1
残月をそのまま砕いたような、半月の夜だった。
天蓋を彩るその欠片は、静かに輝いてその存在を誇示し、暗い闇に敷き詰められている。
多少の酔い覚ましにと縁側に出てきた私の吐息を、二月の風は白く染め上げて天上へと持っていった。
小さく開けた障子から覗く世界は、少し冷たい。
障子を開けたそばから、私の立っている畳が冷たくなっていくのがわかった。
「また雪が降るかなぁ」
私――伊吹萃香は、鬼の象徴である角が居間の障子を破らないようにと気をつけながら、博麗神社の境内裏に流れる冷たい空気から頭を引っ込めて振り向くと、こたつに体を半分以上突っ込み、頭だけを机の上に乗せている私の友人に話しかけた。
「寒いから早く閉めてよ。せっかく温かい鍋なんだから」
さながら生首のような彼女から、軽い批難の声が投げられた。
私は障子を閉めて、同じくこたつの対面に座り込んで、冷えた足が彼女にぶつからないように、浅く足を差し込んだ。
彼女が普段着ている巫女装束はこたつの陰に隠れ、その上から半纏(はんてん)を羽織っているものだから、見分けのつけ様がないけれど――それでも彼女はこの家の主人にして、博麗の巫女の当代、博麗霊夢。その人だった。
「寒いから温かい鍋を食べるんじゃないか。そんなに暖かい格好して温かいもの食べるとのぼせちゃうよ」
私は鍋から少量のねぎや豆腐をさらうと、ぽん酢を入れた取り皿に分けた。
今日はいつもいるはずの、食べるに話すにと、よく口の動く白黒の魔法使いや、私の友人である隙間妖怪がいないので、半ばこの神社の居候となっている私と、霊夢とで二人きり――至極、のんびりとした夕飯だった。
「もうすぐ春だとは言うものの、仮にも冬場に半袖で過ごせてるあんたがおかしいのよ」
ぶつくさと不平を言いながら、霊夢は茹で上がった鶏肉を取り皿に分けて、息を吹きかけて冷ましながら、口に入れる。
それでもまだ熱いのか、彼女は口の中で転がしていた。
「人間様はひ弱だねえ。この寒さでへばっててよく冬を越せるもんだ」
私はへらへらと笑いながら、豆腐を口に入れて、それを肴に熱燗を一口。
豆腐の柔らかい味の中を酒の刺激が駆けてきて、喉の奥で混ざり合い、腑の奥へと沁み込みながら落ち込んだ。
じわりと広がるこの感覚は、やはり楽しく嬉しく、そして落ち着く。
「だから温かい鍋を食べたくなるの」
霊夢はつんとした様子で小さく鼻を鳴らすと、付き合い酒にと一献だけ注いだ酒をすすった。
喉が微かに鳴って、それから小さく、ほう、と吐息する。
霊夢が呑んでいるのは、いつも飲用している神社のお酒だ。
私の方はというと、鬼専用ともいうべき強い酒で、私の持つ、無限にお酒の湧き出る瓢箪――伊吹瓢(いぶきびょう)から注いで、暖めたものだった。
「体を温めるなら、こっちのがいいと思うけど?」
私が熱燗を入れた徳利を揺らしながら、素直に問うと、霊夢は眉根を下げて首を振った。
「私も同感だけど、今日はこのくらいにしておくわ。今夜はやることがあるのよ」
別段、彼女は酒が嫌いなわけではない。むしろ私とまではいかずとも、人間にしては酒豪の部類に入るだろう。
宴会では妖怪に負けじと酒を飲んでは酒に呑まれている。
宴会では人の中で一番呑んでいるし、その翌日、彼女が二日酔いの頭で、低く悪態をつきながら後片付けをしているのを見るのも数度ではない。
「ありゃ。つれないな」
私はつまらなさ半分、不思議半分に箸を持ったまま肩をすくめた。
酒豪の彼女が呑まないというのだから、何かしらあるのだろう。
霊夢は頬杖をつきながらため息をついた。右手を上げて、力なくひらひらと振る。
「あんたが嫌いな行事の準備なんだけどね。……炒った豆をひたすら鬼にぶつける行事。今回は本物の鬼もいるわけだし、なんなら明日、出来立ての熱々をあんたに向かって、あんたの歳の数だけぶつけてやってもいいわ」
炒った豆と聞いて、少しだけ背筋が冷えた。
心臓を後ろから引っ張られるような、心がざわつく単語だ。
季節の分け目である節分に、魔滅(まめ)と豆を掛けている〝炒った豆〟を撒き、邪気を追い払う。その邪気の当て口が私たち鬼、というわけだ。
「ああ、なるほど。もう節分なんだ。それは勘弁願いたいね」
それは半ば約束事のようなものだから、仕方ないのだけれど。
霊夢は頷くと、食事も最後のひとさらいのようで、少し多めに鍋から具を取り分けて、薄まったぽん酢ごと、さらさらとかきこんだ。
冷え始めた燗酒を飲み干して、立ち上がる。
「というわけで、もし呑むなら一人で呑んでて頂戴。私はこれくらいにしておくわ。鍋はまだ食べられるなら残りをさらっちゃってよ」
彼女は、神事や行事というものに対してだけは、だいたいは興味半分というところもあるのだろうが、たとえ嫌々だとしても欠かすことがない。
物ぐさながら、そういうところだけはきっちりしている。
それが彼女曰く『当たり前』だというのだから、この巫女の価値観はよくわからない。
「はいはい。合点―」
私は鍋の中身と熱燗の残りを見て、鍋を何口食べてから酒を飲むかを考えながら、なおざりに応じた。どちらもまだまだ残っている。酒がまだ残っているのは嬉しかった。もうしばらくはこの快楽に浸れそうだ。
鶏肉とねぎを取り分けながら、私は熱燗を盃に注いだ。
この無色透明ながら、芳香豊かに鼻腔をくすぐる液体があれば、いくらでも食べれそうだ。腹の底がそのためだけに空間をこじ開けて、私を誘う。
まだまだ夜は長い。いつも通り、私は潰れるまで酒に酔うことにした。
§
今日も私――博麗霊夢は、博麗神社兼私の住居で、伊吹萃香という鬼と鍋を囲んで食べた。
いない日といる日は丁度半々くらいなのだが、神出鬼没とはよく言ったものだ――彼女は時折自らの持つ『密度を操る能力』によって霧散して幻想郷を漂っていることがあり、呼べば急に現れることがある。呼ばなくても来ることもある。
そして、鍋などの多めに作った方が何かと楽な食事を作るときには、必ずといっていいほどやってくる。
そこで、私はただ飯を食べさせるのは癪なので掃除や洗濯などの家事や力仕事を押し付けるものの、彼女は断った例がない。
経験上、私が鬼と出会ったのは伊吹萃香が初めてなので、鬼というものの性質はよくわからないが、彼女に限って言えば、多少子供っぽいところや、物事をはぐらかしたりするところはあるものの、性格として、彼女は人一倍誠実だ。
鬼は正直に物を語る。
私は明日の節分に向けて、台所で大豆を炒りながら、ぼんやりと居間の方を見やった。
障子に隠れて大半が見えないが、未だに湯気を放つ鍋と、そこへ差し込まれる箸が見えて、まだ萃香は食事を続けている様子だった。
大豆を炒るのには多少技術が必要だが、毎年のことで慣れているし、だいたい焦げついていても怒る人などいないので、なおざりに鍋の上で大豆を躍らせる。
ぼう、と私の意識は揺れる。
私の友人である八雲紫曰く、『萃香は炒り豆が嫌い』なのだ。
枝豆などはよく食べる上に、好物であるように見て取れる。
しかし、炒った豆だけはどうにも苦手なのだそうだ。
それが鬼という性質上なのか、彼女の性格故か、それは定かではない。
あの豪放磊落という文字を具現化したような鬼の子だ。
私としては、その姿を頭に浮かべても、炒った豆を投げつければ酒の肴にと食べてしまうような気さえするのに。
それから意識を大豆と一緒に宙に飛ばしてしばらく、炒り豆が出来たことを示す鼻を突く香ばしい匂いが、宙に漂っていた私の意識を引き戻した。この分はもう大丈夫だろう。私は広げた紙の上に炒り終えた大豆を適当に敷いた。
そのようなことを数回続けて、十分な量の大豆を炒り終えた私が、味見ついでに数個の大豆を白い紙に包んで居間へ戻ると、綺麗に中身が片付けられた鍋と、肴が尽きた後もぐだぐだと酒盛りを続ける萃香の姿があった。
「おかえりぃ、霊夢ぅ」
呂律が半分ほど吹っ飛んだ萃香が、私に笑いかけた。
だいぶ呑んだ様子で、そして呑み潰れる予定らしい。
経験上、こうなると萃香は残りの酒を片付けた後にその場で寝てしまう。
鍋の片付けもあるし、布団で寝てほしいものだし、それは避けたいところだ。
「本当に一人で食べたのね。よく食べられるもんだわ」
半分冗談で鍋を片付けてほしいと言っていたので、少し驚いた。
私はそこに座り込むと、炒りたての豆が入った包みを広げて、一つつまんで口に入れた。
舌に伝わる熱と、鼻に抜ける香味が詰まった塊。
噛むと、乾いた音を立てて口の中で崩れた。
「げげ。炒り豆……」
本当に苦手そうに、萃香はその様子を見ながら苦々しげに呟いた。
鬼は豆が苦手。
伝え聞くその言葉が本当かどうかは疑わしいが、彼女は感情に対して真摯だ。
私は苦笑しながら、机に肘をついて盃を持った。
「こっちは済んだわ。少しだけ晩酌付き合おうか?」
「おっ」
萃香はその言葉を聴いて、先ほどと一転、ぱっと表情を明るくした。
「一人で呑むよりゃ断然いいねぇ。呑もう呑もう」
そう言って差し出してきた瓢箪を、私は盃で受ける。
熱燗はもう切らしてしまったらしい。
それでも呑み足りないのか、彼女は自前の瓢箪から酒を注いで呑んでいたようだ。
無限に酒の湧き出る瓢箪、とは言うものの、それは瓢箪の中で酒虫という虫を飼っていて、それが水を酒に変えるのだという。
それに、この瓢箪の転倒防止用の留め具もついている。一定量以上は出ないようになっているのだ。
彼女が呑みきる量はだいたい酒虫が一度に作れる酒の量くらいになっている。呑みきって、次に呑むときまでには酒虫が酒を造り終えておいて、いつも満足に呑める程度には酒を供給できる。
だから、事実上無限に酒が湧き出る瓢箪、というわけだ。
彼女の上限に近い瓢箪の酒の中身も、私の飲む分くらいは余裕があるらしい。
瓢箪の口から、かすかに霞んだ滑らかな液体が静かに流れ出して、その裾が私の持つ盃に触れ、盃の中に納まっていった。
私は盃を小さく掲げた。一応、約束事だから。
「ありがと。いただくわ」
そう言って乾杯を示すと、炒り豆を一つ口に入れて噛み砕き、酒を一口なめた。
舌を走り、喉に絡みつく芳香と刺激。
思わずむせそうになるほど、萃香の持っている酒は神社の酒よりも遥かに強くて辛い。彼女の好みもあるのだろうが、鬼の酒は大抵強烈なのだそうだ。
それを水みたいに呑むのだから、鬼という種族は恐ろしい。
そんな萃香は肴もなく一口、余韻を楽しんだ後にまた一口と、二の句を継ぐ前に酒を呑む。
こうなってしまった彼女が、時たま休むとなれば、それは肴を食べるときと、話すときくらいだ。
「酒の肴によく炒り豆なんか食べられるね。私には無理だよ」
私の様子を見ていた萃香が、ふと酒の手を止め、頬杖をついて呟いた。
そうだろうか。強いて言えば、酒の肴には少しばかり塩気が足りないかもしれないが、それは刻み海苔なり出汁塩なりを振ればなんとかなるだろうし、むしろ香ばしさと歯ごたえも相まって、なかなか美味い部類に入る気さえする。
明日の節分で余ったらそうしてしまおう。
「嫌いなの? 豆」
私が先ほど抱いた疑問をそのまま訊くと、萃香は苦笑して応えた。
「嫌いじゃないけど、苦手なんだ。生理的に受け付けないね。食べると、体の内側からじわじわっと拒否されるんだ。そんな気がする」
聞いたところ、鬼としても苦手らしいが、萃香は個人として豆が苦手らしい。
「以前、嫌なことがあってね」
萃香は酒をなめながらそう応えた。
鬼という間柄、豆に関してはそういうこともあるのだろう。それ以上は言葉を濁してしまって、私自身他に考えがあったので、深くは訊かなかった。
「投げつけられるのは?」
次いでと、私は続けて質問を投げる。
「嫌いじゃないけど、苦手だね」
軽い痛みはあるだろうが、翌日まで腫れるだとか、爛れて落ちるだとか、そんな物騒なものではない――萃香は同じように苦笑して応えた。
なるほど、子供らしい萃香のことだから、もっと盛大に――大声でわめき立てたり、大仰に嘆いてみせたり、など――拒否されるかと思ったのだけれど、それほどでもないらしい。
それならば。
私は『嫌だったら断ってもいい』ということを前置きしながら、話を切り出した。
「そう。それで……明日、境内で豆まきやるんだけど、鬼の役をやってほしいのよ。投げつけられて、逃げ回るだけでいいから」
鬼は外、福は内――。聴き慣れた音ではあるが、まさかこの見た目は小娘そのものの萃香が、その〝鬼〟に当てはまるとは、私も最初萃香が鬼であると聞かされたときには驚いたものだ。
これを悪鬼羅刹というには、いささか角(かど)が丸すぎる気がする。
しかし、その分神事などに参加してもらうには丁度いいだろうと、前々から思っていたのだ。
里の人が恐れることもないだろう。萃香自身、里にはよく顔を出しているのだから。
「うえぇ……。私が? それはその……できれば遠慮したいんだけど……」
机の上に頭を乗せて、萃香はうなだれた。
はっきりと断らないあたりが萃香らしい。
すっきりさっぱりとした鬼の性格からは少しだけ外れている、微妙に、曖昧な部分――感情を押し留める理性の鎖が、彼女にはある気がする。
「お願いできないかしら?」
私が手を合わせて再度問いかけると、萃香は難しそうに眉根を寄せ、人差し指で頬を掻いて考える素振りを見せた。
「うーん……」
恐らく、唸り声を上げる彼女の頭の中では、頼まれたが故に応えてやろう気持ちと、炒り豆を投げつけられることへの恐怖、あるいは恥辱に対する拒絶とがせめぎあっているのだろう。
そして、彼女はしばらくの後に、渋々といった様子で口を開いた。
「霊夢は……ずるいよねえ」
私が断れないことくらいわかっているのに。
萃香はぼそりとそんなことを口に挟み、三白眼で私を睨む。
それから彼女は力なく肩をすくめて目を伏せた。
「わかったよ。やる。……やるといったらやるさ」
鬼は、誠実な者は――往々にして、押しに弱い。
種族性もあるだろうが、頼まれると断れないのは、もっぱら彼女の性格故だろう。
断った試しも、もちろん無いのだ。
「本当? ありがと。約束だからね」
やる事なす事打算的だが、私は本意から感謝していた。
彼女はいい鬼だ。
何かしらの下手を打てば、損をしてしまう性格ではあろうが。
ともかく、明日の節分はこれで大丈夫だろう。馴染みの知り合いには振れ込んだものの、来るのは物好きの妖怪か、里の一部の人間だと相場が決まっているのだ。
私が視線を向ける先、萃香は一瞬だけ、どこかもわからぬ虚空を見つめ、我ここにあらずといった風に呟いた。
「約束、ね」
ともすれば鼻を慣らしそうな、どこか小馬鹿にした呟きだった。私が首を傾げると、萃香はこちらの様子に気づいたようで、いつも通りに笑って、頷いてみせた。
「――応。わかったよ」
それから、彼女はまた、一杯の酒をあおる。
§
そうして酒盛りが済んだのは、夜も更け込み、月が天上を超えて傾き始めたころだった。
おおよそ、萃香と付き合い酒をしても先に潰れるのは私なのだが、豆まきをやることもあり、ほどほどにしておいたお陰で、今日は無事だった。
「うぅん。霊夢ぅ。後一杯だけでも……」
酒臭い吐息と、甘みを帯びた声が私の耳を撫でる。
そう、酔いつぶれなかった代償として、半分以上が夢の世界に引きずり込まれている萃香を、私は寝室に引っ張る羽目になったのだ。
「ああもう。こうなるのはわかってたのに……」
私は辟易しながら呟いた。
私が肩を貸して連れて行く予定だった萃香は、最早自分の足で立とうとせず、体重のほとんどを私に預け、結果として私が抱きかかえる形になってしまっていた。私も酔っていて、足元がそこまで確かでないというのに。
運ぶことに関しては、体重が軽いのが多少の救いだ。
しかし、萃香自身、いつも酔っているようなものなのに、どうして呑んだ後に寝るところまで一人でできないのだろうか。
朝になれば、二日酔いでもないのに迎え酒から始めるくせに。
「ほらほら、しっかりしなさい。寝るなら寝床で寝てよ。そうじゃなきゃ外に放り投げるわよ」
運ぶ身にもなれと、私は萃香を揺さぶりながら、部屋を歩いて、いつも萃香を寝かせている来客用の寝室に運ぶ。
縁側から最も近く、宴会で呑み潰れた者などはここへ運び込むこともある部屋だ。
萃香が来てからは、外に近く使い勝手もいいことから、もっぱら萃香の自室となってしまっている。
荷物くらいはと許可したものの、部屋の中に加え置いた箪笥や物入れなどはほとんど彼女の私物で埋まっている状況だ。大抵が酒器や着替えだが、稀に鬼のものだと思われる、用途のわからない物体が入っていることもある。その入れ物もまた日々増え続けており、客間が埋まるのは時間の問題ではないか、と薄ら思うこともある。
萃香自身、物を運ぶ、持ち歩く、というのは彼女の能力や鬼そのものの力によって容易に行えるのだろうが、根無し草だったこともあり、置き場に困っていたのだろう。
小さな六畳間ほどの部屋に着いて、私は中を見渡した。
掃除や宴会のときにしか来ないものだから、数日ぶりに見ることになる。
入ってすぐに見えてくる戸棚が二つと、部屋の隅に箪笥がひとつ。そしてその横に、新たにまたひとつ木製の棚が増えていた。やはりそのうちこの部屋は物入れで埋まるのだろう。そうなる前にどこかへ移動してほしいものだ。
そういえば、天界の某人のお陰でこの神社が倒壊した異変のときに、萃香は天人に打ち勝ち、天界の領土を分譲してもらったらしい。
居場所があるのなら、ここにいる理由たるものもないし、どうせなら荷物だけでもそっちに持って行ってくれるとありがたいのだけれど。
さて、それ以外は、と目を向けても、押入れはきっちり閉められていて、畳には――それを集めるのが簡単だからか――埃ひとつ無い。見た目、綺麗に使われてはいるようだ。
私は障子を開けて、外気を取り入れる。
静かに、まだ冷たい空気が私の肌を撫でて、逆立てた。
外には暗紫の雲が棚引き、その隙間に、まるで夜の帳を引っかいてできた傷のように、暗がりの中に覗く光り輝く半月があり、そこから飛沫を撒いたように、まだ光り足りないといった様子の星々が散らばっていた。
私はぐったりした萃香を縁側近くの畳に置くと、押入れを恐る恐る、ゆっくりと開けた。すると、大小様々ながらくたが大挙して押し寄せて――ということはなく、折りたたまれた布団が鎮座していた。どうやら、まだここは侵食されてないらしい。
布団を取り出して、部屋に広げて敷く。
「うー……」
萃香は寒さからか、ぶるっと一振るい震えて、それから斜に私を見止めて、気難しそうに唸った。
「ずるいよ。霊夢ぅ」
「え? 何て言った?」
私が聞き返すと、萃香は急に声の調子を落とし、眉根を下げて、しおれた様子で続ける。
「ずるいよ、って言ったんだ」
「ずるい?」
萃香の酒癖は多々ある。
そもそも豪放磊落といった鬼の性格そのままに、彼女が抱く感情は大雑把なものだが、酒が深くなるにつれて、その触れ幅が大きくなる気がする。
笑い上戸に泣き上戸、ころころと変わる感情と表情。
今のもそれのひとつだろう。
私はそう判断して、萃香の手を引いて布団に寝転がらせると、疲れを訴える私の体に、もう少しだからと鞭打ち、掛け布団を彼女の体に広げて掛けてやった。泥酔した萃香は、横たわった体が満足に動かせないのか、それともその気がないのか、うろんげな瞳を泳がせて、頭だけをもぞもぞと枕に埋めた。
「うん。ずるいずるい。霊夢はずるい。変に嘘をつかない分、余計に性質が悪い」
「どういうことよ」
正直さを量られるようなことがあっただろうか。
私は怪訝さを隠さずに首を傾げて呟いた。疲れもあって、態度もおざなりなものだ。
「約束なんて守らないくせに」
彼女は目を閉じながら、さながら不満を隠さぬ子供のような様子で呟く。
約束。――といえば、先ほどの節分の件だろう。
しかし、約束したのは私だから、それを破るのは萃香であって、私ではない。いずれにせよこちらから願っているのだから、そもそも反故にするようなものでもない。だから少しだけ、心の淵にその言葉が引っかかった。どうしたというのだろう。
ぶつぶつと悪態を呟きながら、しばらく枕に頭をこすり付けていた萃香が、ふと止まって顔を上げた。
座った目でこちらを見つめて、人差し指で私を差す。
「明日、また晩酌付き合ってよね」
その言葉を最後に、座った目をそのままに再び枕に頭を落ち込ませると、萃香の意識は夢の中へと落ちていった。
すぐに、吐息が寝息に変わり、呼気にいびきが混じる。
「何だったのかしら……」
私は目の前で過ぎ去った意味の取れない言葉の嵐に、少しばかり脱力していた。
しかし、深く考えても所詮は悪酔いの産物、後日問いただして、戯言で済まされてしまったときの始末が悪い。
あの鬼のことだし、重要なことなら機会を得て言ってくるはずだ。特に考えすぎることもない。
それに、寝際のあの分だと朝にはまたいつも通り起きてくるだろう。
私は障子を閉めて縁側に出ると、堰を切ったように疲労感と睡魔が襲ってきて、大きく伸びと、あくびを一つついた。
もうすぐ朝が来る。豆まきの前に、少しだけでも寝ておくべきだろう。
私は眠気を帯びた眼をこすりながら、自分の寝室へと歩き始めた。
§
振り返ればそこにある。
直向に細々と断続する、過去から続く一本の道筋。
歩き続ける自らに対して、置いてきたそれはあまりに遠い。
しかし、夢はそれをいとも容易く反芻する。
誰もがその色を褪せさせ、滲ませ、輪郭をぼかした光景。
道を辿るに連れて、それ以外が見えなくなる。
霧に巻かれ、霞に落ちて、視界はうすぼんやりと翳る。
脳裏は、いつか被膜に映っていたもの、その残滓を淡く切り取る。
いつか、何かの分岐点となった過去の一点。
時は砂浜を撫でるさざなみのように、山々を縫う小河のように、穏やかに、しかし確実に流れていき、往々にして全てを癒し、時として緩やかに侵食していく。
たとえば、肉体や、精神や、記憶といったもの。
あるいはある日、誰かが交わした言葉を。あるいはある日、誰かが言わずに飲み込んだ言葉を。
――反芻し、刻み付けた何かは、それによってのみ、静かに殺されていく。
2
霞立つ視界に、ぼんやりと記憶の輪郭が浮かんでくる。
かすかな言葉や情景が〝しるべ〟となって、霞に包まれた私を導く。
あのときはこうだった、そのときはああだった。
声が聴こえる。
『お姉さんは私をどうするの?』
どうもしないさ。このまま冬を越えて春になるか、約束通り人間たちが助けに来たら、お前を里に帰すだけだよ。
『私を食べないの?』
食べたりなんかしないさ。いじめたりもしない。酒を呑んでた方が楽しいし。
『どうして?』
どうして、って――そりゃ、お前さん、私が人を食べたら、人間(おまえたち)に嫌われちゃうだろ?
