雪が降っていた。
積もるようなものではなくて、地面に着いた途端水になって消えた。
溜息をつくと真っ白い吐息が広がったが、それもすぐに空気に溶けて消える。
空には十六夜。
欠けた月。
ああ、なんとも侘しい夜だ、と思った。
だから、とは言わないが。
それらの事柄が少しも関係ないとも言わない。
私はその夜。
足元に転がる、みすぼらしい子犬を飼うことに決めた。
――変わらない物――
子犬に名前をたずねることはしなかった。
過去にどんな名前で呼ばれていようが関係ない。
私が飼うと決めた瞬間から私の所有物になったのだから、私が名付けるのは当然のことだ。
「今からお前の名前は十六夜咲夜だよ。そして、お前のご主人様は未来永劫この私。レミリア・スカーレットだ。お前はそれだけを、ちっぽけな脳みそと、貧弱な体と、その全身に流れている赤い紅い血に誓えばいい。そうすれば、お前の命が尽きるその瞬間まで、私はお前を所有してやる」
子犬は、なにがなんだかわからない、という顔をした。
その愚鈍さを何故か愛らしく感じて、自然と口角が上がる。
「拾ってあげる、と言っているのよ」
意識せず、口調がやわらかくなった。
「貴女はただ、頷けばいい」
子犬は、咲夜は、その言葉に目を見開いた後、喉を小さく震わせて。
「……はい」
小さな、小さな声でそう答えると、顔をくしゃくしゃにして俯いた。
まるでこうべを垂れて服従を示したようなそれに私はどうしてだかほんの少し胸が締め付けられるように感じて、その頭を撫でてやった。
触れる手が、壊れ物を扱うように優しげになってしまったのは、意図してではなかった。
気付けば、私にとっては一瞬の。
だが咲夜の背が私を追い抜き、私を見下ろさなくてはならなくなる程度の時が過ぎ去った。
声をかけようと振り向いた時などに、私の数歩後ろにいることに変わりないのに、見上げなければ視線が交わらない現実にどうしようもない違和感と不快感を感じるようになった。
しかしそれを表に出すのはなんとも滑稽なことのように思えて、私はなるべく自分の内側にその感情を留めた。
変わらない物など、そうそうない。
咲夜は日々めまぐるしい変化を遂げていった。
それは身長や体格の変化だけには留まらない。
はじめ、咲夜はパチェを嫌っていた。
私は、よく言えば思慮深く物静かな、悪く言えば頭でっかちで無愛想な魔女は子供に好かれそうな人物ではないからなあと考えて、それを深く気にすることはなかった。
咲夜がパチェを嫌おうが実質的被害がなければ問題ではないし、咲夜は自分の主人の大切なものを傷付けるような駄犬ではないと確信もしていた。
なによりパチェ自身も自分のことを嫌う咲夜の態度を特別不快には感じていないようだった。
だから咲夜の教育は全てパチェに一任した。
パチェはそれを受け入れてくれたし、咲夜は私の命令に逆らったりは出来ない。
必然的に二人は共に過ごす時間が増え、次第に咲夜はパチェを嫌うのをやめた。
「嫌うのをやめただけ。私を好きになったわけではないわ。単純に受け入れたのよ。良くも悪くも犬ね。私は猫のほうが好きなのだけど」
パチェはそう言って小さく溜息をついた。
伏せられた睫毛は長く、白い肌に影を落とした。
私はそれを美しいと思って、言葉を理解することよりもパチェの瞼に口付けることを優先した。
するとパチェは苦笑しながら私の頭を撫でた。
私がそんな行為を許すのは彼女に対してだけで、だから彼女の手からはほのかな温もりと一緒に確かな熱が伝わってきた。
変わらないものなど、そうそうない。
だが、私とパチェの間にあるこの熱は一向に冷める気配はなく、冷ます気なども微塵もなかった。
変わらない物は、確かにここにある。
冬の日。
パチェのもとへ行こうと館の廊下を歩いている最中。
平気そうな顔をして私の後ろを歩いていた咲夜が、突然倒れた。
床に転がる咲夜を見て。
陳腐な表現だが、私の頭は真っ白になった。
側にいたメイド達が心配して走り寄って来たのに対し、思い出すのもいやな程取り乱した声で
「咲夜にさわるなっ!」
と怒鳴り散らしてしまった。
そのまま誰にも触れさせないと言わんばかりに抱え上げて、大急ぎでパチェのもとまで飛んだ。
扉をブチ破って入った私に小悪魔は驚いて尻餅をつき、パチェは少し目を見開いた。
しかし、パチェは私が抱えている咲夜にすぐ気付き、静かに本を閉じると、椅子から腰をあげた。
「パチェ、咲夜が……」
情けない。
本当に、情けないことに。
声が震えて、目が霞んだ。
「……ったすけて」
搾り出すように、そう口にした。
紛れも無い、懇願だった。
パチェは目を伏せ、数拍間を置いてから息を吐き。
優しく微笑んで、答えてくれた。
「任せて」
私はその言葉を信じ、図書館に隣接されたパチェの寝室に咲夜を運ぶと、邪魔にならないように出来るだけ静かに退室した。
一瞬、本当に一瞬だけだが。
咲夜が助かりますようにと、悪魔の癖に神に祈りかけた。
行き場のない犬を拾った、その程度のつもりだったはずなのに。
結論を言うなら、ただの風邪だった。
図書館で待っていた私に戻ってきたパチェが告げたそのなんとも拍子抜けな診断結果に、私は阿呆のように呆けた後、全身から力が抜けていくように感じ、くずおれるように椅子に腰を下ろした。
深い深い溜息を吐く。
悪魔の館、紅魔館を統べる誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレット。
それが私で、名に恥じぬ存在であると自負している。
だが今回ばかりは。
主観的に見ても客観的に見ても、間抜け以外の何者でもないと思った。
「……よかったわね」
かけられた声に顔をあげた。
