布団の中でタオルケットがよれて、左の方でくしゃくしゃになっていたので空は不満気に身じろぎした。
タオルケットに掛布団を重ねてかぶっているのだが、どうにも時の経過とともに掛布団は右へ、タオルケットは左へ行きたがるので困る。
足でタオルケットの隅を蹴っぽって体の上へ復帰させようと試みるが、その度に持ち上がった布団の隙間から寒気が入り込んで甚だ不快である。
どうにかこうにかタオルケットを再び体に巻きつけた頃には、不本意ながら半ば目が覚めてしまった。
舌打ちをしようとしたが、舌は口内で上顎に貼り付いていた。
喉がからからだった。
体を捻って、ベッドの脇の化粧台に置いてある水差しに手を伸ばす。
すると、頭を動かした途端にがんがんと酷い頭痛がして、空は手元を誤った。
右手の爪が水差しを叩くがちんという音がした後、水差しが倒れるごとんという音、続いて水がこぼれるばしゃ、という音が耳に届いた。
空は、あーあ、と思った。
あーあ、と思ったが、思っただけだった。
うつ伏せになって、こぼれた水が絨毯に染み込んで黒い部分が広がっていくのを、薄目を開けてぼんやりと眺めた。
水差しには結構な量の水が入っていたので、割と大惨事になっていた。
あーあ。
とにかく頭痛が酷かった。
紛れも無く、見事に二日酔いだった。
空は、またやっちまった、と思う。
昨夜の事は全く思い出せないが、どうせやっちまったに違いない。いつもの事だ。
出来るだけ頭を動かさないようにしながら、手足を曲げたり伸ばしたりしてみる。
少なくとも、怪我等は無い様だった。
薄目のまま見やると、化粧台の前の椅子の上へ乱雑に衣服が脱ぎ捨ててあった。
服もきちんと着て帰っていたわけで、持って歩くような物も無いのだから特に問題は無かった。
それで、空は自分が下着のまま布団に潜っていた事に気付いた。どうりで肌寒かった訳だ。
太ももでしゅるしゅるとシーツのひやりとした感触を楽しんでみる。
くしゃみが出た。
いよいよベッドから降りて、服を着ざるを得なかった。
それにしても、この頭痛だ。
空は昨日の自分を恨んだが、多分今夜も同じ事を繰り返すのだろうから、おあいこになるのでやめた。
ほうほうの体でベッドから這い出すと、鼻孔を突き刺す寒気にまたくしゃみが出て、その拍子に頭の中で銅鑼が響く。
どんな飲み方をすればここまで酷い二日酔いになるのだろうか、次からはもうそんな飲み方は絶対にするものかと思うが、何をどれだけ飲んだのか全く覚えていないのだからどうしようも無い。
そういう訳だから、空は自分が酒に強いのか弱いのかも分からなかった。
そもそも、昨日どこで誰と酒を飲んだのかも覚えていない。
どうでもいいと思う事については一切覚えないのが性質だった。
そうやって自分の頭の中が空っぽなものだから、物の無い空間で音が反響するように、頭痛が余計にぐわんぐわんと響くのではないかと空は半ば真剣に思う。
空は、旧都では「軽い女」として認識されていたし、そう周囲に認識されている事を空自身認識していた。
まず容姿からして目立つ。
高い身長と整ったプロポーションのいわゆるモデル体型で、艶やかで長い黒髪を持ち、器量も抜群に良い。
歩いているだけで皆が振り返るし、口笛が飛び交う。
かつ、頭が軽いと見なされているのも一因である。
彼女が端麗な容姿と裏腹に物覚えが悪く、いつも呆としているとの評は広く囁かれていた。
また、常に華美な服装や装飾を身に付けている為、一般に空はチャラチャラとしていて、少しおつむの足りない娘とのイメージを持たれていた。
そして、何より空を「軽い女」たらしめているのは、毎晩毎晩違う男と連れ立って歩き、食事をし、酒を飲んでいる事実そのものにあった。
空自身にとっては無理もない事である。
昨晩共に過ごした男の事など、一切覚えてはいないのだから。
空にとっては、全ての男は食事と酒を奢ってくれる存在でしかなく、各々の個性などはどうでも良かった。
そしてそれは、傍からは男をとっかえひっかえして遊んでいるようにしか見えない。
いずれにせよ、空は「軽い女」であって、旧都をぶらつけば鼻息を荒くした若い衆からひっきりなしに声をかけられるのであった。
