『霖之助、妹紅を拾う』
自由奔放な魔法使いを見送って、そのついでに店仕舞いをしようと外に出たら、見知らぬ人間――いや、見知らぬ妖怪が地面に突っ伏しているのを発見した。
いや、倒れていたと表現したほうが正しいかもしれない。白い髪にしなやかな体躯。少女の容姿をしているその妖怪は、なぜか僕の店の前で倒れていた。
妖怪はもんぺを着用している。服装が奇抜な人間が多い幻想郷でも、その出で立ちは特殊と言わざるを得ない。
もしかしたら、もんぺの妖怪だろうか?
「おい。大丈夫か? 大丈夫だったら今すぐに去ってくれると助かるんだが」
店の前で行き倒れされるというのは世間体が悪い。息もあるようだし、ここはさっさと追い返そうと声を掛ける。
しかし、その妖怪は僕の声で目を覚ましてしまったようで、その眼を思い切り見開いた。
紅い瞳がやけに目を惹く。
「うーん……。ここはどこだ。そして、私は誰?」
妖怪はわけのわからぬことを呟いた後、ゆっくりと立ち上がり、両手で頭を抱えて、
「あれ!? 何だ、本当にわからないぞ!? ここはどこで、私は誰なんだ!?」
「そんなこと僕にわかるわけないじゃないか。それはこっちのセリフだよ」
けれど妖怪は僕の言葉に聞く耳を持たないようで、顔面を蒼白にし、夜の帳が下りかけている空に向かって言い放つ。
「えええええええ!? 駄目だ全然思い出せない! 私は誰なんだ、どうしてここにいるんだ!?」
もしかしてこれは記憶喪失、というやつではあるまいか。拾い物の医学書でそんな病状を見た気がする。
「おい、そこのお前! 私のことを知らないか!? なあ、何でここにいるんだろう!?」
妖怪は涙目だった。
ただでさえ紅い瞳を紅く紅く染めている。その様子は少女の容姿にやけに似合っていて、とうに枯れている僕でも魅力的に思える。
いや、そんな趣味はないけれど。一般論である。
「うぅ……。どうして私はここにいて、私は誰なんだろう……」
こっちが聞きたい。しかし徐々に弱っていく妖怪をこのまま外に放置しておくわけにはいかず、あくまで善意で僕は言う。
「どうやら君は記憶喪失のようだね。一時的なものかはわからないけれど、どうだい、少し落ち着けばわかるかもしれないよ」
妖怪は僕を値踏みするように凝視して、その弱り果てた情けない顔を縦に振った。
僕も意外と甘いなあ、なんて自嘲しつつ、妖怪と共に店に戻る。
やれやれ。またろくでもない事件が起こってしまった。
○○○
「ふうむ。わかった。つまり君は言語や常識以外、自分の過去すら思い出せないというわけだね?」
香霖堂の居住空間、その居間で妖怪に暖かいお茶を振舞いながら訊いた話を統合すると、こうなった。
要するに本当にこの妖怪は記憶喪失になってしまったらしい。
悲惨な話である。
「ひっく。うっ、なんで、私、こんなことになっているんだろ……ひん」
涙目どころか完全に泣いている妖怪。もしかしたらあまり歳を経た妖怪ではないのかもしれない。
数百歳以上の妖怪や神が跳梁跋扈する幻想郷ではこれも珍しいことだ。
「大丈夫さ。記憶喪失といっても、大体の場合は一時的なものらしいから、一晩休めば色々と思い出せるはずだよ」
妖怪は袖で涙を拭いて、泣きはらして朱色に染まった顔を僕に向ける。
「ひっ、ほ、ほんとうか? そうだったら、いいん、ひっ、だが……」
まるで話にならない。僕はため息をつきつつ、この前拾った綺麗なソファに毛布を置いて、
「今日はここで寝るといいよ。今は記憶が混乱しているだけさ。ここに蜂蜜を入れた紅茶も置いておいたから、飲むといい」
なんだか昔の魔理沙を思い出してしまって、僕らしくない持て成しをしてしまった。
やれやれ。まったく、なぜこうも香霖堂には可笑しな奴が頻出するのだろうか。日頃の行いは悪くないはずなんだが。
「……あ、ありがとう。その、名前、教えてくれないか?」
「森近霖之助というよ。この香霖堂の店主をやっている」
すると妖怪は村の子供みたいなあどけない表情でこくりと頷いて、
「森近、さん」
「なんだい?」
「いや……その、主観でいいから、私がどんな奴に見える?」
うーむ。これは難しい質問だ。
しかし、この妖怪にはトレードマークというべき装いがある。きっと、この装いに関係があるのではないかと僕は推察し、
「そうだね。推測だけれど、たぶん君はきっともんぺの妖怪なんじゃないかな」
普通に考えたらそうなるだろう? 誰だってそう思う。僕もそう思う。
というか、これはかなり良いセンいっているのではないだろうか。
妖怪――仮に呼称するなら『モンペ』は少しだけ首をかしげて、
「そ、そうか……。私はもんぺの妖怪だったのか……! お前、頭良いな!」
いきなり慇懃無礼になりやがった。記憶喪失以前は大層傍若無人だったことだろう。あの巫女ほどではないにしても。
「うん、多分そうだよ。もんぺの妖怪はマイナーながらも外の世界にしっかりと根付いている妖怪、怪異だからね。当たらずとも遠からずなんじゃないかな」
モンペは納得がいったように首を縦にぶんぶんと振る。その行動がやけに子供っぽくて、可愛かった。
うん、少しだけなら泊まらせてあげてもいいかもしれないな。
そう思い、僕は自室へと戻った。
――――翌日。
真っ先に居間へと向かうと、モンペが眉間にシワを寄せながらソファに腰を下ろしていた。
「どうした? まだ思い出せないのか?」
「全然思い出せない……。もう駄目だ。私は駄目なんだ。このままこの冴えない男の伴侶になって生きるしかないんだ……」
うぜえ。
なんだこいつ。昨日より慇懃無礼になってやがる。モンペの妖怪のくせに僕を冴えないと評するとは……。
「……はあ。いや、全然ってわけじゃないな。ちょっとだけ思い出したんだ。けれど、それはどうも私の確信を突く情報じゃない気がするんだ」
「どんな情報だい?」
しかし心が広い僕はそんなことでは腹を立てなかった。モンペの妖怪に怒るほど僕は暇ではないのである。
そこを努々忘れないでもらいたい。
「ああ、それがな、けい………けい……けいさつ。いや、違う。けい、けい」
けいけいけいけい、何を言っているのだろう、このクソモンペは。
「なんだったかなあ……けい、けい……けいり、けいりん?」
「競輪!?」
それなら知っている。外の世界での賭博だ! 昨日拾った新聞にも載っていたし、間違いはないだろう。
「そう……だったかな。そうだったかもしれない。そう、競輪。うん、競輪……をしていた」
「競輪をしていた!?」
モンペの妖怪が競輪選手!? すごすぎるだろう。もしかして僕は、とんでもなくすごい妖怪に出会っているのかもしれないぞ。
この幻想郷の妖怪が競輪をやっている、やれるということは、このモンペは外の世界に移動できる術を行使できるということだ。
侮るなかれ、モンペということか。
「他に何か思い出せないか?」
「あ、ああ、なんかテンション上がってきたぞ! そう、そうだ、かぐ、かぐ、かぐ……」
今度はモンペさまがかぐかぐかぐと口にしだす。心なし、その顔には笑みが浮かんでいた。
「かぐかぐよ。違う。ほう、ほう、ほうら。違う」
「家具、家具じゃないか。それって」
「ああ、そうか。家具かあ」
「ホウラ家具という家具屋が実家だったとか、行き着けだったとか、ありそうじゃないか?」
モンペはハッとしたように僕を見つめる。その紅い瞳にはまるで世界の真理を発見したかのような聡明な光が宿っていた。
「そうだ……そうだった。私の行き着けの家具屋がホウラ家具だった。店主がやけにムカツクやつで、店員にうさみみが生えていた……」
「うさみみ!? どんな家具屋だよ!? というかモンペの趣味悪くないか!?」
うさみみを店員に付けさせるムカツク店主のいる家具屋が行き着けとか、どんな妖怪だよ。
寡聞にして聞いた事がない。
しかし、外の世界はまさに混沌だという。なら、そんな家具屋があってもおかしくないのではないか?
