あたたかな光が射していた。
幾重にもからみ合った枝には半透明の葉っぱが燃えるように広がり、ちいさくできた隙間から、雫のように光がこぼれ落ちてくる。さとりのたおやかな背に温度が灯る。
彼女は苔むした林床に生えたシダ植物をむしっていた。ひとつちぎり、脇に置いた編み目の粗い籠の中に投げこむ。またちぎり、投げこむ。手近に無くなると、場所を変えてまたむしる。これをもう一時間続けていた。
「ふわーあ……」
立ちあがり、背伸びをする。木漏れ日が顔にかかる。眩しさに目を細める。光はずっと上の天井の大穴から射しこんでいた。今日の地上は天気がいいらしかった。なまじここ一週間土砂降りが続いていたものだから、ぬかるんだ土や朝露の汗を浮かべる草木たちは、明るい日射しに生き生きして見える。
足元に見つけたワラビを引きちぎり、軽く払う。きらきらと水滴が舞い落ち、そこかしこにできた泥溜まりに波紋を打つ。
これでおしまい、とその一本を担いだ籠に入れ、さとりは歩みを進める。
泥に靴が汚れないように、なるべく柔らかい土壌を避けて歩く。水溜りから顔を覗かせる石を踏みしめながら。
気持ちのいい、春のゆるやかな風が吹く。さとりの薄紫の髪をそよそよと揺らす。悪くない心地だった。
今朝は早めに起きてしまったから、いつもの仕事も繰り上げになったのだった。山菜摘み。さとりの午前は、だいたいこれで埋まる。茸、ワラビ、菜の花。とにかく食べられそうなものを見つけて摘む。持ち帰って自分で食べたり、都に売りに出したりする。人間ほど身体が弱くないので、もし有毒種に当たっても死にはしない。食べなくとも死にはしないが、空腹は感じるから我慢せずに食べる。毒もたまには仕方がない。
樹木の密生しているところを通過する。枝が擦れ、葉に溜まった露がさとりの服を濡らした。
群生地帯を抜けると、空気が一気に濃くなる。花の濃密な匂い。
ぐるりを背の高い木々に囲まれ、開けた土地の真ん中にちいさな掘っ立て小屋がある。その周りに石で組み立てた花壇が敷かれ、色づいた花々が植わっている。健気に咲くそれらは、大穴からの日光を受けてきらびやかに輝いている。
さとりは小屋の建てつけの悪いドアを開け、帰宅を出迎えてくれる家の静けさに身を浸す。
籠をテーブルに置き、今日の成果を眺めてみる。背負っていたときはもっと多いと思ったが、実際はあまり良好な収穫結果とは言えないようだ。
文句を垂れても仕方ないので、適当に好みで半分ほどを選びとり、容器に移す。これはさとりの食べる分。今朝は茸汁にしよう、と考える。
もう半分は植物ごとに束にまとめ、紐でくくる。そして籠に詰めなおす。売りに出す分だ。これくらいの量なら完売できるだろう、と目処をつける。
(お腹減ったな)
ぼんやり思うが、午前中の方がはけがいいから、のんびり食べてからだと間に合わない。もう日は朝の冷気を退け、濡れた森をあたため始めている頃だ。
とりあえず準備だけして、帰ったらすぐありつけるようにしておこう、と考え、鍋に水を入れる。川から汲み溜めておいたものだ。それから、暖炉に薪をくべて火を焚く。ぱちぱちと舞う火の粉に、覆い被せるように鍋を乗せる。
水がぐつぐつ煮立つのを待って、容器の茸を掻き分けながら入れる。茸だけではつまらないので、買い置きしていた干し肉もちぎって煮る。
調味料をいくつか流しこみ、ゆらゆらと鍋底をけぶらせる熱気を見つめる。
(これでよし、と)
準備は終わり。後は出かけるだけだった。さっさと売りさばいてきて、ゆっくり朝食を食べよう。多分、昼食を兼ねる事になりそうだけれど。帯を肩に通し、籠を背負い、さとりは今日の予定を頭に思いえがく。
予定と言っても、昨日までと違った事をする訳ではない。しいて考えれば、久しぶりに天気のいい森を散歩でもしようかというくらいだ。午後にはきっと草の絨毯も乾ききっているだろう。寝そべって鳥たちの合唱でも聴きながら昼寝をするのも悪くない。
彼女はうまく閉まらないドアをどうにか押しこみ、影と光にまだら模様を作る、獣道に分け入った。
『四人の歩幅』
がさがさ、と水の匂いが立ちこめる草木を掻き分けながら、少女が森を歩いていた。赤い髪を三つ編みにして、付け根を黒いリボンで結わえている。リボンのすぐ上には、ひょこひょこと動く獣耳が生えていた。
木製の台車を曳いている。白い布が被せられていた。何か見せてはいけないものが、その下にあるかのように。死人の顔に被せる打ち覆いのような沈黙を湛えていた。
樹木と樹木の間にからまり合うツタから、ぽつりぽつりと水の珠がこぼれていた。首筋に触れ、冷たい。雨上がりのようだ。この森は地底と地上を繋ぐ大穴の真下に広がっているから、地上の天気がそのまま落ちてくるのだ。現に少女が昨夜まで過ごしていた荒地では、干からびた風がたまに吹くくらいだった。
混雑した木々を外れる。あたたかい空気が満ちていた。川の流れが耳に清々しい。
少女は水音の聴こえる方へ台車を進める。彼女の探し物が、そこにあるかも知れないと思ったからだ。それを見つけるためにわざわざこんな深い森にやって来たのだ。初めて訪れる森だった。
目の前に横たわる川は思ったよりちいさかった。向こう岸へ飛び越えられそうなくらいの、ほんの小川。目的のものも落ちていない。
少々の落胆に溜息を洩らす。黒いゴスロリ調の洋服が濡れるのも気にせず、小川の横にどっかと腰を下ろし、寝そべった。投げ出した足先が冷たい水に触れる。
細く白い指を、更に白い台車の布に這わせ、捲る。中からごそごそと取り出したのは、小動物の死骸。
何の動物か分からなかった。毛むくじゃらで、爪でえぐられたような傷がある。多分、より大きな動物に襲われたのだろう。そしてその動物は、殺しただけで喰う事をしなかった。だから今、少女の手には完璧な形の、崩れのない死骸が乗せられている。
これと同じものを、探しているのだ。
少女は死骸を探していた。死んだものをこの森に見つけるつもりで来たのだった。
「はあーっ、もう疲れたなあ」
方々を探し回って、結局見つかったのはこの一匹だけだった。口を寄せ、くすぐったい毛が頬に触れるのも気にせず、ひとかけら齧りとる。ぶちぶち、と小気味いい音をたてて、あまやかな肉が舌を滑り落ちていく。
もう一口、と唇を押しつけたところで、止した。このまま何の死骸も見つからなかったら、今日の蛋白源はこれだけになる。まだ動くつもりだから、ここで貴重な食料を喰い尽くしてはおもしろくない。
噛み砕いて骨と肉の繊維が露わになった部分から、すう、と白いものが飛び出した。
霊魂。この名も知らぬ獣の魂だ。
燃えさかるような赤い髪、尖った猫耳、二股の尻尾。打ち覆いの猫車。少女は妖怪火車である。火車は死の匂いを嗅ぎとる。死骸から湧き出た霊魂の意思を読みとる事もできる。
白く丸い霊魂は、ふわふわと彼女の周囲を飛び回る。思考能力があまりないのか、伝わってくる意思は曖昧な風景のイメージでしかなかった。油彩画のように、輪郭のはっきりしない断片的な映像。……
……菜の花を啄ばんでいる。獣の視界なのだろう、目線より高く花が咲きほこっている。柔らかい光に包まれ、その視線の先には小屋が見えた。やがて茂みに入った。よたよたとした足取りで抜けたところに、突然、大きな猛禽の嘴が現れた。視界を真っ二つに引き裂き、霊の思念もそこでついえた。
「ふうん、災難だったねえ。せめて魂の器は食べておいてあげるよ。その方がいいじゃないか。肉の鎖を解くんだ、もう何にも縛られずに彼岸まで行けるさ。もうじきね……」
そう語りかける間にも、白い魂は半透明になり、ぼやけ、その内掻き消えてしまった。残された器は、まだ少女の手のひらにある。
死骸を猫車に戻す。彼女は霊魂の記憶をもう一度思い浮かべた。
家があった。色とりどりの花に囲まれた、粗末な掘っ立て小屋だった。しかし、少女が死骸を見つけた付近には、そんな建物は見当たらなかった。もしかしたら、死骸は猛禽に運ばれてきて、途中、振り落とされたりしたのかも知れない。
とにかく、住んでいる者がいるらしい。鬱蒼と茂る森の深くに。
すん。
ふと、鼻が無意識に動いた。すんすん。火車は猫の妖怪だから、嗅覚は鋭い。匂いを感じる、――肉の匂いだ。何か混じりけのある香りだが、それでも強い肉の香ばしさが鼻を刺激する。
立ちあがり、猫車に手をかける。匂いの強さからして、あまり遠くはないようだ。しなやかな足をひねり、勢いをつけて車輪を走らせる。
「ここは」
ツタやツルが生え散らかった密生地帯を、猫車を引きずってどうにか抜けた先に、それはあった。視界が今までの倍は明るくなった。地上の日光が直接射しているからだ。光は、植えられた花びらの一枚一枚に編みこまれているようだった。それほど、花壇は綺麗に輝いている。
小屋。くすんだ木造の、ちいさな建物が花に取り囲まれていた。今さっき、死骸の意識に浮かんでいた光景だった。
肉の匂いはここから出ているようだ。茸の香りも感ぜられた。汁物でも作っていたのだろう。
ぐぐう、と鳴り出す腹部を見つめる。そっと猫車を止め、忍び足。抜き足、差し足、――キャッツウォーク。
背を縮め、前かがみになる。視野が下がる。足元にあった雑草と同じ目線。少女は黒猫になった。二つの尻尾を打ちつけて走り出す。
小屋は近くで見ると、思ったよりも粗雑な造りをしていた。通れそうな板と板の隙間から、中を覗きこむ。気配はしない。そっと、艶やかな黒毛をなぶらせて、猫は静かな屋内に足を踏み入れた。
「……それでな、ん、おい、さとり。聞いてるか?」
視界が狭まっている。鼓動がはやい。さとりは、向かいに腰掛けてさっきからべらべらまくし立てている鬼を見上げた。
額に生えた一本角が、高々とさとりの頭上を指し示す。彼女のグラスの横には空になった酒瓶が積まれている。もう何本開けているのか知れたものではない。
「ふぇ?」
「なんだ、それしきの量で酔っ払ったのか」
「いえ、まだ平気ですから……」
手を振ろうとして、眩暈がした。どうにも駄目だ。さとりは酒が得意ではない。ここの住民たちと相対的に見るならば、むしろ苦手だと言えるくらいだ。
「うう」
「弱いのを知ってて飲ませた私が悪いか。ごめんごめん」
星熊勇儀。目の前の、毒のない笑いを作っている金髪の女性の名だ。この鬼につかまったのは、さとりとしても予定外の事だった。
山菜の売れゆきは好調だった。すぐにはけ、収穫量の少なかった事を残念に思うほどだった。空になった籠を背負い帰途につこうとした矢先、勇儀にばったり出くわしたのだ。
たまには一緒にどうだ、と言われ、彼女と相席するのは(もっとも、勇儀以外に飲む相手などいないも同然なのだが)一ヶ月ぶりくらいだったので、まあそれなら、とさとりも誘いに乗った訳である。
「それより、さっきの話……地獄がどうとかって」
「だから、あれだよ。街を外れてずっと行ったところに、この前まで灼熱地獄があっただろう。彼岸の奴らがこの都ごと捨てたやつだ」
「ええ、知ってます。あそこは廃獄になってしまいましたね」
「あれの入口の大穴から、大量の怨霊が湧き出してるって騒ぎになってるんだ。知ってたか?」
「知りません。だれか管理する人はいないのですか。是非曲直庁あたりでも」
灼熱地獄を含むこの地底は、つい最近まで彼岸の管轄下にあった。裁かれた魂が彼岸から送られ、火あぶりの刑を与え続けてきた灼熱地獄は、地獄スリム化計画に伴い廃棄された。是非曲直庁は地底から手を引いたのだった。
丁度それに前後して、地上で活発になっていた鬼狩りを疎い、妖怪の山の鬼たちの殆どが地底に移り住むようになった。勇儀もまた、その内の一人である。人間の利害に侵食された者たちの。
鬼と、それに便乗してやって来た地上の嫌われ者が都に流れこんできた為、最近は大通りがひどく賑やかになった。新しい建物がどんどん造られ、店が立ち並び、商店街ができ、出入りが激しくなっている。
実際二人が飲んでいる居酒屋も広く、大きな丸テーブルがいくつもあった。様々な妖怪が好き勝手に騒ぎたてている。鬼が多い事には多いけれども。
彼らの来るより随分前に地上を追放されたさとりには、こういう喧しさは目新しく、あまり嫌なものでもない。――自分が覚である事を知られず眺めていられる内は、だが。
「連中の懐も火の車だ、だから地獄も切り捨てて、出費を減らそうとしたんだろうな。当然、その後から人材を派遣してくれる訳もないよな」
「……じゃあ、どうするんです? 地底に霊が彷徨うだけなら向こうも構いやしないと思いますが、きっと天井を突き抜けて地上の人々も襲うようになるでしょうに」
「ああ。で、それを恐れた賢者様が、私らに交渉を持ちかけた」
「どんな?」
「今後、地底に上から誰もちょっかいを出しに来る奴を入れさせないようにしてやるから、こっちで怨霊を鎮めてくれ、ってさ」
「鎮めろと言っても、どうするんですか」
「彼岸の連中が、何か封霊用の建物を造って地獄に蓋をするんだそうだ。んじゃあその建物の管理者を誰にするか、って問題が、今度は浮上してきたんだけど」
疲れたように息を吐いて、勇儀は顔を天井に向けた。あれだけ飲んで、まったく酔っ払った様子は見られない。むしろ冴えてきているようでもある。
「大変ですね、そっちは色々と」
さとりは他人事のようにそっけなく答えた。事実、関係のない話だった。勇儀たちがやって来る前から、都に離れた森の奥に家を構えて、一人暮らしをしている彼女には。
「大変ねえ。確かに大変だ。私はでも楽しいよ。ここはいずれおもしろい街になる。してみせる。私たちで。地獄の陰気が残らない、みんなが明るく暮らせる街にしたいよなあ」
勇儀は鬼の中でも抜きん出て腕っ節が強い。それに気性の荒い者が多い彼らの中では、温厚で誠実な性格をしていた。そういう理由から、彼女の仲間内での信頼は厚い。喧嘩好きは同じなのだけれど。
彼女が代表して地上の賢妖八雲紫と交渉を行った。地上からの干渉拒絶、これは地底住民の総意だった。皆、長く続く迫害と衝突に疲弊しきっていた。安住の地を求めていたのだ。
それらのごたごたにまるで関心を払わずに地底に暮らしているのは、さとりくらいのものだろう。彼女は妖怪が増えた後も、その前と何ら変わらず一人、しんと静寂に包まれた森に日々を送っていた。
勇儀と親しくなるより以前は、都では山菜を売り買い物を手早く済まして帰るだけだった。誰とも関わりを持つつもりはなかった。持ってはいけない事を、これまでの人生でよくよく心に刻みこまれていたのだから。
「なあ、さとり……住む家はこっちで用意してやる。都に来たらどうだ」
鬼はさとりを見つめる。いつも強く芯の通った光を湛える彼女にしては、その視線はぐらついているようだった。惑いがちに、さとりの乏しい表情を追う。
「何度も言ってる事じゃありませんか。私には無理なんですよ」
「ここでお前を嫌う奴なんて……」
「いますよ。皆、私を嫌います。仕方がないんです」
「でも、私は嫌ってなんか」
語気を強くして、勇儀は言った。さとりは首を振り、グラスに残ったわずかの液体を舐める。
「あなたくらいのものですよ。私と気兼ねなくお話してくれるのは」
さとりは悲しそうでも辛そうでもなく、どこまでもいつも通りのぼんやりした顔で答える。薄紫の縮れた髪が、酒気を帯びた店内の空気に揺れていた。
その様子を、勇儀は唇を噛んで見守る。さとりよりずっと、辛そうな、痛みでもあるかのような表情だった。
「そろそろ帰りますね。今日はありがとう」
ふわりと立ちあがり、懐から小銭を取り出す。勇儀は私が払うよと止めたけれども、さとりは聞かなかった。
少女のほっそりした背中を見送りながら、何を言ってやればよかった、と自問する。
(あいつは寂しい筈なのに)
その悲しみを、さとりは言葉にしないし、動作にも表さない。だから、勇儀は無理に言い募る事もできずにいた。
さとりの孤独の原因が、彼女の手でどうにかできるたぐいのものではない事を、知っている。知っているから、余計見ていて辛いのだ。どうにもできない自分の弱さが、憎いのだ。力ばかり強くて、少女一人の助けにさえなってやれない自分が。
(私に何ができる)
さとりの出て行った扉を、いつまでも眺めていた。生きている限り、どうあっても嫌われなくてはならないちっぽけな少女を思う。その気持ちを想像しようとする。
そして、深く恨むのだった。それができないくらいには恵まれている、自身の境遇を。
軽くなった籠を背負い、さとりはゆたかな水流に沿って森を歩いていた。
小鳥がつつましく鳴いている。草木はすっかり乾いて、緑色を濃く茂らせている。朝に違わず、天気は陽気なままだった。
日差しに固まってきた土を鳴らしながら、勇儀の言葉を思い返す。
今まで幾度となく誘われてきた事だった。その度に首を振ってきた事だった。
都に住む。さとりにしても、それを全く考えた事がなかった訳ではない。それが許されないのを知っていてもなお、感情が抑えがたいときがあった。しかし、それももう、昔の話。
寂しさなど、長い一人暮らしの中に色褪せ、擦り切れ、磨滅してしまった膨大な感情の内の一つに過ぎない。
負の感情で己を包み、盾にしながら生きてきた。そうする事で、孤独という大苦痛から自分を守れると信じていた。それらは慣らされ、風化し、少しずつ彼女から損なわれていった。
一人で水を浴び、一人で食事を取り、一人で火にあたたまり、一人で毛布に包まる。
たった一人の道だった。延々と伸びる、細長く暗い道。隣には誰もいない。深い霧に覆われて、先を見通す事もままならない。時々つまづく事もあったけれど、自分で立ちあがって歩くしかなかった。
覚は嫌われていた。利害を重視する人々にとって、これほど害悪な妖怪は他にない。さとり自身が読んだ心を他人に語るつもりなどないにしても、読まれた方はどうやっても警戒しなくてはいけなくなる。向こうは心を読めないのだから。さとりが他人の心をひけらかしたりなんかしない、という意思を示そうとしても、それを信じる事のできる者は遂に現れなかった。
だから地上を追放された。そして今日まで地の底で暮らしてきた。さとりの他にも、数は少なかったが地底に降りた覚はいた。しかし、さとりは彼らとも交われなかった。交わりようがなかった。交わり方を知らなかったのだから。
がさ、と茂みの先から音がした。リスか何かだろうと思ったが、でもそれにしては重く大きい感じ。少し気にかかったので向かってみる。
虫に喰われた葉の合間から覗きこむと、開けた道があった。左右を樹に守られた、日の当たる道だった。
そこに射した黒い影を見つけて、さとりは目を疑った。幻覚かとさえ思った。
少女が立っていたのだ。
黒い帽子、白い髪、小柄な背丈、――そして、
「……第三の眼?」
少女の横顔が見えた。白くきめ細やかな肌の下、襟になかば包まれるように、それが見えた。青い管を通した、目玉が。覚妖怪の証たる、大きな眼が。
それが今は、瞼を閉じている。眠るように、永久に覚めない眠りに落ちこんだように、深く瞳は隠されていた。
少女はふわふわと、まるで浮きあがるように軽い足取りで、道を歩き始めた。泡か何かのように、それはそれは軽やかに。
そのとき、歩調と同じくふわりと、黒帽子がずり落ちた。野花の生えた土に音もなく落ちた。少女は全く気がつかない様子で、そのまま進む。
「ちょ、ちょっと待って!」
言葉は無意識に放たれた。さとりは今まで、なかば呆然として、少女の日光に当たって白っぽく光る胸の眼を見つめていた。口から出た声が、自分のものか疑わしかった。
「え」
さとりが自分の声に驚くより、少女はもっと驚いたようだった。振り返り、茂みから出てきたさとりを、目を見開いて眺めた。
「帽子、落ちましたよ」
「あ、あ」
拾い上げ、砂を払う。少女に差し出す。少女はさとりの顔を見ていた。ひどく狼狽した様子で、差し出された帽子をどうにか受け取った。それから、
「あ、ありがとう」
ちいさく弱い声で言って、頭を下げた。さとりはその動作があまりに素直で混じり気なく思われ、緊張が削がれていくのを感じた。
一陣の風が駆け抜けていく。強い勢いで。
思わず手をかざす。舞いあがる葉と砂埃から目を守ろうと。
風が地面を掃いていった後には、少女の姿は消えていた。帽子も、白髪も、眼も、全てが初めからなかったように。
「あれ……?」
付近の樹々の間を覗いてみたが、遂にどこにもその姿は認められなかった。あるいは、本当に幻覚だったのかも知れない。さとりは不思議に思いつつ、我が家へ急いだ。
気が抜けた途端、腹の虫が喧しくなったのを苦笑しながら。
花壇の横に見た事のない台車がとめられていた。白い布が敷かれている。そこから異臭がした。死臭のようだ。捲ろうかと思案して、気味が悪いので止めた。
胸騒ぎがした。急いで小屋のぼろ戸を開ける。果たしてやはり何かがいた。深緑色のゴスロリ調の服を着て床にうつぶせになっている、それは人型らしかった。
そろりと近づき、真上から覗きこむ。赤い髪の少女だった。ごく普通の三つ編みに纏められた髪の上に、しかしおかしなものが生えている。
猫の耳。獣耳。
一歩退いて観察すると、尻尾も生えていた。それも二本。今はだらんとだらしなく垂れている。
(死んでるのかしら)
顔を近づけてみると、呼吸はしている。すうすうと、安らかな寝息のようだった。それでいて、苦しそうな呻きともとれた。
「ん?」
顔を上げると暖炉が映った。そこで初めて気づいたのだが、その上にかけておいた鍋が倒されている。中身がぶちまけられ、木の床に染みこんでしまっていた。火も掻き消えていた。
さとりはそれで、事の成りゆきを大体推測できた。大方、茸汁の茸が有毒だったのだろう、それを知らず忍びこみ喰らったどこぞの妖怪が、こうして気を失っているのだろう。
成程そう考えれば、身代わりになってくれたあたり、可哀想にも思えてきたので、抱き起こしてベッドに運んで寝かせてやった。寝心地のいいとは言えない、固く粗末なものだったけれども。
この得体の知れない少女のおかげで、毒入りの食事は取らずに済んだ。代わりに、食べるものもなくなってしまった。さてどうしよう、と思案していたが、また何か採りに行くのも億劫だから、ありものの干し肉で我慢する事にした。
炙った肉を齧っている内に、午後のあたたかい日和が小屋の中まで浸透してくる。気持ちがいい。午前の酔いは、気が付けば完全になくなって、身体が軽いような気さえした。
そういえば今朝、花壇に水を遣るのを忘れていたな、と今更思い至る。つい昨日まで酷い雨だったから、その習慣を忘れてしまっていた。慌てて桶に水を汲みだし、杓子を持って外に出る。上から降ってくる光は花々に反射して眩しい。丁寧に土を湿らせる。
「綺麗なお花だね、おねえさん」
飛び上がってしまった。あんまり近くから声が聞こえたからだ。振り向くと、ついさっき寝かせた少女がすぐ後ろに立っていた。両手を後ろに回して、にこにこしている。赤い髪が風に揺れる。
「……あなたはどうして私の家に来たの?」
さとりはすぐに落ち着いて言った。猫耳少女に背を向け、花に目を戻す。
「あんまりいい匂いがしたもんだから。でも毒入りとは酷いね。食虫植物みたいな事をするんだね」
「私もあの茸が有毒だったなんて知らなかったんですよ。あなた、この森に住んでるの? 見た事ない顔だけど」
「違うよ。あたいは今日来たんだ。元はずぅっと遠くの荒野に住んでるんだよ」
「じゃあ、何をしに?」
「死体探し」
物騒に聞こえるかも知れないが、地底の血気盛んな妖怪にはよくある事だ。さとりも大して気にせず、
「いいのが見つかりましたか?」
「ううん。だから耐えられなくてこの匂いにつられちゃったの。おねえさん、怒ってる? ごめんよ。何も盗んじゃいないし、許しておくれ」
拝むように少女は言った。さとりは元より怒りなどは湧かなかった。盗られて困るものも、幸か不幸か持ち合わせていない。
「いいですよ、別に」
その言葉が終わらない内に、少女の目と爪がきらりと光った。さとりはまだ、花壇を向いている。
花の揺らめきを見つめながら、さとりはふと、自分が後ろの少女に対して、今の今まで能力を使っていなかった事を思った。
泥棒に入っているのだから、心を読まれるくらいは許してくれるだろう。
「そっか、――それはどうでもいいんだけど、あたい、お腹減ったんだ」
そんな自分の気まぐれに、さとりは助けられた。
「だからさ、死体にして、食べちゃってもいいかい?」
「っ!」
咄嗟に首を伏せた。頭頂部の髪がぱらぱらと舞う。さとりの首を掻き切ろうと、光が踊る。鋭い爪の反射。振り向く事もできず、相手の姿も捉えられぬまま、さとりは凄い力で地面に組み伏せられた。
首に細い指が這う。
鋭い爪が喰いこむ。うつぶせにされ、のしかかられている。手も足も動かせない。息が苦しくなる。
「大丈夫だよ。きっとすぐ食べてあげる。骨も気が向いたら埋めたげる。怨霊になる前にさ」
「あぇっ」
ぎりぎり、と強く首筋を締めつけられる。すぐに意識が遠のいた。
押さえつけられた腕でもがく。手のひらが砂利をさらうだけだった。喉が嫌な音を立てる。
「ごほっ、ひゅぅっ」
「きっといい死体になるよ。おねえさん、いい人みたいだから」
「けほ、はっ、――想起」
瞬間、少女がきしゃあ、と獣じみた鳴き声を上げて飛びのいた。さとりは咳をしながら起き上がり、少女と対峙する。
「いや、いやっ、何これ、止めて……嫌いや嫌ああああぁぁぁあああああっ」
恐ろしいものでも見たように、顔を手のひらで覆い隠して泣き叫ぶ。その場に蹲って、大粒の涙を零しながら、しゃくり上げた。
「うあああああああぁああああああぁぁぁあああああああああああああああああああああああぁあああぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ」
それをさとりはしばらく眺めていた。少女は狂ったように泣く事をやめない。森中の樹を、葉を、草を、花を、水を、陽気な静けさにたゆたうそれらの悉くを、ばらばらに引き裂かんばかりの感情の奔流。
さとりはふっと瞼を閉じた。叫びが段々かすれ、おさまる。赤髪を乱した少女は、荒い息を吐きながら、ようやくさとりを見上げた。目は泣き腫らして真っ赤になっている。
その悲痛に溢れた顔を見つめ、さとりは搾り出すように一言、
「ごめんなさい」
少女に背を向けた。桶と杓子を持ち、小屋に入った。しばらくして、少女の足音が聞こえた。だんだん遠ざかる。台車の車輪が回る音も、いずれ消えてしまった。静寂が戻った。
ベッドに横になる。さっきまでの心持よかった気分は、すっかり萎んでしまっていた。
猫耳少女の叫び声と悲しみに歪んだ顔が繰り返し再生された。固い枕に、顔を埋める。少女が寝ていたからだろうか、微かにあたたかい。
眠る事もできず、日が暮れるまでずっとそうしていた。胸に響く痛みは、さとりを責めたて続けた。
やがて夕日が、板戸の隙間から射しこんだ。赤い線が幾筋もベッドに投げかけられる。小鳥たちのさえずりも、もう聴こえない。どこか遠くで地獄鴉が鳴いていた。
赤い光が箪笥やベッドの下に隠れてしまうまで、さとりは起きあがる気力を持てなかった。
夜の寒気が、床から壁板から屋根から染みこんでくる。火を焚こう、とようやく腰を上げ、重たい身体を無理矢理動かし、薪をくべる。
ぱちぱちと跳ねる火の灯りが、さとりの胸の眼にまたたく。火は液体のように見えた。涙のようにも見えた。第三の眼が、涙を流す事などありえないのに。
組み上げられた薪の上に鍋を再び乗せて、水を煮立たせる。夕食の準備にとりかかる事にした。
スープを樫のお椀に盛る。湯気が立つ。ちいさくなった薪の火が、吹きこんでくる夜風をけぶらせている。小屋の中の温度と湿度はそれなりに上がっていた。
テーブルにお椀を置く。茶碗を棚から取り出し、お茶を淹れた。灯りは暖炉と、テーブルの上のランプだけだった。
いつもと変わらない夕食時。いただきます、と手を合わせる。
さとりはスプーンでとろりとした感触のスープを掬いとり、口へ運ぼうとして、
「……」
お椀を置きなおし、立ちあがって戸を開けた。森は黒い。酷く冷たい風が吹き荒れている。遠い天井の穴は真っ暗で、何も見えない。花壇も木々も、静まりかえっていた。
小屋の壁にもたれかかって、猫耳少女が膝に頭を埋めて座っていた。
傍らに台車をとめている。白布がぱたぱたとはためいていた。
急に漏れ出した灯りに、少女ははっと顔を上げた。さとりを見つめる。申し訳なさそうな、沈んだ表情で。
「おねえさん。あたい……」
「寒いでしょうに。いらっしゃい」
手招きする。少女は顔を輝かせたが、それから少しためらい、結局頭を下げて入った。
椅子に座るよう促す。大人しく、尻尾を丸めて腰を下ろした。さとりは新しいお椀にスープを汲んで、少女の前にことりと置く。
少女は驚いた様子で、
「え、いや、あたいはそんな」
「お腹、空いてたんでしょう? 無理しなくていいですよ。分かってますから」
何か言いたそうにしていたが、空腹に耐えられなかったと見えて、一礼して食べ始めた。
向かいに座ったさとりも、同じく食事を始める事にした。
暖炉の火とランプが、あかあかと二人を映し、影を躍らせていた。外でびゅうと強い風が鳴ったが、小屋の中はもう十分、心地いいあたたかさを備えていた。
「あなたは火車なのね」
さとりはスプーンを運びながら言った。少女は既に三杯平らげ、満腹の様子だった。
「そうだよ。おねえさんは」
「覚」
「やっぱり。そうだと思った。見るのは初めてだけど」
「あの、さっきは、ごめんなさい」
「なんでおねえさんが謝るのさ。殺そうとしたのはあたいなのに。でもね、もうそんな事しないよ。うん、しない。約束する」
「ええ、今のあなたはお腹が一杯ですものね」
「違う違う。もう二度と食べようなんて思わないよ」
果たして少女の言葉は本当らしかった。読心しても、さとりに対する殺意、あるいは食欲などは感ぜられなかった。
「わざわざ私に謝るために、ここまで戻ってきたのですか」
「うん、そうだよ。ごめんね。許してくれる? あっ、そうだ。これ」
少女はポケットから茸の束を取り出した。
「朝のお詫びのしるし」
「もしかして毒入り?」
勿論、心が読めるさとりには、それが毒がないと知った上で少女が採ってきたものである事は分かっていた。
ちょっとした冗談のつもりが、
「違うよ! あたい、おねえさんに悪い事したなって、思ってさ、それで……」
懸命に否定する少女の姿が、さとりにはとても微笑ましく映った。
彼女に悪意はなかったようだった。ただ、獣妖怪としての、妖怪火車としての、耐えがたい本能に抗えなかったのだ。見かけによらず、結構素直な子なのかも知れない。
「知ってます。全部分かってますから。私だって、嫌なものをあなたに思い出させてしまった」
さっきは、少女の心の傷を押し広げて精神を乱したのだ。それがどんな傷なのかは分からないけれども。
トラウマの想起。さとりの能力。一番端的に、覚が嫌われるゆえんを形作る能力。妖怪として必ずしも肉体的に強いとは言えない覚の唯一の防衛手段。さとり自身、極力これを使う事は避けていた。
「いいんだよ。ご飯食べさしてもらったし。あたい、結局何にも見つけらんなくて、お腹ぺこぺこだったんだ」
確かにそうだろう。外であんなに切実に空腹を訴えられれば(心の中で、だが)、それは可哀想にもなる。
「ところで、おねえさんの名前は。教えておくれよ」
