霧立ち上る湖畔の林は静かに生命を育んでいる。人っ子一人立ち入らず、年がら年中霧風を受けてしっとりと濡れる木々の隙間には、種々類々様々な生き物達が潜む。
狐が居よう。狸が住もう。脆弱な妖精は隠れるように。不思議なことに林のどこからでも見ることのできる吸血鬼が擁する紅い館は、それらを狩る中途半端な強者を退けてくれていた。それ故に林を訪れる者は狩りを好まないほどの強者が多いのであった。
されど中途半端でない強者の中にも様々あるもので、純粋に力を好み弱者を眼中に収めない妖怪もあれば、そうでないものもある。寒風吹き荒ぶ青空を悠々と泳ぐ鴉天狗はおよそその典型の一つ。
「秋過ぎて、冬来にけらし白妙のぉ、白雪降るる天の神山ぁー、っと何か下らない事でもないかしらね」
ふわりふわりと流れ落ちる髪。ひるがえるスカートを押さえることもなく、風の水流に逆らって優雅に漂う少女の顔には気だるげな表情が浮かぶ。
それというのも季節が季節。春なれば桜を肴に、秋になれば紅葉の錦と幻想郷も宴に包まれる。夏とて暑さにまいっても、湖畔に川に、人里も賑わい納涼求めて人が集う。人妖集えば何か天狗の好奇心を埋める物もあろうに、冬のように各々寝ぐらに引きこもる季節となっては。まるで夜に一人だけ寝られなくて、母親に早く寝なさいと怒られる子供のように、少々の寂寥を覚えながら天狗は空を泳ぐ。
「こうも誰もかしこも居なくては。記事どころか暇つぶしにもならないのはお断りなのだけど」
天狗はどうにも暇である。特に冬ともなれば頭の悪い雑魚妖怪も鳴りを潜め、良くも悪くも天狗社会に動きが無い。そのため忙しくは無く山に引きこもっていれば暖も取れるがやることが無い。将棋だのなんだのにひたすら時間をかける輩も居るが、自称外に開ける天狗のブン屋こと射命丸文にとっては気を引くどころか時間の無駄売りであるからにして。とりあえず持つ物持って目的立てず、何か面白いことを求めて飛び出した次第であった。
「あっちもダメ、こっちもお断り。門番が寒そうでしたが、お子様が頭では門戸を開くのは春かしらね。頼むからどなたか阿呆みたいに外に出てくださいまし」
しかし季節が為。どこに行っても炬燵にこもるか家にこもるか、布団にこもってばかりで扉を開けるだけで怒られる始末。神社の障子をすぱんと開いた瞬間に飛んできた妖怪退治のお札は少々痛かったので、お強い方々への押し掛けには自重気味である。
加えて元気に飛び回る天狗の体も、あちこち飛び回れば冷えも一塩である。妖怪が頑強であれどもあいにく天狗は冬妖怪ではなく、いい加減羽根も体も震えが起こる。そろそろ帰ろうか。なんなら天狗の枕に火をつけても良いだろう。
そう思い、何の収穫も無かった一日に溜息一つついて湖上を駆け抜ける。年がら年中相も変わらず霧立ち上る湖は羽根を濡らし、頬に艶を塗っていく。さっさと抜けてしまおう。決めて天狗がばさりとばさりと黒の羽根を震わせ、露を払い落としてスピードを上げる。早く早く、疾風のごとく駆け抜ける天狗の視界から波立たぬ湖が過ぎていく。そして見えてくる林を霧も切り裂いて通り過ぎる、その瞬間。
ちょこんとそびえる林の真ん中の違和感は、凄まじい勢いで目の前に迫る一本の大木であった。
「っとお!」
射命丸文。座右の銘は幻想郷最速なれど、駆けるだけでは二流。最速で急停止してこそ一流であるからして。じんじんと痛む羽根の付け根に我慢の涙をうっすらと、霜を貼り付けた木の枝葉を大きくざわめかせる姿は、遠目に一見したところ見事な天狗の軽業師であった。
滲む涙はほんの一瞬、しかも冬ともなれば、雫は硬く凍りつき光に消える。喉元過ぎればなんとやらで、痛みも涙と共に消え去りぬ。新たに驚きをあらわにする天狗は颯爽とカメラを構え、そしてすぐに取り下げた。
