「幸せの日を、もっと幸せな日に変える為の条件」
*
師走。24日。
日めくりカレンダーを一枚、破り捨てて私は溜息を吐いた。
今日はクリスマスという日だ。
巷では聖なる夜らしい。そういう風習の無かった私はきちんと理解した訳ではないが、とにかく「幸せの日」だという話だ。
それがどういう歴史背景があるのかも分からないが、確かに、街往く人間はみんなこの日に向けて、いつもより幸せそうな顔をしていた。
だから、私も今日は「幸せの日」なのだと、ぼんやりと理解していた。
けれど、口元からは白い溜息が出る。
別に、聖なる夜だから沈んでいるわけじゃない。
こんな幸せを象徴したような日に暗い顔をしなくてはならないのなら、もう年がら年中陰鬱な顔だろう。
だから、聖夜のせいじゃない。
じゃあ、どうして、こんな気持ちが上向いてくれないのか。
俯いてるから? 違う。
むしろ、見上げた先に、目を背けたいものがあるから。
よりによって。そう、よりにもよってだ。
よりによって、今日くらい、満月じゃなくたっていいのに。
地上から見える最も美しい円が、痛々しく私の紅い瞳に映る。
私は、溜息をついて、また視線を下に落とした。
今年一番の寒さとなった夜は、その溜息を白く染めた。
*
この永遠亭にいる者は、みんな自由奔放、思うがままだ。
姫様は言わずもがな、師匠だってその姫様を甘やかしっぱなしだし、てゐは私の言う事なんて聞きもしない。
だから私はいつもそんな彼女たちの「被害者」になる。
姫様が突然「寒風摩擦が見たい」なんて言い出して、
それに師匠が「あれは確か夜やるものではなかったかしら」なんてしれっと嘘をついて、
痛いくらい寒くて、唇が紫になって屋敷の中に帰ってきた私に、「お疲れ様」っててゐが渡してくれた飲み物は当然の様にキンキンに冷えた氷水で。
ちなみに、渡そうとしたてゐが「わぁ」って突然転んで、頭から氷水を被った結果、3日風邪で寝込んだ事に悪気はないと信じている。
あの「わぁ」がどれだけ棒読みだったとしても、私は信じている。
信じたい。
そんな風に、私はいつも「被害者」で、彼女たちは楽しそうに笑っている。
だけど、私も笑っている。彼女たちの笑顔が嬉しいから。
そう、此処は、楽しい。
だけど、月に一日。
正確には、29.53日に一日。
私達は、ほんの少しだけ、作られたような笑顔になる。
満天に輝く、望月の日。
その夜だけは、私達の居場所はどこかぎこちないものになる。
それは、彼方に「在った」居場所を思い出させる。
そして、もう二度と戻れない事を思い出させる。
戻りたい訳ではない。
ただ、それは、私達が此処に来る事の無かった、「別の未来」を喚起させるから。
此処を居場所とするまでに、失ってきたものを想起させて。
失わずに済んだ可能性を、嫌でもちらつかせるのだ。
一日は、何も変わらない。
私が「被害者」で、皆が私を指さして笑う。
姫様と、師匠からは少しだけねぎらいの言葉もかけてもらえる事もある。てゐは悪戯しかしないけど。
けれど、知ってる。
この望月の日の夜、一度だけ、姫様は宙を見上げる。
そして、師匠はそんな姫様に寄り添って、少しの間だけ、その手を握る。
それは、縁側で行われる、お二方だけの「儀式」。
何を想っているのか、私は知る事が出来ない。
立ち入る事が出来ない。
ただ、離れる事も近付く事も出来ずに、お二方の邪魔にならない距離で立ちすくんでいる。
それはいつも胸を締め付ける。
それはただ、私の想い人が、その主しか見ていない事、主の手だけを温めている事に対する妬みだけではない。
お二方が眺めている月は、私が見ている月と同じなのに。
お二方がそこに見る「別の未来」は、私が見ているそれと違う。
「別の未来」にあっても、お二方は一緒なのだろう。
そこでも、お二方の手が離れる事はないのだろう。
だが、そこに、私は居ない。
此処にある、私が幸せだと感じている居場所は、「別の未来」にはない。
私の届かない、「別の未来」でも笑っているお二方にすら嫉妬する私は、滑稽だろうか?
