カラカラと笑う音がした。
鳥の声すら聞こえないほど濃い瘴気に包まれた森の中で、女性は大木を背負っていた。腰を地面につき傷だらけの足を放り出し、ぼろぼろの上半身を無防備に晒す。疲労感で鉛のように重くなった体は指の一本すら動かすのを拒絶し、女性の意思に反して荒い息を上げるばかり。生き残るために新鮮な空気を肺に送り込もうといているのに、生命を脅かす瘴気ばかりを受け入れる。弱々しい瞬きは死へのカウントダウンにすら感じ、意識は混沌の中で足掻くことしかできない。
五感が機能しているかも自信がない状況であるのに、
カラカラ、カラカラ、と。
小気味好い音が、聞こえてくる。
段々と、段々と、その場違いな音は大きくなり。
それが車輪の音だと気が付いたときには、女性の間近に一つ気配が生まれていた。
「お姉さん、ご機嫌いかが?」
どう考えても良好とはいかない外見の女性に対し、明るい声が降り掛かる。視力の弱まった彼女の目は『それ』を人影としか受け取ることができず、無意識に唇を動かしていた。
『た・す・け・て』
と、声にならない言葉を、人影にぶつけた。好意的な人間だと信じ込んで。
しかし冷静であれば気付いただろう。
思考回路が正常であれば、疑問を感じただろう。
瘴気が立ち込めるこの場所で、まともな人間が活動できるはずがないことを。
「ごめんね、お姉さん。あたい助ける気なんてさらさらないんだよ。むしろその逆だねぇ。我慢してないでさっさとくたばってくれるとありがたいかな? 姉さんの未来なんて何の面白みもないんだから」
可愛らしい声はくすくす、と笑う。
人間が吸えば生きていられないはずの空気の中で楽しそうに笑う。
「あたいの予想としては一番きつい地獄で永遠に近い時間を過ごして、はい、終わり。え? なになに? 何で自分がそんな目に会うのかって? おかしなことを言うお人だねぇ」
わずかにしか動かない口で、女性が訴える声にならない言葉を瞬時に理解し。馬鹿にするような笑いを繰り返した。笑いながら大げさな仕草で女性を指差し――
瞳だけを鋭く尖らせる。
「だって、お姉さん。人を殺しただろう? 4人、いや5人かな? あたいはそういう匂いには敏感だからね。すぐわかるよ。あんたは人のあるべき道を外れちまったのさ」
鋭い視線をさらに細め、皮肉な微笑を作り出すと。座り込み女性の前でしゃがんだ。
「つまりは、外道だ。そんな薄汚い悪人をもう一つから外すためにあたいがいる。輪廻っていう円から、縁を断つ。ああ、心配しなくてもいいよ。お姉さんはそうやって眠ってれば終わる。ほら、ゆっくり瞼を閉じてご覧」
台車を押してきた小さな影が手を女性の目の前にかざすと、まるで催眠術にでも掛かったかのよう女性の瞼が段々とその力を失い。ぱたり、と両目を隠す。それと同時に全身からも力が抜けその身体を大地へ横たえる。
「さあ、歓迎するよ、お姉さん。今日からあたいたちは地底の仲間だ」
カラカラカラっ、
もう一度森の中に高い音が響いたと思ったそのとき、
二つの影は綺麗さっぱり消え去って。
「……あちゃー、またやられた。こりゃぁ、減俸ものかねぇ」
大きな鎌を持った新たな人影が、何もない空間を見やりながら頭を抱えていた。
「……お空、あなたに新しく与えた仕事はなんだったかしら?」
「はいっ、お手紙や温泉のお土産の配達です!」
広々としたロビーの中、さとりの前でお空が手を上げる。そのあまりの元気の良さに眩暈を覚えたのだろうか。お空を見上げたさとりがくらりっと揺れる頭を右手で支え、首を左右に振る。妖怪の割には華奢な体付きをしているから、そんな姿が自然に見えてしまうのが悲しいところ。
「その配達業務を忘れていたわね?」
「はいっ! お燐が教えてくれたから慌てて届けてきました!」
びしっと右手を上げてより一層はきはきと答える。さらには笑顔すら浮かべるお空に、さとりは頭を抑えつつ眉をわずかに震わせ始めた。お空の横に立っていたお燐は主の変貌に怯えるばかり。尻尾をぴんっと伸ばしたまま、お空とさとりへ交互に視線を配った。
「品物の内容は?」
「温泉饅頭2箱と、温泉卵3個です!」
「時間は?」
「最速で!」
