あらすじ:こいしが人里に住む男に面白く独創的な命乞いをすることを乞う程度のお話。
1
石油をぶちまけたような暗闇の中を、男は思いっきり駆けていた。
わずかに後ろからは、雨のように罵声とも怒号ともつかない不気味な声が降り注いでおり、一瞬でも足を止めたら食い殺されるに違いない。
どうしてこうなったのか。
山菜をとりにでかけ、つい夕闇が覆う時間帯まで滞在したのが理由だ。
しかし、単純な運の悪さといったほうがよいかもしれない。まさかこんなところで襲われるとは男も考えていなかった。そのあぜ道は人里のほど近い場所であり、緩やかな曲を描いている。あとわずか五分ほど走れば里の中に逃げこめる。そうすれば男の命は助かる。
後ろを追っている妖怪がいかに知恵がない存在であろうと、人里に入れば慧音先生の張った結界に護られるであろうし、そうでなくても誰か強い人が出張ってくるはずだった。
男にはもはや後ろを振り向く余裕はない。
彼の後ろをズルズルと這うようにして追いかけているのは、巨大なミミズのような妖怪である。かの妖怪にはたいして知恵もない。知恵がないということは、傾向としてたいした力もないということである。もちろん人間の男にとっては十分に命の危機を感じる程度の力は持っていたが、妖怪にとっては弱小の部類に属する。しかしこの場合、弱小とはいえ言葉が通じないことのほうが問題かもしれない。振り返って弁解などする余裕などあろうはずもないが、仮にそうしたところで効を奏さないと考えられる。
走って逃げ切るという単純さこそが求められた。
膝が先ほどから笑っている。
二十分以上も駆けどおしである。拳は必要以上に力強くにぎりこまれ、首筋からは静脈が見えるほど浮き出ている。息も満足にできない。駆けるしかない。
あとわずかな距離。それが残された希望である。
しかしまた運の悪いことに、小さな石ころが目の前にあった。
違った。――小さな女の子が目の前に寝転がっていたのだ。
暗闇で手を伸ばした距離ぐらいしか視認できない状況では、避けることさえままならず、もんどりうって倒れるしかなかった。
後ろを振り返った。
ミミズの妖怪は大きく鎌首をもたげ、獲物を標的に定めたようだった。わずかに手前に配置されることになった少女のほうに。
男は手を伸ばして、なにか声をかけようとするが、からだが休息を知ってしまって、息があがっている。
「ふにょ?」
場違いなのは、少女の柔らかな寝起きの言葉であった。
次の瞬間――
まばゆいばかりの光芒が少女の指先から発射された。
寝起きの赤ん坊がイヤイヤとするように、単純に起こされたことによる不快の反応だったのかもしれない。
心臓を記号化したような弾幕は容赦なくミミズの頭頂部分を捉え、吹き飛ばしていた。
ズガンと雷鳴がとどろくような音がした。
「わ! びっくり」
自分のやったことに驚いたのか、少女は、にわかに覚醒したようだ。
対するミミズのほうはというと、いきなり喰らった攻撃に驚いているのか、いや驚くほどの知性はないのかもしれないがともかく生命の危機を感じたのか、なくした頭の部分を気にもせず、土の中に逃げこんでしまった。
もしかすると再度襲ってくるのかと、男は身構えたが、どうもそういう気配ではない。先ほどから充満していた死の気配、喰らいたいという欲望の気配が消えている。
どうやら助かったらしい。
2
少女の名前は、古明地こいし。無意識を操る程度の能力を有するふわふわ少女である。
今、こいしの心境は「どうしよう」だった。
もしもこいしがもう少し覚醒に近い状況であったならば、男の命が点滅している様子を認識の影から盗み見て楽しめただろう。断末魔の瞬間を心ゆくまで味わいつくせただろう。こいしは人間の無意識を覗くことに無常の喜びを覚える性質である。そこには倫理などという曖昧な概念が入りこむ余地はない。そもそも人間に情をかけるほうが妖怪にとっての異常である。