「こんな所に高い木などありましたかね? ここいらの林には百年ほど来てなかっただけなのに、まあまあ立派な一本杉だこと」
辺りの林は天狗の足元に伏している。その中で目の前にそびえる杉の木一本は、おおよそ幹の直径二メートルといったところか。中々の大きさで、ここらにしてはご立派、と言った所。しかし天狗のねぐらの山と比べれば。さすがの天狗といえども、この程度の話の種ならばわざわざ写真を撮るまでも無く、自らの饒舌のほうがよほど面白可笑しいことなど分かりきったことである。
いい加減記事も諦めて、ストンと杉の天辺に腰を下ろせば、久しく見なかった景色が目に入る。霧深い湖の向こうには、まるで雲海に浮かぶように紅い館。右に左に見てみれば、葉の落ちる禿山が見える。それは人が見れば深みある景色であろうけれど、しかし長命を持つ天狗にとっては見慣れた物の一つに過ぎず。さして興味を引かれるものもなく、欠伸交じりに立ち上がり、羽根を一つ二つとはためかせて風を巻き起こす。だが飛び立つ一瞬前、軽く足元を確認するように、ひょいと覗き込んだ杉の根元のその場所を見て、ふわりふわりと巻いた旋風が萎えていく。気だるげに澱んだ瞳に好奇心の光が灯る。
視線の先には穴ぐら一つ。しっかりと根を張る大杉の幹、ちょうど真ん中を抉るもので、その大きさたるや小鳥の木突きとはとても比較にならぬ。ちょうどそう、人間の幼子が作る秘密基地とか、その程度の大きさに見える。
さらに目を凝らせて見つめてみれば、穴の中で動く一つの光。ごそごそと揺れる光はきらきらと、まるで鏡や氷のきらめきのようである。加えて足元に感じる強い冷気が漂っているともなれば、面識もある、かの妖精が天狗の頭に思い浮かぶ。
果たして、時間もかからずその正体も表に出てこれば、やはりかの妖精であった。薄く青がにじむ髪を左右に揺らし、ふと気が付いたように木の頂へ幼気強い瞳を向ける。
「あっ、この天狗! あたいの家は枕木じゃないんだから!」
幻想郷に生きる者の大半は遠慮も無い。無論妖精も天狗も例外無く、自らの住む大樹を無遠慮に尻に敷くに対して、容赦の無い隔意の言葉、ひそめた眉の見事な眉間皺。しかし幼子程の妖精の怒りなど、天狗にはそよ風にすら値しないところ。
「おやおや、チルノさんじゃありませんか。はて? 藪の中に若木があれば、とまってやるのが鳥の役目でして。見れば二百歳程度の若造ではありませんか。ならば不肖、木っ端天狗の射命丸文がとまってやればこそ、それなりの木として認めてやろうという所なのですよ」
天狗の扇は薄く広がり顔を隠す。だが声は厭らしい悦びを湛え、どうにか垣間見える目にも隠すこと無い笑みが浮かんでいる。
「それに、どうやらこの若木はチルノさんの御邸宅とのこと。家、ふ、ふ。いや、犬小屋なぞ比較にならぬほどご立派。私めからの遅い新築祝いと思ってくださいな」
ひゅうひゅうと扇が啼く。ゆらゆら揺れる扇に合わせて、静かな林の落ち葉を巻き上げていく。葉は杉を撫でるように舞い上がり、天狗に向けて氷精の起こした強大な寒風を巻き込んで、寒空へと混じり消す。
氷精の眼から、光る雫が舞い上がる。くつくつと見下し嗤う天狗に向けて、喉は絞られるようにひくついているのに声が吐き出されることは無い。唇を一文字に結んで震えるその姿は、なんとも弱く。ただ天狗の声の下で、ぼろぼろと雫がこぼれていく。
「いやいや。妖精というのはこれを家とお呼びなさる。質素で御座りまする、ひ、ひ」
パシャリ。嗤いのあまりに震える手は、カメラのシャッターを切り間違える。それでも天狗としてきちんとした写真を撮るために、何度も、何度も泣きじゃくる氷精を。
