幻想郷には、とある非常に稀有な病があった。
その病はほかのどんなものよりも厄介で、一度罹ると蓬莱の薬師ですら治すことは不可能。予防対策も何も無い。
それだけに一部の者を除いて、この病について知る者はいなかった。治療も対策も無いので、話を広めるだけ無駄だからだ。
さて、物語は妖怪の山に生えわたる、千年杉の群れから始まる。
うぞうぞと密集する枝の群体に腰かけて、眠たげに空を見つめる一人の少女がいた。
「あー」
その少女は欠伸とも溜息ともつかない声を上げて、頭のリボンをぴこぴこと揺らした。
白いシャツに黒いベスト、それと一点の赤であるボウタイが胸元に映えている。
宵闇の妖怪・ルーミアは、ありきたりな夜空を見上げてそっと呟いた。
「なんかでっかい事したいなー」
嗚呼、これこそがその病。
かつては紅の館の幼い吸血鬼に発病し、次いで冥界の優美な令嬢が患った。
月の頭脳を誇った医師にも容赦なく襲いかかり、怪力乱神の権化たる大鬼すらもその病に屈した。
その病、名を「なんかでっかい事したくなる病」という。
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昼は闇の中でふらふらし、夜は闇の中でふらふらし。
たまに木などとぶつかって、闇の風物詩と強がりを言う。
夜は天気が良ければどこかに居座り、変化など大して分かりもしない満天の星空に、でたらめな星座を作って遊んだり。
そんな生活が3年、4年と続いてくると、ふとした拍子に何かしら、よせばいいのに新しい事を始めたくなる。
特に妖怪の寿命は長い。それはもう、ゴルフを始めるだとか、そんな一般常識的な変化ではきかなくなるのだ。
霧で日光を遮る計画を立ててみたり、桜の木を満開まで咲かせてみようとしたり。
杞憂のあまり月一つすり替えてみたり、毎日が宴会にならないかと画策してみたり。
代々の巫女を悩ませ続けてきた突発性の病、それが今、小さな妖怪少女に発現していた。
「……何しよっかなー」
杉の木の枝に寝そべってルーミアは考えていた。
あの巫女や魔法使いが寄ってこないような方法で、なおかつ彼女が得する何かを。
しかし先程から頭をいくら捻っても、味噌の一つも出てこない。
元より食欲以外に欲の無い生活だったからだろう。いざやる気に駆られても、何もすることが無いのでは仕方なかった。
「うーん……」
少しばかり考えて、ルーミアは自分の無力感、いや無欲感に失望する。
一体お前は何のために生きてきたんだ、と自身を責めてみたりもするが、特に何のために生きているわけでもなかった。
「…まあ、いつもみたく浮いてれば、なんか思いつくかもねー」
そう言うとルーミアは杉の木を離れ、思いつく方向へ身体を向ける。
目的を探すという目的のもと、彼女はやんわりと飛び始めた。
この日は雲の無い満月で、太陽光を十分に浴びた月が光を放っている。
彼女はそれが少し眩しくて、周りに薄く闇を出した。
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しばらく飛ぶと、真下にひんやりとした空気を感じる。見下げると、月を写した円形の湖が音を殺して佇んでいた。
目の前には、紅一色に染まった大きな洋館が建っている。ここは紅の魔の館、紅魔館である。
「ここには、素敵なヒントは置いてないのかなー」
大して当てにならない妖怪の勘を頼りに、ルーミアはふよふよと赤い館へ接近する。
本来は門前払いがいい所なのだが、幸運な事に門番は、鼻ちょうちんを作りながら静かに瞑想していた。
故に彼女はそもそも門番の存在に気づく事なく、吸血鬼の住まう館への侵入をやり遂げたのだった。
七色の花が咲き乱れる中庭を後にして、開いていた窓から堂々と入り込む。
その先にあったのは──本、本、本。本の山。
彼女には、本を読むという習慣はあまりない。
常に身一つでふらふらしているので本を持ち歩かない…というのもあるが、
何より彼女の「闇を操る程度の能力」は、そもそも読書向きではないからだ。
彼女は初めて見た圧倒的な本の数に、ただ呆れた。
「みわたす限りの文字畑ね。ここの主人は、よっぽど暇な奴なのかしら」
「礼節を弁えない珍客ね。門前の中国は何をしていたのかしら」
突然背後からかけられた眠たげな声に身体を震わせるルーミア。
はっとして振り返れば、そこには大図書館の主人ことパチュリー・ノーレッジが胡散臭げな目を向けているところだった。
「貴方みたいな妖怪が、こんな所へ何の用?」
「月が眩しいから日陰に来たの。ここ、もやしくさいけどいい所よねー」
モヤシという単語に眉をひそめる。
そんな様子に気がつくはずもなく、ルーミアはふよふよあたりを飛び回って遊んでいた。
「…で、何の用なのかしら」
「別になんにもないったら。…強いて言うなら、ヒント探しかしら」
「ヒント?」
「そー。これからなんかでっかい事するから、そのヒント」
悪びれる様子も無く無邪気に語るルーミア。
「でっかい事…ねえ。貴方は一体何がしたいの?」
「んー、特に無いのよね。強いて言うならお腹が空いた事と、月が眩しいくらいかなー」
「…月が眩しい?」
「うん。大丈夫な時もあるけど、やっぱり眩しい時は眩しいのよ。しょせん太陽の手下ね」
ふうん…と呟き、パチュリーは手元の本をぱらぱらと捲る。
適当なページに手を置き、とても投げやりに提案した。
「…だったら、月を消してみたらどうかしら」
「…月?」
目を開いてルーミアが尋ね返す。
それから興味深げに頷いた。
「…ふーん、面白そう。そしたら夜はずーっと闇色ね。人間も襲いたい放題だわー」
考えれば考えるほど楽しげな世界に、夢の中のような顔をするルーミア。
対してそんな彼女を、愚かな妹を世話する姉のように見つめるパチュリー。
「…まあ、それならまず月を消す方法から考えなくちゃいけないんだけど」
う、とルーミアは言葉に詰まる。
「…夢を壊してくれるわね。提案したのはあんたなのに」
「あら、月の一つも消せないのかしら。異変を起こそうなんて片腹痛いわね」
ぐぐっ、と何か言いたげな口をへの字に結ぶ。
夢を壊された事に口を尖らせ、パチュリーへ何か言おうとして。
それから、何かに気づいたように出かけた言葉を飲み込み、彼女はしばらく思案して、やがて大真面目な顔でこう言った。
「ねえ、あの月はとって食べれたかしらー?」
パチュリーはその台詞に一層目を細めて、ウーパールーパーを眺める現代人のような顔をする。それから彼女の問いに答えた。
「食べられるわよ」
「ホント?」
「ええ。月はチーズでできているという話もあるくらいだし。まず食べられると見ていいでしょうね」
「ロマンチックなお話ね。よだれが止まらないわー」
す、と窓の縁に腰掛け、ルーミアは真っ白な月に向けて手を伸ばす。
「月が白い日はクリームチーズかしら。…クラッカーが欲しいかも」
「そうね、チーズはクラッカーに付けると美味しいものね」
本に視線を落したまま、適当な返事を帰すパチュリー。
自分がものすごく馬鹿にされていることにすら気付かずに、ルーミアは満足そうに頷いた。
「夜はもっと暗くなるし、美味しいチーズが食べられる。…なんて素敵な案かしら。伊達に知識齧ってるわけじゃないって事ね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
馬鹿の相手に飽いてきたパチュリーは、やや面倒くさそうに答える。
ルーミアはこれ以上ない満足の表情で、パチュリーに向けて丁寧に一礼した。
「ありがと。あんたのおかげで散歩の行き先が決まったわー」
「それはよかったわね。月に行けたら、お土産に一欠け持ってきてちょうだい」
「ん。約束するー」
ルーミアの顔に映るのは、天真爛漫な笑顔。
それはあまりに眩しく、自分のでたらめな知識を何一つ疑わず信じてくれている事が見て取れた。
胸に残る罪悪感──ただからかってるだけのつもりなのに、こう真正面から信じられると少し困る。
「…ちなみに、どうやって月まで行くつもりかしら?」
だから、パチュリーは一言だけ付け加える。
この話にオチをつけるために。ただの与太話で終わらせるために。
しかし、ルーミアはこう返した。
「月との間にあるのは闇夜。私が闇を操れば、勝手に月まで運んでくれるわー」
何か、あるいは感嘆符を呟きかけた口をパチュリーは慌てて噤む。
だって、所詮彼女は一ボスだ。力もろくにないちっぽけな妖怪が、単独で月を目指せる筈がない。
だというのに、何故彼女の言葉に自分は一瞬でも納得しそうになったのだろうか?
