「ああ、いらっしゃい。……また君か。いや、いい、いい。どうせ客など来ない。君も此処で客など見たことがないだろう。私が言うのも何だが……。しかし、此処はそういう処だ。君がどういう風に感じているかは知らないがね。
兎に角そこへ掛けなさい。私は君に感謝しているんだ……。話をするというのは大切なことだ……。私の中にあるだけでは物語にはならない。聞き手がいて初めて物語は物語足り得る。君がいるから私の思い出、記憶は物語になる……。君がいなければこの話は存在し得ない……。さぁ、兎に角、そこへ。」
「今日は、そうだな……。ああそうだ、この話をしていなかったな。いや寧ろこれは、最初に話すべきだった…‥。私が幻想郷で初めて出会った人物の話だ。そして幻想郷という世界で、とても重要な人物だ……。
彼女は妖怪でも悪霊でも妖精でもなく人間で、巫女だった。名は博麗霊夢。博麗神社の巫女であり、幻想郷の管理者で――いや、バランサー、或いは調停者とでも言うべきか――異変を起こした妖怪を退治する任についており、博麗の巫女は代々その役目を負わなければならない、だそうだ。これは本人の談だ……。酒を呑んでいたから20歳以上なのだろうが、見た目は黒髪で、普通の、どこにでもいる少女のようだった。」
「ああ、妖怪だって、何時も私が話しているように常に穏やかに暮らしているというわけでもない。私利私欲のために能力を使い、幻想郷全体を巻き込む騒動を起こすこともある。向こうではそれを『異変』と呼んでいたらしい。私が向こうにいる間に『異変』は起こらなかったから、具体的にどんなものなのかはわからない。
霊夢は妖怪を退治する役目を持ちながら、妖怪との交流も持っていた。博麗神社は、何故だかは知らないが、良く宴会場になってね。そこでは人間も妖怪、悪霊や妖精も楽しそうに酒を呑んでいた。まるで種族の境界など無いように。」
「いや、役職よりも、霊夢の人徳が成せる技だったのだと思う。妖怪たちが彼女に対して畏れを抱いていたようには見えなかった。勿論霊夢の力が妖怪たちと同等、或いはそれ以上だったことも関係していたのだろうが、それ以上に彼女はあらゆるものに平等だった。
『自分が楽しいか楽しくないか』という価値判断で動いていたのかもしれない。ただ、そうやって色んな妖怪たちと楽しく笑っている霊夢が私にはとても魅力的に見えたし、その笑顔を見れば余計な推察は無粋だろうと思った。霊夢の笑顔にはそれだけの力があった!それこそ、酒の肴になる程にね。」
「初めて霊夢に会った時、彼女は私を参拝者だと思っていたようだった。さっきも言ったが、私は幻想郷で初めて出会ったのが霊夢だったからね。君も同じ体験をすればわかると思うが、気がついたら見知らぬ場所にいるというのはあまり気分が良いものではない。ある一瞬から自分の位置が確定できなくなるというのはとてつもない恐怖だ……。そんな状態にあった私が初めて出会った人物に『此処は一体何処ですか?』と訊くのは至極当然だと言えよう。それを聞いた彼女は、呆れたような悲しむような、怒ったような顔をしてため息をついた……。私は今でもその顔を良く憶えている。あれほど複雑な表情は見たことがなかったし、それから先見たこともない。
霊夢からその時色々な話を聞いた。私のような人間が度々博麗神社に訪れること、幻想郷という世界のこと、彼女の役職のこと。彼女は私が幻想郷に慣れるまで世話をしてやると言ってくれた。そういう決まりがあるわけではないが、何となく何時もそうしていると。」
「そう、私のような境遇の人間は、多くはないが少なくもない、と言っていた。ただ、幻想郷の事情を知るなら博麗神社が一番だった。あそこは本当にひっきりなしに宴会を催す……。幻想郷を知って、皆それぞれの生活を思い描いて神社から出て行くとも言っていた。定住することを選んだのだろう。その時、私もここに定住せざるを得ないのだ、ということを実感させられた……。もう戻ることは出来ないのだと……。
