彼女は、夢を見る。
果てしなく果てしなく途方もなく高い坂、その頂上で黒髪をなびかせながら彼女はただただ立ちすくむ。坂はどこまでも続いていて、その終わりは霞がかって見ることができない。風が強く、気を抜くと足を踏み外してしまいそうなほどだ。彼女は後ろを振り向く。何も無い。まるでこの場を作った何者かが地形データを入力し忘れたかのようにぷっつりと途切れてしまっている。周りには白い霧が漂うばかりで、その理不尽さが夢であることを証明していた。
何故、怖いのだろう。彼女は不思議に思う。昔から高い場所なんて見慣れているのに。遥か下にある地上を眺めても何も感じやしなかったのに。天狗が空を怖がるだなんて、そんな、おかしいじゃないか。
だが彼女は気づく、ここが空ではないことを。空じゃなければなんなのだろうか。頭の中は周りの風景と同じように白い靄に満ちていて、論理的な思考が遮られる。頭が、痛い。
(いっそ、ここから)
彼女の足が一歩、傾斜へと近づいた。一層強く風が吹き抜ける。理解できないものに対する恐怖、不安というものは、忘れるか理解するまで拭われることはない。何かしらの行動が必要である。もう一歩、体を前にやれば今彼女が立っている頂上は高みに追いやられ、位置エネルギーを消費しながらあるのかどうかも分からない夢の底へと旅立つことができるだろう。だが、彼女には無理だ。
何故なら彼女は臆病だから。
***
一回目のノックが聞こえても、布団からは決して出ないことを彼女は自分のルールとして設定している。もしかしたらそれは夢の続きかもしれない、気のせいかもしれない、幻聴かもしれない。可能性、というより単に彼女の願望なのだが、真剣に考えた結果が布団から出ないというルールなのだ。もぞもぞと毛布を引き寄せ彼女は音を遮断しようとした。
二回目のノックで彼女はようやく頭を上げた。身体は動かさない、あくまで様子を見るだけ。既に意識ははっきりとしており、否が応にも現実を認識しているが、扉の前の来訪者を迎える気は一切無い。他人との接触は出来うる限り避けたいというのが彼女の行動原理である。少しでも関われば、その言葉に、動作に、態度に、心を揺らされてしまう。豆腐のように脆い彼女の精神は、刺激に弱いのだ。
三回目のノックは、どうやら彼女のルールが気に入らないらしい。もはやそれは扉を叩きつけるだけの動作で目的を見失っているようにも見える。明確な苛立が音から伝わってくるが、やはり彼女は何もしない。ただでさえ他人とは関わりたくないのに少なくとも善意の類ではない感情を向けられた状態で彼女が行動できるわけがない。握り締められた携帯にはじっとりと汗が染みていた。
四回目のノックは行われなかった。代わりにカチャカチャと金属をいじる音がドアノブから聞こえたかと思うと、確かに鍵を閉めたはずの扉がゆっくりと開いた。中を覗いてきた顔は明らかに不機嫌で、未だに布団に引きこもる彼女を見据えるとずかずかと部屋に上がりこんできた。客人は黙って床に腰を下ろし、おもむろに背中のリュックから一本のきゅうりを取り出すと、小気味いい音を響かせながら一齧りした。少々無礼な客人──にとりはそのまま喋り始める。
「ねえはたて、はたてさんさぁ。このやり取りも何回目だと思ってんの」
「知らない」
「8回だよ8回。私はさ、こっちにおじゃまする度に期待してるんだ。今日こそあなたから出てきてくれるんじゃないかって。まぁいっつも裏切られてるんだけど」
「だから知らないって」
「あー、まー、そりゃそうだ。失礼しましたっと」
言いながらにとりは後頭部をぼりぼり掻いた。にとりがきゅうりを齧ると食いカスや垂れた汁が零れ落ちる。カーペットに染みたそれを見て彼女は眉をひそめた。何も言わずにただじっと見つめるだけ。やがてその視線に気づいたのかにとりは顔を上げたが、少し嫌な顔をするだけで構わず食事を続ける。当て付けなのだろう、注意をする度胸も無いのか、という。
食事を終えるとにとりはリュックから仕事道具を取り出し、乱暴にそれを床に置いた。手のひらを手前にくいっと曲げ「こっちに寄越せ」の合図。彼女は少し戸惑ったがおずおずと布団の中から手を伸ばし、愛用の携帯を渡した。
「……確かに防水加工はしたけどさ、必須の機能だもの。でもさー手汗を防ぐためでは決してないんだよねー」
「ず、ずっと握ってたら、そうなっただけ、よ」