「貴方…」
何か言いかけて、パチュリーは本の外に目を向ける。
ルーミアの姿は既にそこになく、開け放たれた窓だけが覗いていた。
しばらく窓の外の月を見つめ、やがて長い息と共に呟く。
「……まさかね」
チーズ色の月を眺め、少しの杞憂が入り混じった声で呟いた。
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「さて、始めよっかなー」
ルーミアは紅魔館から少し離れ、神社の鳥居に腰かけていた。
細めた目に映るのは真っ黄色い満月。パチュリーから話を聞いた今では、狂気の象徴の月でさえ
ただ美味しそうにしか見えない。
「私の周りのこの闇と、月に近しい宇宙の闇を、そっくりそのまま入れ替える」
月を隠す、というアイデアを貰ってからとっさに考えた案だったが、ルーミアには根拠のない自信があった。
「地上の闇も、宇宙の闇も、結局は同じ闇だもの」
ぼやん、と彼女の周りを闇が覆う。
紫外線から赤外線まで全ての光を断ち切るその闇は、月明かりさえも消し去って
博麗神社の鳥居に影を落とした。
「…うん、こんなものかな」
何も見えない常闇の中、ルーミアは月へ手を伸ばす。
夜空をそのまま掻き集めるように、白くて小さな右手をぎゅっと握った。
誰かが目にしていたならば、月夜に現れた常闇が泡となって散りゆく光景を見ただろう。
博麗神社の鳥居の上──霧散した暗闇の中には、彼女はもういなかった。
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ひとたび宇宙へ行くと、人間はやれ無重力だ、やれ真空だと実につまらない事に心を震わせる。
風も何もお構いなしに普段からふよふよと飛んでいる彼女にすれば、
宇宙空間なんてのは闇に包まれた星の綺麗な空間、という程度の認識でしかない。
後ろを向けば青い星、前を向けば真っ白な星。
ルーミアは、地球と月の中間あたりを漂っていた。
「宇宙に空気がないっていうのは噂だったのかしら。妖怪にはあんまり関係ないけどー」
両手を広げて聖者のポーズを取り、そのままいつものふよふよスピードで月面を目指す。
ゆったり、ゆったりと漂いながら、やがて彼女は月の表面に到達した。
「……あれ?」
まず感じた違和感は、足元に広がるでっかい水たまり。
本来は海と呼ぶべきなのだろうが、宵闇の妖怪にそれが分かる筈もなく。
「…水が湧いてるわ。それに変なの。チーズに木が生えるのかしら」
ずぶ濡れになる趣味は無いので、そのままふよふよと陸地を目指す。
やがて舞い降りたそこは、一面の桃畑。土地こそ黄金色に輝いていたが、そこに生える木々は地上の物となんら変わりない。
「……あれ?」
話と違う、というのが一発目の感想だ。
月の土地に降り立ったはいいものの、その地面は全く美味しそうには見えない。
匂いもないし、チーズの柔らかい感触もしない。
「………」
恐る恐る、しゃがみこんで地面を掘り返す。両手には、灰色のぼろぼろしたものが残った。
どうみてもおいしそうには見えないそれを、ルーミアはちょっとだけ舐めみることにした。
~~~
「…また侵入者とはね…全く、最近は月の治安が悪くて困るわ」
身の丈ほどある刀を腰からぶら下げて、月の特攻隊長・綿月依姫は溜め息をついた。
先程「無生物の海に、なんだかふよふよしたのがやってきた」というイナバ部隊の報告を聞き、御自らが仕方なく出向いたのだった。
ぶっちゃけ話を聞くかぎりではイナバ部隊だけで十分処理できそうな感じであったが、そこはそれ、圧倒的な経験不足である。
どいつもこいつもイタリアも、戦う前から逃げ隠れてしまいまるで役に立たなかった。
そんな訳で、報告を受けた場所へイナバを率いて向かう。
ちょうど前回ロケットが落っこちた桃の林のあたりをごそごそと探り、一行は無生物の海に出た。
そこにいたのは、報告通りの小さな少女。
「あーいたいた。貴方…………へ?」
ゴシック調の洋服に身をつつみ、頭には月光のように輝く金髪と特徴的な赤いリボン。
少女は地面につっぷして、地面を掘り返し、土をむしゃむしゃ食べていた。
絶句。
理解を超えた地上の民の行動に、イナバ部隊数名含めた全員が言葉を失った。
「…えと、貴方は…」
日本語が通じるのか、という不安を感じつつも依姫は恐る恐る話し掛ける。
途端、少女はぐるん!と首だけ回して依姫をじっと見つめ、それから泣き出しそうな顔になって言った。
「……………」
「……な、何でしょう?」
「………つち…」
「…え…ええ、土ですね」
少女は持っていた土くれをがっ!と差し出し、口元についた土をぬぐおうともせず訴えかけた。
「土ーーーーーーーっ!」
「だからどうしたーーーーーーーっ!」
地上の民とか、全部忘れて。
依姫は誠心誠意、全力でツッコんだ。
それから数刻、依姫は土を掲げて泣き出した地上の妖怪をなだめ、
桃を与える事でようやく話の通じる状況まで持っていった。
とりあえず対面して、話を聞くことにする。
口が開くたびに桃が吸い込まれていくその不思議な光景に、依姫は月一番の食いしん坊と
思い込んでいた姉の姿を思い浮かべ、地上は広いとかぶりをふった。
「えーと、話を整理しますが」
「もぐもぐ」
「つまり貴方は、知り合いから聞かされた「月は食べ物で出来ている」という間抜け極まりない話を、頭から丸呑みにしたと」
「もぐ」
「それを聞いた貴方は、月を食べ尽くすためにわざわざやってきたと」
「もぐもぐもぐ、ごくん」
「で、ためしに食べてみたら思いっきり土だったと」
「まったくひどい話よね、妖怪に嘘をつくなんて。もぐもぐ」
「…食うか話すかどっちかにしなさい」
「へ?…じゃ、食べる方にするわー」
「ええい、そうじゃなくて私の話を聞けとっ!」
「あれ…おかわりは?」
「出すかっ!」
「なんで出ないの?」という顔をするルーミアに、依姫は語勢を荒くして答える。
イナバ一行はイナバ一行で、この珍客を動物園のパンダでも見るような目で遠巻きに見ていた。
「…はあ。地上の妖怪は頭悪くて疲れます」
「地上だ月だとうっとおしいわね。小さな星でいちいち争ってるから心が狭いのよ」
「う…まあいいでしょう。感情に振り回されるのも愚かな事です」
それから依姫はイナバ部隊に目配せし、こいつを囲め、とサインを出した。
「……?」
イナバの一人が小首を傾げた。
伝わってなかった。
「…この者を囲みなさい」
気まずそうに告げる依姫の言葉にはっと気づき、ようやくどたばたと茂みから飛び出す五匹程度のイナバ達。
手にはそれぞれが意匠を凝らして作り上げた素敵な竹やりが握られており、まとまりのない様子でその切っ先をルーミアに突きつけた。
ルーミアはそんな行動に対し、表情一つ変えはしない。
両手を広げたいつものポーズに、馬鹿のように何も分かってない顔で、その手に桃を持ったまま、ただ依姫を真正面から見据えていた。
「…穢れだらけの地上の民が、ピクニック気分で来るような所ではないの。ここは。
貴方のような者が増えると困るから…悪いけど、まずは月への侵入に対する罰を受けてもらいます」
じゃき、と竹やりを構える音。
ルーミアはなおも依姫を上目遣いで見つめ、それから自分を取り囲むイナバ部隊をぐるりと見回した。
無垢なその瞳に、イナバ達が少したじろぐ。
一人一人をしっかり観察すると、ルーミアは目を細めてにっこりと笑った。
「いっこ聞いてもいい?」
「…なんですか」
