「ふぇくしゅっ!」
刷られたばかりの新聞を最後の定期購読者に手渡した直後、私は不意にくしゃみをした。
「人気者は辛いわね……」
「思いっきり手と服にかかったんだが」
「あら、世が世ならプレミアがついたわよ?」
本当に‘不意‘だったので、ガンをつけてくるのは止めて頂戴。
……。
「本音と建前が逆だった!?」
「相変わらずお茶目さんだな。どうれ、鼻をかんでやろう」
「や、それでしちゃうとガサガサに……と言うか、渡したばかりの新聞じゃないの!?」
私の非難など何処吹く風と言った様子で迫ってくる。
むしろ、推進剤になってしまったような。
にっこにこしてやがる。
「はっはっは、今年一番の大活躍だ」
‘千年天狗‘の私、射命丸文に、斯様に無体な仕打ちをしてくるのは、腐れ縁の‘スキマの式‘こと八雲藍だった。
暫しの攻防。
結果的に言うと、私の勝ちだった。
‘避ける‘一点の能力なら、そうそう引けを取りはしない。
「風邪でも患ったか?」
当たらないと見切りを付け手を止めた藍が、世間話のように聞いてくる。
どうやったのかは知らないが、新聞は綺麗なままだった。
器用さは彼女の方が上。
私は、手を振り軽く笑う。
「冗談。こちとら、泣く子も濡れる射命丸文様よ?」
「上も下もぐちゃぐちゃか……」
「その返しはどうかと思う」
此方の発言も大概だったのだが。
――なんて省みていると、藍がいきなり肩を掴んできた。
「どうした文!? お前があの程度で引くなんて!」
「貴女が私をどう見ているのか、よくわかったわ」
「ナチュラル・ボーン・ビッチ」
間違っているとは思わないが、いちいち言わなくても宜しい。
……ふむ。
「新聞を配っていると言うことは、徹夜明けだろう?」
「そうね。少しばかり疲れているのかもしれないわ」
「提出物は期日前に仕上げろとあれほど」
聞こえない聞こえない。
両耳に手を当て頭を振ると、何故だか何時も以上にくらりとした。
「あ、あれ」
バランスを崩す。
倒れると思った瞬間、背に腕が回された。
力強いと言うよりも、しなやかと感じさせる柔らかさ。
見上げた藍が、面喰ったような顔をしていた。
「文、本当に休んだ方が良いんじゃないか?」
「かもしんない。ま、今からオフだから」
「なんなら、此処で――」
一泊、とでも続けるつもりだったんだろう。
しかし、告げられるよりも早く、私は藍から身をひきはがした。
心配させたくないとか、そう言う殊勝な心がけではない。
単に弱さを見せたくないと言うちっぽけなプライドだ。
「言ったでしょ? 貴女と同じく、今日からオフなの」
「それは聞いたが……私は言ったか?」
「此処はマヨヒガじゃないの」
「仕事中ならいる筈がない、と言う推測か」
「そーそ。ね、頭は回っているでしょう? 変に気遣うのは止めて頂戴」
しかし――眉を顰めさせる昔馴染みに、両肩を竦め、続ける。
「でもまぁ、万が一にも風邪を引いちゃってるんだったら、貴女の可愛い子猫ちゃんと汗をかく全身運動を」
‘どむっ‘。
「藍様、あやや、お腹が痛い、切実に痛い……」
「はっはっは、それは幻腹痛だ」
「あるわよ!?」
……あるよね?
くびれあるウェストは、どうにかくっついたままだった。
確認していると、藍が踵を返す音が聞こえる。
そうそう、それでいい。
密かに頷きつつ振り返り、羽を広げた。
「先の一撃な。
強くはしたが、速くはない。
普段のお前なら、どうと言うこともなくかわすだろう」
いや、強くしないでよ。
「へーへ、わかりやしたよ」――軽口の代わりに短く返し、私は空へと舞い上がった。
とは言え、久々の大型休暇だ。
初日に何もしないのは味気がないのもいいところ。
熱い湯に浸かりながら、熱燗をきゅっとする程度の贅沢はあってしかるべきだろう。
いっそのこと、風呂一杯に酒を満たし、セルフ酒池肉林はどうだろう。
いいかもしんない。
――浮かんだ閃きに涎を溜めつつ、私は家路を急ぐのだった。
明けて、翌日。
窓から零れる陽の光が小憎たらしいほど暖かい。
溜めこんだ家事を放棄して、カップ酒片手に空を散策するのに良い日和だ。
しかし、甚だ遺憾なことに、私は布団から抜け出せずにいた。
勘違いしないで頂きたい。
二日酔いで寝込むなどと言うか弱い体はしちゃいない。
たかが日本酒の一樽二樽空けれなくて、何が天狗か、何が妖怪か。
尤も、酔ったフリをして胸を押し当てつつ上目遣いに見上げる技ならば――「ブフ、ベフ……っ」
咳が出る。
痰が絡まる。
鼻水も流れる。
頭が痛い。
関節だって痛い。
熱もありそうなもんだが、何故だか私は震えている。
はい、と言う訳で風邪引きました。
いや、これでも報道を生業とする身。
言葉は正確に使おうじゃないか。
風邪が悪化しました。
ついでに付け加えると、一般に『風邪』と一くくりにされる症状は、医療機関等では『風邪症候群』と呼ばれ「ブホゥっ、ズハァー……っ」
あー……一人芝居も大概にしておこう。
粗方の症状は解っているが、一応、調べられる範囲は把握しておきたい。
無造作に枕元に置かれていた体温計に手を伸ばす。
全く覚えはないが、寝付く前にも計っていたのだろう。
我が家の体温計は、幻想郷で広く普及している水銀式ではなく、サーミスタ式と呼ばれる電子式のものだった。ぱくっ。
河童の河城にとりが、守矢神社で使われている物を参考に作りあげたそうな。
見よう見まねで作るのもさることながら、彼女の凄さは、更に改良を図ったことにあるだろう。
神社の物で計れるのは、人間の正常な体温までだ。
概ね、三十二度から四十二度までだと聞く。
しかし、当然と言えば当然だが、人間と妖怪の体温は大きく違う。
そも『妖怪』と一口に言えど、そこから様々な種族に分かれ、基本的な尺度は存在しない。
ともかく、だから、にとりが施した改良は、計れる体温の幅を広げたことだった。
因みに、私たち鴉天狗の平均体温は人間より少し高く、約三十八度ほどである。
元となった鴉が四十度だからか、平素から浴びるように飲む酒の所為か。
……なんとなく、後者だろうか。
‘ピピッ‘。
どうでもいいことを思い出していると、計測を終えたと知らせる音が鳴った。
風邪を引いているかもってあやふやな時は、計らないことも多いんだけどな。
きっちりとした数字を見て、余計に体調が悪くなっちゃうこともあるかもしれないし。
だけど、むしろ今は逆。確実に風邪は引いているんだけど、微熱くらいなら気力が戻ってくるだろう。
どれどれ。
『88.8』
ちゃんと計れなかったようだ。
んもー、にとりンも肝心なところで抜けているんだから。
ジワリと額に浮かぶ脂汗を拭いつつ、私は体温計を容器に戻した。
……いや、いくらなんでも今の数字はあり得ないでしょ!?
