オリジナル設定、オリキャラが出てきます。
苦手な方、ご注意下さい。
誰かを愛する行為を“恋”と呼称するなら、
其れは確かに恋と呼べるものだった。
早苗は所用で香霖堂へと向かう最中、ふと空を見上げた。
何処までも透き通る美しい蒼。夜には美しく着飾る月も、
今はまだその存在を気付かせぬ程に空に馴染んでいた。
此方…幻想郷に来る前の、様々なモノが雑然としていた空を思い、目を閉じた。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
――先輩、どう思います?――
ふと頭に浮かぶ、いつか聞いた言葉。それは懐かしい言葉。
そして眼を開け、其処にある筈の無い飛行機雲を幻視した時。
東風谷早苗は懐かしく、大切な思い出の波に呑まれた。
「……先輩!早苗先輩!!」
遠くから呼び掛けられた声に反応し、早苗は振り向いた。
高校三年生の初夏。四限も終わり、持参の弁当を持って何処で昼食を食べるか?
と、考えを巡らせながら廊下を歩いていた時の事である。
振り向くと、自分めがけて駆けてくる少女の姿が目に入った。
平均的な背丈に、子供らしさの残る、ともすれば小学生と言われかねない顔。
彼女の動きに合わせるように波打つポニーテイル。
少女は早苗の前ではぁはぁと息を荒げながら止まり、スー、ハーと大仰な動きで深呼吸をして落ち着き、はきはきとやや大声で喋る。
「はぁ…あ、先輩取り敢えずコンニチハ!それでご飯一緒に食べませんか!?」
「ふふ。今日も元気があって宜しいですね。ええ、良いですよ。じゃあどこで食べましょうか?」
「屋上が良いですよ。今日は何て言っても天気がいい&風が涼しい!屋上はこの上ない昼食スポットって噂で持ち切りですよ!!」
「あら、そうなの。じゃあそうしましょう」
早苗がにっこりとほほ笑みかけ、少女もにかっ、と笑う。連れだって屋上へと向かった。
東風谷早苗は所謂、高根の花、と呼ばれる存在だった。学校内では知らぬ者も居ない。
勉学は元より、地域の清掃活動等にも積極的に参加し、人当たりも良い。
更に親は大きな神社の神主である。羨望を受けて当然という程度には、彼女は恵まれた環境と才能を持っていた。
また、それ故にある種の孤独を彼女は感じても居た。往々にして羨望と嫉妬は同時に向けられるものだ。
だが、物腰の低さ、人当たりの良さが其れをさせなかった。
彼女を羨めば羨むほど、妬めば妬むほどに、自らの醜さに直面させられるほど高潔だった。
性格がもう少し捻くれていれば、子供らしければ、或いは過剰に大人らしければ。
彼女の何某かを目的に誰かが寄って来ただろう。しかしそうはならなかった。
そして何時からか、皆は早苗に高潔で素晴らしい人間であることを期待するようになり、早苗はその期待に全力で応えようとした。
その繰り返しの結果、彼女は孤独になった。
彼女の周りに人は集まるが一定の距離以上近づこうとする者はいなかった。『誰もが尊敬する偶像』であることを無自覚に求めていたのだろう。
そんな折、『彼女』が出逢った。
其れは今では余り行かなくなった柔道部での事である。新入生達の体験入部の時間。
顧問が現部員達の力を見せると言いだし、持ち前の勤勉さで既に部内で一二を争う強さを誇っていた早苗と、部長の試合を行った。
結果は早苗の背負い投げ一本勝ち。実力の拮抗する相手だからこそ一瞬の試合。感嘆の声を上げる新入生達の中に彼女は居た。
日も暮れて暗くなった校門で彼女は待っていた。早苗に気付くなり近づいて、
「えっと、東風谷先輩!惚れました!友達からでお願いします!」
物凄い勢いでお辞儀をした。
それがはじまり。
その突飛な行動に面喰っていた早苗だったが、直ぐに快く了解した。
彼女は大喜びで駆けまわると(文字通り駆けまわっていた)、強烈な印象を与えるだけ与えて帰ってしまった。
彼女の名前は宇佐美夕子と言う。
何でも遠方から越して来たらしく、友人の一人も居ない土地での暮らしに(そうは見えなかったが)ひどく不安を覚えていたらしい。
そんな中で見た華麗な一本背負いは、夕子の不安の感情を一瞬で尊敬に変える程鮮烈に焼きついたようだった。
彼女はとても行動的で、校門で早苗に逢う前に既に入部届けを出していたり、『遊びに行きましょう!』と誘ったり、昼食の多くを共にしたり、いつの間にか呼称が早苗先輩に変わっていたりした。早苗が本当はとぼけた性格をしていて、いつもは気を張っている事も、いつの間にか知られてしまっていた。
そんな人は早苗にとって初めてであり、多少対応に困ってしまったが、それでも彼女の事を非常に好意的に捉えていた。
趣味が合う訳でもないのに、彼女と話す時はこの上なく心が安らぐのだ。それも今までは――人間相手には――無かった事。
夕子は、あっという間に誰よりも早苗に近い存在へとランクアップしていった。
「ほらぁ先輩!とっっっても気持良さそうですよ!」
「本当に…良い風ですね…」
屋上の扉を開けると、成程、暑くは無くそれでいて心地の良い風が吹いていた。思ったほど人は居らず、良さそうな場所もまだ残っていた。
この学校では屋上が解放されている。
その理由はとても単純で、生徒に全幅の信頼を寄せている…からではなく、単純に飛び降りたり、誤って落ちる事が無いと言えるからである。
鉄のフェンスに幾重にも撒かれた鉄条網。こんな所で飛び降りるくらいなら別の場所を選ぶだろう、と思い苦笑いを浮かべながら進む。
歩み進むたび、チラチラという視線を感じる。そのたびに思う。
(コレが今までの他人との距離。其れを思うと夕子さんはやはり私にとって特別、と呼べる存在なのね)
彼女にとって夕子は既に二度とは得られない程の得難い存在になっていた。
適当な場所に腰を降ろし、弁当を開ける。隣で夕子はガサガサとビニール袋の中からサンドイッチと紙パックオレンジジュースを取りだす。
何時もと変わらない、其れでいて数少ない和やかな時間。取りとめのない話で盛り上がる。
「先輩、どう思います?」
唐突に話を変える。夕子はよく話が二転三転するので慌てずに対応する。
「何をですか?」
「真昼の月には何があるのか、ですよ」
彼女の視線を辿ると月が浮かんでいた。昼で尚且つ薄雲が被さっているため、気付き辛い。
良く見つけられたものだ、と感心しながら考える。
「そうですね。月の兎は自らの身を炎に投じたモノとされていますね。その周りにはその時の煙が漂うとされていますから、昼の月はその煙じゃあないかしら?」
その答えには不満なのか頬を膨らませて、
「先ぱぁ~い。ロマンが無いですよぉ、ロ・マ・ンが」
「あらあら。御免ね、余り思い浮かばなくて…」
「…ん。イヤイヤ、良いんですよ。あたしの考えも余り変わんないし」
少々決まり悪そうにいう夕子。
「どんな考えですか?聞かせて?夕子さんの考え」
ん~とですね、と頭を書きながら言う。
「今先輩が言ってた話ですけど。兎が何とかしようって右往左往してる時に狐と猿が手助けしてくれた~って聞いたことあるんですよ。
狐と猿だって手伝ってるし、協力し合うほど仲がいい三匹だったんですよ。離れ離れにしちゃう方が可哀想じゃないですか?って事で昼の月には狐と猿が居るんだと思います。其れで昼と夜の境で逢えるんですよ」
どうですか、と早苗を見る。
「…そう、ですね。確かに、離れ離れは可哀想ですね」
「でしょう!?だから絶対近くに置いてくれてると思うんですよ。今もきっと仲のいいままで。そう考えると夢がありますよね!」
嬉しそうな夕子と対照的に早苗の顔には影が射していた。まるで子供の様だが、今の話を瞬間的に夕子と自分に置き換えてしまったのだ。
この程度でダメージを受けるほど自分は弱くは無かった筈なのに。
敏感に察した夕子が続ける。
「だからですね、先輩。そんな風に私と先輩もずっと、ず~っと仲良くしましょうねっ!」
言うなり早苗の胸に飛び込んでくる。彼女その見た目に反してとても大人だ。私の気持ちを直ぐに察して、喜ばせようとしている。
後輩に気を使わせてしまったなぁ、と小さく反省。
「そうね。何時までも末長く、仲良くしましょうね」
「ははっ!先輩、それじゃプロポーズみたいですよぉ!」
屋上に楽しげな笑い声が響く。
そして早苗は深く深く願う。どうか、何時までも共に居れますように。
「ただいま帰りました」
帰宅した早苗の前に母が現れた。どうやら食事の用意をしていた様でエプロンを身に着けている。
「お帰り、早苗ちゃん。今日は大分過ごしやすかったわね」
「ええ。でも、明日はグッと暑くなるみたいですよ。夏らしくて私は大歓迎なんですが」
「あらそう?そんな早苗ちゃんに朗報です!一足先に夏を届ける一品、今日の晩御飯はカレーよ。それも私の特製のヤツ」
「え!!?」
瞬間、早苗が固まった。彼女の作るカレーは問題が多いのだ。まず、量が多い。一回作ると丸二日はカレー以外食べられない。