私の正面に立ったままのパチェ。
普段あまり表情に富んでいるとは言い難い彼女は、やはり優しそうに、でもどこか寂しそうに微笑んでいた。
「大切なんでしょう?」
続けられた言葉に、呼吸が止まった。
「なにを、馬鹿な」
「自覚もなかったのね」
パチェはやれやれとでも言いたげに小さく首を振り、一瞬俯かせた顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えて言った。
「貴女は咲夜が大切なのよ、レミィ。認めなさい。そうでないと後悔することになるわ」
細いが芯の通った声音を、場違いかもしれないが、美しいと思った。
パチュリー・ノーレッジは美しい。
それは、容姿に限った話ではない。
彼女が纏う空気、その眼差し。
それらはいつも、いつまでたっても、私の胸を打ち、震わせる。
だからこそ永遠に共にありたいと思い、彼女を手に入れたのだ。
パチェを求めた日を思い出す。
蝉の鳴き始めた初夏。
その鳴き声も届かない、当時彼女が拠点としていた、とても静かな、本で埋め尽くされた小さな隠れ家で。
陽射しに嫌われた私と陽射しを好まない彼女の、二人きり。
ページをめくる彼女の細い指先を見て、私は思ったのだ。
世界がこの家の中だけになってしまってもいいかもしれない、と。
彼女と、彼女の愛する書物達と、彼女のことを、愛しいと感じる私と。
それだけの世界ならば、そこには幸福以外何物も存在しない、と。
もちろん、それは愚かな白昼夢に過ぎない。
小さな家にある本の量などたかが知れていて、どれだけ時間をかけて読み進めたとしてもそう遠くないうちに全て読み終えてしまう。
そうすれば、彼女は新しい本を求めるだろう。
それは外にしかない。
それに私にも、捨てられない物と捨てたくない物はある。
悪魔の館の当主としての、立場と誇り。
私が当主である為には欠かすことの出来ない、私に忠誠を誓う従者達。
……誰よりも可愛い、妹。
それらはすべて、ここにいては守れない物だ。
二人きりのこの小さな世界では。
それでも、私は彼女を諦める気はない。
だからこそ。
「パチュリー・ノーレッジ、膨大にして深淵なる知識を蓄えし生粋の魔女。私は貴女が欲しい。貴女が貴女であるからこその、その美しさに魅せられた。ついて来い。私の物になれ」
声には燃え上がる熱が篭った。
強者は強欲であるべきで、強欲だからこそ強者たりえるのだと信じている私は、それまでにも欲しいと思った物など腐るほどあった。
もちろん、それらすべてを手に入れてきた。
だが、彼女程欲しいと思った物はなかったのだ。
「レミリア・スカーレット。紅い悪魔、誇り高き夜の王。貴女のその傲慢さは、貫ける強さを持つからこそ魅力的だわ。だけど、だからこそ、貴女が欲する私もまた、安くはない」
彼女の返答に、私は拳をギュッと握り締めた。
彼女が自分の価値を知っていることが自分のことのように嬉しかったし、それと同時にらしくもない不安も感じた。
だが、彼女が私の傲慢さに価値を見出だしたのならば。
僅かな震えなど握り潰して、誰よりも傲慢な夜の王として、彼女を手に入れてみせよう。
「ふむ、では要求を聞こうか、お高い魔女さん? この偉大なる紅い悪魔に、いったいなにを求めるんだ? 無理難題でもなんでも提出してみな。私はそれを聞き届け、見事答えてみせよう。そのかわり、報酬として契約を交わさせて貰う。悪魔との契約だよ」
「契約内容は?」
「決まっているだろう?」
自信と余裕を詰め込めるだけ詰め込んだ不敵な笑みに、隠しきれない愛情を滲ませて。
「たとえ世界が滅んでも、私は貴女を逃がさないわ。魂が滅びるまで傍にいなさい。パチェ」
なにもかもを貫く槍を投げる時の心持ちで放った言葉に、パチェは満足そうに微笑んで言った。
「私の要求は一つだけ」
貴女の隣は、いつでも私の為に空けておいて。
レミィ。
「……私が」
今、目の前にいるパチェを見る。
胸が熱くなるのを感じた。
「私が、大切に想っているのは貴女だわ、パチェ。なにが変わろうとも、それだけは変わらない」
変わらない物など、そうそうない。
それでも、断言出来た。
変わらない物は、確かにここにあるのだ。
「わかってるわ、レミィ」
パチェは、本当に愛しいのだと、そう伝わるような眼差しを私に向けながら口にする。
「貴女が私を愛してくれている気持ちを、疑う気なんてないの。……あの時交わした契約の反故なんて、ありえないわ。貴女の隣を誰かに譲る気なんてない」
「なら、どうして」
「いつからそんなにお馬鹿さんになったのかしら、レミィ。もともと、そうだったでしょう?」
「え?」
「私にも、貴女にも。お互い以外に大切な物なんて、出会う前からたくさんあった。この世界は、私達二人だけで構成されてはいないから」
静かな、しかし確かな声。
だが微かに、語尾が掠れたその声は、痛いくらいに優しさに満ちていた。
「もう一度言うわ、レミィ。貴女は咲夜のことが……いいえ、咲夜のことも。大切なのよ。認めなさい、後悔する前に。……ねえ、レミィ。わかるでしょう?」
優しいパチェは、私の為に言葉を続けた。
それは、紛れも無い忠告だった。
「変わらない物なんて、そうそうない。人間はその最たる物よ。人間はめまぐるしい速さで変化し続ける。レミィ、咲夜は人間なの。本当はわかっていたんでしょう? 最初から。わかっていたから、認めたくなかったのね。変化の終着点は、いつだって」
――終り、だから。
「……っ」
あの日。
銀色の髪が月明かりで輝き、地上に落ちてきた星のカケラのようだと思った。
星は夜空を彩る花だ。
だから咲夜と名付けた。
その名を受け入れ、自らを差し出すことに頷いた少女の小さな体を抱き上げた。