荒い息遣いが響く。声にならない怒りと悲しみが、寒気に冷やされ溶けていく。
シャッター音と嗚咽が聞こえる。ほんの数秒でしかなかったが、それは氷精の心を強く凍えさす。
だが、それでも。
「っう、あ、このこは、さいきょ……っぐ、馬鹿に、するな!」
その声は汚い声。天狗には辛うじて聞き取れたが、鼻をすすり目をこすり、ひくひくと喉を震わせるような小汚い声。ただ、その中で強く見上げる瞳と怒りだけは、天狗の指を止めるに十分だった。
「ずっと、ずっとこの子を見てきたんだ。もっとちっちゃい頃から、他のみんなに囲まれてる時から、おっきくなるまで! こんなに暗い所で一番大きくなるように、ずっと見てきたんだ!」
涙で濡れた声が、次第に怒りと共に強く渇いていく。震える瞳は炎をたぎらせて天狗を射抜く。レンズ越しの天狗の瞳に滲む色を、消し去ってしまうために。
勢い弱く、パシャリと音を立てるカメラは相も変わらず氷精を捉え続ける。それだけがほんの少しだけ残っていた、弱い悲しみを怒りに変えていく。
「みんなが駄目って言ってた。この子は弱いから、強い周りの木に勝てるはず無いって言ってた。それでもずっとずっと、一緒に強くなったんだ。ゆっくりでもみんなを追い抜いて、あたいのために穴をあけてくれて、強くて優しい子なんだ! それを、お前みたいな天狗がっ」
ギラギラと煮える瞳の強さは、妖精故の純真か。表情を拭い去った天狗のつまらなそうな瞳を真っ向から燃やし、牙を剥く。言い抜いた言葉は獣の咆哮のようだった。
冷気を思い切り吐き出し、すらりと抜くはスペルカード。大杉はその敵意に反応するようにざわめき、凍える霧が熱い闘志を包んでいく。今にも暴発しそうな氷精の荒い息吹を、しかし。
「は、興ざめもいいところだわ。そのまま泣いて喚いてくれれば、ただの妖精いじめでストレス解消できたのに。私はこれで失礼しますよ。一つお仕事を思いついたので」
とても妖精とは思えぬプレッシャーが走る中、それなどそよ風よ、とばかりに天狗は立ち上がる。いつの間にか取り下げた扇とカメラ、見下す瞳は天狗らしい傲慢さ。ばさりばさりと羽ばたく艶やかな黒羽は、凍える空気を切り裂いて、ふわりと浮かび、飛び去った。
氷精も慌てて穴から飛び上がるが、まさか追いつくことも出来ぬ。ほんの間に米粒となった天狗に罵声と弾幕を土産に投げつけ、太く大きい木の枝で、強く強く地団駄を踏んでいる。悔しげに枝を、ダンダンと。受け止め続ける木の枝は、どこか優しげに振れていた。
「あいたたた。慕うのもよろしいですが、大きくなった子供の躾はしていただきたいものだわ」
飛び出した天狗は風を泳ぐ。硬い木の葉で何度も叩かれ、ヒリヒリと痛む尻を撫でながら。
天狗は永く山に住まう者。木の精でもない氷精如きの耳では聞き取れない声も、良く良く聞き取れる。しかし長く生きる射命丸をして、耳を塞ぎたくなるほど騒がしい木は久しぶりであった。長い時を共に過ごした山ではまず聞けないほどの罵詈雑言、本当にあの若造は怖い物知らずであった。
だが天狗の目は下弦の月か、というほどに歪んでいる。見れば口元もゆるりと曲がり、くるくると上へ下へのアクロバティックな飛行は妙に機嫌の良さが伺える。
「いやはや、私の新聞は真実の記事を求めるのですよ。しかしまあ、そればかりでは読者もお疲れでしょうから。たまには美談のコラム一つ乗せるのも悪くは無いでしょう」
フィルムを現像するまでは写真の確認が出来ないのは残念な所であるが、天狗も素人ではありはせぬ。この度の新聞記事に映る写真はど真ん中。母のように、友のように寄り添う、強い瞳の氷精と大木が大きく飾られていた。