そしてもう一つ、異様に辛いのだ。なのにとても美味しい為際限なく入る、つまり満腹になるまで食べてしまうのだ。だから、カレーの後は体重が増えてしまう=質素な食事にしなければならないのだ。
「…そーですかー嬉しいなー」
大根役者の様な声を出してしまう。それほどに一大事である事を理解していただきたい。
「あら、そんなに喜んでくれるなんて嬉しいわー」
母も棒読みで返してくる。この対応の早さ、やはり侮れない。
「ま、今日も疲れたでしょう?取り敢えず着替えてきなさい」
パチリ、とウインク一つ。はい、言う早苗の答えを背に台所へ向かう。
そんな母に向けて、聞こえぬよう小さな声で、何時もの様に感謝を告げる。
「ありがとう、義母さん」
階段を上がり向かって右奥の部屋が早苗の部屋だ。ドアの前に立ち、ドアノブを握り、引き開ける。
それと同時に早苗は本日二度目の硬化減少を引き起こした。
早苗には三つの秘密がある。
一つ目は、今の両親とは血が繋がっていないという事。
早苗の実の両親は既に他界している。早苗が六つの頃、大きな交通事故に巻き込まれてしまったのだ。
今御世話になっているのは父の兄夫婦で、事故の後すぐに養子として引き取ってくれた。
それから十二年経つが、その間ずっと実子の様に接してくれている。
早苗は感謝という言葉では表せない気持ちを抱き続けている。
二つ目は、ロボットものの作品に目が無いという事。
子供の頃に偶然テレビの再放送で見たGガ○を忘れられず、片っ端から見倒した。結果、ロボット、それに準ずるものに対しては一過言ある、と言う人物になっていた。義父にはばれてしまい、鉄人やマジ○ガーに関しての知識を叩きこまれてしまった。
この二つは既に夕子にも話してしまっている。最後の秘密は、両親にも夕子にも話していない。
その秘密とは、彼女の家族は今、五人家族であるという事。
つまり――
「何をしてらっしゃるんですか…御二方…」
がっくりと肩を落としながら自室の光景を改めて確認する。
ベッドの上には紫髪の女性が寝転がりながらファッション雑誌を捲っている。時折『あ~』だの『う~』だのと呻きながら顔を顰めている。
入って右角に配置してある学習机。今は本来の用途で使用されていない。
金髪の少女が、座っている椅子を傾けながら机の上に足を放り出つつ、漫画を片手に煎餅を齧っている。
この二人が正真正銘の神、山坂と湖の権化たる八坂神奈子、土着神の頂点たる洩谷諏訪子そのものであると言って、何人が信じるだろうか。
だらけきった様子の二人は早苗に気付くと、
「お~お帰り~」
「う~(煎餅を咥えていて喋れない)」
と言って軽く手を挙げるだけだった。平常道りの反応ではある、が早苗としてはもう少し威厳ある状態でいて欲しいのだが……。はぁ、と溜息を吐きつつ着替えを始めた。
彼女等二人の神が早苗と出会ったのは、まだ両親が存命していた頃の事。
彼女等は東風谷の家に待ち望んだ『強力な力』の持ち主が誕生した事を感じ取り、すぐさまその子の元へと向かった。
その子は確かに強力な力を秘めてはいたものの、その力が発現するか、人としての生活で消えてしまうか、五分のものだった。
例えるならば川だ。放っておけば乾ききってしまい消え去るかもしれないが、その一方でゆっくりと大河へと成長する可能性もある。
それ自体大したことでは無く、問題だったのはその強大さ故に、下手に外部から手を出せない事だった。つまり、完全に早苗次第だった、と言う事だ。
五年後ならば判断が付くだろう。だから彼女等は賭けた。早苗という、久しく自分らを見る事が出来るかもしれない人間の可能性に。
そして早苗が五つの時。奇しくも両親の亡くなる丁度一年前。早苗と二人の神は出会った。
早苗は彼女等に多大な影響を受けた。其れは礼儀作法であったり、毅然とした態度の保ち方であったりと様々だったが、今現在の東風谷早苗を形作るためには二人の存在は必要不可欠であると言いきれる。
早苗はいつか二人の神に恩返しする事を目標としている。が、それは胸の奥にしまっている。黙って恩返し、って格好いいなぁ、と言うのが本音だが。
着替えを終え、クローゼットを閉めた時、
「早苗」
神奈子に声を掛けられた。
「何ですか?神奈子様」
「なんだか楽しげだねぇ。何か良い事でもあったかい?」
「あー。それは私も感じたよー。早苗―何かあったのー?」
「……えっと、実はですね。後輩の子とですね、ずぅっと友達でいましょうねぇ~ってね」
赤面しつつ、もじもじしている早苗。その様子を見てニヤニヤとする二神。
「嬉しそうだねぇ」
「そうだねぇ」
「こっちも幸せになるねぇ」
「全くだねぇ」
「可愛いねぇ」
「私の子孫だからねぇ」
ニヤ付きながらチラチラと早苗に視線をやる。早苗を弄る時だけは異様に息が合っている。実に嫌な神だ。
「もうっ!!知りません!」
と、階下から『御飯よー』と声が聞こえてきた。
「それじゃあ夕食を食べてきます。少し持ってきましょうか?」
「おっ、そりゃいいね」
「メニューは何ー?」
「お母さんの特製カレーです」
ニヤリと笑う早苗とは対照的に硬化現象を起こす二神。
「じゃ、後ほど」
返事も聞かずにドアを閉じる。何やらワーワーと聞こえてくるが気にしない辺り、子孫も子孫と言ったところか。
「…またあれを食べる時が来てしまったのか……!」
一通り騒いだ後沈んでいる神奈子。その時、それまで一緒にふざけていた諏訪子の目がスゥッ、と変わった。
「神奈子、…あの事はまだ言わないのかい?」
トーンの違う声。正しく神としての威厳に溢れるモノだった。
それを受けて神奈子も神としての返答をする。
「…ああ。まだ、大丈夫だ」
「後に回して辛くなるのは私やあんたじゃあなくて、早苗かも知れないよ」
「それでも、さ」
吐き出すように神奈子が言う。
「あの子には…ギリギリまで年相応の子供として生きていて欲しいんだ。私の独善的な我儘かもしれないけれど。
……あの子には選択してもらわなくてはならないんだから」
数日後、水曜日――町中の喫茶店。
「ん~良い映画でしたね~」
大きく伸びをする夕子。今日は学校帰りに早苗と共に映画を見に来ていた。
レディースデイで安いとか、偶にはショッピングとかお喋りじゃなく別の事もしたい等と言って早苗を誘い出したのだが、結局のところ、一緒に遊びたかっただけだというのは想像に難くない。
ちなみに今回観た映画は、今ランキング三週一位と言う触れ込みの恋愛物だった。
濃いラブシーン等も無く、一昔に流行った純愛を本当の意味で再現した様な内容で、王道をひた走るその様は早苗にとっても好意的に見る事が出来た。
「本当に何と言うか…ロマンチックな物語でしたね。綺麗で切なくて」
「そうですね~。あ、店員さ~ん。アイスコーヒー二つで」
映画の余韻に浸りつつ、その内容について語り合っていた所、またも唐突に夕子が話し出した。
「それにしても、ですよ。何て言うか、ああいうハナシを見ると“永遠の愛”とか“真実の愛”とかっていうものについて考えちゃうんですよね、ワタシ~」
「あら、夕子さんもそういうモノに興味があるんですか?」
「あぁ~!先輩ひっど~い!これでも私恋に恋する青春時代真っ最中ですよ?夢見たりはしちゃいますよ実・際!」
あからさまにふざけた調子で、大げさなジェスチャーをしつつ話す夕子。その様子を見て笑いながら、
「ふふ…ご…御免なさい?ん~…じゃあ好きな男の子でも居るんですか?」
「いや、居ませんけどね?クラスの男子なんてガキっぽくて話にならないですし。私の好きなタイプは、カッコよくって~背は高すぎず低すぎずで~優しい人が良いなぁ~」
言ってからん~?と唸り、ポン、と手を叩く。
「なるへそ!つまり私のタイプは早苗先輩みたいな人って事ですなあ、うん!」
「っふふ!もう!褒めても何も出ないですよ?」
「え~?デザート一品分も~?」
一拍置いて二人同時に笑いだす。
「で、ですよ先輩。実際の所、先輩は今好きな人とかはいないんですか?」
会計を済ませ店を出ると共に質問される。
「居ますよ。例えば、夕子さんとか」
「も~先輩!そーゆーのじゃなくてっ!そう、永遠の愛を誓いたくなるような、恋愛的な話ですよ!!」
「そうね…夕子さん。まず、永遠の愛なんて存在しませんよ?」
それは時折早苗の言う言葉。人は何時でもほんの少しの過去と現在で手いっぱい。である以上永遠なんて認識できない。だから『永遠なんて無い』。
それが早苗の持論であった。
「それにね。私は誰かを愛するというのは、『恋』呼べるのだと思うんです。相手が家族でも、友人でも、異性でも。――夕子さんは私の事、好きですか?」
「え!?…えっと、好き、ですけど」
面喰っている夕子に笑いかける。
「有難う。私も好きですよ。私は貴方が好きで、貴方は私が好き。それだけでとても素敵で、充分ではないですか?
