この作品は最初に投稿した作品『Cross ep』と繋がっています。
そちらを読んでいないと意味不明なので、是非そちらを読んでみてください。
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霧深いあの街での出会いから、一年の月日が流れた。
私は相変わらず館の様々をこなす吸血鬼のメイドであったし、彼女は相変わらず門で暇潰しをしている門番だ。
「咲夜ちゃん」
その日の暮れ、いつものように門の前を掃除していると、塀に寄り掛かり眠っていたはずの彼女に突然、声をかけられた。
「おはよう」
「おはよう」
私は皮肉のつもりで言ったのだが、いつものように悪びれる様子を微塵も見せずにそう答える彼女。
「なんだ?」
「今晩、お出かけしない?」
「……構わないけれど」
「じゃあ決まり」
そう言ったきり、また目を瞑り眠り始めた。
私は首を傾げたが、とりあえず掃除を進めることにした。
「うん、よく晴れて、綺麗な夜だ」
月の光が世界を支配する時間。私達は、名も無い池の畔に並んで腰掛けていた。
「やっぱり池っていうのは、夜のほうが景色が映える気がする」
「で、何の用だ?」
彼女のそんな感慨は無視して、用を急かす。
彼女は特に気分を害した様子も無く、懐を探り、そして小さな小奇麗な箱を取り出し、私にそれを差し出した。
「なんだ?それは」
「一周年記念」
「は?」
「今日は、私と咲夜ちゃんが出会って、一周年の日なんだよ。それの、記念のプレゼント」
彼女も、そのことを覚えていたらしい。私はそのための記念プレゼントなんて用意していないけれど。
受け取ると、それなりの重さを感じた。
「開けていいか?」
「どぞ」
包みを丁寧に開き、そしてプレゼントを確認した。
「……銀時計」
精巧な作りの、いかにも値が張りそうな銀時計だった。綺麗だな、と素直に思った。見る者を引き込むような不思議な雰囲気がある。チとシの中間のような音を立てながら、針が時を刻んでいる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は微笑んで答えた。
「よくこんな代物を手に入れることができたな。見つけたとしても、相当高かったろう」
少なくとも、表の市場に出回るような代物ではなかった。
「私の全財産を使って手に入れました」
「なんだ、意外に金持ちなのか?」
「まあ元退治師だし、どこぞの殺人鬼を退治した報酬金もあったし」
「……ああ」
なるほど。
「ありがとう」
もう一度礼を言って、腰に銀時計を付けてみた。
「似合うよ」
「どうも。それと悪いが、私は記念品など用意していないぞ」
「いいよ、私が勝手にプレゼントしただけだし」
「そうか」
「次は十周年のときになにかプレゼントしよう。その次は百周年」
「なんだ、ずっと私の傍にいてくれるのか?」
私の心の底の願いのようなその疑問に、彼女はごく平然と、頷いた。
「私は君が望む限り、ずっと君の傍にいよう。その時計に誓ってもいい」
「そうか」
彼女独特の、言葉以上の深みを覗くことができないその言葉に、私は頷き、笑った。
「じゃあ、約束しろ」
「誓いじゃなくて?」
「約束でいい」
「誓いと約束の違いってなんだろう?」
「約束は破るものだ。ただし」
「ただし?」
「約束を破れば、怒られる」
「なるほど」
彼女はからからと笑い、そして銀時計に手を置き、言った。
「約束しよう。私は君が望む限り、ずっと君の傍にいよう」
「そうか」
私は頷き、そして雑談を交わしている内に、夜が明け、空が緋色に染まり始めた。
私はいつものように、紅い館を隅から隅までほぼ一人で掃除していた。
二、三日掃除をしなくても特に問題は無いのだが、まあ、日課というより最早癖みたいなものだ。僅かな塵屑にも体が反応するようになってしまった。掃除は嫌いではないし、べつにいいのだけれど。
屋敷全体の空間を思い描きタイムスケジュールと進行度合いを照らし合わせシミュレートしながら、所々で時を止めて黙々と掃除を続ける。充実感は無いが、特に労力も感じない。
夕飯までの時間と現在の進行度を照らし合わせながら、さて今日の夕飯は何にしようかと考えていたところで。
「…………チッ」
思わず、舌打ちが出た。
「はろー」
そんな緩い挨拶に、ため息も出た。タイムスケジュールが音を立ててぼろぼろと崩れる。
美しい金色の髪に、妖艶に光る金色の瞳。人間とは決定的に違う、異様な白い肌。根本を揺さ振る、見るだけで苛々とするその笑み。
スキマ妖怪、八雲 紫だ。
またいつもの如く、まるで当たり前みたいに裂けた空間に腰掛け宙に座っている彼女。このところ毎日と言っていいほど紅魔館に不法侵入している。
「なに?」
「お茶」
「ここから九つ目の部屋が厨房」
「貴方、メイドじゃないの?」
「お茶漬なら用意するけど」
「あ、お願い」
帰れよ。
最近、八雲 紫の姿があちこちで確認されている。被害報告はそれ以上だ。
この頃は、私に興味を持った様子だ。皆スキマ妖怪の興味が私に向けられほっとしているが、持たれたほうはたまったものではない。
「どうしてもというのなら、夕飯まで待って」
「つれないわねぇ」
「なにが?」
「お茶とお茶菓子でも頂きながら、貴方と二人でゆっくりお話ししたいのに」
「残念だけれど、あなたとの会話よりもそこらに散る塵のほうに関心があるの」
「つれないわねぇ」
くつくつと笑うスキマ妖怪。あー苛々する。
「直接的な言い方になってしまうけれど、正直あなたの存在は迷惑なのだけれど。白の家具にできたシミくらい見てるだけで苛々するの」
「貴方は面白いわね。時を操る能力なんて、人間ならばハイエンドの極端よ」
私の罵声を完全に無視し、勝手に喋くりだす彼女。私は何かを諦める。
人間としては、ではなく、人間ならば。
私だって、それに気付いていないわけじゃない。昔どこぞの退治師に言われたその意味が、成長するにつれ、理解できてきた。
「で、何用なの?」
「人間観察」
「それなら、幻想郷の果ての神社に行けば?」
「あそこ、お茶菓子がいつも一緒なのよ」
「お茶菓子なんか出さないわよ」
「自分が何者なのか、興味ある?」
聞けよ。もしくは帰れ。是非帰れ。
