「出てきましょうか?」
ねぇ、霊夢。貴方は覚えているかしら?
私が貴方をこの腕の中で抱き締めた事。私と貴方はずっと前に出会っていた事を。
知らないでしょう? それが、私と親友との約束だもの。
「ほら、出てきました」
――そんな夢を見ていた。
「おい霊夢、大丈夫か?」
友人が縁側で魘されていた自分に話しかける。
目を覚まして周りを見渡せば、脇には飲みかけの茶と食べかけの煎餅。どうやら自分は、お茶を飲みながらうたた寝をしていたようだ。
「うぅ、気持ち悪い夢を見ていたわ」
「どんな悪夢だ? いや、それよりも霊夢に聞きたい事があるんだが」
「何よ、ちょっとは私の見た夢に興味持ちなさいよ」
「お前の神社って妖怪が入りたい放題だけど、結界を張ったりはしないのか?」
友人は常日頃から疑問に思っていた。
この神社には、妖怪が多すぎる。しかも巫女がそれを追い払う素振りさえ見せない。
これでは里の人間から“妖怪神社”だと恐れられるのも無理はない。
「あぁ? 確かに……私より前の巫女は神社の周りに妖怪避けを張っていたらしいけど、私には要らないしね」
「なるほど、妖怪すら来なくなったら、お賽銭がいよいよ入らなくなるからな」
「違うわよ! どうせあいつら一銭だってお賽銭入れないし、妖怪が入ってきても私には害はないし。……要するに、面倒くさいだけ」
彼女らしい答えに、友人は「なるほどな」と呟くと明るく笑った。
「それにしても、この神社も昔は真面目な神社だったのか。今の惨状を目の当たりにしたら、先代の巫女は泣くだろうよ」
「私の知ったことじゃないわ。それに顔を見たこともない先代から、説教をされる筋合いもないし」
博麗霊夢はすっかりと冷めたお茶を、一気に飲み込んだ。
二匹の烏天狗は、まるで疾風のような速さで空を舞っていた。
「イヤァ、こんな満月の夜はこうして空を散歩するのに限るねぇ」
「そうだねぇ、おや? あれは何だい?」
片方が指さしたのは、眼下に見える人間の建物だった。ただの人家には見えないし、そもそもこんな辺鄙な所に人間は住んでいないはずだ、と天狗は首を傾げる。一方の相方は、その建物に関して覚えがあった。
「あっ、いけねぇ。お前、あそこに近づいちゃならねぇ」
「なんでだい? 気分もいいし、あそこに住んでる人間をからかいに行こうや」
「駄目だ、駄目。あそこの上空を通ろうとして、俺の叔父貴は丸黒焦げになっちまった」
「おう、“結界”って奴かい? 俺は生憎、まだ体験したことはないねぇ。どれ、景気付けに引っかかってみるか?」
「あ、馬鹿! 辞めろ!」
相方の忠告を無視して、ほろ酔いの天狗は面白半分に建物へ向かって飛んでいった。
「どれ、どんなもんか、一丁体当たりでもしてみるか」
何も無いように見える虚空には、確かに結界が存在した。
それに挑もうとした烏天狗は、だが、その直前に“影”を見てしまう。空から静かに建物へと降りていく、小さい影を。
「うお!?」
驚いた烏天狗は、急旋回すると相方の元へと戻ってきた。
「どうした、やっぱり怖気付いたか? いや、それが正しい判断だ。あの事件以来、人間にちょっかい出すのも厳しくなったしよ」
「違うんだよ、掟でも結界でもない。そんなモノよりもよっぽど、えげつないのが、あすこにいやがった。今日は、もう帰ろうや」
「どれどれ……ああ! これは不味い。そうだな、帰ろう」
烏天狗たちは仲良く並んで、旋風と共に住処へと帰っていった。
――時を同じくして。
「あー」
幻想郷には一つの神社があった。
博麗神社と呼ばれるその場所には一人の麗しい巫女が住んでいる。
その巫女は妖怪退治の他に、幻想郷を外の世界と分け隔てる結界を管理する役目を持っており、人はそれを“博麗の巫女”と呼んで崇めた。
「もー」
夜の神社はとても静かであった。
そして、幻想郷には数多くの妖怪が住んでいる。
外の世界で幻想となり、この幻想郷に押し集められた数多くの妖怪たちは、しかし博麗神社にはその影の一つもない。
もちろん、神社という場所の本来の役割は“邪”を払う結界であるから、妖怪の姿が見えないのは神社としては至極当然の光景であった。
「あーあ」
神社には妖怪が寄り付かないが、また人間も滅多に訪れる事はなかった。
それは幻想郷に住む人間の殆どが『人間の里』に住んでおり、その人間の里が幻想郷において博麗神社から最も遠くに位置しているからである。
更に“普通の”人間にとって、神社へ来るのが命がけであるのも大きな原因であろう。何故なら、その道中では数多の妖怪が、手ぐすね引いて獲物を待っているのだ。
「あーあー。もう、大遅刻だわ」
その博麗神社に、一人の妖怪が降りてくる。
薄闇の空を降り地面に足をつくと、それは目の前に立つ真っ赤な鳥居を見上げた。
ざり、ざり――そのように靴底と玉砂利を擦る音を立てながら、妖怪は博麗神社の鳥居をくぐり抜けた。
その妖怪は唯一、この博麗神社へと自由に出入り出来る妖怪であった。――何故なら、彼女は“博麗の巫女”の唯一の友人だからである。
「まずいわね」
巫女の友人である妖怪・八雲紫は、口中で呟いてから境内を横切る。彼女は神社の敷地内に併設された、社務所兼住宅へと足を運んだ。
そこには、この神社に住む巫女とその夫、一組の夫婦がいる。そして今、その夫婦は特別な瞬間を迎えようとしていた。紫は友人として、その瞬間に立ち会おうと神社へと足を運んだのだ。
だが寝坊をした為に、その瞬間には間に合いそうにないのが、彼女の愚痴と焦りの原因になっている。
「ったく。起こしてくれっていったのに……」
社務所の縁側にゆっくりと足を上げた彼女は、続いて正面にある障子戸へと静かに手を掛ける。
薄い紙の膜を隔てた向こう側では、今まさに『生命』という尊い輝きがこの世に顕れようとしていた。
妖怪である彼女にとって、それはいずれ甘い果実となる萌芽であり、また同時に、友人に対して最大級の祝福をすべき瞬間でもあった。
「幽夢、入っても良いかしら」
紫は障子の向こう側へと静かに問いかけた。火の光に照らされ障子戸に映し出されていた人間の影が、紫の声に呼応して立ち上がる。
静かに障子戸を開いたのは、友人の夫――名を幻武という――であった。紫とも既知の筋骨隆々とした武人も、今はその風貌見る影もなく狼狽した表情である。
しかし顔見知りの紫の顔を前にして、やや落ち着きを取り戻したのか、安堵の吐息を漏らす。
「紫さん、ちょうど良いところに。今しがた生まれたばかりですよ」
幻武はその研磨されたように白い歯を見せつつ紫に言った。
これほど嬉しそうな表情を見せられては、紫も釣られてついつい微笑んでしまう。
続いて幻武の背後に目をやった紫の顔色が、焦りの色に染まる。そこには布団の上で横になった友人の姿があったのだが、彼女は産後の疲労からか、額に汗を垂らしながら息を整えようと、大きな深呼吸をしていたのだ。
しかし、その友人の表情に紫は安心した。まるで全ての苦しみを払拭するような満ち足りた表情。
巫女は十年来の友人の来訪に気が付くと、はだけた胸元を正して、その穏やかな瞳を彼女へと向けた。
「あら、紫じゃない。何しにきたの?」
「何って……。祝福しに来たのよ。……おめでとう、幽夢」
紫は巫女に対して、珍しく優しい笑顔で言った。
その嫌味のない言葉に、いつもは息をするように皮肉り合う仲の幽夢も、素直に微笑んで感謝の言葉を返す。
「ありがとう、紫。そうだ、折角だから……この子を抱っこしてあげてよ」
幽夢は身体を起こそうと床に手をついた。「大丈夫? 無理しなくて良いわよ」という紫の言葉にも、幽夢は首を横に振って「大丈夫」と短く答える。
彼女が身体を起こすと、腰まで伸びた長く黒い髪の毛が、重力に従って布団へとその裾野を広げた。
布団の脇にある小さな揺り篭に幽夢の手が伸びると、紫もそれに合わせて視線を籠の中に向けた。そこには白い布に包まれて、静かに寝息を立てる赤ん坊がいた。
生まれたての赤ん坊は、まるで皺くちゃの子猿のようであると紫は思った。そして、その子供が既に真っ黒な髪の毛を生やしている事に気が付き、それが何故だか気に入った。
「随分と大人しいのね。人間の赤子っていえば、もっと喧しく泣いてばかりいるものだと思っていたけど」
「そうなのよ。この子ったら生まれてすぐにひと泣きしたっきり、まるで泣かずに平然としてるのよ」
心底嬉しそうに話す幽夢を見て「こういう手合いに限って、親馬鹿になるのよねぇ」と紫は口中で呟く。
そんな事とはつゆ知らず、幽夢は揺り篭の中から我が子を取り上げて、両腕の中に優しく抱きかかえる。
そして、ひとしきり愛でると紫に向かって我が子を差し出した。
「さぁ、抱っこしてあげて」
その言葉に紫は少し抵抗を感じた。果たして、“幻想郷の管理者”たる自分が易々と人間の赤子を抱いても良いのだろうか、と戸惑ったのだ。
否、別に人間の赤子を抱く事、それ自体には紫もそれほど躊躇する事はなかった。しかし――
「ほら、優しくね」
幽夢は無理やり、紫の腕に赤ん坊を押し付けてきた。
やむを得ず、紫は両の腕でその小さな生き物を抱きかかえてしまう。
赤ん坊は目を覚ましていたが、泣き喚く事もなく、その嘘のように純粋な黒の瞳で、紫の事を不思議そうに見つめていた。「嗚呼、駄目だわ」紫は心の中でそのように嘆いた。
「嘘みたいに軽いわね。そして、冗談のように無力」
そういって赤ん坊を見つめる紫は、妖怪とは思えない柔和な表情となっていた。今まで、彼女が他人に向けた笑顔といえば九割方は嫌味ったらしい不吉な表情だった事を思えば、幽夢がその笑顔に驚いたのも無理はない。
「紫ったら、そんな顔で笑えるのね」
幽夢の驚きの声を聞いて、紫は大きく鼻から息を吐き出すと、赤ん坊を幽夢へと丁寧に返した。そして苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。
「ほら、だから嫌だったのよ」
その言葉の意味を幽夢は理解しようともせず、腕の中にいる我が子へと再び愛情を注ぎ始めた。
それを見て紫は「ほら、やっぱり親馬鹿だ」と思いながら、その様子をしばし静かに眺めた。
やがて、幽夢は胸をはだけさせて赤ん坊に乳を与え始めた。そこで紫は、友人の顔貌が少しやつれているように見えるのに気付く。
暗い中で蝋燭に灯された一つだけの灯りのせいで気づきにくかったが、いつも雪のように真っ白で瑞々しい彼女の肌は、よく見ると今はまるで枯れた葉のように瘡ついていた。
「ねぇ、あんた。産後で疲れてるんじゃないの? 母乳なんて与えてたら、ますます生命力が身体から出て行くわよ」
「それなら、代わりに紫がお乳あげてくれる?」
「私は出ないわよ。それに赤ん坊が妖怪の体液なんて飲んだら、半妖になっちゃうわよ」
幽夢は確かに疲れた表情で、しかしそれを気にせずに我が子への授乳を続けていた。
それを紫はただ見学している。そして必死に乳首を吸い上げる赤ん坊の動きに、「よく飲むわねぇ」と感心したような呟きを漏らす。
やがて、夫の幻武がお茶を盆に乗せて部屋に戻ってきた。
「紫さん、どうぞお茶でも飲んで」
「あら、どうも。頂きます」
幻武は、その丸太のように太い手指に似合わず器用で、お茶を淹れるのも上手かった。
紫の脇に置かれた湯のみからは、夜の寒さにはぴったりの熱い湯気が立っている。細い指で湯のみを掴むと、お茶を啜って鼻腔に充満する渋みを味わった。
妻にもお茶を差し出した幻武は、乳房に吸いつく赤ん坊を、まるで幽霊を見るかのように、恐るおそる眺め始めた。「なんで、そんなにオドオドしてんのよ」と笑いながら言う妻に「だって俺の子供だなんて、未だに信じられないんだ」と我が子の誕生が夢のようだと幻武は返す。
それを聞いて紫は「幻武らしいわね」と心の中で笑みを零した。
暫く赤ん坊の無垢な瞳に見入っていた幻武だったが、やがてある事を思い出して授乳を続ける幽夢に尋ねた。
「幽夢。もう紫さんに、あの話はしたのか?」
夫に言われて気付いた幽夢は「すっかり忘れていた」という表情になって、腕の中で乳房に吸いつく我が子を見下ろした。
紫は何のことやら分からずに、とりあえずお茶を啜りながら幻武と幽夢の二人を見比べた。
「ん? 何か私にお話があるのかしら」
「そうなのよ、すっかり忘れていたわ。是非とも紫にお願いしたい事があるの」
幽夢はそういうと、乳房に吸いつく小さな唇を引き離した。赤ん坊はまだ母乳を欲しそうに口を上下にさせている。
それを尻目に赤ん坊の顔を紫の方に向けて抱き直し、幽夢はこう切り出した。
「紫……貴方に、この子の名付け親になって欲しいの」
紫はゆっくりとお茶を啜った。熱いお茶が喉を通って胃を温める間、彼女は幽夢の言葉に対し、どう返事をしようか想を練った。
その依頼はいくらなんでも突然過ぎた。いきなり名付け親になって欲しいと言われても、名付けという重大な役割に対して軽々しく了承は出来ない。
とりあえず自分の膝の上に湯のみを戻すと、紫は幽夢に向かって問い直した。
「唐突に言われてもねぇ、名前なんて何も考えてないわよ。まず訊くけど、なんで私なのかしら?」
「だって、紫は私たちの仲人じゃない。他に頼める人もいないし」
「あんた達、夫婦で決めたらいいじゃないの」
「ううん、紫に名付けて欲しいの。それは幻武も同じ考えよ」
紫が後ろに控えていた幻武に目線を送ると、その首はゆっくりと上下した。紫はこめかみに手をあてると、目をつぶって溜息をついた。
“名前”というのは非常に重要なものである。名前とは、そのモノの持つ意味や働きを決定してしまうほどの、強い指向性を持つ要素だ。
それは巫女である幽夢にとって常識のはずである。という事は、彼女らはそれを知りながら妖怪である自分に名付けを託すという愚行を犯している。紫は夫婦へ説教の一つもしてやりたくなった。
ただ紫も、この赤ん坊の名付け親になるという事に関しては、僅かなる喜びを感じずにはいられなかったのも事実。
妖怪である彼女にとって、人間の友人というもの自体が稀有であるし、それが子孫を残すとなれば、それは比類無く滅多に見られない珍事であるからだ。
この博麗神社の巫女とは代々、仕事の関係上で知り合いにはなるが、こと幽夢に関しては特別に仲が良かった。特に幽夢のように、紫に自分の子供の名付け親になって欲しいと思うほどの信頼関係になる人間は、この先もそうそう現れないだろう。つまり、人間の子供の名付け親になる事は、紫にとって二度と無いかも知れない機会であったのだ。
しかも二人して頑固なのは紫が良く知っている。それを説得して断るのも面倒なので、彼女はそれを承諾することにした。
「分かったわ。でも、じっくり考える時間もないし、思いつきになっちゃうわよ?」
「ええ、良いわ。案外と直感的な方がいいかも。特に貴方ならね。……任せるわ」
紫は赤ん坊をじっと見つめた。
母親の手の中で天井を見上げている赤ん坊は、精悍な母親とも武骨な父親とも似ていない、何かぼうっと浮かび上がっている気質を紫に感じさせた。
そして紫の口からは自然と、ある言葉が紡ぎだされた。
「れいむ……。博麗、霊夢」
紫がつぶやくと、その言霊は部屋の中に静かに響き渡っていく。
それはまるで、最初からそういう名前であったかの様に、我が子にぴったりと当てはまる名前であると幽夢は感じ、軽い感動さえ覚えた。
「れいむ、れいむ――か」
幻武も繰り返して口にするうちに、その名前こそが娘に合っていると感じる事が出来た。
父親は、やがて大きく頷いてにっこりと笑った。
「幽霊の“レイ”に、“ユメ”と書いて、霊夢よ。その子は博麗霊夢」
紫は意を決したように、はっきりとした口調でそう宣言した。
幽夢も大きく一回、首を縦に振ると「ありがとう」と瞳を閉じる。
続いて紫の背後から「良かったな、いい名前をつけてもらって」と絞り出したような声が聞こえる、その声は掠れたように震えていた。
「霊夢、私の娘」
幽夢は改めて腕の中に抱いた我が子を、しっかりとその肌で感じた。
たった今、目の前の妖怪に名前をつけてもらった事も知らずに、赤ん坊はただ天井を見上げていた。
ところが、その時。幽夢はふと或ることに気付いた。――それはつい先ほどまで、子供が生まれたという嬉しさの感情で塗りつぶされていた事実。
――腕に抱えた霊夢は、不思議と軽かったのである。
それは、生まれたての赤ん坊だからという事を考慮しても余りある軽さだった。
まるで、霊夢の身体は空中を漂う羽毛のように軽かったのである。
その事に違和感を覚えながらも、しかし幽夢はあまりにも愛惜しい我が子を見て再び笑顔になる。
そんな些細な違和感など、生命の誕生という神秘の前には唾棄すべき不純物であったのだ。
「霊夢、私があなたのお母さんよ、霊夢」
◇ ◇ ◇
山の中を一人の人間が駆ける。
軽快な旋律を刻むように、日に焼けた脚が斜面を蹴りつける。分厚い草鞋が小枝や落ち葉を踏みしめながら、男の身体を山の中腹へと押し上げていった。
幻武は山へと柴刈りにやってきていた。
背中にある大きな籠の中には、山で採った新鮮な山菜が詰め込まれている。
そして右手に持った手鎌は進路にある伸びきった雑草や、邪魔な小枝を切り落とす為に振るわれていた。
「幻武さん、今日も精が出ますね」
山を駆け上る人間を見つけて、一匹の天狗が近寄って話しかけてきた。
幻武は足を止めることなく、白い歯を見せて応える。
「いやー、今日は娘の一歳の誕生日でね。ご馳走の為にも俺が頑張らないと」
「ああ、娘さんの! それはおめでとうございます。奥様にもよろしくお伝えくださいね」
「分かった。今日もご苦労さん。身体に気をつけてな」
天狗は右手で小さく敬礼をすると、幻武のそばから離れていった。
岩肌が剥き出しになった斜面を、その鍛え上げられた脚力のみで駆け上がる幻武は、まさしく人間離れした動きだった。
それもそのはず。もともと、この妖怪の山は普通の人間が入れるような場所ではない。
妖怪は人間が山へ出入りする事を禁じていたし、万が一侵入したとあれば哨戒天狗たちが直ちにその侵入者を始末しにやってくるのだ。
ところが、この幻武は妖怪よりもよっぽど化物のような怪力を持った、里の中でも飛び切りの変わり者であった。
その神憑った身体能力のせいで、哨戒天狗もその人間が軽々と殺せるような相手ではないと分かっていたし、なにより幻武は幼少の頃より妖怪たちと仲が良かった。だから、先ほどのように哨戒天狗たちも、例外的に幻武が山へ入ることを認めているのだ。
他の人間には出入り出来ない場所であるから、山に自生している山菜などは採り放題で、それを里の人間と物々交換する事によって神社の台所事情は比較的潤っていた。
もちろん幻武も、その例外に胡座をかいて山菜を好き勝手採っているわけでは無い。
山菜採りのついでに山の雑草刈りや神々の通り道の整備を行うなど、山に対しての奉仕活動もきちんと行っていた。こうした活動が、また幻武が山の妖怪たちにも受け入れられている要因であった。
「さてさて、今日はこのくらいで良いかな。あぁ~、早く帰って霊夢の顔をみてぇなあ」
手ぬぐいで汗を拭いながら、幻武は遠くに見える博麗神社へと目を向けた。そこには愛する妻と我が子が待っている。
霊夢の誕生から早一年。幽夢も大概であったが、幻武も大した親馬鹿ぶりであった。
掌中の珠と霊夢の事を大切に育て、常に気にかけ可愛がっていた。だから山での柴刈りの最中も、頭の中は霊夢の事で一杯だった。
幻武は籠の中の山菜を確認すると、傾きかけた夕日を背に山を駆け下り始める。
大の大人でも登り切るのに丸一日は掛かるであろう山を、幻武は崖から飛び降りるような早さであっという間に下っていった。
その最中、幻武はふと霊夢以外の事象について考えを至らせた。それは、途中で話し掛けてきた哨戒天狗についてである。
「あいつも、なんだか“薄かった”なぁ」
その呟きは、幻武がここ最近の山に感じている事を、端的に現すものであった。
彼は会う妖怪たちが、皆揃って“薄い”と感じているのだ。それは幻武なりの比喩表現であったが、より単純に言えば“力が弱まっている”という印象である。
山で良く会う哨戒天狗にしろ、幻武の古くからの知り合いにしろ、幻想郷の妖怪たちの力が弱まっていると彼は肌で感じていた。
それは、普通の人間からすれば喜ぶべき事であったが、彼は博麗の巫女の夫である。
幻想郷を管理する者の立場に近く、幻想郷の仕組みを知るが故に、その妖怪たちの弱体化は彼の心中に大きな不安を生んでいた。
「紫さんは昔っから、人間と妖怪のバランスっていうのに五月蝿かったからな。帰ったら幽夢にも教えといてやるか……」
最後に大きく地面を蹴ると、幻武の身体は山を抜けだして平地に戻ってきた。大きく伸びをした幻武は、姿の見えない不安を胸に抱きながら急ぎ足で帰って行く。
◇ ◇ ◇
神社への帰宅は、いつも裏口からである。何故なら、この博麗神社の正面――つまり鳥居の側は外の世界に向いているからだ。
よって幻想郷から博麗神社へとやってくる者は、神社を囲む鎮守の森を抜けてこなければならない。幻武は、森の中に人足で作られた、小さな散歩道を通って神社へと戻ってきた。
「ただいまぁ」
社務所の玄関に入ると同時に、幻武は大きな声で帰宅を知らせる。すると、居間から浴衣姿の幽夢が出迎える。
幽夢もこの頃は子育てに忙しく、巫女としての仕事をこなす時間は少なくなっていた。
「おかえり、あなた。山の方はどうだったかしら?」
「ああ、相変わらず妖怪たちが元気にやってるみたいだ。哨戒天狗が、お前と霊夢によろしくって言ってたよ」
「あら、どの天狗かしらね」
「分からん、あいつら同じような格好してるから見分けがつかなかった」
言いつつ背負っていた籠を降ろした幻武の視界に、居間からよたよたと四つん這いで歩いてくる赤ん坊の姿が映った。
まだ這いはいを覚えたばかりの霊夢は、覚束ない動きで幽夢の方へと近寄っていき、しかし途中でバランスを崩してコテンと床に転がった。
「あー」
自分が転んだことに驚いたように、霊夢は声を上げた。まだ言葉を知らない赤ん坊は、なかなか起き上がれずに手足をばたつかせる。
「おぉ? 霊夢はもう、自分でうろつけるようになったのかっ!」
「普通に比べたら、ちょっと遅いくらいよ。まだお乳も吸ってるし、霊夢ったら少し成長が遅いのかしら」
「はっはっは、大器晩成型なんだろう。おー、よしよし」
幻武は転んだままの霊夢を、その太い腕でひょいと抱き上げた。
その霊夢はというと、自分が抱き上げられた事に対しては何の反応も示さずに、まだ体勢を直そうとするかの様に手足を動かし続けた。
「霊夢は元気があるなぁ」
「あなたに似て、やたらめったら活動的になりそうね」
二人は霊夢を連れて居間へと戻る。
なにせ今日は霊夢の初めての誕生日である。神社故に質素ながらも、彼らなりに豪華な食事を作る予定だ。幽夢は台所へと向かい、幻武に霊夢の世話を任せた。
幻武は霊夢を脇で遊ばせておきつつ、籠の中から山菜を取り出そうとする。そしてその時、哨戒天狗の顔が脳裏に浮かび上がり、妖怪の山での妖怪弱体化について、妻の耳に入れておこうと考えていたのを思い出した。
霊夢が積み木で遊んでいるのを横目に確認しながら、居間と繋がっている台所へと足を運ぶ。
彼女はちょうど、割烹着を着てその長い髪を束ねようとしている所だった。
「なぁ幽夢。ちょっといいか?」
「ん、なぁに?」
「俺、最近山に行くたびに感じるんだが……。妖怪たちの力が、弱まっている気がしないか?」
その言葉を聞いた幽夢は、髪を束ねようとしていた手を止めた。解き放たれた髪は一斉に背中の上で波打つ。
振り返った幽夢の顔は先程まで見せていた母親の顔ではなく、巫女としての醒めた表情に一瞬で変わる。
「あなたも、そう感じていたの? いや、私は直接それを見たわけじゃないけど。近頃、幻想郷を取り巻く妖怪の気が薄まっている感触がしているのよ」
「“薄い”……やっぱりそんな風に感じるか。なんだか、肉体は目の前にいるのに中身はどこかに抜けちまっている。そんな風に感じるんだよな」
「ふーん。――博麗の巫女として、これは然るべき所に確認を取った方が良いかも知れないわね。あいつ、ちょうど霊夢の誕生日を祝いに来るらしいし、彼女に聞いてみる事にするわ」
博麗の巫女としては、直接自分で調査をしたいという気持ちもあった。しかし、子供を持った今の彼女には、それを捨て置いてまで妖怪たちの所へ調査に出向く事は出来ない。だが幸いにも、彼女には夫と同じくらいに頼りになる友人がいる。“幻想郷を管理する者”という唯一無二の共通点を持った、信頼に足る妖怪が。
「やはり紫さんに聞くのが一番だろうな。……そういえば、あの人だけだな。会っても薄い感じがしない妖怪は」
「紫が薄くなった日にゃ、天地がひっくり返るわよ。寧ろ、多少は薄くなってくれないかしらねえ」
「ははは、違いない。まぁ、そういう事で紫さんの意見を聞くことにしよう」
「そうね、じゃあ料理を作るから、霊夢をよろしくね」
紫の名前が出た途端、幽夢はどこか安心したように見える。幻武も、娘からあまり目を離す事も出来ないと、霊夢のいる居間へと足早に戻っていった。
夫婦は原因の分からない“妖怪の弱体化”という得体の知れぬ異変による気持ち悪さを、それぞれの拠り所によって軽減していた。
――やがて夕日も沈みきって、神社に夜がやってきた。
その頃には霊夢の誕生日を祝う夕餉も終わり、当の霊夢は時折眠そうに目を擦りながら、母親の膝上に寝っ転がっていた。
「紫ったら遅いわね。夕飯は要らないって言ってはいたけど……」
「妖怪にとっては、まだ早朝みたいなもんだろ? 月も出てきたし、そろそろやってくるんじゃないかな」
そういって幻武が窓から覗く満月をみた時、眠そうにしていた霊夢が突然に身体を揺らし始めた。
まだ掴まり立ちも出来ないというのに、霊夢はなんとか身体を起こそうと幽夢の膝の上で激しく暴れ出したのだ。
「ん、ちょっと。どうしたのかしら? 霊夢ったら」
「あうー!」
母が転ばないように抑えようとするのを気にもせずに、霊夢は声を上げ、両手で空中を掻くように暴れる。そして誰もいない居間の一角に向けて、霊夢は何かを訴えるように声を発するのだ。
「あうー。うーぅー……」
「なんだ? 何かいるわけでもないのに……」
幻武もその様子を不思議に思いながら、霊夢の目線の先にある空間に目をやった。
すると次の瞬間。その空間に一筋の切れ目が入った。「あっ」と小さく漏らした二人の目の前で、その切れ目はぱっくりと口を拡げると“空間”の向こう側を覗かせながら、その主人が出入りできる大きさにまで広がった。
「こんばんは、お邪魔するわよ」
言って空間から出て来たのは八雲紫。それが彼女の特異な能力のひとつである“すきま”による空間自由移動であった。
その原理は幽夢すらも良く分からないが、とにかくこうして空間を裂いて突然現れるのが紫の特徴であった。
そんな登場の仕方には夫婦も慣れたものであるが、今回二人はそれとはまた別の事に驚いていた。それは娘の霊夢が取っていた行動である。
紫が“すきま”を使って出現するタイミングは、第六感の異常に発達した幽夢にも察知する事は出来ない。
しかし霊夢は紫が現れる事を感知していたかの様に、その両手を動かして紫が現れる空間を示していた。
「なによ、そんな幽霊でも見たような顔して」
「あ、ああ……違うんだ紫さん。驚いたのは今さっき、霊夢があなたの来る事を感じ取っていたような素振りをしていたからなんだ」
幻武の説明を受けた紫は、霊夢をじっと見つめた。霊夢は“すきま”から現れた自分を無垢な瞳で見上げている。紫はフッと息を漏らして笑みを作ると、その赤ん坊の前で膝を折った。
「すごいわねぇ、霊夢。ちゃんと名付け親の事が分かってるみたい。だから私が現れるのも分かったのかしらねぇ~?」
言いながら霊夢の黒髪を優しく撫でた紫に、幽夢は「まさか」と首を横に振った。
「偶然よ、偶然。私だって紫のアレは、いつやって来るか分からないんだもの」
「あら、親より子が優秀じゃないなんて決まりは無いわよ?」
紫の指は、霊夢の髪の毛を梳くように動いた。一歳にしては珍しく、霊夢の髪の毛はもう十分な程にその頭部を覆っている。
「お誕生日おめでとう、霊夢。そして幽夢に幻武」
「ああ、ありがとう」
「あれから一年ね……。本当に時間があっという間に過ぎていった一年だったわ」
自分が誕生日を祝われている事など露とも知らず、霊夢は相変わらず周りに関係なしに天井をぼうっと見上げていた。
そんな霊夢を見て、紫は何かを企んでいるかのような怪しい笑みを浮かべた。それに気付いた幽夢は眉を顰めて露骨に嫌な顔をする。
「久々に見たわね、紫のその顔。何を企んでるつもりよ」
「失礼ね、ただのプレゼントよ。誕生日を祝うのなら、誕生日プレゼントが必要じゃない」
紫はすきまから紙袋を引っ張り出すと、そこから霊夢へのプレゼントを取り出した。
それは、紅の帯に白いフリルのついた可愛らしい意匠のリボンであった。
「紫らしくもないわね。そんな可愛らしいリボン」
「いいじゃない、私が着けるわけじゃないもの。霊夢にはきっと似合うわ」
その派手な紅白のリボンを、紫は霊夢の少し伸びた黒髪に結びつけた。
頭頂部で結ばれたリボンの両端は、霊夢の両耳のあたりまで垂れ下がった。
「ほーら、可愛いじゃない。まるでお人形さんみたいよ」
「……こんなリボン、あんたどこで手にいれたのよ」
「里に器用な子がいてね。今度、独立して道具屋を開くみたいだから、霊夢の服とかもその子に頼んだらどうかしら? センスあるわよ」
「へぇ~、検討しておくわ。素敵なプレゼントをどうもありがとう」
霊夢は自分の頭にくくりつけられたリボンの端を、興味深げに小さな手で握りしめた。そしてそれをクイクイと引っ張って遊びはじめる。
「うー、う」
リボンを引っ張ると自分の髪の毛も少し引っ張られるのが気に入ったのか、霊夢はリボンで遊ぶ事に熱中し始める。
それを見ていた3人は、霊夢のそのあどけなさに一斉に笑顔にならざるを得なかった。
紫などは、今の自分の姿は式神たちには絶対見せられないなと思いながらも、心底から笑っていた。
「あらあら、寝ちゃったわ」
暫く眺めていると、霊夢は遊び疲れたのか静かに寝息を立て始めた。
頭のリボンを優しく解いてあげた幽夢は、霊夢を抱きかかえて布団の上へと連れていった。
「霊夢は本当に自分のしたいように動くんですよね。それが元気の証拠なんですかねぇ」
「赤ん坊だから好き勝手するのは当然じゃないの。妖怪の私に教えられてるようじゃ、父親失格よ」
紫は満足したように手持ちの扇子で自らを一回仰ぐと、自分の背後に“すきま”を展開した。
「それじゃ、失礼するわ。また何かあったら寄るから」
「あっと、紫さん! ちょっと待ってください」
“すきま”へと帰ろうとした紫を、幻武が慌てて止める。霊夢を布団に寝かせた幽夢も、その声を聞いて紫の元へ駆け足で戻ってきた。
「そうそう、ちょっと紫に相談があるのよ。今、話をしても良いかしら?」
「別に良いわよ? それで、話とは何かしら」
紫は“すきま”に突っ込んだ片足を引き抜くと、ちゃぶ台の脇に腰を降ろした。
幽夢と幻武もそれに追随して座布団の上へとそれぞれ腰を降ろす。そして最近になって自分たちが感じ始めた妖怪の弱体化について紫へと相談し始めた。
「紫は最近、妖怪たちの力が不自然に落ちているように感じないかしら? 私は幻想郷を流れる空気からそれをなんとなしに感じていたし、幻武は山の妖怪たちと会ってるからそこで直接感じるらしいの」
二人が気付いた時には、紫の表情は変貌していた。先程までの、霊夢を見て微笑んでいたような人間らしさを微塵も感じさせない“幻想郷の管理者”の顔への変質。
その目は感情を排し、視覚を得る為だけの無機質な光を放ち、顔からは表情が消えて、ただその不自然に完成された美貌だけが残った。
一瞬にして張り詰めた空気に、思わず幻武も固唾を飲む。彼はこの刺々しい空気に、霊夢が怖がって起きてしまわないかと心配したが、幸いにも霊夢は依然として布団の上で寝息を立てていた。
「貴方たちも感じていたか。さすがに、それを見過ごすほど子煩悩にはなっていなかったという事ね」
「やっぱり、紫も気づいていたのね」
