「それじゃあ宜しくお願いしまーす」
「はーい。では行きますよ。はい、チーズ」
パシャリと言う音と共にまばゆい光が辺りを照らす。
「撮れましたよ。現像が終わりましたら神社まで届けに伺いますね。文々。新聞と一緒に」
「あ、新聞はいらないです」
早苗と文が会話をしている隣で、ぬえが独り棒立ちしている。
「あのー」
堪らずぬえが声をかける。
「何ですか?」
早苗はまるでそこにぬえがいるのを忘れていたかのように、不思議そうな顔をしている。
「もう帰っていいですか?」
早苗の対応を見て、呆れたような表情で問いかける。
そもそも、スペルカード戦に負けたとは言え、それがどうして写真撮影になってしまったのかが理解出来ない。
「もう帰っちゃうんですか? 折角ですから私の神社まで遊びに来ませんか?」
写真撮影だけで終わらずに、更に彼女は自宅にまで招いてくれるそうだ。
妖怪を神社に誘う人間なんて聞いた事がない。
長い間封印されていたから、その間に世の中が変わったと言う事なのだろうか。
いずれにしても、ぬえには早苗が全く理解出来ないでいた。
「変わってるのね、あなた」
「そうですか? 私からすれば、あなたの方が正体不明で不思議に思います」
「そりゃ私はずっと前から正体不明で通ってたけど。あんたは意味不明だよ」
「ありがとうございます」
「何故、ありがとうになるの? やっぱり分からない」
意味が分からない。それは好奇心へと繋がる。
ぬえは早苗に興味を抱いた。
「とりあえずついてきて下さい」
「……分かった」
だから大人しく彼女についていく事にした。
「でも、周りから変な人だって言われたりしないの?」
こんな人間、今まで見たことがなかった。自分が人外の者であると知りながら恐れる心など微塵もない。
「そうですね。何を以って変だと言うのかにも寄ると思います。外の世界では変な事でも、こちらの世界では常識だったり」
結局彼女の本質が掴み切れないまま神社に着いてしまった。
「ただ今戻りました」
「おかえり。って、そっちの妖怪は?」
神だ。ぬえにはすぐに分かった。妖怪である自分にとって、敵対する相手である。
すぐに身構えて体勢を取るも、向こうにはそのような気配は無い。
「こちらの方は宇宙人さんです」
「へえ、ここには宇宙人もいるんだ」
「いや、宇宙人じゃないですから……」
神も人間と同じで拍子抜けする対応を見せる。目の前の妖怪を退治する気は無いようで、まるでぬえをただの客としか見ていないようだった。
それとも本当に宇宙人だと思っているのだろうか。
「そいつは妖怪、鵺だよ」
「神奈子様」
神社の奥からもう一人神が現れた。しかし、彼女も攻撃の意思が無いようだ。
「じゃあ、宇宙人って言うのは?」
驚いた顔をしてぬえの方を見る早苗。本当に宇宙人だと思っていたようで、その思いが覆された事に衝撃を受けているらしい。
「いや、最初からそんな事言ってないよ、私……」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。勝手にあなたが決め付けてただけだからね」
常に自分のペースで話をしてくる早苗に、ぬえはただ振り回されるだけだった。
最後の最後まで翻弄されっ放しに終わったぬえだったが、だからこそ一層早苗に関心を持った。
それから風が幾度か吹いて、季節が巡る。
妖怪の山は赤に黄色に染まり、鮮やかな彩りを見せる。
その秋色の山に吸い込まれるようにぬえは降り立った。
「早苗、元気?」
「あら、こんにちは」
その時、丁度早苗は空へと飛び立とうとしていたようで、かすかに体が宙に浮いていた。
しかしぬえの存在を確認して一度地面に足を着けた。
「あ、良いんだよ。特別用事があった訳じゃないから。そっちは用事あるんでしょ?」
「ええ、ちょっと人間の里まで。豊作のお祝いで収穫祭があるんですって。それにお呼ばれされまして。 折角だから、ぬえさんも一緒にどうですか?」
にこりと微笑んで語りかけてくる早苗に、ぬえは困惑する。
「いや、私はいいよ。そもそも呼ばれた訳じゃないし、それに妖怪が人間の里なんかに行ったら騒ぎになるだろうし……」
それを聞いた早苗はきょとんとしている。
「ああ。それだったら大丈夫ですよ。結構妖怪さんたちも集まるらしいですから。何でもござれなお祭りみたいですよ」
そう言うと早苗はぬえの手を掴んで空へと体を舞わせた。
「ほら、行きましょう」
「あ、ちょっと!」
