相対するのは強大な敵である。
黒々と蹲るその身体には漲るほどの力があった。殺されてなるものかと言う威圧感がびりびりと肌を刺激する。
妖夢を睨む漆黒の眼差しには、激しい殺意が込められていた。
一瞬、気圧されそうになる。
だけれども負けられない。
誰よりも勝利を楽しみにしている、主のためにも。この剣に誓って、絶対に。
そして、もう一つの理由として相手が動けないと言うことがあげられる。あの小さなフィールドから奴は出ることが出来ないのだ。
そんなハンデを貰って、負けるなんてことがあっていいはずがない。
しかし、ぴしゃりと打ち付けられる尻尾を見るとそうも言えなくなる。奴は強い。
これは勘だ。長年鍛え続けてきた勘だ。相手の力量を見誤るなんてことは、殆どない。
闘いにおいて、この勘と、己の刃だけは、信用に値する。そして、何よりも信頼しているのは己の鍛え上げた身体だ。
だからこそ、絶対に油断などしない。
妖夢の腕に力が満ちる。
構えた刃は振り上げて、下ろす。
単純な動作。
されど、その速度は二百由旬を一瞬にして駆け抜ける。
ひゅん、と薙いだ。
当たらない。
当たらなかった。
そう、奴は跳ねたのだ。
尻尾をばねのように使い、宙高くに跳ね跳んだ。
妖夢は己のミスを悟る。
即座に正面に刃を突き出すようにして、それから身を守る。
衝撃。
ざり、と後退りしてしまう。
腕が痺れる。
間違いではなかった。奴は、本当の強敵だ!
しかし敵も無傷ではない。一瞬回避が遅れたのだろう。その鎧の隙間から、赤い肉を晒している。
妖夢は手汗で滑らないように、握りなおした。
一筋縄ではいかない。
長くなりそうだ、と妖夢は腕に力を込める。
◆
話はお昼に遡る。
八雲紫が、西行寺家を訪れた時間帯だ。
その日、紫はお土産があると言ってやってきた。
紫を居間に通して、お茶を汲んできたのだが、そのときには彼女はいなくなっていた。
代わりにドでかい置き土産を残していきやがった。
あんちくしょうめ、と妖夢はお茶を乗せたお盆を持ったまま嘯いた。次の瞬間お盆からお茶が消えてナマコが乗っていたけれど。
さて、どうしようと、妖夢は思案する。
畳の上でびったんびったんしてるあれをどうしようか。
つーか掃除するのが誰だかわかってんのかあの紫ばばあとか心の中で言ったらナマコが大量に落ちてきた。
それにしても壮観な眺めだ。あれほど巨大なものは見たことない。
その置き土産を見た西行寺幽々子は妖夢に命じたのだ。
いや、命じたと言うか、それは要望だった。
むしろ妄想に近かった。
「ねぇ妖夢。あれを使ってね――――」
◆
「――――ッ!?」
咄嗟に前に出した妖夢の掌に、ざくりと敵の刃が奔る。
一直線に引かれた傷口から、うっすらと血が滲む。
それは痛くはない。痛くは、ない。溢れる血液は、だんだん多くなる。ぽたり、と木板に落ちる。
そこで、漸く自分が傷ついていると認識した。
「あ――」
舌を伸ばして、ちろりと舐めて、鉄臭い味が口内に広がるのが、堪らなく嫌だった。
何よりも、それが自分の味だから、それは嫌なのだろう。どうしようもなく痛くて、どうしようもなく嫌だった。
それが混ざってしまうのが嫌だから、妖夢は水桶に手を突っ込んだ。血液がふわりと靄のように広がった。水の中で不定形に踊る血。溢れ出して止まらない。
手を抜き出すと、ささくれた皮膚が痛々しくて、悔しくて涙が流れた。ぽたり、ぽたり、と涙と一緒に掌から水滴が落ちて、板の上で弾けた。
手負いの獲物から、突然の攻撃を喰らったのだ。悔しくないはずがないだろう。
ずきり、と掌が悲鳴を上げる。握り締めて、それを耐える。痛みを、耐える。
痛みと共にある、悔しさを耐える。ぎり、と歯を食い縛る。
妖夢は、刃を構えなおす。柄に、血液が滲んだ。
これは――この戦いには負けられないのだ。
目の前の獲物を睨みつける。
最早奴は手負いの身。死を待つだけの身なのだ。
見ろ、真っ赤な血が流れ出しているじゃないか。
腹を割られて、骨が見えているじゃないか。内臓が、どろりと零れているじゃないか。だけれども、その目はどうだ。死に掛けの癖に、闘志を燃やしているじゃないか。殺されてやるもんか、やれるもんならやってみろよ。
瞳の奥に燃える炎が、そう語っているように見えた。
上等だ。
妖夢は、二刀を構えなおす。
ふ――
息を吐く。深く、深く、息を吐く。
まるで、空間に、世界に溶けていくかのように、薄く、薄く、ゆったりと吐く。
緊張が解けて、そして緊張感が新たに構築される。身体を、作り直すようなものだ。戦闘をするための身体だ。薄く、しかし強靭な力が、身体中に流れていく。筋肉に漲る。
一撃必殺だ。
次の瞬間に、勝負は決まる。
足を適度に開き、構えをとる。
空間に電光が奔るように、固まった。緊張の糸が、空間を駆け抜ける。どちらかが動けば、切れてしまうような細く、酷く脆い糸。
静寂が、狭い空間を満たす。
……。
動かない。
…………。
汗が噴出する。
………………。
そして――糸が切れる。
……ぴちょん。
水桶に、水滴が落ちる。
緊張の糸が、弾け飛ぶ
瞬間、妖夢が動いた。
乾坤一擲。
それは、まるで光速。足が地面を擦り、腕が宙を薙ぐ。己の全てを賭けるように、全力で薙ぐ。軋みをあげる腕。だがそんなものは無視。
一刀で、奴の半身を切り分ける。
しかしそれで黙って傍観している奴でもなく、跳ね上がる身体。それでも――妖夢は反撃などさせはしない!