心の中で絶賛帰れコールを叫びまくったが、彼女はにやにやと笑んでいるだけだった。わたしはまた何かを諦め、適当に返答する。
「無いと言えば、嘘になる」
「教えてあげようか」
「結構」
「つれないわねぇ」
彼女は肩を竦めたが、それは私の正直な答えだった。自分が人間だろうがそうでなかろうが、別段どうでもいい。
「貴方、いつもつまらなそうねぇ」
彼女の話は本当にころころとよく変わる。彼女と話すときは会話のキャッチボールではなく、言葉のノックといた感じだ。
「そう?」
「もったいない。こんな素晴らしい世界なのに」
大袈裟に嘆くようなポーズを取る彼女。私は肩を竦めた。
「夢のように?」
「夢のように」
「夢のような現実、ね」
「そう、夢のように現実。素晴らしいでしょう」
「そうね」
素晴らしいですね。
「素晴らしい現実に連れて行ってあげましょうか?」
「は?」
突然の意味不明な言葉に、私は顔を顰めた。
打ち手であるはずの彼女の言葉が変化球のようであることが、多々ある。何度受けてもその球に慣れない、取り損なってしまう。べつに慣れたくもないけれど、やめてほしい。そんな願い、彼女に対してはただの単語の羅列にしかならないだろうけれど。
「素晴らしい現実に連れて行ってあげましょうか?私にならそれができるのだけれど」
「…………結構」
意味不明だが、ろくでもないことは間違いないだろう。彼女の意味不明は大抵マイナスに働く。
「そう?」
「ええ」
「素晴らしいのに」
「そう」
「素敵な世界よ」
「へえ」
「美しい世界なの」
「あ、そう」
「残酷だけど、温かいわ」
「ふむ」
「素晴らしい世界なの」
「しつこい」
その後も、やけにしつこくスキマ妖怪は絡んできた。ナイフで切り裂いてしまいたい、と幾度も思ったが、不都合なことに彼女の力はハイエンドのその先だ。冬には冬眠するらしいから今度その時を狙って襲ってやろうかなどと彼女が細切れになる姿を想像しながら、べとべとと粘着する言葉の砲撃に耐える。
が、しかし、ついに根負けする。
「ああ、はいはい。じゃあ、気が向いたらちょっと覗いてみましょうかね、その素晴らしい現実とやらを」
やけくそだった。
彼女はにんまりと意地悪く笑み、頷いた。
「そう。ではそのように」
意味深な嫌な予感のする言葉を残して、スキマ妖怪は消えた。
私は首を傾げたが、とりあえず掃除を続けることにした。彼女がいたところを消毒殺菌しなくてはいけない。
翌日。
私はいつものように、紅い館を隅から隅までほぼ一人で掃除していた。
今日はよく晴れているので寝具などの洗濯を一度に済ませてしまおうかと考えながらなんとなく外を見ると、お嬢様の日傘が目に入った。
こんな時間に珍しいなと窓に近寄りよく見てみると、誰かと何かを話している様子だった。話し相手は門が死角になって見えないが、多分どこぞの門番だろう。
お嬢様はただ黙って相手の話を聞いていて、そしてなんだか神妙に頷き、一つため息を吐いて(おそらく)美鈴に手を振り館へと戻って来た。
私は首を傾げたが、それよりも日が高い内に洗濯を済ませてしまおうと窓に背を向け、歩き出した。
それから数時間後。
大量の洗濯物を庭にずらりと並べて干している最中だった。純白のテーブルクロスのしわを伸ばしていると、風の音に混じって誰かの叫び声が聞こえた気がした。
「…………?」
はためく純白のシーツの影からそちらを覗いてみると、お嬢様の妹君、フランドール・スカーレットが美鈴に向かって何かを叫んでいた。また門が死角になって見えないが、叫びをぶつけている相手はおそらくまたどこぞの門番だろう。
耳を澄ましてみると、「どうして」であるとか「巫山戯るな」などという声が聞き取れた。何をやったんだあの門番は。
しばらく妹様は叫び続けたが、やがて押し黙り、最後に何かを呟き、館に戻り始めた。館に戻っていく妹様は、なんだか失望したような、絶望したような、とにかく暗い顔をしていた。
私は再び首を傾げ、美鈴に何があったのか聞こうかなと一瞬考えたが、しかし今はそれよりも早く洗濯物を全て干してしまおうと門に背を向け、純白のシャツのしわを丁寧に伸ばし始めた。
館に戻り、それとなくお嬢様を観察してみたが、特に変わった様子はどこにもなかった。なんの話だったのだろうか?気になるが、今は洗濯物を図書館に届けるほうが先だ。
図書館に面した廊下まで来た時、私は今日の夕食のメニューを考えていたのだが、ふと気になるものが目に入った。
廊下の角に消える、紅い髪。
……美鈴?
私は立ち止まり、しばらく廊下の角をぼんやりと眺めていた。ここに来たということは、図書館に、つまり病弱の魔女、パチュリー様に用があったということか?なんの用だったのだろう?
気になったが、私も図書館に用があるのだ。本人に聞いてみるのが早い。
扉をノックすると、不自然に、まるで魔法でも使ったかのように響く声で、「どうぞ」と返事があった。扉を開ける。
パチュリー様は、いつものように長机に肘を付き分厚い魔道書を読んでいた。
「洗濯物です」
「そこに置いておいて。あとで小悪魔に片付けさせる」
「はい」
洗濯物を丸椅子の上に置いて、それとなくパチュリー様を見やる。変わったところは、特に無い。
「さっきここに、美鈴が来ませんでした?」
「咲夜」
「はい?」
パチュリー様は魔道書を開いたまま、しかし顔はこちらに向けてじっと私を見つめた。この人が誰かと話すときに人の顔を直視するなんて、珍しい。
「今日の夕食は、レミィとあなただけで頂きなさい」
「え?ああ、美鈴となにか用でも?」
「そうじゃないけど。まあ、そうして」
「はあ」
「妹様の分もいらないわ」
「……分かりました」
なんだか腑に落ちなかったが、まあいいか。
「失礼します」と頭を下げて図書館から退出。さて、洗濯物を取り込まなくては。
洗濯物を取り込み終わり、一息付いて空を見上げる。紅魔館の夕食はその名称の通り、夕刻に行われる。今日は二人分の用意だけでいいので、時間に少し余裕がある。
ちらりと門を見る。ふむ、さっきのことも含め、ちょっとお話でもするか。
「美鈴」
門に向って声を掛けたが、返事は無かった。首を傾げる。
「美鈴?」
館の外に出て、いつも彼女がもたれて寝ている塀を見やる。
誰もいなかった。
「…………?」
どこに行ったのだろう?