そもそも風邪の時に体温が上がるのは、体内のウイルスを倒すためだ。
医者の中には微熱ならば解熱剤を処方しない者もいると聞く。
なまじっか熱を下げると、長引いてしまうからだ。
だからと言って、『88.8』はない。
平均の倍以上って明らかにおかしいでしょう?
確かに私たち妖怪は人間よりも体力的に優れているし、免疫力だって高「ふぇくしゅ、ブハ……っ」
お薬、飲も。
戸棚に常備薬があったはずだ。
常備薬ゆえに高い解熱作用は見込めないが、飲まないよりはましだろう。
何か食べてから……あ、無理、作る作れないの前に、食欲が湧かない。ついでに色欲も湧かない。
這うようにして――否、這って、私は戸棚まで辿り着いた。
押し倒す勢いで箪笥にもたれかかり、どうにかまだ動く右手で戸棚を開ける。
顎を縁に乗せると、舞った埃が顔を覆った。
どんだけ開けてなかったんだ私。
不意に、嫌な予感が全身を走る。
風邪の症状だろうと無理やり押し流し、粉剤が入っている袋を手に取った。
保存場所は戸棚であり、高温多湿は避けられている。
ご丁寧に受け取った日付も記されていた。
是は何時だったか。確か、大結界が出来た頃だ。明治二十年前後で、あかんやん……っ!
一般的に風邪薬の使用期限は、未開封の状態なら凡そ三年ほどだ。
それ以上、つまり、期限を過ぎてしまうと、成分が変質してしまう恐れがある。
効果が失われるだけならまだしも、悪質な副作用が出て来ないとも限らない。
ただでさえ体調を崩しており、抵抗力のない我が体。
眠気や口渇など起こる可能性の高い副作用のみならず、腹痛まで招きかねない。
そうなると、手洗いと恋人同士と言う考えるだに恐ろしい状況に陥ってしまう。
脱水症状も怖いしね。
何より――「そんな尾籠な状態に、幻想郷の空駆ける美少女、射命丸文ちゃんがなる訳にはぐほっ、ふへぁ……」
体、主に口が言うことを聞かない。
いや、待てよ。
……。
「そんな尾籠な状態に、幻想郷の空駆ける美女、射命丸文さんがなる訳にはいかないものね」
なるほど、『美少女』がNGワードだったのか。
喧嘩売ってるなこの口。
他も試してみよう。
いやいや、流石に幼女はないか。と言うより、馬鹿なことやってないで戻ろう。
再び畳みを這って布団に潜り込み、治まる気配が一向に窺えない頭痛に苛まれつつ、どうするべきかを考えた。
その一、このまま寝続ける。
消極的なことこの上ないが、悪くはない案だ。
食欲が湧かない以上、体力を回復させるには睡眠を取るほかない。
しかし、当然だが、症状は治まらないし、最悪、悪化してしまかもしれない。
その二、八意永琳に診てもらう。
医者に診てもらうのが一番手っ取り早い。
短期間ならば、入院も受け付けてくれると聞く。
だが、正直永遠亭まで飛ぶ体力があるとは自身思えない。
その三、黒谷ヤマメに治してもらう。
風邪をはじめとした感染症を『治す』ことにかけては、恐らく先の薬師よりも彼女の方が上だろう。
永琳もヤマメの能力を高く評価していて、時には患者を振ることもあるらしい。
だけれど、その二と同じ理由で実行に移すのは難しい。
その四、誰かに看病を頼む。
これまでのもので最も魅力的な案だ。
今なら身も心も任せることになり、千年天狗のこの私を落とすチャンス!
だがしかし、前日に散々『暫くはオフ』とふれ回っているので、来客の予定なんてある訳がなかった。
あれ、割と絶望的な状況じゃないか……?
その二と三は体力的な問題から却下だ。
現状を考えると、その一も心もとない。
その四は、腐れ縁の藍が愛する式と共に過ごしていることを思うと、来訪の可能性は限りなく低い。
……詰んでない?
家族と住んでいるならまだしも、私は一人暮らしだ。
その上、天狗社会の報道部に所属しているとは言え、顔を出すことは余りない。
つまりどういうことかと言うと、このまま病に倒れて人知れず消えていく――洒落になってねぇ……!
『幻想郷に押し寄せる高齢化の波。そして、孤独死』……あっ!
そうだ、ぶんぶん丸を喚ぼう。
平素なら傍にいる彼女も、私のオフに伴って休みを与えていた。
突然の招集を申し訳なく思いはするが、状況が状況だけに四の五の言っていられない。
少しずつ、だが確実に削られている我が体力では、恐らく是がラストアクションとなるだろう。
気力を振り絞って立ち上がり、ぶんぶん丸を喚ぶために窓辺へと進んだ。
窓を開く――
‘トントンっ‘
――直前、玄関を叩く音が頭の中で木霊した。凄ぇ痛い。
まさか気配を察知して、ぶんぶん丸が来てくれたのだろうか。
だとすれば有り難いことこの上ない。
極度の緊張が安堵へと切り替わり、私の膝は意識することなく折れた。
もう歩く必要はない、そう、あの呼び声に応えれば良いだけなのだから。
……呼び声?