「それをそのまま私に渡したわけね。ありがたくて涙が出そうだ」
「いい、いいから、はや、点検、して」
「吃りすぎてキモイよ。いつものことだけど」
携帯を取られた彼女は、布団に身を包み静かに身を震わせ続けた。体には冷や汗が大量に浮かび、浅く小刻みな呼吸音が部屋に満ちる。明らかに異様な光景だが、にとりは慣れた様子で適当に無視しながら作業を続けた。機能のチェック、分解、清掃、組み立て。テキパキと素早く工程を終えていく。持ち主が丁寧に扱っているおかげかとくに異常らしい異常は見られず、最低限のメンテだけで作業は終わった。
「特に異常無しだぁね。バッテリーが少しへたってたから交換しといたよ」
差し出された携帯を彼女は黙って奪い取った。即座にデータをチェックすると安堵したのかふぅ、と一息ついて携帯を握りしめた。心なしか顔色も若干良くなったように見える。
「うん、感謝の言葉なんて全然期待してないよ。微塵ともね」
「……にとりが好きでやってることじゃない」
「そーでしたねー。ま、私は自分の子どもはきちんと面倒見る主義だから」
工具をバッグに戻すとにとりは部屋をぐるりと見渡した。カーテンも閉めきっているせいか、まだ昼だというのに薄暗い。壁にはびっしりと新聞の切り抜きが貼られ、部屋全体がモザイクにかかっているかのようだ。
「相変わらず目がチカチカする部屋だね。よく住めたもんだ。何の耐性も無い輩が入ったらものの数分で発狂するんじゃないか? いや褒めてないからね。クソみたいなインテリアだって言ってるんだ」
何も言わない。ただ黙って睨むだけ。にとりもその視線に答えるように無言で2本目のきゅうりを取り出し、一齧りした。瑞々しい音は明らかにこの状況から浮きながら部屋に漂った。
やがてにとりの目にベッドの隣の机が映った。作業用なのだろう、ペンやインクが散乱している机に二つ、小さな紙袋が置いてあった。どちらにも「胡蝶夢丸」の文字。にとりの目が見開いた。
「こりゃ……人間用と妖怪用、どっちもあるじゃん。え? 何? 何考えてるの? こんなん一緒に飲んだら良い夢どころか永眠しちゃうよ」
薬は当然種族にあったものを服用しなければ効果はない。例えそれが風邪薬だろうが痛み止めだろうが症状の軽重に限らず全てにおいて言えることだ。効果無しどころか拒否反応すら出るかもしれないものを、同時に服用するとなれば被害が出るのは目に見えている。この薬に関しても同じことだ。
「効力が強くなりすぎて“夢と現が反転する”って……あー、いや、本人がそれで構わないならいいんだけどね別に。私関係ないし」
こいつならやりかねないな、そういった思いがにとりにはあった。首についた痕はおそらく自らのネクタイで強く締めたのだろう。理由は知らない。世の中には様々な人妖がいるというところでにとりは考えるのを止めた。例え顔見知りが薬の間違った使い方をしようとしていても、そういうことなのだろうと割り切れる程度の関係なのだ。
「てかさー、いよいよこんな代物まで用意しちゃって、もういいんじゃないの? こんなこと続けてたってしゃーないっしょ」
「関係ないって言った」
「言うだけならタダってことだよ。ダメな自分から目を逸らして引きこもったって何にもなんないし、それ飲んで現実から逃げきってもやっぱりどうしようもないよねえって話。聞いてる? 聞いてないね」
彼女はぎゅっと手元の毛布を握りしめた。既に現実逃避という文字は何回も頭に思い浮かべては消している。にとりからの指摘を彼女は十分に理解しきった後であり、そのことをにとりも知っている。あえて言ったのは、彼女の具体的な末路がこの場に認識されたから。
「どうすんのさ」
「何が」
「いや、どうでもいい話。加えてどっちでもいい話だけど」
反応は、やはり返ってこなかった。言及しても無駄だろうと、にとりもそれ以上は何も言わなかった。
残り僅かとなった二本目のきゅうりを口に放り投げると、にとりはすくっと立ち上がった。もうここには用は無い。もしかしたら二度と無いかもしれない。
「じゃ、また一ヵ月後ね。何かあったらメール……は、出来ないか、どうせ」
にとりが持っている連絡用の携帯に彼女からのアプローチがあったことは一度もない。数少ない、幻想郷においていつでも連絡できる相手の中の一人なのだが、その役目が今の今まで果たされることはなかった。
扉の前に立ったにとりは、ふと思い立って彼女のほうに振り返った。