しかし、無意識の行動とはいえ男を助けてしまった今となっては、男の無意識の叫びを観察することなどできない。それだけではない。助けられたほうは必ず感謝の念を向ける。意識をこいしに向けている。こうなってしまってはこいしが無意識の能力を発現することは難しい。空中に浮かんで逃げてしまえばいいとも思えるが、そうしたところでこいしに向けられた意識が消えさるわけではない。それはあまり気持ちの良い状態ではなかった。
無関係こそが最上。
だったら殺してしまえばいいとも考えた。
しかし、そうすると怨みの種を残すことになるだろう。人間は動物と違って粘性のあるイキモノ。死ぬ間際には怨みを残す。こいしに対して意識を向ける。
手がべたべたになるのは気持ちが悪い。こいしの心を人間の言葉に置き換えるとそういう感覚だ。
人間の『愛』と呼ばれる粘液はこいしにとってはベタベタしていて、ちょっと気持ち悪い。
できるかぎりアウトレンジから観察したい。
「ありがとう」
呟かれた感謝の言葉に、こいしは微笑を浮かべて答える。
「べつにいいわ。偶然ですし」
他人行儀にこいしは答えた。
その様子も男には謙遜に映ったのかもしれない。ますます視線が熱を帯びている。
あー、ヤダナァとこいしは心の一部を深海魚のように硬くする。
とりあえず、そこらの岩に腰かける。土埃のついた服をパッパと払い、じっと男を観察する。
べつにどうでもいいのだけど。
できるかぎり興味をもたれないようにしようか。
それとも殺してしまおうか。
両極端な表層心理。
そして無意識はそのいずれも選択しない。
無関係こそがすばらしく無関係こそが最も望んでいる形のはずなのに、なぜか口もとが自動的に動くのを感じた。
「ねぇ? あなた」
「ん?」
男は怪訝な表情を浮かべる。わりとその様子もおもしろくはある。おそらくこいしが妖怪であることには気づいているのだろう。命の危機を救ってくれた恩人に対して感謝しつつも、妖怪という存在の危うさにそこはかとない不安も感じている。
不安を無理やり理性で抑えつけようとしている。
そこが少しだけ楽しかった。
「あなたを殺してもいいですか?」
筋肉がこわばるのがわかった。ますます楽しい。不随意筋の動きは見ていて楽しい。心臓がドクドクと普通よりも速く脈打つのが聞こえてくる。
それはこいしの好きな恋の音でもある。もちろん、この場合は恐怖の音であるのだが、こいしにとっては両者は同じである。
「助けておいて、それはおかしくないか」
「あなたを助けたのは偶然だから、妖怪らしく殺してもべつにいいじゃない」
「そんな勝手な」
「ああそうね。勝手だわ……あれ? どうしてそんな同意なんかを取りつけようとしたのかしら。うーんと……」
こいしは自分の内奥に生じた無意識を捉えようとする。
単純に殺意を抱いたのならば、殺してもいいかなんて聞くはずもない。
だったら――
こいしは無意識に何を思ったのだろう。中心自我に問い合わせてみるが、どうも答えが判然としない。
「ああ、もしかして戸惑ってるのかな……」
ひょんなことから人間を意識の内側に取りこんでしまったことに対する戸惑い。
人間に興味を持たれたことに対する困惑。
確率的には高そうだ。
しかし、戸惑いだとしても、それからどうするべきかの答えにはなってない。
こいしは悩みに悩んだ。表層的にはぼーっと座っているようにしか見えないが、男のほうも下手に動くことはできない。
こいしはあのミミズの化け物を一撃で叩きのめしたのだ。
逃げようとすれば殺されるかもしれない。もはや逃げ出せる距離ではない。あとわずか三分ほどの距離。しかしあまりにも絶望的な距離。
里の明かりが遠くに見える状況ではあるが、まだ里の外だ。
「とりあえず帰りたいんだが」
おずおずと男は提案した。
「ダメかも?」
こいしはピシャリと否定した。特に意志をもって否定したわけではないが、どうもこのまま行かせるのは気持ちが悪い。素直に考えれば人間がどうなろうと関係がないというスタンスなのだから、このまま男が里のなかに帰ろうが関係がないはずだ。
にもかかわらず、そのまま帰すことを心のどこかが拒んでいる。
