ナズーリンと星が毘沙門天の大寺院に身を寄せるようになって、はや数十年がたった頃。ナズーリンは星についての評判を寺院内でたびたび耳にするようになっていた。そして、そのつど苛立たされていた。
『寅丸殿は、どうにも毘沙門天らしくない』
そんな話を漏れ聞く度、小さな眉間に皺が寄る。
噂が増えたのは、それだけ星の顔が広く知られるようになったという事だから、ナズーリンとしても誇らしい。けれど、その内容が気に入らなかった。
(どれもこれもご主人へのやっかみ混じりの陰口だろう。気に食わないな。ご主人は……すごいんだぞ!)
法界深部に荘厳と佇む毘沙門天の大寺院。死火山を丸ごと削って建立されたその広大な寺院群には数多くの僧や見習いの修行僧達が暮らしている。
聖のツテによって二人が寺院に身を寄せてから、ナズーリンは奉公者として、星は見習いの僧として、ともに励んできた。星はもともと妖力の強い虎の妖怪であり、この数十年でメキメキと成長し、今や毘沙門天の弟子の一人に並んでいる。一方のナズーリンも、力は弱いが生来頭は賢く、知恵を働かせ、毘沙門天に直接目をかけてもらえる程度の召使いにはなることができた。
通常、毘沙門天の弟子になるには百年単位の修練を必要とするが、それを考えると星の優秀さがなお良く分かった。
(きっと、他のお弟子様がご主人を妬んでそのような噂を流しているのだ。まったく……何かの菌に感染させてやろうか……ここの僧なら死にはすまい。ああ、けどご主人にまで感染してしまったら困る……)
ナズーリンが寺院の渡り廊下を歩いていると、道の端で何人かの僧が立ち話をしているのが目に止まって、ナズーリンが耳をぴくぴくと動かして内容を伺うと、どうやら僧達は毘沙門天の弟子達についての私的な印象を述べ合っているようだ。
(ご主人の陰口なら、私が通りすぎてからやってくれ)
うんざりしながら、いくらか早足になる。
だが、後十歩程ですれちがうというところで、
「寅丸殿はというと、あまり弁舌が得意ではないようで……」
「論学の時間も、他のお弟子殿の討論に聞き入るだけで、自身はあまりお話をされないとか」
「意見を求められても、今ひとつ断としないらしい。優柔不断だと」
「あまりに早くお弟子になられたのだから、まだ修学が足りないのだろう」
(……ああもう!)
ナズーリンはわざとらしく大きな咳をついた。
「うおっほん!」
僧達が話を止めて、おや、とナズーリンに顔を向ける。
「失礼した。御免」
ナズーリンは、ぶっきらぼうに言い捨てて、さらにゴホゴホと何度か咳をつきながら僧達から離れていった。
(そりゃご主人はちょっと気が優しすぎるかもしれないけど、本当はとても勇敢な方なんだ)
ナズーリンは野良妖怪だった頃に星に命を救われている。人間達に追われ、怪我を負って、逃げ回る体力も無くなり、もはやここまでかと思われたときに、颯爽と星が現れたのだ。
その頃の星は、聖と出会って間もなく、まだ人型ではなく妖虎だった。人間達と自分との間に立ちはだかった星の、黄金の毛並みをまとった大きな背中の頼もしさを、ナズーリンは今でもよく覚えている。そんな事もあって、星に対する強い信頼が、ナズーリンの心に刻み込まれている。
(ご主人は傷ついた私を一晩中抱いてくれた。あんなに安心して眠れた夜は、初めてだった)
星は、子猫に寄り添う母猫のように、二メートルを越える巨躯でナズーリンを包み込み、一晩中ぺろぺろと傷を舐め続けた。当時は、星が聖に法術の指南を受けるようになってまだ間もなく、それが、星の扱える唯一の癒しの術だった。だがその初歩的な法術が、死の恐怖に直面して疲弊していたナズーリンの心を、かえって強く癒したのだ。それ以来、ナズーリンは星をご主人と呼んで慕うようになったのだった。
傷が癒えて、星の紹介で聖と出会い、偉大な魔法使いである聖を尊敬するようになったが、ナズーリンがご主人と呼ぶのは、今でも星ただ一人だ。
星は久しぶりに与えられた休息の日、ナズーリンの宿舎へやってきた。普段の修行の疲れからか、入ってくるなりだらしのない声を上げながら畳に寝転がった。
「あぁ、ナズーリンの匂いだぁ」
正式に毘沙門天の弟子として取り上げられるようになってからは、 星にとって、行住坐臥全てが修行の時間になった。ナズーリンと星が二人でのんびりと過ごせる時間は以前に比べて少なくなっていた。二人がまともに会えるのは、ごくまれに与えられる休息の日のみ。
「だらしないなぁご主人」
まるで、野生を失った虎があられもなく腹を見せて日向ぼっこをしているようだった。日ごろから星への批評に苛立たされているナズーリンは、星にとって貴重な安息の日なのだと分かっていても、つい小言を口にしてしまう。
「ねぇご主人。もうちょっとこう、毘沙門天の弟子らしく振舞いなよ」
窓辺に寝転ぶ星の頭の側に、ナズーリンが胡坐をかいた。
星は小言を振り払うかのように、かんまんに手を振った。
「やめてくださいナズーリン。毘沙門天様みたいな事を」
「おや、毘沙門天様にまでそんな事を言われてるのか」
「『まで』?」
「あ、いや」
てっきり自分の評判は知っているのかと思っていたナズーリンは慌てた。そんな噂をされていると知ったら、星は確実に涙目になる。
「ええと、私みたいな事を毘沙門天様も言うのだな、とね」
星は上手くごまかされてくれたようだった。はぁ、と一つ大きな溜め息を吐いた。
「覇気が足りないだの、優柔不断だの、もっと謀叛気を持てだの……いろいろ言われますよ」
「従順すぎるんじゃないかご主人は。もう少し粗忽さが合った方が毘沙門天らしい」
「生まれついての性格なのです。しかたないでしょ」
星は愚痴りながら、のそのそと這いずって、ナズーリンの胡坐に自分の頭を乗せて膝枕をさせた。ナズーリンは慣れた様子でそれを受け入れる。
「聖は、元気にしているかな」
窓べから空を見上げて、星が言った。
「あの人の事だ、疲れ知らずであちこちを飛び回っているに違いない」
法界の空に青はない。天を見上げれば、そこにあるのは数多の星々や銀河の輝く宇宙。万を越える光の間を、一条の流れ星が駆け抜けた。
「早く聖に恩返しをと思ってひたすら修行に励んできましたが……少しつまずいてしまったかなぁ。どうも争いごとは苦手で」
「たった数十年で直弟子になったんだ。ご主人は良くやってる。すごいよ」
ナズーリンが、何度か星の髪をすくって、それから耳から頬にかけてをさらりと撫でる。星は気持ちよさそうに瞳を閉じた。
「褒めてくれるのはナズーリンだけですよ……」
「皆、ご主人の頑張りは知ってるはずだけどね」
「ん……」
星の吐息が眠りに向かう。休ませてやろう、とナズーリンは思った。
百年を経ず直弟子にまでなるのは、言うほど簡単な事じゃない。星はそれだけ死に物狂いで研鑽を重ねたのだ。聖に対しての恩義が、その力の源なのだろう。星は、まだ一介の妖怪だった頃、ナズーリンと同じように、人間にあやめられかけた所を聖に救われている。星の生真面目な性格もあいまって、聖に深い忠義の念を抱いているのだ。
家猫のようなあられもない昼寝姿を見せる星に、ナズーリンは苦笑する。
(私はこの方に命を救われたはずだったんだが、あれは夢だったのかな)
星は力も妖力もある強い妖怪だ。だがどうにも、気性が穏やかすぎた。ともすればナズーリンにさえ口ゲンカで泣かされる始末。
(まぁ、誰が何と言おうと、私にとってご主人は誰よりも……)
その先は、上手く言葉にできなかった。命の恩人への畏敬の念、というようなものか。
きっとそれは、星が聖に抱く気持ちと似通っているのだろう。
(……)
星の寝顔を己の太ももに見下ろしながら、ナズーリンはふと、聖に嫉妬のような感情を抱いて、馬鹿だな、と自分を笑った。
「見てくださいナズーリン! とうとう自分の宝塔を持つ事ができました!」
数十年がたって、とうとう星は、毘沙門天の代理として顕界に自分の寺を持った。やはり、異例の速さであった。優柔不断のレッテルは今だ消えてはいないが、とにもかくにも、星はやり遂げたのだ。
「ご、ご主人そう軽々しく宝塔を持って歩いてはいけないよ。無くしでもしたら大変だ」
「はは! まさか、こんな大切なものを無くしたりするはずないでしょう」
また、星の強い要望によって、ナズーリンは法界と星の伝令役を毘沙門天より仰せつかった。
「ともに聖のため、法のためにつくしましょう」
「私にとってご主人は命の恩人だ。従うよ」
