地の底まではまだまだ先だが、お天道さんは相変わらずここまで手が届かない。
人間にしてみれば肌寒い洞窟の中は、妖怪や幽霊にしてみれば意外と過ごし易い場所だ。
私もその例には漏れず、ひんやりとした闇はそれなりに快適で、風が入ってこないように巨大な洞窟に横穴を掘って、その中で日向ぼっこならぬ日陰ぼっこに興じていた。
風の抜ける音しか聞こえなかったここも、最近よく騒がしくなっている。
封印がどうとか、蓋がどうとか言っていたような気がする。
とにかくそれによって外の人間やら妖怪やらが自由に行き来しているから、その喋り声が洞窟を乱反射して不協和音が聞こえるのだ。
いつもだったらその声を頼りに挨拶代わりの弾幕戦を仕掛けに行くのだが、さっきまで地底の鬼と一緒に宴会をしていたため、酔いを醒ます意味でも涼んでいる。酔った勢いで弾幕戦をすることもよくあるが、たまにはゆっくり醒ますのもいいかなと思って今日は止めておくことにした。
今日とはいっても別に日にちなんて気にしたことは、地底に住みつくようになってから一度もない。
地底は昼も夜もないから昨日も今日も明日も明後日も全部住民それぞれの感覚にお任せなのだ。
だから今このときは、私にとって昼間だ。
私にとっての夜にはまた宴会に参加するつもりでいるから、それまでシエスタを楽しむ。
地底はいつでも適当で平和だ。
陽気で妖気で呑気で飲兵衛な気質を好んで外からも客が来る。
もともと私もそういうのが好きだから、盛り上がるなら外の客も大歓迎だ。
「すいませぇん」
「んっ?」
声がした。
あまり大きな声を出していないのだろうけど、水晶のように透き通った声音は洞窟の中に在って不協和音を作らず、とてもはっきりと聞き取ることができた。
全く聞き慣れない声だ。
入り口近くには友人である釣瓶落としのキスメがいたはず。
引っ込み思案で顔見知りじゃないとあまり出てこようとしないことを考えると、十中八九初めて来た客なのだろう。
聞き慣れていないのも無理はない。
新人相手に戦ってみるのも面白くはあるが、今日は弾幕戦をする気も脅かす気もそんなにない。
まあお客さんだし、毎日毎夜毎時間毎分毎秒四六時中どこかで必ずやっている宴会会場の一つにでも案内してやろうと思って、よっこらせっと上半身を起こした。
新しい客は引き返すことも先に進むこともしてないようで、大体同じ辺りで暗闇に呼びかけた。
「すいませぇん。この辺に〝クモがいる〟って聞いたんだけど、いるかしら?」
クモがいる?
雲か蜘蛛か一瞬迷ったが、地底に来てまで雲なんて流石にボケないだろうし、蜘蛛のほう……つまり私に近しい種族を求めていると考えた。
「どんな蜘蛛をお望みなのかい? 各種揃ってるよ~!」
と返しながらこの辺りに巣食っている蜘蛛を残らず声のするほうに嗾けてみた。絡新婦ほどではないが、一応蜘蛛の妖怪ということでただの蜘蛛を操るのは造作もない。辺り一面に張り巡らせてある細い糸を指で弾くだけで一帯の全ての蜘蛛に指示が伝達されるようになっている。声を出さない客が来ても他の蜘蛛が来客を知らせてくれる二段構造だが、珍しくこの客は探査網に引っ掛からなかったようだ。
この辺りにいる蜘蛛は旧地獄から昇ってくる微量の放射線や妖気を蓄えながら生きているため異常種がとても多く、全長数メートルに達するものもざらにいる。
その数数千。
襲わせる気は全くなく、蜘蛛をご所望だから陳列して見せただけだが、大小様々で人間から見て見た目グロテスク極まりない蜘蛛の大群を見せられたら本能的に絶叫物だろうことを後になって気付いたが……
まあいいや。
ここまで来たんだし蜘蛛ぐらい見慣れているだろう。
斜め下へ伸びている洞窟に屋根裏部屋のように作った横穴から下のほうを眺めてみる。
「っ!!」
流石に大群は耐えられなかったらしい。
ただおぞましさに対する声にならない悲鳴とか、そういうものではなく、びっくりした程度だった。
かなり肝が据わっているようだ。
「んん? ありゃあ弾幕だねぇ」
特に目を細める必要もなくはっきりと見える弾幕の色は、極彩の赤青二色。
旧地獄へわざわざ来るなら当然か。
糸を弾いて、出した蜘蛛を文字通り蜘蛛の子を散らすが如く解散させた。蜘蛛のほうの被害の拡大を防ぐというよりも、きれいな弾幕を撃つ来客がどんな奴なのか、ほんのちょっぴり興味を持ったのだ。
ん~、さっきまであんまりやる気なかったんだけど……
見せられたからには私もとりあえずぶっ放してみたい気になった。
勢いよく横穴から飛び出して、つらつらと滑りやすいはずの洞窟壁面に素手でくっ付いて、右手の先から弾幕を飛ばした。
「あんた面白そうだねぇ。ちょいと一緒に遊ぼうかい?」
撃ち放った弾幕は特に何の細工もしていないため拡散しながら直進する。
相手も応えて撃ってくる。
弾の速度は向こうのほうが若干速く、こちらのほうが速く撃ったはずなのに中間辺りで衝突した。
抜けてくる弾を避けながら地面に着地して、弾幕同士の衝突で舞い上がった土煙が晴れると同時にスペルカードを使うつもりでどこからともなくカードを出した。
「待ちなさいっ!」
徐々に晴れる土煙の中に見えたのは、弓矢を構えて立つ凛々しい女性だった。
弾幕の色と同じ赤青の奇妙な服は、旧地獄ではまず見かけないほど鮮やかで、まるで汚れというもの知らない。
それどころか彼女の長い銀髪が洞窟を通り抜ける風に靡く姿は、月の光のように美しくて、ここの住民としてみるとあまりに浮世離れして見える。
自分とは真逆……とまでは言わないものの、地底へ来た連中の中でこれほど場違いな存在はいないと思った。
「私は妖怪退治に来たわけでも宴会しに来たわけでもないわ。土蜘蛛に用事はあるけど、あなたと遊ぶ気はないわ」
「ええ~?」
つれない言葉に満面の不満顔を浮かべるが、向こうから見えているかどうかは定かではない。
何を隠そう、私がその土蜘蛛であることを分かっていないように思える。
「じゃあ私がその土蜘蛛だって言ったら遊んでくれるかい?」
包み隠す気もないから早々とばらして問うた。
「捕まえる気はあるけど遊ぶ気はないわ」
突っぱねられたのか本気でやろうと誘っているのかいまいちはっきりしない。
そう思ってるのは自分だけで、彼女はこの上なく明確に答えたと思っているのかもしれないが……
「捕まえる気しかないのに何だか殺気を感じるんだけど?」
矢の先と殺気だろう何かを向けられているにもかかわらず、その場で腕組みしながら質問する。
客も体勢を崩さない。
「殺す気はないから安心して。素直に頼みを聞いてくれるなら楽で助かるけど」
殺す気は全くなくとも手足の一本や二本はご愛嬌とか言いかねない目をしてるんですけど……?