どれだけ飛び跳ねても届かない「未来」なら、この望月ごと見えなくなってしまえばいいのに。
そう思う私は、弱いのだろうか。
そして、もう一人。いや一匹。
その望月に、「別の未来」すら見る事の出来ない兎がいる。
地上の兎である彼女は、この日にどれだけの疎外感を感じているのだろう。
この日だけは、自分がこの満月の円の外に居る事を、嫌でも感じさせられるだろうに。
けれど、彼女は笑っている。
いつもの様に私に悪戯をして、嘘を吐いて、指さして笑う。
それは、自分が笑う事で、私達の居場所が此処に在る事、その事実を守る様に。
次の日から私達が帰る居場所を、たった独りで。
そして彼女は、
『この望月ごと見えなくなってしまえばいいのに。』
その私の願いを叶えようとしてくれる。
この日、てゐが餅を搗かないのは、ただ怠惰な訳じゃない。それも否めないけれど。
彼女は餅を搗かない代わりに、嘘を吐く。悪戯をする。
そうすることで、私が宙を見上げないで済むように。
寒風摩擦をした日、私に氷水を被せたてゐに、悪気が無いと私は信じている。
どれだけ「わぁ」という声がわざとらしくても、あれは悪気なんてなかった。
それは、「次の日は望月だった」から。
風邪を引いて寝込んでいた私は、宙を見上げる事が無かったから。
彼女はあらゆる方法を尽くして、その薄い嘘で満月の日の宙を私から隠す。
その事に気付いた時、その裏にある、私への想いも気付いた。
けれど、何も言わない。
彼女は自分が吐いている薄い嘘に気付かないで欲しいと願っている筈だから。
望月の日は、そんな一日になる事を、皆が知っている。
だから、いつも通りの筈なのに、少しだけその笑顔は作られた様なものになる。
それが、此処という居場所の、満月の日。
私は、彼女たちが好きだ。
師匠が好きだ。恋もしている。
その師匠が寄り添う、姫様も好きだ。
私を好きでいてくれる、てゐも好きだ。
だから、皆が、無条件で幸せな気持ちでいられるはずの。
此処という居場所に幸せが降り注ぐはずの。
この聖夜という日が。
よりにもよって、望月じゃなくたっていいのに。
*
「イナバ」
「はい?」
ツリーの飾りを両手に抱えた私は、姫様から呼びとめられた。
ちなみにどうして当日、しかも夜にツリーを用意しているかなんて、言うまでもなく姫様の我儘である。
更に言うなら、「ツリーになりそうな木を調達しておいて」と頼んでおいたてゐが持ってきたのは、当然の様にモミの木ではなく、竹の木であった。
竹に飾り付けって七夕じゃないんだから!という私の声は師匠の「まぁいいじゃない。門松にもなるし」という言葉に封殺された。
そういう問題じゃないと思うんだけどなぁ…。
「足りないものがあると思うのよ」
「? なんのお話ですか?」
「勿論、くりすます、によ」
これ以上何が足りないのだろう。ツリーもプレゼントも用意したのに。
これで煙突が足りないとか言うのは勘弁してもらいたい。永遠亭を洋館にリフォームするしかない。
ただでさえ餅搗きもあって忙しいのに、てゐはツリーの竹を持ってきてそれきり、どこかに行ってしまったし。
こうやって、姫様はいつもの様に私を困らせようとしている。
師匠はそれに拍車をかけるだろうし、てゐは更に混乱させてくるだろう。
だけど、もう少し夜が更けたら、また姫様は宙を見上げる。師匠と一緒に。
そして、てゐは夜空を薄く覆う様な嘘を吐くのだろう。
それを想像すると、やっぱり私の顔には作られた笑顔が張り付く。
ああ、嫌だな。
どうせなら、それだけで一日が終わってしまう様な、無理難題を押し付けてくれればいいのに。
それに没頭している内に、こんな、私達以外の「幸せの日」なんて終わってしまえばいいのに。
私は、少しだけ嫌そうな顔を「作って」、姫様に言う。
「えー、これ以上何があるんですか?」
「大事なものがあるじゃない」
そんな知った風に言われても…。姫様別にクリスマスに詳しくないじゃないですか…。
「もう、分かりませんよ。仰ってください」
「イナバ、今日は「幸せの日」よ?」
いや、それは知ってますけど…。じゃなきゃ溜息なんて吐きませんよ。
「それが一体なんの関係が…」
そういうと姫様は「もう、分かってないわね」と言う。いや、姫様だって絶対分かってないでしょう。
「今日は「幸せの日」だけれど、「もっと幸せな日」になる事が稀にあるらしいのよ」
「「もっと幸せな日」…?」
「『ほわいとくりすます』と言うらしいわ」
ホワイトクリスマス。聞いた事はあった。
聖夜の上に白い雪が降った時、その「幸せな日」は粉砂糖を振りかけられたように、甘く「もっと幸せな日」になるのだとか。
つまり、姫様が言っているのは…。
「雪を用意しろ、ってことですか…」
「御名答」
確かに今日は寒い。私も姫様の息も、出た傍から白い煙になっているし、手袋をせずに縁側に出れば痛いくらいだ。
しかし、今冬はまだ雪が降っていない。それはとりもなおさず、私が地球の雪を知らないと言う事だ。
そもそも、良く考えれば月の雪も「作られた」ものだ。私は本当の雪を知らない。
そして今日も、今のところ雪が降る気配はない。雲ひとつないからだ。
そう、雲ひとつなく、満月が輝いているのだ。