――。
これは約束なんだよ。ただの約束なんだ。
交わす言葉も、結末も、全部が全部決まっている、とても簡単で、それでいて、とても大切な約束。
ただ、それだけなんだよ。
§
波立つ記憶に揺られる。
霞は一向に明けず、私は果てを求めて、私が歩いてきた過去の細道を辿り歩く。
今度は、もっと鮮明で明瞭な映像だった。
声が聴こえる。
「ねえ、いつまでいるつもりなの?」
酒を呑む私の横で、腰に手を当て仁王立ちしたまま、不機嫌そうに蒼髪の少女がうなった。
もうすぐ夜になるのか、辺りは夕焼けに染まって、彼女の不機嫌な顔も、半分ほどが逆光にくすんでいる。
もう半分の、茜に浮きだった血色の良い顔と、黙ってさえいれば玲瓏ささえ伺える凛とした眼、そして、七色の装飾を施した服に、黒帽子と桃の装身具。それらが、彼女がこの世界の住人であることを示していた。
見渡すと、空には雲ひとつなく、その代わり、眼下に赤焼けた雲が棚引き、その上に大地が築かれ、朱色に染まった草木が茂り根を下ろしている。
私がいるのもまたその大地の一つ――幻想郷、その空と雲の果てにある、〝天界〟と呼ばれる場所だった。
「自分の土地に居て、いつまでいるかを訊かれる筋合いはないと思うけどね。だいたい力比べに乗ったのは天子の方だよ」
私は桃の木の下で寝転がりながら、のんびりと天子に応じた。
もう一口と、盃に酒を注ぎ、それを呑む。
天界には桃が特産なのか、どこもかしこも桃だらけで、手ごろなつまみにはなるけれど、そればっかりというのも飽きるものだ。
夜になったら、下界に下りるのもいいかもしれない。
私がぼんやりと考えていると、天子は頭を横に振って、鼻持ちならない様子で腕を組んで鼻を鳴らした。
「そうは言っても、ここは元々私たちの土地だったし、あんたがずかずかと土足で上がりこんで、身勝手な勝負を提案して無理矢理奪っていったんでしょう。だいたい何よ、突然来て土地をくれ、何日も居座って酒をくれ、やれつまみがない、やれ暇が潰せない――って、私は小間使いじゃないわ!」
そう、私は天界に数多存在するとある領主の一粒種である彼女と鬼の約束を交わし、力比べをして、その勝利の褒賞として膨大な天界の土地を少し割譲してもらったのだ。
「それでもあんたは約束したんだもの。私が勝ってあんたが負けた。それで土地をもらって、私はそこで酒盛りをしてる。それが約束で、守るべきことなんだから。一応、人間はそうしてくれたよ。季節が変わったら私が帰るんでさ、それまでっていうことでね」
鬼の道理というものはそういうものだ。
私はいつもどおり約束をして勝負に勝って、今回は酒が呑める場所を手に入れて、そこで自分だけで酒を呑んでいる。
それが変わらない鬼の営みなのだから。
「むぅ……」
ぎり、と奥歯をかみ締めるような音が――もちろん、聴こえるはずないのだが――聴こえた気がした。
天子は震える唇をかみ締めて、口の奥で飲み込む直前といった言葉を落とす。
「私は人間じゃないわ。天人よ」
小さく呟き――それから、天子は姿勢を正し、私を指差すと、先ほどとは一転、凍りつくような冷たい眼をして私を見、鉄のように無機質な口を開いた。
「下界に生きとし生ける者、須らく得隴望蜀(ろうをえてしょくをのぞむ)。あなたはこのまま天界に居ても満足できない。きっともっともっと高望みをするでしょう。しかしそれは叶うことはない」
つらつらと清流のように透徹に紡がれて、しかし激流を抱く滝のように重く、上から落とされる言葉。
天頂、彼女が天人たる所以、頂かれた者が持つ一定の水準。
「傍若無人、強欲は周囲を見えなくする。傲慢さでしか相手を量れぬあなたに、傲慢を押し付けられる相手の気持ちはわからない。
而して欲なくしてその足は地に着かず、欲あっては決してその手は天に届かない。このままだと、あなたはどこにも居場所がないわよ。盛者必衰、有羅紈者必有麻蒯(らがんあるものはかならずまかいあり)。ここも、いずれはあなたの不満と共に、その手を離れるのだから」
こんな小娘でさえ、ここの住人であるなら達している境地。
それは閻魔や冥界の亡霊にもあるように、下界と明解な区別を置くにふさわしく、大きな時をかけて培われた〝何かしらの絶対〟だった。
まるで、私が同胞を見捨てた理由を、そのまま別の方向から叩きつけられたような。
私が呆けて天子を見ていると、彼女はまたいつもどおり不機嫌な表情を浮かべた少女に戻って、ともすれば駄々を跳ねられた子供のように無邪気に怒りながら、つんと踵を返すと、髪を揺らして振り向いた。
「ふん。それじゃね。謝るなら早いうちにしてよ」
それから数歩歩いて、ふわりと浮き上がると、どこかへと去って行ってしまった。
後には、呆けた私がいるだけだ。
「な、何さ何さ。何もそんなに怒ることないじゃないか」
誰にも聴こえない言葉を呟いて、私はいつの間にか溜まっていた空唾を飲み込んだ。
――このままだと、あなたはどこにも居場所がない。
酒の肴に干物を食べて、小骨が喉に刺さって離れないような。むずがゆさと、小さな痛み。
その言葉が、心に突き刺さり引っかかる。
大騒ぎをして楽しく過ごしたり、記憶が曖昧になるほど酒を呑んだりすれば、忘れられるようなものではあるものの。
一度思い出してしまえば、それがまた疼いて止まらない。
何度引き抜こうとしても、鉤でもついているかのように、その度に心を深く抉り、奥へ奥へと沈んでいく。
記憶の波がその傷を撫で、私に思い出させ、その責を私に押し付けて去っていく。
あの日もそうだった。
あの日の光景も、あの日の人間の言葉も、同胞が放った言葉も。いくつもの針が私を縫いとめている気がする。いくつもの鎖が私を縛っているような気がする。
約束は守っているのに。間違っているのは私なのだろうか。
約束と、それに連なる道理に重きを置く鬼という種族に対し、そう咎めたとき、私は鬼であって、鬼ではなくなっていたというのに。
§
薄明。
障子から淡い光が差し込む部屋で、私は目覚めた。
沈み込んだ眠りの海から、やっとの思いで這い上がった私は、布団から体を起こして、辺りを見回してから、頭を横に数度振って、頭に生えている二本の角に何度か手をぶつけながら、別段かゆくもない頭を掻いた。
「あー……」
起きてからは夢だと認識できるものの、未だに肺腑の奥に引っ張られるような違和感がある。
心臓が早鐘を打っていた余韻を残して、疲労感を伝えてくる。
感覚が段々とはっきりしてくると、悪夢を見て、寝汗をかいていたことがわかる。
ひとまず瓢箪を手に取り、栓を開けて酒を一口あおってから、汗にまみれて引っ付く肌着がうっとおしいので脱ぎ捨てて、冷たく固まった畳を這って、新しいものを箪笥から取り出して着替えた。
ひんやりとした感触に、一瞬肌が粟立つ。
そのあたりから思考も追いつきはっきりとしてきて、記憶に溺れて忘れていた昨日と今が繋がる。
どうやら、霊夢は私が酔いつぶれた後にここまで運んできてくれたらしい。
丁寧に布団までかけてくれて、あれだけ寝汗をかいたのに、風邪を引いた様子もない。
霊夢は優しい。
でも優しいというよりは、変なところで世話焼きな気もするけれど。
思考も身体も一息ついた私は、立ち上がって障子を開けた。
「ひゃっ」
冷たい風が吹き込んできて、私は身震いと共に目を瞬いた。
見ると、薄い明かりが差し込んではいるものの、まだまだ日の出というわけではないらしい。
博麗神社の裏庭から望む山々では、山裾が多少の光を帯びて浅緑を照らし返しているだけだ。
ろくに寝られなかったらしいけれど、眠気というものはすでに頭から追い出されていた。
今更二度寝というわけにもいかず、私は新しさを帯びた冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、伸びをしながら吐き出した。
「んー……っ」
縁側に座ると、まるで氷上に座ったかのような冷たさが肌を刺した。
もちろん、驚きはすれど、特に困ったり辛かったりというわけではないのだけれど。
「あぁ」
それからぼんやりと繋がった昨日の記憶を辿っていると、私は霊夢と一つ約束をしたことを思い出した。
もう少し意識がはっきりしていたら、断るようなこと――それでも、霊夢相手だったらなんだかんだ言っても断らなかったかもしれないことを。
「そういえば、今日だったっけ……」
節分の豆まき。
正直でさばさばしていて、どこか人間と違う、もしくはかけ離れた何かを持っている霊夢の頼みだから、恐らく私は断れなかったのだ。
それが、形だけとはいえ、私が追いやられるようなことだとしても。
同時に、それがもしかしたら悪夢を見るきっかけになったかもしれないと思った。
どこか人と違い、何者をも受け入れ、何者をも拒絶する、空のような彼女にすら、私は拒絶されたのではないか。
そんな安直な思考を、きっと、頭のどこかでしていたのだ。
――鬼は外、福は内。
懐かしい響きが頭に聞こえてくる。
節分の豆まき。それもまた、鬼と人の約束であることに変わりはないのに。どうしてこうも引きずってしまうのか。
私は戸棚へと歩き出して、その戸を開けた。
中にはごちゃごちゃと酒器などが詰め込んであるが、その一番上には、大きな紅い盃と、その中央に白い包みが置いてある。
包みを開いて、その中身をほんの少し隙見した。
黒みがかった土と、黒い塊が入っている。
おずおずと手を伸ばして、優しく触れる。少し湿った土の感触と、どうしようもない郷愁や、悲哀といったものがこみ上げてきたあたりで、ふと我に帰った。
――何故また過去を辿るようなことを。
勢いよく首を振って、募ってきたその思いを散らす。包みを元に戻すと、頭を掻いた。
「いけないなぁ。こんなんじゃ。気分変えなきゃ」
どこかへ散歩にでも行こう。
帰ってくるころには、霊夢も起きていることだろうから。
私は酒をもう一口喉に流し込んで――珍しく、酒の入った瓢箪を部屋に置いていくことにした。
どこか胸に引っかかり、何とはなしに持って行く気が起きなかったのだ。
それから立ち上がると、服の裾を数度はたいて、縁側の縁を蹴り、宙へと舞い上がった。
節分に投げる豆というものには、嫌な思いしかない。
人間との間で、幾度となく破られた約束の一つ――それに私が直面したのもまた、炒り豆であったから。
だからこそ、私は今回の霊夢との約束を渋った。
このような小さな約束はまだしも、霊夢とは大きな約束をしたくない。
どこかで、私は彼女と、私自身を信じられていないのだ。
いつか、人の端にいる霊夢でさえも、人である以上、私との約束を破ってしまわないかと。
3
とある昔の話になる。
まだ、この世界に鬼がいたころ、人と鬼との間であった、少し機知に富んだ人間と、愚直なまでに正直な鬼とのやり取り――今や絵巻として伝承される御伽話。
昔々。
丹波の大江山というところは、まだ人の手が入っておらず、古い山の神々と共に、大勢の鬼たちが暮らしており、中でも名の聞こえた鬼が、酒好きで、よく人里に降りては若い女子供をさらっていく、酒呑童子と呼ばれる男の鬼だったそうだ。
時に平安時代、宮中に仕える池田中納言のたった一人の姫君が突然行方不明になった。
占いにより居場所を突き止めると、まさにそこは大江山、鬼にさらわれたのだという。
中納言は御所に参内の上、帝に訴えた。
『どうか酒呑童子を征伐して、娘を助けてください。都の不安を無くしてください』
そんな豪傑を仕留めることができる者がいるのだろうか、大臣から指名を受けたのは、またこれも時の豪傑、源頼光だったという。
頼光、鬼の話を伝え聞くに、大勢では不利だと判じ、配下から精鋭の部下数名を選び出し、知恵ある友人を頼り、鬼と友好のある山伏に扮して退治に出かけた。
そして、人ならざる者と戦うには、人の力のみでは無理だと感じた彼は、人間と仲の近しい神を頼り、鎧兜と〝神便鬼毒酒〟という魑魅魍魎にのみ効く毒の酒を用いることにした。
この酒は人が呑めば体が軽くなり力が増し、鬼が呑めばたちまち体が痺れ、力が出なくなってしまうのだという。
さて、大江山でも屈指の峻険さを誇る岳がある。
名を千丈ヶ岳という。そこに鬼は瑠璃で飾った御殿を築き、毎夜酒盛りをしているのだそうだ。
頼光は、その御殿の門に近づくと、わざと疲れたように足を引き摺って歩き、門番の鬼に声を掛けた。
『もし、我等は山伏、大峰山での修行も終えて出羽の国へと帰る道、せめて都を見たいと思うて、道を踏み迷うてしまいました。疲れてもう一歩も歩くこと適いませぬ。気の毒と思し召すならば一夜の宿をご提供願えまいか』
鬼も山伏にこうも頼られては悪い気がしないのか、快くそれを通した。
招かれた頼光らは豪勢な庭園を湛える縁側に通され、酒呑童子を待った。
しばらくして現れた酒呑童子の風貌は、身の丈一丈(約三メートル)、髪は逆立ち、その合間から雄雄しい角を五本ほど生やし、肌は緋縅の衣のように真っ赤に染まった大男だったそうだ。
『汝ら、この深山に何用あって来たのか』
縁側に座ると、童子は耳に響くような大声で訊いた。
頼光らは門番にしたものと同じように説明すると、童子は眉をひそめて頷いた。
『それは気の毒なことだ。少ないが、私から酒を寄せよう。とんと呑み、疲れを癒すがいい』
『それはありがたい。私どもも酒を持っておりますので、こちらも空けましょう』
そして酒盛りが始まり、酒呑童子を安心させるため、頼光らは出された酒と肴の生肉を平らげ安心させ、毒酒を開けさせた。
頼光らの振る舞いに気を良くした鬼たちはそれを呑み、飲み干して間もなく眠ってしまったという。
地を振るわせるようないびきを掻いて眠る鬼たちをよそに、頼光たちはあてがわれた自室で、持ってきた笈(おい)という入れ物から鎧兜を取り出し、それを着込んで太刀を抜いた。
そして酒呑童子の居る座敷に踊りこみ、寝ている鬼たちの首を一閃の元に切り落とした。
酒呑童子の首も落とそうとしたが、童子は騒ぎを聞きつけて飛び起きていた。
『おお、おお、おおおお……』
酒呑童子は座敷の有様を見てひとしきり悲嘆の声を上げると、すぐさま頼光らに飛び掛った。
『何ゆえにか、何ゆえにか!』
一番毒酒を呑んでいたのにもかかわらず、動きは俊敏、そして座敷の柱をへし折るほどの怪力を維持していたという。
山伏に扮していた武士の頼光らに耳を破り裂かんほどの大声を投げかけた。
『情けなしとよ客僧達! 我らが鬼に、偽りあらじと言いつるに!』
そうして踊りかかる酒呑童子に、頼光は太刀を持って打ち合い、ついにその一抜きにて酒呑童子の首を落とすことに成功する。
頼光はその際、こう言い放った。
『人子供をさらい、都を脅かすは悪事千万。天子からの勅ゆえに貴様を討つ』
しかし、間もなく落ちた首はそのまま宙を舞い、眼はかつ、と開かれ、頼光をめがけて向ってきた。
頼光の兜に噛み付くと、何度と斬られながらも怒号を飛ばした。
頼光の兜の鉄皮はそのうち六枚に牙が通り、七枚目でようやく止まったという。
『勅なればと言えば正々堂々立ち会うたろう。義あらばと思えばこの首も差し出したろう! 然らば鬼神に横道、なき物を!』
手厚くもてなしたはずの恩は仇として切り捨てられた酒呑童子は、血の涙を流し、悲愴な声を上げて、顔は引きつり固まって、目を見開いたまま床に落ちて絶命した。
こうして囚われていた姫君たちは全員救い出され、眠っている鬼たちは全員首を落とされ退治されてしまったのだそうだ。
そこまでが表で語り継がれる、大江山の酒呑童子、鬼退治の話。
そして、生き残った鬼たちは散り散りになって逃げ延びていったのだそうだ。
それには、今の鬼の一族や、伊吹山の捨て童子――後の〝酒呑童子〟である、彼女も含まれている。
§
朝日が眩しくて目を覚ました。
まだ外気は冷たいようで、私は布団から半身だけ伸ばし、寝ぼけ眼をそのままに障子を一瞬開けて、白く透き通るほど冷たい空気が流れ込んできたのを感じて即座に閉めた。
障子から覗く透き明かりからして、日の出から数刻ほどしか経ってないらしい。
私は眠っている間にはだけた襦袢の前を戻して立ち上がると、未だしんと冷える廊下を歩いた。
陽こそ出ているものの、雪でも降りそうな雲がいくつか流れている。
廊下を歩く足もすぐに赤く焼けて、一歩踏みしめるごとに冷たさが釘のように肌を打つ。
私はぼんやりと虚空を見上げながら、憂鬱に、青白い吐息をそこへと投げる。
「こんな寒さでやるのかぁ……半纏着たままじゃ駄目かしら」
吐き出す言葉さえも芯まで冷え切っているような気がする。
袖を打ち合わせて抱きこめると、小走りに廊下を進んだ。
外に放ればそのまま凍るのではないかと思うほどに冷たい水に悪態をつきながらも厠を済まし、同じく小走りで寝室に戻り、適当に着替えて髪と身嗜みを整えた私は、布団を畳んで押入れにしまい、それから台所へと顔を出した。
土間にある二つのかまどは、昨日使われてしまったので鍋は置かれておらず、上から炭火の白い残り灰が見て取れた。
かまどに対し、机を挟んで流しを構える台所は、この家の中で一番寒いところだ。
机の上には昨日用意した炒り豆の袋が数個まとめて置かれていた。
まずはこれを神社に供えて祈祷して、それから升や小袋に入れて配ることになる。
とはいえ、なかなかの重さだ。袖から手を伸ばすのさえ億劫な私は、振り返って叫んだ。
「萃香ー。いるー?」
寝てさえいなければ、たいていこの一言で彼女はこの場に現れるものなのだが、どうやら寝ているらしかった。
こういうときのための力持ちではないのか。
居てほしいときに居ないのは隙間妖怪だけで十分だというのに。
「萃香ー?」
何度か呼びかけながら、寒い台所から抜け出したい半分、朝から重労働などしたくない半分、私は廊下を歩いて彼女のいる客間へと向かった。
客間へと着いても、中に何かがいるという気配はなかった。
私は寒さ物ぐさに障子を足で開けた。中を見ても、整然とした室内だった。
唯一、起き抜けたと言わんばかりに半分だけめくられて乱れた布団だけがその存在を誇示している。棚も、箪笥も、昨日のままだ。
これらから察するに、どうやら出かけているらしい。
どうせまたどこか暖かいところで迎え酒でも呑んで、頭を起こしているのだろう。
彼女はいつもそういう起き方をするから、私は別段怪しくも思わなかった。
「やれやれ……」
私は嘆息する。
しかし、布団くらいは畳んで行ってほしいものだ。
昨日疲れた体と一緒に萃香をここまで引きずってきた私としては、そんな小さなところが気に触れた。
他が整理されている分、目立つのだ。
私は萃香の客間に足を踏み入れた。
「起きたら畳むのが普通ってもんでしょう――よっ?」
そして私は――何か硬くて重量のあるものに足を取られて、危うく転びそうになった。
「あっ、とっ、ととと」
とっさに何かを掴もうと手を伸ばして、棚に手を触れた私は、それに体重を預けた。すると、特別、中に重いものは入っていなかったらしく、その棚は私と共に畳へとその身を傾け始めた。
「え、嘘、やっ――!」
安心したのもつかの間だった。
その棚が倒れながらもその戸を開いて、中の物がこすれあい、音を立てながら飛び出してきた。
いくつかの酒器が鈍い音を立てて畳に着地する。
私は空いていた手で開いた戸から中身が零れるのを押さえ、倒れるままに、どうにか体勢を維持しようとして――ようやく、自分が空を飛べることに気づいて、戸棚と共にゆっくりと空中に静止した。
「っと、ああ。そういえばそうだったわ」
畳とほぼ平行になりながら、私は戸棚を抱いて深くため息をついた。
朝から馬鹿馬鹿しいことをしているものだ。
この場に萃香がいなくてよかったというべきか、いなかったからこうなったのであり、怒るべきか。疑問である。
零れ落ちた酒器も、ほとんどが漆の塗られている木製か何かで、陶器は入ってないらしい。割れる心配もなかった。
それもそうだ。そんなものがこれだけ詰まっていたのなら、私の体重を支える程度には重くなっていてもらわなくては困る。
私はゆっくりと体と共に戸棚を元に戻す。
その途中、戸棚の一番上にあった紅い盃がするりと滑り出し、他の酒器類を押さえていた私の腕をくぐり抜けて、畳へと落っこちた。
「あっ、――え?」
声を上げたときにはもう遅く、盃は畳で一度跳ねた後に、布団に着地して――黒くはじけた。飛沫のようなものが、布団に飛び散る。
何が起こっているのかわからなくて、変に声が裏返った。
「どういうことよ……」
鬼の持ち物には無限に小判や酒や米が湧き出る代物もあるというし、鬼の酒器というものは黒くはじけるものもあるのだろうか。
それはともかく布団が汚れてしまったことがひどく心に響いた。
この寒いのに布団を洗濯なんて冗談じゃない。
ひとまず急いで戸棚を元に戻すと、戸を叩き閉めた。
この有様、どうしたものか。
振り向くと、私が足を引っ掛けたのはどうやら萃香の瓢箪であるようだ。
持ち上げると、相応の重量があり、朝に迎え酒をしたにしても、そこまで呑んではいないことがわかった。
「瓢箪……置いてったの? あいつが?」
何故酒と共に生き、酒と共に歩くような彼女が瓢箪を置いていったのだろうか。
ぼんやりと重たい瓢箪を掲げて見ていて、それから布団に散らばった黒が視界の隅に止まったので、私は瓢箪を置いて布団へと近づいた。
惨状をよく見ると、黒い飛沫は液体ではなく、何かしらの粒だった。
指で触れてみると、少しばかり湿り気を帯びていて、つぶすと固まって下に落ちた。
「これは……土?」
黒い土だ。
ひっくり返った盃を元に戻すと、開けた布団の上に白い包み紙が落ちていた。どうやらこの中に入っていた土が落ちた拍子にはじけて出てきてしまったらしい。水分もいくらか含んでいるのか、布団についた方ははたいて落ちるかどうか不安だ。
直感として、単なる土だ。
手で触ってみても、別段私の体に変化はなかった。霊気などがこめられている気配もない。
安全なものだとわかると、心の底から沸々と布団が汚れてしまったという行き場のない怒りが湧き上がってきた。
私は酒器を手荒くまとめて一箇所に置き、瓢箪を戸棚に立てかけた。
それからずかずかと畳を踏み鳴らして障子を開けると、これ以上土が零れないように掛け布団の端と、反対側の端を引っつかんだ。
それから冷たさの残る縁側に足を伸ばして、布団を外へと掲げる。
「ああ……もう、半分は私のせいにしても、後は萃香のせいよ。あいつが瓢箪と布団片付けてればこういうことにはならなかったのに!」
私は布団の端をしっかりと持ったまま、悪態と共に付着している土を外へとはたき出した。
朝方の冷えた空気と、乾いて白みを帯びた土が敷かれた裏庭に、似合わぬ黒土が舞う。
何度か布団を振っては土を落とし、悪態続きで敷き布団の方もそれを行った。
「戻ったら覚悟しなさいよ……」
いくら鬼の私物とはいえ、何の変哲もない土を畳のある部屋に持ち込んだ罪は重い。
私は畳んだ布団を縁側に打ち置くと、箒を取りに冷えた廊下を熱い足で踏みつけて行った。
憤慨と運動で暖かくなった私は、同じく陽が差し温まり始めた廊下を、箒を携えて戻る。
普段室内用の箒が置いてある居間の傍の物置からは、少しばかり客間は遠かった。
戻るのに少し時間がかかり、再び客間に入ったとき、私は視界に、畳に残った土を見ながら、呆然と立ち尽くす萃香の姿を見止めた。
私が口を開くのと、彼女が振り向いて、私を虚ろな目で捉えて、力ない口を開けるのは同時だった。
「あ、霊夢……」
「あ、萃香」
私は鼻についた憤慨の残り香で、布団を畳めだの、土くれなんかを持ってくるなだの、瓢箪は出入り口に置くなだのと、二の句に継ごうとしたが、その萃香の異様な気配に気づいて、喉元でそれを止めた。
「この土、霊夢が?」
怒っているようではない。
ただただ信じられないという風に、萃香は、いつものように酔っ払った様子でなく、鬼らしく芯が通った様子もなく、私に訊いてきた。
