§プロローグ
――なにが起こったというのだろう。
それが、稗田阿求がその本棚を見たとき最初に思ったことだった。
稗田家の敷地に建つ蔵の、一番奥にある作りつけの本棚。
そこにあるはずのものが見あたらず、代わりにひどくおかしなものが置いてあるのだ。
どうしてこんなところにこんなものがあるのかと、しばらくの間じっと本棚を見つめていた。やがてふと聞こえてきたフクロウの声に、怯えたように周囲を見まわす。
蔵の中はしんと静まりかえっており、賊が潜んでいるような様子はまるでない。だが考えてみればこの中に、誰かが人知れず忍び込んでいるはずなのだ。そうでなければ、本棚がこんなことになっているはずがない。
――もしかしたら、今もまだいるかもしれない。
そう思って、洋燈を提げながらおずおずと周囲を見て回る。
広大な蔵の中は、雑多な品物で埋めつくされている。
いたるところに置かれた行李、歴代の誰が着たのか思い出せない鎧兜、阿一が遺した十二単、阿余の姿が描かれた掛け軸。蔵は足の踏み場もないありさまで、稗田家千二百に及ぶ歴史がそこに詰まっているようだ。
けれどそのどこにも以前と変わった様子はみられない。それは阿求の求聞持の記憶に照らしてみても確かなことで、ただ奥まった場所にある本棚の、たった一ヵ所だけがどうしようもなく荒らされていた。
――やっぱり、変わってない。
蔵を一周して戻ってきても、目に映る光景は先ほどとなにも変わりなかった。夢でも幻覚でもありえない。誰かに荒らされた本棚を、天窓から差しこむ月明かりがあざ笑うように照らしていた。
そこは、阿礼の蔵だった。
歴代の御阿礼が残した書きつけや遺品が置かれている、稗田家の聖域。自由に立ち入ることができるのは幻想郷でも阿求だけ。鍵は常に彼女自身が管理しており、周囲にはあらゆる能力を遮断する結界が張られている。
だから、誰も入れるはずがない。
人間も、妖怪も、幽霊も、妖精も。
人知れずこの阿礼の蔵に入って、こんなことをできるはずがない。
棚のようすをもっとよく見ようと、阿求は浴衣の襟元を押さえながら足を一歩踏み出した。夏の宵ではあったが、結界のせいで蔵はひやりと涼しい。扉を開けたときにはその冷気が嬉しかったけれど、今となっては寒いくらいだ。だが、おずおずと棚に伸ばした腕が粟立っていたのは、きっと寒さのせいだけではないだろう。
荒らされているのは、本や巻物で埋まった本棚の最下段。
そこに収められていたはずの書きつけが見あたらず、代わりに一そろいの書物がそのスペースを埋めていた。本は何十冊とあるだろう、背表紙は同じ鳩羽色のデザインで統一されており、漫画のイラストと共に巻数表記が書かれている。
阿求は、その漫画に見覚えがあった。
以前紅魔館の図書館で読んだことがあるのだ。
本の一冊を選んで抜き取り、手にとってぱらりと開いてみる。抜き取られてできたスキマに、隣の本がことんと倒れかかる。
漫画の中では、箒のような髪型をした長身の男が、油汗を垂らしながら喋っていた。
『あ……ありのまま今起こった事を話すぜ! おれは奴の前で階段を登っていたと思ったら、いつのまにか降りていた。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……』
ジョジョだった。
阿求の書きつけの代わりに棚を埋めていたのは、荒木飛呂彦著『ジョジョの奇妙な冒険』ジャンプコミックス全六十三巻だった。
――なぜジョジョ。
それに、一体どうやって。
誰がなぜどうやって、この能力を封印する結界と施錠をくぐりぬけ、大事な書きつけを盗んでいったというのだろう。そうしてなぜジョジョを置いていったというのだろう。それも一部から五部までの全六十三巻。犯人は、どうやら六部『ストーンオーシャン』はジョジョに含めないという思想の持ち主であるらしい。
――どうしよう。
なにがなんだかわからない。
なにを考えたらいいのかもわからない。
だがただひとつだけわかっていることは、このままではとても困るということだ。ここに納められていた書きつけは、阿求にとって、いや求聞持の全員にとってとても大切なものだった。それは阿求が『幻想郷縁起』の取材をしたときの覚え書きで、御阿礼の子として必ず次代に残さないといけないものだ。
求聞持である彼女自身は、すべての物事を覚えているためメモを取っておく必要はまるでない。けれどそれも求聞持ひとりひとりの中でのこと。転生して代替わりをしたらほとんどの記憶を忘れてしまう。
だから御阿礼の子は、すべてを文字に残して死んでいく。
九代目阿礼乙女はこういう人間だった。こういう人生を送って、こういうひとと知り合った。そのとき幻想郷はこんな風で、文化や風習はこうだった。
そういったことのすべてを、未来の自分へ伝えるために。
御阿礼の子が、また同じ御阿礼の子であるために。
この阿礼の蔵はそのために存在し、そうして今阿求の前にある棚は、彼女から次の代に送るための棚だった。そのすり替えられた部分にあったのは、主に幻想郷縁起を書いたときにまとめた妖怪たちの記述部分だ。
なくては困る。とても困る。
でも、それで困るのは、おそらく幻想郷で自分ひとりだけ。
そんなものを、誰がなんのために盗んでいったというのだろう。
ぽかんと口を開け、阿求は脱力したようにその場にしゃがみこむ。ちゃんと考えないといけないと思いながらも、目にした光景のあまりの非常識さに、思考回路が働かない。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんでは断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わっていた。
阿求にとって、この蔵を荒らされたことはそれほどショックなことだった。
なんといってもここは稗田の聖域であり、求聞持の故郷のような場所なのだ。自分自身の過去の記憶、失われてしまった思い出が収められている大切な場所なのだ。
そこに、誰かが土足で踏み込んでいった。
手にもったジョジョをなんとなく広げ、阿求はぼんやりと視線をはわせはじめる。まるでそのどこかに犯人の名前が記されているとでもいうように、最初のうちはぱらぱらと、けれど気がつけば真剣に。
阿求はすっかり現実逃避して、肌寒い蔵の中で黙々とジョジョを読み進めていった。
そんな阿礼乙女の後ろ姿を、天窓から差しこむ月明かりだけが照らしていた。
§1
「――犯人は、八雲紫殿なんじゃないか?」
開口一番、上白沢慧音はそう云うのだった。
「あぁ、やっぱり慧音先生もそう思いますか?」
「まぁなぁ。理由も目的もわからないが、なんと云ってもあれだけ胡散臭いひとだ。なにをしでかしてもおかしくはないだろう。鍵なんて彼女の前ではあってないようなものだろうしなぁ」
慧音は親戚に不幸でもあったかのような仏頂面をして、ずずと湯飲みの緑茶をすすった。座卓を挟んで正面に座る阿求は、同じように紅茶をすすろうとしてあやういところで思いとどまる。紅茶を音を立ててすするのはマナー違反だと、仕入れ先の紅魔館では云っていたのだ。
「でも、結界はどうしますか? いくら八雲さまでもあの結界は破れないでしょう。四季さまから借り受けているものですよ。あれがある限り、八雲さまでもあそこでは能力が使えません」
「うーん、どうだろうなぁ……。それでもあの“境界を操る程度の能力”からすれば、なんでもありな気がするが……それにしても、阿求」
「はい?」
「“やっぱり慧音先生も”ということは、あなたも同じことを考えていたんだな」
「ええ、まぁ……」
おどけるように瞳を回して、阿求はうなずく。幻想郷でなにかが起きたとき、まず真っ先に疑われるのが八雲紫だろう。怪しいと云えばこの上なく怪しい、胡散臭いと云えばこの上なく胡散臭い。八雲の首魁に対するイメージは、幻想郷の住人の間で共通していた。
「でもわたしは、とりあえずあのかたは除外して考えたいのです」
「ほう? それはまたどうして?」
「なんと申しましても、稗田が今の形でいられるのもあのかたのおかげですから。それどころかこの幻想郷のすべてがそうじゃないですか。もしあの妖怪の賢者が犯人だったなら、その理由を考えるだけ野暮だと思うんです」
「ふむ……つまりこういうことか。八雲殿は存在自体が胡散臭いため、どんな事件でも犯人である可能性が常にある。だがもし彼女が犯人であった場合は、それを追求すること自体が無意味であるから、最初から彼女が犯人ではない場合に絞って考えたいと」
「そうですそうです、さすが慧音先生!」
内心で『あれ? わたしたちなんか八雲さまにひどいこと云ってる?』と自問しながら、阿求は気づかなかったことにして上品に紅茶を飲み干した。
それは彼女が蔵へとでかけ、後に『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』と呼ばれるこの事件が発覚した翌日のこと。
これは自分ひとりの手に負えないと思った阿求は、稗田の者たちに相談したあと、里の賢者と呼ばれる上白沢慧音に相談をもちかけた。寺子屋で読み書きそろばんを教える慧音は半人半妖のワーハクタクで、人間の味方でありながら妖の世界にも通じる武芸者だ。稗田にとって一番の協力者と云ってもいい存在だった。
季節は水無月の終わりごろ。
稗田本宅の客間もお昼時となれば蒸し暑く、縁側にかけられたよしずから吹きこむ風は生ぬるい。ちりちりと風鈴が鳴る音も、さやさやと葦と葦がこすれる音も、今を盛りと鳴きわめく蝉の大合唱を背景にしては、涼を感じるにはいささか足りない。
縁側では、阿求の家族とも云える猫の尾白が、よしずの間から庭を警戒するように眺めている。普段は触ると心が暖まるもふもふとした生き物も、この気温では視界に入るだけでも暑苦しい。
ああ、いっそ現場検証を口実に、阿礼の蔵まで涼みにいってしまおうか。そんな罰当たりなことを考えて、阿求はくちゃんとくしゃみをした。
「おや、夏風邪でも引いたか?」
「う……そうかもです。昨日ちょっと、蔵に長いこといたので……」
「ふむ、まぁ色々調べていたのだろうが……気をつけるんだぞ、あなたも身体が弱いんだから」
「はい」
こくんと素直にうなずいて、小さなくしゃみをもうひとつ。
だるいのは寝不足のせいかと思っていたけれど、どうやら風邪の引きはじめであったらしい。起きたときよりよくなってはいたけれど、蔵に涼みにいくのはやめたほうがいいだろう。
そう思ってげんなりとしながらも、阿求は慧音の言葉に後ろめたさを感じていた。昨日蔵に長くいすぎて体調を崩したのは、なにも謎を調べていたからじゃない。ただ手をとめるタイミングがみつからなくて、ずっとジョジョを読んでいただけだ。
「それで、なにか気づいたことはあったのか? 今わかっていること以外に」
「ないですねぇ、だからこうして慧音先生にお越しいただいている次第で。なにかお考えはありませんか?」
にっこりと笑ってうそぶくと、慧音は唸りながら立ち上がる。そのまま床の間まで歩いていき、床脇の地袋をがらりと開けた。
「鍵は、前回使った後からずっとここにあったと云うんだな」
「ええ、昨日の晩、蔵に行くために取りだしたときには、前回と同じ状態で置いてあったんですよ」
地袋の中、小さな行李や布包みの横に、萌葱色をしたきんちゃく袋がおいてある。慧音が紐をゆるめて中を覗くと、そこには阿求の手のひらに収まる程度の、古錆びた鍵が入っていた。
「ちなみに、紐の角度とか袋の潰れ具合まで、前回置いた状態のままでした。だから誰も触れていないんじゃないかと思って」
「そこまでわかるのか? だが前回この鍵を取りだしたのは一週間前だと云っただろう。どうしてそこまで……ってそうか、あなたならはっきり覚えているか」
「はい、求聞持ですから」
一度みた光景は、決して忘れない。
それは求聞持である阿求にとっては当たり前のことだ。
その記憶に照らし合わせる限り、昨日鍵を取り出す前のきんちゃく袋の映像と、一週間前に鍵を置いたときの映像は同じものだった。
「で、この鍵がなければ蔵のかんぬきは開けられず、かんぬきも昨日みたときは無理にこじあけられた形跡はなかったと」
「はい、そういう痕跡がなかったことも、間違いなく云えます。蔵の中、棚以外の状態も一週間前と同じでした。もっとも、入るたびに全部を見回してるわけじゃないので、確実ではないですけれど」
「なるほど。この鍵は出かけるときにどうしてる? ここに置いたままか?」
「いえ、出るときは持っていきますね。留守の間なにが起きるかわかりませんし、誰かに勝手に入られやしないかと不安なんで……あそこはなんていうか、わたしにとってプライベートな場所なんです」
「そうか……」
つぶやいて、慧音はふと昔を懐かしむように宙を見上げた。
「そう云えば、先代の阿弥も蔵に関しては同じようなことを云っていたなぁ」
「あ、そうですか。まあ、わたしはわたしなので大体同じなんじゃないですか」
「うん、だが妖怪の尺度で考えているとたまに勘違いするんだよ。どうしてあの話を覚えてないのだろうと思ったら、前代と話したことだったりな」
「ああ……まぁ、仕方がないですね」
阿求は諦めたように肩をすくめる。普通の人間は完璧な記憶を持っていないのだから、思い出の中で記憶がごっちゃになっても仕方がない。
けれどわかっていても、阿求の胸はちくりと痛んだ。
慧音が話した内容のせいではない。その内容を、自分が覚えていないことが悲しい。
御阿礼の子は生きている限り完全な記憶を保持するけれど、死んでしまえばその大半を忘れる。求聞持としての能力と一部の記憶のみを引き継ぎ、ただ幻想郷縁起を書くための生を送り続ける。そんな終わらない輪廻の果てに、阿求はときどき自分が誰なのかわからなくなるのだ。
はたして自分は九代目の御阿礼の子なのか、それともただの阿求なのか。
慧音と話したことを忘れてる自分は、本当に阿弥と同じ人間だったのか。
特にさっきのように先代の誰かと勘違いされ、自分がそれを覚えていないとき、阿求はよく足下にぽかりと空いた穴を幻視する。少しでも足を踏み外したらそのまま真っ逆さまに落ちていきそうで、ぎゅっと目をつぶって見ないふりをする。
そんなとき彼女の脳裏に浮かぶのは、あの阿礼の蔵だった。
あそこには、自分が自分であったことを証明するものがちゃんとある。歴代の求聞持たちが残した思いが、人生が、記憶が、文字となって残されている。
あそこは過去の自分と今の自分を繋ぐ、か細い糸だ。遠く海のむこうに眺める故郷だ。あるいは自分がそこから産まれたのだと思えるような、母の胎内にも似た場所だ。
だから阿求は犯人を許せなかったし、悲しかった。
鍵が掛かっているのに、結界が張られているのに、勝手に入らないでと全身で主張しているのに。犯人はそんな阿求の意志をすべて無視して、彼女の大事な場所に入りこんでいったのだ。
「しかし、うーん……犯人、犯人かぁ……」
「わかりませんか……」
「わからないというか、そもそもそいつはどうやって蔵の中に入りこんだんだ? 鍵はここにあった。一週間前に取りだしたときと同じ状態で。だったら鍵が盗まれていたと考えるのは難しいだろう。ならばなにかの能力を使って入ったのか? だが蔵にはあらゆる能力を無効化する四法印の結界が張られている」
蔵は一辺が十五メートルほどもあり、ほぼ正立方体の形をしている。そうしてその蔵を取り囲むように二十メートル四方の結界が張られていて、その内部ではどんな妖怪も持って生まれた力を使えず、体力も人間並になってしまうのだ。
飛ぶことも、特殊能力を使うことも、魔法を使うことも、できない。
「誰も蔵に入れないじゃないか!」
――だから。
だからあなたに相談しているんです、と阿求は思った。
「そうだ、容疑者のようなものはいないのか、怪しい奴は」
「怪しい、ですか? それはこんなことをしそうなひと? それともできそうなひと?」
「両方だ」
「うぅーん……あんまり考えたくはないですが……」
慧音と同じように腕組みをして、阿求はうなる。
「しそうなひとという観点からすると、かいもく見当がつきません。そもそも犯人の目的がわたしの書きつけを盗むことだったのか、それともただ単に蔵を荒らしたいだけだったのか、はたまたジョジョをあそこに置くことだったのかすらわかりませんし」
「そうか、そうだなぁ……なにかその、ジョジョのほうに心当たりはないのか。理由もなくそんなことをするとは思えんし、手がかりになりそうな気がするが」
「いやー、ジョジョに心当たりなんてないですよぅ。まさかわたしの頭をジョジョで満たすことが目的だとは思えませんしね」
「ああ、満ちているのか、大変だな」
「ええ、なにせ完全記憶ですから。書き損じをくずかごに投げ捨てようとして外したときとか、思わずスタンドを出そうとしてしまいます」
あれ? どうしてスタンド出ないんだろう?
今朝遅く、眠い目をこすりながら起きてのち、阿求は何度もそう思ったものだった。がんばって出してみようとして、部屋でただひとりジョジョ立ちしながら力んでみたこともある。
能力はあるのだ。みたものを決して忘れないという、求聞持の能力が。あとはその能力を具現化するイメージがあればいいのに、それが不思議とスタンドになってくれないのである。
一晩ジョジョ尽くしだった阿求にとって、ひとがスタンドを使えるというのは当たり前のことになっていた。
「『ブラッディ・アレイ』というのはどうですかね?」
「なにがどうなんだ?」
「スタンドの名前です。もしだせたとき格好良く云うために、今から決めておこうと思いまして。一応、阿礼と“隊列を整える”という意味のarrayをかけているんですが」
「阿礼はブラッディだったのか、まさかあの初代がそんなバイオレンスだったとは知らなかったな」
「そこはただの語感ですよ、黙々と古事記とか書いてた阿礼が血みどろのはずがありません。あとこのスタンド、多分歴代の御阿礼が全員でてくるタイプだと思うんですよね」
「それは中々便利そうだが、スタンドはひとり一体のはずだろう。反則じゃないか」
「えー、でもみんなわたしなので、一体ということでいいんじゃないですか。それにそんなこと云ったら、形兆の『バッド・カンパニー』はどうなります?」
「あれは『一体』ではなくて『一隊』だという語呂遊びじゃないかと思うんだ」
「それは屁理屈ですよ。そもそもしげちーのハーヴェストだって――」
そうして、延々とジョジョ談義がはじまった。
主な論点は、『スタンドはひとり一体』という設定の矛盾。ホリィさんが発現させようとしたスタンドはどのようなものだったのか。毎回いつかカーズが降ってくるのではないかと予想して裏切られる寂しさ。エシディシやワムウは消滅したのに、なぜサンタナは未だに石になって生きているのだという突っこみ。
庭の鹿威しがかこんかこんと何十回か鳴り、稗田の女中が何回かお茶のお代わりをもってきて、猫の尾白が呆れ顔をしながら尻尾をふりふり去っていったころ、とりあえず『大人はうそつきなのではない。ただまちがいをするだけだ』という結論に落ち着いた。
「いやぁ、見事に解決しましたね。ありがとうございました」
「そうだな……って違うだろう。なにも解決していないだろう」
「だってぇ、わからないんですもんっ」
組んだ手をぶんぶんと左右にふりながら、阿求は可愛い子ぶるように云った。それを鼻白んだ目でみつめ、慧音は深いため息をつく。
「たしかにわからないが……さっきの容疑者選定の話はどうなっている。動機から絞りこもうとするとよくわからなくなるが、機会という面ではどうだ」
「んー、でもあの鍵と結界をどうにかできない限り、機会があってもどうしようもないのでは?」
「だがそれを考えているといつまでたっても先に進まないからな。そこはどうにかできると仮定しての話だよ。たとえばこの一週間、稗田邸を訪ねてきた妖怪や人間はどれくらいいる?」
「うーん、そうですねぇ」
つぶやいて、記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。
「わたしが把握している限りでは、まずは永遠亭の薬師うさぎのふたり組。お洋服の仕立てをお願いしていたアリスさん。買い物帰りによってくださった咲夜さん。とある相談にこられた魔理沙さん。山で起きた事件についてわたしをあてにしてこられた文さん、それと――いえ、それくらいでしょうか」
「ほう、なかなかに千客万来じゃないか」
顔をほころばせながら、慧音は嬉しそうにうなずいた。
「ええ、まぁ……」
対して阿求は、なぜか顔を赤くしながらもじもじと腰を揺すっている。
「ん? どうした阿求?」
「いえ、なんでもないです。いや、みなさん本当によくしていただいて。百年前では考えられないことですね」
「ああ、まあそうだなぁ、やはり博麗の結界や命名決闘法案の影響かな。確かにこの幻想郷も平和になった」
阿求の反応に首をひねりながらも、慧音はとりあえず受け流すことにしたらしい。
「それで、その者たちになにか怪しい様子はなかったか? あるいは鍵を盗むような機会は?」
「そうですねぇ、怪しいと云えば文字通り妖しいのが妖怪さんですし……機会があったかと問われると、あったようななかったような……?」
「なんだ、珍しくはっきりしないな阿求」
苦笑する慧音に阿求はすっくと立ち上がり、部屋を仕切るふすまのほうへと歩いていく。
「いえね、まず基本的にわたしは、家にいるときにはこっちの書斎にいることが多いのですよ」
「ああ、あなたは昔からずっとあそこにいるな」
「ええ」
うなずいて、がらりとふすまを開ける。
そこには客間より一回りほど大きな書斎が広がっていた。
およそ十二畳ほどだろう。奇麗に片づいた客間と違って、書きつけや書物、筆や紙やさまざまな什器であふれかえり、足の踏み場もない有様だ。
「しかし、相変わらず整頓が下手だなぁあなたは……」
「なにを仰いますか。これですべてが最適な場所にあるのですよ。どこになにがあるのか完全にわかっているのに、どうしてわざわざ片づけないといけないんです」
喋りながらもひょいひょいと進んでいく阿求。その迷いのない足取りからすると、先ほどの言葉もあながち出任せというわけではないのだろう。
「で、普段はこの付書院に座っています」
客間とは反対側に設けられた床の間の横、縁側に出窓のように張り出した付書院まで歩いていって、座布団にぺたりと座りこむ。
張り出し部分はちょうど文机ほどの高さと奥行きがあり、その上で書き物や読書ができるようになっていた。開け放たれた書院障子のむこうに、青々と茂る日本庭園が広がっている。そこから四季移り変わっていく庭の景色を眺めることは、阿求にとって日々の楽しみのひとつだった。
その付書院の天板に頬杖をついて、阿求は困ったように溜息を漏らす。
「正直ね、ここにわたしがいる間、こっそり客間でなにかやられても気づきませんよ。いくらわたしでも、意識に上らない記憶は残りません。そういう機会なら、訪れたかたみんなにあったと云わざるをえないです」
「うーむ……」
「それにみなさん妖怪ですし、それこそ八雲さまじゃないですけれど、やろうと思えばなんとでもなっちゃうんじゃないですか? アリスさんならわたしと話している間にお人形さんで盗めるかもしれませんし、鈴仙さんなら狂気の瞳で幻覚を見せることができるかも。そういうことを疑いだしたらきりがないです」
「そうか。蔵とは違って、こちらは能力が使える分なんでもありということか」
「ええ」
「しかもあなたが把握していない侵入者がいた可能性も否定できないしなぁ……」
「あ、でもそれはどうでしょう?」
「ん?」
阿求の言葉に慧音が首をかしげたそのとき、ふいに障子のむこうから誰かの声が聞こえてくる。
「いや、怪しい侵入者はいなかったと断言できるよ」
がらりと障子が開けられて、一匹の猫が姿を見せた。
天鵞絨のような毛並みをもった美しい黒猫で、無惨にも右目が潰れて疵痕になっている。だが残された片目は知性の色をたたえて輝き、ぴんと伸びた尻尾はともすれば二本あるようにもみえた。
猫の名前を目占《めうら》と云う。
阿求がまだ幼児だったころに軒下でひろった黒猫で、以来彼女を主として仕えてきた忠臣だ。稗田に籠もる霊力に当てられたのか半ば化猫と化しており、高い知能と霊力を持っていた。目占は尾白や黒檀など自らの眷属を率いて、稗田家警護の番猫隊を結成しているのだった。
「なに? この猫はしゃべれたのか。おまえ、普段私の前ではだらだら寝てばかりいたじゃないか」
「はは、ふりだよふり。あなたもたいがい単純だな慧音先生。猫の態度と女の涙は簡単に信用してはいけないよ」
「なんだと?」
大げさに眉を上げる慧音に、阿求はたもとで口を隠してくすくすと笑った。
「ふふふ、慧音先生だからお教えするのですけど、この目占は常に稗田の家を守ってくれているのですよ」
誇らしげに胸をはってそう云うと、目占はとことこと彼女の元へとやってきて、当然のようにその膝の上に座るのだった。
――ああ、暑い。ひっつかないで。
思わず振り払おうとした阿求だったけれど、まるでここに座るのは自分の権利だとでも云うような座りっぷりに、つい苦笑しながら許してしまう。なんといっても昔から自分のために尽力してくれている猫なのだ。邪険にするなどできっこない。
「ははは、そうだったのか。道理で訪れるたびに見かけるわけだ」
「ああ、あなたの霊気は真っ直ぐでとてもわかりやすい。だからわざわざみにいく必要はないかとも思うが、霊気を偽装できるような存在がいないとも限らないからな。念のため確認しているのさ」
「ほう……」
「黙っていてごめんなさい。実はこの子には、あらゆる霊力を認識する能力があるんです」
それはあらかじめテリトリーとして定めた空間の中に、霊力が存在しているかどうかを探知できる程度の能力だ。もっとも、そこに霊力があるかないかがわかるだけで、具体的にどこにいるかまで把握できるわけではない。
さらにこの能力にはどうしようもない限界があった。力ある妖怪なら自らの霊力を隠すこともできるし、目占が云ったようにそれを偽装できる存在がいないとは限らないということだ。
だからこそ目占は、人前では無力な家猫としてふるまっている。
周囲にただの猫だと思われていれば、警戒して霊力を隠される恐れはない。この能力が本当に力を発揮できるのは、相手がそれを知らない場合に限られているのだから。
その存在を知っているのは、四季映姫・ヤマザナドゥや八雲紫など、稗田のスポンサーとも云える勢力の長や、一部の近しい妖怪だけだった。
「なるほどなぁ、しかしそうなると……どうなる?」
「少なくとも私が把握している限り、この一週間で怪しい侵入者はひとりもいないんだ」
「つまり容疑者になりえるのは、永遠亭のうさぎさんふたり、アリスさん、咲夜さん、魔理沙さん、文さんの六人だけということに」
ふとひげをしかめさせた目占を抱きしめ、阿求は言葉を継ぎ足した。
「もっとも、それも完全じゃありません。常にそれ以外の可能性も残されています。目占の力を知っているひとがいるかもしれませんし、悪意をもって侵入しようとするときは霊気を消そうとする相手かも知れません」
「そうだな。だがまあ、それはとりあえず横に置いておこう。あらゆる可能性を考えすぎても前に進めない」
「はい。八雲さまの隣においておきますね」
くすくすと笑いながら阿求は云う。
けれどその笑いも、すぐに引っ込んでしまった。
未知の悪漢の存在を想定しないなら、犯人は先ほどの六人の誰かということになる。それを想像すると、阿求の胸の奥から悲しみの感情がわき上がってくるのだった。
アリス・マーガトロイド。
霧雨魔理沙。
十六夜咲夜。
射命丸文。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
因幡てゐ。
誰も彼も、彼女にとっては大切な友人たちだった。
永遠亭のふたりは身体の弱い阿求のことをなにかと気遣ってくれるし、紅魔館に取材に訪れたおりに仲良くなった咲夜は、忙しい用事の合間を縫って会いにきてくれる。
文とはときに『真実』の扱いについて議論になるけれど、言葉で世界を切りとることの難しさについて朝まで語りあったこともある。アリスはアリスで、抹香臭い稗田邸に洋風文化を持ち込んでくれる天使だと認識しているし、里を飛びだしてたったひとり生きる魔理沙の存在は、阿求にとって自由の象徴ですらあった。
――だがその中の誰かが、大切な場所を土足で踏み荒らしていったのだ。
「……大丈夫か、主」
阿求の様子に不穏なものを感じたのか、膝の目占が伸びをして、ぺろりと頬を舐めてくる。
「ありがとう……大丈夫よ」
思わず暑さも気にせずぎゅっと抱きしめた。拾ったときには今にも死にそうだった子猫が、こうやって大人になって自分のことを慰めてくれる。そのことが、泣きたくなるほど嬉しい。
自分はひとりじゃないのだと、流れゆく時間の中で世界との絆を保てているのだと、そう思うことができたから。
ふと顔を上げると、穏やかな顔で自分を見守る慧音がいる。
里を守り、子どもたちに知識を与え、稗田家にも庇護を与えてくれる慧音は阿求にとって親代わりとも云える存在だった。本当の親は代が変われば死んでしまうけれど、慧音はいつだって里にいて新しく成長していく自分のことを見守ってくれる。
今だって。
きっと百年前だって。
そのさらに百年前だって。
こんな暖かな笑顔を、自分にむけて浮かべてくれたに違いない。
阿求はもう、全部忘れてしまったけれど。
「……慧音先生、今一度力を貸していただけますか。わたし、犯人をみつけないといけないと思うんです」
目占がいる。慧音がいる。阿求として産まれてから仲良くなった、色々な人間や妖怪が周りにいる。
自分はそれなりに上手くやってこれたのだと思いたい。阿礼でもなく阿弥でもなく、阿求として産まれたこの生が、正しかったのだと思いたい。そのためにも、この事件の犯人を捜したいと思った。周りのひとを疑い続けないために。
「ああ、手伝うよ阿求。なんだって、あなたのためならば」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべた阿求の前で、慧音は腕組みをして唸る。
「だが実際問題どうする? 容疑者は絞られたと云っても、その中の誰が犯人なのかはさっぱりわからない。鍵や結界のこともあるしな。まさかひとりひとりとっちめていくわけにもいくまい」
「それは……」
つぶやいて、阿求はふと書院障子の空を見上げた。
「実は、もうひとり相談したいひとがいるんです。そのひとなら、必ずわたしの味方になってくれると思うんです」
「ほう……誰だそれは」
慧音の言葉に、阿求は顔中を真っ赤に染める。
「――パチュリー・ノーレッジ。紅魔館の魔女さんです」
空を眺めながらそう云って、コンと小さく咳をした。
§2
「――というわけなんです」
「なるほど、謎は全部解けた。犯人はスキマね」
阿求の説明を聞き終えた瞬間、パチュリー・ノーレッジはそう云って本に手を伸ばした。
「ちょっと! もっとちゃんと考えてくださいよぅ」
ページを開こうとした魔女の手を、阿求は頬を膨らませてぺちんと叩く。パチュリーはにやりと笑って手を振ると、安楽椅子をギィギィ揺らした。
「なによ、ちゃんと考えたでしょう? これはスキマの仕業よ、間違いないわ」
「いいえ絶対考えてませんっ。もう、本当にひとの話を聞いてくれないんですから」
「失礼ね、聞いてたわよ。スタンド名はブラッディアレイなんでしょう? いいじゃない格好よくて。私もよく呪文の名前考えるのに徹夜したものだわ」
「なんでそんなとこだけ覚えてるんですかっ!」
笑いながらぽかぽか肩を叩くと、パチュリーは鬱陶しそうに眉をしかめる。けれどその口元には笑みが浮かび、どれだけ叩かれても文句ひとつ云うようすがない。ふたりの間には親密な空気が漂い、互いの口から飛び出す文句は睦言にしか聞こえない。
そんなふたりを眺めていた慧音が、あっけにとられた顔でつぶやく。
「……なんだあれは、あの阿求は誰だ」
「ああ、あの魔女といっしょにいると、最近主はいつもあんな感じだ。まったく暑いな今日は」
慧音の膝で、ふぅと溜息をつく目占。けれど紅魔館の図書館は、いつもどおりパチュリーの魔法で快適な涼しさなのだった。
それは阿求と慧音の会合があった翌日のこと。
阿求はパチュリーと事件のことを相談するため、慧音や目占と共に紅魔館までやってきたのだ。
「ほう、知らぬ間に阿求にも春がきていたか。どうりで最近ひどく色っぽくなったと思っていたがなぁ」
「そうだろうそうだろう。今日なんて出かける前に着物の柄で小一時間悩んでいたよ。朝顔だろうが牡丹だろうが、どうせあの魔女には『キモノね』で終わりなのにな」
「ちょっとそこ、聞こえてますからっ!」
阿求は顔を真っ赤にして叫ぶ。
正直、慧音を連れてくるべきじゃなかったと後悔していた。
親代わりとも云える慧音に茶化されると、なんだかひどく恥ずかしい。もしかしたらこんなことが過去にもあったかもしれないと思うと、転生のたびに記憶を失うのも悪くないと思えてくる。
「あ、阿求……ええと、その牡丹と扇柄の着物、とても素敵ね……青地に散った四菱が雲みたいに爽やかだわ」
「そんな、無理に誉めなくてもいいですから……」
つぶやいて、はぁと溜息をついた。
たまにどうしようもなく空気が読めなかったりするけれど、そんなところも含めて阿求はこのパチュリーのことが好きだった。
そうしてパチュリーも、阿求のことが好きだと云ってくれた。
けれど阿求は、ときどき自分が今パチュリーとつきあっていることが、信じられなくなるのだった。なんといっても出会いのころからすれ違いの連続だった。一体いつどうやって心を通い合わせるようになったのか、思い出そうとしても記憶は過去という迷宮の中に入り込み、中々見つけられなくなってしまう。
阿求とパチュリーは、まるで運命に導かれでもしたような巡り合わせで、互いに惹かれあっていったのだった。
* * *
求聞持と云えば文机の前で唸っているイメージが一般的だが、実際のところそれだけではない。
幻想郷の民族誌をまとめるにはフィールドワークを欠かすことができず、そのため阿求は頻繁に旅にでかけていく。一度見たものを忘れないという求聞持の能力は、直接見聞きしたものを書にしたためるときにこそ、十全に効果を発揮するのだ。
だから最近幻想郷に現れたらしい紅魔館という屋敷にも、阿求は直接出向いていった。
そうして見た瞬間、その優美なたたずまいに圧倒された。
バロック様式の流れを汲むらしい、煉瓦造りの華麗な洋館。高い尖塔の天辺には鐘楼が置かれ、アーチを描くファサードに華麗な装飾が彫られている。柱に住まう彫刻は、幻想郷でついぞ見かけたことがない奇怪な化け物ガーゴイル。窓枠の桟は曲がりくねり、流麗な唐草文様を描いている。
まるで阿弥のころに憧れた、想像の中の鹿鳴館のようだと阿求は思った。
あれももう、百年以上も前になる。
開国以来この国にも西洋文明は次々と押しよせていたけれど、それはあくまで東京や神戸など都会の話。いくら当時は博麗の結界がなかったといっても、はるか東北の片田舎にあるこの幻想郷にまで、そのような風俗は届いていなかった。
どれだけあのひらひらしたドレスに憧れていても、コルセットで締められた細い腰に興奮しても、ただ『少女界』や『少女の友』に載ったモノクロ写真や挿絵を眺めることで満足する他はない。阿弥として死ぬ間際、自分が『一度でいいからあのふりふりを着てみたい』と思っていたことを、阿求はおぼろげながらに覚えていた。
そんな幻想の西洋館が、今現実となって目の前にあるのだ。
けれど阿求が圧倒されたのは、その建物だけにではなかった。
「ようこそ紅魔館へ、どうぞお通りくださいな。友好的なかたならいつだって歓迎していますから」
すらりとした長身の門番は、そう云って優雅に一礼した。
バランスのとれた体幹と、ほどよく引き締まった手足。ひとめで武道の達人とわかる女性の健康的な美しさに、阿求は自分の身体の貧弱さを嘆いた。
「紅魔館へようこそ稗田阿求さま。お噂はかねがね伺っております」
開いたドアの先にいたのは、目を瞠るほど可憐なメイドだ。
はしごレースを施した別珍ヘッドドレスと、ふわりと花のように膨らむ黒白のジャンパースカート。ヨーク部分にもフリルをあしらい、パフスリーブになった袖口をリボンを通して結んでいる。それをみていると、自分が着ている一番上等な加賀友禅も不思議とみすぼらしく思えたのだった。
一体あのスカートはどうしてあんなに膨らんでいるんだろう。中になにが入っているんだろう。夢? 希望? それとも憧れ?
編み上げになった背中のリボンを眺めながら、阿求はぼんやりとそう思う。
「本日は当主レミリアにご用とのことでしたけれど、申し訳ありません、当主は昼間は休んでおりまして……」
「は、はい! そうですかごめんなさい!」
「それで当主の友人であるパチュリー・ノーレッジの元にお通ししようと思います。彼女でも、いえ、むしろ彼女のほうが稗田さまの用向きには足りると思いますので」
「は、はい! そうですかごめんなさい!」
「ふふふ、緊張されてます?」
「は、はい……いえ……はい……」
メイド長は振り返ってくすくすと笑う。そうすると怜悧な瞳が途端に穏やかなものになって、それだけで阿求は魂を抜かれた気分になってしまった。同じ女なのに、まるで違う生き物だとしか思えない。それは阿求の実年齢は十と少しでしかないけれど、どれだけ年と転生を重ねてもこんな風になれるとは思えなかった。
屋敷の中をどう歩いていったのかは、なぜかまったく覚えていない。気がつけば阿求は飴色に光る扉の前に立っていて、メイド長がノッカーを叩く音を聞いていた。
「客人をお連れしました。パチュリーさま」
その瞬間、扉のむこうで錠が外れる音がする。返事はなにも返ってこないまま、両開きの扉がゆっくりと開く。その二枚の扉が、自分を飲み込もうとする獣の顎のようだと感じていた。
――正直、帰りたい。
こんなにどこもかしこもきらびやかなこの場所は、自分がいるべき場所じゃない。そう思って阿求は、持参した風呂敷包みをぎゅっと握りしめた。中には自己紹介代わりに渡すつもりで持ってきた、過去の幻想郷縁起が入っている。歴代の自分たちが、阿爾や阿余や阿夢や阿弥たちが、命を費やしてきた仕事の精髄が入っている。
でもそんなもの、ここでは取るに足らないものかもしれない。
なんてみすぼらしいものだと笑われるかもしれない。
――そんなのは、嫌だ。
けれど帰るタイミングはつかめないまま、阿求の前で図書館の扉が大きく開いた。
一瞬、中に誰もいないのかと思った。
広大な図書館は果てもみえず、どこまで続いているのかまるでわからない。天井ははるか高みまで続いて闇に消え、そびえたつ本棚は互い違いに折り重なって複雑な立体迷路を作り上げている。魔法でできた灯りなのだろう、そこかしこに光る球体が浮かんでいるけれど、お日様のようなその輝きも闇を照らしきるにはまるで足りない。
そんな図書館に入ってすぐ近く、読書スペースのような一画が設けられていた。マホガニーの重厚な書き物机に、天鵞絨張りの赤いソファ、猫足をもったローテーブル。来客用なのか椅子も何脚かおかれていて、その場所にだけほんの少しの生活感が感じられた。
――でも。
なんであの安楽椅子にはお人形が座らされているんだろう。
小首をかしげながら、阿求は暖炉脇の安楽椅子をみつめていた。
そこに人形なんだか人間なんだかわからない、ひとつの美しすぎる物体が座っているのだった。
白い肌、すべすべとした頬、桜色の小さなくちびる。等身大の人形のようにみえた。だって生きている存在にしては、その桔梗色の瞳はあまりにも深く奇麗すぎたから。そうしてそんな錯覚を肯定するように、パチュリー・ノーレッジは膝の本に視線をむけたまま、ぴくりとも動こうとしなかった。
だから、彼女がぐりんとこちらに顔をむけたとき、阿求は腰を抜かしそうになったのだ。
「うわ、動いたっ!」
「誰――?」
つぶやいた魔女が、口を開けたまま驚いたように目を見開く。その瞳がいまにもこぼれ落ちてしまいそうなほど大きくて、阿求は腰を引いたまま魅入られたように動けなくなった。
「あなた……稗田阿求ね?」
魔女はパタンと本を閉じ、ふわりと浮き上がって飛んでくる。くらげのように空中を漂い、阿求の目の前に着地した。
「わわわ、わたしのことご存じでっ!?」
「ええ、天狗の新聞で読んだの。……面白かった」
口の中で一言二言つぶやくと、魔女の手のひらにブオンと音を立てて一枚の新聞が現れる。「これでしょう?」と訊ねながら、阿求の前につきだした。
「あ……これです、はい。この九代目阿礼乙女の稗田阿求です。よ、よろしくおねがいします」
なんだか間抜けな自己紹介になったなぁと思いながら、なんとなくその新聞を読み返す。内容は一字一句覚えているけれど、こんな場所でこんなひとからみせられると、なんだか少し不思議な感じがした。
その新聞は天狗の射命丸文が発行したもので、御阿礼の子という存在の紹介と、阿求の生誕を祝って御阿礼神事が行われたことが書かれている。もちろん発行されたのは十年以上前で、そのときパチュリーのもとに記事が届けられているはずはない。
おそらく最近幻想郷にやってきたあと、なんらかの方法で収集したのだろう。改めて周りを見まわすと、図書館の中には天の川もかくやという数の本がある。これは一筋縄ではいかないと、阿求はごくりとつばを飲みこんだ。
「それにしても、本当にあなたってこの記事どおりなのね。興味深いわ、面白いわ」
まるでショーケースのマネキンを眺めるように、パチュリーは一歩離れた場所からまじまじと阿求をみつめる。ふと記事に載った写真と見くらべて、細い首をこくんとかしげた。
「でもどうして記事と同じ童女の姿をしているの? この新聞は随分前のものなのに。人間は十年もたてば違う姿になるはずだわ。もしかしてその姿で産まれてくるの? どうやって? キャベツ畑でうずくまってるの?」
キャベツ畑ってなんだろうと思いながら、阿求はようやく口を開いた。
「あ、あの……ごめんなさい。その写真、じつはわたしじゃなくて先代の阿弥のものなんですよ」
「そうなの? ふーん、それにしてはそっくりね。髪の長さは違うけれど」
「ええ、記事を書いた天狗の文さん的には『どうせ同一人物でそっくりなんですし、構いやしません。しわくちゃ赤ちゃんより綺麗な阿弥のほうがキャッチーでしょ』なんだそうで……」
はぁと溜息をついて阿求は答える。
真実をありのままに記憶し記録する求聞持としては、彼女の思想は到底受け容れられないものだった。当時阿求は生まれたばかりで、文句のひとつも云うことができなかったけれど、記憶にはしっかりと残っているのだ。
「なによそれ、前々から思っていたけれど、あのブン屋は相当ひどいものね。文章に対する責任をどう思っているのかしら」
「そ……! そうですよねっ! ひどいですよね!」
阿求は思わず顔を輝かせながらつめよった。こんなところで意見があうひとに出会えるなんて思わなかった。
「それにこの記事、他にも間違いだらけなんですよ。わたし過去の記憶はそんなに引き継いでないですし、転生の術だって自分で会得してるわけじゃないんです。本当に適当に書くんですよあのひと。まぁ頭脳明晰っていうのは本当ですけど」
「ふふ、そうみたいね」
おかしそうに笑う声に、はっと自分を取り戻す。いつのまにか握りしめていたパチュリーの手を離し、阿求は慌てて後ずさった。
「ご、ごめんなさい、とんだ失礼を……」
かしこまってお辞儀をすると、魔女は嫌そうに鼻をならした。
「そういうのいらない。礼とか挨拶とかどうでもいい。いいからそこに腰掛けて、私の質問に答えなさい。あなたには聞きたいことが山ほどあるんだから」
――あれ? 取材にきたのはわたしのほうじゃなかったっけ。
そんなことを思いながら、阿求は云われるままに腰をおろした。ふかふかのソファは沈みこむようで、普段あまりすることがない体勢に少しだけ居心地が悪い思いがした。
魔女が云うには、彼女は以前から阿求のことが気になっていたらしい。
紅魔館の頭脳として、幻想郷のことを調べるのにこれ以上ない研究対象だと思っていた上、読書家としても同一人物の手になる特異な年代記『幻想郷縁起』に魅力を感じていたようだ。
持参した過去の幻想郷縁起を手渡すと、彼女は本当に喜んでくれた。
それまでの仮面めいた無表情を突然崩して、無邪気な子どものようににっこりと笑った。
「ありがとう。千二百年にわたって書き続けられてきた書物……たくさんの思いが詰まっていて、本当に素晴らしいわ。洋の東西を問わず、これほど偉大な書物はそうはないでしょう。大切に読むわね」
そう云って、パチュリーは幻想郷縁起を大事そうに胸に抱えた。
それだけで、阿求は思わず泣きそうになってしまった。
千二百年もの間迷いながら悩みながら、ときには全部投げ出したくなりながら、転生を続けて書きつづってきたことを認められた気がした。
そのときにはもう、すべてが決まっていたのかもしれない。
阿求の視線は、満月のような魔女の笑顔に釘づけだったから。
けれどパチュリーは、その後決定的な言葉を口にしたのだった。
「――でもね、私がなにより興味をもっているのは、幻想郷縁起そのものじゃないのよね」
「へ? なんですか?」
「それはあなた自身よ稗田阿求。私は、あなたのことをもっともっと知りたいの。できれば稗田の家からさらってきて、まるごと全部私のものにしたいくらい」
「わた、し……?」
そのときのことを思いだすと、阿求は今でも悲鳴をあげてその場にうずくまってしまいそうになるのだった。
求聞持のいいところはなんでも覚えているところだけれど、悪いところは忘れたいことも忘れられないところだと思う。
今になって考えれば、そのときパチュリーが云っていたのは純粋な研究対象としての意味だとわかるのだ。完全記憶を保持する阿求をさらってきて調査研究解剖し、その能力を自分自身に適用させたい。一度読んだ本を完全に覚えられれば便利だという、そんな魔女らしい自分勝手な目的で。
けれどそれは、その後の交流を通してわかったこと。
そのとき阿求は、パチュリーの言葉を額面通りに受け止めて。
――告白に近いものだと、思いこんでしまったのだった。
「わ、わたしですかっ!?」
「ええ、あなたが欲しい。くれない?」
「ほ、欲しいって……でもわたし、パチュリーさんみたいに奇麗じゃないし、ぺたんこで寸胴でこんな野暮ったい着物なんか着てて……あの……あの!」
「はぁ? どうして容姿が関係あるの? 私が欲しいのはあなたの頭の中なんだけど。でもあなたは十分綺麗だと思うわよ、エキゾチックな着物も素敵だしね」
そんなことを続けて云うものだから、もう我慢ができなかった。
「――お、お友だちからはじめてください!」
思わずぎゅっと目をつぶりながら、阿求は叫んだ。
いくらなんでもあげるとかあげないとかは早いけど、でもパチュリーが求めてくれるならできるだけ応えたいと思う。
だって彼女は幻想郷縁起のことを誉めてくれたし、この着物のことだって認めてくれた。顔つきも綺麗だって云ってくれたのだ。それまでの話で、お互い気が合いそうだってことはわかっている。阿求自身この図書館の蔵書について興味があるし、なにより人形かと見まがうくらいの美少女だ。
断る理由なんて、どうやったって見つからなかった。
けれどいつまでたっても彼女の返事は返ってこなくて、阿求はおそるおそるまぶたを開けた。そうして魔女の顔つきを見た瞬間、驚きとともに大きく目を見開いたのだった。
衝撃的な略奪宣言をしたはずの魔女が、顔を真っ赤に染めてうつむいていたのだ。
「お友だち……? 私が? あなたの?……おともだち……」
熱くなった顔をさまそうとするように、ぺたぺたと両手で頬を触っている。まるで生まれてはじめて恋の告白を受けた少女のように。
なにがなんだかわからなかった。
もしかしたら自分はなにかひどい思い違いをしていたんじゃないかと、そのときになってようやく阿求は気がついた。
そんな彼女の前で、紅魔館の魔女は童女のようにこくんとうなずいたのだった。
「よ、よろしくお願いします……」
その瞬間、阿求は運命の歯車がカチリと噛み合う音を聞いた。
そのときはまだ会ったこともなかったはずなのに、レミリア・スカーレットのほくそ笑みが頭の中に浮かんだ気がした。
§3
「――阿求……阿求。大丈夫?」
顔をあげると、もう随分見慣れたパチュリーの姿が目の前にあった。けれどその表情は、いつもと違って心配そうに歪められている。以前は無関心ぶった無表情ばかりだったのに、最近このひとはたまにこんな顔をするようになった。
「あ……大丈夫です。ちょっと黒歴史に襲われてて……」
「そう? ならいつものことだし、いいけれど。……心配だわ、今日はあなた調子悪そうだったし」
「ふふ、ありがとう。でもパチュリーさんと話してるうちに随分よくなりましたよ」
にっこり笑いかけると、パチュリーは照れたように顔をそらした。あのころに比べて随分感情を表にだすようになったけれど、こういうところは変わらないなと思う。
「それで――事件について思いついたことはありますか? 魔女殿」
慧音の言葉に、魔女は安楽椅子にもたれて額に手を当てた。
「そうね。あなたたちの推理だけれど、まず不可能状況を無視して機会の件から容疑者を割りだしたことまではいいと思う。――でも」
「でも?」
「いえね、その不可能状況、本当に不可能な状況なのかしら」
「と云うと? 鍵が動かされてないという件ですか」
「そうよ」
小声で答えて、パチュリーはぼそぼそと呪文を唱える。蜂の羽音のような音をたてながら、手のひらに一冊の本が現れる。
「なんですそれ? 『てれびまがじん』?」
一見して子どもむけの本だった。表紙には赤や青の原色で丸っこい字が書かれ、角張ったお面をつけた全身タイツの変人が、どこぞの龍宮の使いのようなポーズを決めている。
パチュリーはとあるページを開き、ずいと阿求に押しつけた。
「これ、やってみて」
「はぁ……『間違い探し』ですか?」
開かれたページには、まったく同じにみえるふたつの絵が載っていた。両手に大根をもった初老の男性が半裸で踊り、その背後に奇怪な化け物と黒いローブ姿の女の子が描かれている。
どうやらそのふたつの絵の違いを探す遊びらしい。タイトルは『魔法陣グルグル間違い探し』。魔女のパチュリーがこれをやってるところを想像すると、なんだかすごく可愛く思えた。
少しやってみただけで彼女が云わんとすることはわかったけれど、阿求はよくわからないふりをした。この気むずかし屋の魔女は、少しでも意図と違った反応が返ってくると途端にふて腐れてしまうから。
「――わかりました。えぇと、まずこの親父さんがもってる右の大根のヒゲが一本足りません。それと女の子の靴にリボンがありません。もうひとつは魔法陣の模様がちょっと違うのと、最後にこの変な化け物の肩の後ろの二本のゴボウの真ん中にあるスネ毛の下のロココ調の右が違います」
「そうよ、正解。意外と難しかったでしょ?」
「そうですね、こうやって見比べてみてもなかなか違いには気づかないものですねー」
「そうでしょう。そうしてそれは、あなたの記憶にも云えることじゃなくって?」
「……あっ! なるほど!」
うわ白々しいと思いながら、叫んだ口元を両手で押さえる。けれど魔女はそんな演技にも気づかなかったようで、にやりと満足げに微笑んだ。
「いくらみたものを完璧に覚えていても、映像を過去のものと重ねて比べられるわけじゃない。同じようにみえて、細部が違っていても気づかないでしょう? こんなに明確な違いがある間違い探しだって、なかなかみつけることはできないのよ」
「ううーん……そう云われるとたしかにそうなんですが……」
まさか知らぬ間に盗まれてなどいないと思っていたから、ついまったく同じものだと思いこんでいた。けれど改めてふたつの映像を呼びだしてみると、それも断言できなくなってくる。
「でも阿求が鍵は使われていないと思った理由もわかる。犯人はよほど気をつけて前と同じ形に置いたんでしょう。普通そこまでこだわって同じ形に置かないものね」
「そうなんですよ。普通のひとの記憶はそこまで正確じゃないようですから。鍵を使ったことを隠そうとしても、もうちょっと雑に置いたと思うんですね」
「問題はそこよ。犯人は、それだけあなたの能力の程度をよくわかっているってことじゃないの? 多分とても親しい人物ってこと」
「あ……」
パチュリーの指摘に、阿求は思わず絶句した。
その通りかもしれないと思ったのだ。
蔵に入るには鍵を使うほかない以上、犯人はどうしたってあの鍵を使用したことになる。その際阿求の能力がどの程度のものかを把握していれば、鍵を一見使われなかったように装うことも可能だろう。
だが逆にそうしたことにより、犯人は阿求の能力についてかなり詳しいという情報を、こちらに与えてしまったのだ。
「これは容疑者から犯人を絞り込むのに重要なポイントになると思うわ。求聞持ってどちらかというと、阿礼の生まれ変わりの民話収集者のことを指すと思われてるんじゃない?」
「そうですねぇ、記憶力がいいことくらいは割と知られてると思うんですが、正確に把握してるかたがどれくらいいるかは疑問ですね。慧音先生みたいにわかっているかたでも、つい意識から抜け落ちてしまうようですし」
先日の会話のことを云ったのだろう。阿求がおどけるように瞳を回すと、慧音は苦笑しながら額をかいた。
「たしかに、日常の中で実感できないとなかなかなぁ……」
「そうでしょうね。その点で容疑者リストから外せそうなのは……うーん、あんまりいなさそうね。咲夜、アリス、天狗あたりはよくわかってそう」
「だと思います、文さんは特に新聞のために私を図書館代わりに使うことが多いので、実感してるんじゃないでしょうか。魔理沙さんも最近よく話すのでわかってるかなぁ?」
「そうなると外せるのは兎二羽くらいのものかしら。まぁ、これだけで決め手になるはずないから、これはこれでいいけれど。今後直接聞き取りにむかうときには気をつけておきなさい」
「はい。……それにしても、さすがパチュリーさんですね」
ぱんと両手を打ち合わせながら、阿求は花のように笑う。
「こんがらがってた状況がずいぶんすっきりしました。あとは普通に誰が鍵を盗めたのかを考えればいいんですね」
「そうだな、たしかに阿求が見初めただけのことはあるなぁ。鍵が盗めたことを証明したうえ、それを犯人を絞り込むポイントとして活用できるようになったんだからな」
「ふん、なに云ってるの、こんなの初歩の初歩だわ。少しはその灰色の脳細胞を働かせなさいな、あんたたち」
魔女は安楽椅子に身体を沈めて、これ見よがしな顔でにやりと笑う。どうやらすっかり名探偵きどりらしい。喘息さえなければ、今にもパイプのひとつでもくゆらせはじめそうなありさまだ。
心の中で苦笑しながらも、阿求はこんな探偵ごっこもいいなぁなんて思っていた。なによりパチュリーが楽しそうだし、話すことがたくさんできて阿求も嬉しい。人間の里と紅魔館、用事がなければなかなか越えられない距離だけれど、この事件が続く間は入り浸ることができそうだ。
パチュリーが名探偵役なら、自分は助手だ。
なんといっても安楽椅子探偵がこれほど似合うひともそうはいないし、歩くメモ帳の自分は助手役をするには最適だ。もっとも、普通の安楽椅子探偵は本当に安楽椅子に座っているわけではないけれど。
願わくばお話にでてくる探偵と助手コンビのように、仲良くずっと一緒にいたいと思うのだ。
「うーん、でもパチュリーさん、この先は一体どう考えればいいんでしょう。犯人がなんとかして鍵を盗んだとして、それは誰でいつどうやったのか。わたしにはかいもく見当もつきません……」
「ああ、私もだよ阿求。どうやら私の灰色の脳細胞は、満月以外は死んでいるようだ……」
阿求がありがちな助手のような台詞を口にすると、慧音もつきあいのいいところをみせて乗ってきてくれた。ふたりで頭を抱えながらうんうん唸る。なんだか楽しくなってきた。
「仕方ないわねまったく……。いい? この事件の一番のポイントはなにかしら?」
「それは……ジョジョですか?」
「そうよ、ジョジョよ。犯人はただ蔵に侵入しただけじゃない、書きつけをジョジョとすり替えていったんでしょう。だったら犯人は稗田家にきたとき、そのジョジョを持っていたはずよ。しかも全六十三巻、ストーンオーシャンは含まずね」
「なるほど、確かにそうだ。ジョジョ六十三巻と云ったら相当にかさばるぞ。行李でもないと持ち歩けん」
「ええ、大体このくらいになるわ」
パチュリーがぼそぼそつぶやくと、ローテーブルの上にひとそろいの漫画が現れた。それはジョジョではなく、高橋留美子の『犬夜叉』だった。妖怪退治の漫画を読んじゃう魔女ってどうなんだろうと阿求は思う。
本は一冊のサイズが縦三十センチ×横十八センチで、厚みが一・五センチほどある。こちらは五十六巻までしか出ていないため、ジョジョと比べて若干少ない。だがそれでも積み上げれば一メートル弱になる。二列に分けても五十センチと、どうしてもかさばってしまうだろう。
「こんな荷物を持っていたのは誰と誰? そこから考えていかないと。目占の能力を信頼するなら容疑者は六人。兎二羽を含めても、魔理沙とアリスと咲夜と天狗。このうち誰が犯行可能だったか、ひとりひとり検証していくべきよ」
「そうですね。そうしてみましょうか。ちょっと頭の中で当時の記憶を整理してみます」
阿求は記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。そんな求聞持に優しげな視線を投げかけ、パチュリーはポットから紅茶を注いだ。
「ふふ、目撃者が阿求でよかったわね。正確な証言がでてくるわけだから」
「ははは、それはそうですね」
「私もミステリ小説はよく読むけれど、いつも思うのよね。目撃者の記憶力が高すぎだって。何日も前のできごとを、台詞も含めて正確に思い出せるはずがないもの」
その手のお約束には突っ込んじゃいけないと、阿求は思う。
「じゃあとりあえず、アリスさんのことから――」
そう前置きをして、語りはじめた。
彼女が稗田邸を訪れたのは、阿求がその前に蔵の様子をみた翌日で、事件が発覚する六日前のこと。
水無月の二十二日、午後二時三十三分のことだった。
用向きは、以前より阿求と共に製作していたパチュリー用の新作ワンピースが仕上がったので、それを届けにきたという。
阿求がいる本宅に上がり込んできたとき、彼女は手に大きなトランクを持っていた。中に入っていたのは、阿求が頼んでいたワンピースドレス。ドットチュールが紗のように折り重なった可憐な仕立てで、布を多くとったスカートが花のようにふわりと開く、期待以上のできだった。ゆったりとした服が好きなパチュリーに似合うだろうと、阿求は満足に思った。
そのとき背後に従えていた上海と蓬莱も、それぞれ円筒形の大きな帽子箱を持っていた。中にはドレスに合わせたキャノティエと、ロングスカートを膨らませるための大きなシフォンパニエ。少なくとも、どこにもジョジョを隠す余地などなかった。
ふたりで服を広げてきゃーきゃー云ったあと、お茶を飲みながら一時間半ほど四方山話――おもにパチュリーのうわさ話――をして帰った。どうやらアリスはそのあと里に用事があるようだった。
「こんなところでしょうか。目占はどう? あなたも覚えてる?」
「ああ、主とちがって具体的な時間まではわからないが、人形遣いが来たのは大体そのくらいの刻限だったと思う。ただ、彼女は屋敷に入るときに小さな屋台を引き連れていたぞ」
「え? 本当?」
「うむ。八目鰻の屋台を少し小さくしたようなものだ。何体かの人形が重そうに曳いていたな。屋敷に入った後どうしたかはわからない。私は門をくぐるところまでしか警備していないし、でていくときには大して注意を払っていないから」
「ふーむ」
腕を組んでうなりこむ阿求。そんな彼女を恨みがましい目でみつめ、パチュリーはため息をひとつつく。
「はぁ……いい加減ひとを着せ替え人形にするのはやめて欲しいんだけれど」
「えー、いいじゃないですか。満更でもないくせにぃ」
「ふん、満更よ満更。服なんて動きやすいこの格好だけで結構。リボンなんてただの魔力を高めるアクセサリなんだから」
「またまた、そんなこと云いつつ、いつも着てくれるじゃないですか」
「それはだって……あなたが着てくれっていうものだから……」
顔を赤くしてごにょごにょとごまかすパチュリーだった。けれど阿求にはわかっている。なんだかんだでこのパチュリーも、可愛いくするのが好きなはずだった。ただ着飾るのがめんどくさいという感情が、普段は勝りすぎているだけで。
「そもそもあなたが自分で着ればいいじゃない、ああいう少女趣味な服が好きなんでしょう?」
「いえいえ、わたしにはこの着物のほうが似合ってますから。服は自分が似合うと感じるものを着るべきだと思うんです」
「私は、自分にはこのいつものワンピが似合ってると思うんだけど」
「いえ、パチュリーさんにはもっとフリフリしたのが似合いますから!」
「矛盾してるじゃない……」
その弱々しい突っ込みを、阿求は聞きとれなかったことにした。
先代から続いてきた阿求のフリフリ熱は、パチュリーと深くつき合うようになってからは少し別の形をとるようになっていた。
自分が着たいと思うのではなく、他人に着せたいと思う。
パチュリー・ノーレッジは、その素体としてこれ以上ないほど理想的な存在だったのだ。
そもそもどれだけああいったヴィクトリアンな装いに憧れたとしても、しょせんそれらのドレスは西洋人むけに仕立てられたもの。東洋人の自分が着ても似合わないことはなはだしい。
足が短い。
くびれがない。
色が白くない。
胸がない。
致命的。それらはあまりにも致命的すぎだった。
その点パチュリーは全然違う。肌は白磁のように白く、普段のだぼっとした服に隠された身体は脱がしてみれば意外なほどのメリハリがあった。瞳はアメジストのように輝いているし、髪の毛はつやつやと奇麗だしで、こうして親しくなってからもいまだに人形のように思ってしまう。
けれど今はもう、そこに以前のような西洋コンプレックスは感じない。パチュリーが自分の着物姿を『エキゾチックで素敵』と云ってくれたとき、それはアイシクルフォールの弾幕のように千々にばらけて消えてしまった。
「……じゃれ合いはもういいから。話を進めないか主」
「あ、う、うん。わかりましたよ目占……」
白けた声でつっこむ目占に、阿求は慌てて居住まいを整える。
「とりあえず、今の時点ではアリスさんは犯人ではないと断定できないですよね。ジョジョを全巻隠せそうな屋台を曳いてましたし、わたしと話し終わったあとに犯行を行えたかもしれません」
「そうねぇ。それでその屋台っていうのはなんなのかしら。あなたは見ていないんでしょう?」
「見てないです。まぁ、わたしはずっと本宅にいましたし、屋敷に上がり込んでくるときに屋台を曳いてはこないでしょう。前庭のあたりに止めていたんでしょうね」
そのとき、慧音がふと気がついたようにぽんと手をたたいた。
「まてよ、それは二十二日のことだったんだよな?」
「ええそうです。なにかわかりますか」
「うん、その日はたしか確か村会議があった日でな、今度の夏祭りに出店する香具師を集めて、演目や場所の取り決めを話し合っていたんだ」
「ああ、そろそろですものね、夏祭り。家でも舞の練習してる子が何人かいますよ」
「私もその見回り担当として呼ばれていてな、出店の割り振り表をみせてもらったんだが、そこにアリスの人形劇が演し物として書いてあったんだよ」
「あ、じゃあもしかして、里に用事があったというのはそれ?」
「そうだと思う。見本として実際に使う仮設舞台を持って行ったんだろう」
「なるほど……」
「じゃあ、その場であなた自身がアリスを見たわけじゃないのね?」
「ああ、授業があったので少し遅れたんだが、そのとき彼女の姿はもうなかった。だがチェック済みの印が捺してあったから、当日来たのは間違いないだろう」
「それ、何時ごろの話よ」
「ううーん……私が行ったのは何時ごろだったかなぁ。五時か六時か……なんせ一週間前のことだしなぁ」
「ああ、うん、それが普通よね……」
そう云ってパチュリーは、阿求と顔を見合わせてため息をついた。
まったく、完全な記憶を留めていられないのは不便だなと思う。阿求が本宅でアリスを迎えたのが二時三十三分、辞去するのを見届けたのが四時七分。あとで正確な時刻を思いだせるよう、稗田邸には常に視界に入るところに時計があるから、その時刻に間違いはない。
これで会議所にでかけた慧音が正確な刻限を覚えていれば、アリスの足取りも大分掴めたはずだった。アリスが阿求と別れてそれほど時間が経っていないような時刻なら、その前に会議所についたアリスに犯行を行えたはずがない。
現在のところその部分が曖昧なせいで、やはり彼女を容疑者から外すわけにはいかなかった。
なんといっても人形を使ってさまざまなことができそうなアリスである。加えてジョジョ全巻をいくらでも隠せそうな屋台まで曳いていた。むしろ容疑者筆頭と云えるだろう。
「で、阿求の家からその村会議があった場所までは、屋台を曳いて歩いたら何分くらいなの?」
「そうですね、大体三十分くらいかと思いますが」
「じゃあハクタク、今度村会議の連中にアリスが何時ごろきたか聞いておいてもらえないかしら? チェックをしたというのなら、それなりに記憶に残ってるかもしれないわ」
「そうですね。うむ、そうしてみましょう」
うなずいた慧音に満足そうに微笑みかけ、パチュリーは上機嫌で椅子の背をゆらす。
「さぁ、それじゃあ次は誰? 時間順に話してちょうだい」
「はい、次に訪ねてきてくださったのは――」
ふたり目、霧雨魔理沙。
彼女はアリスが訪ねてきた日の夜、水無月二十二日の午後七時四十七分に現れた。随分酔っぱらっていて、聞けば里の一杯飲み屋で飲んでいたらしい。
それを聞いて、阿求は珍しいことだなと思った。里一番の大店『霧雨店』を飛びだして魔法の森で暮らす彼女は、あまり里によりつかない。お酒を飲んでいたということもあって、魔法の森に戻りたくない理由があるのだろうかと思った。
案の定、阿求に対して相談というか愚痴というか、そういうものを聞いて欲しかったようだ。客間で十時すぎまで話をしながらいっしょに飲んで、その後帰ろうとした魔理沙を引き留めて泊らせた。いくら人間でも有数の実力者とはいえ、深夜の幻想郷を酔っぱらい運転ではいかにも危ない。
来客用の寝室に一晩泊り、翌朝少しすっきりした顔で魔法の森に飛んでいった。身の回りのことは稗田の女中に頼んでおいたから、訊ねれば少しはわかることもあるかもしれない。けれど稗田邸に現れたとき魔理沙は箒一本しかもっておらず、ジョジョ全巻を隠せるような荷物はまるでなかった。
「――なによそれ、どんな話をしたのよ」
まるで家族に不幸でもあったかのような仏頂面をして、パチュリーは阿求をにらみつけた。
「それはちょっと……この場では云えません。ごめんなさい」
「ふぅん? 私にも云えないことなの?」
「う……勘弁してくださいよぅ、魔理沙さんのプライベートなことですもん、べらべら口にできません」
阿求はすまなそうに肩を縮める。パチュリーのじとりとした半眼が辛かった。
恋人が妬心を起こしていることはわかっている。そうしてそれはそれほど理不尽なものではないだろうと、阿求も思っている。
自分だって、たとえばアリスあたりがパチュリーの寝室に泊っていったと知ったら、心中穏やかでないだろう。深夜お酒を飲みながら差しむかいで話をして、挙げ句に泊っていってとパチュリーのほうから頼んだとしたら。たとえ事件なんかなくっても、どんな話をしたか気になってしまうだろう。
――けれど云えない。
他の誰に云うことができても、パチュリーに対しては云えない。
魔理沙が阿求にしたのは、そういう性質の話だった。
しばらく無言でみつめあったあと、パチュリーは一旦自分のほうから折れてくれた。
「まぁいいわ。でもそれなら、あの白黒は一晩自由に時間を使えたってことね」
「ええ……。ですけど魔理沙さん、相当に酔っぱらっていましたよ。いっしょに飲んでいたわけですから演技だとは思えませんし、翌朝起きだしたときも二日酔いで辛そうでした」
「ふん、どうだか。あの鼠を信用したら痛い目みるわよ。大体泊めてやるどころか敷地に入れてやる時点で不用心だわ。阿礼の蔵なんて宝の山じゃない。『ちょっと借りてくだけだぜ!』とかほざいて強奪していくあいつの姿が目に浮かぶわ」
異様にそっくりな声まねをして、パチュリーはつまらなそうに頬杖をつく。
「たしかにあの子は少々収集癖があるようで、店のものを勝手にもっていくと、霧雨の親父さんも嘆いていましたな。しかしジョジョの件はどうです? 阿求の話では、ほぼ手てぶらだったようですが」
「そうねぇ、その点では弱いわね」
「あの、魔法を使ったという可能性はありますか? 魔法でなにをどうできるのかはさっぱりわかんないですけど、パチュリーさんがよくやってる物品取り寄せの魔法とかを使えば……」
「どうかしら? あれがまともな魔法を使えるとは思えないけれど」
云い放って一言二言呪文を唱えると、パチュリーの手のひらにぶんぶんと様々な本が現れる。
『ホノリウスの誓いの書』、『黒い雌鶏』『隠秘哲学第四書』、『ナコト写本』。阿求にはその価値を想像することもできない貴重な魔導書が、次々と現れては消えていく。
「私の魔法だってこれ、“図書館にインデックスされている書物”限定のものだもの。魔理沙ごときにこれに類する魔法を使えるとは思えないわ。あれはしょせん紛い物の魔法使い。光と熱で物を破壊するだけの花火師よ。私やアリスのように世界の理をかえるだけの技術も気構えも理由も持ち合わせていない、ただの人間だわ。幸せなことにね」
「そうですか……パチュリーさんが云うならそうなのでしょうね」
内にこもった様子で一点をみつめるパチュリーに、阿求の胸が締めつけられるように痛んだ。
アリスもそうだけれど、魔女はみなどこか黒い影を曳いているように思う。あるいは闇色の結晶を身体の中に抱えているように感じる。
それが西洋におけるかつての魔女狩りの残滓なのか、それとも魔女という種族が先天的に内包している澱みなのかはわからない。けれど阿求はそんな魔女の影に気づくたび、思わずぎゅっと抱きしめたくなってしまうのだ。きっとパチュリーは『馬鹿にするな』と怒るだろうから口にしたことはないけれど、そんな彼女の寂しさが自分を惹きつけたのかもしれない。
「しかしそうなると、魔理沙が犯人である可能性は低いということになりますか」
慧音の問いに、けれどパチュリーは首を振る。
「いいえ、まだわからないわ」
「というと? 他にもジョジョを持ちこむ手段があるということですか?」
「そうね……まず確認するけれど、元々稗田の敷地内――目占のテリトリー内にジョジョはなかったのよね? 使用人や一族の誰かの私物だったりとか」
「ええもちろん。そこは一応、事件後に一族の皆とは一通り相談して調べてますので。そもそも稗田家にとって阿礼の蔵はとても大事な聖域なので、荒らすような者がいるとは思えないです」
「そうね。その可能性を考えるなら、まだ全部スキマのせいにしておいたほうがマシか」
「はい。スキマのがマシです」
「はは、なんだか八雲殿が可能性のゴミ箱みたいになってきましたな」
そんな慧音の言葉に、一同がへらへらと笑った。
「まあ、あのスキマならなんでも入るしね。……それはともかく、じゃあ稗田の者が知らない間に犯人の協力をしていたという可能性はないかしら?」
「え? どういうことですか?」
「たとえば他の物品にみせかけて届けた荷物に、ジョジョが入っていたとかよ。使用人や誰かが屋敷の中に運び込み、その後魔理沙が手ぶらでやってきて、深夜に荷物からジョジョを取りだす。入れ替えた書きつけは、まあ、どこか中庭の植え込みにでも隠しておいて、帰るときに取り出すの」
「あ、なるほど……。うーん、でもそれって結構きわどいですよね。絶対みつからないようにしないといけないし」
「ええ、だから可能性の話。あなたの記憶に思い当たる節がなければそれでいいわ」
「そうですねぇ。わたしにはちょっとないんですけど、あとで家の者に当たってみます」
「そうしておいて」
うなずいて、パチュリーはこくりと紅茶を含む。普段あまり喋り慣れていないから疲れてきたのだろう。コンと小さく咳をした。
「他にもこんなのはどう? アリスと魔理沙が共犯で、アリスが屋台で持ちこんだジョジョを、魔理沙が深夜に書きつけと入れ替えるの。で、その後アリスは何食わぬ顔で会議所に顔を出し、アリバイ作りにいそしむってわけ」
「あ、すごい! ミステリっぽい!」
「そうでしょうそうでしょう。アリスには機会がなかった。魔理沙には方法がなかった。でもそのふたりが共犯だと考えれば犯行は可能となるわ。まあ、アリスにアリバイがあるかどうかはまだわからないけれど」
「あ、でも……」
パチュリーの言葉に、阿求は申し訳なさそうに縮こまる。
「あの……多分アリスさんと魔理沙さんが共犯というのはあり得ないと思います」
「む、なによそれ。根拠は魔理沙と話した内容のこと?」
「そ、そうです……」
「そもそもその話自体が稗田家に入り込む口実って可能性はないの?」
「ないと思います、多分……」
「でもなにを話したかは云えないのよね?」
「はい……」
それきりむっつりとふさぎ込むパチュリーだった。阿求もかける言葉がみつからなくなって、図書館にしんとした静寂が訪れる。
けれどその静寂の中にはたくさんの言葉が飛び交っていた。
気心が知れたカップルの間にただよう、饒舌な無言。一心不乱に枝毛を探すパチュリーの指先が、気まずそうにそらした阿求の視線が、ふたりにだけわかるなんらかの言葉を伝えていた。
「――と、とりあえず、アリスと魔理沙についてはその辺でいいんじゃないかっ!?」
その静寂に耐えかねたように、声を裏返らせながら慧音が云った。途端に張り詰めていた緊張が解けて、阿求はほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうですね。そうしましょうパチュリーさん。この話はとりあえずよそに置いておいて」
無理矢理笑顔を作りながら、箱状の物体をゴミ箱に捨てる動作をする。捨てた先はスキマだろう。魔女は納得がいかない顔をしながら、鼻を鳴らしてこくんとうなずく。
「じゃあ、えーと、次にお会いしたのは……咲夜さんでしたね……」
くりりと瞳を回しながらそう云って、阿求はふと深い溜息をついた。
なんだか身も心も疲れ果てていた。身体は相変わらずひどくだるいし、パチュリーは自分を信じてくれていない。
それにこれだけ喋ってもまだふたり分の足取りしか掴めていないのだ。こんなペースであと四人分検証しないといけないと思うと、もう犯人スキマでいいかもと思えてくる。
「……あら、紅茶がもうないわね」
ふとティーポットを持ち上げて、パチュリーがつぶやく。喋り通しで喉が渇くものだから、紅茶の減りも早かった。出されていたスコーンもあらかた片づき、テーブルの上もなんだか寂しくなっている。
「ちょうどいいわ、咲夜本人を呼ぶわよ。少し休憩しましょう」
パチュリーはやれやれとつぶやきながら、疲れた様子でテーブルの呼び鈴を鳴らした。
――そのときは。
まさかあんなことになるなんて、思ってもいなかった。
§4
「え? なんですそれ、ジョジョ? 私の能力がDIOの真似だとでも仰りたいんですか?」
「そんなこと誰も云ってないでしょう。いいからあんたもそこに座りなさい。今日はもう仕事は終わりでいいから」
お茶とお菓子の補充を終わらせた十六夜咲夜は、怪訝な顔でソファに腰を下ろした。隣に座った阿求の元に、ふわりとリコリス系の香りが漂う。
そのスマートな姿に思わず見とれた。
パニエで膨らんだスカートから覗く、カモシカのような脚の線。ぴんと伸びた背筋にきゅっと引き締まったウェストライン。相変わらず眩暈がするほど可憐なひとだと、阿求は驚嘆の念を新たにする。
「どこみてるのよ阿求っ!」
「――あ痛っ!」
そのときパチュリーのほうからなんか柔らかい弾幕が飛んできて、ぽこんとおでこに当たった。大して痛くなかったのになぜだか本当に眩暈がして、阿求はうつむいて額を押さえる。
「あら、大丈夫?」
「だ、大丈夫ですっ! ご心配なさらずっ」
思わず顔をよせてきた咲夜から後ずさる。
なんといってもその瞬間一番大丈夫じゃなさそうなのが、パチュリーの怒りに満ちた顔だったから。
「ふん、そんなのんきしていられるのも今のうちよ咲夜!」
「はぁ……なんでしょう怖い顔なさって。また最強スタンド論争でもおっぱじめるおつもりですか?」
「一旦ジョジョから離れなさいっ! いい咲夜。あんたには稗田家の本に対する盗難容疑がかかっているの。それもあんたは、容疑者として第一級よ!」
ずばんと効果音が聞こえそうな勢いで指をつきつけ、パチュリーは鼻息を荒くする。対する咲夜はどこか醒めた顔をして、きょとんと小首をかしげている。
――またうちの知識人が変なこと云いだした。
そう云いたげな咲夜の様子は、阿求の目にはとても演技のようには見えなかったのだった。
「そういうことでしたか。でもそれ、どうせスキマの仕業なんじゃないですか?」
一通り話を聞き終わった瞬間、咲夜は云った。
――咲夜さんあなたもか。
阿求は額を押さえながら、なぜ容疑者から八雲紫を除外したいかを説明する。すらりとした足を優雅に組み、ふんふんとうなずきながら聞く咲夜。そんな彼女のようすに、阿求はふと不穏なものを感じていた。いらいらしたように動く指先が、細められた切れ長の瞳が、内心の不機嫌さを物語っているように感じていた。
結局咲夜は、話を聞いている間ずっと阿求の目を見なかった。
「なるほどわかったわ。でもなんで私なんですパチュリーさま。お話を聞く限り、アリスにしろ魔理沙にしろ犯行は可能みたいじゃないですか」
「なにを白々しいことを。本当は自分でもわかっているんでしょう? あなたの能力はスキマ並になんでもありじゃない。今度の事件、どうしたってあなたを容疑者から外すわけにはいかないわ」
――そうなのだ。
咲夜の時を止める程度の能力は、今度の事件の容疑者の中で、最も怪しいものと云っていい。
それはどんな検証や推理もひっくり返すほどの可能性を秘めている。さきほどまで争点となっていたジョジョ全巻を持ち運べる荷物にしても、咲夜に関してはまるで関係がない。止まった時間の中でどこか里の古書店から強奪してくればいいだけだからだ。ましてや書斎にいる阿求の目を盗んで鍵を盗むことなど朝飯前。
そしてなにより、咲夜は阿求の能力のことをよく知っていた。
パチュリーが容疑者として第一級だと宣言したのも、阿求が目を奪われていたことに嫉妬したからだけではない。
けれど阿求は、もうこの話を止めたいと思った。
パチュリーは相変わらず空気を読もうとせず、どれだけ咲夜が怪しいのかを滔々と説明する。それを黙って聞く咲夜の後ろ姿が、すこしずつ張り詰めていくのを阿求は感じる。たおやかなうなじに力がみなぎる。輝くような銀髪が、ナイフのように尖っていく。
「――本気で仰っているんですか、パチュリーさま?」
「……え?」
「パチュリーさまは、本気で私がそんなことをしたと思っているんですか? 阿求の心の故郷とも云えるあの場所に入りこみ、この子が大切にしている物を盗みだしたと、本気で?」
その瞬間、図書館がしんと静まりかえった。
パチュリーはぽかんと口を開けたまま、顔をうつむかせた咲夜のことをみつめている。普段はクールなメイド長の、パフスリーブに包まれた肩がふるふると震える。それを背中からみつめる阿求には、彼女が怒っているのか悲しんでいるのかはわからなかった。
