その剣の腕は相当のもので、弾幕勝負ではない本気の喧嘩ならば、実はかなりの実力者なのではと言われることもある。
仕事の要領も良く、仕事上のミスをさりげなくカバーしてもらった同僚は多い。
それでいて、やや人見知りで、照れ屋なところがあり、目立つことを嫌う。
同僚同士で酒を飲むときは、やや隅寄りの位置で手酌で飲み、あまり酔うことはなく、酔っても騒がず、素面と変わらない。
少々ぶっきらぼうで、付き合いが良くないところがあるが、何かと頼りになる、穏やかで善い人、というのが同僚達からの評価である。
その椛が、こめかみに青筋を浮かび上がらせているのである。
同僚達は、椛の青筋と同じような真っ青な顔で、文と椛のやり取りを見つめていた。
口論の原因は些細なことで、椛の部下のちょっとしたミスを文がからかい半分に咎めたことから始まる。
本当にちょっとしたミスであり、文も激しく詰め寄ったわけではなく、あくまでからかいが主体だった。
しかし、位が上の、しかも相当な実力の持ち主といわれる文からの指摘は余程畏れ多いものだったらしい。
文の冗談に全く気付かず、しきりに謝罪するばかりだった。元々、その部下が気弱で真面目だったのも災いした。
文はそれが気に食わない。話の内容や互いの思惑が陽気であろうと陰湿であろうと、機微を理解しあったテンポの良いやり取りを好む文は、このような会話にならない会話を嫌う。
そのため、わざと意地悪く責めた。その部下は目に涙を溜めて俯き、蚊の鳴くような声で謝罪するだけで、周囲もおろおろするだけだった。
そこに椛が現れたのである。
周囲は一層強い不安に襲われ始めた。
元々、仲が良くない。
基本的には椛が文を嫌い、文がそれを受けて立って挑発するといった図式になっている。
椛は、良く言えば順や規則を守るしっかり者、悪く言えば規則を重視しすぎて融通が利かなくなることがある頑固者、意地っ張りである。
文はというと、法なり規則なりを軽視するわけではないが、露見しなければ悪事も悪事でない、と考えるしたたか者である。
椛は、文が気侭に順を乱すところが、我慢がならない。
しかし、それ以上に椛を怒らせるのが、文の悪癖である。
文は、取材でネタを引き出そうとするときや、少々生意気な奴をからかったりするときなどに、人の神経を逆撫でする物言いを平気でするところがある。
そんなとき、温厚な椛も激怒することがある。
ただし椛の怒りは、怒声罵声、暴力といった形にはほとんどならない。実際、部下や同僚に対して椛が声を荒げるところを見た者はいない。
椛が興奮すると、徐々に顔から血が引いていき、こめかみに青筋が浮き出、周囲も思わず後ずさりするほどに覇気を発する。哨戒任務で外を飛び回る割には色が白い椛だが、このときには何故か頭から血が引くらしい。
元来温厚な椛だから、顔から血が引いてくると、余程腹に据えかねているか、高揚していると見ていい。
また、いよいよ限界に近くなると、ほとんど顔は真っ青になる。そして、先ほどとは逆に覇気がほぼ感じられなくなる。
これは冷静になって覇気がなくなったのではなく、数多の感情が内側に凝縮され切って、爆発寸前の状態になっているのである。この状態になると、同僚も部下も、後ずさりどころではなく、恐怖で動けなくなる。
幸いにも、爆発したことはない。
臨界の状態で、生意気な部下の腕を軽くねじり上げて折ったことはある。その生意気な部下が泣いて謝り、周囲も必死に止めたため、そのまま鎮火した。
今のところ、椛の「激怒」はそこまでが最高である。
その椛の感情のボルテージが、だいぶ上がってきているらしく、既に顔から血の気が引いている。
「だから、何度も言っているでしょう。ミス自体は別にもうどうでもいいと。そもそも大したミスでなかったのだから」
「はい」
「ただ、堅苦しくしすぎては駄目と、それだけの話。椛は、例えば子供の遊び相手でチャンバラをするときに本気で叩き斬るのかな?」
「いえ、そんなことは」
「でしょう。本気の遊びもないこともないだろうけど、所詮戯れ。戯れにむきになられたら興醒めするのは当然だと思わない?」
「ですから、それは何度も申し上げました。文様のお叱りを受けることは、文様にとっては戯れでも、こちらは必ずしもそうではないのです。大人には戯れでも、子供にとっては真剣勝負のこともあるのです」
椛は腰の後ろで、左手で右手首を掴むようにして腕を組んでいたが、その硬く握られた右拳の指の間から、不意に血が滲んできた。
強く握りすぎて爪が掌に刺さったのである。
「おや、あなたの部下は戯れと本気の区別もつかない子供でもないでしょう」
「彼女は真面目ですから。文様に叱られるということが、本当に畏れ多かったのです。戯れと気付けないほどに畏れたのです」
「ふーむ。ま、畏れ多いと思われるのは悪い気はしないけど、それを差し引いてもちょっと洒落が通用しなさすぎるのではないかな? 皆があなたみたいに固くなったら困るのだけどねぇ。その辺の教育とかもしないと上司としてまずいんじゃないかなぁ。真面目一徹が優秀とは限らないでしょう」
「……」
文はといえば、葉団扇でゆっくり扇ぎ、柔和な笑みのまま話を続けている。笑みそのものには嫌味のようなものが全く感じられないのが、逆に椛以外の者に恐怖を与えている。
椛一人だけはその笑顔に騙されず、その裏の嗜虐的な意思を跳ね返し続けていた。
しかし、今は文の悪癖が最大限に発揮されている。根が真面目な椛では、粘っこい責めを全て受け流すことはできない。その分だけ顔が青ざめていく。
文は、椛の怒りの限界を熟知している。やや顔を伏せ気味で判りにくいが、椛の顔色が異様に悪くなってきているのはわかる。それでいて、限界までおちょくるつもりでいる。
椛が怒りを爆発させて抜刀しようものなら、文は脇目も振らず全速力で逃げるつもりでいる。本気の喧嘩になったら、恐らくは勝てるだろうが、喧嘩後に五体満足でいられる自信は無い。接近戦は論外だから遠距離から風を飛ばして攻撃することになるだろうが、風の隙間を縫って一気に接近されたら、流石に逃げ切るのは困難と思っている。腕一本、足一本でも安いかもしれない。
限界付近で止める自信と、万一発狂させても逃げ切る自信があるから、おちょくるのをやめない。
「真面目は結構、大いに結構。でも頭に馬鹿がつくほどの真面目では息苦しいでしょう。心にゆとりがないと、優秀な上司になれませんよ」
「それでは、仕事をサボったりするのが心のゆとりと仰るのですか?」
「またまた。そうカッとして極端なことを。私はそこまで言ってはいないのですよ? やはり椛は頭が固すぎる」
「では、文様はそろそろ仕事に戻るべきかと。文様の休憩時間は既に十五分も過ぎていらっしゃる」
「あやっ」
一瞬呆気に取られた後、文はカラッと笑い出した。同時に、椛の拳から血が一滴落ちた。目尻辺りからこめかみにかけて血管が異様に浮き出ている。
「これはしまった、すっかり話し込んでしまった。心にゆとりは持ってもやることはやらなくては」
「……」
「それではまた。あぁそうだ、一つ前言を撤回しなくては。あなたは頭の回転も早く、私と違って非常に忍耐強い。頑固者だがやはりあなたは優秀だ。そしてあなたの部下達も、ね」
文は満面の笑みを残して哨戒天狗の休憩小屋から出ると、飛び去った。まずまず十分に部下いじりを楽しんだご満悦の笑みといったところである。
「……」
文が去っても、椛は二分か三分ほど動かなかった。
ゆっくり同僚や部下の方を振り向いたときには、顔色は元に戻り、いつもどおり若干眠そうな顔の椛に戻っていた。
「……困ったお方だ」
小声で呟いたつもりのようだが、小屋の中が静まり返っていたため、全員の耳に届いていた。そっと椅子に腰掛けると、原因となった部下を手招きした。部下ははっと息を呑んで椛の前に駆け寄る。
「も、椛様」
「薬と包帯」
血塗れの右手を差し出してただ一言。薬箱の近くにいた同僚が箱を持ってきて、件の部下が、多少手を震わせながらも手際よく血を拭い、薬を塗り、包帯を巻いた。
「できました」
「ん」
「あ、あの、椛様、あいたっ」
包帯を巻いたばかりの右手で、件の部下の額をぺちっと軽く弾くと、ゆっくり立ち上がった。
「ほら、私達も休憩時間はおしまい。仕事に戻れー」
小屋から追い立てるようにして全員を仕事に戻らせる。最後まで残っていた件の部下が、おずおずと椛の横を通って小屋から出ようとしたとき、今度は左手で、優しく頭を撫でた。硬直した部下を置いて椛は哨戒任務に戻った。件の部下は二分ほど休憩時間をオーバーした。
椛は基本的に趣味が少ない。また、仕事のときなど、やるべきときには非常にてきぱきと行動するが、元来のんびりやで、生活のリズムがゆったりとしている。
非番の日は、修行、将棋、昼寝のいずれかとほぼ決まっている。
このうち、修行は暇な哨戒任務の合間にしており、将棋については、親友であり良き宿敵であるにとりが発明や機械製作の依頼などで忙しいことが多く、そう毎日のように対局しているわけでもない。そのため基本的に非番の日は一日中寝ている。
今回は二日間の非番だったが、非常に珍しく、一日目から修行に出ていた。
椛は昼前に家を出ると、川の傍の手頃な太さの木の前に立った。
いつもどおりのやや眠そうな目で、無言で木を見つめる。
少しの間そうして、今度は目を閉じた。
音、臭い、風の肌触りなど、視覚以外の感覚で周囲のものを感じ取る。
そして、聞くともなく、嗅ぐともなく、ただ周囲の微小な刺激を受け続け、それに精神を溶け込ませていく。
やがて、動物、虫、水、木石から、微かに発せられる、気のような息吹のような、何かよくわからないが、とにかくあらゆるものから出る「何か」を感じとれる境地に至る。
この感覚を知ったのは偶然だった。初秋のある日、川辺でうとうとしていたときに、偶然気付いた。
半分眠っているから当然目を閉じており、眠りに落ちる寸前のため他の五感もほぼ働いていない状態だった。それなのに、周囲の風景が脳裏に浮かんでくるのである。
やや右に傾きかけている自分の体、頭上数メートルの木の枝で羽根を休めている鳥、二十メートルほど先の木の根元を這う蛙の姿、他全てが、手に取るよりも詳細にわかった。
更には、その蛙がもうすぐ跳ぶ、ということまでわかった。筋肉の動きなどまで見えた。
そして、跳ぶ、と思った時、脳裏に映る蛙も跳んだ。
そこではっと目が覚めた。その瞬間、今まで脳裏にあった映像は全て消えた。
見上げると、たった今まで脳裏に浮かんでいた景色と全く姿で、鳥が羽根を休めていた。
また、急いでさっきの蛙の姿を確かめに行くと、大木の根元にやはり蛙はいた。椛の足音に驚いてか、すぐに蛙は跳ねて跳ねて、どこかへ行ってしまったが。
この体験以来、椛はこの境地に入る修行を続けている。
外の世界の剣豪などは、この境地を無念とか無想とか言うらしいが、椛はしかしこの感覚をまだ使いこなせていない。
まず、この境地に至るには若干の時間を必要とする。当初よりははるかに早くなったが、それでも実戦で使うにはまだ時間が掛かりすぎる。
また、視覚が介入してくると、どうにもこの感覚が上手く働かない。視覚は外の情報を集めるのにあまりに大きな割合を占めているため、他の感覚を抑制してしまう。
そもそも、椛の千里を見通す能力は、まさに視覚の能力である。この能力を殺すことになってはまずい。視覚がこの感覚と一体化するくらいにならなくては、椛の力が完全に発揮されない。
日々の修行により、どちらの問題も克服しつつあるが、まだ完成の域には遠い状態である。
十分も経たずにこの境地に至った椛だが、なおも動かなかった。
そのまま一時間ほども立ち尽くしていたが、やがて大刀を鞘ごと外すと、その場に座り込んだ。胡坐を掻いて大刀を胸に抱き、前屈み気味になった。依然目は閉じたままで、何も知らない者が見るとただ居眠りをしているだけに見える。
精神が周囲に徹底的に溶け込むまで、ひたすら瞑想を続けることにしたのである。
目を閉じたままで、蛇が爪先までやってくるのが見えた。蜂が首筋にとまるのが見えた。通りがかった親友のにとりが自分の姿を目に留め、後方で興味深そうに見つめているのが見えた。天候が崩れ始め、雲が増えてきたが、その灰色の雲の形の変化まで見えた。
更に一時間。
ぽつ、と頬に一滴、雨が落ちたのを感じて、やっと目を開け、つと顔を上げた。
(……)
目を開けても、あの感覚が消えない。ある程度の距離までのものが、全て見える。見えないはずの木の裏の茸、葉の裏で羽根を休める蝶、全部見える。長い時間飽きずに自分を見続け、漸く変化が起こって興味津々の目に戻ったにとりの姿も見える。
その状態のまま、千里を見通す能力を使ってみた。
(……)
かなりの距離まで、あの感覚が伸びるのがわかった。
あの感覚と視覚との共存が、これほど上手くいったのは初めてだった。
遠くのものもかなり見える。まして、近くにあるものは、何でも見える。自分やにとりの血液の流れ、心臓や内蔵の動きまでもが見えた。
(……これなら)
ゆっくり刀を抜き、鞘を捨て、無造作に木に歩み寄った。
(……斬れるはずだ)
目の前の木が、椛の目と脳裏では、文の姿に変わっていた。右足を前に出してほぼ半身になり、団扇を構えた文の幻は、先日と違い、真剣な表情をしている。
すっと上段に構え、そのまま動かなくなった。
それからまた、動かないまま三十分。
汗と小雨で髪も服も濡れ、肩で息をつくほどに呼吸が乱れているが、上段に構えたまま動けないでいた。
下手に動いたら、風で吹き飛ばされるか切り裂かれる。渾身の一撃を放とうにも、神懸り的な反応速度で避けられる。距離をとるなどもっての外。
しかし、椛に焦りはない。あの無念無想とかいう境地に至ってから、かなりの時間が経っているが、この感覚はいよいよ鋭敏になってきていた。
見える。
(……)
そのとき、僅かに風が強まり、木から葉が一枚落ち、椛の鼻先を掠めた。幻の文の右手の小指が動くのが見えた。
(……?)
