※百合です。キャラも壊れてます。
寅丸星とナズーリンの出会いは、毘沙門天の代わりを務める星の下へナズーリンが監視の名目で遣わされた事をその始まりとする。
星は暗愚ではない。毘沙門天の考えるところを明瞭に理解していた。
それでも、彼女はナズーリンを暖かく迎え入れた。白蓮が自分にそうしてくれたように。
その始まりに、ナズーリンが星へ抱いた感情は不安。
その胸の内を知ることも無く、柔和な笑みで笑いかける星にナズーリンは彼女の職責への自覚に信用がならず、先行きを考えて陰鬱になった。
だがそんなナズーリンの心配を余所に、もとより出群抜萃の妖獣である星はその地位に応じた才覚を遺憾なく発揮し、白蓮の推挙した所為を余すところ無く見せ付けた。
常に傍に控えるナズーリンが己の不見識を改めるのにはさほど時間を必要としなかった。
初めてご主人様と呼んだ時の星の表情を、ナズーリンは今も鮮明に覚えている。
その邂逅からおよそ一千年の時を経た現在――。
=====
命蓮寺に訪れる参拝者が増えてくると、白蓮は教えを更に広めるべく説法会を開くことを提案した。
誰が語って聞かせるか、それは言うまでも無く白蓮と星の勤めるところである。
最初の説法会には興味本位で参加する者ばかりであったが、終わってみれば意義ある時間だったと神妙に頷いて見せてくれた。初めての試みであったが、まず成功と見ていいだろう。
そして説法会が広く認知されるようになると、次第にそちらへ参加する者も人妖を問わず増えていった。
軌道に乗ったと皆が胸を撫で下ろしていた頃、その参加者側の特徴に明確な差異が存在することに気付いた。
すなわち、白蓮が説法を行う時は比較して男性が多く、星の時は女性が、といった風にである。心根が透けて見えるというものだ。
この俗物が、とナズーリンは頭を抱える。以前そのことについて白蓮に一言申し上げたりもしたが、
「迷えば凡夫、悟れば仏。それもまた人の性です。受け入れましょう、そのための命蓮寺です」
彼女は一向に気にした様子もなく、そう言ってリンゴ飴を頬張る。
参拝に訪れた一家に挨拶した折、喜捨のつもりか、母親に手を引かれていた娘から渡されたそうだ。
白蓮は初めからその志すところを誰にも臆することなく掲げていた。
戸惑いを見せる者もいたが、尽力の甲斐あって今では命蓮寺の存在を里人も自然と受け入れ、りんご飴を例に挙げるまでもなく、ささやかながら喜捨物を頂戴することもままある。
つまりはその信仰を集めている証左だろう。
少しばかりの下心はご愛嬌、まずはその蒙を開いてやることこそが肝要ということか。
ナズーリンも白蓮の言い分には首肯できる。できるが、
あのメスどもめ……。
命蓮寺の本堂では現在、星が説法会を行っている。その参加者はやはり女性が多かった。
堂内に集められた人々へと語りかける星。その傍に控えるナズーリンは小さく毒づく。
彼女たちの中には凛々しく引き締められた星の顔を見て頬を染めている者も多い。あの時首肯したことを後悔しそうになる光景だった。
ナズーリンは彼女たちを忌々しく眺める。無論顔には出さないが、それでも星が今の彼女の顔を見れば何事かと慌てただろう程にその心中は荒れていた。
だが同時に、こうも考える。彼女たちはこの凛々しい星しか知らない、そしてそれが星の全てだと思っているだろうと。
本来の星はもっとのんびりとした穏やかな性格のお人好し。勤勉実直ながら妙に粗忽なところもあって、時折とんでもない失態をやらかす。
ナズーリンの知る星はそういう人物だった。
彼女が何か失態を犯せば後始末に追われるのは常にナズーリンの役目ではあるが、申し訳なさと安堵の入り混じった笑みで返される礼の言葉が全てを瑣末事と思わせてくれる。
それは幻想郷に至るまでの長い旅路、星の傍で彼女を支え続けたナズーリンにだけ与えられた特権だった。
今星の前にいる女性たちはもちろん、白蓮や他の仲間たちにさえ向けられることの無い顔を自分だけが知っている。
それを思うと、彼女たちに対して少し溜飲が下がった。
唐突に頬を吊り上げたナズーリンを、彼女と並び立つ一輪は何か含みのある顔で盗み見たが、特に何も言わず前に向き直った。
=====
夜の帳が落ちて、すでに門の閉められた命蓮寺に里人の姿は無い。
勤めを終えて皆で夕食を取った後、いよいよ一日の締めくくり、つまり入浴の時間である。
一番風呂は常に白蓮、次いで星、あとの順番はジャンケンで決められる。白蓮たちもジャンケンに参加したいとよく言うが、立場上それは丁重に断らせてもらっている。
本音を言えば、温くとも長風呂するために順番の最後を争っているためにその競争率を下げたいというだけなのだが。
風呂から上がったナズーリンは白湯を片手に自室へと引き上げた。
襖を閉めると一日の終わりを体が認識したのか、疲れが湧き上がってくる様に感じる。
切に求めていた、しかし少し前までは想像も出来なかった穏やかな生活。皆の表情は生き生きとしていて、幸福に満ちていた。
だがナズーリンだけはその幸せがいつまでも続くものなのかと一抹の不安を抱く。
はっきりとした悪因に心当たりがあるわけではない、ただ生来の悲観論が首をもたげるのだ。参謀役として当然の思考ではあるが、そんな自分に時々滅入る。
この幻想郷のどこに白蓮の道を妨げる者がいるというのか。まったくの杞憂であろうとはナズーリン自身理解していて、どれだけ経っても変わらない自分の性分に苦笑する。
「やれやれ、これではせっかくの夜が台無しだな。……よし」
気持ちを切り替えるものを欲したナズーリンは、やおら落ち着きを無くした様子で背の低い文机に駆け寄って静かに引き出しを開ける。
そこから取り出されたのは一体の小さな人形。年季を伺わせる色の落ちかけた人形は、それでもほつれ一つなく大切に扱われていることが窺えた。
壊れ物を扱うようにしてそっと抱えて、行儀良く座布団に正座するナズーリンは、一秒呼吸を止めて真剣な眼差しで人形を見つめる。
「あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ご主人様ご主人様ご主人さまぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ!ご主人様のブロンドメッシュの髪をクンカクンカしたい!クンカクンカ!あぁあ!!
間違えた!モフモフしたい!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!
宝塔なくした時のご主人様かわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!
宝塔見つかって良かったねご主人様!あぁあああああ!かわいい!ご主人様!かわいい!あっああぁああ!
命蓮寺も建立できて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ―――――あっ……」
「な、ナズーリン?何をしているのですか?」
「ご、ご主人様……」
開け放たれた襖と、驚きに満ちた星の顔。
「ち、違うんです!これはその――机上演習!」
「……頑張ってください」
そして静かに閉められる襖。
「ご主人様?!ご主人様―!!!」
千年に及ぶ二人の蜜月―ナズーリンにとって―それが今、些細な出来事によって砂上の楼閣の如く儚い終わりを告げた。
=====
「ナズーリン大変よ!寅丸さんが家出したわ!」
明けて翌日。星を呆然と見送り、そのまま一晩中自失していたナズーリンは、襖を開け放って現れたぬえの姿に我を取り戻した。
既に朝日は空の高きまで昇っていた。障子の向うから日が差し込んでいるのを見て、いつもの起床時間を大幅に超過していたことにようやく気付いた。
一睡も出来なかったせいで霞む頭を抱え、ぬえに引きずられて食堂にやって来るとそこで出迎えたのは一輪の狼狽した声だった。
朝の沐浴を星と一緒に行うことを習慣としている白蓮は、いつも通りの時間に浴堂で待っていても何故か現れない星に首を傾げ、その時はそんな日くらいあるだろうと特別気にすることなく一人で沐浴を終えた。
そして浴堂から上がり朝食を待つために食堂へと移動し、当番の一輪が朝食の支度をする姿を座って眺めていた。
次いで村紗とぬえが起きだしてきて、主従揃って寝坊するという稀有な朝に皆で笑っていたのが先程のこと。
それから暫し、既に朝食の支度が済んでいるのにいつまでも現れない二人。
いい加減腹の虫が催促を始めた頃、村紗とぬえがそれぞれを起こしに行って、
「ちょっ、これ見てください!」
紙片を握り締めた村紗が慌てた様子で戻ってきた。
覗き込む聖と一輪。そこに書かれていたのは、
美味しいおはぎの作り方。
「間違えました、こちらです!」
旅に出ます。探さないでください。
それは筆致の乱れた一文の綴られた置手紙だった。
―――――
「でも何故家出など……。私に何か至らぬ点でもあったのでしょうか?」
「姐さんに不満なんてあるわけないですよ」
「…………」
あまりの衝撃に足元の覚束ない白蓮は一輪に支えられ、青ざめた表情で柳眉を下げる。
基本的にいい人である彼女は第一に自分の非を疑い、白蓮が白と言えば黒でも白と言うことに躊躇わない一輪が脊髄反射で否定する。
当然ながらそれは白蓮の杞憂であり、責任の所在を求めるべき相手はすぐ傍で、ビンに詰めれば一財産築けるのではというほどに脂汗を流し沈黙を保っていた。
「夕飯の献立が気に入らなかったんじゃないの?」
「ぬえ、貴方と一緒にしない。それに昨日、寅丸さんは美味しそうに食べてました」
白蓮とは対照的に気楽そのものに構えるぬえはいつものことだが、昨晩の夕食を作った村紗はそう言って嗜める。
事実、昨夜の夕食に出された栗おこわを星は美味しいと言って二度も茶碗を村紗に差し出した。
地上に戻ってきて初めての季節の食事。皆でおひつを空にして食べ過ぎたと笑っていた。
たった一夜で何があったのか、困惑を極める事態に村紗は頼りなさげな視線を彷徨わせる。
「ナズーリン、貴方なら何かご存知なのでは?」
「…………いや、知らない」
ほのかな期待を込めて星に最も近しい存在であるナズーリンに訪ねるも、彼女は押し黙ったまま。
ようやく口を開けばそれは否定の言葉だった。
探してくると言って足早に立ち去るナズーリン。重々しい雰囲気を纏い朝食も食べずにおっとり刀で外へ向かう彼女に、さぞ辛かろうと村紗は心配そうに見送った。
=====
「貴様、風見幽香!里で何をしている!?」
「買い物」
夏の日差しを受け咲き誇っていた向日葵が眩しい太陽の畑も、移ろう季節と共にその姿を緩やかに変えていく。
寂しげに見送る幽香も、だが日々の生活に変わるところも無く、冬支度に一段落付いた彼女は人里に買出しのため訪れていた。
そして用事を終えて、特別長居するつもりのない幽香は足早に帰り路に付き、その途中で慧音に出会った。
会えば挨拶する程度の顔見知りで、特別親しいわけではない。足取りを緩めることなく慧音の傍を通り過ぎようとしたら、何故か表情を強張らせている彼女は指を突きつけて叫んだ。
訳が分からない幽香はとりあえず買い物籠を持ち上げてみせる。調味料や干物、漬物といった生活観の溢れるその中身。彼女の今晩の献立が気にならないこともない。
「……すまん。人違いだ」
ここ数日、里ではある噂が人々の口の上っていた。
曰く、夜な夜な竹林の方から獣の唸り声が聞こえる。
曰く、あれは獲物を前にして辛抱できない強力な妖怪だ。
曰く、近々里を襲うつもりなのだろう。
曰く、あれは仕事のストレスを吐き出す慧音先生の声だ。
「で、里を回って警戒していたところに私が現れた、と?」
「そういうことだ」
間違えたのならしょうがないよね、とそのまま笑って許す風見幽香ではない。
踵を返す慧音の肩を、細く艶やかな手からは想像も出来ないほどに力を込めて掴み、事情を説明しろと迫る。
勇敢な慧音は振り返り、幽香から決して視線を逸らすことなく悠然と茶屋を指で指した。
団子食べる?
いただくわ。
そして許しを請うた。
山と詰まれた団子が幽香の口に運ばれていくたびに財布が痩せ衰えていく様を錯覚する。
恨めしそうに眺める慧音の視線に心地好ささえ感じる。
そして慧音の財布が飢餓に陥るか否かというところでようやく手を止めて、慧音の語る事情に納得し彼女に代わって話を締めくくった。
「獣の声ねぇ……。何、私ってそんなイメージなわけ?ねぇ?」
「少し気が張っていたんだ。お前は強い、それ故警戒してしまった。それに、だからこうして詫びに団子をおごってやっているだろう!?」
美人の笑顔はある種恐怖を抱かせる。眼を細めて顔を近づけさせる幽香に腰の引けている慧音だが、それでも確りと言い返すあたりは、さすが人里の守護者を自認するところのものである。
「ふふん。お土産まで貰っちゃって、律儀な人は私も好きよ」
食欲を満たせば幸福を感じるのは人も妖怪も変わらないのか、或いは慧音の様に溜飲が下がったのか、幽香はそれ以上追求することなく矛を収めて腰を上げた。
思わぬ幸福に自分の日ごろの行いの良さを実感し、用事は済んだと団子の笹包みを片手に買い物籠を持ち上げる。
「それじゃあ私は帰るけど、精々頑張りなさい」
去り際の暖かい励ましの言葉に慧音は橡ほどの涙を流す。無論、最高級羽毛布団の様に軽い財布は全く関係がない。
そこでふと思いつく。
警戒する相手は未知の敵、どれほどの実力を秘めているか見当もつかない。約定があるにも拘らずこうして連日里まで届く唸り声を聞かせるほどの相手だ。或いは戦力が必要となるかもしれない。
そこまで考えて、今一緒にいる者が誰かを思う。誰あろう風見幽香、最強とも言われる四季のフラワーマスターその人である。
「いや、待て。幽香、私を手伝ってくれないか?」
「やだ」
涙を拭って名案だと表情を輝かせる慧音に、しかし幽香の返答は冷たかった。
「……強敵と闘えるかもしれないぞ?」
「面倒」
「レアアイテムをドロップする可能性も」
「いらない」
にべもなく否を言う幽香。季節の変わり目に少しばかり感傷的になっているのか、常ならば喜び勇んで戦いに行きそうな彼女がどうにも消極的だった。
何とかして彼女を篭絡してやりたい慧音は懐柔策に切り替えるも、やはりその返答は芳しくなかった。
「いいじゃないか、お前は戦うと元気になるんだろう!?」
「まるっきり危ない人じゃない。それ」
柳に風、暖簾に腕押し、けんもほろろに断られ続けてもめげない慧音も諦めが悪いが、足を止めて言葉を返してくれる幽香は大概付き合意が良い。
里を守るため必死なのか、そのうち腕を掴んで是が非でも逃がさないといった風体で幽香に迫る。
「なぁ、頼むよ。里が無くなれば、お前も困るよなぁ?通りの漬物屋や、外れの花屋がどうなってもいいのかぁ?」
「人質のつもりか?舐めたまねを」
「ん~?知らんなぁ」
「そうまでして私を戦わせたいのか!?」
「お前に相応しい活躍の場を与えてやろうというのだ」
一転、眼を血走らせて詰め寄る慧音。
そして彼女の里の人々を守りたいという真摯な願いが通じたのか、幽香は不承不承であっても頷いた。
慧音は嬉しそうに頷き、改めて幽香の手を取る。
「よし!では先ず対策会議だな。家まできてくれ」
小躍りしそうな慧音の表情とは対照的に、どんよりと曇った冬の空の様な顔をする幽香はそのまま引きずられるようにして、いや実際に引きずられて慧音の自宅まで向かって行った。
偶然それを見ていた稗田阿求は、幻想郷縁起に一筆書き加えようと心に決めたという。
=====
たとえ星がいなくとも日々の勤めを疎かにすることがあってはならない。
彼女の出奔から数日、命蓮寺の住人たちは心の内を覆い隠して訪れる者に常の笑顔で接していた。
気を緩めればふとした拍子に表情を曇らせてしまいそうになるのか、皆常以上に精力的に働いている。
早くなんとかしなければ。ご主人様はいったいどこへ行ってしまったんだ。
星を探して朝も早くから幻想郷を飛び回り、へとへとになりながら帰ってきたナズーリンはよく磨かれた廊下を歩きながら独りごちる。
聞かれれば、星の不在は病に臥せっていると説明した。
日頃から熱心に勤めを果たし、現身説法だと言って里へ赴き人々と直接会話を交わすことも多い彼女の精力的な姿は里人の間でも評判であるために、皆疑問を持つことなく納得してくれた。
だがいつまでも誤魔化しきれるわけもなく、何より騙りを働くのは心苦しい。
仮に事が露見すれば命蓮寺への信頼は揺らぐだろう。ナズーリンは一層の危機感を覚える。
……だが、会ってどうすればいい。
喉を潤して、もう一度探しに出ようと踏み出した一歩がそこで止まってしまう。
もし見つけても拒絶されてしまったら、ならばいっそ見つからなければよいと、馬鹿な考えが鎌首をもたげナズーリンを睨め付ける。
常に星の傍にあって、ナズーリンが鮮明に自覚してなお強く潜めていた愛情。
星の出奔は自分に対し失望したからなのだろうか、ナズーリンは不安になる。
妖怪の、特に力の強い者の寿命は極めて長い。故に種族的な特性を除いて、こと繁殖に対する意識は消極的である。また人間の道徳観念には関心が薄く、その大半は享楽的な生き方に沿う。
つまり一言で言えば「同性同士で何の問題があるんだ」とそういうことである。
白蓮が特に気に入っている人間の魔法使い、霧雨魔理沙が茶飲み話に面白おかしく語った紅魔館の日常。
当主と門番が館内を取り仕切る人間のメイドの尻を常に追っ駆け回していると聞いた時などは、これぞ妖怪の性と大いに頷いたものだ。
そしてその時星も一緒にいて笑っていた。だから彼女も同性間の緊密な交友に対して肯定的な立場にあるとナズーリンは仄かな期待を抱いた。
それでもよく考えれば分かることだろう、星は一介の妖怪でありながら推挙され毘沙門天の弟子となり、その代理を任されるほどになった傑物。
自分は飽くまでも部下でしかない、所詮は分をわきまえぬ想いだった。
星との間に信頼関係はあっても、その先を期待してはいけなかったのだ。だのにあの様な狂態を晒して、どの面下げて彼女の前に立てばいい。
再会を思うと、足は鉛のように重くなり前へと進めなくなってしまう。
考えるなよ、ナズーリン。勤めを忘れるな。
だがいつまでもこうしてはいられない。ナズーリンは再び幻想郷の空へと飛び立たつべく、否を言う足を強引に引きずっていった。
―――――
「へーちょ」
「ちょっと、汚いわね。手で隠しなさいよ」
「お嬢様、風邪ですか?」
紅魔館の大図書館では少し早い年末の大掃除が行われていた。
地上へと避難してきた喘息持ちの魔法使いを見つけたレミリアは、彼女を誘ってサロンで紅茶を飲んでいた。
そしてその最中、不意にくしゃみがでた。鼻を擦るレミリアにパチュリーは無作法を咎め、咲夜は心配そうに覗き込む。
「んー、そうかも。ったく霊夢の奴、何が『乾布摩擦は健康にいい』よ。それで風邪引いてちゃ世話ないじゃない」
「あらお嬢様、霊夢の言っていることは正しいですわ。私も昔から美鈴と一緒にやっていますが、おかげで風邪知らずです」
「……年寄りの冷や水」
朝の寒気に歯の根が合わないのを我慢して試してみればこの有様と、不機嫌になるレミリア。
乾布摩擦は皮膚を刺激することで血行を良くし、同時にその運動により汗をかくことで汗腺も鍛え代謝を促進する。また冷気に肌を晒すことで体温調節が行われるため、自律神経にも良い作用がある。
それら免疫力に多大な効果を持つ乾布摩擦は、古くから民間療法として洋の東西を問わず親しまれる最も身近な健康である。決して古臭い習慣などではない。
繰り返すが、決して古臭い習慣ではない。そしてレミリアの言葉を否定する咲夜は誇るべき健康優良メイド長である。
「継続は力なり、ってことかしら。パチェ、一緒にどう?」
「霜の降りたクソ寒い朝に半裸になる、と。……人死にが出るわね」
=====
「数日前、最初に獣の声を聞いたのは外れに住む農家の方だ。他にも声を聞いた言う者は多いのだが、その殆どが――」
「最初の農家の近くに住む者ばかりね。ということは、相手は移動していない?……ところでこの煎餅、しけってるわ」
「やはりそう考えるだろうな。だが何故竹林に居続けられる?……炙ればいいだろう」
慧音の自宅まで移動して後、広げた地図をもてなしに出された煎餅を齧りながら二人で覗き込み、実際に慧音のところまで相談に来た者の住む所を筆で囲む、のはもったいないので将棋の駒を置いて、敵の凡その行動範囲を絞り込もうとする。