「そんなの無茶ですよ。そればっかりは運なんですから」
「そこを何とかしなさい、と言ってるのよ? よろしくね」
くるり、と姫様は私の声なんて聞かず、踵を返して行ってしまった。
ツリーの飾りを抱えたまま、私はしばし思案する。
雪を降らせるなんて出来ない。しかしそれでは姫様は満足しないし…。
とりあえずツリーの飾り付けをして、師匠に伺いを立ててみよう、と飾りの入った箱を持ち直した。
*
こん、こんこん、こん。
4回ノックをすると、奥から「どうぞ」という声がしたので、私は師匠のラボに入った。
「どうしたの?ウドンゲ」
師匠は回転椅子を回さないまま、私を迎えた。
私だと分かっているのはノックの回数と仕方による。これを間違えると怖い目に逢う、と師匠に教えられているので、間違った事はない。
普段から割と怖い目に逢っているのに、それ以上なんて想像したくない。
「ちょっとご相談がありまして…」
「良いわよ、何?」
ここで初めて師匠は椅子を回して振り向いた。少しだけ髪が流れる。
うーん、様になっている。素敵だなぁ…。
「ウドンゲ?」
「あっ、はい!」
我にかえる。どうも想い人を前にするというのは余計な事を考えがちだ。
「相談があるのではないのかしら?」
「すみません…」
見惚れてました、という訳にはいかない。私は慌てて切りだす。
「えっと、姫様が雪を見たいと仰られて…」
「ああ、ホワイトクリスマスにしたいのね」
師匠は笑いながら応える。姫様が微笑ましいと言わんばかりの笑顔で。
少しだけ、その笑顔が自分に向かないのが、寂しい。
そんな気持ちを振り払って言う。
「どうしたらいいでしょう?」
「見せてあげたらいいじゃないの」
「いや、私は雪を降らせる力なんて持ってないんですが…」
ウドンゲ、と師匠は私をじっと見る。綺麗な瞳だ。師匠には私の紅い瞳はどんな風に映っているだろうか。
「私は、『見せて』あげたらいいじゃないと言ったのよ。降らせろなんて言ってないわ」
「えっと…」
これ以上言わせると、師匠は「もっと自分の頭で考えなさい」と叱るだろう。それもいい、というのは置いておいて、私は考えを巡らせる。
『見せろ』ってことは…。
「私の『瞳』で、ですか?」
「それ以外何があるの?」
少し辛口な言葉だが、師匠は優しく笑っている。考えて良かった。
「戦争やら弾幕ごっこばかりに能力を使っているから、それ以外の用途に思考回路が及ばなくなるのよ。もっと普段から自分が何を出来るかを考えなさい」
結局少し叱られてしまう。だが、やはり少しだけ嬉しい。
「はい…」
「じゃあ頼んだわよ」
「はい!」
好きな人に、頼まれた私は喜んで応える。
望月の日に自分が必要とされるのが嬉しかった。此処という居場所を師匠や姫様が見てくれているという事だから。
それに何より、雪を見せろと言う事。
それはつまり、私が雪で覆ってしまえば。
そうすればこの望月は隠してしまえるのだ。
そうしている内に、今日という日なんて終わってしまえばいい。
「もっと幸せな日」のままで、この満月の日が過ぎて行けばいいのだ。
私は足取りを軽くして、師匠の部屋を後にした。
*
小一時間後、私は皆を縁側に集めた。いつの間にかてゐも帰ってきている。
夜が更け、一層寒い。しかし、雪が降る気配はなかった。星空の中に、綺麗な円が浮かんでいる。
でも、もうすぐその光は、見えなくなるのだ。
「別の未来」なんて、覆い尽くして、この居場所を幸せで染めるのだから。
三人は寒いのだろう、みんな集まって縁側に腰掛けている。
「えーりん、さむいさむいさむいいいい」
「こちらをどうぞ」
「わっ、カイロじゃない。あったかいー。素敵千万」
「もう一つあるわ。ほら、てゐにも」
「ありがたやー」
…あれ?私のは?
少し待ってみたが、何も出てこなさそうなので、私は諦めた。
…ちょっぴり寒い。
私は切り替えて、声を張る。
「じゃあ行きますよー」
「イナバー、早くしてー。早く中で温まりながら七面鳥食べたいのー」
この野郎。誰だ、『ほわいとくりすますがいいー』とか言ったのは。
それでも、私は笑いながら小さく溜息を「作った」。そうだ、この「作られた」笑顔も、私が「作った」雪で埋めてしまうのだから。
彼女たちが、この「幸せの日」に。
心から笑える様に。
私の「紅い瞳」に力を込めた。
*
「わあ!雪!見て、えーりん!」
「あら、見事なものね」
「少し綺麗過ぎるなぁ…」
三者三様の感想。上手く行った様だ。
宙からは白いきめ細やかな粉雪が降り注いでいる。
そして、月は見えない。頭上は全て白で覆い尽くされていた。
てゐが綺麗過ぎると言ったのは、おそらく私が地球の雪を知らないからだろう。
あの雪は不浄なものなど一切ないよう「作られた」ものだったからだ。
そこは、目をつぶってほしい。それに、これから地球の雪を学んでいくのだから。
そう、皆と一緒に。
「すごい!凄いわイナバ!綺麗!」
姫様は既に縁側を飛び出して、くるくると回るように踊っている。
長い黒髪に白い結晶が落ちて、その上を滑る様に落ちて行く。
「ふふ…」
師匠はそんな姫様を見て微笑んでいる。
もちろん、少し羨ましい。けれど、それ以上に師匠が笑っている事が、嬉しい。