「当たり前じゃない。これ以上、貴方たちが気付かないようだったら、こちらから話をさせてもらうつもりだったわ」
「それで、この妖怪たちが “薄く”なっている現象は何が原因なんです?」
食いかかるようにして尋ねる幻武を制するように、紫は閉じた扇子を彼の鼻先へと向けた。そして鋭い目付きのままに口を開いた。
「この幻想郷は、二つの結界によって外界と分け隔てられている世界……。その結界のうち一つを私が、そしてもう一つを博麗の巫女が管理している」
「そんな事は知ってるわよ。もう、十数年も自分で張り続けてるんだから」
「私の結界は、外で幻想となったモノを幻想郷へと引き寄せる役割を持つ結界。そして、貴方が代々受け継いできた“博麗大結界”はその逆、常識と非常識という論理結界によって、外の常識に蓋をする。つまり幻想郷に常識を持ち込ませない、そして幻想郷から非常識を漏らさない為の結界」
「そんな事、知ってるって言ってるじゃない」
分かりきった事に対する説明に辟易する幽夢であったが、幻武はというと初耳であるかのように何度も頷いていた。
紫はそんな二人を見て、そこで一際力を込めて訓戒した。
「いいえ、分かっていないわ。分かっているのなら、今回の事象についてもある程度の推測が出来ていたはず。私の“幻と実体の境界”は以前変わりなく運用されている。そうなると、どこかに異常があるとすれば……貴方の“博麗大結界”の方よ」
「……え? 私の結界に問題があるっていうの?」
「そうとしか考えられない。依然として外からは恒常的に幻想となったものが流れ着いてくる。しかし、それをこの幻想郷に留めておく事が出来ていない。だから外の世界へと妖怪たちの力が流出してしまい、妖怪たちの弱体化に繋がっているのよ」
「――っ、失礼ね! 私はちゃんと結界を張っているわよ? 霊夢を産む時だって、死にそうな目に遭いながら張り続けたんだから」
幽夢は声を張って抗議をした。自分がこの幻想郷の存続に関わる非常に大きな役割を担っている事は、彼女も分かりきっている。
だから、その結界の維持に関しては、命を賭してまで遂行をしているという自負がある。
「言い張るのは結構だけど、実際問題として妖怪の弱体化は起きている。そして、妖怪たちの中にもそれを自覚し始めている者がいるわ。よく、身の振り方を考えておくのね。二人とも」
そう言うと紫は真下に“すきま”を展開し、一瞬でその姿を消した。
唐突な会談の幕切れに唖然とした幽夢と幻武であったが、やがて気が付いたように二人で顔を見合わせる。
「紫さんはああ言ってたけど……。幽夢は大丈夫なのか? 実際のところ」
「当たり前じゃない。この結界は私の母や、歴代の巫女がずっと受け継いできた大事な結界なのよ。手を抜いたりなんかするもんですか」
「安心した。ただ、辛い時は言ってくれ。まぁ生憎、結界とかにはまるで知識がないから、結界を張り続けるのがどのくらい大変なのかも、どうしたらそれが楽になるのかも、俺には分からないけどな」
「そうやって心配してくれるだけで、十分よ」
幻武は妻の手をそっと握った。力仕事ばかりでまるで岩のように固く鍛えられた手も、こうして彼女の手を握る時だけは、不思議と柔らかく暖かい。そして幽夢もそうされる事で、確かに心が安らぐのを感じる事が出来た。
「今日はもう休め。霊夢は俺が見るからさ」
「……そうね、そうさせてもらうわ。ごめんね」
そうして幽夢は、久しぶりにゆっくりと睡眠を取ることになった。やはり赤子を育てる母親というのは、身を削るような思いをして、かつそれを自覚していないのだ。傍目から見ても疲れが出ている顔を見つつ、幻武はそう感じていた。
居間を出た廊下は、庭と面した縁側へとつながっている。その縁側の脇に夫婦の寝室があり、そこは幽夢が霊夢を産んだ場所でもある。
幽夢が寝室に入ると、そこには一組の布団が敷かれていた。今夜は幽夢だけがその布団に入る事になるのだろう。
布団の中に入り顔を横に向ければ、満月の光が障子越しに部屋へと照りつける様を見られる。
その光を瞳に映す幽夢は、自分の身体を抱きながら物思いに耽る。
彼女は無意識の内に大きな不安を抱えていた。そして、先程の紫の言葉によって、その不安は炙り出されるように彼女の自意識に浮かび上がってきた。
「ふぅ……」
今も彼女の身体からは、莫大な量の霊力が吸い上げられて「博麗大結界」の維持に使われている。
莫大な量といっても、消費されるそれより桁違いの早さで霊力が産み出され、巫女の身体を潤しているのだ。だから彼女たちの霊力が、結界の為に枯渇することはなかった。
だが、彼女の不安とは、まさにその事についてであった。
霊夢を産んでからというもの、幽夢は自分の身体の中に空洞が出来たような感覚を味わっていた。それは、産後の疲れといった類のものではなく、何か自分にとっての大切な塊が、霊夢と一緒に産み落とされたような感覚。自分の中から“それ”がすっかりと消えてしまったような喪失感であった。
そして影響されるように、自分が今まで産み出してきていた“霊力”が弱まった気がした。それは、決して結界を張れなくなるような大きな喪失ではないと幽夢は信じ、また他に霊力を使う機会も無い故に、自分の中で「思い違いである」と否定しているのだ。
だが今すぐに、妖怪退治などで霊力を使わなければならなくなったとしたら。――今の自分には、それを遂行することは出来ないという、ある意味では確信めいたものも、幽夢の中には確かに存在した。
「大丈夫、ちょっと疲れているだけよ……。休めば治るはず」
幽夢は一人、布団の中で言い聞かせ続けた。
◇ ◇ ◇
その日、幽夢は夢をみた。それは幼い頃の自分を、俯瞰から見下ろす懐かしい夢。
神社の境内で一人、竹箒を握り締める幼少の自分を見た幽夢は、それが産まれてきた娘にどことなく似ていると感じた。
「あぁ良かった。霊夢は多分、私似の娘になるわね。もう少ししたら、あの頃の私みたいに……」
まるで幽霊のように空中に浮かびながら、幽夢はしばし昔の自分を観察していた。――やがて彼女はある事に気付いた。
箒で境内を掃く幼き巫女は、塵を除けている訳ではなかった。彼女は、自分の目から零れ落ちるものを掃いていたのだ。
「そうね、あの頃の私は……寂しかったものね」
彼女は思い出す。独りで神社を守ってきた幼い頃の記憶を。人も妖怪も寄り付かない神社を独りで守ってきた虚しさを。
両親はその頃、まだ生きていたと思う。しかし、博麗の巫女は娘へと結界を受け継がせると同時に、娘を神社に一人置いて、人間の里へと隠居するのが決まりとなっていた。そのせいで幽夢の両親も、掟に従って彼女を神社へと置き去っていったのだ。だから、彼女の記憶の中に、両親の姿というものは存在しなかった。
しかし、幽夢はその頃から強い子であった。一人でも、しっかりと巫女としての責務を果たしていた。だが、ほんのたまに、心が緩む時があった。――それは一人で境内を掃除している時、一人で料理をしている時、一人で食事をしている時――そんな心が緩んだ時に、彼女は静かに泣いていた。
「本当に一人だった。――彼に会うまでは」
幽夢はまるで水中を泳ぐように手を動かして、涙を落とす昔の自分へと近づいていった。
幼い彼女には自分の姿は見えないようであったが、こちらからは彼女に触れられるようだ、と幽夢は気付く。そして幽夢は慰めるように、彼女の涙で濡れた頬を、指でそっと拭ってやった。
「辛いわよね、分かっているわ。親の愛も受けずに、友達も作れずに、結界の為だけに生きている貴方。それは、それは辛い生き方よね」
幻影にそう慰めの言葉を投げかけた時、幽夢の頭を大きな衝撃が襲った。それは、まるで死刑宣告を受けたかの様な激烈な震撼であった。
「あ……あ……」
目の前の幼い自分が、更にどんどんと幼くなっていく。それはやがて、立つことすらままならぬ赤ん坊の姿になる。――誰にも支えられなくなった箒が、境内に倒れた。
やがて赤ん坊になった姿は、娘の霊夢そのものであった。一歳になったばかりの我が娘、それが過去の自分とぴったりと重なり合った。
「そうだわ、いずれ私も霊夢を……自分と同じ目に遭わせなきゃならない。六歳の誕生日が来る日に、博麗の巫女は独りになってしまう……」
幽夢は、思わず胸を抑えた。胸の中に突き刺さる、鋭い痛みを堪えきれず膝をつく。目の前に転がる赤ん坊、それは昔の自分であり、ほんの未来の娘でもある。
あれほど辛かった、そして今でもこうして夢に見るような日々を、我が娘にも味わわせようという気持ちが、親である幽夢の中にあるはずもない。――親ならば、子の幸せを祈るのが至極当然の事であるからだ。
「霊夢、貴方は……! 貴方には!」
その叫びに呼応するように、周りに広がる神社の光景が崩れていく。足元の玉砂利も流砂のように崩れて、幽夢は真っ逆さまに深い地底へと転落した。
そしてそれと同時に、幽夢は布団の中で目を覚ます。首筋を濡らす寝汗のせいで、彼女の真っ黒の髪は肌にべったりと纏わり付いていた。
幽夢は布団を剥ぎ取ると周りを見渡す。そこは現実の神社、我が家の寝室であった。きっと幻武は一晩中霊夢の世話をしていて、結局この寝室へは戻らなかったのだろう。隣にある布団は乱れもせずに、綺麗なままそこに横たわっていた。
「朝ね」
障子を透き通って部屋を薄く照らす太陽の光が、今日は少し暑くなる事を幽夢に教えていた。
◇ ◇ ◇
今日の八雲紫は、妖怪にしては珍しく昼間から活動していた。
太陽の光もそれほど強くなかったので、愛用の日傘も持ち歩かずに博麗神社へとやって来た。彼女の目的は二つ。一つは霊夢の顔を見ること、それとついでに、幽夢にも話しておかなければならない事が二つ目である。
境内に降り立った彼女は、ふと賽銭箱に目がいった。滅多に人が訪れないものだから、この神社の賽銭箱は概ね空っぽである。紫はそれでは神社としての機能に問題が生じるとして、幽夢にもう少し営業活動をするように指導してきた。
しかし、あまりにも立地条件が悪すぎて、それは難しい事を紫は分かっていた。だから、たまに遊びに来るときには少しでも足しになるようにと、お賽銭を入れてあげていた。
「妖怪の私からお賽銭もらっても、神様は喜ばないと思うけど」
そう言いながらも紫は、何時ものように賽銭箱へと近づいて、いくつかの硬貨を投げ入れる。
カラカラと、木と金がぶつかる乾いた音が境内に響いた。
「さて、霊夢は元気かしらねぇ」
巫女たちの住む社務所がある左手へと振り返った紫は、そこでふと背後に何かの気配を感じた。
――幽夢?
この自分に対して気付かれぬ様に背後を取れるのは、幽夢を始めとした数人の友人たちしか心あたりがない。
そしてこの神社の中に居るという事は、それは幽夢でしかあり得ない。
だが、振り返った紫は、そこに想定していたものとは違う姿を見た。
それは、確かに幽夢であった。しかし、それは幽夢ではない。――かなり昔の、まだ幼い体躯をした幽夢であった。
「幻覚、というよりは現象かしら?」
己がそう易々と幻覚を見るような存在ではない事を自負している紫は、目の前に佇む少女が実際にそこに現れているものであると見抜いた。
それはちょうど、紫が幽夢に出会った頃の姿に見える。
幼い巫女は目の前の紫には気づいていないようで、小さく溜息をつくと握りしめた竹箒を賽銭箱に立てかけた。
少女の手から離れた竹箒は、すぐに蜃気楼のように揺らいでその場から消え失せる。そして少女は、その場でしゃがみ込むと、空をただ見上げ始めた。
「これは……。そうだわ。私が初めて、この子を見たときの光景……」
紫は思い出していた。初めて幽夢と出会った時の事を。
先代の博麗の巫女が隠居した後、その娘は博麗大結界を受け継いだ。幻想郷の管理者として、その一翼を担う巫女と知り合いになっておこうとした紫は、その日ひっそりと博麗神社へとやって来た。
確かこの時、自分は鳥居の影から巫女の事を覗き見ていたはずである。――そう思って鳥居の方へと目をやるが、そこに昔の自分の姿はなかった。どうやら現象として現れているのは昔の幽夢だけのようだ。
やがて少女は空を眺めるのを辞めて、賽銭箱へと手を伸ばした。すると、先程に露と消えてしまった竹箒が少女の手の中に再び出現する。そして、彼女は気だるそうに境内の掃除を再開したのだ。
「そう、思い出した。私が見たのは此の直後、これがあの時の再現ならば、きっと幽夢は」
紫は賽銭箱の脇から少女を見守った。
一人で神社と結界を守ってきた少女。紫の腰ほどの背丈しかないその身体は、それに不釣合いな大きすぎるものを背負って生きていた。
「不思議ね、幾人もの博麗の巫女たちと関わってきた私が、なんで貴方にだけは、こんな感情を抱いたのかしら。――友人になれたのかしら」
紫はそう言いつつも、自分の中では既に答えを見出していた。
そろそろ、紫の答えもそこで再現されるはずだ。
「分かってるわ、そう。その姿を見たからなのね」
竹箒を抱きしめ声を押し殺して泣く目の前の少女を見つめ、紫は郷愁の眼差しを光らせる。
誰もいない、誰も訪れない神社で、しかし声を押し殺して泣く少女。
それを見たときの妖怪の胸には、数千年の時の中で心の底に沈んで消えてしまった感情が、再び浮かび上がってきたのだった。
「声を上げて泣いて良いのよ。貴方は子供なんだから」
あの時と同じ台詞を言って、紫は同じように彼女の身体を抱きしめた。
しかし今度は、幽夢の身体がその腕の中に収まる事はなく、ついに少女の幻影は静かに消え去った。
「……面白い白昼夢だったわ」
紫は索漠とした境内で一人呟くと、人間の温かみのある社務所へと足を向けた。
きっと幽夢とそうなれたように、霊夢とも仲良くなれるのだろうと、妖怪らしからぬ希望を胸に秘める。その足取り軽く、彼女は行く。
◇ ◇ ◇
空から照りつける太陽の熱は、大きく張り出した屋根に邪魔されて縁側までは届かない。
その廊下を四つん這いになって歩く霊夢は、頭に着けた赤いリボンを上下に揺らしながらゆっくりと幻武の方へと歩いてくる。
「うー、うー」
「そうだ、その調子だぞぉ」
幻武は両手を広げて娘の這いはいを見守っていた。まだ言葉を覚えていない娘は、ただ無意味に声を出しながら、よちよちと進んでくる。
「ぶー」
だが霊夢は疲れたのか、途中で這いはいを辞めて、その場に尻餅をついた。「霊夢ー、頑張れー」とおどけて応援をしてみせる幻武。だが、それには目もくれずに、霊夢は縁側から覗く神社の境内の方を見ていた。
幻武もやがて霊夢に歩かせようとするのを諦めて、その視線の先を追った。神社の境内には相変わらず人っ子ひとり居ない、そして妖怪の姿も、もちろん見えない。
「ふぅ、あっちはまだ話を続けてるのかな」
幻武は廊下の先にある襖へと目をやった。その奥では妻と紫が話し合いをしている。
恐らくは、例の結界の事についてだろうと思った幻武は、自分が出る幕ではないと感じて霊夢の子守りを買って出た訳である。
「あぶー」
霊夢は再びリボンを引っ張って遊びはじめた。幻武はやれやれと頭を掻きながら、その様子を見守る。
まるで、目の前の父など存在していないかのように振舞う娘の行動には、幻武もなんとなく理解をし始めていた。
「変わった奴だなぁ。いないいないばあとか、全然効果ないもんなぁ」
襖の向こう、客間として使っている和室は古い茶室を改築したものであり、狭い室内には机の一つもなかった。
幽夢と紫は、そこで座布団に正座をして二人で顔をつきあわせていた。出されたお茶に口をつけた紫は「暑いわね」と一言発する。――確かに室内は蒸していた。
「えぇ、暑いわ。だから早目に話を終わらせたいところね。というわけで、今日は何の用かしら?」
幽夢は自分の結界の事について、またもや紫から苦言を呈されるのだろうと覚悟をしていた。
体調が優れないのを隠して紫を出迎えたのも、それを予想しての事だった。
きっと体調が悪いとなれば、紫はここぞとばかりに『幽夢が結界をしっかりと張れていない』と論じてくるからに違いないからだ。
「じゃあ、本題から言わせてもらうわ。貴方たち夫婦、そろそろ里に引っ越す準備をしておきなさい」
「……はぁ?」
予想外のその言葉に、身構えていた幽夢は拍子抜けしたように声を漏らした。しかし、紫は至って真面目な表情のままで話を続けた。
「貴方も忘れたわけじゃないでしょう? 博麗の巫女は代々、実子が女児の場合には、六歳になる時に子へと博麗大結界を受け継がせる。そして自分は人間の里へと隠居して、身分を隠し余生を過ごすのがしきたり。貴方のお母様がそうだったように、ね」
「……忘れるわけないでしょう。でも、霊夢が六歳になるまでは後五年もあるのよ? いくらなんでも性急過ぎないかしら」
「時が流れるのは早いものよ。今から準備を始めても、早過ぎる事はないわ。――特に、貴方の身体の事を考えればね」
そこで、室内は静かになった。襖の向こうからは、幻武が霊夢に話し掛けている戯言か何かが微かに聞こえる。
互いの視線は交錯するが、冷静な紫の瞳に対して、幽夢のそれは驚きと動揺に満ちていた。
目の前の妖怪は、自分が体調を崩している事を見抜いている。そして、それが一過性のものではないという事を。――そう理解した幽夢は、唇を噛みながら紫へと返した。
「紫、あんた……。私の、知っていたの?」
「私は貴方がおしめをしている時からの知り合いよ。顔を見るだけで全てが分かるわ。……でも大丈夫、安心しなさい」
紫の根拠の無いその言葉に、しかし幽夢はこの上ない安堵感を覚える。――この友人が「安心しろ」というのならば自分は安心しても良いはずなのだ――それが、彼女の生きてきた20年近くの人生で学んだ真理の一つであった。
幽夢は顔を青くして、まるで医者に尋ねるように口を開く。
「私の身体……。どうなってるのかしら」
「だから、安心しなさい。霊夢に結界を受け継がせれば、貴方のその患いは収まるわ。――貴方が辛ければ、六歳になるのを待たずして、霊夢に結界を引き継がせても良いのよ? 私が責任を持って、面倒を見るから」
それまで紫のお陰で安堵感を持ち始めていた幽夢は、しかし、その提案を聞いて急にその表情を曇らせた。
紫はその変化にいち早く気付いて、何か心配事があるのかと尋ねる。この友人が、これほどまでに思いつめた表情を見せる事は、紫の記憶にもあまりないからである。
「幽夢、貴方は何をそんなに悩んでいるのかしら? 身体の事も、霊夢の事も、結界の事も、私に任せれば大丈夫よ」
しかし、今度は“魔法の言葉”も幽夢に効かなかった。
依然として冴えない表情の幽夢は、唇を一瞬固く閉じると、それを静かに解放した。その黒い瞳は、紫の顔を真っ直ぐと見つめていた。
「紫……私……」
「どうしたのよ、歯切れ悪いわね」
「……私は、霊夢に結界を受け継がせる気は、ないわ」
「ふーん、……って! それ、どういう事よ」
さしもの紫もこれには驚きを隠せなかった。まさか、長年共に結界を守ってきた巫女が「娘に結界は受け継がせない」と宣言するとは想像も出来なかったからだ。
対する幽夢は、一度開いた唇を、再び閉じはしないというように、一気呵成にまくし立てる。
「そのままの意味よ。私は霊夢に博麗大結界を受け継がせる気はない」
「幽夢、貴方がこれを忘れるわけはないと思うけど、それでも、もう一度言わせてもらうわ」
紫は幽夢を睨めつけた。それこそが、久しく見られていなかった紫の妖としての双眸であった。
ただし、幽夢も負けじと真っ直ぐな瞳でそれを見つめ返している。
「私の結界と博麗大結界は、二つが揃って初めて今の幻想郷を支えているのよ。そして、それは妖怪である私と、人間である巫女の相反する二つの勢力が互いに管理しているからこそ、意味があるものなの。どちらも私が管理していたら、このような世界は作れないのよ。それが貴方たち、博麗の巫女が負う責務なの。……理解、しているわよね?」
紫の話に幽夢は大きく頷いた。何度も、何度も幽夢は頷いた。“その事”は痛いほどに理解していると頷いた。
「知ってるわ、紫。だって私が今までずーっとやってきた事だものね。――でも、自分でお腹を痛めて、それで子供を産んで分かったわ。私は、自分の娘に自分と同じ思いはさせたくないって。生まれた時から結界の為に生きて、親とすら離れて友達も作れずに、延々と修行に明け暮れる日々なんて」
「貴方の母親も、その思いを絶ち切って幽夢。……貴方の事を博麗の巫女にしたのよ。貴方だけにそんな自由が許されると思って?」
「そう、なんでお母さんが私の事を神社に置いて、里へ帰れたのか不思議でならないわ。私にはそんな事は出来ない、霊夢を一人置いて隠居なんて……。紫、どうしてなの? なんで子供の幸せを祈る事が、博麗の巫女には許されないの?」
畳に落ちる水滴が、静かな空間の中で雨粒の足音のように響いて聞こえた。
紫は硝子のように冷ややかな瞳のままに、目の前の友人を叱咤する。
「失望したわ、幽夢。貴方がそんなに無責任な人間だったなんて。……いや、それが人間らしいのかも知れないわね。今までの巫女たちが、出来過ぎていた」
「紫! お願いよ、結界は私が死ぬまで責任を持って張り続けるわ。だから、霊夢の事は普通の女の子として育てさせて!」
「断るわ。結界を霊夢に受け継がせない限り、幻想郷に安寧はもたらされない。貴方がどうしても断るのならば、私が無理やりにでも霊夢に結界を受け継がせる」
幽夢は拳をきつく握りしめた。そして顔を俯かせたままで思考する。
今までにも何度か、紫と意見が対立して喧嘩になった事はある。だがそれは、ほんの些細な事で、結局は収まりがつくような事ばかりだった。だが今回は違う。紫は決して喧嘩などでは折れないだろうし、まして今の自分には、紫と遊びの喧嘩すら出来る自信もなかった。
ならば今、自分が娘を守る為には、口先だけで何とか言いくるめるしかないのだ。
「分かった、紫。霊夢に結界を受け継がせる事は受け入れるわ……」
「ええ、それが賢い選択よ……」
「でも! でも、霊夢が12歳の誕生日を迎えるその時まで、結界の受け継ぎを待ってくれないかしら? それまでの12年間だけは、普通の女の子として過ごす事を、霊夢に与えては……くれないかしら」
涙を隠すこともせず頭を下げる巫女、それを見下ろす大妖は一昔前に見た光景を頭の中に想起していた。――そう、それこそは博麗神社に一人で住む幼い巫女の姿。人間も妖怪も寄り付かない神社で、一人結界を維持する為に修行を続けていた幼い少女の姿。
「幽夢、顔を上げなさい。貴方に頭を下げられるような事をした覚えは、無いわよ」
紫の声に、しかし頑なに頭を下げ続ける幽夢は、肩を大きく震わせていた。
その拍節に合わせるように、畳の上に雫が一つ、また一つと落とされていく。
―― 一人、涙を流しながら神社の境内を掃除していた少女。それを見たときの気持ちと、今の紫の素心は似通っていた。
暫くの無言を挟んだ後に、紫は大きな溜息と共に手に持った扇子をパチリと閉じた。それが落着の合図である。
「分かったわ。その12歳までの延長期限、私が認めましょう」
「……! 本当、よね」
「誓うわ。友人として、そして幻想郷の管理者の一人として」
その言葉を聞いて、幽夢はようやく顔を上げた。
涙で汚れたその顔は、悲しみや情けなさとは程遠い、母としての強さに依るものだと紫に感じさせた。
「ありがとう、本当に感謝するわ。紫……」
「ただし! 一つ条件があるわ」
紫の肩を抱こうと寄ってきた幽夢に対して、紫は釘を刺すように人差し指を立て、それを制止する。
幽夢は再び緊張の面持ちとなり、その動きを止めた。
「いくらなんでも、ただそれを認めるなんて無責任を私はしない。仮に貴方や幻武に万が一の事があった場合、その場合には霊夢が12歳の誕生日を迎えていなくとも、私が責任を持って霊夢に博麗大結界を受け継がせる。そして12歳の誕生日を迎えるまで責任を持って育てる。そういう契約を結ぶ事が条件よ」
「契約……。つまり、それは紫も守らなければならない契約って事よね」
「そう。貴方が霊夢を育てられない事態に陥れば、貴方は霊夢に結界を受け継がせる事を認める。そして私は責任を持って霊夢の面倒を見なければならない。これで平等でしょ?」
「しょうがないわ。そんな契約で良いなら……。むしろ、こちらからお願いしたいような契約ね。霊夢を安心して預けられるのは、貴方の他にはいないもの。ね? 名親さん」
こうして、紫と幽夢は契約を交わした。
それは傍から見ればただの口約束に見えたかも知れないが、二人の間ではこの瞬間に歴とした契約が結ばれたのである。神であろうと破ることの許されない、魂の契約が。
「それじゃあ、今日の所は帰るわ。霊夢の事、しっかりと育てるのよ」
「うん。 ――ありがとう、紫」
◇ ◇ ◇
短く答えた幽夢に背を向けて、紫は襖を開けて部屋から出る。
廊下では、幻武が霊夢に掴まり立ちをさせようとその小さな手を取っていた。だが霊夢は立とうとする気もなく、廊下に尻餅をついたまま幻武に手を引っ張られて万歳をしていた。
部屋から出て来た紫に気付いくと、幻武は霊夢の手を離して彼女へと頭を下げた。
「どうも紫さん、お話は終わりましたか?」
「ええ、終わったわ。 ……何? 霊夢のこと、立たせようとしてたの?」
「そうなんですよ。俺のお袋が言ってたんですが、俺は生まれてから半年くらいで歩いてたらしいですから。霊夢もそろそろ立たないと、と思いまして」
「それは貴方が早熟なだけね。無理せずにゆっくりと育てると良いわ、時間はたっぷりあるんだもの」
「……ええ、こいつが六歳になる前には、安心して独り立ち出来るようにしてやらないと……」
その言葉に紫はふと、先程見た幽夢の涙を思い出す。
彼女が流した涙は、この夫の分まで引き受けた涙なのであったと、そのことに紫は遅まきながら気付いた。
「その事なら安心なさい。貴方達と霊夢には十分な時間が与えられているわ。詳しくは幽夢から聞くと良い」
「? え、どういう事ですか、紫さん」
「……霊夢、また来るまで元気でね」
紫は自分の贈ったリボンの結び付けられた小さな頭を、優しく撫でた。
普段は周りの動きを気にする事のない霊夢であるが、頭を撫でられるのは嬉しいのか擽ったいのか、頭を小刻みに左右に振って応えた。
「うー、あぅ」
「そういえば霊夢、なかなか言葉を覚えないわね」
「うーん、もしかして耳が聞こえないんじゃないか、っても思ったんですが、どうもそうでも無いみたいなんですよね」
「……大丈夫よ、安心なさい。それじゃあ幻武も、霊夢の事をしっかりね」
「言われなくとも。自分の命より大事な子ですから」
紫は縁側から飛び降りると、地に足を着いた。
日が傾き掛けた境内には、薄まった太陽の光が降り注いでいる。紫も日傘の必要を感じずに、軽く日光を浴びて帰る事にした。
境内を歩く紫は、ふと社殿の前に鎮座した賽銭箱へと目が移る。そこには“幼い幽夢”が、まだ幻視のようにチラついて見えた。
「そうだ。あの日も、こんな天気だったわね」
雲間から顔を覗かせる太陽を一瞥し、涼しい風が流れるのを全身で感じながら、紫は宙へと舞った。
賽銭箱の脇にいる少女は竹箒で塵を掃きながら、未だに泣いている。
「そう、あの子はずっと一人だったわね。本当に、一人だった。幻武と出会うまでは……」
去る前にもう一度だけ眼下の神社を見下ろした紫の目に、今度は先程より少し成長した少女の姿が見えた。
もう泣いてはいないものの、やはり一人ぼっちで境内の掃除をしている。
「ふふ、もう少しの辛抱よ。貴方は出会うわ、本当に大切だと思える人間に」
紫は神社から飛び去っていった。その後を追うように、涼風が無人の境内を通りすぎていく。
――これから語られるのは、幽夢と幻武が出会う時の話。幽夢が孤独だった頃の話。
誰かに決められたかのような一定の旋律で、延々と鳴き続けるセミの声。
それを聞きながら博麗幽夢も、また一定の旋律で箒を動かし続けていた。
初夏の幻想郷は陽射しもそれほど強くはなく、むしろ吹き抜ける風によって気持ちの良い涼しさを感じられる気候であった。
「暑いわねぇ……」
一人呟いた声に答える者はいない。それもそのはず、彼女はもう何年もの間、一人っきりで過ごしてきたのだから。
人間との会話といえば、人里へ食料をもらいに行く時くらいのもの。それすらも、彼女は極力少ない口数で済ませるようにしていた。
彼女は延々と掃除を続けている。だが箒で掃くものといっても、この季節には塵芥も滅法少なくなる。落ち葉も大して落ちていなければ、毎日掃除をしている為に埃などもない。
しかし、彼女はそれでも休まずに掃除をしている。それくらいしかやる事が無いからかも知れない。掃除以外にする事といえば、霊力を高める為の修行と、縁側でお茶を啜りながら、雲の流れをぼうっと眺めることくらいのものである。
「あいてっ」
突然、痛みを訴える声が幽夢の耳に届いた。それは、神社の裏手から聞こえてきたようだった。
声が聞こえる直前に、彼女は自分が神社を囲むように張っていた結界へ、妖怪が引っかかった事を感知していた。
「あらら。どこかの野良妖怪でも、結界に焼かれたのかしらね」
幽夢は面倒に思いながら、持っていた箒を賽銭箱に立てかけると、神社の裏手へと様子を見に行った。
普段この神社へとやってくる妖怪は、顔見知りの八雲紫くらいである。だが、たまに博麗の巫女の恐ろしさを知らずに神社へと迷いこむ妖怪がいるのだ。
そういった妖怪が、結界の事を知らずに神社に入ろうとして、哀れにも大火傷を負う事が度々起きる。そんな時は、二度とここへ近寄ってこないように、追い打ちで痛めつけるのが巫女の役割である。――と幽夢は考えていた。
「いてぇー! コレ、通れないって」
「あん? 俺はなんともないぜ」
「あー……。そっか。コレ、妖怪用の結界だわ」
現場に近づくにつれ、其の様な会話が耳に入ってくる。どうやら妖怪たちは複数いるようだ。
幽夢は懐から御札を取り出して、それを指の間に挟めた。妖怪に命中すれば、とびっきりの電気ショックを与える、幽夢特製の妖怪撃退用御札である。
「おい、妖怪ども。よくも神社へノコノコと現れたわね」
幽夢はわざと威圧的に言いつつ問答無用で、最も妖怪然とした面の男へ御札を投げつけた。真っ直ぐに空を切って進む御札は、男の顔面へ見事に命中してベッタリと張り付いた。
「ふがが! 何じゃこりゃ!!」
男は鼻をふさぐ御札を慌てて掻きむしり、それを剥がし投げ捨てる。そして、首を傾げる幽夢に向けて怒鳴った。
「おいっ! いきなり何すんだよ!」
「んー? なんで痺れないのかしら……?」
平気な顔で御札をひっぺがした男を見て、幽夢は驚きに目を見開いていた。なぜなら幽夢特製の御札は、妖怪の身体に触れた瞬間、その全身を痺れさせるはずなのだ。
しかし、すぐにその理由が分かった。見れば男は既に、妖怪用の結界を超えて神社の中に入っている。つまり、彼は人間なのだ。人間相手には妖怪用の御札も効果はない。
ただ、その男の背後。そこには火傷した手を庇う天狗と、その仲間が二匹ほど控えている。何故、妖怪と人間が一緒に神社へやってきたのかと、幽夢はまた首を傾げた。
「なんだ、貴方もしかして人間? 一番、妖怪っぽい見た目してるのに」
「なんだとぉ!? 俺は幻武ってぇ名の、れっきとした人間だ!」
その少年・幻武は、人間であることをアピールするように両腕を広げてみせた。だがしかし、それは幽夢からすれば全く説得力に欠けていた。幻武は薄汚れた着物を身に纏っており、草鞋の鼻緒などは切れかかっている。後ろで結んだ長い髪の毛は、クセッ毛の上に埃っぽい。――単刀直入にいえば、彼は汚かったのである。
特に、紅白の巫女服で全身を清く着飾っている幽夢からすれば、彼のその汚さは、もはや妖怪としか言いようがない。むしろ、後ろでこちらを指差してゲラゲラと笑っている天狗たちの方が、よっぽど人間らしい山伏の格好をしている始末だ。
「それで……なんで人間のあんたが、妖怪と一緒に神社へとやってきたワケ?」
「あぁ、そうそう! ここの花菖蒲が見事に咲くって噂を聞いたからさ、こいつらにも見せてやりてぇと思ってきたのよ」
後ろに控える天狗たちを指差す幻武。当の天狗たちは何が可笑しいのか、未だにゲラゲラと笑い合っている。