これは楽しく弾幕ごっこができるような状態じゃないみたいだ。
「分かったよ。そっちの頼みってやつを聴こうじゃあないかい。その代わり、終わったら遊びと宴会に付き合ってもらうよ?」
「交換条件になってない気もするけど……、まあいいわ。それで手を打ちましょう」
「やった~! それじゃあさっさとやろうかねぇ。何するんかね?」
快く条件を受けてくれたから気分を良くして安請合いした。
でも何故か頼み事を持ってきたほうがまた迷った顔をしている。
とりあえず顔が遠くてちゃ自己紹介も儘ならない。
ということで右手から糸を伸ばして天井へ貼り付かせて強く引っ張る。
張力を利用して前方へ一っ飛びし、相手の目の前で着地した。
「私ゃ土蜘蛛の黒谷ヤマメだよ。よろしく!」
自己紹介しながら笑顔で右手を差し出した。
「あっ、ええこちらこそ。私は八意永琳。外で薬師兼医者をしているわ」
と構えを解いて微笑みながら握手をしてくれた。
「ふぅ~ん、私が土蜘蛛だってこと知ったのに握手してくれるんだねぇ?」
慌てて反射的に握り返したのだろうが、〝私に触れる〟なんて、私を知っている普通の人間だったら絶対逆の反応を取るだろう。
触れてくれただけでも好感を持てる相手だ。
「触れただけで病気が移る……っていう噂ね? あなたが意図的にやらない限り移らないだろうし、あなたがそんなことをするとは思えなかっただけよ」
第一印象だけでそう判断したのか。
浅はかだが間違ってはいない。
流石医者だけあって見る目はあるようだ。
「あんたいい人だねぇ。気に入ったよ、頭からカリカリいきたいぐらいだ」
「さすがに食料にはならないわよ」
「冗談だよぉ♪ ほら、さっさと行こうよ」
私はもう歩き出していた。
振り向いた彼女もすぐに追いついて連れ立った。
一路、地上へ……
久しぶりの外だ。
※
旧地獄というところはそのまんま旧い、時代遅れの地獄だ。
罪人の魂が増えたせいで新しい地獄を作る必要があったためにうち捨てられ、地上を追われた妖怪なんかが住み着くようになった。
鬼を主体とする彼らが元々あった旧地獄の都を立て直し、今の旧都、旧地獄街道ができたことで、生活基盤が確立し、地上よりも何かと妖怪にとって都合のいい場所に変貌した。
そのため、私も地上へ行く利点を見出せなくなり、興味を持たなくなっていたが、どうやら長いこと地底暮らしをしている間に地上も変わったようだ。
人間が妖怪を恐れなくなったのは紅白とか黒白とかが初めて来たときに態度で分かったが、よもや地上の者が地底の者を頼りにしようとは考えたこともなかった。
「それで、用件は何? 言い出しにくそうだったけど。八意先生?」
洞窟は縦にまっすぐ延びているわけではなく、歩けるぐらい傾斜が緩やかなところも少しは存在する。今歩いているのはそういった数少ない歩きやすい場所だ。
じめついた洞窟を地上へ向かいながら、何を頼みに来たのか訊いた。
「医者だからって妖怪に先生なんて言われてもねぇ……」
「医者だからだけじゃないねぇ。見た感じ年取ってなさそうだけどさ。八意先生って、正直私よりも年上だよね?」
「どうしてそう思うの?」
「あんたからは人間の匂いがするけど、普通の人間の匂いじゃあない。稀薄過ぎるんだよ。あんたは人間のくせに人間が持っているものを持っていないように感じたよ」
「意外と鋭いのね。地底の妖怪ってあなたみたいなのがゴロゴロしてるの?」
「私よりも勘のいい奴は幾らでもいるよ。八意先生っていったい何者だい?」
「当ててみたら?」
数秒考えるような仕種をとって、
「うん、不死者だったら納得いくねぇ。八意先生にゃ死がない気がするよ」
八意先生は目を丸くした。
「半分正解。正確には不老もあるわ」
思った以上に答えが近かったようだ。しかし不老不死の人間なんて地上にいた頃は気付きもしなかった。幻想郷にはまだまだ未開の地が多い。
「喰っても再生するなんて何てエコな身体だい」
「だから食料にはならないって」
「冗談冗談。本当は匂いじゃあないんだよ。八意先生にゃ人間なら死に関わるような病気、病原体が何一つ付いてない。だから死なないんじゃあないかと当たりをつけたんだよ」
私の能力は病気を自在に操ること。
それはつまり、病気の拡大や収縮を病原体、細菌やウィルスのレベルで操作する能力であるということだ。当然そういった類のものを見ることができる。
で、どうして私が医者に呼ばれたのか、大体察しが着く。
「あなたも大概ね。そんなだと、私があなたを呼びに来た理由も分かるんじゃないかしら?」
「予想はついてるよ、八意先生」
もう少しで上と下の境界。
目の前には断崖絶壁がある。
それを登ってやっと地上に出られるのだ。
「妖怪だか人間だか知らないけど、患者がいるから救ってほしい……そういうことを頼みに来たんじゃあないのかい?」
地底にいるのは人間に忌み嫌われた妖怪が多い。
人間に追われた妖怪達の中には人間に恨みを持っている者も少なくない。
彼女が言い出すのを躊躇ったのは、患者が人間だからだろう。
私がもし人間に恨みを持っている妖怪なら、人間の患者を助けに行くなんてもっての外、ともすれば弱っている人間を進んで喰らいに行くかもしれない。
そんなリスクを承知で来たことになる。
だったら何にも言わずに捕まえて強制連行すればよかったのだ。
または別の方法で治すか……
幾らでも治せる奴はいるんじゃないかなぁ?