また有給とか巫山戯たことを言って遊びに出かけたのだろうか?
…………。
まあ、いいや。
顔が顰まるのを感じながら、私は館に戻っていく。
「パチェは?それと私の妹」
「今日は美鈴の分も含め、夕食はいらないとパチュリー様が」
「…………そ」
そっけなくそう言って、何故か舌打ちをした。
広いテーブルに腰掛けているのが私達二人だけだと、なんだかもの寂しかった。
いや、もの寂しい、という表現は、少し違う。
不穏、とでもいうのだろうか。
なんだか、嫌な予感がした。
かちゃかちゃという音だけが響く夕食が済み、食器類を片付けようと立ち上がろうとしたとき、
「咲夜」
どこか射抜くような冷たい声で、お嬢様は私の名を呼んだ。
「はい」
何故か食事が終わった後にお嬢様に呼ばれることは、予感していた。その声に訝しみ少し身構えたが、表には出さずに平静に返事をする。
「片付けはいいわ。あとでパチェのとこから小悪魔を借りて片付けさせるから」
「……はあ」
適当に返事をしながら、こくりと、ばれないように唾を飲む。なんだか、全身が絞られるかのような感覚がある。背筋がぞわぞわとする。部屋の照明が少し落ちたような気がする。お嬢様の声が引き金になって、この部屋に在る存在という存在が不吉なものに豹変した。実は昼間からずっと感じていた不穏の正体が、今や確かな質量を持ってこの食堂の全てを押し潰そうとしているようだった。
「一つ、お話があるの」
「お話ですか」
どんな話であれ、聞きたくなかった。聞きたくなかったが、聞かないわけにはいかないのだろう。
小さくため息を吐き、席に座り直す。あまり面倒な話じゃなければいいけれど。片付けをやってもらえるなら、さっさと話を聞いて、久しぶりに自室でぼーっとしてようかな。いや、美鈴のところに行こうかな。そうしよう。お嬢様の話が長くならないといいけれど。
そんな、務めて日常のありきたりを思い浮かべながら、お嬢様の話を待った。
しかし、最後は、最後の心配だけは、杞憂に終わった。お嬢様の要件は、たった一言で終わった。
「門番は、今日限りで退職するわ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
なんの前置きもなく突然告げられた意味不明な通告に、間の抜けた、気の抜けた、音以上の意味をあらゆる意味で持たない空気みたいな声が出た。
「今日限りで、門番は退職」
「……………………………………………………………………………………………何故?」
なんとか、意味を持った音を絞り出す。
声を発しはしたが、頭の中は一面真っ白だった。ショックではなく、混乱による空白だ。あまりにも意味が分からない。何一つとして意味の分かるものが無い。
しかし、意味なんてそんなもの分からないほうが良かった。次のお嬢様の一言では、まだ意味が分からなくて理解できなくて単なる混乱で済んだけれど。
「寿命よ」
「…………は?」
「寿命。門番は寿命なの」
「は?」
「存在する者には終わりが在る。それは蓬莱人だって例外なんかじゃない。門番の場合は、門番のお終いの理由は、寿命なの」
「…………意味が、分かりません」
何も、分からない。
何が。
どうして。
その意味。
何も、分からなかった。
思考を展開することが一切できない。脳髄が空転している。
「寿命はあと一月も無い」
「…………」
「話はこれでお終い。私はもう行くわ」
「ま、待ってくださいっ!」
立ち上がろうとするお嬢様に縋り付くように叫び声を上げたが、お嬢様は私を一瞥すらしなかった。
遠ざかるお嬢様の背を追いかけようという思いはあったが、意思と肉体には繋がらなかった。私は机に手を付き立ち上がった体制のまま、お嬢様が消えた紅い廊下を茫然と見つめ続けていた。
あれから一時間ほどの時が流れた。
私は縋り付くように椅子に腰を下ろしたまま、ぼーっと空の食器を見つめ続けていた。まだ、お嬢様の話の意味が理解できないでいた。
突然にも程がある。寿命?それはいったいどういう意味なのだ。
死?美鈴が?意味が分からない。
頬をつねってみる。
痛い。当たり前だ。
パチュリー様と会わなければ。
ようやく一段落落ち着いた脳髄で、霧がかかったような霞んだ思考でぼんやりとそんな声を発し、ほとんど無意識で体を動かす。
唾を飲み込もうとしたが、からからに乾いた喉につっかえて口蓋に気色悪い感覚が広がり、いがらっぽい荒い息を吐き出した。
コンコン。
ノックすると、すぐに返事があった。
「……どうぞ」
「失礼します」
パチュリー様は昼間と同じように長机に肘を付き分厚い魔道書を読んでいた。
しかし、図書館というこの空間は、もはや昼間とは別物だった。食堂と同じように、心を蝕む重い空気に満たされている。
彼女の無表情な横顔を見つめ、一呼吸置き話を切り出そうとしたが、一言目を発しようとした瞬間パチュリー様の無感情な声に被せられ、声は喉の奥に沈んでいった。
「そこに座りなさい」
言って、彼女の正面にある椅子を指差す。言われた通りその椅子に座ると、パチュリー様は無表情のまま、静かに語り出した。
「あの子が珍種であることは知っているわね」
「はい」
「人は食わない。その種族特有の特殊な能力があるわけでもない。その有り様は人間と酷く酷似している。けれど、人を越えた再生能力と長い寿命を持っている。人を脅かすわけでもない、妖怪として存在している意味が分からない。それが、彼女」
「はい」
「そんな彼女だけれど、でもその力……いえ実力は、驚嘆すべきもの。吸血鬼と対等に戦い、時を止めるなんていう巫山戯た能力を持つ殺人鬼を捩じ伏せた」
「…………はい」
「だけれど……だけれどそのたびに、通常の人間、また下等な妖怪なら致命傷であるはずの傷を負ってきた」
「…………」
「再生上限の限界。寿命を削り取って体を再生するという点は、人間と同じだったのよ。あの子は」
「……………………」
「……話はこれでお終い」
パタンと魔道書を閉じて、茫然自失の私に、彼女にしては本当に珍しい、憂いの表情を向けてくる。
「行きなさい」
行きなさい?