「軽い女」と見られる事に対し、空は全く無頓着であった。
むしろ労せずして常に食事や酒を奢ってくれる相手が見つかる今の境遇を、空は歓迎していた。
誰しも自らの持てる能力を活用して、生きていかなければならない。
ある者は肉体の頑健さを力仕事に活かすだろうし、ある者は手先の器用さを細工物に活かすだろうし、ある者は弁舌の巧みさを商いに活かすだろう。
もっと単純に、文字通り強い者が弱い者を喰らう事だって、この地底ではざらにある。
大した能力も持たないただの地獄烏が、自らに備わった女としての魅力を武器にしたとて、そもそも当然と言えば当然の事と言えよう。
従って毎晩旧都に繰り出しては声をかけて来る男について行き、食事や酒を奢ってもらうのは空のライフサイクルの一部となっていた。
呼吸をするのと同じように、自然で、いちいち意識もしないような事だった。
肝心なのは日々の糧を得る事で、共に過ごした男の顔も、声も、話した内容も、空の中には何も残らない。
そんな物は無価値だった。
覚えない。忘れる。
そんなだから毎回こんなに苦しむのだ、と空は頭を抱えつつ悪態をつく。
自分の酒の許容量ぐらいは把握しておきたいのだが、誰かと酒を飲むという事自体空にとってはどうでもいい事なので、覚えていられない。
というより、世の中のほとんど全ての事をどうでもいいと思っているのだから始末が悪い。
結局、またやっちまった、と嘆くしかない。
クローゼットを開けて今日の服を選ぶ。
色とりどりの服がハンガーに大量にかかっており、下にもぞんざいに折り畳まれて積み重なっている。
ほとんどが男に貢がせた服だ。
空自身は、実は服には全くと言って良いほど興味が無い。
ただ、男が見立てて自分に着せる服は、やはり男好きがする服なので、男受けがいい。
それで、一種の設備投資だと空は思っている。
そして、どうせ中身が空っぽなのだから、せめて外側を飾り立てるしかないじゃないか、とも思っている。
黒いレースの縁取りがついた白のブラウスと、緑のスカートを引っ張り出して身に付けた。
化粧台の鏡に姿を映す。服装はともかく、顔色が酷い。あっかんべーをしてみる。目の充血も酷い。
鏡の下の引き出しを開けると、じゃらじゃらと大量の装飾品が入っている。
烏の習性ゆえか、服に比べればいくらか宝石の類には執着があった。
しかし、男にねだる際にどの品を既に買ってもらっているのか覚えていない為、同じ指輪やピアスが三つも四つもあったりする。
今日はルビーのペンダントをつけることにした。ルビーはイミテーションだが、巨大で目を引く。
壁にかかった時計を見ると、いい時間であった。
空はまずキッチンで水を一杯飲もうと考え、自室を後にする事にした。
部屋から地霊殿の暗い廊下へ出ると、蝶番が大仰な音を立てた。
扉の閉まった残響の中をキッチンへと向かう。
古明地さとりの私邸であるこの地霊殿には、さとりのペットとして多くの動物が暮らしているが、実態としては主が完全な放任主義の為、動物達のねぐらの内の一箇所程度の物と言えた。
ただ、さとりより何らかの仕事を任されている者は自室を与えられるルールになっており、空も灼熱地獄跡の火力の管理という仕事と引き換えに自らの部屋を確保している。
キッチンや浴室など共用部分の設備は空いていれば基本的に自由に使用出来るが、食材等は持ち込まなければならない。
偶然さとりが居合わせれば何か食事を振舞ってくれる事もあるが、意外と多忙な主はいつでも会えるわけではない。
ペットと言えど、野良とそんなに変わるところは無いのであった。
「お空」
ふと呼びかける声に空が振り返ると、燐が空の向かいの自室から出て来たところであった。
「あ、お燐だ」
立ち止まった空の元へやって来た燐は、空の顔を見て眉をひそめた。
「あんた、昨日も遅くに帰ってきたと思ったらまた二日酔い?」
「いかにもその通り」
「馬鹿だねー」
「馬鹿じゃない」
普段、他人に馬鹿と言われると、空はかちんと来る。
自分は興味の無い物事を覚えないだけであって、決して馬鹿ではないと思っているからだ。
空が馬鹿と言われても腹が立たないのは、主のさとりと親友の燐だけである。