まるで、悲しんでいるかのような。
「ええ。悪かったとは思うけど――あんたが瓢箪を出口なんかに置いておくから、それにつまづいた拍子に棚に手をかけて、そのまま。……特別なものだったの?」
萃香はふるふると首を横に振って、それからゆっくりとうつむいた。
あまりに見え透いた嘘だったが、私はそれを追及するよりも、喉元まで出掛かった言葉を吐き出したかった。
「それなら、たとえ大切なものだとしても、こんなところに置いておかないでよ。私にはただの土にしか思えないんだから。それに、畳の部屋でこれを片付けるのも大変なの、わかるでしょう。布団に付いたのとか、どうすればいいのよ。こんな寒い中で洗濯なんて、冗談じゃないわ」
吐き出した言葉は思ったよりも尾を引いて、絡まった蔓のようにまとめて出てきた。
怒り半分、しかし残り半分の勢いで、私はここまで言いたいわけじゃないのだ、とも思いながら、どこで切ったらいいのか、言葉を止めることができなかった。
「いっつもそうじゃない。この前だって勝手に空いた箪笥を持ち出してさ。倉だって勝手に開けたでしょ。言っておくけど、ここはあんたの家じゃないのよ。あんまりこういうこと続けるなら――」
そこまで捲くし立てたところで、急に萃香の拳がぎゅっと握られる。
すると、布団と部屋に飛び散っていた土がふわりと浮き上がった。
彼女の能力だ。
萃香はそのまま手を差し出し、落ち葉が風に遊ばれて回るように、手のひらの上で小さな竜巻を形作りながら、土をその手の内に集めた。
間もなく竜巻は小さく団子のように球体として収束していき、それを萃香は優しく握って胸近くに抱え、私の方に顔を上げた。
それは――それは、平常の萃香からは想像すら及ばない、今にも泣きそうにくしゃりと歪んだ顔。
その顔で、感情が殺された、引きつった笑みを無理やり作り出して、彼女は震える唇を動かした。
「そう。ごめんね、霊夢。大丈夫、今すぐは難しいけど……そのうち出ていくよ。そのうちさ」
いつも通りの元気そうな声でそう答えると、それを最後に、その顔がぼんやりと薄れて、崩れていく――霧化だ。
何千、何万という極小の粒に姿を変えた萃香は、そのまま空気に呑まれて透明になっていった。
「それと――ごめん。やっぱり今日はよしとくよ。元々鬼がいなくてもいいんだから、いいよね」
四方八方、そこら中から声が反響して、萃香の気配は文字通り雲のように散り、霧のように消えてしまった。
いなくなってしまったのだ――少なくとも、私が感知できるような範囲からは。
私はその一部始終を見終わってからようやく、終の言葉を出す前で口が開いたままになっているのに気づいて、言葉を飲み込んで、虚しい空気を噛み砕いた。
「……何よ」
存在意義を失った箒を片手に持ちながら、立ち尽くす。
「嘘つき」
やっぱり大事なものだったんじゃないか。
苦し紛れに、言葉を切り出した。それすらも自分に跳ね返ってくるようで、後悔が押し寄せてきて、箒を持った手を固く握った。
嘘つきは私も同じだ。
そこで、急に外から私を呼ぶ声が聴こえてきた。
「おぉーい、霊夢ー?」
大声に、少し驚く。
何だかんだといって萃香が驚かせるためだけに消えて、戻ってきたのだとか、ほんの少し過ぎった期待が潰され、その上、期待していたことに自分自身が気づいてしまって、他力本願な私自身を蹴飛ばしたくなった。
「いないのかー? 入るぜー?」
どうやら声の主は、研究や蒐集をしていなければ常に暇を持て余し、どこかをほっつき歩いている白黒魔法使いのようだ。
私はそれで我に返って、もうすぐ私が主催したはずの豆まきが始まることを思い出す。
萃香のことが気にかかるが、彼女が霧になってしまった以上、どうしようもないことだ。
こちらからの行動は起こせないと見ていいだろう。そう思考を立ててから、私は自分を小突きたくなった。――どう起こせばいいのかわからないのだ。
「はいはい。今行くわよ」
私は大声で来訪者――霧雨魔理沙に応じた。
誰かに教えてほしいけれど、誰にも聞けない事柄。
私はそれに鎖で繋がれたまま、重たい足を引きずって玄関へと向かった。
もちろん、魔理沙に聞くなんてことはできない。
この私の友人は思考が軽くて、かつ気分屋だ。こんなことを相談する柄じゃない。
今でも、このまま騒がしく神社の中に入られてしまわないかを気遣わなければいけないほどだというのに。
「珍しいじゃないか。霊夢なら掃除か飲茶でもして待ってるもんだが」
神社の境内横の玄関に回りこんで、魔理沙は私を待っていた。
箒を肩に回して、帽子を押さえながら彼女は心底無邪気そうに私に笑いかけた。
この天気に箒に跨っての飛行は寒かったのか、暖かそうなマフラーを巻いている。
ふわふわと柔らかそうな金髪と、気の抜けた柔らかい物腰。
彼女が来ると場が明るくなるのは、彼女自身、天性の才だろうと思う。
そして今回ばかりは、その明るさが身に染みた。
「悪かったわね。まだ炒り豆のお祓いも終わってないのよ。よかったらそれ使って、私の代わりに掃除でもしておいてよ」
多少気分が楽になって、私は彼女の箒を指差して冗談を投げた。
にひ、と悪戯好きな彼女は口の端を持ち上げてそれらしく笑って、箒を掲げて冗談を受け止める。
「ああ、すまんな。生憎、私の箒は飛行用だぜ」
そう切り替えされて、私は玄関脇に置いてある外用の箒を持ってくると、魔理沙に押し付けた。
「じゃあこれでいいでしょ。頼んだわ」
乱暴に押し付けられた箒を受け取ると、両手に箒を持つことになった魔理沙は、きょとんとしたまま両肩に箒を担いで、二つを見比べた後、箒の乗った肩を一瞬上げて、仕様がなさそうにため息をついた。
「……やれやれ、神社の掃除も巫女の仕事だろ?」
そう口では叩きつつも、押し返さない彼女は優しいところがあると思う。
「それなら巫女になりなさいよ。歓迎するわよ?」
私はそう言い残して、玄関の引き戸を閉める。
「どうせなるなら私は茶を飲む仕事の方をやりたいんだがな」
魔理沙が閉め行く引き戸の隙間に声を放り込んできた。
私はそれに目で応じる。
彼女を見ても、嫌な表情は浮かべておらず、眼差しも抗議といった風ではない。どうやら境内の、少なくとも参道の掃除はしてくれるらしい。
廊下を歩きながら、思考を浮かべる。
掃除の問題は片付いても、台所を占領する袋の問題は残っている。
多少気も身体も重たいが、炒り豆の入った袋は一人で運ぶしかなさそうだ。
破れやすい炒り豆の袋ではなく、鉄瓶や木箱といった、もっと固いものや乱暴に扱っても痛まないものなら、お札をつけて飛ばすといったことも考えられただろうに。
私は魔理沙が境内の掃除を行っている間、数回に分けて炒り豆の袋を神社の本殿へと運び、除災増福を願っての祈祷を行った。といっても、そもそも豆自体が縁起のよいものだし、わざわざする必要もないかもしれなかったけれど――一応、念のために。
それからまた炒り豆の入った袋を境内へと運び、そして、炒り豆を入れる木製の升を物置から持ってくる。
これが多少かさばる上に麻袋に入れても破れてしまい、数を持つのが難しく、結局何往復かすることになった。
多少の数を揃えるころには、私は額に薄ら汗をかいていた。
「ふぅ」
一息をつく。
汗をかいたし、冷えた廊下を往復したためか、冷気が足を刺した。
身体は熱いのに足が冷えているのが気に食わなくて、私は二人分の座布団を敷き、人が来るまでの間、お茶を飲むことにした。
「よう、こっち終わったぜ」
見計らったかのように魔理沙が境内から歩いてきて私の隣の座布団に腰掛けた。いつものことながら、私と違って、彼女は縁側に正座しない。
足をぶらぶらさせ、自分で肩を揉みながら、一つ白く吐息する。
「疲れた疲れた。参道だけはしっかり掃除したけど、後は特に気になるようなもんじゃなかったから放置したぜ。何より寒いし。箒は玄関脇に投げ込んでおいたけど、よかったよな?」
見ると、それでもちゃんと仕事はこなしたのか、彼女はほのかに上気していた。
暑くなったのか、あの暖かそうなマフラーも外している。帽子の中にでも入れているのだろう。
「ええ、お疲れ様。助かったわ」
私はねぎらいの言葉をかけて、茶を一口すする。
寒い日にはやはり熱い緑茶がおいしい。
「はい、これ。あんたの分よ」
急須から少しばかり熱が取れた茶を湯飲みに注ぎ、それと共に、お茶請けにと用意した煎餅が入った皿を押して勧めると、魔理沙は嬉しそうにそれを受け取った。
「おお、気が利くな。ありがたいぜ」
やはり労働の後の休憩は格別だよな――なんて似つかわしい言葉を呟きながら、魔理沙は海苔が巻かれた煎餅をぱくついて、十分に味わった後に、お茶でそれを流し込んだ。
目を閉じて、先ほどの吐息とは別に、満足そうにほう、と白い息を吐く。
再び開いた目は、新しい世界でも写しているかのように充足していた。
「うまいな。やはり神社では緑茶だぜ」
時折鍋にも呼ぶけれど、やれ冬は鍋だの、茸が美味いだの、逆にこんにゃくが古くて不味いだの、大根に味が染みてないだの、美味しいだの不味いだのと――何かとつけて彼女は感情を素直に表現してくる。
こうやって見ていると、魔理沙は表現一つとっても馬鹿正直で全力な気がする。
弾幕勝負も、気の持ち様も、表情も、感情も、全てが全て、性格そのままだ。
「そうね。とはいっても、私にはいつもの味だからなぁ」
私は苦笑して応じた。
その辺は、萃香と違う点なのかもしれない。
彼女も、正直ではあるのだけれど。
「いやいや、羨ましいぜ」
魔理沙はもう一口緑茶を啜りながら笑った。
羨ましいと言いながらも、茶を飲むときの二度に一度は魔理沙がいる気がするのは、気のせいではないだろう。
「そういえば、今日はどうするんだ?」
ひとしきり落ち着いたのか、彼女は豆まきの話を切り出してきた。
「ああ、そういえば。もうすぐ始まるけど、適当に人が集まったら神社で祝詞を言って、みんなに豆の袋を配ってから境内から豆を撒いて、後は空いた升に誰かしらが酒をくれと言い出すだろうから――」
私がそこまで話すと、その誰かしらは合点がいったのか、嬉しそうに頷いた。
「なるほど、宴会だな」
私はため息を吐いてお茶を啜った。
「まぁ、そうなるわよね」
いつも片付けをするのは私だから、そこだけ憂鬱である。
時々、祭りごとの準備や後片付けに長けた、冥界の半死半生の剣士だとか、紅い悪魔の従者だとか、私と同い年ほどの現人神だとかが手伝ってくれることはあるものの、基本は私一人なのだ。
後は、本当に稀ながら、魔理沙や紫――そして萃香が手伝ってくれることもある。
しかし、大抵は寝潰れたり、神隠しのように消え失せたりするので、頼めたものではないのだけれど。
半ば憂鬱な私に反して、魔理沙は既に宴会気分なのか、浮ついた様子だ。
「しかし、今回はいいじゃないか。本当の鬼がいるんだからな」
軽い口調でそう刺されて、私は内心どきりとした。
魔理沙には訊けないこと――どうしようもない鎖は、私に繋がれたままだ。
ただちょっと、眩しい彼女に当てられて、忘れていただけであって。
「あぁ、萃香のこと? ――今回は来ないわよ。やめとくってさ」
私は事実だけを伝えて、茶を濁した。
そのまま煎餅を一つとって一口に頬張り、濁ったお茶で流し込む。
その私を見ていても、深意は読み取れないようで、魔理沙は意外半分、つまらなさ半分といった様子で眉尻を下げた。
「おお? そうなのか。それならちょっと味気ないな。豆は鬼にぶつけてこそだろ」
そう言った矢先、境内から続く参道、鳥居の先の見切れた階段を、二人の人影が上ってきた。
「おや、白黒が先か。私たちは二番目ね。……あーあ。一番になれないんなら、もう少し遅く来るべきだったか。ねえ、咲夜?」
最初は淡い赤の傘、それから真紅に燃える不遜な眼をした吸血鬼――レミリア・スカーレットが目に飛び込んでくる。
その横には、メイド服に身を包み、傘持ちをしている吸血鬼の従者、十六夜咲夜の姿もあった。
「ええ、そうですねお嬢様。もう少し時間があるなら、あんなにお急ぎになられることもありませんでしたわ」
咲夜が懐につけた懐中時計を見ながら平然と答える。
見ると、レミリアは鬼らしからず、わずかに上気した顔で、身嗜みも咲夜が整えたにしろ、所々服や帽子がズレている。
なんだかんだで、この吸血鬼は一番乗りがしたかったらしい。
天邪鬼とはよくいったものだ。
「……鬼だな」
魔理沙が呟く。
彼女にとっては、豆をぶつける相手ができたらしい。
「鬼ね」
私が応じる。
私はお湯を入れる鉄瓶を持ち上げて、いつの間にか空になったことに気づいた。
もうそろそろ人も来るころだろう。私は重い腰を上げる。
今から萃香を探すようなこともできないだろう。
魔理沙に朝のことを反芻させられて、私はその思考を一言に切り捨てた。
今更といえば今更だ。
もうすぐ、節分の豆まきが始まる。
§
その後、神出鬼没な隙間妖怪や、冥界の亡霊などの妖怪や、里の半獣教師やその生徒、御阿礼の子、里の人間などが集まってきて、節分として、一通りの神事を執り行った。その間も萃香は来なかったが、神社の管理者である私は気に留める暇もないほど一連のトラブルメーカーたちの対処に忙殺されて、思い返すこともなかった。
「萃香が来ないんだったら、レミリアに豆をぶつければいいよな。鬼だし」
魔理沙のそんな一言で、一応の鬼にあたるレミリアが鬼役に抜擢された。
里の人間たちもいることから、鬼役がいるのは盛り上がる点でとてもありがたい。
「はっ! 誇り高い吸血鬼であるこの私が、そんな役をやるはずがないじゃないか」
しかし、魔理沙の言葉を聞きつけるや否や、レミリアは踏ん反り返って鼻を鳴らした。
確かに、プライドの高い彼女がその役をやるとは考えにくい。
そう思っていたのだが、咲夜は意外そうに口に手を当てた。
「あら、そうなのですか? 『豆なんて怖くないね』っておっしゃってい――むぐ」
当てた口を更に上からレミリアに押さえつけられて、咲夜はそこから押し黙ってしまった。
なるほど、なんだかんだで鬼なのだろう。来る前に、節分なのに遊びに行くか行かないかでひと悶着あったと見える。
魔理沙もそれに感づいたのか、いつも通り意地の悪い笑みを浮かべて、彼女を挑発する。
「お、そうなのか? そうか、実は怖かったりして」
言葉を発した魔理沙が気づくよりも早く、喉元に爪を突きつけて、レミリアが肉迫していた。
魔理沙が降参の合図として両手を挙げて、突きつけた爪を下ろす。
憤慨そのものといった様子で、レミリアは振り向いて周囲に言い放った。
「やるわ。……やってやる。光栄に思うことね、人間共」
あくまでも地位的に上、というスタンスを崩さないその姿は、ある種の尊敬に値する。
「ねえ、実はどうなの?」
私は咲夜に近寄って、こっそりと耳打ちした。
「震えていましたわ。恐らく期待で」
一連の様子を頬に手を当てて心底嬉しそうに微笑みながら、咲夜はひっそりと答える。
「あんたってさ、時々ひどいわよね」
私が毒づくと、咲夜は笑みを崩さずに慇懃そうに腰を折って礼をした。
レミリアは周囲に敵意をむき出しにして豆まきの開始を待っている。
里の子供や人間側の人々、後は傍観ではなく参加意思を表明した奇特な妖怪達に豆を配りながら、私は抜き身の剣のようなレミリアに言い放った。
「鬼の〝役〟を演じるんだから、豆を投げる人たちに危害を加えたら二度と神社には入れさせないわよ。普段スペルカードで使うような大技も使ったらただじゃおかないわ」
釘を刺されたレミリアは、その剣呑さを一瞬で崩壊させ、『そんなこと聞いてないよ』とでも言いたげに目を開いてこっちを一瞥して、それから咲夜の方を見た。咲夜も笑顔で頷く。
「だって、相手は生身の人間だもの。誇り高い吸血鬼がそんな下品なことやるわけがないわよね?」
私はもう一つ言葉を継ぐ。そもそもやるつもりだったのか。
レミリアは歯がゆそうに周囲の人間達をぐるりと見回して、それから一息つくと、腕を組んで再び胸を張った。
「ええ、勿論。これは儀式、遊びだもの。ほどほどに遊んであげるわ。だいたい、ただ炒っただけの豆なんて、痛くもかゆくもない。私は以前の私とは違うのだから」
「……そうなの?」
私は再びこっそりと咲夜に耳打ちした。
咲夜は主人のことだというのに傍観を決め込んでいるのか、余裕を崩さずに頷く。
「以前、パチュリー様の提案で紅魔館にて行った節分大会に参加できなかったのが大変悔しかった様子で、炒った豆を耐えられるように特訓しましたわ。最初は半生からでしたが、今ではしっかり炒り切ったものでも大丈夫――なはず」
咲夜でも言い切ることができないのか。やはり苦手ではあるらしい。
少し不安になってきたが、危害を加えないことを約束したし、見境がなくなるほどに怒らせなければ大丈夫と見ていいだろう。
幸い、人間側にも彼女と渡り合えるほどの人物は何人かいるのだ。
一通りのやり取りが済んだと見たのか、魔理沙が首を突っ込んできた。
「それじゃ、決まりだな」
その手には、子供用にと配った豆の小袋が数個と、升一杯に盛られた豆が用意されている。
やる気満々といった様子だ。
それに続くように、里の子供達が各々豆を握り締め、魔理沙の後ろに待機していた。
「さあ、始めようぜ。鬼退治といえば豆まき。遠慮なく数の限り撒き散らすぜ」
いつの間に手懐けたのか知らないが、子供達も魔理沙に合わせて豆を構えている。
人当たりのいい性格からか。彼女は魔法使いにならなければ、いい保護者になれるだろう。
私もそれを了承して、子供達に掛け声と、豆まきによる除災増福の効果などを教える。
後は懐かれている魔理沙に任せることにした。上手く先導してくれることだろう。
「咲夜っ!」
レミリアは私の横にいる咲夜に声を投げた。
咲夜が返事をすると、彼女はその場に悠然と立ち、宣言する。
「この戦い、〝あのとき〟のように手出しは、絶っ対に、無用よ! 豆なんて、もう怖くはないわ!」
あの時というと、きっと咲夜が言っていた特訓の時だとか、紅魔館で行われた節分の豆まきだとか、そういうときなのだろう。
咲夜は期待している旨を丁寧に伝えて、レミリアは魔理沙たちに向き直った。
鬼は外、福は内――。
決まりきったフレーズと共に、魔理沙たちはレミリアに豆を投げつける。レミリアは豆まきが始まるまで、怯えているような表情を浮かべていたが、投げられるや否や、不敵に笑みを浮かべて、それらを真正面から受け止めた。
「ふっ。私が炒り豆に弱かったのは以前の話。今の私にそんなものが効くはずが――」
ぱらぱらとレミリアの肌に乾いた音を立てながら豆が当たる。
すると、当たった部分がじゅっ、と焦げるような音を立てて、白く小さな煙を立てた。
「……あれ、痛い?」
鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、レミリアが不可思議そのものといった様子で豆が当たった部分を見た。
やがて、見る間に表情が赤くなった後に青くさめて、その場を飛びのいた。
「やっ、これ、まさか――霊夢ぅ!」
しゅうしゅうと音を立てる肌を必死にはたきながら、レミリアは私に怒号を投げつけた。
縁側に座って一息ついていた私をレミリアが見捉えると、服から零れ落ちた豆をこちらに蹴り飛ばして叫んだ。
「貴女、これ、お祓いしたわね! そんなこと、聞いてないわよ!」
私の近くに蹴り飛ばされた豆が転がってきた。
見ると、その豆を白い煙が巻いている。
なるほど、私のアミュレットも、彼女に当たったときはこんな感じの反応をしていたような気がする。
豆に強くなったとはいえ、魔滅には未だ弱いらしい。吸血鬼は弱点が多くて大変だ。
「言ってないわよ」
しれっと答えると、レミリアは様々な罵詈雑言を飲み込んだ表情で、悔しそうに唸った。
「うう……! こんなの、止めよ、止めっ! 法儀礼済みだなんて、卑怯だわ!」
レミリアが私に向かって叫ぶと、誰かが横合いから悠々と声を差し込んできた。
「おや、〝約束〟が違うじゃないか、〝誇り高い〟吸血鬼さん」
ぎしり、とレミリアの顔が固まる。
その時の魔理沙の笑顔は、悪魔よりもよっぽど悪魔らしかった。
「まさか、この期に及んで空中に逃げたりとか、鬼の力を使ったりとかはしないよな。頑張って避けようぜ。ドットイートは好きかい?」
次々と制約の楔を打ち込まれて、白木の杭よりもよっぽどこたえた様子のレミリアは、こちらにも聴こえるほどの歯軋りをしながら、子供達の投げた豆を横っ飛びに避けた。
「この……っ、覚えてなさいよ……魔理沙っ!」
「忘れた方がいいと思うぜ」
やれやれという風に吐息した魔理沙は、帽子を押さえながら肩をすくめて言った。それから、片手に持っていた升から豆を取り出して構えた。
それからは一方的だった。
子供達のはしゃぎ声と、レミリアの悲鳴が境内に響き渡り、人間側も、妖怪も、配られた豆をつまみにそれを見ていた。やられている本人以外は、いたって長閑だったように思える。
豆を投げつけて、レミリアが当たる度、子供達から喝采が飛ぶ。
何より先導が魔理沙だ。軍隊張りの従順さと、それでいて遊び心を忘れていない様子で、子供達は動く。
「やっ、痛っ……。この私が、たかが人間ごときにっ……うー!」
頬や額に当たると痛いのか、レミリアは帽子を押さえながら逃げ回っていた。時折子供達を威嚇するように吼えたり、地面を踏み鳴らしたり、高速で動き回って驚かしたりするものの、豆をぶつけられると途端に飛び退き、逃げ回っていた。
反撃できないから、鬼の体力に頼って耐えているよりも、その速さで逃げ回った方が得策だと判断しているらしい。
そもそも、レミリアの速さに慣れている魔理沙がいるのだ。
既に予測して逃げる方向に豆を投げる魔理沙に、好き勝手投げる子供達が加わっており、多勢に無勢といった様子だった。
「咲夜っ、咲夜はどこっ? 敵の数が多すぎるわ! 私の傘を持ってきて! ねえ、咲夜、聞いてるの? 咲夜―っ!」
とうとうこらえきれなくなったのか、レミリアが声を張り上げる。
「呼ばれているわよ」
私が咲夜を言葉で小突くと、咲夜は笑顔で頷いた。
「ええ。しかし、我が主は先ほど『手出しをするな』とおっしゃいました」
「あんたってさ、時々怖いわ」
咲夜は至上の褒め言葉を受けたかのように、とびきり明るい表情で頷いた。
「恐縮ですわ」
それからは、レミリアがついに力尽きて降参するまで、一方的な戦いだった。
子供の体力というものは吸血鬼にも勝るらしい。
豆まきが終わった後も、子供達は神社の境内で騒いでいる状態だった。
ひと段落着いて、人間達は保護者である半獣教師などに引率されて、神社を後にした。
それからは、こぞって妖怪達が空になった升を差し出して、口それぞれに言うのである。
「ほら、これ。空になったから約束通り酒をくれ」
魔理沙も妖怪と同じことを言う。約束なんてしてないのだけれど。
そもそもこの神社で節分をやったのが運の尽き、といったところだろう。私は渋々了承した。
「別にいいけど、今から倉に取りに行くから、誰か手伝ってよ。他は大人しくしててよね。あと、妖怪にも寛容なありがたい神社の賽銭箱はそこよ。妖怪からも大歓迎」
そう言い残して境内裏の倉に行こうとすると、服の端を引っ張られた。
振り向いた先には、虚空から伸びる腕と、白い手袋をはめた手。
「その必要はありませんわ」
神社の賽銭箱の近くから声が湧き出てきて、そちらを向くと、空間が見切れて、黒く歪んだ亜空間が顔を出した。
そこからまずは同じく白い手袋をはめた手、そして紫色の趣味の悪い服で包んだ腕、妖艶な顔立ちの女性――隙間の大妖、八雲紫が身を乗り出してきた。
「これはまた、悪辣な便利屋ね」
私が苦々しげに言い放つと、紫は傷ついた様子で額に手の甲を当てる。
「あら、ひどい言い様。せっかく私がお酒を倉から運び出す手伝いをしてあげましょうというのに」
