ふと、夜気に意識が拡散する。
鬱蒼と生い茂る竹林には、秋に入ったばかりの涼しい空気が染み渡っており、僅かに吹く風が葉をさらさらと撫で鳴らし、闇へ、闇へと、意識をさらっていこうとする。
月にはどこにも無い「自然に作られ育った地形」は、丑三つ時という時刻をもっていよいよ私を食いつぶしにかかる。もちろんそれはただの錯覚で、実際には何もしなければ五体満足で朝を迎えることが出来るだろう。でも精神は確実に食われる。奇妙だがそれこそが自然の真骨頂であり、地上の兎たちは平然と、けれども無意識に避けている危険。
この恐怖を味方につけなければならない。それが、夜で生き残る最良の手段。
いつのまにか手が汗ばんでいる。大気は涼しいのに、手の平だけが真夏になってしまったかのようだ。これではいけないと銃剣――月から持ち逃げしておいたものを握りなおす。右手はグリップを、左手は銃身を浅く掴んで……気がつけば何回も握りなおしていることに思い至る。まったく、心が弱いにもほどがあるだろう。むしろこのまま何事も無いほうが、一人で勝手に疲弊して死んでしまうのではなかろうか。
波長の変化をキャッチする。どうやら数羽の兎がこちらへ向かってきてくれているようだ。玉兎である私、優曇華院には彼らと意思疎通を交わすのは難しい。けれど彼らは誠意をもって答えてくれる。やがてこちらへたどり着いた兎たちが「来た」という合図をくれた。
「ありがとう。さあ、お行き」
ほとんど聞こえないような周波数で言う。兎たちも、人の言葉は理解していない。それでもなんとか伝えられるもので、彼らは散り散りに竹林の奥へと消えていく。
深呼吸をする。吐いた息を風に、闇に漂わせるように、静かに、長く吐く。
そうすると、じっとりと汗に滲んだグリップも気にならなくなる。銃剣は月で訓練に明け暮れた頃のように馴染んで行き、私の一部であるかのように軽くなる。
思うに、「撃つ」ということは自分自身との戦いである。
弾丸でも矢でも、放つのはそれぞれ備わっている技巧がやってくれる。けれども操作しているのが感情を持つ者である以上、その結果にはココロというものが反映される。怒りに任せて撃てば精彩に欠けた結果になるし、嫌々撃てば的に当たれども急所から外れる。かといって当たれ当たれと願えばそもそも的に当たらない。
では、狙い通りに撃つにはどうしたらよいのか?
ココロが反映されてしまうのなら――動かさなければよいのだ。
何であれ、卓越した者は境地に達してその行動を行う。その境地とやらが今までよく分からなかったのだけれど、ある時師匠、八意永琳の撃つ姿を見て、悟った。
師匠の弓は、自身の心を全くの無にして放つ。二次元すらいらない。弓と矢を携えた時点で師匠は的との一直線上、一次元の世界で全てを終える。それはさながら「当てる」ではなく「当たる」という理屈であるかのように、矢は的へと吸い込まれていく。そして師匠という器が、結果に当人らしさを僅かにだけ残す――銃と弓という違いこそあれど、これこそが本物の射撃なのだと、感動さえ覚えた。
私は未熟で、到底境地に入って射撃を行うことはできそうにない。せいぜい訓練で身に付いた感覚で手足のように扱えるくらいで、弾は頑張って当てなければならない。「当たる」世界なんて遥か彼方の話だ。今は少しでも上手く当てられるよう、達人の真似事をして境地への道へにじり寄る。