「オツだねぇ…」
てゐはいつの間にか熱燗なんて手にしている。
「今年初の雪見酒だ」なんて言いながら、少しだけその頬を紅く染めて。
皆笑っている。
それを見て、私も笑える。
そうだ、私の居場所は、此処なのだから。
幸せの白で染まった、此処なのだから。
私は、てゐの横、縁側に腰掛けた。
「はい」
てゐは御猪口を私にさし出してくる。しかし、私はそれを断る。
「そ?」と言っててゐはそれ以上勧めては来なかった。
師匠は姫様に引っ張られて、庭で一緒に踊っている。
私はそれを見て微笑んだ。
この雪は、冷たさを感じる事はない。そして、積る事もない。
だから、そこに足跡は残らない。
お二方が二人きりで今まで刻んできた足跡は、ここでは残らない。
私達が、私がいるから。
ここで二人きりなんてさせない。
二人だけの足跡を振り返らせて、後悔しない「別の未来」を思い描く事なんてさせない。
あとは。
あとは、このまま、この夜が終わってくれれば。
私は、瞳に込める力に集中する。
今から夜更けまで力を使い続ける事なんて、到底できない。
でも、どうにか望月が、見上げた先に居なくなるくらいの時間は。
やらなくてはならない。此処という居場所を守る為に。
今日という「幸せの日」を幸せのまま終わらせる為に。
だから、集中する為に縁側に座った。てゐの厚意も断った。
少し、嫌な汗が流れそうなのも分かる。でも、流させはしない。彼女たちに気付かれてしまうから。
皆が、笑ってくれれば、それで良い。
「無理してるでしょ?」
突然、声をかけられた。てゐだ。
「何の話?」
「鈴仙の話以外にある?」
「だから、私の何が?」
「このまま、夜が更ければ良いと思っている。あるいは、望月が傾ぐくらいまでは、少なくとも、と」
見透かされた。でも、こればかりは誤魔化させてもらう。
私の居場所には、あんたの笑顔だって必要なんだから。
「それで?」
「だから、無理をしている。本当はそんな長くは保たない」
「それは随分過小評価じゃない?月に居た頃はこれくらいザラだったわよ」
残念、とてゐは言う。
「嘘吐きは、嘘には敏感だよ。常に、吐かれる可能性の中にいるからね」
自業自得だけどさ、と苦笑いする。
「残念だけど、鈴仙はもう限界。何より、汗が隠せてない」
私は、慌てて自分の身体に目をやる。
そして、気付いた。しまった、と。
「嘘。でもこれで鈴仙が嘘を吐いてることは分かった」
叶わないな…。でも、無理はさせてもらうよ。
「…姫様達には黙っててよ」
「どうしよっかな」
「お願い」
「条件付きならいいよ」
「何?」
てゐは、突然笑った。屈託のない笑顔。
それは、この混じり気のない雪の様な、まっさらな笑顔。
「風邪をひかない事」
「…は?」
そんな事…? 疑問符が私の頭をよぎっている所に、てゐは「ほいっ」と何かを投げつける。
それは、さっきのカイロ。
ああ、あったかい。
「それと、これも」
そう言っててゐはまた御猪口を差し出した。
「あのねぇ、これで飲んだら約束の意味が無いでしょうが」
酔ったら、到底能力なんて保っていられない。
「大丈夫だよ」
「駄目だって」
「心配要らない」
「ちょっと…」
てゐは無理矢理、私に御猪口を持たせて、燗を注いでしまう。
「あんた、酔ってるんじゃないの?」
しかし、てゐは私を無視して言った。
ちょっとだけふくれっ面で。どこまで演技かはわからないけれど。
「私は、言ったんだよ?風邪ひくな、って」
「わかってるわよ、だから」
「だって、濡れたら、風邪をひくじゃない」
「いやだから、わかっ…」
ってるって。そう言おうとしたところで、引っかかった。
『濡れたら』?
それは、どういう事だ?
そう考える前に、気が付いた。
ひらりと待った粉雪が、私の持つ御猪口に入って。
「溶けて」消えた。
どうして、消えるだけじゃなく、溶けた?
なぜ視覚を歪ませて「作った」雪が、温度をもっているのだ?
つまり、それは。
「雪…」
本物の、雪だった。
太腿に当たった結晶が、ひどく冷たい。
だが、心地よかった。
「何を今さら。自分で降らせておいて」
てゐは笑いながら言う。少し、馬鹿にしたような口調で。
「だって、これ、本物の」
「やっぱり、私はこっちの、混じり気のある雪の方がいいねぇ」
私の戸惑いなんて無視して、「ほら、空けなさいよ」と私の御猪口を指す。そして、空けた所に、また足した。
私が、風邪をひかないように。
「どうやって?」
てゐはぐいっと飲みほして、手酌する。
「『幸運にする程度の能力』だからねぇ。鈴仙が幸運になったんじゃない?」
「嘘。あんたのは『人を』じゃない」
お二方は純然たる人間と呼べるかは微妙だし。少なくともてゐがその能力をお二方に使っているのは見た事が無い。
けれど、なんてことなさそうにてゐは言う。
「まぁ、簡単に言えば、別にホワイトクリスマスを望んでるのは、姫様だけじゃないってことだよ」
私は考える。
「幸せの日」を、「もっと幸せな日」にするための条件。
そうだ、今日は誰もが無条件に「幸せの日」だ。
だから、みんなが「もっと幸せな日」を願ったとしても、おかしくはない。