何故この親切が理解できないのか、とでも言いたげに紫は嘆いた。押し付けがましい。
「あんたがへりくだる時って大抵いいことないのよ。それに倉にはあんたが入るからってこれでもかってくらい厳重な結界が張ってあったはずなんだけど?」
私がどれだけ噛み付いても、紫には暖簾に腕押しといった様子だった。
紫はいそいそと長机を取り出して組み立て、それを地面に置くと、その上に次々と酒の入った一升瓶を並べていく。
「ええ、破りましたわ。数十秒もかかっちゃった。腕を上げたわね、霊夢」
さらりとすさまじいことを言ってのける。
これだから結界術ではなく、結界そのものを操れるような奴は嫌なのだ。
私以上に型にはまらない。どれだけ頭を絞って結界を組み立てても、この有様だ。
「嫌味ね。今度は採算度外視で三倍にしておくわ」
私は紫に捨て台詞を投げた。
どこからかつまみも用意してきたようで、紫の用意に妖怪達から賞賛の声が上がる。こうなっては仕方がない。この酒は呑みきられると見ていいだろう。
「まぁまぁ。お酒なら、私も持ってきたわよ。足しになるかしら」
咲夜が横からワインボトルを差し出す。
礼を言って受け取るものの、用意がいいのは嬉しいが、火に投じるようなものだ。
炒り豆が鬼以外にも効けばいいのだけど。その他にも酒やつまみの差し入れがあって、既に節分というよりは宴会の体を呈してきた。
「仕方ないわね……。少しで勘弁してもらおうと思ってたのに」
降参といった風に手を挙げて、宴会が始まった。
この時期の冷たい風も、妖怪には気にならないらしい。
その上、紫が勝手に神社に上がりこんで、熱燗や温かいつまみを用意したものだから、更に宴会は熱を帯びることになってしまった。
私も渋々それに乗じることにして、しばらく飲むことにした。
その後は、怒りや屈辱が再燃したのか、レミリアが魔理沙に弾幕ごっこを申し込んで、神社上空で花火が散ることになったり、酒の呑み比べなどがあったりして、いつも通りの神社の宴会といった様子だった。
あの祭り好き、酒好きの萃香がいないことを除いては。
しばらくの後、それぞれ酔い潰れたり疲れたりして、宴会がお開きになったころ、それほど呑んでないにしろ、疲れもあって、酔い覚ましに縁側に座り込んでいた私に、紫が切り裂かれた空間の隙間から現れて声をかけてきた。
「今日、萃香は来ていないのね」
相変わらず彼女は痛いところを突く。
上から声を投げられて、私は苦々しげに頷いた。
「ええ、来てないわ。今日はやめておくんですって。豆が嫌いなんだとか」
それはそうでしょうね、と紫は納得した様子で呟いた。
紫と萃香は古い知り合いらしいからか、知っていることも多いようだ。
私は疑問に思っていたこと、萃香自身には訊けないようなことを、訊いてみることにした。
「ねえ、萃香はなんで豆が嫌いなの? 鬼って、何をしたのかしら」
紫は私を刹那、鋭い眼で射抜いた後に、ふと相好を崩すと、身を乗り出して、隙間の上に腰掛けた。そんなことをするくらいなら、縁側に座ればいいだろうに。
それから紫は考えるように指を顎に当てて、口を開いた。
「鬼が何かをしたのかというと、そうではないわ。どちらかというと、人間が何かをしたんでしょうね」
鬼と人の間で何があったのか、やはり彼女は知っているようだ。
それにしても、あの圧倒的で隙の無い強さを誇る鬼が、人間にどうにかできるものだったのだろうか。
むしろ、本当に萃香のような強い妖怪が沢山いて、それぞれが本気を出したのなら、根絶やしにされてしまってもおかしくはない。
人にできることは、限られている気がするのだけれど。
「あの半獣の里の守護者じゃないけど、歴史は隠された事実を内包しているわ。受け取る側が、それを引き出せないか、聞き取れないだけであって」
紫はそこまで淡々と話すと、急に語気を和らげて、逆に私に訊いてきた。
「昔話は好きかしら?」
私の返答を待つ前に、彼女はどこか遠く――まるで、とある過去の一点を探るよう――に目の焦点を結んで、その目を閉じて、私に微笑みかけた。
「――ねえ、霊夢。妖怪と人間の違いって何かしら。弱さと強さの決まりって何かしら。私にはわからないわ。境界など、敷けるはずもないものだもの」
4
これもまたとある昔の話になる。
まだ、この世界に鬼がいたころ、人と鬼との間であった、少し機知に富んだ人間と、愚直なまでに正直な鬼とのやり取り――今や民話となって、方々に形を変え外延を変えて、しかし本質を変えることなく語り継がれる話。
昔々。
あるところに、綺麗な娘を持つ長者がいたそうだ。
その長者が住む土地は、ある年、長らく日照り、凶作どころか来年繋ぐ種さえ残らなさそうな干ばつが続き、稲は枯れかかり、村人はほとほと困り果てていたという。
同じく困り果てた長者は、娘にも水垢離をさせ、自分も必死に雨乞いをしたそうだが、一向に雨の降る気配はない。
そうして万策尽きたところに、とある山から小鬼が降りてきて、長者の家を訪ねたという。
小鬼が言うに、鬼の里では女子が足りず、捜し歩いているのだそうだ。
『私は農に聡い。我らに娘をくれるなら、私が雨を降らせてやろう』
村人は、そして長者は集まって考えに考えた。
お互い投げ打つ会話は荒れに荒れたそうだ。
仕舞いには、村人たちは総意として長者の娘を鬼たちに差し出すことを決め、長者も泣く泣くそれを飲んだ。
娘の母は、娘が連れ去られて行く別れの晩に、菜種の粒を一袋差し出した。
『連れて行かれる先々で、これを零し落としてお行きなさい』
娘は頷き、言われた通りにし、連れ去られる道々に菜種を落としていった。
村の方はというと、連れ去られた明くる朝からさめざめと染み入る雨が降り注ぎ、大地を憂いるように染み込んでいき、それによって村人たちは飢餓の危機から救われたという。
それからまたしばらくすると、とある山からこの村まで、一筋の金色の道ができた。
それは娘が撒いた種から咲いた菜の花で、娘はそれを辿って村まで戻ることができたという。
小鬼は約束を破られたと大いに怒って村を訪れた。
『約束が違うだろう。娘を返せ』
娘の母親は戸を叩く小鬼に対して、一握りの炒り豆を渡して、『鬼は農が得意だそうだな』と前置きしてから、大変自信満々に頷く鬼に対して言った。
『この豆が春になって芽を出したら、娘を連れ帰ってもいい』
豆を受け取った鬼は、笑って応じた。
『なるほど、確かに冬の間は女手も必要になろう。私にかかれば、豆を実らすなど簡単なこと。やってみせよう。約束したぞ』
もちろん、炒った豆は芽を出すはずがない。
翌年になっても芽が出ず、小鬼は長者の家を訪ねに来た。
『私の豆は芽が出ない。もしや、腐った豆を渡したのか』
そう訊いた小鬼に対して、母は大豆が青々と茂る畑を見せて言った。
『お前に渡した豆と同じだが、私のところは芽が吹き、このようにしかと育っている。ならば、もう一度やってみるか』
母はまた炒った豆の袋を渡して、小鬼は頷きそれを受け取った。
もちろん、芽が出るはずもない。
翌年も、そのまた翌年も、それから数年、鬼は炒り豆を受け取り、首を傾げてそれから芽が出るのを待った。
――そのうちに、人里にその小鬼は降りてこなくなった。
これが、今伝わる、節分の豆まきという行事の、元となる民話の一説。
あるいは男の鬼だったかもしれぬ。
あるいは成人の鬼だったかもしれぬ。
あるいはさらったのは男の子供だったかもしれぬ。
同じような話はいくつもあり、人伝てにそれは伝わり、鬼たちには豆を渡してはその問答を繰り返したのだそうだ。
今となっては、昔々の話である。
§
『お姉さんは私をどうするの?』
どうもしないさ。このまま冬を越えて春になるか、約束通り人間たちが助けに来たら、お前を里に帰すだけだよ。
『私を食べないの?』
食べたりなんかしないさ。いじめたりもしない。酒を呑んでた方が楽しいし。
『どうして?』
どうして、って――そりゃ、お前さん、私が人を食べたら、人間(おまえたち)に嫌われちゃうだろ?
――私は、もう、あのときみたいに嫌われたくはないんだよ。
§
風を切って飛ぶ。
異変解決のときに出すような暢気な速さではなく、私は何かに後ろから押されているような気さえして、息は切れないものの、過ぎ行く風景が線となって後ろに流れていくような速さで飛んでいた。
鬱蒼とした森を抜ける。
地底の旧都がある洞窟からは、空を飛ぶのに適した場所が遠い。
紫の話は――恐らく、彼女の話だろう。
もしかしたら、そうではないかもしれない。
しかし、私には心当たりがあった。それは今朝の、客間での一幕。
黒く飛び散った土は、果たして土だったのだろうか。〝土になってしまった何か〟ではないのか。
あるいは――〝お人好しの彼女が今の今まで引きずってきた、人間を真に信じきれない理由〟ではないのか。
その思考が私を突き動かしていた。
心臓が脈打ち、駆ける空をなおも蹴り飛ばさせた。
風景が見切れたので、次いで上へと飛ぶ。
神社の宴もたけなわだったが、私はそれを切り上げ、後を魔理沙に託し――不思議そうな顔で『高くつくぜ』と言っていたけれど、今はそれどころではなかったのだ。即答で了承して、怪訝そうな顔をされた――地面を蹴った。
手には、萃香の瓢箪が握られている。懐には、紅い盃。
酒が切れた彼女なんて、ついぞ見たことがない。しかし、今の今まで呑んでいないなら、それも切れているだろう。
こういうときに彼女を探すための勘が働かないのだから、巫女がなんだと言いたくなる。
それでも無理矢理思考して、酒が切れているのなら、酒があるところ。
きっと、仲間の鬼がいる、地獄――地下の旧都か、自分の領土のある天界だと踏んだものの。
『萃香? 来てないぞ。どうした、あいつの瓢箪なんか持って。忘れてったのかい?』
旧都にいた萃香の知己――鬼の四天王の一人は、昼間っから入り浸っていたらしい酒屋の席に居座って、この時間になるまで呑んでいたらしいが、酒臭い口から出てきたのはこの言葉だった。
礼を言って飛び出して、向かう先は天界というわけだ。
「どこにいるのかしら……だいたい、雲の上ってどこを探せばいいのよ」
悪態をついても、その雲にさらわれて、吸収されてしまう気さえする。
全体を見れば晴れてはいるものの、幻想郷の空には雲が棚引いていた。
空を渡る千切れた雲に突っ込んで、突き抜ける。
幻想郷の雲海には、今まさに目を閉じようとしている太陽と、その反対に群青色の夜が、その昼が寝静まるのを待っている。
二色を投じられた雲の中、一つの雲に大地の切れ端が乗っかっていた。
「――あった!」
私は思わず叫んだ。
そこへ飛んで、何事かと出てきた天人を引っ捕まえて、萃香という鬼か、あるいは比那名居の姓を持つ場所がないかと問いただした。
天人は困惑した様子で、恐々としながら西の方向を指差した。
そこには沈む夕日が白い雲を朱に染めている。
「あっちね。ありがとう!」
そこから天界の地面を蹴り飛ばして飛び立つと、天人も面食らった様子で手を振った。
これでまた、下界の人間は野蛮でいけない、という風評が立つかもしれない。今度あの天人くずれに聞いてみよう。
そうして辿り着いた場所では、早くも夕食を済ませたという天子がいて、騒ぎを聞きつけて出迎えてきた。
悪事千里を走るというけれど、それにしても伝達が速い。
こちらが挨拶すると、天子は素っ気無く返事をした。
「来てないわよ」
二の句に、迷惑千万といった様子で天子は口を尖らせた。
「本当に?」
私は少しだけ跳ねていた心臓を押し戻して、聞き返した。
天子は蒼い髪を揺らして首を振る。動作一つとっても、本当にお嬢様といった感じだ。これで生意気じゃなければ、天人そのものなのだろうけれど。
「嘘をつく必要がない。萃香は天界に飽きたのか、しばらく前から、私たちから無理矢理奪っていった領土にも顔を出していないわ。噂好きな竜宮の番たちもその話題には食いついていない」
天子の話を詳しく聞くと、少し前から、天界そのものに来ていないのだという。
鬼という種族柄、天界ではとても目立つ上に、幻想郷の天界に訪れること自体が稀なので、覚えていない者が一人もいないということもありえない、つまるところ来ていない、ということだそうだ。
しばらく尖った口調の天子だったが、立っているのに疲れたのか、どこからか呼び出した要石を浮かべて、それに座ってからは、天人としての意識が薄れたのか、いくらか語気を和らげた。不安定なのか、彼女が安定させていないのか、要石は彼女を乗せてくるくると回っている。
「私も退屈なのよねえ。なんだかんだであいつがいると話題だとか遊びだとかに困らないし。この前、あんまりにも私の土地で好き勝手しているから、きつく言ったら、それっきり来てないのよ」
そりゃ、私も言いすぎたし、悪かったとは思ってるんだけどー、と不服そうに語尾を伸ばしながら彼女は要石に座って回っていた。
「そうなの?」
それは意外だった。
私がそう言葉を漏らすと、彼女は要石を止めてこちらを見止めた。
「そうよ。だから、ここに来るってのは考えにくいと思うわ。何より、あんたなら気配とか勘とかでわかるでしょ。巫女ってそういうもんじゃないの?」
わからないからここに来たのだ。
当てが外れたというのに、心には突き刺さるものがあった。
天子もそこまで言って、自分の言葉でそれを把握したのか、慌てて付け足した。
「ま、まぁ、鬼のあいつなら気配も消せるだろうし、わからなくても無理はないわね」
私はそこまで聞くと、礼を言って、下界に下りることにした。
その間際に、ねえ、と天子に呼び止められる。振り向くと、彼女は言うか言うまいか迷っている様子で、歯切れ悪く言葉を紡ぎだした。
「あいつに言っておいてよ。また来てもいいって。いや、土地は渡さないけどね。えっと、それと、あんたも暇ならまた天界(ここ)に来てよ。暇で暇で仕方ない場所なんだから」
「ええ、わかったわ」
私は頷き、再び挨拶をして、天界の柔らかな大地から飛び降りた。
上空とはいえ、天界はどこか暖かかったことに、飛び出してから気づく。
肌を冷気が切り裂き、意識と肌が殺げ立つのがわかった。
空気を切り裂く矢のように一直線に下へと降下して、しばらくしてから緩やかに降りることにした。
あんまり急ぐと、耳が痛む。
紫が以前言っていたが、空を飛ぶときにあまり急ぐと、体が高低差に驚いてしまって、血を吐いたりすることもあるのだという。血管がどうだの、意識がどうだのと言っていたが、つまるところそういうことらしい。
今も、少し耳が痛くなってきたのだ。
大きく螺旋を描きながら、幻想郷を見下ろして緩落下する。
人間の里には、少しばかり明かりが灯って集まっているのが見えた。他はほとんどが暗がりに飲み込まれ始めて、その輪郭をぼかしている。
陽が落ちてからは、月明かりに眼が慣れるまで、暗闇に気を配ることになるだろう。
緩落下しながらも、私は思考を続けていた。
今もまだ、萃香の気配もなく、私の勘も働かない。
むしろ、私の勘に至っては、彼女がどこいるのかが明確に言えない、とでも告げているような感じでさえある。
それに、天子が言っていた、『鬼のあいつなら気配も消せる』というが、それは違う。
彼女は気配を消すのではなくて、微細すぎる霧の粒子に姿を変えてしまい、それを感づくことが難しいからだ。
宴会が続いた異変のときも、辺りに漂うわずかな妖気が彼女そのものであることに気づいたのは、彼女に会ってからである。
「ん?」
私はそこまで考えて、一つの仮説に辿り着いた。
彼女は、言うなれば『気配を消している』のだろう。
それは、わずかな大きさの粒子となって、幻想郷のあちらこちらに分散していることを意味する。
たとえばそれが、幻想郷全体に分布している下級、上級を含む妖怪たちの発するわずかな妖気の方が強く感じるほどに、あまりにも小さな粒子であるなら。
私の勘が働かないのも頷ける。
そうだとすると、彼女は今、幻想郷のどこにでもいて、どこにでもいないのだ。勘がどうこう、という話ではない。
彼女はずっと傍にいたのではないか。
節分も、その後の宴会も。視線を感じることはなかったから、見ているわけではないのだろうが――多分、ずっとそこにいたのだ。
探されることを表面上拒みながら、探されることを、呼ばれることを、ずっと待っていたのではないか。
私は神社へと急いだ。
急ぐのは久しぶりだった。
耳元で血が轟々と音を立て、心臓は早鐘を鳴らした。
速く、速く。どこまでも速く、夕陽が落ちるよりも前に。
一閃の紅となって、茜色に染まった神社の屋根へと私は到達する。
ちらりと流し見ると、凄惨な宴会の跡が残っているだけで、神社に人影はなかった。
魔理沙は後片付けを放棄したらしいが、人里からも遠いここに、人を残すことはしなかったようである。
妖怪達も、私を待っているほど暢気ではなかったようだ。
神社の屋根の上、平らになった一本梁――大棟に降り立つと、私は逸る心臓を押さえた。
息を整えながら、周りを見る。
紫や、レミリアなど、残って居そうな妖怪の気配もない。私は一つ深呼吸をした。
暮れなずむ神社は、既にその色を落として、山裾に残っていた赤の破片も、燃え尽きた線香花火のように、黒くしぼんでいった。
陽が落ちて、夜が来たのだ。
それから、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「我は博麗神社の巫女当代、名を博麗霊夢と申す! 古きは、霞に紛れ雲に乗り、自然となりて疫癘を払い、此世、人によりて失われし山河の鬼神よ! その子鬼よ!」
懐を探る。手に持った瓢箪と、その盃。
そして――炒った豆が入った袋。
「話がある! その姿、我が眼前に、現してはくれまいか!」
一瞬、大気が鼓動したような気がした。
うねるように、幻想郷中に散らばっていた妖気の粒――知覚できない微細な粒が、ここを目指して集まってくる。
それは音や、地響きすらも呼ぶほどに大きな流れとなって、私の背後に渦を作り、収縮していく。
どこか懐かしさを帯びた、古代の妖気。
たん、と、大棟に着地する小さな靴の音。
私は振り向いた。暗くなった神社の大棟の上、彼女の名を呼ぶ。
「――萃香!」
5
ずっと待っていた。
探されること、気づかれること、呼ばれること。
そして、彼女は見事に、私の場所を言い当てた。
ずっと、私はどこにもいて、どこにもいなかった。
隠れん坊は、彼女の勝ちだ。
「霊夢」
私は小さく彼女の名を呼んだ。
彼女は頷いて、右手を掲げた。
「ほら。これ。――あんたの。忘れ物」
その手に握られているのは、酒で満ちた私の瓢箪だった。
そういえば、朝から何も呑んでいない。
喉の奥で、しずくが鳴った。私は頷いた。
「うん」
彼女が私に一歩、距離をつめる。
彼女が近づいてくるにつれて、今朝のことが思い出される。
怒った彼女の顔と、記憶にこびりついて離れない、いつかどこかの村の娘の顔と、私に豆を渡した、その母親の顔――全く似つかわしくないそれらの顔が、どうしてか重なって見えた。
今の彼女はどれなのだろう。どれにも、当てはまる気がしなかった。
「怒ってる?」
霊夢は不安そうに私に問いかける。
今朝のことについてだろう。
私は首を振った。怒りよりも、大切だった約束を――彼女は全く意図していないだろうが――破られた、その喪失感の方が圧倒的に強かったのだ。
「そう。何にしても、悪かったわ。やっぱり、大切なものだったんでしょう? 私、その、あんたの気持ちも考えずに怒鳴ったりして――ごめん」
彼女はそう言って、私に向かって頭を下げた。
横に分けて止めている髪が揺れて垂れる。
彼女のせいではないのだ。わかってはいたけれど、やっぱり――もう、守られることのない約束だったのだということが、改めて思い知らされた気がして、それがどうしようもなく悲しかっただけで。
「ううん。もう、気にしてない」
私は首を振った。
彼女はいつも通り私の不始末に怒っただけだ。
それは当然のことなのに、なんで私は彼女を突き放したのだろう。
「そう?」
霊夢は首を傾げて、立っているのも何だからと、その場に座った。
私が頷いてそれに続くと、彼女は訝しげに私を見つめた後に、難しい表情のまま呟く。
「……そうは見えないけど、そう受け取っておくわ。それよりも、はい、これ」
彼女は懐から紅い盃を取り出すと、私に押し付けた。
「盃?」
今度は私が首を傾げる。
彼女はそれから、私の瓢箪の栓を抜いて、瓢箪を私の方へと掲げた。
私が盃を差し出すと、それに注ぎ始める。
なみなみと注がれた盃には、落ちた夕陽に代わって、片側には欠けた月と、もう片側には霊夢の顔が映っていた。
「約束。二人で呑むんでしょ。あんたからの約束はこれ。それで――」
次いで、彼女が懐から取り出したのは、小袋だった。
何か小粒のものが沢山入っているようで、彼女はそれを開封すると、中身を一つ取り出して、盃に落とした。
投じられたそれは、水面でぽとん、と音を立てて盃に入り。盃の中央で止まった。
目を凝らして見たそれは、私の一番嫌いなもの――炒り豆だった。
「私からの約束はこれ」
彼女が言葉を紡ぐ。
どくん、と私の心臓が脈打った。
紅は、誓いの盃。
それを持って、約束を言い渡して、注いだ酒を半分呑み、相手に渡す。相手が同じく盃を飲み干したら、約束が結ばれる。
「この豆がね、冬を越えて、春になって、芽を出したら」
『この豆が春になって芽を出したら、娘を連れ帰ってもいい』
彼女の言葉に、いつか聞いた言葉が重なる。
振り返ればそこにある。直向に細々と断続する、過去から続く一本の道筋。
いつか、何かの分岐点となった過去の一点。
私が破られた約束。
もしかしたら、彼女が今からする約束。
どうしても人間を信じきれない、切っ掛けとなった、あの約束。
細々と断続する、記憶を手繰る糸と、彼女が伸ばしてくる、今から放つ言葉の糸が、繋がって紡がれる。
「――ここ、出ていってよ。芽が出るまでは、いつまでも居てくれて構わない」
彼女はそう言い切って、盃をあおった。
半分ほど飲み下して、私へと差し出す。
私はそれを見た。
欠けた月と、私の顔が映っている。
それが少しずつ、滲み、歪んでいくのがわかる。
盃の水面が揺れる。
彼女が揺らしているのではないことも、わかっている。
『このままだと、あなたはどこにも居場所がない』
いつか聴いた言葉が去来する。
裏切ったのは私だったのに。
『情けなしとよ客僧達! 我らが鬼に、偽りあらじと言いつるに!』
いつか、誰かが放った言葉が脳裏を過ぎる。
裏切られてきたから信じられなかったのだ。
『どうして?』
――私は、もう、あのときみたいに嫌われたくはないんだよ。
「そういう約束なんだけど……嫌かしら」
彼女はおずおずと訊いてきた。
私は声にならない言葉を飲み込んで、どうにかそれを伝えるために首を振った。
様々な感情が胸の内を駆け巡って、それが熱を帯びて、目の奥から溢れ出してくる。
『約束なんて守らないくせに』
いつか、彼女に言った言葉を思い出す。
そんなことなかったんだ。私はただ、首を振る。
そんなことはなかったんだ。なあ、同胞よ。人間だって。
私は受け取った盃を一気に飲み干した。
酒が美味しいのは、久しぶりというだけではないだろう。
盃の底に落ちている豆を取り出すと、懐に手を探りいれて、小さな紙を取り出す。
豆をそれに包んで、再び懐に入れた。
「人の子よ。教えておいてやる。鬼は、……鬼はね」
ぐい、と手で目の辺りを拭う。
口元が緩んでしまって、声がしっかりと通らない。
いくら酒を呑んでも、ここまでなることはほとんどないのに、今のこの一杯でこうなってしまったのは不思議だった。
盃を霊夢に渡すと、彼女はそれを受け取ってくれた。
「自分がした約束を、自ら破ることはないんだよ」
なあ、同胞よ。
