Coolier - 新生・東方創想話

何をもって仇を返し、何によって仇を受くる

2010/12/24 22:19:35
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紅魔館のメイド長十六夜 咲夜が廊下の掃き掃除していると、妖精メイド達がそのすぐ近くを駆けていった。
どたどたと館内を乱暴に走り回る妖精メイドを見る度に咲夜の機嫌は悪くなり、何度も注意するのだが彼女らの粗相は治らない。そのためいちいち注意する気すらも失せ、最近では眉をひそめるだけにしている。あまりに酷い時には身を持って学習してもらえばいいだけなのだ。
幸いな事に妖精メイド達は肉体的言語には精通しているらしく、その場合は咲夜の直言も素直に聞き入れてくれることが多く助かっている。
肉体言語さえ介せない者は、その根性を買って妹様の遊び相手という名誉ある役職に任命することにしている。館内の従者達の間で使われる隠語では、この誉れ高い人事異動のことを最上の冥福を込めて来世への片道切符もしくは逝き先不明の特急券と呼ばれている。
もし職務を果たせたのならば向こう百年間の特級従者権が付与されるらしいが、咲夜の知る限りでは一部の者を除きその職務を全うできた者はいない。ほとんどの者が途中でリタイアしてしまうのだ。

咲夜が見たところ先の駆けて行った群れの中の二、三人は以前にも注意したことのある顔だった。
またそのうち一人はつい先日に教育的指導を施したばかりで、その時に人事異動の誓約書を書かせた記憶もある。
今晩は送別会になるわねと咲夜は集めたゴミをちりとりに集めながら、今年に入って何人目かしらと頭の隅で考えてみたが、どうもはっきりとしない。誓約書の枚数を数えれば確かな人数が割り出せるかもしれないが、突発的で誓約書に署名しないままに旅立ってしまったせっかちな者もいる。
考えるだけ無駄かもしれないとその疑問を集めたゴミと一緒にゴミ箱へ捨て、それを持って館内の裏に設置された焼却炉へと向かった。



紅魔館の焼却炉は非常に大きく里の一般的な家屋ほどもあり、常に火が入っているおかげもあり二十四時間年中無休でゴミの焼却ができるようになっている。焼却炉の中で踊る火は図書館の魔女の手で造られたもので、普通のものと比べ遥かに高温で、さらに何を燃やしても臭いと煤がでないという優れものだ。昔はこの焼却炉でゴミだけでなく館内外の不埒な輩を消毒していたと赤毛の妖怪に聞いたことがある。
その話の真偽はともかく焼却炉の周りの地面から時々、実際に見た事は無いが既視感の強い白灰質のものが顔を覗かせていることがある。そのためか好き好んで近づく妖精メイドは少なく、焼却炉の周りは炉が静かに火をたたえているだけで人気のない物寂しい場所となっている。
そんな物寂しい場所であっても寄りつく者は寄りつく。
特に赤毛の妖怪は寒くなると暖を求めて炉の近くに座りこんで職務放棄をしていることがある。しかもそのまま寝てしまっている事も多々あり、ゴミを捨てに来た咲夜と鉢合わせになることも少なくない。
そして今日もその赤毛の妖怪は炉の前で転寝をしていて、咲夜は持ってきたゴミ箱の底で妖怪の頭を軽く叩いた。
「起きて門に戻るか、炉の中でゴミと一緒に熱々になるか選びなさい」
「咲夜さんと温かいお布団の中で……、調子に乗りましたすみません」
「次サボったら妹様の遊び相手をお願いね」
「先週にしたばかりじゃないですか……。割と大変なんですよ?」
「割と大変ですむなら儲けものだと思うのだけれど」
妖精メイドなら数秒も持たず昇天する遊び相手を赤毛の妖怪は過去何度もこなしてきている。こなすと言っても遊び相手になる度に最後はボロ雑巾かズタ袋のような姿になって、咲夜の足元に転がってくるので毎回看護してやっている。
看護といっても適当に栄養のある料理を作ってそれを食べさてやるだけで、赤毛の妖怪は薬も治療術も使わないで勝手に全快してくる。例え四肢が千切れていてもトカゲの尻尾みたいにまた生えてくるのだから妖怪の生命力というものは凄い。
「近頃は大分落ち着かれていますから、楽になったと言えばそうなんですけどね」
「私は普通の遊び相手しかしたことないから分からないわ」
「本当はそれが一番ですよ。お嬢様も妹様も一緒なのが最善です」
炉にゴミを入れると一瞬燃え上がり、次の一瞬でどこかに消え去った。火力が強いためにこの炉ではゴミが燃え尽きる様は見られない。途中経過を失くした最初と最後だけが炉の中にはあるのだ。
空になったゴミ箱をひっくり返して咲夜はそこに座った。赤毛の妖怪は地べたに座り直し、にたにた笑う。
「屋敷に戻らなくていいんですか? このままだと遊び相手ですよ?」
「人事権は私にあるから平気なの。あなたこそ私に妙な口を叩かないことね」
「昔は意地が悪いながらも素直な子でしたが、この頃は大分ひねくれてきましたね」
「ただの親離れよ。もしくは親に似てきたかのかもね」
「……困った事を言いますね。やはり意地が悪い」
「気にしないで冗談よ。ところで美鈴。なんで今朝は先に行ってしまったの?」
美鈴と呼ばれた赤毛の妖怪の顔はさらに困惑さを増した。今朝のその事にこれといった理由は特にないのだ。ただ何となく咲夜を起こさずに部屋を出てみただけ。それ以上でもそれ以下でもないが説明したところで納得されないだろうと、美鈴は適当なことを言っておくことにした。
「急に朝の散歩がしたくなりましてね。誘おうとは思ったんですが、いかんせん寒くて。咲夜さんには堪えるかなと思って一人で行ったんです」
「次からは誘わなくてもいいから一言くらい残しなさい。あなたを探してベッドの上で迷子になったのよ?」
「それは見てみたかった。それにしても暖房器具みたいな扱いですね私」
「だって実際に温かいからこの時期は特に重宝するのよ。夏場はひんやりしていて気持ち良いし」
どういうわけか美鈴は夏場冷たく冬場温かいといった不思議な体温をしている。本人は気の応用ですと自慢げに話すが、咲夜からすればその理屈なんてどうでもよく、ただ美鈴を抱いて寝れば安眠が約束される点のみが関心をひく。
「お役に立てて光栄です。どうですか今は寒かったりしませんか?」
「そうね、頬の辺りが少し寒いかしら。ほら赤くなっていない?」
確かに赤いですねと咲夜の頬に美鈴の手が添えられた。美鈴の手はまるで暖炉のように温かく咲夜の頬に熱を伝えてくれる。
温められる咲夜も温める美鈴も手慣れたものだ。それもそのはずで冬の間は毎日のようにこうして二人で暖をとっているのだ。基本的に美鈴に触れてもらうのは頬だったり手のひらだったりするが、不思議と全身が暖まっていく。
「温かくなりましたか?」
「ええ、頬だけでなく身体全体がポカポカしてきた」
「それにしては顔はさらに赤くなってきたようですが。熱でもあるのですか?」
「あなただって顔が赤いわよ? もしかして熱かしら」
そんな他愛も無いじゃれ合いをしばらく楽しんだ後、美鈴は門番に戻っていった。咲夜も椅子にしていたゴミ箱をかかえ館内へと戻った。ふと空を見上げれば灰色の雲が敷き詰まっていた。今年初めの雪が降るかもしれない。