早苗に引っ張られるがままに、ぬえも宙へと体を預けた。
早苗に会ってから、ずっと彼女のペースで物事が進んでいく。
しかし、それはただ翻弄されていると言うだけではなくて、その実自分自身もそう言う流れに身を任せるのを良しとしているように感じていた。
「ま、いっか……」
早苗に握られているのとは反対の手で頭をぽりぽりと掻きながらぽつりと漏らした。
今のぬえの気持ちはこの一言に集約されていた。
そうしている間に雪が降り出していた。積るだろうか。
深い灰色の空を見上げながら神社の鳥居の前に着地した。
「さなえー、いるー?」
「明けましておめでとうございます」
神社の中から早苗が顔を出した。
「そっか。もう新年だね」
「そうですよ。妖怪さんでも、ちゃんと暦は確認しなくちゃ」
少しだけ眉を吊り上げて、子供を諭すような言い方をする。
「そんなの人間の決め事じゃない」
「でも、その決め事の中なら、例えば今日はのんびりお酒を呑んで過ごしてもいいんですよ」
その発言は色々問題があるとぬえは感じた。
「いやいや、それは違うでしょう」
「そうですか?」
「大体正月だって言うのに誰も参拝に来てないなんて駄目なんじゃないの?」
見渡しても、いるのは早苗と自分だけだった。
「いいんですよ」
一番気を揉んでいるべき人間があっけらかんと答える。
「例えここに誰も参拝に来なくても、この神社の事を思っていただければそれでいいんですよ。ああ、神社に参拝しないと。でも山の上だから行くのが大変だな、って。そう思ってもらえると言う事は、この神社に対して信仰心があると言う事です」
「え、そう言うもんなの?」
「そう思ったもん勝ちです」
まただ。今日もまた彼女の事が分からない。
「そうそう、細かい事は気にしないに限るよ」
「ぬえちゃんも一緒にお酒呑もうよー」
早苗の後ろから二人の神の声がする。
「ね」
「神様本人が言うんじゃ、そうなのかな……」
「そうそう、だから一緒に呑みましょう」
神社の中から三人が手招いている。
ぬえは考えを改める事にした。
「ここは人間だけじゃなくて神様も変わってるね……」
そうは言いながらも彼女たちの誘いに乗るように、神社の中へと入った。
「さ、どうぞどうぞ」
早苗が差し出した杯を手にすると、すかさず神奈子と諏訪子が二人して酒を注いでくる。
雪は止み、どれほどの回数だけ新年の酒を呑んだだろうか。
気付けば随分な時間が過ぎていたらしい。
「どう、調子は?」
「とりあえず落ち着きましたよ」
「ねえ、触っても良い?」
「いいですよ」
ぬえの手が早苗のお腹に触れる。
「おおお……この中に赤ちゃんいるんだねえ」
「そうですね」
今までに見た事のない、優しい表情を見せる早苗を前に、ぬえは思わず息を飲んだ。
「どうしました?」
その様子を早苗が見ていた。
「いや、早苗がそんな顔するなんて、って思って」
「どう言う意味ですか?」
先程まで優しい顔つきだったが、途端にむっとした表情に変わる。
「あはは、ごめんごめん」
それに対して快活な笑い声で雰囲気を吹き飛ばす。
「でもさ、早苗もお母さんになるんだね」
「そうですね。自分でもちょっと不思議な気持ちです」
早苗が目を閉じる。その様子は何かを考えてるように思えた。
脳裏にどんな事が思い巡らされているのだろうか。
子供は勿論の事、家族もいない。孤独の中で正体不明で在り続けたぬえには理解し得なかった。
ただ、その早苗を見ていると、心の片隅にもやもやとしたくすみが浮かぶ。
「でも、何だか寂しいような、そんな気がするよ」
「どうしてですか?」
問いかけながらぬえを見る早苗から、ぬえは視線を逸らした。
わずかな沈黙の後、ぬえが口を開く。
「何か、早苗が遠くに行ってしまいそうな気がしてさ」
「私はどこにも行きませんよ。ずっとここにいます」
「うん、いや、そうなんだけど……うん、そうだね」
複雑な思いは変わらないが、自分で適当に落とし所を作って無理やり納得させた。
「変なぬえさん」
「いつも言ってるけど、変なのはあんただって」
その言葉とは裏腹に、ぬえの内心は早苗の言葉を肯定していた。
少し前であればいざ知らず、今ならもしかするとそうかも知れない。
彼女と出会ってからのほんのわずかな時間の中で、自分が、気付けば大きく変わってきているのだろう。
それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。
