「地蔵がお辞儀をした?」
いきなり何を言うのやら、と苦笑混じりに返す。冗談を言うにしてももう少し面白みのある冗談にしてもらいたいものだ、という思いを込めて。
けれどあたいの精一杯の皮肉をまるで意にも介さずに、おくうは「うん」とはっきり頷いた。
「こうね、一瞬だったからよくは見てないんだけど……頭をぺこーって下げててね、まるでお辞儀してるように見えたんだ」
「いやちょっと待って、それ冗談でしょ?」
「うにゅ? 冗談じゃないよ」
だから言ってるんじゃん、とばかりに唇を尖らせる。
その目に曇りはなく、嘘を言っているようにはまるで見えない。そもそも嘘をつけるだけの頭があるかどうか。猫であるあたいも大概だけれど、地獄鴉のこの子は文字通り鳥頭なのだから。
「でも本当なわけないしなぁ……それ、見間違いじゃない?」
「あ。お燐、私のこと信じてないね」
「信じてないってわけじゃないけど……だって、普通お地蔵様ってお辞儀される方じゃないの? お辞儀するなんて聞いたことないよ」
「それはそうだけど……」
あたいの言葉におくうはうーんと唸り始めてしまう。
自信満々だったのはいいが、自分でも疑っていたのか。信じがたいことは確かだし、あたいは元々信じていないけども。
「大体さ、なんでお地蔵様がおくうにお辞儀するのさ。あんた、なんかお礼されるようなことしたの?」
「うーん……してない、かなぁ……」
「でしょー? だから見間違えだって。まったく、おくうは人騒がせなんだから」
「うにゅ……でもでも、本当に見たんだってばぁ」
「はいはい仕事仕事。あんまりサボってるとさとり様に怒られるよ」
「怒られてるのはいっつもお燐じゃん」
話を適当に切り上げて、あたいたちはそれぞれの持ち場に戻る。
おくうは不満そうだったが、そこは鳥頭、すぐに忘れて仕事の方にスイッチを切り替えたようだ。意気揚々として元気いっぱいにそこらを飛び回っている。
おくうがいきなり変なことを言い出したせいで、あたいはしばらくもやもやした感じから抜け出せなかったけれど、仕事に集中すると次第にそんな話も忘れていった。
思い出したきっかけは人間だった。
サボってないかと見回りに来た、地上の妖怪の山に住む緑色の巫女。定期的にここに来ては、しばらくお喋りをして帰っていく。
正直見回りとは名ばかりとしか思えなかったけれど、「ヤサカ様」の命令だから仕方のないことらしい。胡散臭さMAXだったからあまり信用していなかったが、同じく地上の紅白の巫女のお姉さんとも知り合いらしいから、何も言うことはなくただ傍観していた。
「……うん。サボったりするようなこともなく、しっかり働いているようですね。感心感心」
「ねえねえお姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
「はい? なんですか?」
「地上ではお地蔵様がお辞儀することって、あるんですか?」
おくうはお喋りを楽しんでいても、あたいは変わらず仕事中。だから二人の会話を聞いていることしかできなかったのだけれど、唐突に持ち出されたその単語により注意深く耳を傾けた。
まさかまだ覚えているなんてという驚きと、あたい自身が未だに気になっていたからだ。
「お地蔵様がお辞儀……? 聞いたことないですね、なんですかそれ」
「あ、いや、知らないならいいです。ちょっと気になっただけで」
やや気落ちした調子でおくうは手をぶんぶんと振る。そう言えば、この緑の巫女は幻想郷の外の世界から来たんだっけ。地上のことはよく知らないけれど、紅白のお姉さんが言っていた気がする。
でもその期待もむなしく、緑色はきょとんとした顔でいる。何かを隠している風でもないからこれは本当に脈なしなのだろう。がっかりするのも納得だ。
けれど緑色は何を勘違いしたのか、はっとした表情でいきなり立ち上がり拳を固めて興奮した様子で叫んだ。
「なるほど……幻想郷では常識に囚われてはいけないと学びましたが、地底では更に常識を捨てるべきなのですね! お地蔵様がお辞儀するだなんて話、常識外れにもほどがあります! 流石幻想郷、まだまだ知らないことはたくさんあるのですね!」
「う、うにゅ!?」
いきなりの変貌っぷりに戸惑うおくう。あたいもあの人が何を言っているのかさっぱりだったけれど、もうこれ以上の情報は得られないだろうと自分の仕事に再度集中することにした。
「はぁ、災難だったよ」
「あっはは。ま、おくうもたまには振り回された方がいいんじゃないかな」
「……助けてくれなかったこと、恨むよ」
「おおこわいこわい」
現人神が帰ったあと、すっかりグロッキーな様子のおくうがそこに横たわっていた。
どうもあの手のは人の話を聞かない。おくうも散々付き合わされたみたいで、慣れない相手とのお喋りにもうへとへとのようだった。
パワフルな彼女には珍しいことだと、あたいは遠巻きに見るだけに留めておいたのだけれど。
「まぁ、そんなことはいいとして……よく覚えてたね、あのこと」
「何が?」
「お地蔵様」
「あぁ、そのこと。そりゃあね」
それだけ珍しいことだから、そうそう忘れることもないということか。
「昨日もされたし。お辞儀」
「ぶっ」
突っ伏した。
あまりにも予想外の返答だったのだ。一日だけの与田話だと完全に思っていた。思っていたからこそ、まだ続いているなんて思いもしていなかったのだ。
「だ、大丈夫お燐!? いきなりがくんって……」
「あ、あぁ、だいじょぶだいじょぶ。ちょっとびっくりしただけ」
「そ、そう? ならいいけど……」
はぁ、と胸を撫で下ろし安堵するおくう。
変なところで過剰反応するというか、なんというか。普通はそんなに心配しないと思うけど。
でもちょっと嬉しかったり。
まぁそんなことはともかく。
「しっかしまさか、またお辞儀されただなんて……それは見間違い、」
「じゃないって。今回はちゃんと引き返してしっかり見直したんだから」
「結果は?」
「頭は上がってた」
なんだそれ。
とは思うけれど、お辞儀し終わったから頭を上げたとも考えられるのか……二回目ってことは、そうそう見間違えと決めつけられないし。
ますます謎だ。
