天狗の里の片隅に、空を飛べない鴉天狗の少女が住んでいました。
彼女はまだ幼いころに、不運な事故で翼を折ってしまい、それ以来空を飛べなくなってしまったのです。
空を飛べない天狗ほど間抜けな存在はいません。なので彼女は、外へは出歩かず、ずっと部屋の窓から空ばかり見上げて過ごしていました。
彼女の日々の楽しみは、誰かが家に届けてくれる新聞でした。
彼女が幼い頃から、その新聞は数日おきに、彼女の家に届けられていました。
外の世界のいろいろな出来事が、面白おかしく書いてあるその新聞が届くたびに、彼女はそれを熱心に読んで、見たことのない世界に思いを馳せていました。
たとえば、騒霊楽団のライブや、真昼の幽霊行列のような出来事。
たとえば、図書館の蔵書泥棒や、竹林でのボヤ騒ぎのような事件。
たとえば、猫の棲む里や、湖の畔に建っているという紅いお屋敷のような場所。
部屋の窓からは見ることができない、家の外のことは全て、彼女は新聞を通して知りました。
新聞を読むたびに、彼女の想いは翼を広げて、幻想郷中を飛び回ります。
その写真と文章から、まるで自分で見てきたかのように、想像を膨らませるのです。
騒霊楽団のライブで起こったトラブルのこと。
図書館に押し入った蔵書泥棒の正体。
紅のお屋敷のお花畑に起きた不思議な出来事。
それはもちろん空想です。だけど彼女にとっては、新聞の記事が世界の全てであって、そこから膨らませていく想像は、やがて彼女の中では真実のように強固になっていくのでした。
彼女はそれを、誰かに話したいと思いました。
私の世界はこんなに面白くて不思議な出来事に満ちているのだ、と。
だけど、彼女の家を訪れる者はいません。
彼女はずっとひとりぼっちで、そのお話を聞いてくれる者は誰もいませんでした。
だから彼女は、自分も新聞を書いてみることにしました。
騒霊楽団のライブの最中に起こった、突然の会場移動。
謎の秘密結社への潜入取材。流れ星の爆発。夜を駆ける珍品ハンター。
想像の中で見聞きしたことを面白おかしく、彼女は紙の上に書き付けました。
そうして、できあがったのは彼女だけの新聞です。
その記事のできばえに、彼女はとても満足しました。
だけど、ひとつだけ、その新聞には決定的に足りないものがありました。
それは写真です。外に出ない彼女には、どれだけ想像の翼を広げて記事を書いても、その記事に添える写真を撮ることができないのです。
家に届く新聞は、たくさんの写真が紙面を彩っています。
こんな写真がほしい、そうすればもっとこの新聞は面白くなる。彼女はそう思いました。
だけど、空を飛べない彼女には、外に出ても写真を撮りにいく術がありません。
天狗の里は険しい山の中にあって、空を飛べないと里から出ることもできないのです。
彼女の部屋には、変わった形のカメラがひとつありました。
いつから部屋にあったのか、誰のものなのか、彼女もよく知りません。
確かなのは、そのカメラが壊れてしまっているということでした。シャッターを押しても、うんともすんとも言わないからです。
外に出ないので、そのカメラのことも、彼女は普段はすっかり忘れていました。
だけど、せっかく書いた新聞の記事に添える写真がほしいと思ったとき、彼女はふとカメラのことを思いだし、埃を被っていたそれを取り出しました。
やっぱりカメラは壊れていて、うんともすんともいいません。
仕方がないので、彼女は想像で記事の場面を思い描いて、シャッターを押しました。
もちろんそれで写真が撮れるわけもありません。でも、撮った気分にはなれました。
彼女が想像したのは、騒霊楽団のリーダーに、インタビューをする写真です。
想像で撮った写真を記事にあてはめて、彼女は満足しました。
そうして、彼女はすこし素敵な気分で眠りにつきました。