どこに?
どこに行けというのだ?
なんにも分からない。
いつの間にか私の後ろに回り込んでいたパチュリー様に手を借りて立ち上がる。下半身の感覚が無かった。
「行きなさい」
もう一度、耳元でそう囁かれる。
何処に行けばいいのですか?という問い掛けすら発せないまま、図書館から追いやられた。
結局私は、自分の部屋に逃げ込んだ。
状況を整理するとか、そんな理知的な思考から生まれた結果なんかじゃない。気付いたら、ここにいた。
ベッドに腰を下ろし、窓で切り取られた藍色に染まった空を見上げる。
まだ、空は明るさを保っている。
じきに、暗くなる。
暗く。
光が、消えて……。
「う、――――うえぇえええぇええ――――――――――…………」
酸性の液体をベッドの上に吐き出した。喉が焼け爛れるような感覚がする。
「う、うう―――――」
ようやく。
このときようやく、現実に気付き始めた。
死ぬ。
美鈴が。
なんで。
約束したのに。
忘れちゃったのか?
怒られるのに。
「ぐ、うう…………」
呻きながら、窓を見つめる。
明度が落ちていく空に、白銀の月が浮かんでいる。
ああ、そういえば。
今日は十六夜だ。
立ち上がり、扉を蹴破るように開けて外に飛び出した。
時間を止めることも忘れて、美鈴を探し続けた。
いない。どこにも。
もうどこかに行ってしまったのだろうか。
――どこに行ったんだあの馬鹿門番。
「う、ぐうううう…………」
時々しゃがみ込んで酸性の液体を吐きながら、それでも探し続ける。
そして。
「……あ………………」
いた。
まだ、この世界に存在していた。
彼女は、草以外には何も無いだだっ広い草原に、私に背を向ける形で、一人ぽつんと立っていた。
「………………………………な」
呼吸を整えながら、紅い髪を夜風になびかせ沈黙している彼女の背後に立つ。
「なに、やってるのよ。こんなところで」
「…………待ってた」
彼女は振り返り、いつもの微笑みを私に向けて、それだけ言った。
「待ってた、って」
拳に力を入れ、掌に爪を喰い込ませる。そうしないと、今にも意識が途切れてしまいそうだった。
さっきまではそんなことはなかったのに、あの心を蝕むような重い空気が、いつの間にかこの世界全体を包んでいる。歯を食い縛り足に力を込めていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「どれだけ探したと思ってるのよ」
「…………」
体中の力をかき集め、重い空気に負けないように強く発したその言葉に、しかし彼女は、ただ沈黙し微笑んでいるだけだった。
数秒待っても。
数分待っても。
数十分待っても。
もしかしたら数時間、そうやって黙ったまま、だた向き合っていたかもしれない。
それでも彼女は、沈黙し微笑んでいるだけだった。
そんな彼女の悲しげな表情を見て。見つめて。見つめ続けて。
やっと私は、お嬢様の話の意味を、パチュリー様の言いたかったことを、この現実を、理解した。
理解して、ぽっかりと、頭の中に暗い穴が空いた。
地面が、無音で崩れ始める。
なんとか足を踏ん張って、宙に吊り下がる。
世界の景色が消える。
遠近感が失われる。
彼女と私が存在するこの場所以外の世界が、消失していく。
色彩と立体が消えた世界に、二人ぽっちで佇む。それでも彼女は、沈黙し微笑んでいるだけ。
「……………………………………………………どうして?」
ぽつりと、呟く。
その瞬間、吐き出した酸性の液とは比べ物にならない炎の塊のような液体が一滴、私の中にゆっくりと落ちていった。
「――――どうしてッ!」
炎が燃え上がる。
頭の中が白銀の炎に包まれ、紅い髪を持つ彼女以外の景色が消え失せ、内側で燃え盛る炎の音で満たされそれ以外何も聞こえなくなる。
「どうしてッ?どうして?言ったじゃない!あんな得意げな顔で、言ったじゃない!言って……、い、言ったのに!お、お前が、お前が言ったんだろう!?お、お、お前が、言ったのに……なのに、なのに……どうしてッ!答えろッ!なんで……なんで!ふ、巫山戯るな!い、いい、いい加減にしろッ!どうして……!き、君が、君が、望む限り――――。な、なんで……わ、私に……お、お前が……言ったのに……」
私の叫びをその身に受けても、彼女は何も言わない。
頬を流れ落ちる熱い液体に気付く。袖でぐしぐしとそれを拭い、腰の銀時計をもぎ取り、彼女に向かって投げつける。銀時計は彼女の胸に当たり、地面に落ちた。
「覚えてるか?」
「……うん」
彼女は銀時計を拾い上げ、無表情で頷く。
「そう。じゃあ」
懐から、一本の銀のナイフを取り出す。
それを彼女に、突き付ける。
「いまから、あなたを殺す」
赤色に染まっていく世界の中で、彼女の紅い髪だけが映えて見える。
「あなたを、許さない」
約束を破ったら、怒られる。当たり前だ。
彼女はそんな私を見て、懐に銀時計を仕舞い、そして不敵に、彼女らしいあの不敵な笑みを、顔いっぱいに浮かべた。
「いいけれど、もう一つの約束は、まだ有効だから」
「…………もう一つの、約束?」
「これは私が勝手に、自分自身に約束したことなんだけどね」
すっと、構えを取る。見慣れた、あの体勢。聞きなれた、この不遜な声色。
「君を殺人鬼にはさせない」
「――――巫山戯るなッ!」
ナイフを渾身の力で投げつける。同時に時を止め、懐から二本目のナイフを取り出し、彼女の背後に回り込む。
時が動き出すと同時に、彼女の頸動脈へナイフを走らせる。
まるでいつかの夜の再現のようだった。
彼女は防戦一方だが、確実にこちらの攻撃を避けてくる。
私は攻戦一方だが、複数の能力を同時に使うため、無駄に体力を消耗し続ける。
ただ、あの夜と違う点は。
あの夜から人間のように成長した私は、肉体の限界上限が格段に上がっていること。また、各能力もレベルアップしていること。
あの夜は手加減していた彼女は、今はその手加減を解いて私にぶつかってきていること。
成長した今なら、それが分かる。
分かってしまう。
彼女がこの期に及んで、攻撃のインパクトの瞬間には加減していることが。
本気を出せば、防戦一方にはなっていないだろうに。
それでも、彼女はさも余裕そうな笑みを浮かべて拳を鋭く振るってくる。
「馬鹿」
時を止め投げつけたナイフを避けて、蹴り込んできた彼女の長い脚を最小限の動きでかわしながら、呟く。
しかし。
あの夜と歴然と違う点は、もう一つ存在する。
それは、私の持つ奥の手が、今は一つではないということ。
「……そろそろ、私の奥の手其の一を見せてあげるわ」
「それは光栄」
言いながら足払いを仕掛けてくる彼女から時を止め飛び退き、距離を取る。
時が動き出し、同時にすかさずこちらに殺到してきた彼女に、私も地を這うような姿勢で突進する。彼女は刹那ぴくりと反応したが、構わず突っ込んでくる。
限界まで肉体活性し腕を振り、最高速でナイフを数本投げつける。そのナイフは有り得ない速度、私の肉体活性の力を考慮しても有り得ない超絶した速度で彼女に襲いかかる。
今の私は、時を加速させることもできる。もちろんそれは、奥の手なんかじゃあない。
「――――!」
彼女はナイフの群れに目を見開いたが、この能力はとっくに彼女に対し何度も見せた。彼女は横に飛び、まるで猫のように空中で横向きに回転した。
ここだ。
呼吸を整えるまでもなく、時を停止させる。
空中で無防備な彼女は、無防備なままに空中に張り付けられる。
私の奥の手其の一。これは昔と変わらず、停止した時の中で、直接攻撃により喉を切り裂き、心の臓を貫き相手を始末するというチートスキル。相手は動けないのだから、どうしようもない。
このスキルは乱用できない。
何故か?