狐が居よう。狸が住もう。脆弱な妖精は隠れるように。不思議なことに林のどこからでも見ることのできる吸血鬼が擁する紅い館は、それらを狩る中途半端な強者を退けてくれていた。それ故に林を訪れる者は狩りを好まないほどの強者が多いのであった。
されど中途半端でない強者の中にも様々あるもので、純粋に力を好み弱者を眼中に収めない妖怪もあれば、そうでないものもある。寒風吹き荒ぶ青空を悠々と泳ぐ鴉天狗はおよそその典型の一つ。
「秋過ぎて、冬来にけらし白妙のぉ、白雪降るる天の神山ぁー、っと何か下らない事でもないかしらね」
ふわりふわりと流れ落ちる髪。ひるがえるスカートを押さえることもなく、風の水流に逆らって優雅に漂う少女の顔には気だるげな表情が浮かぶ。
それというのも季節が季節。春なれば桜を肴に、秋になれば紅葉の錦と幻想郷も宴に包まれる。夏とて暑さにまいっても、湖畔に川に、人里も賑わい納涼求めて人が集う。人妖集えば何か天狗の好奇心を埋める物もあろうに、冬のように各々寝ぐらに引きこもる季節となっては。まるで夜に一人だけ寝られなくて、母親に早く寝なさいと怒られる子供のように、少々の寂寥を覚えながら天狗は空を泳ぐ。
「こうも誰もかしこも居なくては。記事どころか暇つぶしにもならないのはお断りなのだけど」
天狗はどうにも暇である。特に冬ともなれば頭の悪い雑魚妖怪も鳴りを潜め、良くも悪くも天狗社会に動きが無い。そのため忙しくは無く山に引きこもっていれば暖も取れるがやることが無い。将棋だのなんだのにひたすら時間をかける輩も居るが、自称外に開ける天狗のブン屋こと射命丸文にとっては気を引くどころか時間の無駄売りであるからにして。とりあえず持つ物持って目的立てず、何か面白いことを求めて飛び出した次第であった。
「あっちもダメ、こっちもお断り。門番が寒そうでしたが、お子様が頭では門戸を開くのは春かしらね。頼むからどなたか阿呆みたいに外に出てくださいまし」
しかし季節が為。どこに行っても炬燵にこもるか家にこもるか、布団にこもってばかりで扉を開けるだけで怒られる始末。神社の障子をすぱんと開いた瞬間に飛んできた妖怪退治のお札は少々痛かったので、お強い方々への押し掛けには自重気味である。
加えて元気に飛び回る天狗の体も、あちこち飛び回れば冷えも一塩である。妖怪が頑強であれどもあいにく天狗は冬妖怪ではなく、いい加減羽根も体も震えが起こる。そろそろ帰ろうか。なんなら天狗の枕に火をつけても良いだろう。
そう思い、何の収穫も無かった一日に溜息一つついて湖上を駆け抜ける。年がら年中相も変わらず霧立ち上る湖は羽根を濡らし、頬に艶を塗っていく。さっさと抜けてしまおう。決めて天狗がばさりとばさりと黒の羽根を震わせ、露を払い落としてスピードを上げる。早く早く、疾風のごとく駆け抜ける天狗の視界から波立たぬ湖が過ぎていく。そして見えてくる林を霧も切り裂いて通り過ぎる、その瞬間。
ちょこんとそびえる林の真ん中の違和感は、凄まじい勢いで目の前に迫る一本の大木であった。
「っとお!」
射命丸文。座右の銘は幻想郷最速なれど、駆けるだけでは二流。最速で急停止してこそ一流であるからして。じんじんと痛む羽根の付け根に我慢の涙をうっすらと、霜を貼り付けた木の枝葉を大きくざわめかせる姿は、遠目に一見したところ見事な天狗の軽業師であった。
滲む涙はほんの一瞬、しかも冬ともなれば、雫は硬く凍りつき光に消える。喉元過ぎればなんとやらで、痛みも涙と共に消え去りぬ。新たに驚きをあらわにする天狗は颯爽とカメラを構え、そしてすぐに取り下げた。
「こんな所に高い木などありましたかね? ここいらの林には百年ほど来てなかっただけなのに、まあまあ立派な一本杉だこと」