温泉を楽しんだ人たちが、温泉卵や温泉饅頭といったお土産を自分の手で持っていって配るのではまた気疲れしてしまうかもしれない。心が読めるさとりだからこそ思いついたサービスであった。そのお土産に手紙を添えることで、感謝の気持ちもしっかりサポート。その配送員を勤めるのが地上と交流の多いお空とお燐だったわけだが。
「速く届けるために、何か工夫は?」
「全力の八咫烏ダイブで!」
「……品物は?」
「燃えました!」
「さ、さとり様。品物の方は私が届けましたから。ほ、ほら、お空も反省しているようですし、ほら、ごめんなさいっ! て」
「いたいいたいっ! 何するの!」
背中をぴんっと伸ばし、片手を元気良く上げる姿からはどこにもそんな影が見えない。お燐はなんとかフォローをしようと無理やり頭を下げさせる努力をしているが、お空の身体能力のポテンシャルが圧倒的に上であるため。力で頭を下げさせるのも一苦労。
サービスの開始直後からこれでは先が思いやられるというものだ。
「わかりました。新しい業務はもう一度考慮してみますから、それまでは我慢して続けること、いいですね?」
「お任せください!」
「……なんでその台詞が吐けるのか甚だ疑問なんだけどねぇ」
「お燐も、我慢できますか?」
「あぁ~、台車を死体以外に使うのは抵抗ありますけどね。これも仕事のうちとしてやってみせますよ」
敵わないなと、お燐は鼻の頭を指で掻いた。心の読めるさとりは、そこに積もり始めた小さなストレスを敏感に感じ取ることができる。だからこそ表面上は特に変化のないお燐の内側をケアすることができるのだ。
「あなたは溜め込みすぎると、何をしでかすかわかったものではありませんし」
「あー、酷いなぁさとり様。心配しなくても大丈夫ですよ、異変になるようなことなんて何もしませんってば」
「うんうん、あのときのことはお燐しっかり反省してるもんね」
「……」
「……」
お前が言うな。
二人の無言の視線が重なる。
いったい誰のおかげだと思っているんだろうと。
「と、とにかく。地底の湯の準備が終わったら、即地上へと向かってもらいます。量は昨日より少ないですが、訪問先が多いので気をつけること。いいですね」
「はーい!」
「はいは~い」
対照的な返事を残し、二人はさとりの前から離れようとした。が、
「いえ、やはり別の案でいきましょうか」
「はぃ?」
すぐさまさとりに呼び止められ、元の位置に戻されたのだった。
適材適所という言葉がある。
特に地霊殿のペットたちはその色が濃い。火に強いお空は旧灼熱地獄で温度の調整を行っているし、忍耐力のある者は地底の湯の接客を担当する。つまり特化した個体が仕事を分担することが当然であって。
「こんにちは! 地底の湯です! 山田様からのお土産をお持ちしました」
「あん、こんな朝早くから誰――、ああ、ありがとう。それにしても妖怪にしてはべっぴんさんだねぇ」
不機嫌そうに出てきた中年の禿げた男が、お空の顔と胸を見て表情を緩ませることができたのも適材適所だから。
「お褒めいただきありがとうございます。それとこちらが山田様からのお手紙です。今後とも地霊の湯をご贔屓にお願いしますね♪」
顔を近づけ微笑むお空を見つめて鼻の下を伸ばすのも、お空がその役に適しているからに違いない。ちょっとだけお燐よりも美人だったり、お燐よりも背が高くてスタイルがよかったり、お燐より笑顔がまぶしかったり。
「はいはい、どうせあたいはちんちくりんの皮肉屋ですよ。さとり様の馬鹿っ」
一人一人別れて配った方が効率はいいのだが、お空を一人にするとお土産を燃やしかねない。そのためさとりは結局二人で里を回れと命令し、荷物運びと見張りはお燐、そして挨拶をして手渡すのはお空と役割分担まで決めた。
その理由はもちろん、その方が客受けが良さそうだからであった。しかもそれが、
「ありがとう、こんど私も行かせてもらおうかな」
「地底の妖怪って、怖いのばかりだと思ったけどイメージと全然違うわね」
などなど、さとりの狙い通りの反応であったのが若干お燐を不機嫌にさせる。屈託のない笑みを浮かべられるお空の丁寧な立ち振る舞いに敵わないとは知りながら、対抗意識が芽生えてしまうというものだ。