てゐは今日、ツリーを用意したきり姿が見えなかった。
例えば、その間てゐは人里に降りていて。
そこでホワイトクリスマスを望んでいる、たくさんの人々の前に、少しずつ姿を見せて。
その人達が得た幸運が、望む形になったのだとしたら。
「もっと幸せな日」を願う心が、現出したのなら。
風が吹いて、私の頬に白い結晶が当たる。
その雪は、冷たかった。
けれど、何処までも暖かくて、幸せな色をしていた。
私は、御猪口を飲み干す。そして、てゐの手を強く引いた。
「ほら、行くよ」
「わっ」
今度は、棒読みでないてゐの声。慌てて御猪口を置いてついてくる。
宙を見上げた。
満月は見えない。私には、そこにあった「別の未来」を知る事はできない。
でも。
見上げていた視線を、前に移す。
そこには、待っていたかのように姫様と師匠がいて。
そして、笑顔だった。
私達はそこに加わって、一緒に雪を跳ね上げ始める。
此処には、居場所がある。
全部、真っ白の雪に染まった、幸せな居場所が。
薄く積った本当の雪は、私達に足跡をつけられていく。
もう、二人きりの足跡なんかじゃない。
私達が、この「もっと幸せな日」に確かな幸せの跡を。
此処に、つけている。
*
師走。24日。
日めくりカレンダーを一枚、破り捨てて私は溜息を吐いた。
今日はクリスマスという日だ。
巷では聖なる夜らしい。そういう風習の無かった私はきちんと理解した訳ではないが、とにかく「幸せの日」だという話だ。
それがどういう歴史背景があるのかも分からないが、確かに、街往く人間はみんなこの日に向けて、いつもより幸せそうな顔をしていた。
だから、私も今日は「幸せの日」なのだと、ぼんやりと理解していた。
けれど、口元からは白い溜息が出る。
別に、聖なる夜だから沈んでいるわけじゃない。
こんな幸せを象徴したような日に暗い顔をしなくてはならないのなら、もう年がら年中陰鬱な顔だろう。
だから、聖夜のせいじゃない。
じゃあ、どうして、こんな気持ちが上向いてくれないのか。
俯いてるから? 違う。
むしろ、見上げた先に、目を背けたいものがあるから。
よりによって。そう、よりにもよってだ。
よりによって、今日くらい、満月じゃなくたっていいのに。
地上から見える最も美しい円が、痛々しく私の紅い瞳に映る。
私は、溜息をついて、また視線を下に落とした。
今年一番の寒さとなった夜は、その溜息を白く染めた。
*
この永遠亭にいる者は、みんな自由奔放、思うがままだ。
姫様は言わずもがな、師匠だってその姫様を甘やかしっぱなしだし、てゐは私の言う事なんて聞きもしない。
だから私はいつもそんな彼女たちの「被害者」になる。
姫様が突然「寒風摩擦が見たい」なんて言い出して、
それに師匠が「あれは確か夜やるものではなかったかしら」なんてしれっと嘘をついて、
痛いくらい寒くて、唇が紫になって屋敷の中に帰ってきた私に、「お疲れ様」っててゐが渡してくれた飲み物は当然の様にキンキンに冷えた氷水で。
ちなみに、渡そうとしたてゐが「わぁ」って突然転んで、頭から氷水を被った結果、3日風邪で寝込んだ事に悪気はないと信じている。
あの「わぁ」がどれだけ棒読みだったとしても、私は信じている。
信じたい。
そんな風に、私はいつも「被害者」で、彼女たちは楽しそうに笑っている。
だけど、私も笑っている。彼女たちの笑顔が嬉しいから。
そう、此処は、楽しい。
だけど、月に一日。
正確には、29.53日に一日。
私達は、ほんの少しだけ、作られたような笑顔になる。
満天に輝く、望月の日。
その夜だけは、私達の居場所はどこかぎこちないものになる。
それは、彼方に「在った」居場所を思い出させる。
そして、もう二度と戻れない事を思い出させる。
戻りたい訳ではない。
ただ、それは、私達が此処に来る事の無かった、「別の未来」を喚起させるから。
此処を居場所とするまでに、失ってきたものを想起させて。
失わずに済んだ可能性を、嫌でもちらつかせるのだ。
一日は、何も変わらない。
私が「被害者」で、皆が私を指さして笑う。
姫様と、師匠からは少しだけねぎらいの言葉もかけてもらえる事もある。てゐは悪戯しかしないけど。
けれど、知ってる。
この望月の日の夜、一度だけ、姫様は宙を見上げる。
そして、師匠はそんな姫様に寄り添って、少しの間だけ、その手を握る。
それは、縁側で行われる、お二方だけの「儀式」。
何を想っているのか、私は知る事が出来ない。
立ち入る事が出来ない。
ただ、離れる事も近付く事も出来ずに、お二方の邪魔にならない距離で立ちすくんでいる。
それはいつも胸を締め付ける。
それはただ、私の想い人が、その主しか見ていない事、主の手だけを温めている事に対する妬みだけではない。
お二方が眺めている月は、私が見ている月と同じなのに。
お二方がそこに見る「別の未来」は、私が見ているそれと違う。
「別の未来」にあっても、お二方は一緒なのだろう。
そこでも、お二方の手が離れる事はないのだろう。
だが、そこに、私は居ない。
此処にある、私が幸せだと感じている居場所は、「別の未来」にはない。
私の届かない、「別の未来」でも笑っているお二方にすら嫉妬する私は、滑稽だろうか?