華奢な体はほんの少し力を入れれば簡単に壊れてしまいそうで、館までの帰り道をひどく長く感じた。
だが。
腕の中の頼りない温もりを、どうしようもなく心地良くも感じたのだ。
「レミィ」
「……パチェ」
「レミィ……私は」
一拍、間を置いて。
「後悔する貴女なんて、見たくないわ」
パチェが、拳をギュッと握り締めていることくらい、すぐに気が付いた。
でも。
「貴女はいつでも、自信満々で強欲で、だからこそ格好いい、夜の王様でなくちゃね。欲しい物を欲しいと、大切な物を大切なのだと、そう言える貴女を、私は……好きになったんだから」
他でもないパチェが、そう言ってくれているのだから。
私は椅子から立ち上がり、パチェに背を向けた。
私は悪魔だが、彼女に対しては、いつだって誠実でいたかった。
彼女に背を向けて踏み出す一歩一歩が、今の私が彼女に示せる精一杯の誠実さだと思った。
パチェの部屋で眠っている咲夜のもとへ向かう為、いつの間にか修繕されていた図書館の扉を開け、外に出る。
「だけど。私と貴女以外なにもない世界なら、どんなにか幸せなのだろうと思ったこともあるわ」
扉が閉まるまでの、僅かな間に。
今にも消えそうな小さな声が、背中越しに聞こえた。
堪らず振り返る。
既に閉まった扉。
取っ手に手を掛けた。
だが、開くことは出来なかった。
それは、きっとしてはいけないことだ。
額を扉に押し当てる。
目頭が、熱い。
ぎゅうっと目をつむり、数十秒。
泣くな、泣いてはいけないと、自分に言い聞かせた。
私は、傲慢、強欲な夜の王。
涙など流すわけがない存在。
今から、手に入れていたはずの物を本当の意味で手に入れるのだ。
だが。
ただ、一言。
「……ありがとう、パチェ。愛してる」
扉の向こうの彼女に向けてそう囁いてから、私は今度こそ本当に足を踏み出した。
パチェの部屋の扉を開ける。
この部屋には必要最低限の物しか置かれていない。
彼女はほとんどの時間を図書館で過ごす為、実質寝るのに使うくらいだからだ。
また、それさえも魔女である彼女には必ずしも必要ではないので余計に部屋の使用頻度は減った。
置かれている家具は彼女をこの館に迎え入れる時に私がプレゼントした物だから、どれも最高級の物ではあるのだけど。
クローゼット、鏡台、小さいが意匠の光る椅子。
そして、柔らかなベッド。
そのベッドで咲夜は寝かされていた。
足音など意識せずとも消すことが出来る私は、物音一つ立てずにベッドに近寄り、椅子を寄せて腰掛けた。
眠っている咲夜を見詰める。
パチェが微弱な治癒の魔法をかけてくれたらしいので、じきによくなるだろう。
完全に回復させる魔法もあるにはあるが、揺り戻しの危険がある為人間には使わない方がいいらしい。
まだ顔が赤いが、呼吸は落ち着いているのを見て安堵の息が零れた。
思えば、昔からこいつはこうなのだ。
怪我をしても病気にかかっても、なんでもないふりをして隠そうとする。
本当に馬鹿だ。
だが……一番馬鹿なのは、誰だ?
隠すのがやたらと上手い咲夜か?
弱さを隠すことを憶えざるをえないようにした人間達か?
それとも、それに毎回気付いてやれない、私か?
咲夜の不調に真っ先に気付くことが出来るのは、いつだって美鈴だった。
あいつは妖怪のくせに優しくて、阿呆を気取っているがその実思慮深い。
いつも隠そうとする咲夜の意を汲み、ギリギリまで黙って様子を見ていた。
いいや、それだけではないのだろう。
私が気付くのを、あいつは待っていたのだ。
そうでなければいけないと、思ってくれていたのだ。
ならば、やはり。
一番の馬鹿は私だ。
「……咲夜」
手を伸ばす。
触れる寸前で、一瞬指が震えた。
銀糸に指を通すと、少し硬質な感触で、指の隙間からサラサラと零れた。
咲夜が幼い頃。
私が頭を撫でてやると、咲夜は決まって整った顔をくしゃくしゃにした。
その顔は切なそうで、でも嬉しそうな、感情をごった煮にしたような複雑極まる顔だった。
私は、なにか言ってやらなければいけない気がするのになにを言ってやればいいのかわからなくて、結局いつも
「変な顔。ぶっさいくな顔はおよしなさい、咲夜。……お前は、可愛いんだから」
そんなことしか口に出来なかった。
それでも。
「すみません、お嬢様。……ありがとう、ございます」
頬を赤く染めて、咲夜は微笑んでくれた。
その様は可愛いというよりも綺麗だと、見る程に思った。
だがその顔を見ていると、なんだかどうしようもない気持ちになって、私はいつも咲夜を撫でるのをやめた。
手が離れる瞬間の、寂しそうな顔には気付かないふりをしていた。
眠る咲夜を抱き上げて、パチェの部屋を後にする。
廊下を進みながら、大きくなったな、と思った。
私よりもずっと大きくなったから、飛んでいかないと引き摺りそうになってしまう。
あんなに、小さかったのに。
……咲夜の頭を撫でなくなったのは、いつからだっただろう。
物欲しげな顔の咲夜に気付かないふりをするようになったのは、いつからだったか。
「……お前はいい子だよ。咲夜。本当は、もっともっと、私が撫でてやらなくちゃいけなかったんだ。……お前の世界には、私しかいなかったんだから」
呟きの後、自嘲する。
「いや、今でも、そうか」
知っているのだ。
知っていたのだ。
本当は。
変わらない物など、そうそうない。
特に人間は、日々変化し続ける。
だが、たとえ視線の高さが変わろうとも、咲夜の眼差しから伝わる私への想いは、あの頃から何一つ変わってはいないということくらい。
知っていたのだ、最初から。
隠し事は得意のくせに、それだけはこんなに鈍い私にもわかるほど、わかりやすかったから。