それを見て幽夢は、少しムッとしながらも会話を続ける。
「花菖蒲? ああ、確かに社務所の裏に、妖怪避けとして植えてあったわね」
「花見といえば桜だけど、今はもう夏だろ? だから、代わりに花菖蒲で花見しようと思ってさ。というわけで、こいつらも入れてくれ」
「ダメよ。っていうか、あんたも。さっさと出ていきなさい」
幽夢はシッシッと手で追い払う仕草を見せた。それを見た幻武は、眉を釣り上げて口をへの字に。みるみる内に不機嫌な表情になる。
さっきまで白い歯を見せて、ニコニコと笑っていた顔が豹変した事に、意表を突かれて霊夢は一歩身を引いた。
「なんだよ! 神社は、みんなのものだろ? 花見くらいさせてくれよ!」
「っ、神社に妖怪を入れていいわけないでしょ。それに神社は私の物だし……。まっ、人間のあんたは百歩譲って入れてやっても良いけど……。あ、いや、やっぱり駄目、あんた汚すぎ」
「うるせぇな! 新しい服なんて買う金ねぇんだよ! これでも毎日ちゃんと洗ってんだ!」
すっかり頭に血が昇った様子の幻武は、勢い良く振り返ると天狗たちに手振りをし、結界を超えて森へと戻っていった。仲間の天狗たちは「しょうがねぇよ」「気にすんな」と口々に幻武を慰めつつ一緒に帰っていく。
その様子を眺めていた幽夢は、幻武に対して、もう一つ聞かなければならない事があったと思い出した。
「ちょっと! まだ教えてもらってないんだけど。あんた、なんで妖怪たちとツルんでるのよ?」
その質問に、幻武は捨て台詞のように応えた。
「友達だからに決まってるだろ。それと、俺の名前は幻武ってんだ。ちゃんと名前で呼んでくれ」
それだけ言うと、一人の人間と三匹の天狗は森の奥深くへと消えていった。
幽夢は暫くの間、その場で一人立ち尽くす。幻武の言い残した言葉――「友達」という言葉が、彼女の頭の中で反芻されていた。
「友達……? 人間と妖怪の癖に?」
そして次に幽夢は、あの汚らしい男の姿を頭の中で再生する。思えば歳が近い人間の男と会うのは、幽夢にとって初めての事であったのだが。
「もしや……人間の男は、皆あんなに汚いものなのかしら……? うぇ~、幻滅だわ」
そう思って寒気がした幽夢は、再び掃除を始めようと賽銭箱の前へと駆け足に戻っていった。そして箒を手に取った彼女は、箒の作る影を見てふと気付いた。
影は境内を横断するように長く伸びている。そう見えるほど、いつの間にか太陽がすっかりと傾いていたのだ。――ちょっとした会話だけが、これほどの時間を消費するとは。
彼女は、その小さな発見を思って溜息を一つ。そして再び、綺麗な境内を掃除し始めた。
◇ ◇ ◇
「うぉぉぉぉーーいぃ! 巫女ぉぉおおおお!」
「うるっさいわね!」
幽夢の投げた陰陽玉が、森の中から叫び声を上げていた幻武の顔面に直撃した。
「あぐぐ……、おい、鼻血……出た……」
「朝っぱらから、喧しい雄叫び上げてる害獣には当然の仕置きよ。それで、なんだって大声上げて私を呼んでたの?」
鼻血を止めようと鼻腔に布切れを詰めながら、幻武は草木をかき分けて神社の敷地に入ってきた。今日は天狗たちの姿が見えない。彼一人での来訪のようだ。
「だって、勝手にひとんちに入ったらまずいだろ? それに思い返すと俺、お前の名前知らないし。だから、ああして呼ぶしかないじゃないか」
「ああ、私の名前知らないんだっけ? まあ、知らなくても良いでしょうけど。私は博麗幽夢よ」
「幽夢か、分かった。それじゃ、お邪魔するぜ」
「ってそうじゃなくてさぁ。なんで神社にやってきたのよ?」
そう言われた幻武は、さっきまでのニコニコ顔を豹変させて突然怒りだした。よくもまぁ表情のコロコロ変わる男だと、幽夢は半ば呆れていた。
「そうだ! さぁ幽夢、これを受け取るが良い!」
「うわっ、急に怒りだした。なんなのよ一体……」
幽夢は人間の男とはみんなこうなのだろうか、と更に呆れながらも彼の差し出した紙片を受け取る。するとそこには、とにかく汚い字で「果たし状」とだけ書かれていた。
「はぁ……? なんでコレを、私に寄越してくれるのかしら?」
「決闘だ! 俺が勝ったら、昨日の天狗たちに花見をさせてやってくれ!」
幻武は幽夢の鼻先へと、その太い指を突きつけて、鼻息荒く言い放った。それを受けて幽夢は、手にした果たし状で、その指をペシッと払う。
「なんで私が、そんな面倒な事しなきゃならないのよ? 一応聞くけど、どういう決闘方法にするの?」
「相撲だ! 男なら一対一、相撲で決着をつけよう!」
「私男じゃないし、決着つけるとか意味が分からないし、あんた汚いし。とりあえず、全面的に却下ね」
「くぅ、やはり口先が上手い……そうやって今度も逃げる気か! だが頼む、このままじゃ奴らに合わせる顔がねぇんだ! 俺と勝負してくれ!」
幻武は遂には頭を下げて、幽夢に自分と決闘をするように頼み始めた。
幽夢は、女の自分に対して相撲で勝負を挑もうとする、幻武のなんとも言えない阿呆加減に絶句していた。だが、いっその事、彼の言うとおりに決着をつけるのが手っ取り早いとも思った。
ここで下手にあしらって、毎朝あの怒鳴り声で起こされる方が、よっぽどウザったいという事に幽夢は気付いたのだ。
「はいはい、じゃあ相撲で決着つけちゃいましょう」
「おお、本当か! くっくっく……河童たちと、山で毎日のように相撲を取っている俺の誘いに乗るとは。阿呆めが!」
「へぇー、河童とも友達なんだ。はい、じゃあここが土俵ねー」
幽夢は手近に落ちていた枝で、地面に丸く円を描いた。それで即席の土俵が完成である。続いて両者は、土俵の真ん中へと移動した。
「そうだよ。山に入れる人間は限られてるんだが、俺は妖怪たちと友達だから、特別に入れてもらえるんだ」
「ふむふむ、はい。それじゃあ、はっけよーい」
「お、おい、いきなり始めんのかよ!?」
「のこった」
「っとと、行くぜっ! そりゃぁああ!!」
幽夢の掛け声で始まった相撲は、まずは幻武の強烈な突進から始まった。
そして、それに強烈な足払いをかけた幽夢の一撃で、勝負は幕を閉じた。
「うわっ、だあああぁぁぁ~」
勢い良く転んだ幻武は、土俵を飛び越えて遥か彼方へと吹き飛んでいく。幻武少年の身体は綺麗な放物線を描きながら、境内を滑空していった。それはさながら、人間大砲という様相を呈していた。
そして不時着と同時に、ゴロゴロと地面を転がる。その軌跡の後には、濛々と砂埃が舞った。
「わー、よく飛んだわねぇ。馬力だけは、妖怪並だったみたいね」
満足そうに腕組みしながら、幽夢は少し感心したように漏らした。一方、負けた幻武は勢い良く立ち上がると、再び吹き出した鼻血を手で抑えながら激怒する。
「おい、幽夢! いきなり足払いなんて酷いじゃないか! 相撲といえば、がっぷり四つに組んでの鬩ぎ合いだろ!?」
「蹴手繰り。これも立派な決まり手よ。っていうか、あんたみたいな汚いのと組み合いたくないし……」
「うがぁぁぁぁああ! …………ちっくしょう」
負けた直後は怒り心頭だった幻武も、やがて冷静になると、負けを潔く認めたようであった。彼は俯きながら幽夢の脇を通りすぎて、トボトボと森へと帰っていく。
「あ、幻武……だっけ。また挑戦しに来ても良いわよ? 身体を、ちゃんと綺麗にしてきたら」
「もういいよ。女に負けたとあっちゃ、河童たちにも合わせる顔がねぇ……情けない」
さっきまでの喧しさは何処へやら、急に落ち込んでしまった幻武を見て、流石に幽夢も気を使った。しかし彼は「じゃあな」とだけ言うと、そのまま森の中へ消えていく。
「うーむ、完膚無きまでに叩きのめしたけど、少々まずかったかしら? ……とにかく、なんだか心配ね」
そこで幽夢は、こっそりと幻武の後をついていく事にした。コソコソと人の後を尾けるのは幽夢も好きではなかったが、それはそれで少し胸が高鳴るのが子供心というものである。
「まさかとは思うけど、鎮守の森で首でも吊られたら敵わないし。……うん、あいつ馬鹿そうだから有り得るわ」
やがて、幻武の後ろ姿を見つけた幽夢は、そこにいつぞやの天狗たちを見た。どうやら幻武は、彼らを森の外に待たせていただけで、そこまでは一緒にやってきていたらしい。
幽夢は姿を見られないように木の影に隠れながら、何やら話している彼らの声に聞き耳を立てた。
「――というわけで、すまねぇ。負けちまった」
「へぇ~! 河童相撲の横綱にまでなった幻武が、相撲で負けるとはなぁ。噂通りに巫女って、とんでもなく強いんだな」
「そう落ち込むな。お前も相当に人間離れしているが、巫女は更に人間離れしていた、という事だ」
「いや、すまねぇ。せっかく花見しようと、上等な酒まで用意してくれたのに……」
「だぁ、落ち込みすぎだって! それに、お前さんが言ってたモノは見られた訳だし、目的は達したんだ。酒は山に帰ってから、皆で呑もうぜ」
天狗たちに対し、頭を下げて謝る幻武を見て、幽夢はある意味納得した。
「そっか、あいつ。根っからの馬鹿なのね。心配するだけ損したわ」
妖怪と友達という時点で、どこかおかしい奴だとは思っていたが、やはり幻武という男は、頭のネジが外れているのだ。そうでなければ、花見の場所取りが出来なかったという事で、天狗に頭を下げるようなマネはしない。――幽夢はそのように理解した。
幻武が特別に馬鹿なのであり、他の人間の男は、もっとマトモな奴らに違いないと胸を撫で下ろす。そして、幻武という男の愚直さに、彼女はそれも「思ったとおり」と安堵するのであった。
「さーって。お腹すいたわねぇ。そういえば、まだ朝御飯も食べてなかったっけ」
天狗たちに何度も頭を下げながら去りゆく幻武の背中は、自分に足払いをされたせいか、いつもより余計に土で汚れてしまっていた。
しかし、彼女の目にその姿は、先ほどより汚くは映らなくなっていた。
◇ ◇ ◇
「というわけでさぁ。 巫女さん、なんとかしてくだせぇよ」
直談判に来たのは、人間の里に住む農家の代表者だった。その依頼とは、巫女の本業である妖怪退治だ。
「ふーん、珍しいわね。人間の里の畑を荒らす妖怪なんて。最近とんと見なくなっていたのに。……“あいつ”が怖くないのかしら」
幽夢は首をかしげた。人間の里は、八雲紫が保護している謂わば特別区である。人間を無闇に襲う事を禁じている幻想郷の中でも、特に人間の里は監視の目も罰則も厳しい。だからそこで悪さをしようとする妖怪などは、このところ皆無のはずであった。
それこそ昔は、権力者である八雲紫に対して反感を持つ妖怪の派閥があり、幾度か戦争も起きたようであったが、今の幻想郷では取り敢えず、彼女に反する妖怪はいないと幽夢は聞いていた。
「あいつの求心力も、弱まってきてるのかしらねぇ。人望なさそうだし」
「あの、巫女様どうかしましたか?」
「――っと、こちらの話よ。その件に関しては了解したわ。今日にでも懲らしめてやるから、今夜は安心なさい」
「へぇ、お願いします。……今年の収穫期は、期待していてくだせぇ」
農民は年端もいかぬ少女に対して頭を下げる。それだけ、彼らにとって妖怪に牙を剥かれる事が恐怖であり、それを防いでくれる博麗の巫女の存在は、まるで神のように尊いのだ。
「えぇ。楽しみにしているわ」
「それでは、失礼いたしますよ」
彼らが去った後、幽夢は夜更けがくるまでの暇な時間を、瞑想で費やす事にした。
彼女は生きている限り、博麗大結界を張り続けなければならない。普段は平然としている彼女も、実は常にその霊力を結界の為に消費し続けている。故にその霊力の生産量を増やす瞑想などの修行は、生涯の務めとして彼女に課せられているのである。
「……今日は、これにしようかしら」
境内の真ん中に簡易な陣を敷くと、そこで幽夢は瞑想を始める。だが神道に基づく神社であれば、此の様な形式で瞑想をする事は異である。しかし彼女は、とにかく霊力を必要としている。故に、神道の形式に囚われずに独自に霊力の増えそうな修行を数多く取り入れていた。その点において、歴代の博麗の巫女の中でも、彼女は特異な存在であると言えた。
夜の帳が降りてくると、彼女の周りには虫の音ひとつ聞こえない静寂が広がる。そして彼女は自分の心の中に問いかけて、その集中を高めていく。
彼女の心の中は、夜よりも深く暗くなった。その中で一人、永い時間を掛けて精神を研ぎ澄ませるのが、彼女の編み出した独自の瞑想である。
自分以外には何も存在しない空間で、彼女はしばしの間、瞑想を続ける。するとやがて、真っ暗な幽夢の心の中に突然、ある人間の顔が浮かび上がってきた。
――幻武?
それは、あの少年・幻武の顔であった。やがて、はっきりと見えるようになったその顔は、彼女が今まで見たことのないような苦悶に満ちた表情をしていた。次第に、その顔は血に濡れ始める。終いには、まるで死相のようになっていった。
瞑想の静寂の中に、このような異物が入り込む事は初めてである。彼女は慌てて瞑想を中断させた。
「……っは!」
目を開いた幽夢はこめかみから一筋の汗を垂らすと、ごくりと生唾を飲んだ。いつの間にか口の中がカラカラに乾いている。
「なんで……幻武の顔が浮かんできたのかしら……。私の勘がそうさせたのだとしたら。――うーん、嫌な予感ねぇ。ちょっと早いけど、もう出発しようかしら」
彼女は、自分の第六感に大きな信頼を寄せていた。信頼を寄せているというよりも、自然とその勘に身を任せて生きているといった方が、より正しいかもしれない。とにかく、瞑想の中に彼が現れた事は、自分にとっても大きな意味を持つのだろうと、幽夢は泰然と理解したのだ。
妖怪退治には、少々時間が早い。しかし御札やお祓い棒を手に持つと、彼女は少し急いで空を舞った。向かうのは近頃、妖怪に荒らされるという里の近くにある畑だ。
「おかしいわね、妖怪退治如きで……私が緊張するなんて」
彼女は口に出して、自身の胸騒ぎを確認した。夜空を高速で飛行する彼女は、お祓い棒を握り締める右手にじっとりと汗をかき、胸には締め付けるような息苦しさを感じていた。
唾を飲み込んで、その緊張を解そうとする彼女は、形容しがたい焦燥感に身体を囚われ始めていた。
「……大丈夫。安心なさい、幽夢。それに、幻武が死んだからって、ちょっと目覚めが悪いだけよ。助けられるに、越したことはないけど」
博麗神社と人間の里は離れているとはいえ、空を飛ぶ彼女にとってはあっという間の飛行である。独り言で気持ちを落ち着かせている間、彼女は里の近くに到着していた。早速、眼下に見える人間の里を見下ろしながら、例の畑を探し始める。
そして、それは程なくして見つかった。そこには人間たちが収穫の秋を待って育てている作物が並んでいる。
「あっ? もしや……」
彼女は、その畑の中で幾つかの影が蠢いている事を目視した。近づいて見るまでもない、それは農民たちが訴えていた、畑を荒らす妖怪たちである。
その妖怪たちは畑に埋まった野菜をほじくり返したり、畑で取っ組み合ったりして、その肥沃を台なしにしていた。
幽夢はてっきり、妖怪たちはもっと夜が深まってから活動するものとばかり思っていた。だがその思惑が外れて、彼らは既にやって来ていたのだ。しかし早目に出発した事が功を奏して、被害はまだ少ないうちに追っ払えそうである。
幽夢はさっそく御札を左手に、妖怪たちの横暴を制止しようとした。
「止めなさ――」
しかし、出しかけた声を噤んで、その動きを止める。一歩先に妖怪たちへと飛びかかった影を、その視界に捉えたからだ。
「止めろぉぉぉお! お前らぁぁぁぁ!」
そのやたら大きい叫び声には聞き覚えがある。一週間ほど前、幽夢の神社にも朝っぱらから、今のと同じ叫び声が響いていた。そう、妖怪たちに飛び掛ったのは、瞑想の中で浮かび上がってきた少年であった。
「幻武……!? なんで、ここに……? ふーむ、面白そうね」
幽夢は咄嗟に地上に降り立つと、草むらの中に身を屈めた。そして何と、幻武の事を遠目に観察し始めたのだ。闇夜の中で気配を消せば、妖怪にも幻武にも、その存在を気付かれる事はなかった。
「こらー! 里の皆が大事に育てた野菜に、何てことをするんだぁ!」
幻武は右手に握った三尺ほどの木の棒を、まるで剣のように振り回しながら、畑を荒らす妖怪たちの前に躍り出た。しかし当たり前のように妖怪たちは、それを意に介さず好き放題を続けた。
「お前ら! こんな事をしてたら、妖怪の親玉に叱られるんじゃないのか? お互い、得にならない事は辞めよう!」
それでも幻武は、しつこい程に妖怪たちへ説得を続けた。木の棒を振り回すのを止めると、無抵抗を示すように両腕を広げた。だが幽夢の目から見ても、彼は説得が向いているような質ではない。あまりに似合わない台詞に、幽夢は草陰で笑いを堪えていた。
「人間の里に手を出したら、お前らも大変な目に遭うんだぞ! ここは退いてくれ!」
そこでようやく、妖怪の一人が幻武に反応を示した。白狼天狗とおぼしき彼は、一旦手を休めると幻武の顔をまじまじと見つめた。
「ああ、なんかうるせえと思ったら、幻武とかいう人間の餓鬼か」
「!? おお、知ってるのか? 俺のこと」
「まぁな。一部の妖怪連中は、お前を認めてるらしいが、そいつらと俺らは根本的に考え方が違う。妖怪の親玉に叱られるって話も、お前のオトモダチが言ってた事だろうが、俺たちは“そいつ”の事を恐れちゃいない。そんな脅し文句は意味がないぜ」
それだけいうと、妖怪たちは再び畑を荒らし始めた。幻武は激昂を抑えるように歯を食いしばって、妖怪への説得を再開した。
「あちゃあ。やっぱり紫の奴ったら、ナメられてるじゃないの」
幽夢は額に手を当てて、遠目から暴れまわる妖怪たちの影を見ていた。
一方で止まらない妖怪たちに我慢がならない幻武は、ついに棒を握り締める手に力を込めた。
「くそっ! ならお前ら、俺と勝負しろ! 俺に負けたら畑を荒らすのを辞めろ!」
その言葉に妖怪たちはピタリと動きを止めた。遠目に観察していた幽夢も溜息をついて呆れる。
「あいつったら、誰にでも勝負を仕掛ければ済むと思ってるのかしら……? やっぱ馬鹿なのかしら。きっとそうなのね」
勝負を申し込まれた妖怪たちは、どうやら頭に血を昇らせ始めたようだった。なんといっても人間の餓鬼が、妖怪である自分たちと対等に勝負が出来ると思い上がっているのだ。プライドの高い妖怪たちには、その発言を看過する事は出来ない。
今まで幻武の事を見向きもしなかった妖怪たちは、たちまち彼を取り囲むと鋭い目付きで睨みつけた。
「おい、餓鬼。お前、俺たちと勝負して……勝てるとでも思ってんのか?」
「俺は勝ち目のない勝負はしない。それは相手に対しても失礼だからな」
「くっく、大した自信だよ。笑えるぜ。それで? どうやって勝負しようというのだ」
「相撲……は、自信喪失中だから辞めとこう……。単純に一対一の喧嘩はどうだ?」
「ほぉ……。その棒っ切れで、俺らをぶちのめせると思ってるわけだな?」
「ああ、もちろんだ。それじゃあ、了解してくれるのか」
幻武は嬉しそうに木の棒で素振りをした。妖怪たちは彼のその自信に、ますます心中が穏やかではなくなる。こうなれば、この餓鬼を殴り殺さねば気が済まない――そのように考え始める者さえいた。
痺れを切らすように、中でも一番血の気の多い妖怪が、ずいっと幻武の前に出て腕まくりをした。暗くて良く分からなかったが、幽夢が見たところ、そいつは天狗の類であるようだった。
「じゃあ、まずは俺が相手になってやるよ。ハンデとして素手で戦ってやる」
「妖怪よ、武器は無くて良いのか? 俺は別に、それで構わねぇが……」
幻武の言葉が終わらないうちに、我慢の限界に達した妖怪は、目にも留まらぬ早さで突進した。「危な――」幽夢が思わず声を漏らした瞬間、幻武の右手に持った木の棒が妖怪の頭を捉えた。
パカッ、という軽快な音が夜の畑に響く。幽夢が気付いた時には、地に伏した妖怪と、棒を振り抜いた姿勢のまま静止した幻武の姿がそこにあった。
「うお……? やらちまいやがった」
「よし、こいつはもう畑を荒らせない。次に掛かってくる奴、いるか?」
挑発的な台詞に、妖怪たちはますます色めき立った。中には「殺せ!」と物騒な煽りを放つ者も現れる。――人間に負ける屈辱を仲間が味わった事に、彼らはひどく激昂しているのだ。
だがその一方で、そのくらいの事で騒ぎ立てる事が、この人間の思うつぼであると冷静に受け止める妖怪もいた。そういった冷静な妖怪が、仲間を落ち着かせる為に次鋒を買って出た。
「次は俺がやろう。さっきの奴は油断故に敗れたが、俺は簡単にはやられないぜ」
「そういう割には素手のままだけど、いいのか? こっちは遠慮せずにコレを使うぜ」
左手で棒っ切れを叩きながら、幻武が涼しい顔でいう。「抜かせッ」と気を吐いた妖怪が、地を蹴って幻武へと襲いかかる。
「おっ!?」
確かに、今度はそう簡単には倒せそうではない、と幻武は舌を巻いた。
妖怪の拳は、的確に幻武の顔面を狙って伸びてくる。それは彼の目に、まるで時が止まったかのように映っていた。脳内がカァッと熱くなり、全身の筋肉が熱く鳴動する。そうすると幻武は、いつも“この世界”にやってくる。「遅い、遅い」と鼓動を落ち着かせながら、上半身を大きく後ろに逸らす。妖怪の拳は目の前で空を切っていった。
続いて、ゆっくりと右手を振り上げる。拳を空振りした妖怪が、その勢いを殺せずに、自分の脇を通りすぎていく。ちょうど、目の前には奴の後頭部が見えた。「ほいっ」気の抜けた台詞を脳内で吐きながら、幻武は振り上げた右手、そして棒っ切れを、そこへ叩きつける。
「ぐわっ!」
強烈な一撃を受けた妖怪は二、三歩よろめいた後に、顔面から畑の中に突っ伏した。それを見て妖怪たちは一様に押し黙った。
断末魔を聞いた幻武は、元の世界に戻ってくる。全身を包んでいた緊張と夜の寒さで、彼の身体がぶるりと大きく震えた。
「なんだ。あいつ、強いんじゃない。妖怪相手に本気の喧嘩で勝っちゃうなんて……」
幽夢は少し、幻武の事を見直していた。
直情的過ぎるが故に、相撲では自分に足元を掬われていた。だが、妖怪を相手に真正面から戦いをして力で勝つのは、幽夢でも難しいのだ。
「ふぅ、さーて。お次は、どいつが掛かってくるんだ?」
二匹の妖怪を打ち倒した棒っきれの先端を、周りを取り囲む妖怪たちに向けながら、幻武は自信に満ち溢れた声で次の挑戦者を求めた。
だが、彼は気付いていなかった。周りを取り囲む妖怪たちが、先程とはまるで違った雰囲気を纏い始めていた事に。
「――! いけない!」
幽夢は妖怪たちの感情の変化を遠目から感じ取り、それが危険な状況であると察知した。足を滑らせながら慌てて立ち上がると、幻武の元へと駆け始める。しかし、それは一足遅かった。
「……やっちまえ!」
妖怪の中の一人が発した言葉が、合図となる。
幻武を取り囲んでいた妖怪たちは、一斉に怒声を上げつつ彼に向かって殴りかかっていった。
「なぁ!? おい、一人ずつにしろよ!」
一斉に襲いかかられて驚きつつも、幻武は棒っ切れを両手で握る。そして全方位から迫り来る妖怪の拳に、なんとか対応しようと身構えた。
しかし、いくら幻武が妖怪相手にも劣らぬ力を持っていたとしても、十数匹の妖怪に囲まれては手も足もでない。
「死ね、人間!」
「うぅ!?」
目の前から飛んできた拳を躱し、その顔面に棒っ切れを叩き込もうとする。しかし、それより先に後頭部に大きな衝撃が走る。つまり決着は、僅か一秒で着いてしまった。
幻武は涎を吐き散らしながら、柔い地面の上に身体を跳ねさせる。全身が痺れて、咄嗟に反撃も防御も出来ない。
そうなれば後は、たこ殴りである。身体を丸めて地面に伏した幻武の事を、妖怪たちは寄ってたかって蹴りつけ始めた。
「この、この! よくも人間の分際でぇ、俺様の仲間をノシてくれたなぁ」
「ぐぁ、ぐぅ……く、くそ。 ひ、卑きょ……だ」
「これが喧嘩って奴だろ! 粋がるんじゃねぇぞ、人間如きが!」
「ぐ、ぅぅ……」
反撃の隙さえ見つけられずに、ただ殴られるままの幻武。その危機を、僅かに遅れて到着した巫女の一声が助ける。
「こら妖怪ども! 何してんのよ!」
巫女の登場に、ひたすら幻武を蹴り続けていた妖怪たちは、一瞬で顔色を変えた。
「ちっ、巫女がやってきたぜ!」
「分が悪い、ここは退散だ」
まさしく、蜘蛛の子を散らすように、妖怪たちは別々の方向へと足早に逃げていった。
幽夢はそれを追いかけようと一瞬だけ御札を持つ手に力を込めたが、それよりも畑に蹲る幻武の姿に目がいって、御札を懐へとしまった。
荒らされた畑の真ん中に降り立った幽夢は、左手に持ったお祓い棒を地面に突き立てると、そっと幻武の肩に手をやった。
「駆けつけるのが遅くなって悪かったわね。さ、あいつらなら逃げたから、もう大丈夫よ」
柔らかい声で言う幽夢の言葉に、幻武は反応を示さずに蹲ったままであった。――幽夢は本質的に、人間を助けるのが性にあっているのだろう。その立ち振る舞いは、普段の素っ気なさとは違い、暖かな慈愛に満ちていた。
「ねぇ……。……?」
それでも反応も見せない幻武の様子に、幽夢は嫌な予感がした。
普通に考えれば、妖怪たちの怪力で蹴られ続けて、人間の身体が無事なはずがないのだ。そして、あの瞑想の中で浮かび上がった幻武の苦悶の表情――。幽夢は血の気が引くのを感じながら、彼の両肩を掴んで、耳元に顔を近づけた。
「ちょっと! 幻武、あんた大丈夫なの!?」
幽夢の大声が畑に響くと同時。幻武は突然、立ち上がった。
肩に手を置いていた幽夢は、不意を突かれて地面に尻餅をついてしまう。
「きゃっ……! ちょぉ、ちょっと……!」
「あー、うるせぇなー。耳元で叫ぶんじゃねぇよ」
幻武は巫女に背を向けたままで、耳を塞ぐ仕草をしつつ文句を垂れた。
そのあんまりな態度には、流石にムッとした幽夢であったが、それよりは、彼の身体を心配する言葉が先に飛び出した。
「あんた、身体は大丈夫なの?」
「あー? あんな奴らの蹴りなんて、いくら食らっても普通に痛いだけだ。飯喰って寝りゃ治るさ」
背中をさすりながら幻武はのたまった。お尻についた泥を払いながら立ち上がり、幽夢はとりあえず胸を撫で下ろす。
「ああ、人間離れした頑丈さで良かったわ。普通なら、妖怪にボコされたら無事じゃ済まないもの」
「……ちっ、あいつら最初タイマンで来てたのに。俺に敵わないと見るや、集団でかかってくるなんて……」
幻武は苛立ちを隠さずに、足元の土塊を蹴飛ばしながら毒づいた。
一方で幽夢は安堵の代わりに、先程の幻武の態度に対しての怒りがこみ上げてきた。せっかく助けてあげたというのに、半ば無視された上、尻を泥で汚すハメになったのだから当然だ。
「ちょっと幻武! 助けてあげたんだから、お礼くらい言いなさいよ! そりゃあ、遠くから観察してた私も悪いけどさ……」
それを聞いて幻武は小さく「見てたのか」と呟く。自分の失言に気付いて幽夢は「しまった」と狼狽えた。遠くから戦いの様子を観察していた事を、自分からわざわざ幻武に教えてしまったのだ。さすがに、その行為に対しては幻武が怒っても仕方がないと、幽夢は肩を竦めて身構えた。
「…………?」
しかし、その幽夢の心配は杞憂であった。幻武は、ゆっくりと幽夢の方へと振り返ると、頭を下げて礼を言った。
「ありがとう、助かったぜ」
「あん、た……」
礼の言葉を受けて、幽夢は驚きの表情のままに呟いた。それは、彼が素直に礼を言った事への驚きではない。彼の瞳から、大粒の涙が零されていた事への驚きである。
無論、それは痛みなどに起因する涙でない事は、幽夢にも理解出来ていた。その鋭い眼眸と、食いしばった歯の奥から捻り出された礼の言葉。幽夢は、これが悔し涙というものかと、場違いに感心していた。
「へっ、情けねぇよな。女のお前に得意の相撲で負けた上に、ボコられてる所を助けられるなんて。全く情けねぇよ」
「あっ、あの……ごめん。なんか私、余計な事したみたいで……」
「いや、幽夢が謝る事じゃねえ。確かに、お前が来なきゃ、俺はどんな目に遭ってたか分からねぇし、助かった。ただ、俺が弱かっただけだ」
力自慢で鳴らした少年・幻武は、同い年の女の子に尽く敗れた上に、その身を助けられた事で、完全にその自負心を折られてしまったのだ。
今まで少年の自負心は、その心を満たしていた。それに、彼にはそれしか取り柄がなかった。それが失われた事による悲しみや悔しさというのは、少女の幽夢には、まるで理解が及ばない。
「え、あの~、あのさ」
「悪いな、気を使わせちまって。これからも里の為に、妖怪退治をよろしく頼むぜ……。んじゃ」
何かしらのフォローをしようと、頭の中であれこれ考えていた幽夢。だが、それがまとまる前に幻武は畑から出ていこうとしてしまった。
彼は「気にするな」と言った。だが、それでも幽夢は、自分のせいで彼の大切な何かが失われようとしていると思わざるを得なかった。
自尊心。――それを少しでも保たせるようにするには、どうすれば良いのだろうか。幽夢は急いでその答えを導き出した結果、次の言葉を紡ぎ出した。
「待ちなさい! 助けてあげたんだから、えー。……私の言う事を、何か一つ聞きなさいよ」
「……何?」
立ち止まった幻武は、怪訝そうな顔をして振り返る。
彼女の出した結論は、一か八かの方法であった。
女である自分に対して借りを作ってしまう事が、幻武を落ち込ませているのであるなら、その借りを早く解消して、五分の立場に戻してあげれば良い。――幽夢はそう考えたのだ。
そして、わざと上から目線で話す事で、自分が気遣いをしているという事も隠蔽しようとした。そこまで彼女なりに考えての発言であった。もし、気を使われていると露見すれば、それはますます幻武を傷つけてしまうだろうと、幽夢はしっかり分かっていたのだ。
彼女は幻武の反応を見ながらハラハラしつつ、思い切ってそれに続けた。
「あんたに貸しを作っておくと、すぐに『忘れた』とか言い出しそうだし。この場で一つ、言う事を聞いてもらおうかしら?」
「……俺は、人から借りたものは忘れねぇ。……でも、お前が言うなら良いぜ。好きな事を一つ、俺に命じてみろ。――三回廻ってワンと吠えろ、一ヶ月間パシりになれ、なんでも良いぜ」
『あんたを慰めようとしてるのに、そんなヒドイ命令するわけないでしょうが!』と憤慨しつつも、幽夢は不敵な笑みを作ったままに悩む振りをしていた。この一見、相手の自尊心を更に傷つけるような幽夢の苦し紛れの一手は、今のところは思いのほか効果を発揮していた。
だが、ここの返答に幽夢は頭を悩ませる。何も本気で礼をして欲しい訳ではないので、ここで彼女が命ずる事は何でも良い。だが折角なので、幽夢は確かに自分が興味のある事をお願いする事にした。
「そうねぇ、それじゃあ……。私に、あんたの家を見せてよ」
「……はぁ!? 俺の家??」
幽夢の意外な言葉に、幻武は先程とは打って変わって、素っ頓狂な声を上げた。そして、幽夢にその真意を問い返した。
「俺ん家を見て、どうすんだ? ただの貧乏長屋だぜ?」
「だって私、他人の家って見た事ないんだもの。里には買い物とかに行くけど、家の中までは見た事ないし……。嫌だって言っても、これは絶対命令だから断れないわよ」
「いや、別に……そんな事なら、いくらでも見せてやれんだがよぉ。でも、本当にそんな事で良いのか? 俺は命を助けてもらったんだぜ? その見返りが家に招待するって……俺の命、安すぎやしねぇか?」
「別に良いのよ。友達の家に遊びに行くなんて、私にとっては初めての事だもの」
幻武は「そうか……」と小さく零すと、大きな欠伸を一つした。そして、畑に落ちていた自分の得物を拾い上げると白い歯を見せ、笑った。
「分かったよ、そんなんで良いなら……。準備が出来たら、神社に迎えに行くよ。じゃあ今日は、もう夜も深いし帰るわ。お前も、気を付けて神社まで帰れよ」
「うん。それじゃあ早く、その怪我治しなさいよ。……楽しみに待ってるわ」
幽夢は幻武に向かって「じゃあね」と手を振ると、軽く地を蹴って夜空へと舞い上がった。そして、あっという間に闇の中へと消えていく。
見送った幻武は視線を落とすと、少し荒れてしまった畑と、身体に刻まれた痣を見て溜息をつく。しかし、家路に帰る彼の顔には、次第に何時もの笑顔が戻っていた。
「友達……か、へへ」
