深夜十二時二分前、大学の前にある踏み切りにて、私はいつも通りの待ちぼうけをくっていた。寒さが堪えるこの季節に、あの子が天体観測をしようなどと言い出したのがそもそもの始まりだった。
部室前の廊下で分かれたときの蓮子の顔が想い出される。あの屈託の無い笑顔と突き出した親指に、私がさらされているこの冷たい空気の厳しさを、息が続く限り、絶え間無く教えてやりたい衝動に駆られた。だが、今は我慢してやろう。なぜなら、私の吐息はすでに十分余りものあいだ冷たい手に占有されており、きっと寒そうに駆けて来るであろう蓮子に、分け与えられる余裕などないからだ。
蓮子が始めに提案した待ち合わせの時刻は午前二時だったのだが、さすがにそこまでは付き合えないと私が変更させたのだ。しかも約束では午後十一時四十五分だったのに、もうすでに十三分の遅刻である。相変わらずの悪い癖だ。
私はまた腕時計を見る。秒針が蓮子の罪を淡々と数え、私の無駄な時間がまた増えていく。
これまでの待ちぼうけの時間があればどんなことが出来ただろうか、と以前考えたことがある。とても不毛なことだと知ってはいてもせずにはいられず、手元の携帯端末で計算した。
おおざっぱにでも時間を足していく。だが、私は途中で止めてしまった。まるで単位日数を数えているようで、これでは蓮子という教授の授業に出席しているみたいだし、しかも教授が留守の自主勉状態である。数時間単位では納まりそうになかったし。
とうとう腕時計は日付を跨いだことを私に告げた。遅刻魔はまだ来そうにない。今頃なにをしているのやら。
そのとき、私が見つめていた腕時計に赤い光が映り込んだ。深夜だというのにけたたましく、真っ赤なライトを瞬かせ、踏み切りの遮断機が降り始めたのだ。
その音と光は獣のように吠えていたが、私は不思議と落ち着いていた。蓮子の不貞に呆れていたのもあるが、当たり前に受け流せる平静さを持てる、深夜という時間帯だったことも多分に手伝っている気がした。
やがて踏み切りに電車が雪崩込んで来た。今では珍しい、地上を走る電車だ。丸いライトを闇夜に流し、額縁のような窓の光が列を作る。緑色の、古めかしい角張ったデザインだった。
今時分の主流であるモノレールは地上数十メートル上の鉄橋にぶら下がって運行され、交通渋滞の減少や都市空間の有効利用にも一役買っている。メトロにするには地下は穴だらけになり過ぎているし、地盤沈下も問題になっているから丁度良いのかもしれない。空の方が眺めも良いし。
しかし、私たちが住む首都・京都は、前世紀から続いている昔ながらの景観を残そうとする運動がある為に、人口の過密化が著しい今日でも、住宅地域を削るように這う路線をよっぽど家宝のごとき扱いで保護していた。技術の進歩を望みながら、昔の街並みを残そうとするというのもおかしな話である。
それでも、利便性という甘き汁と未来志向の建築技術を知ってしまった人たちに蔑ろにされないまでも、後の優劣の偏りを予見出来る程度には、京都の景色は変わりつつあるように私には想えた。
その顕著たる例が、この懐古的な電車であろう。
さりとて、今や守るべき文化になったこの電車さえ、以前の京都では「似合わない」「景観を損なう」などと言われていたのだから、人々のノスタルジック性は全くあてにならないと言えよう。やっと疎しく想われない時代になったというのに、よもや今度は憐れみを享受しなければならなくなろうとは。いや、そう想ってしまうのも私の中のノスタルジックが原因なのかもしれない。まるで閉園前の動物園のような、私たちの知らない場所に行ってしまう動物を眺めるような、掠れた一方通行の憐れみだ。
時折派手な車輪の音を鳴かせながら、電車は生存競争から追い出された、絶滅寸前の獣のように、私の前を走って行く。私も含めた人々の、好奇の眼差しという檻に保護されながら、白々しく用意された線路の上を駆ける獣は、自分の行く末を知っているのだろうか。
ダイヤという天敵に日々追いかけられる鉄の獣。されど技術に追いつけなかった獣。
でもその代わりにレゾンデートルが生じ、事実、とっくの昔に廃棄されてもおかしくない車体は最新技術とやらで補強され、白熱電球はLEDライトへと交換し、パンタグラフは強化プラスチック製のお飾りに成り下がりつつも、未だ走り続けられる。すべて自分の及ばぬ力と意思が成したことではあるのだが……。
はた、と。無責任ではあるが、想いつくことがあった。
なぜ私たちは懐かしいという心を抱くのだろうか。懐古主義などと言われてもまだ心に残り続ける、淡い懺悔のような、それでいて優しく包み込んで欲しいというわがままのような感慨。紛れもなく自分の気持ちのはずなのに、どこか捉えどころのない、幻想にも似たなにかを懐かしむこの心は、果たしてそのすべてが自ら産んだ気持ちなのだろうか?