「誰が演技指導したと思ってるのかねぇ。あたいが本気になれば、人間の10人や20人くらい簡単に……」
「お燐~、後何箇所?」
「ん、次で最後だよ。やればできるじゃないか」
「へへへ~、当然だよ。お燐と組めば何でも上手くいくに決まってる」
「はいはい」
お燐はぷぃっと顔を背けたまま温泉饅頭2箱をお空に手渡した。何だかんだ言いながらもお空に甘い顔をしてしまう自分の意志の弱さと、うっすらと染まった頬を隠すために。対して、最後という言葉を聞いたお空は嬉しそうにお燐の横を歩いた。
「早く終わったら、どこ行こう。お団子屋かな、それとも和菓子屋さん? 久しぶりに霊夢のところにでも行ってみようか!」
「ほらほら、だらしない顔してないで、最後もちゃんと教えたとおりにやるんだよ」
「大丈夫だよ、だって最後はあそこでしょ? えーっと、うーんと……顔しわしわ慧音先生!」
「うん、ちょっと失礼かねぇ、惜しいけど」
「んー、髪わしわし」
「そっちでくるか……」
そうやってなんとかお空が慧音の苗字を思い出させたところで、寺子屋に到着。ちょうど授業の合間だったのでお空は教わったとおりに玄関の前に立ち、続けざまに大きな声で挨拶をし慧音を呼び出した。それを少しはなれた位置で見守っていたお燐はもう大丈夫だと胸を撫で下ろすが、いきなり視界の中でお空があたふたし始める。饅頭二箱を渡したところまでは完璧だったのに、髪の短い男の子が慧音の横に並んだ途端、落ち着きなく周囲を見渡し始める。どうやらお燐を探しているらしい。
「あーもぅ、どうしたっていうんだい?」
「あ、お燐!」
助力をするために駆け足で近づけば、お空の手の中には一枚の封筒が握られていた。ちゃんと渡さないと駄目じゃないかと、当然お燐が注意するわけだが。お空だけでなく、慧音までが首を横に振り、その意見を否定する。
お燐は不思議に眉を潜める中、慧音が何故か視線を落とす。
その先には、いきなり姿を見せた大人しそうな男の子が居て、
「あの、お手紙を届けてくれませんか?」
お燐と顔が合った瞬間、慧音の足で体を半分ほど隠しながらも強い口調で訴えてくる。自分たちは手紙を配達する仕事をしていない、いくらお燐が優しく伝えても首を横に振るばかり。
こうなったら強硬手段、手紙を突き返してそのまま空に逃げてやろう。そうお燐が思い始めた頃、その肩がぽんっと叩かれる。やな予感がして振り返ると、お燐の予想通り満面の笑みの親友がそこに居て、
「一日一円」
「……?」
意味不明な単語を主張する。
「一日一円! って、さとり様がいってた」
「一日一善?」
「そうそう! ソレソレ!」
一文字違うだけでここまで印象が変わるのが恐ろしい。
お燐が脱力感に苛まれていると、お空は封筒を大事そうに抱えて男の子の頭を撫で始める。その姿に一層不安を覚えたお燐は、ちょんちょんっとお空の背中を突付きながら声を掛けた。
「お空、まさか引き受けたいっていうんじゃな――」
「待っててね! 私がちゃーんと届けてあげる!」
「え、ちょ、ちょっと! お空、おくぅぅ~~~!」
どんっと、大きく広げられた翼が空気を打つ。
直後、お空の姿は屋根を軽く超えた高さまで舞い上がり、全速力で人里の上を飛び回る。お燐の手を、力いっぱい握り締めたまま。
「はな、離して! 離してお空! あんたの速さにあたいがついていけるわけなぁぁっ!」
抗議の叫び声をおもいっきりスルーしながら、お空は初めて封筒をまじまじと見つめ。
「……あれ? あて先書いてないや」
脱力感と風圧で薄れ行く意識の中――
そのつぶやきに、お燐は思わず涙したのだった。
そして、その思考が完全に停止する前、お燐の脳裏に浮かんだのは。
お空の顔でも、
さとりの顔でもなく。
俯いたまま子供を見る、慧音の沈痛な表情だった。
ざっざっ……
草むらの中を歩く足音が響くたび、予期せぬ来訪者を恐れて虫たちが声を止める。それに気づいた長身の女性は大鎌を肩に担ぎ直し、平原の上から身を浮かせる。季節はずれに鳴く虫たちの命の灯火、それを邪魔してはいけないと考えたのかもしれない。女性がしばらく動かずに待っていると、再び虫たちが騒ぎ始め。
「寒空に虫の声、悪くないね」