私でさえ信じていられなかったけど、人間だって、約束というものを覚えているじゃないか。
これだけ時が経っても、信じることができる人間はいるんだよ。
「でも、私はそうじゃなかった。だから、だからさ――霊夢に対しては、私は、本当に鬼でありたいんだ」
私は座ったまま、霊夢に寄った。
体を押し付けると、霊夢はそのまま受け止めてくれた。
「ねえ、霊夢」
境内に吹く冷たく鋭い夜風と違って、彼女は温かくて、柔らかかった。
盃での約束を、彼女自身から申し出てきたのだ。
過去から続く全ての何かを一緒くたに清算された気がして、色々な言葉が溢れて止まらなくなって、渦巻く思考に耐えられなくなって、私は必死に彼女に伝えられるような言葉を探した。
「私、ここにいても、いいんだよね。霊夢は、約束、破らない、よね」
声を出そうとしても、しゃくってしまって、言葉となっているのかが自分でもわからなかった。
彼女は、それもわかっている、とでも言う風に、静かに頷いた。
「ええ」
これは約束だ。
ただの約束。交わす言葉も、結末も、全部が全部決まっている。
とても簡単で、それでいて、とても大切な約束。
終わり
残月をそのまま砕いたような、半月の夜だった。
天蓋を彩るその欠片は、静かに輝いてその存在を誇示し、暗い闇に敷き詰められている。
多少の酔い覚ましにと縁側に出てきた私の吐息を、二月の風は白く染め上げて天上へと持っていった。
小さく開けた障子から覗く世界は、少し冷たい。
障子を開けたそばから、私の立っている畳が冷たくなっていくのがわかった。
「また雪が降るかなぁ」
私――伊吹萃香は、鬼の象徴である角が居間の障子を破らないようにと気をつけながら、博麗神社の境内裏に流れる冷たい空気から頭を引っ込めて振り向くと、こたつに体を半分以上突っ込み、頭だけを机の上に乗せている私の友人に話しかけた。
「寒いから早く閉めてよ。せっかく温かい鍋なんだから」
さながら生首のような彼女から、軽い批難の声が投げられた。
私は障子を閉めて、同じくこたつの対面に座り込んで、冷えた足が彼女にぶつからないように、浅く足を差し込んだ。
彼女が普段着ている巫女装束はこたつの陰に隠れ、その上から半纏(はんてん)を羽織っているものだから、見分けのつけ様がないけれど――それでも彼女はこの家の主人にして、博麗の巫女の当代、博麗霊夢。その人だった。
「寒いから温かい鍋を食べるんじゃないか。そんなに暖かい格好して温かいもの食べるとのぼせちゃうよ」
私は鍋から少量のねぎや豆腐をさらうと、ぽん酢を入れた取り皿に分けた。
今日はいつもいるはずの、食べるに話すにと、よく口の動く白黒の魔法使いや、私の友人である隙間妖怪がいないので、半ばこの神社の居候となっている私と、霊夢とで二人きり――至極、のんびりとした夕飯だった。
「もうすぐ春だとは言うものの、仮にも冬場に半袖で過ごせてるあんたがおかしいのよ」
ぶつくさと不平を言いながら、霊夢は茹で上がった鶏肉を取り皿に分けて、息を吹きかけて冷ましながら、口に入れる。
それでもまだ熱いのか、彼女は口の中で転がしていた。
「人間様はひ弱だねえ。この寒さでへばっててよく冬を越せるもんだ」
私はへらへらと笑いながら、豆腐を口に入れて、それを肴に熱燗を一口。
豆腐の柔らかい味の中を酒の刺激が駆けてきて、喉の奥で混ざり合い、腑の奥へと沁み込みながら落ち込んだ。
じわりと広がるこの感覚は、やはり楽しく嬉しく、そして落ち着く。
「だから温かい鍋を食べたくなるの」
霊夢はつんとした様子で小さく鼻を鳴らすと、付き合い酒にと一献だけ注いだ酒をすすった。
喉が微かに鳴って、それから小さく、ほう、と吐息する。
霊夢が呑んでいるのは、いつも飲用している神社のお酒だ。
私の方はというと、鬼専用ともいうべき強い酒で、私の持つ、無限にお酒の湧き出る瓢箪――伊吹瓢(いぶきびょう)から注いで、暖めたものだった。
「体を温めるなら、こっちのがいいと思うけど?」
私が熱燗を入れた徳利を揺らしながら、素直に問うと、霊夢は眉根を下げて首を振った。
「私も同感だけど、今日はこのくらいにしておくわ。今夜はやることがあるのよ」
別段、彼女は酒が嫌いなわけではない。むしろ私とまではいかずとも、人間にしては酒豪の部類に入るだろう。
宴会では妖怪に負けじと酒を飲んでは酒に呑まれている。
宴会では人の中で一番呑んでいるし、その翌日、彼女が二日酔いの頭で、低く悪態をつきながら後片付けをしているのを見るのも数度ではない。
「ありゃ。つれないな」
私はつまらなさ半分、不思議半分に箸を持ったまま肩をすくめた。
酒豪の彼女が呑まないというのだから、何かしらあるのだろう。
霊夢は頬杖をつきながらため息をついた。右手を上げて、力なくひらひらと振る。
「あんたが嫌いな行事の準備なんだけどね。……炒った豆をひたすら鬼にぶつける行事。今回は本物の鬼もいるわけだし、なんなら明日、出来立ての熱々をあんたに向かって、あんたの歳の数だけぶつけてやってもいいわ」
炒った豆と聞いて、少しだけ背筋が冷えた。
心臓を後ろから引っ張られるような、心がざわつく単語だ。
季節の分け目である節分に、魔滅(まめ)と豆を掛けている〝炒った豆〟を撒き、邪気を追い払う。その邪気の当て口が私たち鬼、というわけだ。
「ああ、なるほど。もう節分なんだ。それは勘弁願いたいね」
それは半ば約束事のようなものだから、仕方ないのだけれど。
霊夢は頷くと、食事も最後のひとさらいのようで、少し多めに鍋から具を取り分けて、薄まったぽん酢ごと、さらさらとかきこんだ。
冷え始めた燗酒を飲み干して、立ち上がる。
「というわけで、もし呑むなら一人で呑んでて頂戴。私はこれくらいにしておくわ。鍋はまだ食べられるなら残りをさらっちゃってよ」
彼女は、神事や行事というものに対してだけは、だいたいは興味半分というところもあるのだろうが、たとえ嫌々だとしても欠かすことがない。
物ぐさながら、そういうところだけはきっちりしている。
それが彼女曰く『当たり前』だというのだから、この巫女の価値観はよくわからない。
「はいはい。合点―」
私は鍋の中身と熱燗の残りを見て、鍋を何口食べてから酒を飲むかを考えながら、なおざりに応じた。どちらもまだまだ残っている。酒がまだ残っているのは嬉しかった。もうしばらくはこの快楽に浸れそうだ。
鶏肉とねぎを取り分けながら、私は熱燗を盃に注いだ。
この無色透明ながら、芳香豊かに鼻腔をくすぐる液体があれば、いくらでも食べれそうだ。腹の底がそのためだけに空間をこじ開けて、私を誘う。
まだまだ夜は長い。いつも通り、私は潰れるまで酒に酔うことにした。
§
今日も私――博麗霊夢は、博麗神社兼私の住居で、伊吹萃香という鬼と鍋を囲んで食べた。
いない日といる日は丁度半々くらいなのだが、神出鬼没とはよく言ったものだ――彼女は時折自らの持つ『密度を操る能力』によって霧散して幻想郷を漂っていることがあり、呼べば急に現れることがある。呼ばなくても来ることもある。
そして、鍋などの多めに作った方が何かと楽な食事を作るときには、必ずといっていいほどやってくる。
そこで、私はただ飯を食べさせるのは癪なので掃除や洗濯などの家事や力仕事を押し付けるものの、彼女は断った例がない。
経験上、私が鬼と出会ったのは伊吹萃香が初めてなので、鬼というものの性質はよくわからないが、彼女に限って言えば、多少子供っぽいところや、物事をはぐらかしたりするところはあるものの、性格として、彼女は人一倍誠実だ。
鬼は正直に物を語る。
私は明日の節分に向けて、台所で大豆を炒りながら、ぼんやりと居間の方を見やった。
障子に隠れて大半が見えないが、未だに湯気を放つ鍋と、そこへ差し込まれる箸が見えて、まだ萃香は食事を続けている様子だった。
大豆を炒るのには多少技術が必要だが、毎年のことで慣れているし、だいたい焦げついていても怒る人などいないので、なおざりに鍋の上で大豆を躍らせる。
ぼう、と私の意識は揺れる。
私の友人である八雲紫曰く、『萃香は炒り豆が嫌い』なのだ。
枝豆などはよく食べる上に、好物であるように見て取れる。
しかし、炒った豆だけはどうにも苦手なのだそうだ。
それが鬼という性質上なのか、彼女の性格故か、それは定かではない。
あの豪放磊落という文字を具現化したような鬼の子だ。
私としては、その姿を頭に浮かべても、炒った豆を投げつければ酒の肴にと食べてしまうような気さえするのに。
それから意識を大豆と一緒に宙に飛ばしてしばらく、炒り豆が出来たことを示す鼻を突く香ばしい匂いが、宙に漂っていた私の意識を引き戻した。この分はもう大丈夫だろう。私は広げた紙の上に炒り終えた大豆を適当に敷いた。
そのようなことを数回続けて、十分な量の大豆を炒り終えた私が、味見ついでに数個の大豆を白い紙に包んで居間へ戻ると、綺麗に中身が片付けられた鍋と、肴が尽きた後もぐだぐだと酒盛りを続ける萃香の姿があった。
「おかえりぃ、霊夢ぅ」
呂律が半分ほど吹っ飛んだ萃香が、私に笑いかけた。
だいぶ呑んだ様子で、そして呑み潰れる予定らしい。
経験上、こうなると萃香は残りの酒を片付けた後にその場で寝てしまう。
鍋の片付けもあるし、布団で寝てほしいものだし、それは避けたいところだ。
「本当に一人で食べたのね。よく食べられるもんだわ」
半分冗談で鍋を片付けてほしいと言っていたので、少し驚いた。
私はそこに座り込むと、炒りたての豆が入った包みを広げて、一つつまんで口に入れた。
舌に伝わる熱と、鼻に抜ける香味が詰まった塊。
噛むと、乾いた音を立てて口の中で崩れた。
「げげ。炒り豆……」
本当に苦手そうに、萃香はその様子を見ながら苦々しげに呟いた。
鬼は豆が苦手。
伝え聞くその言葉が本当かどうかは疑わしいが、彼女は感情に対して真摯だ。
私は苦笑しながら、机に肘をついて盃を持った。
「こっちは済んだわ。少しだけ晩酌付き合おうか?」
「おっ」
萃香はその言葉を聴いて、先ほどと一転、ぱっと表情を明るくした。
「一人で呑むよりゃ断然いいねぇ。呑もう呑もう」
そう言って差し出してきた瓢箪を、私は盃で受ける。
熱燗はもう切らしてしまったらしい。
それでも呑み足りないのか、彼女は自前の瓢箪から酒を注いで呑んでいたようだ。
無限に酒の湧き出る瓢箪、とは言うものの、それは瓢箪の中で酒虫という虫を飼っていて、それが水を酒に変えるのだという。
それに、この瓢箪の転倒防止用の留め具もついている。一定量以上は出ないようになっているのだ。
彼女が呑みきる量はだいたい酒虫が一度に作れる酒の量くらいになっている。呑みきって、次に呑むときまでには酒虫が酒を造り終えておいて、いつも満足に呑める程度には酒を供給できる。
だから、事実上無限に酒が湧き出る瓢箪、というわけだ。
彼女の上限に近い瓢箪の酒の中身も、私の飲む分くらいは余裕があるらしい。
瓢箪の口から、かすかに霞んだ滑らかな液体が静かに流れ出して、その裾が私の持つ盃に触れ、盃の中に納まっていった。
私は盃を小さく掲げた。一応、約束事だから。
「ありがと。いただくわ」
そう言って乾杯を示すと、炒り豆を一つ口に入れて噛み砕き、酒を一口なめた。
舌を走り、喉に絡みつく芳香と刺激。
思わずむせそうになるほど、萃香の持っている酒は神社の酒よりも遥かに強くて辛い。彼女の好みもあるのだろうが、鬼の酒は大抵強烈なのだそうだ。
それを水みたいに呑むのだから、鬼という種族は恐ろしい。
そんな萃香は肴もなく一口、余韻を楽しんだ後にまた一口と、二の句を継ぐ前に酒を呑む。
こうなってしまった彼女が、時たま休むとなれば、それは肴を食べるときと、話すときくらいだ。
「酒の肴によく炒り豆なんか食べられるね。私には無理だよ」
私の様子を見ていた萃香が、ふと酒の手を止め、頬杖をついて呟いた。
そうだろうか。強いて言えば、酒の肴には少しばかり塩気が足りないかもしれないが、それは刻み海苔なり出汁塩なりを振ればなんとかなるだろうし、むしろ香ばしさと歯ごたえも相まって、なかなか美味い部類に入る気さえする。
明日の節分で余ったらそうしてしまおう。
「嫌いなの? 豆」
私が先ほど抱いた疑問をそのまま訊くと、萃香は苦笑して応えた。
「嫌いじゃないけど、苦手なんだ。生理的に受け付けないね。食べると、体の内側からじわじわっと拒否されるんだ。そんな気がする」
聞いたところ、鬼としても苦手らしいが、萃香は個人として豆が苦手らしい。
「以前、嫌なことがあってね」
萃香は酒をなめながらそう応えた。
鬼という間柄、豆に関してはそういうこともあるのだろう。それ以上は言葉を濁してしまって、私自身他に考えがあったので、深くは訊かなかった。
「投げつけられるのは?」
次いでと、私は続けて質問を投げる。
「嫌いじゃないけど、苦手だね」
軽い痛みはあるだろうが、翌日まで腫れるだとか、爛れて落ちるだとか、そんな物騒なものではない――萃香は同じように苦笑して応えた。
なるほど、子供らしい萃香のことだから、もっと盛大に――大声でわめき立てたり、大仰に嘆いてみせたり、など――拒否されるかと思ったのだけれど、それほどでもないらしい。
それならば。
私は『嫌だったら断ってもいい』ということを前置きしながら、話を切り出した。
「そう。それで……明日、境内で豆まきやるんだけど、鬼の役をやってほしいのよ。投げつけられて、逃げ回るだけでいいから」
鬼は外、福は内――。聴き慣れた音ではあるが、まさかこの見た目は小娘そのものの萃香が、その〝鬼〟に当てはまるとは、私も最初萃香が鬼であると聞かされたときには驚いたものだ。
これを悪鬼羅刹というには、いささか角(かど)が丸すぎる気がする。
しかし、その分神事などに参加してもらうには丁度いいだろうと、前々から思っていたのだ。
里の人が恐れることもないだろう。萃香自身、里にはよく顔を出しているのだから。
「うえぇ……。私が? それはその……できれば遠慮したいんだけど……」
机の上に頭を乗せて、萃香はうなだれた。
はっきりと断らないあたりが萃香らしい。
すっきりさっぱりとした鬼の性格からは少しだけ外れている、微妙に、曖昧な部分――感情を押し留める理性の鎖が、彼女にはある気がする。
「お願いできないかしら?」
私が手を合わせて再度問いかけると、萃香は難しそうに眉根を寄せ、人差し指で頬を掻いて考える素振りを見せた。
「うーん……」
恐らく、唸り声を上げる彼女の頭の中では、頼まれたが故に応えてやろう気持ちと、炒り豆を投げつけられることへの恐怖、あるいは恥辱に対する拒絶とがせめぎあっているのだろう。
そして、彼女はしばらくの後に、渋々といった様子で口を開いた。
「霊夢は……ずるいよねえ」
私が断れないことくらいわかっているのに。
萃香はぼそりとそんなことを口に挟み、三白眼で私を睨む。
それから彼女は力なく肩をすくめて目を伏せた。
「わかったよ。やる。……やるといったらやるさ」
鬼は、誠実な者は――往々にして、押しに弱い。
種族性もあるだろうが、頼まれると断れないのは、もっぱら彼女の性格故だろう。
断った試しも、もちろん無いのだ。
「本当? ありがと。約束だからね」
やる事なす事打算的だが、私は本意から感謝していた。
彼女はいい鬼だ。
何かしらの下手を打てば、損をしてしまう性格ではあろうが。
ともかく、明日の節分はこれで大丈夫だろう。馴染みの知り合いには振れ込んだものの、来るのは物好きの妖怪か、里の一部の人間だと相場が決まっているのだ。
私が視線を向ける先、萃香は一瞬だけ、どこかもわからぬ虚空を見つめ、我ここにあらずといった風に呟いた。
「約束、ね」
ともすれば鼻を慣らしそうな、どこか小馬鹿にした呟きだった。私が首を傾げると、萃香はこちらの様子に気づいたようで、いつも通りに笑って、頷いてみせた。
「――応。わかったよ」
それから、彼女はまた、一杯の酒をあおる。
§
そうして酒盛りが済んだのは、夜も更け込み、月が天上を超えて傾き始めたころだった。
おおよそ、萃香と付き合い酒をしても先に潰れるのは私なのだが、豆まきをやることもあり、ほどほどにしておいたお陰で、今日は無事だった。
「うぅん。霊夢ぅ。後一杯だけでも……」
酒臭い吐息と、甘みを帯びた声が私の耳を撫でる。
そう、酔いつぶれなかった代償として、半分以上が夢の世界に引きずり込まれている萃香を、私は寝室に引っ張る羽目になったのだ。
「ああもう。こうなるのはわかってたのに……」
私は辟易しながら呟いた。
私が肩を貸して連れて行く予定だった萃香は、最早自分の足で立とうとせず、体重のほとんどを私に預け、結果として私が抱きかかえる形になってしまっていた。私も酔っていて、足元がそこまで確かでないというのに。
運ぶことに関しては、体重が軽いのが多少の救いだ。
しかし、萃香自身、いつも酔っているようなものなのに、どうして呑んだ後に寝るところまで一人でできないのだろうか。
朝になれば、二日酔いでもないのに迎え酒から始めるくせに。
「ほらほら、しっかりしなさい。寝るなら寝床で寝てよ。そうじゃなきゃ外に放り投げるわよ」
運ぶ身にもなれと、私は萃香を揺さぶりながら、部屋を歩いて、いつも萃香を寝かせている来客用の寝室に運ぶ。
縁側から最も近く、宴会で呑み潰れた者などはここへ運び込むこともある部屋だ。
萃香が来てからは、外に近く使い勝手もいいことから、もっぱら萃香の自室となってしまっている。
荷物くらいはと許可したものの、部屋の中に加え置いた箪笥や物入れなどはほとんど彼女の私物で埋まっている状況だ。大抵が酒器や着替えだが、稀に鬼のものだと思われる、用途のわからない物体が入っていることもある。その入れ物もまた日々増え続けており、客間が埋まるのは時間の問題ではないか、と薄ら思うこともある。
萃香自身、物を運ぶ、持ち歩く、というのは彼女の能力や鬼そのものの力によって容易に行えるのだろうが、根無し草だったこともあり、置き場に困っていたのだろう。
小さな六畳間ほどの部屋に着いて、私は中を見渡した。
掃除や宴会のときにしか来ないものだから、数日ぶりに見ることになる。
入ってすぐに見えてくる戸棚が二つと、部屋の隅に箪笥がひとつ。そしてその横に、新たにまたひとつ木製の棚が増えていた。やはりそのうちこの部屋は物入れで埋まるのだろう。そうなる前にどこかへ移動してほしいものだ。
そういえば、天界の某人のお陰でこの神社が倒壊した異変のときに、萃香は天人に打ち勝ち、天界の領土を分譲してもらったらしい。
居場所があるのなら、ここにいる理由たるものもないし、どうせなら荷物だけでもそっちに持って行ってくれるとありがたいのだけれど。
さて、それ以外は、と目を向けても、押入れはきっちり閉められていて、畳には――それを集めるのが簡単だからか――埃ひとつ無い。見た目、綺麗に使われてはいるようだ。
私は障子を開けて、外気を取り入れる。
静かに、まだ冷たい空気が私の肌を撫でて、逆立てた。
外には暗紫の雲が棚引き、その隙間に、まるで夜の帳を引っかいてできた傷のように、暗がりの中に覗く光り輝く半月があり、そこから飛沫を撒いたように、まだ光り足りないといった様子の星々が散らばっていた。
私はぐったりした萃香を縁側近くの畳に置くと、押入れを恐る恐る、ゆっくりと開けた。すると、大小様々ながらくたが大挙して押し寄せて――ということはなく、折りたたまれた布団が鎮座していた。どうやら、まだここは侵食されてないらしい。
布団を取り出して、部屋に広げて敷く。
「うー……」
萃香は寒さからか、ぶるっと一振るい震えて、それから斜に私を見止めて、気難しそうに唸った。
「ずるいよ。霊夢ぅ」
「え? 何て言った?」
私が聞き返すと、萃香は急に声の調子を落とし、眉根を下げて、しおれた様子で続ける。
「ずるいよ、って言ったんだ」
「ずるい?」
萃香の酒癖は多々ある。
そもそも豪放磊落といった鬼の性格そのままに、彼女が抱く感情は大雑把なものだが、酒が深くなるにつれて、その触れ幅が大きくなる気がする。
笑い上戸に泣き上戸、ころころと変わる感情と表情。
今のもそれのひとつだろう。
私はそう判断して、萃香の手を引いて布団に寝転がらせると、疲れを訴える私の体に、もう少しだからと鞭打ち、掛け布団を彼女の体に広げて掛けてやった。泥酔した萃香は、横たわった体が満足に動かせないのか、それともその気がないのか、うろんげな瞳を泳がせて、頭だけをもぞもぞと枕に埋めた。
「うん。ずるいずるい。霊夢はずるい。変に嘘をつかない分、余計に性質が悪い」
「どういうことよ」
正直さを量られるようなことがあっただろうか。
私は怪訝さを隠さずに首を傾げて呟いた。疲れもあって、態度もおざなりなものだ。
「約束なんて守らないくせに」
彼女は目を閉じながら、さながら不満を隠さぬ子供のような様子で呟く。
約束。――といえば、先ほどの節分の件だろう。
しかし、約束したのは私だから、それを破るのは萃香であって、私ではない。いずれにせよこちらから願っているのだから、そもそも反故にするようなものでもない。だから少しだけ、心の淵にその言葉が引っかかった。どうしたというのだろう。
ぶつぶつと悪態を呟きながら、しばらく枕に頭をこすり付けていた萃香が、ふと止まって顔を上げた。
座った目でこちらを見つめて、人差し指で私を差す。
「明日、また晩酌付き合ってよね」
その言葉を最後に、座った目をそのままに再び枕に頭を落ち込ませると、萃香の意識は夢の中へと落ちていった。
すぐに、吐息が寝息に変わり、呼気にいびきが混じる。
「何だったのかしら……」
私は目の前で過ぎ去った意味の取れない言葉の嵐に、少しばかり脱力していた。
しかし、深く考えても所詮は悪酔いの産物、後日問いただして、戯言で済まされてしまったときの始末が悪い。
あの鬼のことだし、重要なことなら機会を得て言ってくるはずだ。特に考えすぎることもない。
それに、寝際のあの分だと朝にはまたいつも通り起きてくるだろう。
私は障子を閉めて縁側に出ると、堰を切ったように疲労感と睡魔が襲ってきて、大きく伸びと、あくびを一つついた。
もうすぐ朝が来る。豆まきの前に、少しだけでも寝ておくべきだろう。
私は眠気を帯びた眼をこすりながら、自分の寝室へと歩き始めた。
§
振り返ればそこにある。
直向に細々と断続する、過去から続く一本の道筋。
歩き続ける自らに対して、置いてきたそれはあまりに遠い。
しかし、夢はそれをいとも容易く反芻する。
誰もがその色を褪せさせ、滲ませ、輪郭をぼかした光景。
道を辿るに連れて、それ以外が見えなくなる。
霧に巻かれ、霞に落ちて、視界はうすぼんやりと翳る。
脳裏は、いつか被膜に映っていたもの、その残滓を淡く切り取る。
いつか、何かの分岐点となった過去の一点。
時は砂浜を撫でるさざなみのように、山々を縫う小河のように、穏やかに、しかし確実に流れていき、往々にして全てを癒し、時として緩やかに侵食していく。
たとえば、肉体や、精神や、記憶といったもの。
あるいはある日、誰かが交わした言葉を。あるいはある日、誰かが言わずに飲み込んだ言葉を。
――反芻し、刻み付けた何かは、それによってのみ、静かに殺されていく。
2
霞立つ視界に、ぼんやりと記憶の輪郭が浮かんでくる。
かすかな言葉や情景が〝しるべ〟となって、霞に包まれた私を導く。
あのときはこうだった、そのときはああだった。
声が聴こえる。
『お姉さんは私をどうするの?』
どうもしないさ。このまま冬を越えて春になるか、約束通り人間たちが助けに来たら、お前を里に帰すだけだよ。
『私を食べないの?』
食べたりなんかしないさ。いじめたりもしない。酒を呑んでた方が楽しいし。
『どうして?』
どうして、って――そりゃ、お前さん、私が人を食べたら、人間(おまえたち)に嫌われちゃうだろ?
