月が綺麗な、寒さが肌を刺す日だった。
ぼんやりと浮かんだ満月が、幻想の世界を騒々しく照らす夜は必ずどこかで面白いことが起きる。
小さな妖怪が竹林の中を飛び跳ねているのは、落とし穴に掛かった人間を探すためか。
それ以上の刺激を求めて、彷徨うのかは定かではない。
だが――
「てゐ! 逃げて!」
竹の陰に人の群れと、見覚えのある耳が動いた。
そう小さな兎が認識したときには、頭の上で空気が鳴る。
闇を裂いて、何かが放たれた。
方向は前方、人の群れ。
音に敏感な兎に対しお粗末なものだと、少女は鼻で笑って後ろに下がり――
後方で私に向かって網を掛けようとしていた人間を二人蹴り飛ばした。
「なっ!?」
同時に崩れ落ちる、二つの体。
気配は感じなかった。
網も服装も黒、ずっと地面の上で待機していたんだろう。
服についた土と、竹の葉がそれを物語っている。
悪戯兎であるてゐは、決まってここを通るからそこを待ち構えていたというところか。
「あらあら、人間たちと仲良くやってるんだねぇ。私を捕まえるのに協力してるってわけ?」
二段構えの罠をあっさり見破った後、瞳を細め、わざとらしく肩を竦める。
そんなてゐの癖を一番良く知っているのは一人しかいない。
ざわざわと、竹林に微かな風が流れ竹林が揺れたとき。
満月の光が、人間の側にいる妖怪兎を映し出す。
「あのねぇ……この格好が仲良くしてるように見えるわけ? あんたには!」
「え? 趣味でしょ?」
「んなわけあるかぁ!」
人間に荒縄で縛られ、腕を後ろで固定された鈴仙が長い髪を振り乱して叫ぶ。
ついでに額に貼り付けられた符と、頭の上の耳も大きく揺れた。
縛られているのと、薄暗いの、さらにきつく固定されているせいで、ブレザーの下からでも二つのでっぱりが自己主張をしており。
「えぇっ!? そんなえっちぃ格好なのに!」
「えっちぃ言うな!」
「じゃあ、エロ」
「言い直すな! 指差すなぁ!」
実にわかりやすい『捕らわれの身』であった。
後ろにいる若い人間の男や、女。
鈴仙の勤務予定からして、人里で捕まったのは確かだ。
「いやいや、私は人間を数えてただけだよ。うん、雄が三人、雌が二人ね。こっちで寝てる雄と雌を入れたら」
足元で転がる大人の男女、それを見下ろしてくすくす笑う。
いつものいたずらっこの顔で、楽しそうに。
わざとらしく見下して、雄と雌と言ったのもからかいの一環に見えた。
「ねね、その人たちって、何が目的なわけ? 鈴仙の身体より私の方がいいとか言う変態さん?」
「変態路線から離れなさいよ、この人たちはっ」
「蓬莱の薬をいただく。お前たちは人質だ」
「……ってことなの。わかった?」
「ん、わかんない♪」
「わかるでしょ!」
「え? だって、鈴仙人質にして薬を要求して、あの堅物が出すと思う?」
「そ、そりゃあ! 大事な弟子の命が掛かってるのよ! そんなときくらい……そんなときくらい!」
「そんなときくらい?」
再び乾いた風が竹林の中を過ぎた。
葉擦れの音が残る中で、鼻を啜る音が聞こえてくる。
「出して、くれるもん……」
「ああもう、泣かない泣かない」
なんだか鈴仙を捕まえている人間たちが気の毒そうな顔になっているのは気のせいだろうか。
とにかく、その薬を出す可能性を高めるために、てゐも捕まえる。
それが人間たちの結論らしい。
二人のやり取りを気にしながらも、張り詰めた雰囲気を解こうともしない。
「ところでさ、そっちの人間たちは、永遠亭にケンカ売ってただで済むと思ってる?」
「どうなってもいい、私の子供さえ助けてくれれば!」
狂気染みた叫びが、人間の女性から発せられた。
その周囲の人間たちも静かに頷いているところを見ると、事情は同じ。
「じゃあ永遠亭で診察してもらいなよ」
「してもらったわ、してもらいましたとも! でも、はっきりと先生はおっしゃった。地上で取れる材料であの子の病気を治すのは難しいと、自然治癒に頼る他はないって! でも、でも! 自然治癒する可能性は一万分の一あるかないかだって……あの子が何をしたっていうのよ。生まれてきてくれて、立ち上がってくれて、私とこの人のことをやっと、お父さん、お母さんって呼んでくれた。もう少ししたら言葉も覚えて、言葉を覚えたら新しい服も買ってあげようって、決めてたのに……納得できるわけないじゃない!」