ただ、嫌ではなかった。
自分の事を顧みている内に、早苗の子供はもう大きくなっていた。人は、少し目を離した隙に劇的に変わる。
「知乃ちゃん、大きくなったね」
「うん! でももっと、母さまくらいに大きくなりたい」
「そんなのすぐだよ。大丈夫」
つま先立ちをして背伸びをする少女の頭を優しく撫でる。
「あ、いらっしゃい」
「この装束、早苗とお揃いだね」
「そうなんです。神奈子様が、どうしても作って着せたいんだって聞かなかったんですよ」
苦笑いをしている早苗の後ろから諏訪子が顔を覗かせる。
「孫を可愛がるお祖母さんみたいなもんだよね」
「誰がお祖母さんだって?」
更にその後ろから神奈子が不機嫌そうなどす黒い声を上げる。
「あんた」
「言ってくれるねこの蛙……」
「まあまあ二人とも」
にらみ合う神々を宥める早苗をぬえは静観している。
その早苗の袴の裾を強く掴んでいる知乃。
早苗が本当に母親になったんだと思い知らされる。
「神様が喧嘩なんてしてたら知乃に示しがつきませんよ」
「う……」
早苗の一言で二人の神が渋い表情をして押し黙る。自らが率先して騒ぐくらいにかしましかった少女の姿は鳴りを潜めている。
「変わったね、早苗」
ぬえは目を細めて早苗を見つめる。
「そうですか? うん、でもそうかも知れませんね。私も歳をとりました」
「そうだよ。前と今じゃ全然違うもの」
「母さまの前ってどんなのだったの?」
会話の中に知乃が割って入った。
「ん? 母さまは昔ね、それはそれは凶暴な女の子だったんだよ」
意地の悪そうな表情を浮かべてにたりと笑うぬえ。
しかし妖怪のそれとは思えない、安心感のある雰囲気だった。
「ぬえさん!」
「へへー」
早苗に背中を向けて、彼女からの怒りの感情を受け流す。
視線は山から見える高い空に向かう。
この空から、神社にもう何度降り立ったか分からない。初めは嫌々ついてきただけだったが、今では自ら進んで遊びに来ている。
確かに自分も変わったが、早苗のような人間が変わっていく早さにはどうしても追いつけない。
振り返ると、早苗は少し寂しげにぬえの事を見ていた。
「私、ここの巫女を辞めようと思うんです」
「何言い出すの、急に」
「知乃も大きくなって、もう私がいなくても充分なくらいになりました。神奈子様や諏訪子様のお力を借りる事も出来るようになりました。だから、早めに身を引いてあの子に任せてみようと思うんです」
彼女の言葉はどこか弱々しくかった。そしてその声に、ぬえは不安を感じさせられた。
「神奈子と諏訪子は知ってるの?」
「いえ。知乃にもまだ言ってません。でも後で話すつもりですよ」
「待ってよ。そんな大事な話、もしかして最初にしたのが私?」
「主人だけにはもう話しました」
「そっか。そりゃ旦那さんには話すか……まあ、私はここの者じゃないから口出しは出来ないけど。でも辞めたらどうするの?」
「私はずっとここにいますよ」
今までに見た事の無い、元気が無い笑顔をしている。それは自然と出たものではなくて、無理やりに作った表情に見えた。
冷たい風がぬえの不安感を煽っていく。天狗が吹かせた訳でもなく、早苗が吹かせた訳でもない。
「ねえ、早苗……」
わずか一瞬に吹き去っていく風の様に、時間は瞬く間に通り過ぎていく。
妖怪よりも与えられた時間が短い人間は、妖怪から見ればそれこそ風の様にあっと言う間に移ろいでいく。
「私たちって、友達ってやつだよね?」
我ながらおかしな質問をしたものだと思った。しかし早苗は、作り上げたのではない、優しい笑顔を見せながら答えてくれた。
「そうですよ。当たり前じゃないですか」
「当たり前?」
「ええ。こんなに長くずっとこうして一緒にいるんですもの。今更な事を聞くんですね」
早苗には、ぬえと過ごした時間をかなり長いものと感じ取っていたようだ。
時間の長さは同じなのに、感じ方は明らかにぬえと違っていた。
彼女の言葉にぬえは焦った。
自分がわずかな間だと感じていた時間の中で、とても大切な物を疎かにしている事に気付いた。
瞬きをしている間に早苗は変わっていく。
体感する時間の短さを悔やんだ。
早苗から目を逸らして天を見上げる。今後悔しても過去の時間は戻ってこない。それなら、今からやってくる時間だけでも、自分が出来る限りゆっくりと感じていたい。
早苗と同じ時間を同じ感じ方で過ごしたい。
そうしてそれから訪れた時間は、今までのものよりもずっとずっと遅く感じられた。