興味をもったのかもしれない。
こいしは小首をかしげて男を観察する。霊夢たちよりは年をとっているようだが、まだまだ幼さの残る顔立ちだ。何の力もない人間が山に立ち入るとはよっぽど自分の運を過信しているのだろうか。もしかすると一人暮らしなのだろうか。親に先だたれたとか。いろんなことを考えたが、瑣末な情報だと切って捨てた。
それよりも気になったのは、声。
おそらくこいしにつまづいた一瞬のうちに、男が無意識に発していた声が、普段聞けないものだったから興味をもったのかもしれない。
こいしはあのとき本気で眠っていたため、意識できるほど記憶のなかにはなかったのだが、あの小刻みに激しく繰り返す呼吸のなかに『生きたい』という無意識の叫びがあったのかもしれない。普段死にかけている人間にはそうめったに会えることはない。老衰で死にかけている人間の家にこっそり立ち入ったことはあるが、意識がぼんやりと拡散していくだけでそういう叫びはなかった。病魔に犯された人間はまだマシ(こいし基準の面白さという意味で)であったが、それでも絶叫というより諦めに近い心理が心の大部分を占めていた。病魔による痛みに気をとられている者もいたし、叫びと呼べるほどのものではなかった。
こいしに向けられた叫びは、おそらくそういったものとは違う叫び。
たぶん誰かに殺されそうになっている者が発する叫びだ。
「そうね。もう一度聞きたいのかも」こいしは軽い調子で話しかける。「命乞いをお願いしますわ」
えてして妖怪が人間に興味を持つというのは、こういった偶然がもっとも多い。
そしてそれはいわば広大なダンジョンを探索するような地道な作業なのである。
こいしはふわふわの笑顔でニッコリと笑った。
3
「助けてください。死にたくありません」
由緒正しい土下座の形である。
「……すごくつまらない」
「そんなことを言われても」
「私にはお姉ちゃんがいるのだけれど――」
こいしは軽い世間話のように話を切り出す。
「大好きで大好きで思わずぺろぺろしたくなるぐらいかわいいお姉ちゃんがいるのだけれど。そんなお姉ちゃんに対して殺意を抱くことも時折あるわ。それってどんなときか知りたい?」
男は答えない。
あまりに突飛すぎて話についていけてないのだろう。
こいしは構わず話を続ける。
「私の家のダイニングルームには最近入荷した大きなテレビデオがあるの。テレビデオってわかるかな。家で見れる活動写真なんだけどね。お姉ちゃんにとっては人の心が伝わらない画像を見るのが楽しいみたいでよく見ているのよ。それで私も偶然いっしょに見たことがあるんだけど、お姉ちゃんは人がよく死ぬ恋愛ドラマを見て涙を流していたわ。そのとき私はお姉ちゃんってどうしてこんなくだらない作品で泣くのかなって思って、すごく不思議で、だから殺したいって思ったの」
こいしの口調はずっと一定の調子を保っていて、ふわふわしている幼い舌足らずな調子であったが、しかし言っている内容はかなり凄惨なものである。
感情が平坦であるがゆえに逆におそろしさを感じたのか、いつのまにか地面に正座していた男はわずかにみじろいだ。
「何が言いたいのかよくわからないんだが」
「だってそんなの定番すぎるんだもの。つまんないわ。あなたの命乞いにも独創性と発想力と目を見張るような表現力が欲しいの」
「独創性?」
「そう、いまだかつて誰も考えたことがないような命乞い」
「発想力は?」
「単に非凡なだけじゃおもしろくないわ。例えばジャンピング土下座をしながら、好きですだから許してとか言ってもダメ。ちょっとは面白いかもしれないけれどそれじゃ飽きるもの。知性が欲しいわ」
「表現力って」
「だって貧しい表現力では心が動かないわ。心の琴線に触れるような言葉じゃないと、じゃあ助けてあげようかって気にならないでしょ。そもそも命乞いの作法をあなたは知っているのかしら。それは命乞いをする相手方を楽しませることなのよ。そして依頼人である私は今言ったような命乞いを求めているの。だからあなたはそういう命乞いを提供する義務があるのよ」