次の日、のんびり眠っていた彼女はお昼過ぎになって目を覚ましました。
起きあがって部屋を見渡すと、なにか小さな違和感があります。
その正体は、机の上にある一枚の写真でした。
彼女は驚いて、その写真をとりあげました。
そこに映っていたのは、紛れもなく昨日、彼女が想像で撮った幽霊楽団のリーダーだったのです。
彼女は驚いて、壊れていたはずのカメラをまさぐりました。やっぱりカメラはうんともすんとも言いません。
だけど、写真は確かにここにあるのです。彼女が昨日撮った、記事に添える写真が。
そうか、と彼女は悟りました。
このカメラは、壊れているのではなかったのです。普通のカメラではなかったのです。
この変わった形のカメラは、遠く離れた場所の出来事を写してくれるカメラだったのです。
彼女は感激して、また二度シャッターを押しました。今度は、秘密結社への潜入取材と、流れ星の爆発の場面を思い描いて。
だけど、カメラは沈黙したままでした。どうやら、遠くの出来事を写すには時間がかかるようです。
仕方がないので、彼女はわくわくしながら眠りにつきました。
次の日にはやはり、彼女が望んだ通りの写真がそこに存在していました。
彼女は喜んで、書き上がっていた記事に写真をあてはめ、新聞を完成させました。
できあがった新聞を、彼女はうっとり眺め、幸せな気持ちに浸りました。
けれど、だんだん彼女は、それだけでは満足できなくなってきました。
そう、この新聞だってもともとは、誰かに読んで欲しくて書いたのです。
新聞はできあがりましたが、このままでは読んでくれる者は誰もいません。
しかし、空を飛べない彼女には、この新聞を配りに行くこともできないのです。
彼女はだんだん悲しい気持ちになって、それ以上新聞は見ずに眠りにつきました。
数日後、また新しい新聞が届いて、彼女はいつも通りそれを楽しんでいました。
読み終わろうとしたとき、ひとつの記事が彼女の目に留まりました。
それは、記者不明の新聞が、天狗の里のある妖怪の山近辺に配られたという記事でした。
天狗の里では様々な新聞が発行されていて、部数や評価を競い合っています。それらの新聞には記者の名前が記されるのが通例で、今彼女の読んでいる新聞の記者の名前が明記されています。ところが、全く記者不明の新聞が突然、何者かによって配られたというのです。
その記事を読んで、彼女は驚きました。
そこに書かれている、記者不明の新聞が扱っているという記事の内容は、まさしく数日前に彼女が書いた、あの新聞と同じだったのです。
どうしてでしょう。彼女は外に出歩いてはいません。けれども、いつの間にか彼女の新聞は外に配られ、多くの読者の目に触れたらしいのです。
彼女は不思議に思いましたが、その謎についてあまり深く考えることはしませんでした。
なぜならそれよりも、あの新聞が誰かに読んでもらえたことが嬉しかったからです。
彼女ははりきって、また新しい新聞を書き始めました。
そしてあの壊れたカメラに、必要な写真を念じて、シャッターを切りました。
翌日にはやはり、彼女の求めた写真がそこにあったのです。
そうして、彼女はたくさんの記事を書き、新聞を作りました。
写真もたくさん撮りました。最初は一日で出てきた写真も、枚数が増えると二日、三日とかかるようになってしまいましたが、彼女は速く記事を書くことにはあまり興味がなかったので、ゆっくりしたペースで新聞を作っていました。
彼女の作る新聞は、家に配達される新聞の記事から想像を広げた、言ってしまえば二番煎じですから、そもそも速報性は全く無いのです。けれど彼女は気にしませんでした。自分が記事を書いて、写真を撮って、新聞を作って、誰かに読んでもらえる。そのことが嬉しかったから、彼女は来る日も来る日も想像を広げ、記事を書き、写真を撮ったのでした。
ところが。