あっと言う間に変わっていくものだと思っていた物が少しずつ変わっていく様子を目の当たりにした。
実際に人間がどう感じているかは分からないが、これが、人間が過ごしている時間の流れなのだとぬえは考えた。
その感触にぬえは満足した。
しかし、一年と言う時間はそれでも短いと思うしかなかった。
「ぬえちゃん、早苗が呼んでる」
トーンを落とした諏訪子の声がする。
「会いたくない」
諏訪子の顔を見ないままに、ぬえは小さな声で答えた。
「そんな事言わないで。気持ちは分かるけど、頼むから会ってあげてよ」
「……分かった」
ゆっくりと障子戸を開けると、布団に入り横たわっている早苗がいた。
「やっと来てくれた」
頬はやつれていて、冷や汗をかいている。呼吸が荒いようで、布団が上下に動いている。
それなのに早苗は笑顔だった。
その笑顔は一年前に見せた不自然な表情と似ていた。あの時既に彼女に予感めいたものがあったのではないかと、早苗の笑顔を見てぬえは思った。
「ねえ、こっちに来て」
震えるような声でぬえに呼びかける。
その指示にぬえは黙って従った。早苗の枕元で正座をする。
布団の中から早苗が両手を出して、ぬえの右手を強く握りしめる。
「ずっと、仲良くしてくれてありがとう……」
早苗の手がやたらと冷たい事は、ぬえにはショックだった。
「ぬえさんと一緒にいる時、凄く楽しかったんです。だから、知乃ともずっと仲良くしてあげて下さいね」
「言われなくても!」
大声が神社に木霊する。早苗は、その声に最初は驚いたようだったが、すぐに先程と同じ笑顔を取り戻した。
「ありがとう、ぬえさん……」
これ以上この場にいる事がぬえには耐えられなかった。
早苗の謝意を聞くや否や、早苗の手を解いて立ち上がった。
「約束したから! もう帰るよ!」
早苗に背を向けて縁側の方へ歩き出す。
「ふふ、意地悪なぬえさん……」
ぬえの背中に早苗の言葉が突き刺さる。ぬえは思わず歩みを止めた。ただし振り返る事はしない。
「私は妖怪だからね! 人間に意地悪な事をするくらい、朝飯前のお茶の子さいさいだよ!」
「うん。またね」
早苗の言葉の後に、一瞬の不自然な間。
「またね!」
曇った声を上げてから、ぬえは神社から飛び去っていった。
「……また、ね」
小さく囁いた早苗の声は、もうぬえには届かなかった。
そして、そのまたは来なかった。
「ぬえさん、何を見てるの?」
「あ……知乃か。何を見てるように見える?」
ぬえの言葉を受けて、彼女の視線を追う。
「雀がいるだけだけど……雀?」
顔をしかめながら知乃が答えた。
「雀か……」
「変なぬえさん。私、向こうで掃除してきますから、参拝者さんがいらっしゃったら呼んで下さいね」
「うん、分かった」
知乃の顔が見れなかった。見てしまえば自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。
「神奈子、いいのかな?」
「ぬえは自分で分かってるよ。ただ、分かってても夢の中にいたいって思ってる」
ぬえと知乃の後ろ姿を遠くから二人の神が見つめていた。
「自分でわざと正体不明の種にかかるなんて」
「今まで人間が怯えてるのを見て楽しんでいただけだった妖怪が、それこそ正体不明の感情にいきなり出会ってしまったんだ。同情はするよ」
二人の会話はぬえには聞こえない。
「早苗……」
ぬえの目に早苗の姿が映る。
早苗はただ黙々と竹箒で掃除をし続けている。
「早苗……」
もう一度名前を呼んでも、早苗はぬえの方を向いてはくれない。
音も立てずに、静かに箒を動かしているだけだった。
「ねえ、神奈子。ぬえちゃんの気持ちは私にも分かるけど、いつまでもあのままって訳にもいかないでしょう?」
「そうだねえ……上手くいくか分からないけど」
そう言って神奈子はふわりと飛んでぬえの後ろにやってくる。
「ほら。いつまでも寝てんじゃないよ」
乱暴な手つきでぬえの髪をくしゃくしゃと掻き乱す。あまりに急な事だったので、ぬえは思わず身をすくませた。
「何?」
振り返って不機嫌そうな表情を神奈子に見せる。
「何じゃないよ。もうおねむの時間は終わってるよ」
「五月蝿いわね! そんなの分かってるよ!」
ぬえの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「はーい。では行きますよ。はい、チーズ」