辺りの林は天狗の足元に伏している。その中で目の前にそびえる杉の木一本は、おおよそ幹の直径二メートルといったところか。中々の大きさで、ここらにしてはご立派、と言った所。しかし天狗のねぐらの山と比べれば。さすがの天狗といえども、この程度の話の種ならばわざわざ写真を撮るまでも無く、自らの饒舌のほうがよほど面白可笑しいことなど分かりきったことである。
いい加減記事も諦めて、ストンと杉の天辺に腰を下ろせば、久しく見なかった景色が目に入る。霧深い湖の向こうには、まるで雲海に浮かぶように紅い館。右に左に見てみれば、葉の落ちる禿山が見える。それは人が見れば深みある景色であろうけれど、しかし長命を持つ天狗にとっては見慣れた物の一つに過ぎず。さして興味を引かれるものもなく、欠伸交じりに立ち上がり、羽根を一つ二つとはためかせて風を巻き起こす。だが飛び立つ一瞬前、軽く足元を確認するように、ひょいと覗き込んだ杉の根元のその場所を見て、ふわりふわりと巻いた旋風が萎えていく。気だるげに澱んだ瞳に好奇心の光が灯る。
視線の先には穴ぐら一つ。しっかりと根を張る大杉の幹、ちょうど真ん中を抉るもので、その大きさたるや小鳥の木突きとはとても比較にならぬ。ちょうどそう、人間の幼子が作る秘密基地とか、その程度の大きさに見える。
さらに目を凝らせて見つめてみれば、穴の中で動く一つの光。ごそごそと揺れる光はきらきらと、まるで鏡や氷のきらめきのようである。加えて足元に感じる強い冷気が漂っているともなれば、面識もある、かの妖精が天狗の頭に思い浮かぶ。
果たして、時間もかからずその正体も表に出てこれば、やはりかの妖精であった。薄く青がにじむ髪を左右に揺らし、ふと気が付いたように木の頂へ幼気強い瞳を向ける。
「あっ、この天狗! あたいの家は枕木じゃないんだから!」
幻想郷に生きる者の大半は遠慮も無い。無論妖精も天狗も例外無く、自らの住む大樹を無遠慮に尻に敷くに対して、容赦の無い隔意の言葉、ひそめた眉の見事な眉間皺。しかし幼子程の妖精の怒りなど、天狗にはそよ風にすら値しないところ。
「おやおや、チルノさんじゃありませんか。はて? 藪の中に若木があれば、とまってやるのが鳥の役目でして。見れば二百歳程度の若造ではありませんか。ならば不肖、木っ端天狗の射命丸文がとまってやればこそ、それなりの木として認めてやろうという所なのですよ」
天狗の扇は薄く広がり顔を隠す。だが声は厭らしい悦びを湛え、どうにか垣間見える目にも隠すこと無い笑みが浮かんでいる。
「それに、どうやらこの若木はチルノさんの御邸宅とのこと。家、ふ、ふ。いや、犬小屋なぞ比較にならぬほどご立派。私めからの遅い新築祝いと思ってくださいな」
ひゅうひゅうと扇が啼く。ゆらゆら揺れる扇に合わせて、静かな林の落ち葉を巻き上げていく。葉は杉を撫でるように舞い上がり、天狗に向けて氷精の起こした強大な寒風を巻き込んで、寒空へと混じり消す。
氷精の眼から、光る雫が舞い上がる。くつくつと見下し嗤う天狗に向けて、喉は絞られるようにひくついているのに声が吐き出されることは無い。唇を一文字に結んで震えるその姿は、なんとも弱く。ただ天狗の声の下で、ぼろぼろと雫がこぼれていく。
「いやいや。妖精というのはこれを家とお呼びなさる。質素で御座りまする、ひ、ひ」
パシャリ。嗤いのあまりに震える手は、カメラのシャッターを切り間違える。それでも天狗としてきちんとした写真を撮るために、何度も、何度も泣きじゃくる氷精を。
荒い息遣いが響く。声にならない怒りと悲しみが、寒気に冷やされ溶けていく。
シャッター音と嗚咽が聞こえる。ほんの数秒でしかなかったが、それは氷精の心を強く凍えさす。
だが、それでも。
