「おい、苺馬鹿」
手に持った包丁で、ゆっくりとケーキのスポンジを横に切りながら、ちゆりは夢美に声をかけた。
エプロンをいつものセーラー服の上に着けている姿は、まるで家庭科実習のようだった。
「なによ」
「いや、それで返事するなよ……。ちょいと、その手に持った苺から五、六個ほしいんだが」
「やだ」
即答である。取り付く島もない。
「シフォンケーキやるから」
「シフォン主義の犬になんか屈しないから」
「なんだと。シフォンの素晴らしさを知らないとはもしやモグリか」
「誰がモーグリよ」
「いや、モグリだよ、モグリ」
で、モーグリってなんだよ。
「なんかのゲームのキャラクターらしいわよ?ゲームなんてあんまりしないからわからないけど」
「時間もないしな、やる。で」
「でを繰り返さない。会議で、えー、とか、まあ、とか繰り返して時間稼いでるわけじゃないんだから」
「へいへい。それで会議長引いて、特売の苺が売り切れたんだろ。耳が焼けるぜ、聞き過ぎで」
「私の言葉に耳を燃やす力なんてないけど」
「たこ焼きだ。いや焼だこか。耳がたこになるっつうんだ」
紙パックの牛乳を開けながら、ちゆりが億劫そうに説明する。
開けた中身は軽量カップの中へ。
「なんでもありね、本当」
「なにがだよ」
「ここは料理する場所じゃないってこと」
「そりゃあ物置だからな。うちらんとこの」
物置じゃなく、準備室よ。
そう、夢美が返すのを聞き流しながら、ちゆりは残った牛乳を喉に流し込み、生クリームの紙パックを開ける。
とぽとぽとカップに注ぎながら、残ったのを保存する容器がないな、と毒づいた。
「で、寄越すのか寄越さないのかどっちなんだ」
「シフォン半分」
「三分の一だ」
「五分の三」
「おいちょっと待て。増えてるだろそれ」
毒づきながら、ちゆりはマヨネーズの空容器を取り出す。
その容器を見てか、それとも今までの行動すべてに対するものか、夢美は呆れた様な声音でちゆりへ問い掛けた。
「ほんと、どこから出してるのよ、それとか。それに、なんでマヨネーズ……」
「不思議な四ちゆり空間だぜ」
「うまいこと言えてないから、それ」
返答に対し溜息を吐き、夢美は苺のへたを幾つか取り除いていく。
カップの中身をマヨネーズ容器に移すのを眺めながら、謎のちゆり空間へと思いをはせた。
はてさて、どこにあるのやら、といくつかの可能性が脳内で動き出している横では、ちゆりがマヨネーズ容器に入った液体を振り出している。
余談ではあるが、ちゆり空間の正体は足下のスポルティングバッグである。
「まあ、いいさ。七分の三、苺多目だ」
「それで乗った。いい商売だわ」
「商売じゃないぜ、これは」
夢美の手元からまるで神からの贈り物のように苺が移される。
それほど大事そうに、小皿へとゆっくり置かれていくのだ。
そうした最中、ちゆりの手元から聞こえていたしゃ、しゃという液体を振る音が、徐々にぱた、ぱたという音に変わってきたのを感じて、夢美の脳内に疑問がまた一つ過ぎる。
「また会いましょう、私の苺たち。で、それなにやってるの?」
「言葉だけ聞くとなんか卑猥だな。で、それってなんだよ」
「その手元」
「ああ、生クリーム作ってんだ」
ぱた、ぱたぱたぱたぱた、ぱたぱた、
ぱた、
と、振る音が止まった。
「さて、苺も手に入ったし、載せてくか」
「生クリーム、本当にそれで出来てるの?」
「知らん。こういう作り方もあるって話を聞いただけだからな」
「うわぁ。なんか食べる気がなくなるわね、それを聞くと」
「食べないなら全部独り占めするだけだぜ」
「もちろん食べるけど」
なら食べる気ないとか言うなよ。
「それで、ケーキなんてどうしたのよ。なにかあったの?」
「あー、いやな。ネットの海を泳いでたら」
「脳の電子化?」
「比喩だ比喩。シフォン、ああ、ご主人がさっき言った、シフォン主義なる言葉を見てな。なんか急に食いたくなった」
「なんとも流されやすい」
「どうとでも言え。とにかく、今シフォンケーキが熱い!私の中で!」
「まあ、なんでもいいけど。おいしいなら」