「変な話だねぇ……いまいち分かんないなぁ」
「うにゅ……」
頭を垂れて、おくうは口をつぐむ。
分からないのはおくうも同じなのだ。あたいが分からないとさじを投げれば、話はそこで終わってしまう。完全に八方塞がりになってしまう。
なら。
…………ん。
「あれ、昨日も見たって言ったよね?」
「うん。そだよ」
「じゃあそのお地蔵様って結構近くにあるわけ?」
「あるよ。旧地獄街道」
「近っ」
歩いて行ける距離じゃん。
ここら辺にお地蔵様があるなんて聞いたことないから分からなかった。
「んじゃさ、今日あたり一緒に見に行かない? 仕事終わったらさ」
「いいけど……なんで?」
「いやさ、百聞は一見にしかずとか言うじゃん? それにあたいも同じようにお辞儀するとこ見られるかもしんないしさ」
「なるほど! 流石お燐、頭いいね!」
「それほどでも」
とか言って、本当はただ見てみたかっただけだったり。
まぁ実際見て損はないだろう。何か発見があるかもしれない。新しい発想の手掛かりになるかもしれない。
お地蔵様のお辞儀の謎を、解明するための鍵に。
「おくうー? どこにあるのさー?」
「うーと……確かこの辺に……」
表通りから裏路地へと繋がる道を、一つずつ丹念に探す。地面に這いつくばってすらいるあたり、もはや何を探しているのかすら分からない。
明らかにおかしな挙動をしているあたいたちは目立つことこの上ない。表通りは人通りも多いから、ジロジロと見られているのを肌で感じる。正直さっさと見つけてほしい気持ちでいっぱいだ。
「っていうか場所覚えてないの? 二回も見てるんだし普通すぐ分かるんじゃないの」
「うーん……ごめん、忘れた」
「…………」
あぁ。
こいつ、鳥頭だっけ。
頼るのがそもそもの間違いだったか……。
「……分かった。ごめん、あんたに任せたあたいが――」
「あった!」
おくうの肩にぽんと手を置き、諦めるように諭そうとした途端に耳をつんざくような声で叫んだ。
あまりにも唐突な大声に不意を突かれ、しばらくその場に硬直する。しかしその叫び声で更に衆目を集めたと気付き、我に返ったあたいはおくうの頭をこつんと小突いてばか、とたしなめた。
「痛い……なにすんのさ」
「あんたが大声出すから悪い。……でどこにあんの? そのお地蔵様は」
「むー……あそこだよ、あそこ」
そう言っておくうが指差したのは、街道に立ち並ぶ居酒屋と居酒屋の間の細く人も通れないような隙間。何を言っているのやらと聞き返すと、確かにあそこにあると言う。
半信半疑であたいも近付き、片手を突っ込む程度しかできなさそうな隙間を覗き込むと、その奥側に確かにあった。
暗くていまいち見えにくいが、年を経て薄黒くすすけた、灰色で肩に箕を羽織ったお地蔵様。脇には誰かのお供え物なのか、瓶か何かが置かれている。
彫った職人の腕が良くなかったのか、顔は潰れたまんじゅうのような形だが……失敗作としてここに捨てられたのだろうか。だとするなら、お地蔵様だというのにこんな人目につかないような場所にあるのも頷ける。
罰当たりな気もするけど。
「ふぅん……確かにあるね。嘘じゃなかったんだ」
「……まだ疑ってたの? お燐、私の言うこと最近まともに聞いてくれないよね」
「冗談だって。でも……とてもお辞儀しそうにないねぇ」
どう見ても石だ。お地蔵様だ。形は歪だが、角度によってお辞儀しているという風に見えることもないだろう。
だとすれば、いったいどうして……?
「あぁ、お辞儀されたのは通りかかったときだよ。こんな風に見てる内は動かない」
「……なんでそんな重要なことを先に言わなかったのさ」
「ごめんごめん。忘れてた」
こめかみをぽりぽりと掻いてぺろっと舌を出す。お茶目さを演出しているのだろうが、正直腹立たしさが尚更にアップするだけだ。
でもまぁ、話では「引き返して」「見直した」と言っていたわけだから、それくらい察してあげるべきだったのかもしれない。視界の端に捉えたということくらいは分かるわけだし。
「ま……試してみるだけ、試してみっかね」
結論からいうと、だめだった。
何度か往復してみたものの、至ってそれらしいものは見えない。もしかしてガン見しているからかとなるべく意識せずに歩いてみたりもしたが、結局それも徒労に終わった。
まぁ最初から期待はしてなかったし、別にショックでもない。また改めて別の角度から考え直すだけだ。
「じゃあ、そういうわけでそろそろ帰ろっか……ってなにしてんの?」
特に収穫もなしと背を向け帰ろうと、おくうの方に目をやると先程のお地蔵様が覗ける位置に座り込んで何かしている。
明日も早いことだしさっさと引き上げよう、と肩を叩くも反応なし。よく見ると両手を合わせて目をつぶっていた。
真面目な子だねぇとふとお地蔵様に目をやって、思いもかけない光景にあたいは自分の目を疑った。
「お……おくう! あんた……どうして、ゆで卵を!?」
「うにゅ?」
あたいが見たもの、それは地面に置かれた一つのゆで卵。
それ単体で見ればなんということはない、ただのお供え物誰もが思うことだろう。しかしここで重要なのは誰が供えたかである。
おくうはゆで卵が好きだ。大好きだ。どのくらい好きかというと好きすぎてあたいがドン引きするくらいである。
そんな彼女が自らゆで卵を手放した。これを事件と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
しかしそんな驚きに包まれたあたいを後目に、おくうは至って平然としたまま口を開いた。
「あぁ、ゆで卵のこと? っていうかお燐驚きすぎ」
「驚くに決まってんじゃん! あんたがゆで卵をお供え物にするなんて……どういう風の吹き回しさ!」
「いや、だって……お地蔵様にお供えするのって当たり前じゃない?」
「え?」
「え?」
当たり前。
当たり前か。
そうか。
「……もしかしてあんた、ここに来る度にお供えしたりとか……」
「? なに言ってんの、当然じゃん」
「……そっか、当然か、そっかそっか」
なるほど。
おくうにとってお供え物は当たり前のことだと。
当たり前のことすぎて、お礼されるようなことですらないと考えていると。