半分ほど欠けた月の下、ススキの生え揃った平原の上で鼻歌を合わせる。儚い歌声の中で宙を舞ってみると、風で揺れるススキたちがまるで外の世界の海原にも見えた。幻想郷の住人の多くに海という単語をぶつけても首を傾げられるだけなのだが。
「あたいには、揺れる湖に見えるんだけどねぇ。お姉さんは何に見える」
「うわぁ、やっぱりいたか泥棒猫」
いきなり地面から声を掛けられて小町は面倒くさそうに顔を歪める。上司である映姫から次の仕事も悪人の魂狩りだと伝えられた時点で、彼女なりに嫌な予感はしていた。
「泥棒猫とは失礼だねぇ、あたいの仕事は死体運びさ。死神様が生きてるうちに魂を刈り取ればお役ご免だよ。この前のはお姉さんが遅刻するのが悪いんだろう?」
「そう言いなさんなって、女はちょっとくらい待つ甲斐性とか、愛嬌が必要だとは思わないかい?」
「あたいみたいな愛らしい黒猫にいきなり泥棒猫って言うわ、あっさり鎌を向けてくるのは愛嬌があるって言うのかねぇ?」
「可愛い動物はすぐ調子に乗るから躾が必要。お前さんとこの烏も可愛いだろう?」
「じゃあお姉さんも可愛いことにしとこう」
「ふふ、あたいみたいなのは美人っていうのさ。勉強になったろう?」
着地すると同時に右手で鎌を握りお燐に向ける。しかしお燐をどうこうしようというわけではなく、その足元にある息も絶え絶えな生き物が目的だった。そもそも本気で争うつもりなら小町はすでに鎌を振り下ろしているだろう。それをしなかったのは、そこにいるお燐とは多少なりとも面識があったから。ただそれだけだった。
「一応あたいが先に見つけた死体予定さんだけど、どうしたい?」
「駄洒落のつもりかい? それとも、縄張りを守っているつもりかい?」
「……もちろん、あたいの獲物ってことさ」
死神と火車。
魂を運ぶものと、死体を運ぶもの。
古くから火花を散らせていた種族が正面からぶつかりあったのだ。この後どうするべきかくらいわかりきっている。
二つの影はお互いの真意を探りながら、うっすらと笑みを浮かべあい。死神は鎌を火車は爪を月明かりの下に輝かせ、
「なーんてね。持ってっていいよお姉さん」
と、そこでいきなりお燐が真横へ身を引き、息も絶え絶えな人間を小町の眼前に晒す。意外な反応に小町が目を丸くしていると、首を振る代わりに尻尾を左右に揺らし始めた。
「死体になる前のやつを運ぶのは決まり事に反するからね。それにさ、一応魂は悪人寄りだけど、そんなに罪も重ねてなさそうだからねぇ、そっちに譲るよ」
にこにこと微笑み、さあどうぞと言わんばかりに地面へ手の先を向ける。そんなお燐を横目で見ながら、小町は無言で鎌を振り下ろし魂を回収した。
「で? 何が望みなのかな、控えめな火車さんは」
「おや、おやおや。いきなり何を言い出すんだい? あたいは普段どおりに寛大な心で獲物を死神に渡しただけじゃないか。お姉さんみたいな立派な死神さんのお仕事の邪魔は、今後一切しないことも約束しちゃおうかねぇ」
キラキラと瞳を輝かせ胸の前で手を組む。
さらにくねくねと尻尾と腰を揺らし始める仕草をどうやって普段どおりだと受け取ればいいのか。
「はぁ、猫が猫をかぶるな」
「おやおや、駄洒落のつもりかい? それともちょっとだけお願いを聞いてくれるつもりなのかい?」
「わかったわかった、聞いてやるから」
「いやぁ、なんて優しいお姉さんだろうねぇ。あたい感激しちゃうよ」
そう言いながら、もぞもぞと服の中を探り。白い長方形を棒立ちする小町へと差し出した。鎌の柄を杖代わりに持っていた小町は、左手の指でそれを摘み上げると物珍しそうに揺らした。
上から見ても下から見ても、もちろん斜めに持ち上げてみてもそれは封筒にしか見えず。
「……あたい、そういう気とか、ないんだけど」
「あーもう、違うよ! あたいからの恋文のはずないじゃないか。純粋に届けて欲しいんだよお姉さんに」
「なんで?」
「だってお姉さん、そういう能力持ってるじゃないか」
「まあ、そうなんだけどさ」
小町は目を細めもう一度、その封筒を見る。
子供の字と思われる文字が並べられた裏面は普通の封筒と何ら変わりないのだが、表面をじっと見て肩を竦めた。