ぶっきらぼうに答えたけれど、内心では嬉しかった。星が顕界の寺に入れば、法界に勤める自分との縁が遠ざかってしまうのではないかと心配していたのだ。
そしてまた、聖は二人の事をたいそう褒めてくれた。
二人が初めて寺を訪れた時、そこには毘沙門天から話を聞いていた聖が待っていて、星とナズーリンが気づくなり、驚く二人の顔をその豊満な胸に抱いたのだった。
「立派になりましたね二人とも。貴方達は私の誇りです」
二人は、聖の胸にだかれ、母性の極みですらあるその包容力にうもれると、もう、すっかりまいってしまった。ナズーリンが、僅かに抱いていた嫉妬など、あっというまに吹き飛んでしまった。聖はまさに、仏のような存在だった。
それからしばらくは、幸せな時代だった。村紗や一輪といったこの後長く続く仲間を得たのも、この頃である。
「星。私は毘沙門天殿から、貴方の事を頼まれています」
寺に仕える初日、聖が星に言った。
「え?」
「貴方は少し決断力に欠けるようだから、指導してやってくれと」
「あ……あはは、そ、そうでしたか。いやお恥ずかしい」
「恥じる事はないのですよ。誰をも思いやる星の優しさは、貴方の美徳なのです」
「聖……ありがとうございます」
「私とともに、物事を裁断する術をゆっくりと学びましょう」
「は、はい!」
あらためて師弟になった二人を、少しうらやましいなと思いながらも、ナズーリンは幸せだった。人間に追い立てられていたかつての日々が、嘘のようだった。
だが、穏やかな時期はほんの十年ほどで終ってしまった。
今朝、聖白蓮が封印された。
「嘘……だ……」
ナズーリンが配下のネズミから知らせを受け取った時、その両肺から全ての空気が搾り出されて、半開きになった口から音もなく漏れていった。肺が空になった後も呼吸を忘れてただ呆然と、がらんどうになった意識を虚空に漂わせる。瞬きを忘れた瞳が、人形のように硬直していた。息苦しさを感じても、しばらくの間は呼吸の仕方すら分からなくなってしまっていた。その知らせは、基本的な生命維持を忘れさせるほどに、ナズーリンを驚かせたのだ。
正気を取り戻したナズーリンはがっくりとその場に膝をついた。
山奥にひっそりと建つ、うち捨てられた廃堂である。顕界での根城にしていた。ナズーリンの膝が崩れた拍子に、古ぼけた床板がギィッと鳴いた。ナズーリンの周りに召し仕える百近いネズミが、その音に僅かに蠢く。
「あの聖が封印されただって……? 村紗や、一輪まで……」
心配するネズミ達を気遣う余裕など、今のナズーリンには砂粒ほどもない。全身を席巻する虚脱感に抗うことが出来ず、埃まみれの床に手をつく。うなだれて、額をも床に落とした。床に積もった埃が舞って、白くかすんだ匂いを運ぶ。
(あれほどの魔法使いが……。そんな事がありえるのか? ……いや、人間達なら、やる。群れになった時の彼らの強さは計り知れない)
力の弱い個体でも群れとなれば事を成す、それはナズーリン達ネズミにとっても言える事なのだから。
(それにしても聖。なんて憐れな人だ。妖怪の味方をしたばかりに、同族に封印されるとは。私達が貴方を慕ったばかりに……)
無念。無力。そしてその奥に湧き上がりつつある人間達への憎悪。己の中に負の胎動を感じた。と、同時に心に浮かんだのは、いつもポケポケっとしている寅丸星の顔だった。
(あの方はどうしているのだろう)
その想いが、ナズーリンの体に再び力を与える。
四つんばいになっていた体に鞭をいれ、よろよろと立ち上がる。ネズミ達が皆、おどおどとナズーリンを見上げていた。
「……ご主人は、ご主人はどうしている」
ナズーリンが問うと、すぐさま一匹のネズミが堂から駆け出した。そのネズミは薄暗い午前の林に出でて、わずかな木漏れ日をあびながら立ち上がり、緑の天蓋に向けて鼻をヒクヒクとさせる。その小さな鼻から目には見えない念が放射状に広がった。ネズミ達のテレパシー網の始まりである。テレパシーのリレーは山越え川越え都を越え、あっという間に、星の側に潜んでいるネズミにまで届いた。そしてまた五里ほどの距離を越えて戻ってくる。
「そうか……ご主人はいつも通りに寺に仕えているか。それが賢明だろうな……」
星は自身が毘沙門天の弟子である事は明かしているが、一方で妖怪である事は隠している。下手に騒げばそれが露呈してしまうかもしれない。
(だが心中穏やかではないだろうな……ご主人……)
優しすぎるくらいに優しい星の柔らかい顔が、憎悪に染まるのを想像すると、背中に薄ら寒いものを感じた。そうはなってほしくない、と思う。
(私も自重しないと。……夜になったら、ご主人を訪ねてみよう)
ナズーリンは、お堂でひっそりと時が過ぎるのを待った。ネズミの連絡網によって、都の人間達が事件をしって大騒ぎになっているのを聞いた。また、妖怪達はそれ以上に混乱していた。あの聖ですら排除されたと知って世を儚む者、人間達に恨みの念を抱く者……。
それらを山木の向こうに聞きながら、ナズーリンは薄暗いお堂の中で一人膝を抱え、目を伏せて、聖がいなくなってしまった事を悲しく思っていた。
ナズーリンは人間が寝静まった丑の刻頃に、星に寝所に忍び込んだ。
星は仕えている寺をそのまま住処にしていた。今だ弟子とは言えど、毘沙門天の化身なのだ。
「あれ、ご主人いないぞ……?」
だが、寝床はもぬけの空だった。屋根裏にあがって、ネズミに星の居場所を聞く。まだ本堂にいるようだった。
「こんな時間まで……」
まぁ、普通でない事が起こったのだから、星の行動が普通でないのもうなずける。怒り狂っておかしな事をしでかさなければいいのだが……。
ナズーリンが本堂内を覗き込むと、何十枚もの畳が敷き詰められた堂の真ん中に、ぽつんと、座禅を組んだ星の背中があった。その対面の壁には巨大な毘沙門天像が奉られている。救いを求めるかのような、星の背中だった。
「ご主人」
歩み寄りながら、ナズーリンが声をかけると、星がゆっくりと振り向いた。
「ナズーリン……」
星は、声の様子も、表情も、いつもの星に見えた。だがそれは薄皮に模写されたただの絵にすぎなかった。ナズーリンと目が合ったとたん、星の顔面に危なっかしく貼り付けられていたその薄皮はいとも簡単に剥がれ落ちていった。
きゅっとしていた一文字の唇と、すらっとした眉毛と瞳が、突然急角度で八の字になった。そして見る見るうちに瞳に涙が溜まっていって、ナズーリンはちょっと引いた。
「ご、ご主人大丈夫か」
言うが早いか、星はバッと立ち上がって、ナズーリンにしがみついた。
「おふっ!?」
背の低いナズーリンと背の高い星には、1.5倍近いのタッパの差がある。抱きつかれたナズーリンは、星の下乳房から腹にかけてに顔を埋もれさせ、よろめく。呼吸にあわせて、星の少し線香くさい体臭が、思い切り鼻腔にながれこんできた。
「どうしましょうナズーリン! どうしましょう! 聖が、皆がぁ」
「ちょっ、ご主人! 声がでかい人に気づかれる!」
あられもない泣き声を吐き出す星の口を慌てて押さえる。
「落着いて! とりあえずご主人の寝所に行って話をしよう」
「むぐ」
口をふさがれたまま、星は涙目でこくんと頷いた。
ナズーリンの手に星の鼻水がたれてくる。
「うわぁ」
ナズーリンが慌てて手を離すと、星はズビッと鼻をすすった。
ぐずぐずと泣きべそをかき続ける星の手を引いて、ナズーリンは明かりの無い寺内をこそこそと移動する。幸い起きている人間は無く、暗がりに紛れてすんなりと星の部屋にまでたどり着く事ができた。
部屋に入って、音をたてないように静かに障子を閉じる。
そのとたん、背後にいた星がまたナズーリンにしがみついたのだった。
「……気持ちは分かるがご主人、離してくれ。動きにくくてしかたがない」
だがそんな苦言も星にはこれっぽっちも届いちゃいなくて、星はおんおんと泣きながら、自分を責め続けた。
「恩人たる聖がかような目に会っているというのに、私は何事も無かったかのように一日を過ごしていました。なんて情けない……」
「しかたないじゃないかご主人。そう自分を責めないで。まぁ座ろう」
張り付いた星を引っぺがして、なんとか畳に座らせる。それから部屋の隅の蝋燭に明かりをつけた。揺れる炎に部屋がぼうっと照らされる。書き物机と姿見と、小さな箪笥があるだけの質素な八畳和室。『毘沙門天』と達筆にしるされた掛け軸が唯一の調度品だ。
その部屋の真ん中で、星は大きな体を子供みたいに丸めて、めそめそと涙を流している。