おかしくはない(反語)
「ああ、森近さんと話しているとどんどん思い出せてきたぞ! あとはだな、そう、そうだ! 天皇と会ったことがある!」
ちょ。なんだ、この妖怪!
「本当か!? もんぺの妖怪なのに!? 天皇とは外の世界、日本と言う国の国家元首だった人間だ! すごいぞ」
なんだろう、この妖怪、本当に結構すごい奴なのかもしれない。こんなあどけない顔をしているのに、境界を越える力を持つどころか天皇とも会っているなんて。
ああ、あとムカツク店主とうさみみ。
「情報が頭に流れ込んできた……! このままいけば全て思い出せるかもしれない! あとはだな、そう、そうだ! フジヤマ!」
「フジヤマって富士山のことか?」
「そう、フジヤマ……に住んでいた!?」
「すごいぞ。もうかなり思い出せているじゃないか」
そしてモンペはガタッと勢いよく立ち上がり、まるで探偵小説の名探偵のように僕に指をさして、
「月に行こうとした! そう、そうだ! 月に行こうとしたんだ!」
「どういうことだ!?」
「た、たぶん私の夢が月に行くことだったんだと思う!」
志が高っ! モンペの妖怪は一体どこに向かおうというんだ。破天荒すぎるぞ、この妖怪!
「やったぁ! これであとは私の名前だけだ!」
せわしなく居間を練り歩くモンペ。あと少しで自分の全てが明らかになるのだから、無理からぬ話だ。
ここは僕も手に汗握ってモンペを応援するしかない。
「名前、名前……、も、も、も、もももも。すもも。違う。ふじ、ふじの。違う。もこ、もっこ。違う。もこたん。違う。うーんうーん」
――瞬間。この居間に奇跡が舞い降りる。
ああ、これが神様の思し召しと言うやつなんだね……。
居間に神々しい光が舞い降りたかのような錯覚すら覚えた。
「――そう。そうだ。私の名前はもっこす。藤生もっこす――だ」
モンペ――いや、藤生もっこすは涙を流していた。
それは、この世で一番大切で尊い水分。そこには希望や未来、慈愛すら含まれている。とある神様はこう言ったという。
『左の頬をぶたれたら、右の頬を差し出しなさい』と。
いや、全く関係ないけれど――そのくらい、僕は感動していたのである。
「おめでとう。もっこす。もっこすの力になれて僕は嬉しいよ」
僕がそう言うと、もっこすははにかんだ笑みを浮かべた。そう、まるでひまわりが咲いたように。
たぶん僕がもっと若かったら、それだけで惚れていたんじゃないかと思うくらい、素敵な笑顔だった。
「ありがとう。森近さんに出会えたから、ここまで思い出せたんだと思う。あの、本当に、ありがとう」
その礼儀正しさは、やけに板についていた気がする。
「さて。情報を纏めよう。君の名前は藤生もっこす。競輪の選手をしていて、店員がうさみみなムカツク店主の経営している家具屋が行きつけだった。そして天皇に会うことが出来るほど高貴な人間で、自宅は富士山にある。夢は月に行くこと」
これでいいね? と僕はもっこすに訊く。もっこすは頷き、嬉しそうに居間を飛び跳ね回った。
可愛い奴である。
「ああ、それとモンペの妖怪だね。うーん、すごいなあ。一貫性があるから、まず間違いないと思うけど、しかし、信じられないほどの傑物だよ、もっこすは」
「そう、かな? えへへ」
「可愛いなぁ、こいつ」
なんとなくテンションが上がってしまった僕はもっこすの額を指で突く。
「外の世界に行っても元気でやっていくんだぞ。なにせ僕の憧れの世界だ。また帰ってくるときがあったら土産話でも聞かせてくれたらいい」
「……うん、そうする。森近さんも元気で……」
そうして、僕ともっこすは別れたのだった。
去り行く小さな背中に声は掛けず、ただただ朝日の中を翔ける少女を羨むように見つめ続ける。
僕は心に生まれた寂しさと言う感情と入れ替えるかのように、朝の静謐な空気を沢山吸い込み、大きく背伸びをしたのだった。
さあ、今日も日常を続けよう。
○○○
「……………………………………………………死にたい」
僕の目の前には、虚ろな瞳をした少女がソファで死人のように寝そべっていた。
というか、もっこすだった。
両手で顔を覆い、すでに百十二回も「死にたい」と連呼している。藤生もっこすは風前の灯と形容するに値した。
「まさか僕の推察が全て外れていたとはね……。こんなことは滅多にないんだが」
僕はかぶりを振って、痛ましい藤生もっこすの額に乗せてあった冷えた布を取り替える。
過去を思い出せたという希望が、一瞬にして絶望に変わったのだ。こんな状態になるのも仕方がないだろう。
これには僕にも責任の一端がある。看病はせめて誠心誠意しようと思ったのだ。
「すまない、もっこす。いや、もっこすでもないのかな。本当にすまない。いくら謝ってもこの償いは出来ないかもしれない。とんだぬか喜びをさせてしまった」
僕がそう言うと、もっこすは静かにかぶりを振る。
「いいんだ。森近さんのせいじゃない。これは私の責任だ。このクサレ脳が働かないから悪いんだ……ック」
「どうしたんだ? 頭がまだ痛いのか?」
「いや、働かないというフレーズに覚えがあったんだが……まあ、これも偽りの記憶だろう。あはは。とんだお笑い種だ」
無理に微笑むもっこすに、僕は憐憫の情を覚える。
「まだたった一日じゃないか、ゆっくりとしていけばいい。良いのか悪いのか僕は結構暇でね、こうして話し相手にもなってあげられる。言葉を交わしていけば、いつかは思い出せるはずだよ」
「いつかって、いつまでだろう……」
「たとえ何年経っても、僕は君の世話をするつもりだよ。乗りかかった船だ、無碍にはしない」
