残っていた予想外の熱と、しょっぱい味が口中に広がった。
これから私の時間が許す限り、私達の身に起こった事を語ろうと思う。
ある日私は、森の奥で可愛らしい家を見つけた。
夢? ええ、夢かもしれない。でも夢を夢と、現を現と認識するのは全て自分の主観であるからこの時見たものが本当に夢であったのか、私には未だ解らない。
どろどろに歩き疲れた私が見たものは、お菓子で出来た様な建物の造作。昔の欧羅巴の風景を映した写真に、似たものがあった気がする。素敵な事に窓からは明りが漏れていたし、私のいる場所からは小さな人影が動くのが見えた。
生垣の茨やヒイラギを夢中で掻き分けた際、手に幾つも傷が出来たけれど構わなかった。夢中で進む私の手の、猫に掻かれたような痕を、ハーブの香りをたっぷりと含んだ夜風が撫でていた。
柔らかい芝は、厚いカーペットの上に居るかのような気持ちにさせてくれ、誰かの気配に安心したのか勝手に目尻が熱くなる。
この場所にたどり着く前、何かとても怖い目にあったのだけれど思い出せなかった。
お腹がすいていた。
暗くて怖い森の中に随分長い間居たのだから、当然かもしれない。
しかし、玄関の呼び鈴に手が届くあと一歩という所で、誰かに肩を捕まれてぐいっと引っ張られてしまう。掃き清められた石段を足が滑り後ろにひっくり返る直前。
建物の中から柔らかな声が聞えた気がしたけれど、私の意識は既に別の世界へと傾き始めていた。
『××? おかえりなさい』
「おそよう、メリー」
向こう側で誰かの、目を開くと蓮子の声が聞えた。
見慣れた天井。次に、自分の不摂生な行動を思い出させる匂いが鼻腔を突く。
ただでさえ太りやすい体質に冬休みという悪条件。体重計の角度が変わった事を確認したばかりだったのに……。私ともあろう者が、友人の甘言に乗せられ一緒にカウチポテトを決め込んでしまったのだった。部屋に充満しているのは、テーブルに打っ棄ってある残骸の匂いだろう。調子に乗った事を反省しても今更遅い。ここは一発奮起して今度こそダイエットを成功させるしかない。
ところが、そんなささやかな私の決意などお構い無しに、悪戯っぽい蓮子の声が投げつけられる。
「昨夜はお楽しみでしたね?」
「ばか……。あー、なんで蓮子は食べても太らないのよ。食べてる量だって私とほとんど変らないじゃない?」
私は自分の失態に唸りながら、目を擦り擦りだるい身体を起こした。見えた時計の針は、4時を指していた。
お酒も多少飲んだとはいえ、夕方まで寝てしまうとは確かにお早くはない目覚め。
明りの燈る室内で蓮子が身支度を整えている。ちらりと此方を見た彼女の横顔には、緊張の中にも隠しきれない軽薄な笑顔が浮かんでいた。私は殴ってやる事を心に決め、目一杯不機嫌に見えるように寝起きの半眼で、じっとり彼女の様子を見つめた。
オヤツを食べた事をからかった罪は私の体重よりは重い。
幾ら無二の友人とはいえ、許される事ではないのだ。
蓮子は、私の視線を華麗に無視し続け、やや面倒くさい縛り方でネクタイを結んでいく。あれは、セミウィンザーノット。出来が上品に見えるので、私の好きな結び方だ。まだ高校生の頃、付き合っていた人がこの方法でタイを結んでいたのが思い出され、少しだけ懐かしい気分になった。
普段、彼女はプレーンな方法で手早く結ぶのに、余程気合が入っているのだろう。
……の割には後ろ頭の寝癖を直していないのが気になるけれど。
そういえば、彼女、寝る時もパジャマに着替えなかったらしい。シャツも皺がよっていた。
私は彼女の支度を見ている内に、ある違和感に気が付いた。部屋が寝る前とほとんど変わっていないのだ。暖房を切ったはずなのにまだ仄かに暖かい。カーテンはきちんと閉まっており、明りが煌々と点いている。
念の為にベッドのすぐ上にある窓を下から覗いてみると、案の定外は暗かった。
「……ものすごーくお早いお目覚めね、蓮子」
頭が痛い。
私は眉間を押さえた。
つまり今は午前の4時。
映画を見終わってベッドに入ったのが0時過ぎだから4時間も寝ていない。因みに映画は、殺人鬼の魂が宿った人形が襲ってくるチープなホラーだった。雰囲気作りにと蓮子が持ってきたものだったけれど3作目は最早ギャグでしかない。
「やっぱ普段と違う結び方は難しいなっと。よし出来た! メリーも早く支度しなよ。例の物が無くなってるわよ?」
蓮子とベッドに居る自分。客観的に見ると事後っぽいわ……などとぼんやり考えていた私は、彼女が言っている事がすぐには理解できなかった。
映画。そう、観ていたのは人形の動く映画だった。
はっとして、振り返る。
彼女の言う通り、枕もとに置いた筈の人形が二体とも無くなっていた。
妙に白々しく空いた空間。
首筋にひたりとかみそりの刃を当てられたようで、居心地が悪い。
最近余りにも同じ夢を見るので蓮子に相談したのだが、まさかその日のうちに何かが起こるとは思いもしなかった。怖い? 勿論、怖い。人形が無くなっているのを見て私の顔面は確かに強張ったと思う。でも、その後の震え。両腕で己が体を抱きしめたけれど、……これは恐怖の類に寄るものではない。私と友人は、狐、狗、狸……ではなくて所謂同じ穴の狢。