つまり、今のやり取りは軽いじゃれ合いであった。
ちなみにさとりは決して空の事を馬鹿だと言う事は無いし、燐は事ある毎に空の事を馬鹿だと言う。
「あんた、その内絶対痛い目見るからね。夜遊びも程々にしときなさいよ」
「そうだろうね」
実際、燐の言う通りその内自分は痛い目を見るのだろうと空はなんとなく思っている。
ただ、それすら空にとってはもうどうでもよかった。
空の言葉を聞いて、燐はふん、と鼻を鳴らした。
「そうだろうね、じゃないよ。あんたはホントに馬鹿だよ」
「馬鹿じゃない」
並んでキッチンまでやって来た。
空は水切りカゴに伏せたままにしてあった自分のコップを取り上げ、水を汲んだ。
一口、二口と息をつきながら飲むと、幾分は人心地がついた。
燐の方を振り返ると、冷蔵庫の中へ頭を突っ込むようにして食材を物色しているのが見えた。
冷蔵庫の中には皆が持ち込んだ食材が入っていて、蓋だの袋だのにそれぞれ名前が書いてある。
とは言っても、ほとんど『さとり』と『お燐』しか無いのだが。
親友の生活力には心底感心する。およそ自分には不可能な生き方だ。
そんな事を考えながら、こちらに突き出したお尻の上でにょろにょろと揺れる燐の尻尾をぼーっと眺めた。
すると視線を感じたのか、燐がくるりと振り返って訝しげに空を見た。
「何さ。物欲しそうに見たってやらないよ」
「いらないよ。食欲無い」
燐はため息をつき、小声で「馬鹿だね」とつぶやいた様だった。
空はダイニングの椅子を引いて腰掛けると、テーブルの上にべちゃーっとのびた。
「はー。だるいよー。頭が痛いよー」
「知らないよ。自業自得でしょうが」
キッチンからはじゅうじゅうと威勢の良い音がし始めた。
良い匂いが食卓の方へも漂ってくるが、今の空にとっては拷問に近かった。
「あら。良い匂い」
「あ、さとり様だ」
主の登場に空は頭を持ち上げようとするが、二秒で断念した。空っぽの癖に重すぎた。
「おはようございます、さとり様」
燐もキッチンからカウンター越しにぴょこんと顔を出してさとりに挨拶をする。
「今ちょうど朝ごはん作ってたんですけど、さとり様もいかがです?」
「あら素敵ね。じゃあお言葉に甘えてお呼ばれしようかしら」
「ちょっとお燐。さとり様と私で随分扱いに差があるじゃない」
「当たり前でしょ。馬鹿じゃないの?」
空の不平を燐はばっさりと切り捨てたが、『馬鹿だ』と断定されなかったので良しとした。さとりが含み笑いを漏らした。
さとりは空の横の席に座ると、椅子をぐっと寄せてくんくんと鼻を鳴らした。
「お空。お酒臭いわ」
「面目ありません」
「もう少し自分を大事にしなくちゃ駄目よ」
私みたいな空っぽ烏なんてどうでもいいんですよ、と口にしかけて思いとどまったが、さとり相手にはその時点で意味が無かった。
さとりは盛大にため息をついた。
「どうして貴女ってそうなのかしら」
「面目ありません」
なおもくんくんと鼻を鳴らすさとり。最早空のうなじの辺りに鼻を突っ込まんばかりの勢いである。
空はもぞもぞと身じろぎした。
「さとり様、くすぐったいです」
「お空。ちゃんとお風呂に入っていますか」
「面目ありません」
お風呂に入らないとそれはそれでお空は良い匂いがしますけどそれとこれとは話が別です、等とぶつぶつ言いながらさとりは空を椅子にしゃんと座らせた。
「せめてそのぼさぼさの髪の毛はなんとかしましょう。折角綺麗なのに勿体無いわ」
「面目ありません」
さとりはお空の椅子の後ろに立ち、その長い黒髪を梳き始める。
空は目を細める。幸せだ。
言葉にしなくても想いが伝わるって、何て素晴らしい事なんだろう。
空はさとりに対して心の中でありったけの肯定的なイメージを並べ立てる。
さとり様やさしい。さとり様かわいい。さとり様かっこいい。
好きです。尊敬してます。愛してます。
「やめなさい」
苦笑しながらさとりが空の頭を軽く叩く。
空の中には、さとりとお燐以外のものは何も無かった。
それ以外のものを必要と思った事も無かった。
空にとっては、それはごく自然な事だった。
断続的に浮かぶわずかな記憶の中で、最も古いもの。
荒れ果てた地底世界。厳しい寒さ。凍てつく空気と大地。探せど探せど食料は見つからなかった。