けれど自分たちが、咲夜の触れてはいけないところに触れてしまったことだけはわかる。
たとえば自分にとって先代の記憶がそうであるように、咲夜にも触れられるだけで血が出てしまう箇所があるのだろう。
押し黙ってしまったパチュリーに、咲夜は震える声で云い放つ
「私が時を止められるというだけで、パチュリーさまは私を疑うんですね!」
――そこか。
そこが十六夜咲夜の逆鱗か。
「咲夜さん、ごめんなさい、あの……」
「あなたも? あなたもそう思ってるの阿求?」
「思って、ないです……思いたくないです」
阿求はそのときやっと、自分たちがなにをしているのかに気がついたのだ。安楽椅子に座るパチュリーと机上の論理を弄んでいたせいで、大事なひとに疑われるのがどんなことなのか忘れていた。
たしかに咲夜は阿求のことをよく知っていて、だからこそ鍵を盗むなら気づかれないよう元通りに置くだろう。けれど咲夜はあまりにも阿求のことを知りすぎていて、パチュリー同様阿求にとってあの蔵がどういう意味を持つかも知っていた。いつでも阿求の味方になるくらい、彼女に好意を寄せていた。
その咲夜を、阿求たちは疑ってしまったのだ。
ただ彼女が、時を止められるというだけで。
「咲夜さんじゃないです。咲夜さんは自分の能力を使ってひとを貶めるようなことはしません」
「そう? 信じてくれてありがとう。でもそこの魔女はそう思ってないようですけどね」
吐き捨てるようにそう云って、咲夜はパチュリーをにらみつけた。けれどパチュリーはぴくりとも動かず、反論も弁解もしようとはしなかった。
――どうして、なにも云おうとしないんだろう。
うつむいたままのパチュリーを眺め、阿求はずきずきと痛む胸をぎゅっと押さえた。
「いいですわ、当日のことをお話しします。三日前、二十五日の三時二十四分のことでしたよね、私が買い出しのために里までいったのは。いつもの大きな行李を担いでいきましたので、その中にいくらでも物を隠せたかもしれませんね。ああ、でも時を止めればなんでもできるから、そんなこと考えるだけ無駄なのでしょう」
「咲夜さん……いいです……もういいですから」
「……小麦粉と薄力粉、ニンジン五本とセロリ一束とほうれん草を一袋、ジャガイモ十個と鴨を二羽ほど買いました。それとそこの魔女がビワを食べたいとか云っていたのを思いだしたから、何件か回って買い足して。ついでにさくらんぼも買いました。そら、そこのチェリーパイに入っていますわよ」
空間を切り裂くように手を払う。テーブルに並んだときには美味しそうだったチェリーパイも、今はその鮮やかな赤がむなしく感じる。
なんだか泣きたくなってきた。
咲夜は本当に怒っているのだろう。
そうしてその怒りは理不尽なものではないのだろう。
たしかにただ時を止められるというだけで、なんでもかんでも容疑者扱いされていてはたまらない。産まれながらにこの能力をもっていた咲夜にとって、きっとこんな風に疑われることも一度や二度ではなかっただろうから。里の中で異能者として生きる阿求には、その気持ちが痛いほどわかってしまうのだ。
「紅魔館をでてから買い物を終えるまで、時を止めた私の主観で二時間。客観時間では十五分ほどでしょう。最近調子が悪そうだった阿求のことが心配になって稗田の屋敷に行ったのが三時四十五分。そうよね目占?」
「あ、ああ……いや、どうだろう。猫に正確な時間を聞かないでくれ。たしかにそろそろ日が傾いてくるかという時刻ではあったが」
「そう。でも阿求は覚えているでしょう?」
「はい。咲夜さんが本宅に現れたのは三時四十八分です。門から三分、妥当な時間でしょう。中身まではわかりませんが、たしかに重そうな行李をもっていました。お裾分けでビワをひとついただきました。瑞々しくて美味しかったです」
「それで一時間ほど話して、五時五分に退出したわ。寄り道せず時を止めて五時八分に紅魔館にもどりました。美鈴は一応起きていたけれど、どうせ時間なんて覚えていないでしょうね。ちなみに当日買ってきたもののリストはキッチンのメモにも残してあります。でもだからなんだという感じですわね。今こうして話している最中に時を止めて書いてきたかもしれませんしね」
「咲夜さん……あの、わたしは信じてますから」
「ありがとう阿求、嬉しいわ。でも私はそこの魔女に云ってるの。ずっといっしょにこの館で暮らしてきた、そこの魔女に云ってるの!」
叫んで、すっくと立ち上がる。
びくりと身をひく阿求を尻目に、つかつか歩いていってパチュリーの前に立つ。覆い被さるように身を寄せて、バンとサイドテーブルを激しく叩いた。
「なにかおっしゃってはどうですかパチュリー・ノーレッジ!! 本当に私を疑っているんですか!」
けれど魔女はうつむいたまま動かない。まるで石になったかのように押し黙り、ひたすら殻に閉じこもっている。
「パチェ……あの……」
怒りに満ちた咲夜の顔をみる。
誰とも視線を合わそうとしないパチュリーの顔をみる。
ふたりの顔の間で、阿求の胸は張り裂けそうだった。
パチュリーのことは世界で一番愛している。あの日コンプレックスまみれで紅魔館を訪れた阿求を受けいれ、劣等感を自尊心へと変えてくれた。素直じゃない部分は多々あれど、それらはすべて自分がもっている優しさをどう表現すればいいのかわからないだけだと知っている。優しいけれど不器用で、なんでもできるくせになんにもできなくて、自分が傍にいてあげないと不安で不安で仕方がない。まるで悪い魔法をかけられたのかと思うほど、阿求はパチュリーのことを愛していた。
けれど、咲夜のことも好きだった。
なんでもできる有能な女性。この紅魔館のみならず、自分自身すら完璧な規律で取り締まっている。その凜とした立ち姿、美しい身のこなし。心の底から憧れていた。パチュリーに惹かれるまま紅魔館を訪れだした阿求のことを受けいれ、もてなし、壊滅的なほど気の利かないパチュリーの代わりに様々なことに気を配ってくれた。
だからこそ、阿求にとっては意外なことだった。そんな咲夜が、これほど感情を顕わにして棘のある言葉を口にするなんて。
だがそうさせたのは自分だ。
直接的な言葉を投げたのはパチュリーだったけれど、彼女にその言葉を云わせたのは自分だ。傷ついたのは咲夜で、傷つけたのは自分なんだ。動かないパチュリーと歯を食いしばる咲夜を眺めながら、阿求は痛む胸をぎゅっと押さえた。
「――っ!! もういいですわ! この紫もやし!」
黙ったままのパチュリーに業を煮やしたように、咲夜は捨て台詞を吐いて図書館から出て行った。
「待って! 咲夜さん!!」
思わず叫んで立ち上がる。追いすがろうとした阿求の前で、ばたんと音を立てて扉が閉まった。
「阿求……」
振り返ると、慧音が困ったような顔で阿求のことをみつめていた。彼女もきっと戸惑っているだろう。ひととなりもよくわからないふたりが、突然目の前で喧嘩をはじめてしまったのだから。しかもそのうちのひとりは阿求の恋人ときている。さぞや居たたまれない気持ちだろう。
――けれど。
「ごめんなさい、わたし咲夜さんを追いかけます」
パチュリーと慧音両方に聞こえるようにそう云った。ここでパチュリーの肩を持ってしまうのは、私情を優先するようで嫌だった。
「ああ、行ってくるといい主。こちらは任せておけ」
慧音の膝に乗っていた目占が、ウィンクするようにひげを振る。本当に頼りになる猫だと阿求は思う。
「お願いね目占。……ごめんなさい」
最後の謝罪はパチュリーにむけた言葉だったけれど、恋人はその言葉が聞こえなかったように動かない。
そうして図書館をでたその瞬間、阿求を襲う眩暈はよりいっそう強くなったのだった。
* * *
咲夜の居所はすぐに知れた。
メイド長ご立腹の報はメイド妖精たちの間を駆けめぐり、廊下ですれ違った妖精たちはみな咲夜がどこへむかったか知っていた。どうやら時計塔の最上階、見張り部屋でたそがれているらしい。
「咲夜さん……?」
おぼつかない足取りで時計塔の梯子を登り、跳ねあげ戸を押し開ける。
見張り部屋は石材が剥きだしになった簡素な造りだ。申し訳程度に敷かれたカーペット、テーブルと椅子と小さな箪笥。四方の壁には素通しの窓が開けられていて、そこから霧の湖を見下ろせた。
窓枠に座って夕陽を眺めていた咲夜が、振りかえって阿求をにらむ。
「……どうしてきたのよ」
「心配でしたので」
阿求は床に身体を引き上げようと力を篭める。けれど気がついたら椅子の上に座らされていた。
「あ、ありがとうございます。便利ですね時を止める能力。でも大変じゃないですか、時間が止まってても、疲れたり重かったりするのは変わらないでしょう?」
「そんなことないわよ、あんたの体重なんて買い出し一回分の半分以下だもの。ちゃんと食べてるの?」
「あはは、食べてますよぉ。でもわたし、体質的におおきくなれないひとなので。多分全部脳にいっちゃうんでしょうねぇ」
「そう……」
つぶやいて、窓の外に視線をむける。その横顔を、沈みはじめた夕陽が血潮の色に染めていた。
そのままふたり、しばらくの間だまって夕陽を眺めていた。幻想郷の夕陽はいつだって血のように赤い。それはきっと、幻想郷に住む住人たちの『夕陽はドラマチックに赤いべきだ』という幻想によるものなのだろう。
やがて咲夜は根負けしたように溜息をつき、苦笑いを浮かべながらぽつりとつぶやく。
「……別に、あんなに怒るほどのことでもなかったかもしれない。ちょっとどうかしてたわ」
「いえ、そんなことないです。咲夜さんのお怒りは正当なものでしたよ」
「ありがとう。でも結局のところ誰かがやったことには変わりないでしょう? だったら誰がやれたかで考えるのは理にかなってる。……でもね」
抱えこんだ膝に頬を乗せて、切なげに瞳をうるませる。
「パチュリーさまやお嬢さまにだけは、あんな風に疑われたくなかった。特に、この能力のことではね」
「なんとなく、わかる気がします」
「あのふたりは、どこにも居場所がなかった私に住むところを作ってくれたから。人間の間では嫌われて恐れられるだけだったこの能力を、あっさり“便利ね”だなんておっしゃって……それだけで、すべてが救われた気がしたのよね」
「そっか……」
その気持ちは阿求にも痛いほどよくわかった。
咲夜がどのような地で産まれたかは知らないけれど、同じようなことは御阿礼の子もくぐり抜けてきたのだから。
咲夜や阿求のように異能の力を持つ存在は、いつだって人間社会では恐れられ、どこか周辺に追いやられるのが常だった。
その持っている力が強ければ強いほど、彼らを辺境に追いやる力は強くなる。いくら力を持っていること以外は普通なのだと叫んでも、その声は群衆が上げる恐怖の悲鳴にかき消されてしまう。
理屈ではないのだ。
感情なのだ。
一度その流れに捕らわれてしまえば、無限に逃げ続けるか無限に戦い続けるかしかない。
そうして戦い続けるには咲夜も阿求も優しすぎたから。
咲夜は吸血鬼の館で妖怪と暮らし、阿求は里の郊外で人間を守るための幻想郷縁起を書いている。
「あー、なんか恥ずかしいこと云ったわね……さっきのは忘れなさい阿求」
ぐしゃぐしゃと髪をかき分けながら、咲夜は恥ずかしげに目を伏せた。
「ふふ、ご冗談でしょう。わたしを誰だと思ってるんですか?」
「……求聞持、ね」
「正解です」
花のように笑って阿求は云う。咲夜は諦めたように溜息をつく。その背後で、潰れた黄身のような夕陽が山の稜線にかかっている。
「戻りましょうよ、咲夜さん。戻ってもう一度ちゃんと話しましょう。せっかくのチェリーパイ、まだ食べてないんですよぅ」
「ふふ、そうね、ちゃんと食べて欲しいわ。あれ自信作なのよ」
「わぁ、楽しみです」
ぱんと手を叩いて、阿求は椅子から立ち上がる。
――立ち上がろうとした。
けれどその瞬間、足下が消失したような浮遊感に襲われた。
「阿求!!」
視界が暗転して、がくんと腰から力が抜けていく。身体の中で、なにかがぐるりと反転している。胸の奥から、吐き気にも似た不快感がせり上がってきてぶわりと膨らむ。
石の床が目前に迫った刹那、阿求は咲夜の胸に抱き止められている。
けれど彼女はそんな一切を感じてなかった。
意識は混濁し、暗闇の中で想念が断片的に明滅していた。
――あぁ、これは。
その感覚に阿求は覚えがあった。それは阿礼のころからもう何度も繰りかえされてきたことだった。阿一も阿爾も阿未も阿余も、阿悟も阿夢も阿七も阿弥も、みなそれを通過してきた。
ここ数週間、阿求はずっと体調が悪かった。すぐにめまいを起こし、抵抗力が落ちて風邪を引き、少し歩いただけで息切れを起こした。
――だから、あの日阿礼の蔵にいったのだ。
それを迎えるにあたって、読まなければいけない本を読むために。時がきたら開くようにと伝えられてきた、一冊の本を読むために。
それは幻想郷の閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥが記した転生に関する技法書だ。
魂を消失させず、次代に記憶と能力を受け継ぐための転生の儀式。その詳細が書かれた秘中の秘、阿求すら今まで目を通したことがなかった秘術書だ。
――けれどそれは、棚になかった。
秘術書は、阿求が残した大量の書きつけと共に失われていた。だから阿求はなにがなんでもこの事件の犯人をみつけなければいけなかったのだ。失われた秘術書を取り戻すために。
それを今まで秘密にしていたのは、云っても仕方がないことだと思っていたからだ。そんな話は聞かされたほうもたまったものではないだろう。どうせ犯人がわかれば本も戻ってくるのだからと、阿求はずっとその話題を避けてきた。
――自分が、近く死をむかえるということを。
膨れあがった死の波動が、はち切れんばかりに頭の中を満たしていった。身体感覚がひとつひとつ失せていき、暗闇の中ですでに生きているのか死んでいるのかわからなかった。
けれど阿求の求聞持の記憶は、その暗闇にひとつの映像を浮かび上がらせる。
――パチュリー・ノーレッジ。
図書館を出ようとしたときの、あのふてくされたような顔。
あんなやりとりを最後に自分が死んだら、きっとあの不器用な魔女は壊れてしまうだろう。
そう思ったら、なにがなんでも死ねなくなった。
§5
ぼんやりと、意識が浮かび上がっていく。
目を開くと、視界にあるのは見おぼえがない天井だった。自宅の天井の木目なら、すべての部屋のものを覚えている。自分の寝室、来客用の寝室、書斎、居間、客間、仏間。
だが、目の前にある天井はそのどれとも違っていた。
「あ、気がついた?」
枕元から華やいだ声が聞こえてきて、阿求はそちらに視線をむける。にまにまと笑うような猫口、なにを考えているのかわからない垂れ目。桜色のワンピースに身を包んだ因幡てゐが、あぐらを掻きながらお手玉をして遊んでいた。
「……てゐさん? それじゃここは永遠亭……?」
「そうだよぅ。あ、こら、まだ起きちゃ駄目だって」
てゐは身体を起こそうとした阿求を慌てて止める。けれど云われなくとも手足に力が入らず、上体を起こすことすらできなかった。
諦めて、柔らかい布団にぼふんと身体を横たえる。
どこか部屋の外から、鹿威しが鳴るかこんという音が聞こえてきた。
「ま、でも助かってラッキーだったね。目を覚ましたらもう大丈夫だって師匠が云ってた。ちょっと呼んでくるから動いちゃだめよ」
放り投げたお手玉をそのままポケットで受け止めて、てゐは部屋をでていった。取り残された阿求は「ラッキー」とつぶやき、幸せ兎が残していったあえかな香りをすんと嗅ぐ。
生きているのだ、と思う。
身体に力は入らないし頭はひどく重いけど、それでも自分は生きている。布団の重み、手足の感触、じーじーと聞こえる蝉時雨。それを感じられる喜びに、阿求はしみじみと息をはく。
それにしても、自分はいったいどういう経緯でここにいるのだろう。紅魔館で咲夜と話していたことは覚えている。してみると運んでくれたのは彼女だろうか。時間のほうはどれくらい経っているのだろう。障子越しの外は明るいから、少なくとも半日以上は眠っていたはずだ。
「あら、思ったより元気そうね」
がらりと障子を開けて、八意永琳が部屋に入ってくる。手には薬袋とコップが乗った盆をもち、後ろに鈴仙・優曇華院・イナバを従えていた。
「あ、はい。ごめんなさい、わたし……」
「謝るくらいなら、もう少し早くここにくるべきだったわ、稗田阿求。自分の体調のことくらいわかっていたはずでしょう」
「あはは、実は前からそうしようかと考えていたんですけど、思わぬ用事ができてしまいまして……」
「ふん、患者はみんなそう云うのよ」
そんなことを云いながら、永琳は手際よく阿求の様子を診ていった。脈を取り、口の中を覗いて、なにやら不思議な機械を耳と丹田に押しあてる。機械の横に表示された数値をみて、永琳は難しそうな顔をした。
「ど、どうなんでしょう……?」
「ん、とりあえず大丈夫よ。でもとりあえずが過ぎれば大丈夫じゃない。それはあなた自身もわかっているんでしょう?」
「ええ、まぁ……」
苦笑する阿求に、永琳は溜息をもらす。
さすがに月の頭脳と云ったところだろうか、阿求の身体の状態も永琳には筒抜けのようだ。とりあえずこれを飲みなさいと云われて、薬袋に入った丸薬を差しだされた。コップの水で飲んだらひどく苦い。涙目になった阿求に、永琳はニタリと嫌らしい笑みを浮かべた。
「一応あなたの状態と今飲んだ薬の説明をするわね」
「は、はい……」
「あなたの場合、身体そのものは少し発育不良なだけで、そんなに不健康というわけじゃないの。問題は求聞持の能力ね。その無限に増えていく記憶を維持するために、大量の魔力が使われている。そうして人間のあなたの身体では、その魔力を維持しきれていないのよ」
「はぁ……それはなんとなくわかります」
阿求も求聞持として生きて長いのだ。記憶のすべては受け継がなくても、ある程度自分自身のことは覚えている。でも身体が発育不良だというのは余計だと思う。
「そう? なら話が早いわ。あなたにその魔力を供給しているのは細胞の中の小器官なのだけれど、彼らの活動が弱まっていたのね。今飲んだのはそれを一時的に活性化させる薬。とりあえずこれで当座はしのげるでしょう。毎日三回、食後に一錠ずつ飲むことね」
「う……わかりました……」
あれを食後に飲まないといけないなんてぞっとする。料理の後味も全部吹き飛んでしまいそうでいやだった。そんな阿求の躊躇を感じ取ったのか、永琳はまたニヤリと口角を上げる。
――もしかしてこのひと、楽しんでるんじゃなかろうか。
そういった疑念をどうしてもぬぐえないのは、彼女が笑うたび背後の鈴仙が怯えた表情をするからだ。
「あ、それと、これは生活習慣に関する忠告よ」
「はい。なんでしょう」
「これからはできるだけ周囲に魔力が満ちた空間にいることね。その細胞内小器官は大気中の魔力を吸うものだから。少しは寿命を延ばす効果があるわ」
「あ、そうなんですか。それは気がつきませんでした」
「ええ、たとえば彼岸の結界に守られた清浄な蔵なんて、もっとも身体に悪い場所だわ。稗田の家は人里よりは随分ましだけれど、それでも十分とは云えない。一番いいのは力ある妖怪のそばにいることよ」
「はぁ……力ある妖怪?」
「そう。覚えがないかしら? 誰か妖怪が近くにいると調子が戻って、離れると悪くなるようなことがあったと思うけれど」
「……あっ!」
云われてはじめて気がついた。
たしかにあの事件が起きた次の日、朝から悪かった調子も慧音がきた途端によくなったことがあった。そもそも急に倒れるくらい悪化したのだって、永琳が云う通り阿礼の蔵で一晩すごしてからなのだ。
紅魔館で倒れる直前もそうだ。
パチュリーと話しているうちに体調が戻ってきたというのも、別に甘言のつもりじゃなかった。けれど図書館をでた途端に眩暈がひどくなって、レミリアや妖精たちから離れた時計塔の上で、ついに意識を失ってしまったのだ。
「それ……人間じゃだめなんですか?」
「いくら力ある存在でも、人間はちょっと系統が違うわね。特に魔女なんかが最適よ。あれらは魔力がだだ漏れだもの」
そう云って、永琳は膝に手をついて立ち上がる。
「えぇと……魔女?」
上目遣いに問いかけた。思わず頬が赤くなる。はたしてこの医者はわかって云っているのか、それともたまたまなのかどっちだろう。
そんな阿求に、永琳はニヤリといやらしい笑顔を浮かべる。どうやら前者のほうらしい。
「それじゃ、あとお願いねウドンゲ」
「はい、わかりました師匠!」
部屋をでていく永琳に答えて、鈴仙は寺子屋の子どもみたいに手を挙げた。鼻歌を歌いながら薬缶のお湯をタライに注ぎ、タオルを浸して絞っている。
「あら、なにかなさるんですか?」
「ええ! 身体を拭きますので、脱いでください!」
「えっ!」
満面の笑みを浮かべた兎に、阿求は思わず襦袢の襟元を押さえる。元々女の子が好きな阿求としては、女性に裸を見られることには少し抵抗があるのだった。
「だ、大丈夫ですっ、自分で拭けますから!」
「でもさっきまで起き上がることもできなかったじゃないですか。さあっ! 遠慮なさらずっ!」
「遠慮なんてしてません! ほら、お薬のおかげでもう随分元気です!」
叫びながら、しきりに襟に伸びてくる手を払いのけた。実際その言葉は強がりでもなく、薬のおかげか鈴仙の魔力のおかげか、ほぼ倒れる前の体調を取り戻していた。
「うぅ……そんなこと仰られても、師匠にそうしろって云われたんですもん……」
鈴仙はウサギ耳をへにょりと曲げて涙ぐむ。どうしてそこまで永琳の云うとおりにしたいのかと、阿求は心の中で疑問に思った。
「自分でできますから大丈夫ですって。永琳さんにもそう仰っていただければいいんじゃないですか?」
「……でも、縛るんです」
「え?」
「師匠、私が云いつけ通りにできないと、縛るんですよぉぉ!」
「しばっ!」
思わずよこしまな想像をする阿求だった。はたして縛る目的はなんだろう。
いやなんだろうもなにも、お仕置き以外にないじゃないか、なにを考えてるんだろう自分。そんな身動きできない状態で放置されたりつるされたりして、お仕置き以外のどんな目的が考えられるというのだろう。
「隙ありっ!」
「きゃーっ! ちょ、ちょっと!」
油断している隙に襲いかかられた。
元々相手は妖怪でこちらは人間、本気をだされたら敵うはずもない。阿求はあっというまに襦袢をはがされ、布団で前を隠しながらうずくまる。湯文字一枚になった下半身がすーすーと心許ない。血走った兎の真っ赤な瞳が怖かった。
「お、おとなしくしててください……できるだけ優しくしますから……」
「は、はい……えぇと……はい……?」
鼻息を荒くする鈴仙に、首肯しながらも思わず布団をかきあげた。
なんでわざわざ優しくするなんて云うんだろう。身体を拭くだけだったら優しいも優しくないもないはずだ。わざわざそんなことを云うってことは、優しくできない可能性がある行為をするつもりなのだろうか。
元々寝起きの頭で混乱していた阿求は、つい思い切り叫んでしまった。
「助けてパチェ!!」
「――阿求!!」
その瞬間、がらりと障子が開いて、聞き覚えがある声が降ってきた。
それはいままで一度も聞いたことがないほど大きな声。ふだん小声でぼそぼそ喋るところからは想像できないほど大きくて、けれど聞いた途端彼女のものとわかる、鈴のように綺麗な声。
「パチェ……」
パチュリー・ノーレッジが、憤怒の形相で立っていた。
「なにやってんのあんた!! 私の阿求になにやってんの!!」
きっと鈴仙をにらみつけて呪文をつぶやく。ぶわりと髪の毛が膨らむと同時に、全身から日輪の弾幕が湧きだした。日符『ロイヤルフレア』。パチュリーの代名詞ともなっているスペルカードだ。
「な、なにって……なによこの弾幕!」
悲鳴をあげながらも、鈴仙は襲いくる弾幕をぎりぎりのところで回避していった。さすがに歴戦の月の兵、不意打ちであっても身体が反応するようだ。危ういグレイズを続けながらも波をかわして切り返す。そのままでは避けきれなくなると判断したのだろう、障子を蹴倒して部屋の外へ逃げ出した。
「逃がさない!」
飛び立つ鈴仙を追って、パチュリーも庭園の上を飛んでいく。植え込みの枝振り一本一本まで気が配られた日本庭園は、永遠亭の止まった時の中で悠然とたたずんでいた。
――わぁ、どっちが勝つんだろう。
すっかり襦袢を着直した阿求は、布団の中からひとごとのように弾幕戦を見上げていた。
太陽にも負けないくらいに輝く『ロイヤルフレア』の弾幕と、『幻朧月睨《ルナティックレッドアイズ》』の弾丸状高速放射弾。一瞬戸惑ったようにみえたパチュリーも、二度みただけでパターンを見切り、弾幕の迷路をかいくぐって接近していった。
みればいつのまにか庭園のあちこちから兎たちが顔をだし、囃したてながら頭上の弾幕戦を観戦している。てゐも灯籠の上にあぐらを掻いて座り、にやにや笑って空のふたりを見上げている。
やがてかわしきれなくなったようで、鈴仙は連続被弾して落ちていく。負けたのは味方のはずなのに、なぜか地上からはやんやの喝采があがっていた。
――なんか、誤解だった気がするけどいいのかな。
心の中で鈴仙に謝りながらも、阿求は全速力で戻ってくる魔女の姿を見つめていた。
§6
「――ええっ、わたし三日も寝こんでいたんですか?」
病室でパチュリーに髪を洗ってもらいながら、阿求は驚きの声をあげた。
「そうよ、心配したんだから、ばか……」
甘えた口ぶりでそう云って、パチュリーは軽くくちびるを尖らせる。高ぶる感情を抑えられなかったのか、髪の中の指にぎゅっと力が入った。阿求は高い枕に乗せた首をそらし、視界の中で逆さまになった恋人の顔を仰ぎ見る。
今にも泣きだしそうな顔だった。
「ごめんなさい……」
「ふん、わかればいいのよわかれば」
うっすらと微笑み、パチュリーは上体をかがめて顔を近づけてくる。
そっと瞳を閉じると、くちびるにとても柔らかいものが触れられた。
せっかくだから、この状況を利用して最大限甘えてやろうと阿求は思う。こんなときぐらいしか、この照れ屋の魔女が素直になってくれることはないのだから。
縁側で、パチュリーに髪を乾かしてもらった。
背後に座ったパチュリーの手に魔法陣が浮かんでいて、そこから暖かい風がごうごうと吹きだしてくる。魔法って便利だなと思いながら、指先が頭皮をなでる感触を存分に味わった。
雲一つない青空を眺めながら、ぼんやりとつぶやく。
「……咲夜さんは、犯人じゃないですよね」
「そうね、あの子は違う。……悪いことを云ったと思っているわ」
「大丈夫ですか? その、そっちのほうは」
「ええ、心配しないで。ちゃんと謝っておいたから」
「へぇ、パチェが? なんて云って謝ったんです?」
にやにや笑いながら振りむくと、額にデコピンが振ってきた。
「痛い……」
「絶対云わないから、詮索するだけ無駄よ」
「ちぇ、けちですねぇ」
口を尖らせながら、臆面もなく晴れ上がった空を見上げる。
天狗なのか鳥なのかわからない影が、お日様の中を横切っていくのがみえた。
聞けばパチュリーはこの三日、ずっと永遠亭につめていたらしい。可能なかぎり紅魔館の図書館から動こうとしない彼女としては、とても珍しいことだった。
永琳があんなあてこすりを云った理由もうなずけた。医者から阿求の症状を聞かされたパチュリーは、ずっと枕元で彼女の寝顔を眺めていたらしい。少し出かける用事があっててゐに代わってもらったとき、たまたま阿求が目覚めたということだ。
「これからは、ずっと私がそばにいるわ、阿求……」
「へ……?」
震える声に振りむこうとすると、頭に手を掛けられて無理矢理前をむかされた。首がぐきりと痛んだけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。
「そばにいるってパチェ……それって……」
「だ、だって仕方ないでしょう。私がいてあげないと、あなたまた倒れるかもしれないんじゃない。もうあんな思いは二度としたくないのよ」
背中からぎゅっと抱きしめられた。
その日もひどく暑い一日で、庭園のむこうの竹林からは、今日を盛りと鳴く蝉たちの大合唱が聞こえている。中天にかかる太陽はじりじりと地表を灼き、阿求の腋の下をたらりと汗がしたたり落ちていく。
けれど、暑苦しいなんて少しも思わなかった。
もっともっと抱きついていて欲しかった。
「パチェ……」
「もちろん、あなたさえよければの話だけれど……」
「うん……わたしも、ずっとあなたのそばにいたいです」
ずっと云いたくて云えなかった思いを口にしたら、思わず涙ぐんでしまった。
本当に自分でいいのかとか、別れるときに一層辛くなるんじゃないかとか、聞き返したいことはたくさんあった。けれどパチュリーへの思いで胸が一杯になってしまって、なにも云うことができなくなった。それらの言葉は涙になって、目尻のふちからぽろりとこぼれた。
「阿求……」
ささやきと共に、その涙を指ですくわれる。パチュリーが頬をよせてきて、阿求も口づけをかわすために横をむく。
魔女の桔梗色の瞳がうるんでいる。
白磁の頬が、羞恥の色に染まっている。
そのむこうに、カメラを構える射命丸文がいる。
それに気がついた瞬間、阿求はぶーと盛大に噴きだした。
「……あ、阿求?」
「パ、パパパパチェ! 後ろ後ろ!」
無理矢理頭をつかんで振りかえらせた。なんか首のあたりから不吉な音が聞こえたけれど、大事の前の小事だと思った。なんといってもパチュリーは、一世一代の告白をしたあと当の相手に吹き出されたのだ。変に誤解されたら羞恥と憤怒で悶死しかねないと思った。
振りかえったパチュリーは、文と見つめ合ったまま人形のように動かない。
その直後、文の全身に大量のナイフが生えた。
次の瞬間、綺麗さっぱり消え失せた。
なにやら廊下の角のむこうから、どたばたと騒がしいわめき声が聞こえてくる。なんだか聞き覚えがある声だった。
「ちょっと、なんであれが飛び出すのを止められなかったのよ咲夜!」
「処理が遅れてもうしわけありませんお嬢さま、まさかあそこまで無粋な行動にでるとは……」
「いやー、ロマンチックだったね! どきどきしたね鈴仙っ!」
「今別の意味で心臓がばくばく云ってるわよ! だからのぞき見なんて止めようって云ったのにっ!」
気がついたら、パチュリーもその場にいなかった。
その後起こった大騒動のことを、阿求は忘れることにした。
無理だったけれど。
§7
その後永遠亭が元通りになるまで、実に一週間がかかった。
ただ単に紅魔館の当主と魔女の内紛であったなら、それほどの被害がでることもなかっただろう。
だが意識を取り戻した山の天狗と、その姿を写真に収めようと飛んできたもうひとりの新聞記者との醜い争い。永遠亭から火の手が上がるのをみて殴りこんできた蓬莱人と、生き生きした顔で飛びだしていった月の姫との殺し合いが、抗争の炎にニトログリセリンを注いだ。
それはひどい戦争だった。
たくさんの兎が毛皮を焼かれ、ふたりの不死人がたくさん死んだ。メイドの裏切りと月の頭脳の暗躍があった。戦闘マシーンと化した鈴仙が阿求の涙で我を取り戻したこともあった。因幡てゐが勝敗予想の胴元として大量の金子をかせいだ。
けれどそれらのできごとが、幻想郷の正史に記されることは決してない。
阿求が忘れちゃいましたと可愛く舌をだして、上白沢慧音がテストの採点で忙しかったからだ。
「――で、なんで私たちはこんなところに集められているんでしょう?」
永遠亭の奥まった場所にある一室で、射命丸文は興味深そうに天狗帖を取り出した。
部屋には彼女のほかにも何人かの人妖が集まっていた。永遠亭の因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバ。パチュリー・ノーレッジと黒猫の目占。テストの採点が終わった上白沢慧音。それにもちろん稗田阿求。
文もパチュリーも、怒り心頭に発した永琳の恫喝によって、今まで永遠亭復旧のために駆りだされていたのだ。そうでなくてはあれほどの打撃を受けた永遠亭が一週間で復旧するはずがない。
もっとも、文と違ってパチュリーは頼まれなくともこの場に居着いていただろう。なんと云ってもそばにいると誓った阿求が、医者の命で永遠亭に留まっていたのだから。さらに云うなら、魔女自身は阿求の部屋でずっと本を読んでいただけで、基本的にほとんど咲夜が働いた。
文と咲夜、それに鈴仙の不眠不休の努力によって復旧は完了し、力を出し尽くしてふらふら帰っていった咲夜を見送ったあと、阿求は山に戻ろうとした文を引き留めてこの会合を開いたのだった。
「文さんも鈴仙さんたちも、とりあえずわたしの話を聞いてください。文さんにとってもこれは役に立つ話だと思いますし」
「ほう?」
文がきらりと瞳を輝かせ、天狗帖に何ごとかを書き込んだ。てゐは畳に寝っ転がって足をぱたぱたさせている。鈴仙は夏だというのに長袖ブラウスを着ていて、なぜかしきりに手首の辺りを気にしていた。
やがて阿求の長い話も終わり、文は天狗帖をぱらぱらめくりながらつぶやく。
「なるほどなるほど。稗田の聖域、奪われた鍵の謎、消えた秘術書。うん、中々面白そうな要素そろってますねぇ」
「それはどうも。協力していただけるなら記事にされても構いませんよ。無事に解決されて、書けるような内容だったらですけれど」
「うーん……そうですねぇ、たしかに面白い話ではあるなぁ……」
「あれ? あんまり気が進まない感じですか?」
実際阿求は、記事に書く許可を与える代わりに、色々な事情を聞きだそうと思っていたのだ。もっと食いついてくるかと思ったら気が乗らなそうな様子で、少し当てがはずれた。
これはもしかしたら、文自身になにか含むところがあるということだろうか。もし彼女が犯人だったなら、自分が行った犯行を記事にするはずがないだろう。けれどそう思った矢先に、文はあっさりと云った。
「いやね。普段でしたら万々歳で飛びつくんですが、次回はもう求聞持と魔女の一大ラブロマンスで書くことに決まってますからねぇ。稗田家でなにやら怪しいことが起きたなんて情報があると、本筋がぼやけるじゃないですか」
「一大ラブ……」
「ほぉら、こんないい写真も撮れましたし」
そう云って、文は手帳から一枚の写真を取り出した。
それはあの日縁側で撮った写真だった。
瞳を潤ませたパチュリーが、宝物を扱うような仕草で阿求を抱きよせ、今にも口づけようかという写真。その上気した頬といい、信頼しきった様子ですっかり身体をまかせる阿求といい、たしかに見るものに一大ラブロマンスを感じさせる写真だろう。
「――そ、それを返しなさい天狗!!」
その瞬間隣からもの凄い魔力が放射されて、阿求はちょっと元気になった。
「抑えて! 抑えてください! せっかく直ったばっかりなのに!」
泣いてすがりつく鈴仙を足蹴にして、パチュリーは髪を逆立てながら呪文を唱える。そんな恋人の手に手を触れて、阿求はそっとささやいた。
「パチュリーさん、今はやめておきませんか」
「阿求?……まぁ、あなたがそう云うのなら」
あっさりと矛を収め、魔女はぽふんと安楽椅子に座りこむ。
つんと顔を反らす恋人に微笑みかけ、再び文とむきなおる阿求。床に倒れ込んだ鈴仙の手首に、縄で縛ったような跡があることには気づかなかったふりをした。
「ね、ねぇ文さん。その写真を使って記事を書いてもいいですから、こちらの事件にご協力願えませんか?」
「あら? 珍しく聞き分けがいいですねぇ。どうせまた『事件があった事実は事実。事実をありのまま報道するべきです』とかぷんすかすると思ったのに」
「わ、わかっているのなら……」
反駁したくなる気持ちをぐっと抑える。ここで文から言質をとることがどうしても必要だった。
「ふふん♪ まぁいいです、協力しましょう。使いづらくてもネタがあるにこしたことはないですしね」
「まぁあ、それはそれはありがとうございます」
眉間に青筋を立てながら正座する。目占がとことことやってきて、その膝の上にちょこんと座った。気持ちよさそうに目を細める忠臣の頭をなでながら、阿求は文にむけて語っていった。
「――では。文さんが我が家にこられたのは、水無月二十六日、事件が発覚する三日前の払暁のことでした。四時三十八分でしたね。客間の縁側で朝焼けが奇麗だなぁとながめていたら、その太陽の中を飛んでこられたので、はっきり覚えています」
「はぁ? なんで私の話を?……でもまぁ、たしかに二十六日の明け方は阿求さんのところにいきましたね。うん、あの日の朝焼けは本当に怖いくらいにきれいでした。ついでに上空から眺めたあなたは芥子粒のようで、今にも朝焼けに溶けてしまいそうでしたよ」
「あら、詩的な表現をありがとうございます」
ころころと笑って、膝の目占と目を合わせる。時刻の確認をしたのだろう、猫はこくんとうなずいた。
* * *
その日文が稗田邸を訪れたのは、いつものごとく阿求に訊ねたいことがあったかららしい。
「――はぁ? 過去に敷地ごと幻想郷にやってきた例がどれくらいあるか、ですか?」
「ええそうなんですよ。あなたなら知っているでしょう? あの蔵の中身全部覚えてるんだから」
庭に生えた唐松の枝に座り、文はちらりと阿礼の蔵に視線を投げかける。そんな高いところにいられると首が疲れて仕方がない。
「いや、全部読んでいるわけじゃないですよ。直近の先代分は読んでいますが、他は読んでいないものもあります。九代分の人生すべて読んでいたらわたしの人生が終わってしまいますからねぇ」
「あらそうなんですか。はは、好きなことも満足にできないなんて不憫な人生ですねぇ。そんな蝉みたいに生きて死んで生きて死んで、むなしくないですか」
けらけらと笑う鴉天狗に、阿求はむっと口を尖らせた。軒下に止まっていた蝉が、鳴くのをやめてさっと飛び立つ。
「放っておいてください。わたしもあの蝉も、これで結構満足してるんですから」
「ふん、とっととこっち側きちゃえばいいのに」
ぷいと横をむいた文のすべらかな頬に、松の枝葉が緑色の影を落としていた。輝く太陽は地平線のくびきを逃れ、青い空の中を少しずつ少しずつ昇ってくる。その日もまた、ひどく暑くなりそうな一日だった。さわさわと穏やかな風が吹いていることだけが救いだと阿求は思った。
「で、なんですか敷地ごと幻想郷にやってきたというのは。紅魔館みたいなことですか?」
「そうですそうです。どれぐらいの力があればあんなことできるのかさっぱりでして。わたしゃ外の世界のことはよくわかんないんですよぅ」
文はそう云って、メモを取る鉛筆でこめかみをぽりりと掻いた。
阿求は記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。
「うーん……ぱっと思いつく限りでは、湖の畔の森の中に騒霊の館がありますよね。紅魔館とは規模が違えど、あれも似たような感じでしょう」
「ああ、騒霊楽団の。たしかにそうですねぇ」
「他にも里の外れに住み着いている果心居士は寺ごとやってきたそうです。それに沢の近くの泥田坊なんかも田んぼを引き連れてきたようですが……このあたりは少し違うかな?」
「と云うと?」
「いえね、泥田坊なんかは田んぼに依存する妖怪ですから、そもそも田んぼがなければ存在できません。だから幻想郷に入ってくるときに周囲の環境も引き連れてくるだけで、紅魔館や果心居士のように必要ないものまでもってくるのとは違うかなと。ああ、でもそう考えると騒霊の館も似たようなものでしょうか。屋敷の中を騒がせてこその騒霊ですしねぇ」
「なるほど、色々難しいんですね。それで、紅魔館の場合はどうやって移転させたかご存じですか?」
「えぇと、詳しい技術的なことはわかりませんけど、パ……魔女さんがなにやら凄い儀式を行ったらしいですよ」
顔を赤らめた阿求に、文はにやりと口元を歪ませた。
「ふーん、魔女さん、ねぇ?」
「な、なんですかー!}
「いえいえ。しかしそうなると、やはり必要ないものまでもってくるのはかなりの力がないとできないということでしょうか」
「そうですねぇ、そうだと思いますよ。果心居士にしたって高名な幻術師ですしね」
「では――湖をひとつもってくるというのはどうですか?」
「――は?」
阿求はぽかんと口を開ける。そんな彼女を眺めて、文は困ったように眉をよせた。
「妖怪の山の山頂近くに、突然霧の湖に匹敵するほど巨大な湖ができたんです。そうしてそのほとりには神社が一軒建っている。そんな事例に心当たりはありますか?」
「そんな――そんなの聞いたことありません。それほど巨大な幻想入りは……」
ざわと風が吹いて、阿求の火照った肌をなでていく。
舞い落ちる木の葉をくるくると風で弄びながら、文は難しそうな顔で唸っている。この天狗のこんな真剣な顔を、阿求ははじめてみたように思う。
「そうですか……いや参考になりました。どうもこれは一波乱ありそうで」
「いえ、お役に立てたらいいのですが」
そう云って樹上を見上げれば、すでに文の姿はそこになかった。
気がつけば、さっきまで吹いていた風がぴたりと止んでいる。
――ああ、あのひとが風を起こしてくれていたのか。
途端に押しよせてくる熱気の中で、たまにはあのひとの新聞も読んでやろうと阿求は思った。
後にこの神社を調査するために博麗霊夢が山を登るのだが、それはまた別の話となる。
* * *
「――と、こういうことがあった次第です」
阿求が話し終えると、場が一瞬静寂に包まれる。そんな中、口惜しそうに口を尖らせる文の姿があった。
「……なるほど、ようするに私も容疑者だということですか。てっきり探偵役として意見を聞かれるのかと思ってましたよ」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ただひとつひとつ可能性を潰しているだけなんですよ」
「同じようなもんじゃないですか。随分しつこく協力の言質をとろうとしてると思ったら……ふん、してやられましたね」
文はぷいと横をむいたが、それ以上暴れるような様子はみせなかった。どうやら憎まれ口を叩くだけで収めてくれたらしいと、阿求はほっと胸をなでおろす。
「しかしまぁ、さきほどの話からすると射命丸さんは容疑者から外してもいいんじゃないか? 少し話をしただけで帰っていったようだが」
慧音の言葉に、文は我が意を得たりというようにうなずいた。
もしかしたらこれも演技だろうかと阿求は思う。もし彼女が犯人だったなら、さきほどの悔しそうな態度も含めて全部演技だということになる。
あの日、暑そうにしている阿求を見かねたのか、素知らぬ顔で風を起こしてくれていた。日頃から意見が対立しがちな論敵ではあるけれど、本気で自分を騙そうとしてくるとは思えない。
――だが。
「それが、帰ってはいなかったのですよ、慧音先生」
「なに?」
阿求の言葉に、慧音は大げさに目を見開く。
「目占、喋っちゃっていいよ」
頭にぽんと手を乗せると、膝の上の目占は流暢な人間語で語りはじめた。
「単純なことだ。そこの鴉天狗の霊力は、いったん敷地内から離れたあと、また戻ってきてしばらくの間とどまっていたのだ」
「――なっ! なによこの猫はっ!」
「目占だが?」
「名前を聞いたわけじゃない! 化猫だったんですかこいつ」
「ええ、正確には化けはじめ猫ですけどね。この子は稗田の家を出入りする霊気を監視してくれているんです。で、目占の話を聞いてほかの猫にも当たってみたんですが、とある子が蔵のあたりで文さんをみかけたっていうんですよ。それで間違いないですか文さん?」
「はぁ……今日はなんか厄日ね。この私ともあろうものが……」
文はどっかとあぐらをかいて、膝に立てた手で頬杖をついた。
ちくりと痛む胸を押さえるように、阿求は目占をぎゅっと抱きしめる。疑いたくて疑っているわけじゃない。ただ真実を知りたいだけだった。
「まぁね、たしかにあの日、蔵に侵入しようとしたんですよ私は」
その言葉に、場の一同がざわめいた。
てゐだけはなんか庭で遊んでいた。
「侵入しようとした、ということは侵入することはできなかったということですか?」
「ええ、その通りです。別に信じてくれなくても構いやしませんがね」
「いえ、信じますよ。一体どういう理由でそんなことをしたんです?」
文はぼりぼりと頭を掻いて立ち上がる。
畳を横切って縁側の障子を開けると、広がる日本式庭園を見下ろした。
輝夜の能力で時が止まった池泉回遊式庭園。そこには景観で見立てる必要もない永遠と須臾が、そこかしこに溢れている。
そのまま逃げられる可能性を考えたのだろう、パチュリーが椅子から腰を浮かしてブンと魔導書を取りよせる。だがそれ以上なにをするでもなく、どこか哀愁ただよう文の背中をみつめていた。
やがて天狗は、ぽつりと云った。
「――思いだしたんですよ。あなたが以前云った言葉をね」
「……わたしが?」
「いいえ、あなたではありません」
「はい?」
「あなたではないあなたです。あなたそっくりの顔をして、あなたと同じ小生意気なことばかり口にして、あなたと同じくらいちっぽけで、あっという間に私の前から消えていったあなたです」
その言葉で、阿求も文がなにを云っているのか呑みこめた。
「誰ですか? どのわたしのことですか?」
「阿弥です阿弥。いえ私じゃないです、阿弥ですよ? って、あやややや、これじゃなんだかわかりません。よくまぎらわしいって云い合ったもんでした」
「ふふ、実はわたしもそう思っていました」
「ふん、残酷ですよあなたは。同じ顔して同じようなこと云う癖に、以前のことは奇麗さっぱり忘れてるんですから」
「……文さん……」
その言葉が胸の奥に突き刺さり、痛みをもって響いてくる。
死ぬということ、忘れるということ、変わるということ。
けれど常に存在し続けてきたということ。
それらは御阿礼の子にとって悲しみでありまた寂しさであったが、周囲の他者にとってもまた同じ悲しみであったのだ。同じ顔をして同じ魂をもっていても、以前の求聞持とは違う存在。長じるにつれ容姿が似通ってくればくるほど、勘違いする、期待する。
――死んでしまったあの子が、また自分の前にやってきてくれたんじゃないかと。
けれど実際話してみれば、以前とは違う人間なのだとすぐわかる。昔かわした会話を覚えていない。一緒にすごした日々の記憶を持っていない。かつて自分に対してむけてくれていた親しさを、新しい求聞持が分け与えてくれることはない。
それで阿求は思い出す。文が御阿礼神事の記事に阿弥の写真を使いたがったのは、見栄えを考えただけじゃなかったかもしれない。
「誤解しないでくださいね。別に好き合っていたわけじゃない。ただ天狗の撹乱というかなんというか、名前が似てるからちょっと気を許してしまっただけなんです」
「はい。それほどの関係でしたら、阿弥もわたしのためにそのことを書き残したでしょうしね」
「ふん、なれなれしく呼び捨てにしないでくださいよ」
「文さんのことじゃないです、稗田阿弥です稗田阿弥! ああ、もう本当紛らわしい……」
おどけるようにそんなことを云ったけれど、本当は少し泣きたくなっていた。これからも自分はずっとこんなことを続けていくんだと思うと、唐突に全部終わらせてしまいたくなってくる。
もう転生の儀式を行うことなく、ただの人間として死ねばいい。
それは今日のこのときはじめて感じた思いではない。以前から何度も考えてきたことだ。
けれどそのとき、隣から伸びてきたパチュリーの手が、ぎゅっと阿求の手を握る。慈しむように、元気づけるように、私がここにいるとでもいうように。
そうしてそれだけで、阿求の中に巣くっていた諦観は綺麗さっぱり消え失せてしまうのだ。
転生してたとえなにもかも忘れ去ってしまっても、このひとはきっとこの幻想郷で自分を待ってくれているだろう。だってずっと傍にいると約束してくれたから。
きっと真っ赤になっているだろう顔にふりむかず、正面をむいたままぎゅっとその手を握りかえす。目をつぶって呼吸を整え、文の背中に語りかけた。
「それで、わたしがなにを云ったんでしょうか。文さんはどうして蔵に入ろうとしたんでしょう?」
阿求に背中をむけたまま、天狗はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「いえね。あなたと話していて思いだしたんですよ。昔阿弥が『妖怪の山は元々この地にあったものじゃないんじゃないか』って云ってたことをね」
「妖怪の山が……?」
「ええ。なんでもそういう記述を、阿礼の書きつけの中にみつけたそうで。どうやら阿礼はあの妖怪の山自体、四天王の方々がなんかの秘術でどっか中央からもってきたと推測していたようですよ」
「はぁ……じゃあもしかして、その阿礼の書きつけを探そうとして?」
「そうです。四天王の方々がどうやってそれを成し遂げたのかわかれば、あの湖に住まう者の正体もわかるかもしれないじゃないですか」
「なるほど。でもそんなこと――」
直接相談してくれればよかったのにと、そう云おうとして阿求は押し黙る。
きっと文は自分に気を遣っていたのだろう。さきほどの話を伝えようとすると、文と阿弥が交わした会話を阿求が覚えていないという事実を突きつけることになる。
それで阿求が傷つくことを、この天狗は知っていたのだ。
なんといっても、素知らぬ顔で誰かのために風を起こしてやれるひとだから。
「いえ……そうですね。はい、納得しました」
「信じていただけますか?」
縁側に座ったまま、文は伸びをするようにごろんと後ろに転がった。寝転がったまま首だけを阿求にむけて、おどけるような上目遣いで問いかける。きっとこの天狗なりの照れ隠しなのだろう。意外と可愛いところもあるんだなと思う。
「ええ、信じます」
阿求は力強くうなずいた。
庭のどこかから、かこんと鹿威しの音がする。
永遠に時が止まったこの庭に、波紋のように響いて消えた。
§8
「――で、具体的になにしてたのよあんた」
鈴仙が淹れた緑茶をこくりと含み、パチュリーは首をひねりながら云った。
「なにをってなんですか?」
「蔵に侵入しようとしたって話。どうやろうとしたのか聞きたい」
「ああ、それは……こっそり入れる場所がないかとうろうろしてたんですよ。でもだめですね、四囲は入り口以外開口部がない完全な壁ですし、近づくだけでがんがん力が吸い取られていくんです」
「わかるわ。それでどうしようとしたの? 天窓から入ろうとして駄目だったのかしら」
魔女はテーブルに頬杖をつきながら目を細める。その言葉に苦笑しながら、天狗は皿のせんべいをばりりと囓った。
「当たりです、でも駄目でしたねぇ。飛んでいこうとしても近づくにつれてどんどん浮力がなくなって、蔵の手前で地面に落っこちてしまうんですよ。はるか上空から急降下してみたりトップスピードで突撃したりしても駄目で、結局屋根に飛び乗ることすらできなかったのです」
「ふぅん。やはり優秀な結界なのね」
「まぁ、是非曲直庁お墨つきですし。それにしても……天窓ですか?」
「そうよ。あったでしょ、天窓」
「ありますけど……え? もしかして前から天窓が怪しいと思ってました? パチェ……いやパチュリーさん」
慌てて云い直した阿求を、文が笑いながら突っついた。
「はは、別にもう愛称でいいんじゃないですか。どうせあなた方の関係なんてみんな知ってるんですから」
「は、はぁ……」
頬を赤くして周囲を見回す。兎ふたりはにこにこしながら阿求のことをみつめていた。慧音も穏やかに笑っている。阿求は同じように頬を紅潮させたパチュリーと、顔を見あわせながらうなずいた。
途端に漂ってしまった甘酸っぱい空気を振り払うように、魔女が咳払いをひとつする。
「……コホン。もちろん天窓は最初から気になっていたわ。扉以外に開口部といえばあそこしかないもの」
「たしかに私も少し考えたことはあったが……しかし、あの窓はひとがひとり通るには少し小さすぎるんじゃないか?」
首を捻った慧音に、阿求もうなずいた。
「そうですねぇ。文さんじゃちょっと難しいかも。わたしくらいならなんとか通れそうな気がしますが」
「ええ、あそこはあなたくらいちみっこくてぺったんこじゃないと、とても通れないと思いましたね。だからちょっと試してみてすぐ諦めたんですよ」
「ぺたっ……!」
目を見開く阿求に、文はにやりと笑いかける。
「まあまあ。別に気にするこたぁありませんよ、そういうのが好きなひとも世間にはたくさんいますからね。ほれ、ちょうどそこにいる魔女なんか――」
その瞬間、パチュリーが放った白弾が天狗の顔面に直撃する。
「ぶげっ!!」
「ふん、馬鹿なこと云ってないで続きを話しなさい」
「おお、いてて……、なんて乱暴な魔女でしょう。でも残念ながらもう話すことはないですよ。その後すぐ立ち去ったんですから」
「そう……」
魔女はつぶやきながらせんべいを両手でつまみあげ、リスのようにパリパリと囓りだす。普段あまり喋らないから顎の力がないのだろう、固いせんべいを噛み割るのも大変そうだった。
食べ終わった口元を手で隠しながら、こくんと飲み込んで云う。
「……でも、天狗の件はともかく、天窓のことはもう少し考えてもいいんじゃないかしら」
「と云うと?」
「ほら、さっき阿求は自分くらいなら通れるかもって云ったでしょう? なら今挙がってる容疑者の中にもそこを通れる者がいるじゃない」
「ああ、そうか。容疑者の中でわたしと同じくらいの体格と云えば……」
その直後、一同の視線が一斉にてゐへと集まった。
「ぬおっ! いきなり大注目!」
鈴仙のブラウスに蝉の抜け殻をくっつけていたてゐが、降参するように両手を挙げた。
「え? ちょっ、うわ、なにやってんのあんた!」
どうやら今の今まで気がついていなかったらしい。鈴仙は慌てて振り返り、悲鳴を上げながらブラウスについた蝉の抜け殻をはたこうとした。その手の下で、大量の抜け殻がぐしゃりとつぶれる。
「ぎゃー! 気持ち悪い!」
ばたばたと縁側に駆けより、ばんと障子を閉めたむこうでブラウスを脱ぎ出した。午後の西日がその影を障子に投げかけていて、そのスマートなボディラインをあますところなくさらしている。期せずして行われたストリップショーに、阿求は思わず顔を赤らめた。
「毎度ご来場ありがとうございやす! さぁさ、世にも珍しい月の兎の白黒ショー! お代はどうぞこの中に!」
てゐが芝居がかった仕草できんちゃく袋を差し出して、お代のかわりに一同から笑い声を引き出した。
やがて服を着直した鈴仙が、がらりと障子を開けて戻ってくる。
「馬鹿云ってんじゃないわよ! もう信じらんない!」
背中を蹴ろうと振り上げた足をひょいと避け、てゐはテーブルにかけよってせんべいに手を伸ばす。
こちらは鈴仙とは対照的に凹凸のない、子どもみたいな体格をしている。地上兎の例に漏れず背も低い。鈴仙はあの窓を通れないだろうけれど、このてゐなら通ることができるだろう。
「それで、こいつが犯人かもしれないって?」
「そう。……いえ、疑っているわけじゃないわ。ただの可能性の話よ」
無表情のままパチュリーが答える。さすがにこの魔女も咲夜の件で懲りているらしく、以前のように容疑者を面とむかって糾弾することはしなかった。
「可能性ったって、犯人だと思われてるのに変わりないじゃない。ひっどいよねー。鈴仙からもなんか云ってやってよ」
「ごめんなさい! きっとこいつです!」
「えーっ!」
てっきりかばうかと思っていたら、鈴仙はがばりと頭を下げて謝った。思わずぽかんと口を開ける阿求。てゐは不服そうにほっぺを膨らませながら、ぽかぽかと鈴仙を叩きはじめる。
「ぶー! なによそれ! 鈴仙はわたしがそんなことするやつだと思うの!?」
「思う! 死ぬほど思う!」
「がーん! なぜっ!?」
「三分前にあんたがなにしたか忘れたのか! ほら、あんたもいっしょに謝んなさい!」
鈴仙はてゐの頭に手をかけ、無理矢理一緒に下げさせようとした。けれどいたずら兎は頑としてゆずらず、背筋を伸ばして力を入れる。ぐぎぎぎ、と音が聞こえそうなほどの拮抗戦のすえ、とつぜん鈴仙の目に二本指を突き刺した。
「ノオオオオーー!!」
「なにさ、鈴仙のばか! してないったらしてないもん! わたしがやるなら、ちゃんとわたしの仕業ってわかるようにするもん! 誰かに押しつけたりしないよ!」
鈴仙は涙を流しながら目を見開く。見開いた瞳は目つぶしのせいか真っ赤に充血していた。元からだったかもしれない。
「てゐ……それもそうかも」
「あの、別にそんなに疑っているわけじゃないので……正直今の段階で謝られても困ってしまうんですが」
頬を掻く阿求の隣で、パチュリーが呆れたようにつぶやいた。
「ふん、そんなに他人を疑ってばかりいると、友だちなくすわよ」
その言葉には妙な実感がこもっていて、事情を知っている阿求と慧音と目占は、へらへらと笑ったのだった。
* * *
阿求が云うには、鈴仙とてゐが稗田邸を訪れたのは、文と同じ二十六日、午後三時十七分のことらしい。
「毎度どうも、薬屋です」
「です!」
阿求が玄関まで迎えにでると、いつもの鈴仙の隣に因幡てゐの姿があった。
「あら、珍しいですねてゐさん。今日はどうされたんですか?」
「暇だったから鈴仙についてきた!」
「暇だったからじゃないわよ。あんた薬の補充係だったでしょ。飽きてさぼりにきただけじゃない」
「ぶー、いちいちうっさいな鈴仙は!」
玄関口で云い合うふたりを眺めながら、相変わらず仲いいなと阿求は苦笑する。
「あの、立ち話もなんですし、とりあえず上がってくださいな。紅茶くらいお出ししますから」
「あ、いただきます」
答えて、草履を脱いで上がり込む。
ふたりとも背中に大きな行李を背負っていた。
暇だったはずのてゐは、細々とした薬の説明を鈴仙がはじめた途端、興味を失ったようにふらりと消えた。兎というよりまるで気まぐれな猫のようだ。
「てゐ、ちょっとそっちの行李を――っていないっ!」
「てゐさんなら、ちょっと前に縁側から飛び出していきましたけど……」
「とほほ、またかー。どうりで静かだなって思いましたよ」
鈴仙はがっくりと肩を落としながら、てゐが担いでいた行李を手元に引き寄せた。箪笥のような薬箱の引き出しを開け、中から紙包みを取り出す。
「強壮剤のストックが減ってるようなので、補充しときますね」
「ありがとうございます。これ効きがよくって助かってるんですよ」
「それはよかったです。でも前回もこれ使われてたようですけど、体調悪いようでしたらちゃんと師匠に診てもらったほうがいいですよ。その、お体あんまり強くないみたいですし……」
「ええ、実は近々診てもらおうかなと思っているんですが」
「あ、はい。いつでもいらしてください」
鈴仙がにっこりと笑ったそのとき、障子のむこうから失礼しますとの声がかかった。阿求がどうぞと返すと、すっと障子を引き開けて、お盆にティーセットを乗せた着物姿の女性が現れた。
女性はしずしずと畳を歩いてきて、テーブルにお茶の用意を調える。
「ありがとう、阿澄《あすみ》」
「どういたしまして。それよりあまり根を詰めすぎないでくださいね、御阿礼さま」
「……わかってます」
女性はふわりと鈴仙に微笑みかけると、優雅に一礼して去っていく。その姿がみえなくなった後、感心したように鈴仙が云った。
「はー、さすが稗田家。女中さんひとりひとりまでなんか優雅ですね」
彼女の言葉に、阿求は困ったような表情を浮かべる。
「あの、あれは女中ではなくわたしの母です」
「え! お母さんっ!? で、でも御阿礼さまって……っていうかお母さん呼び捨てっ!」
「それは当たり前でしょう? わたしのほうが母より偉いんですから。わたしは当主御阿礼で、彼女はただの門衛件武術師範です」
「そ、そういうものですか……」
「ええ、うちは昔からこんな感じです。血を引いた一族の誰から御阿礼の子が産まれるかはわかりませんから。産まれたのが御阿礼の子だった瞬間、それは母の子どもではなく当主になるのです」
「はぁ……」
釈然としない様子の鈴仙に、阿求は首をひねる。
「そんなに驚くようなことでしょうか? わたしには月の生活のほうがよほど奇妙に思えますけれど。月には表の月と裏の月があるって本当ですか?」
「あ、ええ。街のそこかしこに結界のほころびがあって、たまに子どもが表の月にいっちゃって怒られたりしますねー。地球から見つかるかもしれないって云うんですけど、あんな遠くから見えるはずないと思うんですけどね?」
「それは、幻想郷の基準では随分変わった生活ですねぇ」
「変ですか?……まぁ、たしかに幻想郷とは全然違いますよね」
「ええ。でも文化の違いなんてそういうものでしょう? どっちが変だというわけでもないんじゃないですか」
「そうですよね。あ、そうか。そう考えると稗田のかたたちも別にいいのか」
うんうんとうなずく鈴仙だった。
本当にやりやすいひとだなと阿求は思う。見た目はすらりとしていて格好いいのに、性格は素直で可愛らしい。てゐがこの鈴仙ばかりいじりたおしている理由も、なんだかわかる気がした。
「あの、せっかくなのでもっと月の話をうかがいたいのですけど、よろしいですか?」
阿求の提案に、鈴仙は満面の笑みでうなずいた。
ちょっと書きつけをとってくると断って、書斎にむかう。内部を鈴仙にみられないように、部屋を仕切る障子を素早く閉めた。普段は『別に散らかっているわけじゃない』とうそぶく彼女だったけれど、どうやらみっともないという自覚はあるらしい。付書院のあたりからメモ帳と筆記具を取り上げ、客間に戻っていった。
「いやー、でもなんだかとても嬉しいです。月の話とかあんまりしたことないんですよねー」
「そうなんですか? 珍しい話を聞けてわたしは嬉しいですけれど」
「ええ、ほら、月の兎って私だけじゃないですか。師匠や姫さまは格上すぎてあれだし、てゐや兎たちは云うこと聞いてくれないし……里のひとには、き、気味悪がられるしで……うう、あんまり対等な話相手が……」
云っている間に落ち込んできたのか、どんどんうつむきがちになっていく。
それはまあそうなんだろうなと阿求は思う。妖怪はともかく、人間というのはそういうものだ。いくら幻想郷の住人といっても、自分が生まれ育った文化にないものを受け入れられるひとは意外と少ない。
そんなことを云って慰めると、鈴仙は瞳をきらきらさせながら阿求の手を握った。
「いいひとだ!」
「え、ええ!? いや、そんなことないと思いますが……」
「いえいえ、そんなことありますよ! 阿求さんだって人間なのに、どうしてそんな風に客観的になれるんですか?」
その言葉に、阿求は思わず自嘲する。
「まあ、わたしも半分人間じゃないですから」
その瞬間、九代目を数える阿礼乙女は、心にぽかりとできた穴に落ちそうになった。
自分は里に暮らす人間だけれど、里の人間と同じではない。
稗田の者だって、生きて死ぬ人間である以上は自分と同じ場所には立っていない。父も、母も、兄弟姉妹も、妻や夫や娘や息子ですら。
この世にたったひとりという、圧倒的な孤独感。
求聞持はそんな異邦人感覚を抱きながら転生を続ける。その点ではたったひとりの月兎である鈴仙と変わらない。嫌われて恐れられた咲夜と変わらない。魔女狩りによってひとから追われたパチュリーやレミリアと変わらない。
けれどただひとつ違うのは、求聞持は妖怪ではなく人間だということだ。人間にあらがえるだけの力を持つ妖怪と違って、御阿礼の子は人一倍身体が弱い。
だから、人間のための幻想郷縁起を書き続けてきた。
そうしなければ、里で生きていくことはできなかったから。
妖怪と人間との差異を強調し、妖怪はとんでもない存在なのだと書きたてることで恐れを抱かせ、人間であるのは正しいことだと里の人間に伝えていく。それが幻想郷縁起という書物だ。
悪い妖怪におびやかされる、正しくて善良な『私たち』のために。
自分は『あちら側』なのだと思われ、里から切り離されることがないように。妖怪に対して強い共感を感じながらも、人間には妖怪に対する忌避感を植えつけている。そうして自分を安全な『こちら側』に位置づけようとする。
その矛盾が、彼女のことを責め立てる。
その罪が、彼女の生を重くする。
なんのことはない、阿求自身も文のことを怒れない。
――わたしは少し、白黒はっきりしなさすぎている。
小さな身体で巨大な悔悟棒をもてあそぶ、四季映姫の姿が浮かんで消えた。
「……阿求さん? 大丈夫ですか?」
鈴仙の声に、阿求は首を振って閻魔の仏頂面を打ち消した。
「ええ、大丈夫です。身体の調子はいいですから。それよりすいません、月のお話を聞かせてくださいな」
「あ、はい! 喜んで!」
鈴仙は誇らしげな様子で月の文化を語っていった。
自分が育ってきた文化を肯定的に語れることがうれしいのだろう。集団で生活する玉兎はやはり妖怪というより人間に近いのかもしれないと、阿求は書きつけを進めながら頭の中でメモをする。
彼女が語る月の生活は魅力的だった。
黒い空に張り巡らされる魔力的なハイウェイ。交通整理のため七色に光る警告灯が、天蓋いっぱいに瞬いている。その中心に浮かぶ地球の鮮やかさ、青い海にたなびく白い雲、たまに太平洋をつっきっていく巨大なハリケーン。
十五夜に地球光を浴びて撞く餅は、けれど結局のところ幻想郷の餅と大差ないらしい。子どものころ、あの地球に行ってみたいと漏らして近くの大人に怒られたこと。悪友と表の月に遊びにいって、こっそり月面車の近くでおにごっこをしたこと。静かの海に泳ぎにいって、両手に抱えるほどの『静か』を捕まえて帰ったこと。
長く生きていても、はじめて知ることはあるものだ。
鈴仙の話を聞きながら、阿求は未知の驚きに胸をわくわくさせていた。
もしかしたらこの探求心こそが、自分を今まで生かし続けてきたのかもしれない。
そう思って、くすりと笑う。
自分があの知的好奇心の塊みたいな魔女に惹かれた理由が、ほんの少しわかった気がした。
可愛くて、優しくて、強い力を持っていて、ときどき凄く駄目だけど、永い時の先を見据える知性があって。
そうして自分のことを好きでいてくれる。
彼女の隣にずっといたいと思ったら、胸が締めつけられるように苦しくなった。
§9
「――とまあ、大体こういうことがあったわけですが」
具体的な心情をはぶきながらも、阿求はその日起きた出来事を語り終わった。その途端、鈴仙が驚いたように赤い瞳を丸くする。
「すっ、すごいですね! 二週間近く前のことなのに、なんで一言一句覚えてるんですか!」
場をしらけたような沈黙が支配して、鈴仙は「あれ?」とつぶやき小首をかしげる。そんな彼女に、てゐがおかしそうにつっこんだ。
「きゃははは、鈴仙ったら今まで求聞持さんのこと全然知らなかったの? このひとたちはその代で見聞きしたことを絶対忘れないのよ」
「えーっ! そうだったんですか!……あ、でも、じゃあなんでメモ取ってたんでしょう?」
「それは、次の代のためにわたしの知識を伝える必要があるからです。わたしの代では覚えていても、転生するときには大半の記憶を忘れてしまうので。その書きつけを盗まれたって話だったんですよ」
「な、なるほど……」
阿求の言葉に、もじもじと恥ずかしげに指をこすりあわせる鈴仙だった。どうやらあんまり話を聞いてなかったらしい。
これが全部、演技である可能性はあるだろうか。
パチュリーの推理によると、きんちゃく袋の状態がぱっと見でわからないくらい以前と同じだったこと自体、犯人が阿求の能力に詳しいことの証明だということだ。求聞持の記憶の強度を正確にわかっていなければ、苦労して以前とそっくり同じ状態で置く必要はないのだから。
だからこの、求聞持のことをまるで知らなかったという鈴仙の言葉を素直に解釈すれば、彼女は少なくとも鍵を取り出して戻した者ではないことになる。
もちろん、それが即犯人ではないということには繋がらない。今は天窓という進入経路のことも議論の俎上にあがっているのだ。もし犯人がこの天窓から蔵に侵入したなら、その犯人は鍵に一切触れる必要がなかったことになるだろう。
つまり、天窓が進入経路だった場合、求聞持の記憶に対する知識は問題にならない。
だが鈴仙は、とてもじゃないけれどあの天窓を通れるサイズではなかった。先ほどの意外と豊満なふくらみをまざまざと記憶に呼び出し、阿求はちょっともやっとする。
少なくともあのボディをもっている鈴仙が蔵に侵入するには、やはり鍵をつかってかんぬきを開ける以外に方法がない。そうして彼女が鍵を使って元通りに戻した人物なら、求聞持の能力に詳しくなければおかしい。
ちらりとパチュリーのほうを横目で見る。
魔女は心持ち口角をあげながら、こくりとうなずいた。
どうやらパチュリーも、鈴仙の反応は演技ではないと思っているようだ。正直云って、阿求はこの素直すぎる月兎がそこまで器用に演技できるなんて思えない。それに考えてみれば、ここで彼女がそうすること自体おかしなことなのだ。
なぜならここで演技をするためには、自分たちが求聞持の能力に関する知識を犯人選定の一基準にしていると感づいていなければならないからだ。
以前その推理をしたとき場にいたのはパチュリーと慧音と目占。彼女たちが他人に話すわけがない以上、鈴仙もそのことを知り得ない。そうしてそれを知っていなければ、求聞持の能力についてとぼけた演技をすることはありえない。
ならば、彼女のこの反応は素のものだ。
――鈴仙は、犯人ではない。
パチュリーもそう思って安心したのか、リラックスした様子で椅子にもたれて口を開いた。
「それで月兎と一時間ほど話したあと、そこの妖怪兎が戻ってきたっていうわけね。そのあとはすぐに退出したの?」
「はい、そうです。具体的には四時十分にてゐさんが戻ってきて、十四分に玄関で見送りました。目占からなにか訂正するところある?」
「いや、特にない。主の云ったことと私の記憶は一致する。ちなみにそっちのチビも途中でいなくなったとは云っていたが、敷地内にはずっといたようだぞ」
てゐよりよほど小さな黒猫が、尊大なそぶりでそう云った。
「そうか、そうなると……」
慧音は叱るように腰に手を当て、てゐのことをにらみつけた。
「てゐ、キミはそのとき一体どこにいたんだね」
鈴仙の疑いがほぼ晴れた今、残る問題はてゐが阿求の前から消えていた一時間、どこでなにをしていたかということだ。
教師然とした風情でにらみつける慧音に、てゐは気圧されたようにうつむいた。
「どこって、ふらふら遊んでただけだよぅ」
「ふらふらってなんだ、もう少し具体的なことを云いなさい。ちゃんと云えないってことは、やましいことがあるんじゃないかと思ってしまうぞ」
てゐの容姿からつい普段の地がでたのだろう、寺子屋の子どもを問い詰めるような口調だった。それにつられたように、てゐも上目遣いになってもじもじとワンピースの裾をいじりだす。
「具体的って云われても……よくわかんない。お屋敷の中でふらふらしてただけだし……」
「うーん、確かにあんた普段もフィーリングだけでふらふらしてる感じだけど……もうちょっとなんかないの? そんなんじゃ疑うなっていうほうが無理よ……」
鈴仙は力なく肩を落としながらため息をついた。彼女としてもてゐを信じたいという思いはあるのだろう。なんだかんだで鈴仙が月から降りてきて以来、ふたりは四六時中一緒にいるのだから。
そう思って兎たちを眺めていると、てゐはちらりと阿求に視線を投げかけた。けれど阿求が反応する間もなくぷいと横をむき、またなにを考えているのかわからない糸目になってしまう。
それはほんの一瞬のことだった。
それでも、阿求の求聞持の記憶は捉えてしまったのだ。
阿求と目があったその瞬間、彼女の顔に自分を哀れむような表情が浮かんでいたことを。
だから、なんとなくわかった。
「――てゐさんも、ですか?」
「ほぇ?」
「もしかして、てゐさんもわたしに気を遣われていたんですか?」
にっこりと微笑んでそう云うと、てゐはさっと顔を赤らめて目をそらす。その反応からすると、やはりこの推理で間違っていないのだろう。結局自分の体調のことなんて、隠してたつもりで周り中に筒抜けだったらしい。なんだか脱力してしまう。
「暇だったなんて嘘ですね。てゐさん、わたしの体調が悪いの気づいてて、様子見にきてくださったんでしょう?」
「えー? またまた阿求さん、これがそんな殊勝な性格なわけないじゃないですかー。そもそも最近竹林からでてなかったてゐが、どうして阿求さんの体調に気づいていたんですか?」
「――置き薬、でしょうね」
ぼそりとパチュリーがつぶやいて、同じことを考えていた阿求は苦笑する。
「ええ、てゐさんは薬の補充係だったそうですから。以前鈴仙さんが持ち帰った行李を改めたとき、強壮剤が減っているのをみてピンときたんじゃありませんか? 考えてみれば、わたしが永琳さんに出してもらったお薬は随分特殊なもののようでしたのに、この二、三日でよく用意できたなって思うんですよ」
その言葉に、いたずら兎は観念したようにぺろりと赤い舌をだした。
「うん、当たり。八回もみてるとさ、いい加減求聞持がどう死ぬかとかもわかってくるのよ。わたしにできることなんてなにもないってこともね。でも阿求ちゃんのことは好きだから、少しでも幸せのお裾分けできればって思ってー。あんまりこういうこと云いたくないんだけど……」
「ふふ、云わせてしまってごめんなさい。おかげさまであの日は一日楽しくすごせましたよ」
それに、とても大事なことに気づけた日だったと思う。パチュリー・ノーレッジという存在が、自分にとってどれだけ大切で大きく、得難いものであるかということに。
「幸せのお裾分けって……あんたが? 前から思ってたけど、あんたのどこが幸せウサギなのよ。私、あんたといっしょにいて幸せだって感じたこと一度もないんだけど」
「くふふ、さー、どうだろー? なんか幸せって、渦中にいると中々気づき辛いみたいだよ。わたしはよくわかんないけどさっ」
後頭部で腕を組みながら立ち上がり、てゐはワンピースの裾をひるがえらせた。そのまま縁側の障子をがらりと開けて、ぱたぱたと廊下を駆けていく。その足音が小さくなって消えていくのを、阿求はお茶を飲みながら聞いていた。
「……いいんですか、逃がしちゃって」
不思議そうな顔の鈴仙に、にっこりと微笑む。
「はい、疑いは随分晴れましたから」
「今ので?……ああ、なんとなくわかったわ。てゐが屋敷をふらふらしていたことの証明ができるのね」
そう云って、パチュリーは納得したようにうなずいた。
「ええ、あの日稗田家では、びっくりするくらい立て続けに慶事が起きたんですよ。血のつながりが薄い阿光と阿耶が突然婚約を発表しましたし、従姉妹の阿湖《あこ》は宿題で慧音先生から花丸をもらいました。母の阿澄は以前から開発中だった新スペルカードを完成させて、典座が作った料理は異様に美味しく、庭の竜舌蘭が一斉に花を咲かせた上に、長老の阿含が一ヶ月ぶりに自分の足で立てたんです」
慧音が腕を組んでにっこりと笑う。
「ああ、阿湖の宿題か、あれは本当に素晴らしいできだったな。たしか『幻想基盤の妖怪たちの存在論的誤謬が人間原理に及ぼす影響について』という論文だったか。私は作文の宿題をだしたはずだったんだが、論文としてあまりにも良くできていたので花丸をつけざるを得なかった」
「ありがとうございます。阿湖も喜んでいましたよ」
「え? なんですそれ? どういうことですそれ? それがどうしててゐと関係が?」
おろおろと左右を見まわす鈴仙を、パチュリーは呆れたような目でにらみつけた。
「あんた、あれだけいっしょにいて本当にわかってないの? それが全部てゐの能力の結果だっていうことよ。ふらりと現れ、周囲の人間に幸せを振りまいて去っていく。あれは偶然の幸運を体現した妖怪なのよ」
誰にも内緒でやってきて、ひとびとをしあわせにして去っていく。
しあわせ兎とは、本来そのような存在だ。
普通の人間で、彼女がいたことに気づく者はほとんどいない。ただふっとしあわせだと感じたときに、干し草とにんじんのほのかな香りを嗅ぐだけだ。
もし彼女の存在に気づいてしまえば、それは幸運ではなく別のものになってしまうから。幸運とは、ふいに訪れた優しい偶然に胸を暖かくするものだ。妖怪が能力を使ってもたらしたものだとわかってしまえば、それはすでに幸運ではなくただの親切だ。
いたずら。
きまぐれ。
いい加減。
因幡てゐがふらふらとした性格なのは、そんなしあわせ兎としての特性から来ているのではないかと阿求は思っている。
かつて『因幡の白兎』伝説を収集し、古事記に記載したのは他ならぬ阿礼だったけれど、その当時から彼女はこのウサギのことをただの詐欺師ではないと思っていた。なんといっても、和邇を騙して橋にした白兎は、わざわざ『お前たちは騙されたんだ』などと云って皮まで剥がされてしまうのだ。本当の詐欺師なら、自分でそんなことを云うはずがない。
『わたしがやるなら、ちゃんとわたしの仕業ってわかるようにするもん!』
さっき鈴仙に叫んだその言葉が、阿求の頭の中で響いている。いたずらをするときには自分の名前を表にだして、幸運をもたらすときには姿を隠す。それがしあわせ兎の因幡てゐだ。
「てゐさんが消えていたのは一時間ほど。その間にさきほどの者たちとすれ違っていったと考えると、時間的にはちょうどいいです。てゐさんに犯行のための時間はあまりなかったんじゃないでしょうか」
「そうかもしれませんねぇ。しかしなんですか? それだと私もそこの月兎もしあわせ兎も犯人じゃないってことになりますね。一体なんだったんでしょうか、この会合は」
天狗帖から顔を上げ、射命丸が不満そうにくちびるを尖らせる。そんな新聞記者をじろりとにらみ、パチュリーは対抗するように鼻を鳴らした。
「ふん、わかったことは色々あるじゃない。ブン屋は簡単に結論を出そうとしすぎなのよ」
「そりゃそうですよ。『こんな可能性があります』なんて書いても記事になりゃしませんもん。経緯と結論とその解釈まで、全部ひっくるめて読者に差し出すのが新聞ってもので」
「くだらない。文字と紙に対する冒涜だわ」
「あーあー、わかりましたよ、まったくふたりして同じようなことを云ってからに。本当お似合いですよあんたがたは!」
ぎゃーぎゃーと罵り合うふたりを横目で眺め、阿求はくすりと笑みを漏らす。ふと鈴仙に視線を向けると、月の兎は狐につままれたような顔で、てゐが去っていった廊下の先を眺めている。
「どうしました、鈴仙さん?」
「いえ……なんか、みなさんが知ってるてゐと、私が知ってるてゐが違うみたいで……」
首をひねった鈴仙に、阿求は思わず苦笑した。
「まあ……てゐさんも仰ってましたけど、近すぎると見えなくなるものもあるんじゃないですか」
「近すぎて……?」
「ええ、こんなこと云うとまたてゐさんに叱られそうですけどね。わたしから見ると、てゐさんが鈴仙さんにいたずらばかり仕掛けているのは、鈴仙さんを元気づけようとしているように見えます」
「えーっ! 本当ですかっ!? 元気づけるって、あれでどうやって!」
「月から来た当初は、心を許せるひとが全然いなかったんじゃないですか?」
「う……」
「いたずらをしてそれをばらせば、鈴仙さんはてゐさんに怒ることができます。喧嘩するほど仲がいいって云いますけれど、怒ったり怒られたりしているうちに心の距離は縮まるものですよ」
口げんかとすれ違いばかりだったパチュリーとの日々を思い出し、阿求の胸に甘酸っぱい気持ちが蘇る。
あのころ色々なことを諦めて触れないようにしていたら、きっと今のような関係にはなっていなかっただろうと思う。阿求も頑張ったけれど、パチュリーも随分頑張った。引きこもりで人間嫌いの魔女にしては、きっと百年分くらいの忍耐を使い果たしたことだろう。
「そっか……あいつ、あれで私のことちゃんと考えてくれてたんだ」
「だと思いますよ」
「なのに私……あの子にひどいこと云っちゃったかも。いきなり犯人扱いしたりして……」
しょんぼりと耳を垂らして鈴仙がつぶやく。相変わらず危険なくらい素直な子だなと阿求は思う。やっぱりてゐがいたずらばかりをしかける気持ちが、心の底からよくわかった。