「めちゃくちゃな話じゃないか」
「そう。でもあなたは命乞いをしている立場でしょ。私が面白いと感じなきゃ、あなたは死ぬしかないの」
男はムスっとした表情になった。
なるほど、少し怒りを覚えているらしい。
「遊んでいるのか」
「そう遊んでいるの。だって命乞いなんて私にとっては余剰行動にすぎないもの。生体の維持にはまったく無関係な事柄なのよ。いや、そもそも冷静に考えてみれば命で遊んじゃいけないなんて法はないわ。この世は弱肉強食。殺す前に嬲ってもまったく問題ないでしょ。そもそも人間だってそうじゃない。弱い生き物を殺したり嬲ったりしてる。年端もいかない少年少女が虫の肢をもいで遊んでいるのを見かけたことがあるわ。そこまでいかなくても、縁日の金魚とかここにはないけど外の世界の動物園とかペットとか、あるいは物の擬人化なんかもいっしょ。全部人間が強いから弱い存在を蹂躙しているんじゃないの。妖怪だってそうしていいはずよ」
こいしは地面に図を書いた。
私>ミミズ>>>>>>越えられない壁>>>>>>あなた>有象無象
「私はあなたの生命を握っているの。だからあなたの生命の価値を決めるのは私であってあなたじゃないわ」
「自分の価値を決めるのは自分だろ」
「もちろんそういう考え方もあるだろうけれど、でも殺されちゃったら元も子もないんじゃない? 後生大事に自分の価値を信じても他人が勝手にそれを評価して、あなたは生きるに値しないって思われちゃえばおしまいじゃないの」
「死んでもいいって考えてたら?」
「少しつまらないけれど、そういった人間はそれだけの価値しかないからやっぱり殺してもいいんじゃないかしら。少なくとも私は困らないわけだし」
「ひどい話だな」
「ええ、残酷な話。でも生きたいのはあなたでしょう? あなたの命乞いが成功すればあなたは生きることができるのだから、あなたが先にもちかけてきた話なの。それを間違えないでくださいな」
4
男は考えていた。
もしかすると単なる詐言ではないのだろうか、ということをである。
そう考えたのは、こいしの表情と雰囲気が柔らかく、殺気というものを感じなかったせいだ。こいしの心はどこか定まっていないふわふわの綿菓子のようであり、妖怪らしさに欠けていた。
しかし、言っている内容は凄まじい。
命乞いをしなければ殺すと言っているのである。
もし、こいしの言葉が嘘ならそれはそれでよい。ただからかわれたというだけで、先ほど命を助けてもらったのは確かだから。
しかし、もし本気で言ってるとしたらどうだろう。
笑ってすませるような問題じゃない。
殺されてしまっては本当に元も子もないのだ。
そう考えると、たとえこいしが遊びであるからといって――いやむしろ遊びであるからこそ、こちらは本気で応対しなければならないのかもしれない。相手は気まぐれに男の命を留保しているにすぎないのだ。
男は歯を硬くかみ締めた。
怒りが湧いた。
こいしのふわふわした表情を見ていると、腹のあたりに無意識に力がこもる。どうして相手方は遊びにすぎないのに、ほんの上澄みの部分しか見ないのに、こちらは誠心誠意をもって命乞いをしなければならないのか。
そういった憤りがあった。
わかってはいる。こちらは命を握られている以上、向こうの意向には逆らえないのである。
死にたくないのは確かだ。できることなら自分の価値を認めてもらって助命を嘆願しなければならない。こいしにはそれだけの力があるし、それだけのポジションを有してもいる。
さきほどこいしが地面に書いた図解が男の脳内でぐるぐると渦巻いた。
吐き気がしそうだった。
それでも――やらなければならない。
「家には……」
「ん?」
「家には弟と妹がひとりずついまして、父親は他界し母親は病弱です。ですから、私がいなくなると、その、生活が……困るのです」