「あて先っていうか、相手の住所も名前も書いてないのにどうしろっていうんだい?」
「手掛かりならあるじゃないか」
「『お母さんへ』って書かれてもねぇ。目標が何かもわからないのに距離を操るなんて無理だろう?」
小町の能力は目標物の位置をしっかり把握しないと発動しない。
家族だという肩書きはわかっても、見ず知らずの存在をどうやって追跡しろというのか。死神を良く知る火車がそんな思い違いをするのもいささか不自然な話である。
「ま、そっちの方は確かに無理だろうねぇ」
「そっちじゃないって言われてもね。あたいはそんな万能な死神じゃあないよ? 今日だって人手不足だからこっちの業務に回されただけだし」
「でも、あたいじゃ運べない可能性が高くてね」
「火車であるお前さんが運べないって……、ははぁーん、そういうことか。面倒ごとを持ってきてくれちゃって」
「察しがよくて助かるよ、お姉さん。手間かもしれないけど、ちょっと調べておくれよ。約束どおり死神の邪魔はしないようにするからさ」
「わーかった、わ~かった! 約束するよ。その代わりだ、お前さんは絶対妙な真似をしないように」
「嫌だねぇ、お姉さん。あたいが信じられないっていうのかい?」
「そういうわけじゃないさ、でもね」
ぽんっと、いきなりお燐の右肩に小町の手が乗せられた。
距離を操る能力で一気に間合いを詰めたのだろう、鼻先と鼻先が触れ合いそうな位置に小町の顔が接近し、
「あんた、ちょっと評判悪いからね。気をつけな」
風に溶けてしまいそうなほど小さな声音を残し、お燐の視界からその姿は消え失せた。
「……ははは、評判悪くない火車を探す方が難しいと思うけどね」
忌み嫌われた黒猫は、苦笑しながら言葉を受け止め。
何もなかったかのように、魂を奪われた死体を台車に乗せる。
「怨霊はできなくても、お空の役にはたつだろうしね」
そして、手紙を受け取った後のお空の慌てようを思い出し、くすり、と笑った。
母親という生き物は一体どんなものだったか。
長く生きていると、大切だと思っていたものが輪郭しか見えなくなる。自然発生した妖怪ならともかく、動物から変化したものや、性別が分かれている妖怪などは必ず親というものが存在するのだが。
「ねえ、お燐? 私の親ってさとり様、かなぁ?」
「ぶふっ!?」
不意打ちである。
ソファーに腰掛けて紅茶を飲んでいたお燐は、思わず口に含んでいた液体をテーブルの上に噴出させた。
けほけほ、と咳き込んでいると、クッキーを口に咥えたお空が心配そうに背中を撫でる。
「あわてて飲むからそうなるんだよ。めっ!」
「怒りたい、怒りたいけど怒れない……クッキー零してるし」
とりあえず、誰のせいでこうなったかという自覚は皆無らしい。
何故そんな極論に至ったのかと、対面で座るさとりが問いかけると。烏であったときの親の顔を知らないからだと言う。そのすっぽりと抜け落ちた記憶が『お母さんへ』という手紙を見たときの混乱にもつながったと推測される。よって、混乱が治まってからは逆に興味を強く引いたのだろう。
「私を親のように思ってくれるのであれば嬉しいものなのですが、少し違うようですね」
「んー、さとり様はさとり様ですよねやっぱり」
「……あなたの感情は時折よくわからない流れを起こすので困ります」
「はぁ、それがお空の良いところというか、悪いところというか」
お燐が小町に手紙を託してから早三日。何の進展もないまま日々は過ぎ、人里へのお土産の配達も一時休業となった。理由はもちろん、人里に行くとお空の落ち着きがなくなるから。手紙のことを気にして上の空になってしまうのだ。
なので、しばらくは地底の温度管理だけを行い。地上に行くときも博麗神社だけという制限を付けた。困った親友だとお燐は笑うが、さとりからしてみれば理性を持ちながら敢えて行動を起こすもう一人の方が心配の種で、
「人のことを言えたものですか。預かった手紙のためとは言え、死神と交渉を行うなど。閻魔に知れたらどうなると思っているのです」
「殺されるようなことはないと思いますけど?」
「……極論ですね」
「生きていれば幸せとも言いますし。そういう意味ではあの子供の母親は不幸である可能性が高いでしょうね」
