狸を一匹、殺してきた――と。
枯れ葉のくずと土に汚れた無様な姿で、寒さと疲労に掠れた弱々しい声で、静葉は穣子にそう告げた。
そして、静かに、泣き崩れた。
~ムジナ殺しの静葉~
「お、お姉ちゃんっ」
血相を変えて駆け寄った穣子が、ぐらりと傾ぐ姉の体を危ういところで抱き留めた。
ぞっとするくらい、冷たい体だった。
静葉は見るからに精も根も尽き果てたといった様子で、穣子に支えられたままろくに動こうともせず、ただ俯いてほろほろと涙を流している。
「ちょっと、一体どうしたっていうのよ……」
季節は晩秋である。
すっかり短くなった陽は完全に落ち、穣子はつい先程まで、なかなか家に帰ってこない姉をずっと心配して待っていた。その姉がただいまの声も無しにふらりと戻ってきたかと思えば、いきなり玄関先でこの有り様だ。
もとより秋に華やぐ神として冬場になれば暗くなりがちな姉であるし、それは穣子も同様なのだが、いくらなんでもここまで酷いのはちょっと考えられない。
なにか特別な、よろしくない事情があるはずだった。
「お姉ちゃん、どこか痛いの? 具合でも悪いの?」
静葉は首を振る。
事態は未ださっぱり掴めないが、差し当たり静葉が危険な状態にあるわけではないらしい。
穣子は胸の一部を撫で下ろし、とにかく姉を家に入れてやることにした。怪我はなくとも早く暖めてやらなければまずい。
「ほらお姉ちゃん、入って。炬燵にあたって。お風呂もすぐに沸かすから」
穣子が手を引いて促すと、静葉はどんよりと視線を落としたまま、枯れ枝のような足取りでどうにか歩き出した。
炬燵布団に姉を深く突っ込み、穣子は慌ただしく風呂炊きの支度を進める。ぱたぱたと動き回りながら、無言で暖をとっている姉へと質問の続きを投げ掛ける。
「狸を殺したって言ったよね。どういうこと?」
静葉は少しだけ顔を上げ、なにか言おうとした。
しかし、事情をうまく言葉にできないのか、すぐにまた下を向いて黙り込んでしまった。
「……今日も山に行ってたんでしょ。山で狸に会ったの?」
静葉が頷く。
もともと口数の少ない姉は、こんな風に落ち込んだ時、ほとんど自分からは口を開かなくなってしまう。こちらの問い掛けに対して最低限の受け答えをする他は、ただ首を縦か横に振るばかりだ。
まあ、焦ることはない。こういう時の姉の扱いは心得ている。ゆっくりと暖まりながら問い掛けを重ねて、少しずつ事の次第を明らかにしていけばいい――。
穣子はそう考えながら、湯沸かしの火に思いっ切り息を吹き込んだ。
◆ ◆ ◆
百年に一度の凶作だった。
百年に一度の事、そう思わなければ遣りきれない程に、野山も田畑もすべてが痩せ、誰も彼もが飢えていた。
大元の原因は誰にも判らなかった。草木の病が流行ったわけではなく、天変地異に見舞われたわけでもない。ただ夏の日差しは弱く、秋は早々に冷え、強すぎる雨は降るたびに諸々を押し流した。理由など無くとも、自然という巨大な流れの中の『ゆらぎ』として、稀にこういうことは起こるのだった。
古参の豊穣神も、鳴り物入りの風神も、その流れを覆すことはできなかった。ただ、彼女らの尽力があればこそ幻想郷は壊滅的なレベルの飢饉を免れたのであり、それは人間も妖怪たちもよくよく承知の事であって、この凶作について彼女らを非難する者はついに現れなかった。
そうして、収穫の秋は無情に過ぎ行き、冬を待つばかりの、ただの秋が残った。
その、何もない秋の山道を、静葉は一人で歩いていた。
つい先日まで命がけで豊穣の力を振るい続けていた妹は、今は弱った体を家で休めていた。静葉はそれに代わるように、痩せた山々を巡り、草木や獣たちの様子を見ることを最近の日課としているのだった。
具体的に何をしようというわけでもないし、今さら何ができるわけでもなかった。ただ、じっとしてはいられなかったのだ。
かさ、かさ、と落ち葉を踏みしめながら、実りのない木ばかりが目立つ山中を静葉は歩く。わずかばかりの木の実や果実を見つけた時には、次に出会った動物にそれを教えてやる。紅葉を司る静葉が彼らにしてやれるのは、せいぜいその程度の事だった。