ガタガタと震えは止まらず、死を覚悟した。
空は否応なしに悟った。生に意味は無い。
そこここに徘徊する怨霊。濃厚な死の気配。
途切れる事無く吹きすさぶ強風の中、岩陰の吹き溜まりに引っかかったぼろぼろのタオルケットを見つけた。
ぼろぼろのタオルケットの中には、ぼろぼろの黒猫がいた。
怯えた様に自分を見上げたその瞳が、強く強く心に焼き付いた。
身を寄せ合った。硬く。僅かの隙間も無く。
自分が死んで体温を失えば、相手も死ぬ。相手が死んで体温を失えば、自分も死ぬ。
空と燐の生命は、その時一つだった。
そして、微かな魂の叫びを聞き取って、覚り妖怪はたどり着いた。
二匹は抱き上げられ、救われた。
慈しむ様に自分を見下ろしたその瞳もまた、強く強く心に焼き付いた。
タオルケットは燐に無理を言って譲り受けた。今もベッドの中にある。
空が空でいられるのは、燐がいて、さとりがいて、あのタオルケットがあるからだ。
それが無ければ、自分が過去から連続した存在であるかどうかなんて、空には全く分からなくなってしまうに違いなかった。
空は思う。
自分に決してかけがえの無いものを与えてくれた主人に対して、何を返す事が出来るだろうか?
何も無い。私は空っぽだ。
全部通り過ぎていく。こぼれていく。何も私には残らない。
あの時の荒野のように、私の中には死にゆく無が広がっているだけだ。
さとりは自分に名前もくれた。霊烏路空。空っぽの、空。
自分を表現するのに、確かにこれ以上の名前は無い。
「やめなさい」
先程より鋭くさとりがたしなめた。ぽかり、と再び頭を叩かれる。
「また馬鹿な事考えてたの? しょうがないね、あんたは」
そう言いながら料理を運んできた燐は、さとりの前に皿を並べた後、空の向かいに腰を下ろした。
「あら美味しそう。お燐はどんどん料理が上手になりますね」
さとりは律儀にいただきます、と手を合わせた後、お燐の料理を食べ始めた。
燐とさとりが揃ってご飯を食べる様は空にとっても心和む光景だったが、少々気分が悪くなってきた。
「ちょっとお手洗いに行ってきます」
ふらふらと席を立つ空を横目で見送った後、さとりと燐は顔を見合わせてため息をついた。
「あの子にも困ったものだわ」
「あたい、お空の事が心配でしょうがないです」
「夜遊びだけならいいのですけどね。問題の本質はあの子の内側にある」
「…あたいじゃ、力になれないんでしょうか」
肩を落とす燐に、さとりは微笑みかける。
「いいえ。お燐がいなければ、もっと取り返しのつかない事になっていたでしょう。これからも、お空の傍にいてやってくださいね?」
「それはもちろん! …ですけど、なんだか、たまに空しくなっちゃいます」
そう言って、背もたれに寄り掛かって燐は天井を見上げた。
そんな燐を、さとりは微笑んだままじっと見つめる。
「…頑張ってくださいね」
「ちょっと。やめてくださいよ。覚りって嫌だなあ」
燐は慌ててさとりに向き直って抗議の姿勢を見せた後、慌しく食事を再開した。さとりがくすりと笑った。
「うにゅ~…」
戻ってきた空は再びばったりとテーブルに伏せった。心なしか顔色はましになったようだが。
「ちょっと、今ご飯食べてる人がいるんだから。行儀が悪いよ」
「うん…」
返事はしたものの、起き上がる気配は無い。
「霊烏路空の『空』は、『空っぽ』の『空』ではありません」
突然、さとりがそう言った。
「霊烏路空の『空』は、『そら』の『空』です」
「そら?」
空はむっくりと体を起こして、さとりを見つめた。燐も食事の手を休めてさとりの話に耳を傾ける。
「部屋には天井があります。そして、この地底世界も、どこへ行っても天井がある。地底世界は、部屋と同じように、巨大ではあるけれど閉ざされた空間です。しかし、地上はそうではない。地上には天井はありません。どこまで行っても終わりが無い、開かれた世界です。地上世界で上を見上げれば、天井の代わりに『そら』が広がっています。『そら』には果てがありません。ただ、どこまでも広がっている」
空も燐も、『そら』がどんなものなのか全く想像がつかなかった。果てが無い、という事もよく理解できなかった。