幽香の考えるところに、慧音は頷く。
そこで疑問なのが、竹林にねぐらを持っているのであれば、何故永遠亭や妹紅が何の反応も見せていないのかという点である。
竹林にも妖怪は生息している、それらと同じように取るに足らない妖怪だといって放置しているわけではないだろうとは思う。
仮にも唸り声を聞かせて威を示すほどの輩である。永遠亭ならば輝夜の宸襟を騒がせる輩に容赦はしないだろうし、竹林には里の者も足を入れるため、妹紅も捨て置くことは考えづらい。
「そう?やっぱり、精々が知恵の足らない有象無象の妖怪ってとこじゃないかしらね。そんな奴が里を狙うねぇ……貴方舐められてるんじゃない?」
火の入った七輪に煎餅をかざす幽香は至った結論に呆れた声を上げ挑発的な視線を投げるが、慧音は意に介した様子もなく視線を返す。
「であるならば好都合。正面から叩き伏せてくれる」
そういった手合いであるならば襲い来る時は盛大に騒ぎ立てるだろう、であれば察知も容易い。よしんば強力な相手であっても、まず里の者を逃がすための算段はいくらでも出来る。
慧音が恐れるのは自分が優先して狙われること。相手が察知しがたい特殊な能力を有する可能性もある、慧音を御し難しと狡猾に不意を狙い、或いはそこで自身落命すれば里の命運は決してしまう。
「勇敢ね、そういうの好きよ。でも弱いもの虐めはもっと好き」
「つまり?」
「今夜攻めましょう」
幽香の提案に慧音は暫し逡巡してみせるも、やがて頷いた。
相手のねぐらには凡その検討が付いている。未知の相手だけに受けに回らざるを得なかったが、こうして心強い味方がいる以上、不測の事態は起こりえないだろう、だならあとは早急に脅威を排除することが最善だ。
「ふふっ、楽しい夜になりそうね」
慧音の力強い同意を得て、幽香はまだ見ぬ敵に舌なめずりして危険な笑みを浮かべた。
きっと彼女の頭の中では、血湧き肉躍る死闘が繰り広げられていることだろう。
「……やっぱり元気になってるじゃないか」
幽香の楽しげな様子に呆れたように呟く慧音の声は、幸いにして彼女には届いていなかった。
=====
戦うために英気を養おうと夕食に肉料理を強請る幽香に、目下最大の敵はエンゲル係数であったかと財布を握り締めて戦慄する慧音。
「その顔最高だわ。安心なさいな、私が奢ってあげる」
慧音の懐事情を苛め抜くことも出来るが、楽しい夜の予感に上機嫌の幽香はそう申し出た。
大げさなまでに安堵する慧音に笑って、そして再び商店通りへ向かおうとして玄関を開けると、
「わっ、ビックリした。……風見幽香?何で貴方がここにいるの?」
「貴方こそ。って、ああ、愛人だっけ」
「惜しい、友人よ」
「妹紅?珍しいですね、貴方の方から訪ねてくるなんて」
ノックするためか、握り締めた拳を軽く振り上げたまま驚いた顔をしている藤原妹紅がそこにいた。
―――――
「慧音、今時間いいかしら?」
「はぁ、少しなら。幽香」
「買い物?止めた、ここにいた方が絶対面白いものが見れる気がする」
何やら予感めいたものを感じ取った幽香にせっつかれるも、どう切り出したものかと軒先に佇み頭を掻く妹紅。
最近では里まで出向いたり里の者から仕事を請け負ったりと、周囲に引いた他者との線引きを緩めてはいるが、それでも相変わらず人見知りのきらいがある彼女。それゆえに慧音が彼女と会う時は、以前と変わらず彼女の家まで足を運ぶことが常である。
その彼女が態々こうして足を運んでくるのは、いったいどういった用件かと慧音は首を傾げる。
「なんて言えばいいのかしら。まぁその、なんていうか……トラ拾った」
弁の立つわけではない妹紅は、自分が百辺説明するよりも見てもらったほうが早いだろうと口で説明することを諦めて、扉の影に何かあるのか、むんずと掴んで慧音たちの前に差し出す。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。……はぁ!?」
猫を持ち上げるように襟足を掴んで差し出された何者か。それは間違いなく、慧音も知るところである命蓮寺の本尊、寅丸星であった。
――――
「……つまり、あの声の主は貴方なのですね。寅丸殿」
「そ、そうです。月を見ていると悲しくてなって。ご迷惑をお掛けしていたようで……」
先日、妹紅が竹林を歩いていると、ふらふらと彷徨う星に出くわした。
彼女とはそれほど親しい訳ではないが、このような場所を歩く立場の者でないことは理解していた。
妹紅は不振に思い声をかけたのだが、星は言葉を濁すばかりで今一要領を得ない。ただ一つ理解できたのは、彼女が命蓮寺には戻りたくないと思っているという一点のみ。
そこで立場のある者を捨て置くことは流石に憚られ、仮の宿として妹紅は自宅に招き入れた。星は雑事であっても進んで手伝い、妹紅はこの奇妙な同居生活を不満に思うことはなかった。
だが唯一つ、考えたいことがあると言って毎夜一人で出かけて行くことが悩みの種であった。出かけること自体に問題があるわけではない、出かける度に響く、彼女の声が問題だった。
虎と月の組み合わせは東洋美術にありふれた題材で、始めこそ月に鳴く虎というのも風情があっていいと思いもしたが、毎夜繰り返されるとさすがに耐えかねた。
「でっ、いい加減うるさくてね、訳を話しなさいと言ってたんだけど」
事情があるのか、やはり命蓮寺には帰れないとだけ言って首を振る星。
仕舞いには永遠亭からも苦情を貰い、結局自分の手には余ると信頼する知恵者を頼って連れてきた、ということだ。
「なんと拍子抜けな……」
数日間ずっと張り詰めていた自分が馬鹿みたいだと、徒労に終わったことでどっと疲れが沸いてくる。
それでも実際に何事かあるよりは上等だ、そう思えば幾分かは救われた。
牡丹に唐獅子、竹に虎とでもいうことなのだろうか。何があったのかは知らないが、逃げ込む先が竹林とは、お前は虎かと言いたくなる。
「……まぁ、虎か」
「何を言っているんだ、幽香」
幽香は不貞腐れた様子で呟いて、煎餅を一枚齧る。
使命感を抱く慧音とは違い、楽しい夜を台無しにされた彼女は一人不機嫌で、唯しけった煎餅だけが慰めだった。
―――――
「して、何故命蓮寺を出てそのような場所に?」
体調を崩していると聞いていた。だが妹紅の話を聞く限りそうではなさそうだし、血色も悪くない。
白蓮を中心として、不和とは無縁そうに見えた彼女たちだったが、やはり何某か寺の中で起こったのであろうかと慧音は首をかしげた。
今や命蓮寺の存在は人里にとって軽んずることが出来ない影響を持つ。
無論それは悪い意味ではない。彼女たちの尽力により、稀ながらそこで新たに友誼を結ぶ人と妖怪の姿も見受けられ、これもまた里を守る術の一つだと慧音は満足げに頷きもした。
今命蓮寺が尋常でない事態に陥れば里の者に少なからぬ動揺を与えるであろう事は必至。
そしてそう考えるが故に、これも人里を守護する者の責務と、慧音はその義務感から口を開いた。
「慧音なら大丈夫よ、話してみなさい。色々と捗るわよ」
「お聞かせ下さいませんか?確約は出来かねますが、何某かお力になれるやもしれませぬ。言いづらいことかもしれませんが、ここにいる者は皆口が堅い。決して他言はしないと誓います故」
数日間の同居により信頼関係が醸成されたのか、背を優しく押してやる妹紅に不器用ながら笑みを返す星。
彼女の様子から慧音は迂遠な表現は無用だと考えて、それでも極力穏やかに切り出す。
「……何で私まで含まれてるのかしらねぇ」
「帰る機会を逸したわね。こうなった慧音の話は長いよ、諦めて付き合いなさい」
慧音と付き合いの長い妹紅はこうなることが分かっていたのか、幽香の傍に寄ってお気の毒さまと囁く。
確かに、純粋な力による競合こそを好む幽香は醜聞によって他者を貶めることを嫌う。
だがだからといって相談役などと、自分をお人好しの一角に並べられるのはどうかとも思った。
いっその事帰ってしまってもいいのだが、星の事情が気になっているのも事実。
結局、諦めたように頭を振って煎餅を一枚齧る。
「それ美味しい?」
「しけってる」
先ほどから煎餅を齧ってばかりいる気がしないでもないが、自分の時間を売り渡す対価だと思うことにした。
=====
「こ、これは……」
暫しの休息を挟んで再び星を探しに行こうと外へ向かう途中、廊下を歩くナズーリンは目の前の光景が信じられなかった。
「竹ザルにつっかえ棒。中には、チーズ?」
アホらしくて。
裏返した竹ザルを木の棒が支えて、その中央に置かれているのはチーズ。あからさまに罠だった。
棒の端は縄で結ばれていて、それを視線で辿っていくと閉じた襖の奥へと消えていく。
そこに誰がいるのかは、考えるまでも無かった。
「ぬえ、君か?こんな時に質の悪い冗談はよせ」
命蓮寺にいる者でこんな悪ふざけをするのは他に思い至らない。ギロリと、見えるはずもない襖の向うを睨めつけ出て来いと威嚇するも、物音一つしなかった。
いくら待っても何の反応もなく、気の急いているナズーリンはため息をついて、いたずらを仕掛ける横着者は捨て置くことに決めた。
「君は相変わらずだな、この非常時でも。だがチーズは貰っておこう、これは美味しそうだ」
原料は水牛の乳だろうか、鼻腔をくすぐる独特の発酵食品の香りが己の種族的な起源を思い起こさせた。
正直な胃袋が早くチーズをと催促するナズーリンは、そして身を屈めて竹ザルと棒を退かしてチーズに触れる。
「今です!ぬえ、一輪、被疑者を確保!」
「御用改めであ~る!」
「あのチーズ高かったんだけどなぁ……」
「何事だね!?」
刹那、村紗の一声と同時に両隣の襖が勢い良く開かれて、ぬえと一輪が飛び出してきた。
この瞬間こそを狙っていたのか、身を屈めているナズーリンは咄嗟の反応が遅れ、碌な抵抗一つ出来ずに両脇を抱えられてしまった。
「確保完了!」
「ごめんね、ナズーリン」
「では撤収です!」
「おい!君たち話を聞きたまえよ!」
村紗を先頭に、一輪とぬえに両脇を抱えられたままエッサホイサと何処かへ運ばれる。
ナズーリンは抜け出そうと必死の抵抗を試みるも、足が地に届いていないのでどうしようもなかった。
残されたチーズはネズミたちが責任を持って処分した。
=====
「あの、では一つ相談をしてもよろしいでしょうか?」
慧音の自宅まで至る道のりに、妹紅から慧音の人物像、どれだけ頼りになるか、どれだけ誠実かを散々聞かされた。
星自身も里へ赴いた際に彼女と会話する機会がままあり、知らぬ間柄ではない。言葉を交わすうち、その人となりに敬意を抱きもした。
彼女ならばと、星はやがて決心が付いたのか視線を上げて口を開く。
「相談ですか?もちろん構いません。窺いましょう」
「私も。なんでも聞いて、これでも結構長生きしてるのよ」
「まぁ、乗りかかった船、或いは毒を食らわば皿まで、私も聞いてあげるわ」
毘沙門天の代理を務めるほどの者が持ちかける相談事とはいかなるものか、不謹慎ながら好奇心をそそられた幽香と妹紅はそれぞれに身を乗り出した。
彼女たちの実に頼もしい言葉に、星は勇気を持って切り出す。
「はい、実は……れ、恋愛相談なのですが」
『何……だと……?』
………………
…………
……
「さてと、そろそろ帰ろうかしら。夕飯の用意もあるし」
「私も。ねぇ幽香、私家庭菜園やってるんだけど、取れる野菜がどれも小ぶりなのよ。夕飯奢るからさ、少し相談に乗ってくれない?」
「待て待て待て待て!私を一人にするな!」
恋愛相談と聞いて、思わず一同は凍りつく。正直な話、ロマンスに縁のある人物はここにはいない。
星のせいではないのだが、彼女は始めから聞く相手を間違えていた。
見事な変わり身で我先にと腰を上げる薄情な二人に、慧音は必死で縋り付く。
「寅丸殿、暫しお待ちを!」
ようやく話す心積もりができたのに、奇妙な反応を見せる慧音たちに星は訳が分からず、慧音の切羽詰った声にただ頷いた。
それを見ていたかどうか、慧音は妹紅たちの背中を廊下まで押し出し、後ろ手に襖を閉めて低い声で詰め寄る。
「二人とも薄情だぞ、一分前の自分の台詞を思い出してみろ!」
「いやだって、恋愛相談でしょ?」
「人選を誤ること甚だしいわね」
ばつの悪そうな妹紅と、鼻で笑う幽香。彼女たちの言葉は尤も過ぎて、慧音には返す言葉が無かった。
「仮にも先生やってるんだからこれくらい一人で何とかしなさいよ。歴史は得意なんでしょ?なら故事に倣ってそれっぽいこと言えば良いじゃない」
「はっ!無理だな!」
幽香はそう言って一切合財を慧音に押し付けようとするが、そうは行かない理由が慧音にはある。
自信満々に自分を否定する慧音は、ならば聞かせてやろうと頼みもしていないのに昔語りを始めた。
―――――
今は昔、里に住む若い男が相談があると慧音の元を訪れた。
農業を営む彼は、朴訥として好感の持てる男だった。
仕事の悩みかと聞く慧音に彼は否定して、意中の女性に求婚をするつもりだと言った。
慧音はめでたいことだと顔を綻ばし、気の聞いた祝言の一つでも詠んで欲しいのかと聞けば、男は表情を暗く否定する。
訳を聞けば何のことは無い、どうやら男は求婚を断られることを恐れているらしい。
だが二人の仲について聞けば聞くほど、お互いが思いあっているとは色恋に疎い慧音にも容易に理解できた。それでも男は不安を拭うことができないと言う。
相談と言うのは、知恵者と名高い慧音に求婚の仕方について助言を貰いたいということだった。
「なら尚の事貴方が適役じゃないの。その時みたいにすればいいのよ」
「話は最後まで聞け。幽香」
それは難題であった。人の恋路は十人十色、何より慧音はその類の経験が皆無であったからだ。
まんじりともせず慧音を真っ直ぐと見つめる男は、それだけに真剣さが伝わってくるというもの。ここで否を言うことも、中途半端に答えることも慧音の責任感からは憚られた。
慧音は歴史を紐解いて女性の求める理想の伴侶というものを手繰り、そしてたどり着く。
女性は古来より強い男に引かれる。英雄色を好むという言葉があるが、本来の意味と同時に、それはまず女性は強い雄こそを求め、そして英雄の傍に集まるが故の言葉なのだ、と。
この様にして、慧音は最善と思われる答えを男に授け送り出した。
「悪くない答えじゃないの。それでもうまくいかなかったの?」
男は半裸で、農作業によって鍛え上げられた筋骨隆々とした肉体を見せ付けるようにしながら結婚を申し入れた。
「うわぁ……」
無理もないことだが、女性はその場で卒倒した。
慌てる男の声に何事かと女の家族がやって来て、その後は言うまでもない、大惨事だ。
「二人がそのまま破局していたら、私は自分の角を圧し折って自尽していたことだろう」
その後紆余曲折を経て男女の仲は修好し、無事華燭の典を挙げることが出来たために慧音の命脈は保たれた。
慧音の答えは一般論として見当外れであったとは思えなかった。どちらかと言えば、それは男の助言の受け取り方に問題があったのかもしれない。
「それでも思ってしまうんだ、頭でっかちな私がこの手の相談に乗っても碌なことにならないとな。だが今、寅丸殿を捨て置くことは出来ん。だから頼む、一緒に聞いてやってくれ!」
頭を垂れ、頭上で子気味良い音をさせて両手を合わせ頼み込む。
恋愛に関しては半人前もいいところの彼女たちでも、三人寄れば文殊の知恵ということか。
「相当トラウマになってるみたいね。仕方ない、付き合ってあげる」
「いいわ、私も慧音の角を折りたくないしね」
再び室内へと戻ると、星は手持ち無沙汰だったのか、外見にそぐわぬ小動物を思わせる細々とした仕草で煎餅を齧っていた。
三人が戻ってきたことに気付いた星は慌てて煎餅を皿に戻し、羞恥に身を捩じらせる。
別に咎めるべきはなく、遠慮なく食べてもらってかまわない、というか先ほどから遠慮のかけらもなく幽香が食べている。
慧音は皿を星の方へ押しやって、意図を十二分に悟った星ははにかみながら、遠慮がちに再び煎餅を手に取った。
そんな彼女を見ていると何故だか庇護欲というものが妹紅の内に芽生え、幽香ですら彼女を半裸にするわけにはいかないと、その双肩に掛かる責任を今更ながらに痛感した。
=====
数日前のことである。村紗の美味しい栗おこわと暖かな風呂、地上の極楽を味わった素敵な夜に御満悦のぬえは、良い気分のまま早々に布団に潜り寝てしまうことにした。
冷たい布団が体温で温まってから暫し、ぬくぬくとまどろみに身を任せていた頃、不意に身震いを一つして厠へと向かった。
命蓮寺の朝は早いため、里の家々の明かりが残る時分にも闇に包まれていることが常である。
最近頓に夜が寒くなったこともあり、薄暗い廊下は冷気が立ち昇る様子が見えそうなほど冷え込んでいた。
廊下を歩くぬえ。白蓮の編んでくれた毛糸の靴下がその足取りを穏やかにさせ、ただ静かに床板を軋ませていた。
規則正しい足音に、唐突に不協和音が混じる。
半分舟を漕いでいたぬえがぼんやりと顔を上げると、そこには何者かが駆けてくる姿が見えた――。
「その時見たのは間違いなく寅丸さんだったとぬえは言っています。彼女は貴方の部屋のある方からやってきたそうですよ。そして翌日、彼女は去っていった。これは偶然でしょうか?ナズーリン」
寝ぼけていたため今の今まで忘れていたと言うぬえから話を聞いた村紗は、買出しから帰ってきた一輪を巻き込みナズーリンから事情を聞くために罠を仕掛けて待ち構えた。
見事捕らわれの身となったナズーリンは、そして命蓮寺の敷地内に設けられた蔵に連れ込まれ半ば強引に椅子に座らされた。
机を囲む形で正面に一輪が、ぬえはその隣に、そして三人の周囲を行き来する村紗が神妙な顔で語る。
「勿論、私は貴方が彼女に何かしたとは思っていません。貴方は悪くない。……でも、一輪はそうではないみたいですよ?」
ナズーリンに近寄り囁く。泡の弾ける様な冷たい声色が耳朶を打った。
村紗の目線がナズーリンのそれを導くように動き、抵抗することなくそれに倣うと揺らめく行灯の火の向うで一輪が鋭い視線を投げて寄越した。
「さっさとゲロなさい、ナズーリン。でなきゃ雲山と拳で会話することになるわよ」
「吐けー」
いつに無く厳しい口調の一輪。白蓮にばかり負担のかかっている現状が自分たちの不和によって引き起こされたと疑っているのだろうかと、彼女の視線に少し怯えながらナズーリンは考える。
白蓮を中心に世界を回している彼女であるから、その憤怒は理解出来てきなくもない。
何故か目の前に置かれたカツ丼や、これまた何故か勝手に横取りして食べ始めるぬえはこの際どうだってよかった。
「一輪、落ち着いてください。ナズーリンも訳を話してくれませんか?悪いようにはしませんので」
ジャブを繰り返す雲山に一触即発を感じ取ったのか、村紗が割って入るように身を入れて一輪を宥める。
「知らん。ご主人様は私の部屋に来ていないし、偶々通りかかっただけだろう」
しつこく詰問を繰り返す村紗にうんざりしつつも答える。
ナズーリンの淡白な態度に押し黙る村紗と、睨め付けたままの一輪。
気まずい沈黙が流れ、ぬえの持つ箸とどんぶりが打ち鳴らす音がだけがやけに響いた。
「この味は嘘を付いている味だぜ」
「カツ丼の味に嘘も何もあるか」
もうこいつは捨て置こう。
「はぁ……。知らないものは知らないんだ。なぁ、もういいだろう?ご主人様を探しに行かなければならないんだ」
悪ふざけに付き合ってはいられないと、ナズーリンは立ち上がり蔵の入り口へ踵を返す。
最早声には隠しきれぬ苛立ちが含まれ、踏み鳴らす靴の音がこれ以上聞いてくれるなと言っている様だった。
「強情ですね!早いところ白状してしまいなさい!」
「うわっ!村紗、何故君が怒る!?」
が、そんなの関係がないと言わんばかりに村紗が詰め寄ってきた。
様子の変な一輪やいつも通りのぬえとは違い、先ほどまで穏やかにナズーリンに話しかけていた、一番冷静だったはずの村紗の突然の剣幕にナズーリンは思わず後ずさり、椅子へと再び腰を落としてしまう。
「ちょっと村紗、貴方は良い警官役でしょ」
「私は船幽霊、よく考えなくても適役は悪い警官でした。と言うわけで配役交代です」
「君たちはいったい何がしたいんだ?!」
しかめっ面をしていたはずの一輪が立ち上がり、喉の奥で唸る村紗を嗜め、見上げるナズーリンは状況の急転に取り残され思わず叫んだ。
端的に言えば、それは単なる捕り調べごっこであった。
薄暗い蔵はただの舞台装置か、カツ丼を食べ終わったぬえが落書き帳で遊んでいる様はさしずめ書記係といったところだろう。