「少しだけおもしろいかな。なるほど共感させたいんだ。感情移入させてしまいたいってことよね。命乞いという状況においては感情移入はなかなかいい手かもしれないわ。でも――私はそういう感情移入とか共感に不快さを感じたりもするわ。没我的というか、あなたはあなたというキャラクターに自己投影しすぎじゃないの? そこに私がさらに共感できるわけないじゃない。自己投影が嫌悪される理由は命乞いを乞う側が自己投影できなくなるからなの」
「実際にそうなんだからしかたないだろ」
男の口調にまた、ぞんざいさが現れはじめている。
「もうひとつ考慮しなければならないのは、感情移入させるといっても私が妖怪であるから思っていたとおりの効果があがらないってこと。私は妖怪であなたは人間なのだから、その差は言うまでもなく明らかよね。それに家族構成だって違うし、なにより考え方が違うかもしれない。価値観の相違があるかもしれない」
「じゃあ感情移入なりなんなりは無意味だって言いたいわけか」
「そうはいってないけど。人間という枠からはずれないならそれなりに効果があるんじゃないかな。それこそ私のお姉ちゃんが人が死ぬドラマ見て泣いてたみたいに。一般的には泣くであろう人が多いってことを想定しているわけじゃない」
「でもあんたには効かなかったってことか」
「そう。ぜんぜん心が震えなかったわ。もっと不幸にしてみてもたぶん同じだと思う。私はそういう情操にはたいして興味がないから」
「じゃあ何に興味があるんだ」
「ん。すごいすごい。人間の知恵ってやっぱりすごいわ。きちんとこっちの要求を特定しようとしているのだもの」
男はじれたように、こいしを見ている。
「そうねぇ。一般的には先ほども言ったとおり、独創性かな。オリジナリティって大事よね」
「独創性って言われてもよくわからないんだが、希少ってことか?」
「希少であればあるほど価値は高まっていくわね。でもオンリーワンだから価値があるっていう考え方ってあまり好きじゃないわ。自分らしくあればそれだけで世界と等価の価値があるなんて戯言に意味はないの。それって要するに階層化された社会の中で自分の価値を保護するための言い訳だもの。自分は貧困にあえいでいる。自分は不幸である。けれど自分は世界に唯一の存在であり、かけがえのない世界でたったひとつだけの花であり、そんな存在が不幸であるはずがなく、したがって幸せである。こういう思想よね。でもそれって社会の底辺をていよく飼いならすための方便じゃないの。殺したいわ。そんな考え」
こいしの静かな殺意に男は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
本気を垣間見た気分である。
けれど、今すぐ殺されるわけじゃない。気を取り直して、もう一度男は尋ねる。
「言い訳や方便じゃない独創性ってやつを見たいのか」
「うん見たい見たい。自分の価値があるって証明するための独創性じゃなくて、私を楽しませるための独創性を見たいの」
「難しいな」
「困難を素直に吐露して同情させようとしているの? 私はただ単に遊んでいるだけなんだからあなたの困難や苦しみや能力のなさなんてまったく関係がない事柄だわ。むしろ独創性溢れるおもしろい命乞いから遠のく行為だから、そういう話をするのはあまり面白くないかも」
「かといって、そんな簡単に思いつくものか。その独創性に溢れた命乞いなんてもの」
「それを考えるのはあなたのほうでしょう?」
「あんたは命乞いとかしたことないんだろうな……」
なにか面白い命乞いはないかなんて無責任でなおかつ利益だけはたっぷりせしめようとする態度。
そんな冷たさ。
しかし逆らうことはできない悔しさ。
心の殻が一枚一枚はがれおちていくような感覚である。
もしも命の大切さを知っているなら、それに男がどれだけプレッシャーを感じているかを感じとるだけの優しさがあるなら、そんなふうに他者を見れるものだろうか。いや、そもそもこいしは他者の価値を標準ではゼロであると捉えているのだ。なにもしない素の状態で価値があると主張することに呪いにも似た想いを抱いている。