今だけで充分幸せ過ぎる。永遠では無くても、むしろ消えてしまうからこそ、何事にも代えがたいほど素晴らしいと、そう思うんです」
渋い顔で夕子が呟く。
「先輩の考え方は好きですけど。でもなぁ…永遠の愛ってロマンチックなのになぁ」
ブツブツと言い続ける夕子を見て数秒思案した後、早苗は夕子の手を掴み歩き出す。
「うぇっ!?ちょっ、先輩!?」
唇に指を当て微笑む早苗に観念し、夕子は黙って手を引かれた。そうして辿りついたのはこぢんまりと雑貨屋だった。
雑多に様々な物があった。コアな雑誌、流行りを逃した漫画。何処で売っているのだろう?と思う様な服、身の回りに知っている人の居なさそうなバンドのCD。
急に手を離しその山々を通り抜けた早苗は、何かを指さしたりしながら店主と思しき男性と話していた。
何分か待った後夕子の元へ戻り、夕子の手に何かを握らせる。
手を広げると指輪があった。シンプルなもので、ダイヤの代わりに青いガラスが嵌め込まれている。顔を上げて見れば早苗も同じものを持っている。
「この指輪自体は大した物ではないし、何の力も無い。けれど私達が願うだけで特別な指輪になるんです」
言葉を切って夕子を真正面から見つめる。
続けて言う。
「親愛の情でも、憧れでも、愛情でも。『永遠にこの気持ちが消えませんように』と忘れないように形として残せるんですよ。これ自体はいつか消えてしまうけど、これに願った事実は消えない。
私は貴方と永遠を信じる事は出来なくても、永遠を願う事が出来る。……いいえ、願いたいと思っている。夕子さん、受けてくれますか?」
それが先程の自分に対する慰めと誤魔化しである事に気付き、自然と夕子は微笑みを浮かべていた。
「もう、先輩ってば。――むしろ、私からお願いします。『永遠に』、先輩のことが、大好きでいられるように」
二人は暫し目を閉じ、願った。
――次は遊園地に行きましょうね!!――
夕子が次と言った場合、大体一週間以内には行動を起こす。だから予定を思い出しながら都合のいい日程を割り出した。
そう次の土曜日が良いだろう。次の土曜はどうですか?と言うとにっこり笑って『ハイッ!』と答えた。
それを思い出し、口に当てた左手の薬指には『誓いの指輪』。
――ここの方が何て言うか、力が強くなりそうじゃないですか――
言いながら少し大きめの指輪を嵌め、嬉しそうに笑っていた。
家について自室のドアを開ける。するとそこは少しばかり違う光景となっていた。
ベッドの上には神奈子。椅子には諏訪子。それは変わらない。
違うのは、真ん中に置いてある小さなテーブルに着いている金髪の女性。
「帰って来たかい、早苗」
神奈子が声を掛けるが、いつもの声では無い。それは早苗が久しく聞かなかった、神としての威厳ある声。
「早速で悪いが座りなさい。質問は後で聞くから、最後まで聞いてくれ」
「幻、…想郷?」
「そう。忘れられたモノたちの辿りつく場所。神や妖の住まう場所。行き場ないモノたちを全て受け入れる、最後の場所よ」
八雲紫と名乗った人(妖怪?)、は淡々と説明を続ける。
そこでは此方の世界で消えた物、幻と呼ばれる物が存在し、魔法や呪術が飛び交っているという。そして、消えそうなモノ達を積極的に受け入れているのだと。
「ま、つまりファンタジーを具現化した様な場所って考えて相違ないわ。和風の、だけど」
「そんな場所が在るんですか……でもなんでそんな話をしにウチヘいらっしゃったのですか?」
「それについては私らから話そう」
暗い顔の神奈子が口を開いた。早苗が来てからずっと渋面のままだ。
「実はね早苗。良くお聞き」
「私と諏訪子は、其処に行こうと思っているんだ」
言葉は耳に入っているのに、理解出来ているのに、分からなかった。しかし、呆然とする事も彼女には許されなかった。
「早苗、貴方、解っているのでしょう?私達の力が年々弱まっている事を。……私達はもう、消えてしまう寸前なんだよ。もう一月と持たないだろうね」
諏訪子が続ける。
知っていた。弱まっている事は。しかし、彼女等を見れる自分がいる限り、消えるなんて事はないと思っていた。
紫が諭すように語りかける。
「皆、良く聞いてね。状況を纏めて説明するから。
まず、この二人は何らかの手立てを打たなければ、後一月程度で消えてしまう。コレは此方ではもうどうする事も出来ないわ。神の重要性が薄れている此方ではね。
二つ目。手立ての一つ、多分最後の手段は『幻想郷に来る事』。あちらでは神は重要だし、何より人間が皆妖怪も神も認識している。消える事はないわ。
そして最後に、幻想郷へ移るのは次の満月の日。つまり『次の土曜日』の夕刻でなければならない」
「えっ…」
次の土曜日…?それは夕子と遊園地の約束をした日。
「なっ…何でその日なんですか!?」
今までにない早苗の剣幕に驚きながら、神奈子が申し訳なさそうに顔を伏せ、
「それは私達のせいなんだよ。…私は社に、諏訪子は湖に私達の象徴が眠っている。それは其処から引き離せなくて、私達は其れが無いとこの世に存在できない。それを幻想郷に持っていかなくてはならない」
一息ついてチラリと早苗を見る。目に涙をためて絶句している。
「それ程大きな物だと、幻想郷の設立者の一人、八雲紫の力を持ってしてもおいそれとはいかない。力が最大限発揮できる満月の時でなくてはならないのさ。――それを逃せば次は一月を過ぎてしまう。…今回しか、無いんだよ」
「そして早苗に決断を迫らなくちゃならない」
言葉に詰まった神奈子の後を諏訪子が続ける。
「幻想郷には此方の世界で忘れられたモノ、消えたモノが存在する。逆にいえば、あちらに行くという事は“此方で忘れられる”という事」
神奈子は、顔を伏せたまま唇を噛み締めている。
「コレは私達の我儘。私達は…早苗に忘れられたくない」
早苗の眼から、堪えていた涙が。
「私達と来るか、此処に残るか、選んで」
一筋、零れ落ちた。
早苗の嗚咽だけが響く。誰も声を上げない。
どれ程そうしていただろうか。ようやく早苗が、掠れた声を出した。
「その時を逃したら……もう次は無いんですね…」
「そうよ。それを逃せば、貴方が幾ら覚えていようとしても、どれ程大事に思っていても、彼女達は消えてしまう」
紫が即座に応える。事実のみを述べる簡潔な言葉だった。
「少し…考えても宜しいですか…?」
「どうぞ。けれど今日が水曜日。もう時間が無い事は念頭に置いて頂戴」
紫は冷静に応える事が最もこの場では必要だと知っている。それが彼女のためだということも。
紫が早苗の部屋から出ていく。それに合わせて神奈子も出ていく。
「早苗。後悔の無い様にね」
諏訪子だけが声を掛けた。
その日の夜。早苗は眠れなかった。自分を大切に育ててくれた義両親。慕ってくれる、大切な後輩、夕子。他にも、捨てられない多くの物がある。
しかし、神奈子と諏訪子も同等に大切な存在だ。自分の存在に不可欠で、比べようがない。
諏訪子は後悔のない様に、と言ったが、例えどちらを選んでも後悔するに決まっている。
どちらかに天秤を傾けては胸が張り裂けそうになる。そんなことを繰り返している内に朝になってしまった。
木曜日――
「お義母さん…お願い。今日は学校を休ませて」
どうしても今、夕子には逢いたくなかった。昨日出て言ってから、神奈子達も現れない。
早苗自身の天秤が大きく傾いてしまわないようにと無意識のうちに『力』を使って近づかないようにしていたのだ。
母は何故?と問うよりも、大丈夫か?と聞いてくれた。
それが嬉しくて涙が込み上げてきたが、堪えた。そして自室に戻り其れまでと同じ様に悩み続ける。
(果たして自分はどうすれば後悔しないでいられるのだろうか?)
今までにも数度訪れた悩みだ。そしてその解決法もまた、同じだった。
照りつける真昼の日差しを背に、ゆっくりと坂を上る。登りきった先には墓地があり、そこには早苗の実の両親が眠っている。
今までも悩みが身の内を掛け回り続ける時、必ずここに来た。両親と話が出来る訳ではないが、それでも両親に相談をしていた。
――お父さん、お母さん。私、どうしたらいい?――
今までと同じ相談。今までと同じ様に墓石は何も答えない。
そうして日が暮れ出したころ、早苗は決心して携帯電話を取り出した。
「ビックリしましたよぉ~!!先輩が学校サボって遊園地の予定前倒しにしよう!って言い出すなんて」
金曜日、早苗は夕子と遊園地に来ていた。二人とも左手の薬指にはあの指輪を嵌めている。
それなりに人気のある遊園地で、かなりの大きさがある。そして平日にもかかわらず視界には多くの人、人、人。休日に来ていたら、とは想像もしたくない所だ。
「私、そう言えば一度も学校休んだ事無くて、昨日が初めてだったんです。ついでにサボりっていうのも経験しておこうかな、と思って」
悪気のない笑顔で言う早苗に、夕子も陽気な笑顔を向ける。
「ふっふ~ん?先輩もワルですね~?」
言いながら脇腹を小突く。
「よしっ!そういうことなら思いっきり遊んじゃいましょう!ささ、まずはジェットコースターですよ!」
行きますよ先輩、と言いながら夕子が駆けていく。その背中を見る早苗の笑顔に一瞬影が落ちた。それは刹那の内に消え去りさっきまでの笑顔に戻っていた。
それからは瞬く間に過ぎて行った。
コーヒーカップに乗った。
お化け屋敷で思い切り叫んだ。
昼食を美味しいね、と楽しんで食べた。
売店のアイスが甘すぎると苦笑いした。
夕子はとても楽しそうだった。
早苗も、とても楽しそうだった。
「やっぱり遊園地の最後は観覧車ですよねぇ!」
空が赤く染まる頃。一日中遊び通したにもかかわらず夕子はまだ元気溌剌と言った感じだ。
二人は並んで座っている。夕子が『隣でないとダメですよ』と言ったからだ。
「夕子さん、今日はとっても楽しそうでしたね」
「あったり前ですよ!なんたって先輩と一緒だったんですもん!」
飛びきりの笑顔で答えてくれる。天秤が動きそうになる。今の自分はどんな顔をしているのだろう。見られぬように顔を逸らした先に―――。
大きな、大きな夕日があった。それだけの事で感情は爆発した。
「……夕子さん。私いつも、永遠の愛なんて無いって、言っていましたよね」
黙ったかと思えば急に話し出す早苗に何かを感じた夕子であったが、気にせず先を促す。
「ええ。先輩らしくて、結構好きですよ、ソレ」
「私、今なら理解できます。無い事も、どうしようもない事も知っていて、それでも永遠を願ってしまう事。永遠であってほしいと願う、その気持ちが」
ぽたり、と逸らしたままの顔から滴が落ちる。続けて、ぽたり、ぽたり、ぽたり。
涙を流している。何故だかは解らない。けれど今、確かに早苗は泣いている。