「その通りよ。っていうか一々先生っていうのは止めてくれないかしら? 永琳でいいわよ」
「それじゃあ永琳姉さんで。……患者が人間だから、助けてくれないかと思って話すのを躊躇った……違うかい?」
「まあそれでいいわ。……ええ、そうよ。とんでもなく察しがいいのね?」
「永琳姉さんが私に声を掛けてきたことを考えれば大体分かるよ。」
でもさぁ……
と永琳姉さんの前に出て真正面から顔を見た。
「何で私なんだい? 妖怪の賢者あたりなら一瞬じゃあないかい?」
はあ……っと、永琳さんはとてもがっかりしたように溜息をついた。
「紫は只今冬眠中……」
「……」
ああ、だから私だったのか?
いやそれにしたって永琳姉さんは薬師だとも言っていなかったか?
「私ゃ永琳姉さんが聡明そうに見えるけど、薬師なら自分で薬ぐらい作れるだろうに……」
「季節柄材料が取れないのよ。わざわざ保管してる人もいなかったしね」
「患者さんもついてないねぇ」
あらゆる可能性を考えて一つずつ潰していった末の、最後の手段だったらしい。
「ごめんなさいね。ここまで来ておいてなんだけど、止めるなら止めてもらってもいいわ」
「本当に今更だねぇ」
右手をめいっぱい真上に挙げる。
上にはお月さんが見えているが、手を伸ばしたって届くわけもない。
というかお月さんが出てるってことは今は夜なのか。
私の時間感覚も当てにはならないもんだ。
伸ばした手首と袖の間から束ねた糸を射出して、穴の出入り口の端にくっ付けた。
「ほ~ら何してんだよ。さっさと行くよ。早く終わらせて遊ぼうじゃないかい」
糸を巻き上げて自身の身体を出入り口まで持っていく。
永琳姉さんはほっとした面持ちで私の横をぴったりついてくる。
他の選択肢より可能性が低かった分、快く引き受けたことに安心しているのかもしれない。
「あっそうそう、キスメ~!」
よく一緒に遊んだりしているキスメに声をかける。
顔馴染みの妖怪が声をかければ大抵降りてきてくれるのだが、人見知りが激しいせいで永琳姉さんがいると姿も見せてくれない。
でも他でもない遊び仲間の私の声ぐらいちゃんと聞いてくれているはずだ。
だからそのまま話し続ける。
「ちょいと用事で外行ってくるからさぁ! 留守番よろしくぅ!」
「そんな軽く請け合ってくれる妖怪なの?」
自然な心配顔が目に映った。
どうも永琳姉さんは人間や妖怪に対して差別意識を持っていないらしい。
まあ分け隔てなく接していかなければ医者なんてやっていけないだろう。
私も人間を、食べるとき以外は妖怪や妖精と同等に扱っているし、決定的に違うけど近い部分はあると思う。
反発もしなければ似過ぎることもない。
一番の理解者にはなれないけど、敵対せずに馴れ合える。
友達としてなら理想の距離感なんじゃないだろうか?
「大丈夫だよぉ。キスメは一番信頼してる友達の一人だから」
永琳姉さんにニカッと笑いかけると、上のほうでポッと明かりがついてよろよろ頼りなく落ちてきた。小さくて弱々しい赤い火の玉だ。
あれは『分かった』っていう合図だろう。
「……何か頼りなさそうね」
「私がキスメを頼りにしてるから大丈夫」
「何の根拠もないけど……、友達っていうのはそういうものよね」
「そういうもんだよ」
話している間にもう境目まで到達していた。
淵に右手をくっ付けたまま今度は左手を伸ばす。
殆ど灯りのない洞窟の中よりも地上は月光に照らされていてとても明るく、森の木の枝一本一本まではっきり見ることができる。
自身の体重を支えられるぐらいしっかりした枝を探すのに何の苦労もせずに一瞬で見つかるのはありがたい。
別に飛べないわけではないけれど、本能的に何故か蜘蛛の糸を使ってしまう。
そのせいで苦労したことは全くないからどうでもいい。
左手から糸を伸ばして枝に貼り付けさっきと同じように巻き上げる。
永琳姉さんは一足先に地上に出て私を待っている。
少し急いであっけなく久しぶりの地上へ顔を出した。
いやぁ、あんまりにも久しぶりだっていうのに、地上に出ても意外と感慨とかいうのは沸かないもんだ。
地底では絶対に拝むことができない草花も、今は枯れているが春や夏には青々と生い茂るだろう樹木が織り成す幻想の住処も、旧地獄と比較すると妖怪にとって住みやすいとは言い難い。
追われて仕方なく入ったからといって、やっぱり地底のほうがいいなぁと、自分の意思で出たにも関わらず、そこにある穴をくぐれば私のテリトリーだというのに、早くもホームシックのような気持ちになる。
用事を済ませて遊んでいれば気も紛れるだろう。
「それじゃあ道案内よろしくっ!」
糸を巻き上げた勢いで、枝に両腕で摑まり半回転して枝の上に降り立つ。
せっかくだし枝でも満喫しよう。
「ええ、ゆっくり行くから安心して」
「患者がいるっていうのに急がないでいいのかい?」
「弟子に任せてきたからね。ちょっとやそっとじゃへばらないから大丈夫よ」
「弟子使いの荒い師匠もいたもんだねぇ」
「能力が能力だから病気を錯覚させるのにはうってつけなのよ」
「? 能力?」
「狂気を操る程度の能力っていってね。あらゆる気を狂わせることで遠くを近くへ、重きを軽きへ、無を有へ幻出する能力のことよ。簡単に言えば、あらゆる波を操る能力かしら」
ふむ、世の中変な能力もあったものだ。
説明されてもそんなに理解が速いわけでもないから、とりあえず身体に変調をきたす能力であることが分かっていればいいか。
「それで無理矢理免疫上げられないのかい? 十分応用できるんじゃないかなぁ」
「根本的な解決にはならないわね。あくまで認識をずらして麻酔の代わりになっているだけで、病気の進行を完全には止められないわ」
「ウィルスだったらそれでいいでしょ? ……そうか細菌か」
「残念ながらね」
永琳姉さんは平手を中途半端に広げ挙げて、お手上げのポーズをした。
医者という職業にあまり思い入れのないように見える仕種だ。
それができるからしている。でもやるからには責任持ってやっているだけ。
私がそう感じるだけかもしれない。
土蜘蛛を呼びに来たのも依頼された責任を果たすためだろうと思う。
「まるで医者が副業のような言い方だねぇ?」
「本業副業とかじゃないわ。医者は商売」
「本質は薬師……か。はたまた別の何かか……。まあいい加減な理由で頼まれるよかましか」
「朝食ぐらいなら用意するわ」
「いやぁ悪いねぇ」
予期せず御飯にありつけたことに喜びながら、ヒョイヒョイ気楽に飛び移っていく。
しかしまあ、永琳姉さんの足の速いこと速いこと。
枝を跳び移るというハンデを背負っているとはいえ、妖怪の私がひょっとすると辛うじて人間のはずの永琳姉さんに置いてきぼりを食らいそうになっている。
言葉じゃゆっくり行くって言ってるけど、どう見たって半ば急いでるよねぇ?