――。
これは約束なんだよ。ただの約束なんだ。
交わす言葉も、結末も、全部が全部決まっている、とても簡単で、それでいて、とても大切な約束。
ただ、それだけなんだよ。
§
波立つ記憶に揺られる。
霞は一向に明けず、私は果てを求めて、私が歩いてきた過去の細道を辿り歩く。
今度は、もっと鮮明で明瞭な映像だった。
声が聴こえる。
「ねえ、いつまでいるつもりなの?」
酒を呑む私の横で、腰に手を当て仁王立ちしたまま、不機嫌そうに蒼髪の少女がうなった。
もうすぐ夜になるのか、辺りは夕焼けに染まって、彼女の不機嫌な顔も、半分ほどが逆光にくすんでいる。
もう半分の、茜に浮きだった血色の良い顔と、黙ってさえいれば玲瓏ささえ伺える凛とした眼、そして、七色の装飾を施した服に、黒帽子と桃の装身具。それらが、彼女がこの世界の住人であることを示していた。
見渡すと、空には雲ひとつなく、その代わり、眼下に赤焼けた雲が棚引き、その上に大地が築かれ、朱色に染まった草木が茂り根を下ろしている。
私がいるのもまたその大地の一つ――幻想郷、その空と雲の果てにある、〝天界〟と呼ばれる場所だった。
「自分の土地に居て、いつまでいるかを訊かれる筋合いはないと思うけどね。だいたい力比べに乗ったのは天子の方だよ」
私は桃の木の下で寝転がりながら、のんびりと天子に応じた。
もう一口と、盃に酒を注ぎ、それを呑む。
天界には桃が特産なのか、どこもかしこも桃だらけで、手ごろなつまみにはなるけれど、そればっかりというのも飽きるものだ。
夜になったら、下界に下りるのもいいかもしれない。
私がぼんやりと考えていると、天子は頭を横に振って、鼻持ちならない様子で腕を組んで鼻を鳴らした。
「そうは言っても、ここは元々私たちの土地だったし、あんたがずかずかと土足で上がりこんで、身勝手な勝負を提案して無理矢理奪っていったんでしょう。だいたい何よ、突然来て土地をくれ、何日も居座って酒をくれ、やれつまみがない、やれ暇が潰せない――って、私は小間使いじゃないわ!」
そう、私は天界に数多存在するとある領主の一粒種である彼女と鬼の約束を交わし、力比べをして、その勝利の褒賞として膨大な天界の土地を少し割譲してもらったのだ。
「それでもあんたは約束したんだもの。私が勝ってあんたが負けた。それで土地をもらって、私はそこで酒盛りをしてる。それが約束で、守るべきことなんだから。一応、人間はそうしてくれたよ。季節が変わったら私が帰るんでさ、それまでっていうことでね」
鬼の道理というものはそういうものだ。
私はいつもどおり約束をして勝負に勝って、今回は酒が呑める場所を手に入れて、そこで自分だけで酒を呑んでいる。
それが変わらない鬼の営みなのだから。
「むぅ……」
ぎり、と奥歯をかみ締めるような音が――もちろん、聴こえるはずないのだが――聴こえた気がした。
天子は震える唇をかみ締めて、口の奥で飲み込む直前といった言葉を落とす。
「私は人間じゃないわ。天人よ」
小さく呟き――それから、天子は姿勢を正し、私を指差すと、先ほどとは一転、凍りつくような冷たい眼をして私を見、鉄のように無機質な口を開いた。
「下界に生きとし生ける者、須らく得隴望蜀(ろうをえてしょくをのぞむ)。あなたはこのまま天界に居ても満足できない。きっともっともっと高望みをするでしょう。しかしそれは叶うことはない」
つらつらと清流のように透徹に紡がれて、しかし激流を抱く滝のように重く、上から落とされる言葉。
天頂、彼女が天人たる所以、頂かれた者が持つ一定の水準。
「傍若無人、強欲は周囲を見えなくする。傲慢さでしか相手を量れぬあなたに、傲慢を押し付けられる相手の気持ちはわからない。
而して欲なくしてその足は地に着かず、欲あっては決してその手は天に届かない。このままだと、あなたはどこにも居場所がないわよ。盛者必衰、有羅紈者必有麻蒯(らがんあるものはかならずまかいあり)。ここも、いずれはあなたの不満と共に、その手を離れるのだから」
こんな小娘でさえ、ここの住人であるなら達している境地。
それは閻魔や冥界の亡霊にもあるように、下界と明解な区別を置くにふさわしく、大きな時をかけて培われた〝何かしらの絶対〟だった。
まるで、私が同胞を見捨てた理由を、そのまま別の方向から叩きつけられたような。
私が呆けて天子を見ていると、彼女はまたいつもどおり不機嫌な表情を浮かべた少女に戻って、ともすれば駄々を跳ねられた子供のように無邪気に怒りながら、つんと踵を返すと、髪を揺らして振り向いた。
「ふん。それじゃね。謝るなら早いうちにしてよ」
それから数歩歩いて、ふわりと浮き上がると、どこかへと去って行ってしまった。
後には、呆けた私がいるだけだ。
「な、何さ何さ。何もそんなに怒ることないじゃないか」
誰にも聴こえない言葉を呟いて、私はいつの間にか溜まっていた空唾を飲み込んだ。
――このままだと、あなたはどこにも居場所がない。
酒の肴に干物を食べて、小骨が喉に刺さって離れないような。むずがゆさと、小さな痛み。
その言葉が、心に突き刺さり引っかかる。
大騒ぎをして楽しく過ごしたり、記憶が曖昧になるほど酒を呑んだりすれば、忘れられるようなものではあるものの。
一度思い出してしまえば、それがまた疼いて止まらない。
何度引き抜こうとしても、鉤でもついているかのように、その度に心を深く抉り、奥へ奥へと沈んでいく。
記憶の波がその傷を撫で、私に思い出させ、その責を私に押し付けて去っていく。
あの日もそうだった。
あの日の光景も、あの日の人間の言葉も、同胞が放った言葉も。いくつもの針が私を縫いとめている気がする。いくつもの鎖が私を縛っているような気がする。
約束は守っているのに。間違っているのは私なのだろうか。
約束と、それに連なる道理に重きを置く鬼という種族に対し、そう咎めたとき、私は鬼であって、鬼ではなくなっていたというのに。
§
薄明。
障子から淡い光が差し込む部屋で、私は目覚めた。
沈み込んだ眠りの海から、やっとの思いで這い上がった私は、布団から体を起こして、辺りを見回してから、頭を横に数度振って、頭に生えている二本の角に何度か手をぶつけながら、別段かゆくもない頭を掻いた。
「あー……」
起きてからは夢だと認識できるものの、未だに肺腑の奥に引っ張られるような違和感がある。
心臓が早鐘を打っていた余韻を残して、疲労感を伝えてくる。
感覚が段々とはっきりしてくると、悪夢を見て、寝汗をかいていたことがわかる。
ひとまず瓢箪を手に取り、栓を開けて酒を一口あおってから、汗にまみれて引っ付く肌着がうっとおしいので脱ぎ捨てて、冷たく固まった畳を這って、新しいものを箪笥から取り出して着替えた。
ひんやりとした感触に、一瞬肌が粟立つ。
そのあたりから思考も追いつきはっきりとしてきて、記憶に溺れて忘れていた昨日と今が繋がる。
どうやら、霊夢は私が酔いつぶれた後にここまで運んできてくれたらしい。
丁寧に布団までかけてくれて、あれだけ寝汗をかいたのに、風邪を引いた様子もない。
霊夢は優しい。
でも優しいというよりは、変なところで世話焼きな気もするけれど。
思考も身体も一息ついた私は、立ち上がって障子を開けた。
「ひゃっ」
冷たい風が吹き込んできて、私は身震いと共に目を瞬いた。
見ると、薄い明かりが差し込んではいるものの、まだまだ日の出というわけではないらしい。
博麗神社の裏庭から望む山々では、山裾が多少の光を帯びて浅緑を照らし返しているだけだ。
ろくに寝られなかったらしいけれど、眠気というものはすでに頭から追い出されていた。
今更二度寝というわけにもいかず、私は新しさを帯びた冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで、伸びをしながら吐き出した。
「んー……っ」
縁側に座ると、まるで氷上に座ったかのような冷たさが肌を刺した。
もちろん、驚きはすれど、特に困ったり辛かったりというわけではないのだけれど。
「あぁ」
それからぼんやりと繋がった昨日の記憶を辿っていると、私は霊夢と一つ約束をしたことを思い出した。
もう少し意識がはっきりしていたら、断るようなこと――それでも、霊夢相手だったらなんだかんだ言っても断らなかったかもしれないことを。
「そういえば、今日だったっけ……」
節分の豆まき。
正直でさばさばしていて、どこか人間と違う、もしくはかけ離れた何かを持っている霊夢の頼みだから、恐らく私は断れなかったのだ。
それが、形だけとはいえ、私が追いやられるようなことだとしても。
同時に、それがもしかしたら悪夢を見るきっかけになったかもしれないと思った。
どこか人と違い、何者をも受け入れ、何者をも拒絶する、空のような彼女にすら、私は拒絶されたのではないか。
そんな安直な思考を、きっと、頭のどこかでしていたのだ。
――鬼は外、福は内。
懐かしい響きが頭に聞こえてくる。
節分の豆まき。それもまた、鬼と人の約束であることに変わりはないのに。どうしてこうも引きずってしまうのか。
私は戸棚へと歩き出して、その戸を開けた。
中にはごちゃごちゃと酒器などが詰め込んであるが、その一番上には、大きな紅い盃と、その中央に白い包みが置いてある。
包みを開いて、その中身をほんの少し隙見した。
黒みがかった土と、黒い塊が入っている。
おずおずと手を伸ばして、優しく触れる。少し湿った土の感触と、どうしようもない郷愁や、悲哀といったものがこみ上げてきたあたりで、ふと我に帰った。
――何故また過去を辿るようなことを。
勢いよく首を振って、募ってきたその思いを散らす。包みを元に戻すと、頭を掻いた。
「いけないなぁ。こんなんじゃ。気分変えなきゃ」
どこかへ散歩にでも行こう。
帰ってくるころには、霊夢も起きていることだろうから。
私は酒をもう一口喉に流し込んで――珍しく、酒の入った瓢箪を部屋に置いていくことにした。
どこか胸に引っかかり、何とはなしに持って行く気が起きなかったのだ。
それから立ち上がると、服の裾を数度はたいて、縁側の縁を蹴り、宙へと舞い上がった。
節分に投げる豆というものには、嫌な思いしかない。
人間との間で、幾度となく破られた約束の一つ――それに私が直面したのもまた、炒り豆であったから。
だからこそ、私は今回の霊夢との約束を渋った。
このような小さな約束はまだしも、霊夢とは大きな約束をしたくない。
どこかで、私は彼女と、私自身を信じられていないのだ。
いつか、人の端にいる霊夢でさえも、人である以上、私との約束を破ってしまわないかと。
3
とある昔の話になる。
まだ、この世界に鬼がいたころ、人と鬼との間であった、少し機知に富んだ人間と、愚直なまでに正直な鬼とのやり取り――今や絵巻として伝承される御伽話。
昔々。
丹波の大江山というところは、まだ人の手が入っておらず、古い山の神々と共に、大勢の鬼たちが暮らしており、中でも名の聞こえた鬼が、酒好きで、よく人里に降りては若い女子供をさらっていく、酒呑童子と呼ばれる男の鬼だったそうだ。
時に平安時代、宮中に仕える池田中納言のたった一人の姫君が突然行方不明になった。
占いにより居場所を突き止めると、まさにそこは大江山、鬼にさらわれたのだという。
中納言は御所に参内の上、帝に訴えた。
『どうか酒呑童子を征伐して、娘を助けてください。都の不安を無くしてください』
そんな豪傑を仕留めることができる者がいるのだろうか、大臣から指名を受けたのは、またこれも時の豪傑、源頼光だったという。
頼光、鬼の話を伝え聞くに、大勢では不利だと判じ、配下から精鋭の部下数名を選び出し、知恵ある友人を頼り、鬼と友好のある山伏に扮して退治に出かけた。
そして、人ならざる者と戦うには、人の力のみでは無理だと感じた彼は、人間と仲の近しい神を頼り、鎧兜と〝神便鬼毒酒〟という魑魅魍魎にのみ効く毒の酒を用いることにした。
この酒は人が呑めば体が軽くなり力が増し、鬼が呑めばたちまち体が痺れ、力が出なくなってしまうのだという。
さて、大江山でも屈指の峻険さを誇る岳がある。
名を千丈ヶ岳という。そこに鬼は瑠璃で飾った御殿を築き、毎夜酒盛りをしているのだそうだ。
頼光は、その御殿の門に近づくと、わざと疲れたように足を引き摺って歩き、門番の鬼に声を掛けた。
『もし、我等は山伏、大峰山での修行も終えて出羽の国へと帰る道、せめて都を見たいと思うて、道を踏み迷うてしまいました。疲れてもう一歩も歩くこと適いませぬ。気の毒と思し召すならば一夜の宿をご提供願えまいか』
鬼も山伏にこうも頼られては悪い気がしないのか、快くそれを通した。
招かれた頼光らは豪勢な庭園を湛える縁側に通され、酒呑童子を待った。
しばらくして現れた酒呑童子の風貌は、身の丈一丈(約三メートル)、髪は逆立ち、その合間から雄雄しい角を五本ほど生やし、肌は緋縅の衣のように真っ赤に染まった大男だったそうだ。
『汝ら、この深山に何用あって来たのか』
縁側に座ると、童子は耳に響くような大声で訊いた。
頼光らは門番にしたものと同じように説明すると、童子は眉をひそめて頷いた。
『それは気の毒なことだ。少ないが、私から酒を寄せよう。とんと呑み、疲れを癒すがいい』
『それはありがたい。私どもも酒を持っておりますので、こちらも空けましょう』
そして酒盛りが始まり、酒呑童子を安心させるため、頼光らは出された酒と肴の生肉を平らげ安心させ、毒酒を開けさせた。
頼光らの振る舞いに気を良くした鬼たちはそれを呑み、飲み干して間もなく眠ってしまったという。
地を振るわせるようないびきを掻いて眠る鬼たちをよそに、頼光たちはあてがわれた自室で、持ってきた笈(おい)という入れ物から鎧兜を取り出し、それを着込んで太刀を抜いた。
そして酒呑童子の居る座敷に踊りこみ、寝ている鬼たちの首を一閃の元に切り落とした。
酒呑童子の首も落とそうとしたが、童子は騒ぎを聞きつけて飛び起きていた。
『おお、おお、おおおお……』
酒呑童子は座敷の有様を見てひとしきり悲嘆の声を上げると、すぐさま頼光らに飛び掛った。
『何ゆえにか、何ゆえにか!』
一番毒酒を呑んでいたのにもかかわらず、動きは俊敏、そして座敷の柱をへし折るほどの怪力を維持していたという。
山伏に扮していた武士の頼光らに耳を破り裂かんほどの大声を投げかけた。
『情けなしとよ客僧達! 我らが鬼に、偽りあらじと言いつるに!』
そうして踊りかかる酒呑童子に、頼光は太刀を持って打ち合い、ついにその一抜きにて酒呑童子の首を落とすことに成功する。
頼光はその際、こう言い放った。
『人子供をさらい、都を脅かすは悪事千万。天子からの勅ゆえに貴様を討つ』
しかし、間もなく落ちた首はそのまま宙を舞い、眼はかつ、と開かれ、頼光をめがけて向ってきた。
頼光の兜に噛み付くと、何度と斬られながらも怒号を飛ばした。
頼光の兜の鉄皮はそのうち六枚に牙が通り、七枚目でようやく止まったという。
『勅なればと言えば正々堂々立ち会うたろう。義あらばと思えばこの首も差し出したろう! 然らば鬼神に横道、なき物を!』
手厚くもてなしたはずの恩は仇として切り捨てられた酒呑童子は、血の涙を流し、悲愴な声を上げて、顔は引きつり固まって、目を見開いたまま床に落ちて絶命した。
こうして囚われていた姫君たちは全員救い出され、眠っている鬼たちは全員首を落とされ退治されてしまったのだそうだ。
そこまでが表で語り継がれる、大江山の酒呑童子、鬼退治の話。
そして、生き残った鬼たちは散り散りになって逃げ延びていったのだそうだ。
それには、今の鬼の一族や、伊吹山の捨て童子――後の〝酒呑童子〟である、彼女も含まれている。
§
朝日が眩しくて目を覚ました。
まだ外気は冷たいようで、私は布団から半身だけ伸ばし、寝ぼけ眼をそのままに障子を一瞬開けて、白く透き通るほど冷たい空気が流れ込んできたのを感じて即座に閉めた。
障子から覗く透き明かりからして、日の出から数刻ほどしか経ってないらしい。
私は眠っている間にはだけた襦袢の前を戻して立ち上がると、未だしんと冷える廊下を歩いた。
陽こそ出ているものの、雪でも降りそうな雲がいくつか流れている。
廊下を歩く足もすぐに赤く焼けて、一歩踏みしめるごとに冷たさが釘のように肌を打つ。
私はぼんやりと虚空を見上げながら、憂鬱に、青白い吐息をそこへと投げる。
「こんな寒さでやるのかぁ……半纏着たままじゃ駄目かしら」
吐き出す言葉さえも芯まで冷え切っているような気がする。
袖を打ち合わせて抱きこめると、小走りに廊下を進んだ。
外に放ればそのまま凍るのではないかと思うほどに冷たい水に悪態をつきながらも厠を済まし、同じく小走りで寝室に戻り、適当に着替えて髪と身嗜みを整えた私は、布団を畳んで押入れにしまい、それから台所へと顔を出した。
土間にある二つのかまどは、昨日使われてしまったので鍋は置かれておらず、上から炭火の白い残り灰が見て取れた。
かまどに対し、机を挟んで流しを構える台所は、この家の中で一番寒いところだ。
机の上には昨日用意した炒り豆の袋が数個まとめて置かれていた。
まずはこれを神社に供えて祈祷して、それから升や小袋に入れて配ることになる。
とはいえ、なかなかの重さだ。袖から手を伸ばすのさえ億劫な私は、振り返って叫んだ。
「萃香ー。いるー?」
寝てさえいなければ、たいていこの一言で彼女はこの場に現れるものなのだが、どうやら寝ているらしかった。
こういうときのための力持ちではないのか。
居てほしいときに居ないのは隙間妖怪だけで十分だというのに。
「萃香ー?」
何度か呼びかけながら、寒い台所から抜け出したい半分、朝から重労働などしたくない半分、私は廊下を歩いて彼女のいる客間へと向かった。
客間へと着いても、中に何かがいるという気配はなかった。
私は寒さ物ぐさに障子を足で開けた。中を見ても、整然とした室内だった。
唯一、起き抜けたと言わんばかりに半分だけめくられて乱れた布団だけがその存在を誇示している。棚も、箪笥も、昨日のままだ。
これらから察するに、どうやら出かけているらしい。
どうせまたどこか暖かいところで迎え酒でも呑んで、頭を起こしているのだろう。
彼女はいつもそういう起き方をするから、私は別段怪しくも思わなかった。
「やれやれ……」
私は嘆息する。
しかし、布団くらいは畳んで行ってほしいものだ。
昨日疲れた体と一緒に萃香をここまで引きずってきた私としては、そんな小さなところが気に触れた。
他が整理されている分、目立つのだ。
私は萃香の客間に足を踏み入れた。
「起きたら畳むのが普通ってもんでしょう――よっ?」
そして私は――何か硬くて重量のあるものに足を取られて、危うく転びそうになった。
「あっ、とっ、ととと」
とっさに何かを掴もうと手を伸ばして、棚に手を触れた私は、それに体重を預けた。すると、特別、中に重いものは入っていなかったらしく、その棚は私と共に畳へとその身を傾け始めた。
「え、嘘、やっ――!」
安心したのもつかの間だった。
その棚が倒れながらもその戸を開いて、中の物がこすれあい、音を立てながら飛び出してきた。
いくつかの酒器が鈍い音を立てて畳に着地する。
私は空いていた手で開いた戸から中身が零れるのを押さえ、倒れるままに、どうにか体勢を維持しようとして――ようやく、自分が空を飛べることに気づいて、戸棚と共にゆっくりと空中に静止した。
「っと、ああ。そういえばそうだったわ」
畳とほぼ平行になりながら、私は戸棚を抱いて深くため息をついた。
朝から馬鹿馬鹿しいことをしているものだ。
この場に萃香がいなくてよかったというべきか、いなかったからこうなったのであり、怒るべきか。疑問である。
零れ落ちた酒器も、ほとんどが漆の塗られている木製か何かで、陶器は入ってないらしい。割れる心配もなかった。
それもそうだ。そんなものがこれだけ詰まっていたのなら、私の体重を支える程度には重くなっていてもらわなくては困る。
私はゆっくりと体と共に戸棚を元に戻す。
その途中、戸棚の一番上にあった紅い盃がするりと滑り出し、他の酒器類を押さえていた私の腕をくぐり抜けて、畳へと落っこちた。
「あっ、――え?」
声を上げたときにはもう遅く、盃は畳で一度跳ねた後に、布団に着地して――黒くはじけた。飛沫のようなものが、布団に飛び散る。
何が起こっているのかわからなくて、変に声が裏返った。
「どういうことよ……」
鬼の持ち物には無限に小判や酒や米が湧き出る代物もあるというし、鬼の酒器というものは黒くはじけるものもあるのだろうか。
それはともかく布団が汚れてしまったことがひどく心に響いた。
この寒いのに布団を洗濯なんて冗談じゃない。
ひとまず急いで戸棚を元に戻すと、戸を叩き閉めた。
この有様、どうしたものか。
振り向くと、私が足を引っ掛けたのはどうやら萃香の瓢箪であるようだ。
持ち上げると、相応の重量があり、朝に迎え酒をしたにしても、そこまで呑んではいないことがわかった。
「瓢箪……置いてったの? あいつが?」
何故酒と共に生き、酒と共に歩くような彼女が瓢箪を置いていったのだろうか。
ぼんやりと重たい瓢箪を掲げて見ていて、それから布団に散らばった黒が視界の隅に止まったので、私は瓢箪を置いて布団へと近づいた。
惨状をよく見ると、黒い飛沫は液体ではなく、何かしらの粒だった。
指で触れてみると、少しばかり湿り気を帯びていて、つぶすと固まって下に落ちた。
「これは……土?」
黒い土だ。
ひっくり返った盃を元に戻すと、開けた布団の上に白い包み紙が落ちていた。どうやらこの中に入っていた土が落ちた拍子にはじけて出てきてしまったらしい。水分もいくらか含んでいるのか、布団についた方ははたいて落ちるかどうか不安だ。
直感として、単なる土だ。
手で触ってみても、別段私の体に変化はなかった。霊気などがこめられている気配もない。
安全なものだとわかると、心の底から沸々と布団が汚れてしまったという行き場のない怒りが湧き上がってきた。
私は酒器を手荒くまとめて一箇所に置き、瓢箪を戸棚に立てかけた。
それからずかずかと畳を踏み鳴らして障子を開けると、これ以上土が零れないように掛け布団の端と、反対側の端を引っつかんだ。
それから冷たさの残る縁側に足を伸ばして、布団を外へと掲げる。
「ああ……もう、半分は私のせいにしても、後は萃香のせいよ。あいつが瓢箪と布団片付けてればこういうことにはならなかったのに!」
私は布団の端をしっかりと持ったまま、悪態と共に付着している土を外へとはたき出した。
朝方の冷えた空気と、乾いて白みを帯びた土が敷かれた裏庭に、似合わぬ黒土が舞う。
何度か布団を振っては土を落とし、悪態続きで敷き布団の方もそれを行った。
「戻ったら覚悟しなさいよ……」
いくら鬼の私物とはいえ、何の変哲もない土を畳のある部屋に持ち込んだ罪は重い。
私は畳んだ布団を縁側に打ち置くと、箒を取りに冷えた廊下を熱い足で踏みつけて行った。
憤慨と運動で暖かくなった私は、同じく陽が差し温まり始めた廊下を、箒を携えて戻る。
普段室内用の箒が置いてある居間の傍の物置からは、少しばかり客間は遠かった。
戻るのに少し時間がかかり、再び客間に入ったとき、私は視界に、畳に残った土を見ながら、呆然と立ち尽くす萃香の姿を見止めた。
私が口を開くのと、彼女が振り向いて、私を虚ろな目で捉えて、力ない口を開けるのは同時だった。
「あ、霊夢……」
「あ、萃香」
私は鼻についた憤慨の残り香で、布団を畳めだの、土くれなんかを持ってくるなだの、瓢箪は出入り口に置くなだのと、二の句に継ごうとしたが、その萃香の異様な気配に気づいて、喉元でそれを止めた。
「この土、霊夢が?」
怒っているようではない。
ただただ信じられないという風に、萃香は、いつものように酔っ払った様子でなく、鬼らしく芯が通った様子もなく、私に訊いてきた。
まるで、悲しんでいるかのような。
「ええ。悪かったとは思うけど――あんたが瓢箪を出口なんかに置いておくから、それにつまづいた拍子に棚に手をかけて、そのまま。……特別なものだったの?」
萃香はふるふると首を横に振って、それからゆっくりとうつむいた。
あまりに見え透いた嘘だったが、私はそれを追及するよりも、喉元まで出掛かった言葉を吐き出したかった。
「それなら、たとえ大切なものだとしても、こんなところに置いておかないでよ。私にはただの土にしか思えないんだから。それに、畳の部屋でこれを片付けるのも大変なの、わかるでしょう。布団に付いたのとか、どうすればいいのよ。こんな寒い中で洗濯なんて、冗談じゃないわ」
吐き出した言葉は思ったよりも尾を引いて、絡まった蔓のようにまとめて出てきた。
怒り半分、しかし残り半分の勢いで、私はここまで言いたいわけじゃないのだ、とも思いながら、どこで切ったらいいのか、言葉を止めることができなかった。
「いっつもそうじゃない。この前だって勝手に空いた箪笥を持ち出してさ。倉だって勝手に開けたでしょ。言っておくけど、ここはあんたの家じゃないのよ。あんまりこういうこと続けるなら――」
そこまで捲くし立てたところで、急に萃香の拳がぎゅっと握られる。
すると、布団と部屋に飛び散っていた土がふわりと浮き上がった。
彼女の能力だ。
萃香はそのまま手を差し出し、落ち葉が風に遊ばれて回るように、手のひらの上で小さな竜巻を形作りながら、土をその手の内に集めた。
間もなく竜巻は小さく団子のように球体として収束していき、それを萃香は優しく握って胸近くに抱え、私の方に顔を上げた。
それは――それは、平常の萃香からは想像すら及ばない、今にも泣きそうにくしゃりと歪んだ顔。
その顔で、感情が殺された、引きつった笑みを無理やり作り出して、彼女は震える唇を動かした。
「そう。ごめんね、霊夢。大丈夫、今すぐは難しいけど……そのうち出ていくよ。そのうちさ」
いつも通りの元気そうな声でそう答えると、それを最後に、その顔がぼんやりと薄れて、崩れていく――霧化だ。
何千、何万という極小の粒に姿を変えた萃香は、そのまま空気に呑まれて透明になっていった。
「それと――ごめん。やっぱり今日はよしとくよ。元々鬼がいなくてもいいんだから、いいよね」
四方八方、そこら中から声が反響して、萃香の気配は文字通り雲のように散り、霧のように消えてしまった。
いなくなってしまったのだ――少なくとも、私が感知できるような範囲からは。
私はその一部始終を見終わってからようやく、終の言葉を出す前で口が開いたままになっているのに気づいて、言葉を飲み込んで、虚しい空気を噛み砕いた。
「……何よ」
存在意義を失った箒を片手に持ちながら、立ち尽くす。
「嘘つき」
やっぱり大事なものだったんじゃないか。
苦し紛れに、言葉を切り出した。それすらも自分に跳ね返ってくるようで、後悔が押し寄せてきて、箒を持った手を固く握った。
嘘つきは私も同じだ。
そこで、急に外から私を呼ぶ声が聴こえてきた。
「おぉーい、霊夢ー?」
大声に、少し驚く。
何だかんだといって萃香が驚かせるためだけに消えて、戻ってきたのだとか、ほんの少し過ぎった期待が潰され、その上、期待していたことに自分自身が気づいてしまって、他力本願な私自身を蹴飛ばしたくなった。
「いないのかー? 入るぜー?」
どうやら声の主は、研究や蒐集をしていなければ常に暇を持て余し、どこかをほっつき歩いている白黒魔法使いのようだ。
私はそれで我に返って、もうすぐ私が主催したはずの豆まきが始まることを思い出す。
萃香のことが気にかかるが、彼女が霧になってしまった以上、どうしようもないことだ。
こちらからの行動は起こせないと見ていいだろう。そう思考を立ててから、私は自分を小突きたくなった。――どう起こせばいいのかわからないのだ。
「はいはい。今行くわよ」
私は大声で来訪者――霧雨魔理沙に応じた。