ずしん、という重々しい音で椛は気がついた。あの感覚はなくなっていた。
ふと見ると、木が倒れていた。今の音は、木が斜めに斬られ、倒れた音だったのである。
「……あれ?」
椛が覚えているのは、脳裏の文の、右手の小指が動いたところまでである。しかし、倒れた木と、刀を振り下ろした姿で固まっている自分の姿を見比べると、どうやら自分が木を斬り倒したらしい。
全く記憶にない。
そういえば、親友が飽きもせずに後ろで見物していたはずだった。
「にとり」
「何? うわっ」
「ん? どした?」
「いや、ごめん。何か死人みたいな顔色しててびっくりした。ごめん」
「あぁ」
いつの間にか頭から血が引いていたらしい。にとりは椛のその性質を知っているが、振り向いていきなり異様な顔色をされては流石に驚くだろう。
目を閉じてこめかみや眉の辺りをゆっくり揉みながら、にとりに尋ねた。
「この木、私が斬った?」
「は? いや、何で私に聞くのさ」
「いや、覚えてないんだ。気がついたら木が倒れてて」
「いやー、椛が斬ったんじゃないの? 多分」
「多分って。ずーっと長いこと後ろで見てたじゃないか。閑人め」
目を開けた。
「ふふん、いいじゃん。今日は時間あったんだ。あぁ、顔色戻ったね」
「ん。それで、何で多分なんだ」
「見えなかったんだよ。そのとき、瞬きもしてなかったんだけど、こう、刀を構えてた椛が、突然振り下ろした格好になっててさ。何ていうかさ、突然場面が切り替わったみたいで、あれっと思って。そしたら木が倒れたんだ」
にとりが鞘を拾って椛に差し出した。
「ありがと。……疲れたし、帰ろうか。もう昼もすぎたし」
「昼どころか三時くらいだけどね。さっさと戻ろう。もうすっかり濡れちゃったじゃないか。私は平気だけど」
椛の家に戻り、濡れた体を拭いて着替え、茶など啜って一息ついた頃には五時を回っていた。
「大分お疲れだねぇ。私にはわからないけど、剣を使う人にしかわからないものがあるんだろうね」
「んー……疲れた。ご飯つくるのもだるい」
「もう少ししたら鰻屋でも行こうか。ちょうど雨も止んだみたいだし」
「ん」
椛は眠そうな声で相槌を打つと、両手を卓袱台に投げ出し、突っ伏した。
にとりはゆっくり茶を啜っている。にとりには、椛が何故川辺で瞑想していたか、何故木とにらめっこしていたか、などはわからない。よくわからないが、修行の一種なんだろう、と考えるだけである。
しかし、椛は酷い自己嫌悪に陥っていた。
「……にとり」
「んー?」
「……何でもない」
軽い悩みの場合、仲の良いにとりになら結構話す方である。逆に、深刻な悩みのときは、容易に語ろうとしない。どちらかというと、真面目さが裏目に出て、内に溜め込んでしまうタイプだ。
悩みを吐き出せないまま突っ伏していると、不意に耳をぐにっとつままれた。
二人は卓袱台をはさんで向かい合って座っているが、にとりが卓袱台の向こう側から手を伸ばして椛の耳をつまんだのである。
耳を撫でたり、揉んだり、髪の毛をいじったりなど、好き勝手している。無造作だが、暖かく優しいにとりの手の感覚が心地良い。
「もーみじー」
「……」
「お耳の柔らかい椛さーん」
「……」
「どしたー?」
にとりの口調は軽い。
「……」
「何そんなに悩んでるの? おとーさんに言ってみなさい」
「河童から狼が生まれてくるか。そもそも性別が違うだろ」
「流石椛。何やら落ち込んでるくせに細かいことを気にする。まぁそれはいいや、ホントにどーしたのさ?」
「……いや、あの、ね」
「んー?」
「……」
話そうとして、再び黙る。
しかし、にとりの明るい口調と雰囲気を前にして、悩みを隠し通せたことがない。どうしてもこの声、空気に甘えてしまう。
自分の難儀な性格のせいで、にとりにはつくづく無用な心配をさせていると思う。口に出して感謝の言葉を言ったことはないが、この無二の友人には生涯頭が上がらないと思う。
にとりはというと、何も言わず椛の耳をただいじっている。一旦口を開いたなら、後はゆっくり待てばちゃんと話し出す、ということも良く知っているからである。
(敵わないよなぁ)
結局、今回も耐え切れなかった。ぼそぼそと話し始める。
「さっき、さ」
「うん」
「文様を斬ったんだよ」
「は?」
「こう」
と、顔は突っ伏したままで、卓袱台の上に投げ出されていた右手を持ち上げ、手刀の形にして袈裟斬りのジェスチャーをして、
「ズバッと、さ」
「え、ちょっと待った。さっきっていつさ?」
「さっきはさっき。にとりも見てたとおり。木、ぶった斬ったじゃないか」
「いや、あれは木でしょ。文さんじゃなくて」
「文様のつもりで斬ったんだ。思い上がりと思うかもしれないけど、斬れた。逃がすことなく、確かに両断したよ」
「……」
数日前に椛と文が口論をした、という話は、別に大きく噂になったわけでもないが、同じ妖怪の山に住んでいるにとりなら知っていて不思議ではない。黙ったところを見ると、どこからか耳にしていたらしい。
「……うん。斬った。あれは間違いなく斬った。斬ったよ……」
「この前文さんとやりあったんだってね。それで頭にきてたから文さんをつい思い浮かべたんじゃないの?」
「……まぁ、そうだろうね。それで、何というか、自分が情けなくてさぁ……」
「ん? どういうこと?」
「幻とはいえ文様を斬ったことさ。あのお方は、性格は悪い。かなり悪い。物凄く悪い。でも文様ほど、我々下っ端一人ひとりのことを良く知っているお方もいない。実力もかなり高い。性格以外の面では尊敬してるんだよ、一応。そんなお方を、ちょっとしたことで頭にきて、斬り殺そうとしたことが、さ」
「斬ったのは幻でしょ? 実際は、文さんの意地悪に耐えて、言葉だけで追い返したんだから」
「でも、結局は我慢できなかったよ。だから斬ってしまったんだ。駄目だなぁ。頭にくると、どうにも治まらなくて」
「なるほどね。わかった。椛は頭にきたんじゃなくて、腹が立ったんだね」
「え?」
ひょいと頭を持ち上げた。椛が頭を上げたため、にとりは椛の耳から手を放す形になった。
「椛は真面目でお人好しだからね、怒っても、カッと頭にきて掴みかかったりはしないよ。怒りを飲み込んで溜めちゃうタイプなんだ」
「……」
「飲み込んで、腹に溜めて溜めて、腸が煮えくり返っても更に溜めて、沸騰を通り越して内臓が蒸発するくらいになったらようやく爆発するんだよね。それでも爆発するならいいよ。椛はどこまでも爆発させずに押さえ込もうとして、腹痛起こして倒れるタイプだから性質が悪いんだ」
「……」
「八つ当たりとかはほめられたもんじゃないけど、ガス抜きしないと、腹痛で死んじゃうよ。幻ならどれだけ斬っても文句言われる筋合いないし、いいじゃない。椛はちょっとばかし真面目に過ぎるよ」
「……そうかな。いつか、またからかわれたときに、今日幻を斬ったみたいに、何の躊躇もなく、無意識に、文様を両断してしまう可能性はないかな」
「流石にそんなことは……」
「ない、と思う? 私はそう言い切れる自信がない。今度は、腹が立ってでなく、頭にきて斬るかもしれない。憎たらしかろうと何だろうと、そんなことはやってはならないことなのに」
「……」
「自信過剰と思う? でも、さっきできちゃったんだよ。修行の結果、無意識のうちに、一瞬でぶった斬れるようになったみたいなんだ」
「うーん……私は大丈夫だと思うけどね。何だかんだで椛はきっと斬らないよ」
「何でそう思う?」
「椛がお人好しだからさ」
にとりは無邪気な笑顔を見せた。
全く理由になっていない答えである。機械いじりの際に、丁寧に理論を重ねていくにとりが、全く理論的でないことを言う。
「何だそりゃ。理由になってないじゃないか」
「椛の辛気臭い顔を何年見てきたと思ってるのさ。私は他の誰より椛のことを知ってるよ。その私が言うんだから、これ以上の理由はないでしょ」
「……」
妖怪としてはまだまだ短い時間しか生きていないが、その短い人生の中で、にとりの存在は本当に大きいウェイトを占めている。振り返れば、印象深い思い出や岐路には必ずにとりの姿がある。椛以上に椛のことを知っているといっても過言ではない。
そのにとりに、邪気のない満面の笑顔ではっきり言い切られては、もう椛にはどうしようもない。苦笑するしかなかった。
「にとりも相当なお人好しだよ」
「ふふん。よく言われるよ」
「何言ってんだ」
軽口を交えながら立ち直らせてくれた親友に内心感謝しつつ、のろのろと立ち上がる。
「さて。行こうか」
「え? あぁ、鰻屋ね。どれ、行きますか」
空模様はまだ怪しかったが、一杯引っ掛けてから帰るまで、雨は降らなかった。
夏になると、椛は決まって愛用の空間に入り浸るようになる。妖怪の山の滝の裏にある、広めの洞窟である。
別に隠しているわけではないので、他の妖怪にも一応知られている場所だが、椛とにとり専用の場所として半ば暗黙の了解があるのか、他の者は立ち入らない。魔理沙や文が稀に涼みに来たり、最近仲良くなった早苗がきゅうりや他の野菜を土産に来るくらいである。
暑さによっては、しばらく家に帰らずここを住居として過ごすこともある。それ程心地良い空間である。ちなみに冬は冬で意外に暖かい。
夏の休日のある日、だらだらと薄い夏蒲団にくるまっていた椛だが、昼になり気温が高くなると、とても布団の中にいられなくなってきた。
(こりゃたまらん。向こうに行くか)
のっそりと布団から抜け出して家を出ると、道なき道を軽快に駆け、跳び、最短距離で滝までやってきた。
にとりもいるかなと思いながら、濡れないように滝の脇を通って洞窟に入る。すると、にとりの他に、見知らぬ客の姿が見えた。
「おっ、来たね」
椛の姿にいち早く気付いたにとりが声を掛けるが、椛は困惑して言葉が出ない。
「おや、こんにちは。初めまして」
「どうも、初めまして。お邪魔してるよ」
人懐こそうな満面の笑みでそう礼儀正しく挨拶してきたのは、寅丸星。落ち着いた口調で挨拶するのはナズーリン。
命蓮寺と、そこの人々については椛も耳にしているが、実際に会うのは初めてだった。
星の良い笑顔を見て、それだけでふっと心が和むのがわかった。しかし椛は人見知りだから、つい気後れしてしまい、ぎこちない挨拶しかできなかった。
「ど、どうも」
「ははは、言ったとおり、人見知りしてる感じでしょ」
にとりが笑う。どうやら既に自分のことは若干説明されているらしい。人見知りすると紹介されているのはあまり名誉なことではないが。
「ついさっき、そこで会ってね。暑い中で会ったのも何かの縁ってことで、ちょっと招待したんだよ」
「いや、突然見知らぬ者がいて驚かせてしまったと思う。申し訳ない」
洞窟に至るまでの経緯を、ナズーリンが話し始めた。
命蓮寺では、人里に下りたり妖怪に会ったりして托鉢なり説法なりは行ってはいるが、毎日のことではなく、定期的に行っているわけでもない。
この辺は意外と適当で、聖か一輪の鶴の一声があるかないかというほぼ一点のみで決まる。そのため、連日になることも、結構日をおくこともある。
また、参拝客への応対は、聖か一輪がよく応対し、星が応対することは比較的少ない。
特に何の指示もない日は自由そのものである。
そんなとき星は、天気がまずまず良ければ、気の向くまま、足の向くままに散歩に出かける。
説法のときの凛とした顔は完全に影を潜め、子供よりも無邪気な顔で散歩を楽しむ。
ナズーリンは散歩についていくときとそうでないときがあるが、多くは星に引っ張られてついていくことになる。
「ほらほら、ナズーリン、滝ですよ、滝」
「はぁ」
今日の星の足は、妖怪の山に向かっていた。適当に登っていくうちに哨戒の天狗と会ったが、先日の異変以来、命蓮寺や星の名を知っていたらしく、すんなり通された。
更に適当に山を登るうちに、水の落ちる音を耳にし、現在こうして滝の前についたところである。
「うーん……滝のお陰で空気が冷えてるのかな。風が涼しくて気持ちいいなぁ」
星の平和そのものの横顔を見ていると、凛々しいときの星と本当に同一人物なのだろうか、とナズーリンは今でも心配になることがある。それほどに落差が激しい。
「滝の横で一休みしましょう。……あぁ、水が冷たい。風も気持ちいい。いいなぁ」
ナズーリンの意思を確認することなく、滝壷の傍にぺたんと座り込んだかと思うと、すぐに身を乗り出して水に触れ、その冷たさに喜んでいる。
(善い人だし、こういうところも好きなんだけど、どうもなぁ……)