地上に生きること、それ自体が罪。
そんなことを誰かが言っていた。
だから穢れを受けて、不治の病を身に抱えて生まれる命さえある。
たぶん、てゐよりも鈴仙の方がその手の話をよく知っているはずだ。
「で、ですから、それは本当にしょうがないことなんです。蓬莱の薬をどこで知ったかは知りませんが、人間たちが気軽に手にしていいものでは、それに根本的解決にはならないと」
地上の穢れを受けたものは寿命が発生し、輪廻という輪の中で罪を祓い清める。
清められた魂はまた別な形となってこの世に生まれ、また穢れを受けるのだ。
だから、誰にも防ぎようがない。
そういった運命だったと、諦めてもらうしかない。
そんな説明を何度も何度も、温和に繰り返したのだろう。
鈴仙の疲れた表情からして、それは明らかだった。
そしてその度に――
「そんなことは言っていられないのよ! 私たちはもう、その薬にすがるしかないの!」
女性の狂気に阻まれた。
男性の怒りに阻まれた。
そして周囲にいる人間は、そのおこぼれに預かろうと思っているヤツか。
それとも、同じ病で苦しむ子供を持つ親たちか。
興奮した人間は、荒縄を引き、さっさとてゐの方へ進めと命令を下す。
しかし痛みと縄で思うように動けない鈴仙は、苦痛に顔を歪めながら一歩一歩踏み出すだけ。
それを、人里からここまで繰り返させられたのだろう。
「あんたたちってさ、鈴仙の狂気にやられた? それとも満月に?」
カメのような鈍足で、ゆっくりと。
どれだけの時間、その屈辱を味合わされたのか。
「もし、もしもだけど。その両方でもなくて、自分の意思だって言ったりする?」
てゐは微笑み続ける。
手を後ろに回し、腰を屈めて可愛らしく小首を傾げた。
その瞳を妖獣らしく、真っ赤に染め上げて。
本心を尋ねる。
当然、人間の答えは――
「私たちの意志よ!」
その一言でしかなく。
「そっか、人間は、狂わされずにそんなことができるんだね。私たちに」
鈴仙は、ぞわり、と何かを感じ取る。
人間に捕まったときの悪寒とはまた別の、奇妙な感覚。
竹林全体から押しつぶされてしまいそうな重力を確かに知覚した。
「じゃあ、私もそんな強い意志を持つ人間たちに教えてあげるよ。蓬莱の薬って言うのはね、万能薬でもなんでもない。病気を治すなんて迷信でしかない。あくまでも不老不死の薬なんだよね。だからさ、今その子供たちに飲ませたら、病気を持った今の状況で不老不死になるんだよ。死にたいと思えるほどの苦しみを、未来永劫。輪廻の外で味わうことになる」
人間たちも、同じだった。
周囲に敵影はなく、正面の小さな妖怪兎だけ。
そう思って踏み出そうとした一歩が、止まる。
足が本能的に何かを恐怖している。
「そんなおかしな化物は、人間って言えるのかな?」
「ざ、戯言を! 嘘を語るな、いたずら兎め!」
「そう? じゃあ、もう今夜は嘘をつくのをやめようかな」
その恐怖の対象が一体なんなのかを理解するより早く。
てゐはある人間の足元へ視線を落とす。
「ほら、そこのあんた、そこから一歩くらい前に出たら、たぶん死ぬよ?」
その言葉を妖怪兎のはったりだと判断したのか。
興奮した夫婦の横にいた男が、てゐに向かって一歩踏み出そうとする。
持ち上げられた右足が、踏みしめる落ち葉の音。
静寂をまとった竹林の中でありふれた音。
その音のすぐ後に、ピンッという。
奇妙な音が続き。
ドゴンっと。
「はっ?」
男はどう反応すればよかったのだろう。
鼻を掠める位置を、いきなり丸太が通り過ぎた場合。
人間としてはどう対処するべきだったのだろう。
尻餅を付き、がたがた震えるのは不自然な行動とは言い難い。
だが、そうやって男が手を着いた場所でも、再び何かを弾く音が響き。
気が付いたときには、男は縄の網に掛かり上空まで持ち上げられていた。
その眼下には、月明かりの光を浴びて怪しく光る金属の煌き。
冷徹に人間を狙う、矢の先端が地面からその姿を見せて。
「――――――っ!」
悲鳴を上げ、死を悟った男が気絶した直後。
てゐは自分の足元を軽く踏む。