僕が責任を感じてそう言ったら、もっこすがなぜだか顔を背けてしまった。やはりまだ気分が悪いのだろう。
今日は夜も遅いし、また明日記憶探りを行おう。
僕は自室に戻ろうとして、
ふいに、身体が止まった。いや、引っ張られたといったほうが正しいかもしれない。
「……なんだか怖いんだ。今日は、ずっとここにいてほしい」
それもそのはずで、もっこすが僕の服の裾を掴んでいたのだ。顔も赤いし、熱が出てしまったせいで不安なのだろうか。
「やれやれ。しょうがないな」
ふと昔を思い出して、僕は微笑ましい気分になる。
もっこすが眠りに落ちていく様を眺めつつ、僕は欠伸をひとつした。
――――そして一週間が経った。
もっこすは依然として記憶を失ったままだったが、徐々に元気を取り戻し、ウザ――じゃなくて快活な性格に変わりつつあった。
一週間のうちにわかったことは、もっこすは人付き合いが苦手なことというくらいのものだったけれど。
だからもっこすには裏方の仕事をしてもらったし、それで商品の整理もし易くなったのだが――
「あはっ。森近さん、今日も元気にやりましょう!」
両手でグーの形を作って爽やかな笑みを作るもっこす。
あまりにも記憶が引き出せないせいか、そのショックからなのか、キャラが酷いほどに変わっていた。
あまりにも哀れである。
「ふんふふーん。今日はどこのお掃除をしようかな♪ るんるん♪ あややっ、こんなところにホコリがっ」
うわあ……。
これはひどい。当初のもっこすの面影が完全にない。しかも強く言えないからその性格を正すこともできない。
要するに、記憶を失うということは自分を失うことに等しいのだと思う。
いや、こう表現すると、とてもじゃないけれど笑ってはいられないんだが。
「お掃除お掃除楽しいなっ。ああ、ここにもホコリを発見! ダメだぞ♪ そんなところに積もっちゃ。めっ」
背筋に悪寒が走る。
氷の板とナメクジの大群を背中に突っ込まれたみたいな気持ち悪さ。
もっこすよ、お前は何処に行こうとしているのか。
下人の行方は誰も知らない――じゃなくて。なんとかしなければ。
「あの、もっこすさん。今日は掃除をしなくていい。というか、休んだらどうかな」
性格が変わってから『さん』付けになってしまった。
今すぐに休んで欲しい。このままでは僕の背筋が凍傷になってしまう。
「大丈夫ですよー。私は大丈夫です。元気百倍ですよぅ」
「そ、そうか」
あまりに深く追求すると、もっと悪化するような予感がしたので僕はもっこすをそのままにした。
昼が来て、夕方になる。やけに料理が上手いもっこすの夕食を口にしつつ、今日も一日が終ろうとしていた。
もっこすはソファに深く腰を掛けて、店にあった古書を読んでいる。僕はその対面で、もっこすと同じく読書をする。
テーブルに置かれた紅茶からは甘い香りが匂い立ち、時計の秒針が規則正しい音を出す。外からは鈴虫の音が聞こえてくる。
こうして、今日も一日が終ろうとしていた――
――いや。これは、よくないだろう、
「…………もっこす。お前はこれでいいのか?」
唐突に口にしたその言葉に、もっこすは笑顔で答えた。
「楽しいのか?」
「楽しいよー」
いいわけが、ない。いいはずがなかった。
現にもっこすの笑顔は、当初のようなモノではなかった。まるで人形のような、歪さがある。
「……もっこす。お前は自分を見失っているんだ。記憶が無くなったからといって、プライドまで棄ててはいけないよ」
僕が偉そうに言うと、もっこすのハリボテのようだった笑顔が消えた。
「……しょうがないだろ。もう何もかもわからないんだから……。これは記憶喪失以前の私じゃないのかもしれない。だけど、これはこれで私なんだ。『私』なんて概念はそういうモノだろう」
もっこすのことは一理あるかもしれない。けれど、もっこすの場合はただの強がりなんだと僕は推察する。
記憶についての僕の推察は見事に外れてしまったけれど、この推察は必ず当たっていると断言しよう。
昔の自分を忘れるなんて、そんなことはできないはずだ。
「違う。もっこすとは一週間ちょっとの付き合いだが、お前はそんな虚栄心を出すような奴ではなかった。僕に考えがあるから、今から外に出るぞ」
「考えって、もう万策尽きたんじゃないのか? もういいんだ。わたしは一生アルバイターパルタイなんだ。フリーターなんだ。プロレタリアなんだ……。うぅ……」
最近得た知識を総動員し、自分を追い詰め泣きそうになっているもっこすの手をとって、香霖堂を後にする。
昔の知人に会うために。
もっこすの記憶を取り戻すために。
○○○
道中、もっこすはずっと無言だった。
無理もないが、さすがに居心地が悪くなる。しかも手を繋いでいるし。まるでとあるメイドさんに借りた青春小説の一場面のような絵面。
「もっこす」
「………………………………」
「もっこす」
「………………………………」
「もっこす」
「――もっこすもっこすうるさいばか! そのもっこすとやらだって本当の名前じゃないんだぞ!?」
「お前はもっこすだよ。僕と出会ってからの君は、藤生もっこすだったんだ」
もんぺの妖怪。男らしい口調。意外と泣き虫な性格。
僕が知っているもっこすは、その三つと、藤生もっこすという間違った名前だけ。
だから、このもんぺの妖怪は、僕にとって藤生もっこすに他ならなかった。
「……意味がわからない。もっこすなんて、なんだよそれ。ダサイ」
「格好いいじゃないか。それに先進的な気がするよ。言いやすい」
「……そうかな」
「そうだ」
いや、ちょっと褒めすぎかなと思うけれど。
正直、ダサイとも思うけれど。