ある日を境に、彼女がいつも読んでいた新聞が、家に届かなくなりました。
楽しみにしていた新聞が来なくなって、彼女はとても寂しくなりました。
それだけではありません。
あまりにもたくさん写真を撮りすぎたのか、遠くの出来事を写してくれるあのカメラも、またうんともすんとも言わなくなってしまったのです。何日待っても、新しい写真を生み出してはくれなくなってしまったのです。
新しい新聞が来ず、写真もないので、彼女の新聞は書きかけで放置されてしまいました。
何の楽しみもない退屈な時間に、彼女は寂しさを押し殺していました。
そんなある日のことです。
彼女の家に、久しぶりに新聞が届いていました。
彼女は喜び勇んでその新聞を手に取りました。しかし、それは彼女がいつも読んでいた、あの新聞ではありませんでした。別の鴉天狗の作った新聞でした。
その新聞を広げると、間から一通の封筒がこぼれ落ちました。
宛名の書かれていない封筒を拾って、彼女は新聞に視線を戻します。
そして、そこに書かれていた見出しに、目を見開きました。
――その新聞の一面には、ある鴉天狗が不幸な事故死を遂げた記事が書かれていました。
事故死した鴉天狗の名前に、彼女は見覚えがありました。
そう、彼女がいつも楽しみにしていた、あの新聞の記者の名前だったのです。
彼女は呆然としたまま、その場に座り込みました。
それから、手にしていた封筒に気付いて、その封を開きました。
中には、何枚かの便箋が折りたたまれていました。
彼女はゆっくりと、その文面を目で追い始めました。
『――――様
突然のお手紙をお許し下さい。
私は、貴方の家に届いていた、あの新聞の記者をしている鴉天狗です。
私には、貴方にどうしても謝らなければいけないことがあります。
それは貴方がまだ幼かった頃に遭い、貴方が空を飛べなくなった原因である事故です。
その事故の現場に、実は私は、たまたま居合わせていました。
貴方が事故に遭う瞬間を、目撃すらしていたのです。
そう――私はそのとき、貴方を助けることができたはずだったのです。
けれど、あのときの私はそれをせず、カメラのシャッターを切っていました。
貴方の、事故の瞬間の写真を撮るために。
自分のスクープのために、私は貴方を見殺しにしようとしたのです。
どれだけ言葉を尽くしても、あのときの私の行為は許されるものではありません。
私は貴方の安全よりも、自分のちっぽけな功名心を優先させたのです。
貴方が空を飛べなくなったと聞いて、私は強い自責の念に駆られ、記者を辞めようと思いました。
しかし貴方が、私の新聞を楽しそうに読んでいる姿を見て、貴方のために記者を続けること、新聞を届けながら貴方を陰から見守り続けることが、私の使命だと思い直したのです。
思えば傲慢な決意でありました。けれど、私の新聞を読んでくれる貴方の嬉しそうな顔に、私は苦しみながらも、喜びを覚えていたのです。
貴方が自分でも新聞を書こうと思ったことは、私には驚きでした。
空を飛べなくなって、家から出歩くことが無くなった貴方が、出来ることならばまた外に出て、もう一度空を飛びたいと願ってほしい。私はそう思いました。
いえ、そうしなかった貴方を責めているわけではないのです。全ては私の責任なのですから。
ただ私は、貴方が新聞を書くなら、陰ながら何でも助力をしようと、そう思いました。
貴方の部屋にある、あのカメラ。
あれは実は、貴方が思っているような、遠くの出来事を写すカメラではありません。
あのカメラは、貴方が事故に遭ったとき、私が使っていたカメラです。
壊れてしまって、もう使い物にならない、ただの故障品なのです。
そう、貴方の新聞に使われた写真は、全て私が撮ったものです。