(相変わらず、とても毘沙門天の化身には見えないな)
情けない姿ではあるが、けれどナズーリンはホッとしていた。
(だがよかった。いつものご主人だ)
聖がいなくなって、それでさらに星が変質してしまっていたら、ナズーリンはどうしようもなく悲しかっただろう。
(けれどご主人、そうそう泣いてもいられないのだよ……)
少し時間をさかのぼって夕刻、ナズーリンの元に毘沙門天からの使いが訪れていた。
曰く『聖白蓮が封印された今、一度寅丸星を法界に呼び戻す必要があるのではないか。その判断をしろ』
実はもともと、星の異例の速さの寺入りは、穏やかすぎる星の気性を案じた毘沙門天が聖にその実地教育を願い出た事から始まった。その聖がいなくなった今、星一人に寺を任せられるかどうか、という事だ。
ナズーリンは心を鬼にして、強い口調で星に言った。
「そうやっていつまでも泣いているようでは、私はご主人を法界につれて帰らなければならなくなるよ!」
「えっ?」
突然の物言いに驚く星。ナズーリンは毘沙門天からのことづけを全て話した。
「そ、そんな……」
星は、さすがに泣くのをやめて、だが呆然と、床を凝視していた。
「ご主人は……どうするべきだと思う?」
「……私は……」
「これは、ご主人に決断してほしい。私は……それがどんな選択でも、賛成するよ」
「……」
星はしばらくじっと、苦悶の表情を浮かべて、じっと床を見つめていた。ナズーリンはその側で、星の言葉を待っている。鈴虫の音とともに、蝋燭の炎が揺れて、二人の影もまた、揺れた。
少しして、星は袖で涙をぬぐって、おもむろに立ち上がった。その姿勢は先ほどまでとは違って、とても力強かった。
「私、法界には戻りませんよ」
そして、はっきりとした声で、そう言った。
「私にはすべき事があります。それは……聖の思いを継ぐこと。人と妖が共存して、無用な争いをせずにすむ世を目指す事……!」
「ご主人……!」
ナズーリンは、星の大きな体を見上げて、ドクンと一つ、胸に熱い血の流れを感じた。
(ああ! やっぱりご主人はお強い人だ! 優しくて、でも大きくて勇敢で!)
星はナズーリンの両肩に手をおいて、じっとその小さな瞳を覗き込んだ。ナズーリンは星の真っ直ぐな瞳に今にも吸い込まれそうだった。
「もちろん。私一人ではそんな大それた事できません。ナズーリン……貴方の支えが必要です。これからも一緒にいてください」
ナズーリンがドギマギしながらコクコクと頷くと、キリリとしていた星の顔が急にふやけた。
「……なんて、偉そうに言ったものの……寂しいものはやはり寂しいです。はは……ナズーリン、今日は一緒に寝てくれませんか」
ナズーリンは自分の信頼に応えてくれた星を誰よりも頼もしく思うと同時に、そんな星が併せ持つ軟弱さを、不思議といとおしく感じてしまう。
「……しかたないなぁご主人は。まぁ、この事は、毘沙門天様には秘密にしておいてあげるよ」
照れ隠しに、ちょっとつっけんどんにそう言って、それから一緒に布団を敷いた。寝間着に着替えて、いそいそと二人で布団に入る。
向い合って、いつになく近づいた互いの距離に少し緊張しながら、こしょこしょと話す。
「ナズーリン、実はすでに何名かの者が私に接触してきているのです。聖の敵を討つから私に同心してくれと」
「うん。そういう輩も現れるだろうと思っていた」
「彼らの気持ちは良く分かります。ですが聖はそんな事望んでいません。確かに忌まわしい出来事です……けれどまずは、人の恐れを理解して、認めてあげなければ」
「けど……誰もかれもが、そう寛容ではいられないだろうね」
「そうでしょうね。ですが私は一人でも多くの妖に、そして人に、聖の理想を理解してもらえるよう……大勢にあらがう流れを作りたいのです」
二人は空が白みはじめるまで、先々の事を話し合った。
それから少し眠ろうという事になって、互いに肩を触れさせながら、天井を向いて目を瞑っていた。
すん……すん……
ちらと隣を見ると、星は目を瞑ったまま、瞼の隙間から雫をこぼしていた。流れた涙は、一筋の跡を残して、星の豊かなもみあげに消えた。
「ご主人……」
「……すみません、ナズーリン。聖を想うと、どうしても」
「ううん。私も……辛いよ」
星の悲しみを理解してナズーリンが心配そうに声をかけると、星がのそりと動いてその大きな顔を、ナズーリンの小さな胸に埋めた。そして小さく、聖……、と涙に思いを込めて囁いた。そんな星の頭を抱きながら、ナズーリンは思った。
(ああ、やはりご主人はどこか気弱な方なんだ。これまでは聖がそんなご主人を支えてくれていたのに、その聖がもういない……村紗も、一輪も……これからは私が……私しか……)
そう思うと、ナズーリンもとたんに聖達がいなくなってしまった事が寂しくなって、悲しみの衝動を押さえる事ができなくなってしまった。
「ご主人、大丈夫だよ。封印はいつかとける。そういうものさ。それまで二人で頑張ろうよ……すん……すん……聖……」
二人で手をとりあえば、喜びは二倍で悲しみは半分こ、なんていうけれど、悲しみだって相手につられて結局二倍になるだけじゃないか、とナズーリンは捻くれた事を考えた。
「ねぇ、ナズーリン? 今日も一緒に寝てくれないかなぁ……」
星はクセになってしまっていた。それからも時折、星は夜な夜な猫なで声でナズーリンに擦り寄るのだった。
「またかご主人」
表面上は呆れながらも、ナズーリンもそうやって星と一緒に寝るのは好きなのだった。
ちなみにナズーリンの強い説得もあって、毘沙門天は星の一人立ちを許可した。
ただし、
『粗相は逐一報告せいよ』
とナズーリンは毘沙門天から強く念を押されていた。
ナズーリンの舌先三寸で星の進退が左右されるのだから、星はだんだんとナズーリンに頭が上がらないようになっていった。妖の世界も世知辛い。別段それで星をどうこうしてやろうという気はナズーリンには無いのだが、自分の様な小さなネズミが、大きな虎にそれとなく優位を保っている事がちょっといい気分だった。
深夜、床について星の大きな体を抱きながら、
「まったくご主人は、なりはでかいくせに甘えんぼさんだな。毘沙門天様がこんな姿を見たらどうお思いになるか……」
などと脅かして、星をいじめるのだった。
「は、辱しめを言わないでくださいナズーリン」
ちょっと涙目になる星の顔に、ナズーリンは軽いSっ気に目覚めた。
もちろん二人はもにょもにょと囁きあうだけの日々をすごしていたわけではなく、妖と人を繋がんとするロビー活動をしっかりと行っていた。
二人は良く力を合わせた。星は人から寄せられる不満を良く聞いてまとめ、またこっそりと妖怪達とも通じて彼らの意見も聞いた。ナズーリンはその知恵とネズミの情報網を活用して、案件にたいしての思案を行う。ナズーリンが『賢将』という風格をにわかに帯びだしたのも、この頃だった。
仲間を失って、ナズーリンと星にとってはとても寂しい時期だったけれど、蜜月、という意味では二人が最も近づいた時代だった。
ある年の秋に星がしでかした粗相と、以後の二人の触れ合いが、それを象徴している。
中秋、二人で人里はなれた山の頂上にて月見をしていた時の事だ。そこは開けた場所で、夜の山風と虫の鳴き声、そして夜空に輝く満月が、実に良く酒を彩ってくれた。
しかし、其の日は星がいささか悪よい気味だった。満月の影響もあったのだろう、とナズーリンは振り返って思う。
「ああもうご主人。べたべた絡まないでくれ。飲みすぎだ」
「んふふぅ。なずぅりぃん」
酒臭い息を吐きながら、やたらと抱きついてくる星を、ナズーリンは鬱陶しそうにはらった。だが拒んでも拒んでも星は絡み付いてくる。
「まったくご主人、あまりに不行状がすぎるようだと、毘沙門天様に報告しなくちゃいけないよ!」
それは、その頃ナズーリンがしばしば口にしていた殺し文句なのだったが、どうも、それがいけなかった。
「ナズーリンってば何かと言えば毘沙門天様毘沙門天様……」
もともと座っていた星の目がさらに細くなって、ナズーリンの危機察知能力がチリチリと火花を散らし始めた。
「ご、ご主人?」
じりじりと後ずさりして星から距離をとろうとする。
すると星は身を縮めながら、ううぅ、と喉から低い声を出した。
どこかで見たことのある光景だな、とナズーリンは一瞬考えたあと、すぐにピンときた。
(獲物に飛び掛る直前のネコだっ! やばい!)