自分にとって利益にならなければ他者に存在する価値はないと言わんばかりの考え方である。ずいぶんと極端な考え方だと思うが、しかし妖怪であればそういう考え方もありうるのかもしれない。人間が社会という集団のなかで生きているのと違い、妖怪はその外側で生活しているのだから、人間との交わりは自分にとって楽しいか楽しくないかぐらいしかないのかもしれない。自分を抑えるという必要がなく、どこまでも自侭に増長できる。
腹が立った。
なんとも不公平な話ではないかと思った。
「なぁに。その顔。くらーい」
こいしはクスクス笑った。
男はいつのまにか伏せ気味になっていた顔をあげた。
「なっ……」
「命乞いくらい私だってしたことありますわ」
激昂しかけた男に対し、こいしは会ったときと変わらない笑みを浮かべていた。
けげんな表情を浮かべる男。
「あるのか?」
「そりゃこれだけ殺伐とした世界ですもの。私だって命乞いのひとつやふたつしたことあります」
「はぁ。じゃあ俺がどう感じてるかもわかるんじゃないか」
「私はあなたとは違うから、あなたとは違う論法で命乞いしたわ」
「どういうふうにしたのか教えてもらっていいか」
「助けてくれたら殺さないでおいてあげるって言ったの」
「それは命乞いではないような……」
やはり、こいしが言ったように価値観の相違が一番の障害なのかもしれない。
男がいくら言葉を尽くしてもまったく届く気配がない。
どういう方向性にもっていけばいいのかもわからないのだ。
「ねぇ、そろそろ考えた? お姉ちゃんみたいに行動がのろのろしてるよ」
こいしは帽子の縁を指先でいじっている。男のほうなどほとんど見てもいない。適度に脅しながら最大限の利益をあげようとしているのだろう。
しかし、こいしの言葉はひとつのヒントになった。
あるいは人間と妖怪でたったひとつだけ共通している点。
妖怪にも家族と呼べる存在がいるということだ。
情操には興味がないとはいえ、この短い会話のなかでこれだけ『姉』のことがでてくるのは、家族に対して淡白になりきれていない部分があるはずだ。
男は意を決して口を開いた。
「あんたに姉がいるように俺にも家族がいるんだ。あんたの姉さんはあんたが死んだら哀しむんじゃないか」
「んー……あー、なるほど、さっきと似ているけど少し毛色が違うね。今度はあなたの家族があなたの死を哀しむかもしれないって言っているわけか。つまり、あなたの生きる価値をあなた以外の他者に求めているわけだね。でもそれって脆弱な論理じゃない。だって他人の心なんてわからないもの」
「あんたの姉さんはどうなんだ。あんたのことを愛してるんじゃないか」
「さぁ、どうかな。あなたの視点からでは、お姉ちゃんの心どころか私の心もわからないじゃない。よくそんな虚偽を自然と口に出せるわね」
「しかし、家族のことを愛していないはずはないだろう」
「いいえ。それは確実ではない。あなたに確実にわかりえるのは次の八つの可能性。
すなわち――
(1)私はお姉ちゃんを好きだった。そしてお姉ちゃんは私に好かれていると感じていた。だからお姉ちゃんは私を好いてくれた。
(2)私はお姉ちゃんを好きじゃなかった。そしてお姉ちゃんは私に好かれていないと感じていた。それでもお姉ちゃんは私を好いてくれた。
(3)私はお姉ちゃんを好きだった。しかしお姉ちゃんは私に好かれていないと感じていた。それでもお姉ちゃんは私を好いてくれた。
(4)私はお姉ちゃんを好きじゃなかった。しかしお姉ちゃんは私に好かれていると感じていた。だからお姉ちゃんは私を好いてくれた。
(5)私はお姉ちゃんを好きだった。そしてお姉ちゃんは私に好かれていると感じていた。それでもお姉ちゃんは私を好きにはなれなかった。
(6)私はお姉ちゃんを好きじゃなかった。そしてお姉ちゃんは私に好かれていないと感じていた。だからお姉ちゃんは私を好きにはなれなかった。
(7)私はお姉ちゃんを好きだった。しかしお姉ちゃんは私に好かれていないと感じていた。だからお姉ちゃんは私を好きにはなれなかった。