「名前を聞かれるなんて、随分久しぶりね。私は古明地さとりといいます」
「覚なのにさとりなの? ふうん、変わってるんだね」
そう言われると、何とも答えようがない。
「あたいは火焔猫燐。長い名前は好きじゃないから、お燐って呼んでね」
それから二人は、夜が更けるまで話をした。どうでもいいような、意味のないような事ばかりだったけれども、さとりは今日が何だか久々に充実した一日だったと感じた。高鳴るようなわくわくした心が芽生えてくるのを感じた。
燐は火車だからか、死体を語らせるとひどく饒舌だった。と言うより、死体の話しかしていなかった気もする。
薪がいつの間にか炭の小山になっていた。火は今にも消えそうに、不安定にゆらゆらしている。
新しい薪をくべる。さとりはふと、尋ねてみた。
「あなた、どこかに家はあるの?」
「ん、ないよ。毎日死体を捜してぶらぶらしてるだけ。あいにくと飼い猫じゃないんだ」
「……もしかして、猫に変身できたりする?」
「なれるよ。ほらっ」
ぽん、と音をたてて、燐は黒猫になった。尻尾は相変わらず二本ついている。
「あ、戻らないで。膝に乗ってくれる?」
さとりの要求に応え、猫はさとりのやわらかなスカートの上に丸くなった。
さとりはふわふわした毛を、そっと慎重な手つきで撫でた。半分怖がるように。拒絶されるのを恐れるように。
しかし、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。ゆっくり、その温度を逃がしてしまわないように、さとりは指を這わした。
「お燐には家族、いますか」
さとりは言った。言ってから、自分の言葉に驚いた。その問いかけの奥にある光を見、自分がそれを望んだ事に驚いた。
猫は首を振った。
次に出るべき言葉を、さとりはどうにか喰いとめようとした。自制しようとした。唇を引き結ぼうとした。けれど、雫が伝うように、あまりに自然に声は舌先から泳ぎ出た。
「よかったら、――もしよかったら、ここにいて、私と一緒に暮らしませんか」
さとりは動物が好きだった。
猫、犬、鳥、擦り寄ってくる動物は皆可愛がった。彼女は昔、ペットを飼おうと思った事があった。ちいさな動物たちと一緒に暮らそうと思った事があった。
しかし、遂にその手は伸ばされなかった。柔らかな毛並みを撫ではしても、寄り添う彼らをあやしはしても、抱き寄せてやる事はできなかった。
触れる度に、強く強く、感じてしまう事があったからだ。
さとりの手のひらは、彼らを抱いて胸の中で寝かせてやれるほど、あたたかく優しくできてはいなかった。氷のように体温を知らない冷たいこの手で、一体何を愛せよう。愛される事を知らないこの手に、一体誰を愛する資格があるだろう。
さとりは両親を持たなかった。彼女を生んですぐ死んだのかも知れないし、まだどこかで生きているのかも知れない。それは分かりようのない事だったから、彼女もその内考えなくなった。物心ついたときにはもう一人だった。幸か不幸か、妖怪である少女は寒さの為にも飢えの為にも死ねなかった。だから分別がつくようになるまで成長し、その頃には少女の肌と心はもう、全ての温もりを忘れていた。誰からも好かれる事がなかったけれど、その分誰からも嫌われた。歩み寄りたがった幼い足は、踵を返して誰もいない小路に入った。大通りの喧騒の中に、自分の居場所はどこにもないのだと悟ったから。長い長い、どこまでも続く人生の小路だった。暗いし、とても寒かった。それでも少女は歩いた。永い間、黙々と歩いた。遥かかなたに伸びてゆく道の中途で、手の、言葉の、心の、本来の使い方を忘れた。もしかしたら初めから知らなかったのかも知れない。どちらにせよ、気が付いたときにはもう、少女は、誰かと関わるという点で、これ以上ないほど不器用になっていた。他人との接し方が分からなくなっていた。
彼女は後悔した。どうしてこんな馬鹿げた事を口走ってしまったのだろう。誰が覚などと好んで住みたがる。さとりの一番弱いところを締めつける心の声が、耳鳴りを起こして反響する。
黒猫は毛を揺らして、さとりの目をしっかと見据えた。動物の表情はよく分からない。心を読みたかったが、怖くてできない。さとりの手は震えていた。汗が肌に滲む。口の中がからからに乾いている。
燐はさとりの膝を降り、また軽い音をたてて人型に戻った。それから、恐怖とも戸惑いともつかない色を目に浮かべるさとりに、
「いいの?」
ぽつりと尋ねた。上目遣いで、恐る恐るといった感じだった。
「ここに住んでも、いいの?」
「あ、あなたが、よければ、いてほしい」
「ほんと?」
「……ねえ、私は覚ですよ。心を読む妖怪ですよ。あなたは嫌じゃないんですか。心を無遠慮に暴かれるんですよ、考えてる事を、嫌でも知られてしまうんですよ、こんな私と――」
「でも!」
燐は三つ編みを振りながら、
「でも、あたいに能力を使った後のあなたの顔、とっても悲しそうで、とっても辛そうだったじゃないか!」
「わ、私は」
「それにすっごく、優しそうだったよ。あんな顔を向けてもらったの、あたいは初めてだった」
「お燐」
知らず声が洩れる。
呼びかけに応えるように、歩くように自然な動作で、燐は猫の姿になった。さとりの膝に飛び乗る。
ごろごろと喉を鳴らして、さとりを見上げてくる。
心を読め、と言っている気がした。実際言われた訳ではないけれど、さとりはその通りにした。
(あたいは、あなたの隣にいたいです)
淡い、毛布の温もりのような心の声がさとりを包む。
返事の代わりに、たださとりは優しく燐を抱いた。氷の手は、溶けてしまったようだ。あまりにあっけなく。手のひらは燐の体温を抵抗なく受け入れた。彼女のそれは黒猫の毛先を滑る。自分が今、燐に抱いている愛情が、実像である事を確かめるように。そのかたちと感触を噛みしめるように。ずっと、そうしていた。猫が寝息を立て始めた、その後も、ずっと。
森の地獄鴉たちも眠ったらしい。かすかにふくろうのララバイが聴こえる。さとりもうとうとし始め、いつの間にか寝入ってしまった。暖炉の灰には、いつまでもほんのりと、赤みが灯っていた。
ちいさい小屋が、更に一人分だけ狭くなった。
翌朝目を覚ましたさとりは、眼前の光景に唖然としていた。
湯気が立っている。
いい香りが、薄煙に乗ってさとりのベッドまで運ばれてきた。テーブルには既に、朝食が用意されてあったのだ。二人分の。
「さとり様ー! おはようございます。いい天気ですねっ」
上体を起こしたさとりを認め、燐が満面の笑みを浮かべながら寄ってきて声をかけた。右手のお玉杓子を振る。
「……おはよう。お燐、あなたもしかして」
「朝ご飯、作ってみたんですけど、よかったら」
ためらいがちに燐は言う。さとりは食卓から流れ出す匂いに感動してしまって、しばし言葉を失った。実際嬉しかったのだ。まさか誰かに手料理を食べさせてもらう日が、これからのさとりの人生に現れようとは、昨晩まで一度たりとも考えた事がなかったのだから。
「嬉しいわ。ありがとう」
「いえいえ。お供させてもらう身ですからね、これくらいは」
「ところで、どうして私に敬語を使ってるの」
「あれ、イヤですか?」
すぐに不安げな顔になる。喜怒哀楽が分かりやすい子だ、とさとりは思った。心を読むまでもなく、考えが読みとれる。
「あなたの呼びやすいようにしてくれていいけれど」
また、表情を崩してにっこりする。指を胸の前で組んで、
「じゃあ、やっぱりさとり様がいい」
「私のペットにでもなるつもりですか」
「まあ、そんな感じです。さとり様はあたいのご主人様ですから」
冗談で言っている感じではなかった。真剣な目つきをしている。しっかりと自分を捉える瞳に、さとりは妙な気分を味わった。射抜くのではない、むしろ引き寄せられるような視線。勇儀がよくやる目だ、とさとりは思った。それは不快ではなく、深いところに安心とか心地よさがあるものだった。
「あなたの膝の上に、あたいの居場所を分けて下さい」
燐は頭を下げて言った。その動きに合わせて三つ編みが跳ねる。さとりは何か答えようとした。けれど、言葉が舌先で固まってくれない。物凄い勢いでさとりの頭を流れていく、膨大で果てしない思いに息が詰まりそうになる。燐の言葉はあまりに大きくて、重かった。声が出せない、胸が痛い。本当に痛いのかは分からない。焦がれるように熱い事だけは分かる。とても熱いから、痛みと勘違いしてしまったのかも知れない。誰かを想い、想われるというのは、こういうものなのだろうか。今のさとりにはまだ、分からなかった。
二人で食卓につく。朝食は茸汁だった。さとりが昨日食べ損ねたものと同じ材料の。
「茸、好きですか」
「ん、嫌いなものはあんまりないつもりですけど」
「それじゃ、好きな食べ物は?」
さとりは言葉に詰まってしまった。考えた事がなかった。好きな食べ物なんて、尋ねられた事は初めてだったのだから。これは悪くないな、これはあんまり、くらいは思ったりもするが、積極的に好きなものを見つける必要性が、今までの生活になかったのだ。
「んー、分かりません」
「そうですか……じゃあ、一緒に死体でもどうです? この森探せば結構ありそうですよ」
「え? いや、私は」
「腐って虫が湧いてくるタイミングが最高に美味しいんですよね。ね、ね、どうです?」
「私はちょっと、遠慮しておきます」
手を振る。
燐はさも残念という風に眉を曲げ、お椀の底に残った茸の最後のひと房を、舌ですくい取る。
「ごちそうさまでした、美味しかったわ」
燐が食べ終わるのを待って、さとりは言った。燐も倣う。席を立ち、ベッドに近づく。
「私はこれから出かけるけど、あなたはどうする?」
「あれ? どこに行かれるんですか」
「食料調達」
「そんなの、あたいがしてきますよ」
「ああ、確かにあなたは鼻が利きそうね。一緒に行きましょう」
籠を背負おうとして、燐にひったくられた。あたいの方が多分力持ちですから、そんな元気な声を受けながら小屋を出る。今日は花壇に水を撒くのを忘れない。さとりの後ろで、燐はあちこち首をめぐらし樹や鳥や花を感慨深そうに見渡していた。
よく晴れている。肺に吸いこまれた空気は新鮮で濁りがない。何か高揚した気分を感じる。大樹のウロから童謡の世界に迷いこんでしまうとかそういう感じの、どきどきして不思議に気持ちのいい朝だった。
「綺麗な花ですね」
水滴に化粧した花壇を、さとりのしゃがんだ頭の上から眺め、燐は微笑んだ。
「ええ、一人暮らしは暇ですからね、園芸の真似事なんかもしているの。そこの白い花は、ラナンキュラス。花びらが一杯中に重なってるのよ。私はこの花が大好きなの。たくさん花びらを詰めているのに、外から見たらこんなにちいさくて、目立たない。見られないところも綺麗で可愛いのに」
そんな話をしながら、眩しい木漏れ日の間を歩く。
さとりは森が雰囲気を昨日までと全く異にしているように思えた。何故だろう、隣にこの子がいるからだろうか。燐の笑顔はとても眩しい。でも、その程度の明かりが森のかたちまで描きなおしてしまうのだろうか。さとりは自分の頭が随分ゆるく鈍くなっている事に気がついた。何故だろう、歩いているだけなのに凄くわくわくする。土を踏む、さくさくという足音が軽快な音楽みたいに二人を包む。
「死体とか、死にそうな奴とか、そういうものなら得意なんですけどねえ」
「できればワラビとかヨモギとかを見つけて欲しいのですが」
「うーん。ちょっと難しいかもですね」
聞くところによると、燐は死に関して強い察知能力を持つらしい。ある程度の範囲なら、どこで何が死にかけているとか、もうじき死ぬなどという事が、手に取るように分かるのだそうだ。
匂いがするんです、と燐は言った。
「霊魂の匂いみたいなものが伝わってくるんですよ。だから分かるんです」
「どんな匂いなの」
「結構ばらばらなんですが、興奮してたり怒ってる奴、どっちかって言うと負の感情が前面に出てる魂は甘い香りがよくしますね」
「薔薇に棘、みたいなものかしら。いや、棘に薔薇かな」
結局ぶらぶら適当に探して回る事にした。二時間くらいかけて、ウドの芽や茎、ゼンマイ、ワラビ、コゴミの葉などが採れた。名前の知らない赤い艶のある木の実も摘んだ。いつもなら肩になじむ重さを感じつつ帰るところだが、今日からは燐が籠を持ってくれている為、手持ち無沙汰になってしまった。軽くなった肩の上には、代わりに燐のお喋りが弾んでいる。昨日までとの、些細な違いだった。こういうちいさな変化は、これからも積もり積もって、さとりの日々を塗りかえていくような気がした。いつかそれらを振り返って、変わった己を眺めるのが楽しみになっている自分を、心のどこかに見いだしたような気もした。
都へ売りに出て、それから午後は燐を連れて散歩に行こう。天気もすこぶるいい。さとりは自分の顔がだんだんほころんでくるのが、なんとなく分かった。
§ § §
霊烏路空は翼を強い風に羽ばたかせながら、ぼんやり考え事をしていた。考え事と言っても、今日こそはいい獲物を見つけて、一週間ほど続いていた木の実ばかりのひもじさから逃れたいだの、向こうに広がっている森にはたくさん食料がありそうだだの、そういう事についてばかりだが。
黒い艶のある羽毛をなびかせ、もこもこと膨らんだ林冠に向かって下降する。
森の上は天井が抜けていて、そこから日射しが降りそそいでいる。
高度が下がるにつれ、風は柔らかくおだやかになっていく。嘴の先でその中を突っ切っていくのは爽快だった。上機嫌で彼女は葉々の間に潜りこむ。
チュン、チュン、と小鳥が方々で鳴いている。随分静かだ、と空は低空飛行しながら思う。大型の肉食動物がぎゃあぎゃあ騒ぎ立てていなくっちゃ獲物もあんまり期待できそうにない。捕食者が多く訪れるところは、それだけ食べ物も多くあるという事だからだ。この森はちょっと静かすぎる。
しばらく枝の合間を縫って飛んでいると、声が聞こえてきた。どうやら人語のようで、水の音に混じっている。樹が角のように生えている下り坂を見下ろすと、大きな岩がいくつか群がっている。その陰に赤い髪の少女がいた。脇に台車を置いている。その周りを、白っぽいふわふわした何かが数個漂っている。
空は少し興味が湧いた。こんなところに人型がいるのは珍しい。適当な樹の枝に降り、おかしな深緑色の服を着た、赤髪少女を見守る事にした。
燐がさとりと森に住み始めてから一ヶ月が経った。ここでの生活にもだんだん慣れてきて、色々な事を知った。主にさとりについての知識ばかりだったけれど。さとりは地上で産まれ育った事、人間たちに嫌われ追放されて地底にやって来た事、それから今までずっとこの森に小屋を建てて暮らしてきた事、などである。
さとりは自分から話を持ちかけてくる事があまりない。燐は、きっと大人しい人なんだろうと考えていたが、さとりの過去を聞く内に、だんだんそれが疑われるようになってきた。この人は、性格として寡黙なんじゃなくって、ただ、誰かと付き合う機会があまりに乏しかったから、いまいちどう接していいか分からないんじゃないか、そう思うようになっていた。
それでも、何も口を利かなくても、この人の隣は居心地がよかった。しばしば訪れる沈黙も、全然気まずい思いはしなかった。さとりはそんなとき、目を閉じ、外から聞こえる動物たちの鳴き声や、さわさわと擦れる茂みの音に耳を傾けていた。燐にはさとりが本当に自然の音だけを聴いているのか、あるいは自分の心を読んでいるのか判然しなかったけれども、こういう静かな時間は大好きだった。優しげなその目元を見ているだけで幸せだった。
二人で散歩したり、植物採集をしたり、都に行商に行ったり、川辺に寝そべったりして毎日を過ごした。さとりは燐の知らない料理をたくさん振舞ってくれた。半分野生だった彼女には、食卓は新鮮な発見に溢れていた。感謝の気持ちもこめて、燐は肉や山菜を持ち帰ってくるようになった。いつの間にか、この人といつも一緒にいる景色が自然になっていた。隣にはいつでも居場所があった。
今朝、さとりがシチューでも作ろうと言い出したので、燐は賛成した。シチューがどういう食べ物なのか知らなかったのだが。さとりは肉が必要だと言って、丁度切れていた為に都へ買いに出ようとした。燐はあたいが捕ってきます、と請け負ってこうして出かけてきたのだった。
大概死臭がする方へ行けば肉が落ちている。燐は鼻をひくひくさせながら台車を走らせた。
(オオオオオオォォォ……いとしい身体……オオオオオ)
案の定、感覚に任せて辿り着いた背の高い樹木の下の、岩陰に死骸を見つけた。ついでに群がっている怨霊も。
(食べたい食べたい食べたい……)
(カラダ、カラダ、ニク、ニク)
(ギイイイイイイイイイイイイィイイイイイイイイ)
何の霊だかよく分からない。思念が混濁していて、彼ら自身何を考えているか分かっていないのだろう、意味不明な恨み言を吐き散らしていた。
(あつぅぅぅいところはモウたくさん……モウたくさん……)
(水、水、みみみ水)
彼らの言葉の中に地獄、という単語が聞き取れた。そういえば、この前さとりと都に行ったとき、灼熱地獄が封鎖されたという話を耳にした事を思い出した。多分、そこから抜け出してきた奴らなのだろう。数が多いのが気になるが。
「あんたたち、ちょいとそこのお肉、貰ってってもいいかな」
好き勝手に喚いていた怨霊たちは一斉に燐に振り向き、怒ったように身を震わした。
(アア、妖怪だ)
(カシャネコだ! カシャネコだ! 喰われるぞ)
(取り殺してやる……取りころウウウ)
「食べたりしないから。あたいはそっちのお肉を食べたいんだよ」
彼らは輪郭をざわつかせて、威嚇するように燐を取り巻いた。燐の妖力にあてられたのか、自我が暴走しかけているようだ。
彼女はちょっと身を退こうとしたが、飛びのく前に白い玉は襲いかかってくる。
「ちっ!」
足首をひねり、身体を地面に張りつかせてどうにかかわす。すぐに尻尾で土を掻いて勢いをつけ、後ろに跳ぶ。追撃をしかけてくる怨霊をきっと鋭く睨むが、すぐ左腕の付け根に目を移した。
服が裂け、どろりと血が流れている。それは細い筋になり、露出した手の甲まで垂れていた。横から迫ってきた一体に噛みつかれたらしい。
その光景を小高い樹の上から眺める空は、わくわくしていた。まさか偶然見つけた少女が、こんなところで怨霊を相手に組み合う様子を見られるなんて思ってもみなかった。
目を輝かせて、じっと彼女たちに見入っていた。
「はあっ、はあっ。なんなんだい、喧しい奴らだ」
どうして肉を捕りに来ただけなのにこんな目に遭わなくっちゃいけないんだ、と燐は心の中で舌打ちした。
仕方ない。あんまりやりたくはなかったけど、そう口の裏で呟いて、爪をしまう。
身体に纏いつく、冷気を漂わせる怨霊の、白いすべすべした表面に歯を立てて、噛みついた。ひんやりしていて、味はない。
霊が騒ぐひまも与えず、一呑みにする。続けて、腕と肩にからみついているのも噛み裂いて呑みこむ。逃げ出そうとした奴らを爪で押さえつけ、喰いちぎる。
「うえっ」
胃の中にわだかまるような感じ。怨霊を喰らうのはあまり好きではなかった。できればやりたくはなかった。しばらくの間、腹の底から呻り声が聞こえてくるからだ。怨嗟の叫びが。死体に親しんでいる彼女にも、こればかりは慣れない。
名前も知らない獣の死骸を取り上げ、台車にしまいこむ。これは『しちゅう』の具材になれるかな、とちょっと思案してみたが、分からないので止した。さとりもきっと気にしないだろう。
からから、と車輪の回る音が、静かな森に響いていた。燐はのんびり歩いて帰途についた。
ずっと後ろから、ちいさな黒影が追ってくるのに気づかないまま。
「どう? お燐。美味しい?」
微笑みながらさとりが尋ねる。燐は猫舌なので十分に冷ましてから口へ運ぶ。甘みが口中に溶けて広がっていく。彼女の腕には包帯が巻かれていた。帰宅してすぐ傷を見つけたさとりに問い詰められ、やむなく沁みる消毒液を塗られ手当てをしてもらったのだった。
「さとり様の作るものはみんな美味しいです」
「そんなお世辞、心を読めばすぐばれますよ……あ、ほんとに美味しかったのね。それはよかった」
さとりは嬉しそうに頬をゆるめた。日は今しがた暮れたところだ。燐の持ち帰った獣肉を野菜に混ぜて煮こみ、結構な時間をかけてクリームシチューを作った。
彼女は料理を作るのに苦痛を感じる性格ではない。とは言え、燐に出会うまでは自分の為にしか作る機会がなかったから、できあがったものに対して特別に大きな感慨も持ちえなかった。それがここ一月くらいの間に、だんだん変化を遂げてきた。燐が喜んで食べている様子を見たくて腕をふるうようになっていた。
割合寒い夜だった。今ではもうぎこちなさも消えた談笑に、花を咲かせている。
暖炉の火は隅々まで足を伸ばして、小屋の内を優しく覆っていた。
ところへ、燐の耳がぴく、と横に動いた。向かいのさとりはお茶を飲みながら、燐の冗談に笑っているところだった。
燐は風を裂くような音を聴いた。
「あれ? さとり様、今何か――」
瞬間、べきべき、と壁板が割れる音がした。燐はとっさに椅子を蹴り、さとりの肩を掴んで押し倒す。ちいさな叫び声が下から洩れる。何かが物凄い勢いですぐ頭上を駆けていくのを感じた。
爪を立てながら顔を上げる。右の壁に人の頭くらいの穴が空いていた。木板がえぐられ、夜風が吹きこんでいる。反対側に目を移す。
「こんなときに誰だよもうっ」
ちいさな黒いシルエットを認めた。両側に翼を目一杯広げてこちらを見下ろす、それは鴉だった。
鴉は一度ばさりと羽ばたいて、人型に変化した。
腰まで伸びる、艶やかな黒髪。後頭部にはためく緑色のリボン。すらりとした、背が少し高めの少女の姿になった。普通の少女と違うのは、背中に身体の半分を覆えるほど大きな、黒い翼が生えているところだろう。
「ねえ、そこの赤髪!」
びし、と指を燐に差し向けながら、鴉の少女は言った。
「私と勝負しろ!」
「……何だって?」
さとりの盾になるように、燐はしゃがんで警戒していたが、襲撃者から放たれた言葉はあまりに邪気に乏しく、思わず気が抜けてしまった。
「だから、私と戦えって言ってるの!」
「あたいが? あんたと?」
「うん、そう」
「どうして」
「森で怨霊を食べてたところ見てたんだ。怨霊を丸呑みにできるくらいの妖怪なら、きっとメチャクチャ強いんでしょ?」
「ああ、そうか」
普通、身体に魂は一つしか入らない。妖怪が無理に霊魂を喰らうと、許容量を超えた自分の肉体あるいは魂を損なってしまう。そんな無理を押し通せるのは、それだけ強靭な身体と魂を備えた大妖か、霊魂に普段から慣れ親しんでいる火車くらいのものだ。
どうやら目前の少女はその光景をどこからか見ていて、燐を前者と捉えたらしい。
地獄鴉か、厄介だな、燐は思った。地獄鴉には好戦的な性格の奴らが多い。肉に飢えているからなのか、すぐ戦いたがる連中だから、燐も荒野にいた頃はなるだけ避けるようにしていた。
「でも、やだよ。面倒だし、あたいは疲れてるんだ。そこらの亡霊とでも遊んでな。と言うか、あんたは誰なのさ」
「霊烏路空ちゃん、っていうんですね。お燐、あなたが強そうだから、力比べをしたいんだそうですよ。受けてあげたらどうですか?」
燐の言葉に、黙って二人のやり取りを眺めていたさとりが代わりに答えた。変わらず穏やかな口調で。
「ええー、さとり様、無責任ですよ。やるのはあたいなんですから」
「……なんで今、私の名前を」
空はさとりを見、言った。眉を寄せ、表情が険しくなる。
「私は覚妖怪ですから、ちょっとだけ心を読ませてもらいました。古明地さとりといいます。よろしく」
「心を読んだ……? 覚……?」
空の目に怯えが浮かぶ。一歩、後じさりする。
さとりは立ちあがり、空の前に来て手を伸ばした。挨拶のつもりなのだろう、壁を壊された事など気に留めていない様子だ。
けれど、空はその手を払いのけ、
「……気持ち悪い」
半分恐れるように、半分吐き捨てるように、言った。
がたん、と床を蹴って、燐が空に掴みかかったのは一瞬間の後だった。
「おい」
普段の燐に似合わない、怒気に満ちた声色で、
「謝れ」
「そんな事より、私と戦っ――」
「うるさいっ! さとり様に謝れ!」
牙を剥いて、燐は叫んだ。自分より背丈が大きい少女を睨みつける。
さとりは伸ばしていた手を、燐の肩に持っていって、
「お燐、私は平気ですから」
「あたいのご主人様になんて言ったッ」
「お燐、やめて」
「ふざけるな、謝れッ」
「お燐!」
燐ははっとして、さとりに顔を向けた。さとりはほんの少しだけ寂しそうな表情をして、首を振った。
「いいんです、燐。慣れてますから」
「さとり、さま」
触れただけでひびが入ってしまいそうな、繊細で白い肌。燐は、そこから染みだしてきたわずかの悲しみの色を見逃さなかった。それが薄くさとりの顔に膜のように張りついて、影ができた事を見逃さなかった。思わずその頬に手を伸ばしかけて、止した。強く拳を握りしめ、
「……あんた、あたいと勝負したいんだろ」
黒髪の少女を振り返り、言った。少女は頷いて、翼をはためかせながら、
「うん、そのつもりで来たんだもん」
「いいよ。やろうじゃないか。死んじゃったら猫車で運んであげるからさ」
「ちょっと、お燐! あなた、肩の傷もまだ」
さとりの呼びかけに、燐は、さとりにいまだかつて使った事のない厳然とした口調で、
「さとり様。ごめんなさい。あたいはあなたに背きます。――今だけは堪忍して下さい」
連れ立って小屋を出て行く二つの背中を、さとりは追う事ができなかった。
慣れている、と燐に言った。実際慣れている筈だった。地上にいた頃はそれよりずっと酷い罵詈雑言を吐かれたし、陰口も数えきれないほど叩かれた。言葉にしなくとも、心でそれが伝わってくる事も多かった。
だから、今更いくら気持ち悪がられようが、さとりの遥か昔に擦り切れた心に、何らの打撃も加える事などできない筈だった。
では何故。何故、ただ、その一言が響くのか。何故自分から立ち上がる力を奪うほど、強く心を押さえつけられるのか。
もう、彼女は気がついている。
さとりが長年かけて築いてきた心の壁を、心が痛めつけられるのを恐れて作った砦を、一ヶ月で打ち崩した者がいるからだ。せっかく一人で生きる為に作り上げた心の緩衝材を、彼女はいつの間にか粉々にぶち壊されていた。
では誰が。誰が壊した。誰がさとりからその必要を奪った。誰がさとりからその意味を取り上げた。
「……ありがとう」
初めてできた家族、さとりの膝に暖を取る、一匹の黒猫のせいだ。
それをさとりは、知っている。一人じゃないという事を、今のさとりは知っている。
森はざわめいていた。地に降りる樹々の影は、二人の少女の妖気に揺さぶられている。枝が擦れる。夜が濃くなる。怨霊の時間だ。
「あの紫髪、あなたにはそんなに大切な人なの?」
空は不思議そうに尋ねた。眼前の少女の洋服には、亡霊たちのたなびく白色が纏わりついている。燐の使役する霊だ。
「うるさい」
「心を読めるんでしょ、あいつ。自分の事何でも知られるんだよ。気持ち悪いとか思わないの? 怖いとか思わないの?」
「あんたに何が分かる」
「裏では何考えてるか分からないじゃない。欲望を覗いて見下してるかも知れないし、後ろ暗い部分を覗いて楽しんでるかも知れない」
歯を食いしばる。燐にはそんな事どうでもよかった。他人がさとりをどう見ようが、それで燐のさとりに対する想いが変わる事はありえないからだ。でもただ一つ、許せない事がある。
「お前にさとり様の何が分かるんだっ! あの人がどれだけ苦しんできたか、あたいにも分からないのになんで見ず知らずのお前に分かるんだ! あたいはあの人の事が大好きなんだよ、それだけで十分なんだ。覚妖怪だとか心を読まれるだとか、そんな事はどうだっていい。あたいは知られたいくらいだ。それであの人の寂しさが紛れるなら。初めてあの人に会ったとき、あの人は凄く寂しそうな顔をしてた。今でも時々するんだ。あたいはあの人から優しさとかあたたかさとかそういうものをたくさん、たくさん貰ったんだ。死体の冷たさしか知らなかったあたいに、あの人は自分の温度を分けてくれた。だったらあたいはお返しに、あの人から寂しさを取りのけてやりたいんだよ! あたいはあの人が辛そうな顔してるのを見るのが一番辛いんだ! だからやめとくれ、頼むから! さとり様にもう悲しい顔をさせないでおくれよ……ッ」
最後は空への言葉というより、さとりを苦しめる何もかもに対する、燐の懇願だった。
ただ、ただ、さとりには楽しく生きて欲しい、それだけが燐の願いだった。なまじこれまでが大層辛かったのだろうから。これからは自分がさとりを助けてやりたい。さとりの力になりたい。さとりには笑顔でいて欲しい。さとりの笑顔を見ると、燐はそれだけであたたかい気持ちになれる。
さとりから笑顔を奪う奴は、許せない。許さない。
「あんたは絶対叩き潰してやる。意地でもだ。これ以上さとり様を傷つけるなッ!」
「ふん、そんな事、私に勝ってから言いなよっ!」
二人の少女の輪郭が交錯する。尻尾と翼が、月の光に照らされて、影を長く伸ばしていった。
空は瞼に降りかかる光に目を覚ました。
身体を起こす。ばさり、と被っていた毛布が跳ねのけられる。首をめぐらす。昨夜襲撃した小屋の中らしい。壁に穴が空いている。そこから白い光が射しこんでいる。丸テーブルがあり、椅子が並べられている。その内の一つに、黒猫が丸くなって眠っている。さらに奥に、こちらに背中を向けて手を動かしている人型の姿があった。周りに湯気が立っている。
「あれ、私」
眠っていたらしい。昨夜の事を思い出そうとするけれど、頭がうまく纏まらない。記憶が欠片になって漂っている。
その一つ一つをつらまえてゆっくり眺め回す内に、目はだんだん冴えてきた。
「おはようございます。いい天気ですね」
冷水のように突然浴びせかけられた声に、肩を震わして空は顔を上げた。
湯気にけぶる背中から、それは聞こえてきた。
「あ……」
自分の身体に目を移してみると、肩から胸にかけて、服がはだけ、真っ白で清潔な包帯が巻きつけられてあった。
腕を回すが、痛みはない。
「昨日はお燐と派手に遊んだようですね。お燐が怪我をさせてしまったみたいだから、手当てをしておきました。あなたは地獄鴉ね? 地獄鴉は丈夫と聞くから、きっとすぐ治るでしょう」
そっか、と空は大分醒めた頭で思い出す。私、負けちゃったんだ。あいつ、凄く強かったもんなぁ。……チクショウ。
身体を倒す。ベッドは固いが、何だか変にほっとする。枕は花の匂いがする。
テーブルの向こうの背中がくるりと振り返り、空に向きなおった。薄紫のぼさぼさの髪が目立つ。やわらかそうだな、となんとなく思った。さとりの髪も、微笑みも、動作も、目も、みんな優しげな印象を空に与えた。
さとりは空のベッドまで来て、隣に座る。空の翼に手を伸ばし、ちょっとためらったが、慎重に、ゆっくり触れた。空は拒まなかった。さとりの匂いはやわらかくて、やすらかな心地になる。
羽の一枚一枚を指の腹で撫でる。弦を爪弾くように静かな手つきで。服が擦れて、さらさらと音を鳴らす。
(どうして)
空はさとりの顔を見、胸の第三の眼を見、それから自分の翼を這う指先を見る。
(どうして、そんなに優しそうな顔ができるの? あんな事を言った私に、どうしてまた笑いかけられるの?)