ネズミの本能が逃げろ!と叫ぶ。だがその時にはもう遅すぎた。
「がおお!」
「ひぃ!」
星がわざとらしい雄たけびをあげながら、1メートルほど開いていた二人の距離を一瞬で跳躍してくる。その大きな体にナズーリンはいとも簡単に押し倒されてしまった。草原に押し倒されて、星がその上にのしかかってくる。
「ご、ご、ごごご主人!?」
「毘沙門天様の名前を出せば私がなんでもへいこらすると思っているでしょう……?」
泥酔した星が牙を剥きながら、ナズーリンの両手を押さえ込んだ。もともと体格差が圧倒的なのだ。覆いかぶさられて腕を押さえ込まれたナズーリンにはもはや首をふるくらいしか身動きができない。
星は犬歯をむき出しにしたまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。ハァァ……と星の湿った息がナズーリンの顔を撫でた。
(た、食べられる!)
完全に体の自由を奪われて、ナズーリンの背筋にゾクリと電気が走った。
星は腕を動かして、ナズーリンの細い両の手首を万歳させて、片方の手のひらだけで器用に鷲づかみにした。空いたもう一方の手で、強張っているナズーリンの頬を妖しくなでる。
「もうナズーリンったら、そんな顔をしないでください。そんな怯えた目で見つめられたら、私、悲しくなってしまいます……」
(あんたのせいで怯えてるんだろうが!)
とは言えずナズーリンは必死に星をなだめようとした。
「ご、ご主人。そうか、す、すまない怒ってたんだな。日ごろちょっと私はご主人に対して偉そうにしすぎた。申し訳ない以後改めるからどうか許してくれないか」
すると、星がくすっと笑った。
一瞬、助かったか、と思ったが、星のざらつく舌が己の首筋を味見しはじめて、それは勘違いだと思い知らされた。
「ご、ご主人こそばゆい、やめてっ」
「ふふ、私は怒ってなどいませんよ。私はナズーリンが大好きなのですから」
「はい!?」
「いつも私を助けてくれるナズーリンを嫌うわけないじゃないですか。こんなに小さな体なのに……賢いナズーリン。可愛い体……」
星の尖った鼻が、ナズーリンの首筋や鎖骨を品定めするようにつつきながら、すんすん音を立てて嗅いでいく。同時に、星の腕が触手のように蠢いて、ナズーリンの二の腕や、万歳姿勢であらわになっている脇の下、肋骨、わき腹、腰、太ももを順になでていった。
悪寒とは別種の妖しい衝動が体をめぐって、ナズーリンは喉から押し絞るような呻きを漏らした。
(やばい。まじでやばい。ご主人は酒乱だったのか!?)
思えば、僧という立場上それほど一緒に酒を飲む機会は無かったし、以前に飲んだ時は聖が一緒にいて皆それほど酒に手が伸びなかった。
星は、混乱するナズーリンなどおかまいなしに、ナズーリンのこぶりな体を愛撫していく。
ふるふると体を震わせるナズーリンの耳元で、星が悲しそうに呟いた。
「ナズーリンは……ナズーリンは私の事が嫌いですか?」
「え?」
「こんな頼りなくて優柔不断な私の事は、やはり嫌いですか? 呆れていますか……?」
襲われている相手にそんな事を言われても、とは呆れたが、さておき、よせばいいのにナズーリンは真面目に応えてしまった。
「そ、そんな事はないよご主人。私はご主人の事を尊敬しているよ」
「本当ですかナズーリン!」
すると星は歓喜の雄たけびをあげて、ナズーリンをぎゅうっと抱きしめた。その時に、ナズーリンを拘束していた腕も解けた。ナズーリンはほっとして星の肩を少し強めにつかんで体を離そうとした。
「さ、さぁご主人、重たいからはなれて――んむぅっ!?」
だが、できなかった。星が突然顔を上げて、そのぎらつく瞳にナズーリンがぎくりとさせられた次の瞬間、星の唇がナズーリンの唇に乱暴に噛み付いていた。ナズーリンは驚いて、全身の力が抜けて、再び草原に押し倒される。
「んー! んー!?」
くぐもった悲鳴を上げながら、星との体の隙間でどんどんと拳を暴れされるが、体の大きな星はびくともせず、ナズーリンの唇にさらに吸い付いた。タコみたいだった。
「ナズーリン……! 私も大好きですナズーリン!」
ちゅぽんっ、と本当にそんな音を立てて唇を離した後、星が酒臭い唾液に口を湿らせながらそんな事を言った。
(私は『大好き』とは言ってないよご主人!? いや、もちろん好きか嫌いかといわれれば好きだけど……ってそうじゃなくて!)
ナズーリンはもう何がなんだかわからなくなって目を回していた。その隙にまた唇を塞がれる。
だが、星の手がナズーリンの服の下にもぐりこんでくるにいたって、さすがにナズーリンも無い力をふりしぼって唇を引っこ抜き、あたりに潜んでいるネズミ達に向かって、助けを求めた。
「お、お前達! 助けてくれ! ご主人は酒に狂っている!」
ちゅー!!