ちょっと本腰入れて追いつこうか。
とスピードアップした矢先に足を止める。
「あれは……」
※
永琳姉さんが鴉に捉まっていた。
絡まれていた。
「お医者様が夜にこんなところにいるなんてこれは何かあるとしか思えませんねぇそうですねえ! というわけでインタビューを強制的に敢行しようと思います由緒正しきパパラッチの射命丸文ですどうぞよろしく!」
一方的に捲くし立てて手帳とペンを構えていた。
「つい遅くまで散歩してて、これから帰ろうとしているところよ。これで満足?」
「天狗をナメちゃあいけませんねぇ。私の勘が告げていますあなたから目を離したらトクダネを逃しちゃうと! さあさあとっとと白状してさっさと裏を取らせて下さいぱっぱと記事にしてバラバラ配りますんで!」
嫌な奴に絡まれたとうんざり顔で応対してるんだろうなあ、と顔は見えないけど簡単に想像できる。
ちょうどいいことに私には気付いていないみたいだし、しょうがないから助け舟でも出してやろうじゃないか。
勘と速さの鋭い天狗でも蜘蛛に気付くのは至難の技だ。
蜘蛛は蛇の如く、獲物に音もなく近づき瞬後に捕らえる。
瞬発力と隠密行動なら鴉なんか容易に凌駕するのが蟲というものだ。
枝の軋む音どころか服のきぬ擦れの音さえ微かにも立てることなく、鴉のすぐ背後の枝へ到達し、幹を蹴って標的を鷲摑んだ。
抱きついたといってもいい。
もちろん徹頭徹尾自然の奏でる音しかない。
「とうっ!」
と捕まえる直前に天狗の耳元で無駄な囁きまで加えておく。
着地なんて考えてなかったからそのまま二人して倒れこんだ。
「っ! いっったいなぁ。何なんですかいったい重いからどいて……!!?」
「やあどうも久しぶりだねぇ。元気にしてたかい?」
私はにっこり笑って地霊異変以来の現役新聞記者に普通の挨拶をした。
まあきちんと挨拶を返されるとはこれっぽっちも思っていないが……
何でかって聞かれても、当の天狗が驚愕とこれで限界と言わんばかりに邪険な表情を浮かべてれば誰だって察するというものだ。
「なっ……何で土蜘蛛が外にっ!? ギャー離れなさい全力で離れて下さい病気が移って死んじゃったらどうしてくれるんですか抱ぁきぃつぅくぅなああああああ!!」
「なんだいツレないねぇ。もちっとうれしそうにしたらいいのに。これだけ私が親愛の情アリアリでスキンシップしてるんだから」
「いぃ~だだだだだだッ! ちょっ痛いイタイいたい! 私を絞め殺す気ですかそうなんですか放して下さい放してくれたらとりあえず喜んでブチのめさせてもらいますんでよろしくお願いしますっ!!」
「そんなこと言ってくれるなんて私ゃうれしいねぇ! うれし過ぎて思わずアルゼンチンバックブリーカーキメたくなってきちゃったよぉ!」
「なんですかそのアルゼンチ……イッッッギャアアアアアアー!!? 折れる折れる折れる折れる折れる折れる死ぬ死ぬ死ぬッーーー!!」
がっちり拘束したまま器用に肩まで天狗の身体全体を仰向けで持っていき、太ももと太ももの間に右手を、首から顎に掛けて左手を滑り込ませて掴むと、背骨が折れない程度に手加減しながら自分の首を中心に折り畳む感じで力を込める。
てこの原理とかいうやつはそれほど力を入れなくても効果的に働くから便利なもんだ。
「アッ、ギギ、……ンガ!」
「もう止めてあげたら? このままじゃ窒息死するわよ」
「ああごめんごめん」
手を離して背後に天狗を落っことした。
「うえぇぇえぇ、ゲホっゴホ!」
天狗は絞められていた首と変な方向に海老反りさせられた腰を押さえて悶えた。
「いやぁ勢い余って殺っちゃうところだったよ。ごめんね、大丈夫かい?」
と立たせるために手を差し伸べたが、天狗はそれに気付くと即座に払い除けた。
まあ当然の反応だろう。
永琳姉さんは心配そうに私の手を見てた。
純粋に心配してくれているのか。
それともこの件で私が地底へ帰ってしまうのではないかとヒヤヒヤしているのか。
前者であることを願いたいものだ。
「永琳さん、あなたが連れ出したんですか? ダメじゃないですかこんな危ない妖怪野に放っちゃあ」
「こっちにも事情があるのよ。大人しく帰って……、いえ――このまま帰すと後が面倒ね。鴉って食べるとおいしいのかしら?」
「なんですと!?」
秒後に矢の発射態勢を整えるほんわか笑顔の修羅がいた。
「だってあなた、無事に帰したら『医者が病原菌の親玉を飼い始めた』とか何とか嘘偽りてんこ盛りで新聞ばら撒くでしょう?」
「むっ……どうしてそれを……あっいやいやソンナコトスルワケナイジャアナイデスカ」
本人前にして思い切り口を滑らせる天狗。
目が明後日の方向に泳いでるから取り繕えてもいない。
ていうか病原菌の親玉って私のことか!?
