Coolier - 新生・東方創想話

エロストラート

2010/12/30 22:35:49
最終更新
サイズ
9.6KB
ページ数
1
閲覧数
1764
評価数
4/21
POINT
1050
Rate
9.77

分類タグ

 グラスの中には夜が詰まっている。
 少し、指の力を緩めさえすれば、簡単に崩れてしまうくらい、もろい夜が。



 唇の奥にのぞく幼い牙が透明なアルコールの匂いを噛み砕く様を、いったいいつから厭わしく感じるようになったのだろう。
 月の姿は、夜からすっぽりと抜け落ちている。月齢からすれば、今夜は朔の日であったろう。ならば、それもまた良いことだ。月光の蒼く、明るすぎる様を目の当たりにして、狂人の“ふり”を試みる勇気は未だ咲夜にはなかった。手元にある星明かりのやかましさ――それは文字通りのやかましさだ。レミリアの手にしたグラス。ガラスの器の、残り半分にまで減った酒精。そこに映り込んだ夜の星は、地上を這う眼にすれば、喧騒以外の何ものでもない。

「パチェから聞いたけれど」
「いったい、どんなお話で」

 紅魔館の大きく張り出したテラスは簡易の玉座に早変わりする。小さなテーブルは、ひとりが使えばもう一杯。レミリアは未だ――いつ大人になるのかなんてことは、誰にも解らなかったが――子供だから、椅子に腰を下ろしてしまうと、威厳を手に入れようとしても、地面に届かない爪先がどんな努力も台無しにしてしまう。それに気づかないふりをして銀色の盆を胸に抱くこともまた、従者の仕事ではある。

 吸血鬼は朔の晩に、王者を気取るのが仕事だった。
 月のない夜に、月の代わりを務めるためにだろうか。

 あたかもそれが最も重要であるような滑稽さだった。事実、この種族は総じてどこか偉ぶりたがるところがあるものだ。魔除けのにんにくに顔をしかめる流行りはもう過ぎ去ったのだとしても、十字架と日の光と流れ水と、もっと色々の弱点。意地の悪い神さまは強さと弱さを同時に贈ってよこして来たのだろう、悪趣味にも。

「いや、パチェに借りた本で読んだんだった、かなあ」

 幾らか自信もなさげに彼女は首を傾げる。
 こうもりのでたらめみたいに巨大な背中の羽も、どこかしゅんとして萎れているように見える。夜の暗みにまるまる溶けてなくなってしまったみたいだ。空手の方の指先を、卓上にトントン叩きつけた。すると、もう一方の手がつかむグラスの中の夜が、ぐらぐらと揺れたみたいに咲夜には思えた。手を伸ばせば、簡単に叩き壊すことができるのかもしれなかった。その小さな夜も、夜を飲み干す小さな小さな吸血鬼もだ。

 情念が愛に近いうちは、あるいはそれは無関心と何ら変わるところのない瑣末な感情なのだと咲夜は今まで切り捨ててきた。愛が憎悪や――否、もっと曖昧な忌避に変質するに連れて、自分は主たるレミリア・スカーレットに対する執着をいや増しに加速させている。自覚の有り無しに関わらず、憎悪はもっとも容易くて、それがゆえに御し難い感情だ。高度に育ちすぎた憎悪の形は、鏡に映った愛を下手くそに批評する。誰かを憎み、また憎まれることで、憎悪者は相手の心の精気を明瞭にするのだから。ただし、より皮肉に。

「そう、そう。月を取ろうとして、死んだ男が居たという話なんだよ」

 くわしい出典を明かすことは諦めてしまったらしい。
 晴れがましい顔でレミリアは言った。

「さて。それは、」

 知らなかった、そんな夢想めいた男の話は。
 笑みをつくったこちらの顔を横目で眺めて、しかし、退屈そうに主が息を吐くのが判る。おまえの嘘はもうすべて食んでいるんだと、そう言いたげにだ。