ぶんぶん丸は人語を話せなかったはずだ。
しかし、今玄関から聞こえてくる声は、明らかに私の名を呼んでいた。
こんな感じ。
「文様、文様!? いるのですかいないのですか、いないのなら返事をしてください!」
「や、あの、無理だよね? と言うか、『文様』……?」
「いやあのその、偶には気分転換に!?」
やってきたのは、白狼天狗の犬走椛と鴉天狗の姫海棠はたてのようだ。
あー……。
足に気合を込め、両頬を掌で打つ。
ぼさぼさの髪に手櫛を入れ、緩めていたシャツのボタンを占める。
出そうになる咳を意志の力で断ち切って、深呼吸の後、いざ出陣――。
「はいはい、清く正しい射命丸は此処にいますよ」
「文……じゃない、射命丸様、お身体も清く正しいのですか!?」
「言いたいことは解らないでもないですが、その表現はどうかと思います。えぇっと、フタリとも、どうして?」
「なんか話を聞いた時から、こんな感じなのよね」
「話? 誰に何を聞いたの?」
「橙さんに行って風邪から夜雀屋台だって……! だから、お見舞いに!」
「なるほど、藍経由で伝わった、と」
「なんだ、頭も回ってるみたいだし、意外と大丈夫そうじゃない」
「新聞配り終わって気が抜けたんでしょう。少し休めば元通りよ」
「こ、これ、お見舞いの品です!」
「あら、可愛い花ね。パンジーかしら。横になっている時、物思いにふけるのも悪くはないわ」
「風邪の時は食べるのが一番! 屋台でがっつり蒲焼貰ってきたよ!」
「まだ十分温かいわね。有り難いけど、ったく、椛もあんたも、私を何だと思っているの?」
「――私は射命丸文。最速の妖怪。風邪だろうがなんだろうが、振り切って見せるわよ」
「文様……」
「なんか時々無駄に格好いいわね」
「あっはっは。ま、フタリにうつす訳にもいかないし、今日の所は引っ込んでおくわ」
「――ありがとうね、椛、はたて」
頬を上気させ、両手を組む椛。
椛の後ろ襟首を掴み、引っ張っていくはたて。
そんなフタリに片手を振り、見送ってから、玄関を閉じた。
ついぞ使った覚えのない花瓶を押入れから引っ張り出し、花を挿す。
蒲焼には、ご丁寧にも食べ切れなかった時の保存法が添付されていたので、指示に従った。
そして、私は布団に崩れ落ちる。も、無理。
あのね椛、実家暮らしの貴女は知らないでしょうけれど、お花さんは何にもしてくれないのよ。
はたて、あんたは比較的若いから、体力ない時でもがつがつ食べられるのでしょうけど、齢千年越えるときっついんだから。
そう言わなかったのと助けを求めなかったのは、形は違えどそれなりに慕ってくれているフタリに弱みを見せたくないと思った、ちっぽけなプライドのためだ。
かくして私の瞳に映るのは、見知らぬ天井だった。
だって、蜉蝣のように揺れたり、ましてや回ったりする天井なんて私の記憶にはない。
お城のような場所にある回る布団なら知ってるけどね。
意外に思われるかもしれないが、使ったことはない。
……なに真面目に本当のことを言っているんだろう、これはますます宜しくない状態だ。
回る、回る、回る。
回る、まわる、まわル。
まわル、マワる、マワ、ル……。
ふぅむ、今のが俗に言う走馬灯ってやつね。いやだから、使ったことはないんだけど。
「んぁ、何の話だい?」
出会茶屋にある回転布団。似たようなものが外にもあるって、山の神様が言ってた。
「下世話な話だねぇ。詳しく聞こうか」
とは言え、その後に聞かされたのは惚気なんだけどね。途中で乾の神様に止められたし。
「話してたのは坤の方か。『死は不浄』だとか言ってたけど、あの神さんも大概じゃないか」
いやいや、愛を語ったり愛を放ったりするのは生き物としてあるべき姿よ?
「振っておいてなんだけど、絶好調じゃないか、射命丸文」
やー、何故だか体が楽になったのよねー。意識もクリアってもんよ。
「うんまぁ、体ないしね」
おやほんとだ、薄く透けているような。服も何時もと違うような。……え?
「『死人に口なし』って言うけど、時々あんたみたいに例外的な奴もいるもんよ。
ま、そんなことはどうでも宜しい。
ささ、続き続き」
いや、宜しくはないような……。
「そもそも彼女は人じゃありませんしね。ところで、続きとは?」
「あはは、自分が縁遠い分、惚れた腫れたの話ってぅわおう四季様!?」
「偶に様子を見に来れば……! しかも、縁遠いって、馬鹿、小町の馬鹿!」
「きゃん! さぼってたのはある意味通常運航で、痛い! 心持普段より痛い!?」
「悔悟の棒による痛みはそのまま貴女の罪の重さです! 貴女はそう、乙女心を解らなさすぎる!」
説明があっているかどうかはともかく、映姫様は両の拳で小町さんを叩いております。
擬音で表現するならば、ぽかぽか、と言ったところ。
御馳走さまです。
どうやら此処は三途の川らしい。
……いやー! あややおうちかえゆー!?
「こほんっ。射命丸文、『かえゆー』じゃありません」
映姫様は、暫く小町さんと乳繰り合っていればいいのです。
「私もそう思……んぅっ、んぅ!
聞こえませんか、射命丸文?
貴女を待つあの音が」
は、音?
「聞こえますか? 聞こえるでしょう? 遥かな轟」
闇のぉ中ぁ、魂(こころ)揺さぶるぅ……。
映姫様と言えど、唐突にネタを入れるのはどうかと思います!?