兎に角。不思議が本物であった事で油を注がれた好奇心が勢いづいて、恐れという本能を軽々と凌駕してしまう。……そういう厄介な性質なのだ。
ベッドから起きると蓮子がきらきらした瞳で此方を見つめている。肩からは何か色々入っていそうな鞄を提げていた。
秘封倶楽部活動開始だ。
※※※
全ての起こりは、古ぼけて色の剥げた人形から始まった。
小春日和。
そういう表現が良く似合う天気の良い日。沢山の幟がゆるやかに翻る。おまけに参道の両側には市が成されていた。
背の高い木も道の上には被さっておらず、青空が一反の布のように寺に向かって延びていて、境内からは何かを燃す煙の匂いが漂っていて長閑な事この上ない。
しかし私自身は麗らかな陽気に反して非常に焦っていた。珍しく蓮子との待ち合わせに遅れそうで、近道にと普段は通らない其処を通った。
だから “それ” を見つけたのは偶々、という事になる。
参道の石畳を駆ける最中、呼ばれたような気がしてはたと足を止め、振り返ると件の人形達と目が合った。
古い薬棚や茶釜等の道具類に囲まれて鎮座して、糸は無くなっていたけれど操り人形だったのだろう。手足を投げて二体寄り添って座っていた。一体は帽子を被り、もう一体は紫っぽいドレスをお洒落に着こなしている。どこかで見たような人形じゃない? 心惹かれた私は、思わずふらふらと引き寄せられた。
「あの、この子達」
「……あら。可愛いお客様」
時間は無かったし、生憎人形達が入るほど手に持っていたバッグは大きくない。
肌の透き通るように白い不思議な雰囲気の女性が、品の整理をする手を止めて此方を見ていた。そして次に私の指先にある人形を見ると、すい、と首を傾げる仕草をする。
「随分汚れてるわね。こんなのあったかしら……?」
綺麗な手で、人形達を摘み上げる。
値札も何もついていない彼女等は、二体仲良く抜けるような青空の下でゆらりと揺れた。
彼女は暫し逡巡の末、気に入ったのなら持ってってと言って綺麗な唇を笑みの形に歪めた。慌てて断ったのに結局ずいと胸に押し付けられて、私はお代を払わぬままに受け取る事となった。
人形を両腕に抱えて待ち合わせ場所に急ぐと、果たして蓮子は到着していた。珈琲一杯で遅刻は許してもらえたけれど、からかわれた事がなんだか悔しい。だって遅刻をするのは何時だって蓮子と相場は決まっているのに。
『あなた達の所為でもあるんだからね』
胸の中で人形に呟くと、帽子を被っている方の人形を蓮子に渡した。その日からだったと思う。
私は、
夜な夜な不思議な夢を見るようになった。否、夢らしきものを見るようになった。
暗い森を彷徨い歩く。
何か怖い事が起こった筈なのに思い出せない。
そして重大な事に気がつく。
何故一人なんだろう?
蓮子。
蓮子、蓮子、れんこ。
あなたは何処に行ったの?
※※※
人形をもらってから2週間。
決心がつかずそれだけの時が経った、と言い直してもいい。
とうとう私は蓮子に相談した。一も二も無く友人は捜査を快諾。結果サークル活動へと繋がったのは、まあ当然と言えば当然なのかもしれない。
部屋を出ると、練り羊羹の様なねっとりとした闇。
友人の後姿に既視感を覚える。アパートの金属の階段と固い靴の踵がぶつかって、降りるとかんかん音がした。
「蓮子!待って」
私は先に行く友人に声をかけた。彼女はちらりと振り返ったけれど、暗くて表情が良く見えない。彼女の歩くスピードが速い訳ではなく、単に私がブーツを履くのに手間取っただけ。
蓮子が先行する道は、ぽつぽつと街灯が点っているにも拘らず、直下しか照らしていない所為で、ちっとも明るくなんかなかった。ぞくりと背を冷たいものが走った。大体チープとはいえホラー映画を観た後なのだ。脳裏に殺人ドールの姿が浮かんできたので慌てて追い出す。
「何処に行くの?」
そういえば、人形は部屋で無くなった。
友人に促されるまま咄嗟に外に出てきてしまったけれど、まずは無くなった場所を探すのが筋だろう。
振り返った彼女は、丁度電灯の下で私に大きく手を振ってみせる。笑っているのか、ふわりと白い息が光の下に広がった。
元気一杯の動作は可愛くもあるけれど、正直に言うと……どきりとした。まるで自分とは別の場所に居るような気がして、私は彼女に向かって思わず走った。
蓮子が最近案じている事に、私が気付いていない訳ではない。
我侭だって分かっているのだけれど……。
彼女に近づく最後の一歩。瞬間、感じた質量。
「わわッ!?」
蓮子はよろけたけれどしっかりと私の背に腕を回して抱き止めてくれた。驚いたように目をまん丸にする彼女。私は跳び付いたもののなんだかバツが悪くなって、自分のよりも少し低い肩口に顔を埋めた。ものすごく間近に、黒ウサギの毛皮のように艶々と光る友人のコートが見えた。そして微かにツンとした匂い。
なんだろう?