だけど、変わらない物よりも、変わっていく物ばかりに目がいってしまったから。
気付かなければいけないことにも気づけずに、気付いたことからは目を逸らしていたのだ、ずっと。
咲夜にあてがっている部屋は、館でもっとも陽の辺りのいい部屋だ。
この館は基本的に日光の入りづらい作りになっていて窓も少ないが、咲夜の部屋には両開きの大きな窓がある。
部屋の扉を開けるとカーテンが閉まっておらず、窓が開いていたので一瞬慌てたが、幸い天気は曇りらしく紫外線に攻撃されることはなかった。
「……あ」
気付く。
雪だ。
「冷えるわけだ」
粉雪が、冷たい風に乗って舞っている。
積もるかな、と考えて、咲夜と出会った日も雪が降っていたなと思い出す。
あの時の雪は、積もらなかったけど。
「……っと、いけない」
早く窓を閉めなければ。
咲夜が冷え切ってしまう。
抱き抱えたままの咲夜も早くベッドに寝かさなければと思い室内に歩を進めると、腕の中の咲夜が身動ぎした。
「ん……? お、じょうさま……?」
掠れた声。
覚醒しきらない意識で、それでもすぐに私の存在を咲夜は認識した。
「……お目覚めね。おはよう、咲夜」
前髪を払い除けてやりながらそう言うと、咲夜は大きく目を見開き、数拍の間を置いてから答えた。
「おはようございます。申し訳、ございません。主の前でこのような……従者、失格ですね」
辛そうに微笑んで、そう口にした。
八の字になった眉がなんだか切ない。
やっぱり、犬みたいな奴だ、と思う。
だけど人間なんだな、とも思う。
だからこんなに苦しいのだ。
だからこんなに、大切なのだ。
呼吸がし辛い。
言わなくてはいけないことも、言いたいと思っていたこともたくさんあったはずなのに、いざとなると上手く言葉が出てこない。
困ったな、と思いつつ、口を開いた。
「……見て、咲夜」
思いつくまま話し出す。
「え?」
「窓の外」
私の言葉に従って、咲夜も視線を向けた。
「……雪、ですね」
咲夜はしばらく黙って雪を見ていた。
「お嬢様」
「ん?」
「すみません……窓に、寄っていただけませんか。もっと近くで見たいんです」
予想外の咲夜の台詞に、私は数度瞬きをしてから大人しく従った。
「雪、好きなの?」
問い掛けると、咲夜は外を見たまま答えた。
「好きです。でも、嫌いです」
「……なに、それ」
咲夜はゆっくりと手を伸ばした。
窓から出た指先に、雪が一粒触れ、溶けて消えた。
それを見ながら、溶けて消えた雪を思い起こすような声で続ける。
「貴女に出会えた日を、思い出すから」
伸ばしていた手をギュッと握り締める。
「……私の世界のはじまりを、思い出すから」
腕の中の咲夜に視線を向ける。
咲夜も、変わらない瞳を潤ませて私を見詰めた。
「お嬢様、あの日のことを、憶えていらっしゃいますか?」
私が頷くと、咲夜は首を横に振った。
「嘘です。お嬢様は、憶えていらっしゃいません」
「嘘じゃないわ」
「嘘です!」
驚いた。
咲夜が私に対して大きな声を出したことなど、これが初めてだ。
「咲夜……?」
「だって、お、じょうさま、おっしゃられたじゃ、ないですか」
喋り方が、なんだか幼い。
熱のせいか。
――ではその熱は、はたして風邪によるものだけなのか。
「あの日、お嬢様が、おっしゃられたんですよ?」
咲夜の手が、頬に触れる。
熱のせいで、熱い。
その熱さは。
「お前の命が尽きるその瞬間まで、私はお前を所有してやる、って。そう、おっしゃったじゃ、ないですか……ッ」
どうしようもなく、尊い温度だ。
「なのに、なんで」
「咲夜」
「……貴女は、ずっと、遠くにいるんですか!」
「咲夜!」
ピタリ、と言葉が止まる。
それと同時に、咲夜の目から涙が零れた。
泣きそうな顔は、何度も見てきた。
だが、本当に泣いている顔を見るのは、二度目だ。
あの日以来、初めてのこと。
それは泣ける場所を、私が用意してやれなかったからに、ほかならない。
「……逃げて、いたんだ」
情けない声を絞り出し。
「お嬢様……?」
情けない事実を告白する。
「逃げていたんだよ」
……いい加減、認めよう。
「怖かったから」
紅魔館当主、紅い悪魔、夜を統べる王。
吸血鬼、レミリア・スカーレットは。
「抱き締めてしまったら」
百年もたずに死んでしまう、人間の少女が恐ろしくて堪らなかった。
「温もりが消えるのに、堪えられないと思ったんだ」
視界が、滲む。
「愛することを恐れた時点で、もう取り返しのつかないほど愛していることなんて、わかりきっているのに」
馬鹿でしょう? と微笑んだ。
多分、微笑んだ。
「ねえ、咲夜、咲夜は人間ね?」
私の問い掛けに、咲夜はとても悲しそうな顔をして、
「……ええ、私は、人間です。死に向かい、死に続ける、人間です」
はっきりと、そう答えて。
「……ですが、生きている間は、貴女の物でいたいんです」
そう言って、泣いた。
我侭な従者だ。
さすが、私の咲夜だ。
「……もう一度。もう一度、契約を交わしましょう、咲夜。悪魔との契約よ」
ぎゅうっ、と、壊れないように、でもしっかりと抱き締める。
「十六夜咲夜、貴女のご主人様は最期の時までこの私。レミリア・スカーレット。貴女はそれだけを、その熱に誓えばいい。そうすれば、お別れのその瞬間まで、私は貴女を手放さない」
今度こそ、絶対に。
咲夜は、あの日と同じように。
でも、あの日より幸せそうに、頷いた。
変わらない物など、そうそうない。
だが、時が経ち、腕の中の温もりを思い出すことさへ出来なくなったとしても。
今この時感じた愛しさは、変わらない。
雪のように、溶けて消えたりはしない。
変わっていく時の中で。
変わらない物を、積み重ねてゆこう。
END.