「ど、どうしたんですか先輩!?」
慌てふためく夕子。その理由に彼女が気付く事は無いだろう。
「私は、…選択を迫られていたの。けれど、どちらも掛け替えの無い物で、どうすれば良いのか、全く分からなかった…。
けど、不意に思ってしまった。私が、大事なモノを、忘れるなんて、…絶対に嫌。でも、忘れられるのは、我慢できる。私が忘れなければ…と」
何を言っているのか分からない。その内容を、どうしても理解できない。
だけど、早苗が何かを自分に伝えようとしているのが、それだけは解る。だから、黙って聞き続けた。
「そう思っていたの…。だから、今日は、キリをつけようと思っていたの。なのに…それなのにっ…!」
そう言って早苗は夕子の胸に頭を当てた。
「えっ!!せっ、先輩!?」
「お願い…私を、忘れないで…憶えていて…私を、私と居たことを」
「大丈夫。私が先輩のコト、忘れるワケ無いじゃないですか。だって、私の大好きな先輩ですもん」
観覧車の到着まで後僅か。ようやく早苗は夕子から離れた。
目が赤くなっていて、鼻を啜っていて。
それでも早苗の顔はどこか晴れやかだった。
「本当に、有難う。私も、大好きですよ。夕子さん」
早苗は今までで一番の笑顔を夕子に向けた。
そしてついに。
別れを告げる事は出来なかった。
土曜日――夕刻。守矢神社境内。
早苗、諏訪子、神奈子。そして紫が揃っていた。
「本当に、…後悔しないかい、早苗?」
神奈子が言う。彼女は、言葉にはしないが、早苗は此方に残るべきだと考えていた。神としてではなく、人として生きていて欲しかった。
「大丈夫です、神奈子様。大事な物は、キチンとココに在りますから」
すっ、と胸に手を添える。忘れない、絶対に。私は憶え続ける。大切な全てを。
ただ――
「紫さん。一つだけ」
「何かしら?」
「幻想郷に入れば忘れられる、と言いましたよね。それは、記憶から消え去る、と言う事ですか?」
「――それは違うわ。正確には、そう。薄い記憶になる、と言った所ね。東風谷早苗が誰だか知っているし、自分にとってどんな人間だったかも知っている。それでも“気に留めなくなる”という感じよ。貴方の事を思い出しても探そうとも思わないし、失踪したと話題にも上らない」
「それでも、憶えては、いるのですか。……充分です」
「行きましょう、神奈子様、諏訪子様。幻想郷へ――――」
そして彼女等は幻想となった。
何日経っても早苗先輩は学校に来なかった。
最後に会ったのが遊園地の時だったので、嫌な予感がしていた。どこか、知らない所へ消えてしまうのではないかと―――。
月曜日は体調がまだ優れないのかとも思ったが、火曜日も、水曜日も現れなかった。
そして先輩の担任に、先輩は具合でも悪いのか、と訊ねた時に、違和感があった。
「ああ、そういや、東風谷なんて名前のヤツが居た様な…」
先輩は校内では有名人だ。いや、町内でも知っている人間は多い筈。こんな反応は有り得ない。すぐに私は友人や、先輩の教室で先輩の事を訊ねた。
皆答えは担任と同じ様な感じだった。
――私を、忘れないで――
嫌だった。心がざわついた。おかしい、変だ!私は学校を飛びだして、先輩の家に向かった。
今まで二度程しか行った事が無かったが、道をキチンと覚えていた。
呼吸を整え、チャイムを鳴らす。キンコン。
ガチャリ、と扉を開けて先輩のお母さんが顔を出す。
「あら、夕子ちゃん。どうしたの?」
「こんにちは。あの…先輩、居ますか?」
途端に顔が曇る。まるで、
「御免なさい、誰のことかしら?」
先輩の事を、知らない様な。
「さっ…早苗さんですよ!東風谷早苗!私の一つ年上で高校三年生!この家に住んでいたでしょう!?」
おかしい。おかしいおかしいおかしい!だって、たった数日前の事じゃない!何でみんな憶えてないの!?
「……あぁ、そう言えば、そうだったわねぇ。何で、忘れてたのかしら…?」
「…忘れて、たんですか……?」
そんなバカな…。一緒に住んでいたことを、忘れるなんて…。
――忘れないで…憶えていて…私を、私と居たことを――
そして、唐突に、解ってしまった。
先輩は、“忘れられてしまった”んだ。だってほら、先輩のお母さんだって、思い出しても慌てもしない。警察に連絡したり、捜索願を出したりもしないだろう。
忘れられるよりも、残酷だ…。
余りの事に涙も出なかった。その内に気付いた。
何故私は憶えているのだろう。恐らく誰もが先輩の事を“忘れて”居る筈なのに…。
頭に当てた手に目が行き、薬指の指輪に気付く。
(あっ!)
コレのお陰?先輩と誓いあった指輪の…?
指輪をそっと撫でる。どうしてかそれで確信した。
この指輪に力が宿って、私に先輩の事を忘れないようにしてくれている。
そう思った途端涙があふれた。私だけでも忘れずにすんだ、その喜びに。
(忘れない!絶対に忘れない!私は、絶対に)
一週間後――
徐々に先輩の事が思い出せなくなっていく。指輪から少しずつ力が消えている。
嫌だ、忘れたくない。嫌だよ…先輩。
十日後――
先輩の声が思い出せない。高かっただろうか?低かっただろうか?
指輪を見ても思い出すのに努力が要る様になった。
もう一度声が聞きたいよ…。
十四日後――
顔が、背丈が、髪型が、あの笑顔が思い出せない。
もう…もう一度思い出せるかどうかも…解らない。先輩……。
カラン。ドアが開いた。
今日も早苗の左手薬指にはあの指輪が光っている。
何度か来た事があるが、香霖堂は少し埃っぽく、余り長居したいとは思えない場所だった。
「おや?君は確か…」
「早苗です。山の神社の。神奈子様の使いで来ました」
手に持った包みを開く。すると少し日に焼けた本が現れた。此処の所、神奈子や諏訪子は様々な本を読んでいる。
それが勉強なのか、娯楽なのかは分からないが、本を読むのは良い事だ。
「あぁ、そうか。彼女には本を貸していたね。何て言っていたかな?」
「ええ。とても興味深いと仰ってました。続きがあるなら是非、と」
「はは。コレは良い事を聞いた。神でも人が作った物で楽しめるモノなんだね。いいよ。気に入ったなら続きを貸し出そう。ただ、条件がある。次は本人に帰しに来て貰おう。そして直接感想を聞こうじゃないか」
「ふふ。解りました。そう伝えておきます」
「よし。じゃあ取ってくるよ。少し待ってくれ」
霖之介が店の奥に消える。待っている間にキョロキョロと店の中を見渡す。
いつかの雑貨屋も、こんな感じだったな。そう思いながら。
そして――ピタリと早苗の動きが止まり、視線が釘付けになった。
「あったあった。いや、何処に仕舞ったか忘れてしまうと中々困るものだね………?」
霖之介が戻った事にも気付かない様子でいたので一声掛けると、早苗が口を開く。
「あの…コレ…見せてもらっても…?」
「ああ、構わないよ。それは無縁塚で拾って来たんだ。それもきっと“忘れられた”品物何だろうね」
霖之介の言葉は耳に届かない。ソレを手に取り、ゆっくりと見回す。その内側に――
夕子さんへ
と彫られていた。それはあの時、店主に頼んで指輪に彫ってもらった文字。
気に入ってくれればいいと、内心ドキドキで渡した、指輪。
知らず知らずのうちに涙が零れる。
(ああ……あの子も、“忘れて”しまったのか…)
膝が崩れて座り込んでしまった。解っていた。覚悟もしていたし、もう大丈夫と思っていた。しかし、忘れられるというのは、ああ、こんなにも辛い事なのか…。
「…その指輪は君にあげよう」
霖之介が呟くように言う。
「元々、売り物に出来そうではなかったんだ。名前も彫られていたし、何よりそれは本来ペアの物だからね。どうやら君が本来の持ち主の様だし」
フルフルと早苗が首を振る。
「いいえ。本当の持ち主は、もう、“忘れて”しまった様です。幻想郷へ…来てしまいましたもの」
「けれど君は憶えている。ならばそれは君が持つべきだ」
指輪を握らせ、包んだ本を押しつける。そして、屈んで、早苗の頭をゆっくりと撫でる。
「持ち主は忘れてしまったのだろうが、君は憶えている。時折、指輪を見て思い出してあげなさい。君しか思い出せる人はいないのだから」
肩に手を置いて続ける。
「思い出って奴は何時でも思い出して貰いたがっている。けれど『ソレ』はもう君にしか思い出せない。受け入れてやってくれ。彼らはとても寂しがり屋だから」
少し、暖かな空気が流れた。
「すいません…恥ずかしい所をお見せしました」
「いやいや。美しい女性であれば、何の事は無いよ。それに君は客だしね。邪険に扱って二度と来てくれなかったらと思うと下手は踏めないよ」
霖之介の軽口にふふっ、と笑う。
「本当に、有難うございます」
「感謝の意を表したいなら常連になってくれると助かるよ。客が来ない事には暇でしかたないからね」
紅白や黒白は客じゃあないからね、と続ける。
「解りました。では、また近いうちに」
「待っているよ」
そうして。帰り道、手ごろな岩に腰掛けて、早苗は追憶する。思い出の中の出来事は非常に美しく、彼女を郷愁に浸らせた。
浮かぶのは、隙の無いしっかり者の義母。似た趣味を持つ義父。
そして可愛い後輩の、この上ない笑顔。
十分もすると、彼女はしっかりとした足取りで再び歩き出した。恐らくもう郷愁に胸を痛める事はあるまい。悲しみも切なさも、『思い出』になったのだ。
それは人によってはとても哀しい事だろう。
しかし、彼女は『思い出す』。悲しみも切なさも、
――先輩!――
あの笑顔も。私だけは絶対に忘れない。私は、憶えていられるのだから。
誰かを愛する行為を“恋”と呼称するなら、それは確かに恋と呼べるものだったろう。
そしてそれを“恋”と呼ぶなら、これは確かに“失恋”と言えるものだった。
これが東風谷早苗の、“初恋”と“失恋”の物語。
苦手な方、ご注意下さい。
誰かを愛する行為を“恋”と呼称するなら、
其れは確かに恋と呼べるものだった。
早苗は所用で香霖堂へと向かう最中、ふと空を見上げた。
何処までも透き通る美しい蒼。夜には美しく着飾る月も、
今はまだその存在を気付かせぬ程に空に馴染んでいた。
此方…幻想郷に来る前の、様々なモノが雑然としていた空を思い、目を閉じた。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
――先輩、どう思います?――
ふと頭に浮かぶ、いつか聞いた言葉。それは懐かしい言葉。
そして眼を開け、其処にある筈の無い飛行機雲を幻視した時。
東風谷早苗は懐かしく、大切な思い出の波に呑まれた。
「……先輩!早苗先輩!!」
遠くから呼び掛けられた声に反応し、早苗は振り向いた。
高校三年生の初夏。四限も終わり、持参の弁当を持って何処で昼食を食べるか?