思ったけれど、彼女の動揺が伝わってきたので、私は名残を惜しむようにぎゅーっと抱きしめてから離れた。
「え、えと……め、メリー? 何処って、メリー自分で言ってたじゃない。森の中って」
平静をなんとか保って言う友人。暗い中でも横顔に微かに赤みがさしているのが分かる。でもそれもほんの僅かの間。見ている内にどんどん普段の小憎たらしい表情に戻ってしまう。内心残念に思いながら、私も普段の私にシフトチェンジする。
「あれは夢の中の事よ?」
蓮子はち、ちと人差し指を振ると、大きなポケットから手帳を取り出した。すまし顔で彼女がそれを開くと、どうせ何時ものルートで手に入れたのであろう胡散臭い写真が登場した。学校の近くのN森の写真らしい。赤い鳥居が映っている。
そして仄白く、ぼんやりと、
鳥居には何かがぶら下っていた。
「……?」
私は写真を受け取ると目を細めてその何かを見た。見覚えのある人形が二体後ろ向きに、仲良く下がっている。
と、風が吹いた。前髪が散らされて目に掛かった所為かもしれない。けれど、確かにそれらは動いたように見えた。
風に吹かれてゆらり、ゆらり。徐々に此方に向き直り……。
私は、それを、見た。
そう、見たと、思う。
視覚に集中した所為か、他の感覚が疎かになっていたらしい。突風に写真を浚われたというのに、つまんでいた指先は殆ど何も感じなかった。
「……あ」
私の手から落ちた写真は、あっという間に飛ばされた。
「えー! ちょっと、メリー!? なにやって……」
蓮子が大きな声を上げて、慌ててそれを捕まえようとする。待って。見ちゃいけない! アレは見ちゃいけないったら!!
声が、出ない。
私は、すんでの所で蓮子の指先が写真に触れるのを阻止した。飛んでいった写真は、見えない手に引っ張られるように地面の上を滑り、何処かへと消えた。
「もう、あの写真やっと手に入れたんだから。ちゃんと見た? こっち側は冬なのに向こうに青々とした森が……メリー?」
「……」
「え、大丈夫?」
私の身体は、熾りに掛かったように震えていた。虹彩が開いたまま固着してしまった感じで、上手く焦点を結ぶ事が出来ない。
「……ごめ、ちょっと……」
先刻見た写真、あれには。
「どこか痛い?」
紛れも無く…… “私たち” が写っていた。
※※※
文句を言う彼女を宥めながら、前時代の遺産、コンビニエンスストアーへと立ち寄った。不自然な位明るく光る小さな店は、さながら停泊している小型宇宙船の様。
時計は、午前4時25分。思ったよりも時間は経っていない。イート・イン・コーナーで温かい飲み物を買って、人工的な明るさに身を晒すとちょっとだけ落ち着いた。
「まーだー?」
「まーだー」
そわそわと落ちつかない彼女の様子は、散歩前の犬みたい。もう今にも走り出してしまいそう。
しかし、蓮子には悪いけれど、私は今回N森に行くのは良くない事の様に思えてならなかった。だからこうして彼女を納得させる理由を頭を絞って考えている訳だけれど、寝不足の所為か全然言葉が浮かんでこない。
なんとなく見ていた硝子に、店内の人がゆらゆらと映るのが目に入った。
白く明りを反射させて薄く。それはまるで向こう側に居るようで、私は思わずこめかみを押さえる。
「メリー、大丈夫?」
「ええ、なんとか」
心配そうに顔を覗きこまれ、笑みを返すが……今まで気がつかなかったあるものを見つけて、私は思わず息を飲む。
「蓮子、それ……どうしたの」
痣が見えた。
彼女が覗き込む体勢になった為にさらさらの黒髪が流れ、顕になった襟のほんの僅かな隙間から、見えた。
寝る前は無かったと思う。……でも彼女はパジャマに着替えなかったから、確証は無い。
声を掛けた瞬間、不思議な事が起きた。
蓮子は笑みを口元に刷いたまま表情を仮面の様に凍らせてしまった。何時もは魅力的な黒目がちの瞳が、この時ばかりはぽっかりと開いた穴となって中空を映していた。
何かを切っ掛けに魂を抜かれ、彼女は器だけとなったしまったようだった。
「蓮子?」
私は、無言の彼女の肩に手を置く。
二、三回揺さぶると、ぐらぐらと彼女の身体は揺れる。まるで……そう、まるで人形のようだった。彼女が近くに寄った所為だろうか、またつんとした匂いが鼻を掠めた。
「……ッ」
そうだ、どこか痛い所でもあるのか、と先刻蓮子に訊かれたのだった。
私の手は彼女の胸元へと伸びた。なんとなく、匂いの正体が判った気がした。