それでも、この名前だけは、僕にとっての本当だったのかもしれない。
幻想郷の夜は明るい。
それは外の世界のように外灯があるわけではなく、眩いばかりの星々と、煌々と大地を照らす月があるからだ。
そんな星の海の下、僕ともっこすは歩き続ける。こんな夜に出歩くなんて、僕も随分とお人よしだ。
「なあ、なんで私はこんなところを歩いているんだろう。私は何なんだろう」
もっこすは夜空を仰ぎながら、そう呟いた。
「さあ。僕にわかるはずがないさ。全部推論は外れてしまったし、どうせ役に立たない」
「何? 拗ねているのか。あはは、可愛い奴だな」
「年上に向かって、そんなことを言うなよ」
するともっこすは首を少しかしげて、
「いや、たぶん私はお前より年上だと思うぞ。なんだか、ちょっとだけ思い出した」
「本当か」
「本当だ」
それはまあ、なんとなく感づいていたことだ。いや、これは嘘じゃなく。
「たぶん千三百歳くらい。あと、私はもっこすじゃなくて妹紅だ。藤原妹紅」
「なんだ、もう名前まで思い出しているじゃないか。もう、お役御免かな」
「ううん。お前の行きたいところまでは着いていく。……まだ、全部思い出したわけじゃないしな」
そこまで思い出したのなら必要ないような気がするが、まあいい。
僕はそのまま妹紅の手を握ったまま歩き続ける。
「ああ、あと迷いの竹林に住んでいる。日々迷った人間を永遠亭まで連れて行っている」
「おいおい。それって、もう全部思い出したんじゃないか」
僕は足を止めて手を離そうとするが、妹紅が手を離す事はなかった。
「いいよ。もう少し、歩いていたいし」
なんだそれ。もう、僕が傍にいる意味はないだろうに。
仕方なく、僕は目的地だった場所へと向かう。もう意味のない行為だったけれど、歩き続ける。
妹紅は誰にでもなく、ぽつりぽつりと語りだした。
「昔はさ、こうして父と歩いた気がする。外は危ないから、庭で。それなりに敷地は大きかったが、それでも散歩をするには小さかったと思う。だけど、そんな箱庭みたいな場所でも、確かに私は幸せだった」
相槌は打たず、顔も見ず。
「まあ、それだけのことだよ。何でもない大切な記憶の一部。――記憶を失ったからか、昔のことが沢山思い出せるんだ」
「……そっか。それはよかった」
妹紅は微笑して、僕のほうへ顔を向けた。その紅い瞳は夜空の星々に負けないほどの光を持っている。
たぶん、これが妹紅の本当の笑顔なのだと、そう僕は思った。
「うん。よかった。もう、思い出せなかった記憶だったから」
目的地に着く。
そこは人里で、とある寺小屋の前だった。
「あれ。お前も慧音と知り合いだったのか」
「妹紅も知っていたのか」
「知っていたというか、親友だからな。お前は?」
「旧知の間柄でね。聡明な人だから何か記憶の手がかりが得られると思って来たんだが、どうやら必要ないみたいだ」
――なんてコトだ。
世界は狭しと言うけれど、知り合いの知り合いレベルの関係だったらしい。僕と妹紅は。
「うーん。じゃあ、今日は慧音のところで泊まる事にするよ」
妹紅は手を離し、僕に言う。僕も胸を撫で下ろした後、手を振った。そして踵を返そうとした時、
「――なあ。これも、私の大切な記憶のひとつになるかな」
……いや、僕に聞かれても。
「僕にとっては忘れられない記憶になったけどね」
苦笑しつつ僕は妹紅にそう心情を吐露する。
しかし、妹紅は僕とは違う綺麗な笑みを浮かべて、
「そうだな。確かに、これは忘れられない記憶だ」
そうして僕たちは星空の下でひとしきり笑い合い、あらためて手を振った後、反対方向に歩き出す。
さて。明日も何でもない大切な記憶を作るために、家に帰るとしよう。
○○○
後日談。エピローグとも言う。
いつものように朝早く起床し、居間で文々。新聞を手に取ると、そこには
号外『永遠亭の天才が薬剤を間違えた! 被害者三名。そのうち二人は軽症だったが、残る一人は記憶喪失の憂き目に』
記者「記憶喪失になった感想をどうぞ!」
被害者、仮名もっこすさん「いつか永遠亭は潰す!」
記者「これはひどい! まさに幻想郷の業務上過失致死!」
被害者、仮名もっこすさん「いや、死なないし、私」
なんてコトが載っていた。
まあ、たぶんこれは、よくあることなのだろう。
笑いのつぼを刺激されつつ、今日も香霖堂の玄関を開く。
日常は続くからこそ日常なのであり、まさしく今日はその日常だった。
若干寝不足の頭を軽く振り、子供なのか大人なのか最後までよくわからなかったもんぺの妖怪を思い出しながら、店主としての業務をし始める。
そして昼過ぎ。
白い髪。紅い瞳。
なんとなく気恥ずかしそうに、一人のもんぺ妖怪が店に入ってきた。
「……暇そうだからな。話し相手になりにきてやった」
よっぽど暇なのだろうか、こいつは。
「そうかい。なら、まだ終っていない骨董品の片づけをしながら、適当に話そうか――もっこす」
呼びなれた名前を僕は言う。
すると、何時ぞやの熱を出した時みたいに顔を赤くして、
「もう、その記憶は忘れてくれ……」
僕の新しい友人は恥ずかしそうに、そう言ったのだった。
―了―
自由奔放な魔法使いを見送って、そのついでに店仕舞いをしようと外に出たら、見知らぬ人間――いや、見知らぬ妖怪が地面に突っ伏しているのを発見した。
いや、倒れていたと表現したほうが正しいかもしれない。白い髪にしなやかな体躯。少女の容姿をしているその妖怪は、なぜか僕の店の前で倒れていた。
妖怪はもんぺを着用している。服装が奇抜な人間が多い幻想郷でも、その出で立ちは特殊と言わざるを得ない。
もしかしたら、もんぺの妖怪だろうか?