終いには鼻歌など唄いながら、幻武は上機嫌で家へと帰っていった。
◇ ◇ ◇
博麗幽夢は布団を敷いていた。
八畳ほどの広さの部屋に、たった一つの布団。子供の彼女が寝るには、少し大きめのそれを押入れの中から引きずりだすと、幽夢は所定の位置に寝床を設けた。
風呂で汗を流し、遅めの夕飯を摂った彼女に残された仕事は、たっぷりの睡眠だけだ。博麗大結界を守る彼女は、体調を崩す事も許されない。よって適度な睡眠も、彼女にとっては大切な仕事の一つであるのだ。
「さてと、おやすみなさい」
一人天井に向かって呟いた幽夢は、目を閉じようとしてその間際、視界の端で“すきま”が開くのを見た。彼女は、疲れがドッと全身に押し寄せるのを感じながら、その暖かい布団から這いでると“彼女”の襲来に備えて正座した。
“すきま”から、細く白い足が現れる。そして幽夢の寝室へと足を着けたのは、言うまでもなく八雲紫であった。彼女は挨拶もなしに、とりあえず幽夢の前に自前の座布団を敷いて、どっしりと腰を降ろした。
「御機嫌よう、幽夢。今日は、里にちょっかいを出した妖怪を追っ払ったようね。良くやったわ」
「おやすみ、紫。――私、疲れたから寝るわ」
「まぁまぁ、ちょっとは私に時間をくれたって良いじゃない」
「良くない。明日、私が寝坊して結界が緩んだって知らないわよ」
会話を強制終了させ、布団に潜り込もうとする幽夢。それに紫は、すきまへと布団を落とすことで対抗した。咄嗟に飛び退いてしまった幽夢は、闇の中に飲み込まれていく布団を見て、口をあんぐりと開ける。
「あ~っ! ちょっと、私の布団!!」
「うるさいわねぇ。話が終わったら、ちゃんと返してあげるわよ……」
幽夢は鋭い目付きで紫を射抜きながらも、観念して彼女の正面に座した。巫女は「じゃあ、さっさとしてよ」と不機嫌に促す。紫は満足気に扇子を広げて、ゆっくりと顔を仰ぎながら話を始めた。
「なに、ちょっとした世間話よ。貴方、最近……幻武とかいう男の子と仲良くしてるみたいね」
紫の言葉に幽夢は「なんで知ってるのよ」と口中で忌々しく呟く。
しかし、この妖怪にとっては知らぬ事の方が多いのは今更なので、あえて声に出す事もなかった。
「別に仲良いわけじゃないけどね。幻武が言いがかりつけて、突っかかってきただけで……」
「ふぅぅ~ん。その割には随分と、お優しい対応してたみたいだけどね」
ピキッ――と、幽夢のこめかみに青筋が立つ音が鳴った。睡眠直前で布団を奪われた巫女のフラストレーションは、極みに達しているのである。
「んで? それが、何か、紫にとって、都合悪いのかしら??」
「あらやだ、そんなに怒らなくても……。ただ、貴方の私生活について世間話をしようとしただけじゃない」
「人のプライベートを嗅ぎまわって、いちいち本人に報告する事を、人は世間話とは言わないのよ!」
今にも殴りかからんばかりの形相になる幽夢に対して、紫はいたって冷静に、いつもの含み笑いをしている。その笑い顔を見ていると、幽夢も一人で怒っているのが馬鹿らしくなり、やがて落ち着きを取り戻した。
「でぇ? 幻武って子とは、どんな関係なのかしら」
「どんな関係って……どうもしないわよ。案外、ああいう人間と友達になっても面白いかなって思ってね。そろそろ少しは、自分以外の人間の事も知らないといけないだろうし……」
「うふふ、それは大事な心がけね。友達が、妖怪の私一人っていうのも寂しいものね?」
「誰が友達よ、この雌狐め」
「えぇ~? 友達じゃない、わ・た・し・た・ち」
「ブッ飛ばすわよ」
ふざけた態度ではあるが、紫の言葉は本心からのものであった。
幻武と幽夢のやり取りについて、式神の藍から報告を受けた時、紫は「そう、良かった」と安堵の台詞を口にしていた。それは、この孤独な幽夢も、ようやく人間との関わりが持てるようになると知っての安堵だった。
彼女はいずれ、結界を受け継ぐ者として子を授からなければならない。もちろん、幻想郷の管理者として、それを導く責務もある。――しかし、そんな責務とは別に、幽夢が人間と仲良くなれる事が、紫としては純粋に嬉しかったのである。それは幻想郷の管理者としてではなく、一人の友人として、偽りのない感情であった。
ただし紫は、その胸のうちを自分の外へは、仄めかす事すら絶対にしない。
「幽夢、良かったわね。友達が出来て」
「な、なによ。急に……そんな真面目な顔しちゃって。っていうか、話が終わったなら、さっさと布団を返しなさいよ! いい加減、眠くてしょうがないわ」
「ああ、そうだったわね」
紫は目の前に小さなすきまを開くと、そこに両手を突っ込んで幽夢の布団を探し始める。しばらくの間、部屋の中をゴソゴソという衣擦れの音が支配した。
腕を上下左右に動かして布団を探す紫の額に、一筋の冷や汗が流れ落ちたのを、幽夢は見落とさなかった。
「ちょっと……」
「あ、あれ……?」
「……ちょっと紫、あんたまさか」
「うーん、あれ? どこに、いや、あれー?」
「…………おい」
「ごめん。お布団、どっか行っちゃったわ」
「紫ぃぃいい!!」
幽夢の空中飛び膝蹴りを躱しながら、紫は軽やかにすきまの中に退避していった。
「それじゃあね、坊やと仲良くやるのよ」
そんなお節介がすきまの隙間から聞こえてきたのを最後に、幽夢は寝室の床へと倒れこんだ。
「押入れの奥から予備を出すのも億劫だし……もうこのまま寝ちゃお……」
少し蒸し暑いこんな夜には、ひんやりと冷たい木の板に寝そべるのも悪くはない、と自分を誤魔化す幽夢。その引きつった表情には、痩せ我慢という言葉が良く似合っていた。
◇ ◇ ◇
真っ暗闇の中に自分だけが浮いている。それはいつも幽夢が瞑想中に体感する空間であった。
彼女は即座に、それが自分の夢の中であると看破する。
普通、人間の夢ならば、今までに体験して目にした光景、またはそこから妄想される風景が合成されて、夢見の舞台が整えられるものだ。
しかし、常日頃から心を綺麗に掃除している幽夢の心象風景は、このように真っ暗闇なのが常であった。
「久しぶりね。ここに来るのも……」
しばらくそこで立ち尽くしていると、闇の向こうから一人の女性が現れた。
それは幽夢の母――。もう何年も会っていない母は、まだ物心がついたばかりの彼女が最後に見た、うら若い姿のままであった。白装束に、しっとりと濡れたような長い黒髪――幽夢は、母に良く似た自分の髪が気に入っていた――その佇まいは、幽夢が理想とする“博麗の巫女”の姿でもあった。
「お母さん……」
彼女は、その小さな手を伸ばして母の温もりに触れようとした。
しかし、母はその伸ばした手には目もくれずに、在らぬ方向に目を向けて、何やら譫言を口にしている。彼女の夢の中に生きる人間は、彼女の記憶の再生である。目の前の母もまた、幽夢が昔に見た在りし日の姿を再生しているだけなのであった。
「幽夢。博麗の巫女として、しっかりと頑張るのよ。いつか素敵な殿方と結ばれて、孫の顔を見せにおいで。それまでは、さようなら」
黒い髪を震わせながら、母は闇の中へと消えていく。幽夢の胸に鋭いものが突き刺さったようだ。じんわりと瞳が潤む。
「待って!」
あの時は出せなかった言葉が、この夢の中では喉を震わせて、はっきりと伝えられた。
しかし、伝えたかった相手は自分の中の記憶の再生でしかなく、しかもそれすら闇の中へ消えた後である。
「お母……さん」
母はまたもや、待ってはくれなかった。幽夢を置いて、母は消えてしまった。
「里に行ったら、もしかしたら……」
会えるかも知れない。――その言葉が口から出る前に、幽夢はそれを自ら否定した。
母は自分を神社に置いて出て行った後に、その身分を隠して里へと隠居したのだ。たとえ幻武を始めとした里の人間に尋ねたところで、そう簡単に所在が知れる訳はなかった。
自分はもう、母に会うことは出来ないのかもしれない。そして自分はもう、母へと甘えるような歳ではないのかもしれない。――それでも、赤子だった頃に味わったはずであろう、全てを肯定してくれる優しい抱擁。それを今一度この身に受けたいと、幽夢は強く願っていた。
「会える訳がない。それに……お母さんの事ばっかり考えてちゃ、駄目よね。今いる人たちの事を考えないと」
力強く声に出して頷いたところで、彼女の中に広がっていた闇が晴れる。彼女の身体は暗闇の中から、自分の寝室へと帰還した。
それと同時に、幽夢は全身に痛みを感じる。「あたた……」と腰を押さえながら身を起こす。床には自分の涎が小さく広がっていた。
――床で寝りゃ、こうなるわよね
柔軟体操のように身体を動かしながら、彼女は朝の陽射しが注ぎこむ障子戸を開いた。雀たちの鳴き声が、彼女の寝ぼけた脳を覚醒させる。
――うーん、やっぱり疲れ抜けなかったわね~。紫のやつめ……
幽夢は厠に向かった後に、いつものように朝食の用意を始めた。
その生活サイクルは六歳の頃より何一つ変わる事がない。その幼さで一人でも生きていけるようにと、母が自分の身体へと、生きる術を教え込んだのだ。
「ふぅ。今日も我ながら、美味しそうね」
今日の彼女の朝食は焼き魚に味噌汁、そして一杯の白飯。至って質素であるが、あまり豪華な食事を好まない幽夢にとっては、これでも十分なご馳走であった。
急須から湯のみへと茶を汲む手を、寝癖で乱れた髪へと移した幽夢。
その瞬間。――彼女はある強烈な悪寒を感じた。
「――ッ!? こ、これは……! 来るわ!」
小さく叫んだ幽夢は、朝食に手も付けずに慌てて立ち上がると、座っていた座布団を部屋の端まで蹴っ飛ばしつ、居間から飛び出した。そして風呂場へ行くと、桶に水を汲んで寝癖を直し始めた。
「うぅ、もうちょっと! 後、少し、待ってぇ!」
神に祈るように懇願しながら、幽夢は髪を乾かして寝室へと戻っていく。
部屋の箪笥をひっくり返すと、身体から寝間着を取り払う。そして、いつもの巫女服を慌てて着付けはじめた。その時――彼女の予感が的中する。
社務所の中に、大きな声が響き渡った。
「もしもーし、幻武ですけどぉー! 幽夢さんいますかぁー!」
「あぁ、来ちゃったぁぁぁぁぁあ! 早いわよ阿呆!! 何時だと思ってるのよぉ……!?」
幻武の元気で大きな声とは、まるで対照的に、消え入るような小さな声で幽夢は悪態をついた。
着替えを終わらせ、部屋の隅においてある姿見で自らの全身を一瞥した幽夢は、静かに障子戸を開けると咳払いを一つする。
「よし……!」
縁側へと静かに足を運んだ幽夢は、庭先で小さな籠を片手に棒立ちする幻武を見つけた。その格好は、いつもの汚らしいボロではなく、比較的新しい着物であったのに気付く。髪もきっちりと結われて、全体的に小奇麗になっていた。
彼は人差し指で鼻の下をこすりながら、バツが悪そうに独り言を呟いていた。
「あれぇ……? もしかして幽夢のやつ、まだ寝てるのかなぁ」
「ぅー、ごほん。……起きてるわよ。てか、あんな大声出されたら、寝てても起きるわよ」
彼の目の前に姿を現した幽夢は、何時もと変わらない巫女の姿をしていた。幻武もまさか、つい先ほどまで幽夢が慌てて身支度をしていたとは夢にも思わないだろう。
「あ、ああ。 すまねぇ! ちょっと早すぎるかなぁ、と思って出発したんだけど、ここまでって結構掛かるからさ。丁度良い時間に着くかなと思って」
「ったく、本当に早いわよ」
――(朝ごはん食べてる途中だったのに……)
「一体、何時に里を出たの?」
「五時。あっ、でも、いつも畑仕事を手伝う為に、四時には起きてるから心配ねぇよ」
――(あんたの心配はしてないわよ……)
「ふーん、それで……例の約束を果たしに来たってわけ?」
「ああ、親父に“あの話”をしたら、是非連れてこいなんていうからさ。……でも、幽夢はこんな朝っぱらから出発して大丈夫か?」
人の都合を心配する気持ちは、僅かながらこの馬鹿にもあったのかと幽夢は感心した。
「えぇ、大丈夫よ。……そっか、あんたは空を飛べないから、此処に来るまでは時間が掛かったわけね」
「すまねぇ、幽夢みたいに俺も空を飛べたら良いんだけど……。里へ案内するにも、俺は歩いていかなくちゃならねぇんだ」
「良いわよ、せっかく朝っぱらから出発するんだし、散歩がてらに私も歩いていくわ」
それを聞いて幻武は、何やらホッと胸を撫で下ろしたようであった。
この男はすぐに表情に出る上、本人も感情を隠そうともしない為に、なんとも心の内が分かりやすい人間である。それ故に、人付き合い初心者の自分にとっては、なんとも練習用にぴったりの人材だ、と幽夢は心の中でクスクス笑った。
そんな事を思われているとは知らず、幻武は何やらそわそわと落ち着かない様子で幽夢の方を見ていた。
「えーと。それじゃあ、さっそく出発するか?」
「あっ、ちょっと待って。あんたは居間、あー、いや……。あそこの客間でお茶でも飲んで待ってなさい。私はちょっと準備してからいくから」
「そ、そうか。慌しくしちまって済まねぇな」
幻武は草鞋を脱ぐと、腰に挟んでいた手ぬぐいで砂埃の付いた足を綺麗に拭いた。そして縁側に上がると、手に持っていた籠を幽夢へと差し出す。
「何よ、これ」
「お袋が巫女様に差し上げろってさ。うちで育ててるキュウリだと思う。河童にあげると喜ぶぜ」
幽夢は籠の中を覗いた。そこにはツヤツヤとして美味しそうな新鮮キュウリが、ぎっしりと詰まっていた。
「こんな良いもの、もらっていいのかしら? 貴方のお母様に会ったら、お礼を言わなくっちゃ」
「いーんだよ。手土産つったら、それくらいしか出せないから、うち」
そういうと幻武は手ぬぐいを腰に挟め直し、幽夢に指定された客間へと歩いていった。「やっぱ早すぎたかなぁ……」と小さく呟いたのが幽夢の耳にも入った。
くすりと笑った幽夢は、籠の中の美味しそうなキュウリへと笑顔を向ける。彼女の鼻腔を瓜の青い香りが満たす――
「って、キュウリに笑いかけてる場合じゃないわ! 急がないと!」
幽夢は我に返ると、慌てて居間へと戻った。
食べかけの朝食を尻目に台所へと走っていく幽夢は、前もって“下拵え”をしていた昨日の自分に感謝した。――ただし“明日の朝に幻武が訪れる”という勘が働くのであれば“とんでもない早朝に”という注釈を付けてくれ――と自らの中途半端な勘に、苦言を呈したい幽夢であった。
一方で客間。狭い部屋の中央で、大きな身体を縮こまらせている幻武は、足元に拡がる畳の目を眺めていた。
「大層立派な畳だぜ……。うちのなんか、虫食って底抜けてるからな」
畳の心地良い香りが広がる客間で、幻武はその静寂さにむず痒さを感じていた。今日は格好から何まで、何時もの自分とは違う。――その事が、幻武を落ち着かせてくれないのだ。
あの畑で妖怪と喧嘩をし、幽夢に助けられた後。家に帰った幻武は両親に向けて「博麗の巫女を家に招待してやっても良いか」と話した。その瞬間に見せた両親の慌てようは、言った幻武をたじろがせる程であった。
父は大慌てで家の中を大掃除し始めるし、母は家を飛び出すと安物とはいえ新品の着物を買ってくる。そして二人で幻武に対して「失礼のないように、くれぐれも失礼のないように」と呪文のように言い聞かせて、礼儀などについて延々と語ってくるのだ。
その様子に「もしかして、幽夢はすごい人物なのだろうか」と思いつつも、大袈裟な両親の姿を滑稽と鼻で笑って博麗神社へとやってきた。しかし、今となっては両親の態度の方が正しかったのだと、薄々感じ始めているのだ。
初めて社務所にやってきた時には気付かなかった。――博麗の巫女である幽夢と、貧乏長屋に住む自分の身分の差――それを今、幻武は痛感していた。
彼女は決して高慢ではないし、ある意味で徹底した平等主義者である。しかし、なまじ人の身から漂う気質を感じる事の出来る幻武にとって、今の幽夢は幻想郷を統べる一翼を担う者・博麗の巫女としてしか映らなかった。否、それこそが本来の正しい認識なのだ。
「なーんか、今更ながら、場違いだよなぁ。俺って……」
何時ものように河童たちと相撲をし、天狗たちと酒を呑んでいる方が、自分にはお似合いであると幻武は後悔し始めていた。しかし、そんな憂鬱を打ち破るように、背後の廊下をバタバタと急ぐ足音が騒ぎ立てる。
「幻武、お待たせ! さぁ、出発よ!」
幻武は、障子戸を勢い良く開けた少女を見る。そこに立った、自分の胸ほどまでの背丈の少女は笑っている。それを確認した瞬間、幻武は先程まで考えていた、ごちゃごちゃとした雑多な感情など、瞬時に捨ておく事が出来た。
今は余計な事など考えるな。幽夢に恩を返すため、楽しんでもらうのが最良なのだ、と幻武は心を決めた。
◇ ◇ ◇
「っていうか、もう正直に言うと、あんた来るのが早すぎんのよ!! せめて辰の初刻を回ってから来なさい!」
「えっ!? あ、ああ。悪かったよ……。普段、妖怪たちとツルんでるから、時間感覚が……」
頭を掻きながら頭を下げる幻武。幽夢はそのつむじを見て「そういえば、あの時の落ち込みようからは回復したのだろうか」と心配する。
だが心配している事を悟られても、また彼の自尊心を傷つけてしまうかもしれない――。あえて幽夢は、いつもと変わらずに接しつつ、確認しようとした。
「さぁ、里までは貴方が案内してね。私、普段は空を飛んでるから道分からないし」
「それなら任せてくれ。この神社への行き方と帰り方なら、もうばっちり覚えてる」
「そうねぇ、ここで私に酷い目に遭わされたから、記憶には“ばっちり”残ってるでしょうね~。ふふふ」
「うぐ……。ぅ、うるせぇな! ちょっとは優しい所あるじゃねえかと思ってたのに、やっぱりいけ好かねぇ奴だ!」
「あらあら。そんな女を家まで案内しなきゃならないなんて、心中お察し申し上げるわ。ご愁傷さま」
「うがぁぁ! もぉぉぉ! 分かったって! 俺を怒らせて、そんなに愉しいか!?」
幽夢は安心した。やはりこの少年は、こうして元気に騒いでいるくらいのが合っているのだと、彼女は分かり始めていた。顔を赤くして怒る彼の背中を押して「ごめん、ごめん」と軽く謝りながら、幽夢は神社の境内にやってきた。
この境内に人間の話し声が聞こえるのは、実にもう随分と久しぶりの事であった。普段は、幽夢が箒で玉砂利を擦る微かな音くらいしか、ここには響かないのだ。
幻武は「それじゃあ、ここからは任せな」と胸を張ると、まずは神社を囲む鎮守の森へと入っていった。
「お前の家の庭だから既に知ってると思うけど、草木に引っかからないように気をつけろよ」
「はーい。ちゃんと私に当たらないように、危ない枝葉は掻き分けていってね」
「へいへい、分かりましたよ」
鎮守の森を進む二人は、やがてある事に気付いた。実のところ、二人はまともに会話をした事すらないのだ。そんな二人が揃って人里へと行くのも、土台おかしな話であったが、とにかく折角の機会なので二人は互いの素性について詳しく知ろうと思ったのだ。そこで先に切り出したのは、幻武の方である。
「そういえばよぉ、なんだかんだで俺たちって、お互いの事よく知らないよな? なんだか気恥ずかしいが、ちゃんと自己紹介しようぜ」
「へぇ、私は貴方の事知ってるわよ。妖怪と友達の筋肉お馬鹿でしょ?」
「あー、はいはい、面白いですね。じゃあ、俺からな」
「ちっ、流す術を身につけたようね……」
幻武は話しつつ、その太い腕を巧みに使って、幽夢の目線にある枝や蔦を避けてやる。そして、どんどんと森を進みながら自分の事について話し始めた。
「俺は親父とお袋と、三人で里に暮らしているんだ。お前も知っての通り、俺は妖怪たちと仲が良くてよ。小さい頃から同い年の里の連中より、山から降りてきた天狗たち相手に遊んでる方が楽しかった。力比べでも強敵が多い方が楽しいし、ちょっと怪我させちまっても親が文句言いにくる事もないしな。そんなわけで、今は里よりも妖怪の山にいる時間の方が長いくらいなんだ」
「ふーん……。確かにあんな力じゃ、人間相手には喧嘩も出来ないわよねぇ。……あ、そういえばさ。幻武のその馬鹿力って、御両親から受け継いだの?」
「いや、俺の両親は至って普通の百姓やってるよ。ただ、俺の先祖に熊と相撲しただか、団子を配って回っただかの鬼退治で有名な奴がいるらしい。もしかしたら、そのご先祖様の力が俺に遺伝してるのかもしれんな」
「え、親は力を受け継いでいないのに? いきなり貴方に力が遺伝するなんて事、あるのかしら?」
「俺も知ったこっちゃないさ。気づいたら、こんな怪力になってたんだから。その後は幽夢も知っての通り、妖怪と好き放題遊びまわってただけさ」
そこまで話した所で、二人はちょうど森を抜けた。
小高い丘の様になっている神社の敷地の境界は、そこから広がる幻想郷の緑豊かな風景を二人に見せる。
「ふぅ、やっと抜けたのね。空を飛べないって不便ねぇ」
「うっし、こっからは馴らされた道になってるから楽なもんだぜ。さぁ、行こう」
「……うん、たまには景色を見ながら、ゆっくり歩くのも楽しそうね」
二人は目の前にある崖を飛び降りた。幻武は崖にある細かい岩の出っ張りに飛び移りながら、一方の幽夢はふわりと浮遊しながら降下した。
互いに無言で、当たり前のように崖を飛び降りた二人であるが、幽夢は彼の移動方法に少し肝を冷やした。
「……あんたさ。いちいち、そんな危ない真似して神社に来ていたの?」
「危なかないさ。俺にとってコレは、手すりのない吊り橋を渡るのと同じくらいの事なんだ。お前も空を飛んでて、いちいち危ないなんては思わないだろ?」
「……はぁ、そんなもんかしらねぇ?」
改めて里への道中を歩き始めた二人は、周りの景色に目をやりながら歩いていった。
特に幽夢は、やれ「大きな鳥が飛んでいる」だの「この花は何かしら」だのと、周りの景色にあれこれと感想をつけながら歩き、幻武もそれに付き合って色々と解説してやった。
そんな事をしながら、しばらく歩いていると、やがて二人に沈黙が訪れた。そこで幽夢は改まって質問を投げかける。
「ところで、幻武。……貴方、前から私の事を知ってたの?」
「ん? どういう意味だ?」
「だからぁ。あの日、天狗たちと神社に来る前、私の事を知っていたの?」
「あぁ……」
その質問は、幽夢の率直な疑問であった。
自分の存在が、どの程度の人々に知られているのか、彼女は全く知らない。そういった事に興味を持つ程度には、幽夢も俗な部分を持っていた。
「幽夢の事か……。“博麗の巫女”ってのがいる事は知ってたけど、それは噂程度のものだったからなぁ。『妖怪が出たら、博麗の巫女を呼べ』ってぇ標語があるくらいだから、博麗の巫女って肩書き自体は、すごい有名だよ。……まぁ、俺もお前と会うまで、巫女の名前すら知らなかったんだけどな」
「そうなんだ……。確かに私も、普段会う人といったら八百屋さんとか一部の人だけだし……。あの人達も私の事を、博麗の巫女だとは気付いていないのかも知れないしねぇ」
「いや、それはねぇだろ。だって、いつも巫女服着てるし……」
「いやいや。私だって、神社にいる時と仕事の時以外は、ちゃんと余所行きの着物に着替えるわよ」
「え? でも……今日だって巫女服じゃねぇか」
「こ、これは慌て……いや、どうせあんたにしか見られないし、別にどーでも良いかなって思ったのよ」
幽夢は少し歩く速度を上げて、幻武の前に出ていった。それに置いて行かれまいと、幻武も慌てて歩く速度を合わせる。
「そうそう! 気になってたんだけどよ。なんで幽夢って神社に一人で住んでるんだ? 他に家族はいないのか?」
「ああ、博麗の巫女は六歳の誕生日を迎えると、親から離れて一人で暮らす事になってるのよ。母も生きてるでしょうけど、それ以来会っていないわ」
「……な、なんでまた? 六歳っていったら、まだほんの小さい子供じゃねえか」
仕方ないので、巫女は説明する事にした。
この幻想郷を維持する二大結界の一翼を自分が担っている事。そして、その為に親と別れ修行を続けて、今に至る事。――この先も、結界の為に生き続けていくこと。
それを事も無げに説明していた幽夢は、やがて自分の横を歩く少年の表情が曇っていることに気付く。幽夢は咄嗟に口を紬ぐと、恐るおそる彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたのよ? 急に黙っちゃって」
「いや、やっぱり幽夢は“博麗の巫女”なんだなって分かった。この世界を守るために、そんな大変な仕事をしてるなんて、俺知らなかったよ。……悪いな。なんか今まで、軽口叩いてて」
「あー、いや……! 別に、私が結界張るのを辞めたからって、大地が裂けて天が落ちてくるわけじゃないのよ? ただ外の世界との境界が、とっぱらわれちゃうだけで……」
「でも、実際に……その結界を守るために、頑張ってるんだろ? 俺なんかとは、まるで違う。ただ遊び呆けてる俺とは、さ」
そこで幽夢は突然、自分の周りがさっと暗くなったような感覚に襲われた。
そして目の前にいる幻武が、そして周りの景色が、ものすごい早さで自分から離れていってしまうように感じるのだ。並んで歩いているはずの彼が、まるで厚く高い壁の向こうに去っていくような感覚。
それは、これまでにも何度か感じた嫌な感情だった。自分がまるで、特別なものだと思われて、人々が勝手に離れていく感触。それは、幽夢が最も忌み嫌う感覚だった。それを嫌って、いつしか幽夢は人間と関わる事に消極的になっていた程なのだから。
幻武にまで、そう思われたくない。――その様に強く思った幽夢は、慌てて話の方向を変えた。
「っ、そういえばさ! 背中の傷は、どうなの? まだ痛むかしら……?」
「ん?? ああ、やっぱり、寝て起きたら大分痛みは引いてたよ。今は運動しても何も支障はない」
「はぁ……。すごい治癒能力ねぇ。あんた、本当に人間なの?」
「人間だっての! ったく。……あ、そうだ。幽夢、そろそろ喉が渇いたりしていないか?」
言われて思えば、しばらく歩き続けたおかげで、幽夢の喉はカラカラになっていた。しかし生憎と水は持ちあわせていない。それに歩き続けて数時間、確かに幽夢は少し疲れを感じていた。それは体力だけの問題ではなく、先程の嫌な感覚も少なからず影響していた。彼女は少し、休憩を欲していた。
「そうねぇ、出来れば飲みたいけど……。もしかして、水を持ってきてるの? そうは見えないけど」
「俺は持ってないさ。それじゃあ、こっちについてきてくれ」
そう言うと幻武は道から外れて、林の中へと足を踏み入れていった。「ちょ、ちょっと!」と幽夢も慌ててそれに続く。その林は、人を踏み入れさせんとするかのように、鬱蒼と生い茂った草木で道が塞がれていた。だが草木は先導する彼が掻き分けてくれたので、幽夢はそれほど苦も無く林の奥へと進める事が出来た。
やがて、彼女の耳には清らかな音が聞こえてくる。それは、清流が静かに流れる涼やかな音色だ。
「妖怪の山から流れてくる川だ。特に、ここの水は美味しいって、山の皆に評判なんだぜ?」
「へぇ……。こんな所に川があったなんて、初めて知ったわ。空から見下ろしていては気付かない事が、たくさんあるのね……」
「そうそう。せっかく歩いて里に行くんだから、是非ともここの水を飲んで欲しくってな」
その小さいながらも綺麗な流水を湛える川辺に立つと、幽夢は掌に水を掬った。想像以上に冷えた水が、手の盆に満たされる。彼女は深呼吸をしてから、唇へとそれを近づけた。
喉を通った冷たい雫は、幽夢の身体中に染み渡るようにじんわりと浸透する。そのおかげか、彼女は急に頭が冴えたように、全身の疲れが取れていくのを感じた。
「湧き水でもないのに、そのまま飲めるのは、この川くらいなもんだぜ」
そう言いながら幻武は、川へと直接顔をつけて水を啜った。
川下で、もう一杯飲もうと川へ掌をつけようとしていた幽夢は、それを見て、掬った水を幻武へぶっ掛けた。
「ちょっと! そうやって飲むなら、私より下流でやりなさいよ! ばか!」
「うわっ、つめてっ! 悪かった、悪かった」
幻武に抗議の意味で水を掛ける幽夢は、喉を潤してすっかりと元気になっていた。
その潤いは先程までの足枷となっていた巫女としての責務、そして二人の間に現れた見えない壁のようなものを取っ払い、二人を少年少女に相応しく無邪気に遊ばせるのだ。
「あんた汚いんだから、ここで身体でも清めていったらどうなのよ? それっ」
「ぶわ、お前、掛け過ぎだろ!? びっしょびしょになったじゃねーか! てか、俺今はそんなに汚くないだろ?」
「なんか、もう存在自体が汚いのよ!」
「うおおお! カチンときたああああ! そこまで云われる筋合いはねぇぇ! 喰らえぃ!」
二人は暫く罵り合いながら、川の水を掛け合った。そして二人は全身をずぶ濡れにして漸く、その争いを辞めたのであった。
「……ねぇ、里まで遊びにいく途中だったのよね、私たち」
「……ああ、水分補給に立ち寄っただけなんだけど……。取り敢えず、出発しようか」
「ええ……」
二人は濡れた身体を庇いながら、トボトボと林を歩いて道へと戻り始める。
そして、その途中でどちらともなくクスリと笑い、やがて互いの無様な格好を見て腹を抱えて笑いあった。
「ふふふ、なんで私たち、水掛け合ったりなんかしたのかしら? あー、馬鹿らしい! あはは」
「ぶはははは! まあ、おかげで涼しくなったし、丁度良いんじゃねえか? こういう馬鹿な事やるのも、案外楽しかったりするだろ? くっくっく」
「まったく……あんたは妖怪たちと、こんな事ばっかりしてるの?」
「まあ、そういう事だな。酒呑んで暴れて下世話な話で盛り上がる。それが俺には、たまらなく楽しいんだよ」
「そう……。確かにちょっと、楽しいかも、しれないわね」
水分を吸って重くなった袖を絞り、地面に水たまりを作っていた幽夢は、そこでふと畑での出来事を思い出した。そして、何故あの時に幻武があそこへと駆けつけたのだろうかと疑問に思う。
「ねぇ、嫌な事思い出させるようで悪いんだけど。畑で妖怪が暴れてた時、なんであんたは乱入してきたワケ?」
思いの外、幻武は軽い口調でそれに答える。
「ん? あれか……。いや、俺も妖怪たちと遊んでばかりじゃいけないと思ってさ、たまには里の役に立とうと最近思ってるんだ。だから妖怪が暴れてるって聞いて、役に立つ時が来たと息巻いて駆けつけたわけさ。まぁ結果はあの通りだったけど」
「へぇ、妖怪退治を仕事にしようっていうの? それじゃ、私と同業者になるわね」
「いや……俺は妖怪退治をしたいわけじゃないけどな。妖怪と人間が仲良くなれるように、悪い妖怪を懲らしめて更生させるのが目的っつーか……。まっ、巫女のお前とは相容れない考えだろうけど」
「ふーん……。ちょっとは分かるけどね」
確かに幽夢の心境は、幻武と会った事によって変わり始めていた。
今までは紫に言われるがままに、規則を守らない妖怪たちを成敗していた。だが幻武の言う通り、確かに妖怪の中にも人間と友好な関係を築けるものがいる。その妖怪ごとの違いについて、幽夢は少し気になっていた。
「そもそもよ。あの妖怪たちは、なんで暴れていたのかしらね? 貴方の友達の天狗とは、大違いだったわ」
「まぁ、妖怪たちにも色々あるのさ……。幻想郷じゃ、人間を無闇に襲う事は“妖怪の賢者”によって禁止されてるし、それってつまりは、酒呑みから酒を取り上げるみたいなもんでさ。イライラして八つ当たりしたくもなるのよ」
「ふぅん、なるほどねぇ。……っていうか、幻武ったら紫の事を“賢者”なんて呼んでるの?」
「……ゆ、紫って。まさか、妖怪の賢者の、名前、なのか……? “妖怪の賢者”っていうのは、俺らの中じゃ“博麗の巫女”と同じく、その実態は知られちゃいない、伝説みたいなもんなんだ」
「私って里じゃ伝説扱いされてんだ……。大体紫なんて、ただの偏屈妖怪よ? そんなに恐れおののくような相手じゃないわ」
「すげぇな……。あの賢者とも知り合いだなんて……。やっぱり幽夢は凄いんだ。そりゃあ博麗の巫女だもんなぁ」
幽夢は、その台詞を聞いてぞくりとした。また、幻武が自分から離れてしまうのではないかと身構える。またあの嫌な“壁”を味わうのかと臆病に身を震わせた。
しかし、今回はそのような事はなかった。幻武が自分から離れていく事はなかったし、風景が暗く淀んでしまうこともなかった。
――もしかして、水を掛け合ったのが良かったのかしら?