そりゃあお辞儀されてもおかしくないわ。
「……おっけ。誰も褒めないならあたいが褒めてやろう。よしよし」
「わっ!? ちょっとお燐、そんなことすると髪の毛がぐしゃぐしゃになるって!」
「何もしなくてもあんたは髪の毛ぐしゃぐしゃでしょ。さ、帰るよ」
「うー……なんかいつもより横暴って感じ」
ぐしゃぐしゃ、ぐしゃぐしゃと、乱暴に頭を撫で続ける。
どうしようもなく素直で、愚直で、純真無垢な彼女の頭を。
たまらなく愛おしい、我が最愛の友人の頭を、帰路のしばらくの間ずっと撫で続けていた。
さて。
お辞儀される理由は分かった。あそこに行く度あんなことをしているのなら、信心深いにもほどがある。
もう一つ最大の問題として、「お地蔵様がお辞儀できるのか」については未だに答えが見えないけれど……これはいつまで経ってもあたいたちには分からない気がする。所詮は動物だ。限界はある。
だったら、人に聞けばいい。
分からなかったら人に聞く。
単純なことだ。
「というわけで、さとり様は何か知っていますか?」
「へぇ、そんなことがあったの……そうね……」
あたいたちの一番身近で、一番多くのことを知っている人。我らが主、古明地さとり様だ。
思えばこのお方に相談しなかったから、あんな風に痛い目を見る羽目になったのだ。さとり様が怖かったから、という理由だけど、でも今回は怒られるようなことはない。はずだ。だから安心して相談できる。はずだ。
「はず」がどうしても取れないのは、未だにさとり様が怖いからなのかもしれない。
「お地蔵様、お地蔵様……ううん、あんまりそういう話は聞かないわねぇ……」
「ですよねぇ」
アテが外れた、わけでもない。普通に可能性として、むしろ知らない方が可能性は高かった。
勿論まったく期待していなかったわけでもないから、若干気落ちしたのは否めないけれども。
それでもさとり様はしばらくうーんうーんと唸っていて、何かしら思い出せないかと必死に考えているようだった。けれど何かを思い出しそうな気配は何もない。無駄に頭を悩まさせてしまうのも失礼だと思ったので、「もういいですよ」と言おうとした途端、さとり様は「あっ」と小さな声を上げた。
「な、何か分かったことが!?」
「いえ……ただ、一つ思い出したことがありまして」
思い出したこと。それだけでも何か先に進むかもしれない。
幽かな希望を抱いて、あたいは先を促す。あまり気乗りしない様子だったけれども、さとり様は期待しないでね、と前置きしてからおずおずと喋り始めた。
「ええと……閻魔様はあなたも知っているわよね? ほら、彼岸の」
「あぁ、はい、知ってますよ」
確か、四季映姫とかそんな名前だった気がする。さとり様の上司みたいな人で、たまにこの地霊殿にもやってくるのだ。
説教くさい人で、来る度あたいたちは「ありがたい話」を聞かされる羽目になる。正直あまり好きな人ではなかった。
とまで考えたところでさとり様にじろりと睨まれる。そうだ、さとり様は覚妖怪だった。考えてることも全部筒抜けなんだ。半ば友人のような立ち位置の相手を悪く言われれば、そりゃあいい気はしないものだろう。
なんともやり辛いなあと思い、慌ててその考えを掻き消すようにあたいは頭を真っ白にして口を開いた。
「で、その人がどうしたんですか?」
「えぇ。あの人、元々はお地蔵様だったのよ」
「えっ……?」
なんと。それは初耳だ。
っていうかお地蔵様が動いて喋ったりするのか。
「地蔵菩薩、って言ってね。神様の一人なのよ。なんでも、信仰をより多く得るとああなるんだとか」
「口うるさく?」
「……それは元々の性格にもよるでしょうけど。まぁ、閻魔なんて大体そんなものよ」
またこのお方も結構なことを仰りなさる。
しかしまぁ、地蔵でも動いて喋ることはできるわけか。勿論、信仰が増えたらという条件付きだけど。
「ということは……件のお地蔵様は、おくうの?」
「そういう考え方もできなくはない、わね……合理的かどうかはともかくとして」
そう締めくくって、さとり様は紅茶を淹れたカップを口に運ぶ。優雅なその動作はとても自然で、まるで安楽椅子探偵のような様だった。
何はともあれ、これでひとまず解決としてもいいだろう。おくうに報告したときの喜びようを想像しながら、あたいの口元も自然と綻ぶのだった。
そんな想像が打ち砕かれるのも一瞬だった。
「それは油すましよ」
出されたお茶をずず、とすすりながら、紅白のお姉さんは何てことないかのように言う。
「な、」
「しかし、油すましをお地蔵様とはね……確かに似てはいるけれど、まさか間違えるとは思わないわ」
愕然とする。あたいたちの立てた仮説はたった一言で覆され、今やその一言の方が真実味を帯びて聞こえるという事実に。
妖怪退治のエキスパート、博麗神社の怠惰な巫女、博麗霊夢の一言はそれほどまでに大きかった。
さとり様に話を聞いたあと、地霊殿に一人の客がやってきた。
誰かと思えば紅白の服。地上でお馴染みのお姉さん。どうやら所用で地底くんだりまできたらしい。
ご苦労なこって、と思いつつ、こりゃちょうどいいと休憩中のおくうも呼びつけた。報告も兼ねた余興としてこの話の顛末を語ろうと考えたのだ。
ので、茶会の準備を終えて全員が席に着き、いざさとり様と至った答えを出してしばらくの後に。
博麗の巫女は極めて冷静な口調で、その妖怪の名を口にしたのだった。
「元々は油を盗んだ人間の霊が妖怪になったものよ。罪を犯したのだから地獄に落とされても不思議じゃない。むしろ妥当ね」
何もおかしいところはない。
「油すましの外見はあんたの言った通り。お地蔵様に似てはいるけど、潰れたまんじゅうみたいな形の頭で、肩に蓑を羽織って、手に油瓶を提げている」
確かにその通りだ。
「そんな小さな隙間にいたってことは、多分まだ生まれたばかりで力が弱い状態だったんでしょうね。油すましが何を食べてるかは知らないけど、地底にはそんな小さな妖怪に驚かされたり倒されたりするような奴がいるのかしら? 自然と隅っこに引っ込むようになるんじゃないかしら」
旧地獄街道は鬼が統括している。そんな弱い妖怪が表通りを歩けるか?