暖炉と施された魔法のおかげで外に比べれば館内は幾分か暖かいが、水を使う仕事も多い咲夜からすれば大して意味はない。この時期の水は刺すように冷たい。凍ってしまわないのが不思議なくらいだ。
凍てつく水で皿を洗いながら咲夜は焼却炉前でのやりとりを反芻する。美鈴の笑顔、美鈴の手の温かさ、美鈴とのじゃれ合いを思い出し手を濡らす冷水に耐える。
そして最後の皿を洗い終わったところで親離れという言葉を咲夜はもう一度飲み込んだ。我ながら恨みがましいといつになく自嘲気味になった。



※※※※※



咲夜が物心ついた時、すでに父親の姿はなかった。咲夜の側にいたのは母親だけで他の親類縁者はおらず、その母親も特殊な生業ゆえにいつも一緒にはいられなかった。一カ月に一度くらいの頻度で幼い咲夜を気のよい隣人に預け早くて三日、遅ければ一週間ほど家を空けて、家に帰ってきたときはよれよれで獣臭かった。そのため咲夜は基本的な読み書き計算を元牧師だと言うその隣人(女性の牧師は非常に稀なため、本物の牧師ではないかもしれない)から学んだ。隣人は元牧師だと言うだけあり、優しいながらも厳格でまるで弟子を躾けるかの如く咲夜に基礎的な教養を与えてくれた。父親はおらずとも実の母親と隣人、二人の母親に愛され咲夜は裕福ではないが幸せな日々を送っていた。

しかしその質素な幸せにも終わりが訪れる。
いつもは咲夜を家に置いて行く母親がその日は咲夜を連れて行くと言ったのだ。少し離れた土地まで行くので、一カ月は帰れないとのこと。
それを聞いた咲夜は単純に嬉しく思った。生まれてから十年近く母親と遠出なんてしたことない咲夜にとってそれは魅惑的な旅への言葉だった。二つ返事で母親に従った咲夜は早速準備にとりかかった。
遠出の準備を終えた咲夜は母親と一緒に隣人を訪れ、旅に出ると報告したところ隣人は涙ながらに母親に詰め寄り、咲夜にはまだ早いと旅の取り止めを訴えた。
母親と隣人は少しばかり口論をしたが、最終的には咲夜の意思を尊重するということで決着がついた。咲夜は厳格な隣人が見せた涙に少しばかり戸惑ったが、母親との遠出という魅力には抗えず二人の母にそのむねを伝えた。
咲夜の言葉を聞いた隣人はひどく狼狽したものの、約束ごとを遵守する性格のためかそれ以上の反対はせず、おもむろに懐から銀の懐中時計を咲夜に渡した。銀は魔を退けるからお守り代わりに使って欲しいとのことだった。
最後に咲夜はもう一人の母親の頬に別れの接吻をして、母親とともに生まれ育った家を出た。
そしてそれが今生の別れとなる事を咲夜も母親も知らなかった。ただもう一人の母親だけがそれを密かに感じ取っていたのだ。


道中、母親が咲夜に自分――自分達一族――の生業について簡単に教えてくれた。咲夜が生まれた家系の女性は異能の力を発揮することが非常に多く、人にとって厄介な存在を狩る事を代々の生業としてきたとのことだった。なぜ父親を含む親類縁者が近くにいないのか、あの気の良い隣人は何者なのか他の詳しいことは今回の旅が終わってからゆっくり話すと母親は咲夜の頭を撫でながら語った。
母親が言うに今回の仕事を最後にして咲夜の一族はこの代々の呪縛からある程度の解放がされるとのことだった。それを語る母親の顔は嬉しさと哀しさの混じったものだったのを咲夜は今でも覚えている。


目的の地についたのは家を出てから一週間と三日が経ってのことだった。いかんせん幼い頃の記憶なので特に数字は曖昧なのだ。長旅の半分を終えたと思った咲夜達を待っていたのは、髭が似合わず不健康に肥えた中年の辺境領主だった。
辺境領主は初め咲夜達親子を怪訝な目で見て、本当に信頼に足る者達なのかと咲夜達を目の前にして側に侍る従者達に問うた。従者達の中でも特に年老いた者が領主に咲夜達のことを説明し終えると、依然として不信感を露わにした目のまま高圧的に事の次第を説明し始めた。その声は泥の中をミミズが這うようにネチネチと嫌味たらしかった。
彼が言うには彼の治める領地のさらに辺境な土地に怪しげな屋敷が建ったとのことで、そこら一帯が赤い霧に覆われてしまい付近の村や町の住民から不安の声が上がっているとのことで、住民達に被害が出る前に即急に原因を究明しおそらくはその元凶であるモノを狩って欲しいとのことだった。
終始咲夜は辺境領主のその嫌味な態度に腹を立てていたが、隣の母親はその見た目と態度に反して意外にも住民思いの領主のちぐはぐさを隠れて笑っていた。

辺境のさらに辺境というだけあって件の屋敷に最も近いとされる村への道のりは大変なものだった。開拓が進んでいないらしく、その道中には咲夜に自然の理を教えるものがたくさんあった。動物の亡骸だけでなく旅人の物もたくさんあり、それらの多くは僅かに骨が残るくらいだが、時には食事の最中に出くわしてしまうこともあり、鮮明にこの世の真理を咲夜に見せつけた。人間の住む世界を一歩踏み出せばそこは太古より続く法が、今なお世界を支配していたのだ。
動物達の食事を見た咲夜が嫌そうな顔をした時に、母親は遠まわしな言葉でそれが悪い事ではないことを教えた。咲夜だって毎日ご飯を食べるわよね。生きていくためには、食べる事はしかたのないことなのよ。決して悪い事なんかじゃない。それを悪だと捉える方が悪よ。もちろん無意味な殺生は悪だけどね。いつもはのほほんとしている母親の顔は真剣そのものだった。そして最後に咲夜の頭を撫でながら、だからね、命は粗末に扱ってはいけないのよといつもの優しい声音でささやいた。