実りは無いが、それでも山は紅く染まっていた。豊かな秋を華々しく締め括るはずのその鮮やかさも、今はただ見る者の心にうそ寒く、さもなければ血の色を想起させた。食うに事欠いている者たちに『もののあはれ』を享受する余裕などありはしないのだ。
静葉は思う。
静葉さえもが、思う。
紅葉が食べられたらいいのに――と。
気付けば、そこに狸がいた。
◇ ◇ ◇
「――やっぱり、まだ冬籠もりできない子がいたんだ」
炬燵の炭を火箸でつつきながら、穣子は平淡な声で呟いた。
静葉は大人しく座って手足を炬燵に潜り込ませ、虚ろな瞳で妹の所作を眺めていた。
幻想郷の狸は冬籠もりをする。秋の間に食えるだけ食って栄養を溜め込んでから、数匹の群れで巣穴に籠り、じっと身を寄せ合って春を待つ。山の秋の豊かさと冬の厳しさが、彼らにその習性を身に付けさせた。
「見かけたのは一匹だけ?」
静葉は首を振る。
十中八九、その狸たちは冬籠もりを控えた一団だ。
例年であれば、今頃はとうに巣穴へと引っ込んでいる時季だった。凶作のせいで十分な栄養を蓄えられず、籠るに籠れない状況なのだろう。
「お姉ちゃんが殺したっていうのは、その中の一匹なのね?」
静葉は頷く。
穣子は立ち上がって静葉の後ろに回り、火のあたらぬその背中にそっと抱きついてやった。
しぶとく残っていた姉の体の冷たさに、一瞬息が詰まる。
「どうして殺したの? なにか悪さでもして、人間に退治を頼まれたとか?」
穣子の腕の中で、静葉は首を振った。
◆ ◆ ◆
人間の里は、まだましな状況にあった。
彼らには知恵と甲斐性があった。豊作だった去年の収穫をちゃんと備蓄していたし、普段は手を出さないような植物を毒抜きして食う術をも心得ていた。決して安穏ではなかったけれど、彼らは冬を乗り切る確かな見通しを持っていたのである。
一方で、それを持たないのが獣たちだった。
このとき静葉の前に現れた狸たちもまた、その類であるに違いなかった。
大小あわせて六匹の狸たちだった。
冬籠もりのための群れだと、静葉には一目で判った。
狸たちは不意にやってきた紅葉神に一瞬の注意を払いながらも、すぐにまた鼻先で足元の地面を忙しくまさぐり始めた。さもありなん、彼らは神などに構っている場合ではなかった。
この場所は、彼らにとって宝の山だったのである。
急な斜面の途中にちょっとした窪みがあり、大量のどんぐりやその他の木の実がそこに溜まっていた。誰かが集めたわけではなく、山の上から斜面を転がり落ちてきた実がこの窪みに引っ掛かり、自然に留まっていったものなのだろう。冬を目前にしてこれだけの食べ物が残されていた事は、まさに奇蹟とも言える僥倖だった。
これらを食えば、どうにか冬を越せるかもしれない。静葉はそう思ったし、狸たちもそう思っていることだろう。厳しさの只中で見つけた小さな救いの光景に、静葉の頬がふっと緩んだ。
だが、しばらく彼らの食事風景を眺めていて――静葉は気付いた。
一匹の狸の様子がおかしかったのだ。
そいつは、さっきから何も食べていなかった。
ぽつんと一匹、少し離れた所で地面にうずくまり、他の五匹が夢中で木の実をかじる様を、ただじっと見詰めていた。
仲間外れ――。静葉は咄嗟にそう思った。
悲しいことだが、とりわけ餌が限られている状況下においては、自然界でもこういうことが起こる。群れの総意として、一部の個体に餌が行き渡らなくなる。それもまた、狼が兎を食うのと同じ、自然というものの在り方なのかもしれない。
だけど、と静葉は思った。
狸には狸の秩序があるし、いくら神とて領分を越えた干渉であることは解っていた。それでも、口を挟まずにはいられなかったのだ。
あなたたち。
静葉は五匹の狸に歩み寄りながら、珍しくも鋭い声で語りかけた。意地悪しないで、ちゃんと皆で分けて食べなさい、と。
狸たちはびくりとして食う手を止め、それぞれに落ち着かない目で静葉を見上げた。言葉を持たない彼らの漠然とした思念が、もやもやと静葉に伝わってきた。
意外にも、そこにあったのは困惑だった。どこか手応えのない、反省や反発とは明らかに異なる感情。なにか見当違いのことで頭ごなしに注意を受けた時のような、そんなこと言われても、という戸惑いの気持ち。
はて、と静葉は目をしばたたく。自分はなにか的外れなことを言ったのだろうか?