って、嘘、ほんとに聞こえる! 俎板の上でザクザクと何かを切る音が聞こえる!
「あれが地獄の一丁目」
裁判すら受けていませんが!?
「白になるとお思いで?」
ぐぅの音も出ません。
じゃない、私にも色々思い残したことが!
たーすーけーてー、椛ぃ、はたてぇ、天魔様ーっ!?
「震えるな、瞳こらせよ、復活の時」
いーやー!
ごぜーん!
「――や!」
「らぁーん!!」
「あや! 文!?」
……へ?
まず、声が出たことに驚いた。
続けて、聞こえてきた呼び声に目を白黒とさせる。
ぼやけた視界に映るのは、不安げな表情を浮かべる昔馴染みの顔だった。
八雲藍が此処にいる。
「藍? え、あれ、なんで? 映姫様と小町さんは……? んっ」
訳が解らない。
まくし立てる私の額に、藍が布を当ててくる。
何時もなら冷たすぎると感じるだろう濡れた布が、今はとても心地よい。
次いで、指が下瞼をなぞる。視界が少し晴れた。
「どんな夢を見ていたんだか。
……いや、ひょっとすると、私の所為かも知れんな。
寝汗が酷かったから、体を拭いて、着替えさせてもらったぞ」
言われて気付いたが、確かに普段着から寝巻に替っていた。
「ありがと」
かすれた声で返すと、小さく頷かれる。
「あぁ。
それと、何故私が此処にいるか、だったな。
思う存分橙と戯れる予定だったが、生憎橙には屋台で遊ぶと言う先約があってなちっくしょう!」
そう言えば、椛とはたてが『橙に聞いた』と言っていたっけ。
「……そっか。で、様子を見に来てくれたんだ」
「その通りだが……迷惑だったか?」
「うぅん、助かる」
弱さを見せたくないと思ったのは本心だったが、こうなれば致し方なし。
裸身を見られてもどうとも思わない程度の昔馴染みに、少しばかり迷惑をかけよう。
実際に、服を替えてもらったことで、額を冷やしてもらったことで、気分は頗る良くなっている。
このまま寝ていれば、次第に体調も改善するだろう。
「しかし、お前ほどの妖怪が風邪で動けんとはな。少し情けないぞ」
「うん」
「どうせ、昨日帰ってから、養生もせず馬鹿なことでもやってたんだろう」
「うん」
「……どうもやりにくいな」
うん?
問うよりも先に、布団を頭の先まで被せられた。
小さな声を出し立ち上がり、一歩、二歩と藍が遠ざかる。
向かう方向が玄関ではないことに安堵を覚え――そんな自身に、苦笑した。
布団を両手でずらし、藍の歩んだ先、台所に目を向ける。
ザクザクと何かを切る音が耳に響く。
夢の中の音はこれだったのか。
芳しいだろう味噌の匂いを嗅げないことが口惜しい。
「迷惑ついでに、粥と味噌汁も作っているぞ。
買ってきた栄養剤も、飲めるようになったら飲んでくれ。
薬は市販の葛根湯を持ってきたが…素人目で見ても、麻黄湯か銀翹散の方が良かったかな」
背に視線を感じたのか、淡々と藍。
その口ぶりが照れ隠しのように思えて、私は小さく笑った。
「何が可笑しい?」
「なんだか、可愛いなって」
「あのな。……今のお前に言われたくはない」
顔を覗かせる私に振り返り、呆れを滲ませ呟く。
「ありがと。
でも、嬉しくはないな。
今は普段の私じゃないんですもの」
応えると、盆に粥を乗せ戻ってきた藍が、まるで心の底から絞り出すように、言う。
「やはり、やりにくい。頼むからさっさと調子を戻してくれ」
そのために、彼女が蓮華を向けてくる。
それゆえに、私は粥を口にする。
――そして、体に少しだけ元気が戻った。
「……しかし、お前も運が悪いな」
「ん?」
「まぁ、自業自得だから仕方ないのだが」
「あー」
「ともかく、自主的とは言え大型休暇のつもりだったんだろう?」
なるほど、そんな折に風邪を引くとは、と言うことか。
口の中に入った粥をごくりと嚥下し、私は小さく首を横に振る。
「何言ってるのよ。
仕事やってる時に倒れる方がよっぽど嫌。
休暇中に風邪を引けたのは、不幸中の幸いってやつね」
そんな返答を予想してなかったのだろう、藍が一瞬、固まった。
「こんな時に恰好を付けるな」
「……濡れた?」
「馬鹿」
私は微笑し、藍が微苦笑を浮かべ、そして、互いに笑い合う。
喉元過ぎれば何とやら、こんな休暇も悪くはない――なんて思う、私だったとさ。
<幕>
《幕後の一》
「風の噂で誰かが風邪を引いたと聞いたけど……」
「まさか、それが魔理沙じゃないなんて思いもしなかった……」
「アリスさん、パチュリーさん、私の体をどう思っているのか聞かせてみやがれ」
「いえ、そうよ、アリス。魔理沙ならインフルエンザにかかっていただろうし」
「確かにね、パチェ。風邪は風邪でも、柴胡桂枝湯が必要なモノでしょう」
「聞かない方が良かったぜ……」
《柴胡桂枝湯はお腹にくる風邪に服用する漢方薬です》
《幕後の二》
「霊夢さんは風邪を引かないんですか?」
「引いて欲しいのか、あんたは」
「まさか。ですが、余り覚えがないので……」
「あんたたちが来る前後に引いてたわよ」
「言われてみれば。次に引きそうになった時はお伝えください」
「だから早苗、あんたは私に倒れて欲しいの?」
「そうならないことが一番です。ですが、強いて言うならば、看病はしてみたいですね。うふ」
「あ、なんか寒気が……?」
《何故だか霊夢には風邪を引かないような印象があります。引きそうな衣装なのに》
刷られたばかりの新聞を最後の定期購読者に手渡した直後、私は不意にくしゃみをした。
「人気者は辛いわね……」
「思いっきり手と服にかかったんだが」
「あら、世が世ならプレミアがついたわよ?」
本当に‘不意‘だったので、ガンをつけてくるのは止めて頂戴。
……。
「本音と建前が逆だった!?」
「相変わらずお茶目さんだな。どうれ、鼻をかんでやろう」
「や、それでしちゃうとガサガサに……と言うか、渡したばかりの新聞じゃないの!?」
私の非難など何処吹く風と言った様子で迫ってくる。
むしろ、推進剤になってしまったような。
にっこにこしてやがる。
「はっはっは、今年一番の大活躍だ」