それは、時間とは段差だからだ。
一秒という段差。一コンマという段差。それらは等しい。何秒だろうと何時間だろうと、過去と現在には越えられない段差があるのだ。
だから通常、私は時の止まった世界で、相手に直接干渉することはできない。時間が停止した世界は、現在が続く世界だ。そしてそんな世界で通常の存在、つまり“現在”としてそこに存在する私には、当然“過去”も生まれることになる。現在の平行線の世界に存在しながら過去が存在する私は、つまりその世界と存在位置そのものが違うのだ。私にとってその世界は“過去”でもあるのだから。だから、どんなに相手に近付こうと、直接相手に干渉することはできない。
無理矢理その段差を越える術が無い限りは。
これは力技だ。ごり押しで段差を越え、相手に干渉する。だから、凄まじく力を浪費する。
ただ、確実に相手を始末できるのだ。そのくらいのリスクは当たり前だし、むしろ低燃費の、まさに法外技だ。
彼女も、このタイミングでこの奥の手が来ることが分かっていただろう。
彼女は、いったい今どんな表情を浮かべているのか。
分からない。
何故なら。
「――――ぐっ!」
堪らず、腕で目を覆い隠す。
目を焼くそれに対し。
彼女は、空中で回転すると同時に、私に気付かれぬようそれを私と彼女の間に放り投げていた。
それとは。
閃光弾だ。
「う、ぐううぅう……!」
時を止めたことが、裏目に出た。空間に張り付けられたその凄まじい光は、一瞬ではなく、“現在”としてこの世界に存在し続けている。消えない閃光から思わず顔を反らした瞬間、時が動き出してしまった。
「くっ――。くそ……!」
奥の手其の一は、始まる前に終わってしまった。
閃光を直視し、私と同じく視力が一時的に零になったはずの彼女はしかし、まるで私が見えているかのようにこちらに突っ込んでくる。何故分かるのか?それは彼女と同じように、気配で彼女を見ているからだ。ただ、このスキルは彼女と私では雲泥の差、今この状況は彼女が絶対的に有利だった。
私の、奥の手其の二が無ければ。
彼女が、腕を振りかぶるのが分かる。
そう知覚したときには、私はぶん殴られ吹っ飛ばされているはずだった。
そうは、ならなかった。
「……………………う、ふ……」
彼女の、呻き声が聞こえた。
「ふ、ふ…………う、ぐっ………………。…………ふ、ふふふふふ……」
段々と、視力が回復してきた。
掠れた視界に、唇を曲げ笑う彼女が見える。
後ろから私に胸を刺され、地に膝を付き私を見上げ笑う彼女が。
彼女を刺した私は空に消え、彼女は片手も地に付き、それでも笑みは崩さず私に語りかける。
「なんだ、読んでたの?私のお手製閃光弾」
不意を付かれ閃光弾をまともにくらった私が即座に能力を発動できるなんて、先読み以外では不可能だろう。しかし。
「いえ、全然。予想外だったわ。まさか時を止める能力に対し、あんな手があるなんて。……でも。でもね。あなたが、何かしらの方法で私の奥の手其の一を破ってくることは、分かっていたわ」
閃光弾の強烈な光とは異質の、鮮明な光を宿したその瞳を見下ろしながら、言う。
「あの手は、前にも見せた。あなたが一度見せた手に対し、なんの対策もしてこないなんて、有り得ない。私は、あなたが奥の手其の一を破ることを前提とした策を立てたのよ」
「…………そりゃ、どうも。恐悦至極。…………う」
うええ、と、大量の血を口から吐き出す。
「…………そして、今のは、……次元干渉だね」
「そう。その通り」
私は、頷く。
次元干渉。
次元干渉は空間干渉の一種だと思われがちだが、次元干渉はそんなものじゃない。
次元というのは、分岐路で無数に分かれた可能性のこと。パラレルワールドと言えば分かりやすいか。
例えば、指を動かす。すると指を動かした現在と動かさなかった可能性に分岐する、それだけじゃなく、どのような角度で、速度で、タイミングで、それら様々な要素で無数にあったかもしれない現在として分岐する。次元干渉はその可能性に干渉する能力。つまり因果律への干渉だ。
つまり彼女を刺したあの私は、分身などではない。私がそうなっていたかも、そのような行動をしていたかもしれない、可能性だったわけだ。
時間の段差を越え、因果律の迷宮を掻き分け発現する、至高の能力。
今の私の、新しい奥の手。
「ふ、ふふふ……。凄いね、流石、咲夜ちゃん……だ……」
息も絶え絶えに、しかしはっきりとした声で言う彼女。
だけれど。
「騙されないわよ。心臓を刺したくらいで、あなたは死なない。昔のように、油断はしないわ」
彼女に対して油断は禁忌。瞳の奥のその光が消えない限りは、刹那たりとも気を抜いてはいけない。
一歩一歩、ゆっくりと彼女に近付く。
彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、詰め寄る私を見上げている。
ナイフを最高速で二本、投げつける。
彼女は一本はなんとかかわしたが、二本目は避けられなかった。太股に突き刺さり、地に磔にされる。
懐から、最後の一本を取り出す。
十六夜の月に照らされ、銀のナイフは白銀に輝く。
彼女の目の前で、立ち止まる。
「……お終いよ」
ナイフを、振り上げる。
彼女は、まだあの笑みを浮かべている。
あくまで強気に。
あくまで傲慢に。
あくまで不遜に。
あくまで余裕に。
あくまで豪気に。
あくまで、―――優しく。
「……………………何?」
思わず、尋ねてしまう。
なんなんだ?と。
何か言いたいことでもあるのか、と。
何か、言えと。
最後に。
彼女は静かに目を瞑り、言う。
彼女の最後の言葉。
「……………………………………成長したねぇ、咲夜ちゃん。…………強くなった。今の君なら、大丈夫だ」
「…………」
大丈夫。
何が、大丈夫なのか?