正確な意志疎通がままならず、落としどころの見つからない妙な空気の中、静葉と狸たちは互いに行動を決めかねて立ちすくむ。
その時、静葉のスカートが後ろからくい、と引っ張られた。
振り向くと、あの食っていない狸だった。いつの間にか足元に来ていたそれが、深紅のスカートの裾を咥え、臆するでもなく静葉を見上げていた。
制止されたのか。
状況を把握できない静葉が当惑の視線を向けると、狸は落ち着いた様子でスカートを口から放した。
そして、他の狸たちよりもずっと綺麗な言葉で、こう言った。
――違う。そうじゃないんだ。
◇ ◇ ◇
「えっ? 仲間外れじゃなかったら……なんなの?」
心安らぐ白い湯煙が、風呂場にもうもうと立ち込めている。
姉の華奢な背中に熱い湯をたっぷりとかけてやりながら、穣子は湯桶と一緒に首を傾げた。
「あー……その子は病気か何かで、食べたくても食べられなかったとか?」
少し迷ってから、静葉は首を振る。
浮かない表情は変わっていないものの、その頬にはだいぶ赤みが差してきたようで、穣子としてもひとまずは安心というところだった。
残る懸念は、この、狸を殺したのどうのという話になるわけだが――。
「それなら、だとしたら、」
穣子は頭を捻る。
明らかにその狸には、食べる機会と、能力と、なにより必要があった。
にも関わらず食べなかったのだとすれば、不可解ではあるがこう考えるしかない。つまり、
「……その子が、自分の意思で、食べなかった?」
静葉が頷く。
濡れた前髪の先から、ぽたり、と雫が落ちる。
◆ ◆ ◆
立派な、雄の狸だった。
精悍な老剣士――そんなイメージを静葉は抱いた。
その体は、痩せていてもなお他の狸より大きかった。見たところかなりの古強者で、老いてはいるが衰えた様子は微塵もなく、知的で隙のない目つきをしていた。静葉とまともな意志疎通ができたのも、重ねた齢のなせる業だろう。
静葉は今になって、彼が群れのリーダーであることに気付いた。
どうして食べないの?
狸の前にしゃがみ込んで、静葉は尋ねた。
相手は億劫そうに身を揺すっただけで、何も答えなかった。
もしかしたら体が弱っていて、食べたくても上手に食べられないのかもしれない。そう思った静葉は手近にあったどんぐりの一つを拾い、ぱきんと殻を割って、中の白い身だけを差し出してやった。
狸はそっぽを向いたまま、匂いを嗅ごうともしなかった。
どうして食べないの? 静葉はもう一度尋ねた。
いらないからだよ。狸が億劫そうに答えた。
理解できなかった。
解っているのは、いま食べなければこの狸は遠からず死ぬという事だけだった。
食べて。おいしいから。静葉はもう一つどんぐりを割り、それを狸の眼前で自分の口に放り込んで見せた。人と同様の味覚を持つ静葉には生のままのどんぐりなど食べられたものではなく、舌で転がしているだけでも渋さに口が曲がりそうだったが、それでも精一杯に微笑んで見せた。
やめてくれよ。子供騙しの演技を歯牙にもかけず、呆れたように狸が呟いた。
痩せ我慢の柱が折れた。静葉の顔が不味さに歪み、涙が滲んだ。一体どうしたらいいのか判らず、行き場のない手で狸の背中を撫でた。
その背中に、穴が空いていた。
静葉の背筋が凍った。
いま触れた所を、そっと覗き込んでみた。
人差し指が楽に入ってしまいそうな、ぽっかりと丸く、深く、穿たれた傷があった。
静葉は恐る恐る、手を下の方に這わせてみた。――あった。腹側にも一つ、見なくとも判るほどに大きな、丸い傷が。
それは噛み傷に違いなかった。相手は大型の獣か、あるいは妖獣の類か。なんであれ、そいつもまた迫り来る冬を生き抜くために必死だったのだろう。その敵に対し、この狸が群れを守るために体を張ったことは想像に難くなかった。
――ごめんなさい。痛かった?