‘千年天狗‘の私、射命丸文に、斯様に無体な仕打ちをしてくるのは、腐れ縁の‘スキマの式‘こと八雲藍だった。
暫しの攻防。
結果的に言うと、私の勝ちだった。
‘避ける‘一点の能力なら、そうそう引けを取りはしない。
「風邪でも患ったか?」
当たらないと見切りを付け手を止めた藍が、世間話のように聞いてくる。
どうやったのかは知らないが、新聞は綺麗なままだった。
器用さは彼女の方が上。
私は、手を振り軽く笑う。
「冗談。こちとら、泣く子も濡れる射命丸文様よ?」
「上も下もぐちゃぐちゃか……」
「その返しはどうかと思う」
此方の発言も大概だったのだが。
――なんて省みていると、藍がいきなり肩を掴んできた。
「どうした文!? お前があの程度で引くなんて!」
「貴女が私をどう見ているのか、よくわかったわ」
「ナチュラル・ボーン・ビッチ」
間違っているとは思わないが、いちいち言わなくても宜しい。
……ふむ。
「新聞を配っていると言うことは、徹夜明けだろう?」
「そうね。少しばかり疲れているのかもしれないわ」
「提出物は期日前に仕上げろとあれほど」
聞こえない聞こえない。
両耳に手を当て頭を振ると、何故だか何時も以上にくらりとした。
「あ、あれ」
バランスを崩す。
倒れると思った瞬間、背に腕が回された。
力強いと言うよりも、しなやかと感じさせる柔らかさ。
見上げた藍が、面喰ったような顔をしていた。
「文、本当に休んだ方が良いんじゃないか?」
「かもしんない。ま、今からオフだから」
「なんなら、此処で――」
一泊、とでも続けるつもりだったんだろう。
しかし、告げられるよりも早く、私は藍から身をひきはがした。
心配させたくないとか、そう言う殊勝な心がけではない。
単に弱さを見せたくないと言うちっぽけなプライドだ。
「言ったでしょ? 貴女と同じく、今日からオフなの」
「それは聞いたが……私は言ったか?」
「此処はマヨヒガじゃないの」
「仕事中ならいる筈がない、と言う推測か」
「そーそ。ね、頭は回っているでしょう? 変に気遣うのは止めて頂戴」
しかし――眉を顰めさせる昔馴染みに、両肩を竦め、続ける。
「でもまぁ、万が一にも風邪を引いちゃってるんだったら、貴女の可愛い子猫ちゃんと汗をかく全身運動を」
‘どむっ‘。
「藍様、あやや、お腹が痛い、切実に痛い……」
「はっはっは、それは幻腹痛だ」
「あるわよ!?」
……あるよね?
くびれあるウェストは、どうにかくっついたままだった。
確認していると、藍が踵を返す音が聞こえる。
そうそう、それでいい。
密かに頷きつつ振り返り、羽を広げた。
「先の一撃な。
強くはしたが、速くはない。
普段のお前なら、どうと言うこともなくかわすだろう」
いや、強くしないでよ。
「へーへ、わかりやしたよ」――軽口の代わりに短く返し、私は空へと舞い上がった。
とは言え、久々の大型休暇だ。
初日に何もしないのは味気がないのもいいところ。
熱い湯に浸かりながら、熱燗をきゅっとする程度の贅沢はあってしかるべきだろう。
いっそのこと、風呂一杯に酒を満たし、セルフ酒池肉林はどうだろう。
いいかもしんない。
――浮かんだ閃きに涎を溜めつつ、私は家路を急ぐのだった。
明けて、翌日。
窓から零れる陽の光が小憎たらしいほど暖かい。
溜めこんだ家事を放棄して、カップ酒片手に空を散策するのに良い日和だ。
しかし、甚だ遺憾なことに、私は布団から抜け出せずにいた。
勘違いしないで頂きたい。
二日酔いで寝込むなどと言うか弱い体はしちゃいない。
たかが日本酒の一樽二樽空けれなくて、何が天狗か、何が妖怪か。
尤も、酔ったフリをして胸を押し当てつつ上目遣いに見上げる技ならば――「ブフ、ベフ……っ」
咳が出る。
痰が絡まる。
鼻水も流れる。
頭が痛い。
関節だって痛い。
熱もありそうなもんだが、何故だか私は震えている。
はい、と言う訳で風邪引きました。
いや、これでも報道を生業とする身。
言葉は正確に使おうじゃないか。
風邪が悪化しました。
ついでに付け加えると、一般に『風邪』と一くくりにされる症状は、医療機関等では『風邪症候群』と呼ばれ「ブホゥっ、ズハァー……っ」
あー……一人芝居も大概にしておこう。
粗方の症状は解っているが、一応、調べられる範囲は把握しておきたい。
無造作に枕元に置かれていた体温計に手を伸ばす。
全く覚えはないが、寝付く前にも計っていたのだろう。
我が家の体温計は、幻想郷で広く普及している水銀式ではなく、サーミスタ式と呼ばれる電子式のものだった。ぱくっ。
河童の河城にとりが、守矢神社で使われている物を参考に作りあげたそうな。
見よう見まねで作るのもさることながら、彼女の凄さは、更に改良を図ったことにあるだろう。
神社の物で計れるのは、人間の正常な体温までだ。
概ね、三十二度から四十二度までだと聞く。
しかし、当然と言えば当然だが、人間と妖怪の体温は大きく違う。
そも『妖怪』と一口に言えど、そこから様々な種族に分かれ、基本的な尺度は存在しない。
ともかく、だから、にとりが施した改良は、計れる体温の幅を広げたことだった。
因みに、私たち鴉天狗の平均体温は人間より少し高く、約三十八度ほどである。
元となった鴉が四十度だからか、平素から浴びるように飲む酒の所為か。
……なんとなく、後者だろうか。
‘ピピッ‘。
どうでもいいことを思い出していると、計測を終えたと知らせる音が鳴った。
風邪を引いているかもってあやふやな時は、計らないことも多いんだけどな。
きっちりとした数字を見て、余計に体調が悪くなっちゃうこともあるかもしれないし。
だけど、むしろ今は逆。確実に風邪は引いているんだけど、微熱くらいなら気力が戻ってくるだろう。
どれどれ。
『88.8』
ちゃんと計れなかったようだ。
んもー、にとりンも肝心なところで抜けているんだから。
ジワリと額に浮かぶ脂汗を拭いつつ、私は体温計を容器に戻した。
……いや、いくらなんでも今の数字はあり得ないでしょ!?