コートのボタンを外し、ネクタイを緩める。それだけでは足らなくてシャツのボタンも外した。薬の匂いが鼻をつく。白い色が眩しく蛍光灯を反射した。
「なに、これ」
「けほッ!」
小さく咳。ふっと、彼女の瞳に灯が燈る。緩めたと思ったネクタイが締まっていた。
「げほごほ、……ちょっとメリーさん。こんな公衆の面前でなにしてるのよ」
「あ……ら、起きちゃったの? 残念」
きちんとボタンを留め直す蓮子。
彼女はわざとらしく頬を膨らませた。この時間帯に公衆も観衆もあったものではないのだが。
私も誤魔化そうとしたけれど上手く出来たかどうか分からない。友人の肌に巻き付いていた包帯と薬の匂いはどうしたって記憶から払拭出来る物では無かったし、それらを認知した事で受けた衝撃も隠せるほど小さなものではなかった。
コンビニを出る直前、私は思いついてあるものを買い求め、首尾良く蓮子のコートに細工する事が出来た。
御守りのようなものだ。簡易でちゃちなものだけれど、無いよりは良い。
※※※
寝静まる家々の間から見えたN森は、鬱蒼としていた。
「今、何時?」
気の所為ならば良い。でも先刻から夜は濃度を増していくように思えた。
「……午前4時27分」
蓮子は帽子のつばを手で持ち上げ、空の星々を捕らえて言った。
今、彼女の目に空はどんな形で映されているのだろう? 私も釣られて見上げたけれど、無数に散りばめられた星達は何も語りかけてこない。
休憩はたっぷり20分位した筈だ。店を出る前に時計を確認してこなかったのが悔やまれるけれど、部屋を出てから1時間は経っていても良さそうなものだ。
「ねえ、蓮子。私に何か隠してる事があるんじゃない?」
鳥居が見える位置まで行く前に、確認したかった。友人は、はっとして此方を向いた。何かを言いかけ、しかし、口を一文字に結ぶと首を横に振る。
「……れ」
白状させたかった。けれど、蓮子の視線は強い。無理だ、私は咄嗟に悟った。彼女は意外と頑固なところがある。学問に対する姿勢が板についているのか……コンプレックスな問題が現れると強い意思で一人でそれを解こうとする。それは彼女の性質のようなものかもしれない。
油を注がれた好奇心、探究心。私も持ち合わせるものだけれど、無理に解こう、とは思わない。不思議なものに到達したら、解くでなく提示されたものをありのままに受け入れる。そういう意味では同じ穴でも狢の性格は違う。
私が口を噤んだのを見て、彼女は口角をあげてにっと笑った。
背後に低く垂れる細い針のみたいな月と共に、不敵に笑う友人。最早ため息しか出なかった。
「分かった。全部終わったら教えてもらうわよ?」
「ええ、望むところよ!」
「なによそれ」
私は、らしくないけど蓮子の手を取ると歩き出した。彼女の手は思ったよりもずっと冷たい。
何故か今無性に、彼女と手が繋ぎたかった。
森に入るなら、蓮子の姿を見失いたくなかった。その為の策は講じてあるけれど、念の為。……それと気持ちの問題だ。
鳥居。
これは私の目でなくても分かる、明確な空間の境。
蓮子が私の様子を少し気味悪そうに見つめている。先刻時刻を読んだ蓮子を見る私の視線も、似たような物だっただろう。
私の瞳に映る景色は歪んでいた。
鳥居の先には無数の鳥居が空間の上下左右関係無しに無造作に生えていた。最初の物の表面からは大量に埋まった陶器の狐が覗いている。まるで和製ワンダーランドの入り口だ。こんな強烈な結界、何故今まで気がつかなかったのだろう。
繋いでいた手が引っ張られて、私は結界から視線を外す。
蓮子が何かを見つめて青ざめた顔をしていた。
「めりー……」
「蓮子?」
彼女は呟いて一歩踏み出した。私は慌てて彼女の視線の先に目を凝らした。その場所は一際闇が濃く、……そして中から無数の目が此方を見つめているような、そんな妙な気配を感じた。
私にはどんなに集中しても彼女の見ているものが見つからなかった。彼女は私の名前を繰り返し呼んだけれど、此処にいる私に向かって発せられているものではない。ぎくりとして蓮子の手を握りなおそうとしたのだけれど、思ったように力が入らない。
手が、まるで木偶になったみたいだった。
「メリー、待って、まだ消えないで!」
「……ッ」
私は此処に、居る。でもひょっとしたら、居ないのかもしれない。彼女は必死に闇に向けて声を掛けていた。横に私が居るのに……?