はじめは、自分の新聞に使わなかった写真を、貴方が眠っているうちにこっそり部屋に置いていました。そのうち、貴方が私のストックにも無いような写真を求めるようになったので、撮影に二日、三日とかかってしまうこともありました。
ふふ、幻想郷最速の名が廃りますね。
貴方の新聞を持ち出して、勝手に配ったのも私です。
見たこともないはずのことを、活き活きと書く貴方の文章は、きっと貴方が外を出歩くようになって、自分の目で見、耳で聞いたことを記事にするようにすれば、私などよりもずっと素敵な記事になるでしょう。
私にはこんなことを、貴方に言う資格は無いのだと思います。
けれど、もしも貴方が私を許してくれるのであれば。
どうか――もう一度、外に出て、空を飛ぶことを、目指してみてください。
貴方の翼は、本当はもう、とっくに治っているのです。
貴方は、飛ぼうとさえ思えば、もう飛べるのです。
きっと、誰よりも速く。
そして、貴方は今よりももっと素敵な新聞を作れるはずです。
自分で見、自分で聞き、自分で写真を撮ることで、きっと。
貴方は立派な、新聞記者になれるでしょう。
この手紙は、私が何らかの理由で、もう新聞を書けなくなったときに、貴方の元に届けてくれるよう、友人に頼んでいるものです。
こんな形でお伝えする私の卑怯を、どうかお許しください。
そしてどうか、もう一度、貴方は空を目指してください。
――貴方の新聞の、最初のファンより』
彼女は、気がついたらぼろぼろと涙をこぼしていました。
自分がどうして泣いているのかも解らないまま、彼女は立ち上がりました。
そして、書きかけの新聞と、あのカメラを手に、家の外へと飛び出しました。
長いこと、窓ガラス越しにしか見ていなかった空が、彼女の頭上に広がりました。
ずっと感じていなかった風の匂い、土の感触が、彼女を包み込みました。
その中で彼女は、ぐっと目元を拭って、それからずっと畳んだままだった翼を広げました。
翼をはためかせ、空を飛ぶ。それは事故に遭う前は、息をするようにできたはずでした。
けれど事故以来、ずっと閉じたままだった翼は、上手く羽ばたいてくれません。
羽を散らし、少しふわりと浮き上がったと思うと、彼女は地面に尻餅をつきました。
空は高く高く、彼女の頭上に広がっています。
彼女はそこに手を伸ばして、何度も何度も、羽を散らして翼をはためかせました。
飛ぶんだ。もう一度飛ぶんだ。もう一度飛んで――そうして、自分は。
ずっと自分を見守ってくれていたあの鴉天狗のような、本当の新聞記者になるのだ。
この翼で、空を飛んで、誰よりも速く。この世界の全てを見て、聞いて、写真に撮る。
あの天狗のような、幻想郷最速の新聞記者に。
やがて彼女の身体は、ゆっくりと、しかし確かに、空へと浮き上がっていきました。
空は果てしなくどこまでも続き、眩い光が彼女を真っ直ぐに照らしていました。
光の下で、彼女はふらふらと、しかし確かに自分の翼で飛んでいきます。
その手に、自分の書いた新聞を手に。
《文々。新聞》――彼女の新聞を飾る写真を、自分の手で撮るために。
あの天狗の残した、壊れたカメラを手に、彼女は飛んでいきました。
はじめは、ゆっくりと。そして、やがてだんだんと――速く。
若干そこがわからなかったんですが、 読み終わったらもう泣きそう。
いい話をありがとうございます。
どちらにせよ良い話だ…
「ほうほう、このカメラで念写能力が発動するのですか」
「ん? 最速が死んだ……っておいまさか」
いやー、聞くも涙語るも涙ですねー♪
そして文ちゃん優しい・・
これから彼女が幻想郷最速を手にするまでには、幾つもの困難を乗り越えることになるのでしょうね。
写さないと現実は見えない。
守る事、現実を写す事、どちらが大切なのでしょうね。
そして俺もはたてにまだ会えないんだ……。
しかしまぁ、お酒の席の与太話ですしね。
良いお話でした。
完璧に釣られました
このオチは読めんかった