そもそも風邪の時に体温が上がるのは、体内のウイルスを倒すためだ。
医者の中には微熱ならば解熱剤を処方しない者もいると聞く。
なまじっか熱を下げると、長引いてしまうからだ。
だからと言って、『88.8』はない。
平均の倍以上って明らかにおかしいでしょう?
確かに私たち妖怪は人間よりも体力的に優れているし、免疫力だって高「ふぇくしゅ、ブハ……っ」
お薬、飲も。
戸棚に常備薬があったはずだ。
常備薬ゆえに高い解熱作用は見込めないが、飲まないよりはましだろう。
何か食べてから……あ、無理、作る作れないの前に、食欲が湧かない。ついでに色欲も湧かない。
這うようにして――否、這って、私は戸棚まで辿り着いた。
押し倒す勢いで箪笥にもたれかかり、どうにかまだ動く右手で戸棚を開ける。
顎を縁に乗せると、舞った埃が顔を覆った。
どんだけ開けてなかったんだ私。
不意に、嫌な予感が全身を走る。
風邪の症状だろうと無理やり押し流し、粉剤が入っている袋を手に取った。
保存場所は戸棚であり、高温多湿は避けられている。
ご丁寧に受け取った日付も記されていた。
是は何時だったか。確か、大結界が出来た頃だ。明治二十年前後で、あかんやん……っ!
一般的に風邪薬の使用期限は、未開封の状態なら凡そ三年ほどだ。
それ以上、つまり、期限を過ぎてしまうと、成分が変質してしまう恐れがある。
効果が失われるだけならまだしも、悪質な副作用が出て来ないとも限らない。
ただでさえ体調を崩しており、抵抗力のない我が体。
眠気や口渇など起こる可能性の高い副作用のみならず、腹痛まで招きかねない。
そうなると、手洗いと恋人同士と言う考えるだに恐ろしい状況に陥ってしまう。
脱水症状も怖いしね。
何より――「そんな尾籠な状態に、幻想郷の空駆ける美少女、射命丸文ちゃんがなる訳にはぐほっ、ふへぁ……」
体、主に口が言うことを聞かない。
いや、待てよ。
……。
「そんな尾籠な状態に、幻想郷の空駆ける美女、射命丸文さんがなる訳にはいかないものね」
なるほど、『美少女』がNGワードだったのか。
喧嘩売ってるなこの口。
他も試してみよう。
いやいや、流石に幼女はないか。と言うより、馬鹿なことやってないで戻ろう。
再び畳みを這って布団に潜り込み、治まる気配が一向に窺えない頭痛に苛まれつつ、どうするべきかを考えた。
その一、このまま寝続ける。
消極的なことこの上ないが、悪くはない案だ。
食欲が湧かない以上、体力を回復させるには睡眠を取るほかない。
しかし、当然だが、症状は治まらないし、最悪、悪化してしまかもしれない。
その二、八意永琳に診てもらう。
医者に診てもらうのが一番手っ取り早い。
短期間ならば、入院も受け付けてくれると聞く。
だが、正直永遠亭まで飛ぶ体力があるとは自身思えない。
その三、黒谷ヤマメに治してもらう。
風邪をはじめとした感染症を『治す』ことにかけては、恐らく先の薬師よりも彼女の方が上だろう。
永琳もヤマメの能力を高く評価していて、時には患者を振ることもあるらしい。
だけれど、その二と同じ理由で実行に移すのは難しい。
その四、誰かに看病を頼む。
これまでのもので最も魅力的な案だ。
今なら身も心も任せることになり、千年天狗のこの私を落とすチャンス!
だがしかし、前日に散々『暫くはオフ』とふれ回っているので、来客の予定なんてある訳がなかった。
あれ、割と絶望的な状況じゃないか……?
その二と三は体力的な問題から却下だ。
現状を考えると、その一も心もとない。
その四は、腐れ縁の藍が愛する式と共に過ごしていることを思うと、来訪の可能性は限りなく低い。
……詰んでない?
家族と住んでいるならまだしも、私は一人暮らしだ。
その上、天狗社会の報道部に所属しているとは言え、顔を出すことは余りない。
つまりどういうことかと言うと、このまま病に倒れて人知れず消えていく――洒落になってねぇ……!
『幻想郷に押し寄せる高齢化の波。そして、孤独死』……あっ!
そうだ、ぶんぶん丸を喚ぼう。
平素なら傍にいる彼女も、私のオフに伴って休みを与えていた。
突然の招集を申し訳なく思いはするが、状況が状況だけに四の五の言っていられない。
少しずつ、だが確実に削られている我が体力では、恐らく是がラストアクションとなるだろう。
気力を振り絞って立ち上がり、ぶんぶん丸を喚ぶために窓辺へと進んだ。
窓を開く――
‘トントンっ‘
――直前、玄関を叩く音が頭の中で木霊した。凄ぇ痛い。
まさか気配を察知して、ぶんぶん丸が来てくれたのだろうか。
だとすれば有り難いことこの上ない。
極度の緊張が安堵へと切り替わり、私の膝は意識することなく折れた。
もう歩く必要はない、そう、あの呼び声に応えれば良いだけなのだから。
……呼び声?