「どうしました?」
「いえ」
やや憮然とした顔で、ナズーリンも星の横に座った。星の言うとおり滝の傍は涼しかった。
水中に潜む影に気付いたのは、ほぼ同時だった。一瞬顔を見合わせた後、星は相変わらず緊張感皆無の顔で、ナズーリンはすっと片膝立てて、水中から近づいてくる影を見据えた。
影は、迷うことなく真っ直ぐこちらに近づいてくる。それをはっきり悟ったナズーリンは、大きく後方に跳び、武器にならないロッドをぐっと握り締めた。
星はというと、身を乗り出して影を見つめている有様である。あまりの無防備さに、ナズーリンは腹が立ってきた。
やがて、パシャッと涼しげな音を立てて、緑の影が水面に顔を出した。
「これは珍しいお客さんだなぁ。確かあのお寺の、えぇと、命蓮寺だっけ、あそこの方々だね」
にとりである。人間の盟友を自称するが、基本的に人(妖怪)好きで、人見知りしない性格なので、人でも妖怪でも物怖じすることがない。
「はい、寅丸星といいます。こっちは、あれ?」
「……」
星はナズーリンが後ろにいるのに今更気付いて驚いている。
「何でそんなとこにいるのですか。ほらほら、こっち来て、えと、ナズーリンといいます」
「どうも」
「丁寧にどうも。私は河城にとり。見てのとおり河童さ、よろしく。お二人はここに涼みにきたのかな?」
「滝についたのは偶然ですけどね。確かにここは他に比べると大分過ごしやすいですが、やはり暑いですねぇ。水の中にいるあなたがうらやましい」
「ははは、確かに涼しくていい気持ちだよ。お二人は流石に水に入る準備はしてきていないようだね?」
「はい。こんないいところがあるとは思わなかったもので」
「この暑い中で会ったのも何かの縁。水の中ほどじゃないが、涼しいところに案内しようか」
「ここも滝の傍で涼しいですが、ここよりも?」
「いかにも。すぐそこだけどね。こっち」
にとりは陸に上がると、水気も払わずに歩き出した。
「はぁ……」
滝の裏の洞窟に、星のうっとりした溜息が響く。ナズーリンも思わずほぅっと大きく息をついた。外と比べると、それ程に涼しくて気持ちが良いのである。
「私と友人の、ほぼ専用の場所なんだけど、夏は涼しく、冬は意外に寒くない場所でね。快適なんだ」
「涼しくて実に心地良いのだが、君とご友人の憩いの場に我々が入って良かったのか?」
「あっはは、構わないよ。別に隠してるわけじゃないし。それに一人より友人といた方が楽しいじゃない」
「出会ったばかりの我々をもう友人と言ってくれるのですか。ありがとうございます」
「いいってこと。後で友人が来るだろうけど、まぁ気にしないでゆっくりして」
「本当にいいのですか?」
「いいんだって。強いて言えば人見知りだから、むこうは一瞬驚くだろうけど、まぁ気にしなくていいよ。悪い奴じゃないから」
そう言って、よく冷えた茶を卓袱台に置いた。
一時間ほどして来た『友人』は、未知の客を見て驚いたようだが、にとりが紹介すると頭を掻きながらちょこんと頭を下げた。なるほど人見知りするようだが、善人らしい、とナズーリンは冷静に分析した。
真面目そうな口調と雰囲気の割りに、やや関係のないことも混じってはいたが、ナズーリンの話はよくまとまっていた。最後の分析については流石に話さなかった。
「なるほど。ま、にとりの言う通り、別に隠れ家とかそういうわけでもないし、全然構いませんよ」
「すまない」
「あー。涼しいー。気持ちいいー」
星は今の話を聞いていたのかいないのか、卓袱台に頬をつけて仏のような笑顔でいる。にとりが吹き出し、ナズーリンが頭を抱える。
椛はというと、呆れもあるが、親近感も湧いてきていた。
(こののんびりした感じ、なーんか私と似てるなぁ。私と違ってだいぶ人が良さそうだけど)
酷くだらしない初対面の客に、何となく好意を持った。
(ん……)
のんびりと話をしたりゴロゴロしたりしているうちに、眠っていたらしい。薄らと目を開けると、ナズーリンのみゆっくり茶を啜っており、星は静かに寝息を立てて熟睡、にとりは眠ってはいないが肘枕できゅうりの漬物をつまんでいる。
まだ夕方というには早い時間であり、酒が出たわけでもない。ただ心地良い涼しさに眠気を誘われただけである。肉食獣二匹が呑気に眠っているというのはあまり様にならない気がしたが、椛は睡魔には逆らわないことにしている。また目を閉じた。
うとうとしながら、先ほど思ったことを改めて考察しなおす。
(やっぱり、似てる)
星と椛が、である。
容姿の話ではない。
二人の性質のことである。
勿論、性格の全てが似ているわけではない。
例えば、星はにとりとすぐ打ち解けたように、人見知りせず、未知のものに対しても好奇心が先に立つようである。言わば基本的に陽性な気質の持ち主らしい。
椛は、やや人見知りで保守的である。未知のものにははっきりと警戒を示す(哨戒を仕事としているため、一種の職業病というところもあるが)。基本的に陰性気質である。
逆に、のんびりしているときの精神のテンポはよく似ている。
言動が、ゆるくなったゴムのようにゆったりしている。のんびりしているときは誰でも言動が緩慢になると思われるが、この二人の場合はそれが顕著なのである。
先ほども、星は、「んー」だの「うー」だの、意味のない言葉を発しながら、ゆるい笑顔で卓袱台に頬をつけていた。椛は少し会話が途切れようものならすぐにうとうとしだす。
(類は友を呼ぶか、同族嫌悪か、って私も星さんも、嫌悪も何もなさそうだな)
「椛と星さんってさぁ」
「ん?」
「何か似てるよねぇ。何というか、こう、のんびりしたところがさ」
椛の心を読んだかのようににとりが言い出した。
「椛は人見知りするから、ちょっとばかし言葉少なだったかも知れないけどさ。お人好しで善い奴だからさ、これからも仲良くしてやって」
「それなら大丈夫。私もご主人も椛さんが善い人だともうわかってる。うちのご主人も相当なお人好しだから、そういう人はよくわかるよ」
「そっか。それなら安心だよ。あはは」
(にとりも相当なお人好しだけどね。するとナズーリンさんだけがまともなのか)
しかし、お人好しばかり三人もいてはどうにも頼りない。それに、時々入る皮肉交じりの茶々に、悪意は感じられない。ナズーリンもこの類の者が嫌いではないのだろう。
(まともな人が一人はいないと、頼りないからね)
また、眠りに落ちていった。
それから一ヶ月ほど経ったある非番の日、椛はいつもどおり自宅で存分にだらけていた。昨夜から寝巻き姿で、朝食も昼食も口にせず、二度水を飲みに、一度厠に行くために布団を出ただけで、後はとりつかれたかのように眠り続けていた。
にとりには「脳味噌腐るよ」などと笑われたこともある。それほど寝るのが好きなのである。ちなみに将棋の方は安定してにとりに勝ち越しており、脳は腐るどころか大いに成長を続けている。
午後の昼下がり、二時ごろに三度目の水分補給に起きた時、入り口の方に気配がした。
(……?)
にとりかな、と思って入り口の方を向いたときには、ノックもなしに戸が開いていた。
「こんにちわぁ」
満面の笑みの星である。
「……」
「あれ。お休み中でしたか」
「……」
珍客にくたびれた寝巻き姿を見られた恥ずかしさやら、寝惚けた顔を見られた情けなさやらで、言葉が出ない。星も、悪いことをした、とでも思ったのか、やや遠慮がちに、
「えーっと……で、出直した方がいいでしょうか」
「……あー、んーっと、あー……ど、どうも」
ようやく言葉を搾り出したが、会話にならなかった。
とりあえず星を家に上げて、万年床を隅に蹴飛ばして、着替えて、茶を出すという作業の間に、椛はやっと落ち着きを取り戻した。
「あー、えーっと、どうも物凄く見苦しいところをお見せしてしまって」
「いえいえ」
星はいつでも仏のような笑顔である。
(……しかし)
なんだっていきなり家に来たのだろう、と思わずにいられない。
星たちとの初対面から一ヶ月余りだが、あれから二回ほど滝の裏で一緒に涼んだことがある。家に来られたのは今回が初めてだった。
基本的に椛の家は溜まり場にならない方で、訪れるのはほぼにとりだけで、同僚や後輩もほとんど招待したことはない。後は文が上がり込んで茶を勝手に飲んでいったり、早苗が野菜を持ってきてくれるくらいである。
また、過去三回はいずれもにとりとナズーリンがいたのだが、今日は椛と星だけである。
いつもは、にとりと星が他愛もない話をし、ナズーリンが時々茶々を入れ、椛は黙って聞いているうちにうとうとしかけ、にとりにからかわれて三人に笑われる、といった流れになり、椛はあまり喋らないのである。
そのため、いざ一対一の状況になると、生来の人見知りが出てしまい、いまいち上手く話せない。
困ったな、と思いつつも、とりあえず当たり障りのない話をすることにした。
「よく私の家がわかりましたね」
「この前にとりさんに聞いたもので」
「ははぁ。今日はお一人で?」
「はい。今日は個人的に椛さんにお話があったものですから」
「話……?」
「はい。実はですね、私と手合わせしていただきたいと思いまして」
「は……?」
突然の申し出に、椛は妙な声を出して固まってしまった。
星はその間抜けな顔を何故か了承と捉えたらしく、ぱっと立ち上がり、椛の腕を掴んだ。
「さ、行きましょう。えぇと、椛さんは刀を使うんですよね。どこですか? 隣の部屋ですか? あ、そこにありますね」
「あ、えー」
「ほらほら、早く」
無理矢理立たされた椛は、背中を押され、愛刀と盾を持たされる。すると今度は180度回転され、今度は出口まで押され、運ばれていく。
「さ、さ、行きましょう。どこか広い場所ありますか?」
「え、えーっと、あっちに」
やるともやらないとも言っていない椛だが、星に急かされるままに、人の来ない、それでいて刀槍を十分に振り回せる広さの空き地にやってきていた。星も愛用の槍を持ってきている。
「なるほど、ここなら存分に暴れられそうですね。では早速」
「ちょ、ちょっと待った」
「何です?」
「何かずるずる来ちゃったけど、その、何で私なんかと手合わせなんて?」
ここまで来ておいて、今更こんなことを聞く椛も椛である。にとりなら大笑いし、ナズーリンなら呆れ顔で皮肉を言うところだが、そこは星だから、椛の遅い質問にも丁寧に答える。
「理由は……細かくわけると二つ。一つは、あなたの剣の腕が相当のものであると聞いたからです」
「また……そんなことないですよ」
「にとりさんが自分のことのように自慢していましたよ」
「あいつは大袈裟なんですよ」
「にとりさんがあなたのことで嘘を言うとは思えません。目にも留まらぬ斬撃で立ち木を両断したとか、色々と聞きました。きっとあなたはかなりの剣豪なんでしょう」
(なんて人だ。文様とは違う方向で困った人だ。善人にも程がある)
照れ屋で目立つことを嫌う椛は、褒められるのもどうにも苦手である。しかも、星の無邪気な笑顔には、お世辞の色など全くない。
椛としては、恥ずかしくて仕方がない。できることなら耳を押さえて一目散に逃げたいくらいである。
星は槍の石突で地面をトントンと突きながら話し続ける。
「そんなあなたと是非立会い、腕を磨きたいと思ったのが一つ。で、二つ目の理由ですが」
「はぁ」
「先日、椛さんが上司さんと少々口論された際の話を聞いたのですが、その中で一つ気になることがあったのです」
「気になること……」
「こう、ぐっと拳を握り締めて、陰湿ないびりに耐えたと。そう聞いています」
「また、随分細かく……それもにとりから?」
「はい」
「……」
「そして、後日、その上司さんを相手に見立てて、立ち木を斬った話も」
「……。にとりの奴め、今度将棋でコテンパンにしてやる」
「それで、少々気になったのですよ」
「どういうことです?」
「付き合いは浅いですが、あなたは」
椛は息を呑んだ。星が不意に覇気を発し始めたからである。星の声は小さくなったが、低く太い声になり、椛の胸の奥、腹の底に響いてくる。また、無邪気な笑みは消え、目は細くなり、輝きを失った。
「善い人です。本当に善い人です。あなたについての話を聞けば聞くほど、あなたと話せば話すほど、そう思います」
「……」
「そう思っていたところで、立ち木を一瞬で斬ったと耳にした」
「……」
「能ある鷹は爪を隠すと言いますが。あぁ、椛さんも牙やら爪やら、素晴らしいものを隠し持っているんだ、と知りました」