「おい。大丈夫か? 大丈夫だったら今すぐに去ってくれると助かるんだが」
店の前で行き倒れされるというのは世間体が悪い。息もあるようだし、ここはさっさと追い返そうと声を掛ける。
しかし、その妖怪は僕の声で目を覚ましてしまったようで、その眼を思い切り見開いた。
紅い瞳がやけに目を惹く。
「うーん……。ここはどこだ。そして、私は誰?」
妖怪はわけのわからぬことを呟いた後、ゆっくりと立ち上がり、両手で頭を抱えて、
「あれ!? 何だ、本当にわからないぞ!? ここはどこで、私は誰なんだ!?」
「そんなこと僕にわかるわけないじゃないか。それはこっちのセリフだよ」
けれど妖怪は僕の言葉に聞く耳を持たないようで、顔面を蒼白にし、夜の帳が下りかけている空に向かって言い放つ。
「えええええええ!? 駄目だ全然思い出せない! 私は誰なんだ、どうしてここにいるんだ!?」
もしかしてこれは記憶喪失、というやつではあるまいか。拾い物の医学書でそんな病状を見た気がする。
「おい、そこのお前! 私のことを知らないか!? なあ、何でここにいるんだろう!?」
妖怪は涙目だった。
ただでさえ紅い瞳を紅く紅く染めている。その様子は少女の容姿にやけに似合っていて、とうに枯れている僕でも魅力的に思える。
いや、そんな趣味はないけれど。一般論である。
「うぅ……。どうして私はここにいて、私は誰なんだろう……」
こっちが聞きたい。しかし徐々に弱っていく妖怪をこのまま外に放置しておくわけにはいかず、あくまで善意で僕は言う。
「どうやら君は記憶喪失のようだね。一時的なものかはわからないけれど、どうだい、少し落ち着けばわかるかもしれないよ」
妖怪は僕を値踏みするように凝視して、その弱り果てた情けない顔を縦に振った。
僕も意外と甘いなあ、なんて自嘲しつつ、妖怪と共に店に戻る。
やれやれ。またろくでもない事件が起こってしまった。
○○○
「ふうむ。わかった。つまり君は言語や常識以外、自分の過去すら思い出せないというわけだね?」
香霖堂の居住空間、その居間で妖怪に暖かいお茶を振舞いながら訊いた話を統合すると、こうなった。
要するに本当にこの妖怪は記憶喪失になってしまったらしい。
悲惨な話である。
「ひっく。うっ、なんで、私、こんなことになっているんだろ……ひん」
涙目どころか完全に泣いている妖怪。もしかしたらあまり歳を経た妖怪ではないのかもしれない。
数百歳以上の妖怪や神が跳梁跋扈する幻想郷ではこれも珍しいことだ。
「大丈夫さ。記憶喪失といっても、大体の場合は一時的なものらしいから、一晩休めば色々と思い出せるはずだよ」
妖怪は袖で涙を拭いて、泣きはらして朱色に染まった顔を僕に向ける。
「ひっ、ほ、ほんとうか? そうだったら、いいん、ひっ、だが……」
まるで話にならない。僕はため息をつきつつ、この前拾った綺麗なソファに毛布を置いて、
「今日はここで寝るといいよ。今は記憶が混乱しているだけさ。ここに蜂蜜を入れた紅茶も置いておいたから、飲むといい」
なんだか昔の魔理沙を思い出してしまって、僕らしくない持て成しをしてしまった。
やれやれ。まったく、なぜこうも香霖堂には可笑しな奴が頻出するのだろうか。日頃の行いは悪くないはずなんだが。
「……あ、ありがとう。その、名前、教えてくれないか?」
「森近霖之助というよ。この香霖堂の店主をやっている」
すると妖怪は村の子供みたいなあどけない表情でこくりと頷いて、
「森近、さん」
「なんだい?」
「いや……その、主観でいいから、私がどんな奴に見える?」
うーむ。これは難しい質問だ。
しかし、この妖怪にはトレードマークというべき装いがある。きっと、この装いに関係があるのではないかと僕は推察し、
「そうだね。推測だけれど、たぶん君はきっともんぺの妖怪なんじゃないかな」
普通に考えたらそうなるだろう? 誰だってそう思う。僕もそう思う。
というか、これはかなり良いセンいっているのではないだろうか。
妖怪――仮に呼称するなら『モンペ』は少しだけ首をかしげて、
「そ、そうか……。私はもんぺの妖怪だったのか……! お前、頭良いな!」
いきなり慇懃無礼になりやがった。記憶喪失以前は大層傍若無人だったことだろう。あの巫女ほどではないにしても。
「うん、多分そうだよ。もんぺの妖怪はマイナーながらも外の世界にしっかりと根付いている妖怪、怪異だからね。当たらずとも遠からずなんじゃないかな」
モンペは納得がいったように首を縦にぶんぶんと振る。その行動がやけに子供っぽくて、可愛かった。
うん、少しだけなら泊まらせてあげてもいいかもしれないな。
そう思い、僕は自室へと戻った。
――――翌日。
真っ先に居間へと向かうと、モンペが眉間にシワを寄せながらソファに腰を下ろしていた。
「どうした? まだ思い出せないのか?」
「全然思い出せない……。もう駄目だ。私は駄目なんだ。このままこの冴えない男の伴侶になって生きるしかないんだ……」
うぜえ。
なんだこいつ。昨日より慇懃無礼になってやがる。モンペの妖怪のくせに僕を冴えないと評するとは……。
「……はあ。いや、全然ってわけじゃないな。ちょっとだけ思い出したんだ。けれど、それはどうも私の確信を突く情報じゃない気がするんだ」
「どんな情報だい?」
しかし心が広い僕はそんなことでは腹を立てなかった。モンペの妖怪に怒るほど僕は暇ではないのである。
そこを努々忘れないでもらいたい。
「ああ、それがな、けい………けい……けいさつ。いや、違う。けい、けい」
けいけいけいけい、何を言っているのだろう、このクソモンペは。
「なんだったかなあ……けい、けい……けいり、けいりん?」
「競輪!?」
それなら知っている。外の世界での賭博だ! 昨日拾った新聞にも載っていたし、間違いはないだろう。
「そう……だったかな。そうだったかもしれない。そう、競輪。うん、競輪……をしていた」
「競輪をしていた!?」
モンペの妖怪が競輪選手!? すごすぎるだろう。もしかして僕は、とんでもなくすごい妖怪に出会っているのかもしれないぞ。
この幻想郷の妖怪が競輪をやっている、やれるということは、このモンペは外の世界に移動できる術を行使できるということだ。
侮るなかれ、モンペということか。
「他に何か思い出せないか?」
「あ、ああ、なんかテンション上がってきたぞ! そう、そうだ、かぐ、かぐ、かぐ……」
今度はモンペさまがかぐかぐかぐと口にしだす。心なし、その顔には笑みが浮かんでいた。
「かぐかぐよ。違う。ほう、ほう、ほうら。違う」
「家具、家具じゃないか。それって」
「ああ、そうか。家具かあ」
「ホウラ家具という家具屋が実家だったとか、行き着けだったとか、ありそうじゃないか?」
モンペはハッとしたように僕を見つめる。その紅い瞳にはまるで世界の真理を発見したかのような聡明な光が宿っていた。
「そうだ……そうだった。私の行き着けの家具屋がホウラ家具だった。店主がやけにムカツクやつで、店員にうさみみが生えていた……」
「うさみみ!? どんな家具屋だよ!? というかモンペの趣味悪くないか!?」
うさみみを店員に付けさせるムカツク店主のいる家具屋が行き着けとか、どんな妖怪だよ。
寡聞にして聞いた事がない。
しかし、外の世界はまさに混沌だという。なら、そんな家具屋があってもおかしくないのではないか?