「っう、あ、このこは、さいきょ……っぐ、馬鹿に、するな!」
その声は汚い声。天狗には辛うじて聞き取れたが、鼻をすすり目をこすり、ひくひくと喉を震わせるような小汚い声。ただ、その中で強く見上げる瞳と怒りだけは、天狗の指を止めるに十分だった。
「ずっと、ずっとこの子を見てきたんだ。もっとちっちゃい頃から、他のみんなに囲まれてる時から、おっきくなるまで! こんなに暗い所で一番大きくなるように、ずっと見てきたんだ!」
涙で濡れた声が、次第に怒りと共に強く渇いていく。震える瞳は炎をたぎらせて天狗を射抜く。レンズ越しの天狗の瞳に滲む色を、消し去ってしまうために。
勢い弱く、パシャリと音を立てるカメラは相も変わらず氷精を捉え続ける。それだけがほんの少しだけ残っていた、弱い悲しみを怒りに変えていく。
「みんなが駄目って言ってた。この子は弱いから、強い周りの木に勝てるはず無いって言ってた。それでもずっとずっと、一緒に強くなったんだ。ゆっくりでもみんなを追い抜いて、あたいのために穴をあけてくれて、強くて優しい子なんだ! それを、お前みたいな天狗がっ」
ギラギラと煮える瞳の強さは、妖精故の純真か。表情を拭い去った天狗のつまらなそうな瞳を真っ向から燃やし、牙を剥く。言い抜いた言葉は獣の咆哮のようだった。
冷気を思い切り吐き出し、すらりと抜くはスペルカード。大杉はその敵意に反応するようにざわめき、凍える霧が熱い闘志を包んでいく。今にも暴発しそうな氷精の荒い息吹を、しかし。
「は、興ざめもいいところだわ。そのまま泣いて喚いてくれれば、ただの妖精いじめでストレス解消できたのに。私はこれで失礼しますよ。一つお仕事を思いついたので」
とても妖精とは思えぬプレッシャーが走る中、それなどそよ風よ、とばかりに天狗は立ち上がる。いつの間にか取り下げた扇とカメラ、見下す瞳は天狗らしい傲慢さ。ばさりばさりと羽ばたく艶やかな黒羽は、凍える空気を切り裂いて、ふわりと浮かび、飛び去った。
氷精も慌てて穴から飛び上がるが、まさか追いつくことも出来ぬ。ほんの間に米粒となった天狗に罵声と弾幕を土産に投げつけ、太く大きい木の枝で、強く強く地団駄を踏んでいる。悔しげに枝を、ダンダンと。受け止め続ける木の枝は、どこか優しげに振れていた。
「あいたたた。慕うのもよろしいですが、大きくなった子供の躾はしていただきたいものだわ」
飛び出した天狗は風を泳ぐ。硬い木の葉で何度も叩かれ、ヒリヒリと痛む尻を撫でながら。
天狗は永く山に住まう者。木の精でもない氷精如きの耳では聞き取れない声も、良く良く聞き取れる。しかし長く生きる射命丸をして、耳を塞ぎたくなるほど騒がしい木は久しぶりであった。長い時を共に過ごした山ではまず聞けないほどの罵詈雑言、本当にあの若造は怖い物知らずであった。
だが天狗の目は下弦の月か、というほどに歪んでいる。見れば口元もゆるりと曲がり、くるくると上へ下へのアクロバティックな飛行は妙に機嫌の良さが伺える。
「いやはや、私の新聞は真実の記事を求めるのですよ。しかしまあ、そればかりでは読者もお疲れでしょうから。たまには美談のコラム一つ乗せるのも悪くは無いでしょう」
フィルムを現像するまでは写真の確認が出来ないのは残念な所であるが、天狗も素人ではありはせぬ。この度の新聞記事に映る写真はど真ん中。母のように、友のように寄り添う、強い瞳の氷精と大木が大きく飾られていた。
チルの可愛い。
いかにも長生きしてきた天狗らしい。
後日談とか気になるな…!
文の性格の悪さがよく表現されていたと思います
絵面がありありと想像出来ました。
文とチルノとなるとどうしても文チルみたいなSSになりがちですが、
それだけではない二人の可能性を感じられました