今日もさとり様は難しそうな顔をして、椅子に座っていた。その理由は嫌と言うほど解っていた。こいし様がここ暫く帰宅していないのだ。
いつもふらふらと、どこかに外出しては、なかなか帰ってこないこいし様。
さとり様はそんなこいし様のことが心配らしくて、外出が長くなれば長くなるほど、難しい顔をするのである。
こいし様、はやく帰って来ないかなぁ。
さとり様のあの顔は見ているこっちが辛くなってくるほど焦燥感を感じさせるのだ。
「大丈夫ですよ、お燐」
でも、すごい顔してますよ。
「あの子はいつもふらふらしているから。これくらいのことで動じてはいられないわ。さあ、貴女も早く仕事に行きなさい」
さとり様はそう言って、私を部屋から追い出した。
心配だから付き添っていようと思ったのだが、どうも遠慮されてしまったらしい。さとり様は、ああ見えて結構なかっこつけたがりやだから、心配されそうな姿を見せたくなかったのだろう。
暫く「さとり様の言うとおり仕事に行こう」と「でも、やっぱり心配だし……」という反目する二つの中で葛藤しながら、さとり様の部屋の前でうろうろしていたが、やはりさとり様の言葉に従おうと思い、玄関口に向かう。
そして、その道中で、なんとこいし様を見つけてしまった。
「やっほー、お燐」
「こ、こいし様! いつお戻りになったのですか!?」
「んー、わかんない。無意識でうろうろしてたら辿り着いてたよ。鳥の帰巣本能みたいだね」
こいし様はそう言うと、からからと笑った。
その様子を見て、私は少しだけむっとする。さとり様がどれほどこいし様のことを心配しているかは、こいし様だって解っているはずなんだ。それなのにそんなに愉快な態度をとっていたら、さとり様が何だか可哀想じゃないか。
「こいし様」
「んー、なあに?」
「あまりさとり様に心配をかけないでください。今も自室ですっごい顔しているんですから」
「えへへ」
「えへへ、じゃないですよぅ、まったく」
「いやいや、えへへ。だよ。照られるなー、本当に」
そう言ってこいし様は暫くへらへらと笑っていた。お小言を笑って受け流そうとしているのかと思ったけれど、様子を見るとどうもそうではないらしい。こいし様は覚の証である第三の眼を閉じてしまっているせいか、こちらの意思が伝わりにくく、自分の意思だけを押しつけるような時があった。
こういう時のこいし様には何を言っても無駄だということが経験則から割り出されていたので、小さく嘆息だけついた。
「ほらほら、照れるのはいいですから。早くさとり様に顔をだしてあげてくださいよぅ。本当に心配していらっしゃるのですから」
「えー、なんか、嫌だなー」
と言って、露骨に嫌そうな表情を浮かべるこいし様。
でも、はいそうですか、というわけにはいかない。私はぎゅっとこいし様の手を握った。逃げられてはたまらない。
「あたいだって無理矢理こいし様をさとり様の元に連れて行くのは嫌ですけれどね、でも噛み付いたって連れて行きますから」
私はそう言って、ひきずるようにこいし様をさとり様の自室に連れて行った。
◇◆◇
お燐に引きずられて、お姉ちゃんの部屋に押し込められてしまった。あの乱暴屋さんめ。
お姉ちゃんは私を軽く一瞥すると「おかえり」とだけ言って、直ぐに大量の書類に眼を戻してしまった。何となく、沈黙が苦しくて、適当なことを口走る。
「お姉ちゃんはさ、お姉ちゃんだよね」
閑かに仕事に勤しんでいたお姉ちゃんは、ゆっくりとこちらを向いた。
「そうですか」
お姉ちゃんはそれだけ言って、机の上に置いてあった珈琲を美味しそうに飲み干すと、またすぐに書類に目を落としてしまった。私は珈琲は苦いから嫌いなのだけれど、お姉ちゃんは珈琲が好きらしい。
どれくらい好きかと言うと、一日に五杯は飲まないと顔が真っ青になってチアノーゼをおこしてしまうくらい好きらしい。うん、少しだけ嘘だけど。
私はやっぱり、ココアとかミルクセーキとかのほうがずっと好きだ。珈琲もミルクと砂糖を増し増しにしないと、とてもじゃないけれど飲めない。だから、あんなに美味しそうな顔をして珈琲を飲んでいるお姉ちゃんの気持ちがちっとも解らなかった。