ぶんぶん丸は人語を話せなかったはずだ。
しかし、今玄関から聞こえてくる声は、明らかに私の名を呼んでいた。
こんな感じ。
「文様、文様!? いるのですかいないのですか、いないのなら返事をしてください!」
「や、あの、無理だよね? と言うか、『文様』……?」
「いやあのその、偶には気分転換に!?」
やってきたのは、白狼天狗の犬走椛と鴉天狗の姫海棠はたてのようだ。
あー……。
足に気合を込め、両頬を掌で打つ。
ぼさぼさの髪に手櫛を入れ、緩めていたシャツのボタンを占める。
出そうになる咳を意志の力で断ち切って、深呼吸の後、いざ出陣――。
「はいはい、清く正しい射命丸は此処にいますよ」
「文……じゃない、射命丸様、お身体も清く正しいのですか!?」
「言いたいことは解らないでもないですが、その表現はどうかと思います。えぇっと、フタリとも、どうして?」
「なんか話を聞いた時から、こんな感じなのよね」
「話? 誰に何を聞いたの?」
「橙さんに行って風邪から夜雀屋台だって……! だから、お見舞いに!」
「なるほど、藍経由で伝わった、と」
「なんだ、頭も回ってるみたいだし、意外と大丈夫そうじゃない」
「新聞配り終わって気が抜けたんでしょう。少し休めば元通りよ」
「こ、これ、お見舞いの品です!」
「あら、可愛い花ね。パンジーかしら。横になっている時、物思いにふけるのも悪くはないわ」
「風邪の時は食べるのが一番! 屋台でがっつり蒲焼貰ってきたよ!」
「まだ十分温かいわね。有り難いけど、ったく、椛もあんたも、私を何だと思っているの?」
「――私は射命丸文。最速の妖怪。風邪だろうがなんだろうが、振り切って見せるわよ」
「文様……」
「なんか時々無駄に格好いいわね」
「あっはっは。ま、フタリにうつす訳にもいかないし、今日の所は引っ込んでおくわ」
「――ありがとうね、椛、はたて」
頬を上気させ、両手を組む椛。
椛の後ろ襟首を掴み、引っ張っていくはたて。
そんなフタリに片手を振り、見送ってから、玄関を閉じた。
ついぞ使った覚えのない花瓶を押入れから引っ張り出し、花を挿す。
蒲焼には、ご丁寧にも食べ切れなかった時の保存法が添付されていたので、指示に従った。
そして、私は布団に崩れ落ちる。も、無理。
あのね椛、実家暮らしの貴女は知らないでしょうけれど、お花さんは何にもしてくれないのよ。
はたて、あんたは比較的若いから、体力ない時でもがつがつ食べられるのでしょうけど、齢千年越えるときっついんだから。
そう言わなかったのと助けを求めなかったのは、形は違えどそれなりに慕ってくれているフタリに弱みを見せたくないと思った、ちっぽけなプライドのためだ。
かくして私の瞳に映るのは、見知らぬ天井だった。
だって、蜉蝣のように揺れたり、ましてや回ったりする天井なんて私の記憶にはない。
お城のような場所にある回る布団なら知ってるけどね。
意外に思われるかもしれないが、使ったことはない。
……なに真面目に本当のことを言っているんだろう、これはますます宜しくない状態だ。
回る、回る、回る。
回る、まわる、まわル。
まわル、マワる、マワ、ル……。
ふぅむ、今のが俗に言う走馬灯ってやつね。いやだから、使ったことはないんだけど。
「んぁ、何の話だい?」
出会茶屋にある回転布団。似たようなものが外にもあるって、山の神様が言ってた。
「下世話な話だねぇ。詳しく聞こうか」
とは言え、その後に聞かされたのは惚気なんだけどね。途中で乾の神様に止められたし。
「話してたのは坤の方か。『死は不浄』だとか言ってたけど、あの神さんも大概じゃないか」
いやいや、愛を語ったり愛を放ったりするのは生き物としてあるべき姿よ?
「振っておいてなんだけど、絶好調じゃないか、射命丸文」
やー、何故だか体が楽になったのよねー。意識もクリアってもんよ。
「うんまぁ、体ないしね」
おやほんとだ、薄く透けているような。服も何時もと違うような。……え?
「『死人に口なし』って言うけど、時々あんたみたいに例外的な奴もいるもんよ。
ま、そんなことはどうでも宜しい。
ささ、続き続き」
いや、宜しくはないような……。
「そもそも彼女は人じゃありませんしね。ところで、続きとは?」
「あはは、自分が縁遠い分、惚れた腫れたの話ってぅわおう四季様!?」
「偶に様子を見に来れば……! しかも、縁遠いって、馬鹿、小町の馬鹿!」
「きゃん! さぼってたのはある意味通常運航で、痛い! 心持普段より痛い!?」
「悔悟の棒による痛みはそのまま貴女の罪の重さです! 貴女はそう、乙女心を解らなさすぎる!」
説明があっているかどうかはともかく、映姫様は両の拳で小町さんを叩いております。
擬音で表現するならば、ぽかぽか、と言ったところ。
御馳走さまです。
どうやら此処は三途の川らしい。
……いやー! あややおうちかえゆー!?
「こほんっ。射命丸文、『かえゆー』じゃありません」
映姫様は、暫く小町さんと乳繰り合っていればいいのです。
「私もそう思……んぅっ、んぅ!
聞こえませんか、射命丸文?
貴女を待つあの音が」
は、音?
「聞こえますか? 聞こえるでしょう? 遥かな轟」
闇のぉ中ぁ、魂(こころ)揺さぶるぅ……。
映姫様と言えど、唐突にネタを入れるのはどうかと思います!?
って、嘘、ほんとに聞こえる! 俎板の上でザクザクと何かを切る音が聞こえる!