そんな些細なことでも、人間関係というものは築けるのかもしれないと、幽夢は笑顔になる。だが、それと同時に幽夢は悩んでもいた。――この幻武と会ってからの自分は、短期間で本当に変わらされた――と、不満と満足の入り交じった感情に陥っているのだ。
このような粗野な男に影響を受けたという事は、幽夢としては決して認めたくはない。だが同時に、この男と過ごしたほんの短い時間だけでも、一人ぼっちの時には味わえない楽しさと、確かなる充足を感じてしまうのだ。
「な、なんで急に、ニヤニヤするんだよ?」
「へぇっ!? 私、笑ってたかしら?」
「ああ、なんかニヘラ~ってしてた。あー怖い」
「ちょっと、怖いってどういう事よ!」
幽夢が幻武の尻に蹴りを入れた時、ちょうど彼のお腹が空腹を知らせる音を鳴らした。
「あっつつー……。お前って加減を知らねぇよな……さすがは博麗の巫女だぜ……」
「そんな事より、今、貴方お腹の音が鳴らなかった?」
「ん? ああ、そうだな。そろそろ飯時だからな。腹減ったよ」
日は丁度、天上に差し掛かり正午を報せていた。二人はいつの間にか何時間も話しながら歩いていたのだ。
ところが二人の表情にそれほど疲れの色は見えない。幻武も出発前は、自分の歩く早さに幽夢がついてこられるのか不安であったが、それは全くもって杞憂であった。
「うーむ、俺の歩くペースについて来て顔色一つ変えないとは……。お前も大概、人間離れしてるな」
「天才と呼びなさい、散歩の天才と。里に着く頃には、逆に貴方の方がバテてるかもねぇ?」
「へっ、それはねえよ! 俺の脚は幻想郷で一番だからな! ……しかし、腹が減ったな。もう少しで里につくんだが……」
それを聞いた幽夢は、手に持っていた小さな包みへ目線を落とし、それを握る手に少し強く力を込めた。
腹を押さえながら、しきりに空腹を訴える幻武を目の前に緊張をしながらも、朝に拵えた“それ”を出すタイミングを見計らう。
彼女は「なんで私が、こんな事で緊張しなきゃならないのよ」と、幻武に対して理不尽に怒る。だがその怒りを原動力にして、ようやく決心がついた様だった。
「ねぇ、それじゃあさ。お昼にしない? 私がお弁当作ってきたから」
幽夢は胸を張って、手に持った包みを軽く掲げた。それに目をやった幻武は、まるで鬼にでも出会ったかのように、目を見開き、唇を戦慄かせて衝撃を受けた。
「べ、弁当……だと……!?」
「いやいや、なにその反応? 普通、そこは喜んだりするんじゃないの?」
「……ハッ! いや、すまんすまん。まさか幽夢が、お弁当を作ってくるなんて想像してなかったからさ。そんな、普通の女の子みたいな事してくれるなんて……」
「ちょ、なんか急に、私への態度が悪くなってない!? 私だって、お弁当くらい作るわよ!」
「いや、ごめんごめん。すげぇ嬉しいよ。腹減ってたし」
幽夢は、幻武のあんまりな反応に大分がっかりと気落ちしながらも、お弁当を食べる為の場所を探して辺りを見渡す。すると、ちょうど原っぱの中に大きな岩が鎮座しているのを見つけた。彼女は、それを指差して幻武に提案する。
「あの岩の上で食べましょうよ。ちょうど腰掛けやすそうだし」
「ん、そうだな。あそこで頂こう……っと、何か敷物でもあればいいんだが……」
「ああ、私持ってるわよ」
「おお、流石! 幽夢は準備が良いなぁ」
岩の近くまで歩くと、幽夢は懐から正方形の御札を二枚取り出した。
そしてそれを指に挟めて、腕を大きく振るう。そうすると御札は巨大化して、丁度人が座るのに良い座布団くらいの大きさへと変化した。
「えっ、これに座って良いのか? 思いっきり御札っぽいんだけど……」
「御札よ? 魔除け御札だから妖怪は座れないけど」
「いいのか、それで」
「いいのよ」
岩の上に御札の座布団を敷いた二人は、そこにちょこんと腰掛けて横並びになった。幽夢は作ってきた弁当の包みを、並んだ座布団の間に広げると、その中身について説明し始めた。
「この大っきいおむすびは貴方の分、どうせ沢山食べそうだから。それで、これは……」
「うわー、うまそう! いっただきまーす!」
あろうことか幻武は、説明の途中でおむすびに手を伸ばすと、それを大きな口で頬ばり始めた。彼女はそれを見て大きな溜息と共に、よっぽど頭をはたいてやろうかと腕に力を込める。
「すげー美味しいなコレ! お前って料理上手いんだなぁ」
「ん、まあ自分のご飯は、毎日作ってるしね……」
夢中になって自分の作った弁当を食べる幻武の姿を見て、説明を無視されて頭にきていた幽夢も、その怒りがすぐに萎んでしまった。弁当に喰らいつく姿を見ていると、今まで感じた事のない、柔らかい気持ちが自分の中に芽生えてくる気がする幽夢であった。
「……なんとまぁ、嬉しそうに食べるわねぇ」
「んん? なんか言ったか」
「食べながら喋るんじゃないわよ。それじゃ、私も食べようかしら」
幽夢は自分の作ったおむすびへと手を伸ばし、それを咀嚼する。疲れて空腹になった身体には嬉しい、塩辛い味が口内を満たした。
「我ながら、美味しいわね」
「うん、うまい! こんな美味しいもの作ってくれて、ありがとうな!」
指についたご飯粒を舌で舐めとる幻武を見て、幽夢は下拵えまでした甲斐があったと心の中で微笑した。
二人が里へと着いたのは昼過ぎであった。
幽夢にとって里は、いつも食料調達にやって来ている場所だ。しかし、その町並みが今日は普段とまるで違った風に見えている。
今までは、通りを歩く人にいちいち注意など向ける事などなかった。だが今の彼女は、目に入る全ての人に対して、あの人は一体どういう人間なのだろうかと、興味深く視線を送る様になっていた。幻武も、それに付き合って歩幅を少しせまくしている。
「さぁ、こっちが俺の家だ。……言っとくけど、本当に期待しないでくれよ? ボロッボロの家だから」
「むしろ立派な家よりも、そのくらいの方が良いわ。私はその家族の“生活”っていうものを知りたいのだから」
「……そうか、分かった」
幻武が案内したのは、里の中でも少し寂れた裏通りであった。
貧困の差は殆ど無いといってよい人間の里であるが、少なからずはこういった貧民街もある。その中でも、とりわけ金の無い者が、長屋を仕切って共同生活をしている。その中の一つが、幻武の家であった。
「ここが俺ん家さ。まぁ、何度も言う様だけど、期待すんなよ」
「そう? 私にとっては、一層期待感が高まったわ。なんだか、人の気配が敷き詰まってるようで……」
幽夢の言葉には、気遣いや嫌味などは一切なかった。もともと、貧富という価値観には無関心な性質である。更にいえば、今の幽夢にとっては“人との関わり”があるかどうかの方が、金銭よりもよっぽど価値のあるものとなっている。このような狭い空間で家族が一緒に過ごす家というのは、幽夢からすれば言葉通り期待感に溢れる住まいであるのだ。
「ただいまぁ。親父、お袋ぉ。巫女を連れてきたぞー」
玄関から入った幻武は、長屋の中に響き渡るような声で言った。後から入った幽夢は、そんな大声で言わなくても、と思いつつ「お邪魔します」と挨拶して後に続く。
玄関から見渡した長屋は非常に狭かった。すぐそこに六畳程の居間が見える。その向こうには、こぢんまりとした台所があるだけで、それ以外に部屋はない。
目を輝かせながら部屋の中を見渡していた幽夢の前に、幻武の声を聞いた両親が居間から飛び出してきた。そして、幽夢の姿を見るやいなや床に頭をつけた。
「博麗の巫女様、ようこそ! ようこそ、おいでくださりました!」
「何も無い家ではございますが、どうかごゆっくり、おくつろぎくださいませ!」
幻武は二人の様子を見て面食らった。
自分の両親といえば、自分と良く似ていて、人に丁寧に接するような品格は持っていない。特に親父などは、昔から荒くれもので通っていたような人物だ。それが自分と同じ様な歳の女に土下座している、それが幻武の目には衝撃的に映った。
幽夢は慌てて彼らに駆け寄ると、土下座を辞めるように言って膝をついた。
「そ、そんな! 頭を上げてください! 私こそ、突然お邪魔して、すみません」
「いえいえ、とんでもないです」
「おい幻武、おめぇは頭が高い! 頭下げろ!」
土下座したままの親父に言われた幻武は、呆然自失としながらも、先程まで一緒に歩いてきた幽夢へと目を向ける。
「お前って、本当にすごいんだな」
幽夢はその言葉にビクリと身体を震わせ、慌てて否定する。
「いやいや、名前が独り歩きしちゃってて……! ほら、お父様もお母様も、辞めてください!」
そこで二人はようやく顔を上げ、頭をへこへこ下げながら幽夢を居間へと案内した。
「さあ巫女様、ほんとーに汚い家ですが、どうぞこちらへ」
「今、お茶を淹れますので。……粗茶ですが、どうぞ……」
居間には小さなちゃぶ台が一つ、そこに座った幽夢は、出されたお茶を受け取った。漂ってきた香りから、それは中々の逸品であると幽夢は看破する。
「まぁ、そんなに気を使って頂かなくても構いませんのに……。それでは頂きます」
幻武は幽夢の背後で、彼女に出されたお茶を見て驚いていた。自分の家に茶葉があること自体、生まれてから一回も見たことが無いはずである。自分は共同の井戸から汲み上げた水しか飲んだ事がないというのに、母親はいつの間にか、そこそこ良い葉を仕入れていたようなのだ。
「わざわざ、買ってきたのか」
小さく呟いた幻武は、この博麗の巫女が両親にとって、如何に敬うべき存在なのだろうかと考えていた。
「しかし驚きました。まさか巫女様が、うちの馬鹿息子とお知り合いだったとは……。何か失礼はありませんでしたか?」
親父の言葉に幻武は「失礼どころの話じゃないだろうな」と思って幽夢の顔色を伺った。しかし、彼女は首を横に振って、にこやかに答える。
「いえいえ、幻武さんとは仲良くさせて頂いています。こちらこそ、色々とお世話になりまして……」
「ああ、そうそう。弁当まで喰わせてもらってなぁ、改めてありがとう。ごちそうさん」
横から口を挟んだ幻武の言葉に、両親は顔を青くして互いの顔を見合った。そんな事を気にも留めず、幻武は玄関の方へふらりと移動した。
「ちょっと幻武! 巫女様がいらっしゃるというのに、どこへ行くんだい?」
「ほら、いつものとこさ。最近行ってなかったから、ちょっと行ってくる」
「おま……! せめて巫女様が、お帰りになってからにしろッ!」
幽夢はふと、その幻武の行動が気に掛かって、言い合いに発展しかけた両者の間に入った。
「ねぇ、幻武。私も、その用事について行っちゃ駄目かしら?」
「ええ? そんな楽しい用事でもないぜ?」
「良いのよ、ただの興味本位なんだから。駄目?」
「……好きにしろ」
幽夢はその言葉を聞くと、くるりと振り返って幻武の両親に頭を下げる。
「そういうわけで、ちょっと席を外させて頂きます。美味しいお茶をご馳走様でした」
「ははぁ! 巫女様もお気をつけて」
もう一回深く礼をすると、幽夢は玄関へ移動して靴を履く。
そこにいた幻武は幽夢に「ちょっと、先に外に出ててくれ」と言って踵を返す。「準備があるからよ」と幻武は居間へと戻り、彼女は仕方なく玄関から外へと出て行った。幻武は、両親の鋭い視線を気にもせずに居間を通り抜けると、台所へと入っていく。
「おふくろー。キュウリ、また貰ってくぜ」
台所にあった籠を手にした幻武に向かって、両親は大慌てで駆け寄り、その肩を捕まえた。
「ぐええ、なんだよ? もらっちゃ、まずかったか?」
「キュウリならいくらでも持って行け! そうじゃない、お前……巫女様とは、本当に仲が良いのか?」
親父は幻武の耳元で小さく呟くように問い詰めた。くすぐったそうに手を振り払って顔を背けると、幻武は首を横に振る。
「そんなに仲良いかは、分からねぇな。だって、会ってから一週間しか経ってないし」
「でもあんた、巫女様が作った弁当を頂いたんだって?」
今度は母親が耳打ちをしてきたので、幻武は少しイラつきながらそれに返す。
「あー、喰わせてもらったよ。それがどうかしたのか?」
両親は顔を見合わせてウームと唸っている。その茶番に馬鹿らしくなった幻武は、籠を片手に居間へと戻ろうとした。だが、両親はそれ逃がさんと回りこむ。
「だぁ、なんだよ!? 幽夢を待たせてんだから、どけろって!」
「幻武、お前……巫女様の事が、好きなのか?」
「ばっ!!」
幻武は手を滑らせて、キュウリの籠を落としかけた。
慌ててそれをしっかりと掴みなおすと、彼は親父に向けてあたふたとしながら答える。
「なな、何いってんだよ? 幽夢は友達で、あのーその」
しかし、その慌てふためく息子の台詞をばっさりと斬り捨てて、親父は忠告する。
「いいか! 例えば、お前が巫女様に恋焦がれていたとしよう。……その場合、脈がないと思ったら即! 手を引くのだ。そして迷惑を掛けないように引き下がれ……妖怪の山へでも行って、天狗たちと好きに遊んでろ……」
「あ、ああ? だから別に、好きだとか、そーいうのじゃ……」
「だぁぁぁがぁぁぁ!! しっかぁぁぁし!! 脈があると思ったら!! 絶対に、喰らいついて放すんじゃないぞ……お前の人生に訪れた、これは神様からの唯一の好機……! 天からの贈り物だと思え。――分かったら、行け!」
まるで、戦場に息子を送り出すような雰囲気の中、幻武はキュウリの入った籠を片手に台所を出た。
「なんだありゃ? なんで俺が、そんな事言われなきゃならねえんだ?」
幻武はブツブツと言いながら駆け足に玄関から飛び出した。
そこでは、幽夢が道行く人々をぼうっと観察しながら、幻武が来るのを待っていた。――腰まで伸びた髪が夕日で僅かに琥珀色を帯び、その物憂げな横顔に、幻武は心臓が大きく打ち鳴らされるのを感じた。
「ああ、幻武。遅かったけど、何かあったの?」
「あ、ああ、いやいや。ちょーっと準備に手間取っただけさ。待たせてすまねぇ」
幻武は、何故か自分の顔が火照るのを感じつつ、なんとか取り繕って籠を彼女の前に差し出す。それを受けて幽夢は、不思議そうに籠の中身を覗いた。
「キュウリね。どうするのこれ?」
「言ったろ、うちから持って行ける手土産はキュウリしかない、ってさ。これから、ある人の所にお邪魔するから、手土産にこいつを持って行くんだ」
「へぇ、どこに行くのかしら」
「ああ。うちの近所に具合の悪い婆さんが一人で暮らしてるんだが、俺がたまに行って様子を見てるんだ」
幻武の指差したのは、今いる通りの端っこ。そこには、小さいながらも造りの立派な屋敷が建っていた。それは幻武の住んでいる長屋とは比べ物にならない。
「ふぅん、そんな慈善活動してるんだ。意外だわ」
「言っただろ? 最近は、里の為に役に立とうと思ってるってさ。つっても、この婆さんのところには、そう思い立つ前から通ってるんだが」
歩いてものの数分で、二人はその屋敷の門前へとたどり着いた。立派な門には詰所があるものの、中に肝心の見張りはおらずに、幻武は「ごめんくださーい」と挨拶をしながらズカズカと敷地内に入っていった。
幽夢は周りを興味深げに見渡しながら、その背に隠れるようにして幻武の後をついていった。
「お邪魔します。……ねぇ、幻武。勝手に入って良いの?」
「しょうがねえだろ? 婆さんは一人で寝たっきりだし、この時間は使用人もいやしないんだ。勝手に入るしかない」
幽夢は周りを見渡しながら、まるで離れ座敷のように小じんまりとした屋敷へと近づく。
そこに向かう小道には玉砂利が敷かれており、周りにはたくさんの木々が植えられている。それも鑑賞用のものではなく、森に自生しているような種類の樹木たちであった。
「……なんとなく、私の家に雰囲気が似ている」
その空間に、住み慣れた博麗神社の雰囲気を感じ取った幽夢は、小さく呟いた。
やがて屋敷の縁側へと着いた幻武は、草履を脱ぐとそこに足を上げた。そして目の前にある障子戸へと声を掛ける。同じように縁側に上がった幽夢は、その縁側周辺の間取りさえも、神社の社務所に似ていると気付いた。
「婆さん、また来たぜ。近所に住んでる、ほら。『悪ガキ』の幻武だ」
「ああ、幻武ちゃんね。お入り」
中から聞こえてきたのは、か細い嗄声。それは何故か、妙にはっきりと聞こえた。
そして、幻武の手は静かに障子戸を開く。
その向こうには、布団に伏した一人の老婆がいた。白髪は枕に埋もれて、まるで生気を感じられない疲れ切った姿だと、目にした幽夢はそのような印象を持った。
幻武は籠を片手に部屋の中へ入っていく。その後ろで、幽夢はじっと老婆の姿を見ていた。その足は、何か金縛りに遭ったように動かなくなっていたのだ。
「今日もキュウリ持ってきたぜ。暑い日に味噌つけて食うと美味いんだ、これが。とりあえず、後で給仕さんに渡しとくな」
「ああ、いつも、すまないわねぇ、幻武ちゃん」
「なぁ、そのちゃん付けは辞めてくれないか?」
「……あら、今日は誰か……友達でも連れてきたのね?」
老婆に指摘された幽夢は、緊張に身を固めて、幻武の陰にスッと身を隠した。幻武は「おい、隠れんなよ」と言いつつ手招きしながら、幽夢の事を老婆に紹介する。
「ああ、そうだ。今日は友達も連れてきたぜ。なんとこいつ、聞いて驚くなよぉ? こいつが、なんと……! あの“博麗の巫女”なんだ! 博麗の巫女ってのは、婆さんも知ってるだろ?」
「は、初めまして。博麗幽夢と申します」
紹介されて前に出た幽夢は、そこで初めて老婆と対面する。布団の中からその細い首を出している老婆は、白髪に埋もれ皺の深く刻み込まれた顔で、幽夢を見返した。――そして、その顔が突然に強張ったの見て、幻武は首を傾げた。
「どうしたんだ、婆さん……?」
幻武が横を向くと、いつの間にか幽夢までもが、老婆と同じように目を見開いて、その顔貌を引きつらせていた。これには流石の幻武も、ただならぬ雰囲気を察して思わず口を閉じた。
「……嘘でしょう。いや、そうよ、だって……」
幽夢は目眩を起こしたように、その場で膝から崩れ落ちた。「おい、大丈夫か!?」と、その身体を支えた幻武は、この二人に一体何があったのかと、その顔を交互に凝視した。
そして、彼女たちの顔を見比べた事で、幻武は二人の間に起きた衝撃について、察しがついてしまった。――そう、二人の顔は、どこか良く似通っていた。
「久しぶりね……。幽夢」
その乾ききった口蓋から搾り出された声は、いつもより余計に震えていた。老婆の発した言葉により、幽夢は疑念を確信へと変えて、唇をますます戦慄かせた。
「嘘、お母さん、なの……?」
「そうだよ、幽夢」
幽夢の問いかけは偽りである。何故なら老婆の顔を見た瞬間に、彼女は分かってしまったのだから。――それが実の母の、年老いた姿であると。何年も前に別れた、愛しい母の変わり果てた姿であると。
だが俄には信じたくもないし、理解もできなかった。それもそうだ、母の姿はあまりにも、老いている。六歳の時に別れた母はまだ若く、とても数年の月日で、ここまで年老いるような年齢ではなかったはずだ。
だが事実として、目の前の老婆は母であった。どのような経緯でここまで年老いて、この屋敷で一人過ごしているのかは分からない。ただ目の前には、あの夢の中で何度も追いかけ続けた母の姿が、確かにあったのだ。
“老婆”の枯れ枝のような細い腕が、布団の脇からゆっくりと這い出てくる。そして、それが力を振り絞るように持ち上げられると、開いた掌が幽夢の顔へと伸ばされる。
「幽夢、本当に……。幽夢、なの?」
「わ、わたし……私は博麗幽夢……博麗神社の、巫女よ」
「まさか、もう一目だけでも、見られるなんて」
腕が畳を叩いた。
老婆の口は開いたままに、その薄く開いた双眸からは涙が流れ落ちた。
慌てて幻武が老婆へと駆け寄る。「婆さん!」その叫び声を聞きながら、幽夢はどこを見るともなく視線を泳がせていた。
その頭の中ではぐるぐると、何か大きな不協和音が響きわたっている。「お母さん」呟いた言葉が自分の口から出た事に、幽夢は気付けなかった。
「死んでる……。老衰……か」
脈をとり、項垂れる幻武の宣言を聞いた幽夢は、突然目が覚めたように、その瞳から涙を零した。
――『幽夢、博麗の巫女としてしっかりと頑張るのよ。いつか素敵な殿方と結ばれて孫の顔を見せにおいで。それまでは、さようなら』
六歳の誕生日。そして夢の中。何度も聞いた母の言葉。それが頭の中を、責めるように蝕んでいた。先程から頭を駆け巡っていた大きな不協和音は、その母の別れ際の声であった事に気付く。
「お母さん!」
今度は自分の意思で叫んだ。
幽夢は、幻武を突き飛ばすようにしながら、床に臥せる母へと近寄った。
「なんでよ! 私に子供が出来たら、また会えるって、そう言ってたじゃない! 何度も、何度も、言ってたじゃない!」
「幽夢! 落ち着け!」
錯乱状態に陥った幽夢を前にして、幻武も多分に動揺していた。
しかし、自分がしっかりしなければならないと気を奮い立たせると、幽夢の身体を抱きしめるようにして老婆の身体から引き離そうとする。
「放せっ」
幽夢の払った手が鼻先を強打するも、幻武は構わず必死に、その身体を押さえつけていた。
その時の幻武は、このまま幽夢を好きにさせると、彼女までもがこの老婆のように“あちら”側へ逝ってしまうのではないか。何故か、そのような危惧の念を抱いていたのである。
「くっそ、なんでこんな事に……。おい、誰かぁぁ!」
幻武は大声で人を呼んだ。もしかしたら、給仕が屋敷へとやって来ているかもしれない。
そう思って呼んだのだが、給仕はまだ屋敷へとやって来てはいないようだった。屋敷の中では物音一つしない。
「誰かぁぁ!」
もう一回叫ぶと、運良く屋敷の前を通りかかった男が、何事かと顔を出してくれた。
「どうした坊主? おいおい、何を喧嘩してんだ」
「ここの住人が病死した! 見ての通り手が離せないから、この屋敷の管理をしている人を呼んできてくれ!」
「何!? 分かった、ちょっと待ってな」
男は踵を返すと、早足にどこかへと駆けていった。
この屋敷を管理しているのは誰なのか、果たしてあの男が分かっているのかが疑問だったが、ひとまず幻武は幽夢が暴れるのを止めるのに専念できた。
しばらく幽夢の振りかぶる腕を避けたり、殴られるのを我慢していたりすると、やがて彼女は大人しくなり、肩を落とす。そして、幻武の腕の中で力尽きたように小さくなった。
そして、その啜り泣きを聞きながら、幻武もこの先をどうしたら良いのか分からずに、固く口を閉じてしまった。
「ごめん」
幽夢は何に対してなのか、小さい声で謝った。
幻武はとりあえず、顔面を何度か殴られた事に対する侘びであると受け取ることにした。
「ハハ、気にすんな。お前に殴られるのなんて、もう慣れっこだよ」
幻武はわざと明るく言ってみせた。しかし、それくらいで笑ったり怒ったりと返してくるほど、今回は幽夢も簡単ではない。彼女の啜り泣く声が、ただ靜靜と部屋に流れ続ける。
幻武自身も、突然の出来事に随分と驚いて気が動転していた。だが、それでも幽夢ほどではないという事を自覚し、彼女を慰めなければと思っていた。だが気の利いた台詞も、慰めの言葉も、彼には何も思い浮かばない。だから、彼女の小さな肩を後ろから優しく叩いた。
「外で待ってる」
結論として、幻武にはどうする事も出来なかった。だから、ある程度は落ち着いたところで、後は一人で好きにさせてやる事にしたのだ。
障子戸を通って廊下に出た幻武は、ちらりと後ろを振り返る。幽夢はまだ、母の亡骸の脇で肩を震わせ泣いていた。
「10年振りに突然再会して、突然死なれたら……たまんねぇよな」
幻武にも、ほんの少しは幽夢の気持ちを理解する事は出来た。だが、その支えになってやれる事は、今の自分には出来ないと弁えていた。だからこうして部屋を出て、縁側に腰を掛けるしかないのだ。
「俺が、ここに連れてきちまったから、あんな悲しい目に遭わせちまったのだろうか」
日が沈み、暗くなりかけた空を見上げて、幻武はひとりごちる。
見舞いに彼女を連れてきた事が、そもそもの間違いだったのだろうか。彼女にとって、この出来事は果たして悪い事だったのだろうか。幻武はしばらくの間、頭を抱えて、その事に呻吟した。
「すぐに死なれるくらいだったら、もう会わなかった方が、良かったのかな」
未だに両親が健在である幻武には、その悲嘆は想像すら及ばなかった。親に目の前で死なれる悲しさというものは、一体どのような傷を心に残すのだろうか。
「幻武、帰りましょう」
「……もう、大丈夫なのか」
後ろから話しかけてきた幽夢に向かって、幻武はゆっくりと振り返りながら問うた。それに対して幽夢は腫れた目を隠そうともせず、こっくりと頷いた。
「心配かけて、ごめん。でも……お母さんの側にはもう、いたくないの」
「分かった。……こちらこそ、済まなかった」
「なんで貴方が謝るのよ」
「ごめんな、俺のせいで」
とにかく幻武は謝るしかなかったのだ。
幽夢も鼻を一回啜ると、後は何も言わずに靴を履いて縁側から降りた。
幻武もまさか、自分の家に案内するだけだったはずが、親の死に目に合わせる事になるとは、夢にも思わなかった。二人で並んで屋敷の門まで歩く間に、幻武は呟くように、もう一回「ごめん」と言った。幽夢は足元に目線を落としながら、その言葉には応じなかった。
「……え?」
二人の目の前で、不意に切れ目が出来る。突如の出来事に、幻武はびくりと身体を震わせて、咄嗟に幽夢の前に出て両手を広げる。それは次の瞬間には大きく口を開いて、中から一人の女を吐き出した。
「うわっ!? なんだ、こりゃ……??」
「……!!」
背中越しにそれを見た幽夢は、素早く幻武の背中に隠れると、その顔面を彼の肩に埋もれさせた。
「どうした幽夢!? ってかコレなんなんだ?? 誰なのこの人??」
「ちょっと肩借りるわよ。それはすきま、そこからは嫌な奴が出てくる事で、お馴染みよ」
すきまから出て来た女は、長い金髪を右手で掻き上げると「ふぅ」と気だるそうに息を吐いて、幻武へと向き合った。
「初めまして、幻武。私は八雲紫、この屋敷の管理者。――いいえ、妖怪の賢者と言った方が通りはいいかしら」
「あっ、貴方が……妖怪の賢者様ですか」
「ええ、よろしくね、幻武。まぁ貴方、幽夢の友達らしいし、堅苦しくなく名前で呼んでくれて良いわよ?」
「……紫さん、それで……何をしにいらしたのですか?」
幻武は緊張と、若干の敵意を混ぜあわせた視線を紫に向ける。
自分の後ろに幽夢が隠れたという事は、今の彼女は紫に会いたくないという事なのだろう。いざとなれば自分が身を呈して幽夢を守らなければならない。――特に違和感もなく、幻武はそう思えていた。
「あら怖いわねぇ。屋敷の管理者を呼んだのは貴方じゃないの? 楼夢が死んだっていうから、慌てて飛んできたっていうのに」
「楼夢……婆さんの事か」
あの老婆は、幻武には決して自分の名前を明かさなかった。博麗神社を去った巫女は、その身分を隠して里に住むのが決まりだったから当然である。幽夢の母は、誰にも名前すら明かす事なく、この屋敷に住んでいたのだ。
「後の事は、私に任せて。……そして幽夢、貴方は一体何をしてるのよ」
「あんたの顔を見たくないだけよ。さぁ幻武、行きましょう」
「おい、このまま行くのかよ!?」
仕方なく幻武は、背中に顔面を押し付けられたままで、紫に会釈をして歩き始めた。
「それでは紫さん、失礼します。……婆さんの事、頼みます」
「ええ、貴方も楼夢には色々と関わっていたようね……。そして、幽夢。お母さんについては安心なさい。あれなら、ちゃんと冥界に辿りつくはずよ」
幽夢は無言で、幻武の肩に顔を隠したままで屋敷を出て行った。紫は珍妙な体勢のままで屋敷を出て行った二人を見送ると、クスリと笑った。
「あの子ったら、私に泣き顔を見られるのが、そんなに嫌だったのね」
賢者は瞼を閉じた。
「また一人、博麗の巫女が死んだ」
その事に八雲紫は心を痛める。
この幻想郷を守る為に生き抜いてきた“戦友”の死に、彼女は心の中で深く哀悼した。
◇ ◇ ◇
「おい、本当に大丈夫か……? 無理して帰るより、今日は家に一泊してった方が……」
幻武の家の前に戻ってきた幽夢は「今日は帰る」といって博麗神社へと戻ろうとしていた。それを心配した幻武は、彼女を引き止めているのだ。
先程までの落ち込み様を見れば、このまま一人で帰すのは不安である。かといって、移動手段が徒歩である自分は、空を飛ぶ幽夢を家まで送ってやる事も出来ないのだ。
「心配いらないわ。あのくらいの事で、簡単に落ち込むような私じゃない」
「あのくらいの事って……」
親が死んだ事で落ち込まないはずがない。それが強がりだという事は、幻武も良く分かっていた。
何よりも、屋敷から家の前へ戻ってくる間。その腫らした目を地面に向けて、延々と啜り泣いていた女の子の事を、大丈夫だと思えるほど幻武も馬鹿ではなかった。
「それじゃ、今日は色々あったけど……けっこう楽しかったわ。また、神社に遊びに来てね」
「あ、ああ。今度は、美味い酒でも持っていくよ」
「……うん」
幽夢は地面を軽く蹴ると、そのまま空へと舞い上がっていく。その様子は、何度見ても美しいと、幻武は見惚れていた。妖怪たちの効率的な飛行とは違う、そのふわりと浮き上がるような、不思議な浮遊。彼の心は揺さぶられる。それに呆気を取られていた訳ではないが、幻武は結局、彼女を一人で神社へと帰してしまった。
自分へと手を振る巫女に、大きく腕を振って応えた幻武は、その白装束が暗い空のかなたへと消え去るまで、しばらく立ち尽くしていた。
「心配、するよそりゃ」
そう呟きながら、ようやく我が家――貧乏長屋の玄関を幻武はくぐった。
「ただいまぁー」
「馬鹿野郎ォォォォオォオオオ!」
待ち構えていたかのような親父の怒鳴り声、そして顔面直撃の鉄拳制裁である。
「ぐぇぇああ!?」
鉄拳を喰らった幻武は空中を一回転すると、綺麗に両足をついて着地した。だがその鼻からは、噴水の様に真っ赤な血が吹き出した。
「いってえぇぇ! 何すんだよ、糞親父!」
「馬鹿息子が! あれほど、巫女様の扱いには注意せいと言ったのに!!」
「はぁ? 別にどうもしてねーだろ」
鼻を抑えつつ、親父の顔を睨み返す。
「幻武、お前……! 巫女様を泣かして帰すという、恐ろしいマネをしておいて、良くそんな口が聞けたなァ? これで我が家が妖怪に襲われた時に、巫女様に助けてもらえなくなったらどうするんじゃ! ボケ!」
「いやいや、あいつが泣いてたのは俺のせいじゃねーよ! ……いや、俺にも責任があるかもしれんが」
「ほれみろ! この馬鹿息子が!」
二発目の鉄拳制裁をひらりと躱し、幻武は反撃の回し蹴りを親父の脇腹に叩き込んだ。
不意打ちの一発目とは違い、二発目まで甘んじて喰らう義理は幻武になかった。そして、ズキズキと痛む鼻っぱしらの仇をとるため、ついでにやり返してやったのだ。