(8)私はお姉ちゃんを好きじゃなかった。しかしお姉ちゃんは私に好かれていると感じていた。それでもお姉ちゃんは私を好きにはなれなかった。
人間に他者の心は覚れない。私とお姉ちゃんの関係を規定できるはずもない。あなたにとって都合のいい真実を八分の一に集約させようとしないで?」
ぞっとするような笑みを向けられて、男は息を呑むしかなかった。
「それでも……、とりあえず、あんたの姉さんのことはともかくとしてだ。あんたとは直接話しているんだから、あんたのことぐらいはわかるだろう。あんたが嘘をついていない限りは、その言葉を信頼するしかないわけだし、言葉を交わす以上、相手の発言を信頼しなければ何も生まれないじゃないか」
「……あ、うん。まあそれはそうかも」
こいしが素直にうなずいたので、逆に男は驚いた。
もしもこいしが否定すれば、そもそも命乞いを乞うているというところに矛盾があると指摘できるはずだった。相手を自分の意図しているとおりに誘導しようとしている以上、なんらかの成果を得たいという思いはあるはずなのだ。
こいしにとっての成果とは、いままでの発言からすれば、おもしろい命乞い、独創性溢れる命乞いということになるだろう。そういう命乞いをしろと実質的には命じているわけであるが、命じている時点で、少なくとも男の命が狩りとられる心配は相当程度少なくなっている。こいしが成果を得たいと思うならば、男の命は狩りとれないのだから。
そういうわけで、男はこいしの発言を少なくとも信頼してよい。
こいしの発言すら疑えということになれば、もともと対話の意味すらなくなることになる。
話はご破算。
なんの成果もないまま、こいしはいたずらに時間を浪費しただけであり、男のほうは命を失う結果になるだけである。
「それで、あんたは姉さんのことを愛してるんだな」
「愛って言葉嫌いなの」
「じゃあ、好きでも恋しているでもいいが」
「うん。『恋している』のほうが素敵だわ。びっくりするほどユートピアだわ!」
こいしはキャッキャとはしゃいだ。
よくわからないテンションだが、男はそのまま続けることにした。
「つまり、あんたは姉さんに恋してるわけだ」
「誘導的だけど、まあいいわ。そう――私はお姉ちゃんに恋しているの」
「じゃあ、その姉さんがもし死にそうになっていたら哀しいか?」
「お姉ちゃんが誰かに殺されそうな場合って言ってもいいんだよ。私はそれくらいで殺したりしないから。そして、答えはよくわからないかな」
「自分のことなのにわからないのか」
「想いが遠いの。でも、どちらかといえば寂しい感じがしなくも……?」
こいしの声のトーンも、張りついたようなふわふわな笑顔も変わらない。
「同じように感じる可能性はあるよ。人間の家族もな」
「ふうむ……。少しは共感できそうかな。命乞いっぽくはないけれど」
「しかし、これで少しは人間と妖怪も共感の可能性があることが判明したわけだ」
「ンー。まあそうかも」
「だったらあんたが言うところの面白い命乞いなるものもいずれは見ることができるかもしれない」
「可能性の提示? 翻訳することこう言いたいわけかな。命乞いは自分の生存の価値を相手方に認めさせる行為である。しかし価値観は多種多様で認めさせることができるかどうかは可能性の問題。けれど感情移入や共感の可能性がある以上、いつか誰かが私の心に触れるような命乞いをしてくれるかもしれない」
「まあ平たく言えばそうだ」
「いつか誰かが……、つまり未来のあなたかもしれないってこと? ここであなたを生かしておけば、面白い命乞いが見れる?」
「そうだ」
「ふぅん。ちょっと不満だけど、次回にご期待くださいって言われちゃうとなぁ。しかたないから保留しちゃうかなぁ。でも次はもっと面白い命乞いをお願いしますわ」
「ああ、わかっているよ」
「今日はそれなりに有意義に暇つぶしができました。そろそろ夕飯の時間だし帰るよ」
「ずいぶんと遅いな」
「妖怪だし普通だよ」
「ふうん。もし次の機会があればだが――」
男はほとんど無意識に口を開いていた。