「月の兎は、とって食べられるものなのかしら?」
依姫を含む全ての者の背筋に、ぞくりとした悪寒が走った。
「貴方…」
「月の常識は知らないけどー。地上で妖怪とバトるのは、つまりそういう事なのよ」
にこりと笑んでそう告げる。
依姫はその天真爛漫な態度に、改めて薄ら寒いものを感じた。
笑顔──そう、例の地上から来た妖怪も、八意様も、いつも笑顔を浮かべていた。
百万の軍勢に囲まれようと、味方に反旗を翻そうと、常にニコニコと笑っている。
どんな窮地に立たされようとも失われないその笑みには、何もなさそうで、きちんと裏付けされた理由があった。
自分の策を信じているからか。
あるいは、己の底を隠し通すためか。
ルーミアと名乗るこの妖怪もまた同様に、一応のピンチに立たされて尚笑みを崩さない。
けれど決定的に違うのは、その笑顔の裏に何も隠していないことだ。
策などひとつも持ちあわずに。
知識も実力も、全てさらけ出した上で。
(そこそこ)厳しい訓練を(おおむね)休むことなく受け続けてきた(贔屓目に見て)精鋭のイナバ部隊。
この状況はどう考えたって、土を食べて泣きだすような妖怪に乗り越えられる展開ではない。
なのに、何故こうも無邪気な笑顔を作れるのか。
感覚的な所で、依姫の不気味な予感は収まらなかった。
「…多少怪我をさせてもかまいません、早く捕えなさい」
「あ…」「はいっ!」
依姫の言葉と共に、それまで飲まれていたイナバ達が一度に我に帰る。
訓練通りに一歩、また一歩と、包囲網を縮めていくようにしてルーミアを追い詰めた。
少々不気味な相手ではあったが、依姫はあえてイナバ部隊を鍛錬する事を試みた。
先程の報告の一件で分かるように、彼女たちには実戦経験が少なすぎる。
この程度の妖怪でも「自分たちで地上の妖怪を懲らしめた」という意識が出来れば、多少は自信に繋がるのでは──と考えたのだ。
またその計画は、依姫から見ても概ね成功していたようだ。
見れば分かる通りイナバ達の顔は、多少の困惑こそあれ、緊張感と責任感で実に引き締まって───。
引き締まって───。
引き締まって───いるのか、よく分からなかった。
「……?」
ごしごし、と依姫は目をこする。
それほど距離の離れていなかったイナバ達の姿が、やけに見づらく感じられるのだ。
見づらいのはイナバも同じらしい。互いの顔を見合わせて、この異常を確認している。
そうしている間にも視界はどんどんと曇り、依姫の目には、もう一番奥のイナバの姿が隠れてしまってきていた。
一秒ごとに影を落としていくようにさえ感じられる急速な闇の侵食。現時点で考えられる原因は──当然、目の前の少女しかいない。
「貴方の仕業?」
依姫の問いかけにルーミアは「んー」と両手を広げたまま、考えたような唸り声を出す。
それからいやにあっさりとした口調で、
「そーよ。私はルーミア、闇を操る程度の妖怪だもの」
と、白状した。
「…下がって。やはり私が相手をするわ」
刀を抜き、イナバ部隊を引っ込める。
何の躊躇いもなく捕食を宣言し、あまつさえ自分を出し抜いてどこからともなく闇を発現した少女。
地上の妖怪相手に犠牲を一切出させないためにも、依姫は自ら出ることを選んだ。
薄ぼんやりとした闇の中、五尺を超える日本刀をルーミアに突き付ける。
「貴方はここで私に負けて、月の強大さを思い知った上でお帰りなさい。そして地上に広める事です。「月には手を出すだけ無駄だ」とね」
「んー、私は月とか地上とかどうでもいいんだけど」
彼女が月にやってきて理由は、そもそもが月がチーズという話を聞いたからであって、
彼女自身は別段ここが月だろうと火星だろうと特に興味はない。
実は使命が倒錯している事に気づかないまま、依姫は祝詞を唱えて神降ろしを執行した。
目の前の妖怪は闇の化身。
相手には少し役不足かもしれないが、相性的にも、月への畏怖を植え付ける意味でも依姫はこの神を選んだ。
「…天照御神よ、あたりに纏わりつくうるさい宵闇を彼方へ吹き飛ばせ!」
それは上位神中の上位神。神の中の神。日輪を司り高天原で乾坤を見守る太陽神の名。
ひとたび降臨すれば地の果てまでが光に満たされる。
そう、降臨すれば。
依姫の神降ろしは不発に終わった。
勇ましく降り上げた刀は光りも輝きもせず、あたりは依然としてどんよりとした闇に覆われている。
「……あれっ?」
唱え終えてからたっぷり三秒経ち、依姫は気の抜けた声と共に辺りを見回す。
依然濃さを増す宵闇、心配そうにこちらを見るイナバ部隊、そして宵闇の妖怪。
全てが何も変わっていなかった。そりゃあもう、びっくりするくらい何も起こらなかった。
「あ…天照御神?天照御神っ!?」
袋を振って菓子の残りを取り出す子供のように刀をぶんぶん振るう。
が、勿論、神が菓子のように出てくる筈もなく。
神降ろしが使えない──最悪の想像に達すると同時に、
桃林からこちらに駆け寄ってきたルーミアが不思議そうにこちらを見た。
「ねー、天照ってどちら様?」
その顔に敵意は無い。
…いや、この妖怪が敵意をもった顔など、依姫はさっきから今まで一度として見た事がない。
「た…太陽を司る上位神のはずなんですが…あれ、おかしいな…この間はちゃんと…」
茂みに隠れているイナバ達の信頼度が物凄い勢いで目減りしていくのを実感しつつ、依姫は急ぎ刀や自分の行動を省みて原因を探る。
神降ろしのやり方は何一つ間違っていない。神が見守って下さる限り、神降ろしの使えない日は無い筈なのに──。
そこで、依姫は目の前に接近して上目遣いでこちらを見るルーミアを眺める。
まさか、この妖怪が神降ろしを妨害したのか。
そんな馬鹿な、と否定しつつも、天照が呼び出せなかったという事実からは逃れられない。
そう思い出すと、先程からの無邪気な笑みも、全てが裏のある笑顔にしか思えなくなってきた。
地面を蹴り、一度ルーミアとの距離を取る。
改めて緊張の糸を張りつめ、両手を広げる少女に向けてもう一度剣を掲げた。
神降ろしを妨害する──そんな技を、依姫は聞いた事がない。
にわかには信じられない事実を確かめる為に、依姫はもう一度、別の神の呼び出しを試みた。
「火具土!」
イザナミを焼き殺した荒ぶる炎神の名を唱える。
祈るように瞳を閉じ、そして開くと、そこには確かに神の暖かな炎の感覚が宿っていた。
「え…?」
驚いたのはむしろ依姫だ。
この流れなら、間違いなくその妨害を続けてくる筈だと思っていたのだが。
敵の次なる手を確かめる為に、顔を上げてルーミアの方を見据える。
正体不明の敵の取った次の行動とは。
「んー、熱くて眩しいの嫌いー」
伸ばしっぱなしの両腕で顔を覆い、依姫から顔を背けていた。
「え…えええええええ!?」
まるで予想外のルーミアの行動に、依姫の頭の中は真っ白になる。なんだこれは、強敵とは違うのか。
いろんな感情が依姫の中で渦巻くが、とりあえず相手の出方を見る為に依姫はしばし沈黙する。
たっぷり数秒待ってもルーミアは動こうとしない。どうやら、本当に眩しいのが嫌いなだけらしかった。
「………」
捨て鉢な気持ちになりながら、依姫は手に宿したカグツチをそっとルーミアに向ける。
蛇のような炎が、ゆらゆらとルーミアに向かった。
「いやー!」
子供らしい泣き声を上げながらルーミアは逃走する。
少し楽しくなってきた依姫はカグツチの炎を追尾させ、ルーミアの周りを取り囲ませた。
「やー!眩しいの嫌ー、もう帰るー!」