「唐国(からくに)に、そういう詩人が居たんだそうだよ。船の上で酒に酔った彼に、天であざ笑う月をつかみ取るすべはなかった。いや、太陽の光だって空の蒼みだって、きっとそうなのだけれどね。それらは万人に開かれながら、同時にすべての所有を拒む。でも、そいつは水面に映った月をなら、自分のものにできると思ったらしい。水の上で一片たりとも同じ姿を留めない月に向けて、身を乗り出して……」
「そのまま、“どぼん”と。きっとそういうわけでしょう」
「ん、まあ。そういうことだけれどね。――――先回りするなよう」

 口では不満を洩らしながら、レミリアは直ぐに噴き出した。『どぼん』なんていう言い回しは、きっと自分の従者には似合わないと思っているらしかった。手指の先からグラスが落っこちてしまわないかと咲夜は少し、はらはらした。

 ある言葉を語るということは、懸想に似ているのだ。

 思考するとき、歯で噛み砕くとき、舌の上に乗せて吐き出すとき。いずれどんなときでさえ、人は言葉そのものに対して無遠慮ではいられない。ずかずかと、図々しく、“それ”を自分のものにしようと試みる。しかし言葉が人の口を介するものである以上……否、肉体が必要である以上、あらゆる謀(はかりごと)は失敗する。言葉は誰のものにもならず、ただ大気の中に溶け込んでしまう。

 レミリアの言ったこともそれを証していた。
 彼女の引いた故事がいつの、誰の身に起こった出来事なのかは咲夜にはまるで判らなかった。知りもしないことを語る手段を、いったい誰が持っている? それから、自分が知らない事実に耽溺している相手を、どうかして膝元に引き寄せようと考える薄汚い願望を? こぼれ落ちた彼女自身の言葉に対して、レミリアは執着しているように咲夜には思えた。咲夜が、あるいはそんなときのレミリアへ解体しようのない憎しみを抱き始めているみたいに。
 あることに対して考えることは、言葉が必要である以上に意識を奪われずにはおかないものだった。言葉を用いるまでもなく、もっと明瞭に、もっと残酷に、冷たい刃を欲するごとく。

「月の光は人をも殺し得るという教訓でしょうか」
「まさか。ばかな男の失敗談だろう」

 言って、レミリアはグラスに残る酒をぐわりと一気にあおった。
 すると細い喉が上下し、小動物の腹を思わせる蠢きが咲夜の眼に留まるのだった。

 しばらくして、ごくりとうなる喉がついに静かになってしまうと、今度こそ遠近(おちこち)に満ち満てる沈黙は不安を加速させる。なぜなら眩みだったから。人の死に考えを馳せるにはうってつけの静けさだったから。言葉が懸想の似姿であるのなら、決して言葉にならない思考はいったい何であるのだろう。憎しみなのだと、よく自覚して手綱を取ることに必死になっていたこの感情は。

「しかし、よく解らないものだよ。人間は何でも欲しがる生き物らしい。届かないものを納得させるための、体の良い代理人として幻想をつくっておきながら……」
「たとえば“太陽を飲み込む狼”は、きっと勇敢だったことでしょうね。もっとも、そんなものでさえ今は打ち捨てられたか剥製になったか。届かせるための“手”そのものが出来上がったのだから、代理人の役目は終わったのでしょう……少なくとも、外の世界では」
「ふん。それが書物の中のことであるなら、私は剥製になったという説を推すね。時間でさえも、ぜんまい仕掛けにすることで“発明”してきた連中だ」
「あら。時計の喩えを持ち出すとは、咲夜に対するあてつけでしょうか、お嬢さま」
「何とでも言えば良いだろう、意地の悪いメイドだ」

 口角を吊りあげて、レミリアはにッと笑って見せた。
 咲夜もまた、応じるようにして微笑を返す。

 空になったグラスの中に、一杯になっていたはずの夜はもう消え失せてしまったのだ。
 わずか残った露だけが、死んだ夜の残骸を留めている。死について考えることに、やはり夜はうってつけに違いなかった。暗黒でさえもいずれは光に取って喰われると定められている。世界が終わりでもしないかぎり、それは永遠に続く条理だろう。死を限りなく押し留めようと試みることはできる。しかし根本的につくり変えてしまうことはできない。