おかしくはない(反語)
「ああ、森近さんと話しているとどんどん思い出せてきたぞ! あとはだな、そう、そうだ! 天皇と会ったことがある!」
ちょ。なんだ、この妖怪!
「本当か!? もんぺの妖怪なのに!? 天皇とは外の世界、日本と言う国の国家元首だった人間だ! すごいぞ」
なんだろう、この妖怪、本当に結構すごい奴なのかもしれない。こんなあどけない顔をしているのに、境界を越える力を持つどころか天皇とも会っているなんて。
ああ、あとムカツク店主とうさみみ。
「情報が頭に流れ込んできた……! このままいけば全て思い出せるかもしれない! あとはだな、そう、そうだ! フジヤマ!」
「フジヤマって富士山のことか?」
「そう、フジヤマ……に住んでいた!?」
「すごいぞ。もうかなり思い出せているじゃないか」
そしてモンペはガタッと勢いよく立ち上がり、まるで探偵小説の名探偵のように僕に指をさして、
「月に行こうとした! そう、そうだ! 月に行こうとしたんだ!」
「どういうことだ!?」
「た、たぶん私の夢が月に行くことだったんだと思う!」
志が高っ! モンペの妖怪は一体どこに向かおうというんだ。破天荒すぎるぞ、この妖怪!
「やったぁ! これであとは私の名前だけだ!」
せわしなく居間を練り歩くモンペ。あと少しで自分の全てが明らかになるのだから、無理からぬ話だ。
ここは僕も手に汗握ってモンペを応援するしかない。
「名前、名前……、も、も、も、もももも。すもも。違う。ふじ、ふじの。違う。もこ、もっこ。違う。もこたん。違う。うーんうーん」
――瞬間。この居間に奇跡が舞い降りる。
ああ、これが神様の思し召しと言うやつなんだね……。
居間に神々しい光が舞い降りたかのような錯覚すら覚えた。
「――そう。そうだ。私の名前はもっこす。藤生もっこす――だ」
モンペ――いや、藤生もっこすは涙を流していた。
それは、この世で一番大切で尊い水分。そこには希望や未来、慈愛すら含まれている。とある神様はこう言ったという。
『左の頬をぶたれたら、右の頬を差し出しなさい』と。
いや、全く関係ないけれど――そのくらい、僕は感動していたのである。
「おめでとう。もっこす。もっこすの力になれて僕は嬉しいよ」
僕がそう言うと、もっこすははにかんだ笑みを浮かべた。そう、まるでひまわりが咲いたように。
たぶん僕がもっと若かったら、それだけで惚れていたんじゃないかと思うくらい、素敵な笑顔だった。
「ありがとう。森近さんに出会えたから、ここまで思い出せたんだと思う。あの、本当に、ありがとう」
その礼儀正しさは、やけに板についていた気がする。
「さて。情報を纏めよう。君の名前は藤生もっこす。競輪の選手をしていて、店員がうさみみなムカツク店主の経営している家具屋が行きつけだった。そして天皇に会うことが出来るほど高貴な人間で、自宅は富士山にある。夢は月に行くこと」
これでいいね? と僕はもっこすに訊く。もっこすは頷き、嬉しそうに居間を飛び跳ね回った。
可愛い奴である。
「ああ、それとモンペの妖怪だね。うーん、すごいなあ。一貫性があるから、まず間違いないと思うけど、しかし、信じられないほどの傑物だよ、もっこすは」
「そう、かな? えへへ」
「可愛いなぁ、こいつ」
なんとなくテンションが上がってしまった僕はもっこすの額を指で突く。
「外の世界に行っても元気でやっていくんだぞ。なにせ僕の憧れの世界だ。また帰ってくるときがあったら土産話でも聞かせてくれたらいい」
「……うん、そうする。森近さんも元気で……」
そうして、僕ともっこすは別れたのだった。
去り行く小さな背中に声は掛けず、ただただ朝日の中を翔ける少女を羨むように見つめ続ける。
僕は心に生まれた寂しさと言う感情と入れ替えるかのように、朝の静謐な空気を沢山吸い込み、大きく背伸びをしたのだった。
さあ、今日も日常を続けよう。
○○○
「……………………………………………………死にたい」
僕の目の前には、虚ろな瞳をした少女がソファで死人のように寝そべっていた。
というか、もっこすだった。
両手で顔を覆い、すでに百十二回も「死にたい」と連呼している。藤生もっこすは風前の灯と形容するに値した。
「まさか僕の推察が全て外れていたとはね……。こんなことは滅多にないんだが」
僕はかぶりを振って、痛ましい藤生もっこすの額に乗せてあった冷えた布を取り替える。
過去を思い出せたという希望が、一瞬にして絶望に変わったのだ。こんな状態になるのも仕方がないだろう。
これには僕にも責任の一端がある。看病はせめて誠心誠意しようと思ったのだ。
「すまない、もっこす。いや、もっこすでもないのかな。本当にすまない。いくら謝ってもこの償いは出来ないかもしれない。とんだぬか喜びをさせてしまった」
僕がそう言うと、もっこすは静かにかぶりを振る。
「いいんだ。森近さんのせいじゃない。これは私の責任だ。このクサレ脳が働かないから悪いんだ……ック」
「どうしたんだ? 頭がまだ痛いのか?」
「いや、働かないというフレーズに覚えがあったんだが……まあ、これも偽りの記憶だろう。あはは。とんだお笑い種だ」
無理に微笑むもっこすに、僕は憐憫の情を覚える。
「まだたった一日じゃないか、ゆっくりとしていけばいい。良いのか悪いのか僕は結構暇でね、こうして話し相手にもなってあげられる。言葉を交わしていけば、いつかは思い出せるはずだよ」
「いつかって、いつまでだろう……」
「たとえ何年経っても、僕は君の世話をするつもりだよ。乗りかかった船だ、無碍にはしない」
僕が責任を感じてそう言ったら、もっこすがなぜだか顔を背けてしまった。やはりまだ気分が悪いのだろう。
今日は夜も遅いし、また明日記憶探りを行おう。