そして山を、川をいくつも越え辿り着いたその村はたしかに赤味がかった霧に覆われていて、真昼だと言うのに外を出歩く者は一人もいなかった。
村に着いた咲夜達は村長の家の戸を叩き、出てきた使用人に事情を説明し村長の家に上がりこんだ。家の奥から出てきた村長はすでに腰が曲がっているが声が大きく快活に笑う好々爺で、幼い咲夜に砂糖を固めたお菓子をわけてくれた。咲夜がお菓子を食べている間に母親は村長から周辺の状況と屋敷の情報を聞き、天候が良ければ明日にでもその屋敷に乗り込むことを約束していた。耳聡い咲夜はお菓子に夢中のふりをして二人の会話を一語もらさず聞きとった。この時の母親は何か焦っているように当時の咲夜は感じていたが、その理由がはっきりするのは終ぞなかった。


村長の家の一室を借りた親子はあまり大きくないベッドの上で寄り添うようにして寝た。部屋の布団は薄かったが、咲夜は温かな母親に抱かれ平気だった。月明かりだけが部屋を照らす中で咲夜は母親の顔をまじまじと見た。髪の色は自分と同じ白に近い銀色だ。咲夜の髪は肩くらいまでしかないが母親の髪は腰まで届いていて月光に晒されると青白く光る。目もどちらかといえばつり気味の咲夜とは対照的に母親の目はたれていて優しげな印象を受ける。咲夜が母親の顔を観察していると、母親は、明日は早いからもう寝なさいと咲夜を抱く力を少し強めた。そして最後に「ごめんなさいね」と咲夜の耳元で囁き母親は眠りに落ちた。

次の日の朝、咲夜が目を覚ますと母親の姿はなく代わりに一枚の紙片が残されていた。
そこには『日の入りまでに私が戻らなければ、もう一泊して一人であの家まで帰りなさい。村長さんにも領主さんにも話はつけているので安心しなさい』と書かれており、幼い咲夜は不安を抱きながらも母親の指示通りに帰りを待つことにした。
帰りを待ちながら咲夜は昨晩に母親が言った「ごめんなさいね」の意味を考えた。自分は母親から謝れるようなことをされただろうかと、必死になって記憶の糸を辿ってみたが、自分が謝る理由は見つかっても母親が謝りそうなものは一つも見つからなかった。
少なくとも咲夜にとってこれまでの日々は幸せなものだし、二人の母親は咲夜が悪戯をすると怒って怖くなるが、いつもは自分に優しくしてくれる。今までの穏やかな生活に文句はないし、嫌だと感じたことも一度たりとも無い。むしろこのまま永遠に今の生活が続いてくれればいいなと思うくらいである。
二人の母親と自分、その三人だけが幼い咲夜にとって世界の全てだったのだ。他のモノは飾りに過ぎず、あれば華やかだがなくても本質的に問題はない。その偏狭ともいえる幸せに咲夜は十分に満足していた。
それだというのに投げ掛けられた母親からの言葉に咲夜は初めて確固たる困惑というものを持つに至った。
結局そのまま咲夜が母親の言葉の源を突き止める前に日は山影に隠れはじめた。
―――母親はまだ帰ってこない。咲夜は不安に押し潰されそうになった。


夕日の半分が山影に隠れたところで咲夜のガマンは限界に達した。母親が向かった屋敷に自分も行こう。
思い立った咲夜が部屋から抜け出すと玄関で村長と鉢合わせた。村長はどこか憐れみを秘めた目で咲夜の行く手をふさぎ、お菓子を上げるから部屋に戻りなさいと咲夜を慈しみ深い声で諭した。
それを咲夜は、嫌だ母さんのところへ行くと叫び腰の曲がった村長の手を掻い潜って家の外へ飛び出した。背後から戻っておいでと村長の大声が聞こえたが、咲夜はそれを振り切り母親のいる屋敷へと駆けた。

聞いた話のままだと日が完全に沈む前に到着できる距離だと思えたが、大人と子供の体力を考慮するのを忘れていた。咲夜がその屋敷の前に着いたのは、日が完全に沈んでしまい辺りはうっすらとした闇に支配されていた。夜天に雲はなく十六夜の月と星々が輝いているが、どういったわけか屋敷の周辺は他と比べてさらに宵闇が深く感じられた。怖くなった咲夜はもう一人の母親がくれた銀時計を手に握り歩いた。
近くの樹上からはフクロウの泣き声が聞こえ、遠くの山からは狼の遠吠えが響く、その暗闇の中で咲夜は僅かな月光と首にかけた銀時計を心の頼りに母親の姿を探した。

屋敷をぐるりと遠まきに回ったところ立派な門が見えてきた。咲夜にはその門があの世へと続く邪悪なものに感じられ、お守り代わりの銀時計を握る手の力強くなったところ、尖ったとこで切ったのだろうか手のひらにわずかな裂傷ができてしまった。
手の痛みすら忘れ屋敷の中へと入ろうと咲夜が恐る恐る門に近寄ってゆくと、門のすぐ前に人影らしきものが見えた。遠目な上に暗いためにはっきりとその姿ははっきりしないが、腰まで伸びる髪がわずかに揺れているのが見えた。
咲夜は母親の無事な姿を見つけられたと安堵し、早く帰ろうよ、お母さんとその影に近づき声をかけた。
咲夜のあどけない声に影はゆっくりと振り向き、その場で茫然とした様子で立ち尽くした。
どうしたの? お母さんと咲夜が声をかけても影は、うわ言のような声を漏らすだけで、ちゃんとした返事をくれない。
変に思った咲夜が目を凝らして見てみると母親らしき影の足元に他の何かがいる事に気がついた。そしてその何かは僅かな月光を青白く照り返していた。それは昨晩見たものとそっくりで咲夜の胸中を激しく掻き立てた。
お母さん……? 咲夜はすがる気持ちで目の前の影に話しかけた。目の前の影からは嗚咽だけが漏れはじめていた。
お母さんなんだよね……?もう一度その影に尋ねた。影は嗚咽混じりに、すみませんと応えた。その声は咲夜が初めて聞くもので、月光に照らされるその影の髪は血のような赤色だった。

咲夜も影も微動だにせず銀時計だけがカチカチと音と時を刻み動く状況がしばらく続いた。
遠くの山から狼の遠吠えが聞こえ、それに合わせるかのように辺りを覆っていた宵闇が霧散してゆき、十六夜の月光が影とその足元にいる何かを弱々しく照らした。
そこには赤毛の妖怪と、赤く染まった母親の姿があった。
咲夜が最後に見た母親の姿は道中に見た動物達の食べ残しに似ていた。