さとりは目を閉じて歌うように続ける。
「『そら』は刻々と色合いを変えます。夜になれば漆黒に、夕暮れには赤く、そして昼の間は澄んで抜けるような青に。それはそれは」
そこでさとりは言葉を切って、空と燐を見た。
「美しいものですよ」
「よくわかんないですけど、そんなに綺麗なものなら一度見に行ってみたいです」
燐の言葉に、さとりはそうですね、と言ってどこか寂しげに笑った。
「お空。私にはよく見えるのです。貴女の美しく澄んで、どこまでも広がる大らかな心が、ね。貴女を初めて見た時に、私は感じたのです。まさしく、『そら』のようだと。だから私は貴女に『空』と名前を付けたのです」
「そんな大そうな名前だったんですね。何だか勿体無いような気がします」
落ち着かない様子でもじもじとする空に、さとりは言った。
「だから自分の事を『空っぽ』なんて思っちゃ駄目。名付けた私が馬鹿にされたような気がするでしょう。わかったわね?」
「わかりました」
空は大人しく頷いた。燐は目を輝かせて尋ねる。
「さとり様さとり様、じゃああたいの名前の由来は何ですか?」
「なんとなくです」
ちゃりん、と音を立てて燐のフォークが床に落ちた。
「え、何この扱いの差」
「あ、時間やばいよお燐。そろそろ出かけないと仕事に遅刻しちゃうよ」
さとりに縋り付こうとする燐を引きずって、空はダイニングを後にする。
深々とお辞儀をすると、さとりはくすくすと笑いながら小さく手を振った。
灼熱地獄跡へと向かう道すがら、燐はずっとふくれていた。
「差別だ。是非曲直庁に訴えてやる」
「うん。止めはしないよ」
『そら』のように大らかな心で許容してやる。
食卓でのさとりの言葉を反芻すると、妙にむずがゆい気持ちになる。
「あんた、ニヤニヤして気色悪いよ」
「私ってそんなにいいもんかなあ」
「うわ、会話成立しないモード入りました」
空は自分自身を泡みたいなものだと思っている。
川の流れがちょっと淀んだ所に、ぷくぷくと泡立つあぶくみたいなものだと。
その場所の川面に現れる泡、という括りの中では確かにそれらの泡は同一の物と看做す事が出来るだろう。
しかし、個々の泡は、都度ぱちんと弾けて、消えてしまう存在だ。
まともな記憶を持たない空にとって、常に現在に漂う意識だけが己であった。
今の自分が、数分前の自分ときちんと同一人物なのかさえ、空にとっては怪しかった。
表層意識という川面に、現れてはぱちんと消えるその一瞬一瞬のあぶくが、空という存在だった。
生まれ続け、死に続ける。死との境界が分からない。生の意味を見出せない。
それは、怖い事だった。
それでもどうにかやっていけるのは、燐とさとりという存在が、記憶が、自分に連続性を与えてくれるからだ。
泡達は霊烏路空、という名前を得て一個の人格にまとまり得る。
燐とさとりがいて、初めて空は空としていられるのだと、そう思っている。
「私って泡みたいなもんだから、こうしていられる事をお燐とさとり様に感謝してるよ」
「全く意味が分からん。馬鹿なの?」
素直な気持ちを燐に伝えたが、受け止めてもらえなかった。空はしょんぼりとした。
燐はやれやれ、と肩をすくめて空の顔を覗き込む。
「あのさあ、あんたの言ってる事は全然意味わかんないけど、これだけは言っといてあげるよ。お空はさ、自分で思ってるよりも全然つまんなくないよ。全然いいよ。自惚れるつもりはないけどさ、お空はあたいの事、大事に思ってくれてるんだろ? わかるよ、伝わるもん。それとおんなじくらい、あたいだってお空の事を大事に思ってるに決まってるじゃないか。だって、あたい達、おんなじだもの」
そう言うと、燐はぴょんぴょん、と飛び跳ねて空から離れた。
仕事場に向かうのに、いつも分かれる場所に着いたのだ。
「だからさ、もっと自分を大事にして欲しいんだよね。あたい、お空に何かあったら、困る」
くるり、と空にお尻を向ける。
「お空の事、大好きだからさ」
そう言って、燐は駆け出して行った。
ぽかんとしていた空の表情は、間を置いて見る見る笑顔になる。
小さくなってゆく燐の背中に、大声で叫んだ。
「お燐ーっ! わたしも、お燐の事、大好きだよーーっ!!」