そして先ほどの一輪の様な表情で座る村紗。悪い警官らしさを演出しているつもりだろうが、それも今更だった。
胡乱げなナズーリンの視線に汗を一筋流して、一輪は仕切りなおすように咳払いをして改めて問いかける。
「ナズーリン、貴方は本当に何も事情を知らないのね?」
「君もしつこいぞ、一輪」
頑なに否定するナズーリンに暫し思案する素振りを見せ、最後にも一度だけと前置きして真剣な眼差しで再び訪ねる。
「ねぇナズーリン、さして広くも無い幻想郷を貴方が探しても見つからないのは何故?もしかしたら、それは貴方自身に何か気掛かりがあるのなくて?寅丸さんの家出について貴方が何も知らないと言うのならそれでもいい。でもそうでないとしたら、正直に話して」
「それは……」
「他ならぬ貴方のご主人様よ。貴方が見つけられないなんて余程のことだわ」
一輪の言葉は図星であった。
星を見つけなければならない事は分かっていて、そして誰よりもそれを願っているのはナズーリンである。
だがそれでも拒絶という恐怖が付きまとい、このまま見つからなければとさえ思ってしまう。
その二律背反は、確かにダウジングロッドの反応を鈍らせていた。
沈黙を保った一輪の真摯な瞳が、そんな自分の全てを見透かしているようで羞恥すら感じる。
そしてとうとう根負けしたナズーリンはうな垂れて、やがて口を開いた。
「……分かった。話す、全て話すよ」
=====
「ええと、私の友人の話なのですが……」
星が言うには、彼女には長く苦楽を共にした、心から信頼する部下がいるのだという。
仔細は省かれたが、先日思わぬ切欠から部下が自分に対して抱く感情に気付いてしまった。
彼女はその事実に混乱し、気付いたら家を飛び出してしまった。
彼女は家に戻って部下と顔を合わせる勇気が持てず、未だフラフラとさ迷っている。
星はその友人の苦悩が晴れなければ、寺の門を潜ることはないできない。
「その友人は、貴方」
「す、鋭い――!」
幽香の指摘に愕然とする星。そんな嘘でいったい誰を誤魔化せるのか、既に存知していたことだが彼女は正直者過ぎると妹紅は笑う。
「いや、分からない人なんていないでしょう。ねぇ、慧音?」
「……え?」
「え?」
正直者はもう一人いた。
「私は、どうすべきなのでしょうか……」
星のナズーリンへの感情は一言では表し辛い、信頼する部下、長くを共に歩んだ相棒、或いは――。
砂漠に置き去りにされた旅人の様に不安げに心情を吐露する星。
だが聞かされた方からすれば、それは既に告白に等しかった。
両想いなんじゃないの、もしくは、もう結婚すれば?と、そう言ってやりたい欲求が沸き起こるが、彼女には彼女なりの苦悩がありのだろう。
「私の元で不自由をさせているのに、ナズーリンは文句一つ言わずに良く働いてくれています」
「信頼されてるのね」
「私は無骨な妖怪です。智に富む彼女がいなければ、私は今日までやってくることはできませんでした」
「お互いを補い合う、素晴しい関係ですな」
「小さい体からは信じられないくらい頼もしくて、ふらふらと揺れる尻尾が可愛くて、笑うと猫のように愛嬌があって――」
「鼠なのに?」
そして延々と惚気話が続き、幽香が煎餅を投げつけるまで星の口は閉じられることはなかった。
=====
「えぇと、ナズーリン?つまり貴方は――」
「寅丸さんの人形を抱えて――」
「発情してるところにバッタリ?だっせー」
「はっ、発情!?ぬえ、口を慎みたまえよ!」
正確には、興奮して転げまわっていた。似たようなものではあるが。
話を聞き終えた村紗たちは一様に呆れ顔だった。
「まぁ、それなら無理も無いでしょう。信頼していた部下が自分に対してあらぬ劣情を抱いていたとあってはね」
「ドン引きだね!」
言いたい放題である。得心がいったと頷く村紗。
「よっく分かりました、寅丸さんが見つからないのは貴方から逃げているからでしょう。ナズーリン、寅丸さんは私たちで探します。貴方は謝罪の言葉を用意して待っていて下さい」
ナズーリンが誰よりも星を信奉する忠臣であるとは疑う余地も無い。
だがそれゆえに、今回の一件で星はナズーリンの忠信に不純を感じずにはいられなかったのだろう。
星は魅力的な女性である。常に彼女の傍にいるナズーリンなのだから、強く美しい彼女に身を委ねる、そんな誘惑に駆られ気迷いを起す事も無理らしからぬ話だ。
ナズーリン程聡明な女性ならば、自分を省みることは難しくない。ならば強引にでも二人を掛け合わせて、元の鞘に収まるまで見守ってやることが仲間としての心意気だと、村紗はそう考えた。
「悪いんだけど、少し外してもらえる?」
「一輪?」
解決の糸口を掴んだと気勢を上げる村紗を、そこで一輪が制止した。
何か思うところがあっただろうかと、村紗は怪訝そうに訪ね返す。
「大事な話なの」
「ふむ、貴方がそう言うなら。ぬえ、少し出ていてください」
「えー!」
自分一人蚊帳の外に置かれることが何よりも嫌いなぬえは盛大に不満の声を上げた。
「我慢なさい。貴方に真面目な話が出来て?」
「このケチンボ!いいよ、あっちでミカン独り占めするから!」
ぬえはいきり立つ感情そのままに足を踏み鳴らして、八つ当たり気味に扉を乱暴に開け放って蔵を出て行った。
仕方の無い娘、村紗は彼女の相変わらずな様に苦笑し思わず零す。
「やれやれ、ぬえは少々無邪気に過ぎますね。それで、話と言うのは?」
「村紗、貴方もよ」
「このケチンボ!いいですよ、あっちでミカン二人占めしますから!」
出て行く村紗の姿はまるでぬえの様だったと一輪は思った。
ぬえの相手を任せすぎたのか、二人は似てきたのかもしれない。
「まっ、これでゆっくり話せるわね」
だがあの二人のことはこの際どうでもいい。
村紗が出て行き勢いよく閉じられた扉の振動で舞い上がった埃を嫌そうに見やりながら、ナズーリンに向き直る。
「それにしても、まさか貴方が寅丸さんにねぇ……」
「まあな、驚いたろう?」
「いや、全然」
「ならさっきの台詞は何だ」
「会話の切欠。で、村紗はああ言ったけど、貴方はどうしたいの?」
しれっと言ってのける一輪をナズーリンは睨めつけたが、ただ笑ってやり過ごされる。
埃が気になるのか、一輪は閉ざされていた蔵の窓を開け放ち窓辺に背を預けて改めてナズーリンへ問いかけた。
「どうしたいもこうしたいもない、その様にするさ」
「でも好きなんでしょう?」
「……ああ。だが最早意味は無い」
ずっと秘めていた愛情、ただ彼女の傍にいられたら満足で、それでもいつの日かと夢見ることもあった。
だが現実、星は去っていった。分不相応の振る舞いが招いた愚か者への仕打ちだとナズーリンは自嘲する。
「まぁ、そう悲観することもないと思うけど」
「何が言いたい?」
「寅丸さんの方も脈有りなんじゃないかってこと」
「よしてくれ、私に希望を持たせるな。もういいんだ。気付いたよ、私は身の程を弁えていなかった。これは天罰覿面というものさ」
「なら、どうするつもり?」
「何も。主人と部下、きっちり線引きをするだけさ。暫くは気まずいかもしれんが、職務に励んで失地回復に努めるまで」
ナズーリンを星の下に添えたのは他ならぬ毘沙門天である。星の一存でナズーリンの去就を定めることはできない。そのことだけが、ナズーリンにとって最悪の中唯一の救いだった。
戻ってきてくれさえすれば、今まで通りとはいかなくても、せめて普通に話をする程度にはその関係を修繕できればとだけ願う。
「腹に一物抱えたまま、上手くやっていけると思うの?」
「やれる、さ」
「見え透いた嘘ね。きっととてもギクシャクして、ここはすっごい居心地悪くなるかも」
「…………」
沈黙を保つナズーリンは、それだけで一輪の言葉を肯定していた。
それでも、窓から入り込んだ冷たい風が淀んだ空気を浚っていくを鼻先で確かに感じながら、俯くナズーリンの言葉を待つ。
「……そうさ。私はご主人様を愛している、誤魔化しきれないくらいにな。だが他にどうしようもないじゃないか。この感情は一方的なものだ。きっと、ご主人様は私に失望したことだろう。千年、千年だ。私はご主人様の傍でそれだけの時を共にしてきた。今更離れ離れなんて、嫌だ」
やおら饒舌に語りだすナズーリンは、今までの感情が噴出したかのようだった。
一輪の知るナズーリンは常に冷静で、思慮に溢れた聡明な女性である。
意外な一面を垣間見せる彼女は、それだけに心情が窺えた。
「お馬鹿」
全てを吐き出して、再び俯くばかりとなったナズーリンは歩み寄ってくる一輪に気付かず、その額を強かに弾く彼女の指先に無抵抗に打ち据えられた。
「痛いじゃないか」
「いつもふてぶてしいくらいの貴方が、なんでそう寅丸さんのことになると臆病なのかしらね」
分からなくもないけどね。一輪はそう言って、いつもは小さい体に尊大な態度のナズーリンが、今は見た目通りの少女の様だと苦笑する。
一輪にも白蓮という崇拝の対象がいる。ナズーリンに対して少しばかり共感する気持ちがあった。
「寅丸さんも人の子、いや虎の子。惚れた腫れたの感情くらいあるわ」
「かもな、だがそれは私に対してじゃない」
「貴方に対してよ。二人でいる処を見れば一目瞭然」
「どうして分かる?」
「寅丸さんのおっぱいがそう言ってる」
「ご主人様をいやらしい目で見るなぁ!」
どの口で言うのか、ナズーリンは一輪に掴みかかるが、地力が違いすぎるため容易に解きほぐされてしまう。
カラカラと笑う一輪は再びナズーリンを座らせて、自分はすぐ隣に腰掛ける。
「冗談よ。いや、貴方の前だと結構張ってるようにも見えたのは本当だけど。……寅丸さんって形のいい胸してるわよね」
「鍛えてるからな。おまけに毎朝の沐浴で、特に今くらい寒い時期は肌がとても引き締まっている」
長身で細身ながら起伏に富んだ彼女の肢体は、観賞物として実に見ごたえのあるものだった。
暫し二人揃って星の形の良い胸に思いを馳せる。
その表情は、知らぬ者が見たら仏門に帰依する者とはとても思えなかっただろう。
「じゃなくて、寅丸さんの貴方に接する態度と、私たちへのそれは明らかに違いがあるのよ。思うにあれは、抱いてセニョリータの態度ね」
「ふんっ、君に分かるもんか」
いつもの辣腕ぶりはどこへいったか、思考することを止めるナズーリンは一輪の言葉を拒み続け尻尾を丸めて俯き加減に零す。
拗ねた子供のように嫌を言うばかりで態度が定まらないナズーリン。一輪は仕方なしに、多少強引であっても背を押してやることに決めた。
「実はね、寅丸さんの居場所知ってるのよ、私」
「はっ?それはどういう――。いや、いい。それなら君が迎えに行ってくれ」
先ほど買出しに出た一輪はその途中で里の者に呼び止められ、そしてその者から聞かされた話に驚いた。
その者は星が誰かと一緒に里を歩き、二人揃って慧音の家に入っていく姿を見たと言う。
星の本復を喜ぶ里人の声を一輪は既に聞いていなかった。挨拶も漫ろに慌てて星を迎えに行こうとして、その足を止めた。
ナズーリンの様子を傍で見ていて、彼女に行かせるべきだと己の感が言っていたのだ。
尤も、勇み足で命蓮寺に戻ってくれば村紗の企みに付き合わさる事となり、一瞬その時の判断を後悔したのだが。
「ナズーリン、寅丸さんに告白してきなさい」
「こ、告白!?」
それはいきなりだろうと、ナズーリンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
聞きなさい、と狼狽する彼女を押し留め、ゆっくりと言って聞かせる。
「思うに、貴方たちは長く一緒に居過ぎて関係が固定されてるのよ。だからこんな切欠でもなければそれを踏み越えて一歩深い関係になんてなれないわ」
「それは、だがしかし……」
「どうせ、今までみたいにはいかないでしょ?なら一度全部ぶち壊すつもりで一世一代の告白をして来なさいよ」
「それでも、もし嫌を言われたら……」
一輪の言うように星が自分に愛情を抱いているか、それは分からなかった。
その一点のみがナズーリンの正常な思考を曇らせ、恐れさせる。
「そうね、怖いわよね。でもね、昔偉い人がこう言ったわ。『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ』」
「いい言葉だな。単純だが、胸を打つ」
「元気があれば何でもできる!」
「まぁ、そうだな」
蛇足だった。
「忘れて。とにかく、もし駄目だったとしても私がフォローしてあげるから。っね?」
逡巡するナズーリンに、一輪は決して答えを急かすことはしなかった。言うべきことは全て言い切ったと、再び口を開くことはなく雲山の逞しい髭を弄ぶ。
そして雲山の髭で編まれた三つ編みが五つ目を数えたところでナズーリンは顔を上げた。
彼女の出した答えに一輪は満足げに頷き、善は急げとナズーリンの背を押して命蓮寺の正門へと向かった。
―――――
決心が固まったといっても、それは砂を固めた城のように脆く儚い。
いざ門を潜ろうとすると自分の悲観的な性分が、諦めろ、村紗が正しいと耳元で囁き、不安の波が押し寄せ思わず足が止まってしまった。
「寅丸さんとねんごろになれるか、それとも永遠に適わないか。ここが分水嶺よ」
「ああ」
竦む足を奮い立たせようと表情を強張らせるナズーリンを振り向かせ、一輪はそのつぶらな瞳を覗き込むようにして語りかける。
「今を逃せば二度と好機は訪れない。ナズーリン、覚悟を決めなさい」
「ああ」
一輪の熱の篭った声。普段は温厚で、命蓮寺の仲間たちの中でも特に自己主張の少ない性格の彼女だが、その実中々に情熱を秘めた女性だった。
次第ナズーリンにも熱が移り、その瞳には確かな意思が宿る。
「私の様にね。私は姐さんに求められたら、全てを捧げる覚悟がある」
「ああ。……いや、覚悟も何も、聖にそっちの趣味は無いだろう」
命蓮寺の至る所でいつそのようなことになってもいいように、今日までに108もの机上演習を終えていた。彼女は常に覚悟完了である。
だが無駄な努力とはいかなるものか、つまりは一輪のそれである。
一輪のお陰で常の調子を取り戻しつつあるナズーリンは、鋭利な言葉で彼女の覚悟を切り捨てた。
「…………」
「…………」
「…………私のことはどうだっていいでしょう。さっさと行きなさいよ、うじうじネズミっ娘!」
「わっ、馬鹿よせっ!」
雲山を操りナズーリンを放り投げる。これは決して八つ当たりではない、尻込みするナズーリンに対するささやかな後押しである。
柔軟剤使っただろと言いたくなる雲山のソフトな肌触りと、直後襲ってくる浮遊感。ナズーリンは美しい放物線を描いて飛翔した。
=====
星にとってナズーリンは特別だった。白蓮ではなく、村紗や一輪でも、ましてぬえでもない、ナズーリンだけが星の心の最も奥深い領域に立ち入ることを許されていた。
誰よりも長く時を共にした彼女こそが、星にとって最大の理解者である。星は自分も、彼女にとってそうであると思っていた。
彼女の部屋で鉢合わせたあの時、自分の知らない一面を垣間見て今まで当たり前に信じてきたものが目の前で崩れ去ったようにも感じ、途端怖くなった。
ようやくたどり着いた安住の地、彼女が傍にいるだけで満足で、知らずにいたら二人の永遠さえ信じられたのに。
ただ、二人を繋いでいたものが変わっていくのが怖かった。
「惚気話も大概だけど、恋愛相談なんて言ってる時点で半分自分の気持ちを白状しているようなものだったわね。一言好きだって言えば済む話だっだんじゃないの?」
「うっ、それは……」
惚気話の報復か、幽香は積極的に言葉で彼女を追い詰める。
「でもほら、言いたい事は明日言え、とも言いますし」
「史上稀に見る苦しい言い訳ですな」
しどろもどろに、ようやく口にした言葉は返す刀で慧音によって切り捨てられた。
遠慮して生きることなど理解できない妹紅は、そんな星を眺めながらポツリと零す。
「好きなら好きって言えばいいのに。なーんで逃げ出したりしたんだか」
「まぁ、察するにアレでしょ。好きだけど傷つけたくない、傷つきたくないっていう有りがちなヤツ。……殴っていい?」
つまりは星の優柔不断が招いたことか。至った結論は幽香の堪忍袋を大いに刺激し、握り締めた拳が、実力で言えば幻想郷でも屈指の存在であるはずの星を怯えさせた。
妹紅が横合いから煎餅を差し出し、これに怒りをぶつけろということか、仮に幽香の可憐な外見しか知らぬ男が見たら百年の恋も冷める乱暴な仕草で噛み砕く。
「分かりやすい解説ありがと、幽香って実は恋愛上級者?」
「霊夢ん家で吸血鬼の忘れてった漫画で読んだ」
感心した風に訪ねる妹紅に、幽香は無感動に言った。
一日、その漫画を読んだ幽香は主人公の優柔不断っぷりに激昂して思わず漫画を放り投げた。
霊夢はその無作法に眉を顰めたが、何も言わずに飛んでいく漫画を眺めやるだけだった。
地に落ちる未来を待つばかりと思われた漫画は、しかし丁度忘れ物を取りに来たレミリアによって顔面捕球されその運命を免れた。
そして当然の様に弾幕戦に突入したのだが、無論そこは揃って霊夢に撃墜されて試合終了。
思い出すだけで痛みが蘇ってきそうな霊夢の弾幕を脳裏から頭を振って追い出し、幽香は一つ身を乗り出す。
「まっ、やりたいようにやればいいのよ。私たち妖怪が小難しく考えて、心をがんじがらめにする必要なんて無いわ」
「おっ、良い事言うじゃない」
妹紅の賞賛に気を良くしたのか、もう一押ししてやれとさらに言葉を重ねる。
人差し指と中指の間に親指を挟んで。
「女ならやってやれ!よ」
「幽香!妹紅の前でそんな卑猥な手振りをするな、教育に悪い!」
「慧音、私貴方より年上……」
「よく知ってたわねぇ。何よ、お堅いフリして実はムッツリ?」
「ゆぅぅかぁぁ!!!」
てんやわんやと騒ぐ連中の姿は気にならないのか、星は思考に意識を埋没させていく。
ナズーリン、と呟く。
眼を閉じれば鮮明に浮かび上がってくる彼女の姿。その表情はいつも不敵に笑っているか、心から信頼するものにのみ向ける優しい笑顔だった。しかし今、彼女は悲しそうに眼を伏せている。
星はナズーリンが悲しむ姿だけは見たくなかった。
難しく考えるな、幽香はそう言った。
好きなら好きと言えばいい、妹紅はそう言った。
どうすればよいのか、何が最善かは分からない。だが確かに、行動すべき理由はそこにあった。
=====
「ぶべらっ!」
空を飛べるという事実を命蓮寺に置き忘れてきたらしいナズーリンは顔から地面へと落着し、大地の熱い抱擁を持って上白沢家の庭に迎えられた。
「何事!?」
「カチコミよ!」
「輝夜ぁ!」
突然の衝撃に障子を開け放って縁側に殺到する一同。慧音は純粋に驚き、幽香は色めき立ち、妹紅は火を吹いた。
「ナズーリン?!」
「やっ、やぁご主人様、お久しぶり。ああっ!逃げないで!」
やや遅れる形で庭に顔を出した星は、そして陥没した地面から顔を出すナズーリンと眼が合った。
もう少しで決心が付いたかもしれない、いま少し早いナズーリンの登場に星は慌てふためき、転げるようにして逃げ出そうとする。
ナズーリンは慌てて制止し、追い縋る声に星は縛りつけられたかのように立ちすくんでしまった。
「話が、したいんだ」
―――――
「あの、ナズーリン?首が変な方向に曲がってますよ」
「どうりで歩きにくいと思った」
コキリ、と良い音をさせて首を元に戻すナズーリン。線の細い可憐な少女にしか見えない彼女だが、なかなか豪胆な事をする。
二人っきりで話がしたいと言って慧音たちには屋内へと引き上げてもらった。
肩を落として庭の惨状を眺めていた慧音には一輪を遣して修繕させると確約した。これくらいはやってもらって当然だろう。
静かに閉められた襖の音が聞こえてから暫しの沈黙を挟み、星が口を開く。
「……ごめんなさい、あの時逃げ出してしまって」
柳眉を下げる星にナズーリンは笑って手を振る。
「仕方ないさ。あんな場面に出くわして平静でいられたら、それはそれで困る」
無表情でやり過ごされたら、ナズーリンは生涯立ち直れぬ傷を負ったかもしれない。或いは、新たな扉を開いたか。
「それでも、ごめんなさい。私は貴方を傷つけた」
「まぁ、確かに少しばかりは。嫌われたかもしれないと、軽蔑されたのではと、そんな不安に駆られたりもした」
「…………」
「でもそう考えると、少しムラムラっと来た。だから気にしないで欲しい」
「ええ、と……そうします」
そんなことを言いたいわけではない。言いたいことは沢山あるも、言うべきことは一つだった。