※※※※※



「咲夜さん? どうかしましたか」
背後からの声に咲夜は我に返った。冷たい流水に手を晒しながら考え込んでいたようで、手の平全体が真赤になっている。どれだけの時間を無駄に費やしたのだろうか、咲夜は濡れた手のままに懐の銀時計に目をやると、思った以上の時間が過ぎ去っていた。ひび割れの入った銀時計の針を見ればすでに正午をまわっている。
「咲夜さんが仕事の途中に現を抜かすなんて珍しいですね。明日は雪かな?」
「それは褒め言葉かしら美鈴。あなたが同じことをしても雪にはならないだろうし」
「痛いところついてきますね。それはそうとそのままだと手荒れしてしまいますよ」
咲夜の真赤な手が美鈴の手に包まれた。美鈴の体温と気に抱かれ咲夜の手は感覚を取り戻していく。本日二度目の温治療だ。前回の治療とは異なり温められる場所がさらに赤くなる様子はない。
「悪いわね。何かお礼をしなくては」
「お礼なんていいですよ。私もこうして咲夜さんの柔肌を触るの好きですし」
「もう少し言葉を選んでくれれば完璧だったのにね」
「変に飾るよりも素直な言葉が一番です。それに赤くなった顔で言われても説得力ありません」
「さすがに赤面はしてないでしょ。ふふ、分からないと思ったら大間違いよ」
「それならこれはどうですか?」
それまで手を包んでくれていた美鈴の手が背中にまわされ、咲夜の身体は美鈴の身体に密着する。
抱き合うくらいは日常的にどちらからもしているが、今は二人のいる場所が場所だけにいつ他の者に見られるか分からず咲夜はうろたえる。日頃あれだけ厳しく風季を取り締まっているのだから、見られては示しがつかなくなる。
「ちょっとやめなさい、誰かに見られてしまうわ」
「大丈夫ですって。それに見られたらその時はその時です」
「ふざけないで。いいから離しなさい」
「嫌ですよ。隠したって無駄ですよ。こんな寒い所にずっといたんです。手だけでなく全身が冷えているでしょうに」
美鈴の咲夜を抱く力が強まるが、図星を当てられた咲夜は文句を言えなくなる。美鈴は許しが出たとばかりに咲夜の身体を舐めるように抱きはじめ、咲夜も諦め半分で美鈴に身体を預けることにした。なんだかんだ自分も美鈴を欲しているのを認めざるを得なかった。それに身体が冷えたままというのも良くない。
悔しくないと言えば嘘になる。だが、美鈴も自分を欲しているのを咲夜はよく知っているので、そこまで致命的なものにはならない。
咲夜は自分と美鈴の関係を共依存だと考えている。お互いが相手を必要とすると言えば聞こえは良いが、実際は相
手が近くにいなければ、精神が不安定になる性質の悪い中毒に近いものだ。
そんな不健康な関係を咲夜と美鈴は初めて出会った日から続けている。



※※※※※



目覚めると咲夜はお布団の中にいた。パチパチとお布団越しに薪の焼ける音が聞こえる。咲夜が寝ていたベッドはあまり質の良いとはいえない簡素なもので、掛けられていたお布団も薄く頼りないものだ。
ここはどこなんだろう。咲夜はお布団から頭だけ出して室内を見回した。お布団から出した咲夜の顔を冷気が包み込む。
部屋には小さいながらも暖炉が備え付けられており、赤くなった薪が薄暗い室内を照らしていた。銀時計を見てみるとまだ日も昇っていない時間だった。
部屋の作りはしっかりしているようだが、建物自体が年代物らしく窓際の方から隙間風が吹きこんでいて、暖炉に火が点いているのに室内は冷え切っていた。
それなのに咲夜は寒さを感じず、むしろ温かさの中で目覚めた。どうしてなんだろうと傍らを見てみると誰かが添い寝をしてくれていた。
あぁ、あれは夢だったのね。幼い咲夜はお布団の中に潜り込み、隣で寝ている母親に寄り添ったところ、母親は抱きしめ返してくれた。お母さんありがとう。一言つぶやき咲夜はそのまま眠りに落ちていった。



※※※※※



「咲夜さん? しっかりして下さい。いくらなんでもここで寝るのはいけませんよ」
もう少し寝ていたいのに美鈴の声がそれを邪魔する。咲夜は細かい瞬きをして眠気を払った。
心配しながらも髪を撫でまわす美鈴の手が微妙に煩わしいが、不快というほどもでもないので放っておく。仮に指摘したところで咲夜は咲夜で美鈴の服の中に手を入れているのだから説得力がない。
「いくらなんでも今日はおかしいですよ? 体調不良なら部屋まで送ります」
「ううん平気。ただ気持ち良かっただけ」
「そうですか……。どちらにしても後で部屋にお邪魔しますね。風邪を引かれては大変です」
そら来たとばかりに咲夜は苦笑する。咲夜の体調にかこつけるのは美鈴の常套手段で、冬場の間は風邪をネタにして毎晩のように咲夜のもとにやって来ようとする。半分は本気で心配してくれているのだろうけど、もう半分は美鈴が寂しがり屋なだけだ。それを良く知る咲夜は逆手に取り美鈴をからかう。
「今晩は部屋を暖かくして厚着して寝るから平気よ。それに美鈴にうつしては悪いもの」
「むぅ、意地悪な人ですね。そんな悪い子を一人で寝させるわけにはいきません」
「心配してあげたのに酷い事言うのね」
「さすがに白々しいです」
「そっくりそのままお返しするわ」
咲夜が美鈴の服から手を抜くと、美鈴も抱擁をなごり惜しそうに解いてくれた。
長過ぎる抱擁を解いてもらった咲夜は遅い昼食の準備をはじめる。自分と美鈴の分しめて四人分だ。
咲夜が調理していると美鈴が自室へ暖炉を点けに行ってくれた。冗談かと思えば本気で咲夜の体調を心配しているらしい。

咲夜は虚弱な体質ではないのだが、美鈴はそうは思ってくれず大袈裟なぐらいに咲夜の身を案じる悪癖がある。
美鈴は咲夜が咳一つしようものなら部屋に閉じ込めお布団に縛り付けようとするのだ。そのくせ鍛錬の時は容赦がなく指導してくれる。
しかし厳しく指導してくれるのはいいが、その結果咲夜が怪我をすると美鈴は酷く自分を責める。落ち込んだ美鈴を立ち直らせるのは、咲夜をしてもなかなかに難しく骨が折れる。
前に一度、鍛錬中に咲夜の腕の骨が折れたことがある。きれいに折れたのと素早く適切な処置を施せた事もあり、腕に後遺症が残らなかった。
咲夜にも美鈴にも過失はなく単に当たり所と運が悪かっただけにもかかわらず、治療中はもちろん完治してからもしばらくのあいだ美鈴は咲夜に事ある毎に謝り続けた。
ある時は朝から晩まで付きっきりで介護と悔悟をされ続け、流れた涙が小さな湖畔を造るくらいになって、やっと美鈴は立ち直ってくれた。正直なところ怪我の不自由よりも泣く美鈴の相手の方が面倒だったくらいである。
美鈴のその矛盾した振舞いと自責の理由が分かっているがゆえに、中途半端な励ましが一切使えない。そのため極力は咲夜が怪我をしないよう頑張るしかない。