「そこに現れた一匹の妖怪。衰弱しきって動けない自分に、せっせと食べるものを与えてくれる。……次第に何もしないでもそこにいれば食べ物をくれることが分かる。自分の命の恩人に頭を下げるなんてこと、常識で考えれば当然のことよね」
不都合はない。
どころか、合理的ですらあった。
「ま、害をなす妖怪ではないけれど……そいつが何かしたの? それなら退治しに行くけど」
手に持ったお札をひらひらさせながら、紅白はそんなことを口にした。
と同時に、がたんと椅子を引く音が響く。すぐに振り向いたが白い布の切れ端を視界の端に捉えただけで、おくう本人はもうそこから飛び出していた。
やや逡巡して、すぐに意を決する。
今あの子を一人にしておけない。理由はそれだけで充分だ。
そしてあたいはおくうを追いかけるために、その部屋から飛び出した。
「そこ」にはもう何もなかった。
いや、いなかった、と言うべきなのかもしれない。紅白のお姉さんの話を聞いたあとなら、尚更。
でも、それを言うのは、彼女にとって残酷すぎるように思えた。
「……おくう」
地面にへたり込む親友の名を呼ぶ。
返事はない。
「なんていうか……ほら、例え妖怪でも何も変わんないじゃん。あんたに感謝してたってのは変わんないんだからさ、気にする方がばからしいって」
なんの慰めにもならない。
分かっているのに、空虚な言葉ばかりが口から紡がれる。
違う違う、こんなんじゃない。こんなことを言うためにあたいはここまで来たんじゃない。
そう、あたいは。
「……あたいは、信じるよ」
一度呼吸を置いてから、言った。
「あたいは、信じる。あれは確かにお地蔵様だったし、おくうが信じてくれたからあぁやって動けるようになって、お礼を言ってくれたんだって。紅白のお姉さんの言うこともそれっぽいけどさ、本当のところは誰も分かんないんだから」
「……じゃあ、なんで今はここにいないの?」
おくうは何もない、ただ暗闇だけが満ちる空間を指差す。
お姉さんの言う通りなら、多分、バレたことに勘づいたとか、いつもと違う時間帯に来たからだとか、きっとそういう理由なんだろうけど。
でもそんなつまらない理由だとは、あたいは信じていない。
「きっと……信仰を集めに行ったんだよ。そうじゃないと神様にはなれないからさ。ほら! あの……閻魔様だってたくさんの信仰を集めたから出世できたってさとり様言ってたでしょ? だから――」
「お燐は勘違いしてるよ」
「え?」
おくうは立ち上がり、私の方に顔を向ける。その表情は笑みに満ちていて、私の想像していたそれとはまったく違っていた。
「私はね、別に本当のお地蔵様じゃなくたって良かったんだ。ただ、ただ一つ、それだけが気になって――」
言って、一旦言葉を切る。
そして息をついで、何かをこらえるように体をぶるっと一度震わせてから、一気に吐き出した。
「ねぇお燐、私は……私はあの『お地蔵様』の役に、立てたのかな? 『お地蔵様』はそれできっと、喜んでくれたのかなぁ?」
「おくう……」
堰を切ったように、おくうはボロボロと涙をこぼす。
感情の発露。そこで初めて、おくうがいったい何のためにここに来たのかを理解した。
それに今の今まで気付けなかったことを恥じ、だけど親友を支えるために、その寂しげな両肩をぎゅっと掻き抱く。
「……大丈夫。おくうはちゃんと役に立ったよ。きっと今でもお礼を言ってる。本当にお地蔵様だったとしても、それ以外の何かだったとしても、きっと」
「そうかなぁ、そうかなぁ、本当にっ、私、役に、」
「大丈夫。大丈夫だから。あたいが保証する。おくう、あんたは立派に人の役に立ってるって」
もしかしたら、おくうは最初から全部分かっていたのかもしれない。
だからこそ、不安だった。
私は何も知らなかったけれど、でも支えることはできる。
今のおくうには、きっとそれが必要だったんだ。
「そろそろ、帰ろうか」
「……ん」
こくりと頷いたのを確認して、手を引き歩き始める。
人目なんか気にしない。まったくもって気にならない。そんなものなんかどうでもいい。
そんなことより大切なことは、もっとずっと他にある。
背中に視線を感じて、ふと振り返ってみた。
目に飛び込んだのは、暗い隙間からこっそりと出てきた一体の小さな灰色の何か。
その潰れたまんじゅうのような顔をしたお地蔵様は、確かにこっちに向かってぺこりと一度お辞儀をした。
いきなり何を言うのやら、と苦笑混じりに返す。冗談を言うにしてももう少し面白みのある冗談にしてもらいたいものだ、という思いを込めて。
けれどあたいの精一杯の皮肉をまるで意にも介さずに、おくうは「うん」とはっきり頷いた。
「こうね、一瞬だったからよくは見てないんだけど……頭をぺこーって下げててね、まるでお辞儀してるように見えたんだ」
「いやちょっと待って、それ冗談でしょ?」
「うにゅ? 冗談じゃないよ」
だから言ってるんじゃん、とばかりに唇を尖らせる。
その目に曇りはなく、嘘を言っているようにはまるで見えない。そもそも嘘をつけるだけの頭があるかどうか。猫であるあたいも大概だけれど、地獄鴉のこの子は文字通り鳥頭なのだから。
「でも本当なわけないしなぁ……それ、見間違いじゃない?」
「あ。お燐、私のこと信じてないね」
「信じてないってわけじゃないけど……だって、普通お地蔵様ってお辞儀される方じゃないの? お辞儀するなんて聞いたことないよ」
「それはそうだけど……」
あたいの言葉におくうはうーんと唸り始めてしまう。
自信満々だったのはいいが、自分でも疑っていたのか。信じがたいことは確かだし、あたいは元々信じていないけども。
「大体さ、なんでお地蔵様がおくうにお辞儀するのさ。あんた、なんかお礼されるようなことしたの?」