炎がルーミアを取り囲むと、眩しさに耐えかねたルーミアは地面を蹴って空へ逃げる。
スピードは相変わらずのふよふよだ。だが追撃はしない。
依姫は彼女が月から撤退していく様を、感情の無い目で眺めていた。
両手を広げた妖怪が一匹、地上の星へと戻っていく。
第三次月面戦争は、これによって終止符を打たれた。
こうして月の平和は守られたのだ。おめでとう依姫、ありがとう依姫。
イナバ達が「え、これでいいのか?」という目をしながら、ルーミアの去っていった方向を眺める。
依姫は刀を鞘に納めると、へなへなと座り込んでつぶやいた。
「……なんなの、一体」
全く何事も分からない。
結局彼女は神降ろしを止めてたのか、そもそも彼女は何しに月まで来たのか。
物凄く疲れた表情をする依姫に、イナバの一人がおずおずと声をかけた。
「…あの、依姫様…」
「…なに?」
「この、闇はどうするんですか?」
尋ねられて、はっと顔を上げる。
そう、宵闇の脅威はやけにあっさり去ったが、いまだに月の視界は暗いままである。
「出しっぱなしにして行ったのかしら…ああもう、まさかあの妖怪をもう一度連れ戻せって言うんじゃ……」
その時。
まるで狙ったかのようなタイミングで、太陽が顔を出した。
「…え?」
太陽が、「あ、ゴメンちょっとトイレ行ってた」というようなノリで、地上の星の影からそっと顔を出す。
まだ全身を出すには至ってなかったが、それでも光は月を照らし、今まで出ていた闇を一気に払拭した。
「なああああああああ!?」
その時。
依姫の頭の中で出揃っていた情報のパーツが一気に組み合わさり、全ての真実が浮かび上がった。
そもそも依姫は何故ルーミアに本気になって対応してしまったか、それは彼女の肉食発言と、そして闇で一帯を覆った事による。
依姫を出し抜いて一帯を闇で覆わせた事をして、彼女はルーミアが油断ならない妖怪だと勘違いをした。
しかし実際には、闇の出現は太陽が地上の星と重なってしまったが故の当然の現象で、彼女自身はなんの力も使っていなかった。
思い起こせば、闇について尋ねた時のルーミアの反応──
「んー、そーよ」
あれは完全にハッタリ、いやトラの威を借りた狐に過ぎなかったのだ。
天照を降ろせなかった理由は簡単。「依姫が天照に見守られてなかった」からである。
そもそも何故太陽が隠れ、闇が出来たか──依姫は久しぶりに姿を拝んだ太陽と、それを身体全体で隠している地上の星を見る。
先程まで、太陽は地上の星と完全に重なっていた。
結果、太陽は地上の星に邪魔をされて見えなくなる。月、地上、そして太陽は、あの時完全に一列に並んでいたのだ。
「あ…はは…そりゃ見えませんよね、天照様…あんなでっかいものが間に入っちゃあ…」
そういう事だった。
要するに、完膚なきまでの一人相撲だったのである。
ルーミアはただ月を食べに来ただけで、太陽はただ周期に従って顔を隠しただけ。
色々な要因を依姫が勝手に誤解し、結果無駄な心労だけが残ったわけである。
「……帰ろう」
刀を納め、依姫はふらふらと豊かの海を後にする。
我らのリーダーがそんな状態だったのだから、イナバ部隊の誰もが口を開くに開けない。
故に、「ルーミアがこっそり桃を数個持ち帰った」という事実は、その場にいたイナバ達の心の内にしまわれた。
再び闇を操り、ルーミアは夜の幻想郷へ舞い戻る。
丸く膨らんだポケットを楽しそうにぺたぺた触りながら、闇を出さずに赤い館を目指した。
門番は、相も変わらず瞑想に耽っている。
ルーミアはふよふよと門を通過し、それから「さっきは多分ここから入ったんじゃないかなあ」と思われる窓から中に侵入した。
その窓の鍵は依然空いたままで、また図書館の主も依然座って本を読んでいた。
窓からの来訪者に驚く様子もなく、パチュリーは本から目を離さずに話し出す。
「おかえりなさい。月はどうだった?」
「変な味だったわー」
本気にしているのか、していないのか。
パチュリーは大した反応も見せずに「そう…」とだけ言って、それきり何も語らない。
ルーミアは赤い靴を脱いで図書館の中に入り込み、いつもの笑顔のままに切り出した。
「で、ひとかけ持ってこいって言ったでしょ?」
「…ええ。言ったわね」
「持って来たわ。お土産でー」
「……え?」
そこでようやく声に感情らしきものが芽生えて、パチュリーは本から顔を上げた。
ルーミアはにっこりと微笑んで、その顔めがけて靴を持っていた片手を振り上げる。
ぶつけはしない。ただ目の前めがけて降りおろす。
ぱらぱらという音と共に、靴の中の砂がパチュリーめがけて飛び出た。
「やっ…!?」
見た目相応の少女らしい、小さな声がパチュリーから漏れ出る。どうやら少し目に入ったらしく、涙目を擦った。
その様子をルーミアは無表情に見つめると、いつもより若干低い声で、
「あんたのせいでとんでもない目にあったわー。でも桃は美味しかったから、これはその分のお礼ね」
と言い、パチュリーが視界を取り戻す前に、近くの机の上にポケットから取り出した桃をひとつ乗せる。
何か、とても理不尽に怒られる気がしたので、彼女はそのまま窓から飛び降りるように逃げ出した。
それから数秒して、パチュリーの目からようやく砂が取れる。
机に置かれた桃を見て、感嘆とも、呆れとも分からない溜息をついた。
「…結局なんなのかしら、あれは」
単体で月を目指せる影の実力者なのか、それともただの背景か。
月から持ち帰ったという桃を齧りつつ、パチュリーはどうでもいいけど、と一人呟き読書に戻った。
一部の人物に頭痛の種を植え付けた張本人、ルーミアは、やはり変わることなくふよふよしていた。
満月の光の下で闇を出し、目的もなく彷徨っている。
しかし久しぶりに「目的ある行動」を終えた彼女の心は、深い達成感でいっぱいだった。
「…月に行って、退治されて、桃を食べて…んー、まあ、でっかい事には違いないかしら」
右のポケットから桃を取り出して眺めつつ、自分で納得したように頷く。
「色々やったから疲れたわー。もう寝よ」
適当な所に舞い降りて、ルーミアは適当な木陰に身を横たえた。
砂は撒き、桃の一つはいまやパチュリーの口の中。
彼女が月に行った最後の証拠品であるラス1の桃をポケットから取り出すと、ルーミアはそれをあっさりと平らげて眠りについた。
第三次月面戦争
地上軍:妖怪一匹
月面軍:イナバ部隊一小隊(隊長 綿月依姫)
地上軍成果:桃二つ、月面の砂少量
月面軍成果:なし
地上軍損害:なし
月面軍損害:依姫の頭痛と心労(軽微)
この小さな小さな戦争は、結局、直接関わった人妖以外に知られる事は無かったという。
その病はほかのどんなものよりも厄介で、一度罹ると蓬莱の薬師ですら治すことは不可能。予防対策も何も無い。
それだけに一部の者を除いて、この病について知る者はいなかった。治療も対策も無いので、話を広めるだけ無駄だからだ。
さて、物語は妖怪の山に生えわたる、千年杉の群れから始まる。
うぞうぞと密集する枝の群体に腰かけて、眠たげに空を見つめる一人の少女がいた。
「あー」
その少女は欠伸とも溜息ともつかない声を上げて、頭のリボンをぴこぴこと揺らした。
白いシャツに黒いベスト、それと一点の赤であるボウタイが胸元に映えている。
宵闇の妖怪・ルーミアは、ありきたりな夜空を見上げてそっと呟いた。
「なんかでっかい事したいなー」
嗚呼、これこそがその病。
かつては紅の館の幼い吸血鬼に発病し、次いで冥界の優美な令嬢が患った。