※※※※※



次に咲夜が目を覚ますと室内は明るくなっていた。目を擦りながらお布団の中から出て見ると、やはり知らない部屋にいた。
隣で寝ていたはずの母親の姿はなく、代わりにベッドわきのテーブルにパンとスープが置かれていた。咲夜はしばらく母親の帰りを待ったが空腹には勝てず一人でまだ温かいその朝食に手をつけた。そして食べ終わり再び寒さをしのぐためにお布団の中に戻ろうとした時、部屋外の廊下の方から足音が聞こえてきた。

扉を開けて入ってきたのは母親ではなかった。腰まで伸びる豊かな髪は咲夜のよく知る銀色ではなく、かわいた血液のような赤色だった。
その赤髪に咲夜は昨日の晩の出来事が夢ではないと知り、茫然と扉前の赤毛の妖怪を見つめるほかなかった。
母親を喰い殺したその妖怪の目には咲夜を弑する悪意や邪気は宿っておらず、むしろ哀憐と深い自責の念が見てとれた。それゆえに咲夜は人喰いの妖怪を前にして不思議と恐怖は感じずにいた。
さきに動いたのは赤毛の妖怪だった。赤毛の妖怪はゆっくりと咲夜のいるベッドの方に近づいてきて、茫然としたままの咲夜の頭を軽く撫で「すみません」と一言発し、そのまま顔を伏せ黙り込んでしまった。
突然現れて意気消沈とした妖怪に咲夜は恐る恐る話しかけた。お母さんはどこに行ったの? 妖怪は咲夜の問いには応えてくれなかった。咲夜は続けて妖怪に問うた。お母さんはどこ? 妖怪はすみませんと言うだけだった。
妖怪の服の裾を掴み咲夜は尋ねた。なんで私だけ生きているの? どういうわけか涙は出なかった。


咲夜が話す気力も失くした頃、赤毛の妖怪は一緒に来て下さいと咲夜の身体を遠慮がちに抱き上げ部屋を出た。
道すがらどこに連れていくの? と訊くと妖怪は主人に合わせなければならないと言う。
あぁ、そうかその主人に私は食べられるのね。
自分の末路を想像した咲夜は思わず母親にそうするように自分を抱き上げる妖怪の腕にしがみついてしまった。それを赤毛の妖怪が大丈夫ですよと怯える咲夜を励ますのだから二人の間に妙な空気に包まれ、それ以上はお互いに何も話さなくなった。
咲夜はうす暗い廊下を赤毛の妖怪に抱き上げられ無言のまま進んだ。

赤毛の妖怪は主人の部屋の前に着くと咲夜を降ろしその場で出来る限りの身繕いをしてくれ、お嬢様の前であまり喋らないで下さいねと念を押してきた。どうやら妖怪の主人は気紛れが激しいらしい。
あまりいい気はしないけれど、この屋敷内で咲夜が頼れそうなのは今のところ赤毛の妖怪だけなのだから咲夜はそれに従うしかない。咲夜が黙って頷くことで了承の意を見せると、赤毛の妖怪はいい子ですねとまた咲夜の頭を撫でてくれた。
それでは行きましょう。咲夜は赤毛の妖怪に手を取られながら、屋敷の主人が待つ部屋の扉を通った。

部屋の中は完全な闇に包まれていた。室内は床や天井に嵌めこまれた宝石みたいな物がわずかに光っているだけで、咲夜にはそれ以外の物は何も見えないが、手を引く妖怪は平気らしくどんどん奥へと連れて行かれた。
何も見えないまま妖怪の手だけを頼りに歩いていると、咲夜の手を握る力が僅かに強くなったのが分かった。
それから数歩だけ進んだところで妖怪の足が止まったので咲夜も足を止めたところ、妖怪に肩を押さえられその場で床に膝を着かされた。咲夜には見えないだけで目の前には屋敷の主人がいるらしい。
それがあなたの言っていた人間の子なの? 闇の向こう側から声がした。幼さの残るその声に咲夜は疑問を持った。

その疑問は室内に充満していた闇とともに晴れた。室内に飾られていた宝石達が不気味にその輝きを増したのだ。
突然明るくなった部屋で咲夜達を台座から見下ろしていたのは、咲夜と同じかそれ以上に幼い容姿の少女だった。しかしその少女の背には蝙蝠の羽が生えており、その双瞳は隣の妖怪の赤毛とは比べ物にならないほど紅かった。
それがこの時に咲夜が室内で見た最後の光景だった。吸血鬼の紅瞳を見た瞬間、鈍い金属の軋む音とともに咲夜の意識が飛んだのだ。