それがその仕掛けを止める鍵だったのだろう。
矢を放とうとしていた機械が止まり、再び暗闇と静寂がその場に訪れた。
「ここから先は私の縄張り♪ 迷いの竹林一丁目♪ あんたたちが妖怪兎を見下して入ってくるんなら、今みたいに笑えないのを起動させてもいいんだよ? ねえ、人間たち? あ、そうそう、そいつ盾にしても無駄だから。人間と妖獣の強度の差くらい、わかるよね? 同じ罠に掛かったらどっちが先に死ぬかって」
人間たちは、動かない。
いや、動けなかった。
今のような罠が至る所に設置されているとするなら、一挙手一投足が死と直結するのだ。
動けるはずがない。
「それでも裏門から入ろうっていうんなら、その曲がった根性ごと私が消し飛ばしてあげる♪ あ、でも、ここで鈴仙置いて引き返してくれるんなら罠は止めたままにしておいてあげる。どうするぅ~? 魅力的な提案だと思うけど、このまま進めば単なる無駄死に確定」
それでも、進む。
狂った女性がそう言い出しそうだったから。
てゐは、最期の一言を口にする。
「子供の最期を看取らない。最低の親になってもいいなら、勝手にすれば?」
決め手だった。
子供の両親は脱力し、その場で膝を付く。
幾分か老けて見える顔を夜風に晒し、放心した。
けれど、竹林が大きく二回、風に揺れた後。
「……すみませんでした」
たったそれだけを言い残し、去っていく。
気絶した三人については後で人里へ届けることで話が付いた。
妖力封じの符と荒縄からやっと開放された鈴仙は、小さい声で毒づいてはいたが。
「あれ? 悪口そんだけ?」
「まあ、ね。患者だったんだもん。少しくらい気持ちはわかるよ」
結局、診察に来たあの子の命は助からない。
子供を失った後の家族の反応を何度も見てきた鈴仙は、母親の気持ちを薄らとわかってしまったのかもしれない。
「ねえ、ところで、てゐ」
「ん?」
「あのときって、私のために怒ってくれた?」
「いつ?」
「ほら、妖怪兎がぁ~って言ってたとき」
「……別に♪」
「うわぁ、なんて満面の笑み……」
とんとん、っと。
まだ入り口に近い迷いの竹林の中、てゐは小さく飛び跳ねて。
薄い布地を揺らして振り向き。
「痛いの痛いの~飛んでけ~♪」
「何よ、子供っぽ――っ!」
ぺろり、
不意打ちで手首を舐めた。
痛々しい縄の跡が残った手首を、丁寧に。
いきなりの反応に、鈴仙は無防備に舌を受け入れ続ける。
「妖怪兎は、絶対私が守る。それだけだから、変な勘違いしないように!」
その舌を離した後に飛んできた言葉は照れ隠しなのか、それとも本心なのか。
鈴仙には神様がいた時代からいる兎の内心なんてわかるはずもない。
けれど、たった一つだけ、
その舌の暖かい感触だけは、真実なんだって。
星に負けないくらい輝く笑顔を見ていたら、そう信じたくなった。
後日――
「ねえ、鈴仙。この前の子供の患者なんだけど」
「ああ、やっぱりお亡くなりに?」
「自然治癒した、そうよ」
「は?」
「本当に万が一の確率程度しか、生存確率が存在しなかったのよ。これが地上の人間の強さかしら」
「……万が一、一万分の一、あっ」
三つ葉のクローバーが四葉に変異する可能性は十万分の一。
そして、てゐの幸運の力は――
四十葉のクローバーに匹敵する、と。
てゐの縄張りではてゐの幸運を受けていれば大丈夫だけどそれがないと罠を踏んで死ぬ…すごい警備力ですねw
誤字 手ゐ
四十葉のクローバー程度の幸運って
すげえんだな
それを思うと、賽銭箱も詐欺とは言い切れないんだよなぁ…
あっさりテイストな深い話、ごちそうさまでした。
だてに最高クラスの経験を誇るウサギやってませんね!カリスマてゐさん。
長生きしてるだけありますね。
終わりも綺麗に締まっていてよかったです。
読後感もすっきりで、面白かったです。
一瞬疑問に感じませんでした…w
トラップマスターなてゐもまた良し。
面白かったです。
久しぶりに覗いたらものすごい点数で歓喜です! わーい!
>22さん 74さん
誤字訂正させていただきました。
ご指摘ありがとうございます!
鈴仙に対してツンデレ風味なてゐな鈴てゐも良いですね。
年長者としてのカリスマを全力で発揮していただきました。