ナズーリンの懇願に応えて、ざざざざざ、と草木の陰から姿の見えない小動物の音が勢いよく集まってくる。
だが、星がキッと顔を上げて、ナズーリンが見た事もない様な鋭い眼光で、
「去ね! 邪魔だてする者には容赦せんぞッ!!」
百獣の王でも逃げ出しそうな星の雄たけびが、衝撃波で草葉を震わせ、またネズミ達を震え上がらせた。
普段からそれくらいの覇気を見せろよ、とナズーリンの冷静な一部が突っ込む。
ちゅー……
そそそそそ……とネズミ達の音がすごすごと去っていった。
「そ、そんな……」
「さぁ、ナズーリン」
馬乗りになった星が、背後に月を背負って、ナズーリンを見下ろした。逆光になった星の暗い顔にその大きな瞳だけがギラギラと輝いている。
「ナズーリンの可愛い身体……よく見せてくださいね」
にやりと、星が妖しく笑った。
(ああ……食べられる……)
ナズーリンはなすすべもなく、近づいてくる星の大きな眼球を見据えた。
(ネズミが、猫や虎に勝つなんて……所詮は絵空事なのだね……)
徐々に諦めが心に広がって、ナズーリンは、星を受け入れてしまった。
ナズーリンがハッと目を覚ますと、あたりはまだ夜であった。月も、いくらか傾いてはいるがまだ夜空を照らしている。
身体を起こすと、体にかけられていた服がさらりと落ちて、ナズーリンの小ぶりな乳房が月の下にさらされた。かけられていた服は星のものだった。また、体の下にも星の衣類が敷布団のように敷かれている。自分の服は、すぐ側に丁寧にたたんでまとめてあった。
「そうだ、ご主人は……?」
服をあげて胸元を隠しながら、あたりを見回す。
すると――
「な、何をやっているんだご主人……?」
全裸の星が、ナズーリンに向かって草葉の上で土下座をしていた。おそらく、地面に額を擦り付けているだろう。星の健康的で大きな背中が、月の光をうけて肩甲骨や背骨の隆起に影を作っている。
(そうか……私は、ご主人の苛烈な攻めに耐えられなくて、気を失ったんだった。……ネズミがさかりのついた虎を受け止められるはずない)
星の裸を目にして、ナズーリンは先ほどの事を思い出してしまっていた。まだ、体の隅々に星の感触が残っていた。
その時、星が突然叫んでナズーリンを驚かせた。
「も、申し訳ありませんでしたぁー!! ごめんなさいナズーリン!! つい、つい酒に飲まれて虎の野生が……」
どうやら星は、正気にもどってからずっとそうやって土下座をしていたようだ。
「……謝られてもなぁ」
「どんな罰だって受けますぅ!!」
(罰って……)
正直なところナズーリンだってまんざらではなかったのだ。だから、罰、などと言われるのはなんとなく気に入らない。けれども、無理やりされたのだってやっぱり気に食わない。あんな行為の後だというのに、たくましいS気がうずいた。
「変態」
「うっ」
「色情狂」
「ううっ」
「強姦魔」
「うううっ」
ナズーリンが何か言うたび、星の裸体がびくびくと震える。それが可笑しくてならなかった。
「あぁ、毘沙門天の化身がこんな色狂いだとしったら、寺の信徒達はどう思うだろうねぇ」
「あああ……」
星は土下座をしたまま、器用に頭を抱えた。
「ど、どうかナズーリン。今宵の事は毘沙門天様には内密に……なんでもナズーリンの言う事を聞くから。ね? ね?」
「……さてどうしよう」
ナズーリンは慌てふためく星を可笑しく思っていたが、急に、不機嫌になった。
(毘沙門天様がどうとかより、もっと別の事を気にしてほしいのだけどね)
何をどう気にしてほしい、というのは自分でもよく分からないのだが、なにかこう、そうじゃないだろ!と、モヤモヤしたものを感じてしまう。
そんな自分がまるで人間の女子供のようで、ナズーリンは恥ずかしくなった。
「……まぁ、今日のところはもういい。とりあえずねぐらまで送ってくれないか。……ご主人のせいで……こ、腰とお股が痛い」
「えっ……あ、は、はい」
生々しい事を言ってしまって、場が妙な雰囲気になってちょっと後悔する。
いまいちその空気を取り除けないまま、ナズーリンは、妖虎の型になった星の背中にのって、ねぐらにしている廃堂まで運んでもらった。
星の背中は、普通の虎よりも何倍も長い柔らかい毛に覆われていて、ナズーリンはそこに体を横たわらせていると星の大きな体に抱かれているようで、つい、さきほどの情事を思い出してしまい、もじもじと星の背毛を一房いじりながら、あぁ途中で失神なんてしたくなかったなぁ、なんてとても星に言えないような思いを抱いて、とたんにそんな自分がまた恥ずかしくて、照れ隠しに、つかんでいた毛をエイッとむしると、ブチィッという毛の抜ける音とともに、星が、ギャァッと悲鳴をあげた。その虎の吠き声に驚いて、何匹もの野鳥が慌てて空に飛んだ。
『おって沙汰あるまで、寺で蟄居せよ!』
『ははぁー! おおせの通りにっ!』
星とナズーリンがそんな馬鹿なやり取りのあと分かれて、翌日。
ナズーリンはねぐらで、星に何か無理難題をしかけてやろうかな、なんて考えながら、朝食の木の実を齧っていた。
齧りの残しの種を、ネズミ達に放り投げてやりながら、ナズーリンはふと妙案を思いついた。
棚から筆と半紙を取り出して、さらさらと書きこんでいく。
「……はは」
書き終えて、その半紙を窓の隙間から差し込む朝日に照らしながら、改めて読み直すと、自分で書いたことなのに、つい、苦笑いしてしまう。
陽に透けて、達筆な黒い文字が、半紙に浮き上がっていた。
『ナズーリンをご主人のお嫁さんにしてください』
二度三度読み返して、ナズーリンは鼻で笑った。
「いよいよ人間の乙女みたいじゃないか。……久方ぶりの事だったから、頭が熱に浮かされてしまったのだな」
ひらひらと半紙をふって、それからナズーリンは紙を破ろうとした。が、手を止めて、一寸考える。
「ふむ」
破るのは止めて、折りたたんで、棚にしまった。
自分が抱いた感情が何かとても愛らしく思えて、その記録をとっておきたいと思ったのだ。あんな文章は二度と書かないだろう。
(まぁ、ご主人を責める気持ちは無いし、それに何も言わずとも反省しすぎるくらいに反省しているだろうさ。お咎めは無しにしてあげよう)
ナズーリンは薄暗いお堂から朝霧の漂う幻想的な林の中に出て、散乱する陽の光の中をくるりくるりと舞いながら、眠れぬ夜をすごしたであろう星の事を考えてクスクスと笑った。
(いやしかし、どうせなのだから何もしないのは勿体ないか……そうだ!)
と、思いなおしたのは、その深夜、星の寺に向かって山中を駈けていた時の事だ。
「へ? み、妙な事を言いますねナズーリン……? そんな事でいいのですか……?」
寺の私室で正座してナズーリンを待っていた星は、ナズーリンの申し付けにすっとんきょうな声を上げた。
「昨晩の事はこれで不問に処そう」
ナズーリンは無表情をつくろって頷いた。気を抜くと照れてしまいそうだった。
「は、はぁ、そうですか」
「では、さっそく」
ナズーリンはいそいそと布団の準備をはじめた。枕を並べるナズーリンに、星は少し目を白黒させた。
「え、え、もうですか? 今から?」
たしかにまだ亥の刻(22時)の少し前。二人の感覚からすると床に入るには少し早い時間だった。だが、ナズーリンはうむを言わさぬ眼力で星を睨んだ。
「嫌か、ご主人」
「う……」
そういわれると昨晩の手前、星は弱い。
「わかりましたよナズーリン……」
そう言って、しぶしぶ寝間着に着替えるのだった。
「……嫌そうだなご主人?」
「そ、そんな事ないですよ」
あれこれと言いながら、二人でもぞもぞと布団にもぐる。ただそれだけの所作なのに、ナズーリンはついドキドキしてしまった。それが顔にでないよう、気をつける。これはあくまで星への罰なのだから。
ナズーリンは横になって体を『く』の字にする。その後に星も同じく『く』の字の姿勢になって、ナズーリンを背中からすっぽりとだきこんだ。ナズーリンより一回りも二回りも体の大きな星である。その様子は子猫を抱く親猫のようだった。
ナズーリンは、太ももの後ろにも、お尻にも、腰にも、背中にも、うなじにも、全部に星の大きな体を感じた。
「ん……暖かいよご主人……。……あっ、いやっ、今のはっ」