と、考えを巡らせながら廊下を歩いていた時の事である。
振り向くと、自分めがけて駆けてくる少女の姿が目に入った。
平均的な背丈に、子供らしさの残る、ともすれば小学生と言われかねない顔。
彼女の動きに合わせるように波打つポニーテイル。
少女は早苗の前ではぁはぁと息を荒げながら止まり、スー、ハーと大仰な動きで深呼吸をして落ち着き、はきはきとやや大声で喋る。
「はぁ…あ、先輩取り敢えずコンニチハ!それでご飯一緒に食べませんか!?」
「ふふ。今日も元気があって宜しいですね。ええ、良いですよ。じゃあどこで食べましょうか?」
「屋上が良いですよ。今日は何て言っても天気がいい&風が涼しい!屋上はこの上ない昼食スポットって噂で持ち切りですよ!!」
「あら、そうなの。じゃあそうしましょう」
早苗がにっこりとほほ笑みかけ、少女もにかっ、と笑う。連れだって屋上へと向かった。
東風谷早苗は所謂、高根の花、と呼ばれる存在だった。学校内では知らぬ者も居ない。
勉学は元より、地域の清掃活動等にも積極的に参加し、人当たりも良い。
更に親は大きな神社の神主である。羨望を受けて当然という程度には、彼女は恵まれた環境と才能を持っていた。
また、それ故にある種の孤独を彼女は感じても居た。往々にして羨望と嫉妬は同時に向けられるものだ。
だが、物腰の低さ、人当たりの良さが其れをさせなかった。
彼女を羨めば羨むほど、妬めば妬むほどに、自らの醜さに直面させられるほど高潔だった。
性格がもう少し捻くれていれば、子供らしければ、或いは過剰に大人らしければ。
彼女の何某かを目的に誰かが寄って来ただろう。しかしそうはならなかった。
そして何時からか、皆は早苗に高潔で素晴らしい人間であることを期待するようになり、早苗はその期待に全力で応えようとした。
その繰り返しの結果、彼女は孤独になった。
彼女の周りに人は集まるが一定の距離以上近づこうとする者はいなかった。『誰もが尊敬する偶像』であることを無自覚に求めていたのだろう。
そんな折、『彼女』が出逢った。
其れは今では余り行かなくなった柔道部での事である。新入生達の体験入部の時間。
顧問が現部員達の力を見せると言いだし、持ち前の勤勉さで既に部内で一二を争う強さを誇っていた早苗と、部長の試合を行った。
結果は早苗の背負い投げ一本勝ち。実力の拮抗する相手だからこそ一瞬の試合。感嘆の声を上げる新入生達の中に彼女は居た。
日も暮れて暗くなった校門で彼女は待っていた。早苗に気付くなり近づいて、
「えっと、東風谷先輩!惚れました!友達からでお願いします!」
物凄い勢いでお辞儀をした。
それがはじまり。
その突飛な行動に面喰っていた早苗だったが、直ぐに快く了解した。
彼女は大喜びで駆けまわると(文字通り駆けまわっていた)、強烈な印象を与えるだけ与えて帰ってしまった。
彼女の名前は宇佐美夕子と言う。
何でも遠方から越して来たらしく、友人の一人も居ない土地での暮らしに(そうは見えなかったが)ひどく不安を覚えていたらしい。
そんな中で見た華麗な一本背負いは、夕子の不安の感情を一瞬で尊敬に変える程鮮烈に焼きついたようだった。
彼女はとても行動的で、校門で早苗に逢う前に既に入部届けを出していたり、『遊びに行きましょう!』と誘ったり、昼食の多くを共にしたり、いつの間にか呼称が早苗先輩に変わっていたりした。早苗が本当はとぼけた性格をしていて、いつもは気を張っている事も、いつの間にか知られてしまっていた。
そんな人は早苗にとって初めてであり、多少対応に困ってしまったが、それでも彼女の事を非常に好意的に捉えていた。
趣味が合う訳でもないのに、彼女と話す時はこの上なく心が安らぐのだ。それも今までは――人間相手には――無かった事。
夕子は、あっという間に誰よりも早苗に近い存在へとランクアップしていった。
「ほらぁ先輩!とっっっても気持良さそうですよ!」
「本当に…良い風ですね…」
屋上の扉を開けると、成程、暑くは無くそれでいて心地の良い風が吹いていた。思ったほど人は居らず、良さそうな場所もまだ残っていた。
この学校では屋上が解放されている。
その理由はとても単純で、生徒に全幅の信頼を寄せている…からではなく、単純に飛び降りたり、誤って落ちる事が無いと言えるからである。
鉄のフェンスに幾重にも撒かれた鉄条網。こんな所で飛び降りるくらいなら別の場所を選ぶだろう、と思い苦笑いを浮かべながら進む。
歩み進むたび、チラチラという視線を感じる。そのたびに思う。
(コレが今までの他人との距離。其れを思うと夕子さんはやはり私にとって特別、と呼べる存在なのね)
彼女にとって夕子は既に二度とは得られない程の得難い存在になっていた。
適当な場所に腰を降ろし、弁当を開ける。隣で夕子はガサガサとビニール袋の中からサンドイッチと紙パックオレンジジュースを取りだす。
何時もと変わらない、其れでいて数少ない和やかな時間。取りとめのない話で盛り上がる。
「先輩、どう思います?」
唐突に話を変える。夕子はよく話が二転三転するので慌てずに対応する。
「何をですか?」
「真昼の月には何があるのか、ですよ」
彼女の視線を辿ると月が浮かんでいた。昼で尚且つ薄雲が被さっているため、気付き辛い。
良く見つけられたものだ、と感心しながら考える。
「そうですね。月の兎は自らの身を炎に投じたモノとされていますね。その周りにはその時の煙が漂うとされていますから、昼の月はその煙じゃあないかしら?」
その答えには不満なのか頬を膨らませて、
「先ぱぁ~い。ロマンが無いですよぉ、ロ・マ・ンが」
「あらあら。御免ね、余り思い浮かばなくて…」
「…ん。イヤイヤ、良いんですよ。あたしの考えも余り変わんないし」
少々決まり悪そうにいう夕子。
「どんな考えですか?聞かせて?夕子さんの考え」
ん~とですね、と頭を書きながら言う。
「今先輩が言ってた話ですけど。兎が何とかしようって右往左往してる時に狐と猿が手助けしてくれた~って聞いたことあるんですよ。
狐と猿だって手伝ってるし、協力し合うほど仲がいい三匹だったんですよ。離れ離れにしちゃう方が可哀想じゃないですか?って事で昼の月には狐と猿が居るんだと思います。其れで昼と夜の境で逢えるんですよ」
どうですか、と早苗を見る。
「…そう、ですね。確かに、離れ離れは可哀想ですね」
「でしょう!?だから絶対近くに置いてくれてると思うんですよ。今もきっと仲のいいままで。そう考えると夢がありますよね!」
嬉しそうな夕子と対照的に早苗の顔には影が射していた。まるで子供の様だが、今の話を瞬間的に夕子と自分に置き換えてしまったのだ。
この程度でダメージを受けるほど自分は弱くは無かった筈なのに。
敏感に察した夕子が続ける。
「だからですね、先輩。そんな風に私と先輩もずっと、ず~っと仲良くしましょうねっ!」
言うなり早苗の胸に飛び込んでくる。彼女その見た目に反してとても大人だ。私の気持ちを直ぐに察して、喜ばせようとしている。
後輩に気を使わせてしまったなぁ、と小さく反省。
「そうね。何時までも末長く、仲良くしましょうね」
「ははっ!先輩、それじゃプロポーズみたいですよぉ!」
屋上に楽しげな笑い声が響く。
そして早苗は深く深く願う。どうか、何時までも共に居れますように。
「ただいま帰りました」
帰宅した早苗の前に母が現れた。どうやら食事の用意をしていた様でエプロンを身に着けている。
「お帰り、早苗ちゃん。今日は大分過ごしやすかったわね」
「ええ。でも、明日はグッと暑くなるみたいですよ。夏らしくて私は大歓迎なんですが」
「あらそう?そんな早苗ちゃんに朗報です!一足先に夏を届ける一品、今日の晩御飯はカレーよ。それも私の特製のヤツ」
「え!!?」
瞬間、早苗が固まった。彼女の作るカレーは問題が多いのだ。まず、量が多い。一回作ると丸二日はカレー以外食べられない。
そしてもう一つ、異様に辛いのだ。なのにとても美味しい為際限なく入る、つまり満腹になるまで食べてしまうのだ。だから、カレーの後は体重が増えてしまう=質素な食事にしなければならないのだ。
「…そーですかー嬉しいなー」
大根役者の様な声を出してしまう。それほどに一大事である事を理解していただきたい。
「あら、そんなに喜んでくれるなんて嬉しいわー」
母も棒読みで返してくる。この対応の早さ、やはり侮れない。