「もう、一人で歩いていける」
――巫山戯るな。
反射的に振り下ろしそうになったナイフを、死力で歯を食い縛り、止める。
彼女はしばらく黙り、そして、目を閉じたままに、けれどしっかりと私に向けて、言葉を並べる。
「……お嬢様のこと、よろしく。まあ、咲夜ちゃん――いや、咲夜さんなら、大丈夫でしょう。パチュリー様はああ見えて結構寂しがりさんだから、時たま構ってあげてね。それと、フランドール様。彼女に、できれば手を貸してあげてほしいな。最初は嫌がるかもしれないけど、咲夜さんなら、きっと仲良くなれると思うから」
「――――……」
私は、そんな彼女の言葉の羅列を聞きながら、ゆっくりと脳髄の熱が冷えていくのを感じていた。
こんな状況で、そんなお願いを口にする彼女。
そんなの、彼女らしくない。
傲慢とか、卑劣とか、そういう問題じゃなくて。
彼女なら、たった一言、強気な言葉を強気に発するはずじゃないのか?
それが、最後の言葉が、……こんなどうでもいいお願いだなんて。
もういい。
お終いにしよう。
銀のナイフのように冷めた感情で、ナイフを振り下ろ――。
「……それから」
さっきまでとは違う、特になんでもなさそうな、事のついでのような調子で発せられたその言葉に、振り下ろそうとしていた腕が止まる。
彼女は、ゆっくりと目を開く。
開かれた瞳の奥を、覗き込む。
そこには先程と変わらず、強気な、傲慢な、不遜な、余裕な、豪気な光が宿っていた。
そして。
ふっと、昔の私に時々見せた、柔らかな笑みを彼女は浮かべた。その微笑みに、私の思考が一瞬、止まった。
「まだまだ甘いね」
ガァアン!!!!
脳内に直接、音が叩き込まれる。
景色が白に染まる。
身体の感覚が消えていく。
…………は?
何が、起こって……?
薄れていく視界の中で、切り取られた風景のように、それが私の目に映る。
私の頭でバウンドし、月の光を砕きながら宙を踊る、銀時計。
……ああ、あの閃光弾が炸裂したときに、思いきり宙に放ったのか。
じゃあ、あれは、あの話は。
撹乱と時間稼ぎかよ。
まったく。
なんじゃそりゃ。
まったく、本当にどうしようもなく、…………彼女らしい。
私は苦笑しながら、白の景色に飲まれて消えた。
気付くと、私は彼女の隣に横たわっていた。
紅い髪を夜風になびかせる彼女は、特に疲労した様子は無さそうだ。
「……心臓刺されたのに、なんでそんな平気そうなのよ」
倒れたままで聞くと、彼女は私の方に体を向け、上着と下着を脱いだ。
下着の下に、鎖帷子を着ていた。
「…………反則でしょう、それは」
「そういうルールは無かったし」
「なに?もしかして、後ろから刺されること予想してたの?」
銀時計を思いきり宙に投げたことといい、誰かに対し次元干渉の能力を使ったのはこれが初めてだったが、まさかそれすら読まれていたのだろうか?