積もるようなものではなくて、地面に着いた途端水になって消えた。
溜息をつくと真っ白い吐息が広がったが、それもすぐに空気に溶けて消える。
空には十六夜。
欠けた月。
ああ、なんとも侘しい夜だ、と思った。
だから、とは言わないが。
それらの事柄が少しも関係ないとも言わない。
私はその夜。
足元に転がる、みすぼらしい子犬を飼うことに決めた。
――変わらない物――
子犬に名前をたずねることはしなかった。
過去にどんな名前で呼ばれていようが関係ない。
私が飼うと決めた瞬間から私の所有物になったのだから、私が名付けるのは当然のことだ。
「今からお前の名前は十六夜咲夜だよ。そして、お前のご主人様は未来永劫この私。レミリア・スカーレットだ。お前はそれだけを、ちっぽけな脳みそと、貧弱な体と、その全身に流れている赤い紅い血に誓えばいい。そうすれば、お前の命が尽きるその瞬間まで、私はお前を所有してやる」
子犬は、なにがなんだかわからない、という顔をした。
その愚鈍さを何故か愛らしく感じて、自然と口角が上がる。
「拾ってあげる、と言っているのよ」
意識せず、口調がやわらかくなった。
「貴女はただ、頷けばいい」
子犬は、咲夜は、その言葉に目を見開いた後、喉を小さく震わせて。
「……はい」
小さな、小さな声でそう答えると、顔をくしゃくしゃにして俯いた。
まるでこうべを垂れて服従を示したようなそれに私はどうしてだかほんの少し胸が締め付けられるように感じて、その頭を撫でてやった。
触れる手が、壊れ物を扱うように優しげになってしまったのは、意図してではなかった。
気付けば、私にとっては一瞬の。
だが咲夜の背が私を追い抜き、私を見下ろさなくてはならなくなる程度の時が過ぎ去った。
声をかけようと振り向いた時などに、私の数歩後ろにいることに変わりないのに、見上げなければ視線が交わらない現実にどうしようもない違和感と不快感を感じるようになった。
しかしそれを表に出すのはなんとも滑稽なことのように思えて、私はなるべく自分の内側にその感情を留めた。
変わらない物など、そうそうない。
咲夜は日々めまぐるしい変化を遂げていった。
それは身長や体格の変化だけには留まらない。
はじめ、咲夜はパチェを嫌っていた。
私は、よく言えば思慮深く物静かな、悪く言えば頭でっかちで無愛想な魔女は子供に好かれそうな人物ではないからなあと考えて、それを深く気にすることはなかった。
咲夜がパチェを嫌おうが実質的被害がなければ問題ではないし、咲夜は自分の主人の大切なものを傷付けるような駄犬ではないと確信もしていた。
なによりパチェ自身も自分のことを嫌う咲夜の態度を特別不快には感じていないようだった。
だから咲夜の教育は全てパチェに一任した。
パチェはそれを受け入れてくれたし、咲夜は私の命令に逆らったりは出来ない。
必然的に二人は共に過ごす時間が増え、次第に咲夜はパチェを嫌うのをやめた。
「嫌うのをやめただけ。私を好きになったわけではないわ。単純に受け入れたのよ。良くも悪くも犬ね。私は猫のほうが好きなのだけど」
パチェはそう言って小さく溜息をついた。
伏せられた睫毛は長く、白い肌に影を落とした。
私はそれを美しいと思って、言葉を理解することよりもパチェの瞼に口付けることを優先した。
するとパチェは苦笑しながら私の頭を撫でた。
私がそんな行為を許すのは彼女に対してだけで、だから彼女の手からはほのかな温もりと一緒に確かな熱が伝わってきた。
変わらないものなど、そうそうない。
だが、私とパチェの間にあるこの熱は一向に冷める気配はなく、冷ます気なども微塵もなかった。
変わらない物は、確かにここにある。
冬の日。
パチェのもとへ行こうと館の廊下を歩いている最中。
平気そうな顔をして私の後ろを歩いていた咲夜が、突然倒れた。
床に転がる咲夜を見て。
陳腐な表現だが、私の頭は真っ白になった。
側にいたメイド達が心配して走り寄って来たのに対し、思い出すのもいやな程取り乱した声で
「咲夜にさわるなっ!」
と怒鳴り散らしてしまった。
そのまま誰にも触れさせないと言わんばかりに抱え上げて、大急ぎでパチェのもとまで飛んだ。
扉をブチ破って入った私に小悪魔は驚いて尻餅をつき、パチェは少し目を見開いた。
しかし、パチェは私が抱えている咲夜にすぐ気付き、静かに本を閉じると、椅子から腰をあげた。
「パチェ、咲夜が……」
情けない。
本当に、情けないことに。
声が震えて、目が霞んだ。
「……ったすけて」
搾り出すように、そう口にした。
紛れも無い、懇願だった。
パチェは目を伏せ、数拍間を置いてから息を吐き。
優しく微笑んで、答えてくれた。
「任せて」
私はその言葉を信じ、図書館に隣接されたパチェの寝室に咲夜を運ぶと、邪魔にならないように出来るだけ静かに退室した。
一瞬、本当に一瞬だけだが。
咲夜が助かりますようにと、悪魔の癖に神に祈りかけた。
行き場のない犬を拾った、その程度のつもりだったはずなのに。
結論を言うなら、ただの風邪だった。
図書館で待っていた私に戻ってきたパチェが告げたそのなんとも拍子抜けな診断結果に、私は阿呆のように呆けた後、全身から力が抜けていくように感じ、くずおれるように椅子に腰を下ろした。
深い深い溜息を吐く。
悪魔の館、紅魔館を統べる誇り高き吸血鬼、レミリア・スカーレット。
それが私で、名に恥じぬ存在であると自負している。
だが今回ばかりは。
主観的に見ても客観的に見ても、間抜け以外の何者でもないと思った。
「……よかったわね」
かけられた声に顔をあげた。
私の正面に立ったままのパチェ。
普段あまり表情に富んでいるとは言い難い彼女は、やはり優しそうに、でもどこか寂しそうに微笑んでいた。
「大切なんでしょう?」