そっちのほうが微妙に傷つくなぁ。近からずとも遠からずだし尚更……
「ほらね? だからこのまま帰すことなんてできないわ。とりあえず……」
「了解だよ、永琳姉さん」
まあこちらも永琳姉さんと天狗に対しての利害が一致しているから阿吽の呼吸の如く再び拘束した。
天狗よりは膂力が上なことをいいことに、腕と胴体を一緒くたにして後ろから羽交い絞めにする。
「なっ! こらまた! 放しなさい!」
背中についている鴉の黒い翼がバサバサ鬱陶しいから早くしてほしい。
ドスッ!
「お注射するからちょっとチクッとすると思うけど我慢してねぇ♪」
永琳姉さんは躊躇いなく首筋から静脈へ注射針を一気に突きこんで、中にある液体を残らず天狗の体内へ送り込んだ。
頗る適当に見えてその実的確瞬時に静脈を捉える神憑った手腕はさすが医者といったところか。
「する前に言ってく……d……、ガクッ」
予想以上の早さで気絶してしまった。
「――気絶する直前にガクッて言う奴初めて見たよ……」
それよりも得体の知れない注射器の中身に戦慄し、チクッどころかドスッと勢い良くぶっ刺した容赦のなさに首筋が凍てついたが……
ふざけて喧嘩売らなくて良かったと本気で思った。
どう考えてもこの医者天然サディストだ。
「それ、何?」
妖怪さえも一発で黙らせる手のひらサイズの筒一本分の透明な液体。
「妖怪用に調合した、とっても目覚めがすっきりするお薬よ。すっきりし過ぎるせいで目覚めたときには一日分の記憶が抜け落ちる副作用付きだけど」
「……」
とんでもないもの調合するなあ。
表情からするとどうもその薬さえ序の口みたいだし……
「ちょっと時間掛かっちゃったわね。少し急ぐけど大丈夫?」
どうやら患者の身体もこれ以上はもたないかもしれないらしい。
「人間相手に遅れを取るほど妖怪止めちゃあいないよ」
何となく人間止めてる永琳姉さんに言ってもあんまり意味なさそうだけどさ。
気を失っている(寝ている?)天狗を蜘蛛の巣で何十にも厳重に包み込んで、比較的近い二本の木の枝数本を支えにハンモック状に吊るして置く。地べたで寝てるよりは快適だろう。
薬のことは深く突っ込まないほうが安全みたいだからスルーして、永琳姉さんを先頭に空を飛んで向かった。
※
聴いた話を一度まとめると、永琳姉さんが普段住居兼診療所としている〝永遠亭〟と呼ばれる屋敷に運ばれてきた急患がそもそも今回の発端らしい。
その病気に季節性はないが、治療するための薬に必要な材料は季節外れもいいところだった。正直その病気に罹った患者が運ばれてくること自体が数十年にあるかないか程度と恐ろしく珍しかったため、永遠亭にも在庫がないという診療所開業時から稀にしか起きなかった稀有な状態になっていたようだ。またそれだけ珍しい病気であるため、弟子に病気の進行を少しでも妨害するよう命令してから人里の開業医を回ってみたものの、薬か材料を保管している医者はおらず(元々人里の保管技術では長く保管できないということもある)、頼みの綱だった妖怪の賢者――八雲紫は、やっとのことで見つけ出した式の八雲藍に動向を訊ねたら絶賛冬眠中だった。冬眠中はまずてこでも起きない。
選択肢がなくなり軽く途方に暮れたような表情をすると、八雲藍から「そういえば、地底に土蜘蛛と呼ばれる、病気を操る妖怪がいると紫様から聴いたことがあります。駄目元でも頼んでみてはいかがでしょうか?」と提案され、紅白に道順を訊いて来たのだと言う。
天文学的な偶然の集積による結果が、今私に竹薮の合間を縫わせていることになる。
縫うなんていうと大袈裟だ。実際には丸石が敷き詰められた人工の道の真上を飛んでいるに過ぎない。
均一に削り揃えられ、風化している気配すらない石灯籠。
ただ石灯籠に灯るは火の揺らめきではなく、まるで月をそこに縫い留めたかのような朧気な静けさ。
道を造るときに抜かれた竹を利用して作られたらしい柵が、この先にあるだろう屋敷までの道程を指し示しているように見える。
「迷いの竹林って昔はよく言ったように思ったけどねぇ。どうやら私の聴き間違いだったみたいだよ」
「安心して。ここは今も昔も迷いの竹林……。あなたの耳は正常よ」
「ご丁寧に案内板まで入り口に立ててある竹林で迷う奴なんてそうそういないように思うけどねぇ?」
「一歩でもやぶに入ればすぐに迷えるわよ?」
「楽しそうだけど今は止めとくよ」
延々と続く一本道は進めど進めど永遠と見紛う。
自分達が進んでいる先を見たところで、一向に目的地なんて垣間見えもしない。
その段になってやっと……
どんなものを目印にしようが迷ってしまうだけだということに気付いた。
少なくとも私はこの竹林の毒気にまんまとしてやられたようだ
永琳姉さんを見失ったわけではないが、永遠亭は竹林の中にあると聴いてたのに、いつの間にか竹林の外に出てしまっていたのだ。
さっきまで果てのない竹林を見ていたはずなのに……
何がどうなっているのかさっぱり分からない。
永琳姉さんは今私が見てる景色が見えてないのだろう。
伊達に迷いの竹林で開業医をしているわけじゃない。
躊躇うことなく旋回して再び竹薮に向かって突っ込んでいったからだ。
いや、私にはそう見えるのかもかもしれない。
どの途どうすることもできないから、ひょっとすると幻覚かもしれない永琳姉さんの後についていくしかない。
でも妙な違和感を感じる。
迷いの竹林とは別の力が働いているような気がしてならない。
やがて視界に竹しか映らない只中で永琳姉さんは着地し、私も慌てて続いた。
無造作に生える背の高い竹の群は月を隠してはいるものの、それ以外には何も隠れていないように見える。
ましてや屋敷なんて立派なものがどこに建っているというのか。
「私にゃあ建物らしいもんは何一つ見えないんだけど……、まさか迷ったわけじゃあないよね?」