※※※※※



「ごちそう様でした」
「おそまつ様でした」
咲夜が一人分の量を食べるのと同じ時間で美鈴が三人分の量を平らげた。いつもの事なので大して驚かないが、どこにそれだけの量が入っていくのか咲夜は不思議に思う。そして美鈴の鼻先にはご飯粒がくっついているが、どうして美鈴はそれに気が付かないのかも疑問だ。
「大分冷え込んできましたね。お昼だというのにお日様が仕事をしてくれません」
「あなただって午前中はサボっていたじゃない。午後から真面目にすれば暖かくなるかもね」
「あれはお日様が照ってくれないから、仕方がなく休んだんです。私のせいじゃありませんよ」
「鶏が先か卵が先か……。どちらにしても午後は真面目にね」
咲夜がポットに手を伸ばすと、美鈴がすかさずカップを取ってくれた。カップに注がれていく紅茶が白い湯気を立てる。美鈴の分も注いだところで咲夜は砂糖を切らしているのを思い出した。甘党の美鈴には致命的かもしれない。
しかしながら咲夜がそれを伝えると美鈴は笑って了解してくれ、そう言えばどっちでもいけたわねと咲夜は苦笑をもらす。
「明日にでも里に行かなくちゃ。お嬢様達様のお砂糖も少ないはずだから」
「この天気だと明日はきっと雪になりますよ。それでもですか? 」
「それでも。白いとはいえ雪はお砂糖の代わりにはならないもの」
「荷物持ちはいりますか? 今ならお汁粉一杯で引き受けますよ」
「いらないって言っても付いて来るくせに」
手元のカップに口をつけると咲夜の舌に鈍い痛みが走った。紅茶が熱過ぎたらしい。見てみれば美鈴は紅茶を吹いて冷ましている。
咲夜が痛めた舌を確かめようと口元に手を持っていくと、その仕草で美鈴に火傷を勘付かれた。そこまで目聡いくせに、どうして鼻先の米粒は気が付けないのだろうか。
「大丈夫ですか? 氷もらってきます」
「いい、平気よ。そんなに心配しないで。口の中だしすぐに治るわよ」
早くも悪癖を出そうとする美鈴に咲夜はやんわりと釘をさす。美鈴は不服そうにしているが、咲夜の知った事ではない。こういう時はてきとうにあしらわなければ、美鈴はどんどん不必要に気負ってしまう。
「そうですか……? くれぐれも無理はしないで下さいよ」
「舌の火傷で無理って何をどうすればできるのかしらね。なにか身に覚えでもあるの?」
「むぅ、からかわないで下さい。やっぱり意地悪になってきましたね」
「あなたが心配性すぎるのよ。ほら、そんなしかめ面しないで。いつもの気抜けた顔はどうしたの?」
咲夜は手を伸ばし美鈴の両頬を引っ張ってみた。すると美鈴の頬はお餅みたいに伸び縮みする上に手触りも良い。思いがけない発見に咲夜は笑みをもらすが、美鈴は困ったように笑うしかない。
しばらく美鈴の頬で遊んだあと、咲夜は美鈴の頬を撫でてやり、そのついでに鼻先の米粒を取って口にした。
それに美鈴が少しばかりの赤面をしたのだから咲夜としては大満足の昼食だった。



※※※※※



咲夜が目を覚ますと赤毛の妖怪の部屋にいた。ベッドの上から辺りを見てみると赤毛の妖怪が暖炉に火を点けていた。
あの部屋で何があったのか思いだそうとしたが、紅いモノが頭の中で点滅するだけで何も思い出せなかった。
咲夜が額を押さえて紅光と闘っていると、いつの間にか側きていた赤毛の妖怪に無理はしないで下さいと止められた。
聞けば咲夜は吸血鬼の眼にやられたのだと妖怪は言う。おそろしいことに抵抗のない者が不用意に覗くと最悪命を落とすとのことだ。
しかしそのおかげで咲夜は命拾いしたのだとも妖怪は言う。人間の幼子のくせに自分の瞳を覗いてなお生き延びるかと、吸血鬼は咲夜のことをいたく気に入ったらしい。生き延びたのは嬉しいが、吸血鬼のおめがねにかかっても嬉しくはない。

それに続けて妖怪は信じられないことを口にした。咲夜を使用人として屋敷に住まわせることが決定したのだと。
当然ながら咲夜はそれを拒んだ。母親を喰われ次はその元凶の下に仕えるなど理不尽すぎる。勢いのまま咲夜は赤毛の妖怪を罵倒した。お前がお母さんを喰い殺さなければこんな事にはならなかった。お前のせいで私は唯一の肉親を失った。ここにきて咲夜は初めて涙を流した。自らの口で母親の死を語ったことで、胸中で密かに隠し持っていた母親の生存という希望を捨てたのだ。
悲しみと怒りが望むまま咲夜は赤毛の妖怪を責め立てたが、赤毛の妖怪はすみませんと謝るだけで一つの弁解も言い訳もしなかった。

咲夜が吐き出す呪詛の言葉が尽き、流れ出る涙も枯れた後も赤毛の妖怪は咲夜の側を一向に離れなかった。その哀れな姿に咲夜は心を痛めそうになるのを必死に耐えた。
しかし無抵抗のまま延々と罵声された者へ何の情けもかけないほどに咲夜は冷血でも傲慢でもなかった。
色々考えた末に咲夜は妖怪の名前を訊いたところ、妖怪は紅 美鈴ですとかき消えるような声で呟いた。
咲夜はその名前を何度も口の中で復唱した。もう一人の母親の名前と響きが似ていたのだ。

母親の面影を尋ねる咲夜の口から不意に「美鈴」と音が漏れ、呼ばれた美鈴がなんでしょうかと返事をした。意図して呼んだわけではないので、咲夜は少しばかり戸惑いつつも美鈴に尋ねた。私はもう家に帰れないのかと。
美鈴は申し訳なさそうに、もうどう足掻いても無理ですと咲夜の予想通りの言葉をくれた。
それに対して咲夜は、私はどうすればいいの? と吸血鬼の屋敷でのこれらからの運命を美鈴に訊いた。
しかし美鈴は咲夜の言葉の意味を取り違えたらしく、生きて下さいと涙声で返してきた。



※※※※※



咲夜が美鈴へ差し入れをしようと扉を出た時、ネズミ色の空はもし夏なら土砂降りでもしそうなくらい暗くなっていた。虚空に息を吹きかけてみると朝よりも濃い白が浮かび上がりそして霧散していく。もしかすると今晩くらいから吹雪くかもしれない。
洗濯物を早く片付けておいて正解だったと咲夜は門へとつづく庭園の中を一人歩く。手にはコーヒー入りのポットと軽食を入れた美鈴用のバスケットがあり、季節と天気が良ければちょっとしたピクニック気分にもなれただろうが、今の時節は初冬で天気は曇天。とてもではないが浮かれた気分になれるほど優しいものではない。
それでも門番に立つ美鈴の背が見えたとき、咲夜の足は軽くなり胸は躍動した。

咲夜の小言のせいか寒さのせいか、おそらく後者が主な原因で美鈴は起きていた。両手を組ませて寒そうに肩を揺らしている。
美鈴に気付かれないように咲夜は足音と気配を消した。普段なら時を止めなければ確実に接近を勘付かれてしまうが、寒さに震えている今ならチャンスだとふんだのだ。
獲物を狙う猫の様に咲夜は歩みを進める。わずかに見える美鈴の白い吐息に自分の吐く吐息を合わせることで美鈴と呼吸を重ね、身震いで上下する肩に足運びを同調させた。
門の影に入ったところで咲夜は手に持つバスケットをその場に置いて両手を自由にする。美鈴は相変わらず身体を震わせているだけで接近には気付いていないみたいだ。
そこから一歩、また一歩と美鈴との距離を縮めるほどに咲夜の胸の躍動はより激しくなった。その昂った鼓動音で美鈴に気付かれてしまうのではと咲夜にあらぬ不安を抱かせるほどだった。
しかしその杞憂も乗り越えて咲夜は美鈴の背後に潜むことができた。美鈴の背後に張り付くことができた咲夜は少し背伸びをして美鈴の頭に手を回した。
「さぁ、私は誰でしょう?」
美鈴にやられた事は何度もある。しかし自分からするのは初めての行為なので少しばかり緊張した。