すぐに動けるよう、膝立ちの姿勢で銃を構える。左膝を立て、右膝を地に付け、左肘を立てた膝の上につけ、ストックを右肩に押し当てる。それから、徐々に呼吸を殺す。完全に止めるのではない。周囲に全く気取られないような、ともすれば当人さえいつ吸って吐いたかも分からないくらい、呼吸を浅くする。やがて私自身が闇に同化していくように、体が、意識が、竹林全体へ広がっていくような感覚を覚える。今日も上手くいった。あとはこの状態を維持して、その瞬間を待つ。
――永遠亭が開放されてからというもの、里では妙な噂が立ち始めた。
曰く「迷いの竹林の先には、永遠の命を手に入れる方法がある」と。
一応あるにはあるが、実現不可能という点では出鱈目だ。蓬莱の薬は師匠と輝夜さまの二人の力があって初めて製薬できる。逆を言うと、地上ではこの二人でなければ製薬することができない。
そうして数度、そんな話はウソですよとやってきた者を追い返してきたのだが、どこからか薬を飲めばいいという話が出てきたようで、脅迫して薬を作らせようという輩が出てきた。
もちろんそんな輩は、てゐたちの手によってこの竹林を彷徨い続けることになる。
それでも、中には永遠亭近辺まで進入に成功する者が現れる。
今晩は来てしまったらしい。実に一ヶ月ぶりの侵入者だ。
最初に来た侵入者は、師匠の手によって矢で撃ち抜かれ、師匠によって治療されて、そのまま妖怪兎たちの手によってあれこれ悪戯された挙句に里へと送り返された。
その時の一部始終を、私はただ慌てて過ごした。
私は元々、戦争というものが怖くて月を逃げ出してきた。
血を流すその者を見て、見たことの無い師匠の姿を見て、頭の中が真っ白になった。
そんな呆然としている私に師匠は告げた。
「優曇華院。次からはあなたがやりなさい」
そうして、スペルカードルールに従わない狼藉者を追い返すのも、私の仕事になった。
波長の乱れを観測する。侵入者だ。
索敵で反応のあった方に視界を向けると、遠くに人影を見つける。
トリガーに指をかけて、照準を一直線に合わせ――相手と自分を繋ぐ。
慌てない。武道も射撃も基本は変わらない。特に狙撃は相手の隙に打ち込まなければ当たるものさえ当たらなくなる。じっと、いつでも撃てるように隙を伺う。
相手は警戒している。それもそうだろう。まだ片手で数えられる数とはいえ、私がそれだけ撃ってきたのだから。永遠を求めて竹林に入ればひどい目にあう。いつかこの噂が先行して進入を試みる人間が少なくなってくれればいいのだけれど。師匠が裏工作をしているからいずれそうなると断言してはいたけれど、それまでに私がどれだけ撃てばいいのかは分からない。
頬に汗粒が伝う。その僅かな感触に、いつもの私に戻ってしまいそうになる。
こんなときはトリガーを触って落ち着く。銃剣の中でもすごく頼りないパーツ。ごく小さな金属はけれど、弾丸を射出する凶器のスイッチである。このギャップが私を締め上げる。とても簡単な動作で、最大の悲劇を作り出す。そんなものが私の指にかかっているかと思うと恐ろしく、それでいて万能になったかのような感覚を覚える。
侵入者の挙動が変わる。月での知識を掘り起こすと、こういう状況では危険と分かっていても、実際にその状況に陥らない時間が長ければ長いほど「大丈夫なのではないか」という思考が芽生え始めるのだという。もちろんそんなことはなく、私が狙っている以上は当人の希望的観測でしかない。大体そんなことは相手も承知している。
それでも――塵芥ほどでも芽生えたその思考が、最大の隙を作り出す。
