夜明けとともに降りはじめた雨は、昼過ぎにはその勢いを増し、夜半になっても止むことがなかった。
幻想郷において夜闇と雨雲の合一は、暗黒の訪れを意味している。人里を離れてしまえば月明かりと星明りのみが頼りとなる世界で、それらがないのだから当然だ。
その漆黒だけが包む世界を、風見幽香はひとり歩いている。
谷川の流れる音も、虫の鳴き声も、鳥のさえずりさえも雨音にかきけされる中、一寸先も見えぬ無明を気配と足取りだけを頼りに往く彼女の口元には、薄く笑み。
妖怪にとって暗黒は父、夜は母ともいわれる存在だ。人間ならば慄然とするようなこの光の無い世界も、周囲を満たす瘴気も、彼女にとっては安らぎ以外の何者でもない。
最近は、と幽香は思う。
最近の妖怪は純然たる暗闇に慣れていないものが多い。闇を操る妖怪ですら自らが展開した闇の中で方向感覚を誤るほどで、妖怪の山に住むものたちの中にも、河童たちが設置した常夜灯の輝きに慣れてしまったものが多いという。
妖怪としての堕落。魔の刻限こそ自分たちの領域のはずであるのに、そのときに本来の力が出せぬことほど滑稽なことはない。だがそれほどまでに妖怪は平和に慣れてしまっていた。
あの女が幻想郷と外の世界を隔絶しようと考えたのも無理ないことだし、最近になって弾幕での擬似的な決闘などという茶番をシステム化したのも、妖怪の蛮性を失わせないためであるのは想像に容易い。
回りくどいことだと思うが、それが彼女のやり方なのだ。
少し愚痴っぽいことを考えながら。それでも上機嫌で歩いていたが、周囲とは違う風の流れを感じ、感覚の源へと顔を向ける。
つい目を細めて暗黒の先を見据えようとするが、見えるはずも無い。だが彼女には分かる。視線の先にあるのは洞穴(ほらあな)で、その奥行きはあまりないだろうと。
ならばこれも一興だろうと彼女は傘を閉じ、洞穴の中へと進んだ。そしてスカートが汚れるのも構わずに地べたに座り込むと、外を眺める。
当然、視界を支配するのは絶対の黒だ。一切の変化が無い闇の中、洞窟に反響する雨音が不協和音となって彼女を包む。
ただ、闇だけが広がる世界の中に音だけがある。視覚の阻害が触覚をあやふやにし、雨が周囲の匂いをも遮断するため、聴覚だけが敏感な自分。
そういえば闇という字は、門構えに音があてられている。
古代の人は廟を建てて門を閉ざし、その中で祈祷をして神の意を聞こうとした。そして得られたものを「神の音なひ」と呼んだ。
闇とはすなわち、閉ざされた世界の中で神霊と出逢うことを指している。ならば、この洞窟の中でひとりこの場にいる自分も、何かと出逢えるのではないか。
ふとそんなことを考えて彼女はほくそ笑む。
こんなに闇が美しい夜なのだ、自分以外にも上機嫌で出かけているものがいるに違いない。ならば…と考えかけたところで、幽香は何かに気づいたように、眉を動かした。
「ん…」
夜の闇と雨音だけの世界に変化はない。
だが、彼女には分かる。眼前の暗黒から何かが近づいてきている。
ざわざわとした気配。それはひとつでありながら複数のようにも感じられ、ゆらゆらと揺れるような印象を受けた。
「誰?」
答える言葉は無い。
ただ絶対の暗闇の中で何者かがゆらり、ゆらりと歩んできている。
「誰、かしら」
ずいぶんと近づいてきたその気配は、応えるように蠢いた。感じたのは、ひとつの核を中心に広がるいくつもの視線。無数の目が、闇の中で幽香を見つめている。
「ああなるほど…『あなた』だったのね」
相手は笑ったらしい。自分に向けられた視線が緩むのを、彼女は感じる。
「ということは、あなたは『わたし』に用があるのね。ま、好きになさい」