蓮子の不安は分からなくはない。だって、私自身が自分が何処に居るのか分からなくなる時があるから。だから、もし蓮子を置いていく日が来たら申し訳ないと思っていた。
じくんと胸が痛んだ瞬間、友人はあいている手で拳を握って、思いがけない一言を闇に向かって放った。
「まだサークル活動中でしょうが。逃がさないわよッ!!!」
なによそれ。
脱力した途端、彼女の手が離れた。躊躇無くずんずんと鳥居に入る蓮子。もう止める暇もなかった。
「待ちなさいよー!」
私は友人の背中に声を掛け、後を追って鳥居を潜る。うさぎを追って飛び込む私は、でも、アリスじゃない。
ダイヤルが合わさるようだった。
ガチャガチャ五月蝿く回転して、全ての鳥居が正しい位置でぴたりと止まる。おう、と老若男女の声が其処此処で上がり、森の入り口まで明々と提灯が燈りだす。私は中を走り抜け、木々へと飛び込んだ。
彼女はまだそんなに遠くに行っていない筈だ。コンビニで買った糸が其れを示している。簡易ソーイングセットの中から取り出して、左袖のカフスに絡めておいた事を彼女は知らない。
アリアドネの糸って言うでしょう。迷宮の中を迷わずに進むには必須のアイテム。短いのが不安だけれど……。
森にはこの季節に沢山のキノコが生えていた。彼女の姿を見つけられないまま、私は糸を手繰って進んだ。
写真に写っていた私たちの姿。
それは、ただ佇んでいたわけではない。鳥居で蓮子が首を吊っていて、あろう事か私がそのロープの端を握っていた。
糸を手繰りながら思い出して身震いする。私が? ありえない。今握っているのは先刻買ったばかりの糸だし、これはロープのように太くない。
嫌な空想が浮かぶ度、私はぶんぶん頭を振ってそいつを追い出しては進む。
ぶれるな。彼女を見つける事が最優先事項。マエリベリー、あなたは友人の無事だけを願いなさい!
自分を鼓舞しつつ、一歩一歩を踏み出し続けた。
ひょっとしたら彼女は私と違う体験をしたのかもしれない。森を彷徨うのではなく、人形に何かされる夢。彼女が持ってきた映画も “人形に襲われる” ものだった。雰囲気作りよ、と言って笑っていたけれど、ストーリーの内容は私が彼女に相談した事と違う。
違う体験。つまり蓮子は、人形に襲われたのではないだろうか。そして、相談した以上の事が私にも起きているのではないかと勘ぐった……。
『どこか痛い?』
かけられた言葉をそっくり彼女に返せば良かった。
あの傷。痣は広範囲にわたり、皮膚の下で赤く広がる様は、最近出来た事を示していた。胸部や、多分腹部まで巻かれていた包帯の下が、どんな風になっているのかは分からない。
どれだけ時間が経ったのだろう。とっくに夜が明けても良さそうなものだけれど、辺りは暗いまま。彼女の姿も見えなかった。
何処をどう歩いたのか。
糸だって、そうは長くない筈なのに、切れることもなくずっと続いている。私は西も東も分からないまま、歩いているのか飛んでいるのかも分からないまま森を彷徨った。自分の中でずれていく、時間や感覚。その中で唯一きちんと存在感を残しているのは、蓮子を見つける、という思いだけだった。
植物の香り滾る中、糸を手に絡み付けてぐっと奥歯をかみ締めて。気がつけば脚は棒のようだし、額と首筋には汗が流れていた。思い浮かべた友人の顔は、何時もの澄ました笑顔。……少しだけ、泣きそうに。うん、まだ弱音吐きたくないけど、なき……。
「……蓮子」
俯いて呟く。ポタ、と糸を握る手に雫が落ちた。
このまま崩れてしまいそうだった。ずっと歩いているのに追いつけない彼女。やっぱりコンビニで引き返せば良かったんじゃないかと、後悔の念が首を擡げる。今日、明日と一緒に寝ればもし彼女に何かあった時に起きて防ぐ事だって出来たかもしれない。いや、それ以前に遅刻しなければ、人形を貰わなければ、渡さなければ。
「う……」
またポタ、ポタと落ちる。温かい水滴は手に落ちるとすぐに冷えてしまう。目を閉じて荒れてしまった呼吸を整えようと空気を吸い込むと、しょっぱい味がした。仁王立ちでそのまま数分。
気がつくと、手に絡まる糸がぴんと張っていた。自分の動作以外の動きに希望が見えた気がして慌てて細かな傷が出来た手の甲で目尻を拭う。擦った場所が熱い。
蓮子はまだこの先にいる! ところがきっと前を向いた刹那。生ぬるい風がごう、と吹いて私を包み込んだ。渦巻く空気に巻き上げられた白い光沢のある紙が私の目の前を横切る。
内側でフラッシュが焚かれた様だった。その光は精神を照らし出し、私は否応なく発生していた小さな思いに気付いてしまう。
あれは、ああなるべくしてなったのだと、何時の間にか私は思っていた。蓮……、れ、んこ? 彼女はああいう状態が自然なんじゃ……。
眩暈がした。
空でニヤニヤ猫みたいに笑う月。
先刻笑っていたのは誰だったのか?