槍の鞘を抜き、捨てた。鞘は広場の隅の木の根元まで滑って止まった。
「しかし、駄目です。あなたは善人すぎる。牙も爪も使わなすぎる」
「……」
「使わないうちはまだいいですが、あなたのように使わなすぎると、いずれ腐り、剥がれ落ちる。使おうにも使えないようになってしまう。それが心配なのです」
槍先をビッと椛に向ける。
「長々語りましたが。要は、あなたの牙や爪を風化させたくないのです」
「……」
「あなたの牙と爪を研ぎに来た。これが二つ目の理由です」
「……まぁ、何というか……つまり、私の八つ当たりの相手になってくれるということかな」
「まぁ、砕けた言い方をするとそうなりますね」
また石突で地面をトントン叩く。
「しかし、真剣と真槍での立ち合いなんて。万が一の事態になったらどうするんです」
「心配無用。私を誰だと思っているのです。私は毘沙門天の弟子、寅丸星。虎です。虎が狼に負けるわけがないでしょう。そうなる前に止めますよ」
「……」
久し振りに沈黙が訪れる。椛はゆっくり頭を掻いた。
(こんなに挑発が似合わない人、初めて見たよ)
椛の腕では星には敵わない、と言い切られたのに、全く腹が立たない。文の挑発と何か違う。
その理由はわからないが、今まで会って話をしていた星の姿と比べ、滑稽なほど不似合いで、むしろ可笑しい。
「すみませんが、一つ言わせてもらいますけど」
「何です?」
「あなたの挑発は挑発にならないんですよ。あなたは私を善人善人と言いますけどね。あなたは私の数倍は善人なんですよ」
「私が、ですか?」
星の目から覇気が消え、子供のような表情に戻る。
「その自覚症状が全くないところが性質が悪い。まぁ、とにかく、今星さんはうまいこと私を挑発したつもりかもしれないけど、善人の結晶のようなあなたじゃ、悪口も悪口にならないから、腹も立たないんですよ」
「ぜ、善人の結晶だなんて……」
「でも、まぁ、強いて言えば」
「……?」
左手に下げていた盾を、左の上腕に固定する。普段の哨戒のときは手に持っていることが多いが、本気の立ち合いのときは刀を両手で持つため、腕に固定するようにしている。肩肘の動きを妨げず、刀を振り上げた際に視界を塞がない位置は心得てあった。
「人を指差してはいけない、と教わったことはないのですか? ましてや、刃物を相手に向けるなど」
膝を曲げ、腰を僅かに沈める。
「さっき槍を向けられたとき、ちょっとカチンときましたよ。やはり私は善人とは言えないみたいだ」
左手で鞘を握り、そっと鯉口を切る。
「いちいちそんなことで喧嘩してたら、命がいくつあっても足りないとは思いますが」
鞘を握る左手に、僅かに力が籠る。
「八つ当たりの相手をしてくれるということだし、ちょっと腹も立ったことだし」
呼吸するように、極自然にあの境地に入っていく。頭から血が引いていくのが自分でも分かった。
「折角だから、お願いしましょうか、ね」
星の顔に、覇気が戻った。
「いいでしょう」
両者が同時に後方に跳んだ。椛は跳ぶと同時に抜刀しており、着地するとそっと中段に構えた。星は槍をやや茎長に持ち、真っ直ぐ椛に向けている。
距離は十メートルほどある。両者ともじりじりと距離を詰めていき、やがてほぼ同時に止まった。
止まって数呼吸後、椛は上段に構え直した。
上段は単純にして最も攻撃的な構えだが、普通は槍相手には分が悪い。
そもそも、槍と刀では、刀に勝ち目はない。刀の届かない位置から突かれるのだから当然なことだ。
また、斬るよりも、突く方が、致命的な一撃を与えやすい。更に、武器の重さなども考えると、槍と刀がまともにぶつかると、刀は跳ね飛ばされる。
そう考えると、胴体を留守にする上段の構えはいかにも危険である。柄を斬り落とそうにも、余程の一撃でないと、槍に弾かれる。
そんな事情の中、椛は敢えて上段を選んだ。
危険は承知である。
ただ、椛は一撃の振り下ろしの威力と速度には絶対の自信があった。突きの速度に負けるようなら、柄を斬り落とせず弾き飛ばされるようなら、死んでしまえ、とまで思っていた。
槍先は微動だにせず、真っ直ぐに椛の胴に向けられている。
単に真っ直ぐ来るなら、斬り落とせる、と確信がある。
フェイントが入る可能性もある。突きかけて素早く引き、椛に振り下ろさせ、そこを突く。そんな感じになると思われる。
そうなればどうするか?
袈裟斬りで振り下ろした勢いそのままに左斜めに身を沈め、槍をくぐるように接近して、右脇腹へ逆袈裟。
くぐるのは難しいかもしれないが、思い切り左前方に駆ければ潜り込めそうに思える。
潜り込めなかったら? 地面を蹴って跳び上がるか。間に合わず足を貫かれるかもしれない。
その辺りまで考えて、ひとまずシミュレーションを止めた。いざ始まれば、どうせ考える暇などないのである。後は今までの修練のとおり体が動くだけだ。互いに無意識のうちに最善の動きをし、強い方が弱い方(自分)を血祭りに上げるだけだろう。
ひたすらに、あの境地に入ることに努めた。
星の姿が脳裏に映る。
細められた瞼の奥で、輝きを失った目が、椛をじっと見つめているのが見える。
星の覇気が見える。
巨木を一撃で切り倒しそうな、大斧のような覇気である。あの仏のような笑顔の持ち主が、こんな強烈な覇気をどこに隠していたのだろう。触れただけで腕も足も吹き飛ばされそうな気がする。
星の大斧に対し、椛は自分を刀と考えた。
腕の一本、足の一本どころか、頭、心臓が叩き潰されてもいい。こちらは相手の頭か心臓だけを狙う。相討ちにのみ勝機が見えた。
自暴自棄だとは思わなかった。
命を粗末にするつもりはないし、人並みに命は惜しいが、割とあっさり腹を決められるのが自分の長所の一つだと椛は思っている。
そんなことを考えているうちに、また少しずつ距離が縮まっていた。距離を詰めているのは星の方である。
強気に上段に構えたとは言え、あくまで一撃目は待ちに徹するしかないのだから、当然の構図ではある。しかし槍相手に距離を詰められて、一歩も退かないだけでも、十分すぎるくらい豪胆であった。
星はじりじりと距離を詰めていき、やがて止まった。
止まったということは、即ち、星の槍の射程範囲ぎりぎりの位置になったということだ。
あと一センチで勝負が決まる状況になった。椛の顔は真っ青になり、完全に戦闘態勢に入っていた。
この境地に入ったまま、椛は待った。
更に時間が経つうちに、少し風が強くなり、斜め上方の木で、折れて皮一枚で繋がっていた枯れ枝が、一層不安定になってきた。
何度目かの強めの風が吹き、遂に皮が千切れ、枯れ枝が落ちてきた。
枯れ枝は二人の間目掛けて落下し始め、風に煽られて、やや椛寄りに落ちてきた。
枝が、椛の眼前を通過した瞬間、両者が動いた。
槍と刀の動きは同時だった。槍は椛の胸目掛けて突き出された。椛は自ら踏み込み、槍を迎え撃たんと刀を振り下ろす。
そのまま進めば、刀が槍の柄を斬り落とすと思われたが、槍は中ほどですっと引かれた。刀が槍を追うように振り下ろされ、同時に椛の体が沈んでいく。
椛は刀を振り下ろした勢いそのまま、星の懐に突っ込むように突進する。振り下ろした刀が返り、逆袈裟の準備を終えていた。
懐に完全に飛び込み、だんっ、と左足で強く地面を踏みしめ、逆袈裟の一撃を振り上げんと見上げた瞬間、目の前に星の顔があった。妙に無表情で、目には何の感情もない。輝きを失ったガラス玉のような目をしている。
星は二度目の突きを行わず、槍を引きつけて待っていたのである。そして、茎長に持った槍の柄を、振り上げる直前の刀にぶつけてきた。星は椛の飛込みを予想し、斬り上げを受ける策をとったのである。
刀の鍔元と、金属の装飾があしらわれた槍の柄が激しくぶつかり、渾身の斬り上げの威力が完全に殺された。
こうなると、体重のかかる上からの圧迫が厳しい。まして、小柄な椛に対し、星は体格は普通だが、尋常ならざる膂力の持ち主である。押し合いで椛が勝てるはずがない。
椛が脱出を図るより早く、槍に力が籠った。椛を押し倒し、組み合いに持ち込もうとしたのである。咄嗟に椛の右手が動き、星の襟元を掴んで引き寄せた。
そのまま一緒に倒れ込み、椛が背中を地面に打ちつけた瞬間、右足を上げ、星の腰の辺りを蹴り上げた。
巴投げの要領である。
星の体が綺麗に宙を舞い、星は受身をしつつくるりと起き上がったが、椛はそれより早く立ち上がり、星の背中目掛けて駆け出していた。
星は振り返り様に、右手一本で右から槍を横薙ぎにしてきた。槍の端ではなく中ほどを握っているとは言え、凄まじい腕力である。
再度の逆袈裟と片手横薙ぎがまともにぶつかり、凄まじい金属音が響いた。刀が大きく左に弾かれ、肩まで痺れる。刀を飛ばされるのを辛うじて堪えた。星の槍はさほど弾かれていない。
間髪いれず星の攻撃が来る。今度は横薙ぎというよりは、椛の右肩を狙うような斜めの一撃だ。
身を沈めるのがぎりぎり間に合った。身の毛もよだつような強烈な風が髪の毛を掠めた。
左からの返しが来る前に、渾身の斬り下ろしを放つが、星は大きく後方に跳び、椛の一撃をかわす。
すぐさま飛び込んで右下からの斬り上げを仕掛ける椛を、強烈な横薙ぎが迎え撃った。
二度目の衝突は、星が両手を使ったことにより、先ほど以上の衝撃だった。槍の一撃に完全に押し負け、右に弾かれる。刀が飛ばされなかったのが奇跡に近い。
両腕とも肩まで痺れ、感覚がなくなるが、椛の回復を待つことなく星の攻撃は続く。椛の刀を弾いた勢いのまま回転し、再度左からの横薙ぎを放つ。しかも左脇腹辺りを狙った、やや低めの一撃だ。その速度は跳ぶにも屈むにも間に合いそうにない。
椛は僅かに腰を落として左腕を上げ、右手を左上腕に添え、一撃に備えた。
上腕に固定した盾を、槍が思い切り叩いた。立て続けの衝撃に、左腕の骨が軋む。折れはしないが激痛が走る。その激痛と引き換えに、槍の強烈な一撃に吹き飛ばされることなく耐え切った。
痛みに構わず右手一本で突きを放つのと、星が突進してくるのと同時だった。星は槍を右手に捨てていた。
星は突きを完全に見切り、僅かに身を沈めて避けつつ、左手で椛の右手首を掴んで押さえた。そして突進の勢いで小柄な椛の懐に入り、右腕を椛の腰に回し、払い腰をかけた。
星の体重がまともに椛にのしかかる。
そのまま袈裟固めに入ろうとしたとき、椛が頭突きを放つ。しかしそれほど星の頭は弾かれず、逆に星から頭突きの反撃が来た。
物凄い音が頭に響き、目から火花が出た。
一瞬意識がとんだ隙に、両手首がそれぞれ掴まれていた。右手で左手首を、左手で右手首を掴まれた形である。利き手の右も、元々膂力が上の星に、体重をかけて押さえつけられては、振り解くのは不可能に近い。
星は椛の左手首を掴んだまま、右前腕を椛の首に押し付けた。喉を圧迫するのではなく、斜めに押し当てて血管を締め上げる。
椛の顔に苦痛の色が浮かぶ。
死に物狂いでもがくが、星の腕はびくともしない。
意識が遠くなっていく中、星と目が合った。
相変わらず全く輝きがない。椛が苦しむ姿を見ても、何の感情もない表情だった。
黒い幕が下りるように、すーっと目の前が暗くなっていく。
ずっと無心で戦っていた椛が僅かに思考を取り戻し、
(せめて、一矢……)
報いたい、と思ったとき、ほとんど暗くなっていた視界が大きくぶれた気がした。
意識が戻り、目を開けようとした時、目と額の辺りに冷たいものが乗っていることに気付いた。
右手で取ってみると、濡れ手拭だった。
その綺麗な手拭でゆっくり顔を拭きながら、意識が途切れる前のことを思い出していく。
思い切り押さえつけられた首をそっと撫で、左右に首を回してみる。微かに痛みがある。
右を向いたとき、草の上に行儀良く正座している星の後姿が見えた。もぞもぞと何やらやっているが、背中に隠れてよくわからない。
とりあえず起き上がろうとして、体を支えようと両腕を動かした瞬間、左上腕に電撃のように痛みが走った。
「んぃっ……!」
星の全力の横薙ぎを、盾越しとはいえまともに受けたのだから、やはり無事ではなかったらしい。人間なら肩が粉砕していてもおかしくない一撃だった。
悲鳴を聞いて、星がはっと振り向いた。
「椛さん!」
「……」
あまりの痛みに声が出ない。脂汗が額に滲んでくる。痛みが落ち着くまでの二分か三分の間、星は椛の左肩をゆっくりさすり続けた。
落ち着いてから、そろそろと起き上がる。これは参ったな、折れてはいないみたいだけど、と左腕を撫でると、突然星が土下座した。