しかし。
「まさか」
彼女は服を着ながら笑い、否定した。
「一応だよ。鎖帷子も、銀時計も。一応、って精神は大切だよね。私はそのせいで物が捨てられない子供だったけれど、今回は役に立った」
彼女を刺した私は私の可能性であって、私自身だけれど私とは別の存在だ。ナイフが彼女の身を差し貫いたかどうかは、私には分からない。
「あと、私の奥の手其の一とか言っちゃってたし。それが無くとも、あの咲夜ちゃんが、あれから奥の手を一つも増やしてないなんて思えないし」
「……口から吐き出した液体は?」
「本物の血。意図的に吐血しただけ」
「野生動物かお前は……」
呆れ、ぐったりと夜空を見上げる。私と同じ名前の月が、うざったいくらいに明るい。
そのまま、先程向かい合っていたときと同じくらいの時間が流れた。虫の鳴き声がやけに鮮明に聞こえ、晴れた夜空に張り付けられた月の明かりは変わらず眩しかったが、べつに不快ではなかった。
体を起こし、今更ながらに頭を確認する。ずきりと痛んだが、彼女が処置したのか、こぶはできていなかった。地に手を付くと、冷たい硬質の何かが指先に触れた。……銀時計だ。私の頭に直撃し相当の衝撃があっただろうに、しかし銀時計には傷一つ無かった。それを再び、腰に付ける。
彼女が、立ち上がった。私も立ち上がる。
「……行くの?」
「うん」
彼女はやはり、いつもの微笑みを浮かべたまま頷くだけだった。
「結局、一発殴ることもできなかった」
「精進しなさい」
彼女は笑い、私に近寄り、銀時計が当たった個所を撫でた。彼女が触れた個所が鈍く痛むが、舌打ちをしただけで、それを止めたりはしなかった。
そして。
彼女は、いきなり、私を抱きしめた。
「……………………………………………………ごめん」
彼女らしくない、彼女の感情が直で伝わってくるその言葉が、私の右耳にガンガンと反響する。体から、力という力が抜けてしまう。
「ほんと、ごめん」
彼女に抱かれながら、しかし、私には彼女の表情が見えていた。網膜に焼き付いた、彼女の表情は――。
首筋に、温かい水滴が落ちてきた。
ぽたり、ぽたりと。
やがて断続的に、雨のように。
ああ、そういえば、彼女の演技は数知れず見てきたけれど、泣き真似だけは見たことがなかったな、などと、どうでもいいことを思った。
彼女の嗚咽を聞きながら、焼き付いた彼女のぼろぼろの表情を見ながら、ああそういえば、と今更気付く。
考えてみれば、憤怒なんて感情を持ったのは、さっきが初めてだったな。
悲しいという感情だって、今初めて知った。
嬉しいと最初に思ったのも、その嬉しみの原因は彼女だった。
喜びだって、彼女を通して知った。
苦しみだって。
切なさだって。
嫉妬だって。
怒りだって。
安らぎだって。
不安だって。
愛しさだって。
絶望すらも。
みんな、感情の始まりは彼女だった。
力の入らない腕を無理矢理押し上げ、彼女を抱きしめる。
そういえば、彼女の“悲しみ”という感情を受け止めたのも、これが初めてだ。
「……じゃあ、行くね」
涙の跡をぐしぐしと拭って、彼女は言った。
私は微笑みの形を作り、いつも通りの口調で別れを告げる。
「はいはい。じゃあね」
「うん。…………咲夜ちゃん」
「……何?」
「できれば、だけどさ。………………」
彼女は酷く言いにくそうに口ごもって、一言だけ、平坦な声色でぽつりと言った。
「生きて」
平坦な声色だったが、まるで、祈りのように切実な響きを持った言葉だった。
「……言われなくても、そのつもりよ。あなた一人がいなくなったところで、お生憎様、私の世界は続き続けるわ」
「…………そか」
彼女は微笑み、そして。
「……さよなら咲夜ちゃん」
「……さよなら」
私に背を向けた。
ため息を吐いて空を見上げ、もう一度彼女がいたところを見てみると、彼女は消えていた。
跡型も無く。
けれど、彼女の名残はまだ、そこにあった。
しばらくそこに佇み、そこに彼女の幻影を見ていたけれど、やがて夜風がそれを夜の風景に溶かしていった。
辺りを見回してみると、すぐにそれは見つかった。
彼女に止めを刺し損なった、最後のナイフ。私に切っ先を向け、歪な世界を映し出している。
ナイフを拾う。
それを逆手に持ち。
渾身の力で首に突き立て、喉を切り裂いた。
後ろ向きに倒れながら、夜空に飛び散る鮮血を浴びながら、視界を染みのように侵食してくる闇に閉ざされ、意識が零という冷水に沈没していく。
絶対零度に堕ちていくなかで、無意識で銀時計を握り締めた右手だけが感覚があった。
時を刻む鼓動が伝わってくる。
その鼓動は、心なしか、少し温かいような気がする。零になった視界の中で、その鼓動だけが躍動を続ける。
チッ。チッ。チッ。チッ。
チッ。――チッ。――――――チッ――――。――――――――――。
――――――――――――――――――――――――――――――――。
チ。
チッチ。
チチチ。
チチチチチチチチ。
チュンチュン。
ピーチュルルルルルルルピチュピチュピチュピチュ……。
「……………………………………………………………………………………」
朝だ。
日差しが眩しい。
いい天気だ。
私は呆けたようにベッドに横たわっている。
当然、首に傷なんて無い。
頭に痛みも無い。
どこにも異常は無い。
「…………………………………………夢かよ」
夢だった。
見事なまでに夢オチだった。
なんじゃそりゃ。
なんつー夢だ。どんだけリアリティのある夢なんだよ。
ため息を吐き、全身に気だるい疲労感を感じながら体を起こす。
と。
「……ん?」
枕元に、何かが置いてあった。
「…………手紙?」
二つに折り畳まれた、純白の白の紙だった。
手に取り、開いてみる。
紙には、細い綺麗な文字でたった一文だけ、祝福の言葉が書き添えられていた。
『たった一つの素晴らしい世界へようこそ』
その文字の下には、空間がぱっくりと割れたような、スキマのマーク。
物質を極限まで切り刻むと、粒子にまでなることを確認した。
門の塀に寄り掛かり薄雲がちらほら見える程度の快晴の空を見上げながら、私は大きく欠伸をする。涼しい気候にポカポカと温かい陽気の組み合わせは凶悪だ。眠気が優しい毒のように侵食してくる。そんな中で真面目に門番をしている私は、本当に偉い。
もう一度欠伸をしてみたが、僅かも眠気は吹き飛ばない。仕方ないから大人しく昼寝でもしようかな、などと考えていたときだった。
「あ、咲夜さん」
紅魔館のメイド長が、こちらにすたすたと早足で歩み寄ってくる。なんだろう?
「どうしたんですか?あ、お昼ご飯の献立の希望とかですか?私はあっさりめの食事がいいで――」
バシィンッッ!!
シィン。
シィン。
シィン――……。
破裂音のような音が、世界に木霊した。
……………………。
…………………………………………。
え。
え、と。
え?
――あまりにも唐突すぎて、何が起きたのか理解できないでいた。
ええと。
いきなり早足で近寄ってきたと思ったら、私の前で立ち止まると同時に、思いっきり、おそらく渾身の力で、頬を平手でぶん殴られた、んだよね。
うん。
……なんで?