私は、誰なのか。
本当に、マエリベリー・ハーンという生身の人間は存在するのか。
がくんと、よろけて躓いた。転んで強かに身体を打つ。痛く、ない。はっとして手を見て驚愕する。
私の手は塗装の剥げた件の人形の手とダブって見えた。
「……ぁ」
叫べもしない。
でも、彼女に繋がる糸だけは意地で離さなかった。
私は彼女が大事。その心だけは他の全てを無くしたとしても、絶対に誰にも渡さない。
※※※
全ては突然だった。
仲良しの姉と一緒に、気がついたらこの世界に居た。親子に拾われて、二人一緒に幸せな時間を過ごした。
でも、
私達のような物でも永遠という物は無いらしい。ある日唐突に、幸せは終わりを告げた。
『私達、燃やされるんだって』
姉は言った。
『嫌』
私の台詞に彼女はそうだよね、と答える。気がつけば、年月を経た私たちの身体はもうぼろぼろだった。
『ね、うちに帰りたいね』
うちに帰りたい、というその一言は彼女が初めて吐いた弱音だった。
彼女は本当は寂しがり屋なのに、今までずっと私を勇気付けてくれたのだ。だから、私はあの人が現れた時に必ず一緒に帰ると誓った。連れて帰ると誓った。
糸を手繰りながら、姉の名を呼ぶ。返事は無かった。
必死に藪を掻き分け、木々の間を飛び、服が裂けるのだって気にしなかった。
余りにも夢中で進んだから、それは本当に忽然と目の前に現れたように見えた。
広い場所にぽつんと立っている赤い鳥居。空は丸く広がって金子銀子を散らしたように満天の星が煌いている。あの一際濃く見える辺りは天の川だろうか。
鳥居の下に、帽子を被って鞄を斜めに掛けた影が見える。なんて夜が似合うコなのだろう。シルエットが水晶の硬質な空気の中に溶け込んでいた。
見つけた瞬間、役目を終えたように指先に絡めた糸が切れてふわりと柔らかな風に揺れた。
「一人でどうしようと思ったの?」
声をかけると俯いてしまう。勿論自分の声じゃない。ちゃんと音として聞えるこの子の声だ。
目を合わせないまま姉は悲しそうに首を振った。あの人の作った夢と現の境に紛れて、無事に身体を乗っ取ったのではなかったのか。今更なんで迷う必要があるんだろう。この世界に着いてしまえば、後はマエステラの待つ家に戻るだけなのに。
「やっぱ無理」
消え入りそうな声で言う。
「なんで? 帰ったらきっとマエステラが新しい身体作ってくれるわよ」
「だって……」
姉はちらりと鞄を見た。
中身は知っている。私達の本当の身体が入っているはずだ。そのままでは動けないから、このコ達の身体を使ってマエステラの元に運ぶ予定だった。
全てはあの人が教えてくれた方法だ。
スペルカードで使役された私達だったが、勢い余ってマエステラの森から飛び出してしまった。外の世界で運良く……本当に運良く拾われて今まで大切にされてきたのだが、もう持ち主も代替わりして人形供養に出されるところだった。
マエステラがいなければ私たちは動く事が出来ない。
燃やされる寸前、観念していた所を、私たちを探しに来たというあの人が助けてくれた。
『あなた達が自力で帰ったら、ご主人様も喜ぶんじゃなくて?』
だから、決めたのに。
多少の犠牲を払っても、帰るって決めたのに。
「ダメ。だってこの人、ま……だぁ、ああ、あぁああああっ」
姉の台詞はぶれていて、後半は悲鳴に近かった。
身体の持ち主の意思がまだ残っていて、それが姉の魂を圧迫している。このままでは彼女は消滅してしまうかもしれない。
持ち主の身体も相応に弱っているようだった。死人のように悪い顔色だったし、今にも倒れそうにふらふらしている。……正直良くこの森までたどり着けたと思う。
「ね、もうそこから出ても大丈夫よ。私が私達の身体を運ぶ」
「……だってっ、出られないよ」
「大丈夫」
私は、手首に絡まった糸を取った。それは見る間に一本の手頃な長さのロープになる。荒く息を吐く少女の首に、それを掛けた。
此方を見つめる一対の黒い瞳に迷いがあったのに、私は敢えて気がつかないフリをした。
「この人を今殺してしまえば……あなたは自由よ」
仮の身体。
肉の身体は脆い。壊してしまえば、きっと彼女は戻ってこられる。
ロープの先端に石を結びつけ、鳥居の向こうに投げた。
私が操る華奢な身体で持ち上げるのは少々骨が折れそうだったけれど、引けない事はなさそうだ。
「……ッ」
帽子が影になって表情は分からない。けれど、少し喉が絞まるのだろう。ひゅう、とため息が漏れるような音がした。
彼女は何か言っただろうか? 小さい音だったので良く分からなかった。
「……」
「何? すぐに済むわ」
囁くように彼女の耳元に声を掛ける。耳を澄ませたけれど姉は何も言わなかった。
体重を掛けやすいようロープを手に巻きつけ、余りこの身体の負担を考えずに引っ張った。ロープと腕が軋んで同時にぎりりと音を立てる。重さが感じられ黒髪の少女が背伸びをする格好になった。断続的に聞える少女の短い呼吸音がやけに大きく鼓膜を打った。
少女は片腕を持ち上げ、首に巻きつくロープに手を掛けている。意識は姉のものだから邪魔される事はないだろうけど。
口の端からは、つと唾液が垂れていた。
あともう少し持ち上げれば、姉は解放されるだろう。私は笑った。結局このコ達の死は予定のものなのだ。どうせマエステラの家に着いたら同じ事をする筈だった。少し早くなっただけだから何も躊躇する必要はない。
ぎゅうとロープを握り締めて、私は少女に背を向け前に一歩踏み出した。
“これ” は得意分野。失敗するなどあり得ない。
もう一歩。
ぐんと重さが掛かった。
「……はっ、はぁっ……りっ」
名を呼ばれた気がした。
他に音など無いかのように彼女の息を、声を、身体が拾った。
全神経を傾け身体は私の意思に反して背後に集中している。それはとても奇妙な感覚だった。
手が震える。足が動かない。何故だろう、私は彼女が死んでしまう事を恐れている。彼女? 彼女って?