そのとき頬杖をついてこちらを眺めていたパチュリーが、面白そうに瞳をきらめかせながら口を挟んだ。
「気にしてるんなら、追いかけて謝ってきたら?」
「謝る……?」
「ええ、経験上そういうのはね、時間が経てば経つほど謝りづらくなるんだから」
「そ、そうか……そうですね。うん、私行ってきます! 行って謝ってきます!」
途端にすっくと立ち上がり、鈴仙は脱兎のごとき勢いで駆けだした。スカートから見えるすらりとした足、ぴんと伸びた力強い背筋、風になびく癖のないストレートの長髪。
危ういところはたくさんあるけれど、あの素直さがあれば大丈夫だろう。全身を覆う縄の跡すら、きっとあの子の健全さを奪えない。
「ふふ、いいわね若いって」
「なに云ってるんですか、パチェなんて百年ちょっとしか生きてないくせに」
突っ込んでみたら、魔女はさっと顔を赤くしてもごもごとつぶやく。
古老の文が、腹を抱えてけたけたと笑った。
§10
太陽はすでに西の地平線にさしかかり、空は赤い色で満たされている。
その空を、阿求はパチュリーに抱かれながら飛んでいた。
そうやって赤の中に浮かんでいると、なんだか自分が空を飛んでいるのか水に浮いているのかわからなくなる。たなびく雲が水中からみるさざなみのようにも感じられて、手を離されたら浮かび上がっていくんじゃないかとすら思う。
それが少しだけ怖くって、阿求はぎゅっとパチュリーの首筋にしがみつく。この身体を離したら、どこか知らないところまで流されていってしまう気がした。
なんだかんだで、阿求に空を飛んだ経験はあまりない。
それは彼女が、人間だからだ。
そんな阿求をお姫さまのように大事に抱きながら、パチュリーは安心させるように微笑んだ。
「それにしても――あの玉兎は本当にてゐの気持ちに気づいていなかったのかしら」
「え? なんのお話ですか?」
「ほら、鈴仙がてゐを追いかけていったときのことよ」
「ああ……」
「誰かひとりにだけしつこくいたずら仕掛けてくるなんて、その理由はひとつでしょう? まったく、本当にわかってなかったなら、とんだ朴念仁だわ」
「まぁ……普通はそうですよね」
それはそうだけど。
それはやっぱりそうだけれど。
あなただけはそんな偉そうなこと云わないで。
パチュリーの腕の中で、阿求は思わずくちびるを尖らせる。このひとは、三年前に知り合ってから晴れてこういう関係になれるまで、どれだけ自分が苦労したと思っているんだろう。
執筆の合間をぬってせっかく会いに行ったのに、ちらりと顔を眺めて『あら、また来たの』とか云うだけで、すぐに読んでいる本に視線を落とす。
話のきっかけにしようと本の内容を尋ねたら、なにがなんだかわからない専門的な理論をひたすらべらべらとまくしたてる。
たまには外で思い出作りをしようと手練手管を尽くしても、根が生えているように安楽椅子から動かない。
『お友だちからはじめましょう』なんてとんでもない。
まっとうな友だちになれるまで、丸一年かかったのだ。
永遠亭における会合では、結局犯人を確定させることはできなかった。
とはいっても、収穫がまるでなかったわけじゃない。文の行動の理由を聞くことができたし、鈴仙の態度を観察することで彼女を容疑者から除外することができた。てゐに関しては、犯行ができたともできなかったともわからない。けれど心情的な面から考えれば、文と同様犯人としての容疑はとても薄い。
「――ねぇ、パチェ」
「なぁに?」
「結局パチェは、誰が犯人だと思います? なんか今日はあまり推理してくれませんでしたけど」
「なによ直球ね。中途半端な推理はだせないわよ。誰を傷つけないとも限らないし」
「それはわかりますけれど……ふたりきりのときくらいちょっと教えてくれてもいいじゃないですか」
「そうねぇ……」
つぶやいて、パチュリーは記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。それが自分のまねだと気がついて、阿求は抱きついた首筋を軽くつねった。
「痛いわね。まず鈴仙に関しては、もう論理的に除外できるからいいでしょう? で、咲夜、文、てゐに関しては主に心理的な面から犯人だとは考えづらいという結論よね」
「そうですねぇ……どう思います? あのときはああ云いましたけど、てゐさんには関してはちょっと不明瞭なところもあって。たとえば蔵の書きつけをジョジョとすりかえることでわたしがしあわせになれるなら、あのひとはしたかもしれませんよね」
「なったの? しあわせ」
「少なくとも、今わたしは凄いしあわせですよ?」
魔女の首筋に顔を埋めてくすくすと笑う。パチュリーは慌てたように「危ないわよばか」なんて云う。けれど阿求には、それが照れ隠しだということがわかっている。白磁のように白い頬が、夕陽だけでは説明できないほど真っ赤に染まっているのだから。
「……でも、てゐの能力はそういうものじゃないんじゃないの? あれは意図せずに周りをしあわせにするんでしょう。未来の結果がわかってていたずらするなんて、レミィじゃあるまいし」
「ああ、それもそうですねぇ」
「それに、結局のところてゐは荷物問題をクリアしていない。鍵は天窓から入ることで必要なかったとしても、怪しいと思われていた行李はずっとあなたの部屋にあったようだし、中身もちゃんと薬が入っていたのでしょう?」
「はい。ただ鈴仙さんのほうの行李は開けていなかったですけど」
「それでも、部屋にあった以上おなじことよ」
ジョジョ全巻を入れて持ってきて、書きつけを入れ替えて盗み出す。そのために大きな荷物が必要だという問題は、つねに推理の前に立ちふさがっていた。荷物を持っていたと思ったら機会がない、機会があると思ったら荷物がない。まるで思い出そうとしても思い出せない前世の記憶のように、犯人はあと一歩のところで論理の輪からすりぬける。
「うーん、ではこういうのはどうですか? わたしの前にいた鈴仙さんが、狂気の瞳を使って行李がふたつあるという幻覚をみせていた。で、彼女がわたしを引き留めている間、てゐさんが犯行をするんです」
そんな阿求の推理に、パチュリーはおかしそうに片眉をあげた。
「それ、あなた自分で信じてるの?」
「あはは、正直全然信じてません」
「でしょう。鈴仙とてゐが共犯なら、もっとスマートなことがいくらでもできるじゃない。そもそも共犯になる必要もなく、鈴仙が普通に幻覚を使って鍵を盗んで開ければいい。その場合、あなたの能力をしらない鈴仙は鍵を適当においただろうから、今と違った展開になっているでしょうけれど」
「ですよねぇ」
あっさりと云って肩をすくめる。別に本気で主張したかったわけじゃない。ただ論理の穴を埋めるために意見を云ってみたにすぎなかった。永遠亭のふたりに関して、阿求はほとんど犯人候補から外していた。
「……そもそも、天窓を侵入経路と推定することは本当に妥当なのかしら」
「うわ、そこからですか。最初に持ち出したのパチェのくせに」
「それは可能性の話だもの。そもそも蔵は空が飛べなければ垂直に切り立った十五メートルの壁だわ。足場もとっかかりもなにもない。周囲に飛び移れそうな木もない。素の身体能力が高い天狗も乗れなかったところに、犯人はどうやって飛び乗ったのか」
「それは……稗田の物置からはしごかなにかを持ってきたとか」
「そんな長いはしごがあるの?」
「ないですねぇ……中に入ってしまえば、二階から開けられるようにはしごはあるんですけど」
「それじゃ駄目じゃない。他になにか機械的な方法を使った可能性もあるけれど、どうかしらね。そのあたりのことを考えると、荷物問題と併せてやはりてゐは容疑者からはずれるわ。一時間で全部やるのは無理」
「ですよね。それじゃあまあ、てゐさんと鈴仙さんはスキマ送りで」
そう云って、箱状のものをどこかに投げ捨てる動作をする。パチュリーはくすくす笑いながら口を開く。
「天狗に関してもちょっと考えづらいわね。あなたがずっと客間の縁側にいたのなら、さすがに鍵を盗んでまた戻すのは無理だもの。それに強引に侵入しようとするところを猫が見ていた。目占の存在を知らなかった天狗が、猫に見せるためにそんなことをしたとは思えない」
「ええ、手ぶらだったので荷物問題にもひっかかりますし」
うなずく阿求に、けれどパチュリーは首をひねって考え込んだ。
「……ただひとつ、あなたが太陽の中を飛んでくるのを見かけたときには、すでに犯行を終えていたという可能性があるわね。書きつけとジョジョを入れ替えたあと、まさに今きたような顔であなたの前に飛んでくる。これなら荷物問題も回避できるけれど、どうかしら?」
「――あ! それは考えたこともありませんでした」
「これはつまり、あなたが天狗を見かけた時間と、目占が賊の侵入を感じた時間の差を利用したトリックよ」
目占の侵入者観測には、どうしたってむらがある。侵入者の有無はわかるけれど、阿求のように完全な記憶を残すことができない以上、正確な時間がわかるわけではない。
目占の証言は『鴉天狗はいったん敷地内から離れたあと、また戻ってきてしばらくの間とどまっていた』というものだった。
阿求は今までそれを、文が一度帰ろうとしたあとに、阿弥との会話を思い出して戻ってきたのだと思っていた。
けれどもしかしたら違うのかもしれない。
阿求が文の姿をみかけたのは四時三十八分。
そのとき文はすでに稗田家に侵入して犯行を終えていた。
だから、目占が最初の侵入をキャッチしたのは本当はそれより前の時間だった。けれど完全記憶を持っていない目占は、阿求の証言につられて、文がきたのは大体それくらいの時間だっただろうと思ってしまう。
そうして何食わぬ顔で戻ってきた文は、阿求と話したあと敷地内から出ずに阿礼の蔵までむかった。目占がキャッチした二回目の侵入は、まさに太陽の中を阿求の元に飛んできたときのものだ。
これなら論理的な筋は通る。
「うぅーん……。いや、でもそれは多分だめですよ。あの日は文さんがくるまえから書斎ではなく客間でだらだらしていたんです。鍵を盗めたような余地はありません。そのさらに前だと真っ暗になっちゃいますし、景色がそこまでずれていたら目占も気づくでしょう」
「そう……たしかにそうね。残念だわ、わりといい線いってたと思うんだけれど」
「ですねぇ、なんかすごいミステリっぽい感じでしたよね」
「ふふ、まあ、どんな真相だったらミステリ的に面白いかを競ってるわけじゃないし。でもそうなると、やはり天狗が犯人だと考えるのは難しい。結局、今日検証した文と鈴仙とてゐは、みな犯人ではないということになるわ」
「ですよねぇ。だとすると……」
「怪しいのは依然としてアリス。それとなんらかの方法で荷物問題をクリアした魔理沙ね」
「そうですね。一応、咲夜さんの可能性もまだあるといえばありますけれど」
「そうね。でもあの子が犯人なら、それこそ悪意でやったことのはずがない。とぼけてるならそれだけの理由があるんでしょうし、そこはスキマメソッドと同じ理屈で容疑者から外していいと思うわ」
「スキマかぁ……全部スキマのせいにできたら楽なんですけどね」
西の境界沿いに立ち並ぶ、山の端を眺めながらつぶやいた。見知らぬ獣の背中のようなその稜線を、沈みかけた夕陽が照らしている。断末魔の叫びのような蝉の合唱も、遙か地上を離れてしまえば遠雷のように聞こえるだけだ。
全部紫のせいにできたら楽だろう。
この事件の犯人も、狭い幻想郷でいがみあっている人間と妖怪の関係も、パチュリーが三年もの間安楽椅子から動こうとせず、やっと望んだ関係になれたときには自分の死期が迫っていたことも。
全部この幻想郷を作ったスキマのせいにして。
全部全部、スキマが悪いことにして。
「ふふ、本当にわからなかったらそうしましょう。スキマのせいにして忘れましょう」
「えぇー。そりゃ犯人はわからなくてもいいですれけど、盗まれたものが返ってこないと困ります。書きつけは別に記憶を漁って書けばいいんですが、転生の秘術書は……」
語尾を濁らせる阿求に、パチュリーはふいに真剣な声で云った。
「戻ってこなかったら、どうする?」
「……え?」
「もし秘術書が戻ってこなくて転生の儀式が行えなかったら、あなたはどうするの? そのまま死んで二度とこの幻想郷からいなくなるつもり?」
時は夕暮れ、誰彼刻。
目の前のひとが知らないひとに化ける誰彼刻。
じっと阿求をみつめるパチュリーの、桔梗色をした瞳がいやに深い。夕陽を浴びて暗く沈んだ瞳の奥に、震えるような魂のおののきを感じる。自分が否定される可能性に怯えながらも、なおしなければいけないことをするひとの、勇気の炎がゆらゆらと揺れる。
――ああ、真剣に問いかけてくれているんだ。
そのことが、泣きたくなるくらいに嬉しい。
あの図書館から出ようとしなかったパチュリーが、全身全霊を賭して自分とむきあおうとしてくれている。それだけで阿求は、このひとを選んでよかったと思えてくるのだった。
「もし、戻ってこなかったらですよ?」
「ええ……」
ごくりとつばを飲みこむパチュリーの、震える頬にキスをする。
「そのときは、あなたにわたしの魂を捧げます。使い魔にでもなんでもしてください」
「阿求……」
「別にレミリアさまの眷属でも誰かの式でもかまいません。人間として死んで二度と帰ってこれないくらいなら、あなたと一緒に永遠を生きたいです」
ひととしての悩みも求聞持としてのしがらみも全部捨て去って、まるごとすべてパチュリーのものになる。
それを想像しただけで、阿求の胸はどうしようもなく疼いてしまう。もしかしたらこの千年間、自分は無理矢理そうしてくれる誰かを捜し続けてきたのかもしれない。
「――阿求」
感極まったような声とともに、ぎゅっと強く抱きしめられた。
密着する肌。
こもるふたり分の体温。
鼻腔を満たすのはどこか魔術的で土臭い、パチュリー・ノーレッジがまとうお香の匂い。
力、意外と強いんだなと思う。こうやって飛ぶだけなら魔力を使っているから腕力なんて必要ない。けれど阿求をぎゅっと抱きしめるその腕は、普段本しか持ってないのが信じられないほど力強い。
身動きもできないほど強く強く抱きしめられて、阿求はいっそこのまま死んでしまっても構わないと思った。魔術でも秘術でもなんでも使って、いっそこの場で全部奪ってほしいと思った。
「見つからないといいって思いました?」
「……え?」
「秘術書、見つからなければ有無を云わさず自分のものにできるって、そう思ってくれました?」
悪女のように目を細めて問いかける。少しいじわるをしたかった。どうせ誰も奪えない優しい恋人を、少しゆさぶってみたかった。
けれどパチュリー・ノーレッジは揺るがなかった。
「いいえ、秘術書はかならず元に戻すわ。あなたに選択肢を与えたいから」
「パ、パチェ……」
「でもちっとも心配してないわ。あなたは絶対私を選ぶ、わかってるんだから」
その言葉に、優しげな瞳に、ぬくもりに。深く胸を刺されてしまって、鮮血のような涙が目尻からこぼれ落ちていく。
――ずるい。
今になって、こんなに強くなるなんてずるい。
せめてあと一年早くこうなってほしかった。もう後がない今じゃなくて、もっと色々楽しいことが待っていたはずの一年前に。
「大好きよ、阿求。たとえ転生して別人になっても」
「……ふっ……パチェ……パチェ……」
思わず胸がいっぱいになってしまって、こぼれ落ちる涙が止まらない。雫は頬をつたって顎からしたたり、黄昏を浴びて空に舞い散る。
嬉しくて。けれどなぜだか悲しくて。
しゃくりあげながら震えていると、嗚咽を止めようとするようにくちびるがふさがれた。髪を撫でる指先の感触。ふれあった胸と胸。むさぼるようにうごめく舌先の感触。
幻想郷を覆う赤の中、深い深いキスをした。
その光景を眺めている者は、今度こそ誰もいなかった。
§11
「パチェ、入っていいですか?」
「どうぞー」
「おはようパチェ――って、わっ!」
がらりとふすまを開けて部屋に入ると、そこはすでに図書館だった。
つい昨日まで、テーブルがひとつ置いてあるだけの来客用寝室だったのに。その十畳ほどの和室はいつのまにか本の森になっていた。
うずたかく天井まで平積みになった本、本、本、本、それに本。そんな本の中心で、パチュリー・ノーレッジはご満悦の態で安楽椅子を揺らして微笑んでいた。
――あれ? ここわたしの家だよね?
思わず目をぱちくりとさせてしまう。間違えて紅魔館の図書館に来てしまったのかと思った。けれど通路のように開いているむきだしの床は畳だし、廊下との境界はふすまだし、パチュリーの背後には光がすける障子がみえるしで、やはりどうみても阿求が暮らす稗田本宅なのだった。
「どうしたの阿求、鳩がクナイ弾食らったような顔をして」
「どんな顔ですか……これはあきれ顔って云うんですよ」
「ふん、あきれてるのはこっちだわ。本当に日本家屋は天井が低いわね。最低限必要な本の一割も収納できないじゃない。こんなんじゃ暮らしていけないわ」
「そうですか……それにしてもどうやって一晩でこんなに本を……」
「それはもちろん、物品呼び寄せの魔法で図書館から運んだわ。足りない分は小悪魔にも手伝ってもらったけれど」
「はぁ……」
すっかりつっこむ気も失せてしまい、阿求は左右の本壁を眺めながら通路の部分を歩いていく。
平積みは普通どうしても本のサイズがばらけてしまって安定しないものだけれど、同じサイズの本が隙間なく天井まで埋まったこの壁は、煉瓦のような堅固さを持っていた。通路は床の間や押し入れ、パチュリーが定めた居住スペースらしきエリアまで分岐しながら伸びていて、まるで本でできた迷路のようだ。
その間にも、パチュリーの愚痴は続いていた。
「大体この障子ってなんなの? なんで紙でできてるの? こんなんじゃ日光をふせげないじゃない。本の小口を縁側にむけないよう収納するのに、私がどれだけ苦労したかわかってる?」
「わかりませんし、わかりたくありません」
「あとこの畳もよくわかんない。ねぇ、これ上に本棚置いてしまって平気? 柔らかくて跡がつきそうなんだけれど。それにやっぱり私床に寝るのは無理な気がするからベッドを持ってきたいのよ。たまにしか寝ないから後でも大丈夫だけれど」
「はぁ……咲夜さんでもこぁちゃんでも呼んで持ってきてもらったら……」
「そうする。あとねぇ、なんであの壁の上側はスキマが空いてるのよ。透かし彫りの図章は確かにエキゾチックですてきだけれど、密閉されていないのは我慢できないわ。冷房魔法漏れちゃうし。潰しちゃっていい?」
「えぇー……いや、それはちょっと……欄間が開いてるのはそもそも通風のためですし……」
「そう? じゃあ冷房魔法ちょっと強めにがんばるわ。でもやっぱりこの障子だけはなんとかならないかしら? 暑いし明るいし本は焼けるしでたまったもんじゃないわ。こんなところじゃ暮らしていけない。魔女は暗いところを好む習性です。作り直すのが無理なら紅魔館からカーテン持ってくるけれど……」
「だぁぁーーー!!」
延々と続くパチュリーの愚痴に、阿求は突然奇声を張り上げた。どたどたと縁側まで走っていくと、閉じられていた障子をがらりと左右に開けはなつ。
「あ、開けないでー」
「障子は開けるもの! 日本式家屋は風と光を通すんです!」
青々とした空を背景に、阿求は高らかに宣言をした。
途端にしのびよってくる夏の暑気が、パチュリーの冷房魔法と領土争いを繰り広げはじめる。直射日光が目に入ってまぶしかったのか、パチュリーは「むきゅー」なんて弱々しい声で鳴いた。
――こんなんで、一緒に暮らしていけるんだろうか。
ふいに阿求は不安になってしまう。
ひとつには魔力の供給がないと生きていけない自分のために、ふたつにはただ単に一緒にいたいから。パチュリーは阿求と共にこの稗田家で暮らすということになったのだ。
それはいいけれど、初日からしてこのありさまだ。
西洋と東洋、妖怪と人間。ただ好き合っているだけならよかったけれど、日常を共有するとなると難しい。文化と種族の違いからくる価値観の不一致に、どう落としどころをつければいいのやら。
けれど考えてみれば、世間の結婚したカップルも同じようなことをくぐり抜けていくのだろう。
求聞持は代々女を好きになる女として産まれてくる。それは初代阿礼がそうである以上当たり前の話で、たまに男の身体に産まれたときでも中身が女であることには変わりない。だから阿求はつきあう相手の性のこともある程度わかったけれど、世間ではどうやら女と男が好き合って結婚することが多いらしい。
正直なところ、阿求にはそういう人生がよくわからない。性別の壁を乗り越えて他人を好きになるとはどういうことだろう。女と男だって妖怪と人間くらい違うように思うのに、どうやってそれを乗り越えていくのだろう。
そう考えると、あんなことで切れたのは心が狭かったかもしれないと思う。
「で、でも阿求。あなたも暑いの苦手でしょ? 涼しいほうがいいと思うんだけれど……」
「それは、まぁ……」
ため息を吐きながら、後ろ手に障子を閉める。確かに暑がりの阿求にとって、部屋が涼しいことはありがたい。できれば夏中この部屋にいたいくらいだけれど、日本家屋が室内を密閉することにむいていないのもまた事実。
「とりあえず、障子はふすまに張り替えましょうか。畳も取ってしまって、板張りにしたほうがパチェにはいいのかも。欄間をつぶすのは駄目ですけど、そこはカーテンかなにかで代用を……」
「……いいの?」
パチュリーが上目遣いで問いかける。
まるで借りてきた猫のように落ち着かないようすで、ワンピースのフリルをいじっている。
考えてみれば、今一番ストレスを感じているのは彼女のほうだろう。百年近くあの紅魔館の図書館から動かなかった引きこもりが、急になじみのない日本家屋で暮らそうというのだから。
「はい。ごめんなさい、わたしもちょっとびっくりしちゃって云いすぎました。ほかにもなにかあったら云ってください。最大限配慮しますから」
「あ、それじゃあ……ひとつとても気になっていることがあるの」
「はい、なんでしょう?」
「ひょっとしたら、床の強度が――」
パチュリーが口を開いたその瞬間、地響きを立てて盛大に床が抜けた。
* * *
「こんにちは阿求、今日も暑いな」
「……あら、慧音先生こんにちは。えぇもう、本当に暑い……」
「そうだな。で、なにごとだこれは」
昼すぎになってやってきた慧音が、周囲の様子に肩をすくめて訊ねた。
普段は阿求と何匹かの猫、それに一族の一部しか住んでいない稗田の本宅に、修理のために訪れたむさ苦しい男どもが出入りしている。いつもはしんと静まりかえっている求聞持の庵に、槌音とかけ声が鳴り響く。縁側からみえる中庭で、炎天下のもと男たちが流す労働の汗が、陽光を浴びてきらりと輝いていた。
「いえ、別になにごとでもないです。ただ日本家屋は煉瓦や石ではできていないというだけで……」
「ほう……」
不思議そうに首をひねった慧音だったが、雰囲気を読んでそれ以上追求しないことに決めたようだ。部屋の隅ではパチュリーが、目占を抱えながら「日本の家は木と紙でできている……日本の家は木と紙でできている……」などと呟いていた。
パチュリーが本を詰めこみすぎて床を抜かしたことなんて、阿求はもうほとんど気にしていない。そんなことよりパチュリーのほうがよほど大事だ。けれど本人が気にしていることを気にするなと云っても無理だし、自然と立ち直るまで放っておくしかないと思っていた。
「それで慧音先生、なにかご用事ですか?」
訊ねながら、紅茶のカップを慧音に差し出す。
「ああ、いや、以前話に出た、アリスが商工会議所に現れた時間のことがわかったんだが……そういう雰囲気でもないかなぁ?」
その言葉を聞いて、パチュリーはぴくりと肩を動かす。ぐしぐしと目をぬぐってふりかえると、真っ赤な瞳で慧音のことをにらみつけた。
「聞くわ……別に気にしてなんてないし」
すんと鼻をすすってうそぶいた。その涙でうるんだ瞳が、今にもふるえそうなくちびるが、むしゃぶりつきたくなるほど愛らしい。こんなパチュリーが見られるなら、家のひとつやふたつ壊れても構わないと阿求は思う。
「ふん、日本の家がもろいのが悪いのよ、私のせいじゃないもん」
とことこ歩いてきて、ぽんと阿求の隣に正座する。つんと顔を逸らしながら紅茶を注いで一気に飲み干す。そのあまりの可愛らしさに、阿求は思わず満面の笑みを浮かべた。
「ええ、本当そうですね。全部スキマと日本の家が悪いんです」
「そうよ、スキマが悪い」
お互い顔を見合わせて、同時にくすくすと笑い出す。そんなふたりを、慧音と目占が鼻白んだような目でみつめていた。
「なんだかやはりそういう雰囲気でもない気がするが……まぁいい。結論から云うと、アリスが会議所に現れたのは、早くても五時をすぎていたということだ」
「五時すぎですって? たしかアリスがこの家を出たのは……」
「四時七分のことでした。ここから商工会議所までは、ゆっくり歩いても三十分程度です」
「ということは……その間どこかでなにかをしていたということになるわね」
どこかで、なにかを。
たとえば、本宅から立ち去ったようにみせて人形で鍵を盗みだし、蔵の書きつけを盗み出すようなことを。
「これはもう、直接あいつから話を聞いたほうが早いかもしれないわね」
「そうかもしれませんねぇ。どちらにしろ残る容疑者はアリスさんと魔理沙さんだけですし」
「あ、魔理沙と云えば、以前話していた荷物の件はどうなったかしら? ほら、あの本人と別ルートで荷物が届いていたんじゃないかって話よ」
「あ、ええ。昨日お夕飯のあとに一通り聞いてみたのですが……少なくとも心当たりがある者はおりませんでした」
「そう……」
稗田邸に一晩泊まっていった魔理沙には、犯行を行う時間が十二分にあった。ただ、箒以外にはなにも持っていなかったという事実が彼女の容疑を薄くしている。
もし直接手に持ってくる以外の方法でジョジョを敷地にもちこめていたら、一気にアリスと並ぶ容疑者候補に躍り出るだろう。
だが今のところ魔理沙がそうしたという根拠はない。依然として第一容疑者は七色の人形遣いアリス・マーガトロイドだった。
「それにしても、この家のお夕飯はいつもあんな感じなのかしら……ちょっとへこたれそうなのだけれど」
夕飯という単語で昨夜の光景を思い出したのか、パチュリーが落ち込むようにそう云った。そんな彼女を元気づけるように、阿求は手に手を重ねて微笑みかける。
「でもパチェ、ちゃんとできてましたよ。慣れないことをさせてしまってごめんなさい」
「ふん、あのくらいわたしだってできるわ。これから先ずっとこの家で暮らすんだもの……」
稗田の家では、一族総出の四十人で夕飯を囲む。一番大きな別宅の広間に集まり、情報交換をしながら交流を図るのだ。
その夕食の席に、昨夜はパチュリーも招待された。
元々彼女は以前から何度も稗田邸を訪れており、一族の者ともある程度顔を合わせてはいる。けれど共に暮らしていく以上、お客さまとして部屋に引きこもらせておくわけにはいかない。
ずらりと並んだ膳の列。
先のみえない長い長い座敷。
気安げな笑みを浮かべる、どこか似た顔をした紫髪の男女。
そんな大広間の当主の隣で、パチュリーは阿求が想像した以上にしっかりとした振る舞いをした。挨拶をしてぺこりと頭をさげて、話しかけられてもにこやかに答えた。どうしても箸を使って煮豆をつかめず、しまいには魔法で動かしていたのもご愛敬だった。
「あの食べかたもみんな楽しんでましたしね。つかみは完璧でしたよパチェ」
「そ、そうかしら? だといいけれど……」
「まあ、本の詰めすぎで床を落としてしまったらだいなしだがな」
目占の言葉に、阿求とパチュリーがぴしりと凍りつく。途端に空気が沈んだのを見て、慧音が慌てたように叫んだ。
「本、本か! 本と云えば結局あのジョジョの単行本はなんだったんだ! 謎だなぁ!」
助け船がきたとばかりに、阿求も慌ててその言葉に乗った。
「ですね! 謎ですね! そもそも犯人の目的は一体なんだったのでしょう。ジョジョを置いていくことそのもの? それともわたしの書きつけを盗むこと?」
「ああ、結局いくら考えてもそこがわからないんだよな」
パチュリーは気が乗らなさそうにため息をつきながら、それでも会話に入ってくる。
「ふん、どうせひとの心の中のことなんてわからないでしょ。そんな曖昧なものを考えるより、みえているできごとを追ったほうがよほど真実に近づけるわ」
「そうですねぇ、実際その方針でここまで容疑者を絞り込めたんですし。でも思うんですけれど、犯人を問い詰めるなら、目的や動機がつかめてないと困ると思うんです。なんといっても最終兵器『どうせ犯人はスキマでしょ』があるので、それを覆すだけの理由がわかってないと」
「それは……まぁ、そうよね」
「とりあえず、まず犯人の目的は幻想郷縁起の書きつけだったと仮定してみよう。そうするとその動機はどんなものが考えられるだろう」
「うーん、そうですねぇ……。あの書きつけには、最終的に幻想郷縁起に載せなかったこともたくさん書いてあるので、その情報が知りたかったのかもしれませんよね。たとえば誰かに恨みを持っていたり弾幕戰で勝ちたいと思ったりしてるひとが、相手の弱点を知りたがったとか?」
「でもその容疑者って、今はもうアリスか魔理沙のふたりでしょう?」
「そうです。ないですかねぇ?」
「ないとは云わないけれど、そのふたりなら適当に理由つけて直接あなたにみせてもらうんじゃないの? 小細工してまで黙って持っていくかしら」
「うーん、結局そこですよねぇ」
そもそも容疑者は阿求と親しい者以外に考えられない。けれど盗まれたのはしょせん書きつけ、ただのメモだ。親しい者なら直接阿求にみせて欲しいと頼むだろう。そうしなかった以上、犯人にはなにかやましい理由があるはずだ。
「じゃあこんなのはどうだろう、犯人は阿求にどう書かれているか気になった」
「……はぁ?」
「そいつは阿求のことが好きだから、自分があなたにどう思われているのか知りたかったんだな、うん」
「ぶっ、ちょ! 慧音先生!」
慌ててわたわたと手をふる阿求だった。
「ああ、それはわかるわ。私も幻想郷縁起を読んだときはちょっと落ち込んだもの。なによ『喘息持ちなのに早口なのは見ていて息苦しい』って。そんな風に思われてるんだと思ったら、落ち込んで夜も寝られなかったわ」
「元々パチェは寝ないじゃないですか! それはやっぱりないですって。パチェならともかく、アリスさんか魔理沙さんですよ?」
「へぇ、どうかしらね? なんかあなたと魔理沙の間には、私に云えない秘密があったようだしね?」
「もう……またそう云う……」
苦笑しながら座卓のせんべいに手を伸ばす。前歯でぱりんと割ったところで、ふとその可能性があるだろうかと考えた。
自分が好かれているかどうかではない。アリスと魔理沙が、誰かの情報をもっと知りたいと思った。けれど恥ずかしいからそれを阿求に云いたくはなかった。
ありえないこともないだろう、それがアリスか魔理沙なら。
でも薄いなぁと思いながら、正座して紅茶を飲むパチュリーのくちびるを、ぼんやりと眺めていた。
「――秘術書」
「え?、なんです?」
ぽつりと漏れた恋人の言葉に、せんべいをくわえながら小首をかしげる。
「秘術書の件はどうなのよ? あんたずっと盗まれたことを黙っていたけれど、あれこそ盗みの目的になるんじゃないの?」
「あぁ、そうですねぇ……でも、うーん」
「ありえないのか? 私にもそう思えるが。なんせ今の容疑者はアリスと魔理沙、両方知識を追求する魔女だしな。魂に人格を維持させたまま転生する秘奥義、知りたいと思うだろう」
「いえ、ありえないこともないと思うんですが……でも慧音先生、あんなところに転生の秘術書があるって知ってました?」
「それは……知らなかったなぁ……」
「ですよね。私も誰にも話したことないんです。そもそもあれをあそこに置こうと決めたのはわたしなので、アリスさんや魔理沙さんが知っているとも思えないんです。だから、わたしの書きつけを持っていこうとして、一緒にまとめられていた秘術書ごと持っていってしまったんだと……」
「ああ、なるほどなぁ」
「それに秘術書が目的だったら、書きつけを持っていったりしないでしょう? その逆ならありえるので、やはり目的は書きつけだと思うんですよね」
「ふん、で、その目的は書きつけを持っていくことなの? それともジョジョと入れ替えることなのかしら?」
「それですよねぇ……」
阿求は頭を抱え込んで突っ伏した。
結局なにがなんだかわからないのだ。目的が書きつけだとしたら、どう考えても代わりにジョジョがあったことの説明がつかない。ジョジョが置いてあったこと自体の説明なんてさらにつかない。だからこそ動機ではなく機会の面から考えていたのだから。
「そのジョジョについて、魔女殿になにか考えはないですか? そこは一度も伺ったことがない気がするが」
「それはもちろんいくつかあるわよ。仮説でしかないけれどね」
「よかったらそれをお聞かせ願えないか」
「いいけれど……決め手になるような考えじゃないのよ。まずひとつは、これは犯人からのメッセージかもしれないっていうこと。犯行声明みたいなものね」
「はぁ……なるほどメッセージですか」
「たとえばそこにひまわりが置いてあったら、あの花畑の妖怪が犯人だってわかるでしょう? 同じように、ジョジョが置いてあったことでなにか伝わるメッセージがあるんじゃないかって思ったのね」
「うーん、でも、わたしはなにも思いつきませんけれど……おそらく発見するであろうわたしにわからないメッセージでしたら、意味がないんじゃ?」
「そう、だから、もしかしたらあなた宛じゃないのかもしれないって思ったの」
パチュリーはそう云って、膝に乗ってこようとする目占を追い払う。普段は喜んで乗せているのにどうしたんだろうと思いながら、阿求は憮然とした顔の目占に手招きをした。愛猫の頭を撫でながら、首をかしげて問いかける。
「わたし宛じゃない?」
「ええ、たとえば咲夜はジョジョの話をしたとき、自分の能力をディオのパクリ扱いするなって怒ったでしょ、あんな感じよ。阿求の書きつけがなくなって代わりにジョジョが置かれていたっていうことが、誰かにとっては意味があることなのかもしれないってね」
「なるほど……この事件の話がそのひとに伝わることで、そのひとにしかわからないメッセージになるってことですか」
「そう。でもわりと広まった今になってもリアクションがなにもないし、関係者もみんな首をひねっているばかりだったわ。だからこれも違うんじゃないかって思った」
「はぁ、色々考えてたんですねぇ……」
「そうよ。だから云ってるでしょう、灰色の脳細胞を働かせなさいって」
「うーん、あいにくわたしはポワロじゃなくてミス・マープル派なので……」
「ふん、あんな女のどこがいいのよ。ずっと安楽椅子から動こうとしないじゃない」
「あなたが云いますかあなたが」
思わず突っ込むと、パチュリーは痛くない白弾を無言でぽこぽこ投げつけてくる。阿求は笑いながら抗議をするけれど、本人に辞めさせるつもりがないのだから止まるはずがない。あきれ顔になった慧音が、わざとらしく大きな咳払いをひとつする
「あー、ごほん、他にはなにかありますか?」
「あ、ああ、そうね……他にはね、ジョジョがなにかの見立てだってことよ」
「見立てですか? えぇと、枯山水が蓬莱山を見立てているみたいな?」
「そう。まあメッセージ説ともあまり変わりないけれど。たとえばあの本の背は紫色をしているでしょう?」
「そうですね。パチェの髪みたいに綺麗な藤色です」
阿求の言葉に、パチュリーはそっと髪を撫でながら微笑みを浮かべる。
「たとえば私が来た証として、自分の髪と同じ色の本を置いておきたかったってこと。髪と紙の語呂合わせにもなるしね。こっちの場合はメッセージとして伝えたいわけじゃなくて、当人だけの自己満足みたいなものかしら?」
「なるほど……」
「まあ、これは考えても仕方ないのである意味どうでもいい仮説ではあるわね。犯人がわかれば自ずとわかることだし」
「そうかもしれませんねぇ、他にもなにかありますか?」
問いかけると、パチュリーはにやりと笑った。
「あるわよ。もうひとつ、考えても仕方がない理由」
「なんですかそれ?」
「それはね、あの状態はなにかの作業の途中だったってことよ」
「なにかの作業……?」
「少しは自分でも考えなさいな阿求。あなた、あの阿礼の蔵に普段はどれくらいのペースで出かけてるのよ」
「それは……普段でしたら二、三ヶ月に一遍くらい……」
「でしょう? でもあのときに限って一週間という短い間隔で二回も見にいった。それは犯人にとって予想外だったのよ」
「あ、なるほど!」
阿求がぽんと手を叩くと、パチュリーは悲しそうに瞳を伏せた。この魔女はわかっているのだろう。阿求が急に阿礼の蔵にいった理由を。最期の時が近いかもしれないと思って、転生の秘術書を読みにいったということを。
「……犯人はあの状態で棚を見られるとは思っていなかった。メッセージにしろなにか他の理由があるにしよ、途中の状態で放棄されたものだから、私たちにはなにがなんだかわからないってこと」
「はぁ……それはたしかに、今の状態で考えても仕方がないですねぇ。どんな可能性だってありえますし」
「でしょう? だから云ったじゃない、可能性と機会の面から絞ったほうがいいって」
パチュリーは正座を崩して横座りになり、つんと顔をそらしながら紅茶をふくむ。その横顔を、阿求はまぶしいものをみる思いで眺めていた。
そのとき、ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえてきた。
足音は部屋の前で立ち止まり、声もかけられないままふすまが開く。
「御阿礼さま! パッチェさん! 阿澄おばさんが呼んでるよ!」
現れたのは紫髪をポニーテールに結わえた十歳くらいの女の子。それは阿求の従姉妹の稗田阿湖だった。阿湖は同席していた慧音に気づき、素っ頓狂な声を上げる。
「げっ、慧音先生!」
「“げっ”じゃないだろう“げっ”じゃ。誰かと顔をあわせたとき、最初に云わないといけない言葉はなんだったかな?」
「こ、こんにちは慧音先生……」
「よろしい。こんにちは阿湖」
にっこりと笑う慧音と対照的に、阿湖は引きつった笑顔を浮かべていた。
「阿澄が呼んでいるって? どんな用でしょう」
「知らない。なんか阿礼の蔵まできてって云ってたよ」
「阿礼の蔵に……?」
つぶやいて、パチュリーと顔を見合わせた。
なにか事件と関係することが起きたのかもしれない。
蔵にむかって歩き出すと、皆もぞろぞろとついてくる。けれど阿求は、聞こえてくる足音がひとりぶん足りないことに気がついた。不思議に思ってふりかえると、パチュリーが浮き上がって移動している。
里にいるときはいつも魔法をみせびらかしたりしないのに、どうして急に歩くのをやめたんだろう。
そう思ってパチュリーの様子を思い出していると、答えはすぐにみつかった。
宙に浮いた小さな足をつついたら、足を痺れさせた魔女はひっくりかえって悶絶した。
§12
太鼓の音が遠くに聞こえる。
蝉の合唱に合わせてリズムを刻むように、ドーンドーンと空気を小さく振るわせている。
その音に、浮いて移動していたパチュリーが不思議そうに顔を上げた。
「あれ、なんの音かしら? 弾幕戰?」
「奉納太鼓の練習だと思います。夏祭りが近いので」
「ああ、そういえば云っていたわね」
「ねーねー、パッチェさんも御阿礼さまと一緒に参加してよ。あたし稗田の舞を踊るんだから」
「そう……それは楽しみだわ」
服の裾をぎゅっと握る阿湖に、パチュリーは少し不思議そうな顔をする。
以前から阿湖は、たまに稗田家を訪れるパチュリーに懐いていた。パッチェさんパッチェさんと呼んでその後ろをついてまわり、パチュリーと同じことをしたがった。
最近はともかく、以前の無愛想でとっつきにくかったパチュリーのどこを気に入ったのかわからない。自分に似て面食いなのかもしれないと思う。彼女は御阿礼の子でこそないものの、色濃く阿礼の血を受け継いでいたから。なにせパチュリーの研究癖にかぶれて慧音が驚くような論文をものにしたくらいだから、その才能は折り紙つきだった。
けれどパチュリーは、どうして阿湖が自分に懐いているのかわからないようだった。
それはそうだろうと思って、阿求はこっそりため息をつく。この朴念仁が少しでも自分に向けられる好意に敏感だったなら、阿求も苦労はしなかった。
中庭を移動する間、阿湖はずっとパチュリーの服を握っていた。
やがて到着した阿礼の蔵では、矢絣に行灯袴姿の稗田阿澄が一同がくるのを待っていた。
「あらあら、随分大所帯でこられましたねぇ」
「ええ、たまたま集まっていたものですから。それで用件というのはなんですか?」
「蔵の入り口を見ればわかりますわよ。発見して以降まるっきり手をつけてないですから」
云われた通り蔵の入り口に視線をむけて、その瞬間阿求は目を丸くする。
厚い観音開きの扉の下から、一枚の紙切れが姿を見せていた。
それは阿求が書きつけに使っている半紙と、同じものに見えた。紙は半分くらいが扉の下に入り込んでいて、表に見えている部分には筆で妖怪の絵が描かれている。その絵に阿求は覚えがあった。里近くに現れる傘の付喪神を描いた絵で、盗まれた書きつけの中にあったものだ。
「あれは……」
「自分で拾って持って行こうかとも思ったんですよ。でも現場をありのままお見せしたほうがいいかと思って、保全しておきました。さっき見かけたままの状態ですよ」
「ありがとう、そのまま見たかったので嬉しいです」
「あれ、あなたの絵のタッチよね……」
蔵に近づいたため、パチュリーが地面に降りてつぶやいた。
「ええ。あれは確かにわたしが書いた書きつけです。……盗まれていたはずの」
その言葉に、一同が一斉に息をのむ。
「それがこんなところに落ちているっていうことは……」
「何者かが蔵に侵入した、あるいは前を通りがかったかしたのでしょうね。そうしてその何者かは、盗まれたはずの阿求の書きつけをもっていた……つまり、犯人よ」
状況からすると、蔵の入り口辺りで紙を落とし、それに気づかないまま扉を閉めたというところだろう。あるいは閉まった扉の近くで落ちた紙が、ふわりと下にもぐりこんでいったのか。
どちらにせよ想定されるのは、まさにこの場所に犯人がいたということだ。そうでなければ、盗まれていたはずの書きつけが落ちているはずがない。
「まさか、以前からここに落ちていたという可能性は……」
慧音の言葉に、阿求が頬に手を当てて首をかしげる。
「わたしが最初に蔵に入ったときからですか? それはないです。……記憶を眺め回しても、床にはなにも落ちてないです」
「となると、問題はいつからここに落ちていたかだわ。そのあたりはわかるかしら、えぇと……お義母さま?」
「おかあっ!?」
パチュリーの口から飛び出た単語に、阿求は思わず絶句する。
「あら嬉しい♪ わかるわよパチュリーちゃん。わたくし毎日敷地内を見回りしてるんだけど、少なくとも昨日の朝はみかけなかったわね」
「となると、昨日の朝から今日のお昼の間に、犯人がここに現れたというわけね。そうしてこの紙を気づかぬうちに落としていった。……この時間帯、もう少し絞り込めないかしら?」
「うーん、どうかしら。他の子たちに訊ねればわかるかもしれないけれど、あまり期待はできないわ。ここは稗田家の聖域だから、稗田の者はおいそれと近づいたりしないのよ」
その言葉を証明するように、阿湖はひどく居心地悪そうにもじもじしていた。
「そうなると、大きな問題がひとつあるわね。……目占!」
「なんだパチュリーちゃん」
その呼び名を華麗に無視して、パチュリーはうなる。
「昨夜あなたが慧音と永遠亭から戻って以降、敷地内に不審者は入ってきてないんでしょう?」
「もちろんだ。不審な者がいたらすぐに阿澄などに知らせているよ」
「でしょうね。なら侵入者はそれ以前、昨日の朝から夕方にかけて忍び込んでいるはずよ。でも目占はその時間、私たちと事件のことを話し合うためにずっと永遠亭にいた。だから今回は侵入者が誰なのかわからないのよね」
「……なるほど、なんだか残念ですね。せっかく犯人さんのほうから動いてくれたというのに、容疑者も絞り込めないとは……」
『お義母さま』と『パチュリーちゃん』に思考停止していた阿求が、気を取り直して云った。
「ピンポイントで目占不在の時間をねらってきたということは、もしかしたら犯人は彼女の存在を知っていて、なおかつ霊気を隠せるほど器用ではないのかもしれないわ」
「それは……魔理沙さんのことを云ってます?」
「今挙がっている容疑者から考えれば、必然的にそうなるでしょうね。アリスなら霊気くらい器用に隠すもの。けれどそもそも――」
「はい! ちょっと意見です!」
そのとき阿湖が、授業で発言するように高々と手を挙げた。それをみて、慧音が嬉しそうにうなずいている。
「はい、それじゃあ稗田阿湖。なんですか?」
「えぇと、そもそも目占のことを知ってるひとがいるって前提なら、今の容疑者さんたちに絞る必要がなくなっちゃわない? 最初から目占に見つからないように霊気を隠して侵入したのかも」
阿湖の指摘に、思わず阿求は吐息を漏らす。それは確かにその通りだ。その可能性を考えるとあまりにも容疑者候補が拡散してしまうから、今まで犯人は目占の能力を知らないという前提で話を進めていた。だが犯人が目占の不在をねらって蔵に訪れたとすると、その者は彼女の存在を知っていることになる。
「そうね阿湖、その通りだわ。その前提に立つなら幻想郷のほぼすべての妖怪が容疑者たり得る。ほとんどお手上げね。幻想郷の誰が目占の存在を知っているかなんて、調べられるはずがないもの」
「そうですねぇ……」
つぶやいて、困ったような顔でパチュリーと阿湖を交互に眺める。パチュリーに意見を肯定された阿湖は、嬉しそうに頬を紅潮させていた。事件以外にも頭が痛くなることがたくさんあるなぁと、阿求はため息をついた。
そのとき腰に手を当てた阿澄が口を挟んでくる。
「ねぇ、どっちでもいいですから、まず蔵の中をみてみませんこと? わたくしもう気になっちゃって気になっちゃって」
「ああ、それもそうですね。鍵をとってきます」
きびすを返して歩き出すと、パチュリーも当然のようにその後をついてくる。
それでなんだか、少し救われた気がした。
* * *
結局蔵の中には、慧音がひとりで入っていった。
阿求は自分で直接確かめてくるつもりだったけれど、身体によくないということで皆から止められた。阿澄や阿湖はやはり抵抗があるらしく、阿求たちと共に外で留守番となった。
「……どう思いますか、パチェ」
ぽっかりと開いた蔵の中、懐かしさすら感じる暗がりを阿求は眺める。ぱっと見た限り、鍵やかんぬきの様子におかしなところは見あたらない。前回自分が閉めたときとなにも変わっていなかった。
「どうもこうもないでしょう。犯人が再び蔵に戻ってきた。しかも一度盗んだ書きつけを持っていた。ならその理由はひとつだわ。蔵の中に入ったのよ。それで多分書きつけとジョジョを元に戻していった」
「……でも」
「ええ、わかってる。確かにそんなことはありえない。でもそれ以外に考えられないじゃないの」
そう、ありえない。
阿求自身、パチュリーと同じことを思っている。犯人は書きつけと秘術書を持ってきて、元のとおりに戻していったのだろう。おそらく最初から盗もうというつもりはなく、すぐに戻すつもりだったのかもしれない。
けれどそれは、不可能なはずなのだ。
なぜならこの一週間、蔵の鍵はずっと阿求が持っていたからだ。
事件の翌日慧音に語ったように、阿求は出歩くときには常に鍵を持ち歩いている。それは紅魔館までパチュリーに会いにいったときも変わらない。
だからもちろん時計塔で倒れたときも持っていた。
その後永遠亭に運び込まれたときも持っていた。
昨日の夕方パチュリーと共に戻ってくるまで、阿求はずっと蔵の鍵を持っていた。
――ならば、誰も蔵に入れたはずがない。
蔵への再侵入があったと考えられる時間は、昨日の朝から夕方にかけて。だがその間、鍵は常に阿求のふところにあったのだ。永遠亭の一室で、事件について話し合っていたのだから。
パチュリー・ノーレッジ、上白沢慧音、射命丸文。力ある大妖が顔をつきあわせて話し合っている場から、持っている本人も気づかぬうちに、誰が鍵を盗み出すことができただろう。ましてや結界に守られた永遠亭。月と地上の両界でもっとも高貴な姫が暮らし、月の頭脳の目が行き届いた永遠亭。
アリスであっても鈴仙であっても、たとえ地底の古明地こいしであっても、そんな場所から鍵を盗めたはずがない。さらに鍵を使わずに蔵に出入りが可能なてゐは、まさにその場で犯人候補としてつるし上げられていた。
――容疑者が、いなくなる。
今挙がっている容疑者の中で、今回の犯行が可能なのは昨日永遠亭の会議にいなかった三人だけだ。ひとりはアリス・マーガトロイド、もうひとりは霧雨魔理沙、そして最後に十六夜咲夜。だがアリスと魔理沙はどう考えても鍵を手に入れることができない。鍵を必要としない別ルート、天窓から侵入できるサイズでもない。
唯一物理的に可能性があるのは、ただひとり咲夜だけだった。彼女の能力なら、止まった時の中で阿求の懐の鍵をなにか別のフェイクとすり替え、蔵への侵入ができるかもしれない。蔵に近づくことで時が再び動き出してしまっても、目占が永遠亭にいる以上発覚する恐れはない。
だがその可能性もとても低い。
なんといっても、咲夜は昨日の朝、永遠亭復旧のためにすべての力を使い果たして帰って行ったのだ。
実際彼女が人一倍の活躍をしていた以上、あの憔悴した様子が演技だとは思えない。
――容疑者が、いなくなる。
もし蔵に侵入の痕跡があったなら、今阿求が考えている容疑者は、たったひとりを除いて全滅してしまう。そして彼女が犯人だったなら、阿求は最初からそのひとを問い詰めるつもりがない。きっとその行動は、色々なことを考えた末のものだから。
あるいはそのひとではなく、目占のことを知っている見知らぬ誰かかもしれない。けれどそうなってしまったら、犯人を捜しだすことはおそらく不可能。
探偵ごっこもそこで終わりだ。
「――あ、戻ってきたわよ」
阿澄の声に顔を上げ、阿求はじっと蔵の入り口をみつめる。やがて暗闇の向こうから、慧音の足音が聞こえてくる。
「どうでした、慧音先生!?」
姿を現すのも待ちきれずに問いかけると、暗闇からは「ああ」と困惑したような返事が返ってきた。思わずパチュリーと顔を見合わせて、同時にこくりとうなずき合う。
やがて陽光の元に現れた慧音は、両手に書きつけの束を持っていた。その束の上に、古色も雅やかな一冊の本がある。
「ああ……やっぱり……!」
「盗まれたはずの書きつけと秘術書というのは、これか?」
全部、綺麗に戻ってきていた。
書きつけも、転生のための秘術書も。
ジョジョは影も形も見あたらなかったと、慧音は云った。
§13
リーリーと鈴虫の声が聞こえて、それで阿求はもう晩夏も近いのだと気がついた。
けれど昼間の暑気はまだそのあたりにたゆたっていて、彼女の肌にじわりと汗をにじませる。天狗もいないのにさっと風が吹き、縁側につるされた風鈴をちりりと鳴らした。
「――阿求、ちょっと、胸が苦しいんだけれど……」
「我慢してください、もう、本当に憎たらしいおっぱいですこと」
パチュリーの胸をさらしで締めあげながら、阿求はじとりと目を細める。
「なによそれ、普段嬉しそうに触ってくるくせに」
「時と場合によります! 和服は寸胴じゃないと綺麗にみえないんですよ。帯に胸が乗っちゃうとすごくみっともないでしょう?」
「そういうものなの? でもあいつはそんな感じに着てなかったかしら。ほら、この間会った三途の河の船頭の……」
「小町さんですか? まあ、その、ええと……」
「なるほど、あいつの着こなしはみっともないわけね」
「本人に云わないでくださいよ? また川を渡るときお世話になるんですから」
パチュリーの腰に手をかけ、くるりと自分のほうに振り返らせる。目があうと、恋人は泣きそうな顔で阿求のことをにらみつけていた。
あれから一週間ほどがすぎ、夏祭りの当日だった。
再建されたパチュリーの部屋は着付けをするには狭すぎたから、阿求は自室に西洋魔女を呼びつけた。浴衣を着たいというのはパチュリー自身の要望だ。阿求としてはアリス特製のドレスでもいいと思っていたけれど、変に目立ちたくないとパチュリーは云った。
「タオル、巻きますから……」
「ふん、好きにしたら」
さらしだけでは胸と腰の段差は埋まらず、阿求はため息を吐きながら細い腰にタオルを巻きはじめる。パチュリーはされるがままにくるくる回りながら、彼岸の話を口にした阿求を恨みがましい目でみつめていた。
結局あの『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』とはなんだったんだろうと思う。
なんのために犯人は書きつけと秘術書を盗み、ジョジョと入れ替えていったのか。そうしてなぜ再び元に戻していったのか。
それを犯人に問いたい気持ちはぬぐえない。
けれど阿求は、そのすべてを一旦忘れることにした。
ひとを疑うということはとても疲れる。咲夜の反応が、文やてゐの反応が、阿求の中で今も棘となって残っている。ただすっきりしたいというだけのために、もう一度あの気分を味わいたいとは思わなかった。
盗まれたものが戻ってきたということは、犯人も阿求を害しようとしたわけではないのだろう。そう思って、阿求は犯人捜しをやめることにした。とりあえず警備は厳重にしたけれど、この一週間とくに何事も起きていない。結局このまま何事もなく時はすぎていくのだろうと思われた。
ただ問題は、転生の秘術書の件だった。
阿求のみならず、現在生存している稗田の者に秘術書の内容を知っているものは誰もいない。阿求が読んでみた限り内容は正しいように思えたし、是非曲直庁および四季映姫ヤマザナドゥの落款も押されていた。だが中身が書き換えられていないとも限らない。もし詳細や作法の面で実際と違うことが書かれていたら、取り返しのつかないことになる恐れがあった。
そう思って、阿求はパチュリーの結界に守られながら三途の川まで小野塚小町を訪ねていったのだった。
不良渡し守は、どうか映姫には内緒にして欲しいという頼みにもあっさりうなずき、秘術書の内容確認をしてくれた。わざわざ是非曲直庁の書庫にいってまで、内容が書き換えられていないことを証明してくれたのだ。
それで、この事件はとりあえず終わった。
「パッチェさん、御阿礼さま、用意できた?」
バンとふすまを開けて、阿湖が姿を現した。
緋色の飾り紐がついた千早を羽織り、腰に緋袴を穿いている。結い上げた髪には乙女椿の飾りかんざしを挿していて、自分の従姉妹ながら抱きしめたくなるほど愛らしい巫女姿だった。
「ふわっ! パッチェさん凄い綺麗……」
「あら、ありがとう。あなたも可愛いわ阿湖。どこぞの博麗よりよっぽど巫女らしいんじゃないかしら」
「えへへ……そ、そうかなぁ。霊夢さまと比べられるとさすがに照れちゃう」
そう云って、阿湖は赤らんだ頬をぺたぺたと撫でる。その光景を、阿求は胸の痛みと共に眺めていた。
「ほら阿湖、あなたは奉納舞の準備があるんでしょう。わたしたちもちゃんと見ますから、そちらに行ってなさいな」
「はーい」
元気に答え、上機嫌で廊下をぱたぱたと去っていく。その後ろ姿に、阿求は桜色の花びらが見えた気がした。
「あの子、一体なにしにきたのかしら? 別に一緒にでかけるわけでもないのに、そんなに私たちの支度が気になるの?」
「はぁ、鈍感……」
「なによそれ、意味わかんない」
パチュリーが小首をかしげると、浴衣に合わせて結い上げたプラム色の髪がさらりと揺れる。朝顔の花を散らした花かんざし、紅魔館めいた赤い口紅。いつもと違ってむき出しになったうなじの後れ毛が、夏の宵に匂い立つような色香を放つ。
「あの子、パチェのこと好きなんですよ。まったく、全然気づいてなかったんですか? あんな無駄に褒めて気を惹くようなことおっしゃって……」
「……へ? 好きって?」
「云っておきますけど、『友だちとして好き』とかそういうことじゃないですから。その手の勘違いは一度で十分です。当主の彼女に岡惚れしてるんですよあの子は」
「ええ? 本当?……それは、どうすればいいのかしら……」
困惑したように眉をしかめながら、パチュリーは頬に手を当てる。その表情に、阿求は少しだけほっとした。ここでまんざらでもなさそうに頬のひとつでも染められたら、さすがにいい気分はしなかった。
「わかりませんよそんなこと」
つんと顔をそらしながらそう云って、巾着袋を手に部屋を出る。そのあとをパチュリーが慌てたように追いかけてきて、強引に阿求の手を取った。
「ちょっと阿求、怒ってるの?」
「怒ってないです、なんでわたしが怒るんですか」
「態度がつれないじゃない。怒ってないなら、妬いてると判断するわよ」
「妬いてもいませんよ! ただ悲しいだけです」
「……なにが? 云ってくれないとわからない。私は鈍感なのよ」
口をとがらせたパチュリーの腕に、阿求はぎゅっとすがりつく。慣れない和服にバランスを崩し、パチュリーはとんと脇の壁に背中をつける。
「阿湖の気持ちなんて、どうせ子どもっぽい憧れです。身近にいる綺麗な大人になら、子どもはみんな憧れます。背伸びして飛び上がって手を伸ばして、それで自分が大きくなったつもりなんですよ」
「そう……人間はよくわからないわね」
「でしょう? だからわたしが妬く必要なんてないんです。あんな子どもに負けるかもなんて、思っていませんよ」
「……じゃあ、なにが悲しいのよ」
「だって、それでもあの子は、わたしが逝ったあと、あなたのそばにいられるじゃないですか!」
思わず目尻に涙が浮かんでしまう。こんなこと云うつもりじゃなかった。千二百年生きている大人らしく、どっしりと構えていたかった。
でも駄目だった。
今までのように、どうせ死んで転生するのだからと醒めた視線で眺めるには、パチュリーは心の中に入りすぎていた。
「あの子、どんどんわたしに似てきますよ。わたしに似て頭だっていいし、わたしに似て顔立ちも可愛いです。わたしが死んだ後、あなたが――」
その言葉は、最後まで云いきることができなかった。
くちびるが、くちびるでふさがれてしまったから。
どんと壁に追しつけられて、息苦しさにあえぐ。けれどそれでも許してくれなくて、むさぼるようにかき抱かれた。
せっかく紅引いたのにだとか、パチュリーの髪も結いなおさないとだとか、そんなことをちらりと思う。
でもすぐにどうでもよくなった。
パンパンと、里のほうから打ち上げ花火の音がする。勇壮に響く陣太鼓、心が浮き立つ横笛の音色。里のはずれにあるこの家にまで、ひとびとの笑い声が聞こえてくる。
逝く夏を送る祭りが、はじまった。
§14
からころと、下駄を鳴らして歩いていく。
夜の底に漂う香りはふわりと甘い。とろけそうな綿菓子の、どこか涼やかな林檎飴の、胸が温かくなるようなチョコレートの、甘い香りが匂い立つ。昔どこかに捨ててきた、記憶のように匂い立つ。
ざわめき、笛の音、笑い声。どこかの香具師が七五調で並べ立てる呼び込みが聞こえる。水風船が手のひらに当たるパンパンという湿った音。くじがいんちきだとくってかかる、威勢の良い男の怒鳴り声。それをはやしたてる野次馬の無責任な歓声。
変わらないなと阿求は思う。
数百年が経ち文化や風俗は変わっても、祭りの心浮き立つような楽しさは変わらない。日常から解放されて華やかに笑う、ひとびとの笑顔は変わらない。楽しそうに通りすぎていく親子連れ、手を取り合ったカップル、はね回る無邪気な子どもたち。
けれどその中に、ちらほらと人外の姿もみえている。
大きな角を生やした伊吹萃香が、ときおり瓢箪をぐびりとやりながら出店をひやかして回っている。気づいた店主が顔を青ざめてあとずさるけれど、当人は気にしない風にとうもろこしをひょいとつまんで小銭を落とす。鬼の存在を知らない子どもたちがその後ろをついて回り、小さな小さな百鬼夜行を作っていた。
広場ではプリズムリバー樂団の三人が、ジンタのような音楽を奏でている。それは阿求も聞いたことがない曲で、哀切なメロディと、祭りのリズムが合わさった不思議な曲だった。
他にも山の天狗や河童、里近くに住む人獣や妖精など、知能の高い妖怪をそこかしこでみかけた。けれど特に人間に危害を加えようとするでもなく、周囲の里人も受け入れている様子だった。
人里も変わるものだなぁと阿求は思う。昔慧音も云っていたけれど、博麗の大結界と弾幕戰の文化は、ひとびとの意識を百年前とは随分変えたようだった。
「なぁにあれ、騒がしい。誰よあの馬鹿を連れてきたの」
妖精のチルノが騒ぎを起こしているのをみて、パチュリーが鼻を鳴らしながらそう云った。どうやら金魚すくいの水を凍らせてしまったらしい。慧音が慌てて飛んできて、ごつんと盛大な頭突きを食らわせている。
「あいたたたたっ、あれ本当に痛いんですよね……みてるだけでおでこがうずきます」
「あら、阿求も慧音に頭突きなんてされたことあるの?」
「ええ、子どものころに一回。悪いのはわたしだったので、仕方ないんですけど」
「へぇ……あなたが悪いことをねぇ。詳しく聞きたいわ」
「気が向いたらお話しますよ。他にもたくさん、わたしの人生のお話を」
そう云って、肩にもたれかかって腕を組む。祭りの匂いを押しのけて、ふわりとパチュリーの香りが強くなる。魔女は少し頬を赤くしながら、空いた手で阿求がつけた乙女椿のかんざしを直してくれた。すれ違った里のひとが、苦笑いを浮かべながら目をそらす。
「ねぇ阿求、私の着付け、やっぱりおかしい?」
「どうして? ちゃんとできてると思いますが」
「でも、すれ違うひとにまじまじみられることが多い気がするんだけれど……」
「ふふ、パチェがあんまり綺麗なのでみとれてるんじゃないですか?」
くすくす笑いながらうそぶくと、髪を直していた手でデコピンされた。
「あいたっ」
「あんまり馬鹿なこと云ってると頭突きするわよ。本当はどういうこと?」
「どういうこともなにも……九代目阿礼乙女ですよわたしは。正直里でも一番の有名人ですから。その彼女になったっていう魔女はどんな女だろうって、注目されててあたりまえでしょう」
「……むう」
うなって、顔をそらす。
パンパンと打ち上がった花火が、そのすべらかな頬を赤や黄色に染めていく。
けれど花火が終わって薄暗闇がもどっても、頬の赤みが消えることはなかった。
「――うわっ、キモイ! パチェが超絶キモイわ、咲夜!」
そのとき聞き覚えがある声がして、パチュリーがぴしりと固まった。
「まぁ、お嬢さま。それは少しひどいです。いくらパチュリーさまだって、たまには甘い顔のひとつもしますわよ。頬を染めながら彼女の乱れた前髪直しちゃったりとか……ぷぷっ! もうだめっ!」
振り向くと、綺麗に浴衣を着こなしたレミリア・スカーレットと十六夜咲夜が、パチュリーを指さしながらげらげら笑っていた。
なかなかに祭りを楽しんでいるようで、レミリアは天狗のお面を頭の横にかぶりながら、水風船をばいんばいんと手に当てて遊んでいる。
からかわれたパチュリーが、瞬間的に顔を赤くしてレミリアに詰め寄った。
「なんでレミィがいるのよ! 私を笑いにきたなら今すぐ帰って!」
「はん、自意識過剰なんだよパチェは。わざわざそんなことのために来るもんか。祭りを楽しみに来たんだもん」
「あっそう、ふーん、確かにずいぶん楽しんでるみたいね? 吸血鬼が天狗の仮面なんかかぶっちゃって、恥ずかしくないのかしら……」
「人間の仮面かぶってるパチェには云われたくないねっ」
「なんですって、やっぱり私を笑いに来たんじゃない!」
ぎゃーぎゃーと罵り合いをはじめたふたりから、阿求は下駄を鳴らして離れていった。
一度こうなると、パチュリーの視界には恋人の姿すら入らなくなってしまうのだ。自分は確かにパチュリーの恋心を奪ってその身体すら得たけれど、なお彼女の心の何割かはレミリアの元にあると知っていた。
「どう? パチュリーさま、ちゃんとやれてる?」
いつのまにか隣にいた咲夜が、阿求に微笑みとあんず飴を差し出した。
「あ、ありがとうございます。それはもう、思った以上にがんばってくれてますよ」
「ふふ、さんざん脅しておいたからね。変なところみせて嫌われても知らないわよって」
「あはは、それであんな借りてきた猫みたいになってるんですか」
あんず飴の甘い水飴を舐めとって、露出した果肉にかぷりと噛みつく。甘さで満ちていた口の中に広がるすっぱさ。まるで恋みたいだと阿求は思う。
「……レミリアさま、寂しがってますか?」
「まぁ……なかなか複雑なものがあるみたいね。あれでお嬢さまはあなたのことも好きだから、憎んだり恨んだりはできないんでしょう」
「そう……」
「気にしてるの? 略奪愛」
「略奪って、そんな……でもまぁ、気にしますよね。パチェもレミリアさまといると生き生きしてますし。わたしがひとり占めしちゃっていいんだろうかって……」
恋のためには世界全部を捨てられるなんて幻想だ。それはもちろん恋人の存在は大事だけれど、それだって人生で数ある関係の一部にすぎない。とくにこれから先何千年と生きていくはずのパチュリーにとってはそうだろう。
もう先がない、阿求とは違う。
さっきまで喧嘩をしていたパチュリーとレミリアは、いつのまにか肩を並べて射的なんかに繰り出している。『弾幕お断り』と書かれた台に精一杯上体を倒して、ちんけな銃で狙いを定める吸血鬼の女王。となりでにやけているパチュリーの、容赦ない毒舌が聞こえてくるようだ。
「いっそあなたが紅魔館にくればいいのにね」
「――え?」
「なんてね、そういうわけにもいかないか。稗田家の当主、九代目阿礼乙女なんだものね」
その瞬間のことだった。
阿求がその計画を思いついたのは。
上手く行かないかもしれない。
誰かをひどく傷つけるかもしれない。
でもやっぱりこのままではいけないんじゃないかと思っていたし、なによりあのひともそれを望んでいるはずだから。頭の中で計画を練り上げながら、阿求は言葉を選んで語りかける。
「――そういえば咲夜さん、このあと魔理沙さんが花火を打ち上げるって話は聞いてます?」
「あ、ええ。なにやら弾幕をモチーフにした花火なのよね。花火をモチーフにした弾幕だったかしら? まあどっちでも同じ気がするけれど、一応それを見にきたのもあるのよ」
「そうですか……よかったら一緒に見ませんか? その前にアリスさんの人形劇もありますし」
「ん? いいわよ。いいけれど……一体なにを企んでるのかしら」
怜悧な瞳をナイフのようにとがらせ、咲夜はじっと阿求をにらみつける。
「ふふ、さあなんでしょう?」
その追求を笑顔でかわして、阿求はパチュリーの元に駆けだした。
* * *
――かけまくも畏き月弓尊は上絃の大虚をつかさどり給ふ
――月夜見尊は円満の中天を照らし給ふ
里にある博麗神社の分社で、博麗霊夢が厳かに祝詞を唱えている。夜の月を待つ祓いの言葉。凜と張り詰めたその声は、漂うように夜に浮かび上がって遙か月まで届きそう。
舞殿で祝詞を捧げるその後ろ姿は、神々しくも美しい。いつも縁側でだらだらお茶を飲んでいるひとだとは思えない。
パチュリーと共に客席の茣蓙に座りながら、阿求はどうして今年の霊夢はこんなに真面目なのだろうと不思議に思う。求聞持の記憶にあるかぎり、去年も一昨年もこんなに真剣ではなかったはずだ。
そう思って、ふと気づく。
きっと阿礼乙女の前で奉納舞を踊るのが、これで最後だと思っているからなのだろう。
心の襞を撫でるような笙の音。
ぽんぽんと跳ねる楽太鼓。
雅楽に合わせて数人の巫女たちが、ゆったりとした動きで舞っていく。
その中でもやはり、霊夢の舞は際だっていた。寸毫も乱れない体幹と、ぴしりと決まった指先の動き。やはりこのひとは博麗の巫女なのだと、新鮮な驚きと共に阿求は思う。
次によく動けていたのは、身内びいきながら阿湖だろう。身に染みついた舞の所作を、ひとつひとつそつなくこなす。その結い上げた髪の後れ毛が、なぜだかとても清潔に感じた。
阿求の中に、阿湖に対する悪感情はまったくない。
むしろ胸が張り裂けるような悲しさだけを感じている。
当主の恋人という、好きになってはいけないひとを好きになってしまった切なさを。あの思春期にのみ感じる、大人になることとひとを恋する気持ちが結びついた苦しさを。阿求だってくぐり抜けてきたのだから。
自分が死んだあと、阿湖とパチュリーは一体どうするだろうか。
阿湖は一瞬だけでも恋敵が死んだことを喜んで、その罪悪感に押しつぶされてしまうだろうか。パチュリーは稗田の家にとどまって、阿求の思い出を抱えながら次の自分が産まれるのを待つのだろうか。そうして大人になった阿湖の中に、ふと自分の面影をみつけたりもするだろうか。
――そんなのは、いやだ。
阿湖が苦しむのも嫌だし、パチュリーが阿湖に自分の面影を重ねるのも嫌だ。阿湖は才能にあふれたひとりの人間だ。自分の身代わりになっていいような子じゃない。
やがて舞もつつがなく終わり、境内には穏やかだけれど大きな拍手が鳴り響く。その音の中、霊夢は我関せずと無表情をつらぬき通し、阿湖は喜ばしげに口元をあげる。
その視線が、すっと阿求とパチュリーのほうにむけられて。
――恋する少女は、華やかに笑った。
その顔をみていられなくて、阿求はそっと目をふせた。
* * *
物見の丘は広場の東にあり、里全体を見下ろすことができる。普段その場所はちょっとした発表会や、村会議で決めた事項の告示などに使われており、平たい壇を囲むように作りつけの長椅子が設えられている。
その壇の上に、小さな屋台のような仮設舞台があった。
「あれが例の人形劇の舞台? なるほど、いくらでも物を隠しておけそうね」
「そうですねぇ、まあ、今となっては終わった話かもしれませんけれど」
八目鰻の屋台に見たてれば、鰻を焼く調理台のあたりが演台だ。箱状になった下部は人形や小道具を入れる収納スペースなのだろう、ジョジョ全巻くらいなら余裕を持って入れられそうだ。背後に垂れた黒いカーテンの中で、アリスがごそごそ準備しているのがみえた。
「さて、お手並み拝見といったところかしら」
パチュリーが呟いたそのとき、アリスがカーテンから出てきて集まった観客に礼をする。パチパチと鳴り響く拍手の中、一瞬パチュリーに目をとめてぽかんと口を開いた。魔女の和装に驚いたのだろう。
アリスは一言二言口上を述べて、再び仮設舞台の裏に入り込む。やがてビロードの緞帳があがり、アリスの人形劇ははじまった。
それはひどく奇妙なものだった。
舞台の上で、人形たちが演劇を繰り広げていく。
魔女にとらわれたお姫さまを、凛々しい姫騎士が助けにいく話。
当たり前の人形劇の構成で、よくあるといえばよくある話。
けれどその普通の人形劇を行っているのは、アリスではなかった。
仮設舞台の上に腰掛けた蓬莱人形と上海人形が、舞台上のマリオネットを操っているのだ。そうして物語の筋立ては、ふたりの人形の掛け合いの中で縦横無尽に変わってしまう。
「ちょっと上海、その展開はありきたりすぎでしょー」
「えー、蓬莱は奇をてらおうとしすぎなの。王道には王道の美学があるんだからー」
「それはわかるけど……じゃあこうしない? 悪い魔女さんも本当は人間のことが大好きで、みんなと仲良くなりたいって思ってるのよ」
「うーん、仕方ないなぁ、じゃあそれでいいよ」
そんなやりとりで、お姫さまをさらった悪い魔女は、素直になれないだけの可愛い女の子にされてしまった。
「くく……あれパチェのことなんじゃないですか?」
小声でささやくと、パチュリーは憮然とした表情をみせる。
「ふん、だとしたら観察不足にもほどがあるわ。私なら自分で姫をさらったりしないもの」
「あーあー、そうですよね。パチェならお姫さまが勝手にひっかかってくるのをじっと待ってますよね」
「もちろん」
悪びれもせず云ったパチュリーのことを、阿求は少しだけ憎たらしく思う。
魔女が呼び出したゴーレムと、騎士との戦い。
姫の奮闘と魔女の悔恨。
そして物語は大団円――かと思いきや、「これで終わりでいいの? 悪いことしちゃった魔女さんは罪悪感をずっともってるの?」という蓬莱の言葉で続いてしまい、気づけば三角関係ラブロマンスになっていた。それが蓬莱の趣味らしい。
阿求も観客と一緒に笑い声をあげながら、内心アリスの技量のすさまじさに舌を巻いていた。
アリス・マーガトロイドという存在は、その場から完全に消えている。
上海も蓬莱も本当はアリスが操っているはずなのに、もう誰もそんなことを覚えていない。七色の声色を駆使して、蓬莱が各登場人物の演技をする声と、上海のそれとを使い分けているのだから恐れ入る。
結局物語は、三人一緒につき合っていくという驚天動地の展開で幕を下ろすことになった。一般的には考えにくいつき合いかたではあるけれど、それまで上海と蓬莱の真摯な議論を見てきた観客にとっては、これ以上ないようなハッピーエンドだ。
万雷の拍手に包まれた物見の丘の演芸場で、阿求はひとり、舞台の裏側にいるアリスの姿を思い描いていた。
「お疲れさまです、アリスさん。すごく面白かったです!」
「あら、ありがとう阿求。『物語の神さま』稗田阿礼にお褒めいただいて光栄ね」
ひとの引きはじめた演芸場で、屋台の片づけをしていたアリスが顔を上げた。
「いやいや、それは阿礼のことですから。わたしはそんなんじゃないですよぅ」
阿求は気恥ずかしげに前髪をいじる。そんな彼女にうっすらと微笑み、アリスは客席のほうに視線をむけた。
そこには不思議と見知った顔ぶればかりが集まっていた。
祭りの取材に訪れた射命丸文がいる。レミリア・スカーレットと十六夜咲夜がいる。遊びに来ていた因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバに、見回りに来ていた上白沢慧音、それと阿湖がいる。
おそらくは紅魔館の当主レミリア・スカーレットの存在に気づいたのだろう。さきほどまでたくさんいた里人や、人形劇に夢中だった低級妖精たちは綺麗さっぱり消え失せて、物見の丘は期せずして妖怪グループの集合場所のようになっていた。
さわさわと風が吹き、火照った身体をさますと共に広場を囲む青草を揺らす。夜空はどこまでも晴れ渡り、怖いくらいに輝く星が誰かの弾幕のようだと阿求は思った。
そのとき射命丸文がふわりと客席から飛んできて、天狗帳を片手にアリスに訊ねる。
「いやはや、なかなか面白かったですねアリスさん。それであの劇の狙いはどんなところにあったんですか? 珍しい感じでしたけれど」
「どうって……そんなの見たひとが自分で考えればいいわよ。狙いなんて言葉で説明したくないわ」
「うーん、でもそれじゃあ新聞の読者にはわからないですからね。できるだけわかりやすく説明して欲しいんです」
文の言葉に、アリスは一族郎党が死に絶えたかのような仏頂面をした。その気持ちは阿求にもなんとなくわかる。言葉で説明できるくらいなら、わざわざ劇の形にしないのだろう。
無邪気な顔で返事を待つ新聞記者に、アリスは諦めたようにため息をついた。
「まぁ……普段から人形劇とかやっているとね、時々思うわけよ。こうやって人形を操る自分自身も、実は人形だったりしないだろうかって」
「はぁ?……どういうことでしょう、アリスさんは人形じゃありませんよね?」
「一応そう思っているけれどね、でももしかしたらこの上海たちだって同じことを考えてるかもしれないわ」
その瞬間、ふわりと上海人形が浮かび上がる。布でできた両手を万歳の形に挙げ、「シャンハーイ」と叫んでくるくる回る。
「今のは腹話術でしょう?」
「そうよ。私が魔法の糸で操って私が喋った。でもこの場合は物理的な糸だけれど、同じように見えない糸が、私たちの心にも張り巡らされているかもしれない。それで舞台の裏側にいる誰かに操られてるかもしれない。そんなことを時々思うのは、私だけかしら?」
乾いた顔で笑うアリスに、ふと周囲に沈黙が訪れる。
アリスほどではないけれど、みなそれぞれ心当たりがあるのだろう。阿求自身、人形遊びをしていた子どものころにそういった気分になることがあった。
本当にこの人形には心がないのだろうかと思うと同時に、自分もより上位にいる誰かにとってはこの人形と同じかもしれない。そんな不思議と客観的な視点に放り投げられて、足下が揺らいだ経験が。
ましてやここは、幻想郷だ。
舞台の裏側には、より上位の次元には、実際にひとがいる。
黒い黒いカーテンのスキマから。舞台からはみえない暗渠の影から。文字通りすべての糸を引く妖怪の賢者が、胡散臭い笑みでわたしたちを覗いている。
「まあ、そういう思いを入れ小細工の劇にしてみたってこと。もちろんそんなこと考えなくても純粋に楽しいように作ったつもりだけれどね。どう? わかりやすく書けそうかしら?」
「いやー、それはちょっと書けませんや……まるであの方に喧嘩を売っているみたいじゃないですか」
「でしょう? だから説明したくないって云ったのよ」
肩をすくめてアリスが云うと、文は諦めたように天狗帖をぱたんと閉じた。
「疲れたでしょうアリス、よかったら紅茶でもどうぞ」
そう云って、咲夜が魔法瓶の蓋をそっと差し出した。ありがとうと云って口をつけるアリス。どうやら紅魔館のひとたちは、どこにいくにも紅茶持参で出かけるらしい。物欲しそうに眺めていたら、咲夜は笑いながら阿求にもめぐんでくれた。
こくりと口に含むと、やはり自分で淹れたものより美味しい。
どう考えても淹れたてじゃないはずだし、茶葉だって同じものを使っているはずなのに。どうして違うんだろうと小首をかしげる。この紅茶を飲める紅魔館のひとたちはずるいなと、隣のパチュリーを横目で眺めた。
でもそれも、自分はこのひとから奪ってしまった。
「あ、みてみて、そろそろはじまるみたいよ」
「おお! 楽しみだね鈴仙!」
そのとき、近くにいた鈴仙とてゐの会話が聞こえてきた。阿求が鈴仙の視線の先を眺めると、里を貫いて流れる川の辺に、ぼんやりと灯りが点っている。見ているうちにもパンパンと号砲が上がり、弾幕花火の開始を告げた。
「あいつ、結局どんな花火を上げるつもりなのかしら。なんか絶対みてろとか云われたんだけど……」
首をかしげるアリスに、阿求はにっこりと笑いかける。
「ふふ、どうなんでしょう。でも絶対見ておいたほうがいいと思いますよ」
「あらなに? あなた知ってるの?」
「まあ、そこら辺は見てのお楽しみということで……」
「そ、そう……? まあ、楽しみにしてるわ」
とまどった様子で、けれどいそいそと居住まいを正すアリスに、阿求は少しだけ嬉しくなった。そんな阿求に、パチュリーがそっと身をよせてきてささやく。
「なるほど、なんとなくわかってきたわ。あの日魔理沙がなんであなたの家で一晩中飲んでいたのか。……あなたが云えなかった理由もね」
「あら、わかりましたか?……まあ、アリスさんはね、ちょっとパチェで遊びすぎたんですよ。聞けばアリスさん、パチェの前には魔理沙さんを着せ替え人形にしていたそうで……」
「はぁ……それで急に私に矛先を変えたから、捨てられたみたいに思ったのかしら。ばかじゃないの?」
「まあまあ、恋する女の子はちょっとしたことで疑心暗鬼になるものですよ。パチェも自分の胸に手を当てて考えてみたらどうですか」
「……私はないわよ? 疑心暗鬼になったこと」
「させたほうですよっ!」
阿求が突っ込んだそのとき、どかんと盛大な音を立てて空が爆ぜた。
§15
巨大な光の柱が、大量の星と共に河原から天へと立ち昇る。
それは魔理沙が使うマスタースパークに似ているけれど、普段のものより桁違いに大きい。中天にさしかかった光の柱は、ひとびとの頭上ではじけて分かれ、夜を真昼に変えながら四方八方に走っていった。