僕は自室に戻ろうとして、
ふいに、身体が止まった。いや、引っ張られたといったほうが正しいかもしれない。
「……なんだか怖いんだ。今日は、ずっとここにいてほしい」
それもそのはずで、もっこすが僕の服の裾を掴んでいたのだ。顔も赤いし、熱が出てしまったせいで不安なのだろうか。
「やれやれ。しょうがないな」
ふと昔を思い出して、僕は微笑ましい気分になる。
もっこすが眠りに落ちていく様を眺めつつ、僕は欠伸をひとつした。
――――そして一週間が経った。
もっこすは依然として記憶を失ったままだったが、徐々に元気を取り戻し、ウザ――じゃなくて快活な性格に変わりつつあった。
一週間のうちにわかったことは、もっこすは人付き合いが苦手なことというくらいのものだったけれど。
だからもっこすには裏方の仕事をしてもらったし、それで商品の整理もし易くなったのだが――
「あはっ。森近さん、今日も元気にやりましょう!」
両手でグーの形を作って爽やかな笑みを作るもっこす。
あまりにも記憶が引き出せないせいか、そのショックからなのか、キャラが酷いほどに変わっていた。
あまりにも哀れである。
「ふんふふーん。今日はどこのお掃除をしようかな♪ るんるん♪ あややっ、こんなところにホコリがっ」
うわあ……。
これはひどい。当初のもっこすの面影が完全にない。しかも強く言えないからその性格を正すこともできない。
要するに、記憶を失うということは自分を失うことに等しいのだと思う。
いや、こう表現すると、とてもじゃないけれど笑ってはいられないんだが。
「お掃除お掃除楽しいなっ。ああ、ここにもホコリを発見! ダメだぞ♪ そんなところに積もっちゃ。めっ」
背筋に悪寒が走る。
氷の板とナメクジの大群を背中に突っ込まれたみたいな気持ち悪さ。
もっこすよ、お前は何処に行こうとしているのか。
下人の行方は誰も知らない――じゃなくて。なんとかしなければ。
「あの、もっこすさん。今日は掃除をしなくていい。というか、休んだらどうかな」
性格が変わってから『さん』付けになってしまった。
今すぐに休んで欲しい。このままでは僕の背筋が凍傷になってしまう。
「大丈夫ですよー。私は大丈夫です。元気百倍ですよぅ」
「そ、そうか」
あまりに深く追求すると、もっと悪化するような予感がしたので僕はもっこすをそのままにした。
昼が来て、夕方になる。やけに料理が上手いもっこすの夕食を口にしつつ、今日も一日が終ろうとしていた。
もっこすはソファに深く腰を掛けて、店にあった古書を読んでいる。僕はその対面で、もっこすと同じく読書をする。
テーブルに置かれた紅茶からは甘い香りが匂い立ち、時計の秒針が規則正しい音を出す。外からは鈴虫の音が聞こえてくる。
こうして、今日も一日が終ろうとしていた――
――いや。これは、よくないだろう、
「…………もっこす。お前はこれでいいのか?」
唐突に口にしたその言葉に、もっこすは笑顔で答えた。
「楽しいのか?」
「楽しいよー」
いいわけが、ない。いいはずがなかった。
現にもっこすの笑顔は、当初のようなモノではなかった。まるで人形のような、歪さがある。
「……もっこす。お前は自分を見失っているんだ。記憶が無くなったからといって、プライドまで棄ててはいけないよ」
僕が偉そうに言うと、もっこすのハリボテのようだった笑顔が消えた。
「……しょうがないだろ。もう何もかもわからないんだから……。これは記憶喪失以前の私じゃないのかもしれない。だけど、これはこれで私なんだ。『私』なんて概念はそういうモノだろう」
もっこすのことは一理あるかもしれない。けれど、もっこすの場合はただの強がりなんだと僕は推察する。
記憶についての僕の推察は見事に外れてしまったけれど、この推察は必ず当たっていると断言しよう。
昔の自分を忘れるなんて、そんなことはできないはずだ。
「違う。もっこすとは一週間ちょっとの付き合いだが、お前はそんな虚栄心を出すような奴ではなかった。僕に考えがあるから、今から外に出るぞ」
「考えって、もう万策尽きたんじゃないのか? もういいんだ。わたしは一生アルバイターパルタイなんだ。フリーターなんだ。プロレタリアなんだ……。うぅ……」
最近得た知識を総動員し、自分を追い詰め泣きそうになっているもっこすの手をとって、香霖堂を後にする。
昔の知人に会うために。
もっこすの記憶を取り戻すために。
○○○
道中、もっこすはずっと無言だった。
無理もないが、さすがに居心地が悪くなる。しかも手を繋いでいるし。まるでとあるメイドさんに借りた青春小説の一場面のような絵面。
「もっこす」
「………………………………」
「もっこす」
「………………………………」
「もっこす」
「――もっこすもっこすうるさいばか! そのもっこすとやらだって本当の名前じゃないんだぞ!?」
「お前はもっこすだよ。僕と出会ってからの君は、藤生もっこすだったんだ」
もんぺの妖怪。男らしい口調。意外と泣き虫な性格。
僕が知っているもっこすは、その三つと、藤生もっこすという間違った名前だけ。
だから、このもんぺの妖怪は、僕にとって藤生もっこすに他ならなかった。
「……意味がわからない。もっこすなんて、なんだよそれ。ダサイ」
「格好いいじゃないか。それに先進的な気がするよ。言いやすい」
「……そうかな」
「そうだ」
いや、ちょっと褒めすぎかなと思うけれど。
正直、ダサイとも思うけれど。
それでも、この名前だけは、僕にとっての本当だったのかもしれない。
幻想郷の夜は明るい。
それは外の世界のように外灯があるわけではなく、眩いばかりの星々と、煌々と大地を照らす月があるからだ。