「うーん……してない、かなぁ……」
「でしょー? だから見間違えだって。まったく、おくうは人騒がせなんだから」
「うにゅ……でもでも、本当に見たんだってばぁ」
「はいはい仕事仕事。あんまりサボってるとさとり様に怒られるよ」
「怒られてるのはいっつもお燐じゃん」
話を適当に切り上げて、あたいたちはそれぞれの持ち場に戻る。
おくうは不満そうだったが、そこは鳥頭、すぐに忘れて仕事の方にスイッチを切り替えたようだ。意気揚々として元気いっぱいにそこらを飛び回っている。
おくうがいきなり変なことを言い出したせいで、あたいはしばらくもやもやした感じから抜け出せなかったけれど、仕事に集中すると次第にそんな話も忘れていった。
思い出したきっかけは人間だった。
サボってないかと見回りに来た、地上の妖怪の山に住む緑色の巫女。定期的にここに来ては、しばらくお喋りをして帰っていく。
正直見回りとは名ばかりとしか思えなかったけれど、「ヤサカ様」の命令だから仕方のないことらしい。胡散臭さMAXだったからあまり信用していなかったが、同じく地上の紅白の巫女のお姉さんとも知り合いらしいから、何も言うことはなくただ傍観していた。
「……うん。サボったりするようなこともなく、しっかり働いているようですね。感心感心」
「ねえねえお姉さん、聞きたいことがあるんだけど」
「はい? なんですか?」
「地上ではお地蔵様がお辞儀することって、あるんですか?」
おくうはお喋りを楽しんでいても、あたいは変わらず仕事中。だから二人の会話を聞いていることしかできなかったのだけれど、唐突に持ち出されたその単語により注意深く耳を傾けた。
まさかまだ覚えているなんてという驚きと、あたい自身が未だに気になっていたからだ。
「お地蔵様がお辞儀……? 聞いたことないですね、なんですかそれ」
「あ、いや、知らないならいいです。ちょっと気になっただけで」
やや気落ちした調子でおくうは手をぶんぶんと振る。そう言えば、この緑の巫女は幻想郷の外の世界から来たんだっけ。地上のことはよく知らないけれど、紅白のお姉さんが言っていた気がする。
でもその期待もむなしく、緑色はきょとんとした顔でいる。何かを隠している風でもないからこれは本当に脈なしなのだろう。がっかりするのも納得だ。
けれど緑色は何を勘違いしたのか、はっとした表情でいきなり立ち上がり拳を固めて興奮した様子で叫んだ。
「なるほど……幻想郷では常識に囚われてはいけないと学びましたが、地底では更に常識を捨てるべきなのですね! お地蔵様がお辞儀するだなんて話、常識外れにもほどがあります! 流石幻想郷、まだまだ知らないことはたくさんあるのですね!」
「う、うにゅ!?」
いきなりの変貌っぷりに戸惑うおくう。あたいもあの人が何を言っているのかさっぱりだったけれど、もうこれ以上の情報は得られないだろうと自分の仕事に再度集中することにした。
「はぁ、災難だったよ」
「あっはは。ま、おくうもたまには振り回された方がいいんじゃないかな」
「……助けてくれなかったこと、恨むよ」
「おおこわいこわい」
現人神が帰ったあと、すっかりグロッキーな様子のおくうがそこに横たわっていた。
どうもあの手のは人の話を聞かない。おくうも散々付き合わされたみたいで、慣れない相手とのお喋りにもうへとへとのようだった。
パワフルな彼女には珍しいことだと、あたいは遠巻きに見るだけに留めておいたのだけれど。
「まぁ、そんなことはいいとして……よく覚えてたね、あのこと」
「何が?」
「お地蔵様」
「あぁ、そのこと。そりゃあね」
それだけ珍しいことだから、そうそう忘れることもないということか。
「昨日もされたし。お辞儀」
「ぶっ」
突っ伏した。
あまりにも予想外の返答だったのだ。一日だけの与田話だと完全に思っていた。思っていたからこそ、まだ続いているなんて思いもしていなかったのだ。
「だ、大丈夫お燐!? いきなりがくんって……」
「あ、あぁ、だいじょぶだいじょぶ。ちょっとびっくりしただけ」
「そ、そう? ならいいけど……」
はぁ、と胸を撫で下ろし安堵するおくう。
変なところで過剰反応するというか、なんというか。普通はそんなに心配しないと思うけど。
でもちょっと嬉しかったり。
まぁそんなことはともかく。
「しっかしまさか、またお辞儀されただなんて……それは見間違い、」
「じゃないって。今回はちゃんと引き返してしっかり見直したんだから」
「結果は?」
「頭は上がってた」
なんだそれ。
とは思うけれど、お辞儀し終わったから頭を上げたとも考えられるのか……二回目ってことは、そうそう見間違えと決めつけられないし。
ますます謎だ。
「変な話だねぇ……いまいち分かんないなぁ」
「うにゅ……」
頭を垂れて、おくうは口をつぐむ。
分からないのはおくうも同じなのだ。あたいが分からないとさじを投げれば、話はそこで終わってしまう。完全に八方塞がりになってしまう。
なら。
…………ん。
「あれ、昨日も見たって言ったよね?」
「うん。そだよ」
「じゃあそのお地蔵様って結構近くにあるわけ?」
「あるよ。旧地獄街道」
「近っ」
歩いて行ける距離じゃん。
ここら辺にお地蔵様があるなんて聞いたことないから分からなかった。
「んじゃさ、今日あたり一緒に見に行かない? 仕事終わったらさ」
「いいけど……なんで?」
「いやさ、百聞は一見にしかずとか言うじゃん? それにあたいも同じようにお辞儀するとこ見られるかもしんないしさ」
「なるほど! 流石お燐、頭いいね!」
「それほどでも」
とか言って、本当はただ見てみたかっただけだったり。