「真面目にお仕事しているのに全然暖かくなりません」
「あんな言葉を本気にされても困るのだけど」
「そんなぁ、私は咲夜を信じてここまでやってきたんですよ?」
「そもそも真面目にお仕事するのは普通の事でしょうが」
コーヒーを片手に美鈴が拗ねた仕草を見せる。カップに注がれたコーヒーには砂糖もミルクも入っていない。それを当たり前に飲みながら子どもじみたことをするのだから、最初からない説得力がさらになくなっている。
美鈴の膝上に座る咲夜からすればそんな戯言よりも、何かの拍子に香り豊かなコーヒーが服に染みを作らないか心配でしょうがない。このままだと寒くて凍えてしまいますと美鈴に嘆願され応諾したものの、やはり断ればよかったと咲夜は少しばかり後悔する。
考えてみればそもそも美鈴の方が咲夜より体温が高いのだから、咲夜に湯たんぽの真似ごとなんて出来やしないのだ。厨房で咲夜がそうしたように、美鈴も空いている手を咲夜の服の間に忍ばせているが、その手を冷たいとは感じない。むしろ暖かいくらいだ。
「まんまと騙されたというわけね」
「例えるなら咲夜さんが蝶々で、私は羽休めの花でしょうか」
「羽虫と食虫花の間違いじゃなくて?」
「ほほぅ、ねっとり系をご所望というわけですね。でも少しばかり気が早いですよ、まだお日様は高いところにあります」
「先週は逆のことを言っていたわよね。お月様こそが私達にとって云々とか言って」
「そこまで覚えているのに、同じ手にかかった咲夜さんの負けですよ」
頭の後ろから聞こえるその声と服の中で無遠慮に蠢くその手に、策が上手くいき自信満々とする美鈴の顔を咲夜は視た。
しかしながら策に嵌ったはずの咲夜は狩りの成功をひっそりと微笑む。
先週の事もそうだが見え透いた罠には敢えてかかりにいく方が狩りは上手くいく。獲物が罠にかかったと誤解した本当の獲物がのこのこ目の前に出て来てくれるからだ。あとは油断している獲物の喉に喰いつけばいい。
どちらが本当に捕まえられたのか、どちらが本当に捕まえたのか。それを知るのは咲夜だけなのだ。



※※※※※



美鈴の明後日を向いた返事に咲夜はくすりと笑ってしまった。愛してくれる者の全てを失ったのに、状況に流されるままに生き続ける自分の境遇が滑稽に思えたのだ。
咲夜が自分の境遇を嘲笑していると、傍らの美鈴に大丈夫ですかと肩を揺すられた。気でも触れたと思われたらしい。
その美鈴に咲夜が自分の運命の儚さと無意味さを説いたところ、どういうわけか美鈴が泣き崩れてしまった。そして自暴自棄となった咲夜にしがみついて、お願いですからそんな事言わないで下さいと嘆願してきた。
それがまたおかしくて咲夜は美鈴に言った。私から肉親とその愛情を永遠に奪ったお前がそれを口にするかと。美鈴は慟哭のまま咲夜に応えて言った。私があなたを愛します。だから生きて下さいと。

咲夜は自分の耳を疑った。自分にすがりつき泣く妖怪こそ気でも触れたのかとさえ思った。それでも美鈴の声は確かに咲夜を愛すると言った。そして今も困惑する咲夜をしりめに美鈴は何度も、私があなたを愛します。だから生きて下さいと繰り返す。
咲夜にはどうすればいいのか分からなかった。目の前で泣き続けながら咲夜の命乞いをする妖怪にどう対処すればいいのか見当もつかなかった。

幼身の自分にすがり泣く妖怪の姿が咲夜の迷いをより複雑にしていた。なぜこの妖怪が自分を生かそうとするのか分からないのだ。
少なくとも咲夜の生死はこの妖怪の利害に無関係だろうし、むしろ死んでくれた方が禍根を絶やせるはずだ。
それなのに妖怪がわざわざ醜態を晒してまで他人である自分の命乞いをするのか。まるで夜盗から我が子を庇いたてる母親の如きおこないだ。
お母さんは喰い殺してしまって、どうして私は喰わずに生かそうとするのだろう。なぜ母を殺した夜盗に私は生きろと言われている? ここまでするなら最初からお母さんを食べなければよかったのに。
咲夜はそれを泣く美鈴に問いかけた。そこまで泣くのに、どうして食べたのか。美鈴は泣き伏したままで、私は人喰いの妖怪です。月が満ちた晩か、その次の晩に人を食べないと身が朽ちていきます。あなたのお母さんはそんな日に来てしまったのです。私はまだ朽ちたくはないのです。その哀声に咲夜は訊く。それなら私も一緒に食べればよかった。どうして食べてくれなかった。美鈴は哀声のままに返した。あの方は最後の瞬間にあなたの名を呟やき逝かれました。自身の身を顧みず、ただあなたの身を案じたのです。それはあの方がなさった、あなたの分の命乞いであり同時にあなたへの遺言なのです。だから私はあなたを食べなかった、そして食べたくないのです。それだけ言い終わると美鈴は再び嘆願にもどった。

美鈴の言う事は支離滅裂だった。しかし咲夜は美鈴の言葉を跳ね除けられない。どうしてか美鈴を憎み切れない。
咲夜は悩んだ。母親の仇である妖怪をその代わりにしてもいいのかと。仇を討たずのうのうと妖怪の愛情を甘受していいのかと。
普通に考えれば母親の仇を討つべきであることは幼い咲夜にも分かったが、それでは自分のために慟哭に伏す妖怪が救われないのではと奇妙な情けがそれを邪魔するのだ。
それに生前の母親は食べるために殺すのは悪ではないと咲夜に教えてくれた。もちろん咲夜からすれば到底赦せないことだが、妖怪の言葉を信じれば生き延びるために母親を喰い殺した妖怪に罪は無いことになる。また母親の最後の言葉は妖怪への恨み言ではなく、咲夜の身を案ずるものだったいう。それだというのに妖怪を討つなり自分の命を粗末にするなりは、母親の教えと遺言に反するのではないか。
しかも率直なところ母親の事をなしにして考えると咲夜は妖怪を好ましく思う。人喰いのくせに変に人間臭く涙もろい性格もだが、何よりその容姿と名前に亡き母親ともう一人の母親の面影が宿るのが大きい。その奇妙な情に咲夜は逡巡の海へと沈んだ。
そして妖怪の名にもう一人の母親を思い浮かべたところで、咲夜はそう言えばと懐に手を伸ばした。
そこにはひび割れた銀時計があった。幸いなことに亀裂はガラス部分と装飾の一部のみに入っただけで、針の駆動には問題ないらしくチクタクと時を刻んでいる。
どうしてこんなにもボロボロになっているのか。大切な贈り物なのに。咲夜は迷いとともにその疑問を考えた。どこかで転んだとか何かにぶつけたとか銀時計を壊した理由を記憶の中から探した。そしてある事に気が付いた。吸血鬼の魔眼を見てしまったことに。きっとあの時に身代りになってくれたのだと。この退魔のお守りが身代りになってくれなければ、吸血鬼の魔眼に殺されていたにちがいない。その傷を負った銀時計を見て咲夜は、もう一人の母親にも命を救われたと知った。二人の母親に生きろと言われたのだ。