臆病な自分がそれを阻み、つまらない冗談で逃げ腰の言辞を弄する。
そんな自分を嗤って、だがナズーリンははっきりと星の瞳を見上げた。
「ご主人様。私は、貴方を愛しています」
「言った、言いいましたよ妹紅!ああ、なんて大胆なんだ」
「ちょっと幽香、少しくらい団子分けてくれてもいいじゃないの」
「嫌よ、これは私の。貴方はしけった煎餅でも食べときなさい」
既に事情の凡そを把握している彼女たちも、障子の隙間から事の成り行きを暖かく見守っている。
「……ごめんなさい」
星の口から発せられた言葉ははっきりとした拒絶だった。
だがナズーリンはその言葉を聞いても、心が砕けることは無かった。
予想していたから、いや、星の顔が苦渋に満ちていたから、その言葉が本心でないと容易に見て取れたからだ。
「何故、と聞いて構わないかな、ご主人様?」
小波一つ起こさないナズーリンの心。むしろ穏やかに過ぎる自分の声に驚いたくらいだった。
「私が貴方に感じる愛情は、貴方のそれとは――違う」
眼を逸らしながら言う星。
なるほど、一輪の慧眼は確かなようだとナズーリンは胸中で苦笑する。
「そんな顔をしていては説得力に欠けるぞ、ご主人様」
自分の眼は確かに曇っていたのだろう。
恋とはかくも人を臆病にさせるものだと、場違いともいえる冷静な思考がその事実を受け入れた。
「気持ちを抑えるな、ご主人様。私は言った。怖かったよ、今まで築き上げてきた関係を壊してしまうかもしれないのだからね。いや、もう数日前にブチ壊したか」
切欠を得たからこそ、更には一輪に背を押されたナズーリンは一切の決着を着けるべくここへ訪れた。
何を不安に思っているのか、何故そうも気持ちをひた隠しにするのか、今ここで全てを彼女の口から言って欲しかった。
「ご主人様、貴方は何を恐れている?」
ナズーリンは自分の内に常の調子が戻ってきた事を自覚した。
怜悧な言葉で星を見据え、その瞳は韜晦を許さない迫力に満ちていた。
抗う術を持たない星は観念したように眼を伏せる。
「……ナズーリン、貴方は毘沙門天様に命じられて私の下へ来ました」
「始まりはそうだったね。まさか今でも、私が義務感でここにいるとでも思っているのかい?」
それは違うと星は否定する。
初めて出合った時、ナズーリンは今と寸分変わぬ姿で目の前に立っていた。
唯一違ったのが、彼女の表情。平静を装っているつもりらしいが、隠し切れない猜疑を覗かせる胡乱げな面持ちで見上げてくるナズーリンに笑いかけると、彼女はただ義務的に挨拶しただけだった。
「どこか斜に構えて、常に冷静で、周囲と明確な一線を敷く貴方を初めて見た時、こう思いました。笑顔が見たい、家族になってやりたいと」
ここにいるのはあくまでも毘沙門天の意思ではあると、ナズーリンはよく働いたが他人行儀な態度を崩すことはなかった。
白蓮から与えられる無条件の愛情は、野良妖怪に過ぎなかった星の豊かな心を形作った。
星は白蓮に憧れ、そして頑ななナズーリンに白蓮の様に接しようと決めた。
「貴方は応えてくれました。初めて私に笑いかけてくれた日を、私は鮮明に覚えています」
「私もよく覚えているよ。ご主人様はコクワの実とマタタビの実をとり間違えて、へべれけになってしまっていたね」
「やっぱり忘れてくれませんか?」
「ムリダナ」
柔和な笑顔の下に確固とした意思と決意を秘め、星は勤勉に勤めを果たした。
星の下で過ごす内、ナズーリンは彼女への第一印象と抱いた不安は見当外れだと自覚した。
凛とした佇まいで不逞の輩を見事折伏せしめた時などは、彼女に傅く事を誇らしく思えたほどだ。
そんな矢先に起こった珍事。だがナズーリンは星に失望するのではなく、逆にある種の好ましささえ覚えた。
今にして思えば、花を咲かせた星への愛情が芽吹いたのはこの時だったのかもしれない。
「ナズーリン、私にとって貴方との関係は何よりの宝なのです。もし一線を踏み越えてその果実を味わえば、もう後戻りは出来ません。上手くいく保証はどこにもありません、やはり今までどおりの関係でいるべきです。変わる必要なんてない。今ならまだやり直せます」
ナズーリンにとっても、今までの関係は心地が良いものだった。
信頼と尊敬で結ばれている、互いを思いやり、多くを言葉にする必要も無いほどに、心魂を預けるに足る理想的な主従だとさえ思っていた。
或いはあの夜のことを忘れ今まで通りに付き合うと、そうすることだってできるのかもしれない。
だがそれでも、
「私はとっくに後戻り出来ない所まで来ているんだ。今更無かったことになんてできない」
それでも真の意味で今まで通りになるとは思えない。心に残ったしこりが、やがて鋼の楔となって二人の間に決定的な亀裂を穿つかもしれない。
「だから私は、このまま何もせず無為に過ごす方が怖い」
破綻を座して見守ることほど恐ろしいことは無い。行く先に滝が待ち受けているのに、そのまま船を川の流れに任せる愚か者がどこにいる。
事ここに至り、前へと進む道しかのこされていないのだ。
「ご主人様の気持ちも分かるよ、先のことなんて誰にも分からない。でもみんな変わっていくんだ。聖は復活した、一輪や村紗もいる、命蓮寺だってある。……ぬえは相変わらずだが」
「…………」
「変わらないでいることなんて不可能だ。無論、私たちも。ならせめて、悔いを残さないように行動すべきだと思う。失敗したとしてもね。そして今、私には行動すべき理由がある。それはご主人様、貴方だ」
言い切って息を荒くするナズーリンは、星の言葉を待つ。
口を開き、再び噤む。そんな風に繰り返す星は、なお頼りなさげに言葉を風に乗せる。
「……私は、皆が思うほど誠実ではありません」
「知ってる。前に私の草餅をこっそり摘み食いしたの、ご主人様だろう?」
「私は、地位にそぐわぬ強欲者です」
「それも知ってる。大皿に残った最後の一品、食べるのはいつもぬえかご主人様だ」
「私は――」
「全部知ってるよ。ずっと傍でご主人様を見てきたんだ。仕草も癖も、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、全部」
ならいったい、貴方のどこを嫌うかもしれないというのか、ナズーリンはそう言って安心させる笑みで微笑む。
「だから自分をそうまで貶めるようとする必要は無い。もう一度言うよ、私は貴方が好きだ。ずっと貴方を想っていた。そして、きっとこれからもずっと」
言葉を切り、笑みをそのままに星へと歩み寄ろうとする。
ナズーリンを押しとどめるように、星は最後の言葉を紡ぐ。
「……本当に、いいのですね?私なんかで」
「私に他の誰を愛せというのか」
「後悔させるかも」
「もう後悔してる。今まで指を咥えて見ているだけだった自分にだがね」
更に歩み寄るナズーリンを、今度こそ逃げることなく星はその場で待ち受けた。
隔絶してしまった心が再び寄り添いあう様に、二人の間は狭まっていく。
手を少し伸ばすだけで触れ合う僅かな距離。それは二人のいつもの距離で、今日は何故だかまだ遠く感じた。
もどかしささえを感じるナズーリンは更に星へと歩み寄り、いつも横から見上げるばかりだった星の顔を正面から見据える。
やがて星は引き寄せられるようにして身を屈め、ナズーリンは彼女の頬をその小さな手で優しく包み込み――――。
「せっ、接吻まで!?写真機はどこに仕舞った?いやっ、書け。書き記すんだ!」
「ちょっ、勝手に食べるな!」
「何よドケチ!目の前にご馳走ぶら下げられて黙ってろっての?!このドSが!」
障子の隙間から見守る彼女たちも、二人の思いが成就したことに快哉を叫んだ。
ゆっくりと離れる二人の身体。
あれほど拒んでいたのに、いざそうなると名残惜しそうな顔をする星はなるほど確かに強欲だ。
続きはあとで、そう言うと星は露骨に肩を落とす。ナズーリンは思わず噴出し、そして優しく囁いた。
「帰ろう、ご主人様」
=====
何やら満足気な慧音と、何故か服を乱している幽香と妹紅。
結局塵ほどにも役に立たなかった三人に見送られながら、ナズーリンに手を引かれる星は命蓮寺へと数日振りに帰宅した。
星たちを出迎えたのは、門の前で静かに佇む白蓮だった。
ご心配をおかけしました、と深く頭を下げる星。白蓮は何も言わず彼女の短い髪を梳くように撫で、季節外れの春風が通り過ぎる様な優しい抱擁で言葉に代えた。
一輪が夕食の支度をしていると残して、白蓮は堂内へと戻っていった。
二人の晴れやかな表情は万の言葉にも勝り、もう何も心配することはないと物語っていたのだろう。
彼女の気遣いが有難かった。何があったと説明することが難しいわけではない。ただ、気恥ずかしさがあったのだ。
収まるべきところに収まった新しい恋人達が新しい日常を始めるために門を潜る。
住み慣れた場所、だが全てが新鮮に思えた。
ご主人様、とナズーリンは隣の星へと囁く。
「なんでしょうか」
「その……これからも、よろしく」
「――はい」
手を繋ぐナズーリンと星の姿を見た時、一輪の胸にあった感情は驚きではなく、やはり得心であった。
星は謝罪を、ナズーリンは礼を、それぞれに頭を下げる二人に、なんでもないといった風に手を振って応え、食事の仕度があると言って勝手場に戻っていく。
去り際に、今夜はご馳走よ、と片眼を瞑り頬を吊り上げて笑う一輪は、白蓮の忠実な弟子としてその器の大きさを見せ付けるものだった。
―――――
「万事丸く収まったわけだけど、これはどうよって思うわね。正直」
夕食の支度を終えて、皆を呼びに勝手場から現れた一輪は目の前の光景にため息をついた。
「こら、ナズーリン。手が悪戯ですよ」
「ふふっ、虎狼は防ぎ易く鼠は防ぎ難し。雌雄は決した。観念して私の熱い抱擁を受けたまえ、ご主人様」
意味が違うわよ、と一輪は呟く。
帰って来てからずっと、松脂よろしくくっついて離れない星とナズーリン。
晴れて両想いの仲となった二人は、と言うか主にナズーリンが星に怒涛の求愛攻勢を仕掛けている。騎虎の勢とはまさにこのことか。
口では嫌を言う星も、その顔は解けたチーズのようにしまりが無い。
恋人たちの逢瀬を邪魔したくはないが、人目も憚らずイチャつく頭の沸いた二人に節操の何たるかを辞書を引いて懇切丁寧に説明してやりたい誘惑に駆られる。
「一輪、あの、これはどういうことなのでしょうか?」
そうして暫し辞書の在処に思いを馳せ二人を眺めていると、敬愛して止まない白蓮に後ろから困惑した声を掛けられた。
どういうこと、とは星とナズーリンのことを指しているのか。
妖怪である一輪からすれば星とナズーリンの関係は別段おかしいとは思わない。長い生涯、そのような時期があってもいいだろう、その程度だ。
だが白蓮は元を正せば彼女は人間。その道徳観念に沿い、同性同士という関係は快く受け入れられないのかもしれない。
であるなら困ったことだと、白蓮ならば大丈夫だろうと無意識に考えていた一輪は何と取り繕えばよいものか頭を抱える。
「どうと言われましても、愛ですよ。愛」
「愛、ですか。……あれが?」
だが都合良く天啓が降ってくるわけも無く、出たとこ勝負だと振り返ると白蓮の視線があらぬ方向を向いているのに気が付いた。
その視線を辿っていくと、
「お、おお……ミカン、襲ってくる、中から。お腹痛い」
「村紗ぁ、私黄色くなってない?」
頭の沸いた恋人たちではなく、畳に転がって呻く村紗とぬえの姿があった。
先日、星が神様同士のお近づきにと秋姉妹から頂戴した木箱一杯のミカン。
季節故か、気前良く大盤振る舞いされたそれはまだ結構な数が残っていたはずだったのだが。
畳の上で蠢く二人は、まさか宣言通りにミカンを全て平らげたのだろうか。
「愛、それは時に大いなる苦痛をもたらす。そういうことです」
だがそれを一々説明するものアホらしく面倒だった。適当にそれらしいことを言って誤魔化した。
「……愛とは、奥深いものなのですね」
一輪を疑うことを知らない白蓮は感心したように呟く。
そんなことよりも食事にしましょうと、白蓮の背中を押してその場を後にする。
白蓮は残された彼女たちを気遣うが、殊更に邪魔することもないだろう。どちらにしろ彼女たちは愛情、もしくはミカンで腹一杯だ。
食堂に着くと、今回が初めて白蓮と二人っきりで取る食事になるということに思い至った。
ナズーリンを後押ししてやったご褒美だということか。情けは人のためならず、良いことはしておくものだ。
「ところで、寅丸とナズーリン、とっても仲良しになってましたね。何があったのかしら?」
「さぁ?ただはっきりしているのは、夜は二人の部屋に近寄るべきではないということですね」
首を傾げる白蓮に、二人分の食事を並べながらそ知らぬ顔で言った。
いつもより少し豪勢で彩り豊かな食卓。白蓮は食べてしまうのがもったいないと笑う。
そんな白蓮を眺める一輪は、彼女に常の笑顔が戻ったことに安堵する。
かつて、人間と妖怪が平等な世界を求める白蓮を世界は排斥した。
それから長い時を経て、白蓮の復活から続く幸福に満ちた生活に一輪は頬を緩める。
幻想郷は妖怪たちの楽園である。
古典的な妖怪同士と仲良くしましょうと、雲山に、そして何故か傍らの一輪にも親しげに振舞う天狗のブン屋はそう言った。
白蓮の志す処にのみ己の道を定める彼女にとって、その物言いはさして感傷を呼び起こさなかった。
だが今、それが少し理解できた。
きっと多くの妖怪がここを安住の地と定め、ナズーリンたちのように潤し、育んでいるのだろう。
楽園。確かにここは楽園だった。こうして色恋に一喜一憂できるのも、幻想郷であればこそ。
せめてそれが、一欠片でも人間に向けられてくれたらと思う。それが白蓮の望む世界でもあるから。
目の前の白蓮が微笑み、つられて笑う。
皆が幸せだったら白蓮は笑顔でいてくれる。
ここではそれが許される。
そのためだけに一輪は願う。
幻想郷の恋人たちに、幸よあれかし、と。
こうして今回の騒動は収束を向かえ、命蓮寺は日常へと回帰した。
命蓮寺はこれからも里に教えを説いて、人間と妖怪とが平等である世界のために忙しい毎日を送ることになる。
新しい恋人たちの始まりにはいささか騒がしい門出となろう。
「ご主人様、眼を瞑って」
「分かってますよ、ナズーリン。やれやれ、これでは唇の乾く暇もありませんね」
だがそれも、こうして真に全てを分かち合うに至った二人には、その幸福にとって瑕瑾となることはないだろう。
寅丸星とナズーリンの出会いは、毘沙門天の代わりを務める星の下へナズーリンが監視の名目で遣わされた事をその始まりとする。
星は暗愚ではない。毘沙門天の考えるところを明瞭に理解していた。
それでも、彼女はナズーリンを暖かく迎え入れた。白蓮が自分にそうしてくれたように。
その始まりに、ナズーリンが星へ抱いた感情は不安。
その胸の内を知ることも無く、柔和な笑みで笑いかける星にナズーリンは彼女の職責への自覚に信用がならず、先行きを考えて陰鬱になった。
だがそんなナズーリンの心配を余所に、もとより出群抜萃の妖獣である星はその地位に応じた才覚を遺憾なく発揮し、白蓮の推挙した所為を余すところ無く見せ付けた。
常に傍に控えるナズーリンが己の不見識を改めるのにはさほど時間を必要としなかった。
初めてご主人様と呼んだ時の星の表情を、ナズーリンは今も鮮明に覚えている。
その邂逅からおよそ一千年の時を経た現在――。
=====
命蓮寺に訪れる参拝者が増えてくると、白蓮は教えを更に広めるべく説法会を開くことを提案した。
誰が語って聞かせるか、それは言うまでも無く白蓮と星の勤めるところである。
最初の説法会には興味本位で参加する者ばかりであったが、終わってみれば意義ある時間だったと神妙に頷いて見せてくれた。初めての試みであったが、まず成功と見ていいだろう。
そして説法会が広く認知されるようになると、次第にそちらへ参加する者も人妖を問わず増えていった。
軌道に乗ったと皆が胸を撫で下ろしていた頃、その参加者側の特徴に明確な差異が存在することに気付いた。
すなわち、白蓮が説法を行う時は比較して男性が多く、星の時は女性が、といった風にである。心根が透けて見えるというものだ。
この俗物が、とナズーリンは頭を抱える。以前そのことについて白蓮に一言申し上げたりもしたが、
「迷えば凡夫、悟れば仏。それもまた人の性です。受け入れましょう、そのための命蓮寺です」
彼女は一向に気にした様子もなく、そう言ってリンゴ飴を頬張る。
参拝に訪れた一家に挨拶した折、喜捨のつもりか、母親に手を引かれていた娘から渡されたそうだ。
白蓮は初めからその志すところを誰にも臆することなく掲げていた。
戸惑いを見せる者もいたが、尽力の甲斐あって今では命蓮寺の存在を里人も自然と受け入れ、りんご飴を例に挙げるまでもなく、ささやかながら喜捨物を頂戴することもままある。
つまりはその信仰を集めている証左だろう。
少しばかりの下心はご愛嬌、まずはその蒙を開いてやることこそが肝要ということか。
ナズーリンも白蓮の言い分には首肯できる。できるが、
あのメスどもめ……。
命蓮寺の本堂では現在、星が説法会を行っている。その参加者はやはり女性が多かった。
堂内に集められた人々へと語りかける星。その傍に控えるナズーリンは小さく毒づく。
彼女たちの中には凛々しく引き締められた星の顔を見て頬を染めている者も多い。あの時首肯したことを後悔しそうになる光景だった。
ナズーリンは彼女たちを忌々しく眺める。無論顔には出さないが、それでも星が今の彼女の顔を見れば何事かと慌てただろう程にその心中は荒れていた。
だが同時に、こうも考える。彼女たちはこの凛々しい星しか知らない、そしてそれが星の全てだと思っているだろうと。
本来の星はもっとのんびりとした穏やかな性格のお人好し。勤勉実直ながら妙に粗忽なところもあって、時折とんでもない失態をやらかす。
ナズーリンの知る星はそういう人物だった。
彼女が何か失態を犯せば後始末に追われるのは常にナズーリンの役目ではあるが、申し訳なさと安堵の入り混じった笑みで返される礼の言葉が全てを瑣末事と思わせてくれる。
それは幻想郷に至るまでの長い旅路、星の傍で彼女を支え続けたナズーリンにだけ与えられた特権だった。
今星の前にいる女性たちはもちろん、白蓮や他の仲間たちにさえ向けられることの無い顔を自分だけが知っている。
それを思うと、彼女たちに対して少し溜飲が下がった。
唐突に頬を吊り上げたナズーリンを、彼女と並び立つ一輪は何か含みのある顔で盗み見たが、特に何も言わず前に向き直った。
=====
夜の帳が落ちて、すでに門の閉められた命蓮寺に里人の姿は無い。
勤めを終えて皆で夕食を取った後、いよいよ一日の締めくくり、つまり入浴の時間である。
一番風呂は常に白蓮、次いで星、あとの順番はジャンケンで決められる。白蓮たちもジャンケンに参加したいとよく言うが、立場上それは丁重に断らせてもらっている。
本音を言えば、温くとも長風呂するために順番の最後を争っているためにその競争率を下げたいというだけなのだが。
風呂から上がったナズーリンは白湯を片手に自室へと引き上げた。
襖を閉めると一日の終わりを体が認識したのか、疲れが湧き上がってくる様に感じる。
切に求めていた、しかし少し前までは想像も出来なかった穏やかな生活。皆の表情は生き生きとしていて、幸福に満ちていた。
だがナズーリンだけはその幸せがいつまでも続くものなのかと一抹の不安を抱く。
はっきりとした悪因に心当たりがあるわけではない、ただ生来の悲観論が首をもたげるのだ。参謀役として当然の思考ではあるが、そんな自分に時々滅入る。
この幻想郷のどこに白蓮の道を妨げる者がいるというのか。まったくの杞憂であろうとはナズーリン自身理解していて、どれだけ経っても変わらない自分の性分に苦笑する。
「やれやれ、これではせっかくの夜が台無しだな。……よし」
気持ちを切り替えるものを欲したナズーリンは、やおら落ち着きを無くした様子で背の低い文机に駆け寄って静かに引き出しを開ける。
そこから取り出されたのは一体の小さな人形。年季を伺わせる色の落ちかけた人形は、それでもほつれ一つなく大切に扱われていることが窺えた。
壊れ物を扱うようにしてそっと抱えて、行儀良く座布団に正座するナズーリンは、一秒呼吸を止めて真剣な眼差しで人形を見つめる。
「あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!ご主人様ご主人様ご主人さまぁわぁああああ!!!
あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん
んはぁっ!ご主人様のブロンドメッシュの髪をクンカクンカしたい!クンカクンカ!あぁあ!!
間違えた!モフモフしたい!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!!
宝塔なくした時のご主人様かわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!!
宝塔見つかって良かったねご主人様!あぁあああああ!かわいい!ご主人様!かわいい!あっああぁああ!
命蓮寺も建立できて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ―――――あっ……」
「な、ナズーリン?何をしているのですか?」
「ご、ご主人様……」
開け放たれた襖と、驚きに満ちた星の顔。
「ち、違うんです!これはその――机上演習!」
「……頑張ってください」
そして静かに閉められる襖。
「ご主人様?!ご主人様―!!!」
千年に及ぶ二人の蜜月―ナズーリンにとって―それが今、些細な出来事によって砂上の楼閣の如く儚い終わりを告げた。
=====
「ナズーリン大変よ!寅丸さんが家出したわ!」
明けて翌日。星を呆然と見送り、そのまま一晩中自失していたナズーリンは、襖を開け放って現れたぬえの姿に我を取り戻した。
既に朝日は空の高きまで昇っていた。障子の向うから日が差し込んでいるのを見て、いつもの起床時間を大幅に超過していたことにようやく気付いた。
一睡も出来なかったせいで霞む頭を抱え、ぬえに引きずられて食堂にやって来るとそこで出迎えたのは一輪の狼狽した声だった。
朝の沐浴を星と一緒に行うことを習慣としている白蓮は、いつも通りの時間に浴堂で待っていても何故か現れない星に首を傾げ、その時はそんな日くらいあるだろうと特別気にすることなく一人で沐浴を終えた。
そして浴堂から上がり朝食を待つために食堂へと移動し、当番の一輪が朝食の支度をする姿を座って眺めていた。
次いで村紗とぬえが起きだしてきて、主従揃って寝坊するという稀有な朝に皆で笑っていたのが先程のこと。
それから暫し、既に朝食の支度が済んでいるのにいつまでも現れない二人。
いい加減腹の虫が催促を始めた頃、村紗とぬえがそれぞれを起こしに行って、
「ちょっ、これ見てください!」
紙片を握り締めた村紗が慌てた様子で戻ってきた。
覗き込む聖と一輪。そこに書かれていたのは、
美味しいおはぎの作り方。
「間違えました、こちらです!」
旅に出ます。探さないでください。
それは筆致の乱れた一文の綴られた置手紙だった。
―――――
「でも何故家出など……。私に何か至らぬ点でもあったのでしょうか?」
「姐さんに不満なんてあるわけないですよ」
「…………」
あまりの衝撃に足元の覚束ない白蓮は一輪に支えられ、青ざめた表情で柳眉を下げる。
基本的にいい人である彼女は第一に自分の非を疑い、白蓮が白と言えば黒でも白と言うことに躊躇わない一輪が脊髄反射で否定する。
当然ながらそれは白蓮の杞憂であり、責任の所在を求めるべき相手はすぐ傍で、ビンに詰めれば一財産築けるのではというほどに脂汗を流し沈黙を保っていた。
「夕飯の献立が気に入らなかったんじゃないの?」
「ぬえ、貴方と一緒にしない。それに昨日、寅丸さんは美味しそうに食べてました」
白蓮とは対照的に気楽そのものに構えるぬえはいつものことだが、昨晩の夕食を作った村紗はそう言って嗜める。
事実、昨夜の夕食に出された栗おこわを星は美味しいと言って二度も茶碗を村紗に差し出した。
地上に戻ってきて初めての季節の食事。皆でおひつを空にして食べ過ぎたと笑っていた。
たった一夜で何があったのか、困惑を極める事態に村紗は頼りなさげな視線を彷徨わせる。
「ナズーリン、貴方なら何かご存知なのでは?」
「…………いや、知らない」
ほのかな期待を込めて星に最も近しい存在であるナズーリンに訪ねるも、彼女は押し黙ったまま。
ようやく口を開けばそれは否定の言葉だった。
探してくると言って足早に立ち去るナズーリン。重々しい雰囲気を纏い朝食も食べずにおっとり刀で外へ向かう彼女に、さぞ辛かろうと村紗は心配そうに見送った。
=====
「貴様、風見幽香!里で何をしている!?」
「買い物」
夏の日差しを受け咲き誇っていた向日葵が眩しい太陽の畑も、移ろう季節と共にその姿を緩やかに変えていく。
寂しげに見送る幽香も、だが日々の生活に変わるところも無く、冬支度に一段落付いた彼女は人里に買出しのため訪れていた。
そして用事を終えて、特別長居するつもりのない幽香は足早に帰り路に付き、その途中で慧音に出会った。
会えば挨拶する程度の顔見知りで、特別親しいわけではない。足取りを緩めることなく慧音の傍を通り過ぎようとしたら、何故か表情を強張らせている彼女は指を突きつけて叫んだ。
訳が分からない幽香はとりあえず買い物籠を持ち上げてみせる。調味料や干物、漬物といった生活観の溢れるその中身。彼女の今晩の献立が気にならないこともない。
「……すまん。人違いだ」
ここ数日、里ではある噂が人々の口の上っていた。
曰く、夜な夜な竹林の方から獣の唸り声が聞こえる。
曰く、あれは獲物を前にして辛抱できない強力な妖怪だ。
曰く、近々里を襲うつもりなのだろう。
曰く、あれは仕事のストレスを吐き出す慧音先生の声だ。
「で、里を回って警戒していたところに私が現れた、と?」
「そういうことだ」
間違えたのならしょうがないよね、とそのまま笑って許す風見幽香ではない。
踵を返す慧音の肩を、細く艶やかな手からは想像も出来ないほどに力を込めて掴み、事情を説明しろと迫る。
勇敢な慧音は振り返り、幽香から決して視線を逸らすことなく悠然と茶屋を指で指した。
団子食べる?
いただくわ。
そして許しを請うた。
山と詰まれた団子が幽香の口に運ばれていくたびに財布が痩せ衰えていく様を錯覚する。
恨めしそうに眺める慧音の視線に心地好ささえ感じる。
そして慧音の財布が飢餓に陥るか否かというところでようやく手を止めて、慧音の語る事情に納得し彼女に代わって話を締めくくった。
「獣の声ねぇ……。何、私ってそんなイメージなわけ?ねぇ?」
「少し気が張っていたんだ。お前は強い、それ故警戒してしまった。それに、だからこうして詫びに団子をおごってやっているだろう!?」
美人の笑顔はある種恐怖を抱かせる。眼を細めて顔を近づけさせる幽香に腰の引けている慧音だが、それでも確りと言い返すあたりは、さすが人里の守護者を自認するところのものである。
「ふふん。お土産まで貰っちゃって、律儀な人は私も好きよ」
食欲を満たせば幸福を感じるのは人も妖怪も変わらないのか、或いは慧音の様に溜飲が下がったのか、幽香はそれ以上追求することなく矛を収めて腰を上げた。
思わぬ幸福に自分の日ごろの行いの良さを実感し、用事は済んだと団子の笹包みを片手に買い物籠を持ち上げる。
「それじゃあ私は帰るけど、精々頑張りなさい」
去り際の暖かい励ましの言葉に慧音は橡ほどの涙を流す。無論、最高級羽毛布団の様に軽い財布は全く関係がない。
そこでふと思いつく。
警戒する相手は未知の敵、どれほどの実力を秘めているか見当もつかない。約定があるにも拘らずこうして連日里まで届く唸り声を聞かせるほどの相手だ。或いは戦力が必要となるかもしれない。
そこまで考えて、今一緒にいる者が誰かを思う。誰あろう風見幽香、最強とも言われる四季のフラワーマスターその人である。
「いや、待て。幽香、私を手伝ってくれないか?」
「やだ」
涙を拭って名案だと表情を輝かせる慧音に、しかし幽香の返答は冷たかった。
「……強敵と闘えるかもしれないぞ?」
「面倒」
「レアアイテムをドロップする可能性も」
「いらない」
にべもなく否を言う幽香。季節の変わり目に少しばかり感傷的になっているのか、常ならば喜び勇んで戦いに行きそうな彼女がどうにも消極的だった。
何とかして彼女を篭絡してやりたい慧音は懐柔策に切り替えるも、やはりその返答は芳しくなかった。
「いいじゃないか、お前は戦うと元気になるんだろう!?」
「まるっきり危ない人じゃない。それ」
柳に風、暖簾に腕押し、けんもほろろに断られ続けてもめげない慧音も諦めが悪いが、足を止めて言葉を返してくれる幽香は大概付き合意が良い。
里を守るため必死なのか、そのうち腕を掴んで是が非でも逃がさないといった風体で幽香に迫る。
「なぁ、頼むよ。里が無くなれば、お前も困るよなぁ?通りの漬物屋や、外れの花屋がどうなってもいいのかぁ?」
「人質のつもりか?舐めたまねを」
「ん~?知らんなぁ」
「そうまでして私を戦わせたいのか!?」
「お前に相応しい活躍の場を与えてやろうというのだ」
一転、眼を血走らせて詰め寄る慧音。
そして彼女の里の人々を守りたいという真摯な願いが通じたのか、幽香は不承不承であっても頷いた。
慧音は嬉しそうに頷き、改めて幽香の手を取る。
「よし!では先ず対策会議だな。家まできてくれ」
小躍りしそうな慧音の表情とは対照的に、どんよりと曇った冬の空の様な顔をする幽香はそのまま引きずられるようにして、いや実際に引きずられて慧音の自宅まで向かって行った。
偶然それを見ていた稗田阿求は、幻想郷縁起に一筆書き加えようと心に決めたという。
=====
たとえ星がいなくとも日々の勤めを疎かにすることがあってはならない。
彼女の出奔から数日、命蓮寺の住人たちは心の内を覆い隠して訪れる者に常の笑顔で接していた。
気を緩めればふとした拍子に表情を曇らせてしまいそうになるのか、皆常以上に精力的に働いている。
早くなんとかしなければ。ご主人様はいったいどこへ行ってしまったんだ。
星を探して朝も早くから幻想郷を飛び回り、へとへとになりながら帰ってきたナズーリンはよく磨かれた廊下を歩きながら独りごちる。
聞かれれば、星の不在は病に臥せっていると説明した。
日頃から熱心に勤めを果たし、現身説法だと言って里へ赴き人々と直接会話を交わすことも多い彼女の精力的な姿は里人の間でも評判であるために、皆疑問を持つことなく納得してくれた。
だがいつまでも誤魔化しきれるわけもなく、何より騙りを働くのは心苦しい。
仮に事が露見すれば命蓮寺への信頼は揺らぐだろう。ナズーリンは一層の危機感を覚える。
……だが、会ってどうすればいい。
喉を潤して、もう一度探しに出ようと踏み出した一歩がそこで止まってしまう。
もし見つけても拒絶されてしまったら、ならばいっそ見つからなければよいと、馬鹿な考えが鎌首をもたげナズーリンを睨め付ける。
常に星の傍にあって、ナズーリンが鮮明に自覚してなお強く潜めていた愛情。
星の出奔は自分に対し失望したからなのだろうか、ナズーリンは不安になる。
妖怪の、特に力の強い者の寿命は極めて長い。故に種族的な特性を除いて、こと繁殖に対する意識は消極的である。また人間の道徳観念には関心が薄く、その大半は享楽的な生き方に沿う。
つまり一言で言えば「同性同士で何の問題があるんだ」とそういうことである。
白蓮が特に気に入っている人間の魔法使い、霧雨魔理沙が茶飲み話に面白おかしく語った紅魔館の日常。
当主と門番が館内を取り仕切る人間のメイドの尻を常に追っ駆け回していると聞いた時などは、これぞ妖怪の性と大いに頷いたものだ。
そしてその時星も一緒にいて笑っていた。だから彼女も同性間の緊密な交友に対して肯定的な立場にあるとナズーリンは仄かな期待を抱いた。
それでもよく考えれば分かることだろう、星は一介の妖怪でありながら推挙され毘沙門天の弟子となり、その代理を任されるほどになった傑物。
自分は飽くまでも部下でしかない、所詮は分をわきまえぬ想いだった。
星との間に信頼関係はあっても、その先を期待してはいけなかったのだ。だのにあの様な狂態を晒して、どの面下げて彼女の前に立てばいい。
再会を思うと、足は鉛のように重くなり前へと進めなくなってしまう。
考えるなよ、ナズーリン。勤めを忘れるな。
だがいつまでもこうしてはいられない。ナズーリンは再び幻想郷の空へと飛び立たつべく、否を言う足を強引に引きずっていった。
―――――
「へーちょ」
「ちょっと、汚いわね。手で隠しなさいよ」
「お嬢様、風邪ですか?」
紅魔館の大図書館では少し早い年末の大掃除が行われていた。
地上へと避難してきた喘息持ちの魔法使いを見つけたレミリアは、彼女を誘ってサロンで紅茶を飲んでいた。
そしてその最中、不意にくしゃみがでた。鼻を擦るレミリアにパチュリーは無作法を咎め、咲夜は心配そうに覗き込む。
「んー、そうかも。ったく霊夢の奴、何が『乾布摩擦は健康にいい』よ。それで風邪引いてちゃ世話ないじゃない」
「あらお嬢様、霊夢の言っていることは正しいですわ。私も昔から美鈴と一緒にやっていますが、おかげで風邪知らずです」
「……年寄りの冷や水」
朝の寒気に歯の根が合わないのを我慢して試してみればこの有様と、不機嫌になるレミリア。
乾布摩擦は皮膚を刺激することで血行を良くし、同時にその運動により汗をかくことで汗腺も鍛え代謝を促進する。また冷気に肌を晒すことで体温調節が行われるため、自律神経にも良い作用がある。
それら免疫力に多大な効果を持つ乾布摩擦は、古くから民間療法として洋の東西を問わず親しまれる最も身近な健康である。決して古臭い習慣などではない。
繰り返すが、決して古臭い習慣ではない。そしてレミリアの言葉を否定する咲夜は誇るべき健康優良メイド長である。
「継続は力なり、ってことかしら。パチェ、一緒にどう?」
「霜の降りたクソ寒い朝に半裸になる、と。……人死にが出るわね」
=====
「数日前、最初に獣の声を聞いたのは外れに住む農家の方だ。他にも声を聞いた言う者は多いのだが、その殆どが――」
「最初の農家の近くに住む者ばかりね。ということは、相手は移動していない?……ところでこの煎餅、しけってるわ」
「やはりそう考えるだろうな。だが何故竹林に居続けられる?……炙ればいいだろう」
慧音の自宅まで移動して後、広げた地図をもてなしに出された煎餅を齧りながら二人で覗き込み、実際に慧音のところまで相談に来た者の住む所を筆で囲む、のはもったいないので将棋の駒を置いて、敵の凡その行動範囲を絞り込もうとする。
幽香の考えるところに、慧音は頷く。
そこで疑問なのが、竹林にねぐらを持っているのであれば、何故永遠亭や妹紅が何の反応も見せていないのかという点である。
竹林にも妖怪は生息している、それらと同じように取るに足らない妖怪だといって放置しているわけではないだろうとは思う。
仮にも唸り声を聞かせて威を示すほどの輩である。永遠亭ならば輝夜の宸襟を騒がせる輩に容赦はしないだろうし、竹林には里の者も足を入れるため、妹紅も捨て置くことは考えづらい。
「そう?やっぱり、精々が知恵の足らない有象無象の妖怪ってとこじゃないかしらね。そんな奴が里を狙うねぇ……貴方舐められてるんじゃない?」
火の入った七輪に煎餅をかざす幽香は至った結論に呆れた声を上げ挑発的な視線を投げるが、慧音は意に介した様子もなく視線を返す。
「であるならば好都合。正面から叩き伏せてくれる」
そういった手合いであるならば襲い来る時は盛大に騒ぎ立てるだろう、であれば察知も容易い。よしんば強力な相手であっても、まず里の者を逃がすための算段はいくらでも出来る。
慧音が恐れるのは自分が優先して狙われること。相手が察知しがたい特殊な能力を有する可能性もある、慧音を御し難しと狡猾に不意を狙い、或いはそこで自身落命すれば里の命運は決してしまう。
「勇敢ね、そういうの好きよ。でも弱いもの虐めはもっと好き」
「つまり?」
「今夜攻めましょう」
幽香の提案に慧音は暫し逡巡してみせるも、やがて頷いた。
相手のねぐらには凡その検討が付いている。未知の相手だけに受けに回らざるを得なかったが、こうして心強い味方がいる以上、不測の事態は起こりえないだろう、だならあとは早急に脅威を排除することが最善だ。
「ふふっ、楽しい夜になりそうね」
慧音の力強い同意を得て、幽香はまだ見ぬ敵に舌なめずりして危険な笑みを浮かべた。
きっと彼女の頭の中では、血湧き肉躍る死闘が繰り広げられていることだろう。
「……やっぱり元気になってるじゃないか」
幽香の楽しげな様子に呆れたように呟く慧音の声は、幸いにして彼女には届いていなかった。
=====
戦うために英気を養おうと夕食に肉料理を強請る幽香に、目下最大の敵はエンゲル係数であったかと財布を握り締めて戦慄する慧音。
「その顔最高だわ。安心なさいな、私が奢ってあげる」
慧音の懐事情を苛め抜くことも出来るが、楽しい夜の予感に上機嫌の幽香はそう申し出た。
大げさなまでに安堵する慧音に笑って、そして再び商店通りへ向かおうとして玄関を開けると、
「わっ、ビックリした。……風見幽香?何で貴方がここにいるの?」
「貴方こそ。って、ああ、愛人だっけ」
「惜しい、友人よ」
「妹紅?珍しいですね、貴方の方から訪ねてくるなんて」
ノックするためか、握り締めた拳を軽く振り上げたまま驚いた顔をしている藤原妹紅がそこにいた。
―――――
「慧音、今時間いいかしら?」
「はぁ、少しなら。幽香」
「買い物?止めた、ここにいた方が絶対面白いものが見れる気がする」
何やら予感めいたものを感じ取った幽香にせっつかれるも、どう切り出したものかと軒先に佇み頭を掻く妹紅。