「ええ、迷ってないわ。私の目には〝我が家がはっきり映ってる〟わよ?」
「私の目には竹しか映らないんだけどねぇ」
「ちょっと待って」
永琳姉さんは肩に掛けていた弓を構えると、矢を番えることなく明後日の方向へ向かって弦を弾いた。
一射。
二射。
三射。
弦の震える音が夜の澄んだ空気に染み渡る。
これは……、確か鳴弦の儀だ。
人間の間では昔、弓矢や刀のような武器には魔を退ける力があると信じられていた。そんなときに矢を番えずに弓だけを使い行われる儀式が鳴弦の儀であった。主に赤ん坊の生まれるときに、魔気や邪気を掃うことで無病息災を願うものだったと記憶している。今でも人里の古い家でなら行われているらしい。
魔や邪は外から来るとされているため、外に向かって射る動作をするのが普通であり、さらに向かう方向に人などがいないこと、人は魔ではないため向けてはいけないとかいう規則があったようななかったような。
弓の先を自分の家に向けないことは当然として、永琳姉さんは私にも弓を向けなかった。妖怪は人間にとって明らかに魔の者で、ついでに言えば、私こと土蜘蛛は鳴弦の儀の大義である『無病息災』を土足で踏み躙る最高に縁起の悪い魔だ。
普通の人間だったら私にこそ向かって弓を引くだろう。
矢付きで。
永琳姉さんがそうしなかったのは、私が客人であることもそうだが、おそらく迷いの竹林で〝視覚擬装を意図的に行っている誰か〟に、私が敵でないことを知らせるためだろう。誰かがそうしていないのであれば、永琳姉さんには効かずに私にだけ効いているということがあり得ない。
果たして、私の視界に映る竹がモザイクのようにぼやけて消えていく。
自分の見ているものが他人の手で作られた偽物であることが証明された。
突然目に飛び込んできたのはかなり大きな屋敷。
この屋敷が永遠亭と呼ばれる、永琳姉さんの住んでいる家なのだろう。
地霊殿みたいなチグハグで豪奢な屋敷を想像していたが、大きいだけで至って人里の家と全く異なる点は見受けられない。人里の家なんてもう何百年も見ていない気がするがそうそう変わらないだろう。
「へえ~、ここが永遠亭かい?」
「そうよ、我が家へようこそ」
「それじゃあ早速……♪」
「ええ、診療所はこっ……!!?」
診療所へ案内しようとした永琳姉さんに応えたのは私の弾幕だ。
今度は家に被害を与えないように弾を標的へホーミングさせた。
永琳姉さんは一点へ集束する弾幕を弓の横薙ぎでグレイズし、私から跳んで遠ざかる。
「何のつもり? 先にこちらの仕事を片付けてくれる約束でしょう?」
一気に険悪な空気が張り詰める。
まあ私が約束を反故にしたと思ってるんだろうなぁ。
このままやると本気で死闘に発展しそうだ。殺し殺されはあんまりいい思い出がないからそんなにやりたくない。
本当のことを話しといたほうが後腐れなくていい。
「〝約束はもうとっくに守ったから〟仕掛けたんじゃないかい。勘違いしてるのは永琳姉さんのほうだよ?」
「何を言っているの?」
こっちはニコニコ、向こうは困惑。
「私ゃ病原体を視認できるんだよ? さすがに視覚が狂っていちゃあどこに患者がいるか分からないけど、解いてくれたら一瞬で見つけられる。後は病気の素を抜き取れば終わりだよ。体内にあるもんは免疫が働いてる最中に一気に抜いちゃうと逆に身体を壊しちゃうから、細菌の勢いを免疫が押さえ込める程度まで徐々に抜いてく必要があってねぇ。それももうやっちゃったんだよぉ」
永琳姉さんは納得して呆れ顔になった。
こんなにあっけなく問題が解決してしまったのだ。
無理からぬことだろうさ。
「だから今度はこっちの」
「……しっ、しししししょおおお~!」
騒々しい声をあげて診療所と思しきところから飛び出してきたのはたぶん妖怪兎とかいう奴じゃあないか?
紫色の艶やかな髪をポニーテールにまとめた、半ばから折れたよれよれ兎耳の……
「何、あれ?」
「ナース服だけど、どうかした?」
「うん……、白兎だねぇ……」
「気に入ってくれた? 私の趣味よ」
「うん……、永琳姉さんの趣味、嫌いじゃあないよ」
似合い過ぎも甚だしい白衣の天使だった。
「爪先からカリカリいきたいぐらいだよ。どうしようもなく太腿に食欲をそそられるねぇ」
「私の大事なモルモットなんだから食べられたら困るわ」
自分の趣味が受け入れられて上機嫌になったのか、空気が和やかになった。
「患者さんがものすごい勢いで快方に向かってるんですけど、何かしましたか!?」
妖怪兎の言ったことに現実を知らされ、やっと実感が持てたようだ。
穏やかな顔でこちらを見て丁寧にお辞儀をしてくれた。
「ありがとう、手伝ってくれて」
「いいっていいってぇ。人間も妖怪も持ちつ持たれつだよぉ?」
「???」
二人だけで笑い合って、約束の成就を喜んだ。
人間から病気を退ける手伝い。
妖怪の本義としてはアレだけど、こういうのも、悪くはないなぁ。
「なんで二人で笑ってんですか? っていうかこの妖怪誰ですか?」
「そういえば次はあなたの番だったわね?」
何も知らないせいで話についていけていない妖怪兎を師匠は無視して私に話しかけた。
兎が眉間に皺を寄せてこちらを睨んでいる。
「ああうんそうだったねぇ」
「この子が相手になるわ」
永琳姉さんは近くに寄ってきていた妖怪兎の弟子を私の前に突き出した。
「はっ、へぇ!? なっなんで私がっ!!?」
「相手は病気を操る土蜘蛛よ。病死しないように気をつけてね♪」
「なっなんでそんな妖怪つれてきたんですか!?」
「永琳姉さんの趣味の服がボロボロになっちゃうけどいいのかい?」
「ストックなら幾らでもあるから大丈夫よ」
師匠がサディストな弟子は疲れるだろうなぁ。
まあ私ゃ弾幕ごっこができるなら誰でもいいや!