心を読まれる事への恐れは、この人の隣にいるとまるで感じなかった。そんな事を思ってしまうのが憚られるほど、あまりに優しく脆い雰囲気を、この人は漂わせていた。
空はされるがままになっていた。されるがままになっていたかったのだ。
しばらくして手のひらは離れ、さとりは立ち上がろうとする。
「行かないで」
気づくと、空はさとりの薄いピンクのスカートの端を、ぎゅっと掴んでいた。
さとりは目を丸くし、それからゆるやかに笑った。また腰を下ろし、今度は空の黒髪に触れる。長い滑らかなそれをすくう。空の手は、さとりの背中に回っていた。強く、淡色の生地を握る。
「私、わたし、ね……負けちゃった。うぅ、あああぁあああぁぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……気持ち悪、くなんか、ないからっ……ぐ、ううぅぅ」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただこの人に甘えたかった。嫌われたくなかった。ずっとこうしていたかった。くやしい。あったかい。いい匂い。気持ちいい。さみしい。綯い交ぜになった、意味不明な想いが爆発して、空はさとりに縋りついた。さとりは何も言わず、腕を空のわき腹に差しこむ。たどたどしく、不器用な動作だったけれど。さとりの胸の中は心地よかった。できるなら、永遠に抱きしめられていたいと思うほど。
「その板だよ、その板」
「どれよ。これ?」
「それそれ。早く渡しとくれ」
「うるさいなあ、もう!」
小屋の外から燐と空のやり取りが聞こえてくる。昨夜空が壊した壁の修理をしているのだ。
さとりはと言うと、今しがた訪れた珍しい客人にお茶をもてなしていた。
「何だか少し見ない間に、やけに賑やかになってるなあ」
お茶を一口啜り、そう言ったのは、勇儀。頬杖をついて、かんかん、と金槌を打つ音に耳を傾けている。
燐と泣き止んだ空と三人で朝食を済ませた後、彼女はいきなりやって来た。鬼を見た猫と鴉は初め大騒ぎをした。
「色々あったものですから」
「いや、何にせよ、よかったよかった。さとり、この前会ったときよりずっと明るくなったようだな」
「そうですか?」
「ああ。お前はもう、大丈夫みたいだ」
安心したように、勇儀は微笑む。さとりも笑いかける。
それから少し真面目な顔を作り、
「それで、今日はちょっと話があって来たんだ。お前、なかなか都じゃ捕まらなくてな」
「はあ。話?」
「そうだ。前に話した、灼熱地獄跡に怨霊が湧いてる事件についてなんだが」
「そういえば、見つかったんですか? そこの管理者」
「いや、それはまだだ。まだ建物自体が完成してないんでな。怨霊が予想外に増えてて、はかどらないんだそうだ。今日来たのはそれの事なんだけど。何でも怨霊が方々に散って、色々と被害が出てるみたいだ。誰それが襲われただの、呪われただの。霊は暗くてじめじめした場所を好むって聞くからな。この森にも霊が集まってくる可能性がある。だから警告に来た」
「物騒な話ですね……わざわざありがとうございます。気にかけておきましょう」
帰り際、勇儀はどことなく嬉しげに、
「新しい家族、大切にしなよ」
一言置いて、片手を振り振り出て行った。
一方、壁の修繕に勤しんでいた二人は、文句を言い合いながらではあったが、一応滞りなく事を運んでいた。
「ねえ、お燐」
「何さ。そこ、釘打ってよ」
「あ、うん。……私、お燐がどうしてあの人と一緒にいるのか、分かった気がする」
「フン、別にあんたなんかに分かってもらいたかないね」
「私、あの人に酷い事言った」
燐は顔を上げて、空を見つめた。その、申し訳なさそうに俯く空の姿が、さとりに会ったばかりの頃の自分の姿と重なって見えた。
「謝らなくちゃ。謝ってくる」
「その前に修理――」
ばたん、と建てつけの悪いドアの閉まる音が、燐の言葉を遮った。燐は一つ溜息を吐いて、仕方なしに金槌を取り上げた。
さとりは急いて駆けこんできた空に顔を向ける。
空は顔を赤くしながら、何か言いたそうに爪先で床を擦る。さとりは心を読まなかった。それをするのは空に卑怯だと思ったからだ。懸命に言葉を探している空に。
「さと、り。昨日は、ごめんなさい」
言葉が口からこぼれるのに合わせて、空の大きな瞳からは涙が落ちる。それを両手で拭い、唇を噛むが、嗚咽が溢れる。息が漏れ、顔は真っ赤になる。そしてまた水珠がこぼれ落ちる。
さとりは立ちあがって空の元に行き、自分より高い頭に手を伸ばして撫でながら、
「いい子ね。よしよし」
すると更に空の泣き声は大きくなる。けれど、さとりは止めない。
「うっ、ウグゥッ、さとりぃ、さとりぃぃぃ」
「ここにいます。大丈夫。怒ったりしないから。ずっと、ここにいますよ」
空はぺたんと床にへたりこむ。手のひらは濡れた目元にあてがわれている。その間から、充血した目の赤みが覗かれた。
さとりも膝をついて、空の背に両腕を回す。朝よりも、強く、きつく、抱きしめる。手を空の後頭部に当て、押し出す。自分と空の頬が重なる。紫と黒の髪の毛が混じり合う。体温も。あたたかい。
「ごめん、ごめんなさい。私、こんな事されたの、は、初めてで、分かんない……分かんないよぉっ……うぁ、い、行かないで。お願い、ここにいて」
「行きませんよ。どこにも」
「私、あなたといたいよぉ」
「ええ。私もよ」
「ずっと一緒に、いたい」
とても泣き虫なようだ。
きっと、この子は。髪を梳いてやりながら、さとりは思った。きっと、この子も一人だったのだろう。肌の感触を知らなかったのだろう。だから、初めて心で触れられたから、溢れ出る自分の感情の正体が分からず、動揺しているに違いない。かつてのさとりと、同じように。
「ええ。いましょう。ずっと」
また少し、賑やかになりそうだ。
さとりは空を離さなかった。もうしばらく、このあたたかさに浸っていたかった。
フン、と燐が鼻を鳴らすのを壁の向こうから聞いた気がしたけれど、気のせいだったかも知れない。
小屋がどうやら一人分、また狭くなるらしい。
§ § §
長い長い、道があった。並んで歩く足音は、気がつけば三つに増えていた。
季節は移る。相変わらず空と燐は口喧嘩が絶えないが、いつの間にか肩を並べて、捕ってきた肉や野菜の大きさを比べたりしているところなんかはやはり、仲が深まりつつある証拠なのだろう、とさとりは観察していた。
後に聞いたところによると、空もまた燐と同様家族を持たないのだそうだ。鳥妖怪だからか、幼い頃の記憶があんまり残っていないから、どこでどういう別れ方をしたのか判然しないようだが。
さとりは空と過ごす内に、空の心の奥の深く大きい寂しがり屋が、頻繁に顔を覗かせる事に感づいた。控えめな手つきでさとりの服を引っ張るのも、さとりに向ける屈託のない笑顔も、子供が母親に甘えるときのようなそれだった。
空の見せる寂しさに、さとりは自分のかつての孤独を重ねて見た。自分の手で彼女の寂しがりな心を慰めてあげる事ができるなら、と思い、黒く大きな翼を撫でてやった。その度に空は嬉しそうにじゃれるのだった。
さとりは相変わらず山菜を摘んでは、都に売りに出て、燐と空に振舞う為の食材を買い足したり、人数が増えた分必要になった家具を揃えたりした。
季節はめぐる。さとりが燐と出会ったのは春先だった。それから梅雨が森を洗い、夏が草木を干し、秋が枯葉をさらっていった。二人が三人になり、彼女たちはいつも一緒に、どうでもいいような、意味のないような事を語り合い、笑い合いながら、遥か天井の穴からさんさんと降る光の下、日々を送った。
小屋にベッドは一つしかない。さとりの毛布の中には燐の尻尾が丸くなり、頭の横には空の羽毛がふくらんだ。暖炉の火を焚くまでもなく、胸と肌に灯るあたたかさは、さとりから離れてはいかなかった。
さとりが二人に心を求める分だけ、二人はさとりに心を求めた。この関係を家族というのだと、さとりはいつの間にか知っていた。彼女は自分の歩いてきた道をかえりみた。そうして、永い間、暗く寒い小路を一人で渡ってきた彼女は悟ったのだ。右に、左に、手を繋いで共に歩いてくれる人がいる事に。つまづいても、助け起こしてくれる人がいる事に。もう、手のひらにも心にも言葉にも、その使い道を見いだせている事に。
森の葉は悉く散って、乾いた冷たい風が吹くようになった。
丁度その日は朝から、燐と空がいい死体を見つけてくると言って、張り切り出かけていたので、さとりは一人家事をこなして花壇に水を遣っていた。
ぱたぱた、と風がさとりのスカートを揺らす。杓子を持たない方の手で生地を押さえつけながら、余った水を桶に戻そうと後ろを降り向いたとき、思わずさとりは息をのんだ。
少女が立っていた。黒い丸い帽子を被った、白髪の少女。こちらに横顔を向けて、小屋を見上げている。
帽子に隠され、わずかはみ出た髪は、よく目を凝らせば真っ白ではなく、ほんの少し緑がかっている事が分かる。
黄色のブラウスに、緑のスカート。それが寒風になぶられているのを気にもかけず、粗末な小屋の隙間だらけの板壁を凝視している。
すぐ後ろにいるのに、足音にも気配にも全く気づかなかった。いや、目の前にいるのを見ている今でさえ、本当に少女がそこにいるのか判然しない。絵の具の汚れみたいに、拭き取れば消えてしまいそうに儚く曖昧な空気を纏っている。
少女はゆっくり首を傾け、さとりの方を向いた。微笑んではいるけれど、どこか空虚さをはらんでいる。笑い方を知っているのに、笑う意味を知らない、そんな感じだった。
「いいお家ね」
艶やかな唇からこぼれる声はあどけない。
「ここはあなたのお家?」
少女は尋ねた。さとりは少女をまじまじと見つめる。いつか見た事のある顔だと思った。よく思い出せないが、どこかで会った事があるような気がした。
「……ええ、そうですよ」
「そう」
それきり少女は黙ってしまった。さとりの隣に立ち、花壇を眺めている。さとりもその視線を追う。追いながら、何か変に引っかかるものを感じた。そのおかしみは、少女の姿を爪先から順々に見上げて胸元に目を向けたとき、はっきりした。
「あなたは覚なの?」
少女のブラウスを這う、数本の青く細い管。胸の真ん丸の目玉と繋がっている。青い眼は閉じている。さとりは目をしばたかせたが、幻ではない。確かに少女は持っている。覚の眼を。人妖問わず忌み嫌われてきた覚妖怪の象徴を。
「うん。あなたと同じ」
「あなた、私とどこかで会った事がありますか?」
「うーん、どうだろ。ごめん、覚えてないや。もし会ってても分からないかも。私、時々ぼーっとしちゃう癖があるから……」
少女はそう言って笑った。自分で自分が何故笑うのかを分かっていないような、ちぐはぐな笑い方だった。
さとりは気にかかった。少女の言動、覚の眼、それに、こんな森の中に一人で来ている事など、謎が多い。だから、少々失礼して心を読んでみる事にした。胸の赤い眼に神経を集中し、少女の胸を見る。
「え……?」
少女への謎は解消されるどころか、即時に膨張してさとりの前にはだかった。
何故、何故、何故。どうして。
(嘘……嘘でしょう!? 心が読めない?)
思考の断片、言葉の欠片すら、見えない。何にもない。少女の心は真っ暗で、音も色も温度も言葉も何もかも存在していないように静まりかえっていた。
少女はさとりの顔に動揺と狼狽の色が現れるのを見、笑みを崩さずに、
「あなたに私の心は読めないと思うよ」
「え? ……どうしてですか」
「私は心を読めない覚だもの。きっと読まれる事もできない」
青い瞼のふさがれた眼を撫でながら、少女は言った。
「それはどういう意味です」
「そのままの意味だよ。私は心を読む能力を失くしたの。ほら、この眼、見て。閉じちゃってるでしょ」
手のひらに包み、さとりの方へ引っ張る。管は揺れ、きしんだ。
「……あなた、どこから来たの?」
少女は首を振った。
「どうしてこの森に来たの?」
「気がついたらここにいた」
さとりは呻る。要領を得ない問答。それでも、この子を放っておく訳にはいかなかった。いきなり現れた同族。しかも心を読めない初めての相手。聞きたい事は山ほどある。
「私は古明地さとりといいます。よければあなたのお名前、教えて下さい」
この問いかけには、少女はにこにこして口を開いた。
「こいし――」
「さとり様、いいのがとれましたよー」
「ねー、聞いてよさとり様ー」
少女の言葉に被さって、茂みから燐と空の朗らかな声が響く。仕事を終え帰ってきたようだ。
さとりは彼女たちを見、抱えられている獣の死体を見、それから手を振った。
「ああ、あの子たちは……」
燐と空の説明を加えようとして、目を戻したときには既に、少女の姿はどこにもなかった。靴跡さえ、風に吹き消されてなくなっていた。
毛皮を剥いで、肉をいくつかのブロックに切り分ける。かなり前に勇儀から貰ったウォッカを取り出し、赤い肉の表面に吹きかける。ボウルに溜めておいた塩水に、一塊ずつ浸す。しばらく経ってから外に吊るしてやれば、日持ちする干し肉になる。
さとりは一息つこうと、お茶を三人分淹れて、テーブルに並べた。
「今日はお疲れ様。一服しましょう」
主人の提案に応じ、猫と鴉はベッドから這い出て人型に変化する。
燐は椅子を引きながら、
「さとり様、誰か来てたんですか? 声がしたような気が」
さとりは腰かけ、お茶を飲みつつ、さっきの出来事の詳細を話した。少女が小屋の前に佇んでいた事、どうやら覚らしい事、心を読めない事、前に会ったような気がする事、忽然と姿を消した事。自分で言葉にしてみると、ますますあの少女は不思議だった。一から十まで、みんな不可思議だった。
「ふーん。しっかしここには変なのばっかり集まってきますね」
燐は隣の空を一瞥して言った。
「誰の事よ」
「あんただよ、おくう」
「このっ」
取っ組み合いを始めた二人を微笑ましく眺めつつも、さとりはやはり気がかりだった。休憩を終え、再び獣肉にとりかかる。二人も作業を手伝ってくれたので、ベッドほどの大きさの肉はすぐに片づいた。
「そういえば、さとり様」
手にこびりついた血を拭い、燐は少し真面目な調子で、
「あたい、この前から思ってたんですけど……最近、森に怨霊が増えてきてるみたいなんです」
「私も何匹か見かけましたよ。襲ってはこなかったけど」
燐の話に空も加わる。彼女もいつ間にか、燐の真似をしてさとりに敬語を使うようになっていた。慣れていない為、舌足らずになる事もよくあるが。
「怨霊ですか……確かにそんな事を勇儀が言っていました」
「さとり様も気をつけて下さいよ。怨霊は精神の化け物です。誰かの暗い感情を好みます。憎しみ、恨み、悲しみ、妬み。そういう心を餌にします。そういう匂いにつられてやって来ます。覚えておいて下さいよ、おくうもね。霊は負の感情にあてられると、興奮していくらでも凶暴になりますから、凄く危険なんです」
燐は真剣な眼差しでさとりと空を見回し、説明した。
二人は素直にうなずく。身震いと共に顔を青くした空に苦笑を向けながら、燐はまたいつもの明るさを目に宿し、
「ま、さとり様はともかく、おくうみたいな考えなしの能天気に限って、霊魂に寄りつかれるなんて事はないだろうけどさ」
「うっさいッ」
「まあまあ。それよりどうです、暇だし、散歩でも行きませんか」
「いいですね。行きましょう行きましょう」
「別に行ってもいいけど……」
このような会話の内に、さとりの胸騒ぎじみた気がかりも鳴りを潜める事となった。
元気のいい燐と空に手を引かれ、明るい森を歩く。結構な寒さだったが、握りかえした手の繋がりは、さとりの皮膚から染みこんで、生来の冷え性な心をあたためた。
それだけで、たったそれだけの動作で、さとりは元気が湧くのだった。明日を楽しみだと、待ち遠しいと、思えるのだった。何度繰り返しても足らないくらいの、触れ合い。感触。今はこの手のひらの中に、ちゃんとある。思って、笑みがこみ上げた。空が、どうかしたんですか、と尋ねた。何でもないのよ、と、やはりさとりは笑顔で答える事ができた。
彼女たちの通った後の獣道に、ふと木の枝を踏みしめる音が一つ響いた。誰にも聞かれる事はなかった。すぐ上の樹にとまっている鳥にさえ。……
勇儀の危惧した通り、怨霊は日ごとに数を増してきた。それはさとりの目にも明らかだった。何度か燐と空を連れ調べに出たが、そこかしこに霊の妖気と冷気が満ちていた。例えば岩の陰だったり、川辺だったり、野花のまだ散らない丘だったり。最早どこに行っても霊の呻き声につき纏われた。
「あたいも見つけた奴から説得して、成仏させるようにはしてるんですけどねえ。多分、いずれ勝手に消えていくとは思うんですが」
そう言うものの、表情は曇っていた。燐はなまじ怨霊の扱いに長け、彼らの性質をよく理解している分、懸念が強いのだろう。
「……なんだか、殺気立ちすぎていると言うか、既に変に興奮してるんですよ、あいつら」
「何かあったのかしら」
「こんなとこにユーレイの気を立たせるような奴、いるかなあ」
空は首を傾げた。
この森はいつも静かだ。外から出向いてくる物好きな連中はいないも同然である。霊を刺激させるようなものは何もない筈。
さとりは無意識に、かすかな胸騒ぎを感じた。
さとりが白髪の少女に再び出会ったのは、それからまもなくの事だった。
底冷えのする早朝。珍しく早起きした彼女は、寝癖の酷い髪を更にくしゃくしゃにし、欠伸をこらえながら外へ出た。燐と空はまだイビキを掻いている。
天井から覗く空はまだ薄暗い。花壇に下りようとしたところで、さとりの寝ぼけ眼は人影を捉えた。花壇の前にしゃがんでいる。黒帽子を深く被り、スカートが少し捲れ、膝が顔を覗かせている。あのときの少女だ。
少女は花に手を添える。白い花弁を、指で軽く弾く。水滴が舞った。茎がしなる。
どうやらさとりがいる事に気づいていないらしい。
前に驚かされた事もあり、さとりは若干の悪戯心を働かせて、少女の背にそろりと歩み寄った。
「その花はラナンキュラスっていうんですよ」
突然降ったさとりの声に、少女はびくんと背中を跳ねさせた。その拍子に帽子が浮きあがり、雑草の上に被さった。
露わになった白く輝く髪の毛がさわさわとなびく。それを見、さとりはようやく思い出した。この子は、燐に会う前に一度、森で見かけた事がある。あのときは帽子を拾ってあげたんだった。
「おはようございます。あなたと会うのは、これで三度目になりますね」
帽子を拾い上げ、土を払って少女に渡す。あのときと全く同じように。一つ違うのは、少女がそれを笑顔で受け取った事だ。
「ありがとう」
言いながら、少女は軽やかに立ちあがる。受け取った帽子を両手に持ち、胸に抱える。スカートが揺れる。ラインの入った、明るい緑色の生地の。花の模様が描かれている。
「この花、私のスカートの柄と同じみたい」
白のラナンキュラスを指差して、少女は言った。頬は寒さの為か、ちょっと赤みを帯びている。
しばらく楽しげに自分の身体を見回した後、さとりのスカートに目を遣り、
「あなたのに縫われてる花は、バラ?」
「ええ、そうです」
さとりが答えると、少女は歯を出してにっこりする。そしてくるりと踵を返し、茂みの方へ歩き始めた。ついて来い、と手招きしながら。
二つの影は水の匂いが立ちこめる森を進む。どこに行くの、と聞いても、少女は答えず、さとりの半歩前をスキップしている。軽い足取りなのに、さとりには何故だか、ちいさな背中がひどく寂しそうに見えた。行動と心がつり合っていないように思われた。少女の心を読めない事が、さとりに一層その奇妙な矛盾を感じさせた。どこか薄ら寒いほどに。
その内少女は、もう少しだよ、と言って歩を速めた。体力にあまり自信のないさとりは息を切らせつつ、なんとかついて行く。
風が二人をなぶり、流れていく。
日が高くなってきた為か、運動の為か、身体がだんだん火照ってくる。
森は白む。枝の間から日が射しこんでくる。夜明けだ。
「ついたよ」
少女はそう言って、微笑んだ。髪と顔に日射しがかかり、きらきら反射していた。
開けたところだった。樹に囲まれ、光が落ちてくる地面には、たくさんの花が咲いていた。みんなバラらしかった。澄みきった日光に照らされ、味気ない樹々を押しのけて鮮やかに輝いている。
「うん。バラ、あなたに似合うと思うよ。さとりさん」
「これを私に見せる為に、連れてきてくれたの?」
「うん。この前偶然見つけてさ。たまに来るんだ。いい匂いでしょ? さっきの花を見せてくれたお返し。……つまらなかったかな」
「いいえ、そんな事ない。ありがとう。えっと……」
「こいし。こいしって呼んで」
「ありがとう。こいし」
二人は手ごろな岩に腰かけた。こいしは白い息を手のひらに吹きかけた。空気がけぶる。
朝は静かに、彼女たちの間に足を伸ばしていく。
「私の心を読めないのは、怖い?」
こいしが突然、口を切った。さとりは、その白く光に照りつけられた横顔に目を向ける。
「……ええ。私は能力に依存して生きてきたのですから。何も聞こえないのは、怖いし、寂しいです」
「そっか」
「あなたは? 眼を閉じたあなたは、もう何一つ聞こえないのでしょう?」
「だから閉じたんだもの」
俯いて、呟いた。続く言葉を待ったが、それきりこいしは何も言わなかった。さとりも二の句が継げなかった。こいしの言葉には重さがあった。軽々しい文句ではどうにも動かせない重みが。さとりの知れない何かが、こいしにはあるのだろう。それを暴くだけの度胸がなかったのだ。
しばらくバラを眺めていた。水に濡れた棘が方々で光った。
「また、会いに行ってもいい?」
どれくらいそうしていたのだろう。顔を上げて、こいしは言った。
「ええ、勿論」
さとりの返答を聞いて、こいしは安心したように息を吐き、立ちあがった。
そして、例の如くふっと消えるのだった。まるで自分をその場からもぎ取るように。岩に少しのぬくもりさえ残さずに。帽子も髪も言葉も面影も全て、どこかさとりの知らない世界に行ってしまったようで。
バラの鋭い香りだけが、いつまでもいつまでも、さとりの周りを漂っていた。
言葉通り、こいしはそれから毎日のようにやって来た。初めは警戒していた燐、空とも次第に打ち解け、親しくなっていった。
「こいしちゃんは何だか不思議な子だねぇ」
燐はふわふわしたこいしの白髪に櫛をあてがってやりながら、言った。
「掴みどころがないって言うか」
「そうかな。どうだろ」
こいしは曖昧に答え、椅子から投げ出した足をぶらぶらさせる。
さとりは行商に出ていて、まだ帰らない。雪が降る頃には山菜も採れなくなるから、採れる内に一杯集めておこうと張り切っていた。怨霊の事もあり、燐と空は代わりに行こうと申し出たが、結局さとり一人で行ってしまった。さとりにとっては大切な仕事なのだ。三人で暮らしていく為には、主人たる自分が養わなければ。空が同居するようになってから、そんな決意を胸に抱いていた。
「ここに三人で暮らしてるの? 狭っこくない?」
「今まではあんまし気にならなかったなー」
空は翼の手入れをしながら言った。羽が一枚指にからまって、ぶちっと抜ける。痛ったぁ、と叫んで涙目になった。
「ふうん。そっか」
生返事をし、自分の手のひらを見つめた。白い指先。つるつるした爪。それを頬に持っていき、触れる。じんわりとした冷たさが顔を侵す。
「あなたたちは、さとりさんの事、どう思ってるの?」
頬を撫でながら、おもむろに問いかけた。燐と空は顔を見合わせる。燐は頭を掻いて、
「どうって、そりゃ――」
「ただいま」
「あっ、さとり様、おかえりー」
さとりの帰宅に遮られて、言葉は続かなかった。こいしは構わず、籠をテーブルに置くさとりに笑いかけた。
「お邪魔してるよ」
「どうぞごゆっくり。何もないけど」
小屋の主人も微笑みかえした。
彼女たちはそんなふうにして日を重ねていった。こいしは自分の事となると口が重くなる。だから、いまだ多く残る謎は解消されないままだった。こいしは毎朝遊びに来ては、夕方になると姿を消した。どこに住んでいるのかも知らなかった。泊まっていったら、と三人は勧めたが、結局こいしはいつも辞退するのだった。
いつしか雪が降り始めた。
しんしんと、ちいさな結晶たちが、森を色づけていった。
もこもこと、真っ白の絨毯が敷かれたある夜。さとりはなんだか寝つけずに、家の前で夜風に当たっていた。雪の混じった、芯まで凍えそうな風。肌に冷気を染みこませながら、ふと、こいしの事を考える。
謎の塊のような少女。
覚でありながら心が読めず、心を読まれる事もない。いつの間にか親しくなってはいた。けれど、さとりはこいしの事をほとんど何も知らないのだ。普段どこにいて、何を思い、この小屋まで来るのだろう。時々見せる、隠そうとしても隠しきれない寂しそうな表情の奥には、何があるのだろう。明日にでも、面と向かって尋ねてみよう。どうしても答えたくないと言うのなら、それまでだが。
思考に一段落つけ、そろそろ寝ようかと足を踏み出したとき、
「起きてたんだ。さとりさん」
こいしの声がしたのだ。
灰色にかすんだ雪の中。花壇の横に彼女は立っていた。
「どうしたの。こんな時間に」
「んー、どうしたんだろうね。私にも分かんないや」
あはは、と、笑い声が響く。無理矢理声を絞り出したような、ひびの入った声色だった。あどけなさの残るその顔には、あまりに不釣合いな声。
「ねえ、バラを見に行こうよ。きっと、雪が反射して綺麗だよ」
何かがおかしい。どこかに亀裂が走ったように。
さとりは森が丸ごときしんで、今にも崩れてばらばらになってしまいそうな気がした。樹も、花も、雪も、小屋も、さとりも、燐も、空も。みんな。全部。景色がぐらぐら揺れている。
夜更かしした上、寒さも酷いから、頭の調子が悪いのかも知れない。そう思いながら、さっさと先を歩くこいしについて行った。
予覚があった。一歩雪を踏みしめる度、強まる奇妙な予覚が。これ以上先に進んではいけない。冷えきって感覚を失った身体を、頭の痛みががんがんさいなむ。
月の光が降りそそぐ、バラの園に辿りつく。
強烈な彩色が、白くかすれた夜の中に異常に明るく浮かび上がる。ざわざわと揺らぐ。何かが宙を舞い踊っている。さとりは目を凝らした。半透明の白色。苦痛の呻き。呪詛。怨霊の群れがバラを囲んでいるのだ。身体をわななかせ、昂っている。
(アアァ……いいぞ、怒れ、呪え……そうだ……)
こいしはバラの中に足を踏みいれた。花びらと茎と葉がくしゃりと潰れる。生地を纏っていない脚が棘に裂かれて血が出るのも構わずに。
「こいし、あなた何を」
「さとりさん。さとりさんは、心を読みたくないって思った事、ある? もう眼を閉じてしまいたいって」
花弁がちぎれ、ゆらゆらと舞いあがる。痛いほどの香りが立ちこめる。
「……勿論、あるわ」
足元が赤黒く光る。それが花の色素を垂らした水滴なのか、こいしの脚から流れる血なのかは、分からない。
怨霊はこいしを取り囲んでぐるぐる廻る。
さとりは頭痛が酷くて、立っているのもやっとだった。
「でも、閉じずに今日まで生きてきたんでしょう。あなたは強いもの。私と違って、きっとずっと強いもの」
「心を閉じなかったから? ……いいえ、私は強くなんか」
「私は、歌を忘れたカナリア」
空を仰いで、こいしは言った。
その声には自嘲の響きがこもっていた。
「ただ一つ違うところは、一生懸命歌を覚えて歌っても、初めから誰も愛してくれなかった事。みんなが私の歌を嫌った事。だから全部止めた。歌う事も止めたし、歌を聞く事も止めた。どうせ誰も振り向いてくれないのなら、なるだけ痛みの少ない方がいいでしょ?」
「こいし……」