「も、申し訳ありません!」
「は?」
「ごめんなさい、ごめんなさい。こんなつもりはなかったのです」
「いや、ちょっと待った」
「完全に戦闘に没頭して、友人を負傷させたばかりか、殺める寸前までいってしまった。私は、私は、何てことを……」
「待った、待った。怪我については何も話し合わなかったけど、立ち合う以上は当然互いに覚悟の上でしょう。それに、最後に締め上げたとき、星さんは喉を締めなかった。あくまで失神で止めるつもりだったんじゃないですか?」
「……」
「ということは、星さんは殺意はなかったってことでしょう。まぁ最初に話したとおり、万が一がないとは言い切れないけど、それなら最初の斬り合いからして同じことですしね。あなたがそこまで謝罪する要素なんてないじゃないですか」
「しかし……私は、最後に噛み付かれるまで、精神が完全に戦闘態勢でした。あのまま続いていたら……」
「は? 噛み付いた? 私が?」
「え?」
ひょいと上がった星の顔は、きょとんとして子供のように無邪気である。立ち合い前にもこの顔を見たが、不意に驚いたりするとこの表情になるようだ。無意識にこんな表情が出る辺りが、星という善人を表しているともいえる。
「私はあのまま気絶したんじゃなかったんですか?」
「いえ、違いますよ」
聞くと、失神したと思われた直後、星の左手を信じ難い剛力で振り解き、自由になった右手で星の襟元を掴み、引き寄せたのだという。
同時に、押さえつけられていた首を、これも凄まじい腹筋と首の力で持ち上げると、大口を開けて星の喉に噛み付こうとしたらしい。
咄嗟に出した左腕が、牙の餌食になった。
骨も砕かれそうな噛み付きで、激痛が星を襲う。この激痛で、星は自身の言う『戦闘態勢』から素に戻った。
「そして?」
「その後、すぐに椛さんが口を離しました」
見ると、左の袖が捲り上げられており、血の滲んだ包帯が巻かれている。どうやら先ほどはこの処置をしていたらしい。
「んー……その辺は全然記憶にないなぁ。でもそうなると、私の方が星さんを無意識に殺そうとしていたってことになるな。謝るべきは私の方ですね」
「いえ。椛さんは生命の危機を感じて死に物狂いで抵抗したのでしょう。つまりそこまで追い込んだ私が悪いのです」
「そんなことないですって。あぁ、血が大分滲んでる。随分乱暴に噛み付いたんだなぁ。痛かったでしょう。申し訳ない」
「しかしあの噛み付きがなくては、私は正気に戻らなかったでしょう。この痛みは罰です」
「いやいや、そんなこと。星さんは何も悪くないんですって」
「ごめんなさい。本当に申し訳ない。私は、酷いことを……」
「待った。謝るのはそこまで。とりあえず家に戻りましょう。星さんも私も、しっかり手当てしないと」
先ほどとは逆に、地面に額をこすりつけている星を立たせると、引きずるようにして家まで連れ帰った。
一通り手当てが終わり、二人は卓袱台を挟んで向かい合っていた。椛は左肩に氷嚢を乗せているため、右手だけで湯飲みを持っている。
「さて、星さん」
「は、はい。すみません」
「謝るのはそこまで、と言ったでしょう。もう一度言いますけどね、星さんは悪くないんですよ」
「いえ、やはり」
「待った。まぁとりあえず聞いて。まず、立ち合いする以上、怪我は覚悟の上だった。だからまずこの点に関しては双方とも過失がない、もしくは両方とも過失あり、といったとこでしょうか。まずこれはいいですね」
「……はい」
「次に。こっちが本題かな。さっき、星さんは私は殺しかけたと言ってましたが。この点についても、双方に非があると思うんです」
「双方に?」
「それも、先にまずいことをしたのは私の方と思ってます」
「そ、そんなことは」
「待った。もう少し言わせてください。まぁ、私の悪い癖が出てしまったようです。どうも私は、格上の相手を前にすると、結構あっさり腹を決める方でして。星さんと向かい合ったとき、ほとんど即断で相討ちを考えました。何の躊躇もなく、です。星さんは恐らくすぐに私の狙いに気付いたでしょう」
ずり落ちかけた氷嚢の位置を戻しながら、話を続ける。
「つまり、先に命のやり取りを申し込んだのは私の方。星さんが望んで私を殺そうとしたわけじゃない。私が強めのちょっかいを出したからなんです」
「……」
「強いて言えば、それを適当なところで咎められなかったのが星さんの過失。でも私の過失に比べれば些細なこと。謝罪すべきは私だし、殺されても文句は言えない立場なんですよ」
「……でも」
「はい?」
「結局は訓練の域を超えてしまいました。最初にあんな偉そうなことを言っておきながら、です。戦闘に没頭してしまい、こともあろうに、友人を……あ、殺めかけてしまった。ひとえに私の未熟です」
「いや、そんな」
「正直なところ、紙一重ながら、私の方が実力は上だと思っていました。だからあの発言になったのです。しかし実際は、椛さんの気迫を受けて、無意識に一線を越えてしまいました。本当は紙一重の差もなかったのです。全て私の慢心が生んだことです。腕も心も未熟だったのです」
「……」
「……本当に、申し訳ありませんでした。今日はこれで失礼致します」
そう言って星はそっと立ち上がった。がっくりと肩を落とし、後姿がひどく頼りなかった。
数日後、にとりがナズーリンをつれて椛の家に来た。先日一人で妖怪の山に行って以来、塞ぎ込むことが多くなったが、その理由をナズーリンにも白蓮にも言わないため、こちらに聞きに来たという。
椛が先日のことを詳しく話すと、ナズーリンは小さく溜息をついて、星の過去をぽつりぽつり語った。友人である聖を封印する立場にあったことが星の精神に暗い影を落としていること、そのため友人関係のいざこざを非常に恐れていること。
「まぁ、一種のトラウマになっていてね。今回の件は、そのトラウマから、椛さんを負傷させたことを酷く後悔しているんだろうな」
「……」
「まぁ、君が気にすることはない。いつか必ず克服しなければならない問題だったからね。むしろいい機会になったかもしれない。時間はかかるかもしれないが、少しでもご主人にトラウマを克服してもらうべく、私も考えてみる」
最後に、ありがとう、と一言残してナズーリンは去った。
立ち合いをした日は、比較的過ごしやすい気温の日だったように思う。実際、星が来るまでは、幸せな気分で薄い夏蒲団に潜り込んでいた。
流石にそれから二ヶ月も経つと、秋の空気が漂い始め、寝る前はそれほどでなくても、目覚めると寒さで布団から出るのが億劫になる日もでてきた。
尤も、椛は秋という季節は嫌いではない。むしろ季節としては一番好きと言ってもいい。
冬に向かって気温が下がっていく、時として物悲しい気分を感じさせる空気が、椛には心地良い。
しかし、この二ヶ月ほどは、秋らしくややセンチメンタルな気分になる日々が続いていた。
星がばったりと来なくなったからである。
原因は間違いなく、自分を負傷させたこと、殺しかけたことによるものだろう。
星に話したとおり、先に捨て身になった自分が星の戦意をかきたててしまったと思っている。だから、星の心を傷つけてしまったということで、星に対して申し訳ないという気持ちの方が強い。
(でも、星さんはそうは思っていないんだろうな)
ナズーリンが話すところの「トラウマ」が、星を自己嫌悪に陥れているに違いない。
星の過去については、大筋だけだが、ナズーリンから聞いている。
つい最近仲良くなったばかりの自分が、星の古傷を癒せるとは思っていない。しかし、この二ヶ月、どうにも歯痒い気分が消えなかった。
付き合っている期間は浅くても、星は既にかけがえのない友人となっている。
会話をしている時は、星の無邪気さや暖かさが眩しすぎて気後れすることもあったが、今ではあの暖かさが酷く恋しい。
(……行ってみるか)
昼時だったが、昼食後、命蓮寺に向かうことに決めた。
まだ落ち込んでるかも、とか、会ったらどんなことを話そう、といったことは考えていない。だが別にそれでいいと思った。ただ久し振りに友人に会いに行くだけだ。外出している可能性があるが、それなら今度訪問すればいい。
適当に昼食を済ませ、外に出ようとして、ふと思いついて、愛刀と盾を手にした。
土産を買い、命蓮寺までのんびり飛ぶ。
直接境内に降りるのは何となくはばかられたが、宝船からできた寺ということで、人里での評判は良いらしく、参拝客が少なくないと聞いている。一応人間と会うことを避けるために、ここは直に境内に降りるつもりである。
上空から様子を見たところ、人の姿は見られないため、失礼しますよ、と静かに降りた。
「すみませーん」
おずおずと声を掛ける。魔理沙なら「邪魔するぜ」と上がっていきそうなものだ。尤も、魔理沙のみならず、幻想郷の個性的な面々は、そのような行動を取る者が少なくない。
「はい? おや」
と出てきたのは、ナズーリンだった。人見知りの椛にとってはありがたい。
「これは珍客。よく来たね」
「どうも。星さんは?」
「出かけてるけど、そろそろ戻ってくると思う。まぁ上がって待ってて」
「いいの?」
「滝の裏の憩いの場に招待してもらったこともあるし、何も遠慮することはないよ」
「それじゃ失礼して」
履物を脱ぎつつ、ナズーリンに星の様子について尋ねる。
「変なこと聞くけど、星さんはあれからどんな感じ?」
「うーん……今は普通にしてるけどね。ま、とりあえずこっちへ。ご主人が来るまでゆっくり話すよ」
椛との手合わせの後、帰ってきた星は、そのまま部屋に閉じこもった。夕食の際にナズーリンが呼びに来たが、虚ろな口調で断った後、明かりもつけずに自室に籠っていたらしい。
楽天家の村紗とぬえはさほど気にしなかったようだが、一輪は心配そうな表情を見せていた。
夕食後、白蓮から星の様子を見てくるよう頼まれたが、言われずとも行くつもりだった。
やや小走りで星の自室に向かっていると、何やら異様な呻き声が聞こえた。小走りから全力疾走になって廊下の角を曲がると、縁側で激しく嘔吐している星がいた。
「ご主人!」
慌てて駆け寄り、背中をさする。
既に腹の中のものは全て吐いてしまったようだが、なおも吐き気が治まらないらしい。唾液と胃液だけがぽたぽたと落ちる。
星の呻き声と、ナズーリンの切迫した声を耳にして、一輪も駆けつけ、星の尋常でない様子を見て、すぐにどこかに駆け出した。
それから少しして、やっと吐き気が治まったようだが、今度は意識が遠のいたのか、縁側の下に嘔吐したばかりにものの上に落下しそうになった。ナズーリンが星の体を慌てて支えた。
星が、自分より小柄なナズーリンにもたれかかる。目が虚ろで、焦点が合っていない。
「ご主人、大丈夫か? 私の声が聞こえるかい?」
ナズーリンの切迫した声にも反応せず、視線が夕闇の中をふらふらさまよっている。
一輪が汲んできた水で口を濯いだ後、二人がかりで部屋に運び込んだ。布団が既に用意してあったが、後で聞くと一輪が敷いてくれたらしい。後ろの星の部屋でそんな準備がされていたとは、ナズーリンも気付かなかった。やはりナズーリンも動転していたということだろう。
寝巻きに着替えさせるとき、左腕の血が滲んだ包帯が目に入った。星に尋ねたが、星は相変わらずぼんやりしたままで、何も応えない。更に詰め寄ろうとして、一輪に制された。
「落ち着いて。まずは星を寝かしてあげましょう」
「……そうだな。すまない。驚いてしまって、私はどうかしてしまっているようだ」
「私だって似たようなものよ。星のこんな姿、私も初めて見たもの」
横にさせた後、包帯を解いてみると、酷い咬傷が出てきた。かなり深い傷で、ナズーリンも一輪も思わず目を背けたが、丁寧に処置を施し、布団の中に入れてやる。
最後に、ナズーリンが肩まで布団をかけ、一輪が額に濡れた手拭を乗せた。
後で星に聞いたところでは、嘔吐してからここまでの記憶が途切れ途切れらしく、詰め寄られたことや左腕の処置についてはほとんど覚えていないということだった。額に冷たい感覚があったのが最後だというから、濡れ手拭を額に乗せた後、気絶に近いかたちで眠りに落ちたようだ。
翌日、ナズーリンをはじめ、命蓮寺の面々が色々聞いたが、星は何も語っていない。白蓮にすら一言も打ち明けようとしなかった。
命蓮寺の面々が事情を知るのは、それから三日後、ナズーリンが椛の家に訪れた後である。
「……」