パシャリと言う音と共にまばゆい光が辺りを照らす。
「撮れましたよ。現像が終わりましたら神社まで届けに伺いますね。文々。新聞と一緒に」
「あ、新聞はいらないです」
早苗と文が会話をしている隣で、ぬえが独り棒立ちしている。
「あのー」
堪らずぬえが声をかける。
「何ですか?」
早苗はまるでそこにぬえがいるのを忘れていたかのように、不思議そうな顔をしている。
「もう帰っていいですか?」
早苗の対応を見て、呆れたような表情で問いかける。
そもそも、スペルカード戦に負けたとは言え、それがどうして写真撮影になってしまったのかが理解出来ない。
「もう帰っちゃうんですか? 折角ですから私の神社まで遊びに来ませんか?」
写真撮影だけで終わらずに、更に彼女は自宅にまで招いてくれるそうだ。
妖怪を神社に誘う人間なんて聞いた事がない。
長い間封印されていたから、その間に世の中が変わったと言う事なのだろうか。
いずれにしても、ぬえには早苗が全く理解出来ないでいた。
「変わってるのね、あなた」
「そうですか? 私からすれば、あなたの方が正体不明で不思議に思います」
「そりゃ私はずっと前から正体不明で通ってたけど。あんたは意味不明だよ」
「ありがとうございます」
「何故、ありがとうになるの? やっぱり分からない」
意味が分からない。それは好奇心へと繋がる。
ぬえは早苗に興味を抱いた。
「とりあえずついてきて下さい」
「……分かった」
だから大人しく彼女についていく事にした。
「でも、周りから変な人だって言われたりしないの?」
こんな人間、今まで見たことがなかった。自分が人外の者であると知りながら恐れる心など微塵もない。
「そうですね。何を以って変だと言うのかにも寄ると思います。外の世界では変な事でも、こちらの世界では常識だったり」
結局彼女の本質が掴み切れないまま神社に着いてしまった。
「ただ今戻りました」
「おかえり。って、そっちの妖怪は?」
神だ。ぬえにはすぐに分かった。妖怪である自分にとって、敵対する相手である。
すぐに身構えて体勢を取るも、向こうにはそのような気配は無い。
「こちらの方は宇宙人さんです」
「へえ、ここには宇宙人もいるんだ」
「いや、宇宙人じゃないですから……」
神も人間と同じで拍子抜けする対応を見せる。目の前の妖怪を退治する気は無いようで、まるでぬえをただの客としか見ていないようだった。
それとも本当に宇宙人だと思っているのだろうか。
「そいつは妖怪、鵺だよ」
「神奈子様」
神社の奥からもう一人神が現れた。しかし、彼女も攻撃の意思が無いようだ。
「じゃあ、宇宙人って言うのは?」
驚いた顔をしてぬえの方を見る早苗。本当に宇宙人だと思っていたようで、その思いが覆された事に衝撃を受けているらしい。
「いや、最初からそんな事言ってないよ、私……」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。勝手にあなたが決め付けてただけだからね」
常に自分のペースで話をしてくる早苗に、ぬえはただ振り回されるだけだった。
最後の最後まで翻弄されっ放しに終わったぬえだったが、だからこそ一層早苗に関心を持った。
それから風が幾度か吹いて、季節が巡る。
妖怪の山は赤に黄色に染まり、鮮やかな彩りを見せる。
その秋色の山に吸い込まれるようにぬえは降り立った。
「早苗、元気?」
「あら、こんにちは」
その時、丁度早苗は空へと飛び立とうとしていたようで、かすかに体が宙に浮いていた。
しかしぬえの存在を確認して一度地面に足を着けた。
「あ、良いんだよ。特別用事があった訳じゃないから。そっちは用事あるんでしょ?」
「ええ、ちょっと人間の里まで。豊作のお祝いで収穫祭があるんですって。それにお呼ばれされまして。 折角だから、ぬえさんも一緒にどうですか?」
にこりと微笑んで語りかけてくる早苗に、ぬえは困惑する。
「いや、私はいいよ。そもそも呼ばれた訳じゃないし、それに妖怪が人間の里なんかに行ったら騒ぎになるだろうし……」
それを聞いた早苗はきょとんとしている。
「ああ。それだったら大丈夫ですよ。結構妖怪さんたちも集まるらしいですから。何でもござれなお祭りみたいですよ」
そう言うと早苗はぬえの手を掴んで空へと体を舞わせた。
「ほら、行きましょう」
「あ、ちょっと!」
早苗に引っ張られるがままに、ぬえも宙へと体を預けた。
早苗に会ってから、ずっと彼女のペースで物事が進んでいく。