声は泣いていた。顔は笑ったままで。
泣く意味を知っているのに、泣き方を知らない、そんな感じだった。
「ねえ、さとりさん。あなたはお燐の事が好き? おくうの事が好き?」
「ええ、好きです」
「本当に?」
「大好きです。愛しています」
「じゃあ、お燐とおくうは、本当にあなたの事を愛してくれているの?」
言葉に詰まる。燐と空が自分を好いてくれている。そんな事、そんな分かりきった事。――分かりきっている筈なのに。
「本当にそう? 覚の眼では、心の奥の奥までは見えないでしょう? ずっと深くまでは、光が届かなくて分からないんじゃない? それなのに、ただ一緒にいて、ただ心の表面だけを見て、自分への好意を絶対だと信じきれる?」
火焔猫燐は。霊烏路空は。彼女たちの心は。言葉は。温度は。偽りなんかじゃないと。
「覚なんかどうやっても、好きになってくれる人はいないんだって。あなたもそう思ってたんじゃないの?」
「それは……」
何故だろう。どうしてだろう。それは違うと否定する事が、どうしてできない。燐も空も、さとりが愛しているのと同様に、さとりを愛してくれていると、どうしてはっきり言ってやらない。どうして断言できないのだ。
頭が割れそうに脈動している。
ずきずき、痛む。
霊は喧しく騒ぎたてていた。バラが踏み潰される。茎が折れる。葉が破ける。怨霊の冷気に、花が死んでいく。
鼓動が爆発しそうなほど、はやまる。こいしは震えていた。寒さか、悲しみか、あるいは両方か。
その姿が弱々しくて、ひどくちいさく見えたからだろうか。思わずさとりは手を伸ばした。バラの園から、連れ出してやろうと。
(憎め……ソウダソウダ……お前を捨てた全てを恨め……)
瞼が急に重くなる。夜に押し潰されそうになる。
「さよなら、さとりさん。もう二度と会う事はないわ」
とうに感覚の消えうせた手のひらが、こいしに触れるより前に、さとりの意識は途切れた。
§ § §
「――はあっ、はあッ」
目を開く。額を拭う。大量の脂汗を掻いている。さとりはベッドに身を横たえていた。毛布を剥いで身体を見回す。パジャマに包まれている。いつ帰ってきて、いつ着替えたのか、まるで覚えていない。いや、本当にこいしと会ったのかすら判然しない。もしかして、何もかも夢だったのでは、とも思った。
動悸が激しい。深呼吸をして、落ち着かせる。もう一度屋内を見渡す。暖炉に火が灯っていないから、入りこんでくる朝風が冷たい。
空の羽毛を撫でて動悸をおさめようと思い、枕の横に手を向ける。
手のひらは何もつらまえなかった。かすかに温度の残る生地の皺をなぞっただけだった。
「……え?」
目を移す。いつも空が眠る枕横には、羽の一枚も落ちていない。
毛布を投げる。燐はいつもその中で眠る。黒毛の一本も見当たらない。
小屋には、さとりしかいなかった。
急いで立ちあがり、扉へ向かう。足がもつれ、転びそうになる。心臓の音が耳にうるさい。ばくばくと、嘲笑うかのように。
扉を無理に蹴破って、外に顔を出す。肌を突き刺すような低温。花壇には雪が積もり、花は隠されていた。あるいは、枯れてしまっているかも知れない。
黒猫も鴉もいない。さとりに黙って出かけていくなど、ありえない。朝ご飯を待たずに、籠も持たずに外に行くなど、ありえない。起きたのに暖炉に火を焚かないなど、ありえない。二人は寒がりだ。
それなら、どこに。
「嘘。嘘……どうして……ッ」
さとりは動物が好きだった。
猫、犬、鳥、擦り寄ってくる動物は皆可愛がった。彼女は昔、ペットを飼おうと思った事があった。ちいさな動物たちと一緒に暮らそうと思った事があった。
しかし、遂にその手は伸ばされなかった。柔らかな毛並みを撫ではしても、寄り添う彼らをあやしはしても、抱き寄せてやる事はできなかった。
怖かったのだ。どうしようもなく、心の底では愛情を求めていながら、恐ろしかったのだ。繋いだその手が、いつか自分から離れていってしまう事が。知らぬ間に傷を与えてしまう事が。嫌われてしまう事が。覚である限り、何度も何度も繰り返し感じなければならない、好意から憎悪への揺らめきが。
「あ、ううぁ、うわああぁぁぁああああああぁあっ」
どうして永遠に続いてくれるものと、無根拠に信じきっていたのだろう。
こいしの言葉が、心を貫く。
自分を置いてどこに消えてしまったのか、分からない。分かりようがない。きっと、ずっと遠くの、さとりの知らないところなのだろう。
「おりん、おくうぅっ……行かないでぇ、ああぁぁあああぁうぐ、ひぅ、私を一人にしないでよぉ……」
情けないすすり泣きがこぼれるのを、こらえる事ができなかった。
初めて貰った本当の愛だと思ったのに。
初めて触れた本当のあたたかさだと信じたのに。
初めてできた、家族だと……
取り乱し、何も考えられなくなった頭の隅に、自分の泣き声だけが響き渡った。
燐は鼻にかかる熱気で目を覚ました。眼前であかあかと膨らんだり萎んだりしているのは、炎。薪から煤が散っている。すぐ隣には空が眠っている。大きなイビキを掻きながら。
身体を起こそうとするが、動かせない。いつの間にか人型に変化している。縄に縛りつけられている。背中に岩のごつごつした感触。
「起きた? お燐」
「こいしちゃん、どうして」
こいしは焚き火を挟んだ向こう側の岩に座りこみ、こちらを笑顔で見つめている。
周囲に目を遣る。森の中のどこからしい。葉を失った枝が、光を遮って重なり合っている。
「ここは」
「適当に小屋から離れたところまで連れてきたの。あ、まだ寒い? 薪増やそっか?」
「なんでこんなとこに」
燐はこいしの明るい声に反抗して、睨んだ。
「さとり様はどこ?」
それを聞くと、こいしの表情が急に曇った。打って変わって、冷たい目になる。
空のイビキが途絶え、瞼を上げた。欠伸を一つしてから、こいし、燐を順に見る。
「うにゅ? 焚き火して遊んでたの?」
こいしは笑顔を取り繕い、言った。
「私とお話しようよ」
「……どうしてこんな事するのさ」
燐の言葉は冷えていたが、こいしは動じず、不自然な笑みが依然として張りついていた。
「あなたたちは、さとりさんの事、どう思ってるの?」
前に一度問い、聞きそびれたそれを、再び燐と空に投げかけた。
「なんでそんな事を聞くんだい」
「本当にお燐とおくうは、さとりさんを好きでいるの? 好きでいられるの? 覚だよ? 見られたくない事、知られたくない事、隠していたい過去。それに土足で踏みこんでしまう存在。心を踏み荒らして、ぐちゃぐちゃにしてしまう妖怪。なんでもかんでも知られたままで、ずっと一緒に生活していけるの? 隠し事なんかできないんだよ。怖くならない? 嫌になるでしょ?」
「うるさいなッ」
反応したのは、空だった。きっと鋭い目で、炎の向こうを射抜く。
こいしはきょとんとして、空を見返した。
「私はさとり様の事を全部知ってる訳じゃないけどっ。さとり様は優しいんだよ。誰よりも優しくて、誰よりも強いの! なんで心が読めるからって嫌われなくっちゃいけないの? いっつも隣にいてくれる。寂しいときも、悲しいときも、いつだって隣にいて撫でてくれる。心が読めるから、私とお燐の事を誰よりも分かってくれるの。私にはさとり様の寂しいときが分からないから、なんにもしてあげられないのに。さとり様はなんだってしてくれるの。私は頭がよくないからうまく説明できないけど、お燐だって私と同じだよ。私はあの人と同じ道を歩きたい。あの人がもし歩くのに疲れちゃったら、休憩してる間、隣で守ってあげるくらいは、私にもできそうだから」
俯き、黙って聞いていたこいしは、顔を上げた。そして、寂しそうに笑ってみせた。今にも消えてしまいそうなほど、儚げに。
「そうなんだ。そうなんだね。――きっと、あなたたちは本当なんだね」
「こいしちゃん……」
「さとりさんを捨ててどこかに行ったりしないんだね」
「する訳ないじゃない」
「そっか。そっかぁ、いいなぁ、さとりさん。やっぱりずっと、私なんかより強い」
乾ききった表情で、言った。
燐と空の元に行き、しゃがんで縄を解いた。
「私とは、全然違う」
「え?」
「なんでもない。ごめんね、無理矢理連れ出しちゃって。さとりさん凄く心配してるだろうから、早く帰ってあげてね」
「こいしちゃんは」
燐の問いかけに、こいしは答えなかった。代わりに、
「今まで私と遊んでくれてありがとう。とっても楽しかったよ」
偽物の笑顔を、満面に浮かべて。
二人が言葉をつむぐより前に、朝の空気に溶けるように、消えていった。
日が昇り、下る。
さとりは朝から暖炉の傍で、ひたすらテーブルに突っ伏して泣いていた。喉が痛い。嗚咽も涙も最早枯れていた。けれど、悲しみだけはひっきりなしに満ち、溢れ、こぼれ出てくる。仕方がないから、唇を噛んで耐えていた。
薪は燃え尽きて煤の小山になっていた。温度がだんだん低くなっていくのにも気づかず、ただそうしていた。
夕暮れの赤い射光が、テーブルまで届くようになった頃。
ぎい、と控えめな音を立てて、扉が開かれた。壁が一面、真っ赤に染まる。
顔をゆっくり上げる。絶望に満ち、憔悴しきったその顔を。
燐と空が立っている。夕焼けの逆光を受けて、影が伸びている。
「さんざん迷っちゃいまして」
「お燐が方向音痴なんだよ」
さとりに向けた笑顔は、いつも通りのそれだった。
「あ……」
言葉が、かすれて出てこない。
「お……おりん、おくう」
「ええ、さとり様」
「まだわたしと、いてくれるの」
「ええ、いますよ」
「どこにも、いかないで」
「さとり様を置いて行ったりしません」
「あなたたちと、いっしょに生きたい」
「どこまでもついていきますよ」
「ずっといっしょに、歩きたい」
「ええ、いつだって隣にいますから。寂しくなんかないでしょう?」
「……ええ。ありがとう。愛してる」
「あたいもです」
「私もだよ」
掴んだその手を握りしめて、震える口元を、どうにかほころばせた。
すっかり空は暗くなった。三人とも朝から何も食べていない為、空腹だった。
さとりがこしらえたシチューにかじりつくようにしながら、燐と空は事の詳細を語った。
「そう……こいしが」
では昨晩のあれも、やはり夢なんかではなかった。こいしの壊れそうなくらい寂しさと悲しみを湛えた顔。あれは本物の顔だったのだ。偽物の笑顔しか作れないのに、悲しみだけは純粋に顔を染めていた。
怨霊が騒いでいたのも――さとりはある事に思い至り、スプーンを危うく取り落としそうになった。
「お燐。あなた、前、怨霊について色々教えてくれましたよね」
「はい。霊魂が増え始めた頃でした」
「怨霊は何に、興奮したり凶暴になったりするんでしたっけ」
「憎しみとか、悲しみとか……大概負の感情です」
こいしは、最後に何と言った。何を思って燐と空を誘拐した。何を思ってさよならを言った。何を思ってありがとうを言った。
こいしは――どこに行こうと言うのだ。
「お燐、おくう。私はちょっと用事ができましたから、先に食べてて下さい」
急いで靴を履き、取っ手に手をかける。
「え!? 今からですか? 用事って」
「やらなくてはいけない事があるのです。待ってて。ちゃんと帰ってきますから」
暖炉にあたためられた小屋を出、さとりは雪の降る夜の中を走り出した。
息がけぶる。身を切る痛みも構わずに、一心不乱に突っ走る。さとりとこいししか知らない、秘密のバラの園へ。
「はっ、ふっ、こいし! こいしッ!」
荒く息を吐きながら、叫ぶ。誰よりも、さとりよりも、孤独な妖怪の名を。
樹々の間、踏み荒らされたバラ園が見える。月に照らされたその中心に、ぽつんと佇む人影。それを囲む、夥しい怨霊。以前より数は増えていた。
(カナシメ。ウラメ。ノロエ。ニクメ。お前はいつまでも一人だ。誰も救ってくれはしない……)
(そうだよなァ……オマエは一人ぼっちだったものなァ……オレには分かるぞ)
(オオオォ可哀想な覚の子。礫を投げられ、呪詛を吐かれ……家も食べ物も家族も無く)
(寂しかろう寂しかろう……こっちに来るがええ。きっと恨み辛みは晴らされよう)
月の光の下に、バラに囲まれて、虚空を仰ぐこいしがいた。
幾多の霊の囁きが、こいしを包みこんでいる。
「止めなさい! その子から離れて! こいし、私よ、さとりですよ!」
こいしは放心したように、宙に視線を固定したままだ。
霊たちはさとりに気がつき、一斉に襲いかかってきた。
(邪魔をするなよ……ヨウヤク新鮮な餌にありつけるのに)
(コイツも喰らおうか? アイツほど絶望に塗れちゃいねえが)
身体を押さえつけられる。地面に引き倒され、冷気を纏う腕にからみ取られる。
「こいし、こいしっ! お願い聞いて! 私はねぇ、あなたと過ごした毎日、楽しかったですよっ! お燐だっておくうだって、あなたの事が好きなんです! ねえこいし、あなたが眼を閉じた経緯も、あなたの心も、私には分からないですけど、あなたは今までずっと一人っきりで生きてきたんでしょう?」
冷気が、雪が、さとりの皮膚を侵す。
「私だって、ついこの前までそうでした。お燐に会ったのも、おくうに会ったのも、本当に最近なんです。それまで、私はずっとずっと、この森で一人暮らしをしてました。あまりに一人が長かったから、自分が寂しいなんて事も分からなくなってしまったくらいですから。あなたもそうだったんでしょう。私やお燐やおくうに出会うまで、一人は寂しかったでしょう」
それでも、力の限り叫ぶ。喉が潰れるくらいに声を張り上げて。
「……今も、一人だよ」
こいしは顔をさとりの方に向けて、呟いた。
「でも、もういいや。私、疲れちゃった。バラに埋もれながら幽霊に食べられて死ぬなんて、ロマンチックだと思わない?」
「私と一緒に帰りましょう」
「帰る家、ないもの」
「じゃあ、私たちと暮らしましょう」
「私の居場所はないよ。どこにもないんだ。覚を捨てたら、ますます一人になっちゃった」
「ありますよ。四人で住みましょう」
「ないのよッ! なかったの! あなたみたいに人の心に向き合えない弱い私に、誰が構ってくれるの? 誰が愛してくれるの? 誰が……誰が、私に……」
こいしの頬から水が伝いこぼれた。
初めて見せた、涙だった。
「……お燐も、おくうも、さとりさんの事が大好きだって言ってた。あなたたちの幸せを、どうして……どうして私が邪魔できるのよぉ……」
怨霊がこいしに群がる。こいしは身体中が弛緩したように、涙を拭わず、抵抗もしなかった。
「退いて! 退きなさいッ――想起!」
怨霊たちが騒ぎ、逃げ惑う。散り散りになり、道が開く。
疲労でふらふらする身を起こし、必死で立ちあがる。
身体は冷えきっている。震えが止まらない。
それでも、立って進むのだ。
目の前の少女に、さとりは何ができる。
死んでしまいそうなほど、絶望に暮れたこのちっぽけな少女に、何をしてやれる。
足を引きずって、こいしの元に。
震える肩に触れる。冷たくなった手のひらで。
古明地さとりに何ができる。
嫌われ、傷つける事しかなかった第三の眼で、さとりは何を。
かつての自分と同じ、それでいて正反対の道を歩いてきたこいしに、何を。
簡単だ。今のさとりは、知っている。
「想起」
だからさとりは思い出す。
燐の温度と、空の温度を。言葉を。心を。
冷たくなった肌に、温度が灯る。家族のあたたかさを想起する。
手のひらでこいしの髪をすくい上げる。涙に濡れた頬を撫で、拭ってやる。バラの棘がちくちく脚に刺さるが、気にならない。ただこいしを抱きしめた。燐にしたように。空にしたように。燐にされたように。空にされたように。
「あったかいでしょう」
「ひっ、ぐ、うぁ……あああぁああ」
「嫌われ者でもね、こんな事だってできるんです」
「うん、うん……あったかいよ。あったかい」
「第三の眼が見えないのなら、私があなたの眼になります。あなたの心の眼になります。そうすれば、きっと通じ合える」
「私も、私でも、家族になれる?」
「私とお燐とおくうにできて、あなたにできない道理はないわ。それに私、偶然妹が欲しかったところなの」
「そっか。あはは。ありがとう。――さとりお姉ちゃん」
燐と空は色々話し合って、結局さとりを追いかける事で合意した。
燐が興奮した怨霊から滲み出る甘い香りを察知して、バラの園まで来たときには、霊はみんな茂みの影で蹲って、泣いたり嘆いたりしていた。大方、さとりの想起でも喰らったのだろう。燐は苦笑しながら台車を回す。
「ほらほら。いつまでもこんなところで彷徨ってるからさ。さあ、逝った逝った。猫車のお通りだよー。彼岸逝きの猫車だよー」
燐の呼びかけに応え、彼らはすう、と白い線になって舞いあがった。天井の大穴に昇っていく。そのぼんやりした光が、雪と共に、バラの中のさとりとこいしを薄明るく照らし出した。
「綺麗だね。お燐」
空は無邪気に言った。
「ほんとだねえ」
燐は無邪気に答えた。
ちいさい小屋が、また一人分、狭くなるみたいだ。
§ § §
「こいし。お燐。おくう。私はちょっと職業を探してきます。あと家も」
雪解けの季節。森を流れる川が水かさを増してきた頃。さとりはテーブルに三人を座らせて、そんな事を切り出した。
「ええ? なんでいきなり」
「いきなりって事はないでしょう。見て御覧なさい」
カァカァ。にゃあにゃあ。わんわん。
今やさとりの掘っ立て小屋は動物小屋の様相を呈していた。燐や空が、冬の間に寒そうに震えてたからと言って何匹も小動物を拾ってきたからだ。実はこいしも隠れて数匹連れこんでいたし、当のさとりもこっそりやっていたので、今では狭い家に大量の動物がひしめいていた。
「山菜摘みだけでは最早あなたたちを養っていけません。狭いし」
「当てはあるの?」
こいしは白猫を抱きながら言った。猫は尻尾を振って手のひらを舐めた。
「一つ、あります」
言い置いて、さとりは都に向かった。
「本当か! 地霊殿を貰いたいってのは」
久しぶりの酒場で、勇儀は大声を上げた。グラスの酒が少しこぼれる。
「ええ。地霊殿というんですか。その建物」
「そうだ。地霊殿。かっこいいだろ。私がつけた名前だ」
「かっこいいですね。まあ、とりあえず、引き受けたいと思います。灼熱地獄跡の管理」
「それは願ったり叶ったりだが……また急な話だな」
「何と言うか……その、家族がね。増えすぎまして……」
「なんだ、ペットでも飼うことにしたのかい」
「ええ、まあ」
「そうか。あっちに行ったら、寂しくなるな。給料も出るから行商にも来なくなるだろうし。お前のことだから、わざわざここには来たがらんだろうし」
勇儀は酒瓶を持って、さとりに差し出す。さとりは空になったグラスに受ける。
「こっちから、たまに遊びに行ってもいいかな」
「ええ、勿論。小屋よりはマシなおもてなしができそうです」
「ははは。そいつは楽しみにしておくよ。んじゃまあ、さとりの新しい生活に」
かちん、とグラスを打ち鳴して、
「――乾杯!」
「お姉ちゃん、準備まだー? 遅いよー」
「今できました。よいしょっと」
小屋からは最低限必要なものだけを鞄に詰め、持っていく事にした。燐や空は動物たちを詰めたり抱えたりして、数を点検している。
こいしは衣類を詰めた鞄を背負い、花壇の花を摘んで、水を弾いた。
「よし。じゃあ出発しますか。地霊殿に」
さとりは建てつけの悪いドアを閉めようと四苦八苦したが、止めた。
「開けっ放しでいいんですか」
「まあ、いいでしょう。無理に閉めるのも、なんだかつまらないじゃない? 誰かに住んでもらっても構わないし」
「じゃあね、お花さん。ラナンキュラスだっけ。いつかまた来るから。それまで枯れないでね」
「大丈夫でしょう。あなたがめちゃくちゃにしたバラも、すっかり元通りになってましたから。回復力が強いのね、地底の植物は」
「それはよかった。――じゃあね」
手を振って、小屋に別れを告げる。
森は至るところから水が滴って、みずみずしく輝いている。でこぼこして、歩きにくい獣道を、四人は進む。
歩幅も速度も違う、四人の姿がある。
不器用で、つまづいて泥まみれになる事もある。歩き疲れてしまう事もあるだろう。
家族になったばかりの四人だけれど、不器用なりに、歩幅を合わせて並んで歩いていける。隣を歩いてくれる人がいる事を、ちゃんと分かっているから。
幾重にもからみ合った枝には半透明の葉っぱが燃えるように広がり、ちいさくできた隙間から、雫のように光がこぼれ落ちてくる。さとりのたおやかな背に温度が灯る。
彼女は苔むした林床に生えたシダ植物をむしっていた。ひとつちぎり、脇に置いた編み目の粗い籠の中に投げこむ。またちぎり、投げこむ。手近に無くなると、場所を変えてまたむしる。これをもう一時間続けていた。
「ふわーあ……」
立ちあがり、背伸びをする。木漏れ日が顔にかかる。眩しさに目を細める。光はずっと上の天井の大穴から射しこんでいた。今日の地上は天気がいいらしかった。なまじここ一週間土砂降りが続いていたものだから、ぬかるんだ土や朝露の汗を浮かべる草木たちは、明るい日射しに生き生きして見える。
足元に見つけたワラビを引きちぎり、軽く払う。きらきらと水滴が舞い落ち、そこかしこにできた泥溜まりに波紋を打つ。
これでおしまい、とその一本を担いだ籠に入れ、さとりは歩みを進める。
泥に靴が汚れないように、なるべく柔らかい土壌を避けて歩く。水溜りから顔を覗かせる石を踏みしめながら。
気持ちのいい、春のゆるやかな風が吹く。さとりの薄紫の髪をそよそよと揺らす。悪くない心地だった。
今朝は早めに起きてしまったから、いつもの仕事も繰り上げになったのだった。山菜摘み。さとりの午前は、だいたいこれで埋まる。茸、ワラビ、菜の花。とにかく食べられそうなものを見つけて摘む。持ち帰って自分で食べたり、都に売りに出したりする。人間ほど身体が弱くないので、もし有毒種に当たっても死にはしない。食べなくとも死にはしないが、空腹は感じるから我慢せずに食べる。毒もたまには仕方がない。
樹木の密生しているところを通過する。枝が擦れ、葉に溜まった露がさとりの服を濡らした。
群生地帯を抜けると、空気が一気に濃くなる。花の濃密な匂い。
ぐるりを背の高い木々に囲まれ、開けた土地の真ん中にちいさな掘っ立て小屋がある。その周りに石で組み立てた花壇が敷かれ、色づいた花々が植わっている。健気に咲くそれらは、大穴からの日光を受けてきらびやかに輝いている。
さとりは小屋の建てつけの悪いドアを開け、帰宅を出迎えてくれる家の静けさに身を浸す。
籠をテーブルに置き、今日の成果を眺めてみる。背負っていたときはもっと多いと思ったが、実際はあまり良好な収穫結果とは言えないようだ。
文句を垂れても仕方ないので、適当に好みで半分ほどを選びとり、容器に移す。これはさとりの食べる分。今朝は茸汁にしよう、と考える。
もう半分は植物ごとに束にまとめ、紐でくくる。そして籠に詰めなおす。売りに出す分だ。これくらいの量なら完売できるだろう、と目処をつける。
(お腹減ったな)
ぼんやり思うが、午前中の方がはけがいいから、のんびり食べてからだと間に合わない。もう日は朝の冷気を退け、濡れた森をあたため始めている頃だ。
とりあえず準備だけして、帰ったらすぐありつけるようにしておこう、と考え、鍋に水を入れる。川から汲み溜めておいたものだ。それから、暖炉に薪をくべて火を焚く。ぱちぱちと舞う火の粉に、覆い被せるように鍋を乗せる。
水がぐつぐつ煮立つのを待って、容器の茸を掻き分けながら入れる。茸だけではつまらないので、買い置きしていた干し肉もちぎって煮る。
調味料をいくつか流しこみ、ゆらゆらと鍋底をけぶらせる熱気を見つめる。
(これでよし、と)
準備は終わり。後は出かけるだけだった。さっさと売りさばいてきて、ゆっくり朝食を食べよう。多分、昼食を兼ねる事になりそうだけれど。帯を肩に通し、籠を背負い、さとりは今日の予定を頭に思いえがく。
予定と言っても、昨日までと違った事をする訳ではない。しいて考えれば、久しぶりに天気のいい森を散歩でもしようかというくらいだ。午後にはきっと草の絨毯も乾ききっているだろう。寝そべって鳥たちの合唱でも聴きながら昼寝をするのも悪くない。
彼女はうまく閉まらないドアをどうにか押しこみ、影と光にまだら模様を作る、獣道に分け入った。
がさがさ、と水の匂いが立ちこめる草木を掻き分けながら、少女が森を歩いていた。赤い髪を三つ編みにして、付け根を黒いリボンで結わえている。リボンのすぐ上には、ひょこひょこと動く獣耳が生えていた。
木製の台車を曳いている。白い布が被せられていた。何か見せてはいけないものが、その下にあるかのように。死人の顔に被せる打ち覆いのような沈黙を湛えていた。
樹木と樹木の間にからまり合うツタから、ぽつりぽつりと水の珠がこぼれていた。首筋に触れ、冷たい。雨上がりのようだ。この森は地底と地上を繋ぐ大穴の真下に広がっているから、地上の天気がそのまま落ちてくるのだ。現に少女が昨夜まで過ごしていた荒地では、干からびた風がたまに吹くくらいだった。
混雑した木々を外れる。あたたかい空気が満ちていた。川の流れが耳に清々しい。
少女は水音の聴こえる方へ台車を進める。彼女の探し物が、そこにあるかも知れないと思ったからだ。それを見つけるためにわざわざこんな深い森にやって来たのだ。初めて訪れる森だった。
目の前に横たわる川は思ったよりちいさかった。向こう岸へ飛び越えられそうなくらいの、ほんの小川。目的のものも落ちていない。
少々の落胆に溜息を洩らす。黒いゴスロリ調の洋服が濡れるのも気にせず、小川の横にどっかと腰を下ろし、寝そべった。投げ出した足先が冷たい水に触れる。
細く白い指を、更に白い台車の布に這わせ、捲る。中からごそごそと取り出したのは、小動物の死骸。
何の動物か分からなかった。毛むくじゃらで、爪でえぐられたような傷がある。多分、より大きな動物に襲われたのだろう。そしてその動物は、殺しただけで喰う事をしなかった。だから今、少女の手には完璧な形の、崩れのない死骸が乗せられている。
これと同じものを、探しているのだ。
少女は死骸を探していた。死んだものをこの森に見つけるつもりで来たのだった。
「はあーっ、もう疲れたなあ」
方々を探し回って、結局見つかったのはこの一匹だけだった。口を寄せ、くすぐったい毛が頬に触れるのも気にせず、ひとかけら齧りとる。ぶちぶち、と小気味いい音をたてて、あまやかな肉が舌を滑り落ちていく。
もう一口、と唇を押しつけたところで、止した。このまま何の死骸も見つからなかったら、今日の蛋白源はこれだけになる。まだ動くつもりだから、ここで貴重な食料を喰い尽くしてはおもしろくない。
噛み砕いて骨と肉の繊維が露わになった部分から、すう、と白いものが飛び出した。
霊魂。この名も知らぬ獣の魂だ。
燃えさかるような赤い髪、尖った猫耳、二股の尻尾。打ち覆いの猫車。少女は妖怪火車である。火車は死の匂いを嗅ぎとる。死骸から湧き出た霊魂の意思を読みとる事もできる。
白く丸い霊魂は、ふわふわと彼女の周囲を飛び回る。思考能力があまりないのか、伝わってくる意思は曖昧な風景のイメージでしかなかった。油彩画のように、輪郭のはっきりしない断片的な映像。……
……菜の花を啄ばんでいる。獣の視界なのだろう、目線より高く花が咲きほこっている。柔らかい光に包まれ、その視線の先には小屋が見えた。やがて茂みに入った。よたよたとした足取りで抜けたところに、突然、大きな猛禽の嘴が現れた。視界を真っ二つに引き裂き、霊の思念もそこでついえた。
「ふうん、災難だったねえ。せめて魂の器は食べておいてあげるよ。その方がいいじゃないか。肉の鎖を解くんだ、もう何にも縛られずに彼岸まで行けるさ。もうじきね……」