「ま、今日も疲れたでしょう?取り敢えず着替えてきなさい」
パチリ、とウインク一つ。はい、言う早苗の答えを背に台所へ向かう。
そんな母に向けて、聞こえぬよう小さな声で、何時もの様に感謝を告げる。
「ありがとう、義母さん」
階段を上がり向かって右奥の部屋が早苗の部屋だ。ドアの前に立ち、ドアノブを握り、引き開ける。
それと同時に早苗は本日二度目の硬化減少を引き起こした。
早苗には三つの秘密がある。
一つ目は、今の両親とは血が繋がっていないという事。
早苗の実の両親は既に他界している。早苗が六つの頃、大きな交通事故に巻き込まれてしまったのだ。
今御世話になっているのは父の兄夫婦で、事故の後すぐに養子として引き取ってくれた。
それから十二年経つが、その間ずっと実子の様に接してくれている。
早苗は感謝という言葉では表せない気持ちを抱き続けている。
二つ目は、ロボットものの作品に目が無いという事。
子供の頃に偶然テレビの再放送で見たGガ○を忘れられず、片っ端から見倒した。結果、ロボット、それに準ずるものに対しては一過言ある、と言う人物になっていた。義父にはばれてしまい、鉄人やマジ○ガーに関しての知識を叩きこまれてしまった。
この二つは既に夕子にも話してしまっている。最後の秘密は、両親にも夕子にも話していない。
その秘密とは、彼女の家族は今、五人家族であるという事。
つまり――
「何をしてらっしゃるんですか…御二方…」
がっくりと肩を落としながら自室の光景を改めて確認する。
ベッドの上には紫髪の女性が寝転がりながらファッション雑誌を捲っている。時折『あ~』だの『う~』だのと呻きながら顔を顰めている。
入って右角に配置してある学習机。今は本来の用途で使用されていない。
金髪の少女が、座っている椅子を傾けながら机の上に足を放り出つつ、漫画を片手に煎餅を齧っている。
この二人が正真正銘の神、山坂と湖の権化たる八坂神奈子、土着神の頂点たる洩谷諏訪子そのものであると言って、何人が信じるだろうか。
だらけきった様子の二人は早苗に気付くと、
「お~お帰り~」
「う~(煎餅を咥えていて喋れない)」
と言って軽く手を挙げるだけだった。平常道りの反応ではある、が早苗としてはもう少し威厳ある状態でいて欲しいのだが……。はぁ、と溜息を吐きつつ着替えを始めた。
彼女等二人の神が早苗と出会ったのは、まだ両親が存命していた頃の事。
彼女等は東風谷の家に待ち望んだ『強力な力』の持ち主が誕生した事を感じ取り、すぐさまその子の元へと向かった。
その子は確かに強力な力を秘めてはいたものの、その力が発現するか、人としての生活で消えてしまうか、五分のものだった。
例えるならば川だ。放っておけば乾ききってしまい消え去るかもしれないが、その一方でゆっくりと大河へと成長する可能性もある。
それ自体大したことでは無く、問題だったのはその強大さ故に、下手に外部から手を出せない事だった。つまり、完全に早苗次第だった、と言う事だ。
五年後ならば判断が付くだろう。だから彼女等は賭けた。早苗という、久しく自分らを見る事が出来るかもしれない人間の可能性に。
そして早苗が五つの時。奇しくも両親の亡くなる丁度一年前。早苗と二人の神は出会った。
早苗は彼女等に多大な影響を受けた。其れは礼儀作法であったり、毅然とした態度の保ち方であったりと様々だったが、今現在の東風谷早苗を形作るためには二人の存在は必要不可欠であると言いきれる。
早苗はいつか二人の神に恩返しする事を目標としている。が、それは胸の奥にしまっている。黙って恩返し、って格好いいなぁ、と言うのが本音だが。
着替えを終え、クローゼットを閉めた時、
「早苗」
神奈子に声を掛けられた。
「何ですか?神奈子様」
「なんだか楽しげだねぇ。何か良い事でもあったかい?」
「あー。それは私も感じたよー。早苗―何かあったのー?」
「……えっと、実はですね。後輩の子とですね、ずぅっと友達でいましょうねぇ~ってね」
赤面しつつ、もじもじしている早苗。その様子を見てニヤニヤとする二神。
「嬉しそうだねぇ」
「そうだねぇ」
「こっちも幸せになるねぇ」
「全くだねぇ」
「可愛いねぇ」
「私の子孫だからねぇ」
ニヤ付きながらチラチラと早苗に視線をやる。早苗を弄る時だけは異様に息が合っている。実に嫌な神だ。
「もうっ!!知りません!」
と、階下から『御飯よー』と声が聞こえてきた。
「それじゃあ夕食を食べてきます。少し持ってきましょうか?」
「おっ、そりゃいいね」
「メニューは何ー?」
「お母さんの特製カレーです」
ニヤリと笑う早苗とは対照的に硬化現象を起こす二神。
「じゃ、後ほど」
返事も聞かずにドアを閉じる。何やらワーワーと聞こえてくるが気にしない辺り、子孫も子孫と言ったところか。
「…またあれを食べる時が来てしまったのか……!」
一通り騒いだ後沈んでいる神奈子。その時、それまで一緒にふざけていた諏訪子の目がスゥッ、と変わった。
「神奈子、…あの事はまだ言わないのかい?」
トーンの違う声。正しく神としての威厳に溢れるモノだった。
それを受けて神奈子も神としての返答をする。
「…ああ。まだ、大丈夫だ」
「後に回して辛くなるのは私やあんたじゃあなくて、早苗かも知れないよ」
「それでも、さ」
吐き出すように神奈子が言う。
「あの子には…ギリギリまで年相応の子供として生きていて欲しいんだ。私の独善的な我儘かもしれないけれど。
……あの子には選択してもらわなくてはならないんだから」
数日後、水曜日――町中の喫茶店。
「ん~良い映画でしたね~」
大きく伸びをする夕子。今日は学校帰りに早苗と共に映画を見に来ていた。
レディースデイで安いとか、偶にはショッピングとかお喋りじゃなく別の事もしたい等と言って早苗を誘い出したのだが、結局のところ、一緒に遊びたかっただけだというのは想像に難くない。
ちなみに今回観た映画は、今ランキング三週一位と言う触れ込みの恋愛物だった。
濃いラブシーン等も無く、一昔に流行った純愛を本当の意味で再現した様な内容で、王道をひた走るその様は早苗にとっても好意的に見る事が出来た。
「本当に何と言うか…ロマンチックな物語でしたね。綺麗で切なくて」
「そうですね~。あ、店員さ~ん。アイスコーヒー二つで」
映画の余韻に浸りつつ、その内容について語り合っていた所、またも唐突に夕子が話し出した。
「それにしても、ですよ。何て言うか、ああいうハナシを見ると“永遠の愛”とか“真実の愛”とかっていうものについて考えちゃうんですよね、ワタシ~」
「あら、夕子さんもそういうモノに興味があるんですか?」
「あぁ~!先輩ひっど~い!これでも私恋に恋する青春時代真っ最中ですよ?夢見たりはしちゃいますよ実・際!」
あからさまにふざけた調子で、大げさなジェスチャーをしつつ話す夕子。その様子を見て笑いながら、
「ふふ…ご…御免なさい?ん~…じゃあ好きな男の子でも居るんですか?」
「いや、居ませんけどね?クラスの男子なんてガキっぽくて話にならないですし。私の好きなタイプは、カッコよくって~背は高すぎず低すぎずで~優しい人が良いなぁ~」
言ってからん~?と唸り、ポン、と手を叩く。
「なるへそ!つまり私のタイプは早苗先輩みたいな人って事ですなあ、うん!」
「っふふ!もう!褒めても何も出ないですよ?」
「え~?デザート一品分も~?」
一拍置いて二人同時に笑いだす。
「で、ですよ先輩。実際の所、先輩は今好きな人とかはいないんですか?」
会計を済ませ店を出ると共に質問される。
「居ますよ。例えば、夕子さんとか」
「も~先輩!そーゆーのじゃなくてっ!そう、永遠の愛を誓いたくなるような、恋愛的な話ですよ!!」
「そうね…夕子さん。まず、永遠の愛なんて存在しませんよ?」
それは時折早苗の言う言葉。人は何時でもほんの少しの過去と現在で手いっぱい。である以上永遠なんて認識できない。だから『永遠なんて無い』。
それが早苗の持論であった。
「それにね。私は誰かを愛するというのは、『恋』呼べるのだと思うんです。相手が家族でも、友人でも、異性でも。――夕子さんは私の事、好きですか?」
「え!?…えっと、好き、ですけど」
面喰っている夕子に笑いかける。
「有難う。私も好きですよ。私は貴方が好きで、貴方は私が好き。それだけでとても素敵で、充分ではないですか?