実際にはこうやって戻ってきてしまったがね。残念ながら私は霊夢が言っていた人物たちに出会うことなく戻ってきてしまった……。一体彼らは何を考えていたのか訊いてみたかったのだが……。どうやって戻ってきたかは簡単だ。幻想郷に訪れた時と同じように、気づいたらまたこちらの世界にいた。あれ以来私はいつも眠るのが怖いんだ。起きたらまた知らない世界にいるんじゃないかと……。あれは私が見た夢だったのか……?或いは、今此処にいる私は、向こうの私が見ている夢なのか……?胡蝶の夢を知っているかい?いや、そんな話はどうでもいい。
世話をしてもらう替わりに私は博麗神社で働くことになった。霊夢は私に仕事を押し付けては縁側でずっと茶を啜っていたよ。時々、そのことについて私は不満を漏らしたが、彼女は澄ました顔でこう言うんだ。
『私はあなたの衣食住を保障する。その対価としてあなたは働く。嫌だったら出ていっても構わないわよ?元々私一人でもやっていけてるんだから。』
霊夢が言っていることは間違っていないと思ったし、妖怪は人を喰うという話も彼女から聞いていたからね。何の力も持たない私が博麗神社から追い出されれば、その末路は容易に想像がつく。何より、そうやって私を脅した後に、彼女は毎回いたずらっぽく笑うんだ!『そんなことするわけないでしょう?』と言わんばかりに!あの笑顔!あの笑顔がずっと見られるのなら幻想郷の生活も悪くないと思った……。私は若かった!この世界での生活に未練がなかったというのもある。それ以上に彼女の笑顔は幻想郷に定住することを厭わせないほどの魔力があった……。」
「そう、霊夢は幻想郷の重職である以上に、普通の少女だった。一人の少女というアイデンティティを失っていなかった。――若しくは、失わないように意図的に努力していたのかもしれないがね。まぁ兎に角、自分の運命を呪うような娘じゃなかった。私は霊夢のそういうところに惹かれて、定住しようと思ったのかもしれない……。
さて、博麗神社で私は働いていたんだが……。あそこには参拝客が滅多に来ない。私が世話になっていた半年の間に参拝客を見たことがなかった。生活は極めて質素だったよ。喰うに困るということはなかったから、パトロンがいたのだろう。まぁ、餓死で死なれても困る役職ではある。いない方が不自然だろう。彼女の友人と思しき人物が幻想郷各地の名産や名酒を持ってきて、それを夕餉としたことも多々あった。特に霧雨魔理沙って魔法使いの女の子が――彼女も人間だと言っていたな――しばしば大量のキノコを持ってきてね。
『どうせ今日も喰うに困ってるんだろ?キノコ持ってきたからお前らで人体実験させてくれ。』
『あんたに喰わされて生き延びるほど落ちぶれちゃいないわ。それに、あんたのキノコで毒殺されるぐらいなら餓死を選ぶわよ。』
『なんでさ。餓死は毒より辛いぜ?苦しいぜ?私はなったことがないから知らんが。』
『魔理沙のキノコを信用して死んじゃった――なんて笑い話にしかならないもの。そんな馬鹿は幻想郷にはいない。』
『言いたいこと言ってくれるね。』
『日頃の行いの問題、って誰かに言われたことない?私が昔あんたに言った記憶があるんだけど。』
『言われたかもしれんが、元々聞いてないから言われてないようなもんだ。――野菜も持ってきたんだ!キノコ汁にでもしようぜ。』
こんな掛け合いを魔理沙が来る度にやっていてね、最初は喧嘩しているんじゃないかと心配したが、それは違った。毎回、何だかんだで霊夢は楽しそうに調理場へ向かうし、実験などと言いながらちゃっかり魔理沙も食卓に参加していた。魔理沙は神社にあまり財政的な余裕がないことを知っていたんだろうな……。食べられないキノコが――味は兎も角として――混入されていたことは一度もなかった。
そうそう、魔理沙も例に漏れず酒好きだったが、それほど酒に強いというわけでもなくてね。よく博麗神社で晩酌をしてはそのまま潰れていた。
『ちょっと魔理沙、こんなとこで寝ないでよ。』