まぁ実際見て損はないだろう。何か発見があるかもしれない。新しい発想の手掛かりになるかもしれない。
お地蔵様のお辞儀の謎を、解明するための鍵に。
「おくうー? どこにあるのさー?」
「うーと……確かこの辺に……」
表通りから裏路地へと繋がる道を、一つずつ丹念に探す。地面に這いつくばってすらいるあたり、もはや何を探しているのかすら分からない。
明らかにおかしな挙動をしているあたいたちは目立つことこの上ない。表通りは人通りも多いから、ジロジロと見られているのを肌で感じる。正直さっさと見つけてほしい気持ちでいっぱいだ。
「っていうか場所覚えてないの? 二回も見てるんだし普通すぐ分かるんじゃないの」
「うーん……ごめん、忘れた」
「…………」
あぁ。
こいつ、鳥頭だっけ。
頼るのがそもそもの間違いだったか……。
「……分かった。ごめん、あんたに任せたあたいが――」
「あった!」
おくうの肩にぽんと手を置き、諦めるように諭そうとした途端に耳をつんざくような声で叫んだ。
あまりにも唐突な大声に不意を突かれ、しばらくその場に硬直する。しかしその叫び声で更に衆目を集めたと気付き、我に返ったあたいはおくうの頭をこつんと小突いてばか、とたしなめた。
「痛い……なにすんのさ」
「あんたが大声出すから悪い。……でどこにあんの? そのお地蔵様は」
「むー……あそこだよ、あそこ」
そう言っておくうが指差したのは、街道に立ち並ぶ居酒屋と居酒屋の間の細く人も通れないような隙間。何を言っているのやらと聞き返すと、確かにあそこにあると言う。
半信半疑であたいも近付き、片手を突っ込む程度しかできなさそうな隙間を覗き込むと、その奥側に確かにあった。
暗くていまいち見えにくいが、年を経て薄黒くすすけた、灰色で肩に箕を羽織ったお地蔵様。脇には誰かのお供え物なのか、瓶か何かが置かれている。
彫った職人の腕が良くなかったのか、顔は潰れたまんじゅうのような形だが……失敗作としてここに捨てられたのだろうか。だとするなら、お地蔵様だというのにこんな人目につかないような場所にあるのも頷ける。
罰当たりな気もするけど。
「ふぅん……確かにあるね。嘘じゃなかったんだ」
「……まだ疑ってたの? お燐、私の言うこと最近まともに聞いてくれないよね」
「冗談だって。でも……とてもお辞儀しそうにないねぇ」
どう見ても石だ。お地蔵様だ。形は歪だが、角度によってお辞儀しているという風に見えることもないだろう。
だとすれば、いったいどうして……?
「あぁ、お辞儀されたのは通りかかったときだよ。こんな風に見てる内は動かない」
「……なんでそんな重要なことを先に言わなかったのさ」
「ごめんごめん。忘れてた」
こめかみをぽりぽりと掻いてぺろっと舌を出す。お茶目さを演出しているのだろうが、正直腹立たしさが尚更にアップするだけだ。
でもまぁ、話では「引き返して」「見直した」と言っていたわけだから、それくらい察してあげるべきだったのかもしれない。視界の端に捉えたということくらいは分かるわけだし。
「ま……試してみるだけ、試してみっかね」
結論からいうと、だめだった。
何度か往復してみたものの、至ってそれらしいものは見えない。もしかしてガン見しているからかとなるべく意識せずに歩いてみたりもしたが、結局それも徒労に終わった。
まぁ最初から期待はしてなかったし、別にショックでもない。また改めて別の角度から考え直すだけだ。
「じゃあ、そういうわけでそろそろ帰ろっか……ってなにしてんの?」
特に収穫もなしと背を向け帰ろうと、おくうの方に目をやると先程のお地蔵様が覗ける位置に座り込んで何かしている。
明日も早いことだしさっさと引き上げよう、と肩を叩くも反応なし。よく見ると両手を合わせて目をつぶっていた。
真面目な子だねぇとふとお地蔵様に目をやって、思いもかけない光景にあたいは自分の目を疑った。
「お……おくう! あんた……どうして、ゆで卵を!?」
「うにゅ?」
あたいが見たもの、それは地面に置かれた一つのゆで卵。
それ単体で見ればなんということはない、ただのお供え物誰もが思うことだろう。しかしここで重要なのは誰が供えたかである。
おくうはゆで卵が好きだ。大好きだ。どのくらい好きかというと好きすぎてあたいがドン引きするくらいである。
そんな彼女が自らゆで卵を手放した。これを事件と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
しかしそんな驚きに包まれたあたいを後目に、おくうは至って平然としたまま口を開いた。
「あぁ、ゆで卵のこと? っていうかお燐驚きすぎ」
「驚くに決まってんじゃん! あんたがゆで卵をお供え物にするなんて……どういう風の吹き回しさ!」
「いや、だって……お地蔵様にお供えするのって当たり前じゃない?」
「え?」
「え?」
当たり前。
当たり前か。
そうか。
「……もしかしてあんた、ここに来る度にお供えしたりとか……」
「? なに言ってんの、当然じゃん」
「……そっか、当然か、そっかそっか」
なるほど。
おくうにとってお供え物は当たり前のことだと。
当たり前のことすぎて、お礼されるようなことですらないと考えていると。
そりゃあお辞儀されてもおかしくないわ。
「……おっけ。誰も褒めないならあたいが褒めてやろう。よしよし」
「わっ!? ちょっとお燐、そんなことすると髪の毛がぐしゃぐしゃになるって!」
「何もしなくてもあんたは髪の毛ぐしゃぐしゃでしょ。さ、帰るよ」
「うー……なんかいつもより横暴って感じ」
ぐしゃぐしゃ、ぐしゃぐしゃと、乱暴に頭を撫で続ける。
どうしようもなく素直で、愚直で、純真無垢な彼女の頭を。