「ぐぉぉ!? この、何する……」
「こっちの台詞だっつーの! そんな勘違いで無駄に殴られた、こっちの身にもなってみろ! それに、もし悪い妖怪がうちを襲ってきても、幽夢の代わりに俺がやっつけてやるよ。安心しな、糞親父」
「何を言っておる! この前の畑荒らしだって、お前じゃ歯が立たんから、結局は巫女様に助けてもらったんだろうが!」
「うぐぅ!? な、何故それを知っている?」
「妖怪の賢者様から今さっき、全部聞いたのだ!」
気付けば親父の後ろ、狭い居間では、八雲紫がちゃぶ台に座ってお茶を飲んでいた。そして爽やかな笑顔で幻武へと手を振る。
「はーい、お邪魔してるわよ。幻武」
「なな、紫さん! 何してるんですか!?」
まさか自宅の居間に、あの妖怪の賢者がいるとは思いもよらず、幻武は驚いて大声を上げる。「うるさいわねぇ」と耳を塞ぐ紫の脇で、幻武の母親は急須を片手に、固く両目を瞑っていた。
「賢者様が全て、お話ししてくださったぞ。お前という奴は……巫女様に対して、とんでもない事をしてくれたそうだな」
「ええっ、ちょっと紫さん? なんか……親父たちに誇張して伝えたんじゃないでしょうね!?」
「幻武、人聞きの悪いことを言わないでちょうだい。私はありのままの真実を伝えただけよ? 例えば貴方が幽夢の家に勝手に上がりこもうとしたり、それを注意されて逆上し幽夢に襲いかかったり、夜の畑で幽夢を地面に倒したり、水を掛けて全身をびしょ濡れにしたり……」
「あー、やっぱりね!! どうみてもワザと誤解させようと言ってるでしょ!? っていうかそれ、全部見てたんですかアンタ!?」
「ええい、言い訳をするんじゃない幻武! お前なんぞは勘当だ! この家から出て行け!」
「はぁ!? 息子の俺よりも、この妖怪の言う事を信じるのかよ!」
「当たり前だろ! 賢者様とお前じゃ、信頼度に天と地の開きがあるわ!」
「わーったよ! こんな家、俺の方から出ていってやる!! 糞親父めっ」
幻武は顔を真っ赤にして、なんだかんだとわめき散らしながら家を出て行った。
その足の早さといったら並の野生動物よりもよっぽど早く、彼の姿はあっという間に里から消えて、妖怪の山の方へと消えていった。
幻武と怒鳴り合った父親は、玄関先に立ち込める砂埃を手で払いながら、大きく咳払いをする。そして居間へと振り返って、妖怪の賢者へと質す。
「これで良かったんですか? 賢者様」
「ええ、上出来よ。大した役者じゃないの」
「まぁ親子喧嘩は日常茶飯事ですから。……あいつが怒って家出するのも、ね」
「悪いわね。でも安全な里の中で、ゆっくりとされてちゃ困るのよ……あの子には」
紫はお茶を飲み終えると「それじゃあ、また何かあったらお邪魔するわ」と軽く会釈して、すきまへと身を隠した。
「……行ったか?」
「消えたわ」
賢者の去った瞬間、夫婦が一目散に畳へと倒れこんだ。両人の大きな嘆息は、全く同時に起きる。
「ああ、なんでこんな事に……。面倒な事に巻き込まれちまったなあ」
「なんでかなんて、私にも分からないわよ……。ただ、幻武さえ無事でいてくれればねぇ」
博麗の巫女や妖怪の賢者。そんな化物たちと関わり合いになってしまった息子の不運を嘆きながら、二人は再び揃って長い溜息をついた。
◇ ◇ ◇
妖怪の山には数多くの妖怪が住んでいる。
その中でも、特に数で他の妖怪に勝る“天狗”は、山の中に【天狗社会】を作った。そして、その組織的な習性を活かして、実質的に山の全てを取り仕切っていた。
本日、紫は、その天狗の中でも上層部と呼ばれる“大天狗”たちに呼び出され、式神の藍と共に妖怪の山へと訪れていた。普段は幻想郷の管理者と、妖怪たちを取り仕切るものとして友好関係を築いている両者。しかし、天狗たちの習性からしてそれは表向きであり、内心では自分の事も厄介な一勢力としか見ていないと、紫は分かっていた。
だから今回の呼び出しに関しても、ただ単に自分への“情報提供”という名目通りの内容ではなく、何かしらの策略の一部であると決めつけているのである。
「それにしても、紫様を“呼び出す”なんて……。天狗連中は、どういう神経をしているのでしょう。自分たちが妖怪の頂点に立っているとでも、思い上がっているのですかね?」
八雲藍は当人たちの本拠地はド真ん中、ちょうど九天の滝に沿って昇りながら吐き捨てる。彼女は式神であるが故、そして、それ以上の自意識からくる紫への忠誠心を持っている。その忠誠心が、彼女に怒りの言葉を紡がせたのだろう。
だが藍の後ろから悠々と山を往く紫は、そんな式神を窘めた。
「こらこら、そんな事を言っちゃ駄目よぉ? 彼らは妖怪の統率という面で、幻想郷の管理の一部を担ってくれている、大事な仲間なのだから。それに今回は天狗全体ではなく、一部の大天狗が、独断で私に連絡したい事があるらしいの。だから、こっそりと私を呼び出すしかなかった訳ね」
まるで上からの命令が絶対であり、自由に動けない大天狗たちを慮ったような台詞だった。ただし、もちろん内心はそういった気遣いなどは微塵もなく、ただの気まぐれに近い台詞である。
「こっそりと呼ばれた割には、堂々と山のまんなかを移動してますけどね、私たち……。それにしても、天狗の中でも派閥のようなものがあるのですか?」
「そりゃ妖怪だって生き物だもの、個体によって思想は異なるでしょ? 特に、今回私を呼び出したのは、大天狗の中でも変わり者。幻想郷に関しては、よく考えてくれてるリベラルな連中でねぇ。まぁ、それが思い詰めたりなんかして、逆に過激思想になってないか、ちょっと心配でもあるのよね」
紫は滝を登り終えると、山の中腹にある崖の下へとたどり着いた。
そこには大きな岩戸がある。彼女の言う“リベラル派”の大天狗たちが会合に使う洞穴が、その岩戸の向こうに密かに作られているのであった。
「もしも~し、やって来たわよ」
「あっ、紫様! お下がりください、ここは私が……」
「大丈夫よ、私に不意打ちかまそうなんて、頭の柔い連中でもないから」
紫は呑気に言うと、岩戸をノックする。
到底人間には動かせそうもない分厚い岩戸は、紫の声に応えて音も立てずに静かに開く。そして間髪入れず、奥の方から妖怪のものらしき野太い声が響いてきた。
「申し訳ありませんが、従者の方はご遠慮ください」
暗闇の中から、はっきりとした口調で、そのような忠告が聞こえてくる。だが藍は意にも介さず、紫に付き従う気を満々に歩み出た。すかさず紫は、そんな式神を手で制止した。
「ダメよ藍。悪いけど、ちょっと外で待っててくれる?」
「……しかし」
「だーめ。外を見張っといてちょうだい」
「はい……。くれぐれも、お気をつけて」
心配性の式を微笑ましく思いつつ、大天狗たちの待つ暗がりの中へと歩みを進める。
外から見ただけでは暗闇でしかなかった洞穴内が、中に入って見ると思いのほか明るい。喚び出された鬼火が、岩壁を薄く照らしているようである。
なるほど、アジトとして十分な設備。――思った紫がしばらく進むと、やがて洞穴は一際広いドーム状の部屋になった。そして、その中央に置かれた大きなテーブルを囲んで、3匹の大天狗が待ち構えていた。
「久しぶりね、今日は何の用かしら?」
「ご足労願って申し訳ない。さぁ、お掛けになって下さい」
紫に着席を促した大天狗は、その鋭い眼光を隠すような太いフレームの銀縁眼鏡を掛けている。「伊達なのね」と、レンズが嵌め込まれていないことに気付いて呟く。
紫は眼鏡をかけた大天狗の向かいの椅子に腰掛けると、扇子で顔を仰ぎながら洞穴内を見渡す。洞穴内の壁は湿気でじっとりと濡れていた。天井からは、今も絶え間なく雫が垂れ落ちる。それに紫は不快感を示した。
「相変わらず、ジメジメしたところをアジトにしてるのねぇ」
「仕方ありますまい。滝の脇という環境では、如何な湿気対策も効果がありませんから」
茶を差し出した天狗たちは、まるで戦の前に軍議を始めるかのような、鋭く険しい目線を紫に向けた。しかし対する紫は、涼しい顔で茶を口に含む。それから、その態度に苦言を呈した。
「いきなり睨まれてもねぇ? それで、一体何なのかしら」
「言わなくとも分かるでしょう。結界の事ですよ」
「結界がどうかして?」
「博麗大結界が弱まっている事ですッ!」
大天狗はテーブルへ拳を打ち付けてヒステリックに激昂した。紫は「もうっ」と呆れたような声を出しつつ、湯のみをサッと持ち上げて、衝撃で茶が溢れないようにした。
「ここ数日の脆弱な結界の様子は、我々のみならず、下っ端の白狼天狗でさえ気付く程ではありませんか。それに対して、なぜ貴方は何の対策も講じないのか?」
それは天狗の言う通りであった。ここ数日で、博麗大結界は著しくその機能を低下させ、幻想郷を覆う結界はその半身を失いかけていた。その異変は、結界の存在などまるで頭にないような下等な妖怪たちでさえ、何かしらの違和感として感知出来る様な一大事なのだ。
常日頃から、幻想郷の在り方について論じているこの大天狗たちにとっては、それは確かに激しい怒りに値するものであった。
「そんなに怒らなくても良いじゃない。議論は冷静に、ね」
「紫殿。貴方は、この結界弱体化の原因を分かっているはずですよ」
「ええ、知ってるわ。幽夢が体調不良なのよ。それだけの事じゃない」
「博麗の巫女がそれでは困るのですよッ!」
もう一回、テーブルが軋んだ。
顔色一つ変えずに茶を啜る紫とは対照的に、大天狗たちは顔を紅潮させ食ってかかる。それをさらりと受け流して紫は、天井から胸元へ垂れた雫をハンケチで拭き取りながら、静かに返す。
「彼女、今はちょっと精神的に疲れててね。あともう少しすれば回復すると思うわ。しばらく放っておいてあげて」
「……紫殿。我々は冷静に対処を行えます。我々はね」
先程までの激昂した口調から、至って冷静で冷徹な天狗らしい口調に急変する。そんな彼らの言葉に、紫は眉を顰めた。
「……それって、どういう意味かしらね?」
「天狗の中には、我々と同じく幻想郷の存続を第一に考える、志高き素晴らしい者が多くいます。その者たちの間で、最近こういう噂が流れているのをご存知ですか?」
拳を振るった衝撃で、鼻先から滑り落ちた銀縁眼鏡の位置を直しつつ、大天狗たちは声色を変えて口々に言った。
『博麗の巫女が妖怪を裏切って、幻想郷から妖怪を締め出そうとしている』
『そうだ、あの結界が無くなったら、俺たちみたいな“外で幻想になったもの”は消えてしまうんだ』
『博麗の巫女は我々の敵なんだ』
天狗の台詞を聞いて、紫は湯のみをテーブルへ静かに置くと、光の無い視線を彼らへと送った。
「で?」
「そういった訳で、博麗の巫女を打倒するべきだという運動が、山の中で起こり始めています。我々としても冷静な対応を促しているのですが、血気盛んな愚か者は少なからずいますので……あまり大事になる前に、紫殿にも然るべきの対処をお願いしたいのです」
「だから言ったじゃない。幽夢は体調が悪いだけだって。人間の体調は治るまで待つしか無いわよ? それに幽夢が死んだら、どちらにせよ結界は消えるじゃない。その天狗たち馬鹿なんじゃないの?」
「まぁそういった手合いは、死なばもろともという破滅的な思想なのでしょう。それよりも我々は、紫殿に対する風当たりが強くなるのが心配なのです。連中の一部には、賢者は今代の巫女と特別に懇意であるから、結界の弱体化を見逃してやっているのではないか、と……其の様に邪推する輩もいますので」
「そんなものには、好きに思わせておけば良い。とりあえず、貴方達にお願いするのは、その白痴天狗たちの抑制ね。……もしも、妖怪たちが暴走して、巫女に手を出してみなさい。――この山が、消えるわよ」
紫は静かに立ち上がると、踵を返して洞穴の出口へと向かう。その背後から大天狗の台詞が追ってきた。
「我々としても、結界の弱体化に関しては、早急に善処をお願いしたいですな」
それを聞き流しつつ、紫は足早に岩戸を出る。纏わり付く湿気から逃げるように。
外に出た彼女を待っていたのは、崖の下を覗いている藍の背中であった。式は振り返ると、主人の無事に胸を撫で下ろすと同時に、中で何があったのかと尋ねる。
「それで、何の用事だったんですか?」
「いつもの。住民からのクレームよ。管理するのも楽じゃないわねぇ」
「実際、管理してるのは私ですけどね」
「名義は私になってるのよ。……それで藍? 崖の下に何か面白いものでもあった?」
「ええ、何やら妖怪たちが喧嘩をしているようです。しかも人間相手に」
藍の指差した先、妖怪の山の麓に近い森の中。大きな爆発音が轟き、粉塵が吹き上がっていた。その合間から聞こえてくる裂帛の咆哮は、確かに人間のものであった。
「ああ~。それなら、私が蹴しかけておいたのよ」
「例の、幻武とかいう少年ですか?」
「そうそう、妖怪連中に“幻武が来てもいつも通りには扱わずに、殺す気で追い返せ”ってお願いしておいたの。ここ以外に居場所のない彼は、突然牙を向いてきた友人たちと戦わざるを得ない」
「それまた、非道い事をなさるのですね」
「これくらい当然の事よ。あの子が幽夢の側にいる為には、ね」
紫は眼下で行われている戦いの激しさに満足すると、式神を引き連れて山を後にする。だが、その表情とは裏腹に、彼女の心中は大天狗との会談により穏やかさを失っていた。
何故なら、妖怪の賢者は懸念していた。というのも近頃、自分の名前だけでは、妖怪たちの行動を抑制しきれないという危機感があったのだ。それに博麗大結界の緩みが重なる事によって、妖怪たちの中にはこれを期に勢力の刷新を行なおうとする者が現れるのではないかと。――そして大天狗たちの口から、その懸念は事実であると告げられた。
「藍。しばらくの間、一人で結界を維持する事。……お願い出来るかしら?」
「また無理をおっしゃる。所詮、私は管理をしているだけという事は、貴方が一番ご存知でしょう? 紫様のお力がなければ、結界自体の維持は私には不可能です」
「……そうよね。ということは、しばらくは私も動けない……か」
紫は珍しく頭を悩ませながら“艮の方角”、幻想郷の鬼門にある我が家へと帰っていった。
◇ ◇ ◇
「お母さん、私は博麗の巫女としての務めを果たしているわ。そのうち、ちゃんと跡継ぎも……。だから、全てが終わったら……また、一緒に暮らしましょう」
彼女は問いかける。どこかにいる母に向かって、自分の胸の内を明かして。しかし闇の中から浮かび上がってきたのは、白髪を振り乱しながら苦しみ悶える母の姿だった。その目は血走り、肌は白くひび割れて、醜く瘡ついている。とても、母だとは認めたくない醜態。
「お母さん! 大丈夫!? 今、お医者様を……」
「あぁぁぁ、幽夢……助けておくれ、苦しい、寂しい……一人は、一人は嫌だ……」
呪言のように母の口から流れ出てくる言葉は、幽夢の身体を茨で締め上げるように痛みつける。その言葉で心を引き裂かれた彼女は、吐き気を催して闇の中で膝をつく。あっという間に瞳は涙であふれ、彼女の正気は、極寒の寒さの中に裸で放り出される。
「うぅっ、お母さん……ごめんね。ごめん……」
母は人間の里で、たったの一人ぼっち。あの布団の上で、どれ程の長い時間を過ごしていたのだろうか。自分が境内を掃除している間も苦しみ、縁側で茶を飲んでいる時も悶えて、幻武と話をしている間さえも魘されていたのだろうか。――そう思うと幽夢は、母の前で頭を下げ、ただ謝り続けるしかなかった。
「幽夢ぅぅ、助けておくれぇ」
それが最後の言葉だった。
母の姿は、やがて闇の中に沈んでいき、最後に助けを求めるように伸ばした、まるで枯れ木のような手が、闇の淵に飲み込まれていった。
後には静寂しか残らない。やがて彼女も、崩れ始めた闇の中に呑み込まれていった。寒くて暗い泥土の中に。
「ああっ」
短い悲鳴と共に、幽夢は覚醒した。
目を覚ました彼女は全身を汗で濡らし、激しい動悸に襲われていた。布団からなんとか這い出ると、腕に力を込めて立ち上がろうとする。だが何日間も寝たっきりであった幽夢は、今は立ち上がる事さえ困難であった。足はふらつき、激しい立ちくらみに襲われながらも、彼女は必死に障子戸まで足を運んだ。
外からは強い陽射しが差し込み、時はすでに昼過ぎである事を幽夢に察知させた。
「何か、食べなきゃ」
彼女は衰弱しきっていた。母の死に際を見たあの日から、その精神は呪いを掛けられたように衰弱し、毎夜夢の中では母が縋り寄ってくる。
その悪夢に唸された彼女は、布団から立ち上がる事さえも出来ずに、一日中を床に伏せて過ごしていた。そんな調子で何日も食事を口にしていないものだから、彼女は遂に生命の危機を感じ始めるに至った。だが幸いにも――全くの偶然といっても良い程――この時の彼女は、ほんの少しだけ体調が快復していた。
「ふふ、酷い格好ね」
部屋の姿見に映った自分を見て、幽夢は嘲った。
長く艶やかな黒髪は、まるで水分を絞り尽くされたように乾燥し窶れていた。いつもは雪の様に白い肌も、今は寧ろ蝋人形のように不気味な質感へと変わっている。落ち窪んだ瞳を見返せば、彼女の口からは「まるで幽鬼ね」という自嘲の言葉しか出てこない。
やっとこさ井戸から水を汲み上げ、顔を冷水で清めたものの、彼女の体調には全くもって変化がなかった。動くのが精一杯である彼女は、当然の事ながら博麗大結界へと意識を向ける事は出来なかった。それ故に、結界は未だかつて無い程に不安定になっているのである。
「このまま、死ぬんじゃないかしら……。ふふっ、それにしても……誰も心配して来てくれないわね。紫は私の事なんか、結界の付属品程度にしか思ってないだろうし……。他に知り合いなんて、私にはいないもの、ね……はは」
居間にやってきた幽夢はなんとかちゃぶ台につくと、朦朧とする意識の中で、そこに置かれた味噌汁の椀を手にとった。久しぶりの食べ物の臭いが鼻腔を刺激するが、久しぶり過ぎて逆に吐き気を催す。
そして温かい味噌汁の上に、やがて小さな波紋が広がり始める。
「ああ、幻武も来てはくれないのね。……そりゃそうよ、だって、あいつと知り合ってから一週間くらいしか経ってなかったし。それに、初めて会った時から私は、あいつに嫌われるような事しかしてこなかったもの。きっと幻武も私の事を嫌ってるんでしょうね……。そりゃ嫌いな奴の所に、わざわざ様子を見に来る人なんて、いないわよね」
幽夢は自分の落とした雫を隠すように、味噌汁を一気に口中へと掻っ込んだ。塩の強めに効いた味噌汁は、久しぶりに胃の中に食べ物を入れる彼女の身体を、まるで懐炉のように内側からじんわりと温めてくれた。
「ふふ、そうよ。私は今まで通り一人で生きていくのね。いえ、死んでいくのかしら……」
椀をテーブルに置き、続いてホカホカと湯気を立てる白米の盛られた茶碗へと手を伸ばす。ご飯を一口食べながら、そこでようやく幽夢はある事に気付いた。
「……っていうか、この御飯は誰が作ったのよっ!?」
ご飯粒を盛大に吐き散らしながら叫ぶ。そして、それに答えるように、タイミングが良く障子戸が開かれた。縁側に立っていたのは、何故か全身傷だらけの幻武であった。
「おぉ、起きてたか! 勝手に台所借りて、ご飯を作らせてもらったぜ。いや、まさか寝室にお邪魔するわけにもいかねぇからさ」
「幻武……貴方、何してるのよ!?」
まさかの幻武の姿を前にして、幽夢は仰天しながら言葉を紡いだ。それに対して幻武は、平然とした様子で笑う。
「ん? お見舞いに決まってるじゃねぇか。紫さんが“幽夢が寝込んでるわよ”なんて通りすがりに言うから、心配で来てみたんだ。そしたら本当に寝込んでるみたいだったから、取り敢えず飯でも作っとこうと思って……」
「よ、余計なお世話よ! このくらい……どうって事ないのに……」
「無理すんな。その姿を見て無事だと思う奴なんて、この世にはいねえよ。それより、俺の作った飯はどうだい? 美味かったか?」
瞳の奥に熱いものを感じ、視界がふいにぼやけた。幽夢は誤魔化すように目をつぶって、腕を組みながら胸を張り、幻武の作った料理について評論した。
「ちょっと、味付けが濃すぎるわね。ご飯も少し硬かったし……まだまだねぇ」
「ははっ、でも初めてにしちゃあ上出来だろ? 飯食ったら、また布団で休んでろよ。まだ、治ったわけじゃないんだろ?」
「え、ええ。でも私には、色々とやらなくちゃいけない事が……」
「いいよ。飯の後片付けも俺がやるし、境内の掃除も俺がやっとく。とにかくお前は身体を休めとけ」
「……ねぇ、あんた……あんた、さぁ!」
ついに幽夢は目を開いた。収まりきらなかったものが静かに膝の上へ落ちる。そして、まるで怒りに震える様に顔を真っ赤にして幻武に食いかかる。
「何で……? 何で、私の為にこんな所まできて、料理まで作ってくれるのよ……!?」
驚きを隠さずに、目を見開きながら、幻武は申し訳なさそうに答える。
「うん。……お前がこうなっちまったのって、俺にも責任があると思う。だから……」
「貴方は、責任なんか感じなくて良いのよ! それに私と貴方は別に……」
暗い顔で搾り出すように言った幽夢の言葉を、幻武の力強い言葉が遮った。
「それに! 俺とお前は、友達だろ? 友達が倒れたのに駆けつけんのが、そんなに不思議な事かよ!?」
その言葉が部屋に響き渡るのと同時に、幽夢は勢い良く膝に顔を埋めて縮こまった。それを見て幻武は、一歩下がって障子戸に手を掛ける。背中を震わせる彼女の姿に、幻武も少し動揺した。しかし、これで良かったのだと自分に言い聞かせる。
「ま、まぁ……飯食ったら、ちゃんと休んどけよ。庭で薪割りしてるから、何かあったら呼んでくれ」
障子戸は静かに閉められた。幽夢は暫くの間、背中を丸めたままで動くことはなかった。嗚咽だけがいつまでも、その部屋に残った。
◇ ◇ ◇
「おお、起きてても大丈夫なのか?」
縁側を歩いてきた幽夢に気が付くと、幻武は手に持った斧を薪割りの土台に立てかけて、額を流れる汗を拭った。
「えぇ、お陰さまで。ちょっと調子よくなってきたかも。……ところで幻武、気になってるんだけど、なんで貴方……なんていうか、傷だらけなの?」
幽夢が疑問に思うのも無理はない。幻武の身体は傷がない所を探すのが難しいというほどに、切り傷や打撲痕で一杯になっていた。言われた幻武は、眉をハの字にして「うーん」と唸った。
「いや俺も良く分からないんだけどさぁ。いつもみたいに妖怪の山に遊びに行ったら、皆の様子がおかしくって……。いきなり俺を追い返そうとしてきたんだよ。だから俺も、ついカッとなって喧嘩になっちまってさ。天狗数十匹と俺一人の大喧嘩よ」
「まぁ、もともと人間は立ち入り禁止だったんだし。大天狗連中に貴方が出入りしてる事がバレて、退去勧告を受けたんじゃないの?」
「そうかも知れないけどさ。でも連中、なんだか本心は俺と戦いたいわけじゃなさそうだったんだ。なんか無理やり俺を追い返そうとしているみたいな……」
「じゃあ、やっぱり上からの圧力じゃないの?」
そう言いつつも幽夢は思っていた。『そこまで妖怪の深層心理が分かるわけがない』と。しかしすぐに、この幻武ならばそういった事も出来るかもしれないと考え直す。
自分ほどではないにしろ、この幻武も霊的な感知能力は兼ね揃えているようだし、何より妖怪の心情を察するという点では、自分よりもはるかに優れていると幽夢は評価しているのだ。
「長年付き合った仲だから分かる、って事ね。……それで結局、貴方は山から戻ってきたってわけ?」
「そういう事。見ての通り、俺も結構痛い目にあったからさ。やむを得ず退散する事にしたんだよ」
「……ねぇ、もしかして。その帰りに、紫に会わなかった?」
幻武の目がまん丸く見開かれたのを見て、幽夢は「やっぱりね……」と頭を抱えた。
「どうして分かったんだ? 確かに、山から出る途中で紫さんが、手下を連れて飛んでるところに偶然会ったんだ。それで、お前が寝込んでるって話を聞いた」
「きっと、会ったのは偶然じゃないわ。全ては紫が仕組んだ事よ。きっと天狗たちが貴方を追い返そうとしたのも、紫の仕業に違いないわ」
「ええっ? なんでそんな事を……」
「分からないわよ、あいつの考えている事なんて。でも10年以上付き合ってて分かったのは、何か変な事が起きたときには大概、あいつが関わってるって事」
自分だけではなく、幻武に対しても何やら怪しげな事を企んでいるのかと、幽夢が少し怒りを感じた時。
「えっ?」
彼女の視界に、幻武が慌てて自分の元へ駆け寄ってくるのが映った。その形相の厳しさに、幽夢はびくりと身体を震わせて驚いた。
「ど、どうしたの?」
「お前、ふらついてるぞ。やっぱり休んどけ」
幻武に言われても自覚が無かった幽夢は「何言ってるの、大丈夫よ」と言いかけた。
「――っ!?」
だが次の瞬間、幽夢の視界は一瞬で消失して、気付けば幻武に体重を預けていた。どうやら自分は意識が飛んでいたらしい、と理解したところで幽夢の背筋は凍りつく。
幻武が駆け寄ってきて身体を支えてくれなければ、自分は今頃、そのまま地面へと倒れてしまっていたかもしれない。
「あ、ありがとう……やっぱり、駄目みたい」
「ほら、早く休め。なんなら夕飯も作っとくか?」
そこまで世話になる事は出来ないし、なにより食欲もなかったので幽夢は首を横に振る。それに、幻武も早く家に帰らなければならないだろうと、幽夢は彼の事を気遣った。
「そこまでは良いわよ。貴方も家に帰らないと、御両親が心配するわよ」
「それは心配ない。今、家出中だから」
「心配ない事はないわね、それ」
「俺の心配はすんなって! 今、心配なのはお前だけだよ。俺、今日は神社の軒先でも借りて、寝ずの番でもしようかと思ってるくらいだぜ?」
「……なるほど、要するに家にも帰れず山にも入れず、泊まる場所がないのね?」
幽夢の的確な指摘に、彼はバツが悪そうに地面に目をやって「参ったな」と、彼女の察しの良さに舌を巻く。
「そ、その通りだ。賽銭箱の脇でも良いんで、泊まらせてください……」
「ふふ、泊まっていっても良いわよ? 軒先と言わずに、あの客間でも貸してあげる。そこに泊まりなさいよ」
「本当か!? じ、じゃあそうさせてもらおうかな。……ちぇ、これでまた、お前に借りが出来ちまったな」
「何言ってるのよ。看病してもらったっていう私の借りが、これでチャラになったの」
幽夢は声に出して笑う元気こそなかったが、弱々しくも確かに笑顔で自分の部屋へと戻っていく。幻武はその様子に一先ず胸を撫で下ろすと、また薪を割る為に斧へと手を伸ばす。
――どこからか、セミの鳴き声が聞こえてくる。それを聞きながら幻武はひたすらに薪を割り続けた。
「孤独か」
セミの鳴き声がぱたりと止んだ。きっと、命が尽きてしまったのだろうと幻武は思った。そしてまた一つの薪を割る。
そのセミの儚い命の幕切れに感じるものがあったのか、ふと幽夢の寝室へと目をやり、斧を持つ手に一際力を込める幻武であった。
◇ ◇ ◇
――これが、孤独というやつか
天狗の激しい攻撃を躱しながら、幻武はふと思っていた。
家を飛び出して数日後、いつものように妖怪の山へやってきた彼を待ち受けていたのは、友人たちからの退去勧告であった。
いつもと様子が違う友人たちの態度に違和感を覚えながらも「何いってやがる」と彼らに近づこうとした瞬間。そこへ天狗の団扇によって起こされた疾風が襲いかかる。威嚇の意味も込めて狙いを外されたそれは、幻武の二の腕に浅い切り傷をつけた。そこで幻武も頭に血が上って、彼と妖怪たちの本格的な喧嘩の幕開けとなったのである。
我が家は親父から追い出され、唯一の拠り所としてやってきた山でも追い返される。戦いの中で幻武は、これが幽夢の常日頃感じていた孤独なのかと理解した。
その喧嘩は、主に幻武が妖怪たちの攻撃を躱すだけという、至極一方的なものであった。流石の幻武も本気の妖怪が相手で、しかも数も地も相手に利がある状態では防戦一方になる。やがて彼は敗走を始めるように、攻撃を躱しながら山を下り始める。
「だが……」
逃げるばかりでは埒があかない。幻武はそう思うや否や、突然に後ろへと飛び跳ねる。そして自分を追いかけてくる友人の一人に、背中から体当たりをかます。それを受けた天狗の身体は、木々をなぎ倒しながら後方へと吹き飛んでいった。そして幻武は再び地に足が着くと同時に逃げ始める。
それくらいで妖怪は死にはしないが、仲間がやられた事で妖怪たちの攻撃もより苛烈さを増す。
「へへっ、ざまあみやがれ」
「やりやがったな、幻武!」
天狗たちの繰り出す攻撃は、幻武にとって躱す事は容易である。しかし、それらは一度喰らえば間違いなく死に至る脅威でもある。――木々の合間を駆け抜けてくる鎌鼬を、背後から感じる殺気を頼りに避ける。木々の合間を蛇行するように走って、狙いをつけられにくくする。そうして幻武は何とかここまで凌いでいた。
「……ひとり、どこにも頼るものがないってのは。こういう事なんだな」
今までの自分は、里に馴染めずとも、妖怪の山にくれば彼らと仲良く過ごす事が出来た。だが、あの幽夢は神社で一人、他に話をするような相手もおらずに、自分と同じくらいの時間を生きてきたのだ。
「あいつ、元気かな」
脳裏に幽夢の顔が思い浮かんだ瞬間、それは隙以外の何者でもなかった。天狗の巻き起こす烈風によって巻き上げられた石礫が、幻武の肩に直撃する。
「あぐぅ!? ……っ、ぐぅぅ……ぁ」
石礫の鋭く尖った角が、幻武の厚く締まった皮を裂く。鍛えられ固くなった筋肉にも突き刺さる。そしてその質量と加速度は、最も奥に潜んでいた骨へと直通する。衝撃は腕から身体の中を通って、脳の中心にまで響き渡った。視界がぐらり、と揺らぐ。
右肩が動かない。これではもはや勝負にならない。――判断した幻武は、木々の合間を風のように縫って、一気に山を降り始めた。
「待て! ……ここまでだ」
天狗の一人が、幻武の動きを見咎めると仲間を制した。山から出て行くとなれば、天狗たちもこれ以上戦う必要はない。彼らは追跡を辞めて、逃げていく友人の後ろ姿を見つめた。
「……ちっ」
その瞳は、忸怩たる思いに満ちていた。何故ならそれは、自尊心の強い天狗である彼らが、賢者に脅されて友人を追い返さなければならなかったからだ。先程、幻武に体当たりされて吹き飛んでいった天狗も、腹を押さえつつ仲間に追いつくと、逃げていく幻武の後ろ姿に「すまねェ」と呟く。そして己の不甲斐なさに歯ぎしりをした。
「あー、くそっ。一体何がなんだってんだよ……! 今更、家には帰れないし……今日は野宿かなぁ」
右肩を押さえながら山を走り抜ける幻武は、自分の視界の端に何かが疾走ったのを捉えた。
――あぁぁ! もう。まだ、追っ手か?
