その日、幻想郷は晴天であった。
暑い夏も終わり、最近は堂々と輝く太陽への憎しみも大分薄れてきている。
まだまだ暑い日もあるが、空に居ればそうそう汗だくになるような事は無い。
山のもっと上、天界の取材を終えた私は、山への帰路で黒い物体を発見した。
「おや、珍しいのがいますね」
「あ?ああ、文か」
「外に出たかと思えば、取材……じゃなさそうですね」
「食料よ食料。さすがにこれは外に出ないと手に入らないから」
目の前の鴉天狗、姫海棠はたての手には食料がパンパンに詰められたバッグが握られている。
外に居る彼女を見るのもなかなかに珍しいが、これだけ筋力を駆使している彼女を見るのはさらに珍しい。
私の記憶では彼女は小食だったはずだが、いったいこれは何日分の食料なのだろう。
「……しかし、えらくだらだらと飛びますね。翼が泣きますよ」
「いいじゃない、浮けば。速かろうが遅かろうが」
「毛玉じゃないんですから」
彼女の速度に合わせきれずに、彼女の周りをぐるぐると旋回する。
私にとっては失速寸前の速度でも、はたては平気な顔でふわふわと浮いていた。
本当、どうやったらこんなに遅く飛べるのか。
同じ速度、同じ揚力で私だけが落ちるということは、私のほうが重……いえ、そんなはずはありません。
彼女は自重に加えて荷物も持っているのですから、そんな事はあってはならないのです。
不吉な思考を振り切るように旋回する速度を速めると、はたての体がぐらぐらと揺れ始めた。
「やめろー。風が乱れるー」
「……まったく。じゃあ、私は先に行かせて貰います」
「せっかちねぇ」
彼女の速度では、山に着く頃には日が暮れてしまう。
生憎、私もそんなに暇ではないのです。
羽に力を込め、風を押す。瞬く間に私の体は最高速に達し、後ろで手を振るはたての姿はあっという間に消え去った。
◇
夕刻。
やっと住処に着いた私は、ため息をつきながら荷物を適当にその辺に置く。
これだけ大量の荷物は久しぶりだ。
買い込んだ食糧はそのまま放置、という訳にはいかないが、疲れ切った今の状態で今すぐ片付けというのは勘弁して欲しい。
そろそろ部屋の掃除もしなくてはならないが、とりあえずは現在作成中の原稿が先だ。
部屋の一部を大きく占領する机に近づき、椅子に思い切り体重を預ける。
痛む腕をぐいぐいと伸ばし十分にほぐした後、私は机に視線を移した。
ポケットから取材道具である携帯電話を取り出して、今日の作業を開始する。
携帯に映し出される写真を元に、良い感じに見出しをつけていく。
私の念写は誰かが使ったものしか出てこないので、新奇性という面から見れば価値はあまり無い。
そして、実際に取材したわけでもないので中身も少ない。
なので、その分記事の数を増やす。
どうせでかい事件なんてそうそう起きないんだし、日々の出来事なんて2、3行の解説で十分だと思う。
もっと知りたい奴は、自分の目で見に行くだろう。
一見は百聞に勝るって言うしね。
「……そういえば文は、取材帰りだったのかな」
帰りに会った同僚のことを思い出す。カメラ以外に特に荷物も無かったし、きっと取材だったのだろう。
彼女は自分と違い、足で取材するタイプだ。まぁ、私みたいなのが異端で、彼女のスタイルは至極一般的だと言えるだろう。
新聞の新奇性を支えるのはネタを仕入れる速さだ。誰よりも先んじて入手したネタは、当然注目を集める。彼女も他の記者と同じく、速さを何よりも重視する。
最速を自負する彼女の飛び方は雄雄しい。最速のネタを持っているのに新聞はぱっとしないのは不思議だが、彼女の速さに心奪われる者は多い。同性であっても、彼女の雄姿には憧れる。
私も空は好きだが、あまり速くない。というか遅い。念者能力がなければ記者などやっていられないだろう。そんなくらいのおちこぼれ。
それでも天狗の本能なのか、飛ぶのは嫌いになった事はない。
あんまり見せられた物でもないから、人前で飛ぶ事はあんまり無いけどね。
「……」
手を動かすことも忘れて、思考に没頭する。
いつしか記事を書く手はぴくりとも動かなくなり、仕方なく私は赤く染まった空を見上げた。
そういえば、飛ぶ為だけに空に出たのはどのくらい前だったか。
◇
その日、幻想郷の空は荒れに荒れていた。
雨こそまだ振っていないが、風は唸り、鳥は地上で身を潜めている。
そんな酷い天気だが、私は空にいた。
この台風についての取材の為でもあったが、個人的な趣向も私がここに居る理由だった。
荒れ狂う風の隙間を押し開け、際限なく加速する。
こんな天気だ。誰もいないので、思う存分飛んでも誰にもぶつかったりしない。
こんな日に、思いっきり飛ぶのは密かな私の楽しみだった。