地上からわっと歓声が挙がる。色とりどりの五芒星が散らばる中、箒にまたがって飛ぶ魔理沙の姿がみえる。
「なによあの無茶苦茶な大きさ……火薬を触媒に使っているのかしら」
「そうみたいです。だから弾幕花火なのだそうで」
「なるほど、派手なだけで威力はなさそうだけれど……あいつらしいわね」
パチュリーは呆れたような、けれどどこか満足げな表情を浮かべる。普段なにかと憎まれ口ばかり叩くけれど、なんだかんだで認めてるんだろうなと阿求は思う。隣をみると、アリスも感心したように空の芸術を眺めている。
どんと音が鳴り、魔理沙を中心に七色の五芒星が飛び散った。五芒星は回転しながら夜空を切り裂いて飛び、星を落としたような流星がその合間を埋めていく。
「なんだっけあれ、ミルキーウェイだったかしら?」
「そうそう、私あれ苦手なのよね。どうしても星弾の判定がわからなくて……」
「あら、あれは回転避けがおすすめだわ。リズムに乗ってしまえば、あとは小星弾に注意すればいいし」
やいのやいのと井戸端会議をはじめる地上の人妖たち。そんな風に弾幕ごっこで語り合える彼女たちのことを、阿求は少しだけうらやましく思う。自分だって自由に空を飛び、弾幕のひとつも繰り出してみたい。そう思ったことは何度もあるから。
空では次々と弾幕の花火が上がっていく。
放射状に配置された使い魔が、渦を巻きながら弾幕を放つイベントホライズン。夜空を切り裂くレーザーと星弾の交差が美しいスターライトタイフーン。ノンディレクショナルレーザーを放ったときには、パチュリーがひどく渋い顔をした。
その華やかな弾幕花火は、里びとの心をつかんだようだった。新たな花火が登場するたび、歓声とともに「霧雨屋!」の屋号が挙がる。だが魔理沙は、魔法と弾幕を極めるためにその霧雨屋を飛び出したのだ。あの親父さんも地上のどこかで見ていればいいと、阿求は思う。
「それにしても、本当に弾幕ばかよねあいつ……」
アリスがぽつりとつぶやいた。その人形めいた白磁の顔を、弾幕花火が赤やピンクやオレンジ色に染めている。
――気づいているのだろうかこのひとは。
『恋』の名のついたあの弾幕花火を、魔理沙が誰に対して打ち上げているか、アリス・マーガトロイドは気づいているのだろうか。
やがて魔理沙は手持ちのスペルカードをすべて撃ち尽くし、つかの間夜空に暗闇が戻る。
「あれ? これで終わり……よね?」
アリスが不思議そうに目をぱちくりとさせた。
少し肩すかしに感じているのだろう。たしかに美しい演し物ではあったけれど、それまでのところ阿求が匂わせたような何かは特になかったのだから。
「いえ、これからが本番です」
「え? でも――」
アリスが首をひねったそのとき、空が再び光で満ちた。
放射状にばらまかれた光弾が、拡散しながら一斉に色を変えていく。青から緑、緑から赤。鮮やかな色彩の変化に、里の観客が一斉に拍手した。
けれどそれを見ていたアリスは、ぽかんと口を開けていた。
「あれ――私の『博愛のオルレアン人形』じゃない」
そうして次の瞬間、巨大なハートマークが夜空に打ち上がる。
恋色魔法使いの胸から飛び出たハートは、ピンク色に輝きながら空を満たして、地上のすべてを同じ色で染めていく。やがて拡散しながら消えそうになると、また同じハートマークが二個三個と打ち上がる。
「うわぁ……」
呆れ声を上げたのは誰だっただろう。阿求が周囲を見渡せば、空を見上げながらのけぞっているもの、にやにや笑いながらアリスのほうをながめるもの、頬を染めながら目をきらきらさせているもの、さまざまだった。
けれどその誰もが、弾幕とハートマークに篭められたメッセージを正確に把握しているようだ。
アリスの顔を見上げると、誰よりも顔を真っ赤にさせて魔理沙の姿を追っていた。
その後も魔理沙が打ち上げる弾幕は、みなアリスのものだった。『魔彩光の上海人形』、『霧の倫敦人形』、そして『グランギニョル座の怪人』。複雑に軌道と色を変化させていくアリスの弾幕は、弾幕花火と合っていた。幾何学的に配置された弾幕が一斉に色を変えるたび、地上からはどよめきと歓声があがる。
けれどその意味をわかっているのは、ただ弾幕少女たちばかり。
普段からアリスや魔理沙と戦っていなければ、それがアリスの弾幕だとはわからない。そこに篭められたハートマークの意味がわからない。
幻想郷の住人すべてにみせつけていながら、なお一部の者にしか伝わらないメッセージ。
「なによあれ……あなたの差し金?」
パチュリーがそっと顔をよせてきてささやく。
「いやぁ……別にこうしろって云ったわけじゃないんですが……ただアリスさんはロマンチックな告白が好きなんじゃないかなって云っただけで……」
やがて夜空を埋めた大量の光球が、一斉に弾幕の花へと変わる。
魔操『リターンイナニメトネス』。
その陽光に匹敵するほどの輝きと共に、それまでのどれより巨大なハートマークが物見の丘の頭上に上がった。
それを最後に弾幕花火は終了し、夜は再び暗闇を取り戻す。里のあちこちから拍手が聞こえてくる中、アリスははぁと切なげな吐息を漏らした。
「まったく……なによあいつ、まったく……」
胸元のリボンをゆるめ、ボタンを外して大きく開ける。「本当に今日は暑いわね」などと云いながら、蓬莱にぱたぱたと団扇を仰がせた。阿求のところまで、ふわりと甘い恋の香りが漂ってくる。
やがて静まりかえった空を、ひとりの少女が飛んできた。
大きな中折れ帽に、パフスリーブのエプロンドレス。霧雨魔理沙が箒にまたがり飛んできて、アリスの頭上でぴたりと止まる。
「よ、ようアリス……見てたか?」
「見てたわよ……ばかね、見てたわよ……」
「か、感想は……」
「綺麗だったわよ。頑張ったじゃない、あんたにしては」
「そ、それだけか……?」
「それだけってなによ! それだけよ! 云いたいことがあるならはっきり云いなさいよ!」
照れ隠しをするように、アリスは叫ぶ。空にいる魔理沙と地上のアリス。ふたりの距離はまだ遠く、星明かりだけでは互いの表情は見えないだろう。
阿求ははらはらしながらそんなふたりのことを見守っていた。
あの日、アリスが稗田邸を訪れた日の夜、魔理沙をけしかけたのは自分だった。魔理沙は頻繁に人里を訪れるようになったアリスが気になって、後をつけていたらしい。そうしてそんな自分が心底嫌になって、飲み屋で飲んだくれたあと直接阿求のところにやってきたのだった。
そんな魔理沙に『好きなら好きって云っちゃいましょう』とわりと気軽にけしかけたのは阿求だった。
そのときは、こんな大がかりなことをやりはじめるとは思わなかったのだ。
「……いや、私は云わないぜ、アリス」
「……え?」
魔理沙の口から出てきた言葉に、アリスは虚を突かれたように目を見開いた。
阿求も心底驚いて、顔を伏せた魔理沙の姿をじっとみつめる。まさかそんなことを云うとは思わなかった。てっきり勇気を出して恋の告白をすると思ったのに。
「私はさ、アリス。喋るのは上手くないんだよ。特に自分の気持ちを伝えるなんて全然できない。だから私は弾幕馬鹿なんだぜ。言葉じゃ上手く伝わらないことでも、互いの弾幕みればわかる気がするからな……」
「魔理沙……」
「さっきの弾幕に、全部篭めたつもりなんだ。アリスの弾幕がどれだけ綺麗かとか、なんかそういう気持ちを全部……。だから、あれで伝わらなかったならもういい。気持ちなんて、言葉で説明したくない」
人形遣いがはっと息を飲む。感極まったように両手を口に当て、サファイアにも似た瞳をうるませる。
阿求はさきほどアリスが云った言葉を思い出す。人形劇の狙いなんて言葉で説明したくないと、アリス自身が云ったのだ。
魔理沙にとって弾幕というのは、きっとそういう存在なのだろう。創作物でありながら、コミュニケーションの道具のような。それはアリスにとっての人形のように、阿求にとっての言葉のように、パチュリーにとっての本のように、そこに自分の全存在を賭しても構わないと思えるなにかなのだろう。
「ごめん、魔理沙……わかったわ、ちゃんと伝わってる。私も多分同じ気持ちだから」
「アリス……」
無言で見つめ合うふたりの間に、もう言葉はいらないようだった。
阿求は、そこに桜色の引力のようなものが生まれているのを感じていた。通じ合った喜びと、未来への甘い期待。それと、これから自分たちがどう変わってしまうのかという不安感。
恋のはじまりのどきどきを、阿求は懐かしいものをみるような目でみつめていた。
魔理沙の告白が上手くいってよかったと思う。
これで阿求も、自分の計画を進められそうだったから。
* * *
「うおっ! っていうかなんでこんなに集まってるんだよ!」
ふと周囲を見まわして、魔理沙が云った。
どうやら今の今まで周りの状況が目に入っていなかったらしい。にやにや笑う顔と祝福の声に迎えられ、魔理沙はふわりと地面に降り立った。
そのとき阿求は、わざと周りに聞こえるような声でパチュリーに云う。
「――まあ、そういうことだったんですよ、パチェ」
「え?」
「ほら、あの日パチェは、魔理沙さんとアリスさんが共犯だったら色んなことができるって云いましたけれど、こういう事情なのでふたりが共犯だったってことは考えにくいでしょう?」
その言葉に、場が一瞬しんと静まりかえった。
みな『なにを云ってるんだこいつ』とでも云いたげな顔で阿求のことを見つめている。
それもそうだろうと阿求は思う。書きつけと秘術書が戻ってきて以降、探偵ごっこはぱたりとやめていた。自分でもさんざん事件のことは忘れたと云ってきたし、今はそんな話を持ち出す雰囲気でもないとわかっている。
けれどこの事件を終わらせるためには、関係者を集めた場所でこうすることが必要だったのだ。
「ちょっと、おい。事件ってなんだ? 私とアリスが共犯だって?」
慌てて口を挟んでくる魔理沙に、阿求は事件の概要を語っていった。魔理沙とアリスは、目を丸くしながらその話を聞いていた。どうやらふたりとも、この『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』の話は初耳だったらしい。
たしかに弾幕花火の研究に余念がなかった魔理沙と、人形劇の練習に明け暮れていたアリス。ふたりとも魔法の森に引きこもっていたのだろう。事件の話を知らなかったということには筋が通る。
「はぁ、それで私が蔵から書きつけを盗んでいったかもしれないって? おまえらそんなこと考えてたのか」
一通り話を聞き終わり、魔理沙は憮然としてくちびるを尖らせた。そんな彼女を、パチュリーはつまらなそうに鼻を鳴らしてにらみつける。
「ふん、そうよ。なにせあんた、ひとの本を盗むのが得意じゃない」
「おいおい、なに云ってるんだパチュリー。私は物を盗んだことなんか一度もないぜ。ただ死ぬまで借りていくだけだからな」
「あら、そうだったわね。ならたしかにあんたは犯人じゃないかもしれないわ。あんたと違って、今度の犯人は持っていったものをすぐ返してるんだもの。死ぬまで持っていったりしないだけ犯人のほうがまともだわ」
「なんだと!」
「なによっ!」
「ちょっ! ストーップ!」
にらみ合いをはじめたふたりの間に、阿求は慌てて割って入る。まったくこの魔女はなにかと誰かにつっかかってばかりいる。レミリアしかり魔理沙しかり、会ったばかりの頃の阿求しかり。
でも、これがこの魔女の愛情表現でもあるのだろう。
そんな不器用な知識と日陰の少女だから、阿求は好きになったのだ。
けれど、韜晦と皮肉だけでは解決できない問題もあるのだ。
「いいです、パチェ。もういいですから」
「……阿求?」
怪訝そうに首をかしげるパチュリーに、阿求は首を振って云う。
「もう、黙ってなくていいですから、云ってしまいましょうよ」
「なに云ってるんだおまえ?」
きょとんとした顔で、魔理沙がつぶやく。
「ああ、なにか企んでいるかと思えば……そういうこと」
レミリアに膝枕をしていた咲夜が、納得したようにうなずいた。
慧音が面白そうに顎に手をやり、文は興味を惹かれたように身体を乗り出す。鈴仙は驚いたように目を丸くして、てゐはにまにまと笑っている。
「知ってるんでしょうパチェ、犯人が誰かって」
「……わかってたの?」
口を小さく開けたパチュリーと、そのままじっと見つめ合う。
白い肌、すべすべとした頬、桜色の小さなくちびる。深い英知を湛えて宝石のように輝く、桔梗色の大きな瞳。
ああ、その瞳の裏側で、この魔女は一体なにを考えているだろう。
動かない大図書館の書庫蔵に、どんな想いが隠されているだろう。
けれど阿求がそれを知ることはできない。
どれだけ深く心をよせても四六時中一緒にいても、ひとの心を本のように読むことはできないのだから。
パチュリーも、阿求と同じことを思っていたのかもしれない。
じっと恋人の目を見つめていたパチュリーが、諦めたように目を伏せながら立ち上がる。
「――いいわ、教えてあげる、この『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』の犯人を!」
「おおっ!!」
次々と上がる驚きの声を浴びながら、パチュリーはふわりとその場に浮かび上がる。浴衣のたもとをなびかせながら宙を漂って演台にむかい、ステージの中央に降り立った。
そうして客席に向き直り、片手を高々と振り上げる。
目を輝かせながら天狗帖を取り出す射命丸文。
不敵な笑みを浮かべる十六夜咲夜。
その膝で寝息をたてるレミリア・スカーレット。
真剣な顔つきのアリスと魔理沙。
ふとなにかに気づいたように顔を上げる上白沢慧音。
ぽかんと口を開けた鈴仙・優曇華院・イナバと、わくわくして身体を揺する因幡てゐ。
そして目を見開いた稗田阿湖。無表情の稗田阿求。
そんな事件の関係者たる顔ぶれを前にして、パチュリーは厳かな声で断言する。
「犯人は――この中にいないっ!」
「いないんだっ!!」
全員が一斉に突っ込んだ。
§16 スキマの隙間
――全員が一斉に突っ込んだ。
と、まあこんなところでいいかしら。
ああ、こういうのも意外と難しいものねぇ。考えているときは簡単だと思ったけれど、いざ書いてみると上手く論理が繋がっているかどうか不安だわ。外の世界の読み物に憧れて、いざ私もやってみようと思ったのだけれど、こんなに難しいとは思わなかった。あのミステリ作家という連中を尊敬するわ、どうしてあんなにぎりぎりまで論理を追求できるのかしら。
――え? それでおまえは誰かって?
ふふ、どうせわかっているんでしょう? みんなのデウス・エクス・マキナ、蓋然性のゴミ箱、幻想郷一うさんくさい八雲紫よ。
ええ、そう。
そういうことよ。
今まであなたが読んでくれた話は、実は私が書いた小説だったってわけ。ふふ、ミステリらしい驚きの展開でしょう?
ああ、でも勘違いしないで、別に全部でたらめだってわけじゃないから。
基本的にこれはノンフィクション小説。そう、私がスキマから実際に見た光景を、小説に仕立て上げたものなのよ。
ふふ、だからね、今までの話は阿求を視点人物にした三人称にみえたかもしれないけれど、本当はこれ、私の思考が隠されているだけの一人称なのよね。だって私自身その場にいたんだもの。アリスがあの入れ子細工の劇中劇中劇をやりだしたときはびっくりしたわ。まあ、あの子らしいと云えばらしいけれど。
それにしては阿求の内面描写をしてるじゃないかって思うかもしれない。それはたしかにその通りで、いくら私でも阿求が考えていることまでは覗けないわ。
けれどそもそも私がこの小説を書こうと思った理由は、阿求が遺した書きつけを見つけたことにあるのよ。
そう、例の阿礼の蔵の、一番奥まった場所にある棚からね。
よほど大切な思い出だったんでしょうね、阿求はこのときの記憶をとても丹念に遺したわ。それこそ一冊の本になるくらい。
でもそれをそのまま載せてしまったら犯人が誰かも丸わかりだから、こうして私の視点から手を入れて書き直したっていうわけよ。
――懐かしいわねぇ。
九代目阿礼乙女、稗田阿求。
幻想郷の歴史の中でも最も華やかだった、激動のスペルカード時代を生きた御阿礼の子。一族の中でも特に短い寿命を与えられ、そして私が最も愛した阿礼乙女。
あの子が私の前から姿を消して、もう何年になるかしら。数年? 数十年? 数百年? 人間の時間の尺度はわからない。つい最近だったような気もするし、随分昔だったような気もしてる。でもたったひとつだけ云えるのは、もうそろそろこれを書いてもいいかと思うくらい、あれから時間が経っているということよ。
――その後あのふたりが、どうなっていったのか。
ひどく大人びた人間の子どもと、年は食ってるくせに子どもみたいな魔女の物語。あの不器用で未熟で目も当てられないくらい純粋な恋の顛末がどうなったか、気になるむきもあるでしょう。
でも、今は云わないでおくわね。
また今度こんな形でみせる機会があるかもしれないし、そもそもこの後あのふたりに降りかかった出来事はあまりにも長く複雑で、こんな枚数じゃ到底足りないんだもの。
――さて。
少し前置きが長くなったけれど、別にこんなことを喋りに現れたわけじゃないわ。こちらの事情なんて読んでいるひとにはどうでもいいことだし、私がこれを書いたことなんてわざわざばらす必要もないものね。
じゃあどうしてこんな作者語りをはじめたかというと――まあ、もちろんあれを云いにきたわけよ。
そう、あれよあれ。
かのエラリー・クイーンが発明し、その後世界中のミステリで取り入れられるようになったあれ。
読者を作品世界から現実に引き戻してでも云っておきたいという、あの自慰的かつ稚気に飛んだフェア精神の発露。
――そう、読者への挑戦状よ。
読者への挑戦状
混迷を極めたこの『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』だけれど、その犯人はすでに作中においてこれ以上ない形で示されているわ。手段、機会、動機の三点において、もっとも犯人にふさわしいのは彼女だという推理が十分可能なはず。
また、一応云っておくけれど、当然犯人はこれまで少なくとも一度は名前が挙がってる人物よ。もちろん誰も知らない未知の能力を持っていたりもしないし、能力の解釈にしても作中で書かれた描写は正しいもので、勘違いや思いこみが突然明らかになったりはしない。
――ただ。
もちろん、犯人はたくさんの嘘を吐いている。
それと、知っていて黙っている者が少なくともひとりいる。
今私から云えることはこれくらいよ。この後すぐに解決編に移るから、一旦ページをめくる手を止めて、犯人が誰かを推理してみるのも一興なんじゃないかしら。
でも、アンフェアだったり簡単すぎたりしても、石を投げたり罵ったりしないで欲しいわね。正直私も、すでにこれを書く過程で十分傷ついているんだもの。
――まったく。
みんな口を開けばスキマが妖しいスキマが怪しいって、一体どれだけ信用ないのかしら私。
いくら妖しくも怪しい妖怪だからって、信用されなくて傷つく心もちゃんと持っているんですからね。
本当、失礼しちゃう。
私のどこがそんなにうさんくさいって云うのかしら――。
§17 解決編
「犯人は――この中にいないっ!」
「いないんだっ!!」
全員が一斉に突っ込んだ。
祭りの終わった物見の丘に、しんと静寂が訪れる。
見下ろす里の通りでは、いまだ祭りの余韻を残した里人たちが、名残惜しそうな様子で行き交っている。屋台をたたむ香具師、肩車をした親子連れ、くるときよりも少しだけ距離を縮めた恋人たち。しかし彼らが発する喧噪も、この丘の上には届かない。
「……誰なんだ、犯人は」
震える声でつぶやいたのは一体誰だったか。
阿求の耳は、その言葉をよく捕らえていなかった。
パチュリーの口から飛び出た予想外の発言に、茫然自失の態で目を丸くしていたからだ。
「その犯人とは――」
パチュリー・ノーレッジが。この事件の探偵役が、桜色のくちびるを開いていく。
普段のあまり口を開けない話しかたではなく、はっきりとした発音で。言葉の意味を聴衆にしみこませるようにゆっくりと。
パチュリーは、犯人の名前を口にした。
「四季映姫・ヤマザナドゥそのひとよ!!」
「な、なんだってーー!!」
周囲から次々と驚きの声が上がる。パチュリーは身震いをひとつして、凝視する目を振り払うように歩き回る。そのからころと鳴る下駄の音が、やけに大きいと阿求は思う。
「そんなに意外な結論ではないでしょう? これまで誰もその疑問を持ちださなかったのが不思議なくらいだわ。鍵と天窓と結界の関係を考えれば、自ずと可能性は絞られてくるもの」
「なんだよ、鍵と天窓と結界の関係って」
口元をゆがませる魔理沙に、阿求が補足して答える。
「ええと、鍵なしで蔵に入るには天窓しかないけれど、結界のせいで誰も天窓までは上れないっていうことですか?」
「そうよ。あそこに四法印の結界があるかぎり、天窓を侵入経路と考えることは難しい。だからおそらく犯人は鍵を使って入ったのだという結論ね。でも蔵への再度の侵入があったときは、誰ひとり鍵を盗むことができなかったはず。それが解決できなくて、推理は手詰まりになったわ」
そうだ、そうだった。
蔵への再度の侵入があったはずの時刻、阿求はパチュリーたちと共に永遠亭で事件について話し合っていたのだ。そんな彼女から鍵を盗めたはずがない。それで犯人は目占の霊気探査にひっかからないどこかの誰かという結論になり、探偵ごっこは終わりを告げた。
「けれどその前提をすべて打ち破れる者がひとりだけいる」
「――是非曲直庁の、閻魔さま……」
鈴仙がぽつりとつぶやいて、なにかを思い出したように頭を抱えた。あの説教好きの閻魔に痛いところを衝かれた記憶があるのだろう。阿求があたりを見まわすと、みな顔をしかめさせて唸っていた。
「空を飛べない、能力を使えない、だから天窓まで上れない。それらはすべてあの結界が存在しているから。でも結界を張った閻魔自身ならなにも問題はない。結界を解除して天窓から侵入、事をなしたあとにまた張り直せばいいだけよ」
「しかしいくらなんでもそれは……あの謹厳実直な閻魔が窃盗行為をするとは思えんが……」
慧音の言葉に、パチュリーは片目をつぶりながら人差し指を左右に振った。
「それはどうかしら。閻魔は稗田にとって最大のスポンサー。秘術書も幻想郷縁起も書きつけも、自分の監視下にあるものだから自分のものだと思っているかもしれない。そもそも窃盗だと思ってなければ、アレは平気でやるでしょう。私たちにとってはグレーにみえる行為でも、あの白黒はっきりつける閻魔には完全な白にみえていてもおかしくない」
「むう……」
慧音は唸り声を上げて黙り込む。その横で、阿湖が目をぱちくりとさせていた。
ふと人形の髪を撫でていたアリスが、無表情で小首をかしげる。
「……それだけ?」
パチュリーはふてくされたようにくちびるを尖らせる。
「なによアリス、私の理論に文句でもあるの?」
「そういうわけじゃないけれど、閻魔に疑いをむけるのにその仮説だけじゃ弱くないかしら? そもそも結界を破れる能力をもつ妖怪がどこかにいないとは限らないんだし」
「ふん、わかってないわねアリス。これだからあんたは未熟者なのよ」
「なによそれ!……ふん、せいぜい精進するからご教示くださいな、大魔法使いさまっ」
つんと顎を上げるアリスに、パチュリーは口元だけで笑う。
「まあ……あんたは今さっき事件の概要を聞いたばかりだから仕方ないわね。この事件のポイントは、目占の霊気監視によって容疑者が絞られている点にあるのよ。だからこそあんたや魔理沙にも疑いの目がかかった」
「ああ、なるほど……それは私も知らなかったわ、あの猫がそんな能力を持っていたなんて」
「そうでしょう、でも閻魔は知っている。知っていればサーチに引っかからないように霊力を抑えることもできるでしょう。閻魔が犯人じゃないかと思うのはまさにそこよ。慧音も知らなかった目占のことを誰かが知ってると仮定するより、現に知っていて犯行可能な彼女のほうが容疑は濃い」
「そうか、たしかに閻魔は目占を知っていると云っていたな……」
自分が目占を紹介されたときのことを思い出しているのだろう、慧音は腕組みをしてうなずいた。
「それだけじゃないわ、そもそも結界が元通り張り直されていたという事情もある。さらに云うと、ただ結界を破れるというだけではこの事件の容疑者にはなりえない。そこがなによりも閻魔の容疑を濃くしているの」
「というと? なんですかそれは」
「当たり前だけれど、犯人は屋根に乗れるだけじゃなくって、あの天窓を通れなければいけないってこと。いい? この事件の犯人は目占の監視をくぐりぬけ、結界を破った上で張り直すことができ、なおかつあの天窓を通れる存在でなければいけない。そんなのが、四季映姫以外に誰かいて?」
一息で喋り、コンと小さく咳をする。声が少しかすれてきている。引きこもり魔女にしては、今日は大きな声を出しすぎていた。
「ええと、天窓を通れる存在、ですか? なんでしたっけそれ……ちょっと色々予想外すぎて、頭の中が記憶でごっちゃに……」
「しっかりして阿求、一番基本的なことじゃない。あの狭い天窓を通ることができるのは、あなたやてゐくらいだって話になったでしょう? じゃあその理由は?」
「ええと、それはたしか……私やてゐさんみたいな、ちっちゃい体格の子……はっ!」
「そう! あの閻魔は、見事にぺたんこ幼児体型だわっ!」
「ああっ!!」
物見の丘に集まった人妖たちが、声を揃えて一斉に叫んだ。
みな心の底から納得したような顔だった。
天窓を通れる者は幼児体型でなければならない。
その事実は、それまでの状況証拠以上に四季映姫が犯人であると納得させるものだった。なんといっても幼児体型と云えば四季映姫であり、四季映姫と云えば幼児体型なのだから。
――だが。
その瞬間、阿求の背筋に雷のような悪寒が走るのだった。
「――そこまでですっ!!」
鉄槌を、いや、裁判に使う木槌を叩きつけるような、どこまでも通る高い声。周辺をぶわりと覆う、圧倒的に清涼な霊気。
その場にいたすべての者たちが、一斉に背筋を伸ばして顔を青ざめさせた。
阿求がおそるおそる振り返ると、集会場の入り口で四季映姫・ヤマザナドゥが仁王立ちしていた。
「し、四季さま……?」
「私相手に欠席裁判とはいい度胸ですねパチュリー・ノーレッジ! ですがそれ以上云わせませんよ、云うに事欠いてこの私がよ、よ、幼児体型とはなにごとですか!」
子どものような身体を傲然と反らしながら、閻魔が吠える。
そこかよと、集会場に一瞬白けたような空気が漂った。
けれど映姫が憤怒の表情で悔悟棒を振りかざした瞬間、再びぴんと張り詰める。みなあの悔悟棒で叩かれたことがあるのだ。罪人の罪に応じて大きさを変える悔悟棒。それがみるみるうちに大きくなっていくのは、一体誰の罪を捉えているのだろう。
壇上のパチュリーが、誰よりも青い顔でつぶやいた。
「ど、どうしてあんたがここにいるのよ、四季映姫……」
それは見れば誰にでもわかることだった。頭にかぶったウルトラマンのお面、悔悟棒と逆の手に持った綿飴の割り箸、帯に刺してあるかざぐるまとピロピロ笛。どうみても祭りを楽しむためにきている。閻魔の後ろで、荷物を持った小野塚小町が苦笑していた。
「どうしてもこうしてもありません! 無辜の人間に罪を押しつけようなどという不正義を、この私が見逃せるはずないじゃありませんか!……詳しいことはすべてこの小町に聞きましたよ、阿求っ」
じろりとにらまれて、阿求は震え上がる。やはりあの秘術書をたしかめてもらったときのことが、回り回って閻魔まで伝わってしまったのだろう。
「ふん、無辜の人間ですって……? つまりしらを切ろうって云うのね四季映姫・ヤマザナドゥ」
「だまらっしゃい! しらを切ろうとしているのはどちらですか! 聴衆は言葉で丸め込むことができても、この浄玻璃の鏡はごまかせませんよ!」
綿飴を小町に差し出して、さっと懐に手を入れる四季映姫。けれど取り出されたのはデンデン太鼓だった。映姫は無表情でそれを投げ捨て、再び懐から螺鈿細工仕立ての手鏡を取り出した。
「そ、それはっ! 卑怯よ四季映姫!」
「あらゆる嘘を見抜くこの鏡が教えてくれます! この事件の真犯人は――」
鏡面から照射された白光が、壇上の魔女をまばゆく照らす。
「あなたです、パチュリー・ノーレッジ!」
「くっ!」
告発されたパチュリーが、弾幕の直撃を食らったような声をあげる。おいつめられた表情で視線を左右にさまよわせ、阿求と目が合った途端悲しそうに瞳を伏せた。
その瞬間、阿求の胸に深い悲しみと罪悪感が押しよせる。
色々と予想外のことが起きすぎてしまった。こんな風にあのひとのことを追い詰めるつもりじゃなかったのに。まさかパチュリーがスケープゴートを用意していたなんて思いもしなかった。
「そう、私よ……秘術書を盗んでいったのは……」
がっくりと膝をつくパチュリーの姿を、満月が優しく照らしている。
リーリーと鳴く虫の声。
涼しくなってきた夜の風。
長かった夏もそろそろ終わるんだなと、阿求は思った。
§0 発端
布団の中で、パチュリー・ノーレッジはうっすらと目を見開いた。
それは水無月の二十四日。
ひどく暑い夜のことだった。
障子を通して差し込む月明かりが、和室を青白く染め上げている。
そのうすぼんやりとした明るさといい、目線の高さに床があることといい、やはり和室はなじめない。できればもっと泊まっていきたいと思うけれど、身に染みついた習慣とのあまりの違いに、どうしてもストレスを感じてしまう。
隣で眠る少女を起こさないように、そっと身体を起こす。
パチュリー自身はそれまで眠っていたわけではなかった。魔女に睡眠は必要ない。ただ運動のあとで少し疲れていたし、幸せそうに眠る恋人といっしょに横たわっていると、それだけで気持ちが安らいだから。
少女――稗田阿求は、満ち足りた表情でくーくーと寝息をかいている。ふとそのその右手が、パチュリーがいた場所を探るように伸びた。けれど伸ばした手は誰の身体にも触れることができず、ゆっくりと布団の上に落ちていく。
少し悲しそうな顔をした恋人に、パチュリーの胸の奥から深い愛情がわき上がる。自分が誰かに対してこんな感情を持てるだなんて思いもしなかった。ほんの数時間前に激しく触れ合ったばかりなのに、また抱きしめたくなってくる。
今にも折れそうなほどに細い手足。
綺麗な曲線を描くうなじ。
熱さにはだけられた扁平な胸。
パチュリーの恋人は、青白い月光を浴び、蜃気楼のように儚い姿で眠っている。視線を逸らしたら夢のように消えてしまいそうで、パチュリーはしばらくの間じっとその姿を見下ろしていた。
三十分ほどもそうしていただろうか、ふと聞こえてきたふくろうの声に、呪縛が解かれたように気を取り戻す。
はぁとため息をついて、ふわりとその場に浮かび上がった。歩くのがおっくうだったからではない。足音を立てて阿求や家の者を起こしたくなかったからだ。
そのまま客間まで浮いていき、床脇の地袋を静かに開ける。小さな行李や布包みの横に、萌葱色をしたきんちゃく袋がおいてある。
これをほんの少しでも動かしたら、阿求に鍵を取り出したことがばれてしまうだろう。
阿求の求聞持の能力がどの程度のものなのか、パチュリーはそのとき幻想郷で一番身に沁みてわかっていたかもしれない。
なにせ何年も前に漏らした一言をいつまで経っても覚えていて、ことあるごとに持ち出してはちくちくやってくるのだ。『そんなこと云ったかしら』が通じない阿求に、口げんかでは絶対に勝てない。
口元に微笑をたたえながらぼそぼそと呪文を唱え、地袋の中の映像をその空間に固定する。元に戻すとき、映像にぴたりと合わせて配置すれば鍵を持ち出したこともばれないだろう。
それ以上のことは、なにも考えていなかった。
ただ阿求に見つからないように蔵に侵入し、気づかれないうちに元に戻せばいいと思っていた。
無断で蔵に侵入したことで、阿求が傷つくという可能性も頭にはなかった。自分に絶対の信頼を寄せてくれている阿求からは、蔵に入ってもいいとの許可をもらっていたからだ。
――身体にも、心にも触れていい。
他のひとにはみせない場所も、他のひとには触れさせない場所も、あなたならば入っていいし触れていい。
それが恋人というものなのだと、パチュリーは阿求との関わりの中で学んでいたのだった。
もし見つかって責められたとしても、素直に謝ってしまえばいい。
そんな軽い気持ちだったのだ、蔵に入ろうとしたこと自体は。
けれどその動機は、決して軽いものではなかった。
『――ねぇパチェ、わたし、そろそろかもしれません』
その日の昼間、阿求が顔を伏せながらそう云った。
じーじーと鳴く蝉の声。むっと立ち上る夏の暑気。縁側でちりんちりんと風鈴が鳴っていた。
その情景が、パチュリーの頭にこびりついて離れない。求聞持と違って完全な記憶なんて保持できるはずもないのに、まるで印画紙に焼きついたように脳の皺に刻み込まれてしまった。
――そのときの阿求の、泣きそうだった瞳の色が。
あるいは、泣きそうだったのはパチュリーのほうかもしれない。
ぷかぷかと、夜の底を浮いていく。
目占たち番猫隊の勤務日程は、すっかりパチュリーの頭の中に入っている。この時間、目占は裏門の見張りをしているはずだ。尾白は別宅の警護、黒檀は外を回っている。銀虎はいつものようにさぼって寝ているだろう。
稗田家の広大な敷地はしんと静まりかえり、そこに数十人の人間がより集まって暮らしているとは思えないくらいだ。
人間がとるこの家族というシステムに、パチュリーは改めて不思議なものを感じた。好きな者同士ではなく、ただ血が近いというだけで親密圏を形成するのはおかしなものだ。人間はとにかく生まれたときから群れないと生きていけない生き物で、自分たち妖怪とは違うのだろう。
それはパチュリーが好きになった妖怪じみた少女、稗田阿求だって変わらない。
あの子を自分の元に引きよせてしまっていいのだろうか。それはこの数年、魔女が毎日のように考え続けてきた悩みだ。
やがて阿礼の蔵に近づくと、魔力が失われていって地面に落ちる。まったく忌々しい結界だと舌打ちをひとつ。脳裏にこまっしゃくれた四季映姫の顔が浮かんで、舌打ちをもうひとつ。
パチュリーにとって、こうして阿求の近くに映姫の影がちらつくこと自体が気にくわなかった。是非曲直庁の権力を元に、稗田に影響を及ぼそうとしているのが気に入らない。そんなことをしたら地獄に堕ちるという脅しを元に、固定的な価値観を押しつけようとするのが気に入らない。
けれどなにが一番気に入らないかと云えば、阿求自身があの閻魔に信頼をよせているらしいことだった。
ぶんぶんと頭を振って、そんな思いを振り払う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
誰にもみつからないうちに、ことをすませなければいけない。
蔵の鍵を外すときには慎重になった。錠の角度や鎖の位置で、侵入に気づかれてはいけないから。鋳鉄の鍵を差し込んでゆっくりと回す。ぽっかりと口を開けた秘密の場所。そこに入るたびにパチュリーは、快感にも似た喜びを感じる。阿求の誰も入れない秘密の部分に、足を踏み入れることができるのだから。
蔵の中を、奥にむかって進んでいく。
目的はもちろん、奥の棚にある転生の秘術書だ。
――阿求に、選択肢を与えてあげたいから。
その一心で、パチュリーは棚の本に手をかけた。
そんな魔女の後ろ姿を、天窓から差しこむ月明かりだけが照らしていた。
§18 解決編その2
「――まったく、とんだ茶番だったぜ」
稗田家の本宅だった。
腕を組んであぐらをかいた霧雨魔理沙が、ぷりぷりと頬を膨らませてそう云った。
「本当よ。自分がやったくせに他人のせいにするなんて信じらんない。先輩としてちょっと尊敬してたのに、幻滅したわパチュリー。あと、下着見えるわよ魔理沙」
見るなよスケベ、見てないわよ馬鹿、なんてやりとりをしながら、魔理沙はスカートを押さえて横座りになった。お互い好きだということに気づいた後でも、ふたりの関係はあまり変わっていないようだ。
「あ、あの、それくらいにしてあげてください……パチェにも悪気があったわけじゃないんですから」
周りから集中砲火を浴びたパチュリーは、部屋の隅で膝を抱えて縮こまっていた。もう目占すら近づけようとしない。アメジストのように綺麗な瞳が潤み、桜色のくちびるが泣き出しそうに震えている。そんな恋人のようすをみているだけで、阿求の胸は愛しさと切なさでいっぱいになった。
「ふん、なにを人ごとみたいに云ってるんですか阿求。あなたも同罪ですよ同罪。虚偽申告、犯人隠避、はっきり黒ですっ」
「あう……そ、そんな四季さま! ご無体なっ」
すがりつく阿求に目もくれず、映姫はつんと顎をそらす。犯人扱いされたことと幼児体型よばわりされたことを、いまだに根に持っているらしい。
「あのぅ……それで結局どういうことだったんでしょうか、四季さま……」
全員分の紅茶を配り終わった阿澄が、閻魔におずおずと訊ねる。その言葉に、稗田家の客間に集まった関係者たちが、一斉に映姫に視線をむけた。
「どうもこうもないですよ。犯人はパチュリー・ノーレッジ。そのままです。大体秘術書が盗まれていた件でわかりそうなものでしょう。今幻想郷で転生の技術を一番研究したい者と云えば、そこの魔女以外にないじゃありませんか。おおかた、転生の際に阿求の記憶が失われることをなんとかしたかったんでしょう。違いますか?」
水をむけた映姫を、パチュリーは上目遣いでじとりとにらむ。
「ふん……違わないわ。当たり前じゃないそんなの、恋人の頭から自分とすごした記憶がなくなるかもしれないのよ。いっしょに笑いあったことも、くだらない原因で喧嘩したことも、お互い歩み寄ろうと朝まで話し合ったことも。そんなことを素直に受け入れるやつは馬鹿だわ。あがいて当然じゃない」
「それが、たとえ是非曲直庁の反感を買ってもですか?」
「幻想郷中の反感を買ってもかまわない。私は知識と日陰の少女パチュリー・ノーレッジよ。世界の理を変えてでも、したいようにするだけ」
「そう……」
しんと静まりかえった客間に、気まずそうな空気がただよう。彼女が抱いていた想いに感じるものがあったのだろう、それ以上追求し辛いような雰囲気ができあがっていた。鈴仙などはすでに涙ぐみ、今にもパチュリーの味方になりそうだった。
「それでパチュリー、もしかしてあなた解析できてたの? 是非曲直庁の秘法を」
「ふん、大して難しいものじゃなかったわ。あなたにかけてあげようかアリス? もっとも、記憶を失われないようにする研究はまだこれからだったけれど」
「い、いらないわそんなの。それにしても……そっかぁ、できてたかぁ……なんかへこむわぁ」
がくりとうなだれるアリスに、魔理沙は無言で肩をすくめる。どうやら三人の魔女の間にも、複雑な関係があるようだ。
「まあ事情はわかったが……そもそも一体どうしてこうなったのかさっぱりわからん。私たちはなにがいけなかったんだ? どうして魔女殿が犯人かもしれないという意識はすっぱり抜け落ちていたんだろう?」
腕組みをして慧音はうなる。その言葉に、一同が不思議そうな顔で首をひねった。どうしてパチュリーは稗田家にいて犯行を行うことができたのか、なのにどうして容疑者に入っていなかったのか。
すべてを知っている映姫は、ふんと鼻をならして阿求に厳しい目をむける。
「それは、そこの九代目阿礼乙女に訊ねてはどうですか。全部この子がややこしくしたんですから」
「なに? どういうことだ阿求」
「うう……すいません、たしかにそこは、全部わたしのせいなんです」
目占を抱えながら首をすくめて、阿求は事のなりゆきを説明していった。
結局のところややこしくなった原因は、最初に事件を慧音に相談したことにあったのだ。
あの日、ひどく暑かった日にこの客間で、阿求は慧音と事件の概要について話し合った。その結果判明した犯行推定日時は、水無月の二十一日から二十八日にかけて。その間に稗田邸を訪れたものが暫定的な容疑者となった。
『たとえばこの一週間、稗田邸を訪ねてきた妖怪や人間はどれくらいいる?』
そう慧音が訊ねたとき、阿求はくりりと瞳を回して屋敷を訪れた者の姿を思い浮かべた。アリス・マーガトロイド。霧雨魔理沙。十六夜咲夜。射命丸文。鈴仙・優曇華院・イナバ。因幡てゐ。
――そして、パチュリー・ノーレッジ。
けれど阿求は、その名前を云わなかったのだ。
「どうしてだ、どうして云わなかったんだ阿求」
問い詰める慧音に、阿求はぽっと頬を染めてうつむいた。
「は、恥ずかしかったからです……!」
「恥ずかしかったぁっ!?」
「だ、だって、パチェが来たって云ったら、パチェとの関係も教えないといけないじゃないですかー! それにパチェ、あの日泊まっていきましたし……そ、そんなことを慧音先生に云うのは恥ずかしかったんですよー!」
慧音は阿求にとって親代わりにも等しい存在だった。
そんな慧音に、自分がパチュリーとつきあっていて、しかも身体の関係にあるということを、阿求は云いたくなかったのだ。その後紅魔館に慧音を連れて行った際も、やっぱりパチュリーとの関係をしられたときは凄く恥ずかしかった。だから云わなくてよかったと、阿求はほっと胸を撫で下ろしていたのだった。
「そ、それにあのときは、犯人の狙いは書きつけだって思いこんでいたんです。パチェならそんなもの盗むはずがありませんから、八雲さまと同様にあっさり容疑者から除外してて……」
「はぁ……そういえばあのとき、あなたは照れるように頬を染めていたなぁ……もじもじしながら」
「……あ、わかっちゃってました?」
「まぁな。そうか、あのときあなたは、その夜のことを思い出していたんだなぁ。求聞持の記憶力で」
「――ぶっ!!」
思わず紅茶を吹き出す阿求だった。
慌てて周りを見まわすと、皆がにやにやと笑いながら阿求のことを眺めている。さっとパチュリーに視線をむけると、恋人は頬を真っ赤にしながらそっぽをむいた。
「うわ……エロ」
ぼそりと呟いたてゐの一言が決め手だった。
「そ、そうですよ、思い出してましたよ! 完全記憶をまざまざと蘇らせていましたよ! 悪いですかエロくてっ! そりゃあんなにされたらことあるごとに思い出しますよ! もうやめてって云ったのに、何度も何度も指を――もがっ」
慌てて飛びついてきたパチュリーが、後ろから阿求の口をふさいだ。
「ちょ、ちょっとなに云ってるのよ馬鹿っ!」
「離して、離してくださいっ、わたしがエロいんじゃないもんっ、パチェがエロいのがいけないんだもんっ、思い出しちゃうのはわたしのせいじゃないじゃないですか!」
「……パッチェさん?……御阿礼さま?」
そのとき床に転がったふたりの上に、ひび割れたような声が降ってくる。視線を上げると、阿湖が呆然と阿求たちを見下ろしていた。
「あ、阿湖……?」
「そんなことしてたんだ……パッチェさんと御阿礼さま、まだ結婚してないのにそんなことしてたんだ……」
その阿求にも似た藤色の瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がっていく。
「お、大人って不潔よ! ばかーっ!!」
「あ、ちょっと阿湖っ!」
伸ばした手は、けれど阿湖の身体に触れられなかった。パチュリーに恋をしていた純真な少女は、乱暴にふすまを開けて脱兎のように逃げていく。その後ろ姿を、阿求はぼんやりと眺めていた。
「阿湖……」
「あの、私がフォローしてきますわ、御阿礼さま」
声をかけてきた阿澄に、阿求はうなずく。
「お願いします阿澄」
「はい。でも御阿礼さま、閨でのことはなんでもいいですけれど、パチュリーちゃんが蔵に立ち入っていたというのは問題じゃないかしら。これは家族会議ものですよ」
そんな言葉を残して去っていく。
稗田家のふたりが消えた客間で、阿求はがっくりと肩を落として座布団に座る。わかっていたけれど、やっぱり辛い。ふてくされたように紅茶を飲む阿求に、射命丸が天狗帖を取りだしながら話しかけた。
「いやはや、とんだ驚天動地の結末ですね! ふふん、これはいい記事になりますよ。たしか書いてもいって話でしたよね?」
「……いいですよ、約束ですから……」
「ははは、それはよかった。んでまぁ、要するに阿求さんが魔女の来訪を黙っていたことが、混乱のはじまりだったんでしょうか」
「そうですねぇ。でもその、わたしの中ではそれほどの矛盾はなかったんですよ。犯人捜しだって本気でした。他のひとに色々話を聞いて、みんな犯人じゃなかったらパチェかもしれないって。そのくらいの気持ちで……」
「ははぁ……」
「それじゃあ、やっぱり一番責められるべきはそこの魔女ですわね。さんざんっぱらひとを犯人呼ばわりしておいて、これだから無駄に弁が立つひとは困りますわ」
切れ長の目を一層細めさせながら、咲夜が傲然と云い放つ。そんな彼女を、調子を取り戻してきたパチュリーがじろりとにらみつけた。
「ふん、それはもう謝ったでしょ。私だって別に、本当はそこまで隠そうっていうつもりはなかったのよ。今となっては云い訳だけれど……」
「えぇ、そうですか? 最初っからあなた名探偵気取りだったじゃないですか。安楽椅子をこれみよがしにぎぃぎぃ鳴らして。まぁ、普段通りですけれど」
咲夜の言葉に、パチュリーはちらりと阿求を眺めてため息をつく。
「そうね……。でもあのときはそうするしかないって思ったの。だって阿求が慧音を連れて図書館に現れたとき、あなたは私を容疑者に入れないまま事件の話をしたでしょう? 慧音もそれに疑問を思ってなかった」
「そうですねぇ。さっきのような事情があったので……」
「そう、その事情もなんとなくわかったわ。だから私も云えなかったのよ。あのとき容疑者として名指しされたら、私も素直に答えてたかもしれない。でも阿求が秘密にしていたことを、私がばらしたら悪いじゃない」
「ああ、それは……なるほど……」
「まあ、途中から名探偵のふりをするのが楽しくなったのは事実よ。たまに自分がやったってことも忘れてたし、架空の犯人をでっちあげる論理を構築するのは面白かった。そんなことをやってるうちに、気づけば引き返せないところまできちゃったのよね。……悪かったわ、ごめんなさい」
少しふてくされた態度で、けれどパチュリーは素直に謝った。
それだけで、場の人妖たちの間に和やかな空気が流れる。
元々戦いと云えば弾幕戰で、コミュニケーションといえば宴会が主な幻想郷の住人たちのこと。犯人扱いされたくらいでずっと根に持つ者もあまりいない。
「んでまあ、犯人があなただってことはわかりましたよ。でもそれだけじゃ色々納得できないことがあるんですがね。結局あの、天窓とか全然関係なかったってことでいいんですか?」
射命丸の疑問に、パチュリーはあっさりとうなずく。
「全然関係ないわ。あれは途中から閻魔に罪をおっかぶせたら面白いと思って持ち出しただけ」
「ふん、なんて邪悪な魔女でしょう。あなた、返す返すも三途の川を渡るはめにならないよう注意することですね。量刑が数億年を越えると、計算するだけでもしんどいんですから」
「望むところよ、魔女が罪を恐れてどうするの。……でもまぁ、結局誰か知らない奴が犯人ってことにできたから、そのまま終わらせてもよかったんだけれど。阿求があんなことを云ったものだから」
「えぇー、わたしのせいですか?」
「そうよ、あんな話になったら、誰か犯人を作らないと仕方ないじゃない。なんとか上手く云いくるめて、閻魔を責めてもどうしようもないからなかったことにしましょうって、そんな話にするつもりだったんだけれど……」
「当の本人が大はしゃぎで祭りにきてたのが誤算だった、と」
「ええ、まさか体型だけじゃなくて、頭の中も子どもっぽかったとはね……」
「な、なにを云うんですか無礼な! 私は大人の身体ですし、祭りにきたのはあなたを糾弾するためにっ!」
「まぁまぁ四季さま。もういいじゃないですか、あたいはそんな四季さまのこと全部好きですよ」
「こ、こまっ! こまっ! 小町!」
途端に顔を赤くしてうろたえる閻魔だった。そんなふたりを華麗に無視して、文は天狗帖にペンを走らせていく。
「んで、二回目の蔵への侵入。あれもあなたが普通に鍵を使って入ったんですよね?」
「ええ、もちろん。二回目の蔵への侵入可能時間は、本当はお義母さまが前日に蔵をみてから丸一日あったわけ。でも犯行予想時間が前日の朝から夕方にかけてになったのは、日が落ちてからは目占が見張りをしていたからでしょう? だからずっと永遠亭にいた阿求から鍵を盗めたはずがないって話になった」
「なるほど、そうでしたね」
「見張りをしていた目占は、怪しい者は誰も侵入しなかったって答えたけれど、当たり前よね。永遠亭から戻ってきた私と阿求が怪しい者のはずないじゃない」
「ははぁ……それはそうですね。犯人は堂々と帰ってきてたってわけですか」
「そう。あとはあてがわれた部屋に本を運びこむとき、小悪魔に書きつけと秘術書をもってきてもらった。これもあらかじめ云っておいたから、目占にとっては怪しい者じゃない。夜中になって阿求が寝たあと、また蔵に入って秘術書とジョジョを入れ替えて、ジョジョは部屋の本と一緒に並べておいたわ」
「あ! じゃあ朝になってパチェの部屋に入ったとき、あそこに例のジョジョがあったんですか!」
「そういうこと。書きつけを一枚扉の下に落としたのは、朝になってお義母さまにみつけてもらうためよ。不可能状況を作れば、誰か見知らぬ者が犯人だってことにして、事件を終わらせることができた」
「よ、用意周到だ……」
あのみっしりと天井まで積み上がった本の中に、事件の重大な証拠が隠されていたなんて。まさに木を隠すなら森の中。本を隠すならパチュリーの部屋の中だと阿求は思う。
しんと静まりかえった稗田家の客間で、誰もが納得したようにうなずいている。ただひとりレミリア・スカーレットは、咲夜の膝に頭を乗せているうちにくーくーと眠りについていた。
そんな中、アリスがぽつりと訊ねる。
「でも、書きつけを持っていったのはなんだったわけ? やっぱりそれもカモフラージュ?」
「そうよ。さっき閻魔が云った通り、秘術書だけもっていったら、どう考えても私の仕業だってわかりそうだったから。そこまで隠すつもりはなかったけれど、自分からばらすつもりもあんまりなかった。そうじゃなければ最初からこっそり鍵を持ち出さなかったし……」
「ずっと事件のキーポイントだった荷物問題は、どうやってクリアしたんだ?」
「もちろん、蔵から離れたところで物品取り寄せ魔法を使ったわよ。以前慧音には云ったでしょう? 私は図書館にインデックスされている書物ならなんでも呼び出せるのよ」
そう云って、パチュリーはひとことふたこと呪文を唱えた。テーブルの上に、ぶんと音を立ててジョジョ全六十三巻が現れる。
そのようすをみて、ふいに阿求は思い出す。紅魔館で荷物問題の話をしたとき、パチュリーが『大体このくらいの分量』と云って呼び出したのは、ジョジョではなくて犬夜叉だった。
そのとき図書館にインデックスされていたジョジョは阿礼の蔵にあったから、呼び出すことができなかったのだ。
「じゃあ、すり替えた書きつけと秘術書はどうやって持って帰ったのよ。図書館のジョジョを呼び出すことはできても、書きつけを送り込むことはできないんでしょう?」
「それはね、アリス。魔理沙とアリスじゃなくて、あんたと私が共犯だったってことなのよ」
「……へ? 私?」
目を丸くしたアリスに、パチュリーはにやりと笑う。
「思い出してごらんなさいな。そもそもあなたはなにしに阿求の家にいったの? どうして私が二十四日、稗田の屋敷にいったと思うの? もちろん阿求に会いにいったんだけれど、そのためには口実のひとつも必要でしょう」
「――あ! もしかして、私が作ったドレス!?」
「そうよ、あんたたちの趣味につきあって、着せ替え人形になりにいったの。あのドレス、なかなか着心地いいわよね。裏地にも手がかかってるし、なにより布がたくさん使われていて。持ってくるときには、さぞやかさばったでしょうね」
トランクにつめられていた、チュールレースが折り重なったワンピースドレス。大きな帽子箱に入れられていた、長いスカートを膨らませるためのロングパニエ。装飾過多の大きなキャノティエ。
それらを全部身につけたあと、今まで着ていたワンピースとキャップをトランクにつめても、なおたくさんのスペースが余ったのだ。
「服は着て、あまった場所に書きつけを入れて持って帰ったのね……はぁ、着てくれたのは嬉しいけれど……」
「き、気づきませんでした……たしかに、考えてみれば帽子箱も持って帰る必要は特になかったですもんね……」
「ふふ、探偵役としてはまだまだね阿求。ただ記憶に残っているだけじゃ見ているとは云わないわ。観察して考えること。それが本当に観ているということよ」
そう云って、偉そうにふんぞり返るパチュリーだった。
――そんなこと云っといて、犯人はあなた自身じゃないですか。
盗人猛々しいとはこのことだと、阿求はくちびるを尖らせた。
そこでなんとなく話が終わりそうになったのを見て、慧音が慌てて入ってくる。
「待て待て! それで結局、一番肝心なあれは一体なんだったんだ?」
「あれって?」
「ジョジョだよジョジョ! なんだったんだジョジョは!」
その言葉に、場の全員が一斉にうなずく。
そうだ、この事件は結局のところ『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』だ。その理由を聞くまではすっきりしないと、全員の顔が云っていた。
そんな周囲の人妖を見まわして、パチュリーはのほほんと口を開いた。
「――全部、スキマのせいなのよ」
「スキマのせい?……え? 八雲さま?」
きょとんとした顔で云った阿求に、けれどパチュリーは首を振る。
「いいえ、そのスキマじゃなくってね。あのね、書きつけと秘術書を抜き出したら、棚にすごく大きなスキマが空いたのよ。……ねぇ阿求、スキマが空いた本棚ほど、私にストレスを与える存在はないの。端っこの本がぱたぱた倒れて見栄えが悪いし、薄い本が変な風に曲がったりするでしょう?」
「は、はぁ……そうですね?」
「だからね、ブックスタンド代わりになにかを詰めておきたいって思ったのよね」
「ブック、スタンド……?」
「ええ。このスキマならちょうどジャンプコミックス六十三冊くらいだなって思ったら、もうジョジョを詰めることしか頭になかった。強い連想が働いたのね」
「連想ってもしかして……」
「ええ、スタンドだけに――ブックスタンド」
「駄洒落かよっ!」
全員が一斉に突っ込んだ。
その突っ込みで、『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』は終わりを告げた。
§ エピローグ
あれから数週間が経ち、稗田阿求は紅魔館にいた。
パチュリーの寝室の隣にあるこの部屋は、普段は使われることがない来客用の寝室だった。そこに阿求は愛用の蓄音機とレコードを持ち込み、自分が暮らすための巣に変えた。
紅魔館にしては珍しく窓がある部屋で、大きな張り出し窓のむこうに悠然と広がる霧の湖の湖面がみえる。
青空と山の端を写す湖面は鏡のようだ。ふと表面をスケートのようにすべる妖精たちの一団がいて、阿求は本当に鏡だったかとぎょっとする。けれどよくみたら、妖精たちの中にチルノがいた。水を凍らせて遊んでいるのだろう。
部屋に流れているのは、シューベルト作の弦楽四重奏曲第十四番『死と乙女』。プリズムリバー樂団による演奏だったが、相変わらず四重奏曲の四人目がどこからともなく聞こえている。
阿求は書きかけだった随想録を放り投げ、窓を開けてうーんとひとつ伸びをする。椅子に正座していたせいで、ずいぶんと身体がこわばった。けれど床に座るとパチュリーに怒られてしまうから、しかたなく彼女はそうしている。
開けはなった窓から吹き込む風は、穏やかで優しい秋の風。
今年の夏は色々あったなぁと、窓枠に頬杖をついて思う。
パチュリーが、稗田家の聖域である阿礼の蔵に立ち入っていたこと。そして是非曲直庁からの預かり品である転生の秘術書を盗み、読んでいたこと。
それらは稗田家の家族会議で問題とされ、家族は擁護派と保守派でまっぷたつに割れた。
弾幕ごっこに憧れを抱く若者たちは、弾幕使いの中でもトップ集団に位置する『動かない大図書館』を擁護した。一方、そもそも西洋魔女をむかえいれることに反対だった保守派は、それみたことかとパチュリーへの糾弾を強くする。
中でも阿求の従姉妹である阿湖は、保守派の中でも最も激しくパチュリーを糾弾し、事情を知っている一部の者たちの涙腺を刺激した。
『魔女は女をたぶらかす』
誰かがそんな論点を差し挟んできたときから、家族会議は議論のための議論へと変わり、紛糾に紛糾を重ねて千日争いの様相を呈していった。
『――もういいです! わたしがパチェと出ていきますから!』
ついにきれた当主阿求が高らかに宣言し、その瞬間すべての議論は無意味になった。
元々阿求はすでに今代の幻想郷縁起を書き終え、楽隠居の状態であった。転生の儀式も近く、あとは次代の御阿礼に引き継ぐための個人的な用向きばかりで、稗田家の運営に関わることはなかった。
当主を追い出す形になることに難色を示す者も多かったが、静養もかねて外で暮らしたいという阿求の言に整然と反論できる者はいなかった。
永遠亭の医者による、『魔力のこもった環境のほうが身体にいい』という診断が最後の一押しになった。
うーんと伸びをした阿求は、そのままベッドにぼふんと倒れ込む。帯の位置を直してごろごろ転がり、サイドテーブルに積んであった本に手を伸ばす。もうすっかり休憩にすることに決めたらしい。もくもくと三原順の『はみだしっ子』を読みふけっている。
ここの環境は、たしかに阿求にとっていいようだ。
知識欲を満たす本が読み切れないほど図書館にある。呼び出せば、プロの給仕である咲夜が自分のよりも格段に美味しい紅茶を用意してくれる。魔力が籠もっていて空気は美味しく、気分がもやっとしたときには妖精メイドをいじめて気をはらすこともできる。
そしてなにより、パチュリー・ノーレッジが住んでいる。
――なにもかも、彼女にとって都合のよすぎる環境だ。
私は部屋の隅に開けたスキマから、にゅっと顔を出して阿求に語りかけた。
「はーい。こんにちは阿求、ごきげんみたいね」
びくりと身体を震わせた阿求が、おそるおそるこちらに振り返る。私と目があうと、安堵と糾弾が入り交じったような複雑な表情を浮かべた。
「八雲さま……い、いらしてたんですか……」
「それはいたわよ、ずっとね」
そう云って、扇で顔を隠してくすくすと笑う。
「私はどこにだっているわ。稗田家の客間の地袋の中に、中身が減ってきたポットのスキマに、脱皮して捨てられた蝉の抜け殻に、それと秘術書と書きつけを抜いてできた、本棚のスキマにね。だって私は、胡散臭いスキマ妖怪なのだものねぇ」
「うわぁ、もしかして、今までの全部聞いてました?」
「そうよぉ? 悪かったわねぇ、可能性のゴミ捨て場みたいで」
ぼやきながら、先ほどまで阿求が腰掛けていた椅子に足を組んで座る。慌てて身体を起こした九代目阿礼乙女が、緊張した様子で膝の上で拳を固めた。
「あら、そんなに緊張しないで? 別に叱りにきたわけじゃないの。ただひとつ、どうしても聞きたいことがあってね」
「はぁ……な、なんでしょうか」
「この状況、どこまであなたの手のひらの上?」
「――はい?」
きょとんとした顔で小首をかしげる稗田阿求。けれど口元がにやけてる。可愛い瞳をくりりと回して、一生懸命答えを考えようとする。けれど彼女が答えをでっち上げる前に、私は口を開いた。
「あなた、自分とパチュリーが稗田家を追い出されるようにしむけたでしょう? 事件の犯人がパチュリーだってわかれば、きっとこうなるだろうってことは予想していた。祭りの日にせっせと関係者を集めていたの、全部みてたんだから」
「あ、あはは……それはその、えっと……」
「よかったわね、稗田阿湖を愛しい愛しい恋人から引き離せて」
にんまり口元をあげると、阿求はさっと頬を赤らめさせて顔をそらす。いじけたように口をとがらせ、小さな声でぼそぼそ云った。
「だって、仕方ないじゃないですか……他に方法思いつかなかったんですもの」
「ふふ、いいんじゃない? 責めるつもりは全然ないわよ、陰謀って楽しいものねぇ」
「心外です、いっしょにしないでくださいよぅ。わたしは純粋に阿湖のことを考えてですね……」
「あら、それこそ心外。私だって純粋に幻想郷のことを考えているわよ。だからあなたのことだってずっと見てきたんだしね」
ひとと妖怪と幻想が織りなすこの郷は、危ういバランスの上に立っている。結界の修繕とともに、そこに住まう者たちの監視や調整は欠かせない。
郷に住まい、そのバランスを簡単に崩せるキーパーソンは何人かいる。レミリア・スカーレット、蓬莱山輝夜、上白沢慧音、博麗霊夢、それに稗田阿求。中でも阿求たち求聞持は、人里の意志をコントロールする存在として、本人が思っている以上に強い影響力を持っている。
「……見てきましたか、ずっと」
「ええ、ずっとよ。あなたがあの魔女に熱をあげて、手に入れようと悪戦苦闘するさまを全部ね」
「うわぁ……ひどい、最低ですよ八雲さまっ」
逃げるように布団をかぶって、ばたばたと足を動かす稗田阿求。ああもう、本当に可愛い。つっつくだけで死んでしまいそうに脆い身体なのに、ひとの心を動かすだけの力を持っている。これだから人間を観察するのは止められないのだ。
「ふふ、見ものだったわぁ。押して引いて、なだめてすかして引っかき回して引きずって。あらゆる手練手管を駆使して少女密室をこじ開けようとするあなたは素敵だった。よくできた弾幕戰をみているような気分になったわ」
「あーうー、ちょっ、止めてくださいよぅ……。わたしそんなんじゃ……」
うごめく布団に顔を近づけ、耳とおぼしき辺りでささやいた。
「――ねぇパチェ、わたし、そろそろかもしれません」
その途端、布団はぴくりと動きを止める。
「あなたなら、こんな一言でパチュリーに秘術書を盗ませることだってできたでしょうねぇ。そもそもあなた、秘術書をあそこに置いたことは誰も知らないって云ってなかったっけ? ならどうして魔女は知っていたのかしら?」
「う……」
「あははははは、そんなに心配しないでも大丈夫よ。今の話は内緒にするわ。もしこの事件の話を誰かにするときも、あの日あなたが云った通りに、パチュリーのことを疑いながらも云えなかったってことにしておいてあげる」
「し、しておいてあげるもなにも、本当にそうですからっ! 勝手に決めつけないでくださいっ!」
「あらそう? ふふ、まあ真相は藪の中――いや、スキマの中ってところかしら?」
「そうですよ、もう帰ってください! それで二度とそのスキマを開けないでっ!」
「あらあら、嫌われたわね。まあいいわ、また会いましょう阿求。できれば生きているうちにね」
そう云って、私はスキマに飛び込んで入り口を閉める。
「――全部あなたのせいなんです!」
悔し紛れに叫んだ阿求の声が、暗闇の中で聞こえた気がした。
〈了〉
――なにが起こったというのだろう。
それが、稗田阿求がその本棚を見たとき最初に思ったことだった。
稗田家の敷地に建つ蔵の、一番奥にある作りつけの本棚。
そこにあるはずのものが見あたらず、代わりにひどくおかしなものが置いてあるのだ。
どうしてこんなところにこんなものがあるのかと、しばらくの間じっと本棚を見つめていた。やがてふと聞こえてきたフクロウの声に、怯えたように周囲を見まわす。
蔵の中はしんと静まりかえっており、賊が潜んでいるような様子はまるでない。だが考えてみればこの中に、誰かが人知れず忍び込んでいるはずなのだ。そうでなければ、本棚がこんなことになっているはずがない。
――もしかしたら、今もまだいるかもしれない。
そう思って、洋燈を提げながらおずおずと周囲を見て回る。
広大な蔵の中は、雑多な品物で埋めつくされている。
いたるところに置かれた行李、歴代の誰が着たのか思い出せない鎧兜、阿一が遺した十二単、阿余の姿が描かれた掛け軸。蔵は足の踏み場もないありさまで、稗田家千二百に及ぶ歴史がそこに詰まっているようだ。
けれどそのどこにも以前と変わった様子はみられない。それは阿求の求聞持の記憶に照らしてみても確かなことで、ただ奥まった場所にある本棚の、たった一ヵ所だけがどうしようもなく荒らされていた。
――やっぱり、変わってない。
蔵を一周して戻ってきても、目に映る光景は先ほどとなにも変わりなかった。夢でも幻覚でもありえない。誰かに荒らされた本棚を、天窓から差しこむ月明かりがあざ笑うように照らしていた。
そこは、阿礼の蔵だった。
歴代の御阿礼が残した書きつけや遺品が置かれている、稗田家の聖域。自由に立ち入ることができるのは幻想郷でも阿求だけ。鍵は常に彼女自身が管理しており、周囲にはあらゆる能力を遮断する結界が張られている。
だから、誰も入れるはずがない。
人間も、妖怪も、幽霊も、妖精も。
人知れずこの阿礼の蔵に入って、こんなことをできるはずがない。
棚のようすをもっとよく見ようと、阿求は浴衣の襟元を押さえながら足を一歩踏み出した。夏の宵ではあったが、結界のせいで蔵はひやりと涼しい。扉を開けたときにはその冷気が嬉しかったけれど、今となっては寒いくらいだ。だが、おずおずと棚に伸ばした腕が粟立っていたのは、きっと寒さのせいだけではないだろう。
荒らされているのは、本や巻物で埋まった本棚の最下段。
そこに収められていたはずの書きつけが見あたらず、代わりに一そろいの書物がそのスペースを埋めていた。本は何十冊とあるだろう、背表紙は同じ鳩羽色のデザインで統一されており、漫画のイラストと共に巻数表記が書かれている。
阿求は、その漫画に見覚えがあった。
以前紅魔館の図書館で読んだことがあるのだ。
本の一冊を選んで抜き取り、手にとってぱらりと開いてみる。抜き取られてできたスキマに、隣の本がことんと倒れかかる。
漫画の中では、箒のような髪型をした長身の男が、油汗を垂らしながら喋っていた。
『あ……ありのまま今起こった事を話すぜ! おれは奴の前で階段を登っていたと思ったら、いつのまにか降りていた。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……』
ジョジョだった。
阿求の書きつけの代わりに棚を埋めていたのは、荒木飛呂彦著『ジョジョの奇妙な冒険』ジャンプコミックス全六十三巻だった。
――なぜジョジョ。
それに、一体どうやって。
誰がなぜどうやって、この能力を封印する結界と施錠をくぐりぬけ、大事な書きつけを盗んでいったというのだろう。そうしてなぜジョジョを置いていったというのだろう。それも一部から五部までの全六十三巻。犯人は、どうやら六部『ストーンオーシャン』はジョジョに含めないという思想の持ち主であるらしい。
――どうしよう。
なにがなんだかわからない。
なにを考えたらいいのかもわからない。
だがただひとつだけわかっていることは、このままではとても困るということだ。ここに納められていた書きつけは、阿求にとって、いや求聞持の全員にとってとても大切なものだった。それは阿求が『幻想郷縁起』の取材をしたときの覚え書きで、御阿礼の子として必ず次代に残さないといけないものだ。
求聞持である彼女自身は、すべての物事を覚えているためメモを取っておく必要はまるでない。けれどそれも求聞持ひとりひとりの中でのこと。転生して代替わりをしたらほとんどの記憶を忘れてしまう。
だから御阿礼の子は、すべてを文字に残して死んでいく。
九代目阿礼乙女はこういう人間だった。こういう人生を送って、こういうひとと知り合った。そのとき幻想郷はこんな風で、文化や風習はこうだった。
そういったことのすべてを、未来の自分へ伝えるために。
御阿礼の子が、また同じ御阿礼の子であるために。
この阿礼の蔵はそのために存在し、そうして今阿求の前にある棚は、彼女から次の代に送るための棚だった。そのすり替えられた部分にあったのは、主に幻想郷縁起を書いたときにまとめた妖怪たちの記述部分だ。
なくては困る。とても困る。
でも、それで困るのは、おそらく幻想郷で自分ひとりだけ。
そんなものを、誰がなんのために盗んでいったというのだろう。
ぽかんと口を開け、阿求は脱力したようにその場にしゃがみこむ。ちゃんと考えないといけないと思いながらも、目にした光景のあまりの非常識さに、思考回路が働かない。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんでは断じてない、もっと恐ろしいものの片鱗を味わっていた。
阿求にとって、この蔵を荒らされたことはそれほどショックなことだった。
なんといってもここは稗田の聖域であり、求聞持の故郷のような場所なのだ。自分自身の過去の記憶、失われてしまった思い出が収められている大切な場所なのだ。
そこに、誰かが土足で踏み込んでいった。
手にもったジョジョをなんとなく広げ、阿求はぼんやりと視線をはわせはじめる。まるでそのどこかに犯人の名前が記されているとでもいうように、最初のうちはぱらぱらと、けれど気がつけば真剣に。
阿求はすっかり現実逃避して、肌寒い蔵の中で黙々とジョジョを読み進めていった。
そんな阿礼乙女の後ろ姿を、天窓から差しこむ月明かりだけが照らしていた。
全部スキマのせい
§1
「――犯人は、八雲紫殿なんじゃないか?」
開口一番、上白沢慧音はそう云うのだった。
「あぁ、やっぱり慧音先生もそう思いますか?」
「まぁなぁ。理由も目的もわからないが、なんと云ってもあれだけ胡散臭いひとだ。なにをしでかしてもおかしくはないだろう。鍵なんて彼女の前ではあってないようなものだろうしなぁ」
慧音は親戚に不幸でもあったかのような仏頂面をして、ずずと湯飲みの緑茶をすすった。座卓を挟んで正面に座る阿求は、同じように紅茶をすすろうとしてあやういところで思いとどまる。紅茶を音を立ててすするのはマナー違反だと、仕入れ先の紅魔館では云っていたのだ。
「でも、結界はどうしますか? いくら八雲さまでもあの結界は破れないでしょう。四季さまから借り受けているものですよ。あれがある限り、八雲さまでもあそこでは能力が使えません」
「うーん、どうだろうなぁ……。それでもあの“境界を操る程度の能力”からすれば、なんでもありな気がするが……それにしても、阿求」
「はい?」
「“やっぱり慧音先生も”ということは、あなたも同じことを考えていたんだな」
「ええ、まぁ……」
おどけるように瞳を回して、阿求はうなずく。幻想郷でなにかが起きたとき、まず真っ先に疑われるのが八雲紫だろう。怪しいと云えばこの上なく怪しい、胡散臭いと云えばこの上なく胡散臭い。八雲の首魁に対するイメージは、幻想郷の住人の間で共通していた。
「でもわたしは、とりあえずあのかたは除外して考えたいのです」
「ほう? それはまたどうして?」
「なんと申しましても、稗田が今の形でいられるのもあのかたのおかげですから。それどころかこの幻想郷のすべてがそうじゃないですか。もしあの妖怪の賢者が犯人だったなら、その理由を考えるだけ野暮だと思うんです」
「ふむ……つまりこういうことか。八雲殿は存在自体が胡散臭いため、どんな事件でも犯人である可能性が常にある。だがもし彼女が犯人であった場合は、それを追求すること自体が無意味であるから、最初から彼女が犯人ではない場合に絞って考えたいと」
「そうですそうです、さすが慧音先生!」
内心で『あれ? わたしたちなんか八雲さまにひどいこと云ってる?』と自問しながら、阿求は気づかなかったことにして上品に紅茶を飲み干した。
それは彼女が蔵へとでかけ、後に『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』と呼ばれるこの事件が発覚した翌日のこと。
これは自分ひとりの手に負えないと思った阿求は、稗田の者たちに相談したあと、里の賢者と呼ばれる上白沢慧音に相談をもちかけた。寺子屋で読み書きそろばんを教える慧音は半人半妖のワーハクタクで、人間の味方でありながら妖の世界にも通じる武芸者だ。稗田にとって一番の協力者と云ってもいい存在だった。
季節は水無月の終わりごろ。
稗田本宅の客間もお昼時となれば蒸し暑く、縁側にかけられたよしずから吹きこむ風は生ぬるい。ちりちりと風鈴が鳴る音も、さやさやと葦と葦がこすれる音も、今を盛りと鳴きわめく蝉の大合唱を背景にしては、涼を感じるにはいささか足りない。
縁側では、阿求の家族とも云える猫の尾白が、よしずの間から庭を警戒するように眺めている。普段は触ると心が暖まるもふもふとした生き物も、この気温では視界に入るだけでも暑苦しい。
ああ、いっそ現場検証を口実に、阿礼の蔵まで涼みにいってしまおうか。そんな罰当たりなことを考えて、阿求はくちゃんとくしゃみをした。
「おや、夏風邪でも引いたか?」
「う……そうかもです。昨日ちょっと、蔵に長いこといたので……」
「ふむ、まぁ色々調べていたのだろうが……気をつけるんだぞ、あなたも身体が弱いんだから」
「はい」
こくんと素直にうなずいて、小さなくしゃみをもうひとつ。
だるいのは寝不足のせいかと思っていたけれど、どうやら風邪の引きはじめであったらしい。起きたときよりよくなってはいたけれど、蔵に涼みにいくのはやめたほうがいいだろう。
そう思ってげんなりとしながらも、阿求は慧音の言葉に後ろめたさを感じていた。昨日蔵に長くいすぎて体調を崩したのは、なにも謎を調べていたからじゃない。ただ手をとめるタイミングがみつからなくて、ずっとジョジョを読んでいただけだ。
「それで、なにか気づいたことはあったのか? 今わかっていること以外に」
「ないですねぇ、だからこうして慧音先生にお越しいただいている次第で。なにかお考えはありませんか?」
にっこりと笑ってうそぶくと、慧音は唸りながら立ち上がる。そのまま床の間まで歩いていき、床脇の地袋をがらりと開けた。
「鍵は、前回使った後からずっとここにあったと云うんだな」
「ええ、昨日の晩、蔵に行くために取りだしたときには、前回と同じ状態で置いてあったんですよ」
地袋の中、小さな行李や布包みの横に、萌葱色をしたきんちゃく袋がおいてある。慧音が紐をゆるめて中を覗くと、そこには阿求の手のひらに収まる程度の、古錆びた鍵が入っていた。
「ちなみに、紐の角度とか袋の潰れ具合まで、前回置いた状態のままでした。だから誰も触れていないんじゃないかと思って」
「そこまでわかるのか? だが前回この鍵を取りだしたのは一週間前だと云っただろう。どうしてそこまで……ってそうか、あなたならはっきり覚えているか」
「はい、求聞持ですから」
一度みた光景は、決して忘れない。
それは求聞持である阿求にとっては当たり前のことだ。
その記憶に照らし合わせる限り、昨日鍵を取り出す前のきんちゃく袋の映像と、一週間前に鍵を置いたときの映像は同じものだった。
「で、この鍵がなければ蔵のかんぬきは開けられず、かんぬきも昨日みたときは無理にこじあけられた形跡はなかったと」
「はい、そういう痕跡がなかったことも、間違いなく云えます。蔵の中、棚以外の状態も一週間前と同じでした。もっとも、入るたびに全部を見回してるわけじゃないので、確実ではないですけれど」
「なるほど。この鍵は出かけるときにどうしてる? ここに置いたままか?」
「いえ、出るときは持っていきますね。留守の間なにが起きるかわかりませんし、誰かに勝手に入られやしないかと不安なんで……あそこはなんていうか、わたしにとってプライベートな場所なんです」
「そうか……」
つぶやいて、慧音はふと昔を懐かしむように宙を見上げた。
「そう云えば、先代の阿弥も蔵に関しては同じようなことを云っていたなぁ」
「あ、そうですか。まあ、わたしはわたしなので大体同じなんじゃないですか」
「うん、だが妖怪の尺度で考えているとたまに勘違いするんだよ。どうしてあの話を覚えてないのだろうと思ったら、前代と話したことだったりな」
「ああ……まぁ、仕方がないですね」
阿求は諦めたように肩をすくめる。普通の人間は完璧な記憶を持っていないのだから、思い出の中で記憶がごっちゃになっても仕方がない。
けれどわかっていても、阿求の胸はちくりと痛んだ。
慧音が話した内容のせいではない。その内容を、自分が覚えていないことが悲しい。
御阿礼の子は生きている限り完全な記憶を保持するけれど、死んでしまえばその大半を忘れる。求聞持としての能力と一部の記憶のみを引き継ぎ、ただ幻想郷縁起を書くための生を送り続ける。そんな終わらない輪廻の果てに、阿求はときどき自分が誰なのかわからなくなるのだ。
はたして自分は九代目の御阿礼の子なのか、それともただの阿求なのか。
慧音と話したことを忘れてる自分は、本当に阿弥と同じ人間だったのか。
特にさっきのように先代の誰かと勘違いされ、自分がそれを覚えていないとき、阿求はよく足下にぽかりと空いた穴を幻視する。少しでも足を踏み外したらそのまま真っ逆さまに落ちていきそうで、ぎゅっと目をつぶって見ないふりをする。
そんなとき彼女の脳裏に浮かぶのは、あの阿礼の蔵だった。
あそこには、自分が自分であったことを証明するものがちゃんとある。歴代の求聞持たちが残した思いが、人生が、記憶が、文字となって残されている。
あそこは過去の自分と今の自分を繋ぐ、か細い糸だ。遠く海のむこうに眺める故郷だ。あるいは自分がそこから産まれたのだと思えるような、母の胎内にも似た場所だ。
だから阿求は犯人を許せなかったし、悲しかった。
鍵が掛かっているのに、結界が張られているのに、勝手に入らないでと全身で主張しているのに。犯人はそんな阿求の意志をすべて無視して、彼女の大事な場所に入りこんでいったのだ。
「しかし、うーん……犯人、犯人かぁ……」
「わかりませんか……」
「わからないというか、そもそもそいつはどうやって蔵の中に入りこんだんだ? 鍵はここにあった。一週間前に取りだしたときと同じ状態で。だったら鍵が盗まれていたと考えるのは難しいだろう。ならばなにかの能力を使って入ったのか? だが蔵にはあらゆる能力を無効化する四法印の結界が張られている」
蔵は一辺が十五メートルほどもあり、ほぼ正立方体の形をしている。そうしてその蔵を取り囲むように二十メートル四方の結界が張られていて、その内部ではどんな妖怪も持って生まれた力を使えず、体力も人間並になってしまうのだ。
飛ぶことも、特殊能力を使うことも、魔法を使うことも、できない。
「誰も蔵に入れないじゃないか!」
――だから。
だからあなたに相談しているんです、と阿求は思った。
「そうだ、容疑者のようなものはいないのか、怪しい奴は」
「怪しい、ですか? それはこんなことをしそうなひと? それともできそうなひと?」
「両方だ」
「うぅーん……あんまり考えたくはないですが……」
慧音と同じように腕組みをして、阿求はうなる。
「しそうなひとという観点からすると、かいもく見当がつきません。そもそも犯人の目的がわたしの書きつけを盗むことだったのか、それともただ単に蔵を荒らしたいだけだったのか、はたまたジョジョをあそこに置くことだったのかすらわかりませんし」
「そうか、そうだなぁ……なにかその、ジョジョのほうに心当たりはないのか。理由もなくそんなことをするとは思えんし、手がかりになりそうな気がするが」
「いやー、ジョジョに心当たりなんてないですよぅ。まさかわたしの頭をジョジョで満たすことが目的だとは思えませんしね」
「ああ、満ちているのか、大変だな」
「ええ、なにせ完全記憶ですから。書き損じをくずかごに投げ捨てようとして外したときとか、思わずスタンドを出そうとしてしまいます」
あれ? どうしてスタンド出ないんだろう?