ふと、何かに反応したように相手があらぬ方を向く。各種波長を見るに、風が作った物音に反応したらしい。今晩の相手は神経質なようだ。簡単に隙を見せてくれそうにはないが、その分すんなりと誘導されてくれるだろう。こちらから仕掛けた方が良さそうだ。
いったん照準を相手から外し、空の彼方へと向ける。
そして一発、発砲。
小さな爆発の圧力が私の腕を軋ませ、硝煙の臭いが広がり、耳をつんざく破裂音が竹林を駆け抜ける。
そしてすぐに元の姿勢を取り、ボルトを操作して空薬莢を排出、次弾を装填する。
相手は銃声を聞いて地面に這い蹲っている。すぐに逃げ出さないのは、それが撃たれる隙だと知っているから。
それでは、こうすればどうだろうか。
波を操作。音波を作り出す。それはちょうど竹林の腐葉土を駆け抜けるような足音で、相手から遠方へと去っていくような、そんな気配のする音。「狙撃に失敗して撤退する」と思わせるための工作だ。目論見どおり、相手はしばらくしてから慎重にその場を動き始める。
さあ、この瞬間が勝負だ。
相手は警戒しているため、時折足を止めて様子を探っている。その瞬間、まさしく立ち止まったとき。ここに撃ち込む。相手の前方、少し走ったところにとても立ち止まりやすいポイントを見つける。そこに照準を合わせ、かつ相手の動きを視界に収めながら意識を集中させる。
あと五歩、頬を伝う汗が邪魔だ。
あと四歩、トリガーを限界まで引き絞る。
あと三歩、相手がこちらに気づく素振りは無い。
あと二歩、気がつけば全身汗だくだ。
あと一歩、そこに相手と照準と私の指先が、全てつながる。
引き金を引ききる。
そして一瞬だけの「無」の時間――
銃声と、何かが倒れる音と、悲鳴を聞いたのは、その後。
ほとんど連続している時間だというのに、なぜだか大分間をおいたような気がする、ほとんど終わった後だった。
うまく急所を外せたようで、治療はごく簡単な処置を施すだけで終わった。それでも撃たれた方は相当なショックだったらしく、治療をする私を散々に罵って、永遠亭近辺の竹林を後にした。以後、その者がここへ挑戦しに来ることもないだろう。なにせこの後には、てゐの生かさず殺さずの竹林遭難地獄が待ち構えているのだから。怪我をしている身には堪えるのも難しいだろう。
今晩も、終わった。私は、生き残ることが出来た。
全身に広がった発汗は、夜気を吸い込んで容赦なく私から熱を奪っていく。とても気持ち悪い。誰かを撃ったという後味の悪さも相成って、ひどい気分だ。はやく帰ってお風呂に入って寝よう。色んな振動を中和してくれるお風呂が、私の心からのオアシスなのだ。
なんて考えていると「よう、お疲れさん」声をかけられた。
あんまりにもびっくりして、声さえ上げられずに飛び上がって振り向く。だって今のタイミング、相手が賊だったら殺されていてもおかしくない。
振り返った先に居たのは、安堵の漏れる既知の顔――藤原妹紅だった。
「……な、なんだ。妹紅さんですか。びっくりさせないでくださいよ、もー」
「あんたなぁ。今撃って逃がした奴と私が、大体同類だってこと頭に入ってないだろう?」
言われてふと、考える。
藤原妹紅。彼女の父が輝夜さまに求婚し、無理難題をふっかけられて大恥をかき、それから輝夜さまを目の敵にしている。ほんとだ。むしろ直接危害を与えようとしている分さっきの者よりたちが悪い。あわわわもしかしてちょっとヤバい!?