「行方不明と報告を受けたはずですが?」
「幻想郷の中で人里から人間が姿を消した。それが一週間続いたのなら生存確率なんてあると思います? どこぞの職業魔法使いや、巫女じゃあるまいし」
一般的な女性が対象ならば尚更だ。何せ野山には妖怪だけでなく野生の獣だって多く生息しているのだ。スペルカードバトルで妖怪から身を守ることができたとしても、言葉を介さない者たちの防衛手段は別に必要だ。それが身体能力であったりするわけで、
「それでお燐は、この世界には届けるべき人がいない。そう思ったわけね」
「ええ、予想ですけどね。まだいろいろ推測できるものはあるけど。そっちは単なる思い付きの代物です」
お空はその意見に何か反論したいのか、口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じるを繰り返す。
『お燐の冷血動物』
『あの子のお母さんは生きてる』
さとりにはその感情がはっきりと伝わるし、お燐だって親友のぎこちなさでおおよそのことは理解しているはずだ。それでも冷たい言い方をするのは、お空のため。お母さんに手紙を届けると宣言したからこそ、お空は責任感を感じている。その強い想いを持つことにより冷静な判断力が曇ってしまうから、お燐がその代役を演じている。
それをどこかで理解しているから、お空も心の中だけで感情を押し止めているのだろう。
つまり、お空もどこかで。
『あの子の母親は死んでいる』
そう考えてしまっているのだ。だからこそ、お燐には証拠が必要だった。はっきりとお空に諦めさせる証拠が。でも、人里でいくら話をかき集めても、目撃証言は得られず。それで白羽の矢が立ったのが、地霊殿とは多少関わりのあるあちらの世界。
一般的に言う『あの世』というわけだ。
「お燐、あなたの意思は十分理解しているつもりです。しかし手段が思いつかなかったとは言え、死神に指示を出すなどという閻魔の真似事はやめなさい。わかりましたね?」
「はぁーい、わかりました」
『あのお姉さんが、ちゃんと返事をしてくれたら考えます♪』
はっきりと見える裏の声を受け、さとりはソファーに深く背を預けると、瞳を閉じてゆっくりと息を吐いた。お空のこととなるとどうしてこう熱くなるのか。理由はわかっていても、旧灼熱地獄を治める立場上素直に応援できるはずもなく。
「ほどほどにしなさい……」
たったそれだけ言うのが精一杯。
そんな主の遠回りな声援を受けて、お燐は嬉しそうに尻尾を揺らした。
と、同時に。
「あら?」
尻尾を振る影がもうひとつ。
ソファーの陰から犬の姿をした妖獣が現れて、口に咥えた封筒をさとりに差し出す。
「ありがとう、よくできました」
封筒を渡した後に頭を撫でられ、わん、と一吼え。軽い足取りで入り口まで行くと、器用に足先で扉を開き出て行った。
誰からの手紙かと、さとりが封筒に視線を落とすと。
「噂をすればなんとやら、ですね」
「おー、約束を守ってくれたんだねぇ」
「はい、どうぞ。お燐」
読みたいという気持ちが溢れていたせいか、先に封を開けるべきさとりがお燐へと手渡す。それを遠慮なく受け取り、裏に書いてあるはずの宛名を確認――
「……え?」
封筒の裏には、死神の名前などなかった。
変わりに、整った字でこんな名前が記されていた。
差出人『四季 映姫』と。
「……えっと、さとり様。開けます?」
「お断りします」
「じゃ、じゃあお空!」
ぶんぶん、ぶんぶんぶんぶんっ!
目にも止まらぬ速さで、お空が首を左右に振る。
確かに、一度異変を起こした後、幻想郷を管理する閻魔様から『ありがたいお言葉』という名前の限りなく地獄に近いお説教を受けたことがあるが、どうやらそれがトラウマになっているらしい。
あのお空が他人の名前をはっきりと暗記しているのがその証拠だ。
「わ、わかったよ。わかりましたよ! 私が開ければいいんでしょう? 開ければ!」
小町に頼んだものが、映姫によってもたらされた。
この意味を理解しながら、鋭いつめで封を切り丁寧に折りたたまれた紙を取り出す。ごくり、と喉を鳴らし、ゆっくりとその紙を開けば、
宛名よりも崩れた字体で、大きな文字が記されていた。
ごめん、ばれた!