大人になれば苦みをうまみとして認識できるようになるらしい。甘味は誰でも分かる一番単純な刺激だ。だから、お姉ちゃんは大人で、私は子供。たぶん、そういうことなのだと思う。
ぶー、と膨れながらお姉ちゃんを見つめる。病気を連想させる青白い顔色。その瞳は陰気に満ちて暗く沈んでいる。眼の下は黒々としたくまが描いてある。まるで白黒でパンダだ。
昨日も眠っていないのだろう、きっと。この地獄を私達の楽園にするために、お姉ちゃんが払わなくてはならない代償は思いの外多いのだ。
惰性とか、怠慢とか、きっとそういうやつ。
張りつめた、糸だ。そういうふうにお姉ちゃんのことを思うことがある。
お姉ちゃんは鮪のように泳ぎ続けて、泳いで泳いで――どうなってしまうのだろうか。
「こいし」
お姉ちゃんの凛とした声音が部屋に響く。
まるで、金属を優しく叩いたような声音だ。私はこの声が何を犠牲にしてもいいと思うくらいに好きだった。
「ココアを飲みたくなりました。淹れてくれませんか?」
「珈琲があるじゃん」
「いいじゃないですか。飲みたくなったんですよ、急に」
お姉ちゃんはいつもの無表情で言った。お姉ちゃんの喋り方は抑揚がなくて、のべーとしている。たから、それがよけいに無機質のもののように聞こえてくるのだ。
それはよけいなものが削ぎ落とされているということだと思うから、私はそれが嫌いではない。
「めんどくさいよー」
「そうですか? なら、私が淹れてくるとしましょう。」
そう言ってお姉ちゃんは閑かに席を立ち、ココアを入れに行った。忙しい姉のためココアくらい淹れてあげるべきなのだろう、と何となく思ったが、私はお姉ちゃんが淹れてくれたココアが何よりも好きなのである。好き好きなのである。
先ほどから好きだと言いまくっているが、当然の事だ。私は、お姉ちゃんの全てが大好きなのだから。フォーリンラヴなのである。首たっけなのである。
暫くしてお姉ちゃんがココアを淹れて戻ってきた。カカオの香りがする。解らないけれど、きっとそんな感じ。
私の分も淹れてくれたのか、二人分用意されていた。
私は手渡されたココアをふーふーとよく吹いてから、ゆっくりと口元に運んだ。
砂糖が少なめのようで、私が淹れるより少しばかり大人の味がした。お姉ちゃんの味だ。そう思うと、無性に嬉しく感じてしまう自分がいて、あまりの単純さに苦笑してしまう。
お姉ちゃんは生まれ落ちてから一度も美味しいと思ったことなどない、と言わんばかりの無表情でココアを飲んでいた。
表情筋はきっと無期限謹慎中なのだろう。暴行事件でも起こしてしまったのだろうか。
お姉ちゃんは口元からコップを離すと、ほうと一息ついた。
「ココアは」
お姉ちゃんは続ける。
「こいしの味がしますね」
――とてもとても甘い。
そんなことを、この苦いココアを飲んで呟いた。
ぴくりと唇の端が持ち上がり、お姉ちゃんの表情は奇妙な前衛芸術になった。
もしかして笑っているのかな、と思ったがそんなことはないだろう。きっと、たぶん。あんな不気味な笑みを浮かべる存在を姉とは思いたくない。だけれど、やっぱりそれは笑みなのだろうなぁ。
あんなヘンテコな笑み、見たことがない。
「笑わなくてもいいじゃないですか、こいし。本当にそう思ったのですから」
「笑っているのはお姉ちゃんじゃない。そんな変な笑み見たことないよ」
「笑っていた? 私が?」
「うん、それは奇妙な笑みだったよ。もしかしてお姉ちゃん、気づかなかったの?」
「ええ。気づきませんでした。そうですか、私は笑っていたのですか」
そうお姉ちゃんは呟くと、またあのヘンテコな笑みを浮かべた。
それにお姉ちゃんの言葉を聞く限り、私も無意識に笑っていたらしい。
何となく面白くなって、私は突拍子もなく立ち上がった。
「どうしました、こいし?」
「珈琲が飲みたいから淹れてくるねー」
そう言い残して、私は珈琲を淹れることにした。
砂糖増し増し、ミルク入れ入れの、甘苦い珈琲にしよう。
そんなことを思って、私は密かに笑った。
こんなに短いのに一人称で視点変える理由がない。
こいしちゃんが最初からココアでちゅっちゅしてたらいい。
作品の一部を入れるべきではないと思っています。