続けられた言葉に、呼吸が止まった。
「なにを、馬鹿な」
「自覚もなかったのね」
パチェはやれやれとでも言いたげに小さく首を振り、一瞬俯かせた顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えて言った。
「貴女は咲夜が大切なのよ、レミィ。認めなさい。そうでないと後悔することになるわ」
細いが芯の通った声音を、場違いかもしれないが、美しいと思った。
パチュリー・ノーレッジは美しい。
それは、容姿に限った話ではない。
彼女が纏う空気、その眼差し。
それらはいつも、いつまでたっても、私の胸を打ち、震わせる。
だからこそ永遠に共にありたいと思い、彼女を手に入れたのだ。
パチェを求めた日を思い出す。
蝉の鳴き始めた初夏。
その鳴き声も届かない、当時彼女が拠点としていた、とても静かな、本で埋め尽くされた小さな隠れ家で。
陽射しに嫌われた私と陽射しを好まない彼女の、二人きり。
ページをめくる彼女の細い指先を見て、私は思ったのだ。
世界がこの家の中だけになってしまってもいいかもしれない、と。
彼女と、彼女の愛する書物達と、彼女のことを、愛しいと感じる私と。
それだけの世界ならば、そこには幸福以外何物も存在しない、と。
もちろん、それは愚かな白昼夢に過ぎない。
小さな家にある本の量などたかが知れていて、どれだけ時間をかけて読み進めたとしてもそう遠くないうちに全て読み終えてしまう。
そうすれば、彼女は新しい本を求めるだろう。
それは外にしかない。
それに私にも、捨てられない物と捨てたくない物はある。
悪魔の館の当主としての、立場と誇り。
私が当主である為には欠かすことの出来ない、私に忠誠を誓う従者達。
……誰よりも可愛い、妹。
それらはすべて、ここにいては守れない物だ。
二人きりのこの小さな世界では。
それでも、私は彼女を諦める気はない。
だからこそ。
「パチュリー・ノーレッジ、膨大にして深淵なる知識を蓄えし生粋の魔女。私は貴女が欲しい。貴女が貴女であるからこその、その美しさに魅せられた。ついて来い。私の物になれ」
声には燃え上がる熱が篭った。
強者は強欲であるべきで、強欲だからこそ強者たりえるのだと信じている私は、それまでにも欲しいと思った物など腐るほどあった。
もちろん、それらすべてを手に入れてきた。
だが、彼女程欲しいと思った物はなかったのだ。
「レミリア・スカーレット。紅い悪魔、誇り高き夜の王。貴女のその傲慢さは、貫ける強さを持つからこそ魅力的だわ。だけど、だからこそ、貴女が欲する私もまた、安くはない」
彼女の返答に、私は拳をギュッと握り締めた。
彼女が自分の価値を知っていることが自分のことのように嬉しかったし、それと同時にらしくもない不安も感じた。
だが、彼女が私の傲慢さに価値を見出だしたのならば。
僅かな震えなど握り潰して、誰よりも傲慢な夜の王として、彼女を手に入れてみせよう。
「ふむ、では要求を聞こうか、お高い魔女さん? この偉大なる紅い悪魔に、いったいなにを求めるんだ? 無理難題でもなんでも提出してみな。私はそれを聞き届け、見事答えてみせよう。そのかわり、報酬として契約を交わさせて貰う。悪魔との契約だよ」
「契約内容は?」
「決まっているだろう?」
自信と余裕を詰め込めるだけ詰め込んだ不敵な笑みに、隠しきれない愛情を滲ませて。
「たとえ世界が滅んでも、私は貴女を逃がさないわ。魂が滅びるまで傍にいなさい。パチェ」
なにもかもを貫く槍を投げる時の心持ちで放った言葉に、パチェは満足そうに微笑んで言った。
「私の要求は一つだけ」
貴女の隣は、いつでも私の為に空けておいて。
レミィ。
「……私が」
今、目の前にいるパチェを見る。
胸が熱くなるのを感じた。
「私が、大切に想っているのは貴女だわ、パチェ。なにが変わろうとも、それだけは変わらない」
変わらない物など、そうそうない。
それでも、断言出来た。
変わらない物は、確かにここにあるのだ。
「わかってるわ、レミィ」
パチェは、本当に愛しいのだと、そう伝わるような眼差しを私に向けながら口にする。
「貴女が私を愛してくれている気持ちを、疑う気なんてないの。……あの時交わした契約の反故なんて、ありえないわ。貴女の隣を誰かに譲る気なんてない」
「なら、どうして」
「いつからそんなにお馬鹿さんになったのかしら、レミィ。もともと、そうだったでしょう?」
「え?」
「私にも、貴女にも。お互い以外に大切な物なんて、出会う前からたくさんあった。この世界は、私達二人だけで構成されてはいないから」
静かな、しかし確かな声。
だが微かに、語尾が掠れたその声は、痛いくらいに優しさに満ちていた。
「もう一度言うわ、レミィ。貴女は咲夜のことが……いいえ、咲夜のことも。大切なのよ。認めなさい、後悔する前に。……ねえ、レミィ。わかるでしょう?」
優しいパチェは、私の為に言葉を続けた。
それは、紛れも無い忠告だった。
「変わらない物なんて、そうそうない。人間はその最たる物よ。人間はめまぐるしい速さで変化し続ける。レミィ、咲夜は人間なの。本当はわかっていたんでしょう? 最初から。わかっていたから、認めたくなかったのね。変化の終着点は、いつだって」
――終り、だから。
「……っ」
あの日。
銀色の髪が月明かりで輝き、地上に落ちてきた星のカケラのようだと思った。
星は夜空を彩る花だ。
だから咲夜と名付けた。
その名を受け入れ、自らを差し出すことに頷いた少女の小さな体を抱き上げた。
華奢な体はほんの少し力を入れれば簡単に壊れてしまいそうで、館までの帰り道をひどく長く感じた。
だが。
腕の中の頼りない温もりを、どうしようもなく心地良くも感じたのだ。
「レミィ」
「……パチェ」