しかし、それはただ翻弄されていると言うだけではなくて、その実自分自身もそう言う流れに身を任せるのを良しとしているように感じていた。
「ま、いっか……」
早苗に握られているのとは反対の手で頭をぽりぽりと掻きながらぽつりと漏らした。
今のぬえの気持ちはこの一言に集約されていた。
そうしている間に雪が降り出していた。積るだろうか。
深い灰色の空を見上げながら神社の鳥居の前に着地した。
「さなえー、いるー?」
「明けましておめでとうございます」
神社の中から早苗が顔を出した。
「そっか。もう新年だね」
「そうですよ。妖怪さんでも、ちゃんと暦は確認しなくちゃ」
少しだけ眉を吊り上げて、子供を諭すような言い方をする。
「そんなの人間の決め事じゃない」
「でも、その決め事の中なら、例えば今日はのんびりお酒を呑んで過ごしてもいいんですよ」
その発言は色々問題があるとぬえは感じた。
「いやいや、それは違うでしょう」
「そうですか?」
「大体正月だって言うのに誰も参拝に来てないなんて駄目なんじゃないの?」
見渡しても、いるのは早苗と自分だけだった。
「いいんですよ」
一番気を揉んでいるべき人間があっけらかんと答える。
「例えここに誰も参拝に来なくても、この神社の事を思っていただければそれでいいんですよ。ああ、神社に参拝しないと。でも山の上だから行くのが大変だな、って。そう思ってもらえると言う事は、この神社に対して信仰心があると言う事です」
「え、そう言うもんなの?」
「そう思ったもん勝ちです」
まただ。今日もまた彼女の事が分からない。
「そうそう、細かい事は気にしないに限るよ」
「ぬえちゃんも一緒にお酒呑もうよー」
早苗の後ろから二人の神の声がする。
「ね」
「神様本人が言うんじゃ、そうなのかな……」
「そうそう、だから一緒に呑みましょう」
神社の中から三人が手招いている。
ぬえは考えを改める事にした。
「ここは人間だけじゃなくて神様も変わってるね……」
そうは言いながらも彼女たちの誘いに乗るように、神社の中へと入った。
「さ、どうぞどうぞ」
早苗が差し出した杯を手にすると、すかさず神奈子と諏訪子が二人して酒を注いでくる。
雪は止み、どれほどの回数だけ新年の酒を呑んだだろうか。
気付けば随分な時間が過ぎていたらしい。
「どう、調子は?」
「とりあえず落ち着きましたよ」
「ねえ、触っても良い?」
「いいですよ」
ぬえの手が早苗のお腹に触れる。
「おおお……この中に赤ちゃんいるんだねえ」
「そうですね」
今までに見た事のない、優しい表情を見せる早苗を前に、ぬえは思わず息を飲んだ。
「どうしました?」
その様子を早苗が見ていた。
「いや、早苗がそんな顔するなんて、って思って」
「どう言う意味ですか?」
先程まで優しい顔つきだったが、途端にむっとした表情に変わる。
「あはは、ごめんごめん」
それに対して快活な笑い声で雰囲気を吹き飛ばす。
「でもさ、早苗もお母さんになるんだね」
「そうですね。自分でもちょっと不思議な気持ちです」
早苗が目を閉じる。その様子は何かを考えてるように思えた。
脳裏にどんな事が思い巡らされているのだろうか。
子供は勿論の事、家族もいない。孤独の中で正体不明で在り続けたぬえには理解し得なかった。
ただ、その早苗を見ていると、心の片隅にもやもやとしたくすみが浮かぶ。
「でも、何だか寂しいような、そんな気がするよ」
「どうしてですか?」
問いかけながらぬえを見る早苗から、ぬえは視線を逸らした。
わずかな沈黙の後、ぬえが口を開く。
「何か、早苗が遠くに行ってしまいそうな気がしてさ」
「私はどこにも行きませんよ。ずっとここにいます」
「うん、いや、そうなんだけど……うん、そうだね」
複雑な思いは変わらないが、自分で適当に落とし所を作って無理やり納得させた。
「変なぬえさん」
「いつも言ってるけど、変なのはあんただって」
その言葉とは裏腹に、ぬえの内心は早苗の言葉を肯定していた。
少し前であればいざ知らず、今ならもしかするとそうかも知れない。
彼女と出会ってからのほんのわずかな時間の中で、自分が、気付けば大きく変わってきているのだろう。
それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。
ただ、嫌ではなかった。
自分の事を顧みている内に、早苗の子供はもう大きくなっていた。人は、少し目を離した隙に劇的に変わる。