月の頭脳を誇った医師にも容赦なく襲いかかり、怪力乱神の権化たる大鬼すらもその病に屈した。
その病、名を「なんかでっかい事したくなる病」という。
~~~
昼は闇の中でふらふらし、夜は闇の中でふらふらし。
たまに木などとぶつかって、闇の風物詩と強がりを言う。
夜は天気が良ければどこかに居座り、変化など大して分かりもしない満天の星空に、でたらめな星座を作って遊んだり。
そんな生活が3年、4年と続いてくると、ふとした拍子に何かしら、よせばいいのに新しい事を始めたくなる。
特に妖怪の寿命は長い。それはもう、ゴルフを始めるだとか、そんな一般常識的な変化ではきかなくなるのだ。
霧で日光を遮る計画を立ててみたり、桜の木を満開まで咲かせてみようとしたり。
杞憂のあまり月一つすり替えてみたり、毎日が宴会にならないかと画策してみたり。
代々の巫女を悩ませ続けてきた突発性の病、それが今、小さな妖怪少女に発現していた。
「……何しよっかなー」
杉の木の枝に寝そべってルーミアは考えていた。
あの巫女や魔法使いが寄ってこないような方法で、なおかつ彼女が得する何かを。
しかし先程から頭をいくら捻っても、味噌の一つも出てこない。
元より食欲以外に欲の無い生活だったからだろう。いざやる気に駆られても、何もすることが無いのでは仕方なかった。
「うーん……」
少しばかり考えて、ルーミアは自分の無力感、いや無欲感に失望する。
一体お前は何のために生きてきたんだ、と自身を責めてみたりもするが、特に何のために生きているわけでもなかった。
「…まあ、いつもみたく浮いてれば、なんか思いつくかもねー」
そう言うとルーミアは杉の木を離れ、思いつく方向へ身体を向ける。
目的を探すという目的のもと、彼女はやんわりと飛び始めた。
この日は雲の無い満月で、太陽光を十分に浴びた月が光を放っている。
彼女はそれが少し眩しくて、周りに薄く闇を出した。
~~~
しばらく飛ぶと、真下にひんやりとした空気を感じる。見下げると、月を写した円形の湖が音を殺して佇んでいた。
目の前には、紅一色に染まった大きな洋館が建っている。ここは紅の魔の館、紅魔館である。
「ここには、素敵なヒントは置いてないのかなー」
大して当てにならない妖怪の勘を頼りに、ルーミアはふよふよと赤い館へ接近する。
本来は門前払いがいい所なのだが、幸運な事に門番は、鼻ちょうちんを作りながら静かに瞑想していた。
故に彼女はそもそも門番の存在に気づく事なく、吸血鬼の住まう館への侵入をやり遂げたのだった。
七色の花が咲き乱れる中庭を後にして、開いていた窓から堂々と入り込む。
その先にあったのは──本、本、本。本の山。
彼女には、本を読むという習慣はあまりない。
常に身一つでふらふらしているので本を持ち歩かない…というのもあるが、
何より彼女の「闇を操る程度の能力」は、そもそも読書向きではないからだ。
彼女は初めて見た圧倒的な本の数に、ただ呆れた。
「みわたす限りの文字畑ね。ここの主人は、よっぽど暇な奴なのかしら」
「礼節を弁えない珍客ね。門前の中国は何をしていたのかしら」
突然背後からかけられた眠たげな声に身体を震わせるルーミア。
はっとして振り返れば、そこには大図書館の主人ことパチュリー・ノーレッジが胡散臭げな目を向けているところだった。
「貴方みたいな妖怪が、こんな所へ何の用?」
「月が眩しいから日陰に来たの。ここ、もやしくさいけどいい所よねー」
モヤシという単語に眉をひそめる。
そんな様子に気がつくはずもなく、ルーミアはふよふよあたりを飛び回って遊んでいた。
「…で、何の用なのかしら」
「別になんにもないったら。…強いて言うなら、ヒント探しかしら」
「ヒント?」
「そー。これからなんかでっかい事するから、そのヒント」
悪びれる様子も無く無邪気に語るルーミア。
「でっかい事…ねえ。貴方は一体何がしたいの?」
「んー、特に無いのよね。強いて言うならお腹が空いた事と、月が眩しいくらいかなー」
「…月が眩しい?」
「うん。大丈夫な時もあるけど、やっぱり眩しい時は眩しいのよ。しょせん太陽の手下ね」
ふうん…と呟き、パチュリーは手元の本をぱらぱらと捲る。
適当なページに手を置き、とても投げやりに提案した。
「…だったら、月を消してみたらどうかしら」
「…月?」
目を開いてルーミアが尋ね返す。
それから興味深げに頷いた。
「…ふーん、面白そう。そしたら夜はずーっと闇色ね。人間も襲いたい放題だわー」
考えれば考えるほど楽しげな世界に、夢の中のような顔をするルーミア。
対してそんな彼女を、愚かな妹を世話する姉のように見つめるパチュリー。
「…まあ、それならまず月を消す方法から考えなくちゃいけないんだけど」
う、とルーミアは言葉に詰まる。
「…夢を壊してくれるわね。提案したのはあんたなのに」
「あら、月の一つも消せないのかしら。異変を起こそうなんて片腹痛いわね」
ぐぐっ、と何か言いたげな口をへの字に結ぶ。
夢を壊された事に口を尖らせ、パチュリーへ何か言おうとして。
それから、何かに気づいたように出かけた言葉を飲み込み、彼女はしばらく思案して、やがて大真面目な顔でこう言った。
「ねえ、あの月はとって食べれたかしらー?」
パチュリーはその台詞に一層目を細めて、ウーパールーパーを眺める現代人のような顔をする。それから彼女の問いに答えた。
「食べられるわよ」
「ホント?」
「ええ。月はチーズでできているという話もあるくらいだし。まず食べられると見ていいでしょうね」
「ロマンチックなお話ね。よだれが止まらないわー」
す、と窓の縁に腰掛け、ルーミアは真っ白な月に向けて手を伸ばす。
「月が白い日はクリームチーズかしら。…クラッカーが欲しいかも」
「そうね、チーズはクラッカーに付けると美味しいものね」
本に視線を落したまま、適当な返事を帰すパチュリー。
自分がものすごく馬鹿にされていることにすら気付かずに、ルーミアは満足そうに頷いた。
「夜はもっと暗くなるし、美味しいチーズが食べられる。…なんて素敵な案かしら。伊達に知識齧ってるわけじゃないって事ね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
馬鹿の相手に飽いてきたパチュリーは、やや面倒くさそうに答える。
ルーミアはこれ以上ない満足の表情で、パチュリーに向けて丁寧に一礼した。
「ありがと。あんたのおかげで散歩の行き先が決まったわー」
「それはよかったわね。月に行けたら、お土産に一欠け持ってきてちょうだい」
「ん。約束するー」
ルーミアの顔に映るのは、天真爛漫な笑顔。
それはあまりに眩しく、自分のでたらめな知識を何一つ疑わず信じてくれている事が見て取れた。
胸に残る罪悪感──ただからかってるだけのつもりなのに、こう真正面から信じられると少し困る。
「…ちなみに、どうやって月まで行くつもりかしら?」
だから、パチュリーは一言だけ付け加える。
この話にオチをつけるために。ただの与太話で終わらせるために。
しかし、ルーミアはこう返した。
「月との間にあるのは闇夜。私が闇を操れば、勝手に月まで運んでくれるわー」
何か、あるいは感嘆符を呟きかけた口をパチュリーは慌てて噤む。
だって、所詮彼女は一ボスだ。力もろくにないちっぽけな妖怪が、単独で月を目指せる筈がない。
だというのに、何故彼女の言葉に自分は一瞬でも納得しそうになったのだろうか?