「レミィ……私は」
一拍、間を置いて。
「後悔する貴女なんて、見たくないわ」
パチェが、拳をギュッと握り締めていることくらい、すぐに気が付いた。
でも。
「貴女はいつでも、自信満々で強欲で、だからこそ格好いい、夜の王様でなくちゃね。欲しい物を欲しいと、大切な物を大切なのだと、そう言える貴女を、私は……好きになったんだから」
他でもないパチェが、そう言ってくれているのだから。
私は椅子から立ち上がり、パチェに背を向けた。
私は悪魔だが、彼女に対しては、いつだって誠実でいたかった。
彼女に背を向けて踏み出す一歩一歩が、今の私が彼女に示せる精一杯の誠実さだと思った。
パチェの部屋で眠っている咲夜のもとへ向かう為、いつの間にか修繕されていた図書館の扉を開け、外に出る。
「だけど。私と貴女以外なにもない世界なら、どんなにか幸せなのだろうと思ったこともあるわ」
扉が閉まるまでの、僅かな間に。
今にも消えそうな小さな声が、背中越しに聞こえた。
堪らず振り返る。
既に閉まった扉。
取っ手に手を掛けた。
だが、開くことは出来なかった。
それは、きっとしてはいけないことだ。
額を扉に押し当てる。
目頭が、熱い。
ぎゅうっと目をつむり、数十秒。
泣くな、泣いてはいけないと、自分に言い聞かせた。
私は、傲慢、強欲な夜の王。
涙など流すわけがない存在。
今から、手に入れていたはずの物を本当の意味で手に入れるのだ。
だが。
ただ、一言。
「……ありがとう、パチェ。愛してる」
扉の向こうの彼女に向けてそう囁いてから、私は今度こそ本当に足を踏み出した。
パチェの部屋の扉を開ける。
この部屋には必要最低限の物しか置かれていない。
彼女はほとんどの時間を図書館で過ごす為、実質寝るのに使うくらいだからだ。
また、それさえも魔女である彼女には必ずしも必要ではないので余計に部屋の使用頻度は減った。
置かれている家具は彼女をこの館に迎え入れる時に私がプレゼントした物だから、どれも最高級の物ではあるのだけど。
クローゼット、鏡台、小さいが意匠の光る椅子。
そして、柔らかなベッド。
そのベッドで咲夜は寝かされていた。
足音など意識せずとも消すことが出来る私は、物音一つ立てずにベッドに近寄り、椅子を寄せて腰掛けた。
眠っている咲夜を見詰める。
パチェが微弱な治癒の魔法をかけてくれたらしいので、じきによくなるだろう。
完全に回復させる魔法もあるにはあるが、揺り戻しの危険がある為人間には使わない方がいいらしい。
まだ顔が赤いが、呼吸は落ち着いているのを見て安堵の息が零れた。
思えば、昔からこいつはこうなのだ。
怪我をしても病気にかかっても、なんでもないふりをして隠そうとする。
本当に馬鹿だ。
だが……一番馬鹿なのは、誰だ?
隠すのがやたらと上手い咲夜か?
弱さを隠すことを憶えざるをえないようにした人間達か?
それとも、それに毎回気付いてやれない、私か?
咲夜の不調に真っ先に気付くことが出来るのは、いつだって美鈴だった。
あいつは妖怪のくせに優しくて、阿呆を気取っているがその実思慮深い。
いつも隠そうとする咲夜の意を汲み、ギリギリまで黙って様子を見ていた。
いいや、それだけではないのだろう。
私が気付くのを、あいつは待っていたのだ。
そうでなければいけないと、思ってくれていたのだ。
ならば、やはり。
一番の馬鹿は私だ。
「……咲夜」
手を伸ばす。
触れる寸前で、一瞬指が震えた。
銀糸に指を通すと、少し硬質な感触で、指の隙間からサラサラと零れた。
咲夜が幼い頃。
私が頭を撫でてやると、咲夜は決まって整った顔をくしゃくしゃにした。
その顔は切なそうで、でも嬉しそうな、感情をごった煮にしたような複雑極まる顔だった。
私は、なにか言ってやらなければいけない気がするのになにを言ってやればいいのかわからなくて、結局いつも
「変な顔。ぶっさいくな顔はおよしなさい、咲夜。……お前は、可愛いんだから」
そんなことしか口に出来なかった。
それでも。
「すみません、お嬢様。……ありがとう、ございます」
頬を赤く染めて、咲夜は微笑んでくれた。
その様は可愛いというよりも綺麗だと、見る程に思った。
だがその顔を見ていると、なんだかどうしようもない気持ちになって、私はいつも咲夜を撫でるのをやめた。
手が離れる瞬間の、寂しそうな顔には気付かないふりをしていた。
眠る咲夜を抱き上げて、パチェの部屋を後にする。
廊下を進みながら、大きくなったな、と思った。
私よりもずっと大きくなったから、飛んでいかないと引き摺りそうになってしまう。
あんなに、小さかったのに。
……咲夜の頭を撫でなくなったのは、いつからだっただろう。
物欲しげな顔の咲夜に気付かないふりをするようになったのは、いつからだったか。
「……お前はいい子だよ。咲夜。本当は、もっともっと、私が撫でてやらなくちゃいけなかったんだ。……お前の世界には、私しかいなかったんだから」
呟きの後、自嘲する。
「いや、今でも、そうか」
知っているのだ。
知っていたのだ。
本当は。
変わらない物など、そうそうない。
特に人間は、日々変化し続ける。
だが、たとえ視線の高さが変わろうとも、咲夜の眼差しから伝わる私への想いは、あの頃から何一つ変わってはいないということくらい。
知っていたのだ、最初から。
隠し事は得意のくせに、それだけはこんなに鈍い私にもわかるほど、わかりやすかったから。
だけど、変わらない物よりも、変わっていく物ばかりに目がいってしまったから。
気付かなければいけないことにも気づけずに、気付いたことからは目を逸らしていたのだ、ずっと。
咲夜にあてがっている部屋は、館でもっとも陽の辺りのいい部屋だ。
この館は基本的に日光の入りづらい作りになっていて窓も少ないが、咲夜の部屋には両開きの大きな窓がある。