たまらなく愛おしい、我が最愛の友人の頭を、帰路のしばらくの間ずっと撫で続けていた。
さて。
お辞儀される理由は分かった。あそこに行く度あんなことをしているのなら、信心深いにもほどがある。
もう一つ最大の問題として、「お地蔵様がお辞儀できるのか」については未だに答えが見えないけれど……これはいつまで経ってもあたいたちには分からない気がする。所詮は動物だ。限界はある。
だったら、人に聞けばいい。
分からなかったら人に聞く。
単純なことだ。
「というわけで、さとり様は何か知っていますか?」
「へぇ、そんなことがあったの……そうね……」
あたいたちの一番身近で、一番多くのことを知っている人。我らが主、古明地さとり様だ。
思えばこのお方に相談しなかったから、あんな風に痛い目を見る羽目になったのだ。さとり様が怖かったから、という理由だけど、でも今回は怒られるようなことはない。はずだ。だから安心して相談できる。はずだ。
「はず」がどうしても取れないのは、未だにさとり様が怖いからなのかもしれない。
「お地蔵様、お地蔵様……ううん、あんまりそういう話は聞かないわねぇ……」
「ですよねぇ」
アテが外れた、わけでもない。普通に可能性として、むしろ知らない方が可能性は高かった。
勿論まったく期待していなかったわけでもないから、若干気落ちしたのは否めないけれども。
それでもさとり様はしばらくうーんうーんと唸っていて、何かしら思い出せないかと必死に考えているようだった。けれど何かを思い出しそうな気配は何もない。無駄に頭を悩まさせてしまうのも失礼だと思ったので、「もういいですよ」と言おうとした途端、さとり様は「あっ」と小さな声を上げた。
「な、何か分かったことが!?」
「いえ……ただ、一つ思い出したことがありまして」
思い出したこと。それだけでも何か先に進むかもしれない。
幽かな希望を抱いて、あたいは先を促す。あまり気乗りしない様子だったけれども、さとり様は期待しないでね、と前置きしてからおずおずと喋り始めた。
「ええと……閻魔様はあなたも知っているわよね? ほら、彼岸の」
「あぁ、はい、知ってますよ」
確か、四季映姫とかそんな名前だった気がする。さとり様の上司みたいな人で、たまにこの地霊殿にもやってくるのだ。
説教くさい人で、来る度あたいたちは「ありがたい話」を聞かされる羽目になる。正直あまり好きな人ではなかった。
とまで考えたところでさとり様にじろりと睨まれる。そうだ、さとり様は覚妖怪だった。考えてることも全部筒抜けなんだ。半ば友人のような立ち位置の相手を悪く言われれば、そりゃあいい気はしないものだろう。
なんともやり辛いなあと思い、慌ててその考えを掻き消すようにあたいは頭を真っ白にして口を開いた。
「で、その人がどうしたんですか?」
「えぇ。あの人、元々はお地蔵様だったのよ」
「えっ……?」
なんと。それは初耳だ。
っていうかお地蔵様が動いて喋ったりするのか。
「地蔵菩薩、って言ってね。神様の一人なのよ。なんでも、信仰をより多く得るとああなるんだとか」
「口うるさく?」
「……それは元々の性格にもよるでしょうけど。まぁ、閻魔なんて大体そんなものよ」
またこのお方も結構なことを仰りなさる。
しかしまぁ、地蔵でも動いて喋ることはできるわけか。勿論、信仰が増えたらという条件付きだけど。
「ということは……件のお地蔵様は、おくうの?」
「そういう考え方もできなくはない、わね……合理的かどうかはともかくとして」
そう締めくくって、さとり様は紅茶を淹れたカップを口に運ぶ。優雅なその動作はとても自然で、まるで安楽椅子探偵のような様だった。
何はともあれ、これでひとまず解決としてもいいだろう。おくうに報告したときの喜びようを想像しながら、あたいの口元も自然と綻ぶのだった。
そんな想像が打ち砕かれるのも一瞬だった。
「それは油すましよ」
出されたお茶をずず、とすすりながら、紅白のお姉さんは何てことないかのように言う。
「な、」
「しかし、油すましをお地蔵様とはね……確かに似てはいるけれど、まさか間違えるとは思わないわ」
愕然とする。あたいたちの立てた仮説はたった一言で覆され、今やその一言の方が真実味を帯びて聞こえるという事実に。
妖怪退治のエキスパート、博麗神社の怠惰な巫女、博麗霊夢の一言はそれほどまでに大きかった。
さとり様に話を聞いたあと、地霊殿に一人の客がやってきた。
誰かと思えば紅白の服。地上でお馴染みのお姉さん。どうやら所用で地底くんだりまできたらしい。
ご苦労なこって、と思いつつ、こりゃちょうどいいと休憩中のおくうも呼びつけた。報告も兼ねた余興としてこの話の顛末を語ろうと考えたのだ。
ので、茶会の準備を終えて全員が席に着き、いざさとり様と至った答えを出してしばらくの後に。
博麗の巫女は極めて冷静な口調で、その妖怪の名を口にしたのだった。
「元々は油を盗んだ人間の霊が妖怪になったものよ。罪を犯したのだから地獄に落とされても不思議じゃない。むしろ妥当ね」
何もおかしいところはない。
「油すましの外見はあんたの言った通り。お地蔵様に似てはいるけど、潰れたまんじゅうみたいな形の頭で、肩に蓑を羽織って、手に油瓶を提げている」
確かにその通りだ。
「そんな小さな隙間にいたってことは、多分まだ生まれたばかりで力が弱い状態だったんでしょうね。油すましが何を食べてるかは知らないけど、地底にはそんな小さな妖怪に驚かされたり倒されたりするような奴がいるのかしら? 自然と隅っこに引っ込むようになるんじゃないかしら」
旧地獄街道は鬼が統括している。そんな弱い妖怪が表通りを歩けるか?