今朝遅く、眠い目をこすりながら起きてのち、阿求は何度もそう思ったものだった。がんばって出してみようとして、部屋でただひとりジョジョ立ちしながら力んでみたこともある。
能力はあるのだ。みたものを決して忘れないという、求聞持の能力が。あとはその能力を具現化するイメージがあればいいのに、それが不思議とスタンドになってくれないのである。
一晩ジョジョ尽くしだった阿求にとって、ひとがスタンドを使えるというのは当たり前のことになっていた。
「『ブラッディ・アレイ』というのはどうですかね?」
「なにがどうなんだ?」
「スタンドの名前です。もしだせたとき格好良く云うために、今から決めておこうと思いまして。一応、阿礼と“隊列を整える”という意味のarrayをかけているんですが」
「阿礼はブラッディだったのか、まさかあの初代がそんなバイオレンスだったとは知らなかったな」
「そこはただの語感ですよ、黙々と古事記とか書いてた阿礼が血みどろのはずがありません。あとこのスタンド、多分歴代の御阿礼が全員でてくるタイプだと思うんですよね」
「それは中々便利そうだが、スタンドはひとり一体のはずだろう。反則じゃないか」
「えー、でもみんなわたしなので、一体ということでいいんじゃないですか。それにそんなこと云ったら、形兆の『バッド・カンパニー』はどうなります?」
「あれは『一体』ではなくて『一隊』だという語呂遊びじゃないかと思うんだ」
「それは屁理屈ですよ。そもそもしげちーのハーヴェストだって――」
そうして、延々とジョジョ談義がはじまった。
主な論点は、『スタンドはひとり一体』という設定の矛盾。ホリィさんが発現させようとしたスタンドはどのようなものだったのか。毎回いつかカーズが降ってくるのではないかと予想して裏切られる寂しさ。エシディシやワムウは消滅したのに、なぜサンタナは未だに石になって生きているのだという突っこみ。
庭の鹿威しがかこんかこんと何十回か鳴り、稗田の女中が何回かお茶のお代わりをもってきて、猫の尾白が呆れ顔をしながら尻尾をふりふり去っていったころ、とりあえず『大人はうそつきなのではない。ただまちがいをするだけだ』という結論に落ち着いた。
「いやぁ、見事に解決しましたね。ありがとうございました」
「そうだな……って違うだろう。なにも解決していないだろう」
「だってぇ、わからないんですもんっ」
組んだ手をぶんぶんと左右にふりながら、阿求は可愛い子ぶるように云った。それを鼻白んだ目でみつめ、慧音は深いため息をつく。
「たしかにわからないが……さっきの容疑者選定の話はどうなっている。動機から絞りこもうとするとよくわからなくなるが、機会という面ではどうだ」
「んー、でもあの鍵と結界をどうにかできない限り、機会があってもどうしようもないのでは?」
「だがそれを考えているといつまでたっても先に進まないからな。そこはどうにかできると仮定しての話だよ。たとえばこの一週間、稗田邸を訪ねてきた妖怪や人間はどれくらいいる?」
「うーん、そうですねぇ」
つぶやいて、記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。
「わたしが把握している限りでは、まずは永遠亭の薬師うさぎのふたり組。お洋服の仕立てをお願いしていたアリスさん。買い物帰りによってくださった咲夜さん。とある相談にこられた魔理沙さん。山で起きた事件についてわたしをあてにしてこられた文さん、それと――いえ、それくらいでしょうか」
「ほう、なかなかに千客万来じゃないか」
顔をほころばせながら、慧音は嬉しそうにうなずいた。
「ええ、まぁ……」
対して阿求は、なぜか顔を赤くしながらもじもじと腰を揺すっている。
「ん? どうした阿求?」
「いえ、なんでもないです。いや、みなさん本当によくしていただいて。百年前では考えられないことですね」
「ああ、まあそうだなぁ、やはり博麗の結界や命名決闘法案の影響かな。確かにこの幻想郷も平和になった」
阿求の反応に首をひねりながらも、慧音はとりあえず受け流すことにしたらしい。
「それで、その者たちになにか怪しい様子はなかったか? あるいは鍵を盗むような機会は?」
「そうですねぇ、怪しいと云えば文字通り妖しいのが妖怪さんですし……機会があったかと問われると、あったようななかったような……?」
「なんだ、珍しくはっきりしないな阿求」
苦笑する慧音に阿求はすっくと立ち上がり、部屋を仕切るふすまのほうへと歩いていく。
「いえね、まず基本的にわたしは、家にいるときにはこっちの書斎にいることが多いのですよ」
「ああ、あなたは昔からずっとあそこにいるな」
「ええ」
うなずいて、がらりとふすまを開ける。
そこには客間より一回りほど大きな書斎が広がっていた。
およそ十二畳ほどだろう。奇麗に片づいた客間と違って、書きつけや書物、筆や紙やさまざまな什器であふれかえり、足の踏み場もない有様だ。
「しかし、相変わらず整頓が下手だなぁあなたは……」
「なにを仰いますか。これですべてが最適な場所にあるのですよ。どこになにがあるのか完全にわかっているのに、どうしてわざわざ片づけないといけないんです」
喋りながらもひょいひょいと進んでいく阿求。その迷いのない足取りからすると、先ほどの言葉もあながち出任せというわけではないのだろう。
「で、普段はこの付書院に座っています」
客間とは反対側に設けられた床の間の横、縁側に出窓のように張り出した付書院まで歩いていって、座布団にぺたりと座りこむ。
張り出し部分はちょうど文机ほどの高さと奥行きがあり、その上で書き物や読書ができるようになっていた。開け放たれた書院障子のむこうに、青々と茂る日本庭園が広がっている。そこから四季移り変わっていく庭の景色を眺めることは、阿求にとって日々の楽しみのひとつだった。
その付書院の天板に頬杖をついて、阿求は困ったように溜息を漏らす。
「正直ね、ここにわたしがいる間、こっそり客間でなにかやられても気づきませんよ。いくらわたしでも、意識に上らない記憶は残りません。そういう機会なら、訪れたかたみんなにあったと云わざるをえないです」
「うーむ……」
「それにみなさん妖怪ですし、それこそ八雲さまじゃないですけれど、やろうと思えばなんとでもなっちゃうんじゃないですか? アリスさんならわたしと話している間にお人形さんで盗めるかもしれませんし、鈴仙さんなら狂気の瞳で幻覚を見せることができるかも。そういうことを疑いだしたらきりがないです」
「そうか。蔵とは違って、こちらは能力が使える分なんでもありということか」
「ええ」
「しかもあなたが把握していない侵入者がいた可能性も否定できないしなぁ……」
「あ、でもそれはどうでしょう?」
「ん?」
阿求の言葉に慧音が首をかしげたそのとき、ふいに障子のむこうから誰かの声が聞こえてくる。
「いや、怪しい侵入者はいなかったと断言できるよ」
がらりと障子が開けられて、一匹の猫が姿を見せた。
天鵞絨のような毛並みをもった美しい黒猫で、無惨にも右目が潰れて疵痕になっている。だが残された片目は知性の色をたたえて輝き、ぴんと伸びた尻尾はともすれば二本あるようにもみえた。
猫の名前を目占《めうら》と云う。
阿求がまだ幼児だったころに軒下でひろった黒猫で、以来彼女を主として仕えてきた忠臣だ。稗田に籠もる霊力に当てられたのか半ば化猫と化しており、高い知能と霊力を持っていた。目占は尾白や黒檀など自らの眷属を率いて、稗田家警護の番猫隊を結成しているのだった。
「なに? この猫はしゃべれたのか。おまえ、普段私の前ではだらだら寝てばかりいたじゃないか」
「はは、ふりだよふり。あなたもたいがい単純だな慧音先生。猫の態度と女の涙は簡単に信用してはいけないよ」
「なんだと?」
大げさに眉を上げる慧音に、阿求はたもとで口を隠してくすくすと笑った。
「ふふふ、慧音先生だからお教えするのですけど、この目占は常に稗田の家を守ってくれているのですよ」
誇らしげに胸をはってそう云うと、目占はとことこと彼女の元へとやってきて、当然のようにその膝の上に座るのだった。
――ああ、暑い。ひっつかないで。
思わず振り払おうとした阿求だったけれど、まるでここに座るのは自分の権利だとでも云うような座りっぷりに、つい苦笑しながら許してしまう。なんといっても昔から自分のために尽力してくれている猫なのだ。邪険にするなどできっこない。
「ははは、そうだったのか。道理で訪れるたびに見かけるわけだ」
「ああ、あなたの霊気は真っ直ぐでとてもわかりやすい。だからわざわざみにいく必要はないかとも思うが、霊気を偽装できるような存在がいないとも限らないからな。念のため確認しているのさ」
「ほう……」
「黙っていてごめんなさい。実はこの子には、あらゆる霊力を認識する能力があるんです」
それはあらかじめテリトリーとして定めた空間の中に、霊力が存在しているかどうかを探知できる程度の能力だ。もっとも、そこに霊力があるかないかがわかるだけで、具体的にどこにいるかまで把握できるわけではない。
さらにこの能力にはどうしようもない限界があった。力ある妖怪なら自らの霊力を隠すこともできるし、目占が云ったようにそれを偽装できる存在がいないとは限らないということだ。
だからこそ目占は、人前では無力な家猫としてふるまっている。
周囲にただの猫だと思われていれば、警戒して霊力を隠される恐れはない。この能力が本当に力を発揮できるのは、相手がそれを知らない場合に限られているのだから。
その存在を知っているのは、四季映姫・ヤマザナドゥや八雲紫など、稗田のスポンサーとも云える勢力の長や、一部の近しい妖怪だけだった。
「なるほどなぁ、しかしそうなると……どうなる?」
「少なくとも私が把握している限り、この一週間で怪しい侵入者はひとりもいないんだ」
「つまり容疑者になりえるのは、永遠亭のうさぎさんふたり、アリスさん、咲夜さん、魔理沙さん、文さんの六人だけということに」
ふとひげをしかめさせた目占を抱きしめ、阿求は言葉を継ぎ足した。
「もっとも、それも完全じゃありません。常にそれ以外の可能性も残されています。目占の力を知っているひとがいるかもしれませんし、悪意をもって侵入しようとするときは霊気を消そうとする相手かも知れません」
「そうだな。だがまあ、それはとりあえず横に置いておこう。あらゆる可能性を考えすぎても前に進めない」
「はい。八雲さまの隣においておきますね」
くすくすと笑いながら阿求は云う。
けれどその笑いも、すぐに引っ込んでしまった。
未知の悪漢の存在を想定しないなら、犯人は先ほどの六人の誰かということになる。それを想像すると、阿求の胸の奥から悲しみの感情がわき上がってくるのだった。
アリス・マーガトロイド。
霧雨魔理沙。
十六夜咲夜。
射命丸文。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
因幡てゐ。
誰も彼も、彼女にとっては大切な友人たちだった。
永遠亭のふたりは身体の弱い阿求のことをなにかと気遣ってくれるし、紅魔館に取材に訪れたおりに仲良くなった咲夜は、忙しい用事の合間を縫って会いにきてくれる。
文とはときに『真実』の扱いについて議論になるけれど、言葉で世界を切りとることの難しさについて朝まで語りあったこともある。アリスはアリスで、抹香臭い稗田邸に洋風文化を持ち込んでくれる天使だと認識しているし、里を飛びだしてたったひとり生きる魔理沙の存在は、阿求にとって自由の象徴ですらあった。
――だがその中の誰かが、大切な場所を土足で踏み荒らしていったのだ。
「……大丈夫か、主」
阿求の様子に不穏なものを感じたのか、膝の目占が伸びをして、ぺろりと頬を舐めてくる。
「ありがとう……大丈夫よ」
思わず暑さも気にせずぎゅっと抱きしめた。拾ったときには今にも死にそうだった子猫が、こうやって大人になって自分のことを慰めてくれる。そのことが、泣きたくなるほど嬉しい。
自分はひとりじゃないのだと、流れゆく時間の中で世界との絆を保てているのだと、そう思うことができたから。
ふと顔を上げると、穏やかな顔で自分を見守る慧音がいる。
里を守り、子どもたちに知識を与え、稗田家にも庇護を与えてくれる慧音は阿求にとって親代わりとも云える存在だった。本当の親は代が変われば死んでしまうけれど、慧音はいつだって里にいて新しく成長していく自分のことを見守ってくれる。
今だって。
きっと百年前だって。
そのさらに百年前だって。
こんな暖かな笑顔を、自分にむけて浮かべてくれたに違いない。
阿求はもう、全部忘れてしまったけれど。
「……慧音先生、今一度力を貸していただけますか。わたし、犯人をみつけないといけないと思うんです」
目占がいる。慧音がいる。阿求として産まれてから仲良くなった、色々な人間や妖怪が周りにいる。
自分はそれなりに上手くやってこれたのだと思いたい。阿礼でもなく阿弥でもなく、阿求として産まれたこの生が、正しかったのだと思いたい。そのためにも、この事件の犯人を捜したいと思った。周りのひとを疑い続けないために。
「ああ、手伝うよ阿求。なんだって、あなたのためならば」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべた阿求の前で、慧音は腕組みをして唸る。
「だが実際問題どうする? 容疑者は絞られたと云っても、その中の誰が犯人なのかはさっぱりわからない。鍵や結界のこともあるしな。まさかひとりひとりとっちめていくわけにもいくまい」
「それは……」
つぶやいて、阿求はふと書院障子の空を見上げた。
「実は、もうひとり相談したいひとがいるんです。そのひとなら、必ずわたしの味方になってくれると思うんです」
「ほう……誰だそれは」
慧音の言葉に、阿求は顔中を真っ赤に染める。
「――パチュリー・ノーレッジ。紅魔館の魔女さんです」
空を眺めながらそう云って、コンと小さく咳をした。
§2
「――というわけなんです」
「なるほど、謎は全部解けた。犯人はスキマね」
阿求の説明を聞き終えた瞬間、パチュリー・ノーレッジはそう云って本に手を伸ばした。
「ちょっと! もっとちゃんと考えてくださいよぅ」
ページを開こうとした魔女の手を、阿求は頬を膨らませてぺちんと叩く。パチュリーはにやりと笑って手を振ると、安楽椅子をギィギィ揺らした。
「なによ、ちゃんと考えたでしょう? これはスキマの仕業よ、間違いないわ」
「いいえ絶対考えてませんっ。もう、本当にひとの話を聞いてくれないんですから」
「失礼ね、聞いてたわよ。スタンド名はブラッディアレイなんでしょう? いいじゃない格好よくて。私もよく呪文の名前考えるのに徹夜したものだわ」
「なんでそんなとこだけ覚えてるんですかっ!」
笑いながらぽかぽか肩を叩くと、パチュリーは鬱陶しそうに眉をしかめる。けれどその口元には笑みが浮かび、どれだけ叩かれても文句ひとつ云うようすがない。ふたりの間には親密な空気が漂い、互いの口から飛び出す文句は睦言にしか聞こえない。
そんなふたりを眺めていた慧音が、あっけにとられた顔でつぶやく。
「……なんだあれは、あの阿求は誰だ」
「ああ、あの魔女といっしょにいると、最近主はいつもあんな感じだ。まったく暑いな今日は」
慧音の膝で、ふぅと溜息をつく目占。けれど紅魔館の図書館は、いつもどおりパチュリーの魔法で快適な涼しさなのだった。
それは阿求と慧音の会合があった翌日のこと。
阿求はパチュリーと事件のことを相談するため、慧音や目占と共に紅魔館までやってきたのだ。
「ほう、知らぬ間に阿求にも春がきていたか。どうりで最近ひどく色っぽくなったと思っていたがなぁ」
「そうだろうそうだろう。今日なんて出かける前に着物の柄で小一時間悩んでいたよ。朝顔だろうが牡丹だろうが、どうせあの魔女には『キモノね』で終わりなのにな」
「ちょっとそこ、聞こえてますからっ!」
阿求は顔を真っ赤にして叫ぶ。
正直、慧音を連れてくるべきじゃなかったと後悔していた。
親代わりとも云える慧音に茶化されると、なんだかひどく恥ずかしい。もしかしたらこんなことが過去にもあったかもしれないと思うと、転生のたびに記憶を失うのも悪くないと思えてくる。
「あ、阿求……ええと、その牡丹と扇柄の着物、とても素敵ね……青地に散った四菱が雲みたいに爽やかだわ」
「そんな、無理に誉めなくてもいいですから……」
つぶやいて、はぁと溜息をついた。
たまにどうしようもなく空気が読めなかったりするけれど、そんなところも含めて阿求はこのパチュリーのことが好きだった。
そうしてパチュリーも、阿求のことが好きだと云ってくれた。
けれど阿求は、ときどき自分が今パチュリーとつきあっていることが、信じられなくなるのだった。なんといっても出会いのころからすれ違いの連続だった。一体いつどうやって心を通い合わせるようになったのか、思い出そうとしても記憶は過去という迷宮の中に入り込み、中々見つけられなくなってしまう。
阿求とパチュリーは、まるで運命に導かれでもしたような巡り合わせで、互いに惹かれあっていったのだった。
* * *
求聞持と云えば文机の前で唸っているイメージが一般的だが、実際のところそれだけではない。
幻想郷の民族誌をまとめるにはフィールドワークを欠かすことができず、そのため阿求は頻繁に旅にでかけていく。一度見たものを忘れないという求聞持の能力は、直接見聞きしたものを書にしたためるときにこそ、十全に効果を発揮するのだ。
だから最近幻想郷に現れたらしい紅魔館という屋敷にも、阿求は直接出向いていった。
そうして見た瞬間、その優美なたたずまいに圧倒された。
バロック様式の流れを汲むらしい、煉瓦造りの華麗な洋館。高い尖塔の天辺には鐘楼が置かれ、アーチを描くファサードに華麗な装飾が彫られている。柱に住まう彫刻は、幻想郷でついぞ見かけたことがない奇怪な化け物ガーゴイル。窓枠の桟は曲がりくねり、流麗な唐草文様を描いている。
まるで阿弥のころに憧れた、想像の中の鹿鳴館のようだと阿求は思った。
あれももう、百年以上も前になる。
開国以来この国にも西洋文明は次々と押しよせていたけれど、それはあくまで東京や神戸など都会の話。いくら当時は博麗の結界がなかったといっても、はるか東北の片田舎にあるこの幻想郷にまで、そのような風俗は届いていなかった。
どれだけあのひらひらしたドレスに憧れていても、コルセットで締められた細い腰に興奮しても、ただ『少女界』や『少女の友』に載ったモノクロ写真や挿絵を眺めることで満足する他はない。阿弥として死ぬ間際、自分が『一度でいいからあのふりふりを着てみたい』と思っていたことを、阿求はおぼろげながらに覚えていた。
そんな幻想の西洋館が、今現実となって目の前にあるのだ。
けれど阿求が圧倒されたのは、その建物だけにではなかった。
「ようこそ紅魔館へ、どうぞお通りくださいな。友好的なかたならいつだって歓迎していますから」
すらりとした長身の門番は、そう云って優雅に一礼した。
バランスのとれた体幹と、ほどよく引き締まった手足。ひとめで武道の達人とわかる女性の健康的な美しさに、阿求は自分の身体の貧弱さを嘆いた。
「紅魔館へようこそ稗田阿求さま。お噂はかねがね伺っております」
開いたドアの先にいたのは、目を瞠るほど可憐なメイドだ。
はしごレースを施した別珍ヘッドドレスと、ふわりと花のように膨らむ黒白のジャンパースカート。ヨーク部分にもフリルをあしらい、パフスリーブになった袖口をリボンを通して結んでいる。それをみていると、自分が着ている一番上等な加賀友禅も不思議とみすぼらしく思えたのだった。
一体あのスカートはどうしてあんなに膨らんでいるんだろう。中になにが入っているんだろう。夢? 希望? それとも憧れ?
編み上げになった背中のリボンを眺めながら、阿求はぼんやりとそう思う。
「本日は当主レミリアにご用とのことでしたけれど、申し訳ありません、当主は昼間は休んでおりまして……」
「は、はい! そうですかごめんなさい!」
「それで当主の友人であるパチュリー・ノーレッジの元にお通ししようと思います。彼女でも、いえ、むしろ彼女のほうが稗田さまの用向きには足りると思いますので」
「は、はい! そうですかごめんなさい!」
「ふふふ、緊張されてます?」
「は、はい……いえ……はい……」
メイド長は振り返ってくすくすと笑う。そうすると怜悧な瞳が途端に穏やかなものになって、それだけで阿求は魂を抜かれた気分になってしまった。同じ女なのに、まるで違う生き物だとしか思えない。それは阿求の実年齢は十と少しでしかないけれど、どれだけ年と転生を重ねてもこんな風になれるとは思えなかった。
屋敷の中をどう歩いていったのかは、なぜかまったく覚えていない。気がつけば阿求は飴色に光る扉の前に立っていて、メイド長がノッカーを叩く音を聞いていた。
「客人をお連れしました。パチュリーさま」
その瞬間、扉のむこうで錠が外れる音がする。返事はなにも返ってこないまま、両開きの扉がゆっくりと開く。その二枚の扉が、自分を飲み込もうとする獣の顎のようだと感じていた。
――正直、帰りたい。
こんなにどこもかしこもきらびやかなこの場所は、自分がいるべき場所じゃない。そう思って阿求は、持参した風呂敷包みをぎゅっと握りしめた。中には自己紹介代わりに渡すつもりで持ってきた、過去の幻想郷縁起が入っている。歴代の自分たちが、阿爾や阿余や阿夢や阿弥たちが、命を費やしてきた仕事の精髄が入っている。
でもそんなもの、ここでは取るに足らないものかもしれない。
なんてみすぼらしいものだと笑われるかもしれない。
――そんなのは、嫌だ。
けれど帰るタイミングはつかめないまま、阿求の前で図書館の扉が大きく開いた。
一瞬、中に誰もいないのかと思った。
広大な図書館は果てもみえず、どこまで続いているのかまるでわからない。天井ははるか高みまで続いて闇に消え、そびえたつ本棚は互い違いに折り重なって複雑な立体迷路を作り上げている。魔法でできた灯りなのだろう、そこかしこに光る球体が浮かんでいるけれど、お日様のようなその輝きも闇を照らしきるにはまるで足りない。
そんな図書館に入ってすぐ近く、読書スペースのような一画が設けられていた。マホガニーの重厚な書き物机に、天鵞絨張りの赤いソファ、猫足をもったローテーブル。来客用なのか椅子も何脚かおかれていて、その場所にだけほんの少しの生活感が感じられた。
――でも。
なんであの安楽椅子にはお人形が座らされているんだろう。
小首をかしげながら、阿求は暖炉脇の安楽椅子をみつめていた。
そこに人形なんだか人間なんだかわからない、ひとつの美しすぎる物体が座っているのだった。
白い肌、すべすべとした頬、桜色の小さなくちびる。等身大の人形のようにみえた。だって生きている存在にしては、その桔梗色の瞳はあまりにも深く奇麗すぎたから。そうしてそんな錯覚を肯定するように、パチュリー・ノーレッジは膝の本に視線をむけたまま、ぴくりとも動こうとしなかった。
だから、彼女がぐりんとこちらに顔をむけたとき、阿求は腰を抜かしそうになったのだ。
「うわ、動いたっ!」
「誰――?」
つぶやいた魔女が、口を開けたまま驚いたように目を見開く。その瞳がいまにもこぼれ落ちてしまいそうなほど大きくて、阿求は腰を引いたまま魅入られたように動けなくなった。
「あなた……稗田阿求ね?」
魔女はパタンと本を閉じ、ふわりと浮き上がって飛んでくる。くらげのように空中を漂い、阿求の目の前に着地した。
「わわわ、わたしのことご存じでっ!?」
「ええ、天狗の新聞で読んだの。……面白かった」
口の中で一言二言つぶやくと、魔女の手のひらにブオンと音を立てて一枚の新聞が現れる。「これでしょう?」と訊ねながら、阿求の前につきだした。
「あ……これです、はい。この九代目阿礼乙女の稗田阿求です。よ、よろしくおねがいします」
なんだか間抜けな自己紹介になったなぁと思いながら、なんとなくその新聞を読み返す。内容は一字一句覚えているけれど、こんな場所でこんなひとからみせられると、なんだか少し不思議な感じがした。
その新聞は天狗の射命丸文が発行したもので、御阿礼の子という存在の紹介と、阿求の生誕を祝って御阿礼神事が行われたことが書かれている。もちろん発行されたのは十年以上前で、そのときパチュリーのもとに記事が届けられているはずはない。
おそらく最近幻想郷にやってきたあと、なんらかの方法で収集したのだろう。改めて周りを見まわすと、図書館の中には天の川もかくやという数の本がある。これは一筋縄ではいかないと、阿求はごくりとつばを飲みこんだ。
「それにしても、本当にあなたってこの記事どおりなのね。興味深いわ、面白いわ」
まるでショーケースのマネキンを眺めるように、パチュリーは一歩離れた場所からまじまじと阿求をみつめる。ふと記事に載った写真と見くらべて、細い首をこくんとかしげた。
「でもどうして記事と同じ童女の姿をしているの? この新聞は随分前のものなのに。人間は十年もたてば違う姿になるはずだわ。もしかしてその姿で産まれてくるの? どうやって? キャベツ畑でうずくまってるの?」
キャベツ畑ってなんだろうと思いながら、阿求はようやく口を開いた。
「あ、あの……ごめんなさい。その写真、じつはわたしじゃなくて先代の阿弥のものなんですよ」
「そうなの? ふーん、それにしてはそっくりね。髪の長さは違うけれど」
「ええ、記事を書いた天狗の文さん的には『どうせ同一人物でそっくりなんですし、構いやしません。しわくちゃ赤ちゃんより綺麗な阿弥のほうがキャッチーでしょ』なんだそうで……」
はぁと溜息をついて阿求は答える。
真実をありのままに記憶し記録する求聞持としては、彼女の思想は到底受け容れられないものだった。当時阿求は生まれたばかりで、文句のひとつも云うことができなかったけれど、記憶にはしっかりと残っているのだ。
「なによそれ、前々から思っていたけれど、あのブン屋は相当ひどいものね。文章に対する責任をどう思っているのかしら」
「そ……! そうですよねっ! ひどいですよね!」
阿求は思わず顔を輝かせながらつめよった。こんなところで意見があうひとに出会えるなんて思わなかった。
「それにこの記事、他にも間違いだらけなんですよ。わたし過去の記憶はそんなに引き継いでないですし、転生の術だって自分で会得してるわけじゃないんです。本当に適当に書くんですよあのひと。まぁ頭脳明晰っていうのは本当ですけど」
「ふふ、そうみたいね」
おかしそうに笑う声に、はっと自分を取り戻す。いつのまにか握りしめていたパチュリーの手を離し、阿求は慌てて後ずさった。
「ご、ごめんなさい、とんだ失礼を……」
かしこまってお辞儀をすると、魔女は嫌そうに鼻をならした。
「そういうのいらない。礼とか挨拶とかどうでもいい。いいからそこに腰掛けて、私の質問に答えなさい。あなたには聞きたいことが山ほどあるんだから」
――あれ? 取材にきたのはわたしのほうじゃなかったっけ。
そんなことを思いながら、阿求は云われるままに腰をおろした。ふかふかのソファは沈みこむようで、普段あまりすることがない体勢に少しだけ居心地が悪い思いがした。
魔女が云うには、彼女は以前から阿求のことが気になっていたらしい。
紅魔館の頭脳として、幻想郷のことを調べるのにこれ以上ない研究対象だと思っていた上、読書家としても同一人物の手になる特異な年代記『幻想郷縁起』に魅力を感じていたようだ。
持参した過去の幻想郷縁起を手渡すと、彼女は本当に喜んでくれた。
それまでの仮面めいた無表情を突然崩して、無邪気な子どものようににっこりと笑った。
「ありがとう。千二百年にわたって書き続けられてきた書物……たくさんの思いが詰まっていて、本当に素晴らしいわ。洋の東西を問わず、これほど偉大な書物はそうはないでしょう。大切に読むわね」
そう云って、パチュリーは幻想郷縁起を大事そうに胸に抱えた。
それだけで、阿求は思わず泣きそうになってしまった。
千二百年もの間迷いながら悩みながら、ときには全部投げ出したくなりながら、転生を続けて書きつづってきたことを認められた気がした。
そのときにはもう、すべてが決まっていたのかもしれない。
阿求の視線は、満月のような魔女の笑顔に釘づけだったから。
けれどパチュリーは、その後決定的な言葉を口にしたのだった。
「――でもね、私がなにより興味をもっているのは、幻想郷縁起そのものじゃないのよね」
「へ? なんですか?」
「それはあなた自身よ稗田阿求。私は、あなたのことをもっともっと知りたいの。できれば稗田の家からさらってきて、まるごと全部私のものにしたいくらい」
「わた、し……?」
そのときのことを思いだすと、阿求は今でも悲鳴をあげてその場にうずくまってしまいそうになるのだった。
求聞持のいいところはなんでも覚えているところだけれど、悪いところは忘れたいことも忘れられないところだと思う。
今になって考えれば、そのときパチュリーが云っていたのは純粋な研究対象としての意味だとわかるのだ。完全記憶を保持する阿求をさらってきて調査研究解剖し、その能力を自分自身に適用させたい。一度読んだ本を完全に覚えられれば便利だという、そんな魔女らしい自分勝手な目的で。
けれどそれは、その後の交流を通してわかったこと。
そのとき阿求は、パチュリーの言葉を額面通りに受け止めて。
――告白に近いものだと、思いこんでしまったのだった。
「わ、わたしですかっ!?」
「ええ、あなたが欲しい。くれない?」
「ほ、欲しいって……でもわたし、パチュリーさんみたいに奇麗じゃないし、ぺたんこで寸胴でこんな野暮ったい着物なんか着てて……あの……あの!」
「はぁ? どうして容姿が関係あるの? 私が欲しいのはあなたの頭の中なんだけど。でもあなたは十分綺麗だと思うわよ、エキゾチックな着物も素敵だしね」
そんなことを続けて云うものだから、もう我慢ができなかった。
「――お、お友だちからはじめてください!」
思わずぎゅっと目をつぶりながら、阿求は叫んだ。
いくらなんでもあげるとかあげないとかは早いけど、でもパチュリーが求めてくれるならできるだけ応えたいと思う。
だって彼女は幻想郷縁起のことを誉めてくれたし、この着物のことだって認めてくれた。顔つきも綺麗だって云ってくれたのだ。それまでの話で、お互い気が合いそうだってことはわかっている。阿求自身この図書館の蔵書について興味があるし、なにより人形かと見まがうくらいの美少女だ。
断る理由なんて、どうやったって見つからなかった。
けれどいつまでたっても彼女の返事は返ってこなくて、阿求はおそるおそるまぶたを開けた。そうして魔女の顔つきを見た瞬間、驚きとともに大きく目を見開いたのだった。
衝撃的な略奪宣言をしたはずの魔女が、顔を真っ赤に染めてうつむいていたのだ。
「お友だち……? 私が? あなたの?……おともだち……」
熱くなった顔をさまそうとするように、ぺたぺたと両手で頬を触っている。まるで生まれてはじめて恋の告白を受けた少女のように。
なにがなんだかわからなかった。
もしかしたら自分はなにかひどい思い違いをしていたんじゃないかと、そのときになってようやく阿求は気がついた。
そんな彼女の前で、紅魔館の魔女は童女のようにこくんとうなずいたのだった。
「よ、よろしくお願いします……」
その瞬間、阿求は運命の歯車がカチリと噛み合う音を聞いた。
そのときはまだ会ったこともなかったはずなのに、レミリア・スカーレットのほくそ笑みが頭の中に浮かんだ気がした。
§3
「――阿求……阿求。大丈夫?」
顔をあげると、もう随分見慣れたパチュリーの姿が目の前にあった。けれどその表情は、いつもと違って心配そうに歪められている。以前は無関心ぶった無表情ばかりだったのに、最近このひとはたまにこんな顔をするようになった。
「あ……大丈夫です。ちょっと黒歴史に襲われてて……」
「そう? ならいつものことだし、いいけれど。……心配だわ、今日はあなた調子悪そうだったし」
「ふふ、ありがとう。でもパチュリーさんと話してるうちに随分よくなりましたよ」
にっこり笑いかけると、パチュリーは照れたように顔をそらした。あのころに比べて随分感情を表にだすようになったけれど、こういうところは変わらないなと思う。
「それで――事件について思いついたことはありますか? 魔女殿」
慧音の言葉に、魔女は安楽椅子にもたれて額に手を当てた。
「そうね。あなたたちの推理だけれど、まず不可能状況を無視して機会の件から容疑者を割りだしたことまではいいと思う。――でも」
「でも?」
「いえね、その不可能状況、本当に不可能な状況なのかしら」
「と云うと? 鍵が動かされてないという件ですか」
「そうよ」
小声で答えて、パチュリーはぼそぼそと呪文を唱える。蜂の羽音のような音をたてながら、手のひらに一冊の本が現れる。
「なんですそれ? 『てれびまがじん』?」
一見して子どもむけの本だった。表紙には赤や青の原色で丸っこい字が書かれ、角張ったお面をつけた全身タイツの変人が、どこぞの龍宮の使いのようなポーズを決めている。
パチュリーはとあるページを開き、ずいと阿求に押しつけた。
「これ、やってみて」
「はぁ……『間違い探し』ですか?」
開かれたページには、まったく同じにみえるふたつの絵が載っていた。両手に大根をもった初老の男性が半裸で踊り、その背後に奇怪な化け物と黒いローブ姿の女の子が描かれている。
どうやらそのふたつの絵の違いを探す遊びらしい。タイトルは『魔法陣グルグル間違い探し』。魔女のパチュリーがこれをやってるところを想像すると、なんだかすごく可愛く思えた。
少しやってみただけで彼女が云わんとすることはわかったけれど、阿求はよくわからないふりをした。この気むずかし屋の魔女は、少しでも意図と違った反応が返ってくると途端にふて腐れてしまうから。
「――わかりました。えぇと、まずこの親父さんがもってる右の大根のヒゲが一本足りません。それと女の子の靴にリボンがありません。もうひとつは魔法陣の模様がちょっと違うのと、最後にこの変な化け物の肩の後ろの二本のゴボウの真ん中にあるスネ毛の下のロココ調の右が違います」
「そうよ、正解。意外と難しかったでしょ?」
「そうですね、こうやって見比べてみてもなかなか違いには気づかないものですねー」
「そうでしょう。そうしてそれは、あなたの記憶にも云えることじゃなくって?」
「……あっ! なるほど!」
うわ白々しいと思いながら、叫んだ口元を両手で押さえる。けれど魔女はそんな演技にも気づかなかったようで、にやりと満足げに微笑んだ。
「いくらみたものを完璧に覚えていても、映像を過去のものと重ねて比べられるわけじゃない。同じようにみえて、細部が違っていても気づかないでしょう? こんなに明確な違いがある間違い探しだって、なかなかみつけることはできないのよ」
「ううーん……そう云われるとたしかにそうなんですが……」
まさか知らぬ間に盗まれてなどいないと思っていたから、ついまったく同じものだと思いこんでいた。けれど改めてふたつの映像を呼びだしてみると、それも断言できなくなってくる。
「でも阿求が鍵は使われていないと思った理由もわかる。犯人はよほど気をつけて前と同じ形に置いたんでしょう。普通そこまでこだわって同じ形に置かないものね」
「そうなんですよ。普通のひとの記憶はそこまで正確じゃないようですから。鍵を使ったことを隠そうとしても、もうちょっと雑に置いたと思うんですね」
「問題はそこよ。犯人は、それだけあなたの能力の程度をよくわかっているってことじゃないの? 多分とても親しい人物ってこと」
「あ……」
パチュリーの指摘に、阿求は思わず絶句した。
その通りかもしれないと思ったのだ。
蔵に入るには鍵を使うほかない以上、犯人はどうしたってあの鍵を使用したことになる。その際阿求の能力がどの程度のものかを把握していれば、鍵を一見使われなかったように装うことも可能だろう。
だが逆にそうしたことにより、犯人は阿求の能力についてかなり詳しいという情報を、こちらに与えてしまったのだ。
「これは容疑者から犯人を絞り込むのに重要なポイントになると思うわ。求聞持ってどちらかというと、阿礼の生まれ変わりの民話収集者のことを指すと思われてるんじゃない?」
「そうですねぇ、記憶力がいいことくらいは割と知られてると思うんですが、正確に把握してるかたがどれくらいいるかは疑問ですね。慧音先生みたいにわかっているかたでも、つい意識から抜け落ちてしまうようですし」
先日の会話のことを云ったのだろう。阿求がおどけるように瞳を回すと、慧音は苦笑しながら額をかいた。
「たしかに、日常の中で実感できないとなかなかなぁ……」
「そうでしょうね。その点で容疑者リストから外せそうなのは……うーん、あんまりいなさそうね。咲夜、アリス、天狗あたりはよくわかってそう」
「だと思います、文さんは特に新聞のために私を図書館代わりに使うことが多いので、実感してるんじゃないでしょうか。魔理沙さんも最近よく話すのでわかってるかなぁ?」
「そうなると外せるのは兎二羽くらいのものかしら。まぁ、これだけで決め手になるはずないから、これはこれでいいけれど。今後直接聞き取りにむかうときには気をつけておきなさい」
「はい。……それにしても、さすがパチュリーさんですね」
ぱんと両手を打ち合わせながら、阿求は花のように笑う。
「こんがらがってた状況がずいぶんすっきりしました。あとは普通に誰が鍵を盗めたのかを考えればいいんですね」
「そうだな、たしかに阿求が見初めただけのことはあるなぁ。鍵が盗めたことを証明したうえ、それを犯人を絞り込むポイントとして活用できるようになったんだからな」
「ふん、なに云ってるの、こんなの初歩の初歩だわ。少しはその灰色の脳細胞を働かせなさいな、あんたたち」
魔女は安楽椅子に身体を沈めて、これ見よがしな顔でにやりと笑う。どうやらすっかり名探偵きどりらしい。喘息さえなければ、今にもパイプのひとつでもくゆらせはじめそうなありさまだ。
心の中で苦笑しながらも、阿求はこんな探偵ごっこもいいなぁなんて思っていた。なによりパチュリーが楽しそうだし、話すことがたくさんできて阿求も嬉しい。人間の里と紅魔館、用事がなければなかなか越えられない距離だけれど、この事件が続く間は入り浸ることができそうだ。
パチュリーが名探偵役なら、自分は助手だ。
なんといっても安楽椅子探偵がこれほど似合うひともそうはいないし、歩くメモ帳の自分は助手役をするには最適だ。もっとも、普通の安楽椅子探偵は本当に安楽椅子に座っているわけではないけれど。
願わくばお話にでてくる探偵と助手コンビのように、仲良くずっと一緒にいたいと思うのだ。
「うーん、でもパチュリーさん、この先は一体どう考えればいいんでしょう。犯人がなんとかして鍵を盗んだとして、それは誰でいつどうやったのか。わたしにはかいもく見当もつきません……」
「ああ、私もだよ阿求。どうやら私の灰色の脳細胞は、満月以外は死んでいるようだ……」
阿求がありがちな助手のような台詞を口にすると、慧音もつきあいのいいところをみせて乗ってきてくれた。ふたりで頭を抱えながらうんうん唸る。なんだか楽しくなってきた。
「仕方ないわねまったく……。いい? この事件の一番のポイントはなにかしら?」
「それは……ジョジョですか?」
「そうよ、ジョジョよ。犯人はただ蔵に侵入しただけじゃない、書きつけをジョジョとすり替えていったんでしょう。だったら犯人は稗田家にきたとき、そのジョジョを持っていたはずよ。しかも全六十三巻、ストーンオーシャンは含まずね」
「なるほど、確かにそうだ。ジョジョ六十三巻と云ったら相当にかさばるぞ。行李でもないと持ち歩けん」
「ええ、大体このくらいになるわ」
パチュリーがぼそぼそつぶやくと、ローテーブルの上にひとそろいの漫画が現れた。それはジョジョではなく、高橋留美子の『犬夜叉』だった。妖怪退治の漫画を読んじゃう魔女ってどうなんだろうと阿求は思う。
本は一冊のサイズが縦三十センチ×横十八センチで、厚みが一・五センチほどある。こちらは五十六巻までしか出ていないため、ジョジョと比べて若干少ない。だがそれでも積み上げれば一メートル弱になる。二列に分けても五十センチと、どうしてもかさばってしまうだろう。
「こんな荷物を持っていたのは誰と誰? そこから考えていかないと。目占の能力を信頼するなら容疑者は六人。兎二羽を含めても、魔理沙とアリスと咲夜と天狗。このうち誰が犯行可能だったか、ひとりひとり検証していくべきよ」
「そうですね。そうしてみましょうか。ちょっと頭の中で当時の記憶を整理してみます」
阿求は記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。そんな求聞持に優しげな視線を投げかけ、パチュリーはポットから紅茶を注いだ。
「ふふ、目撃者が阿求でよかったわね。正確な証言がでてくるわけだから」
「ははは、それはそうですね」
「私もミステリ小説はよく読むけれど、いつも思うのよね。目撃者の記憶力が高すぎだって。何日も前のできごとを、台詞も含めて正確に思い出せるはずがないもの」
その手のお約束には突っ込んじゃいけないと、阿求は思う。
「じゃあとりあえず、アリスさんのことから――」
そう前置きをして、語りはじめた。
彼女が稗田邸を訪れたのは、阿求がその前に蔵の様子をみた翌日で、事件が発覚する六日前のこと。
水無月の二十二日、午後二時三十三分のことだった。
用向きは、以前より阿求と共に製作していたパチュリー用の新作ワンピースが仕上がったので、それを届けにきたという。
阿求がいる本宅に上がり込んできたとき、彼女は手に大きなトランクを持っていた。中に入っていたのは、阿求が頼んでいたワンピースドレス。ドットチュールが紗のように折り重なった可憐な仕立てで、布を多くとったスカートが花のようにふわりと開く、期待以上のできだった。ゆったりとした服が好きなパチュリーに似合うだろうと、阿求は満足に思った。
そのとき背後に従えていた上海と蓬莱も、それぞれ円筒形の大きな帽子箱を持っていた。中にはドレスに合わせたキャノティエと、ロングスカートを膨らませるための大きなシフォンパニエ。少なくとも、どこにもジョジョを隠す余地などなかった。
ふたりで服を広げてきゃーきゃー云ったあと、お茶を飲みながら一時間半ほど四方山話――おもにパチュリーのうわさ話――をして帰った。どうやらアリスはそのあと里に用事があるようだった。
「こんなところでしょうか。目占はどう? あなたも覚えてる?」
「ああ、主とちがって具体的な時間まではわからないが、人形遣いが来たのは大体そのくらいの刻限だったと思う。ただ、彼女は屋敷に入るときに小さな屋台を引き連れていたぞ」
「え? 本当?」
「うむ。八目鰻の屋台を少し小さくしたようなものだ。何体かの人形が重そうに曳いていたな。屋敷に入った後どうしたかはわからない。私は門をくぐるところまでしか警備していないし、でていくときには大して注意を払っていないから」
「ふーむ」
腕を組んでうなりこむ阿求。そんな彼女を恨みがましい目でみつめ、パチュリーはため息をひとつつく。
「はぁ……いい加減ひとを着せ替え人形にするのはやめて欲しいんだけれど」
「えー、いいじゃないですか。満更でもないくせにぃ」
「ふん、満更よ満更。服なんて動きやすいこの格好だけで結構。リボンなんてただの魔力を高めるアクセサリなんだから」
「またまた、そんなこと云いつつ、いつも着てくれるじゃないですか」
「それはだって……あなたが着てくれっていうものだから……」
顔を赤くしてごにょごにょとごまかすパチュリーだった。けれど阿求にはわかっている。なんだかんだでこのパチュリーも、可愛いくするのが好きなはずだった。ただ着飾るのがめんどくさいという感情が、普段は勝りすぎているだけで。
「そもそもあなたが自分で着ればいいじゃない、ああいう少女趣味な服が好きなんでしょう?」
「いえいえ、わたしにはこの着物のほうが似合ってますから。服は自分が似合うと感じるものを着るべきだと思うんです」
「私は、自分にはこのいつものワンピが似合ってると思うんだけど」
「いえ、パチュリーさんにはもっとフリフリしたのが似合いますから!」
「矛盾してるじゃない……」
その弱々しい突っ込みを、阿求は聞きとれなかったことにした。
先代から続いてきた阿求のフリフリ熱は、パチュリーと深くつき合うようになってからは少し別の形をとるようになっていた。
自分が着たいと思うのではなく、他人に着せたいと思う。
パチュリー・ノーレッジは、その素体としてこれ以上ないほど理想的な存在だったのだ。
そもそもどれだけああいったヴィクトリアンな装いに憧れたとしても、しょせんそれらのドレスは西洋人むけに仕立てられたもの。東洋人の自分が着ても似合わないことはなはだしい。
足が短い。
くびれがない。
色が白くない。
胸がない。
致命的。それらはあまりにも致命的すぎだった。
その点パチュリーは全然違う。肌は白磁のように白く、普段のだぼっとした服に隠された身体は脱がしてみれば意外なほどのメリハリがあった。瞳はアメジストのように輝いているし、髪の毛はつやつやと奇麗だしで、こうして親しくなってからもいまだに人形のように思ってしまう。
けれど今はもう、そこに以前のような西洋コンプレックスは感じない。パチュリーが自分の着物姿を『エキゾチックで素敵』と云ってくれたとき、それはアイシクルフォールの弾幕のように千々にばらけて消えてしまった。
「……じゃれ合いはもういいから。話を進めないか主」
「あ、う、うん。わかりましたよ目占……」
白けた声でつっこむ目占に、阿求は慌てて居住まいを整える。
「とりあえず、今の時点ではアリスさんは犯人ではないと断定できないですよね。ジョジョを全巻隠せそうな屋台を曳いてましたし、わたしと話し終わったあとに犯行を行えたかもしれません」
「そうねぇ。それでその屋台っていうのはなんなのかしら。あなたは見ていないんでしょう?」
「見てないです。まぁ、わたしはずっと本宅にいましたし、屋敷に上がり込んでくるときに屋台を曳いてはこないでしょう。前庭のあたりに止めていたんでしょうね」
そのとき、慧音がふと気がついたようにぽんと手をたたいた。
「まてよ、それは二十二日のことだったんだよな?」
「ええそうです。なにかわかりますか」
「うん、その日はたしか確か村会議があった日でな、今度の夏祭りに出店する香具師を集めて、演目や場所の取り決めを話し合っていたんだ」
「ああ、そろそろですものね、夏祭り。家でも舞の練習してる子が何人かいますよ」
「私もその見回り担当として呼ばれていてな、出店の割り振り表をみせてもらったんだが、そこにアリスの人形劇が演し物として書いてあったんだよ」
「あ、じゃあもしかして、里に用事があったというのはそれ?」
「そうだと思う。見本として実際に使う仮設舞台を持って行ったんだろう」
「なるほど……」
「じゃあ、その場であなた自身がアリスを見たわけじゃないのね?」
「ああ、授業があったので少し遅れたんだが、そのとき彼女の姿はもうなかった。だがチェック済みの印が捺してあったから、当日来たのは間違いないだろう」
「それ、何時ごろの話よ」
「ううーん……私が行ったのは何時ごろだったかなぁ。五時か六時か……なんせ一週間前のことだしなぁ」
「ああ、うん、それが普通よね……」
そう云ってパチュリーは、阿求と顔を見合わせてため息をついた。
まったく、完全な記憶を留めていられないのは不便だなと思う。阿求が本宅でアリスを迎えたのが二時三十三分、辞去するのを見届けたのが四時七分。あとで正確な時刻を思いだせるよう、稗田邸には常に視界に入るところに時計があるから、その時刻に間違いはない。
これで会議所にでかけた慧音が正確な刻限を覚えていれば、アリスの足取りも大分掴めたはずだった。アリスが阿求と別れてそれほど時間が経っていないような時刻なら、その前に会議所についたアリスに犯行を行えたはずがない。
現在のところその部分が曖昧なせいで、やはり彼女を容疑者から外すわけにはいかなかった。
なんといっても人形を使ってさまざまなことができそうなアリスである。加えてジョジョ全巻をいくらでも隠せそうな屋台まで曳いていた。むしろ容疑者筆頭と云えるだろう。
「で、阿求の家からその村会議があった場所までは、屋台を曳いて歩いたら何分くらいなの?」
「そうですね、大体三十分くらいかと思いますが」
「じゃあハクタク、今度村会議の連中にアリスが何時ごろきたか聞いておいてもらえないかしら? チェックをしたというのなら、それなりに記憶に残ってるかもしれないわ」
「そうですね。うむ、そうしてみましょう」
うなずいた慧音に満足そうに微笑みかけ、パチュリーは上機嫌で椅子の背をゆらす。
「さぁ、それじゃあ次は誰? 時間順に話してちょうだい」
「はい、次に訪ねてきてくださったのは――」
ふたり目、霧雨魔理沙。
彼女はアリスが訪ねてきた日の夜、水無月二十二日の午後七時四十七分に現れた。随分酔っぱらっていて、聞けば里の一杯飲み屋で飲んでいたらしい。
それを聞いて、阿求は珍しいことだなと思った。里一番の大店『霧雨店』を飛びだして魔法の森で暮らす彼女は、あまり里によりつかない。お酒を飲んでいたということもあって、魔法の森に戻りたくない理由があるのだろうかと思った。
案の定、阿求に対して相談というか愚痴というか、そういうものを聞いて欲しかったようだ。客間で十時すぎまで話をしながらいっしょに飲んで、その後帰ろうとした魔理沙を引き留めて泊らせた。いくら人間でも有数の実力者とはいえ、深夜の幻想郷を酔っぱらい運転ではいかにも危ない。
来客用の寝室に一晩泊り、翌朝少しすっきりした顔で魔法の森に飛んでいった。身の回りのことは稗田の女中に頼んでおいたから、訊ねれば少しはわかることもあるかもしれない。けれど稗田邸に現れたとき魔理沙は箒一本しかもっておらず、ジョジョ全巻を隠せるような荷物はまるでなかった。
「――なによそれ、どんな話をしたのよ」
まるで家族に不幸でもあったかのような仏頂面をして、パチュリーは阿求をにらみつけた。
「それはちょっと……この場では云えません。ごめんなさい」
「ふぅん? 私にも云えないことなの?」
「う……勘弁してくださいよぅ、魔理沙さんのプライベートなことですもん、べらべら口にできません」
阿求はすまなそうに肩を縮める。パチュリーのじとりとした半眼が辛かった。
恋人が妬心を起こしていることはわかっている。そうしてそれはそれほど理不尽なものではないだろうと、阿求も思っている。
自分だって、たとえばアリスあたりがパチュリーの寝室に泊っていったと知ったら、心中穏やかでないだろう。深夜お酒を飲みながら差しむかいで話をして、挙げ句に泊っていってとパチュリーのほうから頼んだとしたら。たとえ事件なんかなくっても、どんな話をしたか気になってしまうだろう。
――けれど云えない。
他の誰に云うことができても、パチュリーに対しては云えない。
魔理沙が阿求にしたのは、そういう性質の話だった。
しばらく無言でみつめあったあと、パチュリーは一旦自分のほうから折れてくれた。
「まぁいいわ。でもそれなら、あの白黒は一晩自由に時間を使えたってことね」
「ええ……。ですけど魔理沙さん、相当に酔っぱらっていましたよ。いっしょに飲んでいたわけですから演技だとは思えませんし、翌朝起きだしたときも二日酔いで辛そうでした」
「ふん、どうだか。あの鼠を信用したら痛い目みるわよ。大体泊めてやるどころか敷地に入れてやる時点で不用心だわ。阿礼の蔵なんて宝の山じゃない。『ちょっと借りてくだけだぜ!』とかほざいて強奪していくあいつの姿が目に浮かぶわ」
異様にそっくりな声まねをして、パチュリーはつまらなそうに頬杖をつく。
「たしかにあの子は少々収集癖があるようで、店のものを勝手にもっていくと、霧雨の親父さんも嘆いていましたな。しかしジョジョの件はどうです? 阿求の話では、ほぼ手てぶらだったようですが」
「そうねぇ、その点では弱いわね」
「あの、魔法を使ったという可能性はありますか? 魔法でなにをどうできるのかはさっぱりわかんないですけど、パチュリーさんがよくやってる物品取り寄せの魔法とかを使えば……」
「どうかしら? あれがまともな魔法を使えるとは思えないけれど」
云い放って一言二言呪文を唱えると、パチュリーの手のひらにぶんぶんと様々な本が現れる。
『ホノリウスの誓いの書』、『黒い雌鶏』『隠秘哲学第四書』、『ナコト写本』。阿求にはその価値を想像することもできない貴重な魔導書が、次々と現れては消えていく。
「私の魔法だってこれ、“図書館にインデックスされている書物”限定のものだもの。魔理沙ごときにこれに類する魔法を使えるとは思えないわ。あれはしょせん紛い物の魔法使い。光と熱で物を破壊するだけの花火師よ。私やアリスのように世界の理をかえるだけの技術も気構えも理由も持ち合わせていない、ただの人間だわ。幸せなことにね」
「そうですか……パチュリーさんが云うならそうなのでしょうね」
内にこもった様子で一点をみつめるパチュリーに、阿求の胸が締めつけられるように痛んだ。
アリスもそうだけれど、魔女はみなどこか黒い影を曳いているように思う。あるいは闇色の結晶を身体の中に抱えているように感じる。
それが西洋におけるかつての魔女狩りの残滓なのか、それとも魔女という種族が先天的に内包している澱みなのかはわからない。けれど阿求はそんな魔女の影に気づくたび、思わずぎゅっと抱きしめたくなってしまうのだ。きっとパチュリーは『馬鹿にするな』と怒るだろうから口にしたことはないけれど、そんな彼女の寂しさが自分を惹きつけたのかもしれない。
「しかしそうなると、魔理沙が犯人である可能性は低いということになりますか」
慧音の問いに、けれどパチュリーは首を振る。
「いいえ、まだわからないわ」
「というと? 他にもジョジョを持ちこむ手段があるということですか?」
「そうね……まず確認するけれど、元々稗田の敷地内――目占のテリトリー内にジョジョはなかったのよね? 使用人や一族の誰かの私物だったりとか」
「ええもちろん。そこは一応、事件後に一族の皆とは一通り相談して調べてますので。そもそも稗田家にとって阿礼の蔵はとても大事な聖域なので、荒らすような者がいるとは思えないです」
「そうね。その可能性を考えるなら、まだ全部スキマのせいにしておいたほうがマシか」
「はい。スキマのがマシです」
「はは、なんだか八雲殿が可能性のゴミ箱みたいになってきましたな」
そんな慧音の言葉に、一同がへらへらと笑った。
「まあ、あのスキマならなんでも入るしね。……それはともかく、じゃあ稗田の者が知らない間に犯人の協力をしていたという可能性はないかしら?」
「え? どういうことですか?」
「たとえば他の物品にみせかけて届けた荷物に、ジョジョが入っていたとかよ。使用人や誰かが屋敷の中に運び込み、その後魔理沙が手ぶらでやってきて、深夜に荷物からジョジョを取りだす。入れ替えた書きつけは、まあ、どこか中庭の植え込みにでも隠しておいて、帰るときに取り出すの」
「あ、なるほど……。うーん、でもそれって結構きわどいですよね。絶対みつからないようにしないといけないし」
「ええ、だから可能性の話。あなたの記憶に思い当たる節がなければそれでいいわ」
「そうですねぇ。わたしにはちょっとないんですけど、あとで家の者に当たってみます」
「そうしておいて」
うなずいて、パチュリーはこくりと紅茶を含む。普段あまり喋り慣れていないから疲れてきたのだろう。コンと小さく咳をした。
「他にもこんなのはどう? アリスと魔理沙が共犯で、アリスが屋台で持ちこんだジョジョを、魔理沙が深夜に書きつけと入れ替えるの。で、その後アリスは何食わぬ顔で会議所に顔を出し、アリバイ作りにいそしむってわけ」
「あ、すごい! ミステリっぽい!」
「そうでしょうそうでしょう。アリスには機会がなかった。魔理沙には方法がなかった。でもそのふたりが共犯だと考えれば犯行は可能となるわ。まあ、アリスにアリバイがあるかどうかはまだわからないけれど」
「あ、でも……」
パチュリーの言葉に、阿求は申し訳なさそうに縮こまる。
「あの……多分アリスさんと魔理沙さんが共犯というのはあり得ないと思います」
「む、なによそれ。根拠は魔理沙と話した内容のこと?」
「そ、そうです……」
「そもそもその話自体が稗田家に入り込む口実って可能性はないの?」
「ないと思います、多分……」
「でもなにを話したかは云えないのよね?」
「はい……」
それきりむっつりとふさぎ込むパチュリーだった。阿求もかける言葉がみつからなくなって、図書館にしんとした静寂が訪れる。
けれどその静寂の中にはたくさんの言葉が飛び交っていた。
気心が知れたカップルの間にただよう、饒舌な無言。一心不乱に枝毛を探すパチュリーの指先が、気まずそうにそらした阿求の視線が、ふたりにだけわかるなんらかの言葉を伝えていた。
「――と、とりあえず、アリスと魔理沙についてはその辺でいいんじゃないかっ!?」
その静寂に耐えかねたように、声を裏返らせながら慧音が云った。途端に張り詰めていた緊張が解けて、阿求はほっと胸を撫で下ろす。
「そ、そうですね。そうしましょうパチュリーさん。この話はとりあえずよそに置いておいて」
無理矢理笑顔を作りながら、箱状の物体をゴミ箱に捨てる動作をする。捨てた先はスキマだろう。魔女は納得がいかない顔をしながら、鼻を鳴らしてこくんとうなずく。
「じゃあ、えーと、次にお会いしたのは……咲夜さんでしたね……」
くりりと瞳を回しながらそう云って、阿求はふと深い溜息をついた。
なんだか身も心も疲れ果てていた。身体は相変わらずひどくだるいし、パチュリーは自分を信じてくれていない。
それにこれだけ喋ってもまだふたり分の足取りしか掴めていないのだ。こんなペースであと四人分検証しないといけないと思うと、もう犯人スキマでいいかもと思えてくる。
「……あら、紅茶がもうないわね」
ふとティーポットを持ち上げて、パチュリーがつぶやく。喋り通しで喉が渇くものだから、紅茶の減りも早かった。出されていたスコーンもあらかた片づき、テーブルの上もなんだか寂しくなっている。
「ちょうどいいわ、咲夜本人を呼ぶわよ。少し休憩しましょう」
パチュリーはやれやれとつぶやきながら、疲れた様子でテーブルの呼び鈴を鳴らした。
――そのときは。
まさかあんなことになるなんて、思ってもいなかった。
§4
「え? なんですそれ、ジョジョ? 私の能力がDIOの真似だとでも仰りたいんですか?」
「そんなこと誰も云ってないでしょう。いいからあんたもそこに座りなさい。今日はもう仕事は終わりでいいから」
お茶とお菓子の補充を終わらせた十六夜咲夜は、怪訝な顔でソファに腰を下ろした。隣に座った阿求の元に、ふわりとリコリス系の香りが漂う。
そのスマートな姿に思わず見とれた。
パニエで膨らんだスカートから覗く、カモシカのような脚の線。ぴんと伸びた背筋にきゅっと引き締まったウェストライン。相変わらず眩暈がするほど可憐なひとだと、阿求は驚嘆の念を新たにする。
「どこみてるのよ阿求っ!」
「――あ痛っ!」
そのときパチュリーのほうからなんか柔らかい弾幕が飛んできて、ぽこんとおでこに当たった。大して痛くなかったのになぜだか本当に眩暈がして、阿求はうつむいて額を押さえる。
「あら、大丈夫?」
「だ、大丈夫ですっ! ご心配なさらずっ」
思わず顔をよせてきた咲夜から後ずさる。
なんといってもその瞬間一番大丈夫じゃなさそうなのが、パチュリーの怒りに満ちた顔だったから。
「ふん、そんなのんきしていられるのも今のうちよ咲夜!」
「はぁ……なんでしょう怖い顔なさって。また最強スタンド論争でもおっぱじめるおつもりですか?」
「一旦ジョジョから離れなさいっ! いい咲夜。あんたには稗田家の本に対する盗難容疑がかかっているの。それもあんたは、容疑者として第一級よ!」
ずばんと効果音が聞こえそうな勢いで指をつきつけ、パチュリーは鼻息を荒くする。対する咲夜はどこか醒めた顔をして、きょとんと小首をかしげている。
――またうちの知識人が変なこと云いだした。
そう云いたげな咲夜の様子は、阿求の目にはとても演技のようには見えなかったのだった。
「そういうことでしたか。でもそれ、どうせスキマの仕業なんじゃないですか?」
一通り話を聞き終わった瞬間、咲夜は云った。
――咲夜さんあなたもか。
阿求は額を押さえながら、なぜ容疑者から八雲紫を除外したいかを説明する。すらりとした足を優雅に組み、ふんふんとうなずきながら聞く咲夜。そんな彼女のようすに、阿求はふと不穏なものを感じていた。いらいらしたように動く指先が、細められた切れ長の瞳が、内心の不機嫌さを物語っているように感じていた。
結局咲夜は、話を聞いている間ずっと阿求の目を見なかった。
「なるほどわかったわ。でもなんで私なんですパチュリーさま。お話を聞く限り、アリスにしろ魔理沙にしろ犯行は可能みたいじゃないですか」
「なにを白々しいことを。本当は自分でもわかっているんでしょう? あなたの能力はスキマ並になんでもありじゃない。今度の事件、どうしたってあなたを容疑者から外すわけにはいかないわ」
――そうなのだ。
咲夜の時を止める程度の能力は、今度の事件の容疑者の中で、最も怪しいものと云っていい。
それはどんな検証や推理もひっくり返すほどの可能性を秘めている。さきほどまで争点となっていたジョジョ全巻を持ち運べる荷物にしても、咲夜に関してはまるで関係がない。止まった時間の中でどこか里の古書店から強奪してくればいいだけだからだ。ましてや書斎にいる阿求の目を盗んで鍵を盗むことなど朝飯前。
そしてなにより、咲夜は阿求の能力のことをよく知っていた。
パチュリーが容疑者として第一級だと宣言したのも、阿求が目を奪われていたことに嫉妬したからだけではない。
けれど阿求は、もうこの話を止めたいと思った。
パチュリーは相変わらず空気を読もうとせず、どれだけ咲夜が怪しいのかを滔々と説明する。それを黙って聞く咲夜の後ろ姿が、すこしずつ張り詰めていくのを阿求は感じる。たおやかなうなじに力がみなぎる。輝くような銀髪が、ナイフのように尖っていく。
「――本気で仰っているんですか、パチュリーさま?」
「……え?」
「パチュリーさまは、本気で私がそんなことをしたと思っているんですか? 阿求の心の故郷とも云えるあの場所に入りこみ、この子が大切にしている物を盗みだしたと、本気で?」
その瞬間、図書館がしんと静まりかえった。
パチュリーはぽかんと口を開けたまま、顔をうつむかせた咲夜のことをみつめている。普段はクールなメイド長の、パフスリーブに包まれた肩がふるふると震える。それを背中からみつめる阿求には、彼女が怒っているのか悲しんでいるのかはわからなかった。
けれど自分たちが、咲夜の触れてはいけないところに触れてしまったことだけはわかる。
たとえば自分にとって先代の記憶がそうであるように、咲夜にも触れられるだけで血が出てしまう箇所があるのだろう。
押し黙ってしまったパチュリーに、咲夜は震える声で云い放つ
「私が時を止められるというだけで、パチュリーさまは私を疑うんですね!」
――そこか。
そこが十六夜咲夜の逆鱗か。
「咲夜さん、ごめんなさい、あの……」
「あなたも? あなたもそう思ってるの阿求?」
「思って、ないです……思いたくないです」
阿求はそのときやっと、自分たちがなにをしているのかに気がついたのだ。安楽椅子に座るパチュリーと机上の論理を弄んでいたせいで、大事なひとに疑われるのがどんなことなのか忘れていた。
たしかに咲夜は阿求のことをよく知っていて、だからこそ鍵を盗むなら気づかれないよう元通りに置くだろう。けれど咲夜はあまりにも阿求のことを知りすぎていて、パチュリー同様阿求にとってあの蔵がどういう意味を持つかも知っていた。いつでも阿求の味方になるくらい、彼女に好意を寄せていた。
その咲夜を、阿求たちは疑ってしまったのだ。
ただ彼女が、時を止められるというだけで。
「咲夜さんじゃないです。咲夜さんは自分の能力を使ってひとを貶めるようなことはしません」
「そう? 信じてくれてありがとう。でもそこの魔女はそう思ってないようですけどね」
吐き捨てるようにそう云って、咲夜はパチュリーをにらみつけた。けれどパチュリーはぴくりとも動かず、反論も弁解もしようとはしなかった。
――どうして、なにも云おうとしないんだろう。
うつむいたままのパチュリーを眺め、阿求はずきずきと痛む胸をぎゅっと押さえた。
「いいですわ、当日のことをお話しします。三日前、二十五日の三時二十四分のことでしたよね、私が買い出しのために里までいったのは。いつもの大きな行李を担いでいきましたので、その中にいくらでも物を隠せたかもしれませんね。ああ、でも時を止めればなんでもできるから、そんなこと考えるだけ無駄なのでしょう」
「咲夜さん……いいです……もういいですから」
「……小麦粉と薄力粉、ニンジン五本とセロリ一束とほうれん草を一袋、ジャガイモ十個と鴨を二羽ほど買いました。それとそこの魔女がビワを食べたいとか云っていたのを思いだしたから、何件か回って買い足して。ついでにさくらんぼも買いました。そら、そこのチェリーパイに入っていますわよ」
空間を切り裂くように手を払う。テーブルに並んだときには美味しそうだったチェリーパイも、今はその鮮やかな赤がむなしく感じる。
なんだか泣きたくなってきた。
咲夜は本当に怒っているのだろう。
そうしてその怒りは理不尽なものではないのだろう。
たしかにただ時を止められるというだけで、なんでもかんでも容疑者扱いされていてはたまらない。産まれながらにこの能力をもっていた咲夜にとって、きっとこんな風に疑われることも一度や二度ではなかっただろうから。里の中で異能者として生きる阿求には、その気持ちが痛いほどわかってしまうのだ。
「紅魔館をでてから買い物を終えるまで、時を止めた私の主観で二時間。客観時間では十五分ほどでしょう。最近調子が悪そうだった阿求のことが心配になって稗田の屋敷に行ったのが三時四十五分。そうよね目占?」
「あ、ああ……いや、どうだろう。猫に正確な時間を聞かないでくれ。たしかにそろそろ日が傾いてくるかという時刻ではあったが」
「そう。でも阿求は覚えているでしょう?」
「はい。咲夜さんが本宅に現れたのは三時四十八分です。門から三分、妥当な時間でしょう。中身まではわかりませんが、たしかに重そうな行李をもっていました。お裾分けでビワをひとついただきました。瑞々しくて美味しかったです」
「それで一時間ほど話して、五時五分に退出したわ。寄り道せず時を止めて五時八分に紅魔館にもどりました。美鈴は一応起きていたけれど、どうせ時間なんて覚えていないでしょうね。ちなみに当日買ってきたもののリストはキッチンのメモにも残してあります。でもだからなんだという感じですわね。今こうして話している最中に時を止めて書いてきたかもしれませんしね」
「咲夜さん……あの、わたしは信じてますから」
「ありがとう阿求、嬉しいわ。でも私はそこの魔女に云ってるの。ずっといっしょにこの館で暮らしてきた、そこの魔女に云ってるの!」
叫んで、すっくと立ち上がる。
びくりと身をひく阿求を尻目に、つかつか歩いていってパチュリーの前に立つ。覆い被さるように身を寄せて、バンとサイドテーブルを激しく叩いた。
「なにかおっしゃってはどうですかパチュリー・ノーレッジ!! 本当に私を疑っているんですか!」
けれど魔女はうつむいたまま動かない。まるで石になったかのように押し黙り、ひたすら殻に閉じこもっている。
「パチェ……あの……」
怒りに満ちた咲夜の顔をみる。
誰とも視線を合わそうとしないパチュリーの顔をみる。
ふたりの顔の間で、阿求の胸は張り裂けそうだった。
パチュリーのことは世界で一番愛している。あの日コンプレックスまみれで紅魔館を訪れた阿求を受けいれ、劣等感を自尊心へと変えてくれた。素直じゃない部分は多々あれど、それらはすべて自分がもっている優しさをどう表現すればいいのかわからないだけだと知っている。優しいけれど不器用で、なんでもできるくせになんにもできなくて、自分が傍にいてあげないと不安で不安で仕方がない。まるで悪い魔法をかけられたのかと思うほど、阿求はパチュリーのことを愛していた。
けれど、咲夜のことも好きだった。
なんでもできる有能な女性。この紅魔館のみならず、自分自身すら完璧な規律で取り締まっている。その凜とした立ち姿、美しい身のこなし。心の底から憧れていた。パチュリーに惹かれるまま紅魔館を訪れだした阿求のことを受けいれ、もてなし、壊滅的なほど気の利かないパチュリーの代わりに様々なことに気を配ってくれた。
だからこそ、阿求にとっては意外なことだった。そんな咲夜が、これほど感情を顕わにして棘のある言葉を口にするなんて。
だがそうさせたのは自分だ。
直接的な言葉を投げたのはパチュリーだったけれど、彼女にその言葉を云わせたのは自分だ。傷ついたのは咲夜で、傷つけたのは自分なんだ。動かないパチュリーと歯を食いしばる咲夜を眺めながら、阿求は痛む胸をぎゅっと押さえた。
「――っ!! もういいですわ! この紫もやし!」
黙ったままのパチュリーに業を煮やしたように、咲夜は捨て台詞を吐いて図書館から出て行った。
「待って! 咲夜さん!!」
思わず叫んで立ち上がる。追いすがろうとした阿求の前で、ばたんと音を立てて扉が閉まった。
「阿求……」
振り返ると、慧音が困ったような顔で阿求のことをみつめていた。彼女もきっと戸惑っているだろう。ひととなりもよくわからないふたりが、突然目の前で喧嘩をはじめてしまったのだから。しかもそのうちのひとりは阿求の恋人ときている。さぞや居たたまれない気持ちだろう。
――けれど。
「ごめんなさい、わたし咲夜さんを追いかけます」
パチュリーと慧音両方に聞こえるようにそう云った。ここでパチュリーの肩を持ってしまうのは、私情を優先するようで嫌だった。
「ああ、行ってくるといい主。こちらは任せておけ」
慧音の膝に乗っていた目占が、ウィンクするようにひげを振る。本当に頼りになる猫だと阿求は思う。
「お願いね目占。……ごめんなさい」
最後の謝罪はパチュリーにむけた言葉だったけれど、恋人はその言葉が聞こえなかったように動かない。
そうして図書館をでたその瞬間、阿求を襲う眩暈はよりいっそう強くなったのだった。
* * *
咲夜の居所はすぐに知れた。
メイド長ご立腹の報はメイド妖精たちの間を駆けめぐり、廊下ですれ違った妖精たちはみな咲夜がどこへむかったか知っていた。どうやら時計塔の最上階、見張り部屋でたそがれているらしい。
「咲夜さん……?」
おぼつかない足取りで時計塔の梯子を登り、跳ねあげ戸を押し開ける。
見張り部屋は石材が剥きだしになった簡素な造りだ。申し訳程度に敷かれたカーペット、テーブルと椅子と小さな箪笥。四方の壁には素通しの窓が開けられていて、そこから霧の湖を見下ろせた。
窓枠に座って夕陽を眺めていた咲夜が、振りかえって阿求をにらむ。
「……どうしてきたのよ」
「心配でしたので」
阿求は床に身体を引き上げようと力を篭める。けれど気がついたら椅子の上に座らされていた。
「あ、ありがとうございます。便利ですね時を止める能力。でも大変じゃないですか、時間が止まってても、疲れたり重かったりするのは変わらないでしょう?」
「そんなことないわよ、あんたの体重なんて買い出し一回分の半分以下だもの。ちゃんと食べてるの?」
「あはは、食べてますよぉ。でもわたし、体質的におおきくなれないひとなので。多分全部脳にいっちゃうんでしょうねぇ」
「そう……」
つぶやいて、窓の外に視線をむける。その横顔を、沈みはじめた夕陽が血潮の色に染めていた。
そのままふたり、しばらくの間だまって夕陽を眺めていた。幻想郷の夕陽はいつだって血のように赤い。それはきっと、幻想郷に住む住人たちの『夕陽はドラマチックに赤いべきだ』という幻想によるものなのだろう。
やがて咲夜は根負けしたように溜息をつき、苦笑いを浮かべながらぽつりとつぶやく。
「……別に、あんなに怒るほどのことでもなかったかもしれない。ちょっとどうかしてたわ」
「いえ、そんなことないです。咲夜さんのお怒りは正当なものでしたよ」
「ありがとう。でも結局のところ誰かがやったことには変わりないでしょう? だったら誰がやれたかで考えるのは理にかなってる。……でもね」
抱えこんだ膝に頬を乗せて、切なげに瞳をうるませる。
「パチュリーさまやお嬢さまにだけは、あんな風に疑われたくなかった。特に、この能力のことではね」
「なんとなく、わかる気がします」
「あのふたりは、どこにも居場所がなかった私に住むところを作ってくれたから。人間の間では嫌われて恐れられるだけだったこの能力を、あっさり“便利ね”だなんておっしゃって……それだけで、すべてが救われた気がしたのよね」
「そっか……」
その気持ちは阿求にも痛いほどよくわかった。
咲夜がどのような地で産まれたかは知らないけれど、同じようなことは御阿礼の子もくぐり抜けてきたのだから。
咲夜や阿求のように異能の力を持つ存在は、いつだって人間社会では恐れられ、どこか周辺に追いやられるのが常だった。
その持っている力が強ければ強いほど、彼らを辺境に追いやる力は強くなる。いくら力を持っていること以外は普通なのだと叫んでも、その声は群衆が上げる恐怖の悲鳴にかき消されてしまう。
理屈ではないのだ。
感情なのだ。
一度その流れに捕らわれてしまえば、無限に逃げ続けるか無限に戦い続けるかしかない。
そうして戦い続けるには咲夜も阿求も優しすぎたから。
咲夜は吸血鬼の館で妖怪と暮らし、阿求は里の郊外で人間を守るための幻想郷縁起を書いている。
「あー、なんか恥ずかしいこと云ったわね……さっきのは忘れなさい阿求」
ぐしゃぐしゃと髪をかき分けながら、咲夜は恥ずかしげに目を伏せた。
「ふふ、ご冗談でしょう。わたしを誰だと思ってるんですか?」
「……求聞持、ね」
「正解です」
花のように笑って阿求は云う。咲夜は諦めたように溜息をつく。その背後で、潰れた黄身のような夕陽が山の稜線にかかっている。
「戻りましょうよ、咲夜さん。戻ってもう一度ちゃんと話しましょう。せっかくのチェリーパイ、まだ食べてないんですよぅ」
「ふふ、そうね、ちゃんと食べて欲しいわ。あれ自信作なのよ」
「わぁ、楽しみです」
ぱんと手を叩いて、阿求は椅子から立ち上がる。
――立ち上がろうとした。
けれどその瞬間、足下が消失したような浮遊感に襲われた。
「阿求!!」
視界が暗転して、がくんと腰から力が抜けていく。身体の中で、なにかがぐるりと反転している。胸の奥から、吐き気にも似た不快感がせり上がってきてぶわりと膨らむ。
石の床が目前に迫った刹那、阿求は咲夜の胸に抱き止められている。
けれど彼女はそんな一切を感じてなかった。
意識は混濁し、暗闇の中で想念が断片的に明滅していた。
――あぁ、これは。
その感覚に阿求は覚えがあった。それは阿礼のころからもう何度も繰りかえされてきたことだった。阿一も阿爾も阿未も阿余も、阿悟も阿夢も阿七も阿弥も、みなそれを通過してきた。
ここ数週間、阿求はずっと体調が悪かった。すぐにめまいを起こし、抵抗力が落ちて風邪を引き、少し歩いただけで息切れを起こした。
――だから、あの日阿礼の蔵にいったのだ。
それを迎えるにあたって、読まなければいけない本を読むために。時がきたら開くようにと伝えられてきた、一冊の本を読むために。
それは幻想郷の閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥが記した転生に関する技法書だ。
魂を消失させず、次代に記憶と能力を受け継ぐための転生の儀式。その詳細が書かれた秘中の秘、阿求すら今まで目を通したことがなかった秘術書だ。
――けれどそれは、棚になかった。
秘術書は、阿求が残した大量の書きつけと共に失われていた。だから阿求はなにがなんでもこの事件の犯人をみつけなければいけなかったのだ。失われた秘術書を取り戻すために。
それを今まで秘密にしていたのは、云っても仕方がないことだと思っていたからだ。そんな話は聞かされたほうもたまったものではないだろう。どうせ犯人がわかれば本も戻ってくるのだからと、阿求はずっとその話題を避けてきた。
――自分が、近く死をむかえるということを。
膨れあがった死の波動が、はち切れんばかりに頭の中を満たしていった。身体感覚がひとつひとつ失せていき、暗闇の中ですでに生きているのか死んでいるのかわからなかった。
けれど阿求の求聞持の記憶は、その暗闇にひとつの映像を浮かび上がらせる。
――パチュリー・ノーレッジ。
図書館を出ようとしたときの、あのふてくされたような顔。
あんなやりとりを最後に自分が死んだら、きっとあの不器用な魔女は壊れてしまうだろう。
そう思ったら、なにがなんでも死ねなくなった。
§5
ぼんやりと、意識が浮かび上がっていく。
目を開くと、視界にあるのは見おぼえがない天井だった。自宅の天井の木目なら、すべての部屋のものを覚えている。自分の寝室、来客用の寝室、書斎、居間、客間、仏間。
だが、目の前にある天井はそのどれとも違っていた。
「あ、気がついた?」
枕元から華やいだ声が聞こえてきて、阿求はそちらに視線をむける。にまにまと笑うような猫口、なにを考えているのかわからない垂れ目。桜色のワンピースに身を包んだ因幡てゐが、あぐらを掻きながらお手玉をして遊んでいた。
「……てゐさん? それじゃここは永遠亭……?」
「そうだよぅ。あ、こら、まだ起きちゃ駄目だって」
てゐは身体を起こそうとした阿求を慌てて止める。けれど云われなくとも手足に力が入らず、上体を起こすことすらできなかった。
諦めて、柔らかい布団にぼふんと身体を横たえる。
どこか部屋の外から、鹿威しが鳴るかこんという音が聞こえてきた。
「ま、でも助かってラッキーだったね。目を覚ましたらもう大丈夫だって師匠が云ってた。ちょっと呼んでくるから動いちゃだめよ」
放り投げたお手玉をそのままポケットで受け止めて、てゐは部屋をでていった。取り残された阿求は「ラッキー」とつぶやき、幸せ兎が残していったあえかな香りをすんと嗅ぐ。
生きているのだ、と思う。
身体に力は入らないし頭はひどく重いけど、それでも自分は生きている。布団の重み、手足の感触、じーじーと聞こえる蝉時雨。それを感じられる喜びに、阿求はしみじみと息をはく。
それにしても、自分はいったいどういう経緯でここにいるのだろう。紅魔館で咲夜と話していたことは覚えている。してみると運んでくれたのは彼女だろうか。時間のほうはどれくらい経っているのだろう。障子越しの外は明るいから、少なくとも半日以上は眠っていたはずだ。
「あら、思ったより元気そうね」
がらりと障子を開けて、八意永琳が部屋に入ってくる。手には薬袋とコップが乗った盆をもち、後ろに鈴仙・優曇華院・イナバを従えていた。
「あ、はい。ごめんなさい、わたし……」
「謝るくらいなら、もう少し早くここにくるべきだったわ、稗田阿求。自分の体調のことくらいわかっていたはずでしょう」
「あはは、実は前からそうしようかと考えていたんですけど、思わぬ用事ができてしまいまして……」