「翌日からはごく普通にしていたけどね。ただ、あれからたまに塞ぎこんでいるときがあるな。まだ整理がついていないんだと思う」
「そうかぁ……」
「私も考えてみる、なんて言ったけど、なんて声をかけたらいいかわからなくて、ずるずると今まで来てる感じかな。全く、自分が情けないよ」
「まぁ、私も今日来てみたはいいけど、どんな言葉をかけるべきか全然考えていなかったんだけどね。ただしばらく会ってないから、会いたくなってね」
「何も格別気を使うことはないし、それにその気持ちだけで十分さ。ご主人のことを心配してくれてありがとう」
「いや……何もしてないんで、お礼なんて。それに今日はもう一つ目的があってね」
「目的?」
「うん」
椛が頷いたとき、玄関の方から声が聞こえた。星が帰ってきたらしい。
「帰ってきたみたいだな。ちょっと待っててくれないか」
ナズーリンがつと立ち上がって、部屋から出て行く。
星が来るまでの僅かな時間に、どんな言葉をかけるべきか考えるが、やはり相応しいと思える言葉が思い浮かばない。
(私らしくもなく、無計画なことをしたな)
会いたいから、という理由で来たことに後悔はないが、やはり少々緊張する。
「来客? 私に?」
「あぁ」
すぐに二人の声が聞こえてくる。困ったなと思っているうちに、星が顔を覗かせた。
「あっ」
椛を見て、星が絶句する。
「あー……どうも」
結局、いつもどおり、頭を掻きながらちょこんと頭を下げた。
椛の姿を見たとき、星は酷く動揺したようだが、以前と同じく普通に話せた。星ののんびりした雰囲気は変わっていない。そして、会話が続くごとに、
(あぁ、やはり私はこの人に会いたかったんだなぁ)
という思いが強くなる。
星の暖かな雰囲気と話し方は、椛を穏やかな気分にしてくれる。
にとりのひょうきんな雰囲気は、ゆったりのんびりとした椛の精神に程よい弾力性を与えてくれ、何となく元気になれる。その明るさに何度救われたかわからない。
星の場合は、高級な毛皮の柔らかい毛並みのような、眠気を誘われるような心地良い肌触りがある。
(この人はやはり善人だなぁ。思ったとおりだ)
そのように改めて思って納得しつつも、ナズーリンの言うとおり、時々微かに表情に陰が入るのが椛にもわかった。確かにまだ先日の件を引きずっているのだろう。
話題が途切れたところで、先ほどナズーリンに言いかけた「目的」を果たすため、話し始めた。
「今日は二人とも暇があるの?」
「まぁ、そうだね。今日は参拝客が少ないから、我々二人だけでなく、皆のんびりしたものだよ。ぬえは相変わらずどこをほっつき歩いてるんだか、姿が見えないが」
「そうか。それじゃ、二人に頼みがあるんだけど」
「頼み? 何だい?」
「今日は、星さんと手合わせをしたくて、お願いに来たんですよ」
星が目を丸くする。
「で、あなたには、是非とも立会人をして欲しいんですよ」
「た、立会人?」
「はい。この前は止めてくれる第三者がいなかったから、ちょっと命のやり取りになりかけましたが、立会人がいれば多分大丈夫でしょう」
「わ、私にはちょっと荷が重い頼みだな。君たちのような武辺者二人の立ち合いを止める勇気はないよ」
「大丈夫。こりゃまずい、と思ったら、一言言えばいいだけだから」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「はい?」
「あ、いえ、その」
星は、先ほど椛の姿を見たとき以上に困惑していた。
「ま、大丈夫でしょう。後は私達が前回よりもう少しだけ気をつければ、問題ないと思いますよ。さて、行きましょう」
「あ、う」
「さ、早く」
椛らしくもなく、素早く立ち上がると、二人の腕を掴んだ。
あうあうと星が困惑しているうちに、槍を持たせ、玄関まで背中を押し出す。履物を突っかけながら、程よい空き地の場所を尋ねると、寺の裏手を示した。
寺の裏は森が広がっているが、適当な広さの広場もある。普段はぬえや村紗が何やら悪巧みをしていたり、一輪が雲山を使役して薪を割っていたりと、何かと使われている場所らしいが、今日は無人である。
「なるほど……広さもいいし、人も来ないし、いい場所ですね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何です。ここまで来て、待ったはないでしょう」
「で、でも、やはり、前みたいに……」
「大丈夫ですよ。さっき言ったとおり、今日は立会人もいますしね。それに今日なら、星さんに勝てるでしょうから」
「え?」
「えって、そりゃそうでしょう。この前と違って覇気もないですし。この前星さんは虎と言いましたけどね、今日は借りてきた猫に見えますよ。虎相手ならきついですけどね、猫には流石に負けるわけがないでしょう」
我ながら似合わないことを言う、と思わざるを得ない。しかし、「前回」と同じ状況にするには、こんな似つかわしくない白々しい挑発の言葉も言わなくてはならない。何しろ「前回」、星も言っていたのだから。
元々妙に鈍いところがある星だが、ここに来てやっと気付いたらしい。椛の様になっていない挑発を聞いて、星があれっという顔になり、視線をやや上に逸らして二、三秒考えた後、目を閉じて鼻を擦った。
椛が立ち合いを望んだところから、強引に外に連れ出して今の台詞を吐くところまで、先日、星自身がしたことと全く同じではないか。
「……」
鼻を擦る手の隙間から、口の端に笑みが見えた。
(ちぇっ、笑わなくたっていいじゃないか。星さんだってこの前、恐ろしく不似合いな挑発をした癖に)
恥ずかしくなってきて、椛も鼻を擦る。
星を立ち直らせる方法として、もう一度手合わせをする、というのは、この二ヶ月、椛なりに考えていたことだった。その際に前回のようなへまをせずに止めることができれば、双方とも止めのタイミングを知ることができるし、星も心に余裕ができてくるだろうというのが、椛の考えである。
だが、一旦仕合が始まれば、立ち合い中の二人が「止め」のタイミングで確実に止められるかどうかは疑わしい。だから、立会人がいれば、というところまでは考えていた。
問題は、その立会人である。正直なところ、星の圧力を受けて、ナズーリンが「止め」をできるかどうかは怪しい。
白蓮であればできるかもしれないが、会ったこともないし、そもそも、付き合いの浅い自分が星を立ち直らせようとすること自体がおこがましいと思う。白蓮なら椛の意図を察し、叱責を浴びせるかもしれない。だから躊躇していた。先ほど家を出るときも、今日は立ち合いはしないつもりだった。
だが、出かけるときに、咄嗟に思いつき、刀と盾を手にした。
星と自分が似ているということは前から思っていたことだが、それなら、自分の挑発もさぞかし不似合いだろう、と思ったのである。
前回の星のように振る舞い、格好のつかない挑発をすれば、きっとあのときの椛のように、星も違和感を感じるに違いない。
そして、前回と同様の進行になっていること、自分のしたことが酷く不恰好だったことを見せてやれば、星もついつい苦笑し、何となくリラックスするのでは、と思ったのである。
実際には苦笑と言うより、単純に椛の挑発に可笑しさを覚えたような笑みで、その点についてはやや椛は不満があったが、結果として椛の思いつきは予想以上に図に当たったようだ。
後で白蓮やナズーリンに、差し出がましいことをしたと叱責を受けるかもしれないが、それはとうに覚悟の上である。
星は手を下ろすと、軽く咳払いをし、やや目を細めて椛を見据えてきた。笑みは既に消えている。どうやら、大根役者さながらの椛の演技に乗ってきたらしい。
「言ってくれますね。本当に私に勝てると思っているのですか?」
声が低くなり、双眸に覇気が漲り始める。こちらは椛と違い、なかなかの演技である。その証拠に、ナズーリンがやや怯えた表情になっている。星のことを良く知るナズーリンが騙されているのだから、名演技だと言ってもいいだろう。
「まぁ、勝てるでしょうね」
「……ふむ」
槍の鞘を払い、放り投げた。鞘はナズーリンの足元に落ちる。椛もゆっくりと盾を上腕に固定させた。
「確かに、少々思うところがありましたので、先ほどまでは覇気もなかったでしょう。しかし、椛さんはどこをどう勘違いされたのか、私に勝てるなどと寝言を言う。先日の立ち合いの結果が明白であるのに、です」
「……」
「先日、怪我をさせてしまったことについては、本当に申し訳ないと思っています。ですが、寝惚けている椛さんの目を覚ましてさしあげる必要があるようですね」
「寝惚けてなんかいませんよ。考えてみてください。いくらなんでも、狼が猫に負けるわけないでしょう?」
「虎を猫と思ってしまうとは、重症ですね。一応希望を聞いておきましょう。どこを痛めつけて欲しいですか?」
「寝惚けているのは星さんの方みたいですね。私が勝つんですから、星さんは自分の体の心配をすべきです」
「特に希望はないようですね。では流れに応じて適当に痛めつけてさしあげましょう。でも、早めに目を覚ましてくださいね。大切な友人をぼろ雑巾のようにする趣味はないので」
とん、石突で地面を軽く叩く。
と、突然、弾かれたように槍を突き出してきた。右手だけでの突きだが、星の剛腕のおかげで、その速度は尋常でない。
椛は、星が石突で地面を叩くと同時に後ろに跳んでいた。
着地し、やや足を広げ、膝を曲げ、腰を落として星を睨み据える。星は既に一分の隙もなく槍を構え、槍先は椛の胸を真っ直ぐに狙っている。
椛はまだ抜刀しておらず、左手は鞘を押さえているが、右手は体の横にだらりと下げたままでいる。
星の速攻を読めはしたが、その攻撃速度は、椛に抜刀する暇を与えなかった。抜刀しようとすれば隙が生じる。居合の技もできないこともないが、星の槍の速度の前には手も足も出ないだろう。それに、そもそも椛は居合はほとんどやらない。椛の大刀は居合向きでないからだ。
目にも留まらぬ槍の一撃に対抗するには、絶対的な自信がある上段からの振り下ろししかない。しかし、まだ抜刀を許されていない。
星が、じりじりと距離を詰め始めた。それに合わせて椛は少しずつ後退する。
凄まじい圧力を受け、背中が汗で濡れてくる。先日は大斧と感じた星の覇気が、今日は鋼より硬い巨大な岩がゆっくり転がってくるように見えた。斧なら避ければ何とかなるが、山のような大岩相手では、避けるのも打ち砕くのも不可能に思えてくる。
だが、不思議と焦りはない。
大岩が迫ってくることへの恐怖はあるのだが、脳も心臓も酷く冷静で、全く乱れがない。
また、今日は今までと違い、頭から血が引く感覚が来ない。それでいて、既にあの無念だとか無想だとかいう精神状態に入っていた。
いつの間にその域に入ったのか、自分でも気付かなかった。ごく自然に、自身の筋肉の動き、星の血液の流れが見えていた。
そして何より不思議なのが、僅かな隙も許されない状況で、極めて冷静に、しかしゆっくりと思考を巡らせているのである。
(……おかしいな。どうしちゃったんだろう。何でこんなに冷静なんだろう。何でこんなときにのんびり考えてるんだろう)
そんなこと考えている。
自分の冷静さに困惑しながらも、脳裏に背後の風景が映ってくる。後二メートルも下がると、背中が木にぶつかる。
横への移動は星も想定済みだろうから、素直に逃がしてくれるとは思えない。上に跳んで太枝を掴み、枝から枝に飛び移って逃げながら隙を窺うのはありかもしれない。
しかし、少し癪な気もする。
不慣れな挑発を笑われ、不意打ちに近い先制攻撃をされ、そして今、ほぼ一方的な状況に追い込まれている。少しばかり泡を食わせてやっても罰は当たらないだろう。
(早死にするタイプかな。でも)
腹を決めると、更に無想とやらの感覚に浸るべく、大胆にも目を閉じ、一度静かに深呼吸した。深く息を吐き終わり、目を開けた時には、椛の思考は停止していた。
何もかもが見えるこの境地に至ったら、後は今まで同様、椛はただ頭を空っぽにしていれば良い。喧嘩の際にやるべきことは、残らず身体に叩き込んである。
無心になって、後のことを体の赴くままに任せたところ、踵が後退を止めた。
足元は早めの落ち葉や枯れ木が散乱し、木の根が隆起しており、背後は1メートルと少しで木にぶつかる。
悪条件であることは、既に脳裏に全て映っている。しかも抜刀していない。そんな状況で足を止めたのである。
星の前進にあわせ、椛の身体が沈んでいく。すっと右足を引いて左半身気味になり、盾を固定した左肩を少し前に出す。左手はようやく鯉口を切り、鞘を軽く握っている。右手は依然として垂れ下がったままだ。