どれだけ飛び跳ねても届かない「未来」なら、この望月ごと見えなくなってしまえばいいのに。
そう思う私は、弱いのだろうか。
そして、もう一人。いや一匹。
その望月に、「別の未来」すら見る事の出来ない兎がいる。
地上の兎である彼女は、この日にどれだけの疎外感を感じているのだろう。
この日だけは、自分がこの満月の円の外に居る事を、嫌でも感じさせられるだろうに。
けれど、彼女は笑っている。
いつもの様に私に悪戯をして、嘘を吐いて、指さして笑う。
それは、自分が笑う事で、私達の居場所が此処に在る事、その事実を守る様に。
次の日から私達が帰る居場所を、たった独りで。
そして彼女は、
『この望月ごと見えなくなってしまえばいいのに。』
その私の願いを叶えようとしてくれる。
この日、てゐが餅を搗かないのは、ただ怠惰な訳じゃない。それも否めないけれど。
彼女は餅を搗かない代わりに、嘘を吐く。悪戯をする。
そうすることで、私が宙を見上げないで済むように。
寒風摩擦をした日、私に氷水を被せたてゐに、悪気が無いと私は信じている。
どれだけ「わぁ」という声がわざとらしくても、あれは悪気なんてなかった。
それは、「次の日は望月だった」から。
風邪を引いて寝込んでいた私は、宙を見上げる事が無かったから。
彼女はあらゆる方法を尽くして、その薄い嘘で満月の日の宙を私から隠す。
その事に気付いた時、その裏にある、私への想いも気付いた。
けれど、何も言わない。
彼女は自分が吐いている薄い嘘に気付かないで欲しいと願っている筈だから。
望月の日は、そんな一日になる事を、皆が知っている。
だから、いつも通りの筈なのに、少しだけその笑顔は作られた様なものになる。
それが、此処という居場所の、満月の日。
私は、彼女たちが好きだ。
師匠が好きだ。恋もしている。
その師匠が寄り添う、姫様も好きだ。
私を好きでいてくれる、てゐも好きだ。
だから、皆が、無条件で幸せな気持ちでいられるはずの。
此処という居場所に幸せが降り注ぐはずの。
この聖夜という日が。
よりにもよって、望月じゃなくたっていいのに。
*
「イナバ」
「はい?」
ツリーの飾りを両手に抱えた私は、姫様から呼びとめられた。
ちなみにどうして当日、しかも夜にツリーを用意しているかなんて、言うまでもなく姫様の我儘である。
更に言うなら、「ツリーになりそうな木を調達しておいて」と頼んでおいたてゐが持ってきたのは、当然の様にモミの木ではなく、竹の木であった。
竹に飾り付けって七夕じゃないんだから!という私の声は師匠の「まぁいいじゃない。門松にもなるし」という言葉に封殺された。
そういう問題じゃないと思うんだけどなぁ…。
「足りないものがあると思うのよ」
「? なんのお話ですか?」
「勿論、くりすます、によ」
これ以上何が足りないのだろう。ツリーもプレゼントも用意したのに。
これで煙突が足りないとか言うのは勘弁してもらいたい。永遠亭を洋館にリフォームするしかない。
ただでさえ餅搗きもあって忙しいのに、てゐはツリーの竹を持ってきてそれきり、どこかに行ってしまったし。
こうやって、姫様はいつもの様に私を困らせようとしている。
師匠はそれに拍車をかけるだろうし、てゐは更に混乱させてくるだろう。
だけど、もう少し夜が更けたら、また姫様は宙を見上げる。師匠と一緒に。
そして、てゐは夜空を薄く覆う様な嘘を吐くのだろう。
それを想像すると、やっぱり私の顔には作られた笑顔が張り付く。
ああ、嫌だな。
どうせなら、それだけで一日が終わってしまう様な、無理難題を押し付けてくれればいいのに。
それに没頭している内に、こんな、私達以外の「幸せの日」なんて終わってしまえばいいのに。
私は、少しだけ嫌そうな顔を「作って」、姫様に言う。
「えー、これ以上何があるんですか?」
「大事なものがあるじゃない」
そんな知った風に言われても…。姫様別にクリスマスに詳しくないじゃないですか…。
「もう、分かりませんよ。仰ってください」
「イナバ、今日は「幸せの日」よ?」
いや、それは知ってますけど…。じゃなきゃ溜息なんて吐きませんよ。
「それが一体なんの関係が…」
そういうと姫様は「もう、分かってないわね」と言う。いや、姫様だって絶対分かってないでしょう。
「今日は「幸せの日」だけれど、「もっと幸せな日」になる事が稀にあるらしいのよ」
「「もっと幸せな日」…?」
「『ほわいとくりすます』と言うらしいわ」
ホワイトクリスマス。聞いた事はあった。
聖夜の上に白い雪が降った時、その「幸せな日」は粉砂糖を振りかけられたように、甘く「もっと幸せな日」になるのだとか。
つまり、姫様が言っているのは…。
「雪を用意しろ、ってことですか…」
「御名答」
確かに今日は寒い。私も姫様の息も、出た傍から白い煙になっているし、手袋をせずに縁側に出れば痛いくらいだ。
しかし、今冬はまだ雪が降っていない。それはとりもなおさず、私が地球の雪を知らないと言う事だ。
そもそも、良く考えれば月の雪も「作られた」ものだ。私は本当の雪を知らない。
そして今日も、今のところ雪が降る気配はない。雲ひとつないからだ。
そう、雲ひとつなく、満月が輝いているのだ。
「そんなの無茶ですよ。そればっかりは運なんですから」
「そこを何とかしなさい、と言ってるのよ? よろしくね」
くるり、と姫様は私の声なんて聞かず、踵を返して行ってしまった。
ツリーの飾りを抱えたまま、私はしばし思案する。
雪を降らせるなんて出来ない。しかしそれでは姫様は満足しないし…。