舌打ちと共に臨戦体勢を整えた幻武は、しかしそこに天狗ではなく狐の妖怪を見た。妖怪の山では見たことなどない、九尾の狐。
「待たれよ。私は八雲藍、八雲紫様の式神だ」
手でストップの合図を出した狐は、その豊かな毛に包まれた九尾を木々に引っ掛けないように器用に動かしながら、幻武と平行して疾走する。そしてその九尾の合間から、向こう側に控える紫の顔が見え隠れしていた。
「幻武、元気にしてたかしら?」
「紫さん……。ええ、貴方のおかげで親父に追い出されるわ、山の連中はおかしいわで、元気に充ち溢れていますよ」
九尾の後ろで、すきまに腰掛けながら高速移動する紫へと、幻武は皮肉たっぷりの笑顔で答えた。
「そんな貴方に、悲しいご案内よ。幽夢ね、貴方が最後に会った日以来、なんだか体調が優れないみたいで寝込んでるのよ。貴方、お見舞いにでも行ってあげたら?」
「えっ!? 幽夢が……?」
幻武は驚愕に目を見開いた。
あの日以来、結局彼女とは会っていなかった。様子を見に行こうと思いつつ、中々踏ん切りがつかなかったのである。
それが体調を崩していると聞けば「様子を見に行ってやれば良かった」と悔恨するのは当然だ。だが今は、後悔よりも、やはり幽夢の身を案じる気持ちの方が強かった。優柔不断な自分への反省はさておいて、彼は幽夢の様子を紫に尋ねる。
「それで、紫さんは様子見に行ったりしたんですか?」
「いいえ、藍から報告を受けただけよ。なんだか、ご飯も喉を通らないみたい」
「ちょっと、それ危ないんじゃないですか? 紫さんも幽夢の友達なら、看病したりとか……」
「確かに幽夢とは友達だけど、幻想郷の存亡と天秤には掛けられないわよ」
紫の言葉に、幻武は再び驚いて「えっ」と漏らす。幻想郷自体が何やら危うい事を、突然仄めかされては無理もない。彼は先程の友人たちの異変にも、その幻想郷の存亡とやらが関係があるのかと想い、自然と声を潜めた。
「……幻想郷の存亡って……。なにか、大変な事が起きてるんですか……?」
「まぁ、ちょっとねぇ。そういうわけで、もし良かったら貴方が看病しに行ってあげてよ。友達なんでしょ」
「いや、まぁ、友達だけど……って、あっ!? どこ行くんですか!」
「忙しいって言ったでしょ? それじゃ、またねぇ」
紫と藍は速度をそのままに、幻武からどんどんと離れていった。やがて二人の姿が木々の向こうへと完全に消える。
それと同時に、幻武は山から脱出して麓の山道入口へとたどり着いていた。そこで立ち止まって山を振り返ると、紫から聞いた話を思い返して博麗神社の方角へと首を回した。
「見舞い、行ってやるか」
もとより他に行く宛もない幻武は、頼るようにして博麗神社へと足を向けたのだ。
――それが、今より数時間前の話である。
「寒っ」
目を覚ました幻武は、短く叫んだ。何か固いものが後頭部に当たっている。振り向けば、それは博麗神社の賽銭箱であった。それを見て数秒考えると、幻武はようやく自分が置かれた状況を思い出す。自分は、賽銭箱に背中を預けて居眠りをしていたのだ。
「ああ、そっか。掃除してやろうと思って、そのまま寝ちまってたんだ」
頭を摩りながら立ち上がった幻武は、辺りがすっかりと暗くなっている事に目を丸くした。記憶を思い返してみれば、居眠りを始めたのは夕方くらいのはずであったが、随分と長く眠っていたようである。
「はは、こんなに寝過しちまってるとは驚いた」
身体をほぐすように前屈や捻転を繰り返す。彼の身体の傷は、この昼寝によって大分治癒されていたようだった。やがて上空に映し出された綺麗な月を見上げて、その動きを止めた。
月は満月になりかけている。
「良い月だ。これを見たら、あいつも少しは元気になるかな」
幻武は幽夢の休んでいる社務所の方へと顔を向ける。そして晩御飯を作ってやれなかった事を思い出して「やっちまった」と自分の頭を軽く小突いた。――そして、そんな彼の尻に、突然誰かの手が触れた。
「ぎひゃああぁぁぁ!」
飛び上がって驚いた幻武の大声に、その背後に近寄ってきた妖怪も驚いて尻餅をついた。
「だっ、誰だっ?」
「ちょっと~、いきなり大声出さないでよ。私の方が驚いちゃったじゃない」
「うるせぇぇ! お前こそ人のケツをいきなり触るなっ……で、お前……誰?」
目の前の妖怪、外見は小さい女の子のように見える。ただ、その耳と二股の尻尾を見れば、それが猫又だという事は幻武にもすぐ分かった。
猫又はお尻についた砂を払いながら立ち上がる。そして幻武の腰ほどまでの背丈の割に、随分と偉そうに胸を張って自己紹介を始めた。
「私は橙、八雲藍様の式神よ。今日は藍様に申し付けられて、あんたに伝言を持ってきてやったの」
「ああ? 藍っていうのは紫さんの式神……ってことは、お前は“式神の式神”ってことか」
「そうよ~。藍様は私みたいな式神を使えるほど凄い妖怪なの。その藍様を式神にしている紫様は、もぉぉっと凄いんだけどね」
「まぁ、あの人たちが物凄い化物だってのは知ってるよ。それで橙とやら、伝言って何だ?」
「ちょっと人間! その凄い人達の式神である私にも、ちゃんと敬意を払って接しなさいよ!」
「知るかっ! 凄いのはお前の主人であって、お前じゃねーだろ!」
幻武は橙の頭をぐりぐりと荒々しく撫でて、手早く要件を済ますように恫喝した。
橙は内心、震え上がった。何故なら藍からは、ただのお使いであると言われてやって来たはずなのだ。それが、こんな乱暴な人間が相手だとは聞いていない。それでも藍の式神として、人間なぞに舐められてはいけないと、なんとか気丈に振舞おうとする。
「ふ、ふん! その無礼な態度は、特別に許してあげるわ。私は仕事をしに来ただけなんだから。……はい、これが、そ、その伝言よ」
橙が腰に提げた麻袋から取り出したのは、紫色の額に嵌められた小さな手鏡だった。それを受け取った幻武は、物珍しそうに鏡面を覗き込む。
「なんだ、この不気味な鏡……って、うわ!」
突然、鏡から手のりサイズの紫が浮かび上がってきたものだから、幻武は思わず鏡を落としそうになる。それを見て橙が「大事に扱いなさいよ!」と注意するも、幻武は「しょうがねえだろ!」と怒鳴り返して、橙の頭を再びぐりぐりと撫でた。
そんな事はお構いなしに、鏡の上に立った紫の幻影は一つ咳払いをすると、何時もの調子で喋り始める。
『幻武、元気にしてるかしら? 八雲紫よ。手が離せない状況が続くから、鏡に言霊を込めて式神に送らせるわ。でも……麗しい私の姿が見えないのも可哀想だから、特別に映像もつけてあげる』
「そいで、何用ですか」
「馬鹿ね~。それは紫様が予め言霊を込めただけだから、会話なんて出来ないのよ」
「うるせえ化け猫! そんくらい分かっとるわ!」
三度目のぐりぐりを受けて涙目になる橙を尻目に、幻武は鏡から浮かび上がった紫の言葉に耳を傾ける。
『手短に言うから、心して聞いて欲しい。山の妖怪の中に、結界の不安定な事を口実に、幽夢の事を殺そうとしている連中が居る』
「……へっ!?」
『そして、そいつらは次の満月……幽夢が結界を最も維持しづらくなる日に痺れを切らす事でしょう。恐らくは徒党を組んで、博麗神社に乗り込もうとする』
「んな……馬鹿な!?」
突然の報せに、幻武は鏡に向かって唾を散らしながら叫ぶ。
まさか、幽夢が妖怪に恨まれるような事態に陥っているとは、幻武は思いもよらなかった。いや、巫女は妖怪に恨まれて然るべきなのであるが、この幻想郷においてはそれが実際の「殺し合い」になる事など有り得ないと思っていたのだ。
全くの寝耳に水。ただでさえ体調を崩している事に心配をしているというのに、更に妖怪たちが襲いかかってくると俄には信じられない。
『貴方も知っての通り、今の幽夢は妖怪と戦えるような状態じゃない。そして私も幽夢を守れる状況にない。……つまり、妖怪たちから幽夢を守れるとしたら、それは一人しかいない』
無言のままで、幻武は紫の次の言葉を待った。鏡を持つ手は次第に震え始めていた。先程まで口を挟んできた橙も、幻武の真剣な形相に気圧されたのか、口を固く閉じて彼を見上げていた。
『一つ言っておく。これは、本当に命を落としかねない凄惨な戦いになるでしょう。私は貴方と幽夢のやり取りは見てきたけれど、その心の内までは見ることが出来ない。だから、貴方が幽夢の事をどのように思っているのか、それは私には分からない。――私が貴方に“幽夢を守って欲しい”と頼む事は出来ない』
手鏡を持つ幻武の手が、ますます震える。歯がカチカチと小刻みに鳴り始める。夜のそれとは、また違う寒さが身体を覆い尽くし始める。――幻武自身も、己の身体が起こすその反応に驚いていた。
それに構わず、幻影は続ける。
『友達ならば、命を賭してまで救おうとは出来ない。親友ならば、命を賭すかどうか心を揺らがせる事が出来る。……私が伝えられるのはこれだけ。もしも、妖怪たちが襲ってきたならば、一分だけ時間を稼いで欲しい。そうすれば後は……』
手鏡が落ちた。玉砂利に当たった鏡面はヒビが入り、そこから現れていた紫の姿と言葉も、そこで途切れた。境内は再び、一瞬の静寂を取り戻す。
「ああーっ!? 何すんのよ、馬鹿人間!! 大切な物なのに~」
「……うるせぇよ、化け猫」
幻武は乱暴に言うと、賽銭箱まで足取り重く歩いて行く。そして、蓋の上にどっしりと腰を降ろした。両手を組んで、なんとかその震えを抑えようとする幻武は、しかし却って大きさを増していくそれに苛立ちを覚える。
「ねぇ! 私、ちゃんと返事を聞いて藍様に伝えなきゃいけないんだけど。結局、あんたはどうするのよ?」
割れた鏡の破片を麻袋に集め、橙が尋ねる。幻武は虚ろな瞳で目の前の妖怪を睨めつけると、吐き捨てるように答えた。
「返事は一つしかねぇに決まってるだろ。……お前のご主人にも、そう言っとけ。きっと伝わるはずだ」
「ふーん、じゃあ藍様にはそう伝えておこう。それじゃあな、人間」
橙はお使いを終えると、トコトコと小さな足音を立てながら去っていく。それを眺めながら幻武は、未だかつて感じた事のない、濁流のような不快感に苛まれつつ賽銭箱の上で頭を抱える。――まさか己が戦慄で吐き気を催すなどとは、彼は考えた事もなかった。
「ふざけんなよ……。妖怪の群れが本気で殺しにくるだと……? ――か、勝てるわけがない」
彼は、ついに口にしてしまったのだ。己が妖怪と戦う事に恐怖している事を。
奇しくも彼は最近、妖怪の群れにタコ殴りにされたり、山の中で大勢に追い掛け回されたりといった経験をした。今までの友達付き合いでの喧嘩ならまだしも、彼らの本気になった時の恐ろしさというものを、幻武はその身に刻まれたばかりなのであった。
治りかけたはずの右肩の傷が、蘇るように鈍痛をもたらした。頭上に光る美しい月も、今は幻武に恐怖心しか与えない。
「そうだ、俺よりも幽夢の方がよっぽど強いじゃないか。俺が助けなくても、あいつならきっと……」
彼の選択は、逃げる事であった。――いや、逃げるという言葉は不適切である。そうだ、自分はもとより幽夢とはなんの関わりもない人間だったのだから――
幻武がそう結論づけて社務所へと視線を向けた時、彼はふと全く別の心配をした。反対側を歩いていた橙が、神社から出ようとしているのに気がついたのである。
「あっ! おい、そこには結界が……」
前に友達の天狗を連れてきた時、妖怪用の結界が天狗の手を焼いたのを見ている幻武は、見た目は可愛らしい少女の橙が、あのように火傷を負ってしまう事に、生理的な拒絶感を覚えて警告しようとしたのだ。
しかし、その警告の前に、彼女は軽々と鎮守の森へと足を踏み入れ、あっという間にその姿を消した。そこで幻武は、自分の心配が如何に杞憂であったかに思い至って、思わず笑った。
「ははっ、そうだ。あの化け猫は、最初に神社の境内まで入ってきたじゃないか。結界があったら、まずここに入れないんだから……」
そして、口にした自分の言葉によって血の気が引いた。
そう、橙が神社に入れたということはすなわち、幽夢が神社の結界を張れないまでに弱っているという事なのだ。きっと彼女は、自分の身を守る結界を捨ててまで、博麗大結界を必死で張り続けているのだ。
「常に張ってた神社の結界が張れなくなるほど、あいつは弱っているって事なのか……? そしたら今、妖怪なんかに襲われたら……」
気持ちが波立つ。
身を挺して博麗大結界を守り続けている幽夢を、身勝手に殺そうとする妖怪たちに対して。そして、それを見捨てて逃げようとしていた自分に対して。
幻武は拳を握り締め、歯ぎしりをした。まるで先程までの自分に対して叱責をするように。
見上げた月は今にも満ちようとしている。その時は明日であると、天は彼に告げていた。
「幽夢、明日の朝飯も作れねぇわ」
幻武は社務所に向かって侘びの言葉を呟くと、玉砂利を蹴り飛ばして鎮守の森へと走り始めた。
明け方の里は、昼間の活気が嘘のように、静かである。
ただ一人、泥まみれになりながら一晩中走り続けた男が、足を引きずりながら歩く。彼は家に着くと、その施錠の必要すらない古びた戸を勢い良く開けた。
「親父、お袋、話がある」
居間から目を擦りながら起きてきた両親は、家に無事に戻ってきた息子を見て、内心安堵した。
しかし表面上は勘当したはずの息子である。とりあえず怒鳴ってみようとしたが、如何せん眠くてそれどころではない。
「幻武、お前どのツラ下げて帰ってきたぁ……ぁ~あ」
やる気の欠片もみせずに、欠伸混じりに説教する親父に対して、幻武は勢い良く頭を下げた。額が土に汚れる感触を物ともせず、その足元にひれ伏す。――幻武は、生まれて初めて、両親に対して正直に向き合おうとしていた。
彼が戦いの決意を固めた時に、まずやっておかなければならないと思った事。それが、この両親との対話だったのだ。
「親父、お袋。俺は今から死ぬかもしれない。そういう戦いに行かなくちゃならない。どうか、それを許して欲しい」
その言葉に、両親の半開きだった瞼は全開になり、頭は一気に覚醒した。改めて玄関先に座り直すと、親父は腕を組んで息子の真剣な眼差しを見返した。母親も胸に手を当てて、信じられないという顔をした後に、その真意を問おうとする。
「どういう事だい幻武。あんた……もしや、紫のせいで何かごたごたに巻き込まれたのかい」
「違うよ、お袋。これは俺の意思でする事だ。紫さんは、あまり関係ない」
「幻武、ちゃんと俺たちに説明しろ」
親父の言葉に、幻武はゆっくりと頷いた。玄関先に並んだ両親の顔は、今までに見たことがない程に厳格で、それが今の彼には心強く感じられた。おかげで幻武はある意味では安心して、両親にその経緯を話す事が出来た。
「俺は今から妖怪と合戦をしなきゃならない。幽夢の事を殺そうとしている妖怪が、神社を襲いにくるらしいんだ。だから俺は、それを止める。今からでも神社に行かなくちゃならねぇ」
一晩中走り続けた幻武は、疲れのせいか多少混乱し、その話は要領を得なかった。しかし親父は「うむ」と頷いて息子の言葉を受け止めた。
「あの巫女様には、お前の他には守ってくれる人がいないってわけだな。そして、お前は巫女様を守りたいんだな」
「ああ、俺が行かなくちゃ幽夢は死んじまう。いや、俺が行かなくちゃいけないんだよ」
突然の出来事にも両親は、それを落ち着いて受け入れた。親子喧嘩の絶えない上に、とんでもない不良息子の幻武であったが、両親はそんな息子の真剣な思いを無下にするような人間でも無かった。
「分かった。少し待ってろ」
二人は静かに居間へと引き下がった。
幻武は一刻も早く神社へと戻らなければと身体を揺らし、頭の中は焦燥感に囚われていた。だが両親の言うとおりに、玄関先で正座して、二人が戻ってくるのを大人しく待っていた。
「これを持って行け」
まずは親父が、その手に見事な堆朱染めの刀袋を持って、幻武の前へ戻ってきた。そしてそれを、足元に跪く息子へと手渡した。幻武の手に、ずっしりとした重さが伝わる。
「……? なんだこれ、物干し竿か?」
「んなわけあるか馬鹿。中を取り出してみろ」
口を閉じる房紐を解いてみると、中からは刀が現れた。真っ黒な漆塗りの鞘に収められた、二尺三寸もの太刀である。それを目にした幻武は、己の心臓が熱く震えるのを感じた。魂が揺さぶられるというのは、こういう事なのかと思う。だが、それと同時に疑問も浮かんだ。
「なんで家に刀なんてあるんだよ? こんな珍しいもの、幻想郷じゃ、もう滅多に見ないぜ」
「それは我が家の家宝だ。ご先祖様が鬼退治をした時に使っていたものと伝えられている……。俺がちゃんと手入れしてたから、まだ使えるはずだ」
手の中にある刀。これが、あの天下無双の鬼たちを斬り捨てたという逸話。聞いた途端、自分の中にも、その力強い魂が注がれた気がする。今、彼の心には芯が通ったのだ。
「……こんな大事なもの、俺に預けて良いのかよ」
「どうせ俺には使えなかったシロモノだ。それに、妖怪と戦うのに手ぶらじゃ困るだろ。――持って行け」
「……ありがとう、親父」
刀を袋に戻すと同時に、今度は母親が玄関へと戻ってきた。その手にはちょうど、弁当の入るくらいの包みがあった。
「これを持っておいき」
「弁当か? すまねえな、お袋」
「弁当じゃないよ。これ食べたら、あんた死ぬわよ」
「へっ?」
幻武はその言葉に驚いて、咄嗟に包みを開ける。しかし、そこにあったのは至って普通の団子であった。
「団子じゃねえか」
「それは炸裂団子。握りつぶして三秒後に、高熱を発しながら爆発する魔法の団子だよ」
「……はぁ!? なんだって、そんなもんをお袋が……」
「おや、知らなかったのかい? 私もあんたを産む前は、博麗の巫女と一緒に妖怪退治を楽しむ、腕利きの陰陽師だったんだけどねぇ」
「は、初耳だよ! それに、お袋が若い頃の巫女って事は……もしかしてお袋は、楼夢の婆さんと知り合いだったのか!?」
「あら、幻武が楼夢の事を知っていたとはねぇ。あの子も子供を産んでから、ふらりとどっかに居なくなっちゃって……」
幻武は、あの老婆の末路を母に伝えようか一瞬だけ悩んだ。しかし、今はそれよりも幽夢の事に頭を悩ませるべきだと直ぐに思い直す。
両親の応援を受けた彼は、先程までの戦いに対する恐怖心を忘れ去ったかのように、身体も心も軽くなっていた。刀と包み、それらを持つ手が熱く感じられる。
「親父、お袋。それじゃあ行ってくる」
「ああ、存分に暴れてこい。お前には、それしか取り柄がないんだから」
「そうよ、そこでしか幽夢ちゃんにアピール出来ないんだから。頑張りなさい」
「うるせえよ!」
幻武は笑顔で我が家を飛び出した。その手にはかつて鬼を退治したという名刀を、腰には数々の妖怪を退治した特製の団子を携えて。
◇ ◇ ◇
幽夢が目を覚ますと、障子戸の向こうからは陽の光が与えられず、部屋の中は真っ暗であった。
昼過ぎに幻武と少し話をして眠りについてから、どれほどの時間が経ったのだろうかと幽夢は思う。自分の腹具合から考えると、今があの日の夜という事はなさそうであった。
「もしかして、丸一日中寝てたのかしら……」
ふと目線を床の間にやると、花瓶に見た覚えのない花が挿してあった。
その花は、指先ほどの小さくて白い花弁をたくさん開かせている。「可愛らしいお花ね」と口中で呟き、しかし、まだその時期ではないのか、まだ開ききっていない蕾を幾つか見つけてしまう。きっと幻武が置いていったのだろうと思い、その如何にも彼らしい不器用さに笑いがこみ上げてきた。
「あ、幻武……?」
幻武はどうしたのか、外の様子を見ようと布団から這い出ようとした。そして、自らの身体の異変に気付く。
「え……うご……?」
その身体は、金縛りにあったように動かなくなっていた。指先の一つさえも動かない。あまりに衰弱した結果、彼女の身体は、自由に動けないまでに症状が進行していたようだ。
流石の幽夢もこれには慌てて、隣の部屋にいるはずの幻武に助けを求める。
「うっ、嘘……! 幻武、いる? 幻武ぅ~……。ああ、駄目だわ」
その声も、まるで衣擦れのような微かなものしか出ない。彼女の助けを求める声は、部屋の外まで届く事はなかった。やがて、助けを呼ぶことを諦めると、幽夢は再び眠りにつこうとした。
「参ったわね、このままじゃ……」
身体が動かないでいる内に、彼女はやがてうたた寝を始める。――身体が金縛りにあっている最中は、人間は脳が半分覚醒しきっていない状態である。つまり彼女は起きているつもりでも、精神の半分は寝ているのだ。そして、寝ているという事は夢も見る。
「っつ……」
彼女の脳幹に痛みが走った。
その痛みは、彼女の“予感”や“第六感”の前兆であった。それは今までに何度も経験してきた鈍痛。そこから彼女の視覚は、未来に起こる事柄についてを示唆する映像を流しだすのだ。
「……今度は何かしらね」
口中呟いた彼女の脳裏に、やがて浮かんできたのは、逃げ惑う自分の姿だった。空から降ってきた幾つもの鉤爪が、無抵抗に逃げようとする彼女を捉えると、その喉笛を掻き切る。彼女の身体は血に臥して、顔を生ぬるい液体が濡らしていく。地に広がる髪は、それを吸い上げて重くなっていく。そして傍らには、既に事切れている誰かの亡骸。真っ赤な鮮血が広がる境内に、黒い羽がひらりと舞い落ちる。
そんな光景が、暗闇の中で再現された。それはあまりにも露骨な、死の映像であった。
「私を殺そうとする者が、ここに来る……」
うたた寝から目覚めると、彼女はうめいた。――俄には信じられない唐突な厄災。
しかし今までの経験上、彼女の勘は非常に正確かつ具体的に、自分や他人に降りかかる危機を教えてくれた。だから今回も、恐らくそれは的中する。あと数刻もしないうちに、この神社へと敵が襲来し、自分を殺そうとするのだろう。そして今の弱りきった自分では、例え相手が幼子であろうとも殺されるという確信があった。
「身体は……動かないし……。ここで終わり、なのかしら」
彼女は思いのほか潔く、自らの死という運命を受け入れると、静かに目を閉じた。
どうせ身体の動かないまま殺されるのであれば、眠っている間に、せめて自分が気付かない内に殺して欲しい。――今の彼女には、それくらいの抵抗しか出来なかったのである。
◇ ◇ ◇
神社の境内の真ん中で、一人の男が寝ていた。
まるで無防備に大の字になって熟睡する男は、右手に鞘へと収められた太刀を握り、呑気に仮眠を取っているのである。
幻武は両親と別れると、出来る限りの速さで神社まで戻り、境内の見張りにつくことにした。しかし、よくよく考えれば妖怪が活動するのは夜中であり、幻武が神社に着いたのはまだ昼過ぎであった。
そういった訳で、昨晩から一睡もしていなかった幻武は、妖怪の襲来に備えて仮眠を取ることにしたのであった。
幸いにも、友人の天狗たちに山で追いかけられた事で、身体は十分過ぎるほど解れている。いつ妖怪たちが押しかけてきても、彼はすぐさまに臨戦態勢に入ることが出来るだろう。――その勝敗は別として。
「うーん、んぁ~あ……。なんだ、まだ、来てないのか」
幻武は欠伸と共に上半身を起こすと、背中についた砂埃を払った。そして目を擦りながら天上を見上げる。そこには綺麗な満月が浮かび上がっていた。それは幽夢の霊力が最も弱まり、結界が最も薄れる時であると紫は教えてくれた。
「となると、奴らが結界の薄くなった事に気付き……そしてもう我慢ならんと襲撃にくるのは……今!」
幻武は鞘を放り投げた。そこに現れたのは、宵闇の中でも僅かな光源を無尽蔵に増幅させ、妖しくも美しく光る刀身であった。それを一回右手で振り抜くと、幻武はその扱いやすさに驚嘆した。木の棒くらいしか得物を扱ったことのない幻武でも、これほどまでに思った通りの軌道を描けるのは、この刀の質の良さに起因するのに他ならない。
「おい、そこの人間」
「!?」
不意に、境内に彼を呼ぶ声が響く。「来たか」と口中で呟いた幻武は、胃から逆流しそうな内容物を押しとどめる。そして震える手と刀を隠すように、左手を前にするようにして振り返った。そこには、十ほどの黒い影が、満月を背にしながら立っていた。
全身が震える。それはおおよそ、恐怖に依るものであった。だが今の彼には、僅かながらも武者震いも含まれている。
そんな幻武の様子など知る由もなく、影の一つが周りを一瞥し、手に持った山刀を突きつけながら話しかけてくる。
「博麗の巫女はどこにいる? 答えなければ殺す、知らなければ殺す」
「どちらにせよ殺すんかい。……ん、ああ、正直に教えりゃ助けてくれるって事か?」
極度の緊張は、時として身体におかしな挙動を起こさせる。幻武はまるで場違いに、強烈な尿意を催していた。そして「便所にいっとけば良かった」と心底後悔する。
手入れなどされていないだろう山刀の、分厚い刃の先端を見つめながら、幻武は洩れないようにと下腹部に力を込めた。
「我々には時間がない。結界が消え去る前に、奴を殺さなければならない」
「分かった。――知ってるけど、答えない」
答えた瞬間。妖怪の一匹が突っ込んできた。真っ直ぐに、その手にありったけの妖力を込めて。
先走った彼からすれば、景気付けに生意気な人間の頭を握りつぶして、それから巫女を探そうという、軽い気持ちだったのだろう。
しかしその代償はあまりにも大きかった。
まっすぐに向かってくる妖怪の動きを、なんと緩慢なのかと傍観しながら、幻武は身を捩りつつ手にした刀を大きく振るった。それは妖怪の首元に喰い込むと、彼自身の推進力も手伝って易々とその首を撥ね上げた。幻武の手には、驚くほどに何の感触も伝わってこない。
宙を舞った妖怪の生首は、生ぬるい液体を撒き散らしながら玉砂利の上に転がる。首を失った身体は、地面に崩れ落ちて重い響きを立てる。
妖怪たちが呆然とその様子を眺める中、幻武は刀を振り切った体勢のままで大きく息を吐いた。刃に僅か残った血糊、そしてその赤の中にほんのりと映った月の光を見て、幻武は尿意が静まっていくのを感じた。
「……や、殺っちまった」
彼が生き物の命、故意に、殺意を持って、それを奪うのは初めての事だった。刀を持った手が、まるで別人のものに感じる。この異物を、自分の身体から切り離してしまいたい。――思いつつ、唾液の一滴も出ない口中、ざらりとした舌の感触を確かめる。
だが彼の心をつなぎ止めたのは、一人の少女の笑顔だった。髪を濡らして自分へと水を掛けようとする彼女、それが彼の見た唯一の笑顔だった。
「これで、分かっただろ……? 幽夢には、指一本触れさせねぇ気だって事が……!」
幻武は自分に言い聞かせるように言葉にした。手は震え、眼眸は熱く、鼻腔は惨憺な臭いで充満する。今にでも逃げ出したい気持ちを、虚言で押しつぶしながら幻武は再び刀を構える。
「や、野郎!? やりやがった……」
「待て! 奴に構うな、早く巫女を殺せ!」
仲間の敵を討とうと怒声を上げた妖怪たちを、山刀を持つ妖怪が制する。その言葉に従って妖怪たちは、境内を探しまわろうと方方へと散った。