誰かに教えてほしいけれど、誰にも聞けない事柄。
私はそれに鎖で繋がれたまま、重たい足を引きずって玄関へと向かった。
もちろん、魔理沙に聞くなんてことはできない。
この私の友人は思考が軽くて、かつ気分屋だ。こんなことを相談する柄じゃない。
今でも、このまま騒がしく神社の中に入られてしまわないかを気遣わなければいけないほどだというのに。
「珍しいじゃないか。霊夢なら掃除か飲茶でもして待ってるもんだが」
神社の境内横の玄関に回りこんで、魔理沙は私を待っていた。
箒を肩に回して、帽子を押さえながら彼女は心底無邪気そうに私に笑いかけた。
この天気に箒に跨っての飛行は寒かったのか、暖かそうなマフラーを巻いている。
ふわふわと柔らかそうな金髪と、気の抜けた柔らかい物腰。
彼女が来ると場が明るくなるのは、彼女自身、天性の才だろうと思う。
そして今回ばかりは、その明るさが身に染みた。
「悪かったわね。まだ炒り豆のお祓いも終わってないのよ。よかったらそれ使って、私の代わりに掃除でもしておいてよ」
多少気分が楽になって、私は彼女の箒を指差して冗談を投げた。
にひ、と悪戯好きな彼女は口の端を持ち上げてそれらしく笑って、箒を掲げて冗談を受け止める。
「ああ、すまんな。生憎、私の箒は飛行用だぜ」
そう切り替えされて、私は玄関脇に置いてある外用の箒を持ってくると、魔理沙に押し付けた。
「じゃあこれでいいでしょ。頼んだわ」
乱暴に押し付けられた箒を受け取ると、両手に箒を持つことになった魔理沙は、きょとんとしたまま両肩に箒を担いで、二つを見比べた後、箒の乗った肩を一瞬上げて、仕様がなさそうにため息をついた。
「……やれやれ、神社の掃除も巫女の仕事だろ?」
そう口では叩きつつも、押し返さない彼女は優しいところがあると思う。
「それなら巫女になりなさいよ。歓迎するわよ?」
私はそう言い残して、玄関の引き戸を閉める。
「どうせなるなら私は茶を飲む仕事の方をやりたいんだがな」
魔理沙が閉め行く引き戸の隙間に声を放り込んできた。
私はそれに目で応じる。
彼女を見ても、嫌な表情は浮かべておらず、眼差しも抗議といった風ではない。どうやら境内の、少なくとも参道の掃除はしてくれるらしい。
廊下を歩きながら、思考を浮かべる。
掃除の問題は片付いても、台所を占領する袋の問題は残っている。
多少気も身体も重たいが、炒り豆の入った袋は一人で運ぶしかなさそうだ。
破れやすい炒り豆の袋ではなく、鉄瓶や木箱といった、もっと固いものや乱暴に扱っても痛まないものなら、お札をつけて飛ばすといったことも考えられただろうに。
私は魔理沙が境内の掃除を行っている間、数回に分けて炒り豆の袋を神社の本殿へと運び、除災増福を願っての祈祷を行った。といっても、そもそも豆自体が縁起のよいものだし、わざわざする必要もないかもしれなかったけれど――一応、念のために。
それからまた炒り豆の入った袋を境内へと運び、そして、炒り豆を入れる木製の升を物置から持ってくる。
これが多少かさばる上に麻袋に入れても破れてしまい、数を持つのが難しく、結局何往復かすることになった。
多少の数を揃えるころには、私は額に薄ら汗をかいていた。
「ふぅ」
一息をつく。
汗をかいたし、冷えた廊下を往復したためか、冷気が足を刺した。
身体は熱いのに足が冷えているのが気に食わなくて、私は二人分の座布団を敷き、人が来るまでの間、お茶を飲むことにした。
「よう、こっち終わったぜ」
見計らったかのように魔理沙が境内から歩いてきて私の隣の座布団に腰掛けた。いつものことながら、私と違って、彼女は縁側に正座しない。
足をぶらぶらさせ、自分で肩を揉みながら、一つ白く吐息する。
「疲れた疲れた。参道だけはしっかり掃除したけど、後は特に気になるようなもんじゃなかったから放置したぜ。何より寒いし。箒は玄関脇に投げ込んでおいたけど、よかったよな?」
見ると、それでもちゃんと仕事はこなしたのか、彼女はほのかに上気していた。
暑くなったのか、あの暖かそうなマフラーも外している。帽子の中にでも入れているのだろう。
「ええ、お疲れ様。助かったわ」
私はねぎらいの言葉をかけて、茶を一口すする。
寒い日にはやはり熱い緑茶がおいしい。
「はい、これ。あんたの分よ」
急須から少しばかり熱が取れた茶を湯飲みに注ぎ、それと共に、お茶請けにと用意した煎餅が入った皿を押して勧めると、魔理沙は嬉しそうにそれを受け取った。
「おお、気が利くな。ありがたいぜ」
やはり労働の後の休憩は格別だよな――なんて似つかわしい言葉を呟きながら、魔理沙は海苔が巻かれた煎餅をぱくついて、十分に味わった後に、お茶でそれを流し込んだ。
目を閉じて、先ほどの吐息とは別に、満足そうにほう、と白い息を吐く。
再び開いた目は、新しい世界でも写しているかのように充足していた。
「うまいな。やはり神社では緑茶だぜ」
時折鍋にも呼ぶけれど、やれ冬は鍋だの、茸が美味いだの、逆にこんにゃくが古くて不味いだの、大根に味が染みてないだの、美味しいだの不味いだのと――何かとつけて彼女は感情を素直に表現してくる。
こうやって見ていると、魔理沙は表現一つとっても馬鹿正直で全力な気がする。
弾幕勝負も、気の持ち様も、表情も、感情も、全てが全て、性格そのままだ。
「そうね。とはいっても、私にはいつもの味だからなぁ」
私は苦笑して応じた。
その辺は、萃香と違う点なのかもしれない。
彼女も、正直ではあるのだけれど。
「いやいや、羨ましいぜ」
魔理沙はもう一口緑茶を啜りながら笑った。
羨ましいと言いながらも、茶を飲むときの二度に一度は魔理沙がいる気がするのは、気のせいではないだろう。
「そういえば、今日はどうするんだ?」
ひとしきり落ち着いたのか、彼女は豆まきの話を切り出してきた。
「ああ、そういえば。もうすぐ始まるけど、適当に人が集まったら神社で祝詞を言って、みんなに豆の袋を配ってから境内から豆を撒いて、後は空いた升に誰かしらが酒をくれと言い出すだろうから――」
私がそこまで話すと、その誰かしらは合点がいったのか、嬉しそうに頷いた。
「なるほど、宴会だな」
私はため息を吐いてお茶を啜った。
「まぁ、そうなるわよね」
いつも片付けをするのは私だから、そこだけ憂鬱である。
時々、祭りごとの準備や後片付けに長けた、冥界の半死半生の剣士だとか、紅い悪魔の従者だとか、私と同い年ほどの現人神だとかが手伝ってくれることはあるものの、基本は私一人なのだ。
後は、本当に稀ながら、魔理沙や紫――そして萃香が手伝ってくれることもある。
しかし、大抵は寝潰れたり、神隠しのように消え失せたりするので、頼めたものではないのだけれど。
半ば憂鬱な私に反して、魔理沙は既に宴会気分なのか、浮ついた様子だ。
「しかし、今回はいいじゃないか。本当の鬼がいるんだからな」
軽い口調でそう刺されて、私は内心どきりとした。
魔理沙には訊けないこと――どうしようもない鎖は、私に繋がれたままだ。
ただちょっと、眩しい彼女に当てられて、忘れていただけであって。
「あぁ、萃香のこと? ――今回は来ないわよ。やめとくってさ」
私は事実だけを伝えて、茶を濁した。
そのまま煎餅を一つとって一口に頬張り、濁ったお茶で流し込む。
その私を見ていても、深意は読み取れないようで、魔理沙は意外半分、つまらなさ半分といった様子で眉尻を下げた。
「おお? そうなのか。それならちょっと味気ないな。豆は鬼にぶつけてこそだろ」
そう言った矢先、境内から続く参道、鳥居の先の見切れた階段を、二人の人影が上ってきた。
「おや、白黒が先か。私たちは二番目ね。……あーあ。一番になれないんなら、もう少し遅く来るべきだったか。ねえ、咲夜?」
最初は淡い赤の傘、それから真紅に燃える不遜な眼をした吸血鬼――レミリア・スカーレットが目に飛び込んでくる。
その横には、メイド服に身を包み、傘持ちをしている吸血鬼の従者、十六夜咲夜の姿もあった。
「ええ、そうですねお嬢様。もう少し時間があるなら、あんなにお急ぎになられることもありませんでしたわ」
咲夜が懐につけた懐中時計を見ながら平然と答える。
見ると、レミリアは鬼らしからず、わずかに上気した顔で、身嗜みも咲夜が整えたにしろ、所々服や帽子がズレている。
なんだかんだで、この吸血鬼は一番乗りがしたかったらしい。
天邪鬼とはよくいったものだ。
「……鬼だな」
魔理沙が呟く。
彼女にとっては、豆をぶつける相手ができたらしい。
「鬼ね」
私が応じる。
私はお湯を入れる鉄瓶を持ち上げて、いつの間にか空になったことに気づいた。
もうそろそろ人も来るころだろう。私は重い腰を上げる。
今から萃香を探すようなこともできないだろう。
魔理沙に朝のことを反芻させられて、私はその思考を一言に切り捨てた。
今更といえば今更だ。
もうすぐ、節分の豆まきが始まる。
§
その後、神出鬼没な隙間妖怪や、冥界の亡霊などの妖怪や、里の半獣教師やその生徒、御阿礼の子、里の人間などが集まってきて、節分として、一通りの神事を執り行った。その間も萃香は来なかったが、神社の管理者である私は気に留める暇もないほど一連のトラブルメーカーたちの対処に忙殺されて、思い返すこともなかった。
「萃香が来ないんだったら、レミリアに豆をぶつければいいよな。鬼だし」
魔理沙のそんな一言で、一応の鬼にあたるレミリアが鬼役に抜擢された。
里の人間たちもいることから、鬼役がいるのは盛り上がる点でとてもありがたい。
「はっ! 誇り高い吸血鬼であるこの私が、そんな役をやるはずがないじゃないか」
しかし、魔理沙の言葉を聞きつけるや否や、レミリアは踏ん反り返って鼻を鳴らした。
確かに、プライドの高い彼女がその役をやるとは考えにくい。
そう思っていたのだが、咲夜は意外そうに口に手を当てた。
「あら、そうなのですか? 『豆なんて怖くないね』っておっしゃってい――むぐ」
当てた口を更に上からレミリアに押さえつけられて、咲夜はそこから押し黙ってしまった。
なるほど、なんだかんだで鬼なのだろう。来る前に、節分なのに遊びに行くか行かないかでひと悶着あったと見える。
魔理沙もそれに感づいたのか、いつも通り意地の悪い笑みを浮かべて、彼女を挑発する。
「お、そうなのか? そうか、実は怖かったりして」
言葉を発した魔理沙が気づくよりも早く、喉元に爪を突きつけて、レミリアが肉迫していた。
魔理沙が降参の合図として両手を挙げて、突きつけた爪を下ろす。
憤慨そのものといった様子で、レミリアは振り向いて周囲に言い放った。
「やるわ。……やってやる。光栄に思うことね、人間共」
あくまでも地位的に上、というスタンスを崩さないその姿は、ある種の尊敬に値する。
「ねえ、実はどうなの?」
私は咲夜に近寄って、こっそりと耳打ちした。
「震えていましたわ。恐らく期待で」
一連の様子を頬に手を当てて心底嬉しそうに微笑みながら、咲夜はひっそりと答える。
「あんたってさ、時々ひどいわよね」
私が毒づくと、咲夜は笑みを崩さずに慇懃そうに腰を折って礼をした。
レミリアは周囲に敵意をむき出しにして豆まきの開始を待っている。
里の子供や人間側の人々、後は傍観ではなく参加意思を表明した奇特な妖怪達に豆を配りながら、私は抜き身の剣のようなレミリアに言い放った。
「鬼の〝役〟を演じるんだから、豆を投げる人たちに危害を加えたら二度と神社には入れさせないわよ。普段スペルカードで使うような大技も使ったらただじゃおかないわ」
釘を刺されたレミリアは、その剣呑さを一瞬で崩壊させ、『そんなこと聞いてないよ』とでも言いたげに目を開いてこっちを一瞥して、それから咲夜の方を見た。咲夜も笑顔で頷く。
「だって、相手は生身の人間だもの。誇り高い吸血鬼がそんな下品なことやるわけがないわよね?」
私はもう一つ言葉を継ぐ。そもそもやるつもりだったのか。
レミリアは歯がゆそうに周囲の人間達をぐるりと見回して、それから一息つくと、腕を組んで再び胸を張った。
「ええ、勿論。これは儀式、遊びだもの。ほどほどに遊んであげるわ。だいたい、ただ炒っただけの豆なんて、痛くもかゆくもない。私は以前の私とは違うのだから」
「……そうなの?」
私は再びこっそりと咲夜に耳打ちした。
咲夜は主人のことだというのに傍観を決め込んでいるのか、余裕を崩さずに頷く。
「以前、パチュリー様の提案で紅魔館にて行った節分大会に参加できなかったのが大変悔しかった様子で、炒った豆を耐えられるように特訓しましたわ。最初は半生からでしたが、今ではしっかり炒り切ったものでも大丈夫――なはず」
咲夜でも言い切ることができないのか。やはり苦手ではあるらしい。
少し不安になってきたが、危害を加えないことを約束したし、見境がなくなるほどに怒らせなければ大丈夫と見ていいだろう。
幸い、人間側にも彼女と渡り合えるほどの人物は何人かいるのだ。
一通りのやり取りが済んだと見たのか、魔理沙が首を突っ込んできた。
「それじゃ、決まりだな」
その手には、子供用にと配った豆の小袋が数個と、升一杯に盛られた豆が用意されている。
やる気満々といった様子だ。
それに続くように、里の子供達が各々豆を握り締め、魔理沙の後ろに待機していた。
「さあ、始めようぜ。鬼退治といえば豆まき。遠慮なく数の限り撒き散らすぜ」
いつの間に手懐けたのか知らないが、子供達も魔理沙に合わせて豆を構えている。
人当たりのいい性格からか。彼女は魔法使いにならなければ、いい保護者になれるだろう。
私もそれを了承して、子供達に掛け声と、豆まきによる除災増福の効果などを教える。
後は懐かれている魔理沙に任せることにした。上手く先導してくれることだろう。
「咲夜っ!」
レミリアは私の横にいる咲夜に声を投げた。
咲夜が返事をすると、彼女はその場に悠然と立ち、宣言する。
「この戦い、〝あのとき〟のように手出しは、絶っ対に、無用よ! 豆なんて、もう怖くはないわ!」
あの時というと、きっと咲夜が言っていた特訓の時だとか、紅魔館で行われた節分の豆まきだとか、そういうときなのだろう。
咲夜は期待している旨を丁寧に伝えて、レミリアは魔理沙たちに向き直った。
鬼は外、福は内――。
決まりきったフレーズと共に、魔理沙たちはレミリアに豆を投げつける。レミリアは豆まきが始まるまで、怯えているような表情を浮かべていたが、投げられるや否や、不敵に笑みを浮かべて、それらを真正面から受け止めた。
「ふっ。私が炒り豆に弱かったのは以前の話。今の私にそんなものが効くはずが――」
ぱらぱらとレミリアの肌に乾いた音を立てながら豆が当たる。
すると、当たった部分がじゅっ、と焦げるような音を立てて、白く小さな煙を立てた。
「……あれ、痛い?」
鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、レミリアが不可思議そのものといった様子で豆が当たった部分を見た。
やがて、見る間に表情が赤くなった後に青くさめて、その場を飛びのいた。
「やっ、これ、まさか――霊夢ぅ!」
しゅうしゅうと音を立てる肌を必死にはたきながら、レミリアは私に怒号を投げつけた。
縁側に座って一息ついていた私をレミリアが見捉えると、服から零れ落ちた豆をこちらに蹴り飛ばして叫んだ。
「貴女、これ、お祓いしたわね! そんなこと、聞いてないわよ!」
私の近くに蹴り飛ばされた豆が転がってきた。
見ると、その豆を白い煙が巻いている。
なるほど、私のアミュレットも、彼女に当たったときはこんな感じの反応をしていたような気がする。
豆に強くなったとはいえ、魔滅には未だ弱いらしい。吸血鬼は弱点が多くて大変だ。
「言ってないわよ」
しれっと答えると、レミリアは様々な罵詈雑言を飲み込んだ表情で、悔しそうに唸った。
「うう……! こんなの、止めよ、止めっ! 法儀礼済みだなんて、卑怯だわ!」
レミリアが私に向かって叫ぶと、誰かが横合いから悠々と声を差し込んできた。
「おや、〝約束〟が違うじゃないか、〝誇り高い〟吸血鬼さん」
ぎしり、とレミリアの顔が固まる。
その時の魔理沙の笑顔は、悪魔よりもよっぽど悪魔らしかった。
「まさか、この期に及んで空中に逃げたりとか、鬼の力を使ったりとかはしないよな。頑張って避けようぜ。ドットイートは好きかい?」
次々と制約の楔を打ち込まれて、白木の杭よりもよっぽどこたえた様子のレミリアは、こちらにも聴こえるほどの歯軋りをしながら、子供達の投げた豆を横っ飛びに避けた。
「この……っ、覚えてなさいよ……魔理沙っ!」
「忘れた方がいいと思うぜ」
やれやれという風に吐息した魔理沙は、帽子を押さえながら肩をすくめて言った。それから、片手に持っていた升から豆を取り出して構えた。
それからは一方的だった。
子供達のはしゃぎ声と、レミリアの悲鳴が境内に響き渡り、人間側も、妖怪も、配られた豆をつまみにそれを見ていた。やられている本人以外は、いたって長閑だったように思える。
豆を投げつけて、レミリアが当たる度、子供達から喝采が飛ぶ。
何より先導が魔理沙だ。軍隊張りの従順さと、それでいて遊び心を忘れていない様子で、子供達は動く。
「やっ、痛っ……。この私が、たかが人間ごときにっ……うー!」
頬や額に当たると痛いのか、レミリアは帽子を押さえながら逃げ回っていた。時折子供達を威嚇するように吼えたり、地面を踏み鳴らしたり、高速で動き回って驚かしたりするものの、豆をぶつけられると途端に飛び退き、逃げ回っていた。
反撃できないから、鬼の体力に頼って耐えているよりも、その速さで逃げ回った方が得策だと判断しているらしい。
そもそも、レミリアの速さに慣れている魔理沙がいるのだ。
既に予測して逃げる方向に豆を投げる魔理沙に、好き勝手投げる子供達が加わっており、多勢に無勢といった様子だった。
「咲夜っ、咲夜はどこっ? 敵の数が多すぎるわ! 私の傘を持ってきて! ねえ、咲夜、聞いてるの? 咲夜―っ!」
とうとうこらえきれなくなったのか、レミリアが声を張り上げる。
「呼ばれているわよ」
私が咲夜を言葉で小突くと、咲夜は笑顔で頷いた。
「ええ。しかし、我が主は先ほど『手出しをするな』とおっしゃいました」
「あんたってさ、時々怖いわ」
咲夜は至上の褒め言葉を受けたかのように、とびきり明るい表情で頷いた。
「恐縮ですわ」
それからは、レミリアがついに力尽きて降参するまで、一方的な戦いだった。
子供の体力というものは吸血鬼にも勝るらしい。
豆まきが終わった後も、子供達は神社の境内で騒いでいる状態だった。
ひと段落着いて、人間達は保護者である半獣教師などに引率されて、神社を後にした。
それからは、こぞって妖怪達が空になった升を差し出して、口それぞれに言うのである。
「ほら、これ。空になったから約束通り酒をくれ」
魔理沙も妖怪と同じことを言う。約束なんてしてないのだけれど。
そもそもこの神社で節分をやったのが運の尽き、といったところだろう。私は渋々了承した。
「別にいいけど、今から倉に取りに行くから、誰か手伝ってよ。他は大人しくしててよね。あと、妖怪にも寛容なありがたい神社の賽銭箱はそこよ。妖怪からも大歓迎」
そう言い残して境内裏の倉に行こうとすると、服の端を引っ張られた。
振り向いた先には、虚空から伸びる腕と、白い手袋をはめた手。
「その必要はありませんわ」
神社の賽銭箱の近くから声が湧き出てきて、そちらを向くと、空間が見切れて、黒く歪んだ亜空間が顔を出した。
そこからまずは同じく白い手袋をはめた手、そして紫色の趣味の悪い服で包んだ腕、妖艶な顔立ちの女性――隙間の大妖、八雲紫が身を乗り出してきた。
「これはまた、悪辣な便利屋ね」
私が苦々しげに言い放つと、紫は傷ついた様子で額に手の甲を当てる。
「あら、ひどい言い様。せっかく私がお酒を倉から運び出す手伝いをしてあげましょうというのに」
何故この親切が理解できないのか、とでも言いたげに紫は嘆いた。押し付けがましい。
「あんたがへりくだる時って大抵いいことないのよ。それに倉にはあんたが入るからってこれでもかってくらい厳重な結界が張ってあったはずなんだけど?」
私がどれだけ噛み付いても、紫には暖簾に腕押しといった様子だった。
紫はいそいそと長机を取り出して組み立て、それを地面に置くと、その上に次々と酒の入った一升瓶を並べていく。
「ええ、破りましたわ。数十秒もかかっちゃった。腕を上げたわね、霊夢」
さらりとすさまじいことを言ってのける。
これだから結界術ではなく、結界そのものを操れるような奴は嫌なのだ。
私以上に型にはまらない。どれだけ頭を絞って結界を組み立てても、この有様だ。
「嫌味ね。今度は採算度外視で三倍にしておくわ」
私は紫に捨て台詞を投げた。
どこからかつまみも用意してきたようで、紫の用意に妖怪達から賞賛の声が上がる。こうなっては仕方がない。この酒は呑みきられると見ていいだろう。
「まぁまぁ。お酒なら、私も持ってきたわよ。足しになるかしら」
咲夜が横からワインボトルを差し出す。
礼を言って受け取るものの、用意がいいのは嬉しいが、火に投じるようなものだ。
炒り豆が鬼以外にも効けばいいのだけど。その他にも酒やつまみの差し入れがあって、既に節分というよりは宴会の体を呈してきた。
「仕方ないわね……。少しで勘弁してもらおうと思ってたのに」
降参といった風に手を挙げて、宴会が始まった。
この時期の冷たい風も、妖怪には気にならないらしい。
その上、紫が勝手に神社に上がりこんで、熱燗や温かいつまみを用意したものだから、更に宴会は熱を帯びることになってしまった。
私も渋々それに乗じることにして、しばらく飲むことにした。
その後は、怒りや屈辱が再燃したのか、レミリアが魔理沙に弾幕ごっこを申し込んで、神社上空で花火が散ることになったり、酒の呑み比べなどがあったりして、いつも通りの神社の宴会といった様子だった。
あの祭り好き、酒好きの萃香がいないことを除いては。
しばらくの後、それぞれ酔い潰れたり疲れたりして、宴会がお開きになったころ、それほど呑んでないにしろ、疲れもあって、酔い覚ましに縁側に座り込んでいた私に、紫が切り裂かれた空間の隙間から現れて声をかけてきた。
「今日、萃香は来ていないのね」
相変わらず彼女は痛いところを突く。
上から声を投げられて、私は苦々しげに頷いた。
「ええ、来てないわ。今日はやめておくんですって。豆が嫌いなんだとか」
それはそうでしょうね、と紫は納得した様子で呟いた。
紫と萃香は古い知り合いらしいからか、知っていることも多いようだ。
私は疑問に思っていたこと、萃香自身には訊けないようなことを、訊いてみることにした。
「ねえ、萃香はなんで豆が嫌いなの? 鬼って、何をしたのかしら」
紫は私を刹那、鋭い眼で射抜いた後に、ふと相好を崩すと、身を乗り出して、隙間の上に腰掛けた。そんなことをするくらいなら、縁側に座ればいいだろうに。
それから紫は考えるように指を顎に当てて、口を開いた。
「鬼が何かをしたのかというと、そうではないわ。どちらかというと、人間が何かをしたんでしょうね」
鬼と人の間で何があったのか、やはり彼女は知っているようだ。
それにしても、あの圧倒的で隙の無い強さを誇る鬼が、人間にどうにかできるものだったのだろうか。
むしろ、本当に萃香のような強い妖怪が沢山いて、それぞれが本気を出したのなら、根絶やしにされてしまってもおかしくはない。
人にできることは、限られている気がするのだけれど。
「あの半獣の里の守護者じゃないけど、歴史は隠された事実を内包しているわ。受け取る側が、それを引き出せないか、聞き取れないだけであって」
紫はそこまで淡々と話すと、急に語気を和らげて、逆に私に訊いてきた。
「昔話は好きかしら?」
私の返答を待つ前に、彼女はどこか遠く――まるで、とある過去の一点を探るよう――に目の焦点を結んで、その目を閉じて、私に微笑みかけた。
「――ねえ、霊夢。妖怪と人間の違いって何かしら。弱さと強さの決まりって何かしら。私にはわからないわ。境界など、敷けるはずもないものだもの」
4
これもまたとある昔の話になる。
まだ、この世界に鬼がいたころ、人と鬼との間であった、少し機知に富んだ人間と、愚直なまでに正直な鬼とのやり取り――今や民話となって、方々に形を変え外延を変えて、しかし本質を変えることなく語り継がれる話。
昔々。
あるところに、綺麗な娘を持つ長者がいたそうだ。
その長者が住む土地は、ある年、長らく日照り、凶作どころか来年繋ぐ種さえ残らなさそうな干ばつが続き、稲は枯れかかり、村人はほとほと困り果てていたという。
同じく困り果てた長者は、娘にも水垢離をさせ、自分も必死に雨乞いをしたそうだが、一向に雨の降る気配はない。
そうして万策尽きたところに、とある山から小鬼が降りてきて、長者の家を訪ねたという。
小鬼が言うに、鬼の里では女子が足りず、捜し歩いているのだそうだ。
『私は農に聡い。我らに娘をくれるなら、私が雨を降らせてやろう』
村人は、そして長者は集まって考えに考えた。
お互い投げ打つ会話は荒れに荒れたそうだ。
仕舞いには、村人たちは総意として長者の娘を鬼たちに差し出すことを決め、長者も泣く泣くそれを飲んだ。
娘の母は、娘が連れ去られて行く別れの晩に、菜種の粒を一袋差し出した。
『連れて行かれる先々で、これを零し落としてお行きなさい』
娘は頷き、言われた通りにし、連れ去られる道々に菜種を落としていった。
村の方はというと、連れ去られた明くる朝からさめざめと染み入る雨が降り注ぎ、大地を憂いるように染み込んでいき、それによって村人たちは飢餓の危機から救われたという。
それからまたしばらくすると、とある山からこの村まで、一筋の金色の道ができた。
それは娘が撒いた種から咲いた菜の花で、娘はそれを辿って村まで戻ることができたという。
小鬼は約束を破られたと大いに怒って村を訪れた。
『約束が違うだろう。娘を返せ』
娘の母親は戸を叩く小鬼に対して、一握りの炒り豆を渡して、『鬼は農が得意だそうだな』と前置きしてから、大変自信満々に頷く鬼に対して言った。
『この豆が春になって芽を出したら、娘を連れ帰ってもいい』
豆を受け取った鬼は、笑って応じた。
『なるほど、確かに冬の間は女手も必要になろう。私にかかれば、豆を実らすなど簡単なこと。やってみせよう。約束したぞ』
もちろん、炒った豆は芽を出すはずがない。
翌年になっても芽が出ず、小鬼は長者の家を訪ねに来た。
『私の豆は芽が出ない。もしや、腐った豆を渡したのか』
そう訊いた小鬼に対して、母は大豆が青々と茂る畑を見せて言った。
『お前に渡した豆と同じだが、私のところは芽が吹き、このようにしかと育っている。ならば、もう一度やってみるか』
母はまた炒った豆の袋を渡して、小鬼は頷きそれを受け取った。
もちろん、芽が出るはずもない。
翌年も、そのまた翌年も、それから数年、鬼は炒り豆を受け取り、首を傾げてそれから芽が出るのを待った。
――そのうちに、人里にその小鬼は降りてこなくなった。
これが、今伝わる、節分の豆まきという行事の、元となる民話の一説。
あるいは男の鬼だったかもしれぬ。
あるいは成人の鬼だったかもしれぬ。
あるいはさらったのは男の子供だったかもしれぬ。
同じような話はいくつもあり、人伝てにそれは伝わり、鬼たちには豆を渡してはその問答を繰り返したのだそうだ。
今となっては、昔々の話である。
§
『お姉さんは私をどうするの?』
どうもしないさ。このまま冬を越えて春になるか、約束通り人間たちが助けに来たら、お前を里に帰すだけだよ。
『私を食べないの?』
食べたりなんかしないさ。いじめたりもしない。酒を呑んでた方が楽しいし。
『どうして?』
どうして、って――そりゃ、お前さん、私が人を食べたら、人間(おまえたち)に嫌われちゃうだろ?