そんな星の海の下、僕ともっこすは歩き続ける。こんな夜に出歩くなんて、僕も随分とお人よしだ。
「なあ、なんで私はこんなところを歩いているんだろう。私は何なんだろう」
もっこすは夜空を仰ぎながら、そう呟いた。
「さあ。僕にわかるはずがないさ。全部推論は外れてしまったし、どうせ役に立たない」
「何? 拗ねているのか。あはは、可愛い奴だな」
「年上に向かって、そんなことを言うなよ」
するともっこすは首を少しかしげて、
「いや、たぶん私はお前より年上だと思うぞ。なんだか、ちょっとだけ思い出した」
「本当か」
「本当だ」
それはまあ、なんとなく感づいていたことだ。いや、これは嘘じゃなく。
「たぶん千三百歳くらい。あと、私はもっこすじゃなくて妹紅だ。藤原妹紅」
「なんだ、もう名前まで思い出しているじゃないか。もう、お役御免かな」
「ううん。お前の行きたいところまでは着いていく。……まだ、全部思い出したわけじゃないしな」
そこまで思い出したのなら必要ないような気がするが、まあいい。
僕はそのまま妹紅の手を握ったまま歩き続ける。
「ああ、あと迷いの竹林に住んでいる。日々迷った人間を永遠亭まで連れて行っている」
「おいおい。それって、もう全部思い出したんじゃないか」
僕は足を止めて手を離そうとするが、妹紅が手を離す事はなかった。
「いいよ。もう少し、歩いていたいし」
なんだそれ。もう、僕が傍にいる意味はないだろうに。
仕方なく、僕は目的地だった場所へと向かう。もう意味のない行為だったけれど、歩き続ける。
妹紅は誰にでもなく、ぽつりぽつりと語りだした。
「昔はさ、こうして父と歩いた気がする。外は危ないから、庭で。それなりに敷地は大きかったが、それでも散歩をするには小さかったと思う。だけど、そんな箱庭みたいな場所でも、確かに私は幸せだった」
相槌は打たず、顔も見ず。
「まあ、それだけのことだよ。何でもない大切な記憶の一部。――記憶を失ったからか、昔のことが沢山思い出せるんだ」
「……そっか。それはよかった」
妹紅は微笑して、僕のほうへ顔を向けた。その紅い瞳は夜空の星々に負けないほどの光を持っている。
たぶん、これが妹紅の本当の笑顔なのだと、そう僕は思った。
「うん。よかった。もう、思い出せなかった記憶だったから」
目的地に着く。
そこは人里で、とある寺小屋の前だった。
「あれ。お前も慧音と知り合いだったのか」
「妹紅も知っていたのか」
「知っていたというか、親友だからな。お前は?」
「旧知の間柄でね。聡明な人だから何か記憶の手がかりが得られると思って来たんだが、どうやら必要ないみたいだ」
――なんてコトだ。
世界は狭しと言うけれど、知り合いの知り合いレベルの関係だったらしい。僕と妹紅は。
「うーん。じゃあ、今日は慧音のところで泊まる事にするよ」
妹紅は手を離し、僕に言う。僕も胸を撫で下ろした後、手を振った。そして踵を返そうとした時、
「――なあ。これも、私の大切な記憶のひとつになるかな」
……いや、僕に聞かれても。
「僕にとっては忘れられない記憶になったけどね」
苦笑しつつ僕は妹紅にそう心情を吐露する。
しかし、妹紅は僕とは違う綺麗な笑みを浮かべて、
「そうだな。確かに、これは忘れられない記憶だ」
そうして僕たちは星空の下でひとしきり笑い合い、あらためて手を振った後、反対方向に歩き出す。
さて。明日も何でもない大切な記憶を作るために、家に帰るとしよう。
○○○
後日談。エピローグとも言う。
いつものように朝早く起床し、居間で文々。新聞を手に取ると、そこには
号外『永遠亭の天才が薬剤を間違えた! 被害者三名。そのうち二人は軽症だったが、残る一人は記憶喪失の憂き目に』
記者「記憶喪失になった感想をどうぞ!」
被害者、仮名もっこすさん「いつか永遠亭は潰す!」
記者「これはひどい! まさに幻想郷の業務上過失致死!」
被害者、仮名もっこすさん「いや、死なないし、私」
なんてコトが載っていた。
まあ、たぶんこれは、よくあることなのだろう。
笑いのつぼを刺激されつつ、今日も香霖堂の玄関を開く。
日常は続くからこそ日常なのであり、まさしく今日はその日常だった。
若干寝不足の頭を軽く振り、子供なのか大人なのか最後までよくわからなかったもんぺの妖怪を思い出しながら、店主としての業務をし始める。
そして昼過ぎ。
白い髪。紅い瞳。
なんとなく気恥ずかしそうに、一人のもんぺ妖怪が店に入ってきた。
「……暇そうだからな。話し相手になりにきてやった」
よっぽど暇なのだろうか、こいつは。
「そうかい。なら、まだ終っていない骨董品の片づけをしながら、適当に話そうか――もっこす」
呼びなれた名前を僕は言う。
すると、何時ぞやの熱を出した時みたいに顔を赤くして、
「もう、その記憶は忘れてくれ……」
僕の新しい友人は恥ずかしそうに、そう言ったのだった。
―了―
( ゚∀゚)彡 もっこす!
⊂彡 もっこす!
そのせいで10年以上無実の罪で投獄された人がいるらしいですし。
ノリともこたんと店主のテンションは面白かったとです。
もっこすという単語が出てくる度笑ってしまう
良いもの読ませていただきました
疑問持てよww
欲を言うなら、もっこすが一回出て行って死にたくなりながら戻ってくるまでの、その辺りの描写が欲しかったですね。
こういう話大好物ですwwww
ありがとうございましたwwww
もっこす可愛いよもっこすww
もしくはフラグ回収編でも良いです。
でも一点指摘するなら慇懃無礼の意味を誤解なさってるのでは・・?
そんなことが途中からどうでもよくなるくらいテンションとギャグで押し切られた。
蘇生もっこすって生き物につける名前じゃねえwwっていうか、もっこす(仮称)の仮経歴が酷過ぎるwww