そう語りかける間にも、白い魂は半透明になり、ぼやけ、その内掻き消えてしまった。残された器は、まだ少女の手のひらにある。
死骸を猫車に戻す。彼女は霊魂の記憶をもう一度思い浮かべた。
家があった。色とりどりの花に囲まれた、粗末な掘っ立て小屋だった。しかし、少女が死骸を見つけた付近には、そんな建物は見当たらなかった。もしかしたら、死骸は猛禽に運ばれてきて、途中、振り落とされたりしたのかも知れない。
とにかく、住んでいる者がいるらしい。鬱蒼と茂る森の深くに。
すん。
ふと、鼻が無意識に動いた。すんすん。火車は猫の妖怪だから、嗅覚は鋭い。匂いを感じる、――肉の匂いだ。何か混じりけのある香りだが、それでも強い肉の香ばしさが鼻を刺激する。
立ちあがり、猫車に手をかける。匂いの強さからして、あまり遠くはないようだ。しなやかな足をひねり、勢いをつけて車輪を走らせる。
「ここは」
ツタやツルが生え散らかった密生地帯を、猫車を引きずってどうにか抜けた先に、それはあった。視界が今までの倍は明るくなった。地上の日光が直接射しているからだ。光は、植えられた花びらの一枚一枚に編みこまれているようだった。それほど、花壇は綺麗に輝いている。
小屋。くすんだ木造の、ちいさな建物が花に取り囲まれていた。今さっき、死骸の意識に浮かんでいた光景だった。
肉の匂いはここから出ているようだ。茸の香りも感ぜられた。汁物でも作っていたのだろう。
ぐぐう、と鳴り出す腹部を見つめる。そっと猫車を止め、忍び足。抜き足、差し足、――キャッツウォーク。
背を縮め、前かがみになる。視野が下がる。足元にあった雑草と同じ目線。少女は黒猫になった。二つの尻尾を打ちつけて走り出す。
小屋は近くで見ると、思ったよりも粗雑な造りをしていた。通れそうな板と板の隙間から、中を覗きこむ。気配はしない。そっと、艶やかな黒毛をなぶらせて、猫は静かな屋内に足を踏み入れた。
「……それでな、ん、おい、さとり。聞いてるか?」
視界が狭まっている。鼓動がはやい。さとりは、向かいに腰掛けてさっきからべらべらまくし立てている鬼を見上げた。
額に生えた一本角が、高々とさとりの頭上を指し示す。彼女のグラスの横には空になった酒瓶が積まれている。もう何本開けているのか知れたものではない。
「ふぇ?」
「なんだ、それしきの量で酔っ払ったのか」
「いえ、まだ平気ですから……」
手を振ろうとして、眩暈がした。どうにも駄目だ。さとりは酒が得意ではない。ここの住民たちと相対的に見るならば、むしろ苦手だと言えるくらいだ。
「うう」
「弱いのを知ってて飲ませた私が悪いか。ごめんごめん」
星熊勇儀。目の前の、毒のない笑いを作っている金髪の女性の名だ。この鬼につかまったのは、さとりとしても予定外の事だった。
山菜の売れゆきは好調だった。すぐにはけ、収穫量の少なかった事を残念に思うほどだった。空になった籠を背負い帰途につこうとした矢先、勇儀にばったり出くわしたのだ。
たまには一緒にどうだ、と言われ、彼女と相席するのは(もっとも、勇儀以外に飲む相手などいないも同然なのだが)一ヶ月ぶりくらいだったので、まあそれなら、とさとりも誘いに乗った訳である。
「それより、さっきの話……地獄がどうとかって」
「だから、あれだよ。街を外れてずっと行ったところに、この前まで灼熱地獄があっただろう。彼岸の奴らがこの都ごと捨てたやつだ」
「ええ、知ってます。あそこは廃獄になってしまいましたね」
「あれの入口の大穴から、大量の怨霊が湧き出してるって騒ぎになってるんだ。知ってたか?」
「知りません。だれか管理する人はいないのですか。是非曲直庁あたりでも」
灼熱地獄を含むこの地底は、つい最近まで彼岸の管轄下にあった。裁かれた魂が彼岸から送られ、火あぶりの刑を与え続けてきた灼熱地獄は、地獄スリム化計画に伴い廃棄された。是非曲直庁は地底から手を引いたのだった。
丁度それに前後して、地上で活発になっていた鬼狩りを疎い、妖怪の山の鬼たちの殆どが地底に移り住むようになった。勇儀もまた、その内の一人である。人間の利害に侵食された者たちの。
鬼と、それに便乗してやって来た地上の嫌われ者が都に流れこんできた為、最近は大通りがひどく賑やかになった。新しい建物がどんどん造られ、店が立ち並び、商店街ができ、出入りが激しくなっている。
実際二人が飲んでいる居酒屋も広く、大きな丸テーブルがいくつもあった。様々な妖怪が好き勝手に騒ぎたてている。鬼が多い事には多いけれども。
彼らの来るより随分前に地上を追放されたさとりには、こういう喧しさは目新しく、あまり嫌なものでもない。――自分が覚である事を知られず眺めていられる内は、だが。
「連中の懐も火の車だ、だから地獄も切り捨てて、出費を減らそうとしたんだろうな。当然、その後から人材を派遣してくれる訳もないよな」
「……じゃあ、どうするんです? 地底に霊が彷徨うだけなら向こうも構いやしないと思いますが、きっと天井を突き抜けて地上の人々も襲うようになるでしょうに」
「ああ。で、それを恐れた賢者様が、私らに交渉を持ちかけた」
「どんな?」
「今後、地底に上から誰もちょっかいを出しに来る奴を入れさせないようにしてやるから、こっちで怨霊を鎮めてくれ、ってさ」
「鎮めろと言っても、どうするんですか」
「彼岸の連中が、何か封霊用の建物を造って地獄に蓋をするんだそうだ。んじゃあその建物の管理者を誰にするか、って問題が、今度は浮上してきたんだけど」
疲れたように息を吐いて、勇儀は顔を天井に向けた。あれだけ飲んで、まったく酔っ払った様子は見られない。むしろ冴えてきているようでもある。
「大変ですね、そっちは色々と」
さとりは他人事のようにそっけなく答えた。事実、関係のない話だった。勇儀たちがやって来る前から、都に離れた森の奥に家を構えて、一人暮らしをしている彼女には。
「大変ねえ。確かに大変だ。私はでも楽しいよ。ここはいずれおもしろい街になる。してみせる。私たちで。地獄の陰気が残らない、みんなが明るく暮らせる街にしたいよなあ」
勇儀は鬼の中でも抜きん出て腕っ節が強い。それに気性の荒い者が多い彼らの中では、温厚で誠実な性格をしていた。そういう理由から、彼女の仲間内での信頼は厚い。喧嘩好きは同じなのだけれど。
彼女が代表して地上の賢妖八雲紫と交渉を行った。地上からの干渉拒絶、これは地底住民の総意だった。皆、長く続く迫害と衝突に疲弊しきっていた。安住の地を求めていたのだ。
それらのごたごたにまるで関心を払わずに地底に暮らしているのは、さとりくらいのものだろう。彼女は妖怪が増えた後も、その前と何ら変わらず一人、しんと静寂に包まれた森に日々を送っていた。
勇儀と親しくなるより以前は、都では山菜を売り買い物を手早く済まして帰るだけだった。誰とも関わりを持つつもりはなかった。持ってはいけない事を、これまでの人生でよくよく心に刻みこまれていたのだから。
「なあ、さとり……住む家はこっちで用意してやる。都に来たらどうだ」
鬼はさとりを見つめる。いつも強く芯の通った光を湛える彼女にしては、その視線はぐらついているようだった。惑いがちに、さとりの乏しい表情を追う。
「何度も言ってる事じゃありませんか。私には無理なんですよ」
「ここでお前を嫌う奴なんて……」
「いますよ。皆、私を嫌います。仕方がないんです」
「でも、私は嫌ってなんか」
語気を強くして、勇儀は言った。さとりは首を振り、グラスに残ったわずかの液体を舐める。
「あなたくらいのものですよ。私と気兼ねなくお話してくれるのは」
さとりは悲しそうでも辛そうでもなく、どこまでもいつも通りのぼんやりした顔で答える。薄紫の縮れた髪が、酒気を帯びた店内の空気に揺れていた。
その様子を、勇儀は唇を噛んで見守る。さとりよりずっと、辛そうな、痛みでもあるかのような表情だった。
「そろそろ帰りますね。今日はありがとう」
ふわりと立ちあがり、懐から小銭を取り出す。勇儀は私が払うよと止めたけれども、さとりは聞かなかった。
少女のほっそりした背中を見送りながら、何を言ってやればよかった、と自問する。
(あいつは寂しい筈なのに)
その悲しみを、さとりは言葉にしないし、動作にも表さない。だから、勇儀は無理に言い募る事もできずにいた。
さとりの孤独の原因が、彼女の手でどうにかできるたぐいのものではない事を、知っている。知っているから、余計見ていて辛いのだ。どうにもできない自分の弱さが、憎いのだ。力ばかり強くて、少女一人の助けにさえなってやれない自分が。
(私に何ができる)
さとりの出て行った扉を、いつまでも眺めていた。生きている限り、どうあっても嫌われなくてはならないちっぽけな少女を思う。その気持ちを想像しようとする。
そして、深く恨むのだった。それができないくらいには恵まれている、自身の境遇を。
軽くなった籠を背負い、さとりはゆたかな水流に沿って森を歩いていた。
小鳥がつつましく鳴いている。草木はすっかり乾いて、緑色を濃く茂らせている。朝に違わず、天気は陽気なままだった。
日差しに固まってきた土を鳴らしながら、勇儀の言葉を思い返す。
今まで幾度となく誘われてきた事だった。その度に首を振ってきた事だった。
都に住む。さとりにしても、それを全く考えた事がなかった訳ではない。それが許されないのを知っていてもなお、感情が抑えがたいときがあった。しかし、それももう、昔の話。
寂しさなど、長い一人暮らしの中に色褪せ、擦り切れ、磨滅してしまった膨大な感情の内の一つに過ぎない。
負の感情で己を包み、盾にしながら生きてきた。そうする事で、孤独という大苦痛から自分を守れると信じていた。それらは慣らされ、風化し、少しずつ彼女から損なわれていった。
一人で水を浴び、一人で食事を取り、一人で火にあたたまり、一人で毛布に包まる。
たった一人の道だった。延々と伸びる、細長く暗い道。隣には誰もいない。深い霧に覆われて、先を見通す事もままならない。時々つまづく事もあったけれど、自分で立ちあがって歩くしかなかった。
覚は嫌われていた。利害を重視する人々にとって、これほど害悪な妖怪は他にない。さとり自身が読んだ心を他人に語るつもりなどないにしても、読まれた方はどうやっても警戒しなくてはいけなくなる。向こうは心を読めないのだから。さとりが他人の心をひけらかしたりなんかしない、という意思を示そうとしても、それを信じる事のできる者は遂に現れなかった。
だから地上を追放された。そして今日まで地の底で暮らしてきた。さとりの他にも、数は少なかったが地底に降りた覚はいた。しかし、さとりは彼らとも交われなかった。交わりようがなかった。交わり方を知らなかったのだから。
がさ、と茂みの先から音がした。リスか何かだろうと思ったが、でもそれにしては重く大きい感じ。少し気にかかったので向かってみる。
虫に喰われた葉の合間から覗きこむと、開けた道があった。左右を樹に守られた、日の当たる道だった。
そこに射した黒い影を見つけて、さとりは目を疑った。幻覚かとさえ思った。
少女が立っていたのだ。
黒い帽子、白い髪、小柄な背丈、――そして、
「……第三の眼?」
少女の横顔が見えた。白くきめ細やかな肌の下、襟になかば包まれるように、それが見えた。青い管を通した、目玉が。覚妖怪の証たる、大きな眼が。
それが今は、瞼を閉じている。眠るように、永久に覚めない眠りに落ちこんだように、深く瞳は隠されていた。
少女はふわふわと、まるで浮きあがるように軽い足取りで、道を歩き始めた。泡か何かのように、それはそれは軽やかに。
そのとき、歩調と同じくふわりと、黒帽子がずり落ちた。野花の生えた土に音もなく落ちた。少女は全く気がつかない様子で、そのまま進む。
「ちょ、ちょっと待って!」
言葉は無意識に放たれた。さとりは今まで、なかば呆然として、少女の日光に当たって白っぽく光る胸の眼を見つめていた。口から出た声が、自分のものか疑わしかった。
「え」
さとりが自分の声に驚くより、少女はもっと驚いたようだった。振り返り、茂みから出てきたさとりを、目を見開いて眺めた。
「帽子、落ちましたよ」
「あ、あ」
拾い上げ、砂を払う。少女に差し出す。少女はさとりの顔を見ていた。ひどく狼狽した様子で、差し出された帽子をどうにか受け取った。それから、
「あ、ありがとう」
ちいさく弱い声で言って、頭を下げた。さとりはその動作があまりに素直で混じり気なく思われ、緊張が削がれていくのを感じた。
一陣の風が駆け抜けていく。強い勢いで。
思わず手をかざす。舞いあがる葉と砂埃から目を守ろうと。
風が地面を掃いていった後には、少女の姿は消えていた。帽子も、白髪も、眼も、全てが初めからなかったように。
「あれ……?」
付近の樹々の間を覗いてみたが、遂にどこにもその姿は認められなかった。あるいは、本当に幻覚だったのかも知れない。さとりは不思議に思いつつ、我が家へ急いだ。
気が抜けた途端、腹の虫が喧しくなったのを苦笑しながら。
花壇の横に見た事のない台車がとめられていた。白い布が敷かれている。そこから異臭がした。死臭のようだ。捲ろうかと思案して、気味が悪いので止めた。
胸騒ぎがした。急いで小屋のぼろ戸を開ける。果たしてやはり何かがいた。深緑色のゴスロリ調の服を着て床にうつぶせになっている、それは人型らしかった。
そろりと近づき、真上から覗きこむ。赤い髪の少女だった。ごく普通の三つ編みに纏められた髪の上に、しかしおかしなものが生えている。
猫の耳。獣耳。
一歩退いて観察すると、尻尾も生えていた。それも二本。今はだらんとだらしなく垂れている。
(死んでるのかしら)
顔を近づけてみると、呼吸はしている。すうすうと、安らかな寝息のようだった。それでいて、苦しそうな呻きともとれた。
「ん?」
顔を上げると暖炉が映った。そこで初めて気づいたのだが、その上にかけておいた鍋が倒されている。中身がぶちまけられ、木の床に染みこんでしまっていた。火も掻き消えていた。
さとりはそれで、事の成りゆきを大体推測できた。大方、茸汁の茸が有毒だったのだろう、それを知らず忍びこみ喰らったどこぞの妖怪が、こうして気を失っているのだろう。
成程そう考えれば、身代わりになってくれたあたり、可哀想にも思えてきたので、抱き起こしてベッドに運んで寝かせてやった。寝心地のいいとは言えない、固く粗末なものだったけれども。
この得体の知れない少女のおかげで、毒入りの食事は取らずに済んだ。代わりに、食べるものもなくなってしまった。さてどうしよう、と思案していたが、また何か採りに行くのも億劫だから、ありものの干し肉で我慢する事にした。
炙った肉を齧っている内に、午後のあたたかい日和が小屋の中まで浸透してくる。気持ちがいい。午前の酔いは、気が付けば完全になくなって、身体が軽いような気さえした。
そういえば今朝、花壇に水を遣るのを忘れていたな、と今更思い至る。つい昨日まで酷い雨だったから、その習慣を忘れてしまっていた。慌てて桶に水を汲みだし、杓子を持って外に出る。上から降ってくる光は花々に反射して眩しい。丁寧に土を湿らせる。
「綺麗なお花だね、おねえさん」
飛び上がってしまった。あんまり近くから声が聞こえたからだ。振り向くと、ついさっき寝かせた少女がすぐ後ろに立っていた。両手を後ろに回して、にこにこしている。赤い髪が風に揺れる。
「……あなたはどうして私の家に来たの?」
さとりはすぐに落ち着いて言った。猫耳少女に背を向け、花に目を戻す。
「あんまりいい匂いがしたもんだから。でも毒入りとは酷いね。食虫植物みたいな事をするんだね」
「私もあの茸が有毒だったなんて知らなかったんですよ。あなた、この森に住んでるの? 見た事ない顔だけど」
「違うよ。あたいは今日来たんだ。元はずぅっと遠くの荒野に住んでるんだよ」
「じゃあ、何をしに?」
「死体探し」
物騒に聞こえるかも知れないが、地底の血気盛んな妖怪にはよくある事だ。さとりも大して気にせず、
「いいのが見つかりましたか?」
「ううん。だから耐えられなくてこの匂いにつられちゃったの。おねえさん、怒ってる? ごめんよ。何も盗んじゃいないし、許しておくれ」
拝むように少女は言った。さとりは元より怒りなどは湧かなかった。盗られて困るものも、幸か不幸か持ち合わせていない。
「いいですよ、別に」
その言葉が終わらない内に、少女の目と爪がきらりと光った。さとりはまだ、花壇を向いている。
花の揺らめきを見つめながら、さとりはふと、自分が後ろの少女に対して、今の今まで能力を使っていなかった事を思った。
泥棒に入っているのだから、心を読まれるくらいは許してくれるだろう。
「そっか、――それはどうでもいいんだけど、あたい、お腹減ったんだ」
そんな自分の気まぐれに、さとりは助けられた。
「だからさ、死体にして、食べちゃってもいいかい?」
「っ!」
咄嗟に首を伏せた。頭頂部の髪がぱらぱらと舞う。さとりの首を掻き切ろうと、光が踊る。鋭い爪の反射。振り向く事もできず、相手の姿も捉えられぬまま、さとりは凄い力で地面に組み伏せられた。
首に細い指が這う。
鋭い爪が喰いこむ。うつぶせにされ、のしかかられている。手も足も動かせない。息が苦しくなる。
「大丈夫だよ。きっとすぐ食べてあげる。骨も気が向いたら埋めたげる。怨霊になる前にさ」
「あぇっ」
ぎりぎり、と強く首筋を締めつけられる。すぐに意識が遠のいた。
押さえつけられた腕でもがく。手のひらが砂利をさらうだけだった。喉が嫌な音を立てる。
「ごほっ、ひゅぅっ」
「きっといい死体になるよ。おねえさん、いい人みたいだから」
「けほ、はっ、――想起」
瞬間、少女がきしゃあ、と獣じみた鳴き声を上げて飛びのいた。さとりは咳をしながら起き上がり、少女と対峙する。
「いや、いやっ、何これ、止めて……嫌いや嫌ああああぁぁぁあああああっ」
恐ろしいものでも見たように、顔を手のひらで覆い隠して泣き叫ぶ。その場に蹲って、大粒の涙を零しながら、しゃくり上げた。
「うあああああああぁああああああぁぁぁあああああああああああああああああああああああぁあああぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああ」
それをさとりはしばらく眺めていた。少女は狂ったように泣く事をやめない。森中の樹を、葉を、草を、花を、水を、陽気な静けさにたゆたうそれらの悉くを、ばらばらに引き裂かんばかりの感情の奔流。
さとりはふっと瞼を閉じた。叫びが段々かすれ、おさまる。赤髪を乱した少女は、荒い息を吐きながら、ようやくさとりを見上げた。目は泣き腫らして真っ赤になっている。
その悲痛に溢れた顔を見つめ、さとりは搾り出すように一言、
「ごめんなさい」
少女に背を向けた。桶と杓子を持ち、小屋に入った。しばらくして、少女の足音が聞こえた。だんだん遠ざかる。台車の車輪が回る音も、いずれ消えてしまった。静寂が戻った。
ベッドに横になる。さっきまでの心持よかった気分は、すっかり萎んでしまっていた。
猫耳少女の叫び声と悲しみに歪んだ顔が繰り返し再生された。固い枕に、顔を埋める。少女が寝ていたからだろうか、微かにあたたかい。
眠る事もできず、日が暮れるまでずっとそうしていた。胸に響く痛みは、さとりを責めたて続けた。
やがて夕日が、板戸の隙間から射しこんだ。赤い線が幾筋もベッドに投げかけられる。小鳥たちのさえずりも、もう聴こえない。どこか遠くで地獄鴉が鳴いていた。
赤い光が箪笥やベッドの下に隠れてしまうまで、さとりは起きあがる気力を持てなかった。
夜の寒気が、床から壁板から屋根から染みこんでくる。火を焚こう、とようやく腰を上げ、重たい身体を無理矢理動かし、薪をくべる。
ぱちぱちと跳ねる火の灯りが、さとりの胸の眼にまたたく。火は液体のように見えた。涙のようにも見えた。第三の眼が、涙を流す事などありえないのに。
組み上げられた薪の上に鍋を再び乗せて、水を煮立たせる。夕食の準備にとりかかる事にした。
スープを樫のお椀に盛る。湯気が立つ。ちいさくなった薪の火が、吹きこんでくる夜風をけぶらせている。小屋の中の温度と湿度はそれなりに上がっていた。
テーブルにお椀を置く。茶碗を棚から取り出し、お茶を淹れた。灯りは暖炉と、テーブルの上のランプだけだった。
いつもと変わらない夕食時。いただきます、と手を合わせる。
さとりはスプーンでとろりとした感触のスープを掬いとり、口へ運ぼうとして、
「……」
お椀を置きなおし、立ちあがって戸を開けた。森は黒い。酷く冷たい風が吹き荒れている。遠い天井の穴は真っ暗で、何も見えない。花壇も木々も、静まりかえっていた。
小屋の壁にもたれかかって、猫耳少女が膝に頭を埋めて座っていた。
傍らに台車をとめている。白布がぱたぱたとはためいていた。
急に漏れ出した灯りに、少女ははっと顔を上げた。さとりを見つめる。申し訳なさそうな、沈んだ表情で。
「おねえさん。あたい……」
「寒いでしょうに。いらっしゃい」
手招きする。少女は顔を輝かせたが、それから少しためらい、結局頭を下げて入った。
椅子に座るよう促す。大人しく、尻尾を丸めて腰を下ろした。さとりは新しいお椀にスープを汲んで、少女の前にことりと置く。
少女は驚いた様子で、
「え、いや、あたいはそんな」
「お腹、空いてたんでしょう? 無理しなくていいですよ。分かってますから」
何か言いたそうにしていたが、空腹に耐えられなかったと見えて、一礼して食べ始めた。
向かいに座ったさとりも、同じく食事を始める事にした。
暖炉の火とランプが、あかあかと二人を映し、影を躍らせていた。外でびゅうと強い風が鳴ったが、小屋の中はもう十分、心地いいあたたかさを備えていた。
「あなたは火車なのね」
さとりはスプーンを運びながら言った。少女は既に三杯平らげ、満腹の様子だった。
「そうだよ。おねえさんは」
「覚」
「やっぱり。そうだと思った。見るのは初めてだけど」
「あの、さっきは、ごめんなさい」
「なんでおねえさんが謝るのさ。殺そうとしたのはあたいなのに。でもね、もうそんな事しないよ。うん、しない。約束する」
「ええ、今のあなたはお腹が一杯ですものね」
「違う違う。もう二度と食べようなんて思わないよ」
果たして少女の言葉は本当らしかった。読心しても、さとりに対する殺意、あるいは食欲などは感ぜられなかった。
「わざわざ私に謝るために、ここまで戻ってきたのですか」
「うん、そうだよ。ごめんね。許してくれる? あっ、そうだ。これ」
少女はポケットから茸の束を取り出した。
「朝のお詫びのしるし」
「もしかして毒入り?」
勿論、心が読めるさとりには、それが毒がないと知った上で少女が採ってきたものである事は分かっていた。
ちょっとした冗談のつもりが、
「違うよ! あたい、おねえさんに悪い事したなって、思ってさ、それで……」
懸命に否定する少女の姿が、さとりにはとても微笑ましく映った。
彼女に悪意はなかったようだった。ただ、獣妖怪としての、妖怪火車としての、耐えがたい本能に抗えなかったのだ。見かけによらず、結構素直な子なのかも知れない。
「知ってます。全部分かってますから。私だって、嫌なものをあなたに思い出させてしまった」
さっきは、少女の心の傷を押し広げて精神を乱したのだ。それがどんな傷なのかは分からないけれども。
トラウマの想起。さとりの能力。一番端的に、覚が嫌われるゆえんを形作る能力。妖怪として必ずしも肉体的に強いとは言えない覚の唯一の防衛手段。さとり自身、極力これを使う事は避けていた。
「いいんだよ。ご飯食べさしてもらったし。あたい、結局何にも見つけらんなくて、お腹ぺこぺこだったんだ」
確かにそうだろう。外であんなに切実に空腹を訴えられれば(心の中で、だが)、それは可哀想にもなる。
「ところで、おねえさんの名前は。教えておくれよ」
「名前を聞かれるなんて、随分久しぶりね。私は古明地さとりといいます」
「覚なのにさとりなの? ふうん、変わってるんだね」
そう言われると、何とも答えようがない。
「あたいは火焔猫燐。長い名前は好きじゃないから、お燐って呼んでね」
それから二人は、夜が更けるまで話をした。どうでもいいような、意味のないような事ばかりだったけれども、さとりは今日が何だか久々に充実した一日だったと感じた。高鳴るようなわくわくした心が芽生えてくるのを感じた。
燐は火車だからか、死体を語らせるとひどく饒舌だった。と言うより、死体の話しかしていなかった気もする。
薪がいつの間にか炭の小山になっていた。火は今にも消えそうに、不安定にゆらゆらしている。
新しい薪をくべる。さとりはふと、尋ねてみた。
「あなた、どこかに家はあるの?」
「ん、ないよ。毎日死体を捜してぶらぶらしてるだけ。あいにくと飼い猫じゃないんだ」
「……もしかして、猫に変身できたりする?」
「なれるよ。ほらっ」
ぽん、と音をたてて、燐は黒猫になった。尻尾は相変わらず二本ついている。
「あ、戻らないで。膝に乗ってくれる?」
さとりの要求に応え、猫はさとりのやわらかなスカートの上に丸くなった。
さとりはふわふわした毛を、そっと慎重な手つきで撫でた。半分怖がるように。拒絶されるのを恐れるように。
しかし、猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。ゆっくり、その温度を逃がしてしまわないように、さとりは指を這わした。
「お燐には家族、いますか」
さとりは言った。言ってから、自分の言葉に驚いた。その問いかけの奥にある光を見、自分がそれを望んだ事に驚いた。
猫は首を振った。
次に出るべき言葉を、さとりはどうにか喰いとめようとした。自制しようとした。唇を引き結ぼうとした。けれど、雫が伝うように、あまりに自然に声は舌先から泳ぎ出た。
「よかったら、――もしよかったら、ここにいて、私と一緒に暮らしませんか」
さとりは動物が好きだった。
猫、犬、鳥、擦り寄ってくる動物は皆可愛がった。彼女は昔、ペットを飼おうと思った事があった。ちいさな動物たちと一緒に暮らそうと思った事があった。
しかし、遂にその手は伸ばされなかった。柔らかな毛並みを撫ではしても、寄り添う彼らをあやしはしても、抱き寄せてやる事はできなかった。
触れる度に、強く強く、感じてしまう事があったからだ。
さとりの手のひらは、彼らを抱いて胸の中で寝かせてやれるほど、あたたかく優しくできてはいなかった。氷のように体温を知らない冷たいこの手で、一体何を愛せよう。愛される事を知らないこの手に、一体誰を愛する資格があるだろう。
さとりは両親を持たなかった。彼女を生んですぐ死んだのかも知れないし、まだどこかで生きているのかも知れない。それは分かりようのない事だったから、彼女もその内考えなくなった。物心ついたときにはもう一人だった。幸か不幸か、妖怪である少女は寒さの為にも飢えの為にも死ねなかった。だから分別がつくようになるまで成長し、その頃には少女の肌と心はもう、全ての温もりを忘れていた。誰からも好かれる事がなかったけれど、その分誰からも嫌われた。歩み寄りたがった幼い足は、踵を返して誰もいない小路に入った。大通りの喧騒の中に、自分の居場所はどこにもないのだと悟ったから。長い長い、どこまでも続く人生の小路だった。暗いし、とても寒かった。それでも少女は歩いた。永い間、黙々と歩いた。遥かかなたに伸びてゆく道の中途で、手の、言葉の、心の、本来の使い方を忘れた。もしかしたら初めから知らなかったのかも知れない。どちらにせよ、気が付いたときにはもう、少女は、誰かと関わるという点で、これ以上ないほど不器用になっていた。他人との接し方が分からなくなっていた。