里の上空から最高速で飛ばし、一瞬で山まで辿り着く。
こんな日でも天狗ならば飛べる。誰か居るかもしれない。
この速度でぶつかると流石にただでは済まないので、上昇してから風の強いほうへ移動する。
だが、そこで私は前方に何かを見つけた。
「……天狗?」
周囲が暗いという事と、距離のせいもあってよく見えない。
が、黒い翼がある事から天狗だろう。
相手の周囲は特に風が乱れていて、まともに飛べる環境ではなかった。
さすがに見捨てるのも夢見が悪いし、向こうは緊急事態であろうから助けるべきだろう。
とはいえこの風を掻い潜るのは私でも骨が折れる。
気合を入れて前に進むと、相手の顔が一瞬だけはっきりと見えた。
「はたて!?」
なんと、風に揉まれていたのはよりにもよってはたてだった。
信じられない、今日こそ引き篭もっているべき日だろうに。
家ごと飛ばされたのだろうか。いやいや、天狗の家はそんな柔じゃない。
兎に角、事情はどうあれ助けよう。
「はたて!」
名前を呼ぶが、この風の中では声は届かない。
いや、もしかしたら気絶しているかもしれない。
助けるにはもっと近づく必要があるが、これ以上進めば私が飲み込まれる。
「はた……」
仕方なく声を張り上げようとした時、彼女の体が大きく跳ねた。
一気に気流の外に放り出されるはたて。
この機を逃してはならない、と私は羽に力を込めた。
だが、私と同時にはたても翼を広げていた。
「は?」
そのまま、彼女は再び風の中に身を投じた。
気流に身を任せ、しばらく後に再び上昇。
一見風に蹂躙されているようにも見えるが、よく観察してみるとそれが間違いであることに気づく。
風に逆らわず風に乗り、どんなに強く吹き付けられようと堕ちる事は無い。
彼女は、確実にこの荒々しい風を征服していた。
彼女は出会った時から決して速いとは言えなかった。
いつもふわふわと、まるで浮くように飛び、その飛び方は私とは真逆だった。
私は自分の翼が最上だと自負しているし、速度を第一だと思って今まで飛んできた。今でもその認識を疑ってはいない。
だが、風と踊る彼女はあまりにも華麗だった。
その時私は、他者の飛行を美しいと思った。
◇
静かな部屋に、ガチャリと物音が鳴った。
「……また来たの」
「ええ。さぁ、出かけましょう」
首だけこちらを向くはたての布団を、私はひっぺがした。
「寒っ!」
「ほらほら、さっさと行きますよ」
「そ、外に出る服が無い」
「じゃあ、服を買いに行きましょう」
あの嵐の日から、私はここによく訪れるようになった。
結局彼女はあの日私に気づくことは無かったので、彼女からしてみれば私が何故訪れるか理解できていないだろう。
だが、私にもプライドというものがある。他人の飛び方に憧れるなど、自分から言うのはなかなか許せる事ではない。
そんな訳で、特に理由も話さずにほぼ毎日ここに押しかけていた。彼女もなかなか強情だが、所詮は引き篭もりなので力ずくなら勝てる。
そして、外に出せば勝手に飛ぶ。
空が嫌いな天狗などいないのだ。
「外に出たいなら一人で行きなよ。なんでそんなに外に出したいのさ」
「天狗は空に居るべきだからです。ささ、着替えて着替えて」
「だから服は全部洗濯中……あ、あった」
「それは僥倖」
最近はもうあきらめたのか、適当に言葉を並べただけで外に出てくれる。
私に付き合わせる分、原稿の手伝いやらをしないといけないが……まぁ仕方あるまい。
眠そうな彼女を外に押し出し、私も外に出た。
雲一つ無い青空と、ちょっとキツめの風が私たちを迎える。
さっきまでブツブツと呟きながら地面を眺めていたはたては、いつしか無言になって空を見つめた。
私が思い切り踏み切って空に躍り出ると、はたても追うように大きく翼を広げて空に舞い上がった。
私は雄雄しく風を切り、彼女は優雅に風に乗る。
山には、今日も良い風が吹いていた。
私も空飛びたい!!
ただ、はたてのカメラは『携帯電話型カメラ』であって『携帯電話』ではないのです
失念してました。ご指摘ありがとうございます
対比として、嵐での文が力強く飛ぶ様をもう少し見たく思いましたが
冗長になりかねないからこれでよかったのかな、とも
大変好みの話でした。ありがとうございます
今更かもですが誤字報告。
>念者能力がなければ
念写、ですね。
そんな二人が共に空を飛ぶ光景が、一番素敵なんじゃないかと思います。
大型バイクでかっ飛ぶレーサータイプの文。
アメリカンバイクでのんびりツーリングのはたて。
>空が嫌いな天狗などいないのだ。
走るのが嫌いなライダーがいないのと同じですねw
マイペースなはたて...良い!