左に九十度曲がった首を恐る恐る彼女に戻してみると、彼女は生命を切り裂く銀のナイフよりも冷たい表情で私を睨んでいた。じんじんと痛む熱を孕んだ頬でさえ、一気に氷点下に凍り付く程の視線だった。
「………………え、と、あの、なに――」
「嘘吐き」
憎悪と恨みの混合物を絶対零度で凍らせたような眼差しで私を射抜きながらそれだけ言って、彼女はくるりと背を向け館の中に戻っていった。
………………。
やべえなにした私。
「さあね、知らないわよ。ただ、今日は朝起きてきたときから機嫌が悪かったわ」
お嬢様に咲夜さんのことについて相談すると、予想通り素気無い返事が返ってきた。
朝起きてきたときから機嫌が悪かった、か。
うーむ。
「昨日はそんなこと無かったですよね」
「そうね」
となると、不機嫌の原因は昨晩にあったのか。
「なにしたか知らないけど、いつまでもあの態度でいられると困るから早く解決しなさい」
「と言われましても、原因が分からないことには……」
「『嘘吐き』っていう言葉に対して、心当たりが多すぎてどれのことだか分からないなんて、終わってるわよ、あなた」
「深く反省してます」
「死ね」
ともかく、原因を知らないことには話が始まらない。
さて、どうするか。
ここは……。
勇気を出して、正方法だな。
「咲夜さん」
昼食を準備していた彼女に呼び掛けると、無表情を向けてきてくれた。
「なんで怒ってるんでしょう?」
「……………………」
彼女は黙ったまま、こちらをじっと見ている。
やばいこの選択肢は失敗だったか。
彼女は鍋に視線を戻し、抑揚は無いが異常に重みのある冷たい言葉を、鍋の中にぼとぼとと落とした。
「今夜、お出かけしましょう」
「…………はい」
やばいめっちゃ怖い。
昼食は、脂っこく重い料理ばかりだった。
夜。
指定された時間の十分前に大蝦蟇の池に着くと、彼女はもうそこにいた。岩に腰掛け、じっと池を見つめている。
彼女の隣に腰掛けたが、彼女は暗い穴のような池を見つめ続けている。
しばらく、私も池を見つめる。水面に映った月が、穴の底からこちらを見つめる畏怖の存在の眼に見える。
「あの、……なんで怒ってるの?」
昼間と同じ問い掛けを向けたが、それでも彼女は黙ったままだった。
…………。
心当たりが、本当に無いんだけど……。ほんとなにした私。
今度はどう切り出そうかと脳髄をフル回転させていると、彼女はぽつりと、言った。
「夢でね」
「……夢?」
「そう。夢でね、あなたが勝手に私の前から消え失せたのよ。だからぶん殴ったの」
……………………。
…………。
……えーと。
えー……。
えぇええーーー……。
「それ……あんまり私の責任じゃあ…………なくない?」
「でも、約束したでしょう」
言って、銀時計を見せてくる彼女。
いや、約束したけれど。
約束したけれども。
夢の中では無効とは言ってないけれども。
「言ってないでしょう」
「言ってないけれども……」
…………まあ、言ってないね。
責任は無くとも、悪くはあるのかもしれない。
「……そんな酷い別れ方だったの?」
聞くと、彼女は肩を竦めた。
「あなたは約束を破ったのに、勝手に消えて、やっと見つけたと思ったら私の銀時計を私の頭に思いきりぶつけて去っていったわ」
彼女の中の私の人物像はいったいどうなっているのだ。怖くて聞けない。
「……私はそんなことしないよ」
「どうだか」
その表情を見るに、どうやら彼女は本気で私がそんな意味不明な奇行な蛮行をすると思っているらしかった。いったい夢の中の私はどのような状況に在ったのだろうか。
それからしばらく無言の時が流れた。べつに気まずくは無く、夜風の音と虫の鳴き声に耳を澄ませ、隣に彼女の体温を感じながら、ぼんやりと池を眺めていた。
「やめてよね、そういうの」
唐突に、彼女は言った。
「え?」
「どこかに消え失せるなんてこと、…………私の傍じゃないどこかに消えるなんてこと、しないで」
「あなたは、私の感情そのものなんだから」
そのあまりにも切実過ぎる告白を聞いて。
じわりと、私の心に染み込むものがあった。
それが何なのかは分からないけれど。
目の前の咲夜さんと、小さな体の咲夜ちゃんとの姿が重なって、涙が滲みそうになる。
しかしそれを堪え、私は微笑んだ。
「当たり前じゃん。そんなことしないよ。私は君が望む限り、ずっと君の傍にいよう。誓ってもいい」
「約束でいいわ」
「誓いと約束の違いってなんだろう?」
「約束は破るものよ。ただし」
「ただし?」
「約束を破れば、怒られる」
「当たり前だ」
……ああ、咲夜ちゃんが見た夢は、そういうことか。
「ちなみに、夢の中の咲夜さんは、一発は私をぶん殴れたのかな?」
「当たり前じゃない。後ろから心臓ぶっ刺して、太股ナイフで貫いて、思いっきりぶん殴ってやったわ」
「そう」
彼女に手を伸ばし、まるでいつかの昔のように、今は私と同じくらいの目線まで成長した少女の頭を、柔らかく撫でる。
「精進しなさい」
彼女は舌打ちをしただけで、それを止めたりはしなかった。
ああそういえば。
良く晴れた夜空に張り付いた今日の月は、彼女と出会ったあの時と、彼女の名前と、同じ月だ。
まるで一輪の白銀の花のような容姿を持つ彼女が十六夜の光を浴びながらむくれているのがなんだか可笑しくて、私は笑った。
いやぁ、今作品集って連作も含めると100~200KBクラスがゴロゴロありましてね、
一応その全てに目を通してきた身としては、食傷って訳では無いのですがちょこーっと覚悟がいるんですよ、151KBは。
いやいやホント作者様には毛ほども責任は無いんですけど。
で、作品の感想なんですけど。
良いですねぇ、とっても面白かったです。
男前な美鈴と外見とは違ってまだまだ心は幼い咲夜さん、うざい紫様もこれはこれでまた良し!
特に咲夜さんが可愛い、この作品の白眉だ。
夢の中の約定違えにまでこれほど激しく突っ込むなんて、アンタどんだけ美鈴が好きやねん。
一つ気になったのは二人の戦闘シーンかな。
個人的な嗜好の押し付けに過ぎないのですが、ぶっちゃけ駄々をこねた咲夜さんが感情を爆発させて挑んでいる闘いに
奥の手の冷静な説明がちょっと水をさしている印象。
戦闘中はあくまでも冷徹にってのは彼女に似合ってるとは思うのですが、もう少しエモーショナルな描写でも良かったかも。
さて、それでは己の妄想した彼女達の過去に対して『Cross ep』がどう裏切ってくれるのか。もちろんプラスの方向にね。
前日譚という位置付けで貴方の過去作を読みに行かせて頂きます。
まあ、俺みたいにひねた読者も一人くらいは許容して下さいってことで。