「ふん、患者はみんなそう云うのよ」
そんなことを云いながら、永琳は手際よく阿求の様子を診ていった。脈を取り、口の中を覗いて、なにやら不思議な機械を耳と丹田に押しあてる。機械の横に表示された数値をみて、永琳は難しそうな顔をした。
「ど、どうなんでしょう……?」
「ん、とりあえず大丈夫よ。でもとりあえずが過ぎれば大丈夫じゃない。それはあなた自身もわかっているんでしょう?」
「ええ、まぁ……」
苦笑する阿求に、永琳は溜息をもらす。
さすがに月の頭脳と云ったところだろうか、阿求の身体の状態も永琳には筒抜けのようだ。とりあえずこれを飲みなさいと云われて、薬袋に入った丸薬を差しだされた。コップの水で飲んだらひどく苦い。涙目になった阿求に、永琳はニタリと嫌らしい笑みを浮かべた。
「一応あなたの状態と今飲んだ薬の説明をするわね」
「は、はい……」
「あなたの場合、身体そのものは少し発育不良なだけで、そんなに不健康というわけじゃないの。問題は求聞持の能力ね。その無限に増えていく記憶を維持するために、大量の魔力が使われている。そうして人間のあなたの身体では、その魔力を維持しきれていないのよ」
「はぁ……それはなんとなくわかります」
阿求も求聞持として生きて長いのだ。記憶のすべては受け継がなくても、ある程度自分自身のことは覚えている。でも身体が発育不良だというのは余計だと思う。
「そう? なら話が早いわ。あなたにその魔力を供給しているのは細胞の中の小器官なのだけれど、彼らの活動が弱まっていたのね。今飲んだのはそれを一時的に活性化させる薬。とりあえずこれで当座はしのげるでしょう。毎日三回、食後に一錠ずつ飲むことね」
「う……わかりました……」
あれを食後に飲まないといけないなんてぞっとする。料理の後味も全部吹き飛んでしまいそうでいやだった。そんな阿求の躊躇を感じ取ったのか、永琳はまたニヤリと口角を上げる。
――もしかしてこのひと、楽しんでるんじゃなかろうか。
そういった疑念をどうしてもぬぐえないのは、彼女が笑うたび背後の鈴仙が怯えた表情をするからだ。
「あ、それと、これは生活習慣に関する忠告よ」
「はい。なんでしょう」
「これからはできるだけ周囲に魔力が満ちた空間にいることね。その細胞内小器官は大気中の魔力を吸うものだから。少しは寿命を延ばす効果があるわ」
「あ、そうなんですか。それは気がつきませんでした」
「ええ、たとえば彼岸の結界に守られた清浄な蔵なんて、もっとも身体に悪い場所だわ。稗田の家は人里よりは随分ましだけれど、それでも十分とは云えない。一番いいのは力ある妖怪のそばにいることよ」
「はぁ……力ある妖怪?」
「そう。覚えがないかしら? 誰か妖怪が近くにいると調子が戻って、離れると悪くなるようなことがあったと思うけれど」
「……あっ!」
云われてはじめて気がついた。
たしかにあの事件が起きた次の日、朝から悪かった調子も慧音がきた途端によくなったことがあった。そもそも急に倒れるくらい悪化したのだって、永琳が云う通り阿礼の蔵で一晩すごしてからなのだ。
紅魔館で倒れる直前もそうだ。
パチュリーと話しているうちに体調が戻ってきたというのも、別に甘言のつもりじゃなかった。けれど図書館をでた途端に眩暈がひどくなって、レミリアや妖精たちから離れた時計塔の上で、ついに意識を失ってしまったのだ。
「それ……人間じゃだめなんですか?」
「いくら力ある存在でも、人間はちょっと系統が違うわね。特に魔女なんかが最適よ。あれらは魔力がだだ漏れだもの」
そう云って、永琳は膝に手をついて立ち上がる。
「えぇと……魔女?」
上目遣いに問いかけた。思わず頬が赤くなる。はたしてこの医者はわかって云っているのか、それともたまたまなのかどっちだろう。
そんな阿求に、永琳はニヤリといやらしい笑顔を浮かべる。どうやら前者のほうらしい。
「それじゃ、あとお願いねウドンゲ」
「はい、わかりました師匠!」
部屋をでていく永琳に答えて、鈴仙は寺子屋の子どもみたいに手を挙げた。鼻歌を歌いながら薬缶のお湯をタライに注ぎ、タオルを浸して絞っている。
「あら、なにかなさるんですか?」
「ええ! 身体を拭きますので、脱いでください!」
「えっ!」
満面の笑みを浮かべた兎に、阿求は思わず襦袢の襟元を押さえる。元々女の子が好きな阿求としては、女性に裸を見られることには少し抵抗があるのだった。
「だ、大丈夫ですっ、自分で拭けますから!」
「でもさっきまで起き上がることもできなかったじゃないですか。さあっ! 遠慮なさらずっ!」
「遠慮なんてしてません! ほら、お薬のおかげでもう随分元気です!」
叫びながら、しきりに襟に伸びてくる手を払いのけた。実際その言葉は強がりでもなく、薬のおかげか鈴仙の魔力のおかげか、ほぼ倒れる前の体調を取り戻していた。
「うぅ……そんなこと仰られても、師匠にそうしろって云われたんですもん……」
鈴仙はウサギ耳をへにょりと曲げて涙ぐむ。どうしてそこまで永琳の云うとおりにしたいのかと、阿求は心の中で疑問に思った。
「自分でできますから大丈夫ですって。永琳さんにもそう仰っていただければいいんじゃないですか?」
「……でも、縛るんです」
「え?」
「師匠、私が云いつけ通りにできないと、縛るんですよぉぉ!」
「しばっ!」
思わずよこしまな想像をする阿求だった。はたして縛る目的はなんだろう。
いやなんだろうもなにも、お仕置き以外にないじゃないか、なにを考えてるんだろう自分。そんな身動きできない状態で放置されたりつるされたりして、お仕置き以外のどんな目的が考えられるというのだろう。
「隙ありっ!」
「きゃーっ! ちょ、ちょっと!」
油断している隙に襲いかかられた。
元々相手は妖怪でこちらは人間、本気をだされたら敵うはずもない。阿求はあっというまに襦袢をはがされ、布団で前を隠しながらうずくまる。湯文字一枚になった下半身がすーすーと心許ない。血走った兎の真っ赤な瞳が怖かった。
「お、おとなしくしててください……できるだけ優しくしますから……」
「は、はい……えぇと……はい……?」
鼻息を荒くする鈴仙に、首肯しながらも思わず布団をかきあげた。
なんでわざわざ優しくするなんて云うんだろう。身体を拭くだけだったら優しいも優しくないもないはずだ。わざわざそんなことを云うってことは、優しくできない可能性がある行為をするつもりなのだろうか。
元々寝起きの頭で混乱していた阿求は、つい思い切り叫んでしまった。
「助けてパチェ!!」
「――阿求!!」
その瞬間、がらりと障子が開いて、聞き覚えがある声が降ってきた。
それはいままで一度も聞いたことがないほど大きな声。ふだん小声でぼそぼそ喋るところからは想像できないほど大きくて、けれど聞いた途端彼女のものとわかる、鈴のように綺麗な声。
「パチェ……」
パチュリー・ノーレッジが、憤怒の形相で立っていた。
「なにやってんのあんた!! 私の阿求になにやってんの!!」
きっと鈴仙をにらみつけて呪文をつぶやく。ぶわりと髪の毛が膨らむと同時に、全身から日輪の弾幕が湧きだした。日符『ロイヤルフレア』。パチュリーの代名詞ともなっているスペルカードだ。
「な、なにって……なによこの弾幕!」
悲鳴をあげながらも、鈴仙は襲いくる弾幕をぎりぎりのところで回避していった。さすがに歴戦の月の兵、不意打ちであっても身体が反応するようだ。危ういグレイズを続けながらも波をかわして切り返す。そのままでは避けきれなくなると判断したのだろう、障子を蹴倒して部屋の外へ逃げ出した。
「逃がさない!」
飛び立つ鈴仙を追って、パチュリーも庭園の上を飛んでいく。植え込みの枝振り一本一本まで気が配られた日本庭園は、永遠亭の止まった時の中で悠然とたたずんでいた。
――わぁ、どっちが勝つんだろう。
すっかり襦袢を着直した阿求は、布団の中からひとごとのように弾幕戦を見上げていた。
太陽にも負けないくらいに輝く『ロイヤルフレア』の弾幕と、『幻朧月睨《ルナティックレッドアイズ》』の弾丸状高速放射弾。一瞬戸惑ったようにみえたパチュリーも、二度みただけでパターンを見切り、弾幕の迷路をかいくぐって接近していった。
みればいつのまにか庭園のあちこちから兎たちが顔をだし、囃したてながら頭上の弾幕戦を観戦している。てゐも灯籠の上にあぐらを掻いて座り、にやにや笑って空のふたりを見上げている。
やがてかわしきれなくなったようで、鈴仙は連続被弾して落ちていく。負けたのは味方のはずなのに、なぜか地上からはやんやの喝采があがっていた。
――なんか、誤解だった気がするけどいいのかな。
心の中で鈴仙に謝りながらも、阿求は全速力で戻ってくる魔女の姿を見つめていた。
§6
「――ええっ、わたし三日も寝こんでいたんですか?」
病室でパチュリーに髪を洗ってもらいながら、阿求は驚きの声をあげた。
「そうよ、心配したんだから、ばか……」
甘えた口ぶりでそう云って、パチュリーは軽くくちびるを尖らせる。高ぶる感情を抑えられなかったのか、髪の中の指にぎゅっと力が入った。阿求は高い枕に乗せた首をそらし、視界の中で逆さまになった恋人の顔を仰ぎ見る。
今にも泣きだしそうな顔だった。
「ごめんなさい……」
「ふん、わかればいいのよわかれば」
うっすらと微笑み、パチュリーは上体をかがめて顔を近づけてくる。
そっと瞳を閉じると、くちびるにとても柔らかいものが触れられた。
せっかくだから、この状況を利用して最大限甘えてやろうと阿求は思う。こんなときぐらいしか、この照れ屋の魔女が素直になってくれることはないのだから。
縁側で、パチュリーに髪を乾かしてもらった。
背後に座ったパチュリーの手に魔法陣が浮かんでいて、そこから暖かい風がごうごうと吹きだしてくる。魔法って便利だなと思いながら、指先が頭皮をなでる感触を存分に味わった。
雲一つない青空を眺めながら、ぼんやりとつぶやく。
「……咲夜さんは、犯人じゃないですよね」
「そうね、あの子は違う。……悪いことを云ったと思っているわ」
「大丈夫ですか? その、そっちのほうは」
「ええ、心配しないで。ちゃんと謝っておいたから」
「へぇ、パチェが? なんて云って謝ったんです?」
にやにや笑いながら振りむくと、額にデコピンが振ってきた。
「痛い……」
「絶対云わないから、詮索するだけ無駄よ」
「ちぇ、けちですねぇ」
口を尖らせながら、臆面もなく晴れ上がった空を見上げる。
天狗なのか鳥なのかわからない影が、お日様の中を横切っていくのがみえた。
聞けばパチュリーはこの三日、ずっと永遠亭につめていたらしい。可能なかぎり紅魔館の図書館から動こうとしない彼女としては、とても珍しいことだった。
永琳があんなあてこすりを云った理由もうなずけた。医者から阿求の症状を聞かされたパチュリーは、ずっと枕元で彼女の寝顔を眺めていたらしい。少し出かける用事があっててゐに代わってもらったとき、たまたま阿求が目覚めたということだ。
「これからは、ずっと私がそばにいるわ、阿求……」
「へ……?」
震える声に振りむこうとすると、頭に手を掛けられて無理矢理前をむかされた。首がぐきりと痛んだけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。
「そばにいるってパチェ……それって……」
「だ、だって仕方ないでしょう。私がいてあげないと、あなたまた倒れるかもしれないんじゃない。もうあんな思いは二度としたくないのよ」
背中からぎゅっと抱きしめられた。
その日もひどく暑い一日で、庭園のむこうの竹林からは、今日を盛りと鳴く蝉たちの大合唱が聞こえている。中天にかかる太陽はじりじりと地表を灼き、阿求の腋の下をたらりと汗がしたたり落ちていく。
けれど、暑苦しいなんて少しも思わなかった。
もっともっと抱きついていて欲しかった。
「パチェ……」
「もちろん、あなたさえよければの話だけれど……」
「うん……わたしも、ずっとあなたのそばにいたいです」
ずっと云いたくて云えなかった思いを口にしたら、思わず涙ぐんでしまった。
本当に自分でいいのかとか、別れるときに一層辛くなるんじゃないかとか、聞き返したいことはたくさんあった。けれどパチュリーへの思いで胸が一杯になってしまって、なにも云うことができなくなった。それらの言葉は涙になって、目尻のふちからぽろりとこぼれた。
「阿求……」
ささやきと共に、その涙を指ですくわれる。パチュリーが頬をよせてきて、阿求も口づけをかわすために横をむく。
魔女の桔梗色の瞳がうるんでいる。
白磁の頬が、羞恥の色に染まっている。
そのむこうに、カメラを構える射命丸文がいる。
それに気がついた瞬間、阿求はぶーと盛大に噴きだした。
「……あ、阿求?」
「パ、パパパパチェ! 後ろ後ろ!」
無理矢理頭をつかんで振りかえらせた。なんか首のあたりから不吉な音が聞こえたけれど、大事の前の小事だと思った。なんといってもパチュリーは、一世一代の告白をしたあと当の相手に吹き出されたのだ。変に誤解されたら羞恥と憤怒で悶死しかねないと思った。
振りかえったパチュリーは、文と見つめ合ったまま人形のように動かない。
その直後、文の全身に大量のナイフが生えた。
次の瞬間、綺麗さっぱり消え失せた。
なにやら廊下の角のむこうから、どたばたと騒がしいわめき声が聞こえてくる。なんだか聞き覚えがある声だった。
「ちょっと、なんであれが飛び出すのを止められなかったのよ咲夜!」
「処理が遅れてもうしわけありませんお嬢さま、まさかあそこまで無粋な行動にでるとは……」
「いやー、ロマンチックだったね! どきどきしたね鈴仙っ!」
「今別の意味で心臓がばくばく云ってるわよ! だからのぞき見なんて止めようって云ったのにっ!」
気がついたら、パチュリーもその場にいなかった。
その後起こった大騒動のことを、阿求は忘れることにした。
無理だったけれど。
§7
その後永遠亭が元通りになるまで、実に一週間がかかった。
ただ単に紅魔館の当主と魔女の内紛であったなら、それほどの被害がでることもなかっただろう。
だが意識を取り戻した山の天狗と、その姿を写真に収めようと飛んできたもうひとりの新聞記者との醜い争い。永遠亭から火の手が上がるのをみて殴りこんできた蓬莱人と、生き生きした顔で飛びだしていった月の姫との殺し合いが、抗争の炎にニトログリセリンを注いだ。
それはひどい戦争だった。
たくさんの兎が毛皮を焼かれ、ふたりの不死人がたくさん死んだ。メイドの裏切りと月の頭脳の暗躍があった。戦闘マシーンと化した鈴仙が阿求の涙で我を取り戻したこともあった。因幡てゐが勝敗予想の胴元として大量の金子をかせいだ。
けれどそれらのできごとが、幻想郷の正史に記されることは決してない。
阿求が忘れちゃいましたと可愛く舌をだして、上白沢慧音がテストの採点で忙しかったからだ。
「――で、なんで私たちはこんなところに集められているんでしょう?」
永遠亭の奥まった場所にある一室で、射命丸文は興味深そうに天狗帖を取り出した。
部屋には彼女のほかにも何人かの人妖が集まっていた。永遠亭の因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバ。パチュリー・ノーレッジと黒猫の目占。テストの採点が終わった上白沢慧音。それにもちろん稗田阿求。
文もパチュリーも、怒り心頭に発した永琳の恫喝によって、今まで永遠亭復旧のために駆りだされていたのだ。そうでなくてはあれほどの打撃を受けた永遠亭が一週間で復旧するはずがない。
もっとも、文と違ってパチュリーは頼まれなくともこの場に居着いていただろう。なんと云ってもそばにいると誓った阿求が、医者の命で永遠亭に留まっていたのだから。さらに云うなら、魔女自身は阿求の部屋でずっと本を読んでいただけで、基本的にほとんど咲夜が働いた。
文と咲夜、それに鈴仙の不眠不休の努力によって復旧は完了し、力を出し尽くしてふらふら帰っていった咲夜を見送ったあと、阿求は山に戻ろうとした文を引き留めてこの会合を開いたのだった。
「文さんも鈴仙さんたちも、とりあえずわたしの話を聞いてください。文さんにとってもこれは役に立つ話だと思いますし」
「ほう?」
文がきらりと瞳を輝かせ、天狗帖に何ごとかを書き込んだ。てゐは畳に寝っ転がって足をぱたぱたさせている。鈴仙は夏だというのに長袖ブラウスを着ていて、なぜかしきりに手首の辺りを気にしていた。
やがて阿求の長い話も終わり、文は天狗帖をぱらぱらめくりながらつぶやく。
「なるほどなるほど。稗田の聖域、奪われた鍵の謎、消えた秘術書。うん、中々面白そうな要素そろってますねぇ」
「それはどうも。協力していただけるなら記事にされても構いませんよ。無事に解決されて、書けるような内容だったらですけれど」
「うーん……そうですねぇ、たしかに面白い話ではあるなぁ……」
「あれ? あんまり気が進まない感じですか?」
実際阿求は、記事に書く許可を与える代わりに、色々な事情を聞きだそうと思っていたのだ。もっと食いついてくるかと思ったら気が乗らなそうな様子で、少し当てがはずれた。
これはもしかしたら、文自身になにか含むところがあるということだろうか。もし彼女が犯人だったなら、自分が行った犯行を記事にするはずがないだろう。けれどそう思った矢先に、文はあっさりと云った。
「いやね。普段でしたら万々歳で飛びつくんですが、次回はもう求聞持と魔女の一大ラブロマンスで書くことに決まってますからねぇ。稗田家でなにやら怪しいことが起きたなんて情報があると、本筋がぼやけるじゃないですか」
「一大ラブ……」
「ほぉら、こんないい写真も撮れましたし」
そう云って、文は手帳から一枚の写真を取り出した。
それはあの日縁側で撮った写真だった。
瞳を潤ませたパチュリーが、宝物を扱うような仕草で阿求を抱きよせ、今にも口づけようかという写真。その上気した頬といい、信頼しきった様子ですっかり身体をまかせる阿求といい、たしかに見るものに一大ラブロマンスを感じさせる写真だろう。
「――そ、それを返しなさい天狗!!」
その瞬間隣からもの凄い魔力が放射されて、阿求はちょっと元気になった。
「抑えて! 抑えてください! せっかく直ったばっかりなのに!」
泣いてすがりつく鈴仙を足蹴にして、パチュリーは髪を逆立てながら呪文を唱える。そんな恋人の手に手を触れて、阿求はそっとささやいた。
「パチュリーさん、今はやめておきませんか」
「阿求?……まぁ、あなたがそう云うのなら」
あっさりと矛を収め、魔女はぽふんと安楽椅子に座りこむ。
つんと顔を反らす恋人に微笑みかけ、再び文とむきなおる阿求。床に倒れ込んだ鈴仙の手首に、縄で縛ったような跡があることには気づかなかったふりをした。
「ね、ねぇ文さん。その写真を使って記事を書いてもいいですから、こちらの事件にご協力願えませんか?」
「あら? 珍しく聞き分けがいいですねぇ。どうせまた『事件があった事実は事実。事実をありのまま報道するべきです』とかぷんすかすると思ったのに」
「わ、わかっているのなら……」
反駁したくなる気持ちをぐっと抑える。ここで文から言質をとることがどうしても必要だった。
「ふふん♪ まぁいいです、協力しましょう。使いづらくてもネタがあるにこしたことはないですしね」
「まぁあ、それはそれはありがとうございます」
眉間に青筋を立てながら正座する。目占がとことことやってきて、その膝の上にちょこんと座った。気持ちよさそうに目を細める忠臣の頭をなでながら、阿求は文にむけて語っていった。
「――では。文さんが我が家にこられたのは、水無月二十六日、事件が発覚する三日前の払暁のことでした。四時三十八分でしたね。客間の縁側で朝焼けが奇麗だなぁとながめていたら、その太陽の中を飛んでこられたので、はっきり覚えています」
「はぁ? なんで私の話を?……でもまぁ、たしかに二十六日の明け方は阿求さんのところにいきましたね。うん、あの日の朝焼けは本当に怖いくらいにきれいでした。ついでに上空から眺めたあなたは芥子粒のようで、今にも朝焼けに溶けてしまいそうでしたよ」
「あら、詩的な表現をありがとうございます」
ころころと笑って、膝の目占と目を合わせる。時刻の確認をしたのだろう、猫はこくんとうなずいた。
* * *
その日文が稗田邸を訪れたのは、いつものごとく阿求に訊ねたいことがあったかららしい。
「――はぁ? 過去に敷地ごと幻想郷にやってきた例がどれくらいあるか、ですか?」
「ええそうなんですよ。あなたなら知っているでしょう? あの蔵の中身全部覚えてるんだから」
庭に生えた唐松の枝に座り、文はちらりと阿礼の蔵に視線を投げかける。そんな高いところにいられると首が疲れて仕方がない。
「いや、全部読んでいるわけじゃないですよ。直近の先代分は読んでいますが、他は読んでいないものもあります。九代分の人生すべて読んでいたらわたしの人生が終わってしまいますからねぇ」
「あらそうなんですか。はは、好きなことも満足にできないなんて不憫な人生ですねぇ。そんな蝉みたいに生きて死んで生きて死んで、むなしくないですか」
けらけらと笑う鴉天狗に、阿求はむっと口を尖らせた。軒下に止まっていた蝉が、鳴くのをやめてさっと飛び立つ。
「放っておいてください。わたしもあの蝉も、これで結構満足してるんですから」
「ふん、とっととこっち側きちゃえばいいのに」
ぷいと横をむいた文のすべらかな頬に、松の枝葉が緑色の影を落としていた。輝く太陽は地平線のくびきを逃れ、青い空の中を少しずつ少しずつ昇ってくる。その日もまた、ひどく暑くなりそうな一日だった。さわさわと穏やかな風が吹いていることだけが救いだと阿求は思った。
「で、なんですか敷地ごと幻想郷にやってきたというのは。紅魔館みたいなことですか?」
「そうですそうです。どれぐらいの力があればあんなことできるのかさっぱりでして。わたしゃ外の世界のことはよくわかんないんですよぅ」
文はそう云って、メモを取る鉛筆でこめかみをぽりりと掻いた。
阿求は記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。
「うーん……ぱっと思いつく限りでは、湖の畔の森の中に騒霊の館がありますよね。紅魔館とは規模が違えど、あれも似たような感じでしょう」
「ああ、騒霊楽団の。たしかにそうですねぇ」
「他にも里の外れに住み着いている果心居士は寺ごとやってきたそうです。それに沢の近くの泥田坊なんかも田んぼを引き連れてきたようですが……このあたりは少し違うかな?」
「と云うと?」
「いえね、泥田坊なんかは田んぼに依存する妖怪ですから、そもそも田んぼがなければ存在できません。だから幻想郷に入ってくるときに周囲の環境も引き連れてくるだけで、紅魔館や果心居士のように必要ないものまでもってくるのとは違うかなと。ああ、でもそう考えると騒霊の館も似たようなものでしょうか。屋敷の中を騒がせてこその騒霊ですしねぇ」
「なるほど、色々難しいんですね。それで、紅魔館の場合はどうやって移転させたかご存じですか?」
「えぇと、詳しい技術的なことはわかりませんけど、パ……魔女さんがなにやら凄い儀式を行ったらしいですよ」
顔を赤らめた阿求に、文はにやりと口元を歪ませた。
「ふーん、魔女さん、ねぇ?」
「な、なんですかー!}
「いえいえ。しかしそうなると、やはり必要ないものまでもってくるのはかなりの力がないとできないということでしょうか」
「そうですねぇ、そうだと思いますよ。果心居士にしたって高名な幻術師ですしね」
「では――湖をひとつもってくるというのはどうですか?」
「――は?」
阿求はぽかんと口を開ける。そんな彼女を眺めて、文は困ったように眉をよせた。
「妖怪の山の山頂近くに、突然霧の湖に匹敵するほど巨大な湖ができたんです。そうしてそのほとりには神社が一軒建っている。そんな事例に心当たりはありますか?」
「そんな――そんなの聞いたことありません。それほど巨大な幻想入りは……」
ざわと風が吹いて、阿求の火照った肌をなでていく。
舞い落ちる木の葉をくるくると風で弄びながら、文は難しそうな顔で唸っている。この天狗のこんな真剣な顔を、阿求ははじめてみたように思う。
「そうですか……いや参考になりました。どうもこれは一波乱ありそうで」
「いえ、お役に立てたらいいのですが」
そう云って樹上を見上げれば、すでに文の姿はそこになかった。
気がつけば、さっきまで吹いていた風がぴたりと止んでいる。
――ああ、あのひとが風を起こしてくれていたのか。
途端に押しよせてくる熱気の中で、たまにはあのひとの新聞も読んでやろうと阿求は思った。
後にこの神社を調査するために博麗霊夢が山を登るのだが、それはまた別の話となる。
* * *
「――と、こういうことがあった次第です」
阿求が話し終えると、場が一瞬静寂に包まれる。そんな中、口惜しそうに口を尖らせる文の姿があった。
「……なるほど、ようするに私も容疑者だということですか。てっきり探偵役として意見を聞かれるのかと思ってましたよ」
「いえ、そういうわけじゃないんです。ただひとつひとつ可能性を潰しているだけなんですよ」
「同じようなもんじゃないですか。随分しつこく協力の言質をとろうとしてると思ったら……ふん、してやられましたね」
文はぷいと横をむいたが、それ以上暴れるような様子はみせなかった。どうやら憎まれ口を叩くだけで収めてくれたらしいと、阿求はほっと胸をなでおろす。
「しかしまぁ、さきほどの話からすると射命丸さんは容疑者から外してもいいんじゃないか? 少し話をしただけで帰っていったようだが」
慧音の言葉に、文は我が意を得たりというようにうなずいた。
もしかしたらこれも演技だろうかと阿求は思う。もし彼女が犯人だったなら、さきほどの悔しそうな態度も含めて全部演技だということになる。
あの日、暑そうにしている阿求を見かねたのか、素知らぬ顔で風を起こしてくれていた。日頃から意見が対立しがちな論敵ではあるけれど、本気で自分を騙そうとしてくるとは思えない。
――だが。
「それが、帰ってはいなかったのですよ、慧音先生」
「なに?」
阿求の言葉に、慧音は大げさに目を見開く。
「目占、喋っちゃっていいよ」
頭にぽんと手を乗せると、膝の上の目占は流暢な人間語で語りはじめた。
「単純なことだ。そこの鴉天狗の霊力は、いったん敷地内から離れたあと、また戻ってきてしばらくの間とどまっていたのだ」
「――なっ! なによこの猫はっ!」
「目占だが?」
「名前を聞いたわけじゃない! 化猫だったんですかこいつ」
「ええ、正確には化けはじめ猫ですけどね。この子は稗田の家を出入りする霊気を監視してくれているんです。で、目占の話を聞いてほかの猫にも当たってみたんですが、とある子が蔵のあたりで文さんをみかけたっていうんですよ。それで間違いないですか文さん?」
「はぁ……今日はなんか厄日ね。この私ともあろうものが……」
文はどっかとあぐらをかいて、膝に立てた手で頬杖をついた。
ちくりと痛む胸を押さえるように、阿求は目占をぎゅっと抱きしめる。疑いたくて疑っているわけじゃない。ただ真実を知りたいだけだった。
「まぁね、たしかにあの日、蔵に侵入しようとしたんですよ私は」
その言葉に、場の一同がざわめいた。
てゐだけはなんか庭で遊んでいた。
「侵入しようとした、ということは侵入することはできなかったということですか?」
「ええ、その通りです。別に信じてくれなくても構いやしませんがね」
「いえ、信じますよ。一体どういう理由でそんなことをしたんです?」
文はぼりぼりと頭を掻いて立ち上がる。
畳を横切って縁側の障子を開けると、広がる日本式庭園を見下ろした。
輝夜の能力で時が止まった池泉回遊式庭園。そこには景観で見立てる必要もない永遠と須臾が、そこかしこに溢れている。
そのまま逃げられる可能性を考えたのだろう、パチュリーが椅子から腰を浮かしてブンと魔導書を取りよせる。だがそれ以上なにをするでもなく、どこか哀愁ただよう文の背中をみつめていた。
やがて天狗は、ぽつりと云った。
「――思いだしたんですよ。あなたが以前云った言葉をね」
「……わたしが?」
「いいえ、あなたではありません」
「はい?」
「あなたではないあなたです。あなたそっくりの顔をして、あなたと同じ小生意気なことばかり口にして、あなたと同じくらいちっぽけで、あっという間に私の前から消えていったあなたです」
その言葉で、阿求も文がなにを云っているのか呑みこめた。
「誰ですか? どのわたしのことですか?」
「阿弥です阿弥。いえ私じゃないです、阿弥ですよ? って、あやややや、これじゃなんだかわかりません。よくまぎらわしいって云い合ったもんでした」
「ふふ、実はわたしもそう思っていました」
「ふん、残酷ですよあなたは。同じ顔して同じようなこと云う癖に、以前のことは奇麗さっぱり忘れてるんですから」
「……文さん……」
その言葉が胸の奥に突き刺さり、痛みをもって響いてくる。
死ぬということ、忘れるということ、変わるということ。
けれど常に存在し続けてきたということ。
それらは御阿礼の子にとって悲しみでありまた寂しさであったが、周囲の他者にとってもまた同じ悲しみであったのだ。同じ顔をして同じ魂をもっていても、以前の求聞持とは違う存在。長じるにつれ容姿が似通ってくればくるほど、勘違いする、期待する。
――死んでしまったあの子が、また自分の前にやってきてくれたんじゃないかと。
けれど実際話してみれば、以前とは違う人間なのだとすぐわかる。昔かわした会話を覚えていない。一緒にすごした日々の記憶を持っていない。かつて自分に対してむけてくれていた親しさを、新しい求聞持が分け与えてくれることはない。
それで阿求は思い出す。文が御阿礼神事の記事に阿弥の写真を使いたがったのは、見栄えを考えただけじゃなかったかもしれない。
「誤解しないでくださいね。別に好き合っていたわけじゃない。ただ天狗の撹乱というかなんというか、名前が似てるからちょっと気を許してしまっただけなんです」
「はい。それほどの関係でしたら、阿弥もわたしのためにそのことを書き残したでしょうしね」
「ふん、なれなれしく呼び捨てにしないでくださいよ」
「文さんのことじゃないです、稗田阿弥です稗田阿弥! ああ、もう本当紛らわしい……」
おどけるようにそんなことを云ったけれど、本当は少し泣きたくなっていた。これからも自分はずっとこんなことを続けていくんだと思うと、唐突に全部終わらせてしまいたくなってくる。
もう転生の儀式を行うことなく、ただの人間として死ねばいい。
それは今日のこのときはじめて感じた思いではない。以前から何度も考えてきたことだ。
けれどそのとき、隣から伸びてきたパチュリーの手が、ぎゅっと阿求の手を握る。慈しむように、元気づけるように、私がここにいるとでもいうように。
そうしてそれだけで、阿求の中に巣くっていた諦観は綺麗さっぱり消え失せてしまうのだ。
転生してたとえなにもかも忘れ去ってしまっても、このひとはきっとこの幻想郷で自分を待ってくれているだろう。だってずっと傍にいると約束してくれたから。
きっと真っ赤になっているだろう顔にふりむかず、正面をむいたままぎゅっとその手を握りかえす。目をつぶって呼吸を整え、文の背中に語りかけた。
「それで、わたしがなにを云ったんでしょうか。文さんはどうして蔵に入ろうとしたんでしょう?」
阿求に背中をむけたまま、天狗はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「いえね。あなたと話していて思いだしたんですよ。昔阿弥が『妖怪の山は元々この地にあったものじゃないんじゃないか』って云ってたことをね」
「妖怪の山が……?」
「ええ。なんでもそういう記述を、阿礼の書きつけの中にみつけたそうで。どうやら阿礼はあの妖怪の山自体、四天王の方々がなんかの秘術でどっか中央からもってきたと推測していたようですよ」
「はぁ……じゃあもしかして、その阿礼の書きつけを探そうとして?」
「そうです。四天王の方々がどうやってそれを成し遂げたのかわかれば、あの湖に住まう者の正体もわかるかもしれないじゃないですか」
「なるほど。でもそんなこと――」
直接相談してくれればよかったのにと、そう云おうとして阿求は押し黙る。
きっと文は自分に気を遣っていたのだろう。さきほどの話を伝えようとすると、文と阿弥が交わした会話を阿求が覚えていないという事実を突きつけることになる。
それで阿求が傷つくことを、この天狗は知っていたのだ。
なんといっても、素知らぬ顔で誰かのために風を起こしてやれるひとだから。
「いえ……そうですね。はい、納得しました」
「信じていただけますか?」
縁側に座ったまま、文は伸びをするようにごろんと後ろに転がった。寝転がったまま首だけを阿求にむけて、おどけるような上目遣いで問いかける。きっとこの天狗なりの照れ隠しなのだろう。意外と可愛いところもあるんだなと思う。
「ええ、信じます」
阿求は力強くうなずいた。
庭のどこかから、かこんと鹿威しの音がする。
永遠に時が止まったこの庭に、波紋のように響いて消えた。
§8
「――で、具体的になにしてたのよあんた」
鈴仙が淹れた緑茶をこくりと含み、パチュリーは首をひねりながら云った。
「なにをってなんですか?」
「蔵に侵入しようとしたって話。どうやろうとしたのか聞きたい」
「ああ、それは……こっそり入れる場所がないかとうろうろしてたんですよ。でもだめですね、四囲は入り口以外開口部がない完全な壁ですし、近づくだけでがんがん力が吸い取られていくんです」
「わかるわ。それでどうしようとしたの? 天窓から入ろうとして駄目だったのかしら」
魔女はテーブルに頬杖をつきながら目を細める。その言葉に苦笑しながら、天狗は皿のせんべいをばりりと囓った。
「当たりです、でも駄目でしたねぇ。飛んでいこうとしても近づくにつれてどんどん浮力がなくなって、蔵の手前で地面に落っこちてしまうんですよ。はるか上空から急降下してみたりトップスピードで突撃したりしても駄目で、結局屋根に飛び乗ることすらできなかったのです」
「ふぅん。やはり優秀な結界なのね」
「まぁ、是非曲直庁お墨つきですし。それにしても……天窓ですか?」
「そうよ。あったでしょ、天窓」
「ありますけど……え? もしかして前から天窓が怪しいと思ってました? パチェ……いやパチュリーさん」
慌てて云い直した阿求を、文が笑いながら突っついた。
「はは、別にもう愛称でいいんじゃないですか。どうせあなた方の関係なんてみんな知ってるんですから」
「は、はぁ……」
頬を赤くして周囲を見回す。兎ふたりはにこにこしながら阿求のことをみつめていた。慧音も穏やかに笑っている。阿求は同じように頬を紅潮させたパチュリーと、顔を見あわせながらうなずいた。
途端に漂ってしまった甘酸っぱい空気を振り払うように、魔女が咳払いをひとつする。
「……コホン。もちろん天窓は最初から気になっていたわ。扉以外に開口部といえばあそこしかないもの」
「たしかに私も少し考えたことはあったが……しかし、あの窓はひとがひとり通るには少し小さすぎるんじゃないか?」
首を捻った慧音に、阿求もうなずいた。
「そうですねぇ。文さんじゃちょっと難しいかも。わたしくらいならなんとか通れそうな気がしますが」
「ええ、あそこはあなたくらいちみっこくてぺったんこじゃないと、とても通れないと思いましたね。だからちょっと試してみてすぐ諦めたんですよ」
「ぺたっ……!」
目を見開く阿求に、文はにやりと笑いかける。
「まあまあ。別に気にするこたぁありませんよ、そういうのが好きなひとも世間にはたくさんいますからね。ほれ、ちょうどそこにいる魔女なんか――」
その瞬間、パチュリーが放った白弾が天狗の顔面に直撃する。
「ぶげっ!!」
「ふん、馬鹿なこと云ってないで続きを話しなさい」
「おお、いてて……、なんて乱暴な魔女でしょう。でも残念ながらもう話すことはないですよ。その後すぐ立ち去ったんですから」
「そう……」
魔女はつぶやきながらせんべいを両手でつまみあげ、リスのようにパリパリと囓りだす。普段あまり喋らないから顎の力がないのだろう、固いせんべいを噛み割るのも大変そうだった。
食べ終わった口元を手で隠しながら、こくんと飲み込んで云う。
「……でも、天狗の件はともかく、天窓のことはもう少し考えてもいいんじゃないかしら」
「と云うと?」
「ほら、さっき阿求は自分くらいなら通れるかもって云ったでしょう? なら今挙がってる容疑者の中にもそこを通れる者がいるじゃない」
「ああ、そうか。容疑者の中でわたしと同じくらいの体格と云えば……」
その直後、一同の視線が一斉にてゐへと集まった。
「ぬおっ! いきなり大注目!」
鈴仙のブラウスに蝉の抜け殻をくっつけていたてゐが、降参するように両手を挙げた。
「え? ちょっ、うわ、なにやってんのあんた!」
どうやら今の今まで気がついていなかったらしい。鈴仙は慌てて振り返り、悲鳴を上げながらブラウスについた蝉の抜け殻をはたこうとした。その手の下で、大量の抜け殻がぐしゃりとつぶれる。
「ぎゃー! 気持ち悪い!」
ばたばたと縁側に駆けより、ばんと障子を閉めたむこうでブラウスを脱ぎ出した。午後の西日がその影を障子に投げかけていて、そのスマートなボディラインをあますところなくさらしている。期せずして行われたストリップショーに、阿求は思わず顔を赤らめた。
「毎度ご来場ありがとうございやす! さぁさ、世にも珍しい月の兎の白黒ショー! お代はどうぞこの中に!」
てゐが芝居がかった仕草できんちゃく袋を差し出して、お代のかわりに一同から笑い声を引き出した。
やがて服を着直した鈴仙が、がらりと障子を開けて戻ってくる。
「馬鹿云ってんじゃないわよ! もう信じらんない!」
背中を蹴ろうと振り上げた足をひょいと避け、てゐはテーブルにかけよってせんべいに手を伸ばす。
こちらは鈴仙とは対照的に凹凸のない、子どもみたいな体格をしている。地上兎の例に漏れず背も低い。鈴仙はあの窓を通れないだろうけれど、このてゐなら通ることができるだろう。
「それで、こいつが犯人かもしれないって?」
「そう。……いえ、疑っているわけじゃないわ。ただの可能性の話よ」
無表情のままパチュリーが答える。さすがにこの魔女も咲夜の件で懲りているらしく、以前のように容疑者を面とむかって糾弾することはしなかった。
「可能性ったって、犯人だと思われてるのに変わりないじゃない。ひっどいよねー。鈴仙からもなんか云ってやってよ」
「ごめんなさい! きっとこいつです!」
「えーっ!」
てっきりかばうかと思っていたら、鈴仙はがばりと頭を下げて謝った。思わずぽかんと口を開ける阿求。てゐは不服そうにほっぺを膨らませながら、ぽかぽかと鈴仙を叩きはじめる。
「ぶー! なによそれ! 鈴仙はわたしがそんなことするやつだと思うの!?」
「思う! 死ぬほど思う!」
「がーん! なぜっ!?」
「三分前にあんたがなにしたか忘れたのか! ほら、あんたもいっしょに謝んなさい!」
鈴仙はてゐの頭に手をかけ、無理矢理一緒に下げさせようとした。けれどいたずら兎は頑としてゆずらず、背筋を伸ばして力を入れる。ぐぎぎぎ、と音が聞こえそうなほどの拮抗戦のすえ、とつぜん鈴仙の目に二本指を突き刺した。
「ノオオオオーー!!」
「なにさ、鈴仙のばか! してないったらしてないもん! わたしがやるなら、ちゃんとわたしの仕業ってわかるようにするもん! 誰かに押しつけたりしないよ!」
鈴仙は涙を流しながら目を見開く。見開いた瞳は目つぶしのせいか真っ赤に充血していた。元からだったかもしれない。
「てゐ……それもそうかも」
「あの、別にそんなに疑っているわけじゃないので……正直今の段階で謝られても困ってしまうんですが」
頬を掻く阿求の隣で、パチュリーが呆れたようにつぶやいた。
「ふん、そんなに他人を疑ってばかりいると、友だちなくすわよ」
その言葉には妙な実感がこもっていて、事情を知っている阿求と慧音と目占は、へらへらと笑ったのだった。
* * *
阿求が云うには、鈴仙とてゐが稗田邸を訪れたのは、文と同じ二十六日、午後三時十七分のことらしい。
「毎度どうも、薬屋です」
「です!」
阿求が玄関まで迎えにでると、いつもの鈴仙の隣に因幡てゐの姿があった。
「あら、珍しいですねてゐさん。今日はどうされたんですか?」
「暇だったから鈴仙についてきた!」
「暇だったからじゃないわよ。あんた薬の補充係だったでしょ。飽きてさぼりにきただけじゃない」
「ぶー、いちいちうっさいな鈴仙は!」
玄関口で云い合うふたりを眺めながら、相変わらず仲いいなと阿求は苦笑する。
「あの、立ち話もなんですし、とりあえず上がってくださいな。紅茶くらいお出ししますから」
「あ、いただきます」
答えて、草履を脱いで上がり込む。
ふたりとも背中に大きな行李を背負っていた。
暇だったはずのてゐは、細々とした薬の説明を鈴仙がはじめた途端、興味を失ったようにふらりと消えた。兎というよりまるで気まぐれな猫のようだ。
「てゐ、ちょっとそっちの行李を――っていないっ!」
「てゐさんなら、ちょっと前に縁側から飛び出していきましたけど……」
「とほほ、またかー。どうりで静かだなって思いましたよ」
鈴仙はがっくりと肩を落としながら、てゐが担いでいた行李を手元に引き寄せた。箪笥のような薬箱の引き出しを開け、中から紙包みを取り出す。
「強壮剤のストックが減ってるようなので、補充しときますね」
「ありがとうございます。これ効きがよくって助かってるんですよ」
「それはよかったです。でも前回もこれ使われてたようですけど、体調悪いようでしたらちゃんと師匠に診てもらったほうがいいですよ。その、お体あんまり強くないみたいですし……」
「ええ、実は近々診てもらおうかなと思っているんですが」
「あ、はい。いつでもいらしてください」
鈴仙がにっこりと笑ったそのとき、障子のむこうから失礼しますとの声がかかった。阿求がどうぞと返すと、すっと障子を引き開けて、お盆にティーセットを乗せた着物姿の女性が現れた。
女性はしずしずと畳を歩いてきて、テーブルにお茶の用意を調える。
「ありがとう、阿澄《あすみ》」
「どういたしまして。それよりあまり根を詰めすぎないでくださいね、御阿礼さま」
「……わかってます」
女性はふわりと鈴仙に微笑みかけると、優雅に一礼して去っていく。その姿がみえなくなった後、感心したように鈴仙が云った。
「はー、さすが稗田家。女中さんひとりひとりまでなんか優雅ですね」
彼女の言葉に、阿求は困ったような表情を浮かべる。
「あの、あれは女中ではなくわたしの母です」
「え! お母さんっ!? で、でも御阿礼さまって……っていうかお母さん呼び捨てっ!」
「それは当たり前でしょう? わたしのほうが母より偉いんですから。わたしは当主御阿礼で、彼女はただの門衛件武術師範です」
「そ、そういうものですか……」
「ええ、うちは昔からこんな感じです。血を引いた一族の誰から御阿礼の子が産まれるかはわかりませんから。産まれたのが御阿礼の子だった瞬間、それは母の子どもではなく当主になるのです」
「はぁ……」
釈然としない様子の鈴仙に、阿求は首をひねる。
「そんなに驚くようなことでしょうか? わたしには月の生活のほうがよほど奇妙に思えますけれど。月には表の月と裏の月があるって本当ですか?」
「あ、ええ。街のそこかしこに結界のほころびがあって、たまに子どもが表の月にいっちゃって怒られたりしますねー。地球から見つかるかもしれないって云うんですけど、あんな遠くから見えるはずないと思うんですけどね?」
「それは、幻想郷の基準では随分変わった生活ですねぇ」
「変ですか?……まぁ、たしかに幻想郷とは全然違いますよね」
「ええ。でも文化の違いなんてそういうものでしょう? どっちが変だというわけでもないんじゃないですか」
「そうですよね。あ、そうか。そう考えると稗田のかたたちも別にいいのか」
うんうんとうなずく鈴仙だった。
本当にやりやすいひとだなと阿求は思う。見た目はすらりとしていて格好いいのに、性格は素直で可愛らしい。てゐがこの鈴仙ばかりいじりたおしている理由も、なんだかわかる気がした。
「あの、せっかくなのでもっと月の話をうかがいたいのですけど、よろしいですか?」
阿求の提案に、鈴仙は満面の笑みでうなずいた。
ちょっと書きつけをとってくると断って、書斎にむかう。内部を鈴仙にみられないように、部屋を仕切る障子を素早く閉めた。普段は『別に散らかっているわけじゃない』とうそぶく彼女だったけれど、どうやらみっともないという自覚はあるらしい。付書院のあたりからメモ帳と筆記具を取り上げ、客間に戻っていった。
「いやー、でもなんだかとても嬉しいです。月の話とかあんまりしたことないんですよねー」
「そうなんですか? 珍しい話を聞けてわたしは嬉しいですけれど」
「ええ、ほら、月の兎って私だけじゃないですか。師匠や姫さまは格上すぎてあれだし、てゐや兎たちは云うこと聞いてくれないし……里のひとには、き、気味悪がられるしで……うう、あんまり対等な話相手が……」
云っている間に落ち込んできたのか、どんどんうつむきがちになっていく。
それはまあそうなんだろうなと阿求は思う。妖怪はともかく、人間というのはそういうものだ。いくら幻想郷の住人といっても、自分が生まれ育った文化にないものを受け入れられるひとは意外と少ない。
そんなことを云って慰めると、鈴仙は瞳をきらきらさせながら阿求の手を握った。
「いいひとだ!」
「え、ええ!? いや、そんなことないと思いますが……」
「いえいえ、そんなことありますよ! 阿求さんだって人間なのに、どうしてそんな風に客観的になれるんですか?」
その言葉に、阿求は思わず自嘲する。
「まあ、わたしも半分人間じゃないですから」
その瞬間、九代目を数える阿礼乙女は、心にぽかりとできた穴に落ちそうになった。
自分は里に暮らす人間だけれど、里の人間と同じではない。
稗田の者だって、生きて死ぬ人間である以上は自分と同じ場所には立っていない。父も、母も、兄弟姉妹も、妻や夫や娘や息子ですら。
この世にたったひとりという、圧倒的な孤独感。
求聞持はそんな異邦人感覚を抱きながら転生を続ける。その点ではたったひとりの月兎である鈴仙と変わらない。嫌われて恐れられた咲夜と変わらない。魔女狩りによってひとから追われたパチュリーやレミリアと変わらない。
けれどただひとつ違うのは、求聞持は妖怪ではなく人間だということだ。人間にあらがえるだけの力を持つ妖怪と違って、御阿礼の子は人一倍身体が弱い。
だから、人間のための幻想郷縁起を書き続けてきた。
そうしなければ、里で生きていくことはできなかったから。
妖怪と人間との差異を強調し、妖怪はとんでもない存在なのだと書きたてることで恐れを抱かせ、人間であるのは正しいことだと里の人間に伝えていく。それが幻想郷縁起という書物だ。
悪い妖怪におびやかされる、正しくて善良な『私たち』のために。
自分は『あちら側』なのだと思われ、里から切り離されることがないように。妖怪に対して強い共感を感じながらも、人間には妖怪に対する忌避感を植えつけている。そうして自分を安全な『こちら側』に位置づけようとする。
その矛盾が、彼女のことを責め立てる。
その罪が、彼女の生を重くする。
なんのことはない、阿求自身も文のことを怒れない。
――わたしは少し、白黒はっきりしなさすぎている。
小さな身体で巨大な悔悟棒をもてあそぶ、四季映姫の姿が浮かんで消えた。
「……阿求さん? 大丈夫ですか?」
鈴仙の声に、阿求は首を振って閻魔の仏頂面を打ち消した。
「ええ、大丈夫です。身体の調子はいいですから。それよりすいません、月のお話を聞かせてくださいな」
「あ、はい! 喜んで!」
鈴仙は誇らしげな様子で月の文化を語っていった。
自分が育ってきた文化を肯定的に語れることがうれしいのだろう。集団で生活する玉兎はやはり妖怪というより人間に近いのかもしれないと、阿求は書きつけを進めながら頭の中でメモをする。
彼女が語る月の生活は魅力的だった。
黒い空に張り巡らされる魔力的なハイウェイ。交通整理のため七色に光る警告灯が、天蓋いっぱいに瞬いている。その中心に浮かぶ地球の鮮やかさ、青い海にたなびく白い雲、たまに太平洋をつっきっていく巨大なハリケーン。
十五夜に地球光を浴びて撞く餅は、けれど結局のところ幻想郷の餅と大差ないらしい。子どものころ、あの地球に行ってみたいと漏らして近くの大人に怒られたこと。悪友と表の月に遊びにいって、こっそり月面車の近くでおにごっこをしたこと。静かの海に泳ぎにいって、両手に抱えるほどの『静か』を捕まえて帰ったこと。
長く生きていても、はじめて知ることはあるものだ。
鈴仙の話を聞きながら、阿求は未知の驚きに胸をわくわくさせていた。
もしかしたらこの探求心こそが、自分を今まで生かし続けてきたのかもしれない。
そう思って、くすりと笑う。
自分があの知的好奇心の塊みたいな魔女に惹かれた理由が、ほんの少しわかった気がした。
可愛くて、優しくて、強い力を持っていて、ときどき凄く駄目だけど、永い時の先を見据える知性があって。
そうして自分のことを好きでいてくれる。
彼女の隣にずっといたいと思ったら、胸が締めつけられるように苦しくなった。
§9
「――とまあ、大体こういうことがあったわけですが」
具体的な心情をはぶきながらも、阿求はその日起きた出来事を語り終わった。その途端、鈴仙が驚いたように赤い瞳を丸くする。
「すっ、すごいですね! 二週間近く前のことなのに、なんで一言一句覚えてるんですか!」
場をしらけたような沈黙が支配して、鈴仙は「あれ?」とつぶやき小首をかしげる。そんな彼女に、てゐがおかしそうにつっこんだ。
「きゃははは、鈴仙ったら今まで求聞持さんのこと全然知らなかったの? このひとたちはその代で見聞きしたことを絶対忘れないのよ」
「えーっ! そうだったんですか!……あ、でも、じゃあなんでメモ取ってたんでしょう?」
「それは、次の代のためにわたしの知識を伝える必要があるからです。わたしの代では覚えていても、転生するときには大半の記憶を忘れてしまうので。その書きつけを盗まれたって話だったんですよ」
「な、なるほど……」
阿求の言葉に、もじもじと恥ずかしげに指をこすりあわせる鈴仙だった。どうやらあんまり話を聞いてなかったらしい。
これが全部、演技である可能性はあるだろうか。
パチュリーの推理によると、きんちゃく袋の状態がぱっと見でわからないくらい以前と同じだったこと自体、犯人が阿求の能力に詳しいことの証明だということだ。求聞持の記憶の強度を正確にわかっていなければ、苦労して以前とそっくり同じ状態で置く必要はないのだから。
だからこの、求聞持のことをまるで知らなかったという鈴仙の言葉を素直に解釈すれば、彼女は少なくとも鍵を取り出して戻した者ではないことになる。
もちろん、それが即犯人ではないということには繋がらない。今は天窓という進入経路のことも議論の俎上にあがっているのだ。もし犯人がこの天窓から蔵に侵入したなら、その犯人は鍵に一切触れる必要がなかったことになるだろう。
つまり、天窓が進入経路だった場合、求聞持の記憶に対する知識は問題にならない。
だが鈴仙は、とてもじゃないけれどあの天窓を通れるサイズではなかった。先ほどの意外と豊満なふくらみをまざまざと記憶に呼び出し、阿求はちょっともやっとする。
少なくともあのボディをもっている鈴仙が蔵に侵入するには、やはり鍵をつかってかんぬきを開ける以外に方法がない。そうして彼女が鍵を使って元通りに戻した人物なら、求聞持の能力に詳しくなければおかしい。
ちらりとパチュリーのほうを横目で見る。
魔女は心持ち口角をあげながら、こくりとうなずいた。
どうやらパチュリーも、鈴仙の反応は演技ではないと思っているようだ。正直云って、阿求はこの素直すぎる月兎がそこまで器用に演技できるなんて思えない。それに考えてみれば、ここで彼女がそうすること自体おかしなことなのだ。
なぜならここで演技をするためには、自分たちが求聞持の能力に関する知識を犯人選定の一基準にしていると感づいていなければならないからだ。
以前その推理をしたとき場にいたのはパチュリーと慧音と目占。彼女たちが他人に話すわけがない以上、鈴仙もそのことを知り得ない。そうしてそれを知っていなければ、求聞持の能力についてとぼけた演技をすることはありえない。
ならば、彼女のこの反応は素のものだ。
――鈴仙は、犯人ではない。
パチュリーもそう思って安心したのか、リラックスした様子で椅子にもたれて口を開いた。
「それで月兎と一時間ほど話したあと、そこの妖怪兎が戻ってきたっていうわけね。そのあとはすぐに退出したの?」
「はい、そうです。具体的には四時十分にてゐさんが戻ってきて、十四分に玄関で見送りました。目占からなにか訂正するところある?」
「いや、特にない。主の云ったことと私の記憶は一致する。ちなみにそっちのチビも途中でいなくなったとは云っていたが、敷地内にはずっといたようだぞ」
てゐよりよほど小さな黒猫が、尊大なそぶりでそう云った。
「そうか、そうなると……」
慧音は叱るように腰に手を当て、てゐのことをにらみつけた。
「てゐ、キミはそのとき一体どこにいたんだね」
鈴仙の疑いがほぼ晴れた今、残る問題はてゐが阿求の前から消えていた一時間、どこでなにをしていたかということだ。
教師然とした風情でにらみつける慧音に、てゐは気圧されたようにうつむいた。
「どこって、ふらふら遊んでただけだよぅ」
「ふらふらってなんだ、もう少し具体的なことを云いなさい。ちゃんと云えないってことは、やましいことがあるんじゃないかと思ってしまうぞ」
てゐの容姿からつい普段の地がでたのだろう、寺子屋の子どもを問い詰めるような口調だった。それにつられたように、てゐも上目遣いになってもじもじとワンピースの裾をいじりだす。
「具体的って云われても……よくわかんない。お屋敷の中でふらふらしてただけだし……」
「うーん、確かにあんた普段もフィーリングだけでふらふらしてる感じだけど……もうちょっとなんかないの? そんなんじゃ疑うなっていうほうが無理よ……」
鈴仙は力なく肩を落としながらため息をついた。彼女としてもてゐを信じたいという思いはあるのだろう。なんだかんだで鈴仙が月から降りてきて以来、ふたりは四六時中一緒にいるのだから。
そう思って兎たちを眺めていると、てゐはちらりと阿求に視線を投げかけた。けれど阿求が反応する間もなくぷいと横をむき、またなにを考えているのかわからない糸目になってしまう。
それはほんの一瞬のことだった。
それでも、阿求の求聞持の記憶は捉えてしまったのだ。
阿求と目があったその瞬間、彼女の顔に自分を哀れむような表情が浮かんでいたことを。
だから、なんとなくわかった。
「――てゐさんも、ですか?」
「ほぇ?」
「もしかして、てゐさんもわたしに気を遣われていたんですか?」
にっこりと微笑んでそう云うと、てゐはさっと顔を赤らめて目をそらす。その反応からすると、やはりこの推理で間違っていないのだろう。結局自分の体調のことなんて、隠してたつもりで周り中に筒抜けだったらしい。なんだか脱力してしまう。
「暇だったなんて嘘ですね。てゐさん、わたしの体調が悪いの気づいてて、様子見にきてくださったんでしょう?」
「えー? またまた阿求さん、これがそんな殊勝な性格なわけないじゃないですかー。そもそも最近竹林からでてなかったてゐが、どうして阿求さんの体調に気づいていたんですか?」
「――置き薬、でしょうね」
ぼそりとパチュリーがつぶやいて、同じことを考えていた阿求は苦笑する。
「ええ、てゐさんは薬の補充係だったそうですから。以前鈴仙さんが持ち帰った行李を改めたとき、強壮剤が減っているのをみてピンときたんじゃありませんか? 考えてみれば、わたしが永琳さんに出してもらったお薬は随分特殊なもののようでしたのに、この二、三日でよく用意できたなって思うんですよ」
その言葉に、いたずら兎は観念したようにぺろりと赤い舌をだした。
「うん、当たり。八回もみてるとさ、いい加減求聞持がどう死ぬかとかもわかってくるのよ。わたしにできることなんてなにもないってこともね。でも阿求ちゃんのことは好きだから、少しでも幸せのお裾分けできればって思ってー。あんまりこういうこと云いたくないんだけど……」
「ふふ、云わせてしまってごめんなさい。おかげさまであの日は一日楽しくすごせましたよ」
それに、とても大事なことに気づけた日だったと思う。パチュリー・ノーレッジという存在が、自分にとってどれだけ大切で大きく、得難いものであるかということに。
「幸せのお裾分けって……あんたが? 前から思ってたけど、あんたのどこが幸せウサギなのよ。私、あんたといっしょにいて幸せだって感じたこと一度もないんだけど」
「くふふ、さー、どうだろー? なんか幸せって、渦中にいると中々気づき辛いみたいだよ。わたしはよくわかんないけどさっ」
後頭部で腕を組みながら立ち上がり、てゐはワンピースの裾をひるがえらせた。そのまま縁側の障子をがらりと開けて、ぱたぱたと廊下を駆けていく。その足音が小さくなって消えていくのを、阿求はお茶を飲みながら聞いていた。
「……いいんですか、逃がしちゃって」
不思議そうな顔の鈴仙に、にっこりと微笑む。
「はい、疑いは随分晴れましたから」
「今ので?……ああ、なんとなくわかったわ。てゐが屋敷をふらふらしていたことの証明ができるのね」
そう云って、パチュリーは納得したようにうなずいた。
「ええ、あの日稗田家では、びっくりするくらい立て続けに慶事が起きたんですよ。血のつながりが薄い阿光と阿耶が突然婚約を発表しましたし、従姉妹の阿湖《あこ》は宿題で慧音先生から花丸をもらいました。母の阿澄は以前から開発中だった新スペルカードを完成させて、典座が作った料理は異様に美味しく、庭の竜舌蘭が一斉に花を咲かせた上に、長老の阿含が一ヶ月ぶりに自分の足で立てたんです」
慧音が腕を組んでにっこりと笑う。
「ああ、阿湖の宿題か、あれは本当に素晴らしいできだったな。たしか『幻想基盤の妖怪たちの存在論的誤謬が人間原理に及ぼす影響について』という論文だったか。私は作文の宿題をだしたはずだったんだが、論文としてあまりにも良くできていたので花丸をつけざるを得なかった」
「ありがとうございます。阿湖も喜んでいましたよ」
「え? なんですそれ? どういうことですそれ? それがどうしててゐと関係が?」
おろおろと左右を見まわす鈴仙を、パチュリーは呆れたような目でにらみつけた。
「あんた、あれだけいっしょにいて本当にわかってないの? それが全部てゐの能力の結果だっていうことよ。ふらりと現れ、周囲の人間に幸せを振りまいて去っていく。あれは偶然の幸運を体現した妖怪なのよ」
誰にも内緒でやってきて、ひとびとをしあわせにして去っていく。
しあわせ兎とは、本来そのような存在だ。
普通の人間で、彼女がいたことに気づく者はほとんどいない。ただふっとしあわせだと感じたときに、干し草とにんじんのほのかな香りを嗅ぐだけだ。
もし彼女の存在に気づいてしまえば、それは幸運ではなく別のものになってしまうから。幸運とは、ふいに訪れた優しい偶然に胸を暖かくするものだ。妖怪が能力を使ってもたらしたものだとわかってしまえば、それはすでに幸運ではなくただの親切だ。
いたずら。
きまぐれ。
いい加減。
因幡てゐがふらふらとした性格なのは、そんなしあわせ兎としての特性から来ているのではないかと阿求は思っている。
かつて『因幡の白兎』伝説を収集し、古事記に記載したのは他ならぬ阿礼だったけれど、その当時から彼女はこのウサギのことをただの詐欺師ではないと思っていた。なんといっても、和邇を騙して橋にした白兎は、わざわざ『お前たちは騙されたんだ』などと云って皮まで剥がされてしまうのだ。本当の詐欺師なら、自分でそんなことを云うはずがない。
『わたしがやるなら、ちゃんとわたしの仕業ってわかるようにするもん!』
さっき鈴仙に叫んだその言葉が、阿求の頭の中で響いている。いたずらをするときには自分の名前を表にだして、幸運をもたらすときには姿を隠す。それがしあわせ兎の因幡てゐだ。
「てゐさんが消えていたのは一時間ほど。その間にさきほどの者たちとすれ違っていったと考えると、時間的にはちょうどいいです。てゐさんに犯行のための時間はあまりなかったんじゃないでしょうか」
「そうかもしれませんねぇ。しかしなんですか? それだと私もそこの月兎もしあわせ兎も犯人じゃないってことになりますね。一体なんだったんでしょうか、この会合は」
天狗帖から顔を上げ、射命丸が不満そうにくちびるを尖らせる。そんな新聞記者をじろりとにらみ、パチュリーは対抗するように鼻を鳴らした。
「ふん、わかったことは色々あるじゃない。ブン屋は簡単に結論を出そうとしすぎなのよ」
「そりゃそうですよ。『こんな可能性があります』なんて書いても記事になりゃしませんもん。経緯と結論とその解釈まで、全部ひっくるめて読者に差し出すのが新聞ってもので」
「くだらない。文字と紙に対する冒涜だわ」
「あーあー、わかりましたよ、まったくふたりして同じようなことを云ってからに。本当お似合いですよあんたがたは!」
ぎゃーぎゃーと罵り合うふたりを横目で眺め、阿求はくすりと笑みを漏らす。ふと鈴仙に視線を向けると、月の兎は狐につままれたような顔で、てゐが去っていった廊下の先を眺めている。
「どうしました、鈴仙さん?」
「いえ……なんか、みなさんが知ってるてゐと、私が知ってるてゐが違うみたいで……」
首をひねった鈴仙に、阿求は思わず苦笑した。
「まあ……てゐさんも仰ってましたけど、近すぎると見えなくなるものもあるんじゃないですか」
「近すぎて……?」
「ええ、こんなこと云うとまたてゐさんに叱られそうですけどね。わたしから見ると、てゐさんが鈴仙さんにいたずらばかり仕掛けているのは、鈴仙さんを元気づけようとしているように見えます」
「えーっ! 本当ですかっ!? 元気づけるって、あれでどうやって!」
「月から来た当初は、心を許せるひとが全然いなかったんじゃないですか?」
「う……」
「いたずらをしてそれをばらせば、鈴仙さんはてゐさんに怒ることができます。喧嘩するほど仲がいいって云いますけれど、怒ったり怒られたりしているうちに心の距離は縮まるものですよ」
口げんかとすれ違いばかりだったパチュリーとの日々を思い出し、阿求の胸に甘酸っぱい気持ちが蘇る。
あのころ色々なことを諦めて触れないようにしていたら、きっと今のような関係にはなっていなかっただろうと思う。阿求も頑張ったけれど、パチュリーも随分頑張った。引きこもりで人間嫌いの魔女にしては、きっと百年分くらいの忍耐を使い果たしたことだろう。
「そっか……あいつ、あれで私のことちゃんと考えてくれてたんだ」
「だと思いますよ」
「なのに私……あの子にひどいこと云っちゃったかも。いきなり犯人扱いしたりして……」
しょんぼりと耳を垂らして鈴仙がつぶやく。相変わらず危険なくらい素直な子だなと阿求は思う。やっぱりてゐがいたずらばかりをしかける気持ちが、心の底からよくわかった。
そのとき頬杖をついてこちらを眺めていたパチュリーが、面白そうに瞳をきらめかせながら口を挟んだ。
「気にしてるんなら、追いかけて謝ってきたら?」
「謝る……?」
「ええ、経験上そういうのはね、時間が経てば経つほど謝りづらくなるんだから」
「そ、そうか……そうですね。うん、私行ってきます! 行って謝ってきます!」
途端にすっくと立ち上がり、鈴仙は脱兎のごとき勢いで駆けだした。スカートから見えるすらりとした足、ぴんと伸びた力強い背筋、風になびく癖のないストレートの長髪。
危ういところはたくさんあるけれど、あの素直さがあれば大丈夫だろう。全身を覆う縄の跡すら、きっとあの子の健全さを奪えない。
「ふふ、いいわね若いって」
「なに云ってるんですか、パチェなんて百年ちょっとしか生きてないくせに」
突っ込んでみたら、魔女はさっと顔を赤くしてもごもごとつぶやく。
古老の文が、腹を抱えてけたけたと笑った。
§10
太陽はすでに西の地平線にさしかかり、空は赤い色で満たされている。
その空を、阿求はパチュリーに抱かれながら飛んでいた。
そうやって赤の中に浮かんでいると、なんだか自分が空を飛んでいるのか水に浮いているのかわからなくなる。たなびく雲が水中からみるさざなみのようにも感じられて、手を離されたら浮かび上がっていくんじゃないかとすら思う。
それが少しだけ怖くって、阿求はぎゅっとパチュリーの首筋にしがみつく。この身体を離したら、どこか知らないところまで流されていってしまう気がした。
なんだかんだで、阿求に空を飛んだ経験はあまりない。
それは彼女が、人間だからだ。
そんな阿求をお姫さまのように大事に抱きながら、パチュリーは安心させるように微笑んだ。
「それにしても――あの玉兎は本当にてゐの気持ちに気づいていなかったのかしら」
「え? なんのお話ですか?」
「ほら、鈴仙がてゐを追いかけていったときのことよ」
「ああ……」
「誰かひとりにだけしつこくいたずら仕掛けてくるなんて、その理由はひとつでしょう? まったく、本当にわかってなかったなら、とんだ朴念仁だわ」
「まぁ……普通はそうですよね」
それはそうだけど。
それはやっぱりそうだけれど。
あなただけはそんな偉そうなこと云わないで。
パチュリーの腕の中で、阿求は思わずくちびるを尖らせる。このひとは、三年前に知り合ってから晴れてこういう関係になれるまで、どれだけ自分が苦労したと思っているんだろう。
執筆の合間をぬってせっかく会いに行ったのに、ちらりと顔を眺めて『あら、また来たの』とか云うだけで、すぐに読んでいる本に視線を落とす。
話のきっかけにしようと本の内容を尋ねたら、なにがなんだかわからない専門的な理論をひたすらべらべらとまくしたてる。
たまには外で思い出作りをしようと手練手管を尽くしても、根が生えているように安楽椅子から動かない。
『お友だちからはじめましょう』なんてとんでもない。
まっとうな友だちになれるまで、丸一年かかったのだ。
永遠亭における会合では、結局犯人を確定させることはできなかった。
とはいっても、収穫がまるでなかったわけじゃない。文の行動の理由を聞くことができたし、鈴仙の態度を観察することで彼女を容疑者から除外することができた。てゐに関しては、犯行ができたともできなかったともわからない。けれど心情的な面から考えれば、文と同様犯人としての容疑はとても薄い。
「――ねぇ、パチェ」
「なぁに?」
「結局パチェは、誰が犯人だと思います? なんか今日はあまり推理してくれませんでしたけど」
「なによ直球ね。中途半端な推理はだせないわよ。誰を傷つけないとも限らないし」
「それはわかりますけれど……ふたりきりのときくらいちょっと教えてくれてもいいじゃないですか」
「そうねぇ……」
つぶやいて、パチュリーは記憶を漁るようにくりりと瞳を回す。それが自分のまねだと気がついて、阿求は抱きついた首筋を軽くつねった。
「痛いわね。まず鈴仙に関しては、もう論理的に除外できるからいいでしょう? で、咲夜、文、てゐに関しては主に心理的な面から犯人だとは考えづらいという結論よね」
「そうですねぇ……どう思います? あのときはああ云いましたけど、てゐさんには関してはちょっと不明瞭なところもあって。たとえば蔵の書きつけをジョジョとすりかえることでわたしがしあわせになれるなら、あのひとはしたかもしれませんよね」
「なったの? しあわせ」
「少なくとも、今わたしは凄いしあわせですよ?」
魔女の首筋に顔を埋めてくすくすと笑う。パチュリーは慌てたように「危ないわよばか」なんて云う。けれど阿求には、それが照れ隠しだということがわかっている。白磁のように白い頬が、夕陽だけでは説明できないほど真っ赤に染まっているのだから。
「……でも、てゐの能力はそういうものじゃないんじゃないの? あれは意図せずに周りをしあわせにするんでしょう。未来の結果がわかってていたずらするなんて、レミィじゃあるまいし」
「ああ、それもそうですねぇ」
「それに、結局のところてゐは荷物問題をクリアしていない。鍵は天窓から入ることで必要なかったとしても、怪しいと思われていた行李はずっとあなたの部屋にあったようだし、中身もちゃんと薬が入っていたのでしょう?」
「はい。ただ鈴仙さんのほうの行李は開けていなかったですけど」
「それでも、部屋にあった以上おなじことよ」
ジョジョ全巻を入れて持ってきて、書きつけを入れ替えて盗み出す。そのために大きな荷物が必要だという問題は、つねに推理の前に立ちふさがっていた。荷物を持っていたと思ったら機会がない、機会があると思ったら荷物がない。まるで思い出そうとしても思い出せない前世の記憶のように、犯人はあと一歩のところで論理の輪からすりぬける。
「うーん、ではこういうのはどうですか? わたしの前にいた鈴仙さんが、狂気の瞳を使って行李がふたつあるという幻覚をみせていた。で、彼女がわたしを引き留めている間、てゐさんが犯行をするんです」
そんな阿求の推理に、パチュリーはおかしそうに片眉をあげた。
「それ、あなた自分で信じてるの?」
「あはは、正直全然信じてません」
「でしょう。鈴仙とてゐが共犯なら、もっとスマートなことがいくらでもできるじゃない。そもそも共犯になる必要もなく、鈴仙が普通に幻覚を使って鍵を盗んで開ければいい。その場合、あなたの能力をしらない鈴仙は鍵を適当においただろうから、今と違った展開になっているでしょうけれど」
「ですよねぇ」
あっさりと云って肩をすくめる。別に本気で主張したかったわけじゃない。ただ論理の穴を埋めるために意見を云ってみたにすぎなかった。永遠亭のふたりに関して、阿求はほとんど犯人候補から外していた。
「……そもそも、天窓を侵入経路と推定することは本当に妥当なのかしら」
「うわ、そこからですか。最初に持ち出したのパチェのくせに」
「それは可能性の話だもの。そもそも蔵は空が飛べなければ垂直に切り立った十五メートルの壁だわ。足場もとっかかりもなにもない。周囲に飛び移れそうな木もない。素の身体能力が高い天狗も乗れなかったところに、犯人はどうやって飛び乗ったのか」
「それは……稗田の物置からはしごかなにかを持ってきたとか」
「そんな長いはしごがあるの?」
「ないですねぇ……中に入ってしまえば、二階から開けられるようにはしごはあるんですけど」
「それじゃ駄目じゃない。他になにか機械的な方法を使った可能性もあるけれど、どうかしらね。そのあたりのことを考えると、荷物問題と併せてやはりてゐは容疑者からはずれるわ。一時間で全部やるのは無理」
「ですよね。それじゃあまあ、てゐさんと鈴仙さんはスキマ送りで」
そう云って、箱状のものをどこかに投げ捨てる動作をする。パチュリーはくすくす笑いながら口を開く。
「天狗に関してもちょっと考えづらいわね。あなたがずっと客間の縁側にいたのなら、さすがに鍵を盗んでまた戻すのは無理だもの。それに強引に侵入しようとするところを猫が見ていた。目占の存在を知らなかった天狗が、猫に見せるためにそんなことをしたとは思えない」
「ええ、手ぶらだったので荷物問題にもひっかかりますし」
うなずく阿求に、けれどパチュリーは首をひねって考え込んだ。
「……ただひとつ、あなたが太陽の中を飛んでくるのを見かけたときには、すでに犯行を終えていたという可能性があるわね。書きつけとジョジョを入れ替えたあと、まさに今きたような顔であなたの前に飛んでくる。これなら荷物問題も回避できるけれど、どうかしら?」
「――あ! それは考えたこともありませんでした」
「これはつまり、あなたが天狗を見かけた時間と、目占が賊の侵入を感じた時間の差を利用したトリックよ」
目占の侵入者観測には、どうしたってむらがある。侵入者の有無はわかるけれど、阿求のように完全な記憶を残すことができない以上、正確な時間がわかるわけではない。
目占の証言は『鴉天狗はいったん敷地内から離れたあと、また戻ってきてしばらくの間とどまっていた』というものだった。
阿求は今までそれを、文が一度帰ろうとしたあとに、阿弥との会話を思い出して戻ってきたのだと思っていた。
けれどもしかしたら違うのかもしれない。
阿求が文の姿をみかけたのは四時三十八分。
そのとき文はすでに稗田家に侵入して犯行を終えていた。
だから、目占が最初の侵入をキャッチしたのは本当はそれより前の時間だった。けれど完全記憶を持っていない目占は、阿求の証言につられて、文がきたのは大体それくらいの時間だっただろうと思ってしまう。
そうして何食わぬ顔で戻ってきた文は、阿求と話したあと敷地内から出ずに阿礼の蔵までむかった。目占がキャッチした二回目の侵入は、まさに太陽の中を阿求の元に飛んできたときのものだ。
これなら論理的な筋は通る。
「うぅーん……。いや、でもそれは多分だめですよ。あの日は文さんがくるまえから書斎ではなく客間でだらだらしていたんです。鍵を盗めたような余地はありません。そのさらに前だと真っ暗になっちゃいますし、景色がそこまでずれていたら目占も気づくでしょう」
「そう……たしかにそうね。残念だわ、わりといい線いってたと思うんだけれど」
「ですねぇ、なんかすごいミステリっぽい感じでしたよね」
「ふふ、まあ、どんな真相だったらミステリ的に面白いかを競ってるわけじゃないし。でもそうなると、やはり天狗が犯人だと考えるのは難しい。結局、今日検証した文と鈴仙とてゐは、みな犯人ではないということになるわ」
「ですよねぇ。だとすると……」
「怪しいのは依然としてアリス。それとなんらかの方法で荷物問題をクリアした魔理沙ね」
「そうですね。一応、咲夜さんの可能性もまだあるといえばありますけれど」
「そうね。でもあの子が犯人なら、それこそ悪意でやったことのはずがない。とぼけてるならそれだけの理由があるんでしょうし、そこはスキマメソッドと同じ理屈で容疑者から外していいと思うわ」
「スキマかぁ……全部スキマのせいにできたら楽なんですけどね」
西の境界沿いに立ち並ぶ、山の端を眺めながらつぶやいた。見知らぬ獣の背中のようなその稜線を、沈みかけた夕陽が照らしている。断末魔の叫びのような蝉の合唱も、遙か地上を離れてしまえば遠雷のように聞こえるだけだ。
全部紫のせいにできたら楽だろう。
この事件の犯人も、狭い幻想郷でいがみあっている人間と妖怪の関係も、パチュリーが三年もの間安楽椅子から動こうとせず、やっと望んだ関係になれたときには自分の死期が迫っていたことも。
全部この幻想郷を作ったスキマのせいにして。
全部全部、スキマが悪いことにして。
「ふふ、本当にわからなかったらそうしましょう。スキマのせいにして忘れましょう」
「えぇー。そりゃ犯人はわからなくてもいいですれけど、盗まれたものが返ってこないと困ります。書きつけは別に記憶を漁って書けばいいんですが、転生の秘術書は……」
語尾を濁らせる阿求に、パチュリーはふいに真剣な声で云った。
「戻ってこなかったら、どうする?」
「……え?」
「もし秘術書が戻ってこなくて転生の儀式が行えなかったら、あなたはどうするの? そのまま死んで二度とこの幻想郷からいなくなるつもり?」
時は夕暮れ、誰彼刻。
目の前のひとが知らないひとに化ける誰彼刻。
じっと阿求をみつめるパチュリーの、桔梗色をした瞳がいやに深い。夕陽を浴びて暗く沈んだ瞳の奥に、震えるような魂のおののきを感じる。自分が否定される可能性に怯えながらも、なおしなければいけないことをするひとの、勇気の炎がゆらゆらと揺れる。
――ああ、真剣に問いかけてくれているんだ。
そのことが、泣きたくなるくらいに嬉しい。
あの図書館から出ようとしなかったパチュリーが、全身全霊を賭して自分とむきあおうとしてくれている。それだけで阿求は、このひとを選んでよかったと思えてくるのだった。
「もし、戻ってこなかったらですよ?」
「ええ……」
ごくりとつばを飲みこむパチュリーの、震える頬にキスをする。
「そのときは、あなたにわたしの魂を捧げます。使い魔にでもなんでもしてください」
「阿求……」
「別にレミリアさまの眷属でも誰かの式でもかまいません。人間として死んで二度と帰ってこれないくらいなら、あなたと一緒に永遠を生きたいです」
ひととしての悩みも求聞持としてのしがらみも全部捨て去って、まるごとすべてパチュリーのものになる。
それを想像しただけで、阿求の胸はどうしようもなく疼いてしまう。もしかしたらこの千年間、自分は無理矢理そうしてくれる誰かを捜し続けてきたのかもしれない。
「――阿求」
感極まったような声とともに、ぎゅっと強く抱きしめられた。
密着する肌。
こもるふたり分の体温。
鼻腔を満たすのはどこか魔術的で土臭い、パチュリー・ノーレッジがまとうお香の匂い。
力、意外と強いんだなと思う。こうやって飛ぶだけなら魔力を使っているから腕力なんて必要ない。けれど阿求をぎゅっと抱きしめるその腕は、普段本しか持ってないのが信じられないほど力強い。
身動きもできないほど強く強く抱きしめられて、阿求はいっそこのまま死んでしまっても構わないと思った。魔術でも秘術でもなんでも使って、いっそこの場で全部奪ってほしいと思った。
「見つからないといいって思いました?」
「……え?」
「秘術書、見つからなければ有無を云わさず自分のものにできるって、そう思ってくれました?」
悪女のように目を細めて問いかける。少しいじわるをしたかった。どうせ誰も奪えない優しい恋人を、少しゆさぶってみたかった。
けれどパチュリー・ノーレッジは揺るがなかった。
「いいえ、秘術書はかならず元に戻すわ。あなたに選択肢を与えたいから」
「パ、パチェ……」
「でもちっとも心配してないわ。あなたは絶対私を選ぶ、わかってるんだから」
その言葉に、優しげな瞳に、ぬくもりに。深く胸を刺されてしまって、鮮血のような涙が目尻からこぼれ落ちていく。
――ずるい。
今になって、こんなに強くなるなんてずるい。
せめてあと一年早くこうなってほしかった。もう後がない今じゃなくて、もっと色々楽しいことが待っていたはずの一年前に。
「大好きよ、阿求。たとえ転生して別人になっても」
「……ふっ……パチェ……パチェ……」
思わず胸がいっぱいになってしまって、こぼれ落ちる涙が止まらない。雫は頬をつたって顎からしたたり、黄昏を浴びて空に舞い散る。
嬉しくて。けれどなぜだか悲しくて。
しゃくりあげながら震えていると、嗚咽を止めようとするようにくちびるがふさがれた。髪を撫でる指先の感触。ふれあった胸と胸。むさぼるようにうごめく舌先の感触。
幻想郷を覆う赤の中、深い深いキスをした。
その光景を眺めている者は、今度こそ誰もいなかった。
§11
「パチェ、入っていいですか?」
「どうぞー」
「おはようパチェ――って、わっ!」
がらりとふすまを開けて部屋に入ると、そこはすでに図書館だった。
つい昨日まで、テーブルがひとつ置いてあるだけの来客用寝室だったのに。その十畳ほどの和室はいつのまにか本の森になっていた。
うずたかく天井まで平積みになった本、本、本、本、それに本。そんな本の中心で、パチュリー・ノーレッジはご満悦の態で安楽椅子を揺らして微笑んでいた。
――あれ? ここわたしの家だよね?