とりあえずツリーの飾り付けをして、師匠に伺いを立ててみよう、と飾りの入った箱を持ち直した。
*
こん、こんこん、こん。
4回ノックをすると、奥から「どうぞ」という声がしたので、私は師匠のラボに入った。
「どうしたの?ウドンゲ」
師匠は回転椅子を回さないまま、私を迎えた。
私だと分かっているのはノックの回数と仕方による。これを間違えると怖い目に逢う、と師匠に教えられているので、間違った事はない。
普段から割と怖い目に逢っているのに、それ以上なんて想像したくない。
「ちょっとご相談がありまして…」
「良いわよ、何?」
ここで初めて師匠は椅子を回して振り向いた。少しだけ髪が流れる。
うーん、様になっている。素敵だなぁ…。
「ウドンゲ?」
「あっ、はい!」
我にかえる。どうも想い人を前にするというのは余計な事を考えがちだ。
「相談があるのではないのかしら?」
「すみません…」
見惚れてました、という訳にはいかない。私は慌てて切りだす。
「えっと、姫様が雪を見たいと仰られて…」
「ああ、ホワイトクリスマスにしたいのね」
師匠は笑いながら応える。姫様が微笑ましいと言わんばかりの笑顔で。
少しだけ、その笑顔が自分に向かないのが、寂しい。
そんな気持ちを振り払って言う。
「どうしたらいいでしょう?」
「見せてあげたらいいじゃないの」
「いや、私は雪を降らせる力なんて持ってないんですが…」
ウドンゲ、と師匠は私をじっと見る。綺麗な瞳だ。師匠には私の紅い瞳はどんな風に映っているだろうか。
「私は、『見せて』あげたらいいじゃないと言ったのよ。降らせろなんて言ってないわ」
「えっと…」
これ以上言わせると、師匠は「もっと自分の頭で考えなさい」と叱るだろう。それもいい、というのは置いておいて、私は考えを巡らせる。
『見せろ』ってことは…。
「私の『瞳』で、ですか?」
「それ以外何があるの?」
少し辛口な言葉だが、師匠は優しく笑っている。考えて良かった。
「戦争やら弾幕ごっこばかりに能力を使っているから、それ以外の用途に思考回路が及ばなくなるのよ。もっと普段から自分が何を出来るかを考えなさい」
結局少し叱られてしまう。だが、やはり少しだけ嬉しい。
「はい…」
「じゃあ頼んだわよ」
「はい!」
好きな人に、頼まれた私は喜んで応える。
望月の日に自分が必要とされるのが嬉しかった。此処という居場所を師匠や姫様が見てくれているという事だから。
それに何より、雪を見せろと言う事。
それはつまり、私が雪で覆ってしまえば。
そうすればこの望月は隠してしまえるのだ。
そうしている内に、今日という日なんて終わってしまえばいい。
「もっと幸せな日」のままで、この満月の日が過ぎて行けばいいのだ。
私は足取りを軽くして、師匠の部屋を後にした。
*
小一時間後、私は皆を縁側に集めた。いつの間にかてゐも帰ってきている。
夜が更け、一層寒い。しかし、雪が降る気配はなかった。星空の中に、綺麗な円が浮かんでいる。
でも、もうすぐその光は、見えなくなるのだ。
「別の未来」なんて、覆い尽くして、この居場所を幸せで染めるのだから。
三人は寒いのだろう、みんな集まって縁側に腰掛けている。
「えーりん、さむいさむいさむいいいい」
「こちらをどうぞ」
「わっ、カイロじゃない。あったかいー。素敵千万」
「もう一つあるわ。ほら、てゐにも」
「ありがたやー」
…あれ?私のは?
少し待ってみたが、何も出てこなさそうなので、私は諦めた。
…ちょっぴり寒い。
私は切り替えて、声を張る。
「じゃあ行きますよー」
「イナバー、早くしてー。早く中で温まりながら七面鳥食べたいのー」
この野郎。誰だ、『ほわいとくりすますがいいー』とか言ったのは。
それでも、私は笑いながら小さく溜息を「作った」。そうだ、この「作られた」笑顔も、私が「作った」雪で埋めてしまうのだから。
彼女たちが、この「幸せの日」に。
心から笑える様に。
私の「紅い瞳」に力を込めた。
*
「わあ!雪!見て、えーりん!」
「あら、見事なものね」
「少し綺麗過ぎるなぁ…」
三者三様の感想。上手く行った様だ。
宙からは白いきめ細やかな粉雪が降り注いでいる。
そして、月は見えない。頭上は全て白で覆い尽くされていた。
てゐが綺麗過ぎると言ったのは、おそらく私が地球の雪を知らないからだろう。
あの雪は不浄なものなど一切ないよう「作られた」ものだったからだ。
そこは、目をつぶってほしい。それに、これから地球の雪を学んでいくのだから。
そう、皆と一緒に。
「すごい!凄いわイナバ!綺麗!」
姫様は既に縁側を飛び出して、くるくると回るように踊っている。
長い黒髪に白い結晶が落ちて、その上を滑る様に落ちて行く。
「ふふ…」
師匠はそんな姫様を見て微笑んでいる。
もちろん、少し羨ましい。けれど、それ以上に師匠が笑っている事が、嬉しい。
「オツだねぇ…」
てゐはいつの間にか熱燗なんて手にしている。
「今年初の雪見酒だ」なんて言いながら、少しだけその頬を紅く染めて。
皆笑っている。
それを見て、私も笑える。
そうだ、私の居場所は、此処なのだから。
幸せの白で染まった、此処なのだから。
私は、てゐの横、縁側に腰掛けた。
「はい」
てゐは御猪口を私にさし出してくる。しかし、私はそれを断る。
「そ?」と言っててゐはそれ以上勧めては来なかった。
師匠は姫様に引っ張られて、庭で一緒に踊っている。
私はそれを見て微笑んだ。
この雪は、冷たさを感じる事はない。そして、積る事もない。
だから、そこに足跡は残らない。
お二方が二人きりで今まで刻んできた足跡は、ここでは残らない。