星の前進は止まらない。
少しずつ、射程範囲ぎりぎりの点が近づく。
今回の星は、止まらなかった。
じりじりと近づき、射程範囲に達するや否や、止まることなく、攻撃を仕掛けたのである。
目にも留まらぬ突きは、盾のやや下に突き出された。盾に覆われていない左脇腹辺りを狙った一撃だ。
星の突きからゼロコンマ何秒か遅れて、椛の左手が動いた。
鞘を握っていた左手が上に滑り、柄を握り、そのまま逆手で抜刀した。
刃が、槍に吸い付くように触れた。刀の腹で槍先を滑らせ、受け流す。槍先が腹部の辺りを掠め、服が少し切り裂かれた。
受け流しつつ、右手で槍を掴み、一気に懐に飛び込む。足元の枯れ葉が舞った。
突進の勢いで、逆手に握った刀を星の右の首筋に叩きつけようと振り下ろしたが、一瞬早く左拳を掴まれた。
互いに相手の武器を押さえている状態になった。
全く同時に、両者が右足を振り上げた。そのまま両者とも、思い切り蹴り出す。
互いの足裏が真っ向からぶつかり合い、体重の軽い椛の方が大きく後方に跳ぶ。
着地すると同時に、跳ね返ったように椛が突進していく。この戦いで初めて両手で刀を握り、高々と振りかぶっており、自慢の上段からの攻撃だ。星もまた、だっと踏み込んだ。
星の突きが、椛の突進を迎え撃つ。神速の突きと神速の斬撃が衝突した。
強烈な金属音が響く。
椛の刀は、その自信の通り、槍が体に触れるより早く槍の柄を撃っていた。しかし、撃ったのは、金属の装飾の部分だったのである。
また、星の突きの威力がやはり尋常でなかった。撃ったはいいが、あまりの勢いに、刀が弾かれた。槍先を斬り落とすことはできなかった。
それでも槍の軌道を少しだけ変えることはできたため、槍の一撃は椛の右脇腹を掠めて逸れた。
そのまま両者とも駆けてすれ違い、同時に向き直った。
星は懐に潜られるのを嫌ったため、椛は腕が痺れて攻撃ができなかったためである。
向き直った椛は、また上段に構えた。
星は、石突の側を少し持ち上げ、槍先を地面に向ける形で構えた。下段から椛の振り下ろしを跳ね上げつつ突くつもりのようだ。
距離はまだ十分にあるが、両者とも動かない。今回の戦闘で初めて静寂が訪れた。
そのまま時が流れる。
不意に椛が後方に跳び、刀を中段に下ろして待ち構える。星が進む。椛が後ろに跳んだ際に森の中に入ったため、戦いの場が森の方に移り始めた。
木々があると、当然のことながら武器を振り回すのに支障が出る。そして支障の程度は、武器の大きさに比例する。椛としてはそれを誘った意味もあるのだが、星は躊躇することなく森に踏み入った。
ゆっくり接近すると、先ほどのように、止まることなく突いた。ほぼ同時に椛も後ろに跳び、それを避ける。椛が着地するより早く追い討ちをかけるが、今度は椛は左に跳んだ。そして、木の陰に身を置いたのである。
椛と星が、立ち木を挟んで向かい合う。立ち木は椛の胴ほどの太さがあり、槍で無理に突いたところで、木を貫通できても椛の体には流石に届かない。
と、ここで椛の脳裏に、木の反対側にいる星が右足を上げる姿が映った。咄嗟に左腕を上げる。
次の瞬間、凄まじい音と共に、盾に衝撃を受け、吹き飛ばされた。
星が立ち木ごと椛を蹴飛ばしたのである。
それなりの太さがある壮年の木を、力づくで蹴り壊したその力は、今更ながらとんでもないものがある。押し合い、組み合いの戦いになれば、椛には万に一つも勝ち目がない。
左腕の鈍痛を堪えて立ち上がると同時に、蹴り壊された木が轟音立てて倒れた。木の向こうから星が椛を見据える。相変わらず目に輝きがない。その上、森に入って日の光が遮られているせいもあり、顔が影で見辛い。影の中で、白い眼球だけが宙に浮いている。
蹴飛ばされて距離が開いたところで、星がまた槍を構えなおし、前進を始める。椛も刀をゆっくり振り上げようとしたが、中ほどまで刀を上げたところで、だっと後ろに跳んで更に距離をとった。
おもむろに左肩に固定されていた盾を外して捨て、上衣も脱ぎ捨て、鞘も取り外した。上半身は胸と腹に晒を巻いているだけだが、今の椛は肌寒さを感じていなかった。星の足が止まる。
そして、椛は大胆不敵にも、大上段に振り上げた。
更に、椛の方から少しずつ進みだした。
刀を振り下ろす際の邪魔を極力減らした上で、自ら死地に歩み寄っていく。
星も再び、じりじりと距離を詰めていく。
風はない。
鳥も鳴かない。
二人の前進による土の音、落ち葉や枯れ枝を踏み砕かれる音だけが響く。
やがて、ほぼ同時に歩を止めた。星の必殺の一撃が発動する直前の距離だ。
両者とも、総身に汗をかいている。椛の顎から汗が滴り落ちた。
このような場合、例えば目に汗が入ったり、疲労で毛ほどの隙をつくってしまったり、前回のように枯れ枝が落ちてきたり、といった何らかのきっかけがない限り、両者とも動くことができなくなる。
今回の場合は風もなく、外部からの要素は入りにくい。汗はかいているが、幸い両者とも顔面の汗は目尻の脇を通っている。疲労は椛の方が大きいが、まだ当分持ちそうな状態だ。
放っておけば、日が暮れても勝負がつかない可能性があった。
その緊張感に満ちた空間の中に、柔らかな足音が近づいてきた。
聖白蓮である。
異常に張り詰めた空気の中に全く臆することなく踏み入り、静かな足取りで近づくと、そっと槍の柄を撫でた。
「星」
星の名が優しく呼ばれる。呼ばれて星が一つ瞬きをすると、途端に星の目に輝きが戻った。星が構えを解くのを見て、椛も刀を下ろした。
「その辺にして、お客様からのお土産を皆でいただきましょう。丁度美味しいお茶も手に入ったところです」
「そうですね。そうしましょうか」
たった今までの覇気は最早影も形もなく、いつもの穏やかな星になっていた。星が槍の鞘を拾いに行く。代わりに白蓮が椛の前にやってきた。
「お初にお目にかかります。私はこの命蓮寺に住む、聖白蓮と申します。星が大変お世話になっているそうで」
「あ、いや、そんなことは」
一言挨拶されただけだが、椛は何となく気後れした。人見知りというのもあるが、それ以上に、何か神々しい雰囲気を感じ取ったのである。
(星さんは善人だけど、この人は聖人だな)
犯し難い神聖な何かがあり、近づくことさえ畏れ多く感じてしまう。とりあえず辛うじて自分の名を名乗ることはできたが、どうも上手く言葉が出ない。
「そのままでは風邪をひいてしまいます。どうぞ」
白い手拭を差し出され、一層困惑する。
「あ、いや、大丈夫ですよ」
「いえ、いけません。最近はだいぶ冷えてきましたし、季節の変わり目で風邪をひきやすい時期です。油断すると性質の悪い風邪を拾ってしまいます。さ、汗を拭いて、早く服を着ないと」
「あ、う、す、すみません」
綺麗な手拭を汚してしまうことさえ躊躇われたが、他意のない親切を断ることもできず、おずおずと手拭を取った。
恐る恐る汗を拭いていると、落ち着いてきたせいもあってか、急に肌寒く感じてしまい、結局急いで汗を拭き取ることになった。
汗を拭いて服を着、盾を拾い、刀身を懐紙で拭って鞘に収めていると、星がナズーリンと共にやってきた。
「聞いてください。今、向こうに行ったら、仕合を始めた時の位置でナズーリンが座り込んでいたんです」
「ちょっ、ご主人」
「で、呼んだら、手を貸して欲しいというんですよ。聞くと、腰を抜かして立てないと言うんです」
「あら、そうだったの」
「……人の恥を言いふらさなくたっていいじゃないか、意地悪。それに、私じゃ立会人は務まらないって先に言っておいただろう」
「でも、星の従者としてはちょっと頼りないわね」
「そ、それは……椛さん、弁護してくれないか」
「え? えー……次は頑張ろうか」
「何のフォローもしてくれないのか! 君がそんなに冷たい人だとは思わなかった!」
「残念でしたねぇ。四面楚歌ですよ」
「あ、あんまりだ!」
星の笑い声とナズーリンの悲痛な声が辺りに響いた。
白蓮が手ずから淹れてくれた茶は確かに美味かった。椛が普段飲んでいる安物とは違うのだろう。
椛の持ってきた羊羹を、ナズーリンが切り分け、爪楊枝を刺して椛にも差し出した。
美味しい茶と甘い和菓子が良くあう。星の他愛のない話を聞きながら、自分が持ってきた羊羹を自分でつつく。
「これ、美味しいですねぇ。甘すぎないのがいいです」
「私のお気に入りのお菓子の一つなんですけどね。気に入っていただけたようで何よりです。ん?」
玄関の方から声が聞こえた。
「来客かな。一輪も誰もいないのかい?」
「先ほど買い物に出てしまいました」
「では、私が行きましょう」
星が立ち上がった。
星が去ると、椛は何となく落ち着かなくなった。
椛は基本的に自ら話すより話を聞くのが好きな方で、口数が多くない。ナズーリンも相手に話に上手く相槌を打ったり、皮肉に混ぜっ返したりするのは得意だが、自分からガンガン話すという方でもない。白蓮はにこにこして楽しそうに聞いてるだけで、こちらもあまり話さない。
そのため、星が抜けると必然的に会話が減る。
加えて、白蓮とは初対面であり、例によって人見知りしてしまう。更には白蓮の神聖な雰囲気に呑まれて、先ほどから椛はほとんど話していなかった。
(星さん、早く戻って来ないかなぁ)
などと、後ろ向きなことを考えていると、白蓮の方から口を開いた。
「犬走さん」
「は、はい」
「先日のお話は、ナズーリンから聞きました」
「あぁ。その節は申し訳ないことを」
「あなたが謝ることではありません。長く付き合っていながら、星の心の傷を癒すことができないでいる私どもの責任です。あなたを困惑させてしまったことを謝罪しなければなりません。ご迷惑をおかけしました」
「あ、そ、そんなことは」
椛にとっては、深々と頭を下げられる方が困惑してしまう。
「それで、今日こちらにいらしたのは、立ち合いをされるために?」
「いえ、そういうわけではないんですけど。いや、立ち合いが目的ではあったんですけど、何と言ったらいいかわからないですけど、んー」
困った時や照れた時に頭を掻くのが椛の癖だが、星たちと付き合い始めてからこの癖が出る回数が増えていた。
「ご存知のとおり、少し前に星さんとナズーリンさんと知り合う機会がありまして。二、三回、一緒にお茶したんですけど、ここ二ヶ月ほど会ってなかったんですね」
「……」
「付き合いは浅いですけど、星さんが先日の立ち合いの件を気にしてこちらに来なくなったってのは、想像つきました。ナズーリンさんからも、星さんの落ち込みようは聞いてましたしね」
「……」
「星さんの過去についても、少しだけですが聞きまして。まぁ、私のせいでだいぶショックを受けたというのははっきりわかりまして、何とか元気付けられたら、とは思っていたんですけど」
「犬走さんのせいなどでは……」
「いや……星さんの戦意を不必要に高めてしまったのは、私のせいです。その点については先に謝ります。すみませんでした」
「……」
「で、元気付けたいとは思ったんですけど、白蓮さんをはじめとしたここの皆さんと比べたら、私なんてほんの昨今の知り合いなわけで。そんな私が星さんの心の傷を癒すなんて、おこがましいとも思って」
「付き合いの長さは問題ではありませんよ」
「うーん……そう言っていただけるとありがたいですけど、やはり星さんへの理解の深さの度合いは違いますよ。それを考えれば、私が星さんを励ますなんて」
必死に謝罪する星をなだめていた時のように、多弁になっている自分に気付いた。何故こんなに多弁になるのか自分でもわからない。
「でも、まぁ……付き合いが短くても、星さんもナズーリンさんも、私にとっては、もう大事な友人になってまして。二ヶ月も会ってないと寂しくなりましてね」
「……」
「純粋に、星さんたちに会いたくなって。でも、せっかくだから星さんの力になりたいとも思って。で、これの」
と、部屋の隅に置いた刀と盾を目だけで示して、
「話になりますけど。先日の立ち合いの件を持ち出して、私なりに星さんを元気付けようと思ったんです」
椛は先日の立ち合いの詳細を話した。
「そのときの星さんの挑発が、酷く似合わなくて。それをちょっと真似て、からかってみたんですよ。私も、演技とはいえ、挑発なんて柄でもないことなんか初めてしましたけどね。星さんは自分のことを棚に上げて笑ってましたけど、でも確かにその前とその後の今までとでは、明らかに変わりました。何というか、陰がなくなった感じがします」