つい、素直な感想を言ってしまってナズーリンは顔を赤くした。
ナズーリンの頭の後ろで、星がクスっと笑ったようだった。しまった……、とナズーリンは悔やんだが、星もそれで気がほぐれたのか、ナズーリンの体に腕を回して、小さな背中を自分のお腹にやんわりと密着させた。星の暖かさがいっそうジワリとナズーリンに伝わる。
「じゃあ、いきますよ?」
星の吐息が、ナズーリンの華奢な肩を暖めた。
「うん……よろしく頼むよご主人」
「では」
ほんの一瞬の後、あらわになっていたナズーリンの肩に、星の柔らかい舌が触れた。
ぺろ、ぺろ……。
星の薄紅色の舌が、ナズーリンの白い肌を撫で、濡らしていく。
時には柔く、時には強く、同じところだけでなく少しずつ移動しながら、何度も何度も舐めていく。
ナズーリンは己の肌に星の舌が触れるたび、そこを中心に暖かい波紋が体中に広がっていくのを感じていた。とても穏やかで心地よい気持ち良さがあった。
ぺろ、ぺろ、ちゅっちゅっ、ぺろ、ぺろ……。
星は単にナズーリンを舐めまわしているわけではない。これは立派な癒しの法術なのだ。かつて傷を負ったナズーリンに星がほどこした術が、これである。野生動物も行っている原始的な術。もちろん法力で効果を増しているが。
ナズーリンはあの時の安らぎを覚えていて、その再現を星に願ったのだ。
「ご主人気持ち良い……首の後ろも舐めてほしい」
「ん……」
つつつ……と尖らせた先端で撫でながら、ナズーリンの肩を昇る星の舌。
「ひゃんっ……くすぐったいよご主人」
つい、声が漏れてしまった。
星は返事をする代わりに、ナズーリンの後ろ髪を上げ、うなじに軽く唇を触れさせて、それから、髪の毛と産毛の境界をなぞる様に、細い首の右から左へ、ゆっくりとねぶっていった。
「ご主人……ご主人……」
ぺろ、ぺろ、ぺろ……。
ナズーリンは本当に子猫になったような気持ちだった。
虎に舐めてもらえるネズミなんてきっと世界で自分だけだろう、とゆるやかな恍惚の中で悦に浸る。
「ご主人……様……」
口にでた言葉に、ナズーリンははっとする。
だが、星はそんなナズーリンを笑ったりせずに、ナズーリンの体に回している腕にきゅっと力を込めて、静かに受け止めてくれた。ナズーリンは星にぎゅっと抱きしめられて、自分の体が星の大きな体に包み込まれていくように感じた。
そんな優しい仕草をされると、ナズーリンはもう自分の中にある奇妙な衝動を抑えきれなくなってしまった。思いが、口からとめどなく溢れていく。
「……ご主人様……ご主人様……ご主人様……」
一つご主人様と呼ぶたびに、ナズーリンの舌がとろけた。
蝋燭の炎が照らすぼんやりとした空間に、ナズーリンの夢に浮いたような淡い声が、後から後から、静かに広がった。
「ナズーリン、可愛いですよ……」
耳元で囁かれた星の、深く、艶やかで、唾液に湿った声が、ナズーリンの意識を虚ろに溶かしていった――
それからしばらくの間、ネズミと虎の奇妙な逢瀬は夜な夜な頻繁に行われたのだった。時には互いに気持ちが高まって、共に過ちを繰り返す事もあった。
もちろん、ナズーリンは毘沙門天にその事を秘密にした。
「――はぁー! 驚いた。私が地底に閉じ込められている間にそんな事があったなんて……」
と、感嘆の溜め息を吐いたのは村紗水蜜だ。
村紗は、最近起こった間欠泉騒ぎのおり、一輪と共に首尾よく地底から脱出してきたのだ。
今、ナズーリンは聖輦船の一室で、久方ぶりに出会えた仲間に懐かしい昔話を聞かせてやっている。村紗は、ナズーリンの語る星との秘話に、思春期の乙女のごとく瞳を輝かせていた。
「もう随分と昔の事だけれどね。最後にしてもらったのは……もう何十年も前だし、その前だって大分間があった」
「あら、もう冷めちゃったの?」
「ううん。そうじゃない。ただご主人とは何百年も一緒にいるからね。なんというか……」
「人間で言うところの老夫婦、みたいな?」
「そんなものかもしれないね。まぁ婚の契りを交わしたわけではないし、二人で寂しさをまぎらわしていた面もある。今はもう、そんな必要もない」
穏やかに微笑むナズーリンの顔を眺めながら、村紗はふぅん、とニヤニヤ笑っていた。村紗の感性は、今だに若い少女のようなのかもしれない。ずっと封印されていた事を思うと、少し不憫だった。
(誰もかれもに言いふらさないよう、釘を刺しておいたほうがいいかな)
と、ナズーリンは思った。
星との逢瀬を恥ずかしいとは思っていないし、人に明かす事に抵抗を感じない程度には老成してしまっているが、好き勝手に話の種にされるのは嫌だ。
それから二人で世間話をしていると、スッと部屋の障子が開いて星が顔をだした。
「二人とも、お昼ご飯ができましたよ」
「ああ、すぐ行くよご主人」
ナズーリンが小気味良く答えると、村紗が何か、ニヤァっと笑った。
ナズーリンは嫌な予感がした。
そして案の定、村紗はわざとらしく敬礼をしながら、高らかに言った。
「了解です。『ご主人様』!」
星が、
「へ?」
と、首を傾げた。
ナズーリンは、
「やめい!」
と、手にしたロッドで村紗を殴った。
聖輦船の甲板が、夕日に赤く燃えていた。その炎の中に、ナズーリンと星がいる。何をするでもなく、空いた時間を一緒にすごしていた。
「ナズーリン。昼間は、村紗と何の話をしていたのです?」
「私と、ご主人の、昔の話だよ」
「ああ、それで『ご主人様』」
星が笑った。
二人は甲板の端に並んで立って、去っていく赤い空を眺めている。
「勝手に話してしまったけど、よかったよね?」
「ええ。村紗になら、かまいませんよ。聖輦船の仲間です」
「村紗はおしゃべりだから、それが少し心配だけれど」
「そうですねぇ」
二人で苦笑する。それから少し沈黙。そよぐ風が、肌に涼しかった。
ナズーリンは星と二人きりだった頃を思い返していた。チラリと隣の星を見て、きっと星もそうだろうなと思う。
星が、風に乱れた髪を撫でながら、言った。
「ナズーリン、どうでしょう今晩、久しぶりに……」
「なんだご主人、まだ寂しいのか。村紗や一輪が帰ってきたのに。やはり聖がいないと駄目か。寂しがり屋だな」
とナズーリンが笑うと、星が少し頬を膨らませた。
「私はただ寂しさを紛らわすためにナズーリンといるわけではありませんよ」
その言葉を嬉しく思いながら、わざと、とぼけたふりをする。
「そうだったの?」
「そうですよ」
「てっきり私は、聖の身代わりかと」
「……今の冗談は、あまり好きじゃありませんね」
星の声が、いくらか硬くなった。
星がスッとナズーリンの背中に廻って、後ろから腕を回し、ほとんど羽交い絞めするみたいに自分のほうへ引き寄せた。
「二人の数百年を貶めるような事を言ってはいけませんよ」
「……ごめんなさいご主人」
ナズーリンは、言い過ぎたな、と反省しながら、それでもやっぱり、全くの見当はずれではないと思う。少なくとも、はじめのうちは二人ともにそういう側面があったはずだ。星にしても、いくらかはギクリとさせられたから、怒ってくれたのだろう。
「ナズーリンが大好きだから、こんな事をするのです。わかりませんか」
「ありがとう。けれどご主人は、聖も、村紗も、一輪も、大好きなのだろう?」
「……もうっ、捻くれものですねっ」
星が、少し痛いくらいにナズーリンの耳を噛んだ。
「怒りましたよ。今日は、加減しませんから」
静かな興奮が、胸の奥から全身の毛の一本一本にまで、さざ波のように広がった。
それから、またしばらくして、妙な巫女達と魔法使いが攻めてきて、何やかんやで聖が復活した。
数百年前の、皆が一緒だった時代が、戻ってきた。星などは嬉し泣きが止まらなくて、結局、復活初夜は聖から離れなくて、一緒に寝てしまった。そしてそれ以後もちょくちょく、かつてナズーリンと星がそうしていたように、聖と星は一緒に寝ているようだった。
――ナズーリンに、それを嫉妬するような気持ちは、やはり無かった。ただ、それでも何か、
(なんだろうね、この気持ち。何かがもやもやする。なんとなく、懐かしくもあるが)
とナズーリンが自分の心をもてあましていると、無駄にカンのするどい村紗がニタニタしながら近寄ってきたので、またロッドで殴った。
ともあれ、にぎやかな時代がもどってきたのだ。