「知乃ちゃん、大きくなったね」
「うん! でももっと、母さまくらいに大きくなりたい」
「そんなのすぐだよ。大丈夫」
つま先立ちをして背伸びをする少女の頭を優しく撫でる。
「あ、いらっしゃい」
「この装束、早苗とお揃いだね」
「そうなんです。神奈子様が、どうしても作って着せたいんだって聞かなかったんですよ」
苦笑いをしている早苗の後ろから諏訪子が顔を覗かせる。
「孫を可愛がるお祖母さんみたいなもんだよね」
「誰がお祖母さんだって?」
更にその後ろから神奈子が不機嫌そうなどす黒い声を上げる。
「あんた」
「言ってくれるねこの蛙……」
「まあまあ二人とも」
にらみ合う神々を宥める早苗をぬえは静観している。
その早苗の袴の裾を強く掴んでいる知乃。
早苗が本当に母親になったんだと思い知らされる。
「神様が喧嘩なんてしてたら知乃に示しがつきませんよ」
「う……」
早苗の一言で二人の神が渋い表情をして押し黙る。自らが率先して騒ぐくらいにかしましかった少女の姿は鳴りを潜めている。
「変わったね、早苗」
ぬえは目を細めて早苗を見つめる。
「そうですか? うん、でもそうかも知れませんね。私も歳をとりました」
「そうだよ。前と今じゃ全然違うもの」
「母さまの前ってどんなのだったの?」
会話の中に知乃が割って入った。
「ん? 母さまは昔ね、それはそれは凶暴な女の子だったんだよ」
意地の悪そうな表情を浮かべてにたりと笑うぬえ。
しかし妖怪のそれとは思えない、安心感のある雰囲気だった。
「ぬえさん!」
「へへー」
早苗に背中を向けて、彼女からの怒りの感情を受け流す。
視線は山から見える高い空に向かう。
この空から、神社にもう何度降り立ったか分からない。初めは嫌々ついてきただけだったが、今では自ら進んで遊びに来ている。
確かに自分も変わったが、早苗のような人間が変わっていく早さにはどうしても追いつけない。
振り返ると、早苗は少し寂しげにぬえの事を見ていた。
「私、ここの巫女を辞めようと思うんです」
「何言い出すの、急に」
「知乃も大きくなって、もう私がいなくても充分なくらいになりました。神奈子様や諏訪子様のお力を借りる事も出来るようになりました。だから、早めに身を引いてあの子に任せてみようと思うんです」
彼女の言葉はどこか弱々しくかった。そしてその声に、ぬえは不安を感じさせられた。
「神奈子と諏訪子は知ってるの?」
「いえ。知乃にもまだ言ってません。でも後で話すつもりですよ」
「待ってよ。そんな大事な話、もしかして最初にしたのが私?」
「主人だけにはもう話しました」
「そっか。そりゃ旦那さんには話すか……まあ、私はここの者じゃないから口出しは出来ないけど。でも辞めたらどうするの?」
「私はずっとここにいますよ」
今までに見た事の無い、元気が無い笑顔をしている。それは自然と出たものではなくて、無理やりに作った表情に見えた。
冷たい風がぬえの不安感を煽っていく。天狗が吹かせた訳でもなく、早苗が吹かせた訳でもない。
「ねえ、早苗……」
わずか一瞬に吹き去っていく風の様に、時間は瞬く間に通り過ぎていく。
妖怪よりも与えられた時間が短い人間は、妖怪から見ればそれこそ風の様にあっと言う間に移ろいでいく。
「私たちって、友達ってやつだよね?」
我ながらおかしな質問をしたものだと思った。しかし早苗は、作り上げたのではない、優しい笑顔を見せながら答えてくれた。
「そうですよ。当たり前じゃないですか」
「当たり前?」
「ええ。こんなに長くずっとこうして一緒にいるんですもの。今更な事を聞くんですね」
早苗には、ぬえと過ごした時間をかなり長いものと感じ取っていたようだ。
時間の長さは同じなのに、感じ方は明らかにぬえと違っていた。
彼女の言葉にぬえは焦った。
自分がわずかな間だと感じていた時間の中で、とても大切な物を疎かにしている事に気付いた。
瞬きをしている間に早苗は変わっていく。
体感する時間の短さを悔やんだ。
早苗から目を逸らして天を見上げる。今後悔しても過去の時間は戻ってこない。それなら、今からやってくる時間だけでも、自分が出来る限りゆっくりと感じていたい。
早苗と同じ時間を同じ感じ方で過ごしたい。
そうしてそれから訪れた時間は、今までのものよりもずっとずっと遅く感じられた。
あっと言う間に変わっていくものだと思っていた物が少しずつ変わっていく様子を目の当たりにした。