「あれが地獄の一丁目」
裁判すら受けていませんが!?
「白になるとお思いで?」
ぐぅの音も出ません。
じゃない、私にも色々思い残したことが!
たーすーけーてー、椛ぃ、はたてぇ、天魔様ーっ!?
「震えるな、瞳こらせよ、復活の時」
いーやー!
ごぜーん!
「――や!」
「らぁーん!!」
「あや! 文!?」
……へ?
まず、声が出たことに驚いた。
続けて、聞こえてきた呼び声に目を白黒とさせる。
ぼやけた視界に映るのは、不安げな表情を浮かべる昔馴染みの顔だった。
八雲藍が此処にいる。
「藍? え、あれ、なんで? 映姫様と小町さんは……? んっ」
訳が解らない。
まくし立てる私の額に、藍が布を当ててくる。
何時もなら冷たすぎると感じるだろう濡れた布が、今はとても心地よい。
次いで、指が下瞼をなぞる。視界が少し晴れた。
「どんな夢を見ていたんだか。
……いや、ひょっとすると、私の所為かも知れんな。
寝汗が酷かったから、体を拭いて、着替えさせてもらったぞ」
言われて気付いたが、確かに普段着から寝巻に替っていた。
「ありがと」
かすれた声で返すと、小さく頷かれる。
「あぁ。
それと、何故私が此処にいるか、だったな。
思う存分橙と戯れる予定だったが、生憎橙には屋台で遊ぶと言う先約があってなちっくしょう!」
そう言えば、椛とはたてが『橙に聞いた』と言っていたっけ。
「……そっか。で、様子を見に来てくれたんだ」
「その通りだが……迷惑だったか?」
「うぅん、助かる」
弱さを見せたくないと思ったのは本心だったが、こうなれば致し方なし。
裸身を見られてもどうとも思わない程度の昔馴染みに、少しばかり迷惑をかけよう。
実際に、服を替えてもらったことで、額を冷やしてもらったことで、気分は頗る良くなっている。
このまま寝ていれば、次第に体調も改善するだろう。
「しかし、お前ほどの妖怪が風邪で動けんとはな。少し情けないぞ」
「うん」
「どうせ、昨日帰ってから、養生もせず馬鹿なことでもやってたんだろう」
「うん」
「……どうもやりにくいな」
うん?
問うよりも先に、布団を頭の先まで被せられた。
小さな声を出し立ち上がり、一歩、二歩と藍が遠ざかる。
向かう方向が玄関ではないことに安堵を覚え――そんな自身に、苦笑した。
布団を両手でずらし、藍の歩んだ先、台所に目を向ける。
ザクザクと何かを切る音が耳に響く。
夢の中の音はこれだったのか。
芳しいだろう味噌の匂いを嗅げないことが口惜しい。
「迷惑ついでに、粥と味噌汁も作っているぞ。
買ってきた栄養剤も、飲めるようになったら飲んでくれ。
薬は市販の葛根湯を持ってきたが…素人目で見ても、麻黄湯か銀翹散の方が良かったかな」
背に視線を感じたのか、淡々と藍。
その口ぶりが照れ隠しのように思えて、私は小さく笑った。
「何が可笑しい?」
「なんだか、可愛いなって」
「あのな。……今のお前に言われたくはない」
顔を覗かせる私に振り返り、呆れを滲ませ呟く。
「ありがと。
でも、嬉しくはないな。
今は普段の私じゃないんですもの」
応えると、盆に粥を乗せ戻ってきた藍が、まるで心の底から絞り出すように、言う。
「やはり、やりにくい。頼むからさっさと調子を戻してくれ」
そのために、彼女が蓮華を向けてくる。
それゆえに、私は粥を口にする。
――そして、体に少しだけ元気が戻った。
「……しかし、お前も運が悪いな」
「ん?」
「まぁ、自業自得だから仕方ないのだが」
「あー」
「ともかく、自主的とは言え大型休暇のつもりだったんだろう?」
なるほど、そんな折に風邪を引くとは、と言うことか。
口の中に入った粥をごくりと嚥下し、私は小さく首を横に振る。
「何言ってるのよ。
仕事やってる時に倒れる方がよっぽど嫌。
休暇中に風邪を引けたのは、不幸中の幸いってやつね」
そんな返答を予想してなかったのだろう、藍が一瞬、固まった。
「こんな時に恰好を付けるな」
「……濡れた?」
「馬鹿」
私は微笑し、藍が微苦笑を浮かべ、そして、互いに笑い合う。
喉元過ぎれば何とやら、こんな休暇も悪くはない――なんて思う、私だったとさ。
<幕>
《幕後の一》
「風の噂で誰かが風邪を引いたと聞いたけど……」
「まさか、それが魔理沙じゃないなんて思いもしなかった……」
「アリスさん、パチュリーさん、私の体をどう思っているのか聞かせてみやがれ」
「いえ、そうよ、アリス。魔理沙ならインフルエンザにかかっていただろうし」
「確かにね、パチェ。風邪は風邪でも、柴胡桂枝湯が必要なモノでしょう」
「聞かない方が良かったぜ……」
《柴胡桂枝湯はお腹にくる風邪に服用する漢方薬です》
《幕後の二》
「霊夢さんは風邪を引かないんですか?」
「引いて欲しいのか、あんたは」
「まさか。ですが、余り覚えがないので……」
「あんたたちが来る前後に引いてたわよ」
「言われてみれば。次に引きそうになった時はお伝えください」
「だから早苗、あんたは私に倒れて欲しいの?」
「そうならないことが一番です。ですが、強いて言うならば、看病はしてみたいですね。うふ」
「あ、なんか寒気が……?」
《何故だか霊夢には風邪を引かないような印象があります。引きそうな衣装なのに》
楽しませていただきました。
気をつけましょう。
今回も楽しませてもらいました。
そして案の定二人とも前の温泉で文の衝撃の事実が判明したことを綺麗さっぱり忘れてる所に、にやりとしてしまいました。