「な、なんなんですか急に。まさか、私をどうこうしようって言うんですか?」
実を言うと、それをされるとすごく困る。今の疲弊した私では逃げ切れないし、まあ注意を引く程度の人質にはなりそうだし。
けれど妹紅さんは、首を左右に振る。
「うんにゃ、それとこれとにあんたは関係ないよ。そういう風に巻き込むつもりはない」
「何か御用でしたら明日にしていただけますか?」
「ちょいと気になっただけだよ。こういう裏方で荒事の役回りは永琳がやっちまいそうなのに、あんたがやってたからさ」
指摘されて、指名された後のやりとりを思い出してしまう。
本当に苦手なんですやめてくださいと懇願したのだが、師匠は頑なに取り合ってくれなかった。そのまま賊がまたやってきてしまったためやむなく私が撃ちに行き、以後ほんとうに、ほんとーに渋々この仕事を続けているのである。
「……私だって好きでやってるんじゃありません。お師匠様の手をあまり煩わせないのも、私の仕事です」
「どうだか。案外、面倒くさくて押し付けたんじゃないのか?」
その可能性も否定できなくて困る。お師匠様には何かにつけてヒドいことをする悪癖があるので、これもその一環ととらえることができる。
それでも。今はあの時の、見たことの無いお師匠様を信じたい。確かに取り合ってはくれなかったけど、それは嫌がらせという感じではなかったから。
こちらの沈黙と視線で意思を汲み取ってくれたのか、妹紅さんは「分かった、悪かったよ」と言って肩をすくめる。師匠とは逆にこの人は根がいい人なので、このように意地悪に徹しきれないのだ。
「でも不思議なんだよ。効率的じゃない。あんたにこの仕事は、えらく不向きなんじゃないのか?」
その通りだ。私は賊を一人撃つたびに、疲れ果てて色々なものに苛まれる。涼しい顔をして全てを終えた師匠とは大違いで、何度やっても慣れそうにはない。最初に撃った時なんて吐き戻してしまったくらいだ。今はなんとかやっているが、もし失敗してしまったら、撃ち漏らしたり、うっかり殺したりしたら――そう考えるのさえ恐ろしい。
妹紅さんの言うことにも一理ある。師匠もサディスティックではあるが、それは簡単に壊れないのを見越してのことだ。極端に不向きなことをやらせて壊れ行く姿を見て楽しむほど狂ってはいないし、苦手を根性論で克服させようとするほど熱血でもない。どちらかと言えば、この愚図と罵って私に別の……それはそれでキッツいお仕事を寄越しそうなものだ。
「そうですけど……師匠の真意までは分かりません」
「ふうん。じゃあ実は永琳さえ分かってないのかもな」
え、それってどういう――?
「じゃ、お疲れさん。今日は帰る。さっき逃がした奴もまあしばらくは大丈夫だろ」
言って妹紅さんは踵を返すと、ひらひらと手を振りながら気取らない足取りで去っていってしまう。今の発言の意図をつっこみたかったのだけれど、寒気が私を足止めする。妹紅さんが居たので若干暖かかったのだろう。あと今のを言っただけでもきっと大きなヒントなのだろうし、これ以上は何も聞けない気もする。
そうとなれば、早く帰ろう。お風呂に入って、銃剣の手入れをして、寝よう。
本当に、疲れた。
妖怪兎の誰かが気を使ってくれたのか、こんな夜半だというのにちゃんとお風呂が沸いていた。誰に聞かせるでもなく、ありがとうと言ってから湯船に浸かる。お湯に包まれてほうと一息つくと、ようやく心身ともにリラックスしてくる。
お風呂は偉大だ。柔らかいお湯が丁寧に体を包み込んでまんべんなく温かくしてくれるし、ふわふわ立ち上る湯気が現実にいることさえ朧げにしてくれる。桃源郷はなんてことはない、こんな近い場所にあるのだ。数分で掻き消えてしまう幻ではあるが。
そのままぼうっとしていると、ふと妹紅さんとのやりとりを思い出す。
どうして私が、この仕事をさせられているのだろうか。
確かに私は、戦争がイヤでイヤで仕方なくて、月から逃げてきた臆病者の兎だ……そりゃあ、他にも色々イヤなことはありましたけど。でもイジられるというのはかまってもらっていることの一環なのだ。これがコイツのためになる、なんてイジっている方は考えていないだろうけど、それがないと私はきっと孤立している。私は身勝手で自分に甘い。だからどうしても自分の都合のいいようにやろうとしてしまう。そういうのはあまり人さまのためにならない。誰かがイジってくれるのは、大体そうした悪いトコロと直結している事が多かった。
では、今回はどうなのだろうか?