「貴方…」
何か言いかけて、パチュリーは本の外に目を向ける。
ルーミアの姿は既にそこになく、開け放たれた窓だけが覗いていた。
しばらく窓の外の月を見つめ、やがて長い息と共に呟く。
「……まさかね」
チーズ色の月を眺め、少しの杞憂が入り混じった声で呟いた。
~~~
「さて、始めよっかなー」
ルーミアは紅魔館から少し離れ、神社の鳥居に腰かけていた。
細めた目に映るのは真っ黄色い満月。パチュリーから話を聞いた今では、狂気の象徴の月でさえ
ただ美味しそうにしか見えない。
「私の周りのこの闇と、月に近しい宇宙の闇を、そっくりそのまま入れ替える」
月を隠す、というアイデアを貰ってからとっさに考えた案だったが、ルーミアには根拠のない自信があった。
「地上の闇も、宇宙の闇も、結局は同じ闇だもの」
ぼやん、と彼女の周りを闇が覆う。
紫外線から赤外線まで全ての光を断ち切るその闇は、月明かりさえも消し去って
博麗神社の鳥居に影を落とした。
「…うん、こんなものかな」
何も見えない常闇の中、ルーミアは月へ手を伸ばす。
夜空をそのまま掻き集めるように、白くて小さな右手をぎゅっと握った。
誰かが目にしていたならば、月夜に現れた常闇が泡となって散りゆく光景を見ただろう。
博麗神社の鳥居の上──霧散した暗闇の中には、彼女はもういなかった。
~~~
ひとたび宇宙へ行くと、人間はやれ無重力だ、やれ真空だと実につまらない事に心を震わせる。
風も何もお構いなしに普段からふよふよと飛んでいる彼女にすれば、
宇宙空間なんてのは闇に包まれた星の綺麗な空間、という程度の認識でしかない。
後ろを向けば青い星、前を向けば真っ白な星。
ルーミアは、地球と月の中間あたりを漂っていた。
「宇宙に空気がないっていうのは噂だったのかしら。妖怪にはあんまり関係ないけどー」
両手を広げて聖者のポーズを取り、そのままいつものふよふよスピードで月面を目指す。
ゆったり、ゆったりと漂いながら、やがて彼女は月の表面に到達した。
「……あれ?」
まず感じた違和感は、足元に広がるでっかい水たまり。
本来は海と呼ぶべきなのだろうが、宵闇の妖怪にそれが分かる筈もなく。
「…水が湧いてるわ。それに変なの。チーズに木が生えるのかしら」
ずぶ濡れになる趣味は無いので、そのままふよふよと陸地を目指す。
やがて舞い降りたそこは、一面の桃畑。土地こそ黄金色に輝いていたが、そこに生える木々は地上の物となんら変わりない。
「……あれ?」
話と違う、というのが一発目の感想だ。
月の土地に降り立ったはいいものの、その地面は全く美味しそうには見えない。
匂いもないし、チーズの柔らかい感触もしない。
「………」
恐る恐る、しゃがみこんで地面を掘り返す。両手には、灰色のぼろぼろしたものが残った。
どうみてもおいしそうには見えないそれを、ルーミアはちょっとだけ舐めみることにした。
~~~
「…また侵入者とはね…全く、最近は月の治安が悪くて困るわ」
身の丈ほどある刀を腰からぶら下げて、月の特攻隊長・綿月依姫は溜め息をついた。
先程「無生物の海に、なんだかふよふよしたのがやってきた」というイナバ部隊の報告を聞き、御自らが仕方なく出向いたのだった。
ぶっちゃけ話を聞くかぎりではイナバ部隊だけで十分処理できそうな感じであったが、そこはそれ、圧倒的な経験不足である。
どいつもこいつもイタリアも、戦う前から逃げ隠れてしまいまるで役に立たなかった。
そんな訳で、報告を受けた場所へイナバを率いて向かう。
ちょうど前回ロケットが落っこちた桃の林のあたりをごそごそと探り、一行は無生物の海に出た。
そこにいたのは、報告通りの小さな少女。
「あーいたいた。貴方…………へ?」
ゴシック調の洋服に身をつつみ、頭には月光のように輝く金髪と特徴的な赤いリボン。
少女は地面につっぷして、地面を掘り返し、土をむしゃむしゃ食べていた。
絶句。
理解を超えた地上の民の行動に、イナバ部隊数名含めた全員が言葉を失った。
「…えと、貴方は…」
日本語が通じるのか、という不安を感じつつも依姫は恐る恐る話し掛ける。
途端、少女はぐるん!と首だけ回して依姫をじっと見つめ、それから泣き出しそうな顔になって言った。
「……………」
「……な、何でしょう?」
「………つち…」
「…え…ええ、土ですね」
少女は持っていた土くれをがっ!と差し出し、口元についた土をぬぐおうともせず訴えかけた。
「土ーーーーーーーっ!」
「だからどうしたーーーーーーーっ!」
地上の民とか、全部忘れて。
依姫は誠心誠意、全力でツッコんだ。
それから数刻、依姫は土を掲げて泣き出した地上の妖怪をなだめ、
桃を与える事でようやく話の通じる状況まで持っていった。
とりあえず対面して、話を聞くことにする。
口が開くたびに桃が吸い込まれていくその不思議な光景に、依姫は月一番の食いしん坊と
思い込んでいた姉の姿を思い浮かべ、地上は広いとかぶりをふった。
「えーと、話を整理しますが」
「もぐもぐ」
「つまり貴方は、知り合いから聞かされた「月は食べ物で出来ている」という間抜け極まりない話を、頭から丸呑みにしたと」
「もぐ」
「それを聞いた貴方は、月を食べ尽くすためにわざわざやってきたと」
「もぐもぐもぐ、ごくん」
「で、ためしに食べてみたら思いっきり土だったと」
「まったくひどい話よね、妖怪に嘘をつくなんて。もぐもぐ」
「…食うか話すかどっちかにしなさい」
「へ?…じゃ、食べる方にするわー」
「ええい、そうじゃなくて私の話を聞けとっ!」
「あれ…おかわりは?」
「出すかっ!」
「なんで出ないの?」という顔をするルーミアに、依姫は語勢を荒くして答える。
イナバ一行はイナバ一行で、この珍客を動物園のパンダでも見るような目で遠巻きに見ていた。
「…はあ。地上の妖怪は頭悪くて疲れます」
「地上だ月だとうっとおしいわね。小さな星でいちいち争ってるから心が狭いのよ」
「う…まあいいでしょう。感情に振り回されるのも愚かな事です」
それから依姫はイナバ部隊に目配せし、こいつを囲め、とサインを出した。
「……?」
イナバの一人が小首を傾げた。
伝わってなかった。
「…この者を囲みなさい」
気まずそうに告げる依姫の言葉にはっと気づき、ようやくどたばたと茂みから飛び出す五匹程度のイナバ達。
手にはそれぞれが意匠を凝らして作り上げた素敵な竹やりが握られており、まとまりのない様子でその切っ先をルーミアに突きつけた。
ルーミアはそんな行動に対し、表情一つ変えはしない。
両手を広げたいつものポーズに、馬鹿のように何も分かってない顔で、その手に桃を持ったまま、ただ依姫を真正面から見据えていた。
「…穢れだらけの地上の民が、ピクニック気分で来るような所ではないの。ここは。
貴方のような者が増えると困るから…悪いけど、まずは月への侵入に対する罰を受けてもらいます」
じゃき、と竹やりを構える音。
ルーミアはなおも依姫を上目遣いで見つめ、それから自分を取り囲むイナバ部隊をぐるりと見回した。
無垢なその瞳に、イナバ達が少したじろぐ。
一人一人をしっかり観察すると、ルーミアは目を細めてにっこりと笑った。
「いっこ聞いてもいい?」
「…なんですか」
「月の兎は、とって食べられるものなのかしら?」
依姫を含む全ての者の背筋に、ぞくりとした悪寒が走った。
「貴方…」
「月の常識は知らないけどー。地上で妖怪とバトるのは、つまりそういう事なのよ」