私達が、私がいるから。
ここで二人きりなんてさせない。
二人だけの足跡を振り返らせて、後悔しない「別の未来」を思い描く事なんてさせない。
あとは。
あとは、このまま、この夜が終わってくれれば。
私は、瞳に込める力に集中する。
今から夜更けまで力を使い続ける事なんて、到底できない。
でも、どうにか望月が、見上げた先に居なくなるくらいの時間は。
やらなくてはならない。此処という居場所を守る為に。
今日という「幸せの日」を幸せのまま終わらせる為に。
だから、集中する為に縁側に座った。てゐの厚意も断った。
少し、嫌な汗が流れそうなのも分かる。でも、流させはしない。彼女たちに気付かれてしまうから。
皆が、笑ってくれれば、それで良い。
「無理してるでしょ?」
突然、声をかけられた。てゐだ。
「何の話?」
「鈴仙の話以外にある?」
「だから、私の何が?」
「このまま、夜が更ければ良いと思っている。あるいは、望月が傾ぐくらいまでは、少なくとも、と」
見透かされた。でも、こればかりは誤魔化させてもらう。
私の居場所には、あんたの笑顔だって必要なんだから。
「それで?」
「だから、無理をしている。本当はそんな長くは保たない」
「それは随分過小評価じゃない?月に居た頃はこれくらいザラだったわよ」
残念、とてゐは言う。
「嘘吐きは、嘘には敏感だよ。常に、吐かれる可能性の中にいるからね」
自業自得だけどさ、と苦笑いする。
「残念だけど、鈴仙はもう限界。何より、汗が隠せてない」
私は、慌てて自分の身体に目をやる。
そして、気付いた。しまった、と。
「嘘。でもこれで鈴仙が嘘を吐いてることは分かった」
叶わないな…。でも、無理はさせてもらうよ。
「…姫様達には黙っててよ」
「どうしよっかな」
「お願い」
「条件付きならいいよ」
「何?」
てゐは、突然笑った。屈託のない笑顔。
それは、この混じり気のない雪の様な、まっさらな笑顔。
「風邪をひかない事」
「…は?」
そんな事…? 疑問符が私の頭をよぎっている所に、てゐは「ほいっ」と何かを投げつける。
それは、さっきのカイロ。
ああ、あったかい。
「それと、これも」
そう言っててゐはまた御猪口を差し出した。
「あのねぇ、これで飲んだら約束の意味が無いでしょうが」
酔ったら、到底能力なんて保っていられない。
「大丈夫だよ」
「駄目だって」
「心配要らない」
「ちょっと…」
てゐは無理矢理、私に御猪口を持たせて、燗を注いでしまう。
「あんた、酔ってるんじゃないの?」
しかし、てゐは私を無視して言った。
ちょっとだけふくれっ面で。どこまで演技かはわからないけれど。
「私は、言ったんだよ?風邪ひくな、って」
「わかってるわよ、だから」
「だって、濡れたら、風邪をひくじゃない」
「いやだから、わかっ…」
ってるって。そう言おうとしたところで、引っかかった。
『濡れたら』?
それは、どういう事だ?
そう考える前に、気が付いた。
ひらりと待った粉雪が、私の持つ御猪口に入って。
「溶けて」消えた。
どうして、消えるだけじゃなく、溶けた?
なぜ視覚を歪ませて「作った」雪が、温度をもっているのだ?
つまり、それは。
「雪…」
本物の、雪だった。
太腿に当たった結晶が、ひどく冷たい。
だが、心地よかった。
「何を今さら。自分で降らせておいて」
てゐは笑いながら言う。少し、馬鹿にしたような口調で。
「だって、これ、本物の」
「やっぱり、私はこっちの、混じり気のある雪の方がいいねぇ」
私の戸惑いなんて無視して、「ほら、空けなさいよ」と私の御猪口を指す。そして、空けた所に、また足した。
私が、風邪をひかないように。
「どうやって?」
てゐはぐいっと飲みほして、手酌する。
「『幸運にする程度の能力』だからねぇ。鈴仙が幸運になったんじゃない?」
「嘘。あんたのは『人を』じゃない」
お二方は純然たる人間と呼べるかは微妙だし。少なくともてゐがその能力をお二方に使っているのは見た事が無い。
けれど、なんてことなさそうにてゐは言う。
「まぁ、簡単に言えば、別にホワイトクリスマスを望んでるのは、姫様だけじゃないってことだよ」
私は考える。
「幸せの日」を、「もっと幸せな日」にするための条件。
そうだ、今日は誰もが無条件に「幸せの日」だ。
だから、みんなが「もっと幸せな日」を願ったとしても、おかしくはない。
てゐは今日、ツリーを用意したきり姿が見えなかった。
例えば、その間てゐは人里に降りていて。
そこでホワイトクリスマスを望んでいる、たくさんの人々の前に、少しずつ姿を見せて。
その人達が得た幸運が、望む形になったのだとしたら。
「もっと幸せな日」を願う心が、現出したのなら。
風が吹いて、私の頬に白い結晶が当たる。
その雪は、冷たかった。
けれど、何処までも暖かくて、幸せな色をしていた。
私は、御猪口を飲み干す。そして、てゐの手を強く引いた。
「ほら、行くよ」
「わっ」
今度は、棒読みでないてゐの声。慌てて御猪口を置いてついてくる。
宙を見上げた。
満月は見えない。私には、そこにあった「別の未来」を知る事はできない。
でも。
見上げていた視線を、前に移す。
そこには、待っていたかのように姫様と師匠がいて。
そして、笑顔だった。
私達はそこに加わって、一緒に雪を跳ね上げ始める。
此処には、居場所がある。
全部、真っ白の雪に染まった、幸せな居場所が。
薄く積った本当の雪は、私達に足跡をつけられていく。
もう、二人きりの足跡なんかじゃない。
私達が、この「もっと幸せな日」に確かな幸せの跡を。
此処に、つけている。