ここで私が逃げ出しても、きっと誰も困らない。いや師匠は仕事が増えてしまうけど、深刻な事態に陥ってしまうというわけではない。やってやれる範囲だ。そう考えると不思議だ。誰かを撃つのはイヤなのに、どうして私はここに留まっているんだろう。以前だって、私の代わりはいくらでも効いたから逃げ出した。私には頭一つ抜けた戦闘能力はあったけど、それだけだ。イヤな部分で褒められても困る。いっそこのあと逃げ出してしまおうか……いや、前は月から幻想郷という距離があったけれど、幻想郷の中では簡単に見つかってしまう。
そんな打算的な思考をあえてするほど、今のこの状況を投げ出す気がない。本当に不思議でしょうがない。一体なにが私をここに引き止めているのか。
――あまりにもふわふわした思考を続けていたせいで、気がつけば湯船に髪が浸っていた。いけない。これじゃお湯がひどく汚れるし、何より乾かすのに手間がかかってしまう。今すぐ引き上げればまだ大丈夫だろう……でも今は色々なものを振り払いたくて、湯船から上がってあえて頭も髪も洗うことにした。
お風呂をあげて寝巻きを着て、髪を乾かそうと縁側に出る。
夜空には月が浮かんでいる。僅かに欠けて見えるそれは、私の故郷だ。でも恐らく、私はこちらで一生を終えるだろう。あの姉妹が裏切り者をどうするかは想像したくもないし、そもそも師匠が私を手放すとは思えない。なんだかんだと言って月のことを気にしている師匠に、電波をこっそり傍受して伝えるのも私の仕事だ。こればっかりは代えが効かない。
なんだろう。らしくない思考が続く。ともかく湯冷めしてしまわないうちに引き上げなければ。
そうして腕を上げようとしたところで、ぎしり。と誰かが縁側の板を軋ませる。
振り向くと、そこに居たのは……輝夜さまだ。
寝巻き姿の輝夜さまは、にこりと微笑んで近づいてくる。
「おつかれさま、イナバ」
「あ、はい。ありがとうございます」
こんな夜中に起きているなんて珍しい。何かあったのだろうか。
「何かご入用でしょうか? ちょっと乾かすまで待っていただけると……」
「特に無いけど。そうだ、じゃあわたしがやってあげる」
え? と疑問が浮かんだのもつかの間。姫さまが私の後ろに座ると、タオルと櫛を手にする。そして、まだ少し濡れている私の髪に触れていく。
「い、いえ、そんなこと、姫さまにさせるわけには!」
「んー、じゃあ命令よ。大人しくしていなさい」
なぜか言い聞かせるような口調で言うそれは、いつもの文句だ。
輝夜さまがここの主で姫という立場である以上、大体のことは私たちがやってしまう。けれども当人でやりたいことがあると、輝夜さまはこの台詞を、聞かない子をあやすように言うのだ。この言い方は反則だ。これではどちらの我侭なのか分からなくなる。
この言葉に逆らうことは、暗黙の了解で禁止となっている。私も相当アレな場合を除いては大人しく従うことにしている。今回は……本当はやらせてはいけないんだけど、師匠も見ていないし、正直乾かすのしんどいし、ちょっと甘えてしまうことにしよう。
タオルで全体の湿気を拭うと、櫛を入れて梳いていく。
他人の手で髪の手入れをされると、なぜか気持ちいい。
そのおかげか緊張していたのも最初だけで、いつの間にかリラックスしていた。
そこにふと、輝夜さまが言う。
「誰かを撃つのは、辛い?」
口にさえしたくないので首で返事をしたいところだが、髪の手入れをしてもらっている以上、邪魔しないよう言葉で返事しなければならない。
「はい、すごく。あんまりこういうのは得意ではありません」
「そうね。ほんと、よくやってくれているわ」
頭を撫でられた気がする。梳いている一環だと思っておくことにしよう。
……一応、輝夜さまがこの永遠亭の最高権力者である。もしかしたら、ここでお願いしたら私をこの任から外してくれないだろうか。
「もうしばらくお願いね」
そんなことなかった。やはり耐えるか逃げるかするしかないのだろうか。
そういえば――今の思考から唐突に思い立つ。
ここの最高権力者は輝夜さまで、たとえ師匠が有用だと認めたものでも、姫さまが嫌っているのであればこの屋敷には置いてもらえない。だとすると私は何らかの要因で輝夜さまに気に入られている。私は師匠の役には立っているけれども、姫さまとは……?