狸は、軽く身じろぎしただけだった。
傷に触れないよう慎重に毛を掻き分けて、静葉はもう一度そこをよく見た。血は止まっているが、決して快方には向かっていない。そういう傷だった。
可能性の崖っぷちを渡ってきたのだろう、と静葉は思った。
勝ち目のない捕食者に立ち向かい、その牙から奇跡的に逃れ、傷に命を蝕まれながらも今日までを生きて、彼はこの場所に群れを導いてきたのだ。
この、最後の餌場に。
◇ ◇ ◇
「もしかして、その子は、」
湯舟の中で、穣子はまじまじと姉を見詰めた。
「……わかってたの? もう長くないって」
静葉は頷いた。
◆ ◆ ◆
――あなたは、本当に、賢いひとなのね。
地面に腰を下ろし、膝に乗せた狸をそっと撫でながら、静葉は呟いた。
木々の間から見える空は茜色に染まり、山を包む空気はすでに夜の気配を孕みつつあった。降り積もった落ち葉がクッションになっているとはいえ、地面から伝わってくる冷気は容赦がない。それでも、だからこそ、静葉は狸を抱いていてやりたかった。
この、勇敢で聡明な狸は、解っていたのだ。
自分がもう長くないと。
仮にいま、腹一杯に食ったとしても、自分が春に目覚めることは無いと。
だから、食わなかった。限られた餌は、すべて他の者に食わせた。彼らが生き延びる可能性に少しでも下駄を履かせる為に。
そうして彼自身は、このまま飢えと寒さで死ぬか、あるいは傷が腐って死ぬのだろう。
ふと、ひたむきに食べ続けていた狸のうちの一匹が、ひょいと顔を上げて静葉の方を見た。
それが伝播したかのように、他の狸も一匹また一匹と食うことをやめ、こちらに顔を向けてきた。
狸たちの、それぞれに気遣わしげな視線が、静葉の膝の上でもやもやと交錯した。
食えよ。
膝の狸が鼻面をもたげ、おそらくは彼の妻や子供であろう狸たちに向かって、ぶっきらぼうに言った。
五匹の狸たちはしばし戸惑ったように立ちすくみながらも、やがて家長の命に従って地面に向き直り、もそもそと食事を再開していった。
彼はその様子を、さっきまでずっとそうだったように、ただ静かに眺めていた。その瞳にあるのは、死にゆく我が身に対する無念でもなく、実り貧しい季節への怨嗟でもなく、家族に未来を託せたことへの充実感だった。それに比べれば、死に対する恐れなど物の数ではないのだろう。
でも、と静葉は思った。
狸の痩せた体を手で暖めてやりながら、ぐるぐると言葉を探した。
飢えと怪我でゆっくり死んでいくのは、辛くはない――?
静葉は尋ねた。
狸は、溜め息のように鼻を鳴らしただけで、なにも答えなかった。
あなたさえよければ、と静葉は言った。
――ああ。と狸は答えた。
たのむよ。
◇ ◇ ◇
「…………」
穣子は、目を伏せた。
◆ ◆ ◆
秋は、実りの季節。
そして、終焉の季節だった。
実りと終焉、隆盛と衰退、生と死――それらは不可分で、表裏一体で、だからこそ世界は上手く動いている。
葉が染まり、散るということ。
人や獣が老い、死ぬということ。
それは決して、ただの『終わり』ではない。
実る一方では大地はやがて枯れる。生まれたものと同じ数だけ死にゆくものがあり、死して地に還ったものが新たな実りの礎となるからこそ、総体としての命は決して尽きることがない。終焉とは、巡り巡る自然の欠くべからざる機能であり、地上のあらゆる生命が生まれながらに負う使命であった。
秋静葉は、その使命の導き手だった。
紅葉の神様、寂しさと終焉の象徴とは、要するにそういう存在だった。
神気の流れを止め、静葉は狸の頭からそっと手を放した。
一足先に春の陽光の中でまどろんでいるような、この上なく穏やかな顔が、そこにはあった。
静葉は瞑目し、長い長い息を吐いた。
これでまた、終焉が一つ。どうということのない仕事だった。
神のわりに弾幕ごっこや荒事の類は苦手な静葉だったが、こういう事は得意なのだ。
終わるべき時が来たものを、静かに、安らかに、終わらせる――その御業こそが静葉の領分だった。
だから、たかが狸一匹を送ってやることなんて、本当に、
簡単すぎて、涙が出た。
◇ ◇ ◇
風呂上りの体を、間髪入れず炬燵に突っ込んで。
すべてを語り終えた姉と、すべてを理解した妹は、ただ静かに向かい合っていた。
「――ご苦労様。お姉ちゃん」
穣子がぽつりと言った。
それくらいの事しか言えなかったし、それでいいのだと思った。