今だけで充分幸せ過ぎる。永遠では無くても、むしろ消えてしまうからこそ、何事にも代えがたいほど素晴らしいと、そう思うんです」
渋い顔で夕子が呟く。
「先輩の考え方は好きですけど。でもなぁ…永遠の愛ってロマンチックなのになぁ」
ブツブツと言い続ける夕子を見て数秒思案した後、早苗は夕子の手を掴み歩き出す。
「うぇっ!?ちょっ、先輩!?」
唇に指を当て微笑む早苗に観念し、夕子は黙って手を引かれた。そうして辿りついたのはこぢんまりと雑貨屋だった。
雑多に様々な物があった。コアな雑誌、流行りを逃した漫画。何処で売っているのだろう?と思う様な服、身の回りに知っている人の居なさそうなバンドのCD。
急に手を離しその山々を通り抜けた早苗は、何かを指さしたりしながら店主と思しき男性と話していた。
何分か待った後夕子の元へ戻り、夕子の手に何かを握らせる。
手を広げると指輪があった。シンプルなもので、ダイヤの代わりに青いガラスが嵌め込まれている。顔を上げて見れば早苗も同じものを持っている。
「この指輪自体は大した物ではないし、何の力も無い。けれど私達が願うだけで特別な指輪になるんです」
言葉を切って夕子を真正面から見つめる。
続けて言う。
「親愛の情でも、憧れでも、愛情でも。『永遠にこの気持ちが消えませんように』と忘れないように形として残せるんですよ。これ自体はいつか消えてしまうけど、これに願った事実は消えない。
私は貴方と永遠を信じる事は出来なくても、永遠を願う事が出来る。……いいえ、願いたいと思っている。夕子さん、受けてくれますか?」
それが先程の自分に対する慰めと誤魔化しである事に気付き、自然と夕子は微笑みを浮かべていた。
「もう、先輩ってば。――むしろ、私からお願いします。『永遠に』、先輩のことが、大好きでいられるように」
二人は暫し目を閉じ、願った。
――次は遊園地に行きましょうね!!――
夕子が次と言った場合、大体一週間以内には行動を起こす。だから予定を思い出しながら都合のいい日程を割り出した。
そう次の土曜日が良いだろう。次の土曜はどうですか?と言うとにっこり笑って『ハイッ!』と答えた。
それを思い出し、口に当てた左手の薬指には『誓いの指輪』。
――ここの方が何て言うか、力が強くなりそうじゃないですか――
言いながら少し大きめの指輪を嵌め、嬉しそうに笑っていた。
家について自室のドアを開ける。するとそこは少しばかり違う光景となっていた。
ベッドの上には神奈子。椅子には諏訪子。それは変わらない。
違うのは、真ん中に置いてある小さなテーブルに着いている金髪の女性。
「帰って来たかい、早苗」
神奈子が声を掛けるが、いつもの声では無い。それは早苗が久しく聞かなかった、神としての威厳ある声。
「早速で悪いが座りなさい。質問は後で聞くから、最後まで聞いてくれ」
「幻、…想郷?」
「そう。忘れられたモノたちの辿りつく場所。神や妖の住まう場所。行き場ないモノたちを全て受け入れる、最後の場所よ」
八雲紫と名乗った人(妖怪?)、は淡々と説明を続ける。
そこでは此方の世界で消えた物、幻と呼ばれる物が存在し、魔法や呪術が飛び交っているという。そして、消えそうなモノ達を積極的に受け入れているのだと。
「ま、つまりファンタジーを具現化した様な場所って考えて相違ないわ。和風の、だけど」
「そんな場所が在るんですか……でもなんでそんな話をしにウチヘいらっしゃったのですか?」
「それについては私らから話そう」
暗い顔の神奈子が口を開いた。早苗が来てからずっと渋面のままだ。
「実はね早苗。良くお聞き」
「私と諏訪子は、其処に行こうと思っているんだ」
言葉は耳に入っているのに、理解出来ているのに、分からなかった。しかし、呆然とする事も彼女には許されなかった。
「早苗、貴方、解っているのでしょう?私達の力が年々弱まっている事を。……私達はもう、消えてしまう寸前なんだよ。もう一月と持たないだろうね」
諏訪子が続ける。
知っていた。弱まっている事は。しかし、彼女等を見れる自分がいる限り、消えるなんて事はないと思っていた。
紫が諭すように語りかける。
「皆、良く聞いてね。状況を纏めて説明するから。
まず、この二人は何らかの手立てを打たなければ、後一月程度で消えてしまう。コレは此方ではもうどうする事も出来ないわ。神の重要性が薄れている此方ではね。
二つ目。手立ての一つ、多分最後の手段は『幻想郷に来る事』。あちらでは神は重要だし、何より人間が皆妖怪も神も認識している。消える事はないわ。
そして最後に、幻想郷へ移るのは次の満月の日。つまり『次の土曜日』の夕刻でなければならない」
「えっ…」
次の土曜日…?それは夕子と遊園地の約束をした日。
「なっ…何でその日なんですか!?」
今までにない早苗の剣幕に驚きながら、神奈子が申し訳なさそうに顔を伏せ、
「それは私達のせいなんだよ。…私は社に、諏訪子は湖に私達の象徴が眠っている。それは其処から引き離せなくて、私達は其れが無いとこの世に存在できない。それを幻想郷に持っていかなくてはならない」
一息ついてチラリと早苗を見る。目に涙をためて絶句している。
「それ程大きな物だと、幻想郷の設立者の一人、八雲紫の力を持ってしてもおいそれとはいかない。力が最大限発揮できる満月の時でなくてはならないのさ。――それを逃せば次は一月を過ぎてしまう。…今回しか、無いんだよ」
「そして早苗に決断を迫らなくちゃならない」
言葉に詰まった神奈子の後を諏訪子が続ける。
「幻想郷には此方の世界で忘れられたモノ、消えたモノが存在する。逆にいえば、あちらに行くという事は“此方で忘れられる”という事」
神奈子は、顔を伏せたまま唇を噛み締めている。
「コレは私達の我儘。私達は…早苗に忘れられたくない」
早苗の眼から、堪えていた涙が。
「私達と来るか、此処に残るか、選んで」
一筋、零れ落ちた。
早苗の嗚咽だけが響く。誰も声を上げない。
どれ程そうしていただろうか。ようやく早苗が、掠れた声を出した。
「その時を逃したら……もう次は無いんですね…」
「そうよ。それを逃せば、貴方が幾ら覚えていようとしても、どれ程大事に思っていても、彼女達は消えてしまう」
紫が即座に応える。事実のみを述べる簡潔な言葉だった。
「少し…考えても宜しいですか…?」
「どうぞ。けれど今日が水曜日。もう時間が無い事は念頭に置いて頂戴」
紫は冷静に応える事が最もこの場では必要だと知っている。それが彼女のためだということも。
紫が早苗の部屋から出ていく。それに合わせて神奈子も出ていく。
「早苗。後悔の無い様にね」
諏訪子だけが声を掛けた。
その日の夜。早苗は眠れなかった。自分を大切に育ててくれた義両親。慕ってくれる、大切な後輩、夕子。他にも、捨てられない多くの物がある。
しかし、神奈子と諏訪子も同等に大切な存在だ。自分の存在に不可欠で、比べようがない。
諏訪子は後悔のない様に、と言ったが、例えどちらを選んでも後悔するに決まっている。
どちらかに天秤を傾けては胸が張り裂けそうになる。そんなことを繰り返している内に朝になってしまった。
木曜日――
「お義母さん…お願い。今日は学校を休ませて」
どうしても今、夕子には逢いたくなかった。昨日出て言ってから、神奈子達も現れない。
早苗自身の天秤が大きく傾いてしまわないようにと無意識のうちに『力』を使って近づかないようにしていたのだ。
母は何故?と問うよりも、大丈夫か?と聞いてくれた。
それが嬉しくて涙が込み上げてきたが、堪えた。そして自室に戻り其れまでと同じ様に悩み続ける。
(果たして自分はどうすれば後悔しないでいられるのだろうか?)
今までにも数度訪れた悩みだ。そしてその解決法もまた、同じだった。
照りつける真昼の日差しを背に、ゆっくりと坂を上る。登りきった先には墓地があり、そこには早苗の実の両親が眠っている。
今までも悩みが身の内を掛け回り続ける時、必ずここに来た。両親と話が出来る訳ではないが、それでも両親に相談をしていた。
――お父さん、お母さん。私、どうしたらいい?――
今までと同じ相談。今までと同じ様に墓石は何も答えない。
そうして日が暮れ出したころ、早苗は決心して携帯電話を取り出した。
「ビックリしましたよぉ~!!先輩が学校サボって遊園地の予定前倒しにしよう!って言い出すなんて」
金曜日、早苗は夕子と遊園地に来ていた。二人とも左手の薬指にはあの指輪を嵌めている。
それなりに人気のある遊園地で、かなりの大きさがある。そして平日にもかかわらず視界には多くの人、人、人。休日に来ていたら、とは想像もしたくない所だ。
「私、そう言えば一度も学校休んだ事無くて、昨日が初めてだったんです。ついでにサボりっていうのも経験しておこうかな、と思って」
悪気のない笑顔で言う早苗に、夕子も陽気な笑顔を向ける。
「ふっふ~ん?先輩もワルですね~?」
言いながら脇腹を小突く。
「よしっ!そういうことなら思いっきり遊んじゃいましょう!ささ、まずはジェットコースターですよ!」
行きますよ先輩、と言いながら夕子が駆けていく。その背中を見る早苗の笑顔に一瞬影が落ちた。それは刹那の内に消え去りさっきまでの笑顔に戻っていた。
それからは瞬く間に過ぎて行った。
コーヒーカップに乗った。
お化け屋敷で思い切り叫んだ。
昼食を美味しいね、と楽しんで食べた。
売店のアイスが甘すぎると苦笑いした。
夕子はとても楽しそうだった。
早苗も、とても楽しそうだった。
「やっぱり遊園地の最後は観覧車ですよねぇ!」
空が赤く染まる頃。一日中遊び通したにもかかわらず夕子はまだ元気溌剌と言った感じだ。
二人は並んで座っている。夕子が『隣でないとダメですよ』と言ったからだ。
「夕子さん、今日はとっても楽しそうでしたね」
「あったり前ですよ!なんたって先輩と一緒だったんですもん!」
飛びきりの笑顔で答えてくれる。天秤が動きそうになる。今の自分はどんな顔をしているのだろう。見られぬように顔を逸らした先に―――。
大きな、大きな夕日があった。それだけの事で感情は爆発した。
「……夕子さん。私いつも、永遠の愛なんて無いって、言っていましたよね」
黙ったかと思えば急に話し出す早苗に何かを感じた夕子であったが、気にせず先を促す。
「ええ。先輩らしくて、結構好きですよ、ソレ」