『ああ……。すまんすまん。今夜は泊めてくれないか?こんな酩酊状態で飛んでたら事故っちまうぜ。』
『あんたねぇ……。いつもいつも限界まで呑んで、その度「泊めてー。」なんて、私の迷惑とか考えられないの?』
『何が迷惑なもんかどの口が言うんだこの寂しがり屋が……。いっつも寝る時、お前が私の手を握っていることに気づいてないとでも思ってるのか?』
『あんたの手暖かいんだもん。』
『……素直じゃないな。湯たんぽ扱いでも何でもいい、なぁ布団敷いてくれよ。』
『仕方ないわねぇ……。』
魔理沙といる時の霊夢はいつもこんな調子だった。……二人の付き合いが長いのか短いのかは判然としなかったが、霊夢は元々他人と深く何かを共有するような人間ではなかったし、魔理沙もそれを知ってか知らずか、霊夢の深部に干渉するようなことはしていなかったように思える。魔理沙はずっと霊夢に対して明るく、遠慮無く接し、霊夢はそれをのらりくらりと返していた。まるで小説に描かれる登場人物のように二人はきちんと役割分担が出来ていた。もし意図的にやっていたのなら付き合いが長かったのだろう。それが互いにとって最良の付き合い方だったと理解しあっていたということなのだから。」
「後はそう、伊吹萃香という鬼が良く来ていたな。鬼と言っても随分小柄でね。何時も笑っている陽気な鬼だった。無限に酒が湧き出る瓢箪なんて無茶苦茶なものを持っていたから、単にずっと酔っ払っていただけかもしれないが……。
萃香はどうも私と同じ博麗神社の居候という立場だったらしいんだが、色んな処をふらふらしていたようだ。たまに帰ってきて私の仕事を手伝ってくれた。……仕事をするのは居候する対価というよりも、暇つぶしのようだったがね。霊夢も萃香もそのことに関して特に何か揉めていたわけでもないようだから、互いに気にしてはいなかったんだろうが。
それと、萃香は酒に五月蝿くてね、行く先々で手に入れた旨い酒をいつも持ち帰ってきてくれた。しかしそれがまた、確かに極上と言って良い味なんだが、とんでもなく強い酒なんだ。大概私は一口だけ呑んで後は遠慮していた。あんなもの、コップ一杯、お猪口一杯で卒倒してしまう。人間が呑むものじゃない。それでも霊夢はちゃんと萃香に付き合っていた。勿論、ほぼ毎回潰されていたが。
『霊夢、もう潰れたの?こんなに旨い酒中々呑めるもんじゃないよ?これを呑まないと人生の三分の一は損するよ?ほらほら起きて!』
『……私はもう充分に人生を楽しんだようだから後は全部呑んでいいわよ。』
『駄目だよー。独酌に旨い酒はなし。誰かと呑むから旨い酒!』
『大声出すのはやめて……本当にやめて……。……こんなの鬼じゃなきゃ呑めないわよ。』
『私、鬼だし。』
『私は鬼じゃない。……地底の鬼と呑めばいいじゃない。』
『霊夢と呑みたいから持って帰ってきたのにー!なんだよう……。』
『そう……。じゃあ次は人間が呑める酒を持ってきて頂戴。そこの彼でも呑めるぐらいの。』
『私が酔えない酒は旨い酒とは言えない!』
『……あんたねぇ……。』
……私は呑んでいなかったが、充分に楽しめた。霊夢が素直に感情を表現するのは萃香と呑んでいる時ぐらいだったからね。何時も新鮮な気分で二人を眺めていた。呑めない呑めないと言いながら、霊夢はちゃんと萃香が満足するまでちびちび呑み続けた。最終的に二人とも泥酔して、会話が意味不明になっていくのだが……。
『もーやだぁ!もう無理!頭痛いし頭が痛い!やだ!おうちかえる!』
『多分、おうちはここだよ。や、わかんない、ここは誰の家なの?』
『博麗神社かな……。少しだけ、寒いけど。』
『そっか。良かった。私は不愉快なことがあると神社に行くんだどんな場所よりも多少はマシな場所だから。』
『うん……。布団ほしい。ごろごろしたい。ごろごろ。どろどろ。似てない?ごろごろとどろどろって。』
『いつから?』
『にゃー。みたいな。』