思わず目をぱちくりとさせてしまう。間違えて紅魔館の図書館に来てしまったのかと思った。けれど通路のように開いているむきだしの床は畳だし、廊下との境界はふすまだし、パチュリーの背後には光がすける障子がみえるしで、やはりどうみても阿求が暮らす稗田本宅なのだった。
「どうしたの阿求、鳩がクナイ弾食らったような顔をして」
「どんな顔ですか……これはあきれ顔って云うんですよ」
「ふん、あきれてるのはこっちだわ。本当に日本家屋は天井が低いわね。最低限必要な本の一割も収納できないじゃない。こんなんじゃ暮らしていけないわ」
「そうですか……それにしてもどうやって一晩でこんなに本を……」
「それはもちろん、物品呼び寄せの魔法で図書館から運んだわ。足りない分は小悪魔にも手伝ってもらったけれど」
「はぁ……」
すっかりつっこむ気も失せてしまい、阿求は左右の本壁を眺めながら通路の部分を歩いていく。
平積みは普通どうしても本のサイズがばらけてしまって安定しないものだけれど、同じサイズの本が隙間なく天井まで埋まったこの壁は、煉瓦のような堅固さを持っていた。通路は床の間や押し入れ、パチュリーが定めた居住スペースらしきエリアまで分岐しながら伸びていて、まるで本でできた迷路のようだ。
その間にも、パチュリーの愚痴は続いていた。
「大体この障子ってなんなの? なんで紙でできてるの? こんなんじゃ日光をふせげないじゃない。本の小口を縁側にむけないよう収納するのに、私がどれだけ苦労したかわかってる?」
「わかりませんし、わかりたくありません」
「あとこの畳もよくわかんない。ねぇ、これ上に本棚置いてしまって平気? 柔らかくて跡がつきそうなんだけれど。それにやっぱり私床に寝るのは無理な気がするからベッドを持ってきたいのよ。たまにしか寝ないから後でも大丈夫だけれど」
「はぁ……咲夜さんでもこぁちゃんでも呼んで持ってきてもらったら……」
「そうする。あとねぇ、なんであの壁の上側はスキマが空いてるのよ。透かし彫りの図章は確かにエキゾチックですてきだけれど、密閉されていないのは我慢できないわ。冷房魔法漏れちゃうし。潰しちゃっていい?」
「えぇー……いや、それはちょっと……欄間が開いてるのはそもそも通風のためですし……」
「そう? じゃあ冷房魔法ちょっと強めにがんばるわ。でもやっぱりこの障子だけはなんとかならないかしら? 暑いし明るいし本は焼けるしでたまったもんじゃないわ。こんなところじゃ暮らしていけない。魔女は暗いところを好む習性です。作り直すのが無理なら紅魔館からカーテン持ってくるけれど……」
「だぁぁーーー!!」
延々と続くパチュリーの愚痴に、阿求は突然奇声を張り上げた。どたどたと縁側まで走っていくと、閉じられていた障子をがらりと左右に開けはなつ。
「あ、開けないでー」
「障子は開けるもの! 日本式家屋は風と光を通すんです!」
青々とした空を背景に、阿求は高らかに宣言をした。
途端にしのびよってくる夏の暑気が、パチュリーの冷房魔法と領土争いを繰り広げはじめる。直射日光が目に入ってまぶしかったのか、パチュリーは「むきゅー」なんて弱々しい声で鳴いた。
――こんなんで、一緒に暮らしていけるんだろうか。
ふいに阿求は不安になってしまう。
ひとつには魔力の供給がないと生きていけない自分のために、ふたつにはただ単に一緒にいたいから。パチュリーは阿求と共にこの稗田家で暮らすということになったのだ。
それはいいけれど、初日からしてこのありさまだ。
西洋と東洋、妖怪と人間。ただ好き合っているだけならよかったけれど、日常を共有するとなると難しい。文化と種族の違いからくる価値観の不一致に、どう落としどころをつければいいのやら。
けれど考えてみれば、世間の結婚したカップルも同じようなことをくぐり抜けていくのだろう。
求聞持は代々女を好きになる女として産まれてくる。それは初代阿礼がそうである以上当たり前の話で、たまに男の身体に産まれたときでも中身が女であることには変わりない。だから阿求はつきあう相手の性のこともある程度わかったけれど、世間ではどうやら女と男が好き合って結婚することが多いらしい。
正直なところ、阿求にはそういう人生がよくわからない。性別の壁を乗り越えて他人を好きになるとはどういうことだろう。女と男だって妖怪と人間くらい違うように思うのに、どうやってそれを乗り越えていくのだろう。
そう考えると、あんなことで切れたのは心が狭かったかもしれないと思う。
「で、でも阿求。あなたも暑いの苦手でしょ? 涼しいほうがいいと思うんだけれど……」
「それは、まぁ……」
ため息を吐きながら、後ろ手に障子を閉める。確かに暑がりの阿求にとって、部屋が涼しいことはありがたい。できれば夏中この部屋にいたいくらいだけれど、日本家屋が室内を密閉することにむいていないのもまた事実。
「とりあえず、障子はふすまに張り替えましょうか。畳も取ってしまって、板張りにしたほうがパチェにはいいのかも。欄間をつぶすのは駄目ですけど、そこはカーテンかなにかで代用を……」
「……いいの?」
パチュリーが上目遣いで問いかける。
まるで借りてきた猫のように落ち着かないようすで、ワンピースのフリルをいじっている。
考えてみれば、今一番ストレスを感じているのは彼女のほうだろう。百年近くあの紅魔館の図書館から動かなかった引きこもりが、急になじみのない日本家屋で暮らそうというのだから。
「はい。ごめんなさい、わたしもちょっとびっくりしちゃって云いすぎました。ほかにもなにかあったら云ってください。最大限配慮しますから」
「あ、それじゃあ……ひとつとても気になっていることがあるの」
「はい、なんでしょう?」
「ひょっとしたら、床の強度が――」
パチュリーが口を開いたその瞬間、地響きを立てて盛大に床が抜けた。
* * *
「こんにちは阿求、今日も暑いな」
「……あら、慧音先生こんにちは。えぇもう、本当に暑い……」
「そうだな。で、なにごとだこれは」
昼すぎになってやってきた慧音が、周囲の様子に肩をすくめて訊ねた。
普段は阿求と何匹かの猫、それに一族の一部しか住んでいない稗田の本宅に、修理のために訪れたむさ苦しい男どもが出入りしている。いつもはしんと静まりかえっている求聞持の庵に、槌音とかけ声が鳴り響く。縁側からみえる中庭で、炎天下のもと男たちが流す労働の汗が、陽光を浴びてきらりと輝いていた。
「いえ、別になにごとでもないです。ただ日本家屋は煉瓦や石ではできていないというだけで……」
「ほう……」
不思議そうに首をひねった慧音だったが、雰囲気を読んでそれ以上追求しないことに決めたようだ。部屋の隅ではパチュリーが、目占を抱えながら「日本の家は木と紙でできている……日本の家は木と紙でできている……」などと呟いていた。
パチュリーが本を詰めこみすぎて床を抜かしたことなんて、阿求はもうほとんど気にしていない。そんなことよりパチュリーのほうがよほど大事だ。けれど本人が気にしていることを気にするなと云っても無理だし、自然と立ち直るまで放っておくしかないと思っていた。
「それで慧音先生、なにかご用事ですか?」
訊ねながら、紅茶のカップを慧音に差し出す。
「ああ、いや、以前話に出た、アリスが商工会議所に現れた時間のことがわかったんだが……そういう雰囲気でもないかなぁ?」
その言葉を聞いて、パチュリーはぴくりと肩を動かす。ぐしぐしと目をぬぐってふりかえると、真っ赤な瞳で慧音のことをにらみつけた。
「聞くわ……別に気にしてなんてないし」
すんと鼻をすすってうそぶいた。その涙でうるんだ瞳が、今にもふるえそうなくちびるが、むしゃぶりつきたくなるほど愛らしい。こんなパチュリーが見られるなら、家のひとつやふたつ壊れても構わないと阿求は思う。
「ふん、日本の家がもろいのが悪いのよ、私のせいじゃないもん」
とことこ歩いてきて、ぽんと阿求の隣に正座する。つんと顔を逸らしながら紅茶を注いで一気に飲み干す。そのあまりの可愛らしさに、阿求は思わず満面の笑みを浮かべた。
「ええ、本当そうですね。全部スキマと日本の家が悪いんです」
「そうよ、スキマが悪い」
お互い顔を見合わせて、同時にくすくすと笑い出す。そんなふたりを、慧音と目占が鼻白んだような目でみつめていた。
「なんだかやはりそういう雰囲気でもない気がするが……まぁいい。結論から云うと、アリスが会議所に現れたのは、早くても五時をすぎていたということだ」
「五時すぎですって? たしかアリスがこの家を出たのは……」
「四時七分のことでした。ここから商工会議所までは、ゆっくり歩いても三十分程度です」
「ということは……その間どこかでなにかをしていたということになるわね」
どこかで、なにかを。
たとえば、本宅から立ち去ったようにみせて人形で鍵を盗みだし、蔵の書きつけを盗み出すようなことを。
「これはもう、直接あいつから話を聞いたほうが早いかもしれないわね」
「そうかもしれませんねぇ。どちらにしろ残る容疑者はアリスさんと魔理沙さんだけですし」
「あ、魔理沙と云えば、以前話していた荷物の件はどうなったかしら? ほら、あの本人と別ルートで荷物が届いていたんじゃないかって話よ」
「あ、ええ。昨日お夕飯のあとに一通り聞いてみたのですが……少なくとも心当たりがある者はおりませんでした」
「そう……」
稗田邸に一晩泊まっていった魔理沙には、犯行を行う時間が十二分にあった。ただ、箒以外にはなにも持っていなかったという事実が彼女の容疑を薄くしている。
もし直接手に持ってくる以外の方法でジョジョを敷地にもちこめていたら、一気にアリスと並ぶ容疑者候補に躍り出るだろう。
だが今のところ魔理沙がそうしたという根拠はない。依然として第一容疑者は七色の人形遣いアリス・マーガトロイドだった。
「それにしても、この家のお夕飯はいつもあんな感じなのかしら……ちょっとへこたれそうなのだけれど」
夕飯という単語で昨夜の光景を思い出したのか、パチュリーが落ち込むようにそう云った。そんな彼女を元気づけるように、阿求は手に手を重ねて微笑みかける。
「でもパチェ、ちゃんとできてましたよ。慣れないことをさせてしまってごめんなさい」
「ふん、あのくらいわたしだってできるわ。これから先ずっとこの家で暮らすんだもの……」
稗田の家では、一族総出の四十人で夕飯を囲む。一番大きな別宅の広間に集まり、情報交換をしながら交流を図るのだ。
その夕食の席に、昨夜はパチュリーも招待された。
元々彼女は以前から何度も稗田邸を訪れており、一族の者ともある程度顔を合わせてはいる。けれど共に暮らしていく以上、お客さまとして部屋に引きこもらせておくわけにはいかない。
ずらりと並んだ膳の列。
先のみえない長い長い座敷。
気安げな笑みを浮かべる、どこか似た顔をした紫髪の男女。
そんな大広間の当主の隣で、パチュリーは阿求が想像した以上にしっかりとした振る舞いをした。挨拶をしてぺこりと頭をさげて、話しかけられてもにこやかに答えた。どうしても箸を使って煮豆をつかめず、しまいには魔法で動かしていたのもご愛敬だった。
「あの食べかたもみんな楽しんでましたしね。つかみは完璧でしたよパチェ」
「そ、そうかしら? だといいけれど……」
「まあ、本の詰めすぎで床を落としてしまったらだいなしだがな」
目占の言葉に、阿求とパチュリーがぴしりと凍りつく。途端に空気が沈んだのを見て、慧音が慌てたように叫んだ。
「本、本か! 本と云えば結局あのジョジョの単行本はなんだったんだ! 謎だなぁ!」
助け船がきたとばかりに、阿求も慌ててその言葉に乗った。
「ですね! 謎ですね! そもそも犯人の目的は一体なんだったのでしょう。ジョジョを置いていくことそのもの? それともわたしの書きつけを盗むこと?」
「ああ、結局いくら考えてもそこがわからないんだよな」
パチュリーは気が乗らなさそうにため息をつきながら、それでも会話に入ってくる。
「ふん、どうせひとの心の中のことなんてわからないでしょ。そんな曖昧なものを考えるより、みえているできごとを追ったほうがよほど真実に近づけるわ」
「そうですねぇ、実際その方針でここまで容疑者を絞り込めたんですし。でも思うんですけれど、犯人を問い詰めるなら、目的や動機がつかめてないと困ると思うんです。なんといっても最終兵器『どうせ犯人はスキマでしょ』があるので、それを覆すだけの理由がわかってないと」
「それは……まぁ、そうよね」
「とりあえず、まず犯人の目的は幻想郷縁起の書きつけだったと仮定してみよう。そうするとその動機はどんなものが考えられるだろう」
「うーん、そうですねぇ……。あの書きつけには、最終的に幻想郷縁起に載せなかったこともたくさん書いてあるので、その情報が知りたかったのかもしれませんよね。たとえば誰かに恨みを持っていたり弾幕戰で勝ちたいと思ったりしてるひとが、相手の弱点を知りたがったとか?」
「でもその容疑者って、今はもうアリスか魔理沙のふたりでしょう?」
「そうです。ないですかねぇ?」
「ないとは云わないけれど、そのふたりなら適当に理由つけて直接あなたにみせてもらうんじゃないの? 小細工してまで黙って持っていくかしら」
「うーん、結局そこですよねぇ」
そもそも容疑者は阿求と親しい者以外に考えられない。けれど盗まれたのはしょせん書きつけ、ただのメモだ。親しい者なら直接阿求にみせて欲しいと頼むだろう。そうしなかった以上、犯人にはなにかやましい理由があるはずだ。
「じゃあこんなのはどうだろう、犯人は阿求にどう書かれているか気になった」
「……はぁ?」
「そいつは阿求のことが好きだから、自分があなたにどう思われているのか知りたかったんだな、うん」
「ぶっ、ちょ! 慧音先生!」
慌ててわたわたと手をふる阿求だった。
「ああ、それはわかるわ。私も幻想郷縁起を読んだときはちょっと落ち込んだもの。なによ『喘息持ちなのに早口なのは見ていて息苦しい』って。そんな風に思われてるんだと思ったら、落ち込んで夜も寝られなかったわ」
「元々パチェは寝ないじゃないですか! それはやっぱりないですって。パチェならともかく、アリスさんか魔理沙さんですよ?」
「へぇ、どうかしらね? なんかあなたと魔理沙の間には、私に云えない秘密があったようだしね?」
「もう……またそう云う……」
苦笑しながら座卓のせんべいに手を伸ばす。前歯でぱりんと割ったところで、ふとその可能性があるだろうかと考えた。
自分が好かれているかどうかではない。アリスと魔理沙が、誰かの情報をもっと知りたいと思った。けれど恥ずかしいからそれを阿求に云いたくはなかった。
ありえないこともないだろう、それがアリスか魔理沙なら。
でも薄いなぁと思いながら、正座して紅茶を飲むパチュリーのくちびるを、ぼんやりと眺めていた。
「――秘術書」
「え?、なんです?」
ぽつりと漏れた恋人の言葉に、せんべいをくわえながら小首をかしげる。
「秘術書の件はどうなのよ? あんたずっと盗まれたことを黙っていたけれど、あれこそ盗みの目的になるんじゃないの?」
「あぁ、そうですねぇ……でも、うーん」
「ありえないのか? 私にもそう思えるが。なんせ今の容疑者はアリスと魔理沙、両方知識を追求する魔女だしな。魂に人格を維持させたまま転生する秘奥義、知りたいと思うだろう」
「いえ、ありえないこともないと思うんですが……でも慧音先生、あんなところに転生の秘術書があるって知ってました?」
「それは……知らなかったなぁ……」
「ですよね。私も誰にも話したことないんです。そもそもあれをあそこに置こうと決めたのはわたしなので、アリスさんや魔理沙さんが知っているとも思えないんです。だから、わたしの書きつけを持っていこうとして、一緒にまとめられていた秘術書ごと持っていってしまったんだと……」
「ああ、なるほどなぁ」
「それに秘術書が目的だったら、書きつけを持っていったりしないでしょう? その逆ならありえるので、やはり目的は書きつけだと思うんですよね」
「ふん、で、その目的は書きつけを持っていくことなの? それともジョジョと入れ替えることなのかしら?」
「それですよねぇ……」
阿求は頭を抱え込んで突っ伏した。
結局なにがなんだかわからないのだ。目的が書きつけだとしたら、どう考えても代わりにジョジョがあったことの説明がつかない。ジョジョが置いてあったこと自体の説明なんてさらにつかない。だからこそ動機ではなく機会の面から考えていたのだから。
「そのジョジョについて、魔女殿になにか考えはないですか? そこは一度も伺ったことがない気がするが」
「それはもちろんいくつかあるわよ。仮説でしかないけれどね」
「よかったらそれをお聞かせ願えないか」
「いいけれど……決め手になるような考えじゃないのよ。まずひとつは、これは犯人からのメッセージかもしれないっていうこと。犯行声明みたいなものね」
「はぁ……なるほどメッセージですか」
「たとえばそこにひまわりが置いてあったら、あの花畑の妖怪が犯人だってわかるでしょう? 同じように、ジョジョが置いてあったことでなにか伝わるメッセージがあるんじゃないかって思ったのね」
「うーん、でも、わたしはなにも思いつきませんけれど……おそらく発見するであろうわたしにわからないメッセージでしたら、意味がないんじゃ?」
「そう、だから、もしかしたらあなた宛じゃないのかもしれないって思ったの」
パチュリーはそう云って、膝に乗ってこようとする目占を追い払う。普段は喜んで乗せているのにどうしたんだろうと思いながら、阿求は憮然とした顔の目占に手招きをした。愛猫の頭を撫でながら、首をかしげて問いかける。
「わたし宛じゃない?」
「ええ、たとえば咲夜はジョジョの話をしたとき、自分の能力をディオのパクリ扱いするなって怒ったでしょ、あんな感じよ。阿求の書きつけがなくなって代わりにジョジョが置かれていたっていうことが、誰かにとっては意味があることなのかもしれないってね」
「なるほど……この事件の話がそのひとに伝わることで、そのひとにしかわからないメッセージになるってことですか」
「そう。でもわりと広まった今になってもリアクションがなにもないし、関係者もみんな首をひねっているばかりだったわ。だからこれも違うんじゃないかって思った」
「はぁ、色々考えてたんですねぇ……」
「そうよ。だから云ってるでしょう、灰色の脳細胞を働かせなさいって」
「うーん、あいにくわたしはポワロじゃなくてミス・マープル派なので……」
「ふん、あんな女のどこがいいのよ。ずっと安楽椅子から動こうとしないじゃない」
「あなたが云いますかあなたが」
思わず突っ込むと、パチュリーは痛くない白弾を無言でぽこぽこ投げつけてくる。阿求は笑いながら抗議をするけれど、本人に辞めさせるつもりがないのだから止まるはずがない。あきれ顔になった慧音が、わざとらしく大きな咳払いをひとつする
「あー、ごほん、他にはなにかありますか?」
「あ、ああ、そうね……他にはね、ジョジョがなにかの見立てだってことよ」
「見立てですか? えぇと、枯山水が蓬莱山を見立てているみたいな?」
「そう。まあメッセージ説ともあまり変わりないけれど。たとえばあの本の背は紫色をしているでしょう?」
「そうですね。パチェの髪みたいに綺麗な藤色です」
阿求の言葉に、パチュリーはそっと髪を撫でながら微笑みを浮かべる。
「たとえば私が来た証として、自分の髪と同じ色の本を置いておきたかったってこと。髪と紙の語呂合わせにもなるしね。こっちの場合はメッセージとして伝えたいわけじゃなくて、当人だけの自己満足みたいなものかしら?」
「なるほど……」
「まあ、これは考えても仕方ないのである意味どうでもいい仮説ではあるわね。犯人がわかれば自ずとわかることだし」
「そうかもしれませんねぇ、他にもなにかありますか?」
問いかけると、パチュリーはにやりと笑った。
「あるわよ。もうひとつ、考えても仕方がない理由」
「なんですかそれ?」
「それはね、あの状態はなにかの作業の途中だったってことよ」
「なにかの作業……?」
「少しは自分でも考えなさいな阿求。あなた、あの阿礼の蔵に普段はどれくらいのペースで出かけてるのよ」
「それは……普段でしたら二、三ヶ月に一遍くらい……」
「でしょう? でもあのときに限って一週間という短い間隔で二回も見にいった。それは犯人にとって予想外だったのよ」
「あ、なるほど!」
阿求がぽんと手を叩くと、パチュリーは悲しそうに瞳を伏せた。この魔女はわかっているのだろう。阿求が急に阿礼の蔵にいった理由を。最期の時が近いかもしれないと思って、転生の秘術書を読みにいったということを。
「……犯人はあの状態で棚を見られるとは思っていなかった。メッセージにしろなにか他の理由があるにしよ、途中の状態で放棄されたものだから、私たちにはなにがなんだかわからないってこと」
「はぁ……それはたしかに、今の状態で考えても仕方がないですねぇ。どんな可能性だってありえますし」
「でしょう? だから云ったじゃない、可能性と機会の面から絞ったほうがいいって」
パチュリーは正座を崩して横座りになり、つんと顔をそらしながら紅茶をふくむ。その横顔を、阿求はまぶしいものをみる思いで眺めていた。
そのとき、ぱたぱたと廊下を走る音が聞こえてきた。
足音は部屋の前で立ち止まり、声もかけられないままふすまが開く。
「御阿礼さま! パッチェさん! 阿澄おばさんが呼んでるよ!」
現れたのは紫髪をポニーテールに結わえた十歳くらいの女の子。それは阿求の従姉妹の稗田阿湖だった。阿湖は同席していた慧音に気づき、素っ頓狂な声を上げる。
「げっ、慧音先生!」
「“げっ”じゃないだろう“げっ”じゃ。誰かと顔をあわせたとき、最初に云わないといけない言葉はなんだったかな?」
「こ、こんにちは慧音先生……」
「よろしい。こんにちは阿湖」
にっこりと笑う慧音と対照的に、阿湖は引きつった笑顔を浮かべていた。
「阿澄が呼んでいるって? どんな用でしょう」
「知らない。なんか阿礼の蔵まできてって云ってたよ」
「阿礼の蔵に……?」
つぶやいて、パチュリーと顔を見合わせた。
なにか事件と関係することが起きたのかもしれない。
蔵にむかって歩き出すと、皆もぞろぞろとついてくる。けれど阿求は、聞こえてくる足音がひとりぶん足りないことに気がついた。不思議に思ってふりかえると、パチュリーが浮き上がって移動している。
里にいるときはいつも魔法をみせびらかしたりしないのに、どうして急に歩くのをやめたんだろう。
そう思ってパチュリーの様子を思い出していると、答えはすぐにみつかった。
宙に浮いた小さな足をつついたら、足を痺れさせた魔女はひっくりかえって悶絶した。
§12
太鼓の音が遠くに聞こえる。
蝉の合唱に合わせてリズムを刻むように、ドーンドーンと空気を小さく振るわせている。
その音に、浮いて移動していたパチュリーが不思議そうに顔を上げた。
「あれ、なんの音かしら? 弾幕戰?」
「奉納太鼓の練習だと思います。夏祭りが近いので」
「ああ、そういえば云っていたわね」
「ねーねー、パッチェさんも御阿礼さまと一緒に参加してよ。あたし稗田の舞を踊るんだから」
「そう……それは楽しみだわ」
服の裾をぎゅっと握る阿湖に、パチュリーは少し不思議そうな顔をする。
以前から阿湖は、たまに稗田家を訪れるパチュリーに懐いていた。パッチェさんパッチェさんと呼んでその後ろをついてまわり、パチュリーと同じことをしたがった。
最近はともかく、以前の無愛想でとっつきにくかったパチュリーのどこを気に入ったのかわからない。自分に似て面食いなのかもしれないと思う。彼女は御阿礼の子でこそないものの、色濃く阿礼の血を受け継いでいたから。なにせパチュリーの研究癖にかぶれて慧音が驚くような論文をものにしたくらいだから、その才能は折り紙つきだった。
けれどパチュリーは、どうして阿湖が自分に懐いているのかわからないようだった。
それはそうだろうと思って、阿求はこっそりため息をつく。この朴念仁が少しでも自分に向けられる好意に敏感だったなら、阿求も苦労はしなかった。
中庭を移動する間、阿湖はずっとパチュリーの服を握っていた。
やがて到着した阿礼の蔵では、矢絣に行灯袴姿の稗田阿澄が一同がくるのを待っていた。
「あらあら、随分大所帯でこられましたねぇ」
「ええ、たまたま集まっていたものですから。それで用件というのはなんですか?」
「蔵の入り口を見ればわかりますわよ。発見して以降まるっきり手をつけてないですから」
云われた通り蔵の入り口に視線をむけて、その瞬間阿求は目を丸くする。
厚い観音開きの扉の下から、一枚の紙切れが姿を見せていた。
それは阿求が書きつけに使っている半紙と、同じものに見えた。紙は半分くらいが扉の下に入り込んでいて、表に見えている部分には筆で妖怪の絵が描かれている。その絵に阿求は覚えがあった。里近くに現れる傘の付喪神を描いた絵で、盗まれた書きつけの中にあったものだ。
「あれは……」
「自分で拾って持って行こうかとも思ったんですよ。でも現場をありのままお見せしたほうがいいかと思って、保全しておきました。さっき見かけたままの状態ですよ」
「ありがとう、そのまま見たかったので嬉しいです」
「あれ、あなたの絵のタッチよね……」
蔵に近づいたため、パチュリーが地面に降りてつぶやいた。
「ええ。あれは確かにわたしが書いた書きつけです。……盗まれていたはずの」
その言葉に、一同が一斉に息をのむ。
「それがこんなところに落ちているっていうことは……」
「何者かが蔵に侵入した、あるいは前を通りがかったかしたのでしょうね。そうしてその何者かは、盗まれたはずの阿求の書きつけをもっていた……つまり、犯人よ」
状況からすると、蔵の入り口辺りで紙を落とし、それに気づかないまま扉を閉めたというところだろう。あるいは閉まった扉の近くで落ちた紙が、ふわりと下にもぐりこんでいったのか。
どちらにせよ想定されるのは、まさにこの場所に犯人がいたということだ。そうでなければ、盗まれていたはずの書きつけが落ちているはずがない。
「まさか、以前からここに落ちていたという可能性は……」
慧音の言葉に、阿求が頬に手を当てて首をかしげる。
「わたしが最初に蔵に入ったときからですか? それはないです。……記憶を眺め回しても、床にはなにも落ちてないです」
「となると、問題はいつからここに落ちていたかだわ。そのあたりはわかるかしら、えぇと……お義母さま?」
「おかあっ!?」
パチュリーの口から飛び出た単語に、阿求は思わず絶句する。
「あら嬉しい♪ わかるわよパチュリーちゃん。わたくし毎日敷地内を見回りしてるんだけど、少なくとも昨日の朝はみかけなかったわね」
「となると、昨日の朝から今日のお昼の間に、犯人がここに現れたというわけね。そうしてこの紙を気づかぬうちに落としていった。……この時間帯、もう少し絞り込めないかしら?」
「うーん、どうかしら。他の子たちに訊ねればわかるかもしれないけれど、あまり期待はできないわ。ここは稗田家の聖域だから、稗田の者はおいそれと近づいたりしないのよ」
その言葉を証明するように、阿湖はひどく居心地悪そうにもじもじしていた。
「そうなると、大きな問題がひとつあるわね。……目占!」
「なんだパチュリーちゃん」
その呼び名を華麗に無視して、パチュリーはうなる。
「昨夜あなたが慧音と永遠亭から戻って以降、敷地内に不審者は入ってきてないんでしょう?」
「もちろんだ。不審な者がいたらすぐに阿澄などに知らせているよ」
「でしょうね。なら侵入者はそれ以前、昨日の朝から夕方にかけて忍び込んでいるはずよ。でも目占はその時間、私たちと事件のことを話し合うためにずっと永遠亭にいた。だから今回は侵入者が誰なのかわからないのよね」
「……なるほど、なんだか残念ですね。せっかく犯人さんのほうから動いてくれたというのに、容疑者も絞り込めないとは……」
『お義母さま』と『パチュリーちゃん』に思考停止していた阿求が、気を取り直して云った。
「ピンポイントで目占不在の時間をねらってきたということは、もしかしたら犯人は彼女の存在を知っていて、なおかつ霊気を隠せるほど器用ではないのかもしれないわ」
「それは……魔理沙さんのことを云ってます?」
「今挙がっている容疑者から考えれば、必然的にそうなるでしょうね。アリスなら霊気くらい器用に隠すもの。けれどそもそも――」
「はい! ちょっと意見です!」
そのとき阿湖が、授業で発言するように高々と手を挙げた。それをみて、慧音が嬉しそうにうなずいている。
「はい、それじゃあ稗田阿湖。なんですか?」
「えぇと、そもそも目占のことを知ってるひとがいるって前提なら、今の容疑者さんたちに絞る必要がなくなっちゃわない? 最初から目占に見つからないように霊気を隠して侵入したのかも」
阿湖の指摘に、思わず阿求は吐息を漏らす。それは確かにその通りだ。その可能性を考えるとあまりにも容疑者候補が拡散してしまうから、今まで犯人は目占の能力を知らないという前提で話を進めていた。だが犯人が目占の不在をねらって蔵に訪れたとすると、その者は彼女の存在を知っていることになる。
「そうね阿湖、その通りだわ。その前提に立つなら幻想郷のほぼすべての妖怪が容疑者たり得る。ほとんどお手上げね。幻想郷の誰が目占の存在を知っているかなんて、調べられるはずがないもの」
「そうですねぇ……」
つぶやいて、困ったような顔でパチュリーと阿湖を交互に眺める。パチュリーに意見を肯定された阿湖は、嬉しそうに頬を紅潮させていた。事件以外にも頭が痛くなることがたくさんあるなぁと、阿求はため息をついた。
そのとき腰に手を当てた阿澄が口を挟んでくる。
「ねぇ、どっちでもいいですから、まず蔵の中をみてみませんこと? わたくしもう気になっちゃって気になっちゃって」
「ああ、それもそうですね。鍵をとってきます」
きびすを返して歩き出すと、パチュリーも当然のようにその後をついてくる。
それでなんだか、少し救われた気がした。
* * *
結局蔵の中には、慧音がひとりで入っていった。
阿求は自分で直接確かめてくるつもりだったけれど、身体によくないということで皆から止められた。阿澄や阿湖はやはり抵抗があるらしく、阿求たちと共に外で留守番となった。
「……どう思いますか、パチェ」
ぽっかりと開いた蔵の中、懐かしさすら感じる暗がりを阿求は眺める。ぱっと見た限り、鍵やかんぬきの様子におかしなところは見あたらない。前回自分が閉めたときとなにも変わっていなかった。
「どうもこうもないでしょう。犯人が再び蔵に戻ってきた。しかも一度盗んだ書きつけを持っていた。ならその理由はひとつだわ。蔵の中に入ったのよ。それで多分書きつけとジョジョを元に戻していった」
「……でも」
「ええ、わかってる。確かにそんなことはありえない。でもそれ以外に考えられないじゃないの」
そう、ありえない。
阿求自身、パチュリーと同じことを思っている。犯人は書きつけと秘術書を持ってきて、元のとおりに戻していったのだろう。おそらく最初から盗もうというつもりはなく、すぐに戻すつもりだったのかもしれない。
けれどそれは、不可能なはずなのだ。
なぜならこの一週間、蔵の鍵はずっと阿求が持っていたからだ。
事件の翌日慧音に語ったように、阿求は出歩くときには常に鍵を持ち歩いている。それは紅魔館までパチュリーに会いにいったときも変わらない。
だからもちろん時計塔で倒れたときも持っていた。
その後永遠亭に運び込まれたときも持っていた。
昨日の夕方パチュリーと共に戻ってくるまで、阿求はずっと蔵の鍵を持っていた。
――ならば、誰も蔵に入れたはずがない。
蔵への再侵入があったと考えられる時間は、昨日の朝から夕方にかけて。だがその間、鍵は常に阿求のふところにあったのだ。永遠亭の一室で、事件について話し合っていたのだから。
パチュリー・ノーレッジ、上白沢慧音、射命丸文。力ある大妖が顔をつきあわせて話し合っている場から、持っている本人も気づかぬうちに、誰が鍵を盗み出すことができただろう。ましてや結界に守られた永遠亭。月と地上の両界でもっとも高貴な姫が暮らし、月の頭脳の目が行き届いた永遠亭。
アリスであっても鈴仙であっても、たとえ地底の古明地こいしであっても、そんな場所から鍵を盗めたはずがない。さらに鍵を使わずに蔵に出入りが可能なてゐは、まさにその場で犯人候補としてつるし上げられていた。
――容疑者が、いなくなる。
今挙がっている容疑者の中で、今回の犯行が可能なのは昨日永遠亭の会議にいなかった三人だけだ。ひとりはアリス・マーガトロイド、もうひとりは霧雨魔理沙、そして最後に十六夜咲夜。だがアリスと魔理沙はどう考えても鍵を手に入れることができない。鍵を必要としない別ルート、天窓から侵入できるサイズでもない。
唯一物理的に可能性があるのは、ただひとり咲夜だけだった。彼女の能力なら、止まった時の中で阿求の懐の鍵をなにか別のフェイクとすり替え、蔵への侵入ができるかもしれない。蔵に近づくことで時が再び動き出してしまっても、目占が永遠亭にいる以上発覚する恐れはない。
だがその可能性もとても低い。
なんといっても、咲夜は昨日の朝、永遠亭復旧のためにすべての力を使い果たして帰って行ったのだ。
実際彼女が人一倍の活躍をしていた以上、あの憔悴した様子が演技だとは思えない。
――容疑者が、いなくなる。
もし蔵に侵入の痕跡があったなら、今阿求が考えている容疑者は、たったひとりを除いて全滅してしまう。そして彼女が犯人だったなら、阿求は最初からそのひとを問い詰めるつもりがない。きっとその行動は、色々なことを考えた末のものだから。
あるいはそのひとではなく、目占のことを知っている見知らぬ誰かかもしれない。けれどそうなってしまったら、犯人を捜しだすことはおそらく不可能。
探偵ごっこもそこで終わりだ。
「――あ、戻ってきたわよ」
阿澄の声に顔を上げ、阿求はじっと蔵の入り口をみつめる。やがて暗闇の向こうから、慧音の足音が聞こえてくる。
「どうでした、慧音先生!?」
姿を現すのも待ちきれずに問いかけると、暗闇からは「ああ」と困惑したような返事が返ってきた。思わずパチュリーと顔を見合わせて、同時にこくりとうなずき合う。
やがて陽光の元に現れた慧音は、両手に書きつけの束を持っていた。その束の上に、古色も雅やかな一冊の本がある。
「ああ……やっぱり……!」
「盗まれたはずの書きつけと秘術書というのは、これか?」
全部、綺麗に戻ってきていた。
書きつけも、転生のための秘術書も。
ジョジョは影も形も見あたらなかったと、慧音は云った。
§13
リーリーと鈴虫の声が聞こえて、それで阿求はもう晩夏も近いのだと気がついた。
けれど昼間の暑気はまだそのあたりにたゆたっていて、彼女の肌にじわりと汗をにじませる。天狗もいないのにさっと風が吹き、縁側につるされた風鈴をちりりと鳴らした。
「――阿求、ちょっと、胸が苦しいんだけれど……」
「我慢してください、もう、本当に憎たらしいおっぱいですこと」
パチュリーの胸をさらしで締めあげながら、阿求はじとりと目を細める。
「なによそれ、普段嬉しそうに触ってくるくせに」
「時と場合によります! 和服は寸胴じゃないと綺麗にみえないんですよ。帯に胸が乗っちゃうとすごくみっともないでしょう?」
「そういうものなの? でもあいつはそんな感じに着てなかったかしら。ほら、この間会った三途の河の船頭の……」
「小町さんですか? まあ、その、ええと……」
「なるほど、あいつの着こなしはみっともないわけね」
「本人に云わないでくださいよ? また川を渡るときお世話になるんですから」
パチュリーの腰に手をかけ、くるりと自分のほうに振り返らせる。目があうと、恋人は泣きそうな顔で阿求のことをにらみつけていた。
あれから一週間ほどがすぎ、夏祭りの当日だった。
再建されたパチュリーの部屋は着付けをするには狭すぎたから、阿求は自室に西洋魔女を呼びつけた。浴衣を着たいというのはパチュリー自身の要望だ。阿求としてはアリス特製のドレスでもいいと思っていたけれど、変に目立ちたくないとパチュリーは云った。
「タオル、巻きますから……」
「ふん、好きにしたら」
さらしだけでは胸と腰の段差は埋まらず、阿求はため息を吐きながら細い腰にタオルを巻きはじめる。パチュリーはされるがままにくるくる回りながら、彼岸の話を口にした阿求を恨みがましい目でみつめていた。
結局あの『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』とはなんだったんだろうと思う。
なんのために犯人は書きつけと秘術書を盗み、ジョジョと入れ替えていったのか。そうしてなぜ再び元に戻していったのか。
それを犯人に問いたい気持ちはぬぐえない。
けれど阿求は、そのすべてを一旦忘れることにした。
ひとを疑うということはとても疲れる。咲夜の反応が、文やてゐの反応が、阿求の中で今も棘となって残っている。ただすっきりしたいというだけのために、もう一度あの気分を味わいたいとは思わなかった。
盗まれたものが戻ってきたということは、犯人も阿求を害しようとしたわけではないのだろう。そう思って、阿求は犯人捜しをやめることにした。とりあえず警備は厳重にしたけれど、この一週間とくに何事も起きていない。結局このまま何事もなく時はすぎていくのだろうと思われた。
ただ問題は、転生の秘術書の件だった。
阿求のみならず、現在生存している稗田の者に秘術書の内容を知っているものは誰もいない。阿求が読んでみた限り内容は正しいように思えたし、是非曲直庁および四季映姫ヤマザナドゥの落款も押されていた。だが中身が書き換えられていないとも限らない。もし詳細や作法の面で実際と違うことが書かれていたら、取り返しのつかないことになる恐れがあった。
そう思って、阿求はパチュリーの結界に守られながら三途の川まで小野塚小町を訪ねていったのだった。
不良渡し守は、どうか映姫には内緒にして欲しいという頼みにもあっさりうなずき、秘術書の内容確認をしてくれた。わざわざ是非曲直庁の書庫にいってまで、内容が書き換えられていないことを証明してくれたのだ。
それで、この事件はとりあえず終わった。
「パッチェさん、御阿礼さま、用意できた?」
バンとふすまを開けて、阿湖が姿を現した。
緋色の飾り紐がついた千早を羽織り、腰に緋袴を穿いている。結い上げた髪には乙女椿の飾りかんざしを挿していて、自分の従姉妹ながら抱きしめたくなるほど愛らしい巫女姿だった。
「ふわっ! パッチェさん凄い綺麗……」
「あら、ありがとう。あなたも可愛いわ阿湖。どこぞの博麗よりよっぽど巫女らしいんじゃないかしら」
「えへへ……そ、そうかなぁ。霊夢さまと比べられるとさすがに照れちゃう」
そう云って、阿湖は赤らんだ頬をぺたぺたと撫でる。その光景を、阿求は胸の痛みと共に眺めていた。
「ほら阿湖、あなたは奉納舞の準備があるんでしょう。わたしたちもちゃんと見ますから、そちらに行ってなさいな」
「はーい」
元気に答え、上機嫌で廊下をぱたぱたと去っていく。その後ろ姿に、阿求は桜色の花びらが見えた気がした。
「あの子、一体なにしにきたのかしら? 別に一緒にでかけるわけでもないのに、そんなに私たちの支度が気になるの?」
「はぁ、鈍感……」
「なによそれ、意味わかんない」
パチュリーが小首をかしげると、浴衣に合わせて結い上げたプラム色の髪がさらりと揺れる。朝顔の花を散らした花かんざし、紅魔館めいた赤い口紅。いつもと違ってむき出しになったうなじの後れ毛が、夏の宵に匂い立つような色香を放つ。
「あの子、パチェのこと好きなんですよ。まったく、全然気づいてなかったんですか? あんな無駄に褒めて気を惹くようなことおっしゃって……」
「……へ? 好きって?」
「云っておきますけど、『友だちとして好き』とかそういうことじゃないですから。その手の勘違いは一度で十分です。当主の彼女に岡惚れしてるんですよあの子は」
「ええ? 本当?……それは、どうすればいいのかしら……」
困惑したように眉をしかめながら、パチュリーは頬に手を当てる。その表情に、阿求は少しだけほっとした。ここでまんざらでもなさそうに頬のひとつでも染められたら、さすがにいい気分はしなかった。
「わかりませんよそんなこと」
つんと顔をそらしながらそう云って、巾着袋を手に部屋を出る。そのあとをパチュリーが慌てたように追いかけてきて、強引に阿求の手を取った。
「ちょっと阿求、怒ってるの?」
「怒ってないです、なんでわたしが怒るんですか」
「態度がつれないじゃない。怒ってないなら、妬いてると判断するわよ」
「妬いてもいませんよ! ただ悲しいだけです」
「……なにが? 云ってくれないとわからない。私は鈍感なのよ」
口をとがらせたパチュリーの腕に、阿求はぎゅっとすがりつく。慣れない和服にバランスを崩し、パチュリーはとんと脇の壁に背中をつける。
「阿湖の気持ちなんて、どうせ子どもっぽい憧れです。身近にいる綺麗な大人になら、子どもはみんな憧れます。背伸びして飛び上がって手を伸ばして、それで自分が大きくなったつもりなんですよ」
「そう……人間はよくわからないわね」
「でしょう? だからわたしが妬く必要なんてないんです。あんな子どもに負けるかもなんて、思っていませんよ」
「……じゃあ、なにが悲しいのよ」
「だって、それでもあの子は、わたしが逝ったあと、あなたのそばにいられるじゃないですか!」
思わず目尻に涙が浮かんでしまう。こんなこと云うつもりじゃなかった。千二百年生きている大人らしく、どっしりと構えていたかった。
でも駄目だった。
今までのように、どうせ死んで転生するのだからと醒めた視線で眺めるには、パチュリーは心の中に入りすぎていた。
「あの子、どんどんわたしに似てきますよ。わたしに似て頭だっていいし、わたしに似て顔立ちも可愛いです。わたしが死んだ後、あなたが――」
その言葉は、最後まで云いきることができなかった。
くちびるが、くちびるでふさがれてしまったから。
どんと壁に追しつけられて、息苦しさにあえぐ。けれどそれでも許してくれなくて、むさぼるようにかき抱かれた。
せっかく紅引いたのにだとか、パチュリーの髪も結いなおさないとだとか、そんなことをちらりと思う。
でもすぐにどうでもよくなった。
パンパンと、里のほうから打ち上げ花火の音がする。勇壮に響く陣太鼓、心が浮き立つ横笛の音色。里のはずれにあるこの家にまで、ひとびとの笑い声が聞こえてくる。
逝く夏を送る祭りが、はじまった。
§14
からころと、下駄を鳴らして歩いていく。
夜の底に漂う香りはふわりと甘い。とろけそうな綿菓子の、どこか涼やかな林檎飴の、胸が温かくなるようなチョコレートの、甘い香りが匂い立つ。昔どこかに捨ててきた、記憶のように匂い立つ。
ざわめき、笛の音、笑い声。どこかの香具師が七五調で並べ立てる呼び込みが聞こえる。水風船が手のひらに当たるパンパンという湿った音。くじがいんちきだとくってかかる、威勢の良い男の怒鳴り声。それをはやしたてる野次馬の無責任な歓声。
変わらないなと阿求は思う。
数百年が経ち文化や風俗は変わっても、祭りの心浮き立つような楽しさは変わらない。日常から解放されて華やかに笑う、ひとびとの笑顔は変わらない。楽しそうに通りすぎていく親子連れ、手を取り合ったカップル、はね回る無邪気な子どもたち。
けれどその中に、ちらほらと人外の姿もみえている。
大きな角を生やした伊吹萃香が、ときおり瓢箪をぐびりとやりながら出店をひやかして回っている。気づいた店主が顔を青ざめてあとずさるけれど、当人は気にしない風にとうもろこしをひょいとつまんで小銭を落とす。鬼の存在を知らない子どもたちがその後ろをついて回り、小さな小さな百鬼夜行を作っていた。
広場ではプリズムリバー樂団の三人が、ジンタのような音楽を奏でている。それは阿求も聞いたことがない曲で、哀切なメロディと、祭りのリズムが合わさった不思議な曲だった。
他にも山の天狗や河童、里近くに住む人獣や妖精など、知能の高い妖怪をそこかしこでみかけた。けれど特に人間に危害を加えようとするでもなく、周囲の里人も受け入れている様子だった。
人里も変わるものだなぁと阿求は思う。昔慧音も云っていたけれど、博麗の大結界と弾幕戰の文化は、ひとびとの意識を百年前とは随分変えたようだった。
「なぁにあれ、騒がしい。誰よあの馬鹿を連れてきたの」
妖精のチルノが騒ぎを起こしているのをみて、パチュリーが鼻を鳴らしながらそう云った。どうやら金魚すくいの水を凍らせてしまったらしい。慧音が慌てて飛んできて、ごつんと盛大な頭突きを食らわせている。
「あいたたたたっ、あれ本当に痛いんですよね……みてるだけでおでこがうずきます」
「あら、阿求も慧音に頭突きなんてされたことあるの?」
「ええ、子どものころに一回。悪いのはわたしだったので、仕方ないんですけど」
「へぇ……あなたが悪いことをねぇ。詳しく聞きたいわ」
「気が向いたらお話しますよ。他にもたくさん、わたしの人生のお話を」
そう云って、肩にもたれかかって腕を組む。祭りの匂いを押しのけて、ふわりとパチュリーの香りが強くなる。魔女は少し頬を赤くしながら、空いた手で阿求がつけた乙女椿のかんざしを直してくれた。すれ違った里のひとが、苦笑いを浮かべながら目をそらす。
「ねぇ阿求、私の着付け、やっぱりおかしい?」
「どうして? ちゃんとできてると思いますが」
「でも、すれ違うひとにまじまじみられることが多い気がするんだけれど……」
「ふふ、パチェがあんまり綺麗なのでみとれてるんじゃないですか?」
くすくす笑いながらうそぶくと、髪を直していた手でデコピンされた。
「あいたっ」
「あんまり馬鹿なこと云ってると頭突きするわよ。本当はどういうこと?」
「どういうこともなにも……九代目阿礼乙女ですよわたしは。正直里でも一番の有名人ですから。その彼女になったっていう魔女はどんな女だろうって、注目されててあたりまえでしょう」
「……むう」
うなって、顔をそらす。
パンパンと打ち上がった花火が、そのすべらかな頬を赤や黄色に染めていく。
けれど花火が終わって薄暗闇がもどっても、頬の赤みが消えることはなかった。
「――うわっ、キモイ! パチェが超絶キモイわ、咲夜!」
そのとき聞き覚えがある声がして、パチュリーがぴしりと固まった。
「まぁ、お嬢さま。それは少しひどいです。いくらパチュリーさまだって、たまには甘い顔のひとつもしますわよ。頬を染めながら彼女の乱れた前髪直しちゃったりとか……ぷぷっ! もうだめっ!」
振り向くと、綺麗に浴衣を着こなしたレミリア・スカーレットと十六夜咲夜が、パチュリーを指さしながらげらげら笑っていた。
なかなかに祭りを楽しんでいるようで、レミリアは天狗のお面を頭の横にかぶりながら、水風船をばいんばいんと手に当てて遊んでいる。
からかわれたパチュリーが、瞬間的に顔を赤くしてレミリアに詰め寄った。
「なんでレミィがいるのよ! 私を笑いにきたなら今すぐ帰って!」
「はん、自意識過剰なんだよパチェは。わざわざそんなことのために来るもんか。祭りを楽しみに来たんだもん」
「あっそう、ふーん、確かにずいぶん楽しんでるみたいね? 吸血鬼が天狗の仮面なんかかぶっちゃって、恥ずかしくないのかしら……」
「人間の仮面かぶってるパチェには云われたくないねっ」
「なんですって、やっぱり私を笑いに来たんじゃない!」
ぎゃーぎゃーと罵り合いをはじめたふたりから、阿求は下駄を鳴らして離れていった。
一度こうなると、パチュリーの視界には恋人の姿すら入らなくなってしまうのだ。自分は確かにパチュリーの恋心を奪ってその身体すら得たけれど、なお彼女の心の何割かはレミリアの元にあると知っていた。
「どう? パチュリーさま、ちゃんとやれてる?」
いつのまにか隣にいた咲夜が、阿求に微笑みとあんず飴を差し出した。
「あ、ありがとうございます。それはもう、思った以上にがんばってくれてますよ」
「ふふ、さんざん脅しておいたからね。変なところみせて嫌われても知らないわよって」
「あはは、それであんな借りてきた猫みたいになってるんですか」
あんず飴の甘い水飴を舐めとって、露出した果肉にかぷりと噛みつく。甘さで満ちていた口の中に広がるすっぱさ。まるで恋みたいだと阿求は思う。
「……レミリアさま、寂しがってますか?」
「まぁ……なかなか複雑なものがあるみたいね。あれでお嬢さまはあなたのことも好きだから、憎んだり恨んだりはできないんでしょう」
「そう……」
「気にしてるの? 略奪愛」
「略奪って、そんな……でもまぁ、気にしますよね。パチェもレミリアさまといると生き生きしてますし。わたしがひとり占めしちゃっていいんだろうかって……」
恋のためには世界全部を捨てられるなんて幻想だ。それはもちろん恋人の存在は大事だけれど、それだって人生で数ある関係の一部にすぎない。とくにこれから先何千年と生きていくはずのパチュリーにとってはそうだろう。
もう先がない、阿求とは違う。
さっきまで喧嘩をしていたパチュリーとレミリアは、いつのまにか肩を並べて射的なんかに繰り出している。『弾幕お断り』と書かれた台に精一杯上体を倒して、ちんけな銃で狙いを定める吸血鬼の女王。となりでにやけているパチュリーの、容赦ない毒舌が聞こえてくるようだ。
「いっそあなたが紅魔館にくればいいのにね」
「――え?」
「なんてね、そういうわけにもいかないか。稗田家の当主、九代目阿礼乙女なんだものね」
その瞬間のことだった。
阿求がその計画を思いついたのは。
上手く行かないかもしれない。
誰かをひどく傷つけるかもしれない。
でもやっぱりこのままではいけないんじゃないかと思っていたし、なによりあのひともそれを望んでいるはずだから。頭の中で計画を練り上げながら、阿求は言葉を選んで語りかける。
「――そういえば咲夜さん、このあと魔理沙さんが花火を打ち上げるって話は聞いてます?」
「あ、ええ。なにやら弾幕をモチーフにした花火なのよね。花火をモチーフにした弾幕だったかしら? まあどっちでも同じ気がするけれど、一応それを見にきたのもあるのよ」
「そうですか……よかったら一緒に見ませんか? その前にアリスさんの人形劇もありますし」
「ん? いいわよ。いいけれど……一体なにを企んでるのかしら」
怜悧な瞳をナイフのようにとがらせ、咲夜はじっと阿求をにらみつける。
「ふふ、さあなんでしょう?」
その追求を笑顔でかわして、阿求はパチュリーの元に駆けだした。
* * *
――かけまくも畏き月弓尊は上絃の大虚をつかさどり給ふ
――月夜見尊は円満の中天を照らし給ふ
里にある博麗神社の分社で、博麗霊夢が厳かに祝詞を唱えている。夜の月を待つ祓いの言葉。凜と張り詰めたその声は、漂うように夜に浮かび上がって遙か月まで届きそう。
舞殿で祝詞を捧げるその後ろ姿は、神々しくも美しい。いつも縁側でだらだらお茶を飲んでいるひとだとは思えない。
パチュリーと共に客席の茣蓙に座りながら、阿求はどうして今年の霊夢はこんなに真面目なのだろうと不思議に思う。求聞持の記憶にあるかぎり、去年も一昨年もこんなに真剣ではなかったはずだ。
そう思って、ふと気づく。
きっと阿礼乙女の前で奉納舞を踊るのが、これで最後だと思っているからなのだろう。
心の襞を撫でるような笙の音。
ぽんぽんと跳ねる楽太鼓。
雅楽に合わせて数人の巫女たちが、ゆったりとした動きで舞っていく。
その中でもやはり、霊夢の舞は際だっていた。寸毫も乱れない体幹と、ぴしりと決まった指先の動き。やはりこのひとは博麗の巫女なのだと、新鮮な驚きと共に阿求は思う。
次によく動けていたのは、身内びいきながら阿湖だろう。身に染みついた舞の所作を、ひとつひとつそつなくこなす。その結い上げた髪の後れ毛が、なぜだかとても清潔に感じた。
阿求の中に、阿湖に対する悪感情はまったくない。
むしろ胸が張り裂けるような悲しさだけを感じている。
当主の恋人という、好きになってはいけないひとを好きになってしまった切なさを。あの思春期にのみ感じる、大人になることとひとを恋する気持ちが結びついた苦しさを。阿求だってくぐり抜けてきたのだから。
自分が死んだあと、阿湖とパチュリーは一体どうするだろうか。
阿湖は一瞬だけでも恋敵が死んだことを喜んで、その罪悪感に押しつぶされてしまうだろうか。パチュリーは稗田の家にとどまって、阿求の思い出を抱えながら次の自分が産まれるのを待つのだろうか。そうして大人になった阿湖の中に、ふと自分の面影をみつけたりもするだろうか。
――そんなのは、いやだ。
阿湖が苦しむのも嫌だし、パチュリーが阿湖に自分の面影を重ねるのも嫌だ。阿湖は才能にあふれたひとりの人間だ。自分の身代わりになっていいような子じゃない。
やがて舞もつつがなく終わり、境内には穏やかだけれど大きな拍手が鳴り響く。その音の中、霊夢は我関せずと無表情をつらぬき通し、阿湖は喜ばしげに口元をあげる。
その視線が、すっと阿求とパチュリーのほうにむけられて。
――恋する少女は、華やかに笑った。
その顔をみていられなくて、阿求はそっと目をふせた。
* * *
物見の丘は広場の東にあり、里全体を見下ろすことができる。普段その場所はちょっとした発表会や、村会議で決めた事項の告示などに使われており、平たい壇を囲むように作りつけの長椅子が設えられている。
その壇の上に、小さな屋台のような仮設舞台があった。
「あれが例の人形劇の舞台? なるほど、いくらでも物を隠しておけそうね」
「そうですねぇ、まあ、今となっては終わった話かもしれませんけれど」
八目鰻の屋台に見たてれば、鰻を焼く調理台のあたりが演台だ。箱状になった下部は人形や小道具を入れる収納スペースなのだろう、ジョジョ全巻くらいなら余裕を持って入れられそうだ。背後に垂れた黒いカーテンの中で、アリスがごそごそ準備しているのがみえた。
「さて、お手並み拝見といったところかしら」
パチュリーが呟いたそのとき、アリスがカーテンから出てきて集まった観客に礼をする。パチパチと鳴り響く拍手の中、一瞬パチュリーに目をとめてぽかんと口を開いた。魔女の和装に驚いたのだろう。
アリスは一言二言口上を述べて、再び仮設舞台の裏に入り込む。やがてビロードの緞帳があがり、アリスの人形劇ははじまった。
それはひどく奇妙なものだった。
舞台の上で、人形たちが演劇を繰り広げていく。
魔女にとらわれたお姫さまを、凛々しい姫騎士が助けにいく話。
当たり前の人形劇の構成で、よくあるといえばよくある話。
けれどその普通の人形劇を行っているのは、アリスではなかった。
仮設舞台の上に腰掛けた蓬莱人形と上海人形が、舞台上のマリオネットを操っているのだ。そうして物語の筋立ては、ふたりの人形の掛け合いの中で縦横無尽に変わってしまう。
「ちょっと上海、その展開はありきたりすぎでしょー」
「えー、蓬莱は奇をてらおうとしすぎなの。王道には王道の美学があるんだからー」
「それはわかるけど……じゃあこうしない? 悪い魔女さんも本当は人間のことが大好きで、みんなと仲良くなりたいって思ってるのよ」
「うーん、仕方ないなぁ、じゃあそれでいいよ」
そんなやりとりで、お姫さまをさらった悪い魔女は、素直になれないだけの可愛い女の子にされてしまった。
「くく……あれパチェのことなんじゃないですか?」
小声でささやくと、パチュリーは憮然とした表情をみせる。
「ふん、だとしたら観察不足にもほどがあるわ。私なら自分で姫をさらったりしないもの」
「あーあー、そうですよね。パチェならお姫さまが勝手にひっかかってくるのをじっと待ってますよね」
「もちろん」
悪びれもせず云ったパチュリーのことを、阿求は少しだけ憎たらしく思う。
魔女が呼び出したゴーレムと、騎士との戦い。
姫の奮闘と魔女の悔恨。
そして物語は大団円――かと思いきや、「これで終わりでいいの? 悪いことしちゃった魔女さんは罪悪感をずっともってるの?」という蓬莱の言葉で続いてしまい、気づけば三角関係ラブロマンスになっていた。それが蓬莱の趣味らしい。
阿求も観客と一緒に笑い声をあげながら、内心アリスの技量のすさまじさに舌を巻いていた。
アリス・マーガトロイドという存在は、その場から完全に消えている。
上海も蓬莱も本当はアリスが操っているはずなのに、もう誰もそんなことを覚えていない。七色の声色を駆使して、蓬莱が各登場人物の演技をする声と、上海のそれとを使い分けているのだから恐れ入る。
結局物語は、三人一緒につき合っていくという驚天動地の展開で幕を下ろすことになった。一般的には考えにくいつき合いかたではあるけれど、それまで上海と蓬莱の真摯な議論を見てきた観客にとっては、これ以上ないようなハッピーエンドだ。
万雷の拍手に包まれた物見の丘の演芸場で、阿求はひとり、舞台の裏側にいるアリスの姿を思い描いていた。
「お疲れさまです、アリスさん。すごく面白かったです!」
「あら、ありがとう阿求。『物語の神さま』稗田阿礼にお褒めいただいて光栄ね」
ひとの引きはじめた演芸場で、屋台の片づけをしていたアリスが顔を上げた。
「いやいや、それは阿礼のことですから。わたしはそんなんじゃないですよぅ」
阿求は気恥ずかしげに前髪をいじる。そんな彼女にうっすらと微笑み、アリスは客席のほうに視線をむけた。
そこには不思議と見知った顔ぶればかりが集まっていた。
祭りの取材に訪れた射命丸文がいる。レミリア・スカーレットと十六夜咲夜がいる。遊びに来ていた因幡てゐと鈴仙・優曇華院・イナバに、見回りに来ていた上白沢慧音、それと阿湖がいる。
おそらくは紅魔館の当主レミリア・スカーレットの存在に気づいたのだろう。さきほどまでたくさんいた里人や、人形劇に夢中だった低級妖精たちは綺麗さっぱり消え失せて、物見の丘は期せずして妖怪グループの集合場所のようになっていた。
さわさわと風が吹き、火照った身体をさますと共に広場を囲む青草を揺らす。夜空はどこまでも晴れ渡り、怖いくらいに輝く星が誰かの弾幕のようだと阿求は思った。
そのとき射命丸文がふわりと客席から飛んできて、天狗帳を片手にアリスに訊ねる。
「いやはや、なかなか面白かったですねアリスさん。それであの劇の狙いはどんなところにあったんですか? 珍しい感じでしたけれど」
「どうって……そんなの見たひとが自分で考えればいいわよ。狙いなんて言葉で説明したくないわ」
「うーん、でもそれじゃあ新聞の読者にはわからないですからね。できるだけわかりやすく説明して欲しいんです」
文の言葉に、アリスは一族郎党が死に絶えたかのような仏頂面をした。その気持ちは阿求にもなんとなくわかる。言葉で説明できるくらいなら、わざわざ劇の形にしないのだろう。
無邪気な顔で返事を待つ新聞記者に、アリスは諦めたようにため息をついた。
「まぁ……普段から人形劇とかやっているとね、時々思うわけよ。こうやって人形を操る自分自身も、実は人形だったりしないだろうかって」
「はぁ?……どういうことでしょう、アリスさんは人形じゃありませんよね?」
「一応そう思っているけれどね、でももしかしたらこの上海たちだって同じことを考えてるかもしれないわ」
その瞬間、ふわりと上海人形が浮かび上がる。布でできた両手を万歳の形に挙げ、「シャンハーイ」と叫んでくるくる回る。
「今のは腹話術でしょう?」
「そうよ。私が魔法の糸で操って私が喋った。でもこの場合は物理的な糸だけれど、同じように見えない糸が、私たちの心にも張り巡らされているかもしれない。それで舞台の裏側にいる誰かに操られてるかもしれない。そんなことを時々思うのは、私だけかしら?」
乾いた顔で笑うアリスに、ふと周囲に沈黙が訪れる。
アリスほどではないけれど、みなそれぞれ心当たりがあるのだろう。阿求自身、人形遊びをしていた子どものころにそういった気分になることがあった。
本当にこの人形には心がないのだろうかと思うと同時に、自分もより上位にいる誰かにとってはこの人形と同じかもしれない。そんな不思議と客観的な視点に放り投げられて、足下が揺らいだ経験が。
ましてやここは、幻想郷だ。
舞台の裏側には、より上位の次元には、実際にひとがいる。
黒い黒いカーテンのスキマから。舞台からはみえない暗渠の影から。文字通りすべての糸を引く妖怪の賢者が、胡散臭い笑みでわたしたちを覗いている。
「まあ、そういう思いを入れ小細工の劇にしてみたってこと。もちろんそんなこと考えなくても純粋に楽しいように作ったつもりだけれどね。どう? わかりやすく書けそうかしら?」
「いやー、それはちょっと書けませんや……まるであの方に喧嘩を売っているみたいじゃないですか」
「でしょう? だから説明したくないって云ったのよ」
肩をすくめてアリスが云うと、文は諦めたように天狗帖をぱたんと閉じた。
「疲れたでしょうアリス、よかったら紅茶でもどうぞ」
そう云って、咲夜が魔法瓶の蓋をそっと差し出した。ありがとうと云って口をつけるアリス。どうやら紅魔館のひとたちは、どこにいくにも紅茶持参で出かけるらしい。物欲しそうに眺めていたら、咲夜は笑いながら阿求にもめぐんでくれた。
こくりと口に含むと、やはり自分で淹れたものより美味しい。
どう考えても淹れたてじゃないはずだし、茶葉だって同じものを使っているはずなのに。どうして違うんだろうと小首をかしげる。この紅茶を飲める紅魔館のひとたちはずるいなと、隣のパチュリーを横目で眺めた。
でもそれも、自分はこのひとから奪ってしまった。
「あ、みてみて、そろそろはじまるみたいよ」
「おお! 楽しみだね鈴仙!」
そのとき、近くにいた鈴仙とてゐの会話が聞こえてきた。阿求が鈴仙の視線の先を眺めると、里を貫いて流れる川の辺に、ぼんやりと灯りが点っている。見ているうちにもパンパンと号砲が上がり、弾幕花火の開始を告げた。
「あいつ、結局どんな花火を上げるつもりなのかしら。なんか絶対みてろとか云われたんだけど……」
首をかしげるアリスに、阿求はにっこりと笑いかける。
「ふふ、どうなんでしょう。でも絶対見ておいたほうがいいと思いますよ」
「あらなに? あなた知ってるの?」
「まあ、そこら辺は見てのお楽しみということで……」
「そ、そう……? まあ、楽しみにしてるわ」
とまどった様子で、けれどいそいそと居住まいを正すアリスに、阿求は少しだけ嬉しくなった。そんな阿求に、パチュリーがそっと身をよせてきてささやく。
「なるほど、なんとなくわかってきたわ。あの日魔理沙がなんであなたの家で一晩中飲んでいたのか。……あなたが云えなかった理由もね」
「あら、わかりましたか?……まあ、アリスさんはね、ちょっとパチェで遊びすぎたんですよ。聞けばアリスさん、パチェの前には魔理沙さんを着せ替え人形にしていたそうで……」
「はぁ……それで急に私に矛先を変えたから、捨てられたみたいに思ったのかしら。ばかじゃないの?」
「まあまあ、恋する女の子はちょっとしたことで疑心暗鬼になるものですよ。パチェも自分の胸に手を当てて考えてみたらどうですか」
「……私はないわよ? 疑心暗鬼になったこと」
「させたほうですよっ!」
阿求が突っ込んだそのとき、どかんと盛大な音を立てて空が爆ぜた。
§15
巨大な光の柱が、大量の星と共に河原から天へと立ち昇る。
それは魔理沙が使うマスタースパークに似ているけれど、普段のものより桁違いに大きい。中天にさしかかった光の柱は、ひとびとの頭上ではじけて分かれ、夜を真昼に変えながら四方八方に走っていった。
地上からわっと歓声が挙がる。色とりどりの五芒星が散らばる中、箒にまたがって飛ぶ魔理沙の姿がみえる。
「なによあの無茶苦茶な大きさ……火薬を触媒に使っているのかしら」
「そうみたいです。だから弾幕花火なのだそうで」
「なるほど、派手なだけで威力はなさそうだけれど……あいつらしいわね」
パチュリーは呆れたような、けれどどこか満足げな表情を浮かべる。普段なにかと憎まれ口ばかり叩くけれど、なんだかんだで認めてるんだろうなと阿求は思う。隣をみると、アリスも感心したように空の芸術を眺めている。
どんと音が鳴り、魔理沙を中心に七色の五芒星が飛び散った。五芒星は回転しながら夜空を切り裂いて飛び、星を落としたような流星がその合間を埋めていく。
「なんだっけあれ、ミルキーウェイだったかしら?」
「そうそう、私あれ苦手なのよね。どうしても星弾の判定がわからなくて……」
「あら、あれは回転避けがおすすめだわ。リズムに乗ってしまえば、あとは小星弾に注意すればいいし」
やいのやいのと井戸端会議をはじめる地上の人妖たち。そんな風に弾幕ごっこで語り合える彼女たちのことを、阿求は少しだけうらやましく思う。自分だって自由に空を飛び、弾幕のひとつも繰り出してみたい。そう思ったことは何度もあるから。