「……」
「正直、やはりお節介だったかなとは思います。でも、多分少しは星さんも気が楽になったと思うんです。今回だけはお節介を許してください」
やや言い訳に近い長話が終わったところで茶を啜ったが、流石にぬるくなっていた。飲み干したところに、ナズーリンがすぐに熱い茶を注ぐ。
「……そうでしたか」
椛の長話を、ほとんど黙って聞いていた白蓮が、静かに言った。
「夏の暑い日、散歩から帰ってきて早々に、星が言っていました。今日、善い人たちと知り合うことができたと」
「え?」
「今日会ってみてわかりました。星の言う通り、あなたは本当に善い人ですね」
「いや……そんなことは」
「犬走さんはどちらかと言うと、人見知りする方とお見受けします。それに、比較的聞く方が好きではあっても、ご自分から話すのはあまり得意ではない、と邪推します」
「いやもう、全くその通りですね」
「でも、今、星の話になったら、星を大切に思っていること、星のために何かしたいということを、懸命に話してくれました。少々ご謙遜が過ぎるようですが、星のことを思ってくれたということがよく伝わってきました」
「……」
「犬走さんの言う通り、理解の度合いということでは、私どもはあなたに遥かに勝るでしょう。しかし、もっと単純な、想いや情といったところでは、私どもより犬走さんの方が上なのかもしれませんね」
「そんなことないですよ」
「いいえ。そういう思いやりの心が深いということは素晴らしいことです。やはりあなたは善い人です」
「か、勘弁してくださいよ」
赤面しつつ、茶を啜った。聖人善人からこんなことを言われると、穴があったら入りたくなる心境になる。
「星とナズーリンが会ったという、もう一人のご友人も、きっとあなたと同じく善い人なんでしょうね」
「うーん……別に私もそいつも、善人なんかじゃないですけどね」
「あなたを見ていると、何となくわかります。あなたがこのように友人想いの善い人なのも、そのご友人がいるからなのでしょう」
「……まぁ、私らが善人かどうかはともかくとして、そいつが私にとっては無二の友人なのは間違いないです。つい先日も、あることで私が落ち込んでいたときに、明るく励ましてもらいました。今回星さんのことが気になったのは、多分その件があったからでしょうね。そいつには全く恩返しも何もできてないですけど」
「星の方に、その分をお裾分けした形ですね」
「まぁ、そうなりますか」
「それなら、やはりお二人とも善い人に間違いありません。ね?」
「まぁ、私が見たところ、どちらも相当なお人好しだということは違いないと思う」
「でしょう」
白蓮が椛をしっかり見据えると、また丁寧に頭を下げた。
「今回は、本当にありがとうございました」
「い、いや、わかりましたから、ホント勘弁してください」
また赤面したところで、足音が聞こえてきた。
「ナズーリン、開けてください」
「何だい?」
襖を開けると、木の箱を抱えた星がいた。柿が山と積まれている。
「来訪された方と話をしていたのですが、こんなにたくさん柿をいただいてしまいました」
「あら。それじゃ、せっかくだから犬走さんにお土産として持っていっていただきましょう」
「いや、そんな」
「麻袋はどこでしたっけ?」
「えぇと、確か台所にあったと思うが、ちょっと待ってくれ」
椛の遠慮は完全に無視される。ナズーリンが持ってきた麻袋に柿を半分ほど移されると、ずしりと重くなった袋が椛の横に置かれた。
「さ、どうぞ。大変甘いそうですよ」
「うーん……何か、すみません」
「いいさ。こんなにたくさんもらっても食べきれないからね」
「私もこんなに食べきれないよ」
「何があったかは知らないが、先日の件でまだ恩返ししてないにとりさんにもあげたらいいだろう。お裾分けすべきなのは思いやりだけじゃないぞ」
「そういうことです」
「何の話ですか?」
星だけがきょとんとして尋ねたが、誰もそれには答えなかった。
三人に玄関まで見送られる。大量に持たされた柿を持って帰るのはなかなか骨だが、よく熟しており、確かに甘そうで、楽しみではある。
「どうも、お邪魔しました」
「今度は是非、犬走さんのご友人も紹介していただきたいですね。いつでもお待ちしています」
「はぁ」
「ところで、椛さん」
「はい?」
星の表情に微かに陰がある。それでも立ち合い前に比べると、残りかすのような僅かなものだった。
「先ほどの立ち合い、あのまま続いていたら、どうなっていたと思いますか?」
「そりゃ、私が先にへばっていたか、もしくは星さんに軽く殴られて終わっていたんじゃないですかね」
「前回のように、大怪我をする可能性だってあったわけじゃないですか」
「星さん、立ち合いの最中、私と一度蹴り合いましたよね」
「そうですね」
「あの蹴り合いのときと、木を蹴り倒したときと、同じ強さで蹴ってましたか?」
「それは……木を蹴り倒したときの方が強かったですけど」
「そりゃそうですよね。木のときと同じ強さで蹴られてたら、多分私の足の方が折れてたでしょうから。ま、そういうことです。意識的にか無意識のうちにかはわかりませんが、星さんは確かに私を気遣ってくれてました。今回は大丈夫だったと思いますよ」
「……そうですか」
ふっと一つ息をついた星からは、完全に陰が消えていた。
立ち合いの最中は無心だったため、蹴りに強さのことまで考えていなかったが、自分の不慣れな挑発に対する笑みを見たときから、不安はなかった。完全に立ち直ったとは思わないが、だいぶ吹っ切れたに違いないとは確信できたからである。
「私は途中から見ていたのですが、犬走さんは本当にお強いんですね。星とあそこまで渡り合える人なんてほとんど見たことがありませんよ」
「そうですかねぇ。確かにそれなりにはやれたかもしれないですけど、最終的には逆立ちしたって敵いませんよ」
「いや、椛さんは本当に強いと思います。やはり紙一重の差じゃないでしょうか」
「そうですね。ねぇ、ナズーリン」
「なっ、白蓮、何でそこで私に聞くんだ。私は二人の動きなんてほとんど見えなかったよ」
「それはいけませんねぇ。ナズーリンは修行不足のようですね。明日から早速鍛えなくては」
「遠慮しておくよ」
「駄目です。私の従者とあろう者が白刃を前に腰を抜かすようでは、示しがつきません」
「それもそうね」
「うっ……椛さん、今度こそ私の味方をしてくれるね?」
「え? んー……」
頭を掻くと、
「星さん」
「はい?」
「まずは走り込みからですかね」
「なるほど」
「きっ、君という人は!」
「おわっ」
ナズーリンが飛び掛ってくるのを、自分でも驚くほど見事な反射神経で回避すると、大慌てで駆け出し、だっと飛んで逃げた。「薄情者」「裏切者」などの罵声を背中で聞いた。
徐々に速度を落とし、そのまま帰路につく。
別れの挨拶が半端になってしまったが、戻って改めて挨拶するのも妙に思えたし、まぁ別にいいかな、と思っている。
「……あっ」
ある程度寺から離れたところで気付いた。慌てて飛び出したため、せっかくもらった柿を置いてきてしまった。
引き返そうとしたが、すぐに思いなおした。
「……まぁ」
いいか、と思った。星はお人好しだから、明日辺りにでも持ってきてくれるだろう。人を心配させたり、自身のことを棚に上げて人の不慣れな挑発を笑ったりしたのだから、少しは手をわずらわせてやりたい。
(やはり、私は善人じゃないな)
翌日は椛は仕事だったが、仕事が終わって帰ると、にとりが家に来ていた。星がにとりの元を訪れ、柿を持ってきてくれたらしい。いつもどおりの仏のような笑顔だったと聞いた。
二人で分けるにも多かったので、四等分し、椛の分、にとりの分をそれぞれ取ると、まずは守矢神社に持っていった。よく野菜などをもらっているので、そのお返しである。
残りの一つは文のところに持っていった。
文は怪訝そうな顔をし、一瞬だけ照れたような笑みを見せたが、すぐにいつものニヤニヤ笑いに戻って礼を述べた。別れ際に「あなたらしい」と言われたが、意味はわからなかった。
文に柿を渡して帰ったときには既に夜は八時をまわっていた。山の夜はほとんど真っ暗闇だが、椛の目には大した問題ではない。
適当に夕食を済ませると、柿を一つ食べた。思ったとおり、甘くて美味い柿だった。
遅めの夕食の後は早々に布団に潜り込んだ。
白蓮の言葉に甘えて今度はにとりと共に訪問しよう、柿のお礼もしないとな、土産は何がいいだろう、などと考えていたが、生憎椛にとって布団の魔力は抗い難いものだった。
すぐに睡魔に襲われ、意識が遠くなっていく。
星たちに心中で謝罪しつつ、明日の暇な仕事中に続きを考えることにして、あっさりと眠りについた。
オーソドックスな展開のくせに、いやだからこそなのだろうか、面白い。
多分、キャラクターが皆いい人であるからだろう。
かといって全員善人天国いい人ばっかりというわけでもなく、少しの毒(文)によって多少緩和されていて、本当に心の底から、ここは現実的かつ心地良い世界だなぁと思えた。
僕も隠れ家のような場所や星のような友人を持ちたい。いや隠れ家とは違うって言ってたけど。
贅沢を言わせてもらえば、ナズーリンはただの寅丸星の部下ではなく、監視役という立場なのだから、なんというか強さの設定に納得がいかない。一説によると、星より神格が高いとか。せっかくちゃんと文と椛を犬猿の仲にしている稀有なSSなのだから、そこはもったいなかったと感じる。原作原理主義なのでマイナス10点。
次も待っています。
朝、日の出前に深呼吸をしたときに体を突き抜ける清々しさ。かつて山の色を変え 楓並木を通り抜け 湖を凍らせた風が体を通り抜けて行く感覚。
このSSの中に、秋から冬にかけての自然を感じました。
何故か二人の戦う場面を追っていても、常に色づいた山や舞う紅葉が目にうかんだのです。
冷たく、突き放したように見え、でも本当はとても優しく暖かくて、そのくせ芯にはちゃんとしなやかな物を持っている――景色と椛や星の姿と重なりました。
作者様による隠された意図なのか、ただ私の寂しさが見せた幻影なのか解りませんが、それはとても美しいものでした。
二人の淡く永い友情を祈ります。
びっくりです。
かっこいい星と椛、弾幕戦ではない純粋な戦闘を堪能させていただきました。
良いSSをありがとうございます。
とても良かったです
いやあいいっすねぇ、お話の骨格が時代小説的というか大好きな池波先生をどこか思い出させるというか、
とにかく非常に自分好みな物語でした。
戦闘シーンは少し説明的にも感じたけれどよく書けていると思います。特に椛の心理描写が秀逸だ。
まあ、剣と槍の激突はあくまでも手段であって、目的ではないと解釈しとりますが。
んで、目的と思われる椛さんの心身の成長、いや変化かな? 良き友や好敵手との出会いが堅物な彼女の
器をちょっとだけ広げてくれたのが看て取れて、こっちまで嬉しくなってしまいました。
正直これ一本で終わってしまうのは惜しい。もっともっと闘いを通じて変わっていく椛が見てみたい。
神槍、魔杖、ナイフに二刀、天剣や鎖鎌ならぬ鎖アンカーなんてのもあったか。当然ラスボスは風神の扇で決定だ。
勝敗を超えた心の交流、ホント気が向いたらで結構なんで読ませて頂けると嬉しいです。
感謝感謝!
楽しませてもらいました。また会えることを祈ってますよー
読めました。文章が硬いのは作者の真面目さのあらわれかな。
次回作も期待してます。
常々椛はかっこいい系だと主張する自分にはとてもおいしい作品です。
ただひとつだけ。
膂力は上腕の力のことなので蹴りには使えません。
ので、90点ですが本当は95とか98とかつけたいところ。
戦闘の描写、と言いますか、戦いに身を置いている人物の描写が匠でした。
星蓮船が発売されてから早一年。なかなか武人としての星はお目にかかれない。
槍術の達人としての星を読むことは私の宿望でもありました。もう大満足です。
作者様には感謝の言葉もございません。ありがとうございました。
その2人のバトルは一度は見てみたいと思っていました。
(何の因果か、第七回人気投票でもこの2人は37位、36位と並んでいましたし)
これからもよろしければ色々な作品を投下して行ってください。楽しみにしています。
藤沢周平を彷彿させた剣劇でした
椛、星を初めとしたキャラクターがドストライクでした
やかましいわ