「姫さま」
「なぁに?」
言ってしまうのは少し躊躇われる。
逆に言えば。初めて訊く気になったのだから、このままいってしまおう。
「最初に私がここへ来たとき、どうして私をここに置く気になったんですか?」
すると輝夜さまは、髪を梳きながらくすくすと笑う。
「あら、何年も居て気がつかない?」
「……お恥ずかしながら」
「素直でよろしい。じゃあ教えてあげるわ」
少し間を置いてから、切り出される。
「わたしね、イナバのことが好きよ」
「へ? ……は、はいぃ!?」
「イナバのね。自分勝手なところとか、臆病なところとか、それなのにズルに徹しきれないところとか、すごく好きよ」
髪の毛を掴まれていなければ、きっと私は額から床にぶつかっていた事だろう。
「あうう……な、なんなんですか。新手の悪戯ならよしてください」
「あら、本当のことよ」
本当のことならなおタチが悪い。そこを好きと言われても、あんまり嬉しくない。今のはどちらかというなら私の欠点だ。
「それならそれで、どうしてそんなところがイイんですか」
知らず、不貞腐れたような口調になってしまう。
しかし姫さまの声音は変わらない。
「わたしね、思うの。人に優しくできない人って、自分にも優しくできないんじゃないかって。
色々な心の起こりはまず自分自身へ向けれるのがありきで、そこで初めて形になるの。それさえ乗り越えられないものは、人の外に出てもあやふやなものにしかならない。
だから、わたしは自分に優しいイナバが好き。あなたはまだ積極的ではないけど、色んな人に優しさを向けることができる。そう、優しくして欲しい時の弱さを、理解してあげられるの」
そうだろうか? 姫さまの言っていることは誇大主張にしか聞こえない。
でも、風呂上りという理由だけで片付けられないこの熱はなんだろうか。なんか、妙に恥ずかしい。
「わ、私はそんな、大そうな自分ではありませんよ……」
「そうかしら。わたしはこういう風に育てられたから、誰かを愛することしかできない。でもその分、誰よりも真摯にみんなを見つめているつもりよ」
だとしたら、私は今までどんなことをしてきただろうか――
なんて考えようとしたら、ふと背中に柔らかいものが覆いかぶさる。そして私の前に輝夜さまの腕がまわされ、ぎゅっと、抱きしめられる。
伝わってくる温もりや、柔らかさや、甘い匂いが、全身でショートして恥ずかしさになっていく。体を締める腕は折れてしまいそうなほど細いのに、大樹の幹のような安心感さえ覚える。た、ただ抱きしめられただけなのに、この破壊力はいったい。
「ふふ、イナバあったかい」
挙句に、耳元で囁かれる――まるで体の中がもうヘンなものでぱんぱんに膨らんでしまったかのようで、うまく考えることが出来なくなってしまう。
「お、お風呂上りですから」
「ふうん。それだけかしら」
「ひ、ひ、姫さま? 一体何を」
「ねえ、イナバ」
「……はい」
「いーなーば♪」
「はい」
「大丈夫。わたしたちが居るんだから」
不意にぎゅうっと力を込められて、私が破裂寸前のところで――輝夜さまの腕が離れていった。
開放されると、なぜか急に力が抜けてしまう。
ただ、おかげで私の中には色々なものが入れられていた。
――わたしたち。がさす範囲は、簡単に想像がついた。
「よし、できたっと」
ふと輝夜さまが告げる。乾かし終わったのだろうか。でもそれなら終わったと言いそうなものだ。「できた」というのは――
髪に感じる妙な束縛感。手繰り寄せて正面に持ってくると、私の髪の毛が、「うん。ちょっとだけ永琳みたい!」師匠のような一本の太い三つ編みになっていた。何かしてるなーと思ってはいたけれどまさかこんなことをしているとはっ!