「そういや、この前文さんと会ったよ。巷の噂を検証したいとか言ってたなあ」
「だから、何?」
「せめて同僚とはもう少し絡めって河童さんからの優しいご忠告。じゃねー」
扉が閉まると、再び部屋に静寂と孤独が広がった。僅かに残る誰かの気配が彼女の鼻孔をくすぐる。約一ヶ月ぶりに他人と接し、彼女の精神は限界まで擦り切っていた。もう今日は頭を働かせたくない、布団に潜り込んだ彼女は目を閉じその思考を停止しようとしたその時。
「あ」
一瞬だけ、嫌いな、大嫌いな顔が彼女の頭をよぎった。だが彼女にはもうきっかけを与えた河童に怒りを向け、脳内の相手に憎悪の念を送る余裕は無い。重い何かが体にのしかかったまま、彼女の意識は闇に落ちた。
***
彼女は、夢を見る。
白い闇は依然として彼女の体に纏わり付き、その視界を遮る。夢の中でも独りということはそれだけ彼女の交友関係は狭く、薄いものだということである。また同じ場所、同じ、坂。底の見えないそれが彼女を執拗に誘ってくるが、彼女は何もすることが出来ない。
──さあ踏み出せやれ転がれそうすればお前は楽になれる、停滞したその狭い足場でお前は一体何を望む。
吹きすさぶ風が語りかける言葉は甘く、優しく、そして暖かい。ひゅるひゅるとスカートがなびくほどに、声は繰り返し繰り返し彼女の頭に問う。望んだものなどあっただろうか、彼女の現実にそれはあるのだろうか。ここに佇んだままでいる意味なんてない、彼女には現状を打破する勇気もまた皆無だ。
「もういいんじゃないの?」
不意に、後ろから声が聞こえた。振り向いた先に見えた緑の服、同じセリフを同じトーンで彼女に投げかけた。手を差し伸べるでもなく、ただ聞くだけ。彼女は何も言わない。相手が答えを求めてるわけじゃないことを知っているから。そして、彼女が求めていることも、決して第三者からの意見ではない。水面に投げかけられる小石などではないのだ。
「まだ」
そう呟いて、彼女は息を止めた。
夢が現実へと浮上していく。
***
朝日は未だ見えないが、その光が着実に空を照らす。彼女が外に出るのはそんな時間だ。闇に生きる人外共はその活動を止め、一方人間たちはあと幾許かもすればもぞもぞと活動を始める。狭間の世界は誰として動かず、静かに明るむのを待つだけ。この瞬間のみ、彼女の世界は幻想郷全体に広がることが出来るのだ。妖怪の山の中腹、頭一つ飛び出た杉の木の上で、彼女は現実とも呼べないような現実を眺めた。
カシャリ。愛用の携帯からシャッター音が漏れる。変りない朝の風景を切り取って、保存。山を、里を、塚を、川を、小さな画面に丁寧に収めていく。当然普通の風景写真なのだから、新聞には使えない。ただ、そうすることによって彼女は自分と、世界の関係を確かめていた。確かに自分はここにいて、確かに世界はここにある。まるで思春期の子どものような小さな苦悩を抱えて、彼女はじっと朝焼けを眺めた。
「──なあ」
例えばその時、彼女にはいくつか選択肢があった。振り返らずに全速力でここを飛び立つ。落ち着いて返事をする。あるいは脅かす程度の攻撃を与えてから逃げてもよかったのかもしれない。しかし彼女は結局体を震わせるだけで、全ては相手に委ねられた。
「お前さ、毎日この時間に来てるよな。一体全体何やってんだ?」
彼女が顔を上げたときには、既にその見知らぬ誰かは正面に陣取っていた。若い哨戒天狗だ。名は彼女の知るところではない。こんな時間にまで見張りを行っているということは、かなり真面目な性格なのだろう。彼女を見つめる瞳は、かっきりした社会性を持つ故に圧迫されがちな天狗のそれとは違い、誠意とやる気に満ちたものになっている。それがかえって彼女に威圧感を与えてしまう。落ち目はないはずなのに、責められている気分になる。分りやすすぎる彼女の挙動は、相手にも戸惑いを与えた。
「あ、いや、責めてるわけじゃないんだ。単純に気になっただけ」
慌てて弁明した少女は犬走椛と名乗った。自身の能力を使ってたまに山の様子を伺っているのだが、そこに現れる彼女の姿が気になって声をかけたという。こんな時間、何か目的が無ければ活動するはずがない。確かに彼女は目的があり習慣としてここにいる、ならばそれは相手にも言えることではなかろうか。話しかけてきた目的は、何。
「……大丈夫か、お前」