そして咲夜はすがりつく妖怪の頬に手を当てた。

咲夜は二人の母親の教えと導きを守る事にした。
二人の母親に報いるために妖怪の愛情を受け、生き永らえることにしたのだ。

美鈴が愛してくれるなら生きる。だけど私はあなたを赦さないという言葉を添えて。



※※※※※



日が山の端に入ると、それを待ち侘びていたと言わんばかりに空から雪花が降りはじめた。風はないようで吹雪きこそしないものの、明日には紅の館を白く染め上げてしまうだろう。
雪かきは外勤のメイド妖精の仕事だが、それだけで間に合いそうになければ、内勤の一部を援軍として送らなければならない。もちろん雪かきに割いた分は咲夜が埋め合わせることになるのだから、雪が積もると間接的に咲夜の仕事は増えてしまう。慣れてしまっているといえばそれまでだが、どうしても億劫になってしまう。
「明日から一段と寒くなりそうですね。こうして暖かくして窓越しに見る分は綺麗なのですが、直に触れるのは勘弁です」
「寒い中での門番が大変なのは分かるけど、そろそろカーテンを閉めてくれない? ガラス越しに冷気が入ってきて余計に寒くなってしまうわ」
「花鳥風月とまでは言わないでもなかなかに風情があるものですよ。雪見酒なんて洒落ていると思いませんか」
「晩酌の相手が私だけだと不満ということかしら。たしかに私に風情なんてないものね」
古の聖人の血とも呼ばれる赤い液体を美鈴の空いたグラスに注ぐ。大して飲めないと言い張るくせに、ほぼ一人でボトルを空にした美鈴の顔は酔ったようには見えない。元々そんなに強くない酒を咲夜が選んだからかもしれないが。次の日も仕事があるのに酔い潰すわけにはいかない。
「あらあら、ついには自然現象にまで嫉妬ですか。そのうち空気にも妬きはじめそうですね」
「自意識過剰なのはけっこうだけど、本当にカーテンを閉じてくれない。風邪を引きたくないのよ」
「それは失礼。ついでに暖炉の火も強くしましょうか?」
「そこまでしなくていいわ。どうせあとはお布団に入って寝るだけだし」
「少し早い気もしますが、それもいいかもしれませんね。早寝早起きは健康の素です」
カーテンが閉められて、部屋がわずかにだが暗くなった。夜空は雲に覆われていると思ったが、存外なことに月が出ているようで、その光が降り積もった雪に照り返され部屋を明るくしていたようだ。部屋に明かりを与えるものは暖炉で申し訳なさ程度に揺らめく火だけとなった。揺らぐ火は咲夜のグラスの中にもうつり込み、聖人の血を黄と橙の境界色で染め上げる。
咲夜はまだグラスになみなみ残っているそれを一気に飲みほし頬に熱を蓄えた。一般的に飲めば気分が高揚するらしいが、咲夜はその作用を実感したことはない。飲んでも少しばかり頬のあたりが熱くなる程度で、それ以上飲んだところで内なるものが昂ったりはしないし、そのまま飲み続ければ突然目の前に現れた睡魔に連れて行かれる。そして起きてみれば美鈴の玩具になっているのが常だ。こちらの記憶が曖昧なのをいい事に、美鈴本人は自分が犠牲者だと言い張るが、どう考えても遊ばれたのは自分の方だろう。
「ねぇ、美鈴」
「どうかしました?」
「ううん、何でもない。ただ呼んでみたかっただけ」
「小さな頃から変わらず甘えん坊さんですね」
窓辺から側にまで戻ってきた美鈴が咲夜の髪に指を通してきた。咲夜は無言でそれを受け入れる。
美鈴の指に絡め取られた銀糸はある時は流され、ある時は摘みあげられる。また時にはくしゃりと無造作でやや乱暴に撫でまわされることもあるが、その全てが咲夜を満たしてくれる。
ただ美鈴の手櫛は気持ち良く咲夜のお気に入りの一つだが、美鈴はわりと適当に流してくるため後で髪を整え直す必要がある。しかしそれでも、その間に咲夜の頬へ蓄えられた熱量は、聖人の血による分よりも多かった。
肉親の仇である妖怪となぜこんな関係になったのかは当の本人である咲夜にもはっきりと分からない。母のことを思えば美鈴に感ずるものがないといえば嘘になる。しかし今はただただ美鈴が愛おしくてしかたがないのだ。
各業界のクリスマス商戦を見ていると、サンタクロースが幻想入りするのは当分ないなと感じます。しかし当日よりも前夜の方が盛り上がるイベントというのも、なかなかに珍しいのではないでしょうか。当日の午後にはお正月商品が商品棚に並んでいることだってザラですし。

今作は完全に独立したものであり過去作とは無関係です。しかし過去作も読んで頂けると幸いです。
個人的にはもう少し咲夜さんの苦悩を描写したかったのですが、情けない事に今はこれが限界ですね。

読者の皆様に感謝です。

>24様 名前は便宜を優先させてもらいました。カタカナ表記で「サクヤ」でもよかったのですが、「咲夜」の方が読みやすいだろうとの判断です。
砥石
http://twitter.com/nadeishi
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コメント



0.1530簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
退廃的な雰囲気が素敵です
6.100名前が無い程度の能力削除
ここで終わりとは……
なんという生殺し
12.100名前が無い程度の能力削除
歪でいて暖かい
15.100こーろぎ削除
やった、砥石さんの新作だ。と、思ったら今回は結構長くてびっくり!
毎回、砥石sのめーさく読むと思うのですが、なぜ、こんなに切なく最後には暖かくなるのだろうと
18.90v削除
ナチュラルに……その……色っぽいと言いますか大人だと言いますか。
西洋の伝承のような空気。退廃さ。とても好きです。
24.90名前が無い程度の能力削除
なんだ、本名だったのか……
或は、過去を断ち切るため、本名を捨てたか……
なーんて考えてしまいました。無粋ですね。すみません