「そこに現れた一匹の妖怪。衰弱しきって動けない自分に、せっせと食べるものを与えてくれる。……次第に何もしないでもそこにいれば食べ物をくれることが分かる。自分の命の恩人に頭を下げるなんてこと、常識で考えれば当然のことよね」
不都合はない。
どころか、合理的ですらあった。
「ま、害をなす妖怪ではないけれど……そいつが何かしたの? それなら退治しに行くけど」
手に持ったお札をひらひらさせながら、紅白はそんなことを口にした。
と同時に、がたんと椅子を引く音が響く。すぐに振り向いたが白い布の切れ端を視界の端に捉えただけで、おくう本人はもうそこから飛び出していた。
やや逡巡して、すぐに意を決する。
今あの子を一人にしておけない。理由はそれだけで充分だ。
そしてあたいはおくうを追いかけるために、その部屋から飛び出した。
「そこ」にはもう何もなかった。
いや、いなかった、と言うべきなのかもしれない。紅白のお姉さんの話を聞いたあとなら、尚更。
でも、それを言うのは、彼女にとって残酷すぎるように思えた。
「……おくう」
地面にへたり込む親友の名を呼ぶ。
返事はない。
「なんていうか……ほら、例え妖怪でも何も変わんないじゃん。あんたに感謝してたってのは変わんないんだからさ、気にする方がばからしいって」
なんの慰めにもならない。
分かっているのに、空虚な言葉ばかりが口から紡がれる。
違う違う、こんなんじゃない。こんなことを言うためにあたいはここまで来たんじゃない。
そう、あたいは。
「……あたいは、信じるよ」
一度呼吸を置いてから、言った。
「あたいは、信じる。あれは確かにお地蔵様だったし、おくうが信じてくれたからあぁやって動けるようになって、お礼を言ってくれたんだって。紅白のお姉さんの言うこともそれっぽいけどさ、本当のところは誰も分かんないんだから」
「……じゃあ、なんで今はここにいないの?」
おくうは何もない、ただ暗闇だけが満ちる空間を指差す。
お姉さんの言う通りなら、多分、バレたことに勘づいたとか、いつもと違う時間帯に来たからだとか、きっとそういう理由なんだろうけど。
でもそんなつまらない理由だとは、あたいは信じていない。
「きっと……信仰を集めに行ったんだよ。そうじゃないと神様にはなれないからさ。ほら! あの……閻魔様だってたくさんの信仰を集めたから出世できたってさとり様言ってたでしょ? だから――」
「お燐は勘違いしてるよ」
「え?」
おくうは立ち上がり、私の方に顔を向ける。その表情は笑みに満ちていて、私の想像していたそれとはまったく違っていた。
「私はね、別に本当のお地蔵様じゃなくたって良かったんだ。ただ、ただ一つ、それだけが気になって――」
言って、一旦言葉を切る。
そして息をついで、何かをこらえるように体をぶるっと一度震わせてから、一気に吐き出した。
「ねぇお燐、私は……私はあの『お地蔵様』の役に、立てたのかな? 『お地蔵様』はそれできっと、喜んでくれたのかなぁ?」
「おくう……」
堰を切ったように、おくうはボロボロと涙をこぼす。
感情の発露。そこで初めて、おくうがいったい何のためにここに来たのかを理解した。
それに今の今まで気付けなかったことを恥じ、だけど親友を支えるために、その寂しげな両肩をぎゅっと掻き抱く。
「……大丈夫。おくうはちゃんと役に立ったよ。きっと今でもお礼を言ってる。本当にお地蔵様だったとしても、それ以外の何かだったとしても、きっと」
「そうかなぁ、そうかなぁ、本当にっ、私、役に、」
「大丈夫。大丈夫だから。あたいが保証する。おくう、あんたは立派に人の役に立ってるって」
もしかしたら、おくうは最初から全部分かっていたのかもしれない。
だからこそ、不安だった。
私は何も知らなかったけれど、でも支えることはできる。
今のおくうには、きっとそれが必要だったんだ。
「そろそろ、帰ろうか」
「……ん」
こくりと頷いたのを確認して、手を引き歩き始める。
人目なんか気にしない。まったくもって気にならない。そんなものなんかどうでもいい。
そんなことより大切なことは、もっとずっと他にある。
背中に視線を感じて、ふと振り返ってみた。
目に飛び込んだのは、暗い隙間からこっそりと出てきた一体の小さな灰色の何か。
その潰れたまんじゅうのような顔をしたお地蔵様は、確かにこっちに向かってぺこりと一度お辞儀をした。
後、後書きにちょっぴり羨ましさを感じたりw
こういうのが東方らしいおはなしなんだろうなと思いました
あとお空は(バストサイズ的に)敬遠してるキャラですが、可愛く見えるなぁ…w