遠くから、馬鹿ーっ、と罵る声が返って来た。
ならば納得出来る。
女の魅力だけが武器の地獄鴉が、神の火である八咫烏を呑み込んで如何な変貌を遂げるかを描いてくだされば。
獏さん風に表現するなら、途轍もない物語になること請け合いだぜ。
プロメテウスの乙女がどのような存在意義を掴み取るのか。
どうしたって作者様に期待しちゃいます。
お空が美人なのはそうだろうと思うので、これはさとり様が夜遊びする余裕が無いくらい仕事を与えてやれば良いと思う
でもいくつか気になるとっかかりがあるのに、
お話があっさりと終わってしまったのは残念な気がしますね
でも、心に入り込むお話でした。存在の証明とか意義とか。遠い地底のことじゃないですね。
端々の言い回し、とても素敵です。
それはそうと楽しめました。ヤマが弱いけどオチは綺麗で良かったです、ヤマがあまりないほのぼの風な作品も好きですが、どうせシリアスでやるならもっと山場のある話を読んでみたいです。
すごくいい
申し訳ありませんでした。
皆様流石の慧眼ですね。恐れ入るばかりです。
お察しの通り、実は50kb程度あったお話の後半部分を、思うところがありばっさりカットいたしました。
モノをつくる人間として、未完成の商品を棚に陳列することへの葛藤はあったのですが、生来の貧乏性から作品を没に出来ずに半端な投稿となってしまいました。
と、ここで謝ってみたところで既にコメントを残して頂いた方々がご覧になる事もないのでしょうね。いたく反省。
投稿を続けていると、一作品毎に色々と学ぶべき事が出て来ますね。
書きたいネタのストックはまだまだあるのですが、ネタの方から「私を書いて」と声をかけられるまでは書いてはいかんのだ、という事を今回学びました。
どんどんネタからお声がかかるモテモテのSS書きにいつかなりたいものです。
作品を消すことも考えましたが、自戒も込めて残しておきます。今作品集を汚してしまって大変申し訳ありませんが、大目に見てやってください。
いつか、クールビューティな空さんに耳元で「私を書いて」と囁かれる日が来るならば、リベンジしてやろうと思います。
それでは失礼いたします。
次、頑張ります。
気楽に前を向いて進んでいこうぜ、作者様!
考えていることはとても難しいのに成してることは残念。
でもこれって直接馬鹿ってことじゃないですよね
この先のストーリーも作者の頭の中にまだあるのなら、いつの日かリメイク希望します。
俺みたいなのがそういるとは思ってませんが、
タグか前置きかなんかでほのめかしてくれたらありがたかったです。
空は鳥頭だけど馬鹿とは違うよなあと私も思っていたので、色々と頷きながら読みました。
さとりが放任主義であることも描かれつつ、しかし強い絆で結ばれていることもしっかり表現されているところが個人的にとても良かった。
リベンジ作品を心待ちにしています。
いつも楽しく作品を拝見させて頂いております。
さて、それを踏まえて厳しい事を言わせて頂きます。
カットした作品を投稿した事について謝罪されていましたが、どうせ不完全な作品を投稿するならば、例え納得がいかなくてもフルバージョンを投稿し、その是非を問うべきだったのではないでしょうか。
それを敢えてカットした状態で投稿し、後出しで謝罪するというところに不満を感じます。
穿った見方をするならば、カット版でもある程度の評価が得られるだろうとたかをくくった部分があったのではないですか?
作者様には新鋭の作家としてかなり注目していたので、ちょっと残念に感じました。
とは言え、相変わらず作者様の文章には高いセンスを感じさせられてしまいます。
次に期待せざるを得ない。待ってます。
カットされたのが残念です。
またこういうお空を書いてください
だと、読み手に判断をゆだねる最後にも思えます。
でも、どうせだったらこのお空が出した結末が見たいのがファン兼読者。
リベンジ、いつになっても期待しています。
きっとそちらも素晴らしいと思うので。
文章量自体は小さくても、洒落た会話や卓越した人物描写・魅力的なエピソードが詰まっていて、十分満足です。
次も楽しみにしています。
素敵な作品ありがとうございます。