もしも。もしも、である。
私の眼前を駆ける鉄の獣が、もやもやとしたこの懐かしむ気持ちの原因だとしたら。いや、鉄の獣に限らず、懐かしいと想う気持ちにはそれ相応の対象となるものが存在するはずだ。それらが私たちに幻想を見せ、過去を振り返り、あまつさえ美化させる要因になっているとしたら。もしかしたら、用意された線路の上を走っているのは私たちの方かもしれない。
利便性の低い電車はいつのまにやら私たちの心に食い込み、古傷のように疼いては、ことある毎にその存在を主張する。ときに侘びしく、ときに鮮烈に想い出される心象に、私たちは為す術も無く懐かしむのだ。「そうだった」と。
そこに意思や魂と呼べるものが存在しないとしても、電車には、鉄の獣には、そう感じさせる力と魅力が在るのだ。決して時代に取り残されるだけではない、反論し、自己の生まれた意味を自らで証明してやるという気概が。そう、正に勝ち得たのだ。私たちの記憶に残るという形で、自らの存在価値を勝ち取ったのだ。ならば憐れみなどよりも、賞賛の方が、惜しみない拍手の方がふさわしいのではないだろうか。
――――尾のようにテールランプが光を曳いて、鉄の獣が駆け去ると、残像ではない一陣の風が舞う。それが私には息吹に感じられ、また、まだまだ走れるという獣の主張にも想えた。自分は、なにかしらを残しているのだ、と。
「メリー! ごめん、遅れちゃった!」
余韻が弓張る遮断機の向こうから、何度も聞いた台詞が届く。遅刻魔が、白い息を纏わせた笑顔を、私に投げていた。
「遅いわよ! いつものことだけど」
「す、すぐにそっちへ行く!」
遮断機が上がりきる前に、蓮子は下をくぐろうと、せかせかと身体を屈ませる。その様子に危ないなと想いながらも、私は苦笑を隠せずにいた。蓮子はコートのボタンを掛け違え、胸元に見えるタイは緩み、帽子を押さえて駆け寄って来る。良い意味で放蕩で、悪い意味で純朴な私の親友は、なにものにも代え難い、変わらないものを持っている気がしたのだ。
「そ、そんなに笑うことない、じゃない。これでも、急いで、走って、来たんだから」
息も切れ切れに、蓮子は上目遣いで私の顔を覗いてくる。その瞳は出逢った頃のまま、星の光を灯した煌きで私を映す。私は、風で乱れた髪を、左手で撫でた。
きっと、あの電車とて変わらないものを持っているのだろう。それは非道く曖昧で、時間の流れと共に浮き彫りになり、私たちの心になにかを残してやっと、目に映るような数万光年離れた星々の光なのだ。
気づかないならそれはそれ。でも、気づいたのなら、気づくことが出来たのなら、優しく、抱きしめてあげるといい。そうすれば必ずや、応えてくれるはずである。見つけてくれた喜びを、懐かしさと言う身の内に潜む柔らかい幸せとして。
「ふふ、ごめんごめん。あんまり蓮子が楽しそうだったから、ついね」
「おろ、分かりますかね。そうなのよ、実は私、楽しみにしていたのよね。メリーと天体観測しに行くの」
私が頷くと、蓮子は背筋を伸ばして夜空を振り仰いだ。つられて私も仰ぐと、こぼれ落ちそうな星が輝き、その光る姿にオリオン座を見せた。静寂という深い夜空に、自らを主張する遙か彼方の、幾万にも及ぶ、星々の演奏旅行。
ふたりだけの時間が流れるなか、私は遠く、踏み切りが鳴っているのを聞いた。
「私もよ」
蓮子にそう、囁いた。
面白かったです
古い時代の曲となってしまいました。音楽文化の移り変わりの速さとは著しいものです。
まあ音楽は鉄の獣と違って、それ自体にメッセージが込められていますし、時代の変化に立ち向かえる。
しかし路線電車に込められている想いは、同じ時代を生きていた人にしかわからないものじゃないでしょうか。
わたし達が博物館で太古の道具とか見て、ノスタルジックに浸ってみる、そこにある筈のノスタルジアを想像してみる。
蓮子の妄想は、その程度のことでしかないとおもいます。