「……めりーっ」
「れ
違う、姉はその名じゃない。
「蓮子」
口は勝手に音を発した。
同時に身体の支配権が急速に失われつつあるのを自覚した。
私は今、何を……?
パチン、と音がした。私の意識は其処で途切れた。
※※※
気がつくと向かいに蓮子が座っていた。
そこは何時もの喫茶店のような場所で、目の前にはご丁寧に湯気の立つカップまで置かれている。
私は、彼女を殺してしまったのだろうか。
そして私も死んでしまった?
なんだか動く気力もない位、身体が酷く冷たくなっていた。蓮子も寒いのだろう、暖炉で暖を取るように両手でカップを包み込むようにして持っていた。せめて隣に移動する事が出来れば少ない体温も分け合う事が出来ただろうに。
ここは何処なのだろう?
少なくとも暮らしていた世界ではなさそうだ。……とすると、彼岸だろうか。どちらにしても手に残るロープの感覚は消えていなかった。
私が、彼女を殺した?
「あの……」
声を掛けた。
彼女は伏せていた目を此方に向けたけれど、すぐには答えなかった。その代り穏やかに笑った。
「わた、し……あなたを」
「世界から二人の人間が消えた。ただそれだけの事よ」
こんな重大な事を言ってのけるなんて、彼女らしいといえば彼女らしい。
「れん、……ごめ、んな、さ……」
声が上手く出せない。身体がまるで他人の物のようだった。
「いーよ」
青白い顔をしていたけれど、彼女は何時ものちょっと生意気そうな顔で笑ってくれた。それもすぐに浮かんできた涙で霞んでしまう。止めようと唇を噛むと、呆気なく切れて体内に残っていた予想外の熱としょっぱい味が口内に広がった。
黙って暫くこれまでの事を回想していたけれど、恐らくこの家が人形達の言っていたマエステラの家なのだろう。終着点、という事は私の時間ももう余り無いのかもしれない。
死んでいるのなら意識など何処まで持つか分からない。
じわりとする鉄の味に、思わず顔を顰めてから気がついた。
……熱、……体温? そういえば死体に体温ってヘンな感じね。
「お目覚めかしら?」
綺麗な声が聞えた。それは記憶の中で聞えた声に似ていた。
部屋に入ってきたのはプラチナブロンドの髪の、人形みたいな少女だった。腕に本を抱えている。
「ふむ……まだ調子が悪そうねぇ。人間には少し部屋の温度が冷たいかな?」
硝子球のような冷たい青い瞳をしている……私が言うのも変な感じだけれど。
彼女は驚く事に、人形に何かを命じているようだった。やがて人形達の手により暖炉に火が点され、赤く石炭が燃えるレトロなストーブが二つも私達の近くに置かれた。
少女は手ずから大きなストールを二つ持ってきて、私と蓮子をすっぽりと包むと、やや離れた場所で紅茶を片手に本を読み出した。
部屋が暖まるまで、魔法の様に短い時間しか掛からなかった。
徐々に身体が温まり、思考が正常に働くようになる。
私は向かいに座る蓮子に目をやった。彼女は今や普通に片手でカップを持ち、飲みながら状況を伺っている。血の気が頬に戻ってきていた。
彼女は観察するように部屋を見渡して、何かに感動したのかはぁ、と溜息をついた。
私の身体も大分楽になってきた。
蓮子に倣って部屋をぐるりと見ると、高い場所の到る所に人形が飾ってあった。一体どれだけの年月をかけたらこんなに人形を集める事が出来るのだろう? それともこれらは彼女が作ったものだろうか。
私は冷めることなく湯気を立て続ける紅茶で唇を湿した。……状況が何となく分かってきた。
窓際で本を読む横顔に声をかける。
「あの、助けていただいて」
彼女は本から顔を上げた。
そしてびっくりするような素敵な笑顔で微笑んだ。
「どういたしまして……あなた達は、私の大事な子達を連れてきてくれた特別なお客様だもの」
彼女は言うと、部屋の端に置かれていた何かを抱いて私達の側に戻ってきた。
「それ……!」
「その子達!」
蓮子が驚いた声を上げる。私も同様だった。あの人形達は、少女の腕に大人しく抱かれていた。
少女は台所に立つと、ちょっとした料理とバターのついたパンを持ってきてくれた。そして私たちが全て食べてしまうのを待って、一息ついた後に送ってくれた。
「夜明けに向かって歩けば帰れるわ」
森の端に到着すると、方向を指差した。見覚えのある鳥居が遠くに見える。私は蓮子の首をちらりと見てから、少女へと向き直った。
「本当に、ありがとうございました」
お辞儀をするとくすくす笑って彼女は手を振った。
「お礼ならもう頂いたわ。あなた達から21gずつ、ね。……気をつけて! 可愛いお客さま」
蓮子の温かい手が私の手を引っ張る。昇り始めた太陽に焦がれるように私達は進んだ。
……鳥居を潜る際、誰かの声が聞えたような気がした。
※※※
部屋に帰ってまずした仕事は、蓮子の着ている服を引っぺがす事だった。