「それじゃあ……、いっただっきまぁ~すっ!!」
「ぎゃああああああああああああ!!」
目を光らせて、怯えて逃げる妖怪兎に飛び掛った。
「クスクス、だから食べちゃだめだって……」
うれしそうな顔で言ってちゃあ説得力ないよ永琳姉さん。
※
「絶対に同じお風呂なんかには入りませんよ! 土蜘蛛なんかと……」
「さっき身体洗いっこした仲じゃあないかい。それに湯船を病原体で汚染するなんて無粋な真似しないよぉ。こう見えても私ゃキレイ好きで地底じゃ有名なんだよ?」
「ヤマメちゃんもああ言ってるしいいじゃない。土蜘蛛と一緒にお風呂に入るなんてとても貴重な経験よ?」
「何でお師匠様はこの妖怪のこと信用してるんですか!? はっ、まさか病気漬けになった私を薬漬けにして経過を楽しんだ後悶絶させる気ですか!!?」
「それも面白そうね。今度ヤマメちゃんに協力してもらうことにするわ」
「余計なこと言っちゃった!?」
弾幕ごっこを一頻り楽しんだ後、ボロボロになった服を脱ぎ捨てて一緒にお風呂に入ることになった。
噂話を気にしない永琳姉さんと違って、たぶん河童あたりに何か吹き込まれていたらしい妖怪兎――鈴仙ちゃんと言ったか――は私とお風呂に入ることを嫌がった。
それでもお師匠様の言い付けは絶対らしく、嫌々ながらも身体の洗いっこには参加した。
今も不満を言葉で撒き散らすだけで逃げる素振りを見せないのは、逃げたらお師匠様に何をされるか分かったものではないからだろう。
本当に不憫な兎だなぁ。
同情したくてもできないけどさぁ。
しかしまあ永琳さんも一緒にお風呂に入るとは思いもしなかった。
結局鈴仙ちゃんとは弾幕ごっこしたけど、永琳さんとは患者の経過が気になるとかで早々と診療所に引き篭もってしまってできなかったのだ。
こちらとしては微妙に消化不良気味だったが、医者の仕事を邪魔する気はない。
で、お風呂に入って開放的になったのかどうか知らないけど、永琳さんは私のことを『ヤマメちゃん』と呼び始めた。
私も負けじと『永琳さん』と呼ぶようになった。一応年上なんだし、さすがにちゃん付けじゃあ失礼ってもんだ。
「そぉれ!」
「ぎょわ!?」
鈴仙ちゃんに蜘蛛の糸を絡めて湯船に引きずり込んだ。
「ちょっと優曇華。お湯がこぼれるから暴れるの止しなさい」
「ううぅうぅうっ」
なんだかんだいいながら一度入れてしまえば大人しくなる鈴仙ちゃん。
うん、実直過ぎる性格は大好きだ。
からかい甲斐があるって意味で。
「ねぇねぇ鈴仙ちゃん。ちょっとでいいからそのおいしそうな太腿かじらせてはくれないかい? そう目の前をチラチラされるとヤマメちゃんの我慢は今にも天元突破しそうだよ?」
「ぎゃあああ! 慣れた手つきで触らないで下さい! エロ……じゃなくて気持ち悪いじゃないですか!! ていうか馴れ馴れしく鈴仙ちゃんなんて呼ぶなぁ!」
どこぞの天狗と同じようなやり取りをして、全員でお風呂から出て脱衣場で涼んだ。
一仕事やり終えた後のお風呂は格別に気持ちいいねぇ。特に友達の家のお風呂は。
「もうそろそろで夜も更けるわね。朝食まで時間があるけど、一眠りしていく?」
「医者にとって天敵中の天敵に寝床用意するなんて……」
「いやあここまで気ぃ遣わせちゃって悪いねえ。でも妖怪が夜行性だってこと忘れちゃいないかい?」
「そういえばそうね……。それじゃあ、冬の夜明けを楽しみながら一杯っていうのはどう?」
「ああ、そいつは良さそうだ」
これからすることも決まったので服を着ることにした。
永遠亭の住民である二人はどこからか新しい服を持ってきていてそれを着始めているが、私は自分の家に行かなきゃ着替えを揃えることができない。さて困ったと思ってどうしようか考えてたいら、永琳さんが解決してくれた。
「私の服でよかったら貸すわよ?」
「お師匠様の服を貸すぐらいなら私のを貸しますよ」
不機嫌そうな顔をしているものの心の中では私のことを受け入れようと努力してくれているのかもしれないと考えると、見た目以上に可愛く感じる。
「でも優曇華のじゃ合わないでしょう?」
確かに身長はそれほど変わりないように見えるが、やや私のほうが高い。
何といっても胸の大きさが如何ともし難い。さすがに永琳さんのような一般的に『巨』と呼ばれるサイズではないにしろ、鈴仙ちゃんと比べると違いは明らかだ。
「ぐぬぬぅ」
自分の胸と私の胸を見比べながら悔しそうに低く唸っている。
こんなの気にする必要あるのかねえ?