にこりと笑んでそう告げる。
依姫はその天真爛漫な態度に、改めて薄ら寒いものを感じた。
笑顔──そう、例の地上から来た妖怪も、八意様も、いつも笑顔を浮かべていた。
百万の軍勢に囲まれようと、味方に反旗を翻そうと、常にニコニコと笑っている。
どんな窮地に立たされようとも失われないその笑みには、何もなさそうで、きちんと裏付けされた理由があった。
自分の策を信じているからか。
あるいは、己の底を隠し通すためか。
ルーミアと名乗るこの妖怪もまた同様に、一応のピンチに立たされて尚笑みを崩さない。
けれど決定的に違うのは、その笑顔の裏に何も隠していないことだ。
策などひとつも持ちあわずに。
知識も実力も、全てさらけ出した上で。
(そこそこ)厳しい訓練を(おおむね)休むことなく受け続けてきた(贔屓目に見て)精鋭のイナバ部隊。
この状況はどう考えたって、土を食べて泣きだすような妖怪に乗り越えられる展開ではない。
なのに、何故こうも無邪気な笑顔を作れるのか。
感覚的な所で、依姫の不気味な予感は収まらなかった。
「…多少怪我をさせてもかまいません、早く捕えなさい」
「あ…」「はいっ!」
依姫の言葉と共に、それまで飲まれていたイナバ達が一度に我に帰る。
訓練通りに一歩、また一歩と、包囲網を縮めていくようにしてルーミアを追い詰めた。
少々不気味な相手ではあったが、依姫はあえてイナバ部隊を鍛錬する事を試みた。
先程の報告の一件で分かるように、彼女たちには実戦経験が少なすぎる。
この程度の妖怪でも「自分たちで地上の妖怪を懲らしめた」という意識が出来れば、多少は自信に繋がるのでは──と考えたのだ。
またその計画は、依姫から見ても概ね成功していたようだ。
見れば分かる通りイナバ達の顔は、多少の困惑こそあれ、緊張感と責任感で実に引き締まって───。
引き締まって───。
引き締まって───いるのか、よく分からなかった。
「……?」
ごしごし、と依姫は目をこする。
それほど距離の離れていなかったイナバ達の姿が、やけに見づらく感じられるのだ。
見づらいのはイナバも同じらしい。互いの顔を見合わせて、この異常を確認している。
そうしている間にも視界はどんどんと曇り、依姫の目には、もう一番奥のイナバの姿が隠れてしまってきていた。
一秒ごとに影を落としていくようにさえ感じられる急速な闇の侵食。現時点で考えられる原因は──当然、目の前の少女しかいない。
「貴方の仕業?」
依姫の問いかけにルーミアは「んー」と両手を広げたまま、考えたような唸り声を出す。
それからいやにあっさりとした口調で、
「そーよ。私はルーミア、闇を操る程度の妖怪だもの」
と、白状した。
「…下がって。やはり私が相手をするわ」
刀を抜き、イナバ部隊を引っ込める。
何の躊躇いもなく捕食を宣言し、あまつさえ自分を出し抜いてどこからともなく闇を発現した少女。
地上の妖怪相手に犠牲を一切出させないためにも、依姫は自ら出ることを選んだ。
薄ぼんやりとした闇の中、五尺を超える日本刀をルーミアに突き付ける。
「貴方はここで私に負けて、月の強大さを思い知った上でお帰りなさい。そして地上に広める事です。「月には手を出すだけ無駄だ」とね」
「んー、私は月とか地上とかどうでもいいんだけど」
彼女が月にやってきて理由は、そもそもが月がチーズという話を聞いたからであって、
彼女自身は別段ここが月だろうと火星だろうと特に興味はない。
実は使命が倒錯している事に気づかないまま、依姫は祝詞を唱えて神降ろしを執行した。
目の前の妖怪は闇の化身。
相手には少し役不足かもしれないが、相性的にも、月への畏怖を植え付ける意味でも依姫はこの神を選んだ。
「…天照御神よ、あたりに纏わりつくうるさい宵闇を彼方へ吹き飛ばせ!」
それは上位神中の上位神。神の中の神。日輪を司り高天原で乾坤を見守る太陽神の名。
ひとたび降臨すれば地の果てまでが光に満たされる。
そう、降臨すれば。
依姫の神降ろしは不発に終わった。
勇ましく降り上げた刀は光りも輝きもせず、あたりは依然としてどんよりとした闇に覆われている。
「……あれっ?」
唱え終えてからたっぷり三秒経ち、依姫は気の抜けた声と共に辺りを見回す。
依然濃さを増す宵闇、心配そうにこちらを見るイナバ部隊、そして宵闇の妖怪。
全てが何も変わっていなかった。そりゃあもう、びっくりするくらい何も起こらなかった。
「あ…天照御神?天照御神っ!?」
袋を振って菓子の残りを取り出す子供のように刀をぶんぶん振るう。
が、勿論、神が菓子のように出てくる筈もなく。
神降ろしが使えない──最悪の想像に達すると同時に、
桃林からこちらに駆け寄ってきたルーミアが不思議そうにこちらを見た。
「ねー、天照ってどちら様?」
その顔に敵意は無い。
…いや、この妖怪が敵意をもった顔など、依姫はさっきから今まで一度として見た事がない。
「た…太陽を司る上位神のはずなんですが…あれ、おかしいな…この間はちゃんと…」
茂みに隠れているイナバ達の信頼度が物凄い勢いで目減りしていくのを実感しつつ、依姫は急ぎ刀や自分の行動を省みて原因を探る。
神降ろしのやり方は何一つ間違っていない。神が見守って下さる限り、神降ろしの使えない日は無い筈なのに──。
そこで、依姫は目の前に接近して上目遣いでこちらを見るルーミアを眺める。
まさか、この妖怪が神降ろしを妨害したのか。
そんな馬鹿な、と否定しつつも、天照が呼び出せなかったという事実からは逃れられない。
そう思い出すと、先程からの無邪気な笑みも、全てが裏のある笑顔にしか思えなくなってきた。
地面を蹴り、一度ルーミアとの距離を取る。
改めて緊張の糸を張りつめ、両手を広げる少女に向けてもう一度剣を掲げた。
神降ろしを妨害する──そんな技を、依姫は聞いた事がない。
にわかには信じられない事実を確かめる為に、依姫はもう一度、別の神の呼び出しを試みた。
「火具土!」
イザナミを焼き殺した荒ぶる炎神の名を唱える。
祈るように瞳を閉じ、そして開くと、そこには確かに神の暖かな炎の感覚が宿っていた。
「え…?」
驚いたのはむしろ依姫だ。
この流れなら、間違いなくその妨害を続けてくる筈だと思っていたのだが。
敵の次なる手を確かめる為に、顔を上げてルーミアの方を見据える。
正体不明の敵の取った次の行動とは。
「んー、熱くて眩しいの嫌いー」
伸ばしっぱなしの両腕で顔を覆い、依姫から顔を背けていた。
「え…えええええええ!?」
まるで予想外のルーミアの行動に、依姫の頭の中は真っ白になる。なんだこれは、強敵とは違うのか。
いろんな感情が依姫の中で渦巻くが、とりあえず相手の出方を見る為に依姫はしばし沈黙する。
たっぷり数秒待ってもルーミアは動こうとしない。どうやら、本当に眩しいのが嫌いなだけらしかった。
「………」
捨て鉢な気持ちになりながら、依姫は手に宿したカグツチをそっとルーミアに向ける。
蛇のような炎が、ゆらゆらとルーミアに向かった。
「いやー!」
子供らしい泣き声を上げながらルーミアは逃走する。
少し楽しくなってきた依姫はカグツチの炎を追尾させ、ルーミアの周りを取り囲ませた。
「やー!眩しいの嫌ー、もう帰るー!」
炎がルーミアを取り囲むと、眩しさに耐えかねたルーミアは地面を蹴って空へ逃げる。
スピードは相変わらずのふよふよだ。だが追撃はしない。
依姫は彼女が月から撤退していく様を、感情の無い目で眺めていた。