頭に疑問符が現れては消えていく。呼吸が乱れる、心臓が痛む。心が脆弱であることは妖怪にとって致命的な弱点になりうるのだが、そういう意味では彼女は貴重な存在であるのかもしれない。いきなり話しかけたとはいえ、必要以上に拒否反応を示す彼女に椛も怪訝な表情を見せた。
「いやその、えーと。それ! 手に持ってるそれでなんかしてたよな? 何なんだそれ」
「……ヵmr」
「ん?」
「カメラ」
「へえ、随分変わった形をしている。しかし鴉天狗というのは物好きだな。こんな時間に撮影とはいやはや仕事熱心ってことか?」
「……」
「……すまん、大人気なかった」
互いに、互いの職種を嫌っていることは知っている。個人差は当然あるから、全体がそうだというだけの話だ。彼女の今感じている不安もそこにあるのだが。
「毎朝来てるのか?」
彼女は黙って頷く。
「ふうん。ま、確かにこの景色はいいな。毎朝見る価値あるよ、うん」
話しているうちに世界はようやく朝になりつつあった。太陽は完全に姿を見せ、光が容赦なく彼女を刺す。眩しすぎて、痛い。普段ならさっさと帰宅している時間だが、彼女は今自分が何をしているのかいまいち理解していなかった。何故か見知らぬ他人とこうして関わっている。普段なら到底考えられないことだ。
「なあ、良かったら今までの写真見せて──」
言いかけて急に椛は辺りを見回した。確かめるように鼻を数回動かした後、分かりたくない程分かりやすく、その顔をしかめた。
「──嫌いだな。ああ嫌いだこの臭い。虚偽と傲慢の臭いだ、糞が。」
突然の相手の変容に彼女はびくっと体を縮こませた。自分に向けられていようがいまいが、敵意というものは近くで感じていてあまり気持ちのいいものではない。彼女は怖ず怖ずと相手の表情を伺うが、黒く滲んだ負の感情が消える気配は無い。
「いや、悪いな。本当はもっとここにいたいんだが、残念ながら至極個人的に嫌悪する輩の臭いがしたから私は帰る」
そのまま椛は今いた場所から更にふわりと体を浮かせた。ふと、何かに気づいたかのように椛の目線が彼女に止まる。
「……微かだけど、あんたからも同じ臭いがするな。まぁ、同業者なら当然か。いいか、一つ忠告しとく。奴と関わるのだけは止めたほうがいい。碌な事にならないからな」
背後にどんな出来事があり、関わりがあったのか、その忠告にどんな意味があるのか、彼女に知る由はない。ただ事実として、嫌っているのだろうということくらいしか理解できず、彼女は心をどちらに向けるべきか迷った。去る相手か、来る相手か。
迷っている間に椛は既に彼女から距離を置いていた。去り際に、一言だけ残して。
「じゃ、また明日な!」
また、明日。彼女も声には出さず、口を動かしただけだが、確かにそう呟いた。
なんてことはない、極めて一般的な別れの挨拶である。だが彼女は、彼女にとっては。他人から次回を期待される、ということが。
不意に、背後からの気配を感じた時には手遅れだった。
***
彼女は、夢を見る。
坂はすぐ目の前にあった。風は一層強く吹きつけているように感じたが、今までのような恐怖はない。
『また』
少しだけ、思い返していた。虚が広がる彼女の世界で、あれは確かに現実から差し伸べられた手だったのだろう。ただ、それでも。
「もう少し」
もう少しで答えが出る、答えが来る。臆病な彼女が望む結末は、投げかけられる小石でもなく、差し伸べられる手でもない。いつの間にか彼女は坂の縁から足の先が出るほど身を乗り出していた。びょうびょうと風の音、はためく服と髪、そして、背中に感じる軽い衝撃。
──いいです、もう
望んでいたのは、蹴落としてくれる誰か。
「あ」
驚く暇も無かった。バランスが崩れる。頭が揺れる。遙か高みには大嫌いな顔。蹴り出したままの脚。表情は見えない。もしかしたら何の表情も浮かべてないのかもしれない。転がる、転がる、転がり続ける。やがて底へ。現実がひっくり返った夢の底へ。彼女は。
笑っていたと、そう見るのが妥当である。
***
胡蝶夢丸とその使用方法について、かの文々。新聞から批判記事が飛び出したのは先日のこと。
しかし、その購読者の少なさから被害者のとある天狗について知る者は極僅かだったという。
椛がすっごくいい性格しててツボにはまりました。
この世界観を元にお話を書きたくなっちゃいました
吃音のはたてってのは良いですね
はたたんには是非とも健全な方向に立ち直って幸せになってほしいなあ。
あれ?
最終敵にあやはた?
つまりはたたん可愛い