部屋の扉を開けるとカーテンが閉まっておらず、窓が開いていたので一瞬慌てたが、幸い天気は曇りらしく紫外線に攻撃されることはなかった。
「……あ」
気付く。
雪だ。
「冷えるわけだ」
粉雪が、冷たい風に乗って舞っている。
積もるかな、と考えて、咲夜と出会った日も雪が降っていたなと思い出す。
あの時の雪は、積もらなかったけど。
「……っと、いけない」
早く窓を閉めなければ。
咲夜が冷え切ってしまう。
抱き抱えたままの咲夜も早くベッドに寝かさなければと思い室内に歩を進めると、腕の中の咲夜が身動ぎした。
「ん……? お、じょうさま……?」
掠れた声。
覚醒しきらない意識で、それでもすぐに私の存在を咲夜は認識した。
「……お目覚めね。おはよう、咲夜」
前髪を払い除けてやりながらそう言うと、咲夜は大きく目を見開き、数拍の間を置いてから答えた。
「おはようございます。申し訳、ございません。主の前でこのような……従者、失格ですね」
辛そうに微笑んで、そう口にした。
八の字になった眉がなんだか切ない。
やっぱり、犬みたいな奴だ、と思う。
だけど人間なんだな、とも思う。
だからこんなに苦しいのだ。
だからこんなに、大切なのだ。
呼吸がし辛い。
言わなくてはいけないことも、言いたいと思っていたこともたくさんあったはずなのに、いざとなると上手く言葉が出てこない。
困ったな、と思いつつ、口を開いた。
「……見て、咲夜」
思いつくまま話し出す。
「え?」
「窓の外」
私の言葉に従って、咲夜も視線を向けた。
「……雪、ですね」
咲夜はしばらく黙って雪を見ていた。
「お嬢様」
「ん?」
「すみません……窓に、寄っていただけませんか。もっと近くで見たいんです」
予想外の咲夜の台詞に、私は数度瞬きをしてから大人しく従った。
「雪、好きなの?」
問い掛けると、咲夜は外を見たまま答えた。
「好きです。でも、嫌いです」
「……なに、それ」
咲夜はゆっくりと手を伸ばした。
窓から出た指先に、雪が一粒触れ、溶けて消えた。
それを見ながら、溶けて消えた雪を思い起こすような声で続ける。
「貴女に出会えた日を、思い出すから」
伸ばしていた手をギュッと握り締める。
「……私の世界のはじまりを、思い出すから」
腕の中の咲夜に視線を向ける。
咲夜も、変わらない瞳を潤ませて私を見詰めた。
「お嬢様、あの日のことを、憶えていらっしゃいますか?」
私が頷くと、咲夜は首を横に振った。
「嘘です。お嬢様は、憶えていらっしゃいません」
「嘘じゃないわ」
「嘘です!」
驚いた。
咲夜が私に対して大きな声を出したことなど、これが初めてだ。
「咲夜……?」
「だって、お、じょうさま、おっしゃられたじゃ、ないですか」
喋り方が、なんだか幼い。
熱のせいか。
――ではその熱は、はたして風邪によるものだけなのか。
「あの日、お嬢様が、おっしゃられたんですよ?」
咲夜の手が、頬に触れる。
熱のせいで、熱い。
その熱さは。
「お前の命が尽きるその瞬間まで、私はお前を所有してやる、って。そう、おっしゃったじゃ、ないですか……ッ」
どうしようもなく、尊い温度だ。
「なのに、なんで」
「咲夜」
「……貴女は、ずっと、遠くにいるんですか!」
「咲夜!」
ピタリ、と言葉が止まる。
それと同時に、咲夜の目から涙が零れた。
泣きそうな顔は、何度も見てきた。
だが、本当に泣いている顔を見るのは、二度目だ。
あの日以来、初めてのこと。
それは泣ける場所を、私が用意してやれなかったからに、ほかならない。
「……逃げて、いたんだ」
情けない声を絞り出し。
「お嬢様……?」
情けない事実を告白する。
「逃げていたんだよ」
……いい加減、認めよう。
「怖かったから」
紅魔館当主、紅い悪魔、夜を統べる王。
吸血鬼、レミリア・スカーレットは。
「抱き締めてしまったら」
百年もたずに死んでしまう、人間の少女が恐ろしくて堪らなかった。
「温もりが消えるのに、堪えられないと思ったんだ」
視界が、滲む。
「愛することを恐れた時点で、もう取り返しのつかないほど愛していることなんて、わかりきっているのに」
馬鹿でしょう? と微笑んだ。
多分、微笑んだ。
「ねえ、咲夜、咲夜は人間ね?」
私の問い掛けに、咲夜はとても悲しそうな顔をして、
「……ええ、私は、人間です。死に向かい、死に続ける、人間です」
はっきりと、そう答えて。
「……ですが、生きている間は、貴女の物でいたいんです」
そう言って、泣いた。
我侭な従者だ。
さすが、私の咲夜だ。
「……もう一度。もう一度、契約を交わしましょう、咲夜。悪魔との契約よ」
ぎゅうっ、と、壊れないように、でもしっかりと抱き締める。
「十六夜咲夜、貴女のご主人様は最期の時までこの私。レミリア・スカーレット。貴女はそれだけを、その熱に誓えばいい。そうすれば、お別れのその瞬間まで、私は貴女を手放さない」
今度こそ、絶対に。
咲夜は、あの日と同じように。
でも、あの日より幸せそうに、頷いた。
変わらない物など、そうそうない。
だが、時が経ち、腕の中の温もりを思い出すことさへ出来なくなったとしても。
今この時感じた愛しさは、変わらない。
雪のように、溶けて消えたりはしない。
変わっていく時の中で。
変わらない物を、積み重ねてゆこう。
END.
機会があれば、貴方の書くパチュリーをもっと読んでみたい
そしてレミリアが素敵すぎる…………良い物を読ませていただきました
×憶えざるおえないようにした
○憶えざるをえないようにした
紅茶が少し冷めるまでのやすらかなひと時を、雪の降る、紅い、紅いお屋敷で――
美しくも切ない、静謐な感動を得られました。
次作を待っています。
ただ、数泊の間ではなく、数拍の間かと思われます。