両手を広げた妖怪が一匹、地上の星へと戻っていく。
第三次月面戦争は、これによって終止符を打たれた。
こうして月の平和は守られたのだ。おめでとう依姫、ありがとう依姫。
イナバ達が「え、これでいいのか?」という目をしながら、ルーミアの去っていった方向を眺める。
依姫は刀を鞘に納めると、へなへなと座り込んでつぶやいた。
「……なんなの、一体」
全く何事も分からない。
結局彼女は神降ろしを止めてたのか、そもそも彼女は何しに月まで来たのか。
物凄く疲れた表情をする依姫に、イナバの一人がおずおずと声をかけた。
「…あの、依姫様…」
「…なに?」
「この、闇はどうするんですか?」
尋ねられて、はっと顔を上げる。
そう、宵闇の脅威はやけにあっさり去ったが、いまだに月の視界は暗いままである。
「出しっぱなしにして行ったのかしら…ああもう、まさかあの妖怪をもう一度連れ戻せって言うんじゃ……」
その時。
まるで狙ったかのようなタイミングで、太陽が顔を出した。
「…え?」
太陽が、「あ、ゴメンちょっとトイレ行ってた」というようなノリで、地上の星の影からそっと顔を出す。
まだ全身を出すには至ってなかったが、それでも光は月を照らし、今まで出ていた闇を一気に払拭した。
「なああああああああ!?」
その時。
依姫の頭の中で出揃っていた情報のパーツが一気に組み合わさり、全ての真実が浮かび上がった。
そもそも依姫は何故ルーミアに本気になって対応してしまったか、それは彼女の肉食発言と、そして闇で一帯を覆った事による。
依姫を出し抜いて一帯を闇で覆わせた事をして、彼女はルーミアが油断ならない妖怪だと勘違いをした。
しかし実際には、闇の出現は太陽が地上の星と重なってしまったが故の当然の現象で、彼女自身はなんの力も使っていなかった。
思い起こせば、闇について尋ねた時のルーミアの反応──
「んー、そーよ」
あれは完全にハッタリ、いやトラの威を借りた狐に過ぎなかったのだ。
天照を降ろせなかった理由は簡単。「依姫が天照に見守られてなかった」からである。
そもそも何故太陽が隠れ、闇が出来たか──依姫は久しぶりに姿を拝んだ太陽と、それを身体全体で隠している地上の星を見る。
先程まで、太陽は地上の星と完全に重なっていた。
結果、太陽は地上の星に邪魔をされて見えなくなる。月、地上、そして太陽は、あの時完全に一列に並んでいたのだ。
「あ…はは…そりゃ見えませんよね、天照様…あんなでっかいものが間に入っちゃあ…」
そういう事だった。
要するに、完膚なきまでの一人相撲だったのである。
ルーミアはただ月を食べに来ただけで、太陽はただ周期に従って顔を隠しただけ。
色々な要因を依姫が勝手に誤解し、結果無駄な心労だけが残ったわけである。
「……帰ろう」
刀を納め、依姫はふらふらと豊かの海を後にする。
我らのリーダーがそんな状態だったのだから、イナバ部隊の誰もが口を開くに開けない。
故に、「ルーミアがこっそり桃を数個持ち帰った」という事実は、その場にいたイナバ達の心の内にしまわれた。
再び闇を操り、ルーミアは夜の幻想郷へ舞い戻る。
丸く膨らんだポケットを楽しそうにぺたぺた触りながら、闇を出さずに赤い館を目指した。
門番は、相も変わらず瞑想に耽っている。
ルーミアはふよふよと門を通過し、それから「さっきは多分ここから入ったんじゃないかなあ」と思われる窓から中に侵入した。
その窓の鍵は依然空いたままで、また図書館の主も依然座って本を読んでいた。
窓からの来訪者に驚く様子もなく、パチュリーは本から目を離さずに話し出す。
「おかえりなさい。月はどうだった?」
「変な味だったわー」
本気にしているのか、していないのか。
パチュリーは大した反応も見せずに「そう…」とだけ言って、それきり何も語らない。
ルーミアは赤い靴を脱いで図書館の中に入り込み、いつもの笑顔のままに切り出した。
「で、ひとかけ持ってこいって言ったでしょ?」
「…ええ。言ったわね」
「持って来たわ。お土産でー」
「……え?」
そこでようやく声に感情らしきものが芽生えて、パチュリーは本から顔を上げた。
ルーミアはにっこりと微笑んで、その顔めがけて靴を持っていた片手を振り上げる。
ぶつけはしない。ただ目の前めがけて降りおろす。
ぱらぱらという音と共に、靴の中の砂がパチュリーめがけて飛び出た。
「やっ…!?」
見た目相応の少女らしい、小さな声がパチュリーから漏れ出る。どうやら少し目に入ったらしく、涙目を擦った。
その様子をルーミアは無表情に見つめると、いつもより若干低い声で、
「あんたのせいでとんでもない目にあったわー。でも桃は美味しかったから、これはその分のお礼ね」
と言い、パチュリーが視界を取り戻す前に、近くの机の上にポケットから取り出した桃をひとつ乗せる。
何か、とても理不尽に怒られる気がしたので、彼女はそのまま窓から飛び降りるように逃げ出した。
それから数秒して、パチュリーの目からようやく砂が取れる。
机に置かれた桃を見て、感嘆とも、呆れとも分からない溜息をついた。
「…結局なんなのかしら、あれは」
単体で月を目指せる影の実力者なのか、それともただの背景か。
月から持ち帰ったという桃を齧りつつ、パチュリーはどうでもいいけど、と一人呟き読書に戻った。
一部の人物に頭痛の種を植え付けた張本人、ルーミアは、やはり変わることなくふよふよしていた。
満月の光の下で闇を出し、目的もなく彷徨っている。
しかし久しぶりに「目的ある行動」を終えた彼女の心は、深い達成感でいっぱいだった。
「…月に行って、退治されて、桃を食べて…んー、まあ、でっかい事には違いないかしら」
右のポケットから桃を取り出して眺めつつ、自分で納得したように頷く。
「色々やったから疲れたわー。もう寝よ」
適当な所に舞い降りて、ルーミアは適当な木陰に身を横たえた。
砂は撒き、桃の一つはいまやパチュリーの口の中。
彼女が月に行った最後の証拠品であるラス1の桃をポケットから取り出すと、ルーミアはそれをあっさりと平らげて眠りについた。
第三次月面戦争
地上軍:妖怪一匹
月面軍:イナバ部隊一小隊(隊長 綿月依姫)
地上軍成果:桃二つ、月面の砂少量
月面軍成果:なし
地上軍損害:なし
月面軍損害:依姫の頭痛と心労(軽微)
この小さな小さな戦争は、結局、直接関わった人妖以外に知られる事は無かったという。
ルーミアのキャラが引き立ってます。お見事。
そして振り回されるよっちゃんの可愛さったらもう。
こういう感じのは好きです。
あとゆかりんは次回頑張れw
おもしろかったです。
特に台詞がよかったです
それにルーミアがとてもルーミアらしく、とにかくかわいい!
ただ個人的にはバトるとかラス1なんかのカタカナにちょっと違和感を感じました
これからも期待しております。
ルーミア…侮れないお人やでぇ
曇ってて見えなかったよー!
あーあ。
うん。楽しかったです!
……どうしてこんなに苦労が似合うのかしらこの人は。
次の作品も期待してます。
涙目なパチェが一番かわいかったのは俺だけ?
るーみゃかわいい
ありがとうございます、楽しませていただきました!
ふわふわした作品でした。
何気に凄いことやっているのにそれを感じさせない辺りが実に好物です。
それと、パチュリーが美鈴のことを中国と呼んでいますが、特にメタ的なギャグという流れでもないので不自然さを感じました。
それはそれとしてお話はおもしろかったです。