もう片腕が振り下ろされる。その刃は、まさに一撃必殺。
一刀の下に、妖夢は敵の頭を切り落とした。
その瞬間さえ、敵は黙っていなかった。頭を落とされて尚、奴は攻撃に移ったのだ。
激しい一閃だった。跳ね上がる尻尾が、妖夢の顔面に迫る。
それを予知していたかのように、妖夢の腕は動いた。
振り切った横薙ぎの一閃の進路を無理矢理変更させて、その尻尾を弾いた。
けたたましい音をたてて、板の上に叩きつけられる尻尾。
それきり、敵は動かなくなった。
されど魂魄妖夢は油断をしない。
暫くの間、刃を構えて、一歩も動かなかった。
例え、背後から攻撃されたとしても、対応できるような、完璧な構え。息を深く吐きつける。奴は、もうぴくりとも動かない。
動き出す気配さえなくなった。
そうして、漸く妖夢は構えを解き、安堵の溜め息を吐いた。
板の上に落ちた死体を、妖夢は生涯のライバルを思う心地で見詰めた。
だからこそ、すまない、と頭を下げた。
そうするしかなかったのだ。
奴は強かった。手加減など出来やしない。だからこそ、全力で戦った。悔いなどない。ないはずなのに――勿体ないと感じた。
また、闘えるのなら、闘いたいと思った。
それ程の強敵。
そして、出来ることなら、力を競い合うライバルのような関係でいたかった。
けれどそれは立場が許してくれない。
そう、彼女が魂魄妖夢であり、西行寺幽々子の従者であるのならば、それはやらなければならないことなのだ。
全力をもって奴は闘った。
悔いはないだろう。
ないと思いたい。
それが、勝者の義務であり、責務だ。
そして認めたからこそ、妖夢は全力を尽くすのだ。
身を切って、奴の鎧を剥がす。堅固な鎧は、刃を上手く使わなくては、到底落とせそうにない。強固な鎧があるからこそ彼は強かった。
しかし、と妖夢は思い返す。
彼が強かったのはそれだけだろうか、と。
確かに刃を通さぬ鎧は厄介だ。
けれど、それが彼の全てではないのだ。
彼の力は、もっと深いところ、魂とでも言うべきところにあった。
彼には闘志があった。
殺されてなるものかと言う意地があった。
それが、それこそが、彼を強固にしたのではないだろうか。それこそが、彼を無敵の存在に仕立て上げたのではないだろうか。
魂魄妖夢の魂は、それを認めたのだ。
だから、これは義務だ。
精一杯、美味しく作ってやる!
◆
「と言うわけでお刺身です」
「それはいいんだけどね、妖夢」
「はい?」
「これはなに? そしてあなたはどうしてそんなにぼろぼろなのかしら?」
「それはついでに作ったナマコのお刺身です。紫さんが私の頭に雪崩れ落としてきました」
「あ、そう」
「ちなみにぼろぼろなのは、奴が予想外に強敵だったからです」
「強敵……?」
「ええ、流石の私もやばいと感じました。魂魄流殺法術がないとどうなっていたことか……」
「魂魄流殺法術!?」
「魂魄家に伝わる調理法です」
「はぁ」
「必殺の調理法ですよ。まさに究極秘伝」
「私にはなんだかわからないわ……」
「それでいいのです」
「あ、美味しい」
「それはよかったです」
見上げた先で、激闘を繰り広げた彼が、薄っすらと微笑んだ。
そんな気がした。
[了]
ガノトトスか何かですか
違うか。魚ーーー!!
なんか魚ーーー!!
命の重み、魂の重みを刀に感じる話ですなぁ
シュールな絵面ながら、上の雰囲気が最後まで崩れなかったところが個人的に好感