地上の奴は時々よく分からんことに執着するなあ。
「まあ下着のほうは無事だったしそっちはいいよ。上だけ少しの間借りるよ。それなら鈴仙ちゃんのでも構わないでしょ?」
「そうね。それならいいわ」
「さすがにナース服とか変なのはなしだからね?」
「分かってるわよ。でもちょっと残念」
三人とも着替え終わり、永琳さんと鈴仙ちゃんは酒と肴の用意をするために台所に向かい、私は客人ということもあって火鉢の置いてある小部屋に通された。
ここの住民はかなり奇妙な服を着ていると思ったが、よもや自分がそれを着ることになるとは……なかなか奇妙な経験だ。今私は鈴仙ちゃんの服――決してナース服とかいうものではない――を着ている。胸のあたりが少々きついが無理矢理着ている白色のシャツに紺色の上着、下は膝より少し上までしかないスカート姿だ。しかもスカートには兎の尻尾を出すための穴が開いており、はしたないことこの上ない。
よくこんなの平気で着て、ついでに似合っているものだ。
こんなところを地底の知り合いが見たらさぞ大笑いするだろう。
ここが地上でよかったよ。
酒と肴が用意できたら廊下に火鉢ごと繰り出して竹薮の合間に昇る太陽を楽しむ予定だ。妖怪が太陽を楽しむなんてと思う奴もいるかもしれないけど、せっかく地上に出てきたんだから本物の昼と夜の境界を久しぶりに楽しんでみたいと、地底の連中なら言うんじゃないかなぁ?
ようやく地底の住民が幻想郷に受け入れられる時期が来たのかと錯覚する。
すぐに否定したが。
でも自分が本格的な足がかりになるのもいいかもしれない。
勇儀や地霊殿のペット達は東の果ての神社にしばしば出掛けて宴会に参加しているが、それは私とは違う理由で地底にいるからだ。彼女達が地上に受け入れられたからといって地底の全てが許されるわけではない。
地上にはもう妖怪と人間とのあからさまな確執がなくなり、あまつさえ種族を超えて手を取り合うように変化していた。
ならば、人間を拒まなくなっただけの地底だって地上ともっと歩み寄り合ってもいいんじゃないか?
地上に来てそう思わずにいられなかったのも事実だ。
全く関係ないことだが、どうやら永琳さんと同じようなのが一人いるようだ。まあ今までその人間については話に出てきていないから私が気にすることではないんだろう。
※
「あなた、医者をしてみない?」
「「……はぁ?」」
準備ができたから外の廊下に出て熱燗を飲み始めた矢先に、永琳さんは妙なことを口走った。
私がどんな理由で地底に逃げ込まざるを得なくなったのか、竹林の医者ならお見通しのはずだ。
「医者なんて……、土蜘蛛になれるわけないじゃないですか!」
「私が医者にかい? ははっ、なれないなれない。世迷言が上手いねぇ永琳さんは」
「至って本気よ? あなたの能力は薬と違って副作用がないし、たった一人でどんな病気にも対応できる、まさに万能薬のような存在よ。オペさえ必要のない医療ができるなら、私さえ超える最高の医者になれると思うの。何かなれない理由でもあるの?」
「私には医者になったとして欠けているものが二つあるんだよ。当ててみなよ」
しばらくも考え込まずに、一つ思い当たることがあると永琳さんは言った。
「医者としての知識がない」
「それは学べば済むことじゃないかい。違うよ」
それじゃあ何かしらねえと呟きながら特に考えもしていない顔で遠くのほうを見ている。答えを全部知っている上で惚けてるんだろうなぁ。
「はあ……。まず私の能力は怪我、打撲なんかの外傷には何の役にも立ちゃしないんだよ。
そういったもんは病気じゃないからね」
鈴仙ちゃんはああそうですねと頷いている。
彼女ももう一つは思い当たるだろう。
「もう一つは、私が土蜘蛛であることさ。人里が受け入れるはずないし、ましてや私ゃ地上の妖怪やら妖精やらにも嫌われてる。今更医者をやるからって良く思う奴は一人もいやしないだろうさ」
ついでに言ってしまえば、地底で開業したところで地底の住民は輪を掛けて無駄に健康だから、医者なんかに掛かる奴がいないのだ。気候変動が存在せず常に灼熱地獄の熱気で暖かい地底で風邪なんぞ引きようがない。
「だから私に医者はできないよ」
……でもねぇ
熱燗を三人で徳利三本小さなお猪口で飲み干して、ちょうど日の出を迎えた。
竹薮の間を、霧を通して差し込んでくる光は頼りないのか頼りあるのかよく分からないけど、これはこれで風情があるっていうのかねぇ?
上品に正座している永琳さんと足をパタパタさせながら飲んでいた鈴仙ちゃんはこちらを見て二言目を待ってる。
始めはギブアンドテイクの関係だったけど、仕事仲間って関係を地底と地上で初めて結んで、双方に変化をもたらしてみるのも楽しそうだ。
少なくとも私は友達の力になりたいと思っている。
歩み寄りの一歩目はこんな程度で大丈夫だろう。
天国か地獄か。
どっちに転ぶかは分からないけど、できれば幻想郷らしく楽園になってほしいもんだ。
友達に笑いかけて、
「〝薬〟としてならさ……、たまに手伝ってもいいよ?」
一見在り得ない同行(同業?)が始まった。
「……面白そうだし♪」
釜の蓋が開いたなら行けるところまで行ってみようじゃないか。
空になったお猪口をカツンと軽くぶつけ合い、また二人で笑い合った。
ただ、どんなことでもいいとおっしゃるのでひとつ細かい指摘を。
>「あんたからは人間の匂いがするけど、普通の人間の匂いじゃあない。稀薄過ぎるんだよ。
>あんたは人間のくせに人間が持っているものを持っていないように感じたよ」
永琳はもともと人間ではありませんよ。人間が存在しなかった頃から生きている何者かです。
まあ神話を考えると永琳や彼女の親族のはるかな子孫が人間になっているのでしょうが、東方では今のところそういった描写は(ギリギリ)ありません。
ただ上記はあくまでヤマメの主観によるセリフですので、単にヤマメが永琳のことを読み違えたというだけの話でしたらすみません。
この二人の組み合わせは新鮮でした