彼女は後悔した。どうしてこんな馬鹿げた事を口走ってしまったのだろう。誰が覚などと好んで住みたがる。さとりの一番弱いところを締めつける心の声が、耳鳴りを起こして反響する。
黒猫は毛を揺らして、さとりの目をしっかと見据えた。動物の表情はよく分からない。心を読みたかったが、怖くてできない。さとりの手は震えていた。汗が肌に滲む。口の中がからからに乾いている。
燐はさとりの膝を降り、また軽い音をたてて人型に戻った。それから、恐怖とも戸惑いともつかない色を目に浮かべるさとりに、
「いいの?」
ぽつりと尋ねた。上目遣いで、恐る恐るといった感じだった。
「ここに住んでも、いいの?」
「あ、あなたが、よければ、いてほしい」
「ほんと?」
「……ねえ、私は覚ですよ。心を読む妖怪ですよ。あなたは嫌じゃないんですか。心を無遠慮に暴かれるんですよ、考えてる事を、嫌でも知られてしまうんですよ、こんな私と――」
「でも!」
燐は三つ編みを振りながら、
「でも、あたいに能力を使った後のあなたの顔、とっても悲しそうで、とっても辛そうだったじゃないか!」
「わ、私は」
「それにすっごく、優しそうだったよ。あんな顔を向けてもらったの、あたいは初めてだった」
「お燐」
知らず声が洩れる。
呼びかけに応えるように、歩くように自然な動作で、燐は猫の姿になった。さとりの膝に飛び乗る。
ごろごろと喉を鳴らして、さとりを見上げてくる。
心を読め、と言っている気がした。実際言われた訳ではないけれど、さとりはその通りにした。
(あたいは、あなたの隣にいたいです)
淡い、毛布の温もりのような心の声がさとりを包む。
返事の代わりに、たださとりは優しく燐を抱いた。氷の手は、溶けてしまったようだ。あまりにあっけなく。手のひらは燐の体温を抵抗なく受け入れた。彼女のそれは黒猫の毛先を滑る。自分が今、燐に抱いている愛情が、実像である事を確かめるように。そのかたちと感触を噛みしめるように。ずっと、そうしていた。猫が寝息を立て始めた、その後も、ずっと。
森の地獄鴉たちも眠ったらしい。かすかにふくろうのララバイが聴こえる。さとりもうとうとし始め、いつの間にか寝入ってしまった。暖炉の灰には、いつまでもほんのりと、赤みが灯っていた。
ちいさい小屋が、更に一人分だけ狭くなった。
翌朝目を覚ましたさとりは、眼前の光景に唖然としていた。
湯気が立っている。
いい香りが、薄煙に乗ってさとりのベッドまで運ばれてきた。テーブルには既に、朝食が用意されてあったのだ。二人分の。
「さとり様ー! おはようございます。いい天気ですねっ」
上体を起こしたさとりを認め、燐が満面の笑みを浮かべながら寄ってきて声をかけた。右手のお玉杓子を振る。
「……おはよう。お燐、あなたもしかして」
「朝ご飯、作ってみたんですけど、よかったら」
ためらいがちに燐は言う。さとりは食卓から流れ出す匂いに感動してしまって、しばし言葉を失った。実際嬉しかったのだ。まさか誰かに手料理を食べさせてもらう日が、これからのさとりの人生に現れようとは、昨晩まで一度たりとも考えた事がなかったのだから。
「嬉しいわ。ありがとう」
「いえいえ。お供させてもらう身ですからね、これくらいは」
「ところで、どうして私に敬語を使ってるの」
「あれ、イヤですか?」
すぐに不安げな顔になる。喜怒哀楽が分かりやすい子だ、とさとりは思った。心を読むまでもなく、考えが読みとれる。
「あなたの呼びやすいようにしてくれていいけれど」
また、表情を崩してにっこりする。指を胸の前で組んで、
「じゃあ、やっぱりさとり様がいい」
「私のペットにでもなるつもりですか」
「まあ、そんな感じです。さとり様はあたいのご主人様ですから」
冗談で言っている感じではなかった。真剣な目つきをしている。しっかりと自分を捉える瞳に、さとりは妙な気分を味わった。射抜くのではない、むしろ引き寄せられるような視線。勇儀がよくやる目だ、とさとりは思った。それは不快ではなく、深いところに安心とか心地よさがあるものだった。
「あなたの膝の上に、あたいの居場所を分けて下さい」
燐は頭を下げて言った。その動きに合わせて三つ編みが跳ねる。さとりは何か答えようとした。けれど、言葉が舌先で固まってくれない。物凄い勢いでさとりの頭を流れていく、膨大で果てしない思いに息が詰まりそうになる。燐の言葉はあまりに大きくて、重かった。声が出せない、胸が痛い。本当に痛いのかは分からない。焦がれるように熱い事だけは分かる。とても熱いから、痛みと勘違いしてしまったのかも知れない。誰かを想い、想われるというのは、こういうものなのだろうか。今のさとりにはまだ、分からなかった。
二人で食卓につく。朝食は茸汁だった。さとりが昨日食べ損ねたものと同じ材料の。
「茸、好きですか」
「ん、嫌いなものはあんまりないつもりですけど」
「それじゃ、好きな食べ物は?」
さとりは言葉に詰まってしまった。考えた事がなかった。好きな食べ物なんて、尋ねられた事は初めてだったのだから。これは悪くないな、これはあんまり、くらいは思ったりもするが、積極的に好きなものを見つける必要性が、今までの生活になかったのだ。
「んー、分かりません」
「そうですか……じゃあ、一緒に死体でもどうです? この森探せば結構ありそうですよ」
「え? いや、私は」
「腐って虫が湧いてくるタイミングが最高に美味しいんですよね。ね、ね、どうです?」
「私はちょっと、遠慮しておきます」
手を振る。
燐はさも残念という風に眉を曲げ、お椀の底に残った茸の最後のひと房を、舌ですくい取る。
「ごちそうさまでした、美味しかったわ」
燐が食べ終わるのを待って、さとりは言った。燐も倣う。席を立ち、ベッドに近づく。
「私はこれから出かけるけど、あなたはどうする?」
「あれ? どこに行かれるんですか」
「食料調達」
「そんなの、あたいがしてきますよ」
「ああ、確かにあなたは鼻が利きそうね。一緒に行きましょう」
籠を背負おうとして、燐にひったくられた。あたいの方が多分力持ちですから、そんな元気な声を受けながら小屋を出る。今日は花壇に水を撒くのを忘れない。さとりの後ろで、燐はあちこち首をめぐらし樹や鳥や花を感慨深そうに見渡していた。
よく晴れている。肺に吸いこまれた空気は新鮮で濁りがない。何か高揚した気分を感じる。大樹のウロから童謡の世界に迷いこんでしまうとかそういう感じの、どきどきして不思議に気持ちのいい朝だった。
「綺麗な花ですね」
水滴に化粧した花壇を、さとりのしゃがんだ頭の上から眺め、燐は微笑んだ。
「ええ、一人暮らしは暇ですからね、園芸の真似事なんかもしているの。そこの白い花は、ラナンキュラス。花びらが一杯中に重なってるのよ。私はこの花が大好きなの。たくさん花びらを詰めているのに、外から見たらこんなにちいさくて、目立たない。見られないところも綺麗で可愛いのに」
そんな話をしながら、眩しい木漏れ日の間を歩く。
さとりは森が雰囲気を昨日までと全く異にしているように思えた。何故だろう、隣にこの子がいるからだろうか。燐の笑顔はとても眩しい。でも、その程度の明かりが森のかたちまで描きなおしてしまうのだろうか。さとりは自分の頭が随分ゆるく鈍くなっている事に気がついた。何故だろう、歩いているだけなのに凄くわくわくする。土を踏む、さくさくという足音が軽快な音楽みたいに二人を包む。
「死体とか、死にそうな奴とか、そういうものなら得意なんですけどねえ」
「できればワラビとかヨモギとかを見つけて欲しいのですが」
「うーん。ちょっと難しいかもですね」
聞くところによると、燐は死に関して強い察知能力を持つらしい。ある程度の範囲なら、どこで何が死にかけているとか、もうじき死ぬなどという事が、手に取るように分かるのだそうだ。
匂いがするんです、と燐は言った。
「霊魂の匂いみたいなものが伝わってくるんですよ。だから分かるんです」
「どんな匂いなの」
「結構ばらばらなんですが、興奮してたり怒ってる奴、どっちかって言うと負の感情が前面に出てる魂は甘い香りがよくしますね」
「薔薇に棘、みたいなものかしら。いや、棘に薔薇かな」
結局ぶらぶら適当に探して回る事にした。二時間くらいかけて、ウドの芽や茎、ゼンマイ、ワラビ、コゴミの葉などが採れた。名前の知らない赤い艶のある木の実も摘んだ。いつもなら肩になじむ重さを感じつつ帰るところだが、今日からは燐が籠を持ってくれている為、手持ち無沙汰になってしまった。軽くなった肩の上には、代わりに燐のお喋りが弾んでいる。昨日までとの、些細な違いだった。こういうちいさな変化は、これからも積もり積もって、さとりの日々を塗りかえていくような気がした。いつかそれらを振り返って、変わった己を眺めるのが楽しみになっている自分を、心のどこかに見いだしたような気もした。
都へ売りに出て、それから午後は燐を連れて散歩に行こう。天気もすこぶるいい。さとりは自分の顔がだんだんほころんでくるのが、なんとなく分かった。
§ § §
霊烏路空は翼を強い風に羽ばたかせながら、ぼんやり考え事をしていた。考え事と言っても、今日こそはいい獲物を見つけて、一週間ほど続いていた木の実ばかりのひもじさから逃れたいだの、向こうに広がっている森にはたくさん食料がありそうだだの、そういう事についてばかりだが。
黒い艶のある羽毛をなびかせ、もこもこと膨らんだ林冠に向かって下降する。
森の上は天井が抜けていて、そこから日射しが降りそそいでいる。
高度が下がるにつれ、風は柔らかくおだやかになっていく。嘴の先でその中を突っ切っていくのは爽快だった。上機嫌で彼女は葉々の間に潜りこむ。
チュン、チュン、と小鳥が方々で鳴いている。随分静かだ、と空は低空飛行しながら思う。大型の肉食動物がぎゃあぎゃあ騒ぎ立てていなくっちゃ獲物もあんまり期待できそうにない。捕食者が多く訪れるところは、それだけ食べ物も多くあるという事だからだ。この森はちょっと静かすぎる。
しばらく枝の合間を縫って飛んでいると、声が聞こえてきた。どうやら人語のようで、水の音に混じっている。樹が角のように生えている下り坂を見下ろすと、大きな岩がいくつか群がっている。その陰に赤い髪の少女がいた。脇に台車を置いている。その周りを、白っぽいふわふわした何かが数個漂っている。
空は少し興味が湧いた。こんなところに人型がいるのは珍しい。適当な樹の枝に降り、おかしな深緑色の服を着た、赤髪少女を見守る事にした。
燐がさとりと森に住み始めてから一ヶ月が経った。ここでの生活にもだんだん慣れてきて、色々な事を知った。主にさとりについての知識ばかりだったけれど。さとりは地上で産まれ育った事、人間たちに嫌われ追放されて地底にやって来た事、それから今までずっとこの森に小屋を建てて暮らしてきた事、などである。
さとりは自分から話を持ちかけてくる事があまりない。燐は、きっと大人しい人なんだろうと考えていたが、さとりの過去を聞く内に、だんだんそれが疑われるようになってきた。この人は、性格として寡黙なんじゃなくって、ただ、誰かと付き合う機会があまりに乏しかったから、いまいちどう接していいか分からないんじゃないか、そう思うようになっていた。
それでも、何も口を利かなくても、この人の隣は居心地がよかった。しばしば訪れる沈黙も、全然気まずい思いはしなかった。さとりはそんなとき、目を閉じ、外から聞こえる動物たちの鳴き声や、さわさわと擦れる茂みの音に耳を傾けていた。燐にはさとりが本当に自然の音だけを聴いているのか、あるいは自分の心を読んでいるのか判然しなかったけれども、こういう静かな時間は大好きだった。優しげなその目元を見ているだけで幸せだった。
二人で散歩したり、植物採集をしたり、都に行商に行ったり、川辺に寝そべったりして毎日を過ごした。さとりは燐の知らない料理をたくさん振舞ってくれた。半分野生だった彼女には、食卓は新鮮な発見に溢れていた。感謝の気持ちもこめて、燐は肉や山菜を持ち帰ってくるようになった。いつの間にか、この人といつも一緒にいる景色が自然になっていた。隣にはいつでも居場所があった。
今朝、さとりがシチューでも作ろうと言い出したので、燐は賛成した。シチューがどういう食べ物なのか知らなかったのだが。さとりは肉が必要だと言って、丁度切れていた為に都へ買いに出ようとした。燐はあたいが捕ってきます、と請け負ってこうして出かけてきたのだった。
大概死臭がする方へ行けば肉が落ちている。燐は鼻をひくひくさせながら台車を走らせた。
(オオオオオオォォォ……いとしい身体……オオオオオ)
案の定、感覚に任せて辿り着いた背の高い樹木の下の、岩陰に死骸を見つけた。ついでに群がっている怨霊も。
(食べたい食べたい食べたい……)
(カラダ、カラダ、ニク、ニク)
(ギイイイイイイイイイイイイィイイイイイイイイ)
何の霊だかよく分からない。思念が混濁していて、彼ら自身何を考えているか分かっていないのだろう、意味不明な恨み言を吐き散らしていた。
(あつぅぅぅいところはモウたくさん……モウたくさん……)
(水、水、みみみ水)
彼らの言葉の中に地獄、という単語が聞き取れた。そういえば、この前さとりと都に行ったとき、灼熱地獄が封鎖されたという話を耳にした事を思い出した。多分、そこから抜け出してきた奴らなのだろう。数が多いのが気になるが。
「あんたたち、ちょいとそこのお肉、貰ってってもいいかな」
好き勝手に喚いていた怨霊たちは一斉に燐に振り向き、怒ったように身を震わした。
(アア、妖怪だ)
(カシャネコだ! カシャネコだ! 喰われるぞ)
(取り殺してやる……取りころウウウ)
「食べたりしないから。あたいはそっちのお肉を食べたいんだよ」
彼らは輪郭をざわつかせて、威嚇するように燐を取り巻いた。燐の妖力にあてられたのか、自我が暴走しかけているようだ。
彼女はちょっと身を退こうとしたが、飛びのく前に白い玉は襲いかかってくる。
「ちっ!」
足首をひねり、身体を地面に張りつかせてどうにかかわす。すぐに尻尾で土を掻いて勢いをつけ、後ろに跳ぶ。追撃をしかけてくる怨霊をきっと鋭く睨むが、すぐ左腕の付け根に目を移した。
服が裂け、どろりと血が流れている。それは細い筋になり、露出した手の甲まで垂れていた。横から迫ってきた一体に噛みつかれたらしい。
その光景を小高い樹の上から眺める空は、わくわくしていた。まさか偶然見つけた少女が、こんなところで怨霊を相手に組み合う様子を見られるなんて思ってもみなかった。
目を輝かせて、じっと彼女たちに見入っていた。
「はあっ、はあっ。なんなんだい、喧しい奴らだ」
どうして肉を捕りに来ただけなのにこんな目に遭わなくっちゃいけないんだ、と燐は心の中で舌打ちした。
仕方ない。あんまりやりたくはなかったけど、そう口の裏で呟いて、爪をしまう。
身体に纏いつく、冷気を漂わせる怨霊の、白いすべすべした表面に歯を立てて、噛みついた。ひんやりしていて、味はない。
霊が騒ぐひまも与えず、一呑みにする。続けて、腕と肩にからみついているのも噛み裂いて呑みこむ。逃げ出そうとした奴らを爪で押さえつけ、喰いちぎる。
「うえっ」
胃の中にわだかまるような感じ。怨霊を喰らうのはあまり好きではなかった。できればやりたくはなかった。しばらくの間、腹の底から呻り声が聞こえてくるからだ。怨嗟の叫びが。死体に親しんでいる彼女にも、こればかりは慣れない。
名前も知らない獣の死骸を取り上げ、台車にしまいこむ。これは『しちゅう』の具材になれるかな、とちょっと思案してみたが、分からないので止した。さとりもきっと気にしないだろう。
からから、と車輪の回る音が、静かな森に響いていた。燐はのんびり歩いて帰途についた。
ずっと後ろから、ちいさな黒影が追ってくるのに気づかないまま。
「どう? お燐。美味しい?」
微笑みながらさとりが尋ねる。燐は猫舌なので十分に冷ましてから口へ運ぶ。甘みが口中に溶けて広がっていく。彼女の腕には包帯が巻かれていた。帰宅してすぐ傷を見つけたさとりに問い詰められ、やむなく沁みる消毒液を塗られ手当てをしてもらったのだった。
「さとり様の作るものはみんな美味しいです」
「そんなお世辞、心を読めばすぐばれますよ……あ、ほんとに美味しかったのね。それはよかった」
さとりは嬉しそうに頬をゆるめた。日は今しがた暮れたところだ。燐の持ち帰った獣肉を野菜に混ぜて煮こみ、結構な時間をかけてクリームシチューを作った。
彼女は料理を作るのに苦痛を感じる性格ではない。とは言え、燐に出会うまでは自分の為にしか作る機会がなかったから、できあがったものに対して特別に大きな感慨も持ちえなかった。それがここ一月くらいの間に、だんだん変化を遂げてきた。燐が喜んで食べている様子を見たくて腕をふるうようになっていた。
割合寒い夜だった。今ではもうぎこちなさも消えた談笑に、花を咲かせている。
暖炉の火は隅々まで足を伸ばして、小屋の内を優しく覆っていた。
ところへ、燐の耳がぴく、と横に動いた。向かいのさとりはお茶を飲みながら、燐の冗談に笑っているところだった。
燐は風を裂くような音を聴いた。
「あれ? さとり様、今何か――」
瞬間、べきべき、と壁板が割れる音がした。燐はとっさに椅子を蹴り、さとりの肩を掴んで押し倒す。ちいさな叫び声が下から洩れる。何かが物凄い勢いですぐ頭上を駆けていくのを感じた。
爪を立てながら顔を上げる。右の壁に人の頭くらいの穴が空いていた。木板がえぐられ、夜風が吹きこんでいる。反対側に目を移す。
「こんなときに誰だよもうっ」
ちいさな黒いシルエットを認めた。両側に翼を目一杯広げてこちらを見下ろす、それは鴉だった。
鴉は一度ばさりと羽ばたいて、人型に変化した。
腰まで伸びる、艶やかな黒髪。後頭部にはためく緑色のリボン。すらりとした、背が少し高めの少女の姿になった。普通の少女と違うのは、背中に身体の半分を覆えるほど大きな、黒い翼が生えているところだろう。
「ねえ、そこの赤髪!」
びし、と指を燐に差し向けながら、鴉の少女は言った。
「私と勝負しろ!」
「……何だって?」
さとりの盾になるように、燐はしゃがんで警戒していたが、襲撃者から放たれた言葉はあまりに邪気に乏しく、思わず気が抜けてしまった。
「だから、私と戦えって言ってるの!」
「あたいが? あんたと?」
「うん、そう」
「どうして」
「森で怨霊を食べてたところ見てたんだ。怨霊を丸呑みにできるくらいの妖怪なら、きっとメチャクチャ強いんでしょ?」
「ああ、そうか」
普通、身体に魂は一つしか入らない。妖怪が無理に霊魂を喰らうと、許容量を超えた自分の肉体あるいは魂を損なってしまう。そんな無理を押し通せるのは、それだけ強靭な身体と魂を備えた大妖か、霊魂に普段から慣れ親しんでいる火車くらいのものだ。
どうやら目前の少女はその光景をどこからか見ていて、燐を前者と捉えたらしい。
地獄鴉か、厄介だな、燐は思った。地獄鴉には好戦的な性格の奴らが多い。肉に飢えているからなのか、すぐ戦いたがる連中だから、燐も荒野にいた頃はなるだけ避けるようにしていた。
「でも、やだよ。面倒だし、あたいは疲れてるんだ。そこらの亡霊とでも遊んでな。と言うか、あんたは誰なのさ」
「霊烏路空ちゃん、っていうんですね。お燐、あなたが強そうだから、力比べをしたいんだそうですよ。受けてあげたらどうですか?」
燐の言葉に、黙って二人のやり取りを眺めていたさとりが代わりに答えた。変わらず穏やかな口調で。
「ええー、さとり様、無責任ですよ。やるのはあたいなんですから」
「……なんで今、私の名前を」
空はさとりを見、言った。眉を寄せ、表情が険しくなる。
「私は覚妖怪ですから、ちょっとだけ心を読ませてもらいました。古明地さとりといいます。よろしく」
「心を読んだ……? 覚……?」
空の目に怯えが浮かぶ。一歩、後じさりする。
さとりは立ちあがり、空の前に来て手を伸ばした。挨拶のつもりなのだろう、壁を壊された事など気に留めていない様子だ。
けれど、空はその手を払いのけ、
「……気持ち悪い」
半分恐れるように、半分吐き捨てるように、言った。
がたん、と床を蹴って、燐が空に掴みかかったのは一瞬間の後だった。
「おい」
普段の燐に似合わない、怒気に満ちた声色で、
「謝れ」
「そんな事より、私と戦っ――」
「うるさいっ! さとり様に謝れ!」
牙を剥いて、燐は叫んだ。自分より背丈が大きい少女を睨みつける。
さとりは伸ばしていた手を、燐の肩に持っていって、
「お燐、私は平気ですから」
「あたいのご主人様になんて言ったッ」
「お燐、やめて」
「ふざけるな、謝れッ」
「お燐!」
燐ははっとして、さとりに顔を向けた。さとりはほんの少しだけ寂しそうな表情をして、首を振った。
「いいんです、燐。慣れてますから」
「さとり、さま」
触れただけでひびが入ってしまいそうな、繊細で白い肌。燐は、そこから染みだしてきたわずかの悲しみの色を見逃さなかった。それが薄くさとりの顔に膜のように張りついて、影ができた事を見逃さなかった。思わずその頬に手を伸ばしかけて、止した。強く拳を握りしめ、
「……あんた、あたいと勝負したいんだろ」
黒髪の少女を振り返り、言った。少女は頷いて、翼をはためかせながら、
「うん、そのつもりで来たんだもん」
「いいよ。やろうじゃないか。死んじゃったら猫車で運んであげるからさ」
「ちょっと、お燐! あなた、肩の傷もまだ」
さとりの呼びかけに、燐は、さとりにいまだかつて使った事のない厳然とした口調で、
「さとり様。ごめんなさい。あたいはあなたに背きます。――今だけは堪忍して下さい」
連れ立って小屋を出て行く二つの背中を、さとりは追う事ができなかった。
慣れている、と燐に言った。実際慣れている筈だった。地上にいた頃はそれよりずっと酷い罵詈雑言を吐かれたし、陰口も数えきれないほど叩かれた。言葉にしなくとも、心でそれが伝わってくる事も多かった。
だから、今更いくら気持ち悪がられようが、さとりの遥か昔に擦り切れた心に、何らの打撃も加える事などできない筈だった。
では何故。何故、ただ、その一言が響くのか。何故自分から立ち上がる力を奪うほど、強く心を押さえつけられるのか。
もう、彼女は気がついている。
さとりが長年かけて築いてきた心の壁を、心が痛めつけられるのを恐れて作った砦を、一ヶ月で打ち崩した者がいるからだ。せっかく一人で生きる為に作り上げた心の緩衝材を、彼女はいつの間にか粉々にぶち壊されていた。
では誰が。誰が壊した。誰がさとりからその必要を奪った。誰がさとりからその意味を取り上げた。
「……ありがとう」
初めてできた家族、さとりの膝に暖を取る、一匹の黒猫のせいだ。
それをさとりは、知っている。一人じゃないという事を、今のさとりは知っている。
森はざわめいていた。地に降りる樹々の影は、二人の少女の妖気に揺さぶられている。枝が擦れる。夜が濃くなる。怨霊の時間だ。
「あの紫髪、あなたにはそんなに大切な人なの?」
空は不思議そうに尋ねた。眼前の少女の洋服には、亡霊たちのたなびく白色が纏わりついている。燐の使役する霊だ。
「うるさい」
「心を読めるんでしょ、あいつ。自分の事何でも知られるんだよ。気持ち悪いとか思わないの? 怖いとか思わないの?」
「あんたに何が分かる」
「裏では何考えてるか分からないじゃない。欲望を覗いて見下してるかも知れないし、後ろ暗い部分を覗いて楽しんでるかも知れない」
歯を食いしばる。燐にはそんな事どうでもよかった。他人がさとりをどう見ようが、それで燐のさとりに対する想いが変わる事はありえないからだ。でもただ一つ、許せない事がある。
「お前にさとり様の何が分かるんだっ! あの人がどれだけ苦しんできたか、あたいにも分からないのになんで見ず知らずのお前に分かるんだ! あたいはあの人の事が大好きなんだよ、それだけで十分なんだ。覚妖怪だとか心を読まれるだとか、そんな事はどうだっていい。あたいは知られたいくらいだ。それであの人の寂しさが紛れるなら。初めてあの人に会ったとき、あの人は凄く寂しそうな顔をしてた。今でも時々するんだ。あたいはあの人から優しさとかあたたかさとかそういうものをたくさん、たくさん貰ったんだ。死体の冷たさしか知らなかったあたいに、あの人は自分の温度を分けてくれた。だったらあたいはお返しに、あの人から寂しさを取りのけてやりたいんだよ! あたいはあの人が辛そうな顔してるのを見るのが一番辛いんだ! だからやめとくれ、頼むから! さとり様にもう悲しい顔をさせないでおくれよ……ッ」
最後は空への言葉というより、さとりを苦しめる何もかもに対する、燐の懇願だった。
ただ、ただ、さとりには楽しく生きて欲しい、それだけが燐の願いだった。なまじこれまでが大層辛かったのだろうから。これからは自分がさとりを助けてやりたい。さとりの力になりたい。さとりには笑顔でいて欲しい。さとりの笑顔を見ると、燐はそれだけであたたかい気持ちになれる。
さとりから笑顔を奪う奴は、許せない。許さない。
「あんたは絶対叩き潰してやる。意地でもだ。これ以上さとり様を傷つけるなッ!」
「ふん、そんな事、私に勝ってから言いなよっ!」
二人の少女の輪郭が交錯する。尻尾と翼が、月の光に照らされて、影を長く伸ばしていった。
空は瞼に降りかかる光に目を覚ました。
身体を起こす。ばさり、と被っていた毛布が跳ねのけられる。首をめぐらす。昨夜襲撃した小屋の中らしい。壁に穴が空いている。そこから白い光が射しこんでいる。丸テーブルがあり、椅子が並べられている。その内の一つに、黒猫が丸くなって眠っている。さらに奥に、こちらに背中を向けて手を動かしている人型の姿があった。周りに湯気が立っている。
「あれ、私」
眠っていたらしい。昨夜の事を思い出そうとするけれど、頭がうまく纏まらない。記憶が欠片になって漂っている。
その一つ一つをつらまえてゆっくり眺め回す内に、目はだんだん冴えてきた。
「おはようございます。いい天気ですね」
冷水のように突然浴びせかけられた声に、肩を震わして空は顔を上げた。
湯気にけぶる背中から、それは聞こえてきた。
「あ……」
自分の身体に目を移してみると、肩から胸にかけて、服がはだけ、真っ白で清潔な包帯が巻きつけられてあった。
腕を回すが、痛みはない。
「昨日はお燐と派手に遊んだようですね。お燐が怪我をさせてしまったみたいだから、手当てをしておきました。あなたは地獄鴉ね? 地獄鴉は丈夫と聞くから、きっとすぐ治るでしょう」
そっか、と空は大分醒めた頭で思い出す。私、負けちゃったんだ。あいつ、凄く強かったもんなぁ。……チクショウ。
身体を倒す。ベッドは固いが、何だか変にほっとする。枕は花の匂いがする。
テーブルの向こうの背中がくるりと振り返り、空に向きなおった。薄紫のぼさぼさの髪が目立つ。やわらかそうだな、となんとなく思った。さとりの髪も、微笑みも、動作も、目も、みんな優しげな印象を空に与えた。
さとりは空のベッドまで来て、隣に座る。空の翼に手を伸ばし、ちょっとためらったが、慎重に、ゆっくり触れた。空は拒まなかった。さとりの匂いはやわらかくて、やすらかな心地になる。
羽の一枚一枚を指の腹で撫でる。弦を爪弾くように静かな手つきで。服が擦れて、さらさらと音を鳴らす。
(どうして)
空はさとりの顔を見、胸の第三の眼を見、それから自分の翼を這う指先を見る。
(どうして、そんなに優しそうな顔ができるの? あんな事を言った私に、どうしてまた笑いかけられるの?)