美人の小町お姉さんより
そしてそのさらに下段には、
火焔猫 燐、あなたとは『少し』話し合う必要がありそうですね
丁寧な言葉で記された脅迫文が続いていて、お燐はテーブルの上に突っ伏した。
お姉さんの馬鹿、とつぶやきながら。
「お燐、お疲れ~♪」
「もう、誰のせいだとおもってるかねぇ……、あの手紙さえなければ耐久12時間説教地獄なんてものを体験しなくてもすんだのに」
「あはは、はははははははっ!」
「笑い事じゃない」
「うにゅにゅにゅにゅにゅ~~!」
「だからって奇声を上げない」
人里についてから気分が高揚しているのは、仕事が楽しいからというわけではない。あの子供に対し明るい顔で会えるから。お土産配りを再開して寺子屋が近くなるにつれて、お空のはしゃぎようは大きくなるばかり。
「だって閻魔様が見つけてお手紙書いてくれたんだもん。お燐だって聞いたでしょ?」
「ああ、封筒は預かったけどね」
昨日のうちに地霊殿に直々にやってきた映姫は、さとりに簡単な挨拶を行った後お燐の部屋へと足を運んだ。もちろん説教を行うためであり、背中を丸めたお燐はとぼとぼと廊下を進む。そしてとうとう部屋に辿り着き、後は長い長いお楽しみの時間が始まるといったところで、
「命というものの情報を軽々しく外部に漏らすものではありませんが、そちらのペットがしつこく探るようだとこちらの業務にも支障をきたしますから、今回は業務特例に該当すると判断できます。よって、これだけをお伝えしましょう。そちらのいう子供の親の魂は、こちらで処理されてはいません」
閻魔、十王という立場にあるものがそう宣言したのだ。その言葉に嘘偽りなどあるはずがなく、その言葉が意味するのはつまり。
「やっぱり人間って凄いなぁ。どうやって生き残ってるんだろうね」
「ははは、変な能力持ちだと困るんだけどねぇ。いや、恩を売ってこっちの役に立ってもらうっていうのもありかもしれない」
「もう、お燐はやっぱり優しさが足りないよ」
「なに言ってるんだい。あたいの半分は優しさで出来てるのを知らないのかい?」
「えー、じゃあ残りの半分は?」
「おしとやかなお嬢様的成分」
「おしとやかって、死体集めって意味あるんだっけ?」
いつもどおり、話が通じているのかどうなのかよく分からない会話を繰り返しながら歩けば目の前に大きな平屋が見えてきた。今日は仕事が終わってから来たため、ちょうど子供たちが帰る時間のようだ。玄関前近くに集まって、慧音に頭を下げていることからもそれは明白。
午前中だけ勉強して、残りの半日は心置きなく遊ぶのだろう。その半日ほどの自由時間が与えられるのは地底のペットたちの生活習慣と似ていた。
「ほれ、お空。手紙渡しておいで」
ある程度まで近づいた後、お燐はお燐の背中をとんっと押してやる。すると、さっきまで元気だった顔が見る見る不安に染まっていくが、お燐は引かない。首を左右に振るばかりで足を前に動かそうとしない。
自分が引き受けた仕事は、最期まで自分でやってみろ。
見上げる瞳は強い光を放ったまま、まっすぐと親友を見つめていた。だからお空も、一度瞳を閉じて、ぐっと手に持った封筒を強く握り、ぎこちない足取りで慧音の元へ。
それが何かといえば……
『小町から、あなたたちへと託されたものです』
説教の後に映姫から預かった、見たこともない宛名が記入された封筒だった。おそらくその名前は、男の子の母親のもので小町が書かせたものだろう。距離を操る能力であちこち探し回ってくれたのかもしれない。
「あたいとお姉さんの助力、無駄にしたらただじゃおかないからね」
お空の耳に聞こえないようにつぶやき、くすくすっと笑う。
視線の先のその大きな翼を持つ影は、ばいばーいっと騒がしく挨拶を繰り返す子供たちの中へまっすぐ進んでいき。
「こ、こにょまえのおとここここ!」
噛んだ。
しかも目一杯の大声で。
「この前の男の子いますか!」
半分涙声で言い直した頃には、周囲の子供たちからからかわれ、羽をぐいぐい引っ張られる始末。しかし慧音は丁寧にお辞儀をし、指を一本立てて子供たちを注意した。お燐の位置からは聞こえないが、失敗は誰にでもあるから笑ってはいけないと教えているのかもしれない。そして子供たちが、元気な返事を返したのを確認してから。
「……おや?」
また、あの顔をする。
お燐がこの事件に巻き込まれたとき、去り際に見せた少し暗い表情を一瞬だけ見せて、身振り手振りでお空に何かを説明していた。それを聞き取りお空はうんうん、っと真剣そのもので首を縦に振り。
「わかった! ありがとう先生!」
最期には周囲の子供たちと同じように、手を上げてお別れの挨拶をしていた。そしてくるりと振り返り、
「お燐見てた! ねえ、見てた! 私ちゃんと渡せたよ!」
「わかった、わかったからその速度で突っ込むのはやめてほしっ――はぅふっ!」