「ご飯にしようか」
そう続けて、穣子は炬燵から立ち上がった。
静葉が意外そうな顔をして、台所へ向かう妹にもの問いたげな視線をよこす。
秘密のプレゼントを披露する時のような気分で、穣子は少し愉快だった。
「塞ぎ込んでて、匂いにも気付かなかった? お姉ちゃんが帰ってくる前から炊いてたんだよ」
穣子は誇らしげに言いながら、台所でずっと出番を待っていた土鍋を持ち出し、恭しく居間へと運び込む。
呆けている姉の前にでんと置き、蓋を取ると、鍋から秋が立ち昇った。
今年の新米と数種の野菜、それに山で採れた茸や銀杏――秋の味覚がたっぷりと入った炊き込みご飯が、無味無臭の空気をどんどん押し退けてほかほかの湯気を立てていた。
静葉の目がますます丸くなる。
姉の言いたい事は、穣子にも解っていた。
いま、秋姉妹の家に、こんなものは存在しない筈だったのだ。
毎日の食事は、むろん穣子たちにとっても大きな楽しみであり、活力の源でもある。しかし極論すれば、神は信仰さえあれば飲まず食わずでも生きていける。そこで穣子と静葉はこの秋の人里の窮状を思い、二人でじっくりと話し合い、毎年人間たちから山ほど奉納される収穫物をすべて断ることにした。いざとなったら春までずっと添い寝でもしていようかと、冗談交じりに覚悟を決めていたところだったのだ。
それが今、紛れもない秋の御馳走が、目の前にあるのである。
「お姉ちゃんが留守の間に、里の人たちが来てね」
茶碗や箸をひょいひょいと並べながら、穣子は種明かしをする。
「我々がそうしたいんだから、せめて少しでも受け取ってくれ――って。こっちは要らないって言ってるのに、ずいぶん粘られちゃってさ」
姉の茶碗に、惜し気もなく飯を盛ってやる。
ひときわ濃い湯気が顔を直撃して、穣子はむせた。
「あ、ははっ……まったく、格好つけたがるよねえ。人間も、狸も……」
人間たちがなけなしの収穫を持って穣子を訪ねてきた時、里の長もその孫も、他のすべての者も、皆が笑っていた。
誰一人として差し出す食糧を惜しまなかったし、穣子のことを恨めしく思ってもいなかった。
おそらくは件の狸も、あの人間たちと同様、さっぱりとした気持ちで家族に食わせたのだろう。
人も獣も、本当によくできた者ばかりで困るくらいだった。まだ年も明けないうちから、穣子の胸は『次の秋こそは』という気迫とプレッシャーで張り詰めんばかりだった。
「……うん。来年こそは、ね」
言葉になって漏れ出した穣子の気持ちに、静葉も深く頷く。
あの狸だけではない。穣子や静葉の手が届かないところで、沢山の命が潰えたのだ。
数多の骸を飲み込んだ大地は、その寂しさと終焉を糧として、次なる実りのための大きな力を蓄えるだろう。残酷だが世界はそういう風に出来ている。
だから私たちも、今は人間たちの信仰にすがって、ちゃんと元気になろう。
「いただきますっ!!」
穣子は声を張り上げて手を合わせ、静葉もそれに倣った。
人間たちの努力と信仰の精華を箸で取り、迷わず口に放り込んだ。
それは、いつもより粒が不揃いで、いつもより色艶が悪くて、いつもより水分と糖分が少なくて――。
今まで食べたどんな御飯より、ずっとずっと美味しかった。
「――お、おいしい、ね」
久しぶりに、穣子は泣いた。
静葉は、泣いていなかった。幸せそうに微笑んで穣子を見つめていた。
繊細で多感で、事あるごとに涙しがちな静葉だが、妹が泣いている間、彼女は決して泣かないのである。
―完―
素晴らしい作品だと思いました。
残酷でありながら優しいお話でした。
動物にしろ人間にしろ神様にしろ、この力強さこそがこの作品の本質な気がしました。
それにしても狸も人間もかっこつけすぎで、所々泣きそうになりました。もっとも狸や人間にとって作中の行動はごく自然のことのようにも思えます。
冬だね 感動しました
自分も涙出ました。
なけなしの実りを持ってきたのがあの時の村民と考えると、
彼らと秋姉妹の繋がりをより一層痛感できていい感じだった。
そう!秋姉妹は素晴らしいんだ!素晴らしい神様なんだ!なくてはならないんだ!
心優しい姉妹に幸あれ。
この秋姉の解釈が凄く良いです。
残酷で美しい秋をごちそうさまでした。
素敵な話でした。
秋姉妹は優しいなあ。
厳しくて優しい解釈ですね
と少しだけずれたことを考えながらも読ませていただきました。
ありがとうございました。