瞬間、揺らめく気配。彼女の眼前で『あなた』と呼ばれた闇が、確かに口を歪めた。
そして音もなく、消失する気配。最初からなにもなかったかのように、闇と雨音だけが支配する世界が戻ってきた。
「ふふ…」
浮かべた笑みから、笑い声がもれる。
予想していたものとは違ったが、面白いものがやってきた。やはり闇の深い夜は退屈をさせてくれない。
普段は会えないようなもの、見えないようなものたちがここぞとばかりに活動を開始し、闇にまぎれて跳梁跋扈するのだ。
しかしそれだけではつまらない。やはり夜は妖怪の時間、ここは妖怪と出逢うべきだ、などと手前勝手なことを考えつつ、彼女は果てなき闇に向けて口を開いた。
「ねぇ、貴方もそうは思わない?」
とはいっても応えるものなどいるはずもないが
「いきなり同意を求められても、困りますわ…」
別に困った様子ではない涼しげな声が応えると、同時に暗黒によどみが現れ、空間の狭間が開かれる。無数の瞳が漂うその中からけだるげな様子で出てきたのは、狐火を引き連れた八雲紫。
闇の中、青白い炎に映し出された彼女は軽やかに一礼をすると、洞穴の中へと入り、幽香の隣に座り込んだ。
「ふぅ。雨さえなければ最高の陽気ですのにねぇ」
「あらあら…雨は嫌い?」
「外を出歩く分には。部屋の中から眺める分には好物ですわ」
「そんなこと聞いたら藍はがっかりするんじゃないの。彼女は雨が好きだし」
天気雨のことを狐の嫁入り、あるいは狐雨という。狐と雨とは昔からつながりが深く、藍もまたそのひとり。
「好みは変えられませんもの、致し方なし、ですわ」
しれっと答える紫に、幽香もまぁそんなとこだろうとうなずく。その幽香を狐火で照らし出すと、紫も何かに合点がいったようにうなずいた。
「何、かしら」
「いえねぇ、やっぱり貴方のところに来たのだなと確認していただけですわ」
「ああ…『あなた』のことね。ご明察の通り、つい先ほどまでいたわよ」
その辺にと洞穴の入り口を指して幽香は答える。
「まったく、困ったじゃじゃ馬ですこと。他人様まで巻き込むとはね」
気だるげにため息をつく紫も、その傍らで仕方ないじゃないと笑う幽香にも、狐火に照らし出されて映るべき影が存在していない。
ふたりの影は一体どこへ行ってしまったのか。
「こんなに闇が素敵な夜だもの。はしゃぎたくなるのは、妖怪なら当然だわ」
おそらく今頃ふたりの影は何処かの闇の中を回っているのだろう。普段であれば影だけが動くなどそれだけで目立つことだが、この漆黒の中では影がどこにいようと分かるものではない。
「それはそうですけれども、ねぇ」
「自重しろというの?」
「そうは申しませんけど。わざわざ雨の中、出かけずとも良いと思いますの」
面倒くさそうにしているが、こうして外に出てきたということは、気になったということ。意外とまめなものだと幽香は思った。
「それで、また追いかけるの?」
「そうですわねぇ…これからまた雨の中あちらこちらウロウロとするのも、少々手間ですし…」
指先を口元にあて、紫は中空を見上げることしばし。
「ここは『わたくし』と『あなた』に対抗する、というのはいかが?」
紫の手には、いつの間にか徳利と猪口がふたつ握られており、幽香に対してウィンク。
「便利な能力ねぇ。まぁせっかくのお誘いですし、ご相伴にあずかるとしましょ」
そういわれて断る手はない。幽香は差し出された猪口を受け取り、微笑み返した。
幻想郷でも屈指の大妖怪である紫と幽香。
二人のやりとりは、とても魅力的でした。
感想ありがとうございます
ちょっと怪談チックにしすぎたかな?とも思ったのですが…
やっぱり彼女たちにはこういった感じでいて欲しいのですー