こうなってしまうともう駄目で、二人とも目が据わっているし、身体はゆらゆら揺れているし、時々変なしゃっくりを出すから、唯一素面の私が彼女らのために寝床を準備しなくてはならなかった。立ち上がることも出来ないぐらいに出来上がってる二人を支えながら何度も寝室に運んだ記憶がある。
しかし、酒呑みというのはああいうのを指すんだろうね。二人とも翌日はケロっとしていて、二日酔いもせずにいつもと変わらぬ様子を見せていた。驚いたことに霊夢は酔いで記憶を無くすということがないらしく、泥酔した次の日には必ず私に『昨日の私は全部忘れて。』と釘を刺してきた。何時もよりちょっと早口で。彼女にもそういった羞恥の感情があるんだなと、何となく嬉しくなった。……変な話だが、彼女が人間らしい――怒りだとか妬みだとか羞恥だとか自尊だとか、負と捉えられがちな――感情を誰かに見せるのは珍しいことだった。そういった感情を見せられる度に、彼女が私に心を開いているように思えた。距離が縮んでいってるように感じたんだ。」
「他にも色んな人が博麗神社に訪れた。誰も彼も霊夢に対して優しくて、霊夢は皮肉を交じえながらもその好意を受け止めていた。霊夢の方から何処かへ行くというのは見なかったな。買い物も私がやっていたからかもしれないが……。彼女はじっと縁側に座って茶を啜りながらただ虚空をずっと見つめていた――何もしていなかった。まるで人形のようだった。誰かが訪れて初めて生を取り戻す。と言っても、その誰かの他愛もない話や相談事を聞いて受け答えるばかりだった。霊夢から与えることはしない……。あの魅力的な笑顔だって、社交辞令のようなものだった。それに気づいた時私は、同時に霊夢が如何に孤独であるか悟った。痛ましくも思った。ぞっとするほど他人への依存心がないのだ……。いや、極端に他人への干渉を嫌っていたと言った方が正しいかもしれない。
ある時私は彼女に尋ねたことがある。
『どうして私を博麗神社に置いておくのか?」と。
考えて見れば不思議な話だ。彼女からしてみればある人物をずっと神社に置いておくというのは、どうしたって干渉の危険があるわけだから、合理的とは言えない。私は彼女のために博麗神社を出ていくべきなのではないか、と感じた末に質問した。しかし彼女はこう答えた。
『あなたがここにいる限りは、私は何もしなくていい。私は出来る限り何もしたくないの。こうやって日々の些末な仕事に追われず、四季の移ろいを眺める……。優雅だと思わない?あなた達の世界の人間だって、そんな生活を求めるが故に様々な技術を生み出しているわけでしょう。――私はあなたに、それなりに感謝してるわ。ありがとう。』
私はそれを聞いて、感謝されてると言われて舞い上がってしまった。霊夢が『ありがとう』と――皮肉交じりとはいえ――口にするなんて思ってもいなかったんだ。私は舞い上がった、とことんまで舞い上がった。私が初めて目にする彼女の、彼女からの好意が私に向けられるなんて!その日の残りは事務的な会話といつものルーティンワークを消化して過ごした。しかし私にとっては、博麗神社に来てから最良の日と言えた。」
「あくる日、彼女はいつもの縁側でふとこう漏らした。
『こんな日々がずっと続けばいいのに。』
とても静かにはっきりとそう言った。私は目を丸くした。どういう意図なのか図りかねた私は仕事の手を止め、ずっと彼女を見つめていた。すると彼女は、私を見返してこう言った。
『そうは思わない?』
私はすぐには答えられなかった。霊夢もそれ以上何も言わなかった。しばらくの間ずっと見つめ合っていた。私は愚かにも――ああ、本当に愚かだ。どうしてあんな風に考えたのだろう!――彼女の言う日常に私が含まれていると感じた。彼女には私が必要なのだと思い込んでしまった。彼女に求められているのなら私も彼女を求めていいのだろうか。彼女はもしや私に――干渉したがっているのか?と。そう思ったんだ……。
沈黙に耐え切れなくなった私は冷静を装ってこう答えた。
『そう、ですね。……私も此処での生活は結構気に入ってますよ。』