ある夜、ナズーリンは寝る前にふと、棚から古ぼけた半紙を取り出した。もとは白かったであろうその半紙は、今ではセピア色に変色して、カラカラに乾燥して、ともすれば崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。ナズーリンは四つ折にされたそれをゆっくりと開いてゆく。
『ナズーリンをご主人のお嫁さんにしてください』
かつての自分が遠い昔に書いた、可愛らしい純真がそこに残っている。ナズーリンは今でも時々、その古ぼけた文字を眺めて、彼方の思い出を懐かしむのだ。星との綺麗な過去に、深い充足を覚える。
が、この夜は邪魔が入った。
「何これ?」
誰かが、ナズーリンの持っていた半紙をひょいと取り上げた。
「あっ!?」
見上げると、ナズーリンと天井の間にぬえが胡坐をかきながら、逆さになってふわふわと浮いている。
ぬえは手にとった紙に目を通して、それからニヤァっと笑った。
「へぇ……?」
ドヤ顔で、ナズーリンの顔を見下ろす。きっと、極上のカモを捕まえたと思っているのだろう。
だがナズーリンは努めて冷静に、ゆっくりと立ち上がり、腕を組んで睨み返した。ここで慌てたら、ぬえの思う壺なのだ。
「……大昔の、若気のいたりだよ」
「ふぅん。ナズーと寅丸は仲良しだと思ってたけど、へぇぇぇ」
「ぬえだって誰かを好いたりする事もあったろう。ぬえは聖がお気に入りみたいじゃないか、ええ?」
あおってみるが、ぬえはそう簡単にはのってこない。
ナズーリンの回りを鬱陶しく飛び回りながら、ニヤニヤと語りかける。
「今はもう寅丸の事、好きじゃないの?」
「そんな事はないよ。今でもご主人は尊敬している。その手紙を書いた頃のような気持ちとは、少し変ってしまったかもしれないけれどね」
「じゃあ、この手紙、寅丸に見せてもいい?」
「なっ」
ピクリと、ナズーリンのこめかみが疼いた。
星に手紙を見られる事自体には、少し恥ずかしいけれど問題はない。ただ、その想いを面白半分に扱われるのが我慢ならなかった。
「……じゃあの意味がわからんっ。ご主人にその手紙を見せる気はないっ」
逆さになったぬえの忌々しい顔が、ナズーリンの目の前を小刻みに左右した。
「うふふ。やっぱり恥ずかしい?」
こみ上げるイライラを何とかかみ殺しながら、ナズーリンは紳士な対応をとろうとする。
「そりゃ、恥ずかしいさ。たとえ大昔の気持ちだとしてもね。……さぁ、もういいだろう、そろそろ返してくれないかっ」
「えー?」
ぬえはわざとらしく腕を組んで、頬に人差し指をあてて、何か思案していた。ナズーリンはその鬱陶しいもんた顔を見ていると、一秒ごとに怒りがこみ上げてくる。両の拳が震えるのを、そろそろ押さえきれなくなってきていた。
「うーん……そうだ! このぬえちゃんがナズーの恋のキューピットになってあげよう!」
「はぁ!?」
「今からこの手紙を寅丸に見せて、恥ずかしがり屋なナズーの心を届けてきてあげる!」
「こ、このっ……」
きらっとウィンクをしてみせるぬえの顔に、もう、ナズーリンは我慢できなくなってしまった。
「ふっざけるなぁー!!」
爪を尖らせて、中空のぬえに飛び掛る。
「きゃー! ナズーが怒ったぁー!」
実に楽しそうな声で叫びながら、しゅるりと身をかわすぬえ。部屋のふすまを開けて、廊下に逃げてしまった。
「待て! こら! 待てぇー!」
後を追ってナズーリンも廊下に飛び出す。明かりの少ない聖輦船の船内に、ドタドタとやかましい音が響く。
「返せ! おい! 返せ!」
「捕まえてごらんナズー!」
ひゅんひゅんと廊下を飛んで、逃げるぬえ。後を追っていくうち、ナズーリンはある事に気づいた。
(こいつ本当にご主人の部屋に向かっている!)
もう容赦しない、とナズーリンがペンデュラムを振り上げた時だ。
「ぶへ!?」
廊下のL字角を曲がって一瞬姿の消えたぬえが、誰かとぶつかったらしく、跳ね返されてきて曲がり角の壁に激突した。重力にしたがってドサリと床に落ちるぬえ。
ナズーリンが追いついて、角からひょいと先をうかがうと、そこにいたのは寝間着姿の聖だった。
腰に手をあてて、少し顔を怒らせている。体の前に法術の防壁を展開させているから、そこで待ち構えていたのだろう。
「こら! 何を騒いでいるのですか!」
「ひ、聖……。ぬ、ぬえが私の私物を勝手に持ち出したのです!」
親に見つかって言い訳する子供みたいに、ナズーリンはぬえを指差して弁解した。ぬえは床にでもぶつけたのか、鼻を押さえて涙目になっていた。
半紙が、聖とぶつかった拍子にぬえが手放したのか、その側にひらひらと舞い落ちた。
聖が、その古ぼけた半紙を手に取った。
「あ……」
と、ナズーリンが慌てる。無理やり奪うわけにもいかない。
けれど、聖はサラっと紙に目を通して、少し微笑んだ後、何も言わずにナズーリンに半紙を渡した。それからぬえの服の襟首を掴んで、片手で軽がると持ち上げた。
顔を近づけて、めっ、と叱る。
「ぬえ。人の心をからかいの道具にしてはいけませんよ!」
「……はい」
さすがにぬえも、大人しく従う。
「次こんな事をしたら、しばらく法界に閉じ込めておしおきです」
「へぇーい……」
と、少し不満そうではあったが、ぬえはとぼとぼと退散していった。
丁度そのタイミングで、ぬえが去っていったのとは反対の方から、これまた寝間着姿の星が現れた。
「どうしたのです聖。何か騒がしいようですが……おや、ナズーリン?」
「ご、ご主人」
手に持っている半紙をこっそり後ろに隠す。
「やんちゃ娘達がごんたをしていたのですよ。さぁ、ナズーリン、もう寝なさい」
聖がごく自然に、子供を寝かしつけるように、言う。
「は、はい」
聖に感謝しながらナズーリンはそそくさときびすを返した。廊下を歩きながら、まぁ、星に見られなくて良かったかな、とほっと胸を撫で下ろす。
(当たり前だが、聖は大人だな。ご主人に言いふらす事も決してしないだろう)
だが、ナズーリンはふと気づいた。
(あの二人、今日も一緒に寝るのかな)
ナズーリンの足が止まった。
(どんな感じなのだろう……見てみたいな)
なぜそんな事を考えたのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
自分を可愛いといってくれた星が、今、別の女性と一緒に寝ている。しかしながら、心にある感情は嫉妬や妬みではなかった。
ゆっくりと、ナズーリンは星の部屋に向かって、歩き始めた。
(興味、か? ご主人は私にとって特別な人だ。だから気になるのかな。本当に、なんだろうね、この気持ちは)
答えが見つけられないまま、ナズーリンは星の部屋の障子にたどり着いた。できうる限り、気配は消した。多分、気づかれてはいない。
そっと、障子の取っ手に手をかけた。
(何をしているんだろうなぁ、私は)
そうは思いつつも、じわりと手に篭る力を、ナズーリンは抑える事が出来なかった。
音をたてずに、障子を僅かに開けた。
覗き見としては下の下の方法だと思うが、見つかってしまったらそれはそれでいいと、どこか心が開き直っている。というより、見つかりたかったのかもしれない。
(……いる)
ナズーリンは大胆に2cmほども障子を開けて、片目で部屋を覗き込んだ。
二人はすでに一つの布団に並んで横たわっていた。ナズーリンは二人の足の方向からその様子を見下ろす形になっている。
おそらくは蝋燭の炎であろう、頼りないぼやけた橙の光が、薄暗闇に二人の姿を浮かび上がらせていた。
(おや……)
聖が、舌でぺろぺろと星を舐めていた。下品な舐め方ではなかった。半ばキスかと見間違うような、つつましい舐め方。かつて、星がナズーリンに施してくれた舐め方だった。
向い合って布団に体を横たえ、二人の顔が丁度間近にあって、聖は片肘をついてわずかに上体を起こし、星を抱き寄せながら、星の髪を掻き分けて、耳たぶや、こめかみ、そして時には少し自分の首をまげて、首筋や頬を、ぺろぺろと舐めていた。
子猫を舐める、母親のよう。ところどころ聖の陰から見える星の顔は幸せそうに、ふやけている。
(よかったね、ご主人)
心から、祝福できた。数百年間、星が待ち望んでいた時間なのだろう。