心を読まれる事への恐れは、この人の隣にいるとまるで感じなかった。そんな事を思ってしまうのが憚られるほど、あまりに優しく脆い雰囲気を、この人は漂わせていた。
空はされるがままになっていた。されるがままになっていたかったのだ。
しばらくして手のひらは離れ、さとりは立ち上がろうとする。
「行かないで」
気づくと、空はさとりの薄いピンクのスカートの端を、ぎゅっと掴んでいた。
さとりは目を丸くし、それからゆるやかに笑った。また腰を下ろし、今度は空の黒髪に触れる。長い滑らかなそれをすくう。空の手は、さとりの背中に回っていた。強く、淡色の生地を握る。
「私、わたし、ね……負けちゃった。うぅ、あああぁあああぁぁぁ、ごめんなさい、ごめんなさい……気持ち悪、くなんか、ないからっ……ぐ、ううぅぅ」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただこの人に甘えたかった。嫌われたくなかった。ずっとこうしていたかった。くやしい。あったかい。いい匂い。気持ちいい。さみしい。綯い交ぜになった、意味不明な想いが爆発して、空はさとりに縋りついた。さとりは何も言わず、腕を空のわき腹に差しこむ。たどたどしく、不器用な動作だったけれど。さとりの胸の中は心地よかった。できるなら、永遠に抱きしめられていたいと思うほど。
「その板だよ、その板」
「どれよ。これ?」
「それそれ。早く渡しとくれ」
「うるさいなあ、もう!」
小屋の外から燐と空のやり取りが聞こえてくる。昨夜空が壊した壁の修理をしているのだ。
さとりはと言うと、今しがた訪れた珍しい客人にお茶をもてなしていた。
「何だか少し見ない間に、やけに賑やかになってるなあ」
お茶を一口啜り、そう言ったのは、勇儀。頬杖をついて、かんかん、と金槌を打つ音に耳を傾けている。
燐と泣き止んだ空と三人で朝食を済ませた後、彼女はいきなりやって来た。鬼を見た猫と鴉は初め大騒ぎをした。
「色々あったものですから」
「いや、何にせよ、よかったよかった。さとり、この前会ったときよりずっと明るくなったようだな」
「そうですか?」
「ああ。お前はもう、大丈夫みたいだ」
安心したように、勇儀は微笑む。さとりも笑いかける。
それから少し真面目な顔を作り、
「それで、今日はちょっと話があって来たんだ。お前、なかなか都じゃ捕まらなくてな」
「はあ。話?」
「そうだ。前に話した、灼熱地獄跡に怨霊が湧いてる事件についてなんだが」
「そういえば、見つかったんですか? そこの管理者」
「いや、それはまだだ。まだ建物自体が完成してないんでな。怨霊が予想外に増えてて、はかどらないんだそうだ。今日来たのはそれの事なんだけど。何でも怨霊が方々に散って、色々と被害が出てるみたいだ。誰それが襲われただの、呪われただの。霊は暗くてじめじめした場所を好むって聞くからな。この森にも霊が集まってくる可能性がある。だから警告に来た」
「物騒な話ですね……わざわざありがとうございます。気にかけておきましょう」
帰り際、勇儀はどことなく嬉しげに、
「新しい家族、大切にしなよ」
一言置いて、片手を振り振り出て行った。
一方、壁の修繕に勤しんでいた二人は、文句を言い合いながらではあったが、一応滞りなく事を運んでいた。
「ねえ、お燐」
「何さ。そこ、釘打ってよ」
「あ、うん。……私、お燐がどうしてあの人と一緒にいるのか、分かった気がする」
「フン、別にあんたなんかに分かってもらいたかないね」
「私、あの人に酷い事言った」
燐は顔を上げて、空を見つめた。その、申し訳なさそうに俯く空の姿が、さとりに会ったばかりの頃の自分の姿と重なって見えた。
「謝らなくちゃ。謝ってくる」
「その前に修理――」
ばたん、と建てつけの悪いドアの閉まる音が、燐の言葉を遮った。燐は一つ溜息を吐いて、仕方なしに金槌を取り上げた。
さとりは急いて駆けこんできた空に顔を向ける。
空は顔を赤くしながら、何か言いたそうに爪先で床を擦る。さとりは心を読まなかった。それをするのは空に卑怯だと思ったからだ。懸命に言葉を探している空に。
「さと、り。昨日は、ごめんなさい」
言葉が口からこぼれるのに合わせて、空の大きな瞳からは涙が落ちる。それを両手で拭い、唇を噛むが、嗚咽が溢れる。息が漏れ、顔は真っ赤になる。そしてまた水珠がこぼれ落ちる。
さとりは立ちあがって空の元に行き、自分より高い頭に手を伸ばして撫でながら、
「いい子ね。よしよし」
すると更に空の泣き声は大きくなる。けれど、さとりは止めない。
「うっ、ウグゥッ、さとりぃ、さとりぃぃぃ」
「ここにいます。大丈夫。怒ったりしないから。ずっと、ここにいますよ」
空はぺたんと床にへたりこむ。手のひらは濡れた目元にあてがわれている。その間から、充血した目の赤みが覗かれた。
さとりも膝をついて、空の背に両腕を回す。朝よりも、強く、きつく、抱きしめる。手を空の後頭部に当て、押し出す。自分と空の頬が重なる。紫と黒の髪の毛が混じり合う。体温も。あたたかい。
「ごめん、ごめんなさい。私、こんな事されたの、は、初めてで、分かんない……分かんないよぉっ……うぁ、い、行かないで。お願い、ここにいて」
「行きませんよ。どこにも」
「私、あなたといたいよぉ」
「ええ。私もよ」
「ずっと一緒に、いたい」
とても泣き虫なようだ。
きっと、この子は。髪を梳いてやりながら、さとりは思った。きっと、この子も一人だったのだろう。肌の感触を知らなかったのだろう。だから、初めて心で触れられたから、溢れ出る自分の感情の正体が分からず、動揺しているに違いない。かつてのさとりと、同じように。
「ええ。いましょう。ずっと」
また少し、賑やかになりそうだ。
さとりは空を離さなかった。もうしばらく、このあたたかさに浸っていたかった。
フン、と燐が鼻を鳴らすのを壁の向こうから聞いた気がしたけれど、気のせいだったかも知れない。
小屋がどうやら一人分、また狭くなるらしい。
§ § §
長い長い、道があった。並んで歩く足音は、気がつけば三つに増えていた。
季節は移る。相変わらず空と燐は口喧嘩が絶えないが、いつの間にか肩を並べて、捕ってきた肉や野菜の大きさを比べたりしているところなんかはやはり、仲が深まりつつある証拠なのだろう、とさとりは観察していた。
後に聞いたところによると、空もまた燐と同様家族を持たないのだそうだ。鳥妖怪だからか、幼い頃の記憶があんまり残っていないから、どこでどういう別れ方をしたのか判然しないようだが。
さとりは空と過ごす内に、空の心の奥の深く大きい寂しがり屋が、頻繁に顔を覗かせる事に感づいた。控えめな手つきでさとりの服を引っ張るのも、さとりに向ける屈託のない笑顔も、子供が母親に甘えるときのようなそれだった。
空の見せる寂しさに、さとりは自分のかつての孤独を重ねて見た。自分の手で彼女の寂しがりな心を慰めてあげる事ができるなら、と思い、黒く大きな翼を撫でてやった。その度に空は嬉しそうにじゃれるのだった。
さとりは相変わらず山菜を摘んでは、都に売りに出て、燐と空に振舞う為の食材を買い足したり、人数が増えた分必要になった家具を揃えたりした。
季節はめぐる。さとりが燐と出会ったのは春先だった。それから梅雨が森を洗い、夏が草木を干し、秋が枯葉をさらっていった。二人が三人になり、彼女たちはいつも一緒に、どうでもいいような、意味のないような事を語り合い、笑い合いながら、遥か天井の穴からさんさんと降る光の下、日々を送った。
小屋にベッドは一つしかない。さとりの毛布の中には燐の尻尾が丸くなり、頭の横には空の羽毛がふくらんだ。暖炉の火を焚くまでもなく、胸と肌に灯るあたたかさは、さとりから離れてはいかなかった。
さとりが二人に心を求める分だけ、二人はさとりに心を求めた。この関係を家族というのだと、さとりはいつの間にか知っていた。彼女は自分の歩いてきた道をかえりみた。そうして、永い間、暗く寒い小路を一人で渡ってきた彼女は悟ったのだ。右に、左に、手を繋いで共に歩いてくれる人がいる事に。つまづいても、助け起こしてくれる人がいる事に。もう、手のひらにも心にも言葉にも、その使い道を見いだせている事に。
森の葉は悉く散って、乾いた冷たい風が吹くようになった。
丁度その日は朝から、燐と空がいい死体を見つけてくると言って、張り切り出かけていたので、さとりは一人家事をこなして花壇に水を遣っていた。
ぱたぱた、と風がさとりのスカートを揺らす。杓子を持たない方の手で生地を押さえつけながら、余った水を桶に戻そうと後ろを降り向いたとき、思わずさとりは息をのんだ。
少女が立っていた。黒い丸い帽子を被った、白髪の少女。こちらに横顔を向けて、小屋を見上げている。
帽子に隠され、わずかはみ出た髪は、よく目を凝らせば真っ白ではなく、ほんの少し緑がかっている事が分かる。
黄色のブラウスに、緑のスカート。それが寒風になぶられているのを気にもかけず、粗末な小屋の隙間だらけの板壁を凝視している。
すぐ後ろにいるのに、足音にも気配にも全く気づかなかった。いや、目の前にいるのを見ている今でさえ、本当に少女がそこにいるのか判然しない。絵の具の汚れみたいに、拭き取れば消えてしまいそうに儚く曖昧な空気を纏っている。
少女はゆっくり首を傾け、さとりの方を向いた。微笑んではいるけれど、どこか空虚さをはらんでいる。笑い方を知っているのに、笑う意味を知らない、そんな感じだった。
「いいお家ね」
艶やかな唇からこぼれる声はあどけない。
「ここはあなたのお家?」
少女は尋ねた。さとりは少女をまじまじと見つめる。いつか見た事のある顔だと思った。よく思い出せないが、どこかで会った事があるような気がした。
「……ええ、そうですよ」
「そう」
それきり少女は黙ってしまった。さとりの隣に立ち、花壇を眺めている。さとりもその視線を追う。追いながら、何か変に引っかかるものを感じた。そのおかしみは、少女の姿を爪先から順々に見上げて胸元に目を向けたとき、はっきりした。
「あなたは覚なの?」
少女のブラウスを這う、数本の青く細い管。胸の真ん丸の目玉と繋がっている。青い眼は閉じている。さとりは目をしばたかせたが、幻ではない。確かに少女は持っている。覚の眼を。人妖問わず忌み嫌われてきた覚妖怪の象徴を。
「うん。あなたと同じ」
「あなた、私とどこかで会った事がありますか?」
「うーん、どうだろ。ごめん、覚えてないや。もし会ってても分からないかも。私、時々ぼーっとしちゃう癖があるから……」
少女はそう言って笑った。自分で自分が何故笑うのかを分かっていないような、ちぐはぐな笑い方だった。
さとりは気にかかった。少女の言動、覚の眼、それに、こんな森の中に一人で来ている事など、謎が多い。だから、少々失礼して心を読んでみる事にした。胸の赤い眼に神経を集中し、少女の胸を見る。
「え……?」
少女への謎は解消されるどころか、即時に膨張してさとりの前にはだかった。
何故、何故、何故。どうして。
(嘘……嘘でしょう!? 心が読めない?)
思考の断片、言葉の欠片すら、見えない。何にもない。少女の心は真っ暗で、音も色も温度も言葉も何もかも存在していないように静まりかえっていた。
少女はさとりの顔に動揺と狼狽の色が現れるのを見、笑みを崩さずに、
「あなたに私の心は読めないと思うよ」
「え? ……どうしてですか」
「私は心を読めない覚だもの。きっと読まれる事もできない」
青い瞼のふさがれた眼を撫でながら、少女は言った。
「それはどういう意味です」
「そのままの意味だよ。私は心を読む能力を失くしたの。ほら、この眼、見て。閉じちゃってるでしょ」
手のひらに包み、さとりの方へ引っ張る。管は揺れ、きしんだ。
「……あなた、どこから来たの?」
少女は首を振った。
「どうしてこの森に来たの?」
「気がついたらここにいた」
さとりは呻る。要領を得ない問答。それでも、この子を放っておく訳にはいかなかった。いきなり現れた同族。しかも心を読めない初めての相手。聞きたい事は山ほどある。
「私は古明地さとりといいます。よければあなたのお名前、教えて下さい」
この問いかけには、少女はにこにこして口を開いた。
「こいし――」
「さとり様、いいのがとれましたよー」
「ねー、聞いてよさとり様ー」
少女の言葉に被さって、茂みから燐と空の朗らかな声が響く。仕事を終え帰ってきたようだ。
さとりは彼女たちを見、抱えられている獣の死体を見、それから手を振った。
「ああ、あの子たちは……」
燐と空の説明を加えようとして、目を戻したときには既に、少女の姿はどこにもなかった。靴跡さえ、風に吹き消されてなくなっていた。
毛皮を剥いで、肉をいくつかのブロックに切り分ける。かなり前に勇儀から貰ったウォッカを取り出し、赤い肉の表面に吹きかける。ボウルに溜めておいた塩水に、一塊ずつ浸す。しばらく経ってから外に吊るしてやれば、日持ちする干し肉になる。
さとりは一息つこうと、お茶を三人分淹れて、テーブルに並べた。
「今日はお疲れ様。一服しましょう」
主人の提案に応じ、猫と鴉はベッドから這い出て人型に変化する。
燐は椅子を引きながら、
「さとり様、誰か来てたんですか? 声がしたような気が」
さとりは腰かけ、お茶を飲みつつ、さっきの出来事の詳細を話した。少女が小屋の前に佇んでいた事、どうやら覚らしい事、心を読めない事、前に会ったような気がする事、忽然と姿を消した事。自分で言葉にしてみると、ますますあの少女は不思議だった。一から十まで、みんな不可思議だった。
「ふーん。しっかしここには変なのばっかり集まってきますね」
燐は隣の空を一瞥して言った。
「誰の事よ」
「あんただよ、おくう」
「このっ」
取っ組み合いを始めた二人を微笑ましく眺めつつも、さとりはやはり気がかりだった。休憩を終え、再び獣肉にとりかかる。二人も作業を手伝ってくれたので、ベッドほどの大きさの肉はすぐに片づいた。
「そういえば、さとり様」
手にこびりついた血を拭い、燐は少し真面目な調子で、
「あたい、この前から思ってたんですけど……最近、森に怨霊が増えてきてるみたいなんです」
「私も何匹か見かけましたよ。襲ってはこなかったけど」
燐の話に空も加わる。彼女もいつ間にか、燐の真似をしてさとりに敬語を使うようになっていた。慣れていない為、舌足らずになる事もよくあるが。
「怨霊ですか……確かにそんな事を勇儀が言っていました」
「さとり様も気をつけて下さいよ。怨霊は精神の化け物です。誰かの暗い感情を好みます。憎しみ、恨み、悲しみ、妬み。そういう心を餌にします。そういう匂いにつられてやって来ます。覚えておいて下さいよ、おくうもね。霊は負の感情にあてられると、興奮していくらでも凶暴になりますから、凄く危険なんです」
燐は真剣な眼差しでさとりと空を見回し、説明した。
二人は素直にうなずく。身震いと共に顔を青くした空に苦笑を向けながら、燐はまたいつもの明るさを目に宿し、
「ま、さとり様はともかく、おくうみたいな考えなしの能天気に限って、霊魂に寄りつかれるなんて事はないだろうけどさ」
「うっさいッ」
「まあまあ。それよりどうです、暇だし、散歩でも行きませんか」
「いいですね。行きましょう行きましょう」
「別に行ってもいいけど……」
このような会話の内に、さとりの胸騒ぎじみた気がかりも鳴りを潜める事となった。
元気のいい燐と空に手を引かれ、明るい森を歩く。結構な寒さだったが、握りかえした手の繋がりは、さとりの皮膚から染みこんで、生来の冷え性な心をあたためた。
それだけで、たったそれだけの動作で、さとりは元気が湧くのだった。明日を楽しみだと、待ち遠しいと、思えるのだった。何度繰り返しても足らないくらいの、触れ合い。感触。今はこの手のひらの中に、ちゃんとある。思って、笑みがこみ上げた。空が、どうかしたんですか、と尋ねた。何でもないのよ、と、やはりさとりは笑顔で答える事ができた。
彼女たちの通った後の獣道に、ふと木の枝を踏みしめる音が一つ響いた。誰にも聞かれる事はなかった。すぐ上の樹にとまっている鳥にさえ。……
勇儀の危惧した通り、怨霊は日ごとに数を増してきた。それはさとりの目にも明らかだった。何度か燐と空を連れ調べに出たが、そこかしこに霊の妖気と冷気が満ちていた。例えば岩の陰だったり、川辺だったり、野花のまだ散らない丘だったり。最早どこに行っても霊の呻き声につき纏われた。
「あたいも見つけた奴から説得して、成仏させるようにはしてるんですけどねえ。多分、いずれ勝手に消えていくとは思うんですが」
そう言うものの、表情は曇っていた。燐はなまじ怨霊の扱いに長け、彼らの性質をよく理解している分、懸念が強いのだろう。
「……なんだか、殺気立ちすぎていると言うか、既に変に興奮してるんですよ、あいつら」
「何かあったのかしら」
「こんなとこにユーレイの気を立たせるような奴、いるかなあ」
空は首を傾げた。
この森はいつも静かだ。外から出向いてくる物好きな連中はいないも同然である。霊を刺激させるようなものは何もない筈。
さとりは無意識に、かすかな胸騒ぎを感じた。
さとりが白髪の少女に再び出会ったのは、それからまもなくの事だった。
底冷えのする早朝。珍しく早起きした彼女は、寝癖の酷い髪を更にくしゃくしゃにし、欠伸をこらえながら外へ出た。燐と空はまだイビキを掻いている。
天井から覗く空はまだ薄暗い。花壇に下りようとしたところで、さとりの寝ぼけ眼は人影を捉えた。花壇の前にしゃがんでいる。黒帽子を深く被り、スカートが少し捲れ、膝が顔を覗かせている。あのときの少女だ。
少女は花に手を添える。白い花弁を、指で軽く弾く。水滴が舞った。茎がしなる。
どうやらさとりがいる事に気づいていないらしい。
前に驚かされた事もあり、さとりは若干の悪戯心を働かせて、少女の背にそろりと歩み寄った。
「その花はラナンキュラスっていうんですよ」
突然降ったさとりの声に、少女はびくんと背中を跳ねさせた。その拍子に帽子が浮きあがり、雑草の上に被さった。
露わになった白く輝く髪の毛がさわさわとなびく。それを見、さとりはようやく思い出した。この子は、燐に会う前に一度、森で見かけた事がある。あのときは帽子を拾ってあげたんだった。
「おはようございます。あなたと会うのは、これで三度目になりますね」
帽子を拾い上げ、土を払って少女に渡す。あのときと全く同じように。一つ違うのは、少女がそれを笑顔で受け取った事だ。
「ありがとう」
言いながら、少女は軽やかに立ちあがる。受け取った帽子を両手に持ち、胸に抱える。スカートが揺れる。ラインの入った、明るい緑色の生地の。花の模様が描かれている。
「この花、私のスカートの柄と同じみたい」
白のラナンキュラスを指差して、少女は言った。頬は寒さの為か、ちょっと赤みを帯びている。
しばらく楽しげに自分の身体を見回した後、さとりのスカートに目を遣り、
「あなたのに縫われてる花は、バラ?」
「ええ、そうです」
さとりが答えると、少女は歯を出してにっこりする。そしてくるりと踵を返し、茂みの方へ歩き始めた。ついて来い、と手招きしながら。
二つの影は水の匂いが立ちこめる森を進む。どこに行くの、と聞いても、少女は答えず、さとりの半歩前をスキップしている。軽い足取りなのに、さとりには何故だか、ちいさな背中がひどく寂しそうに見えた。行動と心がつり合っていないように思われた。少女の心を読めない事が、さとりに一層その奇妙な矛盾を感じさせた。どこか薄ら寒いほどに。
その内少女は、もう少しだよ、と言って歩を速めた。体力にあまり自信のないさとりは息を切らせつつ、なんとかついて行く。
風が二人をなぶり、流れていく。
日が高くなってきた為か、運動の為か、身体がだんだん火照ってくる。
森は白む。枝の間から日が射しこんでくる。夜明けだ。
「ついたよ」
少女はそう言って、微笑んだ。髪と顔に日射しがかかり、きらきら反射していた。
開けたところだった。樹に囲まれ、光が落ちてくる地面には、たくさんの花が咲いていた。みんなバラらしかった。澄みきった日光に照らされ、味気ない樹々を押しのけて鮮やかに輝いている。
「うん。バラ、あなたに似合うと思うよ。さとりさん」
「これを私に見せる為に、連れてきてくれたの?」
「うん。この前偶然見つけてさ。たまに来るんだ。いい匂いでしょ? さっきの花を見せてくれたお返し。……つまらなかったかな」
「いいえ、そんな事ない。ありがとう。えっと……」
「こいし。こいしって呼んで」
「ありがとう。こいし」
二人は手ごろな岩に腰かけた。こいしは白い息を手のひらに吹きかけた。空気がけぶる。
朝は静かに、彼女たちの間に足を伸ばしていく。
「私の心を読めないのは、怖い?」
こいしが突然、口を切った。さとりは、その白く光に照りつけられた横顔に目を向ける。
「……ええ。私は能力に依存して生きてきたのですから。何も聞こえないのは、怖いし、寂しいです」
「そっか」
「あなたは? 眼を閉じたあなたは、もう何一つ聞こえないのでしょう?」
「だから閉じたんだもの」
俯いて、呟いた。続く言葉を待ったが、それきりこいしは何も言わなかった。さとりも二の句が継げなかった。こいしの言葉には重さがあった。軽々しい文句ではどうにも動かせない重みが。さとりの知れない何かが、こいしにはあるのだろう。それを暴くだけの度胸がなかったのだ。
しばらくバラを眺めていた。水に濡れた棘が方々で光った。
「また、会いに行ってもいい?」
どれくらいそうしていたのだろう。顔を上げて、こいしは言った。
「ええ、勿論」
さとりの返答を聞いて、こいしは安心したように息を吐き、立ちあがった。
そして、例の如くふっと消えるのだった。まるで自分をその場からもぎ取るように。岩に少しのぬくもりさえ残さずに。帽子も髪も言葉も面影も全て、どこかさとりの知らない世界に行ってしまったようで。
バラの鋭い香りだけが、いつまでもいつまでも、さとりの周りを漂っていた。
言葉通り、こいしはそれから毎日のようにやって来た。初めは警戒していた燐、空とも次第に打ち解け、親しくなっていった。
「こいしちゃんは何だか不思議な子だねぇ」
燐はふわふわしたこいしの白髪に櫛をあてがってやりながら、言った。
「掴みどころがないって言うか」
「そうかな。どうだろ」
こいしは曖昧に答え、椅子から投げ出した足をぶらぶらさせる。
さとりは行商に出ていて、まだ帰らない。雪が降る頃には山菜も採れなくなるから、採れる内に一杯集めておこうと張り切っていた。怨霊の事もあり、燐と空は代わりに行こうと申し出たが、結局さとり一人で行ってしまった。さとりにとっては大切な仕事なのだ。三人で暮らしていく為には、主人たる自分が養わなければ。空が同居するようになってから、そんな決意を胸に抱いていた。
「ここに三人で暮らしてるの? 狭っこくない?」
「今まではあんまし気にならなかったなー」
空は翼の手入れをしながら言った。羽が一枚指にからまって、ぶちっと抜ける。痛ったぁ、と叫んで涙目になった。
「ふうん。そっか」
生返事をし、自分の手のひらを見つめた。白い指先。つるつるした爪。それを頬に持っていき、触れる。じんわりとした冷たさが顔を侵す。
「あなたたちは、さとりさんの事、どう思ってるの?」
頬を撫でながら、おもむろに問いかけた。燐と空は顔を見合わせる。燐は頭を掻いて、
「どうって、そりゃ――」
「ただいま」
「あっ、さとり様、おかえりー」
さとりの帰宅に遮られて、言葉は続かなかった。こいしは構わず、籠をテーブルに置くさとりに笑いかけた。
「お邪魔してるよ」
「どうぞごゆっくり。何もないけど」
小屋の主人も微笑みかえした。
彼女たちはそんなふうにして日を重ねていった。こいしは自分の事となると口が重くなる。だから、いまだ多く残る謎は解消されないままだった。こいしは毎朝遊びに来ては、夕方になると姿を消した。どこに住んでいるのかも知らなかった。泊まっていったら、と三人は勧めたが、結局こいしはいつも辞退するのだった。
いつしか雪が降り始めた。
しんしんと、ちいさな結晶たちが、森を色づけていった。
もこもこと、真っ白の絨毯が敷かれたある夜。さとりはなんだか寝つけずに、家の前で夜風に当たっていた。雪の混じった、芯まで凍えそうな風。肌に冷気を染みこませながら、ふと、こいしの事を考える。
謎の塊のような少女。
覚でありながら心が読めず、心を読まれる事もない。いつの間にか親しくなってはいた。けれど、さとりはこいしの事をほとんど何も知らないのだ。普段どこにいて、何を思い、この小屋まで来るのだろう。時々見せる、隠そうとしても隠しきれない寂しそうな表情の奥には、何があるのだろう。明日にでも、面と向かって尋ねてみよう。どうしても答えたくないと言うのなら、それまでだが。
思考に一段落つけ、そろそろ寝ようかと足を踏み出したとき、
「起きてたんだ。さとりさん」
こいしの声がしたのだ。
灰色にかすんだ雪の中。花壇の横に彼女は立っていた。
「どうしたの。こんな時間に」
「んー、どうしたんだろうね。私にも分かんないや」
あはは、と、笑い声が響く。無理矢理声を絞り出したような、ひびの入った声色だった。あどけなさの残るその顔には、あまりに不釣合いな声。
「ねえ、バラを見に行こうよ。きっと、雪が反射して綺麗だよ」
何かがおかしい。どこかに亀裂が走ったように。
さとりは森が丸ごときしんで、今にも崩れてばらばらになってしまいそうな気がした。樹も、花も、雪も、小屋も、さとりも、燐も、空も。みんな。全部。景色がぐらぐら揺れている。
夜更かしした上、寒さも酷いから、頭の調子が悪いのかも知れない。そう思いながら、さっさと先を歩くこいしについて行った。
予覚があった。一歩雪を踏みしめる度、強まる奇妙な予覚が。これ以上先に進んではいけない。冷えきって感覚を失った身体を、頭の痛みががんがんさいなむ。