『あらそうなの?初めは愚痴ばっかり言ってたのにね。まぁそれなら良かったわ。』
霊夢は事も無げにそう言って、空になった湯呑みを持って何処かへ行ってしまった。私は微かな期待を確信に変えた。手の震えが止まらなかった。彼女に動揺を悟られないようにするため、私も仕事に戻った。」
「……そう、でも、それは違う。私が霊夢に対して惹かれていたことは間違いない。それは認める……。しかし、いくらほとんど二人きりの生活と言っても私はそれまで彼女を抱く気にはなれなかった。私は生活を、生活する環境そのものを失いたくないと感じていたんだ。抱いてしまえば、今までのような関係ではいられないと思った。それがとてつもなく恐ろしかった。だから、抱くまいと……。
正直に言おう。私はその日霊夢を抱くことを決意した。ほとんど夜這いの形で、だ。」
「その日の夕食はとても静かだった。私は一言も口が利けなかったし、霊夢の目さえまともに見れなかった。霊夢は何時も通り黙って食事に集中していた。沈黙が、静寂が辛かった。その時彼女の目に私がどう映ったかはわからないが、特に何かを言うことはなかった。……そう、何時も通りだったんだよ。彼女はずっと。彼女はずっと日常に生きていた。私が変わってしまったんだ。
私たちが夕食を摂り終わると霊夢は風呂場へ向かった。彼女は誰かと呑まない日はすぐに寝床についた。余計なことはしたくないと言わんばかりに。彼女が風呂に入っている間、私は部屋で灯りも付けずにじっと座っていた。何も見たくなかった。何の音も聴きたくなかった。ただ暗闇に身を任せていた。そうでもしなくては私はきっと泣いていただろう。それぐらい緊張していた。ずっと吐き気がした。動悸が治まらなかった。心も身体も霊夢だけを求めていた。私はその時、獣に成り果てた。
……その後の数刻、私は何をしていたか良く覚えていない。恐らく霊夢の後に風呂に入ったのだと思う。気がついたら私は彼女の寝室の前に立っていた。そして私は、静かに扉を開けた。」
「霊夢は静かに眠っていた。何となく、死んでいるのではないかと思った。私はゆっくりと畳の上を歩き彼女に近づいていった。一歩一歩、畳がぎしりと音を立てる度に私の心が充たされていくような気持ちがした。獣が人間に進化していく過程を辿っているかのような気分だった。或いは、獣が獲物を喰らって生を実感する感覚だった。様々な歓びの感情が私を蝕み支配していった。
後数歩というところまで近づいた瞬間、霊夢はふっと目を覚ました。私は多少狼狽えたが歩みを止めなかった。自分の置かれている立場を、これから私に何をされるのかを察知した彼女は布団を跳ね除け立ち上がり、私から距離をとった。そして青白い顔で私に向かって怒号を浴びせた。
『あなた――あなた何してるの!?何で!?どうして!?何があったの!?』
霊夢は信じられないという顔で私の様子を伺っていた。私も信じられなかった。どうして――どうしてそんな反応をするのか。私は彼女を落ち着けようと静かに言った。
『私は……。私は霊夢さんと一緒に暮らしたいんです。そう、一緒に。霊夢さんと共に。二人で一緒に喜んだり、悲しんだりしたいんです。霊夢さんが独りでいるのを見るのが辛いんです。助けてあげたいんです。だから――』
『巫山戯ないで……。巫山戯ないでよ!何を言ってるの!?だから私を犯すの!?頭おかしいんじゃないの!?私はそんなこと望んでない!私は、私はあんたなんかいなくなって構わないのよ!あんたに……あんたに何が出来るって言うの!?いや、何か出来たとしても!私はあんたに何も望んでなんかいない!』
私は混乱していた。拒絶されるとは思ってもいなかった。霊夢は息を荒らげながら私に向かって罵声を浴びせ続けた。
『助けるって何なのよ!?思い違いも良いとこよ!私は何も辛くなんかない!辛いのはあんただけでしょ!?助けて欲しいのはあんたでしょ!?私にそんなもの求めないでよ!私の……私の日常を壊さないで!……どうしてこんなことをするのよ!何か言いなさいよ!何か……。何で……?どうして……?やめて……!』