「あんたの名前ぐらいは知っておきたい。そうじゃないと不公平だろう」
「名前なんてどうでもいいじゃない。あなたの命乞いを少しだけ面白いと認めた。そういう心があるってだけ。要するにあなたの価値を認めた他者がいるってこと。それが重要なんじゃない?」
「だからこそ、名前ぐらいは知っておきたいと思ったんだよ」
「……ポカン」
「は?」
「アンポンタン・ポカンということにしとくわ」
「偽名か」
「名前は私そのものじゃないもの。第三者と区別するには有用だけど、一対一の対話では必要ない。必要なのは考え方。独創性。面白いこと。私はそれだけでいいの。人が死んで哀しいねっていっしょに涙を流したり、いっしょに笑いあったりすることが幸せだって決めつけたり、そういうのは嫌いなの」
「ポカンに面白いと思われるのは大変そうだな」
「私だってそれぐらいわかってるよ。でも誤解してほしくないのは、私はあなたを貶めたり、嬲ったりすることで別に快感を覚えているわけじゃないの。命乞いという行為に付着した生存の価値を認めてほしいという声が心地よかっただけなの。あれ? 結局それって誰かに共感したかったってことなのかな」
「……」
男は答えることができない。
こいしは地面をじっと見つめていた。やがて気にしないふうに顔をあげた。
「まあいいや。もう一回お姉ちゃんといっしょに、人がよく死ぬ恋愛ドラマでも見てみようっと。じゃあね」
こいしはフワリと浮き上がり、ひらひらと手をふって帰っていった。
残されたのは闇。
そして静寂。
男は帰途につく。
道すがら、なにか面白い命乞いはないものかと考えながら。
やっぱ見た目少女だと初対面じゃあ、脅威も薄れるのかな。
フリーレスで申し訳ありません。でも、好きです。好きな御話であることは疑いようが無い筈なのです。
が、しかし、読んでいる最中、特に感じるものがなかったのは何故なのでしょうか。
恐らく当方の感受性が足りなかった、もしくは鈍っているのでしょう。
どうしても客観的に読んでしまい、男と云う主観に入りきることが出来ませんでした。
あるいは(対話による)生きるか死ぬかの瀬戸際と云うものをまだ知っていないからなのかも知れません。
この作品の何処が面白いのかが本当に解らないのです。好きではある筈なのに。
思うに、自分の感じる面白さと云ったものとはまた違ったベクトルを持つ作品なのかと。何とも言えない読後感でした。
この作品に対する評価をどうするべきか、判断に苦しんでおります。満点に近い評価である事は確かなのですが。
よって、フリーレス。非常に申し訳ない。
落ち着いたころに読み返せば、この作品に対する評価が決まりそうな気もしますが、とりあえず今はこれで。
ありがとうございました。
あなた程度のレベルの人なら今更命乞いする人間の心理なんてつまらないんじゃないかしらん
あなたは根本的に人間の生き死ににもこいしの支離滅裂さにも大して興味もないんじゃないかと、とそう読めた
相変わらずの測定不能なこいしちゃんを堪能できました。
こいしちゃんがかわいすぎて生きるのがつらいという法則(殴)
冗談はさておき新年早々まるきゅーさんの作品が読めてうれしいのです。次回作に期待。
文章が無味無臭という感じ。無味乾燥ではなく。
確かに超空気作家だよ。
興味の対象を無理矢理無意識に結び付けようとしてこのような茶番を演じたってことですかね?
僕バカだからよく分かんない。
カウンセラーに近い。
その多くは他者心理への関心を営利に置き換えることで他者心理の俎板である
無関心を得るんだろうが、こいしの場合はそもそも無関心の塊だから
どこまでもまっさらで広々とした俎板がはじめから用意されてる。
こいしちゃんはきっと天才的なサイコセラピストに慣れるだろうな。
こいしちゃんはきっと理系だろうな
対話の内容は面白く読めました。
こいしちゃん自身気付いていない生の肉声が顔を出した感じ。
大多数に落とし込まないで、ただありのままの「私を見て」という切望に
ぐらっと来ました。