ナズーリンはしばらく星の表情を食い入るように見つめて、それから部屋に戻った。
ナズーリンは、部屋に戻って、床に入りながら、今しがたにみた星の顔を暗い天井に浮かべていた。
「幸せそうだった。昔の私も、あんな顔をしていたんだろうな」
不思議な充足感があった。自分の中で、星とすごした数百年が、尊いものに昇華したように感じた。
自分は多分、星が今、幸せなのかどうかを、知りたかったのだろうと思う。それで、覗いたのだ。
目を瞑って、眠ろうとした時、部屋の障子を誰かが叩いた。
「誰だい」
「私だけど。聖、どこにいるか知らない?」
村紗の声だった。
「あぁ……」
ナズーリンは、起き上がっていって、障子を開けた。
廊下の暗がりに寝間着姿の村紗が立っていた。
「何か、急ぎの用事かい?」
「そうじゃないけど。読み終わった本を返そうと思って」
「ふぅん。……居所は知ってるけど、今はちょっと、ね」
「へ?」
「まぁ、入りなよ」
眉を寄せる村紗を部屋に引き入れ、蝋燭に火をつける。暗闇が、部屋の隅に追いやられた。
「どこにいるの? 聖は」
敷いてある布団を座布団代わりに、村紗が尻を下ろした。
「ご主人の部屋さ」
隣に、ナズーリンもちょこんと腰をすえる。
「星の? 何してるの?」
ナズーリンは何も言わずに、肩をすくめた。
村紗はそれでピンときたようで、蝋燭の光に瞳を輝かせた。
「えっ。嘘!」
「何も言ってないけど」
「うわ、うわ、本当? どうしよう」
「いや、別にいやらしい事をしているわけではないよ。ちょっと、軽く、なんていうかな、触れ合っているだけだよ」
「えー! えー! ねぇねぇ、覗きにいかない?」
「無粋だよ」
棚にあげて、ナズーリンは苦笑した。村紗は一人で顔を赤々とさせて、わーわーと小声で騒いだ。
「……けど、いいの?」
「何がだい?」
「だって、ナズーリンって、星が好きなんでしょ」
ナズーリンは口ごもった。どきりとした、というわけではない。何と説明すればいいのか、分からなかったのだ。ナズーリンの今の気持ちは、「好き」という単純な気持ちを抱いてから、数百年がすぎている。それだけの時間の中では、何百種類もの「好き」の気持ちが生まれて、中には言葉では簡単に説明できないものもある。今の気持ちが、それだった。
「ご主人はね、ずっと聖に会いたかったんだ」
「そりゃ……そうでしょうけど」
村紗は、よく分からないという顔で首をかしげた。
それからまたそわそわしだして、うわーだの、えーだの、意味のない言葉をはいた。
「肌と肌をくっつけるって、どんな感じなんだろうねぇ」
なぜか、恥ずかしそうに村紗が言った。
「抱き合ったり、肩を寄せ合ったり、したことないのかい?」
「いやぁ……ぶつけ合ったり、殴りあったりはあるけど……」
「君らしいなぁ。けど、とっても気持ちいいものだよ」
「そ、そうなんだ……」
村紗は、体育座りになって、うーっと呻いた。秘密の花園の門の前で、しり込みしている若い少女の様だった。
ナズーリンは、ふと、言った。
「やってあげようか?」
村紗は聖輦船がひっくり返ったような顔をした。
「は!?」
「いや、たいそうな事をしようというのではないよ。ただ、ちょっと、ぺろぺろと舐めてあげるだけだよ」
「ぺ、ぺろぺろって……え、え、えー……」
「恥ずかしがる事じゃないよ。癒しの術の一種だし、あれは本当に気持ちがいいんだよ。マッサージみたいなものだ」
「そ、そうなの……」
村紗はひとしきり悩んだあと、小さく、恥ずかしそうに、こくんと首を縦にふった。いつものオテンバな様子との差が、なんだか愛らしかった。
ナズーリンは、布団にうつ伏せになるよう村紗に言った。村紗が緊張してぎこちなく、それにしたがう。
「こ、こうでいい?」
ただうつ伏せになるだけなのに、村紗がそんな事を聞いた。
「なんでもいいよ。ただもうちょっとリラックスしてほしいけど」
「う、うん……」
かくかくと首をふる村紗に、笑う。その一方で、ナズーリンは思った。
(そうか、私は、自分のぺろぺろでご主人を気持ちよくさせてあげたいんだな)
思えば、星にはいつも舐めてもらうばかりで、舐めてあげた事はほとんどなかった。星と一緒に床に入ると、ナズーリンは子猫のような気分になって、ずっと星に甘えてしまう。
(そんなご主人が、聖の腕の中では私のように子猫になっていて……。私はきっと聖みたいになりたいんだ。聖みたいに、ご主人を気持ちよくさせてあげたいんだ)
「ね、ねぇナズーリン」
村紗の強張った声が、ナズーリンの夢想を中断させた。
「ん、なんだい?」
「わ、私ね、背の低いナズーリンがちょこちょこ動きまわってるのみると、ちょ、ちょっと可愛いなって思ってたよ」
「……何を言ってるんだ君は」
ぷっと、ナズーリンは笑った。
「いやぁ……な、なんか妙な気分でさっ」
「だから、そんなに緊張しなくていいのに」
あまりじらすと、村紗がおかしくなってしまいそうだから、ナズーリンはそそくさと村紗のとなりに寝そべった。
「じゃあ、いくよ?」
「う、うん」
ナズーリンは片肘をついて体を起こし、村紗の背中を見下ろす。寝間着の肩口を少しさげると、ひきしまった健康的な肩のラインが露出した。
そして、その肩にそっと唇を触れさせる。
「ひやんっ」
村紗が黄色い声で身をよじる。
ナズーリンは構わず、そのままぺろぺろと村紗の肩に舌を触れさせていった。
(……村紗には悪いけど、ご主人を舐めていると想像すると……脳髄が疼くね)
大昔、もしかすると星も、聖を想像しながら自分を舐めたこともあったのかな、とも思う。おもしろくは無いが、許せてしまう。誰だって、大切な人にご奉仕してあげたいものだ。
「うー……」
村紗はしばらくはもぞもぞ動いたり、呻いたりしていたけれど、だんだんと静かになった。
村紗の後ろ髪にもぐって、うなじの産毛を舐める。風呂にはいってまだそう間もないのだろう。石鹸の匂いがした。
「……気持ち、いい」
乙女が秘め事を打ち明けるみたいに、村紗がぽそりと言った。
「そうだろう?」
「どうしよう……私ナズーリンの事が好きになりそう」
湯船につかっているような声で、うぃーっと村紗が蕩けた。
「悪いね。私はご主人が好きなんだ」
明日の夜、ご主人の部屋に行って、舐めてあげよう。
ナズーリンは、そう決心していた。
えろい……タイトルは『舌で舐める』だけなんかかっこ良くて浮いてるw
でも個人的にはナズが聖にきちんと嫉妬しないのがどうもうまく飲み込めなかったので……90点で!
それにしても星さん、直弟子なのに五戒破りまくりだなぁw
あとちょっと誤字が多いなと。wordにブチ込むとある程度の誤字は見つけてくれますよ
本当、タイトル避けしなくて良かった。さっきまではしようと思ってた。
エクストリームぺろぺろ
読み終わる頃にはナズーリンに対する感情が可愛いからカッコイイに変化していました
初めはギャグ路線だと思ってたんですがなにこのイイハナシダナー路線www
とりあえずナズの健気な思いに株が上がったので100点。
素敵なしょうせつありがとうございます。
釈然としない感情が釈然としないままわかりやすくこちらの胸に届くことはなかなか無く新鮮。
実らない恋もあることは 結局、みんな知ることだもの ってか!!いや、それも何か違うな。
星ナズに目覚めそうです。
こういう話しにありがちな肝心な場面で主要人物が慌てふためく演出が嫌いなのですがそれが無くて読みやすい。
ナズの心情やセリフがゆっくりと落ち着きを保ちながらも、
愛を感じ与えたい気持ちを上手く表現出来てるのが良いなぁと思いました。
聖や村紗も良いアクセントになっていますね。
この長さでも疲れずに読む事が出来ましうわぁあああああ!チキショー俺もペロペロされてぇえええええええ!!
あの成熟したようなけど初々しいような羨ましいような安らぎの余韻がびりびりと。
そして驚きの安らかさ。けどもタイトルwww
どうりで心理描写がうまいわけだ。
そそわを読み始めて4作目、いいなと思った2作が両方同じ人だったというww
単なる百合百合ではない、それぞれの心理描写がよくできている良作だと思います。
ありがとうございました。
でもお嫁さんになってもいいのよ?