彼女はそう言って泣き出してしまった。私は彼女が素直になれずにいるのだと勘違いし、どうにかなだめようと苦心した。
『霊夢さんは……。きっと辛くないって自分に言い聞かせてるだけだよ。誰にも頼らずに生きて行くなんて無理だ。しかも、普通の人間なら押しつぶされてしまうような責務もある。誰にも迷惑をかけたくないのかもしれないが……。何時かあなた自身が壊れてしまう。私はそんなもの見たくないんだ。』
彼女は泣き止まなかった。暫くの間沈黙が続いたが、やがて彼女からぽつりぽつりと喋り始めた。
『やっぱり違う……。やっぱりあなたは勘違いしてる。私は私が何をしなくちゃいけないかわかってる。あなたはここ私について半年考えたのかもしれない。でも私は20年以上私のことを考えてるのよ。私のことは私が一番良くわかってる。……あなたの言う通り、この役職を呪ったことだって、そりゃあったわよ。でもね、今はもうそんな風に思ってない。私はこの生活が好きなの。とっくに受け入れたの。――あなたの幸せを押し付けないで。私にはあなたとは違う幸せがあるの。私はこの立場からこの素敵な世界をずっと見ていたいの。それは私にしか出来ない。他の誰にも出来ないこと。素晴らしいことよ。あなたは私が独りだと言った。それはきっと、そうなんでしょうね。でも独りだから得られる幸せもあるのよ。私はそれを失いたくない。だから――だから、もうこんなことしないで。約束して。……もう、戻って。お願い。』」
「霊夢は私のことを歯車程度にしか見ていなかった。それにもっと早く気づくべきだった。私は彼女にとって路傍の石ころの一つにすぎなかった。あの感謝の言葉が本心ではなかったとは思わない。しかし、私もまたただの移ろいゆくものでしかなかった。風景の一部だった。それで満足すべきだったんだ……!
霊夢はあらゆるものに対して平等だったと言ったね?しかし、あらゆるものに平等ということは、即ちあらゆるものに対して同等の距離を置くと言うことだ。私は長い間博麗神社の世話になっていたが、霊夢の特別にはなれなかった。いや、霊夢にとっての特別など存在しなかった。そもそも必要がなかったのだから。
しかし私は禁忌を破った。霊夢に特別を求めてしまった。私は私が特別だと思い上がってしまった!私なら霊夢の特別になれると!そんなわけがないのに!若かったからでは許されないことを私は霊夢にしてしまった!……その後私は部屋から静かに出て行った。そして廊下でたった今自分が行った所業に震えた。もう此処にはいられない、いてはいけない、そう思った。私は彼女に黙って、何の贖罪もせぬまま、博麗神社から逃げ出した。何時か謝らなくてはいけない。ずっとそう思いながら、結局その思いは果たせなかった。私は戻ってきてしまった……。それだけが私の、幻想郷での心残りだ……。」
「わからない。霊夢は私を赦してくれただろうか。彼女は独りだった。また独りになって、元通りの生活に戻っただけだろうか。彼女にとっては、取るに足らない出来事だったのだろうか。以前に博麗神社から出ていったという人々も、実は私と同じような過ちを犯してしまったからなのではないだろうか。……総て私にとって都合のいい解釈に過ぎない。私は卑怯だ。君に話しても、私は赦され得ない。絶対に。
――もし、もしもだ。君が幻想郷に行くことがあれば、代わりに霊夢に謝ってほしい。私は今でも後悔の念に苛まれていると。……いや、忘れてくれ。私はこのまま、後悔し続けて死ぬ。卑怯者として生き続ける。それ以外に私に出来ることなどないのだ……。」
「……もうこんな時間か。いやすまなかった。こんな話をするつもりではなかったんだ……。こんな話を……。ああ、また来てくれ。次はもっと愉しい話をしよう。約束する。ああ、ああ。私はいつでもここにいる。ずっと。うん。それじゃ、気をつけて……。」
そんなことを思ったり。