最近では里まで出向いたり里の者から仕事を請け負ったりと、周囲に引いた他者との線引きを緩めてはいるが、それでも相変わらず人見知りのきらいがある彼女。それゆえに慧音が彼女と会う時は、以前と変わらず彼女の家まで足を運ぶことが常である。
その彼女が態々こうして足を運んでくるのは、いったいどういった用件かと慧音は首を傾げる。
「なんて言えばいいのかしら。まぁその、なんていうか……トラ拾った」
弁の立つわけではない妹紅は、自分が百辺説明するよりも見てもらったほうが早いだろうと口で説明することを諦めて、扉の影に何かあるのか、むんずと掴んで慧音たちの前に差し出す。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。……はぁ!?」
猫を持ち上げるように襟足を掴んで差し出された何者か。それは間違いなく、慧音も知るところである命蓮寺の本尊、寅丸星であった。
――――
「……つまり、あの声の主は貴方なのですね。寅丸殿」
「そ、そうです。月を見ていると悲しくてなって。ご迷惑をお掛けしていたようで……」
先日、妹紅が竹林を歩いていると、ふらふらと彷徨う星に出くわした。
彼女とはそれほど親しい訳ではないが、このような場所を歩く立場の者でないことは理解していた。
妹紅は不振に思い声をかけたのだが、星は言葉を濁すばかりで今一要領を得ない。ただ一つ理解できたのは、彼女が命蓮寺には戻りたくないと思っているという一点のみ。
そこで立場のある者を捨て置くことは流石に憚られ、仮の宿として妹紅は自宅に招き入れた。星は雑事であっても進んで手伝い、妹紅はこの奇妙な同居生活を不満に思うことはなかった。
だが唯一つ、考えたいことがあると言って毎夜一人で出かけて行くことが悩みの種であった。出かけること自体に問題があるわけではない、出かける度に響く、彼女の声が問題だった。
虎と月の組み合わせは東洋美術にありふれた題材で、始めこそ月に鳴く虎というのも風情があっていいと思いもしたが、毎夜繰り返されるとさすがに耐えかねた。
「でっ、いい加減うるさくてね、訳を話しなさいと言ってたんだけど」
事情があるのか、やはり命蓮寺には帰れないとだけ言って首を振る星。
仕舞いには永遠亭からも苦情を貰い、結局自分の手には余ると信頼する知恵者を頼って連れてきた、ということだ。
「なんと拍子抜けな……」
数日間ずっと張り詰めていた自分が馬鹿みたいだと、徒労に終わったことでどっと疲れが沸いてくる。
それでも実際に何事かあるよりは上等だ、そう思えば幾分かは救われた。
牡丹に唐獅子、竹に虎とでもいうことなのだろうか。何があったのかは知らないが、逃げ込む先が竹林とは、お前は虎かと言いたくなる。
「……まぁ、虎か」
「何を言っているんだ、幽香」
幽香は不貞腐れた様子で呟いて、煎餅を一枚齧る。
使命感を抱く慧音とは違い、楽しい夜を台無しにされた彼女は一人不機嫌で、唯しけった煎餅だけが慰めだった。
―――――
「して、何故命蓮寺を出てそのような場所に?」
体調を崩していると聞いていた。だが妹紅の話を聞く限りそうではなさそうだし、血色も悪くない。
白蓮を中心として、不和とは無縁そうに見えた彼女たちだったが、やはり何某か寺の中で起こったのであろうかと慧音は首をかしげた。
今や命蓮寺の存在は人里にとって軽んずることが出来ない影響を持つ。
無論それは悪い意味ではない。彼女たちの尽力により、稀ながらそこで新たに友誼を結ぶ人と妖怪の姿も見受けられ、これもまた里を守る術の一つだと慧音は満足げに頷きもした。
今命蓮寺が尋常でない事態に陥れば里の者に少なからぬ動揺を与えるであろう事は必至。
そしてそう考えるが故に、これも人里を守護する者の責務と、慧音はその義務感から口を開いた。
「慧音なら大丈夫よ、話してみなさい。色々と捗るわよ」
「お聞かせ下さいませんか?確約は出来かねますが、何某かお力になれるやもしれませぬ。言いづらいことかもしれませんが、ここにいる者は皆口が堅い。決して他言はしないと誓います故」
数日間の同居により信頼関係が醸成されたのか、背を優しく押してやる妹紅に不器用ながら笑みを返す星。
彼女の様子から慧音は迂遠な表現は無用だと考えて、それでも極力穏やかに切り出す。
「……何で私まで含まれてるのかしらねぇ」
「帰る機会を逸したわね。こうなった慧音の話は長いよ、諦めて付き合いなさい」
慧音と付き合いの長い妹紅はこうなることが分かっていたのか、幽香の傍に寄ってお気の毒さまと囁く。
確かに、純粋な力による競合こそを好む幽香は醜聞によって他者を貶めることを嫌う。
だがだからといって相談役などと、自分をお人好しの一角に並べられるのはどうかとも思った。
いっその事帰ってしまってもいいのだが、星の事情が気になっているのも事実。
結局、諦めたように頭を振って煎餅を一枚齧る。
「それ美味しい?」
「しけってる」
先ほどから煎餅を齧ってばかりいる気がしないでもないが、自分の時間を売り渡す対価だと思うことにした。
=====
「こ、これは……」
暫しの休息を挟んで再び星を探しに行こうと外へ向かう途中、廊下を歩くナズーリンは目の前の光景が信じられなかった。
「竹ザルにつっかえ棒。中には、チーズ?」
アホらしくて。
裏返した竹ザルを木の棒が支えて、その中央に置かれているのはチーズ。あからさまに罠だった。
棒の端は縄で結ばれていて、それを視線で辿っていくと閉じた襖の奥へと消えていく。
そこに誰がいるのかは、考えるまでも無かった。
「ぬえ、君か?こんな時に質の悪い冗談はよせ」
命蓮寺にいる者でこんな悪ふざけをするのは他に思い至らない。ギロリと、見えるはずもない襖の向うを睨めつけ出て来いと威嚇するも、物音一つしなかった。
いくら待っても何の反応もなく、気の急いているナズーリンはため息をついて、いたずらを仕掛ける横着者は捨て置くことに決めた。
「君は相変わらずだな、この非常時でも。だがチーズは貰っておこう、これは美味しそうだ」
原料は水牛の乳だろうか、鼻腔をくすぐる独特の発酵食品の香りが己の種族的な起源を思い起こさせた。
正直な胃袋が早くチーズをと催促するナズーリンは、そして身を屈めて竹ザルと棒を退かしてチーズに触れる。
「今です!ぬえ、一輪、被疑者を確保!」
「御用改めであ~る!」
「あのチーズ高かったんだけどなぁ……」
「何事だね!?」
刹那、村紗の一声と同時に両隣の襖が勢い良く開かれて、ぬえと一輪が飛び出してきた。
この瞬間こそを狙っていたのか、身を屈めているナズーリンは咄嗟の反応が遅れ、碌な抵抗一つ出来ずに両脇を抱えられてしまった。
「確保完了!」
「ごめんね、ナズーリン」
「では撤収です!」
「おい!君たち話を聞きたまえよ!」
村紗を先頭に、一輪とぬえに両脇を抱えられたままエッサホイサと何処かへ運ばれる。
ナズーリンは抜け出そうと必死の抵抗を試みるも、足が地に届いていないのでどうしようもなかった。
残されたチーズはネズミたちが責任を持って処分した。
=====
「あの、では一つ相談をしてもよろしいでしょうか?」
慧音の自宅まで至る道のりに、妹紅から慧音の人物像、どれだけ頼りになるか、どれだけ誠実かを散々聞かされた。
星自身も里へ赴いた際に彼女と会話する機会がままあり、知らぬ間柄ではない。言葉を交わすうち、その人となりに敬意を抱きもした。
彼女ならばと、星はやがて決心が付いたのか視線を上げて口を開く。
「相談ですか?もちろん構いません。窺いましょう」
「私も。なんでも聞いて、これでも結構長生きしてるのよ」
「まぁ、乗りかかった船、或いは毒を食らわば皿まで、私も聞いてあげるわ」
毘沙門天の代理を務めるほどの者が持ちかける相談事とはいかなるものか、不謹慎ながら好奇心をそそられた幽香と妹紅はそれぞれに身を乗り出した。
彼女たちの実に頼もしい言葉に、星は勇気を持って切り出す。
「はい、実は……れ、恋愛相談なのですが」
『何……だと……?』
………………
…………
……
「さてと、そろそろ帰ろうかしら。夕飯の用意もあるし」
「私も。ねぇ幽香、私家庭菜園やってるんだけど、取れる野菜がどれも小ぶりなのよ。夕飯奢るからさ、少し相談に乗ってくれない?」
「待て待て待て待て!私を一人にするな!」
恋愛相談と聞いて、思わず一同は凍りつく。正直な話、ロマンスに縁のある人物はここにはいない。
星のせいではないのだが、彼女は始めから聞く相手を間違えていた。
見事な変わり身で我先にと腰を上げる薄情な二人に、慧音は必死で縋り付く。
「寅丸殿、暫しお待ちを!」
ようやく話す心積もりができたのに、奇妙な反応を見せる慧音たちに星は訳が分からず、慧音の切羽詰った声にただ頷いた。
それを見ていたかどうか、慧音は妹紅たちの背中を廊下まで押し出し、後ろ手に襖を閉めて低い声で詰め寄る。
「二人とも薄情だぞ、一分前の自分の台詞を思い出してみろ!」
「いやだって、恋愛相談でしょ?」
「人選を誤ること甚だしいわね」
ばつの悪そうな妹紅と、鼻で笑う幽香。彼女たちの言葉は尤も過ぎて、慧音には返す言葉が無かった。
「仮にも先生やってるんだからこれくらい一人で何とかしなさいよ。歴史は得意なんでしょ?なら故事に倣ってそれっぽいこと言えば良いじゃない」
「はっ!無理だな!」
幽香はそう言って一切合財を慧音に押し付けようとするが、そうは行かない理由が慧音にはある。
自信満々に自分を否定する慧音は、ならば聞かせてやろうと頼みもしていないのに昔語りを始めた。
―――――
今は昔、里に住む若い男が相談があると慧音の元を訪れた。
農業を営む彼は、朴訥として好感の持てる男だった。
仕事の悩みかと聞く慧音に彼は否定して、意中の女性に求婚をするつもりだと言った。
慧音はめでたいことだと顔を綻ばし、気の聞いた祝言の一つでも詠んで欲しいのかと聞けば、男は表情を暗く否定する。
訳を聞けば何のことは無い、どうやら男は求婚を断られることを恐れているらしい。
だが二人の仲について聞けば聞くほど、お互いが思いあっているとは色恋に疎い慧音にも容易に理解できた。それでも男は不安を拭うことができないと言う。
相談と言うのは、知恵者と名高い慧音に求婚の仕方について助言を貰いたいということだった。
「なら尚の事貴方が適役じゃないの。その時みたいにすればいいのよ」
「話は最後まで聞け。幽香」
それは難題であった。人の恋路は十人十色、何より慧音はその類の経験が皆無であったからだ。
まんじりともせず慧音を真っ直ぐと見つめる男は、それだけに真剣さが伝わってくるというもの。ここで否を言うことも、中途半端に答えることも慧音の責任感からは憚られた。
慧音は歴史を紐解いて女性の求める理想の伴侶というものを手繰り、そしてたどり着く。
女性は古来より強い男に引かれる。英雄色を好むという言葉があるが、本来の意味と同時に、それはまず女性は強い雄こそを求め、そして英雄の傍に集まるが故の言葉なのだ、と。
この様にして、慧音は最善と思われる答えを男に授け送り出した。
「悪くない答えじゃないの。それでもうまくいかなかったの?」
男は半裸で、農作業によって鍛え上げられた筋骨隆々とした肉体を見せ付けるようにしながら結婚を申し入れた。
「うわぁ……」
無理もないことだが、女性はその場で卒倒した。
慌てる男の声に何事かと女の家族がやって来て、その後は言うまでもない、大惨事だ。
「二人がそのまま破局していたら、私は自分の角を圧し折って自尽していたことだろう」
その後紆余曲折を経て男女の仲は修好し、無事華燭の典を挙げることが出来たために慧音の命脈は保たれた。
慧音の答えは一般論として見当外れであったとは思えなかった。どちらかと言えば、それは男の助言の受け取り方に問題があったのかもしれない。
「それでも思ってしまうんだ、頭でっかちな私がこの手の相談に乗っても碌なことにならないとな。だが今、寅丸殿を捨て置くことは出来ん。だから頼む、一緒に聞いてやってくれ!」
頭を垂れ、頭上で子気味良い音をさせて両手を合わせ頼み込む。
恋愛に関しては半人前もいいところの彼女たちでも、三人寄れば文殊の知恵ということか。
「相当トラウマになってるみたいね。仕方ない、付き合ってあげる」
「いいわ、私も慧音の角を折りたくないしね」
再び室内へと戻ると、星は手持ち無沙汰だったのか、外見にそぐわぬ小動物を思わせる細々とした仕草で煎餅を齧っていた。
三人が戻ってきたことに気付いた星は慌てて煎餅を皿に戻し、羞恥に身を捩じらせる。
別に咎めるべきはなく、遠慮なく食べてもらってかまわない、というか先ほどから遠慮のかけらもなく幽香が食べている。
慧音は皿を星の方へ押しやって、意図を十二分に悟った星ははにかみながら、遠慮がちに再び煎餅を手に取った。
そんな彼女を見ていると何故だか庇護欲というものが妹紅の内に芽生え、幽香ですら彼女を半裸にするわけにはいかないと、その双肩に掛かる責任を今更ながらに痛感した。
=====
数日前のことである。村紗の美味しい栗おこわと暖かな風呂、地上の極楽を味わった素敵な夜に御満悦のぬえは、良い気分のまま早々に布団に潜り寝てしまうことにした。
冷たい布団が体温で温まってから暫し、ぬくぬくとまどろみに身を任せていた頃、不意に身震いを一つして厠へと向かった。
命蓮寺の朝は早いため、里の家々の明かりが残る時分にも闇に包まれていることが常である。
最近頓に夜が寒くなったこともあり、薄暗い廊下は冷気が立ち昇る様子が見えそうなほど冷え込んでいた。
廊下を歩くぬえ。白蓮の編んでくれた毛糸の靴下がその足取りを穏やかにさせ、ただ静かに床板を軋ませていた。
規則正しい足音に、唐突に不協和音が混じる。
半分舟を漕いでいたぬえがぼんやりと顔を上げると、そこには何者かが駆けてくる姿が見えた――。
「その時見たのは間違いなく寅丸さんだったとぬえは言っています。彼女は貴方の部屋のある方からやってきたそうですよ。そして翌日、彼女は去っていった。これは偶然でしょうか?ナズーリン」
寝ぼけていたため今の今まで忘れていたと言うぬえから話を聞いた村紗は、買出しから帰ってきた一輪を巻き込みナズーリンから事情を聞くために罠を仕掛けて待ち構えた。
見事捕らわれの身となったナズーリンは、そして命蓮寺の敷地内に設けられた蔵に連れ込まれ半ば強引に椅子に座らされた。
机を囲む形で正面に一輪が、ぬえはその隣に、そして三人の周囲を行き来する村紗が神妙な顔で語る。
「勿論、私は貴方が彼女に何かしたとは思っていません。貴方は悪くない。……でも、一輪はそうではないみたいですよ?」
ナズーリンに近寄り囁く。泡の弾ける様な冷たい声色が耳朶を打った。
村紗の目線がナズーリンのそれを導くように動き、抵抗することなくそれに倣うと揺らめく行灯の火の向うで一輪が鋭い視線を投げて寄越した。
「さっさとゲロなさい、ナズーリン。でなきゃ雲山と拳で会話することになるわよ」
「吐けー」
いつに無く厳しい口調の一輪。白蓮にばかり負担のかかっている現状が自分たちの不和によって引き起こされたと疑っているのだろうかと、彼女の視線に少し怯えながらナズーリンは考える。
白蓮を中心に世界を回している彼女であるから、その憤怒は理解出来てきなくもない。
何故か目の前に置かれたカツ丼や、これまた何故か勝手に横取りして食べ始めるぬえはこの際どうだってよかった。
「一輪、落ち着いてください。ナズーリンも訳を話してくれませんか?悪いようにはしませんので」
ジャブを繰り返す雲山に一触即発を感じ取ったのか、村紗が割って入るように身を入れて一輪を宥める。
「知らん。ご主人様は私の部屋に来ていないし、偶々通りかかっただけだろう」
しつこく詰問を繰り返す村紗にうんざりしつつも答える。
ナズーリンの淡白な態度に押し黙る村紗と、睨め付けたままの一輪。
気まずい沈黙が流れ、ぬえの持つ箸とどんぶりが打ち鳴らす音がだけがやけに響いた。
「この味は嘘を付いている味だぜ」
「カツ丼の味に嘘も何もあるか」
もうこいつは捨て置こう。
「はぁ……。知らないものは知らないんだ。なぁ、もういいだろう?ご主人様を探しに行かなければならないんだ」
悪ふざけに付き合ってはいられないと、ナズーリンは立ち上がり蔵の入り口へ踵を返す。
最早声には隠しきれぬ苛立ちが含まれ、踏み鳴らす靴の音がこれ以上聞いてくれるなと言っている様だった。
「強情ですね!早いところ白状してしまいなさい!」
「うわっ!村紗、何故君が怒る!?」
が、そんなの関係がないと言わんばかりに村紗が詰め寄ってきた。
様子の変な一輪やいつも通りのぬえとは違い、先ほどまで穏やかにナズーリンに話しかけていた、一番冷静だったはずの村紗の突然の剣幕にナズーリンは思わず後ずさり、椅子へと再び腰を落としてしまう。
「ちょっと村紗、貴方は良い警官役でしょ」
「私は船幽霊、よく考えなくても適役は悪い警官でした。と言うわけで配役交代です」
「君たちはいったい何がしたいんだ?!」
しかめっ面をしていたはずの一輪が立ち上がり、喉の奥で唸る村紗を嗜め、見上げるナズーリンは状況の急転に取り残され思わず叫んだ。
端的に言えば、それは単なる捕り調べごっこであった。
薄暗い蔵はただの舞台装置か、カツ丼を食べ終わったぬえが落書き帳で遊んでいる様はさしずめ書記係といったところだろう。
そして先ほどの一輪の様な表情で座る村紗。悪い警官らしさを演出しているつもりだろうが、それも今更だった。
胡乱げなナズーリンの視線に汗を一筋流して、一輪は仕切りなおすように咳払いをして改めて問いかける。
「ナズーリン、貴方は本当に何も事情を知らないのね?」
「君もしつこいぞ、一輪」