実際に人間がどう感じているかは分からないが、これが、人間が過ごしている時間の流れなのだとぬえは考えた。
その感触にぬえは満足した。
しかし、一年と言う時間はそれでも短いと思うしかなかった。
「ぬえちゃん、早苗が呼んでる」
トーンを落とした諏訪子の声がする。
「会いたくない」
諏訪子の顔を見ないままに、ぬえは小さな声で答えた。
「そんな事言わないで。気持ちは分かるけど、頼むから会ってあげてよ」
「……分かった」
ゆっくりと障子戸を開けると、布団に入り横たわっている早苗がいた。
「やっと来てくれた」
頬はやつれていて、冷や汗をかいている。呼吸が荒いようで、布団が上下に動いている。
それなのに早苗は笑顔だった。
その笑顔は一年前に見せた不自然な表情と似ていた。あの時既に彼女に予感めいたものがあったのではないかと、早苗の笑顔を見てぬえは思った。
「ねえ、こっちに来て」
震えるような声でぬえに呼びかける。
その指示にぬえは黙って従った。早苗の枕元で正座をする。
布団の中から早苗が両手を出して、ぬえの右手を強く握りしめる。
「ずっと、仲良くしてくれてありがとう……」
早苗の手がやたらと冷たい事は、ぬえにはショックだった。
「ぬえさんと一緒にいる時、凄く楽しかったんです。だから、知乃ともずっと仲良くしてあげて下さいね」
「言われなくても!」
大声が神社に木霊する。早苗は、その声に最初は驚いたようだったが、すぐに先程と同じ笑顔を取り戻した。
「ありがとう、ぬえさん……」
これ以上この場にいる事がぬえには耐えられなかった。
早苗の謝意を聞くや否や、早苗の手を解いて立ち上がった。
「約束したから! もう帰るよ!」
早苗に背を向けて縁側の方へ歩き出す。
「ふふ、意地悪なぬえさん……」
ぬえの背中に早苗の言葉が突き刺さる。ぬえは思わず歩みを止めた。ただし振り返る事はしない。
「私は妖怪だからね! 人間に意地悪な事をするくらい、朝飯前のお茶の子さいさいだよ!」
「うん。またね」
早苗の言葉の後に、一瞬の不自然な間。
「またね!」
曇った声を上げてから、ぬえは神社から飛び去っていった。
「……また、ね」
小さく囁いた早苗の声は、もうぬえには届かなかった。
そして、そのまたは来なかった。
「ぬえさん、何を見てるの?」
「あ……知乃か。何を見てるように見える?」
ぬえの言葉を受けて、彼女の視線を追う。
「雀がいるだけだけど……雀?」
顔をしかめながら知乃が答えた。
「雀か……」
「変なぬえさん。私、向こうで掃除してきますから、参拝者さんがいらっしゃったら呼んで下さいね」
「うん、分かった」
知乃の顔が見れなかった。見てしまえば自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。
「神奈子、いいのかな?」
「ぬえは自分で分かってるよ。ただ、分かってても夢の中にいたいって思ってる」
ぬえと知乃の後ろ姿を遠くから二人の神が見つめていた。
「自分でわざと正体不明の種にかかるなんて」
「今まで人間が怯えてるのを見て楽しんでいただけだった妖怪が、それこそ正体不明の感情にいきなり出会ってしまったんだ。同情はするよ」
二人の会話はぬえには聞こえない。
「早苗……」
ぬえの目に早苗の姿が映る。
早苗はただ黙々と竹箒で掃除をし続けている。
「早苗……」
もう一度名前を呼んでも、早苗はぬえの方を向いてはくれない。
音も立てずに、静かに箒を動かしているだけだった。
「ねえ、神奈子。ぬえちゃんの気持ちは私にも分かるけど、いつまでもあのままって訳にもいかないでしょう?」
「そうだねえ……上手くいくか分からないけど」
そう言って神奈子はふわりと飛んでぬえの後ろにやってくる。
「ほら。いつまでも寝てんじゃないよ」
乱暴な手つきでぬえの髪をくしゃくしゃと掻き乱す。あまりに急な事だったので、ぬえは思わず身をすくませた。
「何?」
振り返って不機嫌そうな表情を神奈子に見せる。
「何じゃないよ。もうおねむの時間は終わってるよ」
「五月蝿いわね! そんなの分かってるよ!」
ぬえの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
それ以上にやはりツギハギ感や唐突な感じが先行したように思いました。
文章の方は場面転換の時に改行を入れるなどして間を置くともっと読みやすくなるのではないかと思いますね。