月の光が降りそそぐ、バラの園に辿りつく。
強烈な彩色が、白くかすれた夜の中に異常に明るく浮かび上がる。ざわざわと揺らぐ。何かが宙を舞い踊っている。さとりは目を凝らした。半透明の白色。苦痛の呻き。呪詛。怨霊の群れがバラを囲んでいるのだ。身体をわななかせ、昂っている。
(アアァ……いいぞ、怒れ、呪え……そうだ……)
こいしはバラの中に足を踏みいれた。花びらと茎と葉がくしゃりと潰れる。生地を纏っていない脚が棘に裂かれて血が出るのも構わずに。
「こいし、あなた何を」
「さとりさん。さとりさんは、心を読みたくないって思った事、ある? もう眼を閉じてしまいたいって」
花弁がちぎれ、ゆらゆらと舞いあがる。痛いほどの香りが立ちこめる。
「……勿論、あるわ」
足元が赤黒く光る。それが花の色素を垂らした水滴なのか、こいしの脚から流れる血なのかは、分からない。
怨霊はこいしを取り囲んでぐるぐる廻る。
さとりは頭痛が酷くて、立っているのもやっとだった。
「でも、閉じずに今日まで生きてきたんでしょう。あなたは強いもの。私と違って、きっとずっと強いもの」
「心を閉じなかったから? ……いいえ、私は強くなんか」
「私は、歌を忘れたカナリア」
空を仰いで、こいしは言った。
その声には自嘲の響きがこもっていた。
「ただ一つ違うところは、一生懸命歌を覚えて歌っても、初めから誰も愛してくれなかった事。みんなが私の歌を嫌った事。だから全部止めた。歌う事も止めたし、歌を聞く事も止めた。どうせ誰も振り向いてくれないのなら、なるだけ痛みの少ない方がいいでしょ?」
「こいし……」
声は泣いていた。顔は笑ったままで。
泣く意味を知っているのに、泣き方を知らない、そんな感じだった。
「ねえ、さとりさん。あなたはお燐の事が好き? おくうの事が好き?」
「ええ、好きです」
「本当に?」
「大好きです。愛しています」
「じゃあ、お燐とおくうは、本当にあなたの事を愛してくれているの?」
言葉に詰まる。燐と空が自分を好いてくれている。そんな事、そんな分かりきった事。――分かりきっている筈なのに。
「本当にそう? 覚の眼では、心の奥の奥までは見えないでしょう? ずっと深くまでは、光が届かなくて分からないんじゃない? それなのに、ただ一緒にいて、ただ心の表面だけを見て、自分への好意を絶対だと信じきれる?」
火焔猫燐は。霊烏路空は。彼女たちの心は。言葉は。温度は。偽りなんかじゃないと。
「覚なんかどうやっても、好きになってくれる人はいないんだって。あなたもそう思ってたんじゃないの?」
「それは……」
何故だろう。どうしてだろう。それは違うと否定する事が、どうしてできない。燐も空も、さとりが愛しているのと同様に、さとりを愛してくれていると、どうしてはっきり言ってやらない。どうして断言できないのだ。
頭が割れそうに脈動している。
ずきずき、痛む。
霊は喧しく騒ぎたてていた。バラが踏み潰される。茎が折れる。葉が破ける。怨霊の冷気に、花が死んでいく。
鼓動が爆発しそうなほど、はやまる。こいしは震えていた。寒さか、悲しみか、あるいは両方か。
その姿が弱々しくて、ひどくちいさく見えたからだろうか。思わずさとりは手を伸ばした。バラの園から、連れ出してやろうと。
(憎め……ソウダソウダ……お前を捨てた全てを恨め……)
瞼が急に重くなる。夜に押し潰されそうになる。
「さよなら、さとりさん。もう二度と会う事はないわ」
とうに感覚の消えうせた手のひらが、こいしに触れるより前に、さとりの意識は途切れた。
§ § §
「――はあっ、はあッ」
目を開く。額を拭う。大量の脂汗を掻いている。さとりはベッドに身を横たえていた。毛布を剥いで身体を見回す。パジャマに包まれている。いつ帰ってきて、いつ着替えたのか、まるで覚えていない。いや、本当にこいしと会ったのかすら判然しない。もしかして、何もかも夢だったのでは、とも思った。
動悸が激しい。深呼吸をして、落ち着かせる。もう一度屋内を見渡す。暖炉に火が灯っていないから、入りこんでくる朝風が冷たい。
空の羽毛を撫でて動悸をおさめようと思い、枕の横に手を向ける。
手のひらは何もつらまえなかった。かすかに温度の残る生地の皺をなぞっただけだった。
「……え?」
目を移す。いつも空が眠る枕横には、羽の一枚も落ちていない。
毛布を投げる。燐はいつもその中で眠る。黒毛の一本も見当たらない。
小屋には、さとりしかいなかった。
急いで立ちあがり、扉へ向かう。足がもつれ、転びそうになる。心臓の音が耳にうるさい。ばくばくと、嘲笑うかのように。
扉を無理に蹴破って、外に顔を出す。肌を突き刺すような低温。花壇には雪が積もり、花は隠されていた。あるいは、枯れてしまっているかも知れない。
黒猫も鴉もいない。さとりに黙って出かけていくなど、ありえない。朝ご飯を待たずに、籠も持たずに外に行くなど、ありえない。起きたのに暖炉に火を焚かないなど、ありえない。二人は寒がりだ。
それなら、どこに。
「嘘。嘘……どうして……ッ」
さとりは動物が好きだった。
猫、犬、鳥、擦り寄ってくる動物は皆可愛がった。彼女は昔、ペットを飼おうと思った事があった。ちいさな動物たちと一緒に暮らそうと思った事があった。
しかし、遂にその手は伸ばされなかった。柔らかな毛並みを撫ではしても、寄り添う彼らをあやしはしても、抱き寄せてやる事はできなかった。
怖かったのだ。どうしようもなく、心の底では愛情を求めていながら、恐ろしかったのだ。繋いだその手が、いつか自分から離れていってしまう事が。知らぬ間に傷を与えてしまう事が。嫌われてしまう事が。覚である限り、何度も何度も繰り返し感じなければならない、好意から憎悪への揺らめきが。
「あ、ううぁ、うわああぁぁぁああああああぁあっ」
どうして永遠に続いてくれるものと、無根拠に信じきっていたのだろう。
こいしの言葉が、心を貫く。
自分を置いてどこに消えてしまったのか、分からない。分かりようがない。きっと、ずっと遠くの、さとりの知らないところなのだろう。
「おりん、おくうぅっ……行かないでぇ、ああぁぁあああぁうぐ、ひぅ、私を一人にしないでよぉ……」
情けないすすり泣きがこぼれるのを、こらえる事ができなかった。
初めて貰った本当の愛だと思ったのに。
初めて触れた本当のあたたかさだと信じたのに。
初めてできた、家族だと……
取り乱し、何も考えられなくなった頭の隅に、自分の泣き声だけが響き渡った。
燐は鼻にかかる熱気で目を覚ました。眼前であかあかと膨らんだり萎んだりしているのは、炎。薪から煤が散っている。すぐ隣には空が眠っている。大きなイビキを掻きながら。
身体を起こそうとするが、動かせない。いつの間にか人型に変化している。縄に縛りつけられている。背中に岩のごつごつした感触。
「起きた? お燐」
「こいしちゃん、どうして」
こいしは焚き火を挟んだ向こう側の岩に座りこみ、こちらを笑顔で見つめている。
周囲に目を遣る。森の中のどこからしい。葉を失った枝が、光を遮って重なり合っている。
「ここは」
「適当に小屋から離れたところまで連れてきたの。あ、まだ寒い? 薪増やそっか?」
「なんでこんなとこに」
燐はこいしの明るい声に反抗して、睨んだ。
「さとり様はどこ?」
それを聞くと、こいしの表情が急に曇った。打って変わって、冷たい目になる。
空のイビキが途絶え、瞼を上げた。欠伸を一つしてから、こいし、燐を順に見る。
「うにゅ? 焚き火して遊んでたの?」
こいしは笑顔を取り繕い、言った。
「私とお話しようよ」
「……どうしてこんな事するのさ」
燐の言葉は冷えていたが、こいしは動じず、不自然な笑みが依然として張りついていた。
「あなたたちは、さとりさんの事、どう思ってるの?」
前に一度問い、聞きそびれたそれを、再び燐と空に投げかけた。
「なんでそんな事を聞くんだい」
「本当にお燐とおくうは、さとりさんを好きでいるの? 好きでいられるの? 覚だよ? 見られたくない事、知られたくない事、隠していたい過去。それに土足で踏みこんでしまう存在。心を踏み荒らして、ぐちゃぐちゃにしてしまう妖怪。なんでもかんでも知られたままで、ずっと一緒に生活していけるの? 隠し事なんかできないんだよ。怖くならない? 嫌になるでしょ?」
「うるさいなッ」
反応したのは、空だった。きっと鋭い目で、炎の向こうを射抜く。
こいしはきょとんとして、空を見返した。
「私はさとり様の事を全部知ってる訳じゃないけどっ。さとり様は優しいんだよ。誰よりも優しくて、誰よりも強いの! なんで心が読めるからって嫌われなくっちゃいけないの? いっつも隣にいてくれる。寂しいときも、悲しいときも、いつだって隣にいて撫でてくれる。心が読めるから、私とお燐の事を誰よりも分かってくれるの。私にはさとり様の寂しいときが分からないから、なんにもしてあげられないのに。さとり様はなんだってしてくれるの。私は頭がよくないからうまく説明できないけど、お燐だって私と同じだよ。私はあの人と同じ道を歩きたい。あの人がもし歩くのに疲れちゃったら、休憩してる間、隣で守ってあげるくらいは、私にもできそうだから」
俯き、黙って聞いていたこいしは、顔を上げた。そして、寂しそうに笑ってみせた。今にも消えてしまいそうなほど、儚げに。
「そうなんだ。そうなんだね。――きっと、あなたたちは本当なんだね」
「こいしちゃん……」
「さとりさんを捨ててどこかに行ったりしないんだね」
「する訳ないじゃない」
「そっか。そっかぁ、いいなぁ、さとりさん。やっぱりずっと、私なんかより強い」
乾ききった表情で、言った。
燐と空の元に行き、しゃがんで縄を解いた。
「私とは、全然違う」
「え?」
「なんでもない。ごめんね、無理矢理連れ出しちゃって。さとりさん凄く心配してるだろうから、早く帰ってあげてね」
「こいしちゃんは」
燐の問いかけに、こいしは答えなかった。代わりに、
「今まで私と遊んでくれてありがとう。とっても楽しかったよ」
偽物の笑顔を、満面に浮かべて。
二人が言葉をつむぐより前に、朝の空気に溶けるように、消えていった。
日が昇り、下る。
さとりは朝から暖炉の傍で、ひたすらテーブルに突っ伏して泣いていた。喉が痛い。嗚咽も涙も最早枯れていた。けれど、悲しみだけはひっきりなしに満ち、溢れ、こぼれ出てくる。仕方がないから、唇を噛んで耐えていた。
薪は燃え尽きて煤の小山になっていた。温度がだんだん低くなっていくのにも気づかず、ただそうしていた。
夕暮れの赤い射光が、テーブルまで届くようになった頃。
ぎい、と控えめな音を立てて、扉が開かれた。壁が一面、真っ赤に染まる。
顔をゆっくり上げる。絶望に満ち、憔悴しきったその顔を。
燐と空が立っている。夕焼けの逆光を受けて、影が伸びている。
「さんざん迷っちゃいまして」
「お燐が方向音痴なんだよ」
さとりに向けた笑顔は、いつも通りのそれだった。
「あ……」
言葉が、かすれて出てこない。
「お……おりん、おくう」
「ええ、さとり様」
「まだわたしと、いてくれるの」
「ええ、いますよ」
「どこにも、いかないで」
「さとり様を置いて行ったりしません」
「あなたたちと、いっしょに生きたい」
「どこまでもついていきますよ」
「ずっといっしょに、歩きたい」
「ええ、いつだって隣にいますから。寂しくなんかないでしょう?」
「……ええ。ありがとう。愛してる」
「あたいもです」
「私もだよ」
掴んだその手を握りしめて、震える口元を、どうにかほころばせた。
すっかり空は暗くなった。三人とも朝から何も食べていない為、空腹だった。
さとりがこしらえたシチューにかじりつくようにしながら、燐と空は事の詳細を語った。
「そう……こいしが」
では昨晩のあれも、やはり夢なんかではなかった。こいしの壊れそうなくらい寂しさと悲しみを湛えた顔。あれは本物の顔だったのだ。偽物の笑顔しか作れないのに、悲しみだけは純粋に顔を染めていた。
怨霊が騒いでいたのも――さとりはある事に思い至り、スプーンを危うく取り落としそうになった。
「お燐。あなた、前、怨霊について色々教えてくれましたよね」
「はい。霊魂が増え始めた頃でした」
「怨霊は何に、興奮したり凶暴になったりするんでしたっけ」
「憎しみとか、悲しみとか……大概負の感情です」
こいしは、最後に何と言った。何を思って燐と空を誘拐した。何を思ってさよならを言った。何を思ってありがとうを言った。
こいしは――どこに行こうと言うのだ。
「お燐、おくう。私はちょっと用事ができましたから、先に食べてて下さい」
急いで靴を履き、取っ手に手をかける。
「え!? 今からですか? 用事って」
「やらなくてはいけない事があるのです。待ってて。ちゃんと帰ってきますから」
暖炉にあたためられた小屋を出、さとりは雪の降る夜の中を走り出した。
息がけぶる。身を切る痛みも構わずに、一心不乱に突っ走る。さとりとこいししか知らない、秘密のバラの園へ。
「はっ、ふっ、こいし! こいしッ!」
荒く息を吐きながら、叫ぶ。誰よりも、さとりよりも、孤独な妖怪の名を。
樹々の間、踏み荒らされたバラ園が見える。月に照らされたその中心に、ぽつんと佇む人影。それを囲む、夥しい怨霊。以前より数は増えていた。
(カナシメ。ウラメ。ノロエ。ニクメ。お前はいつまでも一人だ。誰も救ってくれはしない……)
(そうだよなァ……オマエは一人ぼっちだったものなァ……オレには分かるぞ)
(オオオォ可哀想な覚の子。礫を投げられ、呪詛を吐かれ……家も食べ物も家族も無く)
(寂しかろう寂しかろう……こっちに来るがええ。きっと恨み辛みは晴らされよう)
月の光の下に、バラに囲まれて、虚空を仰ぐこいしがいた。
幾多の霊の囁きが、こいしを包みこんでいる。
「止めなさい! その子から離れて! こいし、私よ、さとりですよ!」
こいしは放心したように、宙に視線を固定したままだ。
霊たちはさとりに気がつき、一斉に襲いかかってきた。
(邪魔をするなよ……ヨウヤク新鮮な餌にありつけるのに)
(コイツも喰らおうか? アイツほど絶望に塗れちゃいねえが)
身体を押さえつけられる。地面に引き倒され、冷気を纏う腕にからみ取られる。
「こいし、こいしっ! お願い聞いて! 私はねぇ、あなたと過ごした毎日、楽しかったですよっ! お燐だっておくうだって、あなたの事が好きなんです! ねえこいし、あなたが眼を閉じた経緯も、あなたの心も、私には分からないですけど、あなたは今までずっと一人っきりで生きてきたんでしょう?」
冷気が、雪が、さとりの皮膚を侵す。
「私だって、ついこの前までそうでした。お燐に会ったのも、おくうに会ったのも、本当に最近なんです。それまで、私はずっとずっと、この森で一人暮らしをしてました。あまりに一人が長かったから、自分が寂しいなんて事も分からなくなってしまったくらいですから。あなたもそうだったんでしょう。私やお燐やおくうに出会うまで、一人は寂しかったでしょう」
それでも、力の限り叫ぶ。喉が潰れるくらいに声を張り上げて。
「……今も、一人だよ」
こいしは顔をさとりの方に向けて、呟いた。
「でも、もういいや。私、疲れちゃった。バラに埋もれながら幽霊に食べられて死ぬなんて、ロマンチックだと思わない?」
「私と一緒に帰りましょう」
「帰る家、ないもの」
「じゃあ、私たちと暮らしましょう」
「私の居場所はないよ。どこにもないんだ。覚を捨てたら、ますます一人になっちゃった」
「ありますよ。四人で住みましょう」
「ないのよッ! なかったの! あなたみたいに人の心に向き合えない弱い私に、誰が構ってくれるの? 誰が愛してくれるの? 誰が……誰が、私に……」
こいしの頬から水が伝いこぼれた。
初めて見せた、涙だった。
「……お燐も、おくうも、さとりさんの事が大好きだって言ってた。あなたたちの幸せを、どうして……どうして私が邪魔できるのよぉ……」
怨霊がこいしに群がる。こいしは身体中が弛緩したように、涙を拭わず、抵抗もしなかった。
「退いて! 退きなさいッ――想起!」
怨霊たちが騒ぎ、逃げ惑う。散り散りになり、道が開く。
疲労でふらふらする身を起こし、必死で立ちあがる。
身体は冷えきっている。震えが止まらない。
それでも、立って進むのだ。
目の前の少女に、さとりは何ができる。
死んでしまいそうなほど、絶望に暮れたこのちっぽけな少女に、何をしてやれる。
足を引きずって、こいしの元に。
震える肩に触れる。冷たくなった手のひらで。
古明地さとりに何ができる。
嫌われ、傷つける事しかなかった第三の眼で、さとりは何を。
かつての自分と同じ、それでいて正反対の道を歩いてきたこいしに、何を。
簡単だ。今のさとりは、知っている。
「想起」
だからさとりは思い出す。
燐の温度と、空の温度を。言葉を。心を。
冷たくなった肌に、温度が灯る。家族のあたたかさを想起する。
手のひらでこいしの髪をすくい上げる。涙に濡れた頬を撫で、拭ってやる。バラの棘がちくちく脚に刺さるが、気にならない。ただこいしを抱きしめた。燐にしたように。空にしたように。燐にされたように。空にされたように。
「あったかいでしょう」
「ひっ、ぐ、うぁ……あああぁああ」
「嫌われ者でもね、こんな事だってできるんです」
「うん、うん……あったかいよ。あったかい」
「第三の眼が見えないのなら、私があなたの眼になります。あなたの心の眼になります。そうすれば、きっと通じ合える」
「私も、私でも、家族になれる?」
「私とお燐とおくうにできて、あなたにできない道理はないわ。それに私、偶然妹が欲しかったところなの」
「そっか。あはは。ありがとう。――さとりお姉ちゃん」
燐と空は色々話し合って、結局さとりを追いかける事で合意した。
燐が興奮した怨霊から滲み出る甘い香りを察知して、バラの園まで来たときには、霊はみんな茂みの影で蹲って、泣いたり嘆いたりしていた。大方、さとりの想起でも喰らったのだろう。燐は苦笑しながら台車を回す。
「ほらほら。いつまでもこんなところで彷徨ってるからさ。さあ、逝った逝った。猫車のお通りだよー。彼岸逝きの猫車だよー」
燐の呼びかけに応え、彼らはすう、と白い線になって舞いあがった。天井の大穴に昇っていく。そのぼんやりした光が、雪と共に、バラの中のさとりとこいしを薄明るく照らし出した。
「綺麗だね。お燐」
空は無邪気に言った。
「ほんとだねえ」
燐は無邪気に答えた。
ちいさい小屋が、また一人分、狭くなるみたいだ。
§ § §
「こいし。お燐。おくう。私はちょっと職業を探してきます。あと家も」
雪解けの季節。森を流れる川が水かさを増してきた頃。さとりはテーブルに三人を座らせて、そんな事を切り出した。
「ええ? なんでいきなり」
「いきなりって事はないでしょう。見て御覧なさい」
カァカァ。にゃあにゃあ。わんわん。
今やさとりの掘っ立て小屋は動物小屋の様相を呈していた。燐や空が、冬の間に寒そうに震えてたからと言って何匹も小動物を拾ってきたからだ。実はこいしも隠れて数匹連れこんでいたし、当のさとりもこっそりやっていたので、今では狭い家に大量の動物がひしめいていた。
「山菜摘みだけでは最早あなたたちを養っていけません。狭いし」
「当てはあるの?」
こいしは白猫を抱きながら言った。猫は尻尾を振って手のひらを舐めた。
「一つ、あります」
言い置いて、さとりは都に向かった。
「本当か! 地霊殿を貰いたいってのは」
久しぶりの酒場で、勇儀は大声を上げた。グラスの酒が少しこぼれる。
「ええ。地霊殿というんですか。その建物」
「そうだ。地霊殿。かっこいいだろ。私がつけた名前だ」
「かっこいいですね。まあ、とりあえず、引き受けたいと思います。灼熱地獄跡の管理」
「それは願ったり叶ったりだが……また急な話だな」
「何と言うか……その、家族がね。増えすぎまして……」
「なんだ、ペットでも飼うことにしたのかい」
「ええ、まあ」
「そうか。あっちに行ったら、寂しくなるな。給料も出るから行商にも来なくなるだろうし。お前のことだから、わざわざここには来たがらんだろうし」
勇儀は酒瓶を持って、さとりに差し出す。さとりは空になったグラスに受ける。
「こっちから、たまに遊びに行ってもいいかな」
「ええ、勿論。小屋よりはマシなおもてなしができそうです」
「ははは。そいつは楽しみにしておくよ。んじゃまあ、さとりの新しい生活に」
かちん、とグラスを打ち鳴して、
「――乾杯!」
「お姉ちゃん、準備まだー? 遅いよー」
「今できました。よいしょっと」
小屋からは最低限必要なものだけを鞄に詰め、持っていく事にした。燐や空は動物たちを詰めたり抱えたりして、数を点検している。
こいしは衣類を詰めた鞄を背負い、花壇の花を摘んで、水を弾いた。
「よし。じゃあ出発しますか。地霊殿に」
さとりは建てつけの悪いドアを閉めようと四苦八苦したが、止めた。
「開けっ放しでいいんですか」
「まあ、いいでしょう。無理に閉めるのも、なんだかつまらないじゃない? 誰かに住んでもらっても構わないし」
「じゃあね、お花さん。ラナンキュラスだっけ。いつかまた来るから。それまで枯れないでね」
「大丈夫でしょう。あなたがめちゃくちゃにしたバラも、すっかり元通りになってましたから。回復力が強いのね、地底の植物は」
「それはよかった。――じゃあね」
手を振って、小屋に別れを告げる。
森は至るところから水が滴って、みずみずしく輝いている。でこぼこして、歩きにくい獣道を、四人は進む。
歩幅も速度も違う、四人の姿がある。
不器用で、つまづいて泥まみれになる事もある。歩き疲れてしまう事もあるだろう。
家族になったばかりの四人だけれど、不器用なりに、歩幅を合わせて並んで歩いていける。隣を歩いてくれる人がいる事を、ちゃんと分かっているから。
地霊殿組で久々に新鮮な話が読めたのでこの点数で。
綺麗に纏まったお話でラストも優しい希望で満ち溢れている。うん、良い読後感だ。
でもそれだけなんです、正直言って。
長編ならではのスケールが感じられない、四つの孤独な魂が惹かれあっていく過程に感情が揺さぶられない。
さとり様はともかく、燐や空そしてこいしちゃんがあやふやなイメージでしか頭に浮かんでこない。
もっと三人の内面描写が欲しかった、ぬくもりに対する激しい飢餓感を描いて欲しかったです。
ついでに言えば、心を閉ざして無意識に身をまかせたこいしに何故怨霊が引き寄せられたかの説明も欲しかったかな。
怨霊に憑かれたが故に心を閉ざしたのならば納得はできるのですが。
最初にちょっと触れたように、本来なら投稿二作目の作者様に要求することじゃないのかもしれません。
でもなぁ、ついつい期待しちゃうんですよ、貴方の作品を読んでいると。くそぅ、我ながらいやな性分だぜ。
個人的には今作に及第点以上はつけられない。
でも、いつかその先を私に見せ付けて吠え面かかせてくれると信じています。ガッツだぜ!
次回作も期待しています
どことなくほっこりしました。
やはり、頭というのはそういう人がなるものなんでしょうね
素敵な作品をありがとうございました
以下、コメント返しになります。
5さんへ
地霊殿みたいな豪邸じゃなくって、たまには自給自足の生活をする彼女たちもありかなと思って書きました。さとりには森が似合うと思うのです。なんだかメルヘンな感じがして。
6さんへ
めっきり冷え込みましたね。私も最近風邪気味です。この小説でほんの少しでも寒さを忘れてもらえたなら、よかったです。
7、奇声を発する程度の能力さんへ
そう言ってもらえると嬉しいです。寒いのは辛いですから。誰かの心に温度を分けてあげられるような話を書きたいですね。
8、コチドリさんへ
丁寧なアドバイスありがとうございます。心情描写の不足。これは大きな課題ですね。ここぞという場面で必要な描写を書ききる力、まだまだ足りないようです。及第点もいただけて小躍りしたい気分ですが、次はもっとおもしろい小説を書けるよう頑張りたいと思います。
9さんへ
凄いなんて言ってもらえて感激です。次回作は期待にこたえられるものを是非書きたいです。
10さんへ
地霊殿の面々は、いろいろ昔を想像できて楽しいです。この四人として揃うまではどんなふうに生活してたんだろうと考えると、とってもわくわくしてきます。このわくわくが伝わるような小説を書けるようになりたいです。
16さんへ
さとりとこいしは姉妹だけど、全く似てないと思うんです。似てないからこそ、お互いがお互いの足りない部分を埋めあって、一緒にいられるんだと思うんです。そこにはきっといろんな葛藤があった筈。いつかそれを掘り下げて書いてみたいです。
18さんへ
面白いなんて言ってくださると、本当に書いてよかったと思えます。やっぱり書き手として一番嬉しいのは誰かの「面白い」になれる事だなあと、しみじみ感じます。
22、愚迂多良童子さんへ
さとりは私も大好きです。あるじとして、姉として、普段は凛として精神的にも強いけれど、その奥には弱さもあるんでしょうね。それを分かってるから、おりんやおくうも安心して傍にいてあげられる。可愛いですね。そんな地霊殿の風景で私の頭はいっぱいです。
23、DD51さんへ
展開が駆け足だった、ご都合主義、これは大変な穴ですね。猛省します。心情の流れをくわしく、丁寧に。小説にもっとも大切なものが欠けていたようです。こうしてアドバイスを頂くと、反省点がざくざく出てきて勉強になります。次は頑張ります。
クレッシェンドをかけていくような、ですか。嬉しいコメントです。少しずつ、少しずつ近づいていく四人の様子を書きたかったのです。地底という厳しい環境のなかで、彼女たちはこれからどう生きていくのでしょう。あの四人なら、どこででも楽しくやっていけそうですね。