頑なに否定するナズーリンに暫し思案する素振りを見せ、最後にも一度だけと前置きして真剣な眼差しで再び訪ねる。
「ねぇナズーリン、さして広くも無い幻想郷を貴方が探しても見つからないのは何故?もしかしたら、それは貴方自身に何か気掛かりがあるのなくて?寅丸さんの家出について貴方が何も知らないと言うのならそれでもいい。でもそうでないとしたら、正直に話して」
「それは……」
「他ならぬ貴方のご主人様よ。貴方が見つけられないなんて余程のことだわ」
一輪の言葉は図星であった。
星を見つけなければならない事は分かっていて、そして誰よりもそれを願っているのはナズーリンである。
だがそれでも拒絶という恐怖が付きまとい、このまま見つからなければとさえ思ってしまう。
その二律背反は、確かにダウジングロッドの反応を鈍らせていた。
沈黙を保った一輪の真摯な瞳が、そんな自分の全てを見透かしているようで羞恥すら感じる。
そしてとうとう根負けしたナズーリンはうな垂れて、やがて口を開いた。
「……分かった。話す、全て話すよ」
=====
「ええと、私の友人の話なのですが……」
星が言うには、彼女には長く苦楽を共にした、心から信頼する部下がいるのだという。
仔細は省かれたが、先日思わぬ切欠から部下が自分に対して抱く感情に気付いてしまった。
彼女はその事実に混乱し、気付いたら家を飛び出してしまった。
彼女は家に戻って部下と顔を合わせる勇気が持てず、未だフラフラとさ迷っている。
星はその友人の苦悩が晴れなければ、寺の門を潜ることはないできない。
「その友人は、貴方」
「す、鋭い――!」
幽香の指摘に愕然とする星。そんな嘘でいったい誰を誤魔化せるのか、既に存知していたことだが彼女は正直者過ぎると妹紅は笑う。
「いや、分からない人なんていないでしょう。ねぇ、慧音?」
「……え?」
「え?」
正直者はもう一人いた。
「私は、どうすべきなのでしょうか……」
星のナズーリンへの感情は一言では表し辛い、信頼する部下、長くを共に歩んだ相棒、或いは――。
砂漠に置き去りにされた旅人の様に不安げに心情を吐露する星。
だが聞かされた方からすれば、それは既に告白に等しかった。
両想いなんじゃないの、もしくは、もう結婚すれば?と、そう言ってやりたい欲求が沸き起こるが、彼女には彼女なりの苦悩がありのだろう。
「私の元で不自由をさせているのに、ナズーリンは文句一つ言わずに良く働いてくれています」
「信頼されてるのね」
「私は無骨な妖怪です。智に富む彼女がいなければ、私は今日までやってくることはできませんでした」
「お互いを補い合う、素晴しい関係ですな」
「小さい体からは信じられないくらい頼もしくて、ふらふらと揺れる尻尾が可愛くて、笑うと猫のように愛嬌があって――」
「鼠なのに?」
そして延々と惚気話が続き、幽香が煎餅を投げつけるまで星の口は閉じられることはなかった。
=====
「えぇと、ナズーリン?つまり貴方は――」
「寅丸さんの人形を抱えて――」
「発情してるところにバッタリ?だっせー」
「はっ、発情!?ぬえ、口を慎みたまえよ!」
正確には、興奮して転げまわっていた。似たようなものではあるが。
話を聞き終えた村紗たちは一様に呆れ顔だった。
「まぁ、それなら無理も無いでしょう。信頼していた部下が自分に対してあらぬ劣情を抱いていたとあってはね」
「ドン引きだね!」
言いたい放題である。得心がいったと頷く村紗。
「よっく分かりました、寅丸さんが見つからないのは貴方から逃げているからでしょう。ナズーリン、寅丸さんは私たちで探します。貴方は謝罪の言葉を用意して待っていて下さい」
ナズーリンが誰よりも星を信奉する忠臣であるとは疑う余地も無い。
だがそれゆえに、今回の一件で星はナズーリンの忠信に不純を感じずにはいられなかったのだろう。
星は魅力的な女性である。常に彼女の傍にいるナズーリンなのだから、強く美しい彼女に身を委ねる、そんな誘惑に駆られ気迷いを起す事も無理らしからぬ話だ。
ナズーリン程聡明な女性ならば、自分を省みることは難しくない。ならば強引にでも二人を掛け合わせて、元の鞘に収まるまで見守ってやることが仲間としての心意気だと、村紗はそう考えた。
「悪いんだけど、少し外してもらえる?」
「一輪?」
解決の糸口を掴んだと気勢を上げる村紗を、そこで一輪が制止した。
何か思うところがあっただろうかと、村紗は怪訝そうに訪ね返す。
「大事な話なの」
「ふむ、貴方がそう言うなら。ぬえ、少し出ていてください」
「えー!」
自分一人蚊帳の外に置かれることが何よりも嫌いなぬえは盛大に不満の声を上げた。
「我慢なさい。貴方に真面目な話が出来て?」
「このケチンボ!いいよ、あっちでミカン独り占めするから!」
ぬえはいきり立つ感情そのままに足を踏み鳴らして、八つ当たり気味に扉を乱暴に開け放って蔵を出て行った。
仕方の無い娘、村紗は彼女の相変わらずな様に苦笑し思わず零す。
「やれやれ、ぬえは少々無邪気に過ぎますね。それで、話と言うのは?」
「村紗、貴方もよ」
「このケチンボ!いいですよ、あっちでミカン二人占めしますから!」
出て行く村紗の姿はまるでぬえの様だったと一輪は思った。
ぬえの相手を任せすぎたのか、二人は似てきたのかもしれない。
「まっ、これでゆっくり話せるわね」
だがあの二人のことはこの際どうでもいい。
村紗が出て行き勢いよく閉じられた扉の振動で舞い上がった埃を嫌そうに見やりながら、ナズーリンに向き直る。
「それにしても、まさか貴方が寅丸さんにねぇ……」
「まあな、驚いたろう?」
「いや、全然」
「ならさっきの台詞は何だ」
「会話の切欠。で、村紗はああ言ったけど、貴方はどうしたいの?」
しれっと言ってのける一輪をナズーリンは睨めつけたが、ただ笑ってやり過ごされる。
埃が気になるのか、一輪は閉ざされていた蔵の窓を開け放ち窓辺に背を預けて改めてナズーリンへ問いかけた。
「どうしたいもこうしたいもない、その様にするさ」
「でも好きなんでしょう?」
「……ああ。だが最早意味は無い」
ずっと秘めていた愛情、ただ彼女の傍にいられたら満足で、それでもいつの日かと夢見ることもあった。
だが現実、星は去っていった。分不相応の振る舞いが招いた愚か者への仕打ちだとナズーリンは自嘲する。
「まぁ、そう悲観することもないと思うけど」
「何が言いたい?」
「寅丸さんの方も脈有りなんじゃないかってこと」
「よしてくれ、私に希望を持たせるな。もういいんだ。気付いたよ、私は身の程を弁えていなかった。これは天罰覿面というものさ」
「なら、どうするつもり?」
「何も。主人と部下、きっちり線引きをするだけさ。暫くは気まずいかもしれんが、職務に励んで失地回復に努めるまで」
ナズーリンを星の下に添えたのは他ならぬ毘沙門天である。星の一存でナズーリンの去就を定めることはできない。そのことだけが、ナズーリンにとって最悪の中唯一の救いだった。
戻ってきてくれさえすれば、今まで通りとはいかなくても、せめて普通に話をする程度にはその関係を修繕できればとだけ願う。
「腹に一物抱えたまま、上手くやっていけると思うの?」
「やれる、さ」
「見え透いた嘘ね。きっととてもギクシャクして、ここはすっごい居心地悪くなるかも」
「…………」
沈黙を保つナズーリンは、それだけで一輪の言葉を肯定していた。
それでも、窓から入り込んだ冷たい風が淀んだ空気を浚っていくを鼻先で確かに感じながら、俯くナズーリンの言葉を待つ。
「……そうさ。私はご主人様を愛している、誤魔化しきれないくらいにな。だが他にどうしようもないじゃないか。この感情は一方的なものだ。きっと、ご主人様は私に失望したことだろう。千年、千年だ。私はご主人様の傍でそれだけの時を共にしてきた。今更離れ離れなんて、嫌だ」
やおら饒舌に語りだすナズーリンは、今までの感情が噴出したかのようだった。
一輪の知るナズーリンは常に冷静で、思慮に溢れた聡明な女性である。
意外な一面を垣間見せる彼女は、それだけに心情が窺えた。
「お馬鹿」
全てを吐き出して、再び俯くばかりとなったナズーリンは歩み寄ってくる一輪に気付かず、その額を強かに弾く彼女の指先に無抵抗に打ち据えられた。
「痛いじゃないか」
「いつもふてぶてしいくらいの貴方が、なんでそう寅丸さんのことになると臆病なのかしらね」
分からなくもないけどね。一輪はそう言って、いつもは小さい体に尊大な態度のナズーリンが、今は見た目通りの少女の様だと苦笑する。
一輪にも白蓮という崇拝の対象がいる。ナズーリンに対して少しばかり共感する気持ちがあった。
「寅丸さんも人の子、いや虎の子。惚れた腫れたの感情くらいあるわ」
「かもな、だがそれは私に対してじゃない」
「貴方に対してよ。二人でいる処を見れば一目瞭然」
「どうして分かる?」
「寅丸さんのおっぱいがそう言ってる」
「ご主人様をいやらしい目で見るなぁ!」
どの口で言うのか、ナズーリンは一輪に掴みかかるが、地力が違いすぎるため容易に解きほぐされてしまう。
カラカラと笑う一輪は再びナズーリンを座らせて、自分はすぐ隣に腰掛ける。
「冗談よ。いや、貴方の前だと結構張ってるようにも見えたのは本当だけど。……寅丸さんって形のいい胸してるわよね」
「鍛えてるからな。おまけに毎朝の沐浴で、特に今くらい寒い時期は肌がとても引き締まっている」
長身で細身ながら起伏に富んだ彼女の肢体は、観賞物として実に見ごたえのあるものだった。
暫し二人揃って星の形の良い胸に思いを馳せる。
その表情は、知らぬ者が見たら仏門に帰依する者とはとても思えなかっただろう。
「じゃなくて、寅丸さんの貴方に接する態度と、私たちへのそれは明らかに違いがあるのよ。思うにあれは、抱いてセニョリータの態度ね」
「ふんっ、君に分かるもんか」
いつもの辣腕ぶりはどこへいったか、思考することを止めるナズーリンは一輪の言葉を拒み続け尻尾を丸めて俯き加減に零す。
拗ねた子供のように嫌を言うばかりで態度が定まらないナズーリン。一輪は仕方なしに、多少強引であっても背を押してやることに決めた。
「実はね、寅丸さんの居場所知ってるのよ、私」
「はっ?それはどういう――。いや、いい。それなら君が迎えに行ってくれ」
先ほど買出しに出た一輪はその途中で里の者に呼び止められ、そしてその者から聞かされた話に驚いた。
その者は星が誰かと一緒に里を歩き、二人揃って慧音の家に入っていく姿を見たと言う。
星の本復を喜ぶ里人の声を一輪は既に聞いていなかった。挨拶も漫ろに慌てて星を迎えに行こうとして、その足を止めた。
ナズーリンの様子を傍で見ていて、彼女に行かせるべきだと己の感が言っていたのだ。
尤も、勇み足で命蓮寺に戻ってくれば村紗の企みに付き合わさる事となり、一瞬その時の判断を後悔したのだが。
「ナズーリン、寅丸さんに告白してきなさい」
「こ、告白!?」
それはいきなりだろうと、ナズーリンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
聞きなさい、と狼狽する彼女を押し留め、ゆっくりと言って聞かせる。
「思うに、貴方たちは長く一緒に居過ぎて関係が固定されてるのよ。だからこんな切欠でもなければそれを踏み越えて一歩深い関係になんてなれないわ」
「それは、だがしかし……」
「どうせ、今までみたいにはいかないでしょ?なら一度全部ぶち壊すつもりで一世一代の告白をして来なさいよ」
「それでも、もし嫌を言われたら……」
一輪の言うように星が自分に愛情を抱いているか、それは分からなかった。
その一点のみがナズーリンの正常な思考を曇らせ、恐れさせる。
「そうね、怖いわよね。でもね、昔偉い人がこう言ったわ。『この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ』」
「いい言葉だな。単純だが、胸を打つ」
「元気があれば何でもできる!」
「まぁ、そうだな」
蛇足だった。
「忘れて。とにかく、もし駄目だったとしても私がフォローしてあげるから。っね?」
逡巡するナズーリンに、一輪は決して答えを急かすことはしなかった。言うべきことは全て言い切ったと、再び口を開くことはなく雲山の逞しい髭を弄ぶ。
そして雲山の髭で編まれた三つ編みが五つ目を数えたところでナズーリンは顔を上げた。
彼女の出した答えに一輪は満足げに頷き、善は急げとナズーリンの背を押して命蓮寺の正門へと向かった。
―――――
決心が固まったといっても、それは砂を固めた城のように脆く儚い。
いざ門を潜ろうとすると自分の悲観的な性分が、諦めろ、村紗が正しいと耳元で囁き、不安の波が押し寄せ思わず足が止まってしまった。
「寅丸さんとねんごろになれるか、それとも永遠に適わないか。ここが分水嶺よ」
「ああ」
竦む足を奮い立たせようと表情を強張らせるナズーリンを振り向かせ、一輪はそのつぶらな瞳を覗き込むようにして語りかける。
「今を逃せば二度と好機は訪れない。ナズーリン、覚悟を決めなさい」
「ああ」
一輪の熱の篭った声。普段は温厚で、命蓮寺の仲間たちの中でも特に自己主張の少ない性格の彼女だが、その実中々に情熱を秘めた女性だった。
次第ナズーリンにも熱が移り、その瞳には確かな意思が宿る。
「私の様にね。私は姐さんに求められたら、全てを捧げる覚悟がある」
「ああ。……いや、覚悟も何も、聖にそっちの趣味は無いだろう」
命蓮寺の至る所でいつそのようなことになってもいいように、今日までに108もの机上演習を終えていた。彼女は常に覚悟完了である。
だが無駄な努力とはいかなるものか、つまりは一輪のそれである。
一輪のお陰で常の調子を取り戻しつつあるナズーリンは、鋭利な言葉で彼女の覚悟を切り捨てた。
「…………」
「…………」
「…………私のことはどうだっていいでしょう。さっさと行きなさいよ、うじうじネズミっ娘!」
「わっ、馬鹿よせっ!」
雲山を操りナズーリンを放り投げる。これは決して八つ当たりではない、尻込みするナズーリンに対するささやかな後押しである。
柔軟剤使っただろと言いたくなる雲山のソフトな肌触りと、直後襲ってくる浮遊感。ナズーリンは美しい放物線を描いて飛翔した。
=====
星にとってナズーリンは特別だった。白蓮ではなく、村紗や一輪でも、ましてぬえでもない、ナズーリンだけが星の心の最も奥深い領域に立ち入ることを許されていた。
誰よりも長く時を共にした彼女こそが、星にとって最大の理解者である。星は自分も、彼女にとってそうであると思っていた。
彼女の部屋で鉢合わせたあの時、自分の知らない一面を垣間見て今まで当たり前に信じてきたものが目の前で崩れ去ったようにも感じ、途端怖くなった。
ようやくたどり着いた安住の地、彼女が傍にいるだけで満足で、知らずにいたら二人の永遠さえ信じられたのに。
ただ、二人を繋いでいたものが変わっていくのが怖かった。
「惚気話も大概だけど、恋愛相談なんて言ってる時点で半分自分の気持ちを白状しているようなものだったわね。一言好きだって言えば済む話だっだんじゃないの?」
「うっ、それは……」
惚気話の報復か、幽香は積極的に言葉で彼女を追い詰める。
「でもほら、言いたい事は明日言え、とも言いますし」
「史上稀に見る苦しい言い訳ですな」
しどろもどろに、ようやく口にした言葉は返す刀で慧音によって切り捨てられた。
遠慮して生きることなど理解できない妹紅は、そんな星を眺めながらポツリと零す。
「好きなら好きって言えばいいのに。なーんで逃げ出したりしたんだか」
「まぁ、察するにアレでしょ。好きだけど傷つけたくない、傷つきたくないっていう有りがちなヤツ。……殴っていい?」
つまりは星の優柔不断が招いたことか。至った結論は幽香の堪忍袋を大いに刺激し、握り締めた拳が、実力で言えば幻想郷でも屈指の存在であるはずの星を怯えさせた。
妹紅が横合いから煎餅を差し出し、これに怒りをぶつけろということか、仮に幽香の可憐な外見しか知らぬ男が見たら百年の恋も冷める乱暴な仕草で噛み砕く。
「分かりやすい解説ありがと、幽香って実は恋愛上級者?」
「霊夢ん家で吸血鬼の忘れてった漫画で読んだ」
感心した風に訪ねる妹紅に、幽香は無感動に言った。
一日、その漫画を読んだ幽香は主人公の優柔不断っぷりに激昂して思わず漫画を放り投げた。
霊夢はその無作法に眉を顰めたが、何も言わずに飛んでいく漫画を眺めやるだけだった。
地に落ちる未来を待つばかりと思われた漫画は、しかし丁度忘れ物を取りに来たレミリアによって顔面捕球されその運命を免れた。
そして当然の様に弾幕戦に突入したのだが、無論そこは揃って霊夢に撃墜されて試合終了。
思い出すだけで痛みが蘇ってきそうな霊夢の弾幕を脳裏から頭を振って追い出し、幽香は一つ身を乗り出す。
「まっ、やりたいようにやればいいのよ。私たち妖怪が小難しく考えて、心をがんじがらめにする必要なんて無いわ」
「おっ、良い事言うじゃない」
妹紅の賞賛に気を良くしたのか、もう一押ししてやれとさらに言葉を重ねる。
人差し指と中指の間に親指を挟んで。
「女ならやってやれ!よ」
「幽香!妹紅の前でそんな卑猥な手振りをするな、教育に悪い!」
「慧音、私貴方より年上……」
「よく知ってたわねぇ。何よ、お堅いフリして実はムッツリ?」
「ゆぅぅかぁぁ!!!」
てんやわんやと騒ぐ連中の姿は気にならないのか、星は思考に意識を埋没させていく。
ナズーリン、と呟く。
眼を閉じれば鮮明に浮かび上がってくる彼女の姿。その表情はいつも不敵に笑っているか、心から信頼するものにのみ向ける優しい笑顔だった。しかし今、彼女は悲しそうに眼を伏せている。