 カタと置かれたグラスの縁を、レミリアは指先でなぞっていた。その表情は咲夜に見えない。見ようと思うことができなかった。いずれ来たるべき離別への諦念など、どんなに陳腐であったことか。本当におそろしいのは、死に別れることではなかった。あるいは死は感情を装うための美辞かもしれない。その無意味性に安住することに、人々はきっと慣れ切っている。

 本当に怖かったのは、憎悪そのものが消え去ることだ。
 形のない懸想を、いつ果てるともなく言葉に向けるレミリアへの憎悪が消え去ることだ。

 必要なのは『ご主人さま』であって、とうに消えた夢想を語る『レミリア・スカーレット』ではなかった。咲夜はとっくに気づいていた。気づいていたから、あえて微笑をし続けた。嬉しくなって、レミリアは笑う。憎々しいまでの可笑しさがその頬には宿っている。だから、そうだ。子供の好奇心は、どんなものをも壊し得る。月がないことで正気をつくりだすことができるのだから、かりそめに狂気を発明することだって、容易いはずだ。月、が、必要だ。今こそ、自分も言葉に懸想しようか。

 スカートのポケットから、咲夜はこっそり懐中時計を取り出した。眼によく慣れた、銀色の。ただし今のそれは星明かりを受けただけで、錆びた鉄と幾らも趣きを違えない。つまらない色をしていた。ぱかと開くと、文字盤の上に時間が踊る。午後11時16分。さっきレミリアが言った、ぜんまい仕掛けの発明品。視覚化された時間こそは人間が生み出してきた中で、最も精緻な細工物。「あ」と、彼女は思った。もう17分になった。頃合いはいつだろうか。もう良いだろうか。それとも、遅すぎる?

 きィんと耳鳴りがしたか――と思ったときには、もう世界のすべては手のひらの上で眠っている。束の間の昏睡を司っているのは咲夜ただひとり。止まった時間を手の中に握りしめながら、意地の悪い従者はにやと笑んだ。その笑顔は、しかし、レミリアとそっくりだ。銀の盆をかなぐり捨てて、思いきり息を吐いた。

「今夜は月が足りない。私が発明して見せます、お嬢さま」

 つかつかと、レミリアの元まで歩み寄る。
 と、主が指でなぞっていたグラスを取り上げた。あくまで優しげに、ひとつの瑕疵もないように。人は彼女を瀟洒と呼ぶのであったから。

 ガラスを滑り落ちようとする夜の破片――酒の一滴に、咲夜は唇をつけた。舌の上に踊り込んで来るアルコールの味のかけらよりも、ささやかな反逆にこそ彼女は酩酊し始める。ちっぽけないたずらだ。眼の前で気に入りのグラスが割れ砕けても、主は笑って許してくれるだろうと思いたい。

 空中に差し伸べられた手から離しても、グラスは空中に静止したまま。決して地面に落ちはしない。砕けて壊れる自由など、咲夜の世界には必要でないのだ。押し留められた死がもしつくり出せるものであるとするのなら、今このときがその真似ごとだ。いつでも好きにつくり出して見せる。

 ある物書きに神さまは数万巻の書物と、同時にそれを読むことを許さない盲目とを彼に与えたのだと、そんな話を知っていた。十六夜咲夜は彼に似ていた。神さまは『レミリア』を殺し得る愛情と、同時に『ご主人さま』を殺させないためのささやかな憎悪とを同時に食まなければならないアイロニーを与えたのだ。

 次に月が満ちたとき、咲夜はまたレミリアを殺すことを考えるだろう。
 しかし、そのための銀のナイフを、彼女は自分の胸に突き立てることも当然、できる。グラスを壊してしまうよりもなお容易く、自分の命を喪わせてしまう試みが。