「くっ!?」
幻武はそれを止めようと、とりあえず手近な妖怪へと斬りかかる。強靭な脚力は地面を蹴り上げて、幻武の身体はあっという間に天狗たちの領域へと舞い上がった。すなわち彼らの庭である、空中へと。
「行かせるかぁぁ!」
絶叫で感情を誤魔化し、感情のみで刀を振るった。「ああ?」と無謀なる攻撃に呆れつつ、天狗とおぼしきその妖怪は少しだけ羽を動かして、刀の一閃をひらりと躱す。そして手に持った杖で、空中に身を投じて身動きの出来ない、あまりにも愚かな人間の鳩尾を突き破った。
幻武の身体は力を失うと、くるりと一回転してから地面へと墜落した。それを見下ろしながら、天狗は唾を吐いて溜飲を下げた。
「なんだ? この餓鬼はッ。まぁ、これで……」
だが、飛び去ろうとした天狗の眼下で、その身体を一突きに仕留めたはずの人間が立ち上がる。殺したと思った餓鬼が、何事もなかったかのように立ち上がったのを見て、天狗は直ぐに身構えた。
人間であれば先の一撃で、肋骨を砕かれ、心の臓を打ち破られ、絶命しているはずである。――つまり、この餓鬼は人間ではなかった。あるいは、極端に自分たちに近い人間である。
数百年は修羅の世界にその身を置いてきた天狗が、幻武の異常に頑丈な身体へと警戒心を強める。その自分の命を脅かすような戦いの予感に、彼は興奮していた。これこそが、自分たち妖怪の生き甲斐なのだと、愚かな戦いを挑んでくれた人間に少しの感謝をする。
「仕方ない、次は喉笛を突き破ってやる。人間は、息が出来なければ死ぬ」
「おぉぉぉ! 掛かって来ぉぉぉい!」
大声を張り上げて必死の形相で叫ぶ幻武。だが一見、決死の覚悟の表れに感じられるその咆哮。実は鬼気迫る演技によるものだった。幻武は自分の思うとおりに戦況が進んでいる事に、内心ほくそ笑み、落ち着いて妖怪と対峙する事が出来ていたのだ。
彼として望ましいのは、妖怪たちと一対一で戦っていく事である。まだ自分の事を“人間の餓鬼”と侮っている妖怪たちは、今も仲間の加勢に向かう事なく、幽夢を探すべく境内を飛び回っている。
一対多数にさえならなければ、自分を舐めている妖怪相手には、十分渡り合えるという自信が彼の中にはあった。
ただ問題は、こうして一対一で戦っている間に、幽夢のいる場所を妖怪たちに探り当てられる事である。幽夢が襲われてしまえば元も子もない。それ故に、天狗の警戒心をあまり引き上げないように注意しつつ、しかし時間を掛けずに戦うしかなかった。
「はぁっ!」
気合の一声と共に繰り出された杖の刺突は、幻武にとっては余裕を持って見切れる早さだった。杖の腹へと刀の先端をあてがい、そのまま刀を右に振る。すると杖は刀に沿うようにして逸らされる。腕を伸ばしきって無防備になった天狗の顔が凍てついた。
「っしゃ!」
幻武はそのまま踏み込むと、天狗の脳天へと鋭い刃を叩き込んだ。刃は固い頭蓋を切断し、天狗はその脳髄を噴出させながら杖を地面に落とした。
幻武は斬り合いの最中においては、思いのほか冷静である。汗が噴き出し、恐怖に身体が震えるのは、相手の絶命を見た後である。
「あぁ、がァ、馬鹿、な……」
人間に負ける事など想像すらしていなかった天狗は、慢心したままに境内で果てる。
幻武は血払いをすると、すぐさま天を仰いで妖怪たちの動きに目をやった。最も危険なのは、社務所の存在に気付かれる事であるが、それも時間の問題である。境内を飛びまわる天狗たちは、今にも社務所の方へと目を向けそうであった。
「……一か八か、やるしかない」
幻武は、一匹の妖怪が社殿の方へ飛んでいったのを見つけて、そこに向かって駆け出した。
「行かせるかぁぁぁ!」
有らん限りの声を張り上げながら、幻武は腰に括りつけた包みへと手を突っ込む。そして中から団子を一つ取り出すと、それを思い切って握りつぶす。その感触は団子というよりも、まるで粘土のようであった。
「これ、ちゃんと起動してんのか……? って熱ッ!? く、喰らえっ」
握りつぶした団子が発熱したのを確認し、幻武はそれを社殿へ向かっていた妖怪へと投げつけた。彼の凄まじい膂力によって射出された団子は、一つの弾丸のように空を切って妖怪へと突き進んだ。
後ろで人間の餓鬼が何やら騒いでいるくらいにしか思わず、振り向くことさえしなかった妖怪は、その団子を背中に直撃させられた。団子は潰れて妖怪の背中へと粘膜のように広がる。その嫌な感触を肌で感じて、妖怪はようやく自分が攻撃された事を知った。
「ん? なん……って……あ!?」
妖怪が背中に付いた団子の熱さに驚き、それを取ろうと腕を背中に回した瞬間。団子は真っ赤な光を放ちながら、まるで花火のように爆散した。そして、それを至近距離で受けた妖怪もまた、丸焦げになって地面へと墜落していく。
その強烈な爆発音には、流石の妖怪たちも足を止めて、その光のあった方へと注目した。
「ぬぅ、また同志がやられた!? ……そうか、分かったぞ! あの建物の中に巫女がいるんだ!」
その一部始終を遠くから見ていた妖怪が、社殿を指さして仲間を向かわせる。それは、幻武の思惑通りであった。
慌てふためいて妖怪を止めてみせる事で、まるで社殿の中に幽夢が潜んでいるように見せかける、時間稼ぎの作戦。それは見事に成功した。幻武は更に、その社殿の中にこそ守るべき人がいるかのように、慌てて賽銭箱に向かって走っていく。
「ここは通さねぇぞ!」
無人の社殿へと続く扉を背にして、幻武は刀を振りかざし宣言する。集まった七匹の妖怪は、手にそれぞれ得物を構えながら幻武へとにじり寄った。
そこで、一人の妖怪が仲間へと注意を促した。
「おい、油断するなよ! こいつは既に三人もの同志を殺している。ただの人間の餓鬼だとは思わない方が良い!」
「……それもそうだ。よし、ここは全員で一斉に殺しにかかろう」
幻武は目の前の視界が揺らいだの感じた。
ついに妖怪たちが、慢心を捨て結束してしまう。そうなれば幻武には勝ち目はない。だが、なんとか幽夢を守り切る事が出来れば、それが自分にとっての勝利なのだ。――そのように幻武は言い聞かせ、最後の力を振り絞る。
こうしている間に、幽夢が体調を快復させるか、もしくは異変に気付いて遠くへと逃げるか。そうしてくれている事を、ただ祈るばかりである。最早、自分が生き残る目はないのだ。
「掛かってきやがれ!」
幻武は左手で団子を握りつぶした。それを見て、先程の炸裂団子の威力を見ていた妖怪が青ざめる。
「あの左手の爆弾、強力だぞ!」
注意を受けた仲間たちは、賽銭箱の前から一斉に後方へと飛び上がった。
幻武は一歩退避が遅れた妖怪を目ざとく見つけると、それに発熱を始めた団子を投げつけた。
「くそっ! 避けれん!?」
妖怪は手に持った盾で団子の直撃を防いだ。だが数秒後の爆発は、その盾を貫通して妖怪の身体を消し飛ばす。妖怪の持っていた鉄の盾と剣がひしゃげて、その残骸を雨のように境内へと降らした。
「奴に爆弾を握らせるな!」
一斉に襲いかかる妖怪は、幻武に爆弾団子を使わせまいと一気に間合いを詰めてきた。
団子を握って放るには、僅かながらも隙が必要である。攻撃をされている間には、腰の袋へと手を伸ばす余裕がない。
「……もう、限界か……!」
幻武の目から闘争の炎が消えた。彼の心が、諦めという名の泥土に呑み込まれ始めた。
妖怪たちの繰り出す刃先を、幻武は辛うじて刀で受け流す。しかし、死角をついてあらゆる角度から同時に攻められ、反撃の機会もなければ、防ぎ切れる時間もそう長くはない。
「っぐぁ!」
不意をついて、右の脇腹を何か冷たいものが引き裂いた。反撃の一振りをその出所へと放つが、それが致命的な隙となって、正面から強烈な拳を顔面へもらった。しかも、反撃すら空振りだ。裂かれた腹は途端に灼熱のように熱くなり、刀を持つ腕が急激に重くなる。
よろめいて扉に背をぶつけた幻武の身体に、追い打ちの刃が刺さる。腕や刀を盾にして致命傷だけは避けたが、それは決着の一撃であった。
「ぁあ……」
もう彼には、何もする事は出来ない。刀を地面に落とした幻武は、とどめを刺されるのをただ待つしか無かった。流石の彼も、その明確な死の宣告には、涙が溢れでてくるのを抑えられない。だが、決して敵にそのような姿を見せるなと、誰かが言った気がして、なんとかそれを引っ込めた。
幻武の戦意喪失を見て取り、妖怪たちは勝利を確信して刃を止めた。連中の中で最も力の強いのであろう妖怪が、仲間の視線を受けて一歩前に出る。その手に持った山刀が、幻武の首筋にぴったりと合わせられた。
「巫女の場所を言え……。その背後の扉の向こうに、本当にいるのか?」
「…………」
幻武は無言であった。
もちろん「いるぜ」と虚言を吐いても、よもやそれを真に受けるような妖怪たちではなかったし、どちらにせよ空の社殿を見られれば露見すること。幻武が何をしようとも、ほんの数秒だけの時間稼ぎにしかならない。
「答えぬ、か」
ふと目線を上げると、幻武はある事に気付いた。――堅く口を閉ざす天狗の目は、敵意や殺意には染まっておらず、むしろ友好の色を示していたのだ。
「坊主、お前は生まれる種族を間違えた。……お前は、俺たちの味方になるべきだったのだ」
「俺の知った事かよ」
最後の言葉にしては、ぶっきらぼう過ぎたかな。――幻武はそう思いながら瞳を閉じ、妖怪の繰り出す刃が己の首を撥ねるのを待つ。
もはや、自分が助かろうとは思っていなかった。だが死の恐怖は彼の膝を震えさせ、否が応にも瞳の奥から再び涙を呼びこむ。しかし既に、彼は心の中に依り処を見つけていた。
これで、幽夢が助かったと思うのだ。また元気になって、あの笑顔を幽夢が取り戻してくれると思えば、彼の恐怖心は和らいでいく。惜しむらくは、その笑顔を、もう自分は見られない事だった。
――首筋に一瞬、冷たく尖った金属が当てられる。そして、それが空を切りながら一旦離れて……
瞼を貫く閃光によって、彼は自分が助かった事を知る。瞼を開いた彼の瞳には、社殿の天井を突き破り、妖怪たちを天辺から貫く光線が映った。
否、その時の彼には、あまりの眩しさで事態を飲み込む事が直ぐには出来なかった。光が収まると、妖怪たちは苦悶の表情さえ見せる事なく、その不意打ちによって絶命していた。天から降り注いだ閃光が、自分の命を救ったのだ。
「……!?」
事切れた妖怪たちが地面に伏すのと同時に、幻武は慌てて賽銭箱を乗り越えて、社殿の前に躍り出た。振り返り見上げた上空では、九尾の狐が両袖に手を突っ込みながら、こちらをじっと見下ろしていた。
「八雲……藍、だったか」
己が死の淵から逃れ得た事に、未だ実感が沸かないながらも、幻武は自分の身を助けてくれた妖怪の名を呟いた。藍はゆっくりと幻武の元へと降り立つと、まるで幻武が橙にしたように、その頭をぐりぐりと撫でる。幻武はそれに抵抗をしなかった、する気も起きなかった。
「良く巫女を守ってくれた。約束の通り、一分の時間を稼いでくれたな」
「……俺は貴方を当てにしていたわけじゃ、ない」
自分の頭を撫でる手をようやく振り払い、幻武は賽銭箱の方へと戻っていった。
彼はすっかりと忘れていたのだ。あの鏡から現れた紫が言っていた“一分”という制限時間の事を。そんな自分の失策を棚に上げて、幻武は無性に藍へと当たりたくなった。
「それで、なんで一分も俺が戦わなきゃいけなかったんですか?」
幻武は賽銭箱の裏に落ちていた伝家の宝刀を拾いあげると、そのまま賽銭箱に腰を掛ける。そして、九尾の狐へと恨みがましそうな視線を送る。対して藍は、苦笑しながら弁解するように説明した。
「紫様と共に、結界の維持作業が忙しくて手が離せなかったんだ。お前が戦ってくれなければ幽夢は死んでいた。だが一分だけ時間を稼いでくれた事で、私が駆けつける事が出来た」
「……先に一分だけ時間稼ぎしろと言ってくれれば、もっと痛くない戦い方をしたのに……。あっ、最初に言ってたのか」
「っと。すまんが、そういうわけだ。早く紫様の元へ戻らなければならないから、これで失礼するよ」
藍は幻武に近寄ると、その身体に掌をかざして、まるで何かを探すように手を動かした。幻武が気付いた時には、全身に開けられた幾つかの刺突跡からの出血が止まっていた。どんな妖術や魔術の類かは分からないが、とにかくその治癒能力には幻武も息を飲んだ。ただ傷は治っても、痛覚だけは燻るように残るようで、未だにじくじくとした痛みが彼の全身を苛んでいた。
「ふむ、良いかな? これで死ぬことはないだろう。それじゃ」
「……ああ、ありがとう。どうだい、貴方の家の猫に、これでも」
「ふっ、遠慮するよ」
藍は差し出された包みを受け取らずに、軽やかに空へと舞い上がった。そして慌しくどこか彼方へと飛び去っていく。
それを見送った幻武は、やがて全身の痛みに耐えるのも億劫になった。まず、賽銭箱の本来硬貨が通るべき梯子へ刀を突っ込む。次に団子の入った包みを、境内の真ん中へと放り投げる。そして、賽銭箱の腹に背中を預けて尻餅をついた。
飛びっきり大きな爆発音と爆風を肌で感じながら、幻武は静かに目を閉じた。戦いは終わって、少年は休息に入ったのだ。
◇ ◇ ◇
目を覚ました幽夢は、不思議と前夜の疲労感からすっきりと抜けだしている事に驚いた。まるで狐につままれたような感覚だったが、おかげで清々しい朝を迎える事が出来たのだ、と喜んだ。飲食をしていない事による、多少のふらつきはあるものの、布団から這い出て立ち上がる事も容易であった。
そして幽夢は布団の上にしばし棒立ちで、昨晩に自分が感じた映像を思い出していた。結局、こうして無事に朝を迎えたということは、あの夢は予言でも予感でもなかったのだ。あれは、ただの悪夢だったという事になる。
「なんだ、結局襲撃なんてなかったじゃない。私の勘も鈍ったのかしら」
拍子抜けしたと同時に、あのまま死んでいたらこの清々しい朝は迎えられなかったと思い、昨晩ふいに諦めて目を瞑った自分を叱咤したくなった。
「久々に、朝日が拝めるわね……」
障子戸を開くと、そこにはいつもの朝の光景が広がっていた。木々で囀る小鳥たち、琥珀色の光彩を放つ朝日、そして鼻腔を満たす火薬のかほり。
「いやいや、何これ?」
凡そ神社には似合わない匂いに、幽夢は首を傾げながら縁側へと足を運ぶ。
そこから覗く境内は、遠目から見ても決して平和な様子とは言えず、何かしらの激しい戦闘があったようにしか見えなかった。
まさか昨日の予感が的中したのではないかと思い、幽夢の足取りは焦りに早くなる。もし戦いがあったとすれば、その敵と戦った“誰か”は極一部に限られるからだ。
「……これは……!?」
境内に出た彼女の目には、驚くべき光景が広がっていた。そこら中に散った血痕、境内のド真ん中に出来た大きなクレーター、社殿の天井に開いた大きな風穴。だが、それらの物へと目もくれず、幽夢が一番に駆け寄ったのは、賽銭箱の前に座る人影の元であった。
「幻武!」
裸足のまま賽銭箱の前まで駆けつけた彼女は、枯れ枝のようにやせ細ってしまった腕で幻武の肩を揺する。彼女の予想通り、ここを襲撃した敵と戦ったのは彼だった。
血で汚れた境内の中、一人賽銭箱に寄りかかって目を閉じた姿は、脳裏に最悪の事態を想定させる。その痩せ細った身体のどこからそんな力が湧いたのか、幽夢は肩を握る手に力を込め、唇を震わせながら叫ぶ。
「ちょっと幻武! ……生きてたら、返事しなさいよ!」
「う……ちょ、痛い痛い」
目を覚ました幻武の目に飛び込んできたのは、肩に開けられた穴を、さらに穿くらんばかりの勢いで自分を揺する幽夢。その顔が、やがて涙混じりの笑顔になるのを見て、彼はようやく満足した。――昨晩の自分の行為に対して、正当な報酬が支払われたと思って。
「おはよう、幽夢……!」
「え? ああ、お、おはよう……って、それより!」
続いて幽夢は、賽銭箱に突き立てられている刀に目をやり、幻武の顔をまるで責めるような瞳で見つめた。
「幻武、貴方、これ……」
「ああ、そいつは親父が持って行けって渡してくれたんだ。意外や意外、ナマクラじゃなくて、本当に大した名刀だったよ」
「貴方、もしかして……私を守るために、一晩中……」
幽夢が鼻を啜りながら掠れた声を出す。対して幻武は明るく返した。
「へっ! あんな妖怪なんぞ、俺の敵じゃなかったわ。余裕、余裕」
だが幽夢も、それは見え透いた嘘と分かっていた。だから彼が何故、自分の為に命を掛けて戦ってくれたのか。その理由について考えていた。
どうして、幻武はこんな満身創痍になるまで、私の為に戦えたのだろうか? 以前言ってくれたように、自分が彼にとって“友達”だからなのだろうか。友達とは、命を掛けてまで自分のことを守ってくれる存在なのだろうか。
人間の友達などいた事のない幽夢には、それが分からなかった。だから理由が分からずに頭を悩ませる。
結局、その答えは見つからない。だが一つ答えがあるとすれば、それは見舞いに来た時に、彼が漏らした台詞にあるのではないかと考えた。
「……責任なんて、感じなくて良いって……言ったのに」
「責任なんて、感じちゃいねえよ。ただ……俺がお前を守りたかったから、勝手にやっただけさ」
その言葉に、幽夢はきょとんとする。そして、先程まで必死に理由を考えていた自分が馬鹿らしくなって、意味もなく溢れそうだった涙も引っ込んでしまった。
「あーあ! これで遂に、貴方に借りを作っちゃったわね」
幽夢は腰を折って屈むと、幻武の手を取って立ち上がらせようとした。
「わぁ、何するんだ?」
「取り敢えず、手当てをしましょう。それで貸し借りはチャラよ」
「はは、早速、貸しがなくなっちまったな」
幻武は刀を左手で握ると、それを大事そうに刀袋へと戻した。そして幽夢に手を引かれるままに、社務所へと連れていかれる。
心なしか、自分の手を握る彼女の掌が、以前のように力強く感じる事が出来て、幻武はようやく安心した。
「さぁ、服脱ぎなさい」
居間に連れてこられた幻武は、上半身を裸に剥かれて正座させられる。幽夢は戸棚から救急箱を取り出すと、その中から薬や包帯を取り出した。
「神社の薬は良く効くのよ」
そう言いながら切り傷に塗りこまれていく薬は、本当にその場で効き目が出たように幻武の痛みを和らげた。一方で手当てをしている幽夢は、その身体に刻まれた傷跡が、とても昨晩に負わされたものとは思えないほど、既に塞がり掛けている事にただ喫驚した。
「貴方って本当に化物ね。もう血が止まりかけてるわ」
「あ、ああ。頑丈さだけが取り柄だからよ」
狐に傷を治してもらった事が幽夢に知られたら、折角治療をしてくれているのに気分を悪くするかも知れない。その様に思って、幻武は紫たちの干渉を敢えて伏せることにした。
「それじゃ包帯巻くから、腕上げて」
「ああ、頼む」
腕を取られて真っ白な包帯できつく縛られる間、幻武は幽夢の容態がすっかりと良くなっている事を改めて確認した。顔色も血色が良くほんのり赤らんでいるし、気分も非常に良さそうに見えたので、間違いない。とても、昨晩まで魘されて寝込んでいた人間には見えない。
「お前、元気になったみたいだな」
「そうね。もしかしたら、貴方のおかげかも知れないわ」
「そうか。そいつは良かった」
治療を終えた幽夢が救急箱を戸棚へと戻す間、幻武はその後姿を見て頭を悩ませていた。その悩みは、実のところもう大分前から彼の心の中にあった悩みである。それが今、命を失い掛けた後だからこそ、激しく再燃していた。――あの日、天狗を連れて神社に来たときから、今この瞬間まで燻り続けていたもの。
「ねぇ、幻武。お風呂焚いてあげようか? 私の家の、特別に入れてあげても良いわよ」
「あ、いや。薬塗ってもらったばっかだし、今は、大丈夫だ」
「……そ、それもそうね。ごめんね」
「いやいや、なんか俺こそ、すまねぇ」
彼は、ついに決心した。きっかけなどはなく、それはただ自然と結論に至った。そして、戸棚から何かを取り出そうとしている幽夢に対して、一呼吸置いてから切り出したのだ。
「なぁ。幽夢、覚えてるよな。俺が初めて、この神社にやってきた時の事」
「ええ、覚えてるわよ。天狗と一緒にやってきて花見がどうとか……」
振り返った幽夢は、茶葉の入った籠を取り出し急須へと摘み入れる。そして10歳の誕生日祝いに紫からもらった魔法瓶の頭を押しこみ、そこへお湯を注いだ。僅かに時間を置いてから、二人分の湯のみへとお茶を注ぎ、その片方を幻武へと渡す。
受け取った幻武の手が、緊張で震えているのに幽夢は気付かなかった。
「実はアレさ。別に、花見しに来た訳じゃなかったんだよ」
「……えっ! そうだったの? じゃあ何しに……」
「幽夢を見る為だよ」
湯のみを握ったままの体勢で、二人の動きは止まった。
流石に雰囲気を察して、幽夢も彼が何を言わんとしているのか、分かりかけてしまった。唇を小刻みに震わせながら、なんとか笑顔を作ろうとする。しかしそれが上手くいかずに、逆に動揺が露見してしまっている。幽夢は、ちゃぶ台に視線を落としつつ、小さな声で沈黙を破る。
「わ、私を見にって……っ、どういう意味?」
「ああ、前々から美人って噂だった博麗の巫女を見てみようって、天狗たちを誘って神社に行ったんだ。花見なんて理由は、その場で口をついて出たデマカセさ」
「……それで、実際に見た博麗の巫女は、どうだったかしら?」
「噂通りの美人だった。それで俺は、一目惚れしちまったみたいなんだ」
なんだ、これは。――二人は互いに思いながら、とりあえず茶を啜った。
まるで刃を胸元に押し付け合いながら、どちらかが口火を切るのを待っているかのような、異常な緊張感であった。幻武は今までのどんな修羅場よりも心臓を高鳴らせて、救援を求めるように幽夢の瞳を見た。だが彼女に許す気はないようだった。「そっちから来なさいよ」――と彼女の瞳は言っていた。
「そ、それで……」
「それで……?」
「俺は人間の友達が少ないから、最初はただ友達になろうと思って、会いにいったりしてた。でも関わっていく間に、俺はどんどんとそいつの事が、気に入っちまったんだ」
「どういうところが、気に入ったのかしら」
「最初は酷い奴だと思ったよ。女なのに俺よりよっぽど強いし、俺が馬鹿なのをいいことに嫌味ばっかり言ってきたり」
「そりゃ、酷い女ね」
「でも、本当はそうじゃなかったんだ。あいつは人に凄い気を使って、そのせいであまり人とも関わる事が出来なくなって。でも俺の前だと、それがないっていうか、それが寧ろ魅力的な、そいつの本来の性格なんじゃないかって思えて……」
次第に幻武は熱暴走でも起こした機械のように、呂律が回らなくなり、紡ぐ言葉も支離滅裂になり始めた。しかし、それに負けないくらい顔を赤らめた幽夢が、ようやく助け舟を出してあげた。
「ふーん、それで。結局、貴方は何が言いたいのかしら」
幻武は観念する。
大きく鼻から息を吸い、一旦目を閉じて。斬り込む瞬間のように目標をしっかりと、その瞳に映して。
いざ、斬り込んだ。
「幽夢、俺はお前の事が好きだ」
声は掠れるようで、語尾は震えてしまった。顔はきっと緊張で、情けなく歪んでいただろう。これが真剣勝負なら、まるで無様な空振りだ。相手に無防備に身体を晒すような大きな隙だ。
「…………!」
痛恨の失策に歯を食いしばり、まるで致命傷を負ったかのように幻武は瞳を閉じた。
対する幽夢はその告白を受け、平然とお茶を一口啜る。
そして、静かに立ち上がった。
彼女を見上げて、幻武は愕然とする。彼女は幻武に見向きもせずに、障子戸の方へと歩いていくのだ。だが彼女を後ろから呼び止める訳にもいかない。
自分の思いは通じなかったという事実に、幻武は打ちひしがれるしかなかった。
「……ぁ」
やがて障子戸を開けた幽夢は、振り返る。その顔が満面の笑みだったのに気付くと、幻武は口を開けて呆けた。
「とりあえず、最初のデートは妖怪の山にでも行きましょうか」
小走りで縁側を掛けていく足音を聞きながら、幻武は全身の力を失って畳に伏した。その瞳からは本人も理由の分からない涙が流れ落ちていた。
幻武はそれを、幽夢に初めて勝った事による、嬉し涙だと思うことにした。
◇ ◇ ◇
二匹の妖怪が、神社の遥か上空から、その様子をしかと見届けていた。
「だから言ったじゃない、ねえ?」
「何がですか」
「“友達ならば、命を賭してまで救おうとは出来ない。親友ならば、命を賭すかどうか心を揺らがせる事が出来る。愛する人ならば、迷わず命を賭して救おうとするだろう”って。うふふ」
「後から付け足したって駄目ですよ。紫様、幻武殿には全く期待してなかったじゃないですか」
「あら、そんな事ないわよ? 期待もしてない輩に、大事な友人の事を任せたりするもんですか」
「友人、ですか。――それは幽夢の事ですか? それとも、この幻想郷の事ですか?」
式神の問いには答えを返さず、紫は眼下に全てを見下ろす。幽夢を、神社を、そして幻想郷を、ただ満足気に眺め続けているのだ。
――これが幽夢と幻武が出会った時の話。幽夢が孤独という病から解き放たれた話。
楼夢さんが亡くなるくだりは流石に唐突過ぎる気がします。
そこからのお話の流れも若干性急になっている印象。
そこら辺を払拭できるのであれば、例えあと200KB文章が増えようが喜んでお付き合いしたのですが。
今の所は物語の展開や登場人物達に対して、好感や期待以外の感情は抱いていません。とっても幸せ。
この大河ドラマの結末、作者様がどう料理されるのか楽しみにお待ちしています。
ちょっと文章が硬い……単調すぎるかなーと思わないこともないですが、それはそれ。
霊夢が主人公になるお話というのは、「幽夢が」いなくなるまでのお話という意味なのか、それとも、幽夢がいなくなり、「霊夢が」主人公になるまでのお話なのか……最終的に幽夢の物語のみで終わるのか、霊夢の視点まで交えられた「博麗の巫女」の物語になるのかが個人的に少し気になるところですが、そこらへんはじっくり続きを待ちます。
また、上で述べられているように、楼夢が亡くなるあたりからか、それまでのじっくり具合に比べてやや速度が増してしまった感じがありますが……うーん、これもまあ、まだ四篇のうちの一つということで、今後別視点で補完されるかもわからないので、やっぱり続きを待ちます。
つまり総じて続きを待ちます。なんかすごい長くなりそうですががんばって!
幽夢のためとはいえ少し幻武が気の毒である
たしかに今は幸せなのだろうけれど
少し性急過ぎるシーンもあったかな?とも思いますが、描かれるべきシーンはしっかり押さえられていると思いました。
続きがすごく楽しみです!
オリキャラたちに好感が持てますし、作品世界もよく描かれている。
一つの話の区切りとして、しっかり満足感を残してくださいました。
これから話がどう転んでいくのか楽しみでなりません。
旧作設定は関与しないようですが、玄爺が出てくることを期待していたり。
続きに期待します。