星はナズーリンが悲しむ姿だけは見たくなかった。
難しく考えるな、幽香はそう言った。
好きなら好きと言えばいい、妹紅はそう言った。
どうすればよいのか、何が最善かは分からない。だが確かに、行動すべき理由はそこにあった。
=====
「ぶべらっ!」
空を飛べるという事実を命蓮寺に置き忘れてきたらしいナズーリンは顔から地面へと落着し、大地の熱い抱擁を持って上白沢家の庭に迎えられた。
「何事!?」
「カチコミよ!」
「輝夜ぁ!」
突然の衝撃に障子を開け放って縁側に殺到する一同。慧音は純粋に驚き、幽香は色めき立ち、妹紅は火を吹いた。
「ナズーリン?!」
「やっ、やぁご主人様、お久しぶり。ああっ!逃げないで!」
やや遅れる形で庭に顔を出した星は、そして陥没した地面から顔を出すナズーリンと眼が合った。
もう少しで決心が付いたかもしれない、いま少し早いナズーリンの登場に星は慌てふためき、転げるようにして逃げ出そうとする。
ナズーリンは慌てて制止し、追い縋る声に星は縛りつけられたかのように立ちすくんでしまった。
「話が、したいんだ」
―――――
「あの、ナズーリン?首が変な方向に曲がってますよ」
「どうりで歩きにくいと思った」
コキリ、と良い音をさせて首を元に戻すナズーリン。線の細い可憐な少女にしか見えない彼女だが、なかなか豪胆な事をする。
二人っきりで話がしたいと言って慧音たちには屋内へと引き上げてもらった。
肩を落として庭の惨状を眺めていた慧音には一輪を遣して修繕させると確約した。これくらいはやってもらって当然だろう。
静かに閉められた襖の音が聞こえてから暫しの沈黙を挟み、星が口を開く。
「……ごめんなさい、あの時逃げ出してしまって」
柳眉を下げる星にナズーリンは笑って手を振る。
「仕方ないさ。あんな場面に出くわして平静でいられたら、それはそれで困る」
無表情でやり過ごされたら、ナズーリンは生涯立ち直れぬ傷を負ったかもしれない。或いは、新たな扉を開いたか。
「それでも、ごめんなさい。私は貴方を傷つけた」
「まぁ、確かに少しばかりは。嫌われたかもしれないと、軽蔑されたのではと、そんな不安に駆られたりもした」
「…………」
「でもそう考えると、少しムラムラっと来た。だから気にしないで欲しい」
「ええ、と……そうします」
そんなことを言いたいわけではない。言いたいことは沢山あるも、言うべきことは一つだった。
臆病な自分がそれを阻み、つまらない冗談で逃げ腰の言辞を弄する。
そんな自分を嗤って、だがナズーリンははっきりと星の瞳を見上げた。
「ご主人様。私は、貴方を愛しています」
「言った、言いいましたよ妹紅!ああ、なんて大胆なんだ」
「ちょっと幽香、少しくらい団子分けてくれてもいいじゃないの」
「嫌よ、これは私の。貴方はしけった煎餅でも食べときなさい」
既に事情の凡そを把握している彼女たちも、障子の隙間から事の成り行きを暖かく見守っている。
「……ごめんなさい」
星の口から発せられた言葉ははっきりとした拒絶だった。
だがナズーリンはその言葉を聞いても、心が砕けることは無かった。
予想していたから、いや、星の顔が苦渋に満ちていたから、その言葉が本心でないと容易に見て取れたからだ。
「何故、と聞いて構わないかな、ご主人様?」
小波一つ起こさないナズーリンの心。むしろ穏やかに過ぎる自分の声に驚いたくらいだった。
「私が貴方に感じる愛情は、貴方のそれとは――違う」
眼を逸らしながら言う星。
なるほど、一輪の慧眼は確かなようだとナズーリンは胸中で苦笑する。
「そんな顔をしていては説得力に欠けるぞ、ご主人様」
自分の眼は確かに曇っていたのだろう。
恋とはかくも人を臆病にさせるものだと、場違いともいえる冷静な思考がその事実を受け入れた。
「気持ちを抑えるな、ご主人様。私は言った。怖かったよ、今まで築き上げてきた関係を壊してしまうかもしれないのだからね。いや、もう数日前にブチ壊したか」
切欠を得たからこそ、更には一輪に背を押されたナズーリンは一切の決着を着けるべくここへ訪れた。
何を不安に思っているのか、何故そうも気持ちをひた隠しにするのか、今ここで全てを彼女の口から言って欲しかった。
「ご主人様、貴方は何を恐れている?」
ナズーリンは自分の内に常の調子が戻ってきた事を自覚した。
怜悧な言葉で星を見据え、その瞳は韜晦を許さない迫力に満ちていた。
抗う術を持たない星は観念したように眼を伏せる。
「……ナズーリン、貴方は毘沙門天様に命じられて私の下へ来ました」
「始まりはそうだったね。まさか今でも、私が義務感でここにいるとでも思っているのかい?」
それは違うと星は否定する。
初めて出合った時、ナズーリンは今と寸分変わぬ姿で目の前に立っていた。
唯一違ったのが、彼女の表情。平静を装っているつもりらしいが、隠し切れない猜疑を覗かせる胡乱げな面持ちで見上げてくるナズーリンに笑いかけると、彼女はただ義務的に挨拶しただけだった。
「どこか斜に構えて、常に冷静で、周囲と明確な一線を敷く貴方を初めて見た時、こう思いました。笑顔が見たい、家族になってやりたいと」
ここにいるのはあくまでも毘沙門天の意思ではあると、ナズーリンはよく働いたが他人行儀な態度を崩すことはなかった。
白蓮から与えられる無条件の愛情は、野良妖怪に過ぎなかった星の豊かな心を形作った。
星は白蓮に憧れ、そして頑ななナズーリンに白蓮の様に接しようと決めた。
「貴方は応えてくれました。初めて私に笑いかけてくれた日を、私は鮮明に覚えています」
「私もよく覚えているよ。ご主人様はコクワの実とマタタビの実をとり間違えて、へべれけになってしまっていたね」
「やっぱり忘れてくれませんか?」
「ムリダナ」
柔和な笑顔の下に確固とした意思と決意を秘め、星は勤勉に勤めを果たした。
星の下で過ごす内、ナズーリンは彼女への第一印象と抱いた不安は見当外れだと自覚した。
凛とした佇まいで不逞の輩を見事折伏せしめた時などは、彼女に傅く事を誇らしく思えたほどだ。
そんな矢先に起こった珍事。だがナズーリンは星に失望するのではなく、逆にある種の好ましささえ覚えた。
今にして思えば、花を咲かせた星への愛情が芽吹いたのはこの時だったのかもしれない。
「ナズーリン、私にとって貴方との関係は何よりの宝なのです。もし一線を踏み越えてその果実を味わえば、もう後戻りは出来ません。上手くいく保証はどこにもありません、やはり今までどおりの関係でいるべきです。変わる必要なんてない。今ならまだやり直せます」
ナズーリンにとっても、今までの関係は心地が良いものだった。
信頼と尊敬で結ばれている、互いを思いやり、多くを言葉にする必要も無いほどに、心魂を預けるに足る理想的な主従だとさえ思っていた。
或いはあの夜のことを忘れ今まで通りに付き合うと、そうすることだってできるのかもしれない。
だがそれでも、
「私はとっくに後戻り出来ない所まで来ているんだ。今更無かったことになんてできない」
それでも真の意味で今まで通りになるとは思えない。心に残ったしこりが、やがて鋼の楔となって二人の間に決定的な亀裂を穿つかもしれない。
「だから私は、このまま何もせず無為に過ごす方が怖い」
破綻を座して見守ることほど恐ろしいことは無い。行く先に滝が待ち受けているのに、そのまま船を川の流れに任せる愚か者がどこにいる。
事ここに至り、前へと進む道しかのこされていないのだ。
「ご主人様の気持ちも分かるよ、先のことなんて誰にも分からない。でもみんな変わっていくんだ。聖は復活した、一輪や村紗もいる、命蓮寺だってある。……ぬえは相変わらずだが」
「…………」
「変わらないでいることなんて不可能だ。無論、私たちも。ならせめて、悔いを残さないように行動すべきだと思う。失敗したとしてもね。そして今、私には行動すべき理由がある。それはご主人様、貴方だ」
言い切って息を荒くするナズーリンは、星の言葉を待つ。
口を開き、再び噤む。そんな風に繰り返す星は、なお頼りなさげに言葉を風に乗せる。
「……私は、皆が思うほど誠実ではありません」
「知ってる。前に私の草餅をこっそり摘み食いしたの、ご主人様だろう?」
「私は、地位にそぐわぬ強欲者です」
「それも知ってる。大皿に残った最後の一品、食べるのはいつもぬえかご主人様だ」
「私は――」
「全部知ってるよ。ずっと傍でご主人様を見てきたんだ。仕草も癖も、好きな食べ物も嫌いな食べ物も、全部」
ならいったい、貴方のどこを嫌うかもしれないというのか、ナズーリンはそう言って安心させる笑みで微笑む。
「だから自分をそうまで貶めるようとする必要は無い。もう一度言うよ、私は貴方が好きだ。ずっと貴方を想っていた。そして、きっとこれからもずっと」
言葉を切り、笑みをそのままに星へと歩み寄ろうとする。
ナズーリンを押しとどめるように、星は最後の言葉を紡ぐ。
「……本当に、いいのですね?私なんかで」
「私に他の誰を愛せというのか」
「後悔させるかも」
「もう後悔してる。今まで指を咥えて見ているだけだった自分にだがね」
更に歩み寄るナズーリンを、今度こそ逃げることなく星はその場で待ち受けた。
隔絶してしまった心が再び寄り添いあう様に、二人の間は狭まっていく。
手を少し伸ばすだけで触れ合う僅かな距離。それは二人のいつもの距離で、今日は何故だかまだ遠く感じた。
もどかしささえを感じるナズーリンは更に星へと歩み寄り、いつも横から見上げるばかりだった星の顔を正面から見据える。
やがて星は引き寄せられるようにして身を屈め、ナズーリンは彼女の頬をその小さな手で優しく包み込み――――。
「せっ、接吻まで!?写真機はどこに仕舞った?いやっ、書け。書き記すんだ!」
「ちょっ、勝手に食べるな!」
「何よドケチ!目の前にご馳走ぶら下げられて黙ってろっての?!このドSが!」
障子の隙間から見守る彼女たちも、二人の思いが成就したことに快哉を叫んだ。
ゆっくりと離れる二人の身体。
あれほど拒んでいたのに、いざそうなると名残惜しそうな顔をする星はなるほど確かに強欲だ。
続きはあとで、そう言うと星は露骨に肩を落とす。ナズーリンは思わず噴出し、そして優しく囁いた。
「帰ろう、ご主人様」
=====
何やら満足気な慧音と、何故か服を乱している幽香と妹紅。
結局塵ほどにも役に立たなかった三人に見送られながら、ナズーリンに手を引かれる星は命蓮寺へと数日振りに帰宅した。
星たちを出迎えたのは、門の前で静かに佇む白蓮だった。
ご心配をおかけしました、と深く頭を下げる星。白蓮は何も言わず彼女の短い髪を梳くように撫で、季節外れの春風が通り過ぎる様な優しい抱擁で言葉に代えた。
一輪が夕食の支度をしていると残して、白蓮は堂内へと戻っていった。
二人の晴れやかな表情は万の言葉にも勝り、もう何も心配することはないと物語っていたのだろう。
彼女の気遣いが有難かった。何があったと説明することが難しいわけではない。ただ、気恥ずかしさがあったのだ。
収まるべきところに収まった新しい恋人達が新しい日常を始めるために門を潜る。
住み慣れた場所、だが全てが新鮮に思えた。
ご主人様、とナズーリンは隣の星へと囁く。
「なんでしょうか」
「その……これからも、よろしく」
「――はい」
手を繋ぐナズーリンと星の姿を見た時、一輪の胸にあった感情は驚きではなく、やはり得心であった。
星は謝罪を、ナズーリンは礼を、それぞれに頭を下げる二人に、なんでもないといった風に手を振って応え、食事の仕度があると言って勝手場に戻っていく。
去り際に、今夜はご馳走よ、と片眼を瞑り頬を吊り上げて笑う一輪は、白蓮の忠実な弟子としてその器の大きさを見せ付けるものだった。
―――――
「万事丸く収まったわけだけど、これはどうよって思うわね。正直」
夕食の支度を終えて、皆を呼びに勝手場から現れた一輪は目の前の光景にため息をついた。
「こら、ナズーリン。手が悪戯ですよ」
「ふふっ、虎狼は防ぎ易く鼠は防ぎ難し。雌雄は決した。観念して私の熱い抱擁を受けたまえ、ご主人様」
意味が違うわよ、と一輪は呟く。
帰って来てからずっと、松脂よろしくくっついて離れない星とナズーリン。
晴れて両想いの仲となった二人は、と言うか主にナズーリンが星に怒涛の求愛攻勢を仕掛けている。騎虎の勢とはまさにこのことか。
口では嫌を言う星も、その顔は解けたチーズのようにしまりが無い。
恋人たちの逢瀬を邪魔したくはないが、人目も憚らずイチャつく頭の沸いた二人に節操の何たるかを辞書を引いて懇切丁寧に説明してやりたい誘惑に駆られる。
「一輪、あの、これはどういうことなのでしょうか?」
そうして暫し辞書の在処に思いを馳せ二人を眺めていると、敬愛して止まない白蓮に後ろから困惑した声を掛けられた。
どういうこと、とは星とナズーリンのことを指しているのか。
妖怪である一輪からすれば星とナズーリンの関係は別段おかしいとは思わない。長い生涯、そのような時期があってもいいだろう、その程度だ。
だが白蓮は元を正せば彼女は人間。その道徳観念に沿い、同性同士という関係は快く受け入れられないのかもしれない。
であるなら困ったことだと、白蓮ならば大丈夫だろうと無意識に考えていた一輪は何と取り繕えばよいものか頭を抱える。
「どうと言われましても、愛ですよ。愛」
「愛、ですか。……あれが?」
だが都合良く天啓が降ってくるわけも無く、出たとこ勝負だと振り返ると白蓮の視線があらぬ方向を向いているのに気が付いた。
その視線を辿っていくと、
「お、おお……ミカン、襲ってくる、中から。お腹痛い」
「村紗ぁ、私黄色くなってない?」
頭の沸いた恋人たちではなく、畳に転がって呻く村紗とぬえの姿があった。
先日、星が神様同士のお近づきにと秋姉妹から頂戴した木箱一杯のミカン。
季節故か、気前良く大盤振る舞いされたそれはまだ結構な数が残っていたはずだったのだが。
畳の上で蠢く二人は、まさか宣言通りにミカンを全て平らげたのだろうか。
「愛、それは時に大いなる苦痛をもたらす。そういうことです」
だがそれを一々説明するものアホらしく面倒だった。適当にそれらしいことを言って誤魔化した。
「……愛とは、奥深いものなのですね」
一輪を疑うことを知らない白蓮は感心したように呟く。
そんなことよりも食事にしましょうと、白蓮の背中を押してその場を後にする。
白蓮は残された彼女たちを気遣うが、殊更に邪魔することもないだろう。どちらにしろ彼女たちは愛情、もしくはミカンで腹一杯だ。
食堂に着くと、今回が初めて白蓮と二人っきりで取る食事になるということに思い至った。
ナズーリンを後押ししてやったご褒美だということか。情けは人のためならず、良いことはしておくものだ。
「ところで、寅丸とナズーリン、とっても仲良しになってましたね。何があったのかしら?」
「さぁ?ただはっきりしているのは、夜は二人の部屋に近寄るべきではないということですね」
首を傾げる白蓮に、二人分の食事を並べながらそ知らぬ顔で言った。
いつもより少し豪勢で彩り豊かな食卓。白蓮は食べてしまうのがもったいないと笑う。
そんな白蓮を眺める一輪は、彼女に常の笑顔が戻ったことに安堵する。
かつて、人間と妖怪が平等な世界を求める白蓮を世界は排斥した。
それから長い時を経て、白蓮の復活から続く幸福に満ちた生活に一輪は頬を緩める。
幻想郷は妖怪たちの楽園である。
古典的な妖怪同士と仲良くしましょうと、雲山に、そして何故か傍らの一輪にも親しげに振舞う天狗のブン屋はそう言った。
白蓮の志す処にのみ己の道を定める彼女にとって、その物言いはさして感傷を呼び起こさなかった。
だが今、それが少し理解できた。
きっと多くの妖怪がここを安住の地と定め、ナズーリンたちのように潤し、育んでいるのだろう。
楽園。確かにここは楽園だった。こうして色恋に一喜一憂できるのも、幻想郷であればこそ。
せめてそれが、一欠片でも人間に向けられてくれたらと思う。それが白蓮の望む世界でもあるから。
目の前の白蓮が微笑み、つられて笑う。
皆が幸せだったら白蓮は笑顔でいてくれる。
ここではそれが許される。
そのためだけに一輪は願う。
幻想郷の恋人たちに、幸よあれかし、と。
こうして今回の騒動は収束を向かえ、命蓮寺は日常へと回帰した。
命蓮寺はこれからも里に教えを説いて、人間と妖怪とが平等である世界のために忙しい毎日を送ることになる。
新しい恋人たちの始まりにはいささか騒がしい門出となろう。
「ご主人様、眼を瞑って」
「分かってますよ、ナズーリン。やれやれ、これでは唇の乾く暇もありませんね」
だがそれも、こうして真に全てを分かち合うに至った二人には、その幸福にとって瑕瑾となることはないだろう。
この一文でお茶吹いて大変なことになりました。どうしてくれますか。
内容は大満足だったのですが、ちょっと漢字が多すぎるのがマイナスだったのかなあ…と思ったり。
「韜晦」や「凡そ」など、読み辛い漢字がかなりあったように感じました。別の言い回しにするか、もう少しひらがなを増やしてもいいのではないでしょうか。
随所に散りばめられた小ネタにセンスの高さを感じます
漢字については、固めの文体がギャグとのギャップをより効果的にしていますし、
一般的な小説で使用される範囲内なので全く問題はないと思います。
男前なナズーもいいですねえ。
ギャグとシリアスの塩梅が独特の雰囲気を醸し出していて最強に見える……!
一輪もかっこいい
テンポが良くて好きです愛してます
出だしシリアスな恋愛かと思ったら見事にだまされました
一輪さん夜に近づいちゃいけない理由を詳しく