「なんですかこれ!?」
「うーん、でも肝心なのは射撃の腕よね。どうイナバ、すないぱあな気分?」
「もー、そんな簡単に当てれたら苦労しませんよぉ!」
なんて言いつつも、イジり半分、優しさ半分の三つ編みに思わず笑いがこぼれてしまう。姫さまも笑ってくれているので、そのまま楽しく――夜なので静かに、笑う。
まったく。姫さまがやると、これでイケるなんて気がしてしまうじゃないか。
それも収まってくると、輝夜さまが立ち上がる。
「髪も乾いたし、そろそろ寝ましょう」
「はい。どうもありがとうございました」
私も立ち上がろうとすると、その前に姫さまが腰を折って前のめりに顔を近づけてくる。
「ね、イナバ。一緒に寝ましょ?」
思わず、はいと答えそうになって――悪寒が背筋を駆け抜ける。
「やっ、そ、それだけはダメですっ!?」
主に師匠的な意味で。例え現場を見つからなくても、事実を知っただけでそのままブチ殺されてしまいかねない提案ですからそれはッ!
腕を色々交錯させて無理を主張する私。それを見て輝夜さまはすっと姿勢を戻して、笑顔のままつうと視線を逸らす。
「あーあ、フラれちゃった」
「えっ……ち、違います、そういう意味じゃなくってですねあの」
「気にしなーいの。それじゃ、おやすみなさい」
そのまま姫さまは、楽しそうな足取りで自室へと戻っていく。
本当に気にしなくていいのだろうか……分からない。でも、これでいいんじゃないかという気がしてくる。
縁側に一人取り残されて、焦りが落ち着いて体も程よく冷めたとき。
「はい。おやすみなさい、姫さま」
言いそびれた言葉を呟いてから、私も自分の部屋へと戻っていった。
流石に三つ編みも師匠的な意味でギリギリなラインだったので、次の日には解いてしまっていた。
けれど、撃ちに行く時にはこっそりと髪を編んで出向くようになった。
射撃の腕は相変わらずイマイチで、なんとか失敗を避けられる程度ではあった。
ただ。背中にかかる僅かな重みが、まるで師匠と輝夜さまに見守られているようで、心は少しだけ楽になっていた。
やがて季節がいくつか過ぎて、両手で数えるには少し余るくらいの数を撃ったあと。
それきり賊がやってくることは無かった。
もう大丈夫だろう。ということで一連の騒動で負担の大きかった私に、師匠が自らカウンセリングを行ってくれる。こういう大事なところでのケアは外さないので師匠は本当に偉いと思う。
いくつかの質問に答えたあと、師匠は「概ね良好。ただし無理は厳禁」という診断結果を出す。
良かった。これでいつもの永遠亭が戻ってくる。と安心していると、師匠が妙に考え込んでいることに気がつく。
「どうしたんですか? まだ何か不安なことでも」
「いえ、ね。一つだけ腑に落ちないことがあるのよ」
なんですか? と訊ねると、師匠は真剣な顔で答える。
「どうしてこの任をうどんげにさせるよう輝夜さまが命令したのか、分からないの」
一瞬、あのときの妹紅さんの言葉が頭の中を過ぎっていった。
輝夜さま?
良いお話でした!
おつかれさまでした
妹紅はある程度検討はついてるっぽいけど。
好きな雰囲気の話でした。
狙撃の雰囲気もオチもよかったです。
戦う鈴仙は格好いいね。
俺も姫様に抱きしめられたい・・・