 ガラスが粉々に砕け散る音を想像して、咲夜の指先はぶるり、震えた。ありもしないナイフの空想に手を伸ばして、彼女の心はもう、主を殺すか自分を殺すかの間で、ばらばらになりはじめているのだった。咲夜がかなしい顔をつくったのは、後ろめたさのせいだったのだろうか。それとも、居もしない誰かに許しを請うていたからだろうか。

 月を探そうと、そう思って夜空を見上げたそのとき。グラスの縁――さっき、咲夜が唇をつけたところから新たにこぼれ落ちた滴が、音も立てずにテラスの床へと落下して、“砕けて壊れて”しまったことに、とうとう彼女は気づかなかった。
お読みくださってありがとうございます。
別のSSがいつまで経っても完成しない腹いせに書きました。
こうず
http://twitter.com/kouzu
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.730簡易評価
11.80名前が無い程度の能力削除
慎重に言葉を選んでいることがうかがえる繊細な情景描写が素敵。
その中で語られる咲夜の屈折した感情にゾクゾクする。
13.100夜空削除
不穏とも歪にも取れるねじれ曲がった何かは陳腐な一言で表してしまえば「love」なのだと感じたのですが
純文学的な言葉に込められた咲夜の想いが、まさに形容し難い形になって心をかきむしられるような気分でした
ある種一方的かつ独善的な片思いとも取れる咲夜の心情の動き方が、何とも言えない空気と共に伝わって来て非常に素晴らしいですね
数々の瀟洒な言葉のフィルターを通した形で提示された結末から香る余韻がとても素敵でした
14.70コチドリ削除
申し訳ない、正直ピンときませんでした。文章は相変わらず凄いと思うのですが。
『嘘と子宮』につけたコメントの一部がそのままこの作品に適用される形ですね。
咲夜さんの思考に対するバックボーンが足りていない。彼女がレミリアに対してその感情を抱くに至った経緯を
もっと読ませてくれ、みたいな感じでしょうか。

作者様が御自身の投稿された一連の作品に目を通されているならばおわかりになると思うのですが、
私は己の主観や知識を物差しとして作品を読み、なおかつその感想を押し付けるタイプの読者です。
「客観も個人から見りゃ主観の一種だろ」を免罪符として好き勝手な言葉を並べるね。
なので、イチャモンをつけられた時は、『まーたその場のノリで頓珍漢なこと言ってるよ』
とか思ってスルーして頂けるとありがたいです。


追記

本作品の読了をもって現時点で作者様が投稿されている作品の全てに目を通したことになるわけですが、
私が一番強く貴方の作品で印象付けられたこと、それは

「こうずさんのエロ描写はそそわナンバーワンや!」

モニタの前でずっこけていたらゴメンナサイ。でも本心なんです。
下世話な物言いでホント恐縮なんですが、私のあほな喩えで語らせて頂くと、
おっ勃つんだけど射精の衝動に結びつかない性描写といえばいいのかな。
とにかく勃起状態をいつまでも持続していたい欲求に駆られるのです。この感覚は非常に貴重だ。

勝手ついでといってはなんですが、最後に私が今後の作者様に望むことを一つ。
一人称で深く静かに潜行する物語で凄いのを書くのは理解したので、三人称・神の視点で天に向かって打ち上げる
花火のようなお話も一度読んでみたいです。
別に明るくなくても構わないんですよ、最後に拡散するような感覚を味わえればそれでいい。
そこで貴方がどういうキャラクタの描き分けをするのかに興味があるのです。
ぶっちゃけ今までの作品に登場する人物達は皆似通った思考をしてるように思えるので。

支離滅裂なうえに無駄な長文、誠に、誠に申し訳ありませんでした。
17.70保冷剤削除
いっこ上の方と同様の感想を抱きました。(いちねんまえ!)
憎悪やら懸想やらという言葉が踊っていますけど、行動も交わす言葉も丁寧すぎて、両者の仲はまるでグリスアップされたばかりの軸受みたいに上手く回っているようにしか見えず、またそうに違いない。咲夜さんの行動原理がコレだけでは見えてこない(別の作品を読んだ今ならば、割と想像がついていますが)。もっと多くの見方を試みる必要がある作品です。