「もちろんうまいに決まってる。私が作るんだからな」
「スポンジは市販じゃないの?それ」
「それは言わなくていい」
言葉を交わしながらも手が動く。
マヨネーズ容器の先を切り取り、ボールの中へスプーンで移す。
四ちゆり空間から取り出されたへらでスポンジとスポンジの間にべったりと生クリームを乗せ、そこに苺が入った。
スポンジの周りにも生クリームがゆっくりと塗られていく。
「で、いつ出来るの?」
「あと少しだぜ。待てよ、少しぐらい」
「なんだかゆっくりやってるんだもの」
「これが精一杯だ。パティシエじゃないしな、私は」
ま、こんぐらいでいいか。
「切り分けるから、皿寄越せ」
「あるわけないでしょ、そんなの」
「なんだよ、用意がわるい」
「勝手に作り始めたのは誰かしらね。ちゆりこそ用意が悪いじゃない」
そこがな、奴さん。
そうちゆりが言葉を返す。
「実は素敵な四ちゆり空間には紙皿があるのだ」
「出しなさいよ、なら」
「使い捨ての皿なんて勿体ないからな」
はぁ、ともう一度夢美が溜息を吐く。
「聞いてないから」
「だから慌てんなって。よく言うだろ、明日やろうよ馬鹿野郎と」
「どんな怠け者よ、それ」
「主に教卓の上に存在し、苺を主食にする素敵が鳴き声の生物だな。学名がニホンステキユメミオカザキ」
がさごそとちゆり空間から紙皿を取り出す。
「私も有名になったものね」
「その反応はおかしい」
「かしら?」
「おかしい」
ゆっくりと縦に包丁を入れながら、ちゆりが繰り返す。
「まあ、夢美がおかしいのはいつものことだから気にしないが、な」
「いつもおかしいのはちゆりでしょ?だぜだぜって」
「口調は気にするな、癖みたいなもんなんだから」
「癖みたいなもんなんだからだぜ」
お前は子供か。
そうちゆりは吐き捨て、ケーキを紙皿へと移していった。
「なかなかいいわね、だぜだぜ。こう、野性的になった気がするぜ」
「語尾にぜを付けるのをやめろ、キャラが立たなくなる」
「私は夢美だぜ」
「……子供だったな、そういやごしゅ、夢、いや、この馬鹿は」
移す際に手に付いた生クリームを舐めとりながら、ちゆりが言う。
ちゆりの方が子供っぽいわよ、と口の中で、聞こえない程の声で夢美が呟い言葉は、目の前に皿が置かれたことで霧散していく。
「ケーキなら、クリスマスに食べたかったけど」
「クリスマスのイブイブイブの以下略だ」
「ただの平日」
「だぜ」
「平日だぜ」
「だからそれやめろ」
紙皿とともに置かれたプラスチックのスプーンで口へとケーキを運んでいく。
「なんでスプーン?」
「洗うのめんどいだろ、フォークは先が」
「横着よね、ちゆりは。もうすこし若々しく」
「どの口が言うか。ご主人よりも数倍若々しいって」
「少ししか変わらないじゃない、年齢」
「年齢の話じゃないだろ、若々しさは」
舌で潰すように生クリームを味わいながら、ちゆりが返す。
同じく舌で潰すように味わう夢美は、言葉を返しはするが、上の空で、まるで反射で返しているようだった。
「生クリームと苺も、素晴らしいわね。本当、これを考えた人は天才だわ」
「お前は苺ならなんでもいいんだろ、実際は」
「うん、おいし」
「聞けよ」
気付けば返すことも放棄した様。
紙を擦るかさぁ、かさぁという音をさせながら、二人、ケーキを口へと移すのを繰り返す。
「……もう少し早く、作ろうと思ってればなぁ」
クリスマス、あんな淋しい思いをせずにすんだのかもしれないぜ。
シフォンケーキのスポンジのやわらかさに隠すように、小さく小さくちゆりは呟いて、口の端についた生クリームを舐め取った。
「ま、気にしないが吉か」
「なにがよ」
「なんでもないよ。ケーキうまいなぁってさ」
「そうね。今度から毎日おやつを作りなさい。教授命令よ」
「お断りだぜ。友人としてな」
笑いながらちゆりは言って、口の中の見えない紫煙をぷかりと空へと吐き出す。
もう、一年が終わりそうである。
また、一年が始まりそうである。
たんたんとしながらも楽しそうなこの二人が好き