空では次々と弾幕の花火が上がっていく。
放射状に配置された使い魔が、渦を巻きながら弾幕を放つイベントホライズン。夜空を切り裂くレーザーと星弾の交差が美しいスターライトタイフーン。ノンディレクショナルレーザーを放ったときには、パチュリーがひどく渋い顔をした。
その華やかな弾幕花火は、里びとの心をつかんだようだった。新たな花火が登場するたび、歓声とともに「霧雨屋!」の屋号が挙がる。だが魔理沙は、魔法と弾幕を極めるためにその霧雨屋を飛び出したのだ。あの親父さんも地上のどこかで見ていればいいと、阿求は思う。
「それにしても、本当に弾幕ばかよねあいつ……」
アリスがぽつりとつぶやいた。その人形めいた白磁の顔を、弾幕花火が赤やピンクやオレンジ色に染めている。
――気づいているのだろうかこのひとは。
『恋』の名のついたあの弾幕花火を、魔理沙が誰に対して打ち上げているか、アリス・マーガトロイドは気づいているのだろうか。
やがて魔理沙は手持ちのスペルカードをすべて撃ち尽くし、つかの間夜空に暗闇が戻る。
「あれ? これで終わり……よね?」
アリスが不思議そうに目をぱちくりとさせた。
少し肩すかしに感じているのだろう。たしかに美しい演し物ではあったけれど、それまでのところ阿求が匂わせたような何かは特になかったのだから。
「いえ、これからが本番です」
「え? でも――」
アリスが首をひねったそのとき、空が再び光で満ちた。
放射状にばらまかれた光弾が、拡散しながら一斉に色を変えていく。青から緑、緑から赤。鮮やかな色彩の変化に、里の観客が一斉に拍手した。
けれどそれを見ていたアリスは、ぽかんと口を開けていた。
「あれ――私の『博愛のオルレアン人形』じゃない」
そうして次の瞬間、巨大なハートマークが夜空に打ち上がる。
恋色魔法使いの胸から飛び出たハートは、ピンク色に輝きながら空を満たして、地上のすべてを同じ色で染めていく。やがて拡散しながら消えそうになると、また同じハートマークが二個三個と打ち上がる。
「うわぁ……」
呆れ声を上げたのは誰だっただろう。阿求が周囲を見渡せば、空を見上げながらのけぞっているもの、にやにや笑いながらアリスのほうをながめるもの、頬を染めながら目をきらきらさせているもの、さまざまだった。
けれどその誰もが、弾幕とハートマークに篭められたメッセージを正確に把握しているようだ。
アリスの顔を見上げると、誰よりも顔を真っ赤にさせて魔理沙の姿を追っていた。
その後も魔理沙が打ち上げる弾幕は、みなアリスのものだった。『魔彩光の上海人形』、『霧の倫敦人形』、そして『グランギニョル座の怪人』。複雑に軌道と色を変化させていくアリスの弾幕は、弾幕花火と合っていた。幾何学的に配置された弾幕が一斉に色を変えるたび、地上からはどよめきと歓声があがる。
けれどその意味をわかっているのは、ただ弾幕少女たちばかり。
普段からアリスや魔理沙と戦っていなければ、それがアリスの弾幕だとはわからない。そこに篭められたハートマークの意味がわからない。
幻想郷の住人すべてにみせつけていながら、なお一部の者にしか伝わらないメッセージ。
「なによあれ……あなたの差し金?」
パチュリーがそっと顔をよせてきてささやく。
「いやぁ……別にこうしろって云ったわけじゃないんですが……ただアリスさんはロマンチックな告白が好きなんじゃないかなって云っただけで……」
やがて夜空を埋めた大量の光球が、一斉に弾幕の花へと変わる。
魔操『リターンイナニメトネス』。
その陽光に匹敵するほどの輝きと共に、それまでのどれより巨大なハートマークが物見の丘の頭上に上がった。
それを最後に弾幕花火は終了し、夜は再び暗闇を取り戻す。里のあちこちから拍手が聞こえてくる中、アリスははぁと切なげな吐息を漏らした。
「まったく……なによあいつ、まったく……」
胸元のリボンをゆるめ、ボタンを外して大きく開ける。「本当に今日は暑いわね」などと云いながら、蓬莱にぱたぱたと団扇を仰がせた。阿求のところまで、ふわりと甘い恋の香りが漂ってくる。
やがて静まりかえった空を、ひとりの少女が飛んできた。
大きな中折れ帽に、パフスリーブのエプロンドレス。霧雨魔理沙が箒にまたがり飛んできて、アリスの頭上でぴたりと止まる。
「よ、ようアリス……見てたか?」
「見てたわよ……ばかね、見てたわよ……」
「か、感想は……」
「綺麗だったわよ。頑張ったじゃない、あんたにしては」
「そ、それだけか……?」
「それだけってなによ! それだけよ! 云いたいことがあるならはっきり云いなさいよ!」
照れ隠しをするように、アリスは叫ぶ。空にいる魔理沙と地上のアリス。ふたりの距離はまだ遠く、星明かりだけでは互いの表情は見えないだろう。
阿求ははらはらしながらそんなふたりのことを見守っていた。
あの日、アリスが稗田邸を訪れた日の夜、魔理沙をけしかけたのは自分だった。魔理沙は頻繁に人里を訪れるようになったアリスが気になって、後をつけていたらしい。そうしてそんな自分が心底嫌になって、飲み屋で飲んだくれたあと直接阿求のところにやってきたのだった。
そんな魔理沙に『好きなら好きって云っちゃいましょう』とわりと気軽にけしかけたのは阿求だった。
そのときは、こんな大がかりなことをやりはじめるとは思わなかったのだ。
「……いや、私は云わないぜ、アリス」
「……え?」
魔理沙の口から出てきた言葉に、アリスは虚を突かれたように目を見開いた。
阿求も心底驚いて、顔を伏せた魔理沙の姿をじっとみつめる。まさかそんなことを云うとは思わなかった。てっきり勇気を出して恋の告白をすると思ったのに。
「私はさ、アリス。喋るのは上手くないんだよ。特に自分の気持ちを伝えるなんて全然できない。だから私は弾幕馬鹿なんだぜ。言葉じゃ上手く伝わらないことでも、互いの弾幕みればわかる気がするからな……」
「魔理沙……」
「さっきの弾幕に、全部篭めたつもりなんだ。アリスの弾幕がどれだけ綺麗かとか、なんかそういう気持ちを全部……。だから、あれで伝わらなかったならもういい。気持ちなんて、言葉で説明したくない」
人形遣いがはっと息を飲む。感極まったように両手を口に当て、サファイアにも似た瞳をうるませる。
阿求はさきほどアリスが云った言葉を思い出す。人形劇の狙いなんて言葉で説明したくないと、アリス自身が云ったのだ。
魔理沙にとって弾幕というのは、きっとそういう存在なのだろう。創作物でありながら、コミュニケーションの道具のような。それはアリスにとっての人形のように、阿求にとっての言葉のように、パチュリーにとっての本のように、そこに自分の全存在を賭しても構わないと思えるなにかなのだろう。
「ごめん、魔理沙……わかったわ、ちゃんと伝わってる。私も多分同じ気持ちだから」
「アリス……」
無言で見つめ合うふたりの間に、もう言葉はいらないようだった。
阿求は、そこに桜色の引力のようなものが生まれているのを感じていた。通じ合った喜びと、未来への甘い期待。それと、これから自分たちがどう変わってしまうのかという不安感。
恋のはじまりのどきどきを、阿求は懐かしいものをみるような目でみつめていた。
魔理沙の告白が上手くいってよかったと思う。
これで阿求も、自分の計画を進められそうだったから。
* * *
「うおっ! っていうかなんでこんなに集まってるんだよ!」
ふと周囲を見まわして、魔理沙が云った。
どうやら今の今まで周りの状況が目に入っていなかったらしい。にやにや笑う顔と祝福の声に迎えられ、魔理沙はふわりと地面に降り立った。
そのとき阿求は、わざと周りに聞こえるような声でパチュリーに云う。
「――まあ、そういうことだったんですよ、パチェ」
「え?」
「ほら、あの日パチェは、魔理沙さんとアリスさんが共犯だったら色んなことができるって云いましたけれど、こういう事情なのでふたりが共犯だったってことは考えにくいでしょう?」
その言葉に、場が一瞬しんと静まりかえった。
みな『なにを云ってるんだこいつ』とでも云いたげな顔で阿求のことを見つめている。
それもそうだろうと阿求は思う。書きつけと秘術書が戻ってきて以降、探偵ごっこはぱたりとやめていた。自分でもさんざん事件のことは忘れたと云ってきたし、今はそんな話を持ち出す雰囲気でもないとわかっている。
けれどこの事件を終わらせるためには、関係者を集めた場所でこうすることが必要だったのだ。
「ちょっと、おい。事件ってなんだ? 私とアリスが共犯だって?」
慌てて口を挟んでくる魔理沙に、阿求は事件の概要を語っていった。魔理沙とアリスは、目を丸くしながらその話を聞いていた。どうやらふたりとも、この『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』の話は初耳だったらしい。
たしかに弾幕花火の研究に余念がなかった魔理沙と、人形劇の練習に明け暮れていたアリス。ふたりとも魔法の森に引きこもっていたのだろう。事件の話を知らなかったということには筋が通る。
「はぁ、それで私が蔵から書きつけを盗んでいったかもしれないって? おまえらそんなこと考えてたのか」
一通り話を聞き終わり、魔理沙は憮然としてくちびるを尖らせた。そんな彼女を、パチュリーはつまらなそうに鼻を鳴らしてにらみつける。
「ふん、そうよ。なにせあんた、ひとの本を盗むのが得意じゃない」
「おいおい、なに云ってるんだパチュリー。私は物を盗んだことなんか一度もないぜ。ただ死ぬまで借りていくだけだからな」
「あら、そうだったわね。ならたしかにあんたは犯人じゃないかもしれないわ。あんたと違って、今度の犯人は持っていったものをすぐ返してるんだもの。死ぬまで持っていったりしないだけ犯人のほうがまともだわ」
「なんだと!」
「なによっ!」
「ちょっ! ストーップ!」
にらみ合いをはじめたふたりの間に、阿求は慌てて割って入る。まったくこの魔女はなにかと誰かにつっかかってばかりいる。レミリアしかり魔理沙しかり、会ったばかりの頃の阿求しかり。
でも、これがこの魔女の愛情表現でもあるのだろう。
そんな不器用な知識と日陰の少女だから、阿求は好きになったのだ。
けれど、韜晦と皮肉だけでは解決できない問題もあるのだ。
「いいです、パチェ。もういいですから」
「……阿求?」
怪訝そうに首をかしげるパチュリーに、阿求は首を振って云う。
「もう、黙ってなくていいですから、云ってしまいましょうよ」
「なに云ってるんだおまえ?」
きょとんとした顔で、魔理沙がつぶやく。
「ああ、なにか企んでいるかと思えば……そういうこと」
レミリアに膝枕をしていた咲夜が、納得したようにうなずいた。
慧音が面白そうに顎に手をやり、文は興味を惹かれたように身体を乗り出す。鈴仙は驚いたように目を丸くして、てゐはにまにまと笑っている。
「知ってるんでしょうパチェ、犯人が誰かって」
「……わかってたの?」
口を小さく開けたパチュリーと、そのままじっと見つめ合う。
白い肌、すべすべとした頬、桜色の小さなくちびる。深い英知を湛えて宝石のように輝く、桔梗色の大きな瞳。
ああ、その瞳の裏側で、この魔女は一体なにを考えているだろう。
動かない大図書館の書庫蔵に、どんな想いが隠されているだろう。
けれど阿求がそれを知ることはできない。
どれだけ深く心をよせても四六時中一緒にいても、ひとの心を本のように読むことはできないのだから。
パチュリーも、阿求と同じことを思っていたのかもしれない。
じっと恋人の目を見つめていたパチュリーが、諦めたように目を伏せながら立ち上がる。
「――いいわ、教えてあげる、この『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』の犯人を!」
「おおっ!!」
次々と上がる驚きの声を浴びながら、パチュリーはふわりとその場に浮かび上がる。浴衣のたもとをなびかせながら宙を漂って演台にむかい、ステージの中央に降り立った。
そうして客席に向き直り、片手を高々と振り上げる。
目を輝かせながら天狗帖を取り出す射命丸文。
不敵な笑みを浮かべる十六夜咲夜。
その膝で寝息をたてるレミリア・スカーレット。
真剣な顔つきのアリスと魔理沙。
ふとなにかに気づいたように顔を上げる上白沢慧音。
ぽかんと口を開けた鈴仙・優曇華院・イナバと、わくわくして身体を揺する因幡てゐ。
そして目を見開いた稗田阿湖。無表情の稗田阿求。
そんな事件の関係者たる顔ぶれを前にして、パチュリーは厳かな声で断言する。
「犯人は――この中にいないっ!」
「いないんだっ!!」
全員が一斉に突っ込んだ。
§16 スキマの隙間
――全員が一斉に突っ込んだ。
と、まあこんなところでいいかしら。
ああ、こういうのも意外と難しいものねぇ。考えているときは簡単だと思ったけれど、いざ書いてみると上手く論理が繋がっているかどうか不安だわ。外の世界の読み物に憧れて、いざ私もやってみようと思ったのだけれど、こんなに難しいとは思わなかった。あのミステリ作家という連中を尊敬するわ、どうしてあんなにぎりぎりまで論理を追求できるのかしら。
――え? それでおまえは誰かって?
ふふ、どうせわかっているんでしょう? みんなのデウス・エクス・マキナ、蓋然性のゴミ箱、幻想郷一うさんくさい八雲紫よ。
ええ、そう。
そういうことよ。
今まであなたが読んでくれた話は、実は私が書いた小説だったってわけ。ふふ、ミステリらしい驚きの展開でしょう?
ああ、でも勘違いしないで、別に全部でたらめだってわけじゃないから。
基本的にこれはノンフィクション小説。そう、私がスキマから実際に見た光景を、小説に仕立て上げたものなのよ。
ふふ、だからね、今までの話は阿求を視点人物にした三人称にみえたかもしれないけれど、本当はこれ、私の思考が隠されているだけの一人称なのよね。だって私自身その場にいたんだもの。アリスがあの入れ子細工の劇中劇中劇をやりだしたときはびっくりしたわ。まあ、あの子らしいと云えばらしいけれど。
それにしては阿求の内面描写をしてるじゃないかって思うかもしれない。それはたしかにその通りで、いくら私でも阿求が考えていることまでは覗けないわ。
けれどそもそも私がこの小説を書こうと思った理由は、阿求が遺した書きつけを見つけたことにあるのよ。
そう、例の阿礼の蔵の、一番奥まった場所にある棚からね。
よほど大切な思い出だったんでしょうね、阿求はこのときの記憶をとても丹念に遺したわ。それこそ一冊の本になるくらい。
でもそれをそのまま載せてしまったら犯人が誰かも丸わかりだから、こうして私の視点から手を入れて書き直したっていうわけよ。
――懐かしいわねぇ。
九代目阿礼乙女、稗田阿求。
幻想郷の歴史の中でも最も華やかだった、激動のスペルカード時代を生きた御阿礼の子。一族の中でも特に短い寿命を与えられ、そして私が最も愛した阿礼乙女。
あの子が私の前から姿を消して、もう何年になるかしら。数年? 数十年? 数百年? 人間の時間の尺度はわからない。つい最近だったような気もするし、随分昔だったような気もしてる。でもたったひとつだけ云えるのは、もうそろそろこれを書いてもいいかと思うくらい、あれから時間が経っているということよ。
――その後あのふたりが、どうなっていったのか。
ひどく大人びた人間の子どもと、年は食ってるくせに子どもみたいな魔女の物語。あの不器用で未熟で目も当てられないくらい純粋な恋の顛末がどうなったか、気になるむきもあるでしょう。
でも、今は云わないでおくわね。
また今度こんな形でみせる機会があるかもしれないし、そもそもこの後あのふたりに降りかかった出来事はあまりにも長く複雑で、こんな枚数じゃ到底足りないんだもの。
――さて。
少し前置きが長くなったけれど、別にこんなことを喋りに現れたわけじゃないわ。こちらの事情なんて読んでいるひとにはどうでもいいことだし、私がこれを書いたことなんてわざわざばらす必要もないものね。
じゃあどうしてこんな作者語りをはじめたかというと――まあ、もちろんあれを云いにきたわけよ。
そう、あれよあれ。
かのエラリー・クイーンが発明し、その後世界中のミステリで取り入れられるようになったあれ。
読者を作品世界から現実に引き戻してでも云っておきたいという、あの自慰的かつ稚気に飛んだフェア精神の発露。
――そう、読者への挑戦状よ。
読者への挑戦状
混迷を極めたこの『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』だけれど、その犯人はすでに作中においてこれ以上ない形で示されているわ。手段、機会、動機の三点において、もっとも犯人にふさわしいのは彼女だという推理が十分可能なはず。
また、一応云っておくけれど、当然犯人はこれまで少なくとも一度は名前が挙がってる人物よ。もちろん誰も知らない未知の能力を持っていたりもしないし、能力の解釈にしても作中で書かれた描写は正しいもので、勘違いや思いこみが突然明らかになったりはしない。
――ただ。
もちろん、犯人はたくさんの嘘を吐いている。
それと、知っていて黙っている者が少なくともひとりいる。
今私から云えることはこれくらいよ。この後すぐに解決編に移るから、一旦ページをめくる手を止めて、犯人が誰かを推理してみるのも一興なんじゃないかしら。
でも、アンフェアだったり簡単すぎたりしても、石を投げたり罵ったりしないで欲しいわね。正直私も、すでにこれを書く過程で十分傷ついているんだもの。
――まったく。
みんな口を開けばスキマが妖しいスキマが怪しいって、一体どれだけ信用ないのかしら私。
いくら妖しくも怪しい妖怪だからって、信用されなくて傷つく心もちゃんと持っているんですからね。
本当、失礼しちゃう。
私のどこがそんなにうさんくさいって云うのかしら――。
§17 解決編
「犯人は――この中にいないっ!」
「いないんだっ!!」
全員が一斉に突っ込んだ。
祭りの終わった物見の丘に、しんと静寂が訪れる。
見下ろす里の通りでは、いまだ祭りの余韻を残した里人たちが、名残惜しそうな様子で行き交っている。屋台をたたむ香具師、肩車をした親子連れ、くるときよりも少しだけ距離を縮めた恋人たち。しかし彼らが発する喧噪も、この丘の上には届かない。
「……誰なんだ、犯人は」
震える声でつぶやいたのは一体誰だったか。
阿求の耳は、その言葉をよく捕らえていなかった。
パチュリーの口から飛び出た予想外の発言に、茫然自失の態で目を丸くしていたからだ。
「その犯人とは――」
パチュリー・ノーレッジが。この事件の探偵役が、桜色のくちびるを開いていく。
普段のあまり口を開けない話しかたではなく、はっきりとした発音で。言葉の意味を聴衆にしみこませるようにゆっくりと。
パチュリーは、犯人の名前を口にした。
「四季映姫・ヤマザナドゥそのひとよ!!」
「な、なんだってーー!!」
周囲から次々と驚きの声が上がる。パチュリーは身震いをひとつして、凝視する目を振り払うように歩き回る。そのからころと鳴る下駄の音が、やけに大きいと阿求は思う。
「そんなに意外な結論ではないでしょう? これまで誰もその疑問を持ちださなかったのが不思議なくらいだわ。鍵と天窓と結界の関係を考えれば、自ずと可能性は絞られてくるもの」
「なんだよ、鍵と天窓と結界の関係って」
口元をゆがませる魔理沙に、阿求が補足して答える。
「ええと、鍵なしで蔵に入るには天窓しかないけれど、結界のせいで誰も天窓までは上れないっていうことですか?」
「そうよ。あそこに四法印の結界があるかぎり、天窓を侵入経路と考えることは難しい。だからおそらく犯人は鍵を使って入ったのだという結論ね。でも蔵への再度の侵入があったときは、誰ひとり鍵を盗むことができなかったはず。それが解決できなくて、推理は手詰まりになったわ」
そうだ、そうだった。
蔵への再度の侵入があったはずの時刻、阿求はパチュリーたちと共に永遠亭で事件について話し合っていたのだ。そんな彼女から鍵を盗めたはずがない。それで犯人は目占の霊気探査にひっかからないどこかの誰かという結論になり、探偵ごっこは終わりを告げた。
「けれどその前提をすべて打ち破れる者がひとりだけいる」
「――是非曲直庁の、閻魔さま……」
鈴仙がぽつりとつぶやいて、なにかを思い出したように頭を抱えた。あの説教好きの閻魔に痛いところを衝かれた記憶があるのだろう。阿求があたりを見まわすと、みな顔をしかめさせて唸っていた。
「空を飛べない、能力を使えない、だから天窓まで上れない。それらはすべてあの結界が存在しているから。でも結界を張った閻魔自身ならなにも問題はない。結界を解除して天窓から侵入、事をなしたあとにまた張り直せばいいだけよ」
「しかしいくらなんでもそれは……あの謹厳実直な閻魔が窃盗行為をするとは思えんが……」
慧音の言葉に、パチュリーは片目をつぶりながら人差し指を左右に振った。
「それはどうかしら。閻魔は稗田にとって最大のスポンサー。秘術書も幻想郷縁起も書きつけも、自分の監視下にあるものだから自分のものだと思っているかもしれない。そもそも窃盗だと思ってなければ、アレは平気でやるでしょう。私たちにとってはグレーにみえる行為でも、あの白黒はっきりつける閻魔には完全な白にみえていてもおかしくない」
「むう……」
慧音は唸り声を上げて黙り込む。その横で、阿湖が目をぱちくりとさせていた。
ふと人形の髪を撫でていたアリスが、無表情で小首をかしげる。
「……それだけ?」
パチュリーはふてくされたようにくちびるを尖らせる。
「なによアリス、私の理論に文句でもあるの?」
「そういうわけじゃないけれど、閻魔に疑いをむけるのにその仮説だけじゃ弱くないかしら? そもそも結界を破れる能力をもつ妖怪がどこかにいないとは限らないんだし」
「ふん、わかってないわねアリス。これだからあんたは未熟者なのよ」
「なによそれ!……ふん、せいぜい精進するからご教示くださいな、大魔法使いさまっ」
つんと顎を上げるアリスに、パチュリーは口元だけで笑う。
「まあ……あんたは今さっき事件の概要を聞いたばかりだから仕方ないわね。この事件のポイントは、目占の霊気監視によって容疑者が絞られている点にあるのよ。だからこそあんたや魔理沙にも疑いの目がかかった」
「ああ、なるほど……それは私も知らなかったわ、あの猫がそんな能力を持っていたなんて」
「そうでしょう、でも閻魔は知っている。知っていればサーチに引っかからないように霊力を抑えることもできるでしょう。閻魔が犯人じゃないかと思うのはまさにそこよ。慧音も知らなかった目占のことを誰かが知ってると仮定するより、現に知っていて犯行可能な彼女のほうが容疑は濃い」
「そうか、たしかに閻魔は目占を知っていると云っていたな……」
自分が目占を紹介されたときのことを思い出しているのだろう、慧音は腕組みをしてうなずいた。
「それだけじゃないわ、そもそも結界が元通り張り直されていたという事情もある。さらに云うと、ただ結界を破れるというだけではこの事件の容疑者にはなりえない。そこがなによりも閻魔の容疑を濃くしているの」
「というと? なんですかそれは」
「当たり前だけれど、犯人は屋根に乗れるだけじゃなくって、あの天窓を通れなければいけないってこと。いい? この事件の犯人は目占の監視をくぐりぬけ、結界を破った上で張り直すことができ、なおかつあの天窓を通れる存在でなければいけない。そんなのが、四季映姫以外に誰かいて?」
一息で喋り、コンと小さく咳をする。声が少しかすれてきている。引きこもり魔女にしては、今日は大きな声を出しすぎていた。
「ええと、天窓を通れる存在、ですか? なんでしたっけそれ……ちょっと色々予想外すぎて、頭の中が記憶でごっちゃに……」
「しっかりして阿求、一番基本的なことじゃない。あの狭い天窓を通ることができるのは、あなたやてゐくらいだって話になったでしょう? じゃあその理由は?」
「ええと、それはたしか……私やてゐさんみたいな、ちっちゃい体格の子……はっ!」
「そう! あの閻魔は、見事にぺたんこ幼児体型だわっ!」
「ああっ!!」
物見の丘に集まった人妖たちが、声を揃えて一斉に叫んだ。
みな心の底から納得したような顔だった。
天窓を通れる者は幼児体型でなければならない。
その事実は、それまでの状況証拠以上に四季映姫が犯人であると納得させるものだった。なんといっても幼児体型と云えば四季映姫であり、四季映姫と云えば幼児体型なのだから。
――だが。
その瞬間、阿求の背筋に雷のような悪寒が走るのだった。
「――そこまでですっ!!」
鉄槌を、いや、裁判に使う木槌を叩きつけるような、どこまでも通る高い声。周辺をぶわりと覆う、圧倒的に清涼な霊気。
その場にいたすべての者たちが、一斉に背筋を伸ばして顔を青ざめさせた。
阿求がおそるおそる振り返ると、集会場の入り口で四季映姫・ヤマザナドゥが仁王立ちしていた。
「し、四季さま……?」
「私相手に欠席裁判とはいい度胸ですねパチュリー・ノーレッジ! ですがそれ以上云わせませんよ、云うに事欠いてこの私がよ、よ、幼児体型とはなにごとですか!」
子どものような身体を傲然と反らしながら、閻魔が吠える。
そこかよと、集会場に一瞬白けたような空気が漂った。
けれど映姫が憤怒の表情で悔悟棒を振りかざした瞬間、再びぴんと張り詰める。みなあの悔悟棒で叩かれたことがあるのだ。罪人の罪に応じて大きさを変える悔悟棒。それがみるみるうちに大きくなっていくのは、一体誰の罪を捉えているのだろう。
壇上のパチュリーが、誰よりも青い顔でつぶやいた。
「ど、どうしてあんたがここにいるのよ、四季映姫……」
それは見れば誰にでもわかることだった。頭にかぶったウルトラマンのお面、悔悟棒と逆の手に持った綿飴の割り箸、帯に刺してあるかざぐるまとピロピロ笛。どうみても祭りを楽しむためにきている。閻魔の後ろで、荷物を持った小野塚小町が苦笑していた。
「どうしてもこうしてもありません! 無辜の人間に罪を押しつけようなどという不正義を、この私が見逃せるはずないじゃありませんか!……詳しいことはすべてこの小町に聞きましたよ、阿求っ」
じろりとにらまれて、阿求は震え上がる。やはりあの秘術書をたしかめてもらったときのことが、回り回って閻魔まで伝わってしまったのだろう。
「ふん、無辜の人間ですって……? つまりしらを切ろうって云うのね四季映姫・ヤマザナドゥ」
「だまらっしゃい! しらを切ろうとしているのはどちらですか! 聴衆は言葉で丸め込むことができても、この浄玻璃の鏡はごまかせませんよ!」
綿飴を小町に差し出して、さっと懐に手を入れる四季映姫。けれど取り出されたのはデンデン太鼓だった。映姫は無表情でそれを投げ捨て、再び懐から螺鈿細工仕立ての手鏡を取り出した。
「そ、それはっ! 卑怯よ四季映姫!」
「あらゆる嘘を見抜くこの鏡が教えてくれます! この事件の真犯人は――」
鏡面から照射された白光が、壇上の魔女をまばゆく照らす。
「あなたです、パチュリー・ノーレッジ!」
「くっ!」
告発されたパチュリーが、弾幕の直撃を食らったような声をあげる。おいつめられた表情で視線を左右にさまよわせ、阿求と目が合った途端悲しそうに瞳を伏せた。
その瞬間、阿求の胸に深い悲しみと罪悪感が押しよせる。
色々と予想外のことが起きすぎてしまった。こんな風にあのひとのことを追い詰めるつもりじゃなかったのに。まさかパチュリーがスケープゴートを用意していたなんて思いもしなかった。
「そう、私よ……秘術書を盗んでいったのは……」
がっくりと膝をつくパチュリーの姿を、満月が優しく照らしている。
リーリーと鳴く虫の声。
涼しくなってきた夜の風。
長かった夏もそろそろ終わるんだなと、阿求は思った。
§0 発端
布団の中で、パチュリー・ノーレッジはうっすらと目を見開いた。
それは水無月の二十四日。
ひどく暑い夜のことだった。
障子を通して差し込む月明かりが、和室を青白く染め上げている。
そのうすぼんやりとした明るさといい、目線の高さに床があることといい、やはり和室はなじめない。できればもっと泊まっていきたいと思うけれど、身に染みついた習慣とのあまりの違いに、どうしてもストレスを感じてしまう。
隣で眠る少女を起こさないように、そっと身体を起こす。
パチュリー自身はそれまで眠っていたわけではなかった。魔女に睡眠は必要ない。ただ運動のあとで少し疲れていたし、幸せそうに眠る恋人といっしょに横たわっていると、それだけで気持ちが安らいだから。
少女――稗田阿求は、満ち足りた表情でくーくーと寝息をかいている。ふとそのその右手が、パチュリーがいた場所を探るように伸びた。けれど伸ばした手は誰の身体にも触れることができず、ゆっくりと布団の上に落ちていく。
少し悲しそうな顔をした恋人に、パチュリーの胸の奥から深い愛情がわき上がる。自分が誰かに対してこんな感情を持てるだなんて思いもしなかった。ほんの数時間前に激しく触れ合ったばかりなのに、また抱きしめたくなってくる。
今にも折れそうなほどに細い手足。
綺麗な曲線を描くうなじ。
熱さにはだけられた扁平な胸。
パチュリーの恋人は、青白い月光を浴び、蜃気楼のように儚い姿で眠っている。視線を逸らしたら夢のように消えてしまいそうで、パチュリーはしばらくの間じっとその姿を見下ろしていた。
三十分ほどもそうしていただろうか、ふと聞こえてきたふくろうの声に、呪縛が解かれたように気を取り戻す。
はぁとため息をついて、ふわりとその場に浮かび上がった。歩くのがおっくうだったからではない。足音を立てて阿求や家の者を起こしたくなかったからだ。
そのまま客間まで浮いていき、床脇の地袋を静かに開ける。小さな行李や布包みの横に、萌葱色をしたきんちゃく袋がおいてある。
これをほんの少しでも動かしたら、阿求に鍵を取り出したことがばれてしまうだろう。
阿求の求聞持の能力がどの程度のものなのか、パチュリーはそのとき幻想郷で一番身に沁みてわかっていたかもしれない。
なにせ何年も前に漏らした一言をいつまで経っても覚えていて、ことあるごとに持ち出してはちくちくやってくるのだ。『そんなこと云ったかしら』が通じない阿求に、口げんかでは絶対に勝てない。
口元に微笑をたたえながらぼそぼそと呪文を唱え、地袋の中の映像をその空間に固定する。元に戻すとき、映像にぴたりと合わせて配置すれば鍵を持ち出したこともばれないだろう。
それ以上のことは、なにも考えていなかった。
ただ阿求に見つからないように蔵に侵入し、気づかれないうちに元に戻せばいいと思っていた。
無断で蔵に侵入したことで、阿求が傷つくという可能性も頭にはなかった。自分に絶対の信頼を寄せてくれている阿求からは、蔵に入ってもいいとの許可をもらっていたからだ。
――身体にも、心にも触れていい。
他のひとにはみせない場所も、他のひとには触れさせない場所も、あなたならば入っていいし触れていい。
それが恋人というものなのだと、パチュリーは阿求との関わりの中で学んでいたのだった。
もし見つかって責められたとしても、素直に謝ってしまえばいい。
そんな軽い気持ちだったのだ、蔵に入ろうとしたこと自体は。
けれどその動機は、決して軽いものではなかった。
『――ねぇパチェ、わたし、そろそろかもしれません』
その日の昼間、阿求が顔を伏せながらそう云った。
じーじーと鳴く蝉の声。むっと立ち上る夏の暑気。縁側でちりんちりんと風鈴が鳴っていた。
その情景が、パチュリーの頭にこびりついて離れない。求聞持と違って完全な記憶なんて保持できるはずもないのに、まるで印画紙に焼きついたように脳の皺に刻み込まれてしまった。
――そのときの阿求の、泣きそうだった瞳の色が。
あるいは、泣きそうだったのはパチュリーのほうかもしれない。
ぷかぷかと、夜の底を浮いていく。
目占たち番猫隊の勤務日程は、すっかりパチュリーの頭の中に入っている。この時間、目占は裏門の見張りをしているはずだ。尾白は別宅の警護、黒檀は外を回っている。銀虎はいつものようにさぼって寝ているだろう。
稗田家の広大な敷地はしんと静まりかえり、そこに数十人の人間がより集まって暮らしているとは思えないくらいだ。
人間がとるこの家族というシステムに、パチュリーは改めて不思議なものを感じた。好きな者同士ではなく、ただ血が近いというだけで親密圏を形成するのはおかしなものだ。人間はとにかく生まれたときから群れないと生きていけない生き物で、自分たち妖怪とは違うのだろう。
それはパチュリーが好きになった妖怪じみた少女、稗田阿求だって変わらない。
あの子を自分の元に引きよせてしまっていいのだろうか。それはこの数年、魔女が毎日のように考え続けてきた悩みだ。
やがて阿礼の蔵に近づくと、魔力が失われていって地面に落ちる。まったく忌々しい結界だと舌打ちをひとつ。脳裏にこまっしゃくれた四季映姫の顔が浮かんで、舌打ちをもうひとつ。
パチュリーにとって、こうして阿求の近くに映姫の影がちらつくこと自体が気にくわなかった。是非曲直庁の権力を元に、稗田に影響を及ぼそうとしているのが気に入らない。そんなことをしたら地獄に堕ちるという脅しを元に、固定的な価値観を押しつけようとするのが気に入らない。
けれどなにが一番気に入らないかと云えば、阿求自身があの閻魔に信頼をよせているらしいことだった。
ぶんぶんと頭を振って、そんな思いを振り払う。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
誰にもみつからないうちに、ことをすませなければいけない。
蔵の鍵を外すときには慎重になった。錠の角度や鎖の位置で、侵入に気づかれてはいけないから。鋳鉄の鍵を差し込んでゆっくりと回す。ぽっかりと口を開けた秘密の場所。そこに入るたびにパチュリーは、快感にも似た喜びを感じる。阿求の誰も入れない秘密の部分に、足を踏み入れることができるのだから。
蔵の中を、奥にむかって進んでいく。
目的はもちろん、奥の棚にある転生の秘術書だ。
――阿求に、選択肢を与えてあげたいから。
その一心で、パチュリーは棚の本に手をかけた。
そんな魔女の後ろ姿を、天窓から差しこむ月明かりだけが照らしていた。
§18 解決編その2
「――まったく、とんだ茶番だったぜ」
稗田家の本宅だった。
腕を組んであぐらをかいた霧雨魔理沙が、ぷりぷりと頬を膨らませてそう云った。
「本当よ。自分がやったくせに他人のせいにするなんて信じらんない。先輩としてちょっと尊敬してたのに、幻滅したわパチュリー。あと、下着見えるわよ魔理沙」
見るなよスケベ、見てないわよ馬鹿、なんてやりとりをしながら、魔理沙はスカートを押さえて横座りになった。お互い好きだということに気づいた後でも、ふたりの関係はあまり変わっていないようだ。
「あ、あの、それくらいにしてあげてください……パチェにも悪気があったわけじゃないんですから」
周りから集中砲火を浴びたパチュリーは、部屋の隅で膝を抱えて縮こまっていた。もう目占すら近づけようとしない。アメジストのように綺麗な瞳が潤み、桜色のくちびるが泣き出しそうに震えている。そんな恋人のようすをみているだけで、阿求の胸は愛しさと切なさでいっぱいになった。
「ふん、なにを人ごとみたいに云ってるんですか阿求。あなたも同罪ですよ同罪。虚偽申告、犯人隠避、はっきり黒ですっ」
「あう……そ、そんな四季さま! ご無体なっ」
すがりつく阿求に目もくれず、映姫はつんと顎をそらす。犯人扱いされたことと幼児体型よばわりされたことを、いまだに根に持っているらしい。
「あのぅ……それで結局どういうことだったんでしょうか、四季さま……」
全員分の紅茶を配り終わった阿澄が、閻魔におずおずと訊ねる。その言葉に、稗田家の客間に集まった関係者たちが、一斉に映姫に視線をむけた。
「どうもこうもないですよ。犯人はパチュリー・ノーレッジ。そのままです。大体秘術書が盗まれていた件でわかりそうなものでしょう。今幻想郷で転生の技術を一番研究したい者と云えば、そこの魔女以外にないじゃありませんか。おおかた、転生の際に阿求の記憶が失われることをなんとかしたかったんでしょう。違いますか?」
水をむけた映姫を、パチュリーは上目遣いでじとりとにらむ。
「ふん……違わないわ。当たり前じゃないそんなの、恋人の頭から自分とすごした記憶がなくなるかもしれないのよ。いっしょに笑いあったことも、くだらない原因で喧嘩したことも、お互い歩み寄ろうと朝まで話し合ったことも。そんなことを素直に受け入れるやつは馬鹿だわ。あがいて当然じゃない」
「それが、たとえ是非曲直庁の反感を買ってもですか?」
「幻想郷中の反感を買ってもかまわない。私は知識と日陰の少女パチュリー・ノーレッジよ。世界の理を変えてでも、したいようにするだけ」
「そう……」
しんと静まりかえった客間に、気まずそうな空気がただよう。彼女が抱いていた想いに感じるものがあったのだろう、それ以上追求し辛いような雰囲気ができあがっていた。鈴仙などはすでに涙ぐみ、今にもパチュリーの味方になりそうだった。
「それでパチュリー、もしかしてあなた解析できてたの? 是非曲直庁の秘法を」
「ふん、大して難しいものじゃなかったわ。あなたにかけてあげようかアリス? もっとも、記憶を失われないようにする研究はまだこれからだったけれど」
「い、いらないわそんなの。それにしても……そっかぁ、できてたかぁ……なんかへこむわぁ」
がくりとうなだれるアリスに、魔理沙は無言で肩をすくめる。どうやら三人の魔女の間にも、複雑な関係があるようだ。
「まあ事情はわかったが……そもそも一体どうしてこうなったのかさっぱりわからん。私たちはなにがいけなかったんだ? どうして魔女殿が犯人かもしれないという意識はすっぱり抜け落ちていたんだろう?」
腕組みをして慧音はうなる。その言葉に、一同が不思議そうな顔で首をひねった。どうしてパチュリーは稗田家にいて犯行を行うことができたのか、なのにどうして容疑者に入っていなかったのか。
すべてを知っている映姫は、ふんと鼻をならして阿求に厳しい目をむける。
「それは、そこの九代目阿礼乙女に訊ねてはどうですか。全部この子がややこしくしたんですから」
「なに? どういうことだ阿求」
「うう……すいません、たしかにそこは、全部わたしのせいなんです」
目占を抱えながら首をすくめて、阿求は事のなりゆきを説明していった。
結局のところややこしくなった原因は、最初に事件を慧音に相談したことにあったのだ。
あの日、ひどく暑かった日にこの客間で、阿求は慧音と事件の概要について話し合った。その結果判明した犯行推定日時は、水無月の二十一日から二十八日にかけて。その間に稗田邸を訪れたものが暫定的な容疑者となった。
『たとえばこの一週間、稗田邸を訪ねてきた妖怪や人間はどれくらいいる?』
そう慧音が訊ねたとき、阿求はくりりと瞳を回して屋敷を訪れた者の姿を思い浮かべた。アリス・マーガトロイド。霧雨魔理沙。十六夜咲夜。射命丸文。鈴仙・優曇華院・イナバ。因幡てゐ。
――そして、パチュリー・ノーレッジ。
けれど阿求は、その名前を云わなかったのだ。
「どうしてだ、どうして云わなかったんだ阿求」
問い詰める慧音に、阿求はぽっと頬を染めてうつむいた。
「は、恥ずかしかったからです……!」
「恥ずかしかったぁっ!?」
「だ、だって、パチェが来たって云ったら、パチェとの関係も教えないといけないじゃないですかー! それにパチェ、あの日泊まっていきましたし……そ、そんなことを慧音先生に云うのは恥ずかしかったんですよー!」
慧音は阿求にとって親代わりにも等しい存在だった。
そんな慧音に、自分がパチュリーとつきあっていて、しかも身体の関係にあるということを、阿求は云いたくなかったのだ。その後紅魔館に慧音を連れて行った際も、やっぱりパチュリーとの関係をしられたときは凄く恥ずかしかった。だから云わなくてよかったと、阿求はほっと胸を撫で下ろしていたのだった。
「そ、それにあのときは、犯人の狙いは書きつけだって思いこんでいたんです。パチェならそんなもの盗むはずがありませんから、八雲さまと同様にあっさり容疑者から除外してて……」
「はぁ……そういえばあのとき、あなたは照れるように頬を染めていたなぁ……もじもじしながら」
「……あ、わかっちゃってました?」
「まぁな。そうか、あのときあなたは、その夜のことを思い出していたんだなぁ。求聞持の記憶力で」
「――ぶっ!!」
思わず紅茶を吹き出す阿求だった。
慌てて周りを見まわすと、皆がにやにやと笑いながら阿求のことを眺めている。さっとパチュリーに視線をむけると、恋人は頬を真っ赤にしながらそっぽをむいた。
「うわ……エロ」
ぼそりと呟いたてゐの一言が決め手だった。
「そ、そうですよ、思い出してましたよ! 完全記憶をまざまざと蘇らせていましたよ! 悪いですかエロくてっ! そりゃあんなにされたらことあるごとに思い出しますよ! もうやめてって云ったのに、何度も何度も指を――もがっ」
慌てて飛びついてきたパチュリーが、後ろから阿求の口をふさいだ。
「ちょ、ちょっとなに云ってるのよ馬鹿っ!」
「離して、離してくださいっ、わたしがエロいんじゃないもんっ、パチェがエロいのがいけないんだもんっ、思い出しちゃうのはわたしのせいじゃないじゃないですか!」
「……パッチェさん?……御阿礼さま?」
そのとき床に転がったふたりの上に、ひび割れたような声が降ってくる。視線を上げると、阿湖が呆然と阿求たちを見下ろしていた。
「あ、阿湖……?」
「そんなことしてたんだ……パッチェさんと御阿礼さま、まだ結婚してないのにそんなことしてたんだ……」
その阿求にも似た藤色の瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がっていく。
「お、大人って不潔よ! ばかーっ!!」
「あ、ちょっと阿湖っ!」
伸ばした手は、けれど阿湖の身体に触れられなかった。パチュリーに恋をしていた純真な少女は、乱暴にふすまを開けて脱兎のように逃げていく。その後ろ姿を、阿求はぼんやりと眺めていた。
「阿湖……」
「あの、私がフォローしてきますわ、御阿礼さま」
声をかけてきた阿澄に、阿求はうなずく。
「お願いします阿澄」
「はい。でも御阿礼さま、閨でのことはなんでもいいですけれど、パチュリーちゃんが蔵に立ち入っていたというのは問題じゃないかしら。これは家族会議ものですよ」
そんな言葉を残して去っていく。
稗田家のふたりが消えた客間で、阿求はがっくりと肩を落として座布団に座る。わかっていたけれど、やっぱり辛い。ふてくされたように紅茶を飲む阿求に、射命丸が天狗帖を取りだしながら話しかけた。
「いやはや、とんだ驚天動地の結末ですね! ふふん、これはいい記事になりますよ。たしか書いてもいって話でしたよね?」
「……いいですよ、約束ですから……」
「ははは、それはよかった。んでまぁ、要するに阿求さんが魔女の来訪を黙っていたことが、混乱のはじまりだったんでしょうか」
「そうですねぇ。でもその、わたしの中ではそれほどの矛盾はなかったんですよ。犯人捜しだって本気でした。他のひとに色々話を聞いて、みんな犯人じゃなかったらパチェかもしれないって。そのくらいの気持ちで……」
「ははぁ……」
「それじゃあ、やっぱり一番責められるべきはそこの魔女ですわね。さんざんっぱらひとを犯人呼ばわりしておいて、これだから無駄に弁が立つひとは困りますわ」
切れ長の目を一層細めさせながら、咲夜が傲然と云い放つ。そんな彼女を、調子を取り戻してきたパチュリーがじろりとにらみつけた。
「ふん、それはもう謝ったでしょ。私だって別に、本当はそこまで隠そうっていうつもりはなかったのよ。今となっては云い訳だけれど……」
「えぇ、そうですか? 最初っからあなた名探偵気取りだったじゃないですか。安楽椅子をこれみよがしにぎぃぎぃ鳴らして。まぁ、普段通りですけれど」
咲夜の言葉に、パチュリーはちらりと阿求を眺めてため息をつく。
「そうね……。でもあのときはそうするしかないって思ったの。だって阿求が慧音を連れて図書館に現れたとき、あなたは私を容疑者に入れないまま事件の話をしたでしょう? 慧音もそれに疑問を思ってなかった」
「そうですねぇ。さっきのような事情があったので……」
「そう、その事情もなんとなくわかったわ。だから私も云えなかったのよ。あのとき容疑者として名指しされたら、私も素直に答えてたかもしれない。でも阿求が秘密にしていたことを、私がばらしたら悪いじゃない」
「ああ、それは……なるほど……」
「まあ、途中から名探偵のふりをするのが楽しくなったのは事実よ。たまに自分がやったってことも忘れてたし、架空の犯人をでっちあげる論理を構築するのは面白かった。そんなことをやってるうちに、気づけば引き返せないところまできちゃったのよね。……悪かったわ、ごめんなさい」
少しふてくされた態度で、けれどパチュリーは素直に謝った。
それだけで、場の人妖たちの間に和やかな空気が流れる。
元々戦いと云えば弾幕戰で、コミュニケーションといえば宴会が主な幻想郷の住人たちのこと。犯人扱いされたくらいでずっと根に持つ者もあまりいない。
「んでまあ、犯人があなただってことはわかりましたよ。でもそれだけじゃ色々納得できないことがあるんですがね。結局あの、天窓とか全然関係なかったってことでいいんですか?」
射命丸の疑問に、パチュリーはあっさりとうなずく。
「全然関係ないわ。あれは途中から閻魔に罪をおっかぶせたら面白いと思って持ち出しただけ」
「ふん、なんて邪悪な魔女でしょう。あなた、返す返すも三途の川を渡るはめにならないよう注意することですね。量刑が数億年を越えると、計算するだけでもしんどいんですから」
「望むところよ、魔女が罪を恐れてどうするの。……でもまぁ、結局誰か知らない奴が犯人ってことにできたから、そのまま終わらせてもよかったんだけれど。阿求があんなことを云ったものだから」
「えぇー、わたしのせいですか?」
「そうよ、あんな話になったら、誰か犯人を作らないと仕方ないじゃない。なんとか上手く云いくるめて、閻魔を責めてもどうしようもないからなかったことにしましょうって、そんな話にするつもりだったんだけれど……」
「当の本人が大はしゃぎで祭りにきてたのが誤算だった、と」
「ええ、まさか体型だけじゃなくて、頭の中も子どもっぽかったとはね……」
「な、なにを云うんですか無礼な! 私は大人の身体ですし、祭りにきたのはあなたを糾弾するためにっ!」
「まぁまぁ四季さま。もういいじゃないですか、あたいはそんな四季さまのこと全部好きですよ」
「こ、こまっ! こまっ! 小町!」
途端に顔を赤くしてうろたえる閻魔だった。そんなふたりを華麗に無視して、文は天狗帖にペンを走らせていく。
「んで、二回目の蔵への侵入。あれもあなたが普通に鍵を使って入ったんですよね?」
「ええ、もちろん。二回目の蔵への侵入可能時間は、本当はお義母さまが前日に蔵をみてから丸一日あったわけ。でも犯行予想時間が前日の朝から夕方にかけてになったのは、日が落ちてからは目占が見張りをしていたからでしょう? だからずっと永遠亭にいた阿求から鍵を盗めたはずがないって話になった」
「なるほど、そうでしたね」
「見張りをしていた目占は、怪しい者は誰も侵入しなかったって答えたけれど、当たり前よね。永遠亭から戻ってきた私と阿求が怪しい者のはずないじゃない」
「ははぁ……それはそうですね。犯人は堂々と帰ってきてたってわけですか」
「そう。あとはあてがわれた部屋に本を運びこむとき、小悪魔に書きつけと秘術書をもってきてもらった。これもあらかじめ云っておいたから、目占にとっては怪しい者じゃない。夜中になって阿求が寝たあと、また蔵に入って秘術書とジョジョを入れ替えて、ジョジョは部屋の本と一緒に並べておいたわ」
「あ! じゃあ朝になってパチェの部屋に入ったとき、あそこに例のジョジョがあったんですか!」
「そういうこと。書きつけを一枚扉の下に落としたのは、朝になってお義母さまにみつけてもらうためよ。不可能状況を作れば、誰か見知らぬ者が犯人だってことにして、事件を終わらせることができた」
「よ、用意周到だ……」
あのみっしりと天井まで積み上がった本の中に、事件の重大な証拠が隠されていたなんて。まさに木を隠すなら森の中。本を隠すならパチュリーの部屋の中だと阿求は思う。
しんと静まりかえった稗田家の客間で、誰もが納得したようにうなずいている。ただひとりレミリア・スカーレットは、咲夜の膝に頭を乗せているうちにくーくーと眠りについていた。
そんな中、アリスがぽつりと訊ねる。
「でも、書きつけを持っていったのはなんだったわけ? やっぱりそれもカモフラージュ?」
「そうよ。さっき閻魔が云った通り、秘術書だけもっていったら、どう考えても私の仕業だってわかりそうだったから。そこまで隠すつもりはなかったけれど、自分からばらすつもりもあんまりなかった。そうじゃなければ最初からこっそり鍵を持ち出さなかったし……」
「ずっと事件のキーポイントだった荷物問題は、どうやってクリアしたんだ?」
「もちろん、蔵から離れたところで物品取り寄せ魔法を使ったわよ。以前慧音には云ったでしょう? 私は図書館にインデックスされている書物ならなんでも呼び出せるのよ」
そう云って、パチュリーはひとことふたこと呪文を唱えた。テーブルの上に、ぶんと音を立ててジョジョ全六十三巻が現れる。
そのようすをみて、ふいに阿求は思い出す。紅魔館で荷物問題の話をしたとき、パチュリーが『大体このくらいの分量』と云って呼び出したのは、ジョジョではなくて犬夜叉だった。
そのとき図書館にインデックスされていたジョジョは阿礼の蔵にあったから、呼び出すことができなかったのだ。
「じゃあ、すり替えた書きつけと秘術書はどうやって持って帰ったのよ。図書館のジョジョを呼び出すことはできても、書きつけを送り込むことはできないんでしょう?」
「それはね、アリス。魔理沙とアリスじゃなくて、あんたと私が共犯だったってことなのよ」
「……へ? 私?」
目を丸くしたアリスに、パチュリーはにやりと笑う。
「思い出してごらんなさいな。そもそもあなたはなにしに阿求の家にいったの? どうして私が二十四日、稗田の屋敷にいったと思うの? もちろん阿求に会いにいったんだけれど、そのためには口実のひとつも必要でしょう」
「――あ! もしかして、私が作ったドレス!?」
「そうよ、あんたたちの趣味につきあって、着せ替え人形になりにいったの。あのドレス、なかなか着心地いいわよね。裏地にも手がかかってるし、なにより布がたくさん使われていて。持ってくるときには、さぞやかさばったでしょうね」
トランクにつめられていた、チュールレースが折り重なったワンピースドレス。大きな帽子箱に入れられていた、長いスカートを膨らませるためのロングパニエ。装飾過多の大きなキャノティエ。
それらを全部身につけたあと、今まで着ていたワンピースとキャップをトランクにつめても、なおたくさんのスペースが余ったのだ。
「服は着て、あまった場所に書きつけを入れて持って帰ったのね……はぁ、着てくれたのは嬉しいけれど……」
「き、気づきませんでした……たしかに、考えてみれば帽子箱も持って帰る必要は特になかったですもんね……」
「ふふ、探偵役としてはまだまだね阿求。ただ記憶に残っているだけじゃ見ているとは云わないわ。観察して考えること。それが本当に観ているということよ」
そう云って、偉そうにふんぞり返るパチュリーだった。
――そんなこと云っといて、犯人はあなた自身じゃないですか。
盗人猛々しいとはこのことだと、阿求はくちびるを尖らせた。
そこでなんとなく話が終わりそうになったのを見て、慧音が慌てて入ってくる。
「待て待て! それで結局、一番肝心なあれは一体なんだったんだ?」
「あれって?」
「ジョジョだよジョジョ! なんだったんだジョジョは!」
その言葉に、場の全員が一斉にうなずく。
そうだ、この事件は結局のところ『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』だ。その理由を聞くまではすっきりしないと、全員の顔が云っていた。
そんな周囲の人妖を見まわして、パチュリーはのほほんと口を開いた。
「――全部、スキマのせいなのよ」
「スキマのせい?……え? 八雲さま?」
きょとんとした顔で云った阿求に、けれどパチュリーは首を振る。
「いいえ、そのスキマじゃなくってね。あのね、書きつけと秘術書を抜き出したら、棚にすごく大きなスキマが空いたのよ。……ねぇ阿求、スキマが空いた本棚ほど、私にストレスを与える存在はないの。端っこの本がぱたぱた倒れて見栄えが悪いし、薄い本が変な風に曲がったりするでしょう?」
「は、はぁ……そうですね?」
「だからね、ブックスタンド代わりになにかを詰めておきたいって思ったのよね」
「ブック、スタンド……?」
「ええ。このスキマならちょうどジャンプコミックス六十三冊くらいだなって思ったら、もうジョジョを詰めることしか頭になかった。強い連想が働いたのね」
「連想ってもしかして……」
「ええ、スタンドだけに――ブックスタンド」
「駄洒落かよっ!」
全員が一斉に突っ込んだ。
その突っ込みで、『ジョジョの奇妙な冒険の奇妙な事件』は終わりを告げた。
§ エピローグ
あれから数週間が経ち、稗田阿求は紅魔館にいた。
パチュリーの寝室の隣にあるこの部屋は、普段は使われることがない来客用の寝室だった。そこに阿求は愛用の蓄音機とレコードを持ち込み、自分が暮らすための巣に変えた。
紅魔館にしては珍しく窓がある部屋で、大きな張り出し窓のむこうに悠然と広がる霧の湖の湖面がみえる。
青空と山の端を写す湖面は鏡のようだ。ふと表面をスケートのようにすべる妖精たちの一団がいて、阿求は本当に鏡だったかとぎょっとする。けれどよくみたら、妖精たちの中にチルノがいた。水を凍らせて遊んでいるのだろう。
部屋に流れているのは、シューベルト作の弦楽四重奏曲第十四番『死と乙女』。プリズムリバー樂団による演奏だったが、相変わらず四重奏曲の四人目がどこからともなく聞こえている。
阿求は書きかけだった随想録を放り投げ、窓を開けてうーんとひとつ伸びをする。椅子に正座していたせいで、ずいぶんと身体がこわばった。けれど床に座るとパチュリーに怒られてしまうから、しかたなく彼女はそうしている。
開けはなった窓から吹き込む風は、穏やかで優しい秋の風。
今年の夏は色々あったなぁと、窓枠に頬杖をついて思う。
パチュリーが、稗田家の聖域である阿礼の蔵に立ち入っていたこと。そして是非曲直庁からの預かり品である転生の秘術書を盗み、読んでいたこと。
それらは稗田家の家族会議で問題とされ、家族は擁護派と保守派でまっぷたつに割れた。
弾幕ごっこに憧れを抱く若者たちは、弾幕使いの中でもトップ集団に位置する『動かない大図書館』を擁護した。一方、そもそも西洋魔女をむかえいれることに反対だった保守派は、それみたことかとパチュリーへの糾弾を強くする。
中でも阿求の従姉妹である阿湖は、保守派の中でも最も激しくパチュリーを糾弾し、事情を知っている一部の者たちの涙腺を刺激した。
『魔女は女をたぶらかす』
誰かがそんな論点を差し挟んできたときから、家族会議は議論のための議論へと変わり、紛糾に紛糾を重ねて千日争いの様相を呈していった。
『――もういいです! わたしがパチェと出ていきますから!』
ついにきれた当主阿求が高らかに宣言し、その瞬間すべての議論は無意味になった。
元々阿求はすでに今代の幻想郷縁起を書き終え、楽隠居の状態であった。転生の儀式も近く、あとは次代の御阿礼に引き継ぐための個人的な用向きばかりで、稗田家の運営に関わることはなかった。
当主を追い出す形になることに難色を示す者も多かったが、静養もかねて外で暮らしたいという阿求の言に整然と反論できる者はいなかった。
永遠亭の医者による、『魔力のこもった環境のほうが身体にいい』という診断が最後の一押しになった。
うーんと伸びをした阿求は、そのままベッドにぼふんと倒れ込む。帯の位置を直してごろごろ転がり、サイドテーブルに積んであった本に手を伸ばす。もうすっかり休憩にすることに決めたらしい。もくもくと三原順の『はみだしっ子』を読みふけっている。
ここの環境は、たしかに阿求にとっていいようだ。
知識欲を満たす本が読み切れないほど図書館にある。呼び出せば、プロの給仕である咲夜が自分のよりも格段に美味しい紅茶を用意してくれる。魔力が籠もっていて空気は美味しく、気分がもやっとしたときには妖精メイドをいじめて気をはらすこともできる。
そしてなにより、パチュリー・ノーレッジが住んでいる。
――なにもかも、彼女にとって都合のよすぎる環境だ。
私は部屋の隅に開けたスキマから、にゅっと顔を出して阿求に語りかけた。
「はーい。こんにちは阿求、ごきげんみたいね」
びくりと身体を震わせた阿求が、おそるおそるこちらに振り返る。私と目があうと、安堵と糾弾が入り交じったような複雑な表情を浮かべた。
「八雲さま……い、いらしてたんですか……」
「それはいたわよ、ずっとね」
そう云って、扇で顔を隠してくすくすと笑う。
「私はどこにだっているわ。稗田家の客間の地袋の中に、中身が減ってきたポットのスキマに、脱皮して捨てられた蝉の抜け殻に、それと秘術書と書きつけを抜いてできた、本棚のスキマにね。だって私は、胡散臭いスキマ妖怪なのだものねぇ」
「うわぁ、もしかして、今までの全部聞いてました?」
「そうよぉ? 悪かったわねぇ、可能性のゴミ捨て場みたいで」
ぼやきながら、先ほどまで阿求が腰掛けていた椅子に足を組んで座る。慌てて身体を起こした九代目阿礼乙女が、緊張した様子で膝の上で拳を固めた。
「あら、そんなに緊張しないで? 別に叱りにきたわけじゃないの。ただひとつ、どうしても聞きたいことがあってね」
「はぁ……な、なんでしょうか」
「この状況、どこまであなたの手のひらの上?」
「――はい?」
きょとんとした顔で小首をかしげる稗田阿求。けれど口元がにやけてる。可愛い瞳をくりりと回して、一生懸命答えを考えようとする。けれど彼女が答えをでっち上げる前に、私は口を開いた。
「あなた、自分とパチュリーが稗田家を追い出されるようにしむけたでしょう? 事件の犯人がパチュリーだってわかれば、きっとこうなるだろうってことは予想していた。祭りの日にせっせと関係者を集めていたの、全部みてたんだから」
「あ、あはは……それはその、えっと……」
「よかったわね、稗田阿湖を愛しい愛しい恋人から引き離せて」
にんまり口元をあげると、阿求はさっと頬を赤らめさせて顔をそらす。いじけたように口をとがらせ、小さな声でぼそぼそ云った。
「だって、仕方ないじゃないですか……他に方法思いつかなかったんですもの」
「ふふ、いいんじゃない? 責めるつもりは全然ないわよ、陰謀って楽しいものねぇ」
「心外です、いっしょにしないでくださいよぅ。わたしは純粋に阿湖のことを考えてですね……」
「あら、それこそ心外。私だって純粋に幻想郷のことを考えているわよ。だからあなたのことだってずっと見てきたんだしね」
ひとと妖怪と幻想が織りなすこの郷は、危ういバランスの上に立っている。結界の修繕とともに、そこに住まう者たちの監視や調整は欠かせない。
郷に住まい、そのバランスを簡単に崩せるキーパーソンは何人かいる。レミリア・スカーレット、蓬莱山輝夜、上白沢慧音、博麗霊夢、それに稗田阿求。中でも阿求たち求聞持は、人里の意志をコントロールする存在として、本人が思っている以上に強い影響力を持っている。
「……見てきましたか、ずっと」
「ええ、ずっとよ。あなたがあの魔女に熱をあげて、手に入れようと悪戦苦闘するさまを全部ね」
「うわぁ……ひどい、最低ですよ八雲さまっ」
逃げるように布団をかぶって、ばたばたと足を動かす稗田阿求。ああもう、本当に可愛い。つっつくだけで死んでしまいそうに脆い身体なのに、ひとの心を動かすだけの力を持っている。これだから人間を観察するのは止められないのだ。
「ふふ、見ものだったわぁ。押して引いて、なだめてすかして引っかき回して引きずって。あらゆる手練手管を駆使して少女密室をこじ開けようとするあなたは素敵だった。よくできた弾幕戰をみているような気分になったわ」
「あーうー、ちょっ、止めてくださいよぅ……。わたしそんなんじゃ……」
うごめく布団に顔を近づけ、耳とおぼしき辺りでささやいた。
「――ねぇパチェ、わたし、そろそろかもしれません」
その途端、布団はぴくりと動きを止める。
「あなたなら、こんな一言でパチュリーに秘術書を盗ませることだってできたでしょうねぇ。そもそもあなた、秘術書をあそこに置いたことは誰も知らないって云ってなかったっけ? ならどうして魔女は知っていたのかしら?」
「う……」
「あははははは、そんなに心配しないでも大丈夫よ。今の話は内緒にするわ。もしこの事件の話を誰かにするときも、あの日あなたが云った通りに、パチュリーのことを疑いながらも云えなかったってことにしておいてあげる」
「し、しておいてあげるもなにも、本当にそうですからっ! 勝手に決めつけないでくださいっ!」
「あらそう? ふふ、まあ真相は藪の中――いや、スキマの中ってところかしら?」
「そうですよ、もう帰ってください! それで二度とそのスキマを開けないでっ!」
「あらあら、嫌われたわね。まあいいわ、また会いましょう阿求。できれば生きているうちにね」
そう云って、私はスキマに飛び込んで入り口を閉める。
「――全部あなたのせいなんです!」
悔し紛れに叫んだ阿求の声が、暗闇の中で聞こえた気がした。
〈了〉
200kb越えながら、退屈せずに読み終わることができました。
阿求もパチェも、すごく可愛い。それに周りの皆も優しくて、愛しい。
皆と幻想郷がとても丁寧に描かれていて、するすると読んでしましました。
良いお年を。
来年もデルフィさんの作品が目に出来るのを楽しみにしております。
色々ぶん投げたようで、その実ものすごい細部に気を配られているのが伝わってきます。
特にキャラ描写はホントに素晴らしい。それぞれのキャラに深みがあって、だからこそ
百合描写が一層良いものになってます。
あんまりにも萌えたんで思わず貴方の過去作品全部読み返してしまいました。もう貴方大好き。
解決編後の真の黒幕?がわかるあたりとか、もうなんというか最高でした。
なんつって
そーいえば、ラブラブでむきゅむきゅな二人は幸せに……ああ、なりましたね。
良い作品をありがとうございました。よいお年を!
それにしても○○様は賢い御方だ・・・・・・
鈴仙にはまっすぐ育ってほしい。
アリスの人形劇を見たい、もしくはあなたのssとして読みたい。
この文章量の多さを嬉しく思いながら読み始め、終わる頃にはもっとと言いたい不思議な気持ち。
とてもおもしろかったです。
良い作品をありがとう
気がつけなかった。
推理小説ってこんなに楽しいもんなんですね。
取り合えず名前が出てたエラリーさんとやらのを読んでみようかな。
他にも作者さんのオススメがあれば聞いてみたい。
>それだけで、すべてが救われた気がしたよねの」
よねの→のよね
※誤字ですか?鈴仙のストリップシーンにて、
>「そ」スマートなボディラインを
登場人物を多数出して、その全てを良い人にしたり幸せにしたりしてるけど
そのせいで物語の焦点が散漫になってるんじゃないかな。
あと別にギャグじゃないんだからジョジョとか余計なパロディ要素は入れなくて
良かったんじゃないかとも思った。
作者さんなりの照れ隠しなのかもしれないけど。
テンポの良い会話は素直に上手いと感じました。
あれがあったからダレずに読めたかなー。
しかしやはり長文過ぎたのが敬遠されたのか、
点数いまいち伸びないな。
三部作くらいに分けてアップすればまた違ったのかも。
200kb超えは確かにめちゃくちゃインパクトあったけどもw
他の作品もだけど、貴方の長編はぐいぐい引っ張ってくれるので大好きです
まあ一概には言えませんが、
しかしそれを飽きさせずミステリに納めるのは本当に大変です
本当に楽しく読めました
所々の小ネタも楽しめました
何より実は紫視点というのが良かったです
よい物語とミステリをありがとうございました
最後までどっぷりと読みふけってしまいました。
これはもっと評価されるべき。
物語中の二点
アリスが人形劇につけた結末が一点
>求聞持は代々女を好きになる女として産まれてくる。
に続く、二段落に渡る問いかけが一点
それぞれに100点をつけたく思いました
阿求の人生は幸せだったと思いたいです。