――私は、もう、あのときみたいに嫌われたくはないんだよ。
§
風を切って飛ぶ。
異変解決のときに出すような暢気な速さではなく、私は何かに後ろから押されているような気さえして、息は切れないものの、過ぎ行く風景が線となって後ろに流れていくような速さで飛んでいた。
鬱蒼とした森を抜ける。
地底の旧都がある洞窟からは、空を飛ぶのに適した場所が遠い。
紫の話は――恐らく、彼女の話だろう。
もしかしたら、そうではないかもしれない。
しかし、私には心当たりがあった。それは今朝の、客間での一幕。
黒く飛び散った土は、果たして土だったのだろうか。〝土になってしまった何か〟ではないのか。
あるいは――〝お人好しの彼女が今の今まで引きずってきた、人間を真に信じきれない理由〟ではないのか。
その思考が私を突き動かしていた。
心臓が脈打ち、駆ける空をなおも蹴り飛ばさせた。
風景が見切れたので、次いで上へと飛ぶ。
神社の宴もたけなわだったが、私はそれを切り上げ、後を魔理沙に託し――不思議そうな顔で『高くつくぜ』と言っていたけれど、今はそれどころではなかったのだ。即答で了承して、怪訝そうな顔をされた――地面を蹴った。
手には、萃香の瓢箪が握られている。懐には、紅い盃。
酒が切れた彼女なんて、ついぞ見たことがない。しかし、今の今まで呑んでいないなら、それも切れているだろう。
こういうときに彼女を探すための勘が働かないのだから、巫女がなんだと言いたくなる。
それでも無理矢理思考して、酒が切れているのなら、酒があるところ。
きっと、仲間の鬼がいる、地獄――地下の旧都か、自分の領土のある天界だと踏んだものの。
『萃香? 来てないぞ。どうした、あいつの瓢箪なんか持って。忘れてったのかい?』
旧都にいた萃香の知己――鬼の四天王の一人は、昼間っから入り浸っていたらしい酒屋の席に居座って、この時間になるまで呑んでいたらしいが、酒臭い口から出てきたのはこの言葉だった。
礼を言って飛び出して、向かう先は天界というわけだ。
「どこにいるのかしら……だいたい、雲の上ってどこを探せばいいのよ」
悪態をついても、その雲にさらわれて、吸収されてしまう気さえする。
全体を見れば晴れてはいるものの、幻想郷の空には雲が棚引いていた。
空を渡る千切れた雲に突っ込んで、突き抜ける。
幻想郷の雲海には、今まさに目を閉じようとしている太陽と、その反対に群青色の夜が、その昼が寝静まるのを待っている。
二色を投じられた雲の中、一つの雲に大地の切れ端が乗っかっていた。
「――あった!」
私は思わず叫んだ。
そこへ飛んで、何事かと出てきた天人を引っ捕まえて、萃香という鬼か、あるいは比那名居の姓を持つ場所がないかと問いただした。
天人は困惑した様子で、恐々としながら西の方向を指差した。
そこには沈む夕日が白い雲を朱に染めている。
「あっちね。ありがとう!」
そこから天界の地面を蹴り飛ばして飛び立つと、天人も面食らった様子で手を振った。
これでまた、下界の人間は野蛮でいけない、という風評が立つかもしれない。今度あの天人くずれに聞いてみよう。
そうして辿り着いた場所では、早くも夕食を済ませたという天子がいて、騒ぎを聞きつけて出迎えてきた。
悪事千里を走るというけれど、それにしても伝達が速い。
こちらが挨拶すると、天子は素っ気無く返事をした。
「来てないわよ」
二の句に、迷惑千万といった様子で天子は口を尖らせた。
「本当に?」
私は少しだけ跳ねていた心臓を押し戻して、聞き返した。
天子は蒼い髪を揺らして首を振る。動作一つとっても、本当にお嬢様といった感じだ。これで生意気じゃなければ、天人そのものなのだろうけれど。
「嘘をつく必要がない。萃香は天界に飽きたのか、しばらく前から、私たちから無理矢理奪っていった領土にも顔を出していないわ。噂好きな竜宮の番たちもその話題には食いついていない」
天子の話を詳しく聞くと、少し前から、天界そのものに来ていないのだという。
鬼という種族柄、天界ではとても目立つ上に、幻想郷の天界に訪れること自体が稀なので、覚えていない者が一人もいないということもありえない、つまるところ来ていない、ということだそうだ。
しばらく尖った口調の天子だったが、立っているのに疲れたのか、どこからか呼び出した要石を浮かべて、それに座ってからは、天人としての意識が薄れたのか、いくらか語気を和らげた。不安定なのか、彼女が安定させていないのか、要石は彼女を乗せてくるくると回っている。
「私も退屈なのよねえ。なんだかんだであいつがいると話題だとか遊びだとかに困らないし。この前、あんまりにも私の土地で好き勝手しているから、きつく言ったら、それっきり来てないのよ」
そりゃ、私も言いすぎたし、悪かったとは思ってるんだけどー、と不服そうに語尾を伸ばしながら彼女は要石に座って回っていた。
「そうなの?」
それは意外だった。
私がそう言葉を漏らすと、彼女は要石を止めてこちらを見止めた。
「そうよ。だから、ここに来るってのは考えにくいと思うわ。何より、あんたなら気配とか勘とかでわかるでしょ。巫女ってそういうもんじゃないの?」
わからないからここに来たのだ。
当てが外れたというのに、心には突き刺さるものがあった。
天子もそこまで言って、自分の言葉でそれを把握したのか、慌てて付け足した。
「ま、まぁ、鬼のあいつなら気配も消せるだろうし、わからなくても無理はないわね」
私はそこまで聞くと、礼を言って、下界に下りることにした。
その間際に、ねえ、と天子に呼び止められる。振り向くと、彼女は言うか言うまいか迷っている様子で、歯切れ悪く言葉を紡ぎだした。
「あいつに言っておいてよ。また来てもいいって。いや、土地は渡さないけどね。えっと、それと、あんたも暇ならまた天界(ここ)に来てよ。暇で暇で仕方ない場所なんだから」
「ええ、わかったわ」
私は頷き、再び挨拶をして、天界の柔らかな大地から飛び降りた。
上空とはいえ、天界はどこか暖かかったことに、飛び出してから気づく。
肌を冷気が切り裂き、意識と肌が殺げ立つのがわかった。
空気を切り裂く矢のように一直線に下へと降下して、しばらくしてから緩やかに降りることにした。
あんまり急ぐと、耳が痛む。
紫が以前言っていたが、空を飛ぶときにあまり急ぐと、体が高低差に驚いてしまって、血を吐いたりすることもあるのだという。血管がどうだの、意識がどうだのと言っていたが、つまるところそういうことらしい。
今も、少し耳が痛くなってきたのだ。
大きく螺旋を描きながら、幻想郷を見下ろして緩落下する。
人間の里には、少しばかり明かりが灯って集まっているのが見えた。他はほとんどが暗がりに飲み込まれ始めて、その輪郭をぼかしている。
陽が落ちてからは、月明かりに眼が慣れるまで、暗闇に気を配ることになるだろう。
緩落下しながらも、私は思考を続けていた。
今もまだ、萃香の気配もなく、私の勘も働かない。
むしろ、私の勘に至っては、彼女がどこいるのかが明確に言えない、とでも告げているような感じでさえある。
それに、天子が言っていた、『鬼のあいつなら気配も消せる』というが、それは違う。
彼女は気配を消すのではなくて、微細すぎる霧の粒子に姿を変えてしまい、それを感づくことが難しいからだ。
宴会が続いた異変のときも、辺りに漂うわずかな妖気が彼女そのものであることに気づいたのは、彼女に会ってからである。
「ん?」
私はそこまで考えて、一つの仮説に辿り着いた。
彼女は、言うなれば『気配を消している』のだろう。
それは、わずかな大きさの粒子となって、幻想郷のあちらこちらに分散していることを意味する。
たとえばそれが、幻想郷全体に分布している下級、上級を含む妖怪たちの発するわずかな妖気の方が強く感じるほどに、あまりにも小さな粒子であるなら。
私の勘が働かないのも頷ける。
そうだとすると、彼女は今、幻想郷のどこにでもいて、どこにでもいないのだ。勘がどうこう、という話ではない。
彼女はずっと傍にいたのではないか。
節分も、その後の宴会も。視線を感じることはなかったから、見ているわけではないのだろうが――多分、ずっとそこにいたのだ。
探されることを表面上拒みながら、探されることを、呼ばれることを、ずっと待っていたのではないか。
私は神社へと急いだ。
急ぐのは久しぶりだった。
耳元で血が轟々と音を立て、心臓は早鐘を鳴らした。
速く、速く。どこまでも速く、夕陽が落ちるよりも前に。
一閃の紅となって、茜色に染まった神社の屋根へと私は到達する。
ちらりと流し見ると、凄惨な宴会の跡が残っているだけで、神社に人影はなかった。
魔理沙は後片付けを放棄したらしいが、人里からも遠いここに、人を残すことはしなかったようである。
妖怪達も、私を待っているほど暢気ではなかったようだ。
神社の屋根の上、平らになった一本梁――大棟に降り立つと、私は逸る心臓を押さえた。
息を整えながら、周りを見る。
紫や、レミリアなど、残って居そうな妖怪の気配もない。私は一つ深呼吸をした。
暮れなずむ神社は、既にその色を落として、山裾に残っていた赤の破片も、燃え尽きた線香花火のように、黒くしぼんでいった。
陽が落ちて、夜が来たのだ。
それから、もう一度大きく息を吸い込んだ。
「我は博麗神社の巫女当代、名を博麗霊夢と申す! 古きは、霞に紛れ雲に乗り、自然となりて疫癘を払い、此世、人によりて失われし山河の鬼神よ! その子鬼よ!」
懐を探る。手に持った瓢箪と、その盃。
そして――炒った豆が入った袋。
「話がある! その姿、我が眼前に、現してはくれまいか!」
一瞬、大気が鼓動したような気がした。
うねるように、幻想郷中に散らばっていた妖気の粒――知覚できない微細な粒が、ここを目指して集まってくる。
それは音や、地響きすらも呼ぶほどに大きな流れとなって、私の背後に渦を作り、収縮していく。
どこか懐かしさを帯びた、古代の妖気。
たん、と、大棟に着地する小さな靴の音。
私は振り向いた。暗くなった神社の大棟の上、彼女の名を呼ぶ。
「――萃香!」
5
ずっと待っていた。
探されること、気づかれること、呼ばれること。
そして、彼女は見事に、私の場所を言い当てた。
ずっと、私はどこにもいて、どこにもいなかった。
隠れん坊は、彼女の勝ちだ。
「霊夢」
私は小さく彼女の名を呼んだ。
彼女は頷いて、右手を掲げた。
「ほら。これ。――あんたの。忘れ物」
その手に握られているのは、酒で満ちた私の瓢箪だった。
そういえば、朝から何も呑んでいない。
喉の奥で、しずくが鳴った。私は頷いた。
「うん」
彼女が私に一歩、距離をつめる。
彼女が近づいてくるにつれて、今朝のことが思い出される。
怒った彼女の顔と、記憶にこびりついて離れない、いつかどこかの村の娘の顔と、私に豆を渡した、その母親の顔――全く似つかわしくないそれらの顔が、どうしてか重なって見えた。
今の彼女はどれなのだろう。どれにも、当てはまる気がしなかった。
「怒ってる?」
霊夢は不安そうに私に問いかける。
今朝のことについてだろう。
私は首を振った。怒りよりも、大切だった約束を――彼女は全く意図していないだろうが――破られた、その喪失感の方が圧倒的に強かったのだ。
「そう。何にしても、悪かったわ。やっぱり、大切なものだったんでしょう? 私、その、あんたの気持ちも考えずに怒鳴ったりして――ごめん」
彼女はそう言って、私に向かって頭を下げた。
横に分けて止めている髪が揺れて垂れる。
彼女のせいではないのだ。わかってはいたけれど、やっぱり――もう、守られることのない約束だったのだということが、改めて思い知らされた気がして、それがどうしようもなく悲しかっただけで。
「ううん。もう、気にしてない」
私は首を振った。
彼女はいつも通り私の不始末に怒っただけだ。
それは当然のことなのに、なんで私は彼女を突き放したのだろう。
「そう?」
霊夢は首を傾げて、立っているのも何だからと、その場に座った。
私が頷いてそれに続くと、彼女は訝しげに私を見つめた後に、難しい表情のまま呟く。
「……そうは見えないけど、そう受け取っておくわ。それよりも、はい、これ」
彼女は懐から紅い盃を取り出すと、私に押し付けた。
「盃?」
今度は私が首を傾げる。
彼女はそれから、私の瓢箪の栓を抜いて、瓢箪を私の方へと掲げた。
私が盃を差し出すと、それに注ぎ始める。
なみなみと注がれた盃には、落ちた夕陽に代わって、片側には欠けた月と、もう片側には霊夢の顔が映っていた。
「約束。二人で呑むんでしょ。あんたからの約束はこれ。それで――」
次いで、彼女が懐から取り出したのは、小袋だった。
何か小粒のものが沢山入っているようで、彼女はそれを開封すると、中身を一つ取り出して、盃に落とした。
投じられたそれは、水面でぽとん、と音を立てて盃に入り。盃の中央で止まった。
目を凝らして見たそれは、私の一番嫌いなもの――炒り豆だった。
「私からの約束はこれ」
彼女が言葉を紡ぐ。
どくん、と私の心臓が脈打った。
紅は、誓いの盃。
それを持って、約束を言い渡して、注いだ酒を半分呑み、相手に渡す。相手が同じく盃を飲み干したら、約束が結ばれる。
「この豆がね、冬を越えて、春になって、芽を出したら」
『この豆が春になって芽を出したら、娘を連れ帰ってもいい』
彼女の言葉に、いつか聞いた言葉が重なる。
振り返ればそこにある。直向に細々と断続する、過去から続く一本の道筋。
いつか、何かの分岐点となった過去の一点。
私が破られた約束。
もしかしたら、彼女が今からする約束。
どうしても人間を信じきれない、切っ掛けとなった、あの約束。
細々と断続する、記憶を手繰る糸と、彼女が伸ばしてくる、今から放つ言葉の糸が、繋がって紡がれる。
「――ここ、出ていってよ。芽が出るまでは、いつまでも居てくれて構わない」
彼女はそう言い切って、盃をあおった。
半分ほど飲み下して、私へと差し出す。
私はそれを見た。
欠けた月と、私の顔が映っている。
それが少しずつ、滲み、歪んでいくのがわかる。
盃の水面が揺れる。
彼女が揺らしているのではないことも、わかっている。
『このままだと、あなたはどこにも居場所がない』
いつか聴いた言葉が去来する。
裏切ったのは私だったのに。
『情けなしとよ客僧達! 我らが鬼に、偽りあらじと言いつるに!』
いつか、誰かが放った言葉が脳裏を過ぎる。
裏切られてきたから信じられなかったのだ。
『どうして?』
――私は、もう、あのときみたいに嫌われたくはないんだよ。
「そういう約束なんだけど……嫌かしら」
彼女はおずおずと訊いてきた。
私は声にならない言葉を飲み込んで、どうにかそれを伝えるために首を振った。
様々な感情が胸の内を駆け巡って、それが熱を帯びて、目の奥から溢れ出してくる。
『約束なんて守らないくせに』
いつか、彼女に言った言葉を思い出す。
そんなことなかったんだ。私はただ、首を振る。
そんなことはなかったんだ。なあ、同胞よ。人間だって。
私は受け取った盃を一気に飲み干した。
酒が美味しいのは、久しぶりというだけではないだろう。
盃の底に落ちている豆を取り出すと、懐に手を探りいれて、小さな紙を取り出す。
豆をそれに包んで、再び懐に入れた。
「人の子よ。教えておいてやる。鬼は、……鬼はね」
ぐい、と手で目の辺りを拭う。
口元が緩んでしまって、声がしっかりと通らない。
いくら酒を呑んでも、ここまでなることはほとんどないのに、今のこの一杯でこうなってしまったのは不思議だった。
盃を霊夢に渡すと、彼女はそれを受け取ってくれた。
「自分がした約束を、自ら破ることはないんだよ」
なあ、同胞よ。
私でさえ信じていられなかったけど、人間だって、約束というものを覚えているじゃないか。
これだけ時が経っても、信じることができる人間はいるんだよ。
「でも、私はそうじゃなかった。だから、だからさ――霊夢に対しては、私は、本当に鬼でありたいんだ」
私は座ったまま、霊夢に寄った。
体を押し付けると、霊夢はそのまま受け止めてくれた。
「ねえ、霊夢」
境内に吹く冷たく鋭い夜風と違って、彼女は温かくて、柔らかかった。
盃での約束を、彼女自身から申し出てきたのだ。
過去から続く全ての何かを一緒くたに清算された気がして、色々な言葉が溢れて止まらなくなって、渦巻く思考に耐えられなくなって、私は必死に彼女に伝えられるような言葉を探した。
「私、ここにいても、いいんだよね。霊夢は、約束、破らない、よね」
声を出そうとしても、しゃくってしまって、言葉となっているのかが自分でもわからなかった。
彼女は、それもわかっている、とでも言う風に、静かに頷いた。
「ええ」
これは約束だ。
ただの約束。交わす言葉も、結末も、全部が全部決まっている。
とても簡単で、それでいて、とても大切な約束。
終わり
次回作も待ってます。
しかし、個人的にはちょっと情景描写をがんばりすぎかと思いますwそこまでしなくても十分伝わっていますので、申し訳ないですが情景描写のところは途中までで読み飛ばさせてもらいました。
次も期待大
書きたいなーと思っていたネタのひとつでした
自分も頑張ろう
普段目にしない表現も冴えていて、本当によかったです
これは良い。
てか忠言モードの天子にやられました。こういう天子をもっと見たい。