カーテンを開けて伸びをする彼女の隙を突いてベッドに押し倒し、私は戸惑い無くコートとシャツのボタンを外しに掛かった。
「こら。やめ、駄目だってば!」
抵抗の悲鳴が聞えたけれど容赦はしない。縺れ合うようにして転がって、それでも全部外す事に成功した。
上半身を覆う包帯には少し血が滲んでいる。掌でぱん、と軽く叩くと蓮子はぎゃあ、とそこを抑えて身悶えした。
「……何するのよ」
涙目で訴える彼女。でも約束だし。忘れていたけど私は彼女を叩く予定だったのだ。私の体重分だけ。
「全部話してもらうわよ」
にこりと笑って言うと、彼女はしぶしぶ頷いた。
人形に乗っ取られる夢を見たのだという。寝ている彼女の身体に人形が乗る。すると身体が動かなくなっていく……。実際、本が動いていたり飲んだはずの無い紅茶のカップが出ていたりと、覚えの無い事も起きていたらしい。
「で?」
私は促した。彼女は服をかき集め、上に羽織っている。
「人形の夢を見る度に、自分の身体に刺激を与えてみました」
人形に襲われた訳でなく、彼女は自分で自分の身体を傷つけたらしい。最初は身体に乗った人形を追い払うだけだったのだが余りにもしつこいのでエスカレートした……。最初はフライパン、次はすりこ木。そしてとうとう獲物は包丁に進化したというから呆れる。
「絶対に渡したくなかったんだもの。私の身体は私のものよ。精神への干渉はフィジカルな刺激に対して脆いわ」
「ばか」
言うと、しゅんとなる。
「でも、メリーは自分で気がついてなかったかもしれないけど……あなたは段々別人になっていくみたいだった。だから尚更、解決するまで乗っ取られるわけには行かなかったのよ」
確かに最近、……自分が自分で無くなる気がしていた。現実から乖離していくようなそんな感覚に襲われる事が度々あったのは事実だ。
「蓮子のばか……でも、ごめんなさい」
今度は私が怒られる番。森の中での後悔を忘れた訳ではない。
「……あなたも叩いて」
「はい?」
「首を絞めたじゃない? 二回も」
コンビニで彼女のネクタイを締めたのは恐らく私だろう。それと鳥居で。蓮子に叩いてもらわなければ、私だってなんだかすっきりしない。
「むー、仕方ないわね」
彼女は言うと、手を上げた。
私はぎゅっと目を瞑る。平手で打たれるのを覚悟したのだけれど、頬に感じた感触は予想と違うものだった。
優しく、温かくて柔らかい。蓮子の手は、叩くではなくそっと添えられているだけだった。
「……?」
恐る恐る目を開くと、彼女の黒い瞳が間近に見えた。
少し動揺したようだけれど、すぐに悪戯っぽい光が宿る。彼女は首を僅かに傾け……。
キスされた事に気がつくのに時間なんてかからない。
※※※
「本当に殺してしまったのかと思ったわ」
私達は何時もの喫茶店でお茶をする。
女子大生の、大変健全且つ健康的な習慣である。テーブルの上に広げられた物をが全てを台無しにしているけれど。
「殺したんじゃないかしら?」
蓮子は怪しげな写真を検分しつつ鼻白んだように言う。
「何言ってるのよ。じゃあ、今私の目の前にいるあなたは誰なの?」
「……そうでなく」
手にトランプの様に持っていた写真を置くと、彼女は私を真っ直ぐに見つめた。
「21gの事よ。ここ最近ずっと一緒に居た魂は無くなった。それってつまり殺した事になるんじゃないかしら」
1907年マサチューセッツの医師、ダンカン=マクドゥーガルの研究。簡単に言うと魂の重さだそうだ。呪いの人形との関連も実しやかに語られて、都市怪談の一種として巷には浸透している。なるほど、怪談も中々どうして捨て難いという事が実証された訳だ。
友人は何故か残念そうな顔をしている。
鳥居の向こうに私を見た時点で、彼女は人形に負けたのだそうだ。数日経った今日でもこの表情。余程悔しいらしい。コンビニで意識を失っていた事を教えたらどうなるかしら? 教えたら少し面白そうだ。
「生かしたのかもしれないわよ」
私が言うと不承不承頷いて写真を弄りだす。
人形と格闘する蓮子を見たかった気もするけれど、この話はどうやらこれでおしまいのようだ。
私は平穏な気持ちで紅茶を口に含んだのだが。
「あーッ!!!!」
がたんと音を立てて立ち上がり蓮子が叫んだのを聞いて、堪らず紅茶を噴出してしまう。
彼女が私に見せた写真には、人形が二体。見覚えのある鳥居の下で、こちらに向かっている。
きちんとお辞儀をする様は、
なんだか懐かしくて、すごく微笑ましいものだった。
了。
秘封倶楽部危機一髪! 面白かったです。
また時間が空いたときにじっくり読みたい作品ですね
秘封倶楽部の活動は結構危険なものもありそうですよね
もうダメかと思ったが二人が無事で良かった
まあこれが二人の日常?だからそれほど驚くことじゃあないか。
とても面白かったです。
グッと引き込まれる文章、作品全体の雰囲気が非常によい作品でした。