「私、今なら理解できます。無い事も、どうしようもない事も知っていて、それでも永遠を願ってしまう事。永遠であってほしいと願う、その気持ちが」
ぽたり、と逸らしたままの顔から滴が落ちる。続けて、ぽたり、ぽたり、ぽたり。
涙を流している。何故だかは解らない。けれど今、確かに早苗は泣いている。
「ど、どうしたんですか先輩!?」
慌てふためく夕子。その理由に彼女が気付く事は無いだろう。
「私は、…選択を迫られていたの。けれど、どちらも掛け替えの無い物で、どうすれば良いのか、全く分からなかった…。
けど、不意に思ってしまった。私が、大事なモノを、忘れるなんて、…絶対に嫌。でも、忘れられるのは、我慢できる。私が忘れなければ…と」
何を言っているのか分からない。その内容を、どうしても理解できない。
だけど、早苗が何かを自分に伝えようとしているのが、それだけは解る。だから、黙って聞き続けた。
「そう思っていたの…。だから、今日は、キリをつけようと思っていたの。なのに…それなのにっ…!」
そう言って早苗は夕子の胸に頭を当てた。
「えっ!!せっ、先輩!?」
「お願い…私を、忘れないで…憶えていて…私を、私と居たことを」
「大丈夫。私が先輩のコト、忘れるワケ無いじゃないですか。だって、私の大好きな先輩ですもん」
観覧車の到着まで後僅か。ようやく早苗は夕子から離れた。
目が赤くなっていて、鼻を啜っていて。
それでも早苗の顔はどこか晴れやかだった。
「本当に、有難う。私も、大好きですよ。夕子さん」
早苗は今までで一番の笑顔を夕子に向けた。
そしてついに。
別れを告げる事は出来なかった。
土曜日――夕刻。守矢神社境内。
早苗、諏訪子、神奈子。そして紫が揃っていた。
「本当に、…後悔しないかい、早苗?」
神奈子が言う。彼女は、言葉にはしないが、早苗は此方に残るべきだと考えていた。神としてではなく、人として生きていて欲しかった。
「大丈夫です、神奈子様。大事な物は、キチンとココに在りますから」
すっ、と胸に手を添える。忘れない、絶対に。私は憶え続ける。大切な全てを。
ただ――
「紫さん。一つだけ」
「何かしら?」
「幻想郷に入れば忘れられる、と言いましたよね。それは、記憶から消え去る、と言う事ですか?」
「――それは違うわ。正確には、そう。薄い記憶になる、と言った所ね。東風谷早苗が誰だか知っているし、自分にとってどんな人間だったかも知っている。それでも“気に留めなくなる”という感じよ。貴方の事を思い出しても探そうとも思わないし、失踪したと話題にも上らない」
「それでも、憶えては、いるのですか。……充分です」
「行きましょう、神奈子様、諏訪子様。幻想郷へ――――」
そして彼女等は幻想となった。
何日経っても早苗先輩は学校に来なかった。
最後に会ったのが遊園地の時だったので、嫌な予感がしていた。どこか、知らない所へ消えてしまうのではないかと―――。
月曜日は体調がまだ優れないのかとも思ったが、火曜日も、水曜日も現れなかった。
そして先輩の担任に、先輩は具合でも悪いのか、と訊ねた時に、違和感があった。
「ああ、そういや、東風谷なんて名前のヤツが居た様な…」
先輩は校内では有名人だ。いや、町内でも知っている人間は多い筈。こんな反応は有り得ない。すぐに私は友人や、先輩の教室で先輩の事を訊ねた。
皆答えは担任と同じ様な感じだった。
――私を、忘れないで――
嫌だった。心がざわついた。おかしい、変だ!私は学校を飛びだして、先輩の家に向かった。
今まで二度程しか行った事が無かったが、道をキチンと覚えていた。
呼吸を整え、チャイムを鳴らす。キンコン。
ガチャリ、と扉を開けて先輩のお母さんが顔を出す。
「あら、夕子ちゃん。どうしたの?」
「こんにちは。あの…先輩、居ますか?」
途端に顔が曇る。まるで、
「御免なさい、誰のことかしら?」
先輩の事を、知らない様な。
「さっ…早苗さんですよ!東風谷早苗!私の一つ年上で高校三年生!この家に住んでいたでしょう!?」
おかしい。おかしいおかしいおかしい!だって、たった数日前の事じゃない!何でみんな憶えてないの!?
「……あぁ、そう言えば、そうだったわねぇ。何で、忘れてたのかしら…?」
「…忘れて、たんですか……?」
そんなバカな…。一緒に住んでいたことを、忘れるなんて…。
――忘れないで…憶えていて…私を、私と居たことを――
そして、唐突に、解ってしまった。
先輩は、“忘れられてしまった”んだ。だってほら、先輩のお母さんだって、思い出しても慌てもしない。警察に連絡したり、捜索願を出したりもしないだろう。
忘れられるよりも、残酷だ…。
余りの事に涙も出なかった。その内に気付いた。
何故私は憶えているのだろう。恐らく誰もが先輩の事を“忘れて”居る筈なのに…。
頭に当てた手に目が行き、薬指の指輪に気付く。
(あっ!)
コレのお陰?先輩と誓いあった指輪の…?
指輪をそっと撫でる。どうしてかそれで確信した。
この指輪に力が宿って、私に先輩の事を忘れないようにしてくれている。
そう思った途端涙があふれた。私だけでも忘れずにすんだ、その喜びに。
(忘れない!絶対に忘れない!私は、絶対に)
一週間後――
徐々に先輩の事が思い出せなくなっていく。指輪から少しずつ力が消えている。
嫌だ、忘れたくない。嫌だよ…先輩。
十日後――
先輩の声が思い出せない。高かっただろうか?低かっただろうか?
指輪を見ても思い出すのに努力が要る様になった。
もう一度声が聞きたいよ…。
十四日後――
顔が、背丈が、髪型が、あの笑顔が思い出せない。
もう…もう一度思い出せるかどうかも…解らない。先輩……。
カラン。ドアが開いた。
今日も早苗の左手薬指にはあの指輪が光っている。
何度か来た事があるが、香霖堂は少し埃っぽく、余り長居したいとは思えない場所だった。
「おや?君は確か…」
「早苗です。山の神社の。神奈子様の使いで来ました」
手に持った包みを開く。すると少し日に焼けた本が現れた。此処の所、神奈子や諏訪子は様々な本を読んでいる。
それが勉強なのか、娯楽なのかは分からないが、本を読むのは良い事だ。
「あぁ、そうか。彼女には本を貸していたね。何て言っていたかな?」
「ええ。とても興味深いと仰ってました。続きがあるなら是非、と」
「はは。コレは良い事を聞いた。神でも人が作った物で楽しめるモノなんだね。いいよ。気に入ったなら続きを貸し出そう。ただ、条件がある。次は本人に帰しに来て貰おう。そして直接感想を聞こうじゃないか」
「ふふ。解りました。そう伝えておきます」
「よし。じゃあ取ってくるよ。少し待ってくれ」
霖之介が店の奥に消える。待っている間にキョロキョロと店の中を見渡す。
いつかの雑貨屋も、こんな感じだったな。そう思いながら。
そして――ピタリと早苗の動きが止まり、視線が釘付けになった。
「あったあった。いや、何処に仕舞ったか忘れてしまうと中々困るものだね………?」
霖之介が戻った事にも気付かない様子でいたので一声掛けると、早苗が口を開く。
「あの…コレ…見せてもらっても…?」
「ああ、構わないよ。それは無縁塚で拾って来たんだ。それもきっと“忘れられた”品物何だろうね」
霖之介の言葉は耳に届かない。ソレを手に取り、ゆっくりと見回す。その内側に――
夕子さんへ
と彫られていた。それはあの時、店主に頼んで指輪に彫ってもらった文字。
気に入ってくれればいいと、内心ドキドキで渡した、指輪。
知らず知らずのうちに涙が零れる。
(ああ……あの子も、“忘れて”しまったのか…)
膝が崩れて座り込んでしまった。解っていた。覚悟もしていたし、もう大丈夫と思っていた。しかし、忘れられるというのは、ああ、こんなにも辛い事なのか…。
「…その指輪は君にあげよう」
霖之介が呟くように言う。
「元々、売り物に出来そうではなかったんだ。名前も彫られていたし、何よりそれは本来ペアの物だからね。どうやら君が本来の持ち主の様だし」
フルフルと早苗が首を振る。
「いいえ。本当の持ち主は、もう、“忘れて”しまった様です。幻想郷へ…来てしまいましたもの」
「けれど君は憶えている。ならばそれは君が持つべきだ」
指輪を握らせ、包んだ本を押しつける。そして、屈んで、早苗の頭をゆっくりと撫でる。
「持ち主は忘れてしまったのだろうが、君は憶えている。時折、指輪を見て思い出してあげなさい。君しか思い出せる人はいないのだから」
肩に手を置いて続ける。
「思い出って奴は何時でも思い出して貰いたがっている。けれど『ソレ』はもう君にしか思い出せない。受け入れてやってくれ。彼らはとても寂しがり屋だから」
少し、暖かな空気が流れた。
「すいません…恥ずかしい所をお見せしました」
「いやいや。美しい女性であれば、何の事は無いよ。それに君は客だしね。邪険に扱って二度と来てくれなかったらと思うと下手は踏めないよ」
霖之介の軽口にふふっ、と笑う。
「本当に、有難うございます」
「感謝の意を表したいなら常連になってくれると助かるよ。客が来ない事には暇でしかたないからね」
紅白や黒白は客じゃあないからね、と続ける。
「解りました。では、また近いうちに」
「待っているよ」
そうして。帰り道、手ごろな岩に腰掛けて、早苗は追憶する。思い出の中の出来事は非常に美しく、彼女を郷愁に浸らせた。
浮かぶのは、隙の無いしっかり者の義母。似た趣味を持つ義父。
そして可愛い後輩の、この上ない笑顔。
十分もすると、彼女はしっかりとした足取りで再び歩き出した。恐らくもう郷愁に胸を痛める事はあるまい。悲しみも切なさも、『思い出』になったのだ。
それは人によってはとても哀しい事だろう。
しかし、彼女は『思い出す』。悲しみも切なさも、
――先輩!――
あの笑顔も。私だけは絶対に忘れない。私は、憶えていられるのだから。
誰かを愛する行為を“恋”と呼称するなら、それは確かに恋と呼べるものだったろう。
そしてそれを“恋”と呼ぶなら、これは確かに“失恋”と言えるものだった。
これが東風谷早苗の、“初恋”と“失恋”の物語。
楽しんで読めました
霖之助
すらすらと読めて良かったです
観覧車、指輪が幻想入りしたくだりはグッときたのぜ…!!
指輪の力のおかげで後輩だけは…そんな展開だと思っていたのに。
オリキャラの後輩も、すんなり可愛く受け入れられたので良かったです