晴れやかない笑顔で頭から突撃してくるのを見れば成功したと受け取って間違いないのだろう。その破壊力は別にして。
「今日ね、男の子は病気でお休みなんだって。でも、慧音先生がちゃんと渡してくれるって」
「ふむふむ、それはよかったね。お空。あたいはすごく額がひりひりするから、そろそろ地底に戻ってぐったりしたいんだけどいいかな?」
「うん、かえろぅっ! おもいっきり飛び回ってから!」
「えっと、なんかこの映像どっかで見たことあるような気が」
がしっとお空に手を掴まれ、お燐はものすごい速度で空へと連行される。
そして再び意識がブラックアウトするわけだが、お空が元気になったのならいいか、と。
気軽に考えながら、その身を風に任せ――
事件が無事に終わったことを喜んだ。
「……すまない。こんな時間に、失礼なのは重々承知しているんだが」
深夜、お空が眠った頃合を見計らったように、上白沢慧音が門を叩くまでは。
「……手紙が、偽物?」
「ああ、言いにくいことなのだが」
さとりとお燐の前、ソファーに座る慧音は深いため息を隠そうともせず、テーブルの上に例の封筒を置いた。破られたギザギザが目立つ開け口を見せ付けるように。
「ずいぶんと……楽しみにしていたようですね。その破り口からも待ち望んでいたことが推測されます」
「ああ、だからあの子の落胆の様子は手に取るようにわかった。それでも、そちらの優しさを汲み取ったのだろうね。布団で寝込みながら『ありがとう』そう言っていたよ」
「そうですか、いや、しかし」
「まあ、納得できませんよねぇ。あたいだって正直信じられませんし」
「どういうことだ? まるでこれが本物であると確証を得ていたようだが。まさか、母親の居場所を知っているのか!」
まさか、と言った様子で肩を竦め、お燐は口を潤すために紅茶を含む。ここから話す内容は一言一句間違えてはいけない。それだけ重要な意味を持つのだから、一度間をおく必要もあった。
「あたいから説明するけど、あの手紙はね。死神の小町ってお姉さんが四季映姫っていう幻想郷の閻魔様に手渡した物なんだよ。だからある程度信じられるものだと思ってたんだけど……偽物だったなんてこっちが度肝を抜かれるところだよ」
「閻魔が、嘘の手紙を?」
「正確には死神が、と言うべきでしょうね。あの死神は一癖も二癖もあるという話を聞いたこともありますから、こちらを諦めさせるために手の込んだことを行ったのかもしれません」
「ということは、そちらもあの子の母親の居場所を掴んでいないのか……」
「うん、すまないね。先生。あたいたちもこれ以上のことは知らないんだよ」
そうやって素直に答えると慧音が目を伏せ、黙り込んでしまう。静かに数分間ほど瞑想を行ったかと思うと、今度はいきなりソファーから立ち上がり、深々と頭を下げてくる。
何事かと、さとりはあわてて第三の目を大きく開いた。
「……すまない。こんなことを頼むのはお門違いだというのはわかっている。しかし、しかしだ! あの子と母親をもう一度合わせることに協力してはくれないか」
「そんな慌てなくても良いじゃないか、母親の方は手がかりがないからどうしようもないしね。だからせめて子供の病気が治ってから腰を据えて動いた方が良くはないかい? 無理をさせてこじらせたら余計に――」
慧音はそれに反論せず頭を下げ続ける。
その態度を静かに見つめていたさとりは、慧音と同じようにソファーから立ち上がると、ぽつり、とつぶやいた。
「死に至る病……治療は可能だが高額の薬草が必要となる。その母親は薬草を探して里を出た、と?」
「……そうか、隠しても無駄だったな」
「盗み見るようなことをして申し訳ありませんが、そちらのほうが話が早いと思いまして」
慧音は顔を上げ、自分よりも少し小さな地霊殿の主を見下ろす。それでも、悟り妖怪独特の静かな威厳は一瞬上半身を引かせるには十分。その気に当てられて落ち着きを取り戻した慧音は、ぼすんっと再び腰をソファーに沈めた。
「そう、だな。そのほうがいいだろう。その薬に必要な薬草は生息域が限りなく狭くてね。少しでも人間の手が加わると枯れてしまうような繊細さも持っているらしい。だから一年間に摂る量も薬剤師たちによって管理されている」
「あ~あ~、嫌だねぇ。お金ってしがらみは得てして人間を腐らせるだけだって言うのにさ」
「そんなことを言うものではありませんよ、お燐。群れで生活する中では必ず決まりごとがある。その一つが売買という文化なのですから。旧都だって同じようなことをしているでしょう?」
「まあ、そりゃあそうですけど」
一人を救うために甘い顔をすれば、他の誰かを救うときも同じことをしなければいけない。大きな群れになればなるほどその取り決めは厳しくなることくらい、お燐だってわかっている。だからこそ、大切なものは大切、と定めるために高い価値を付ける。
しかもそれが繊細な薬物の材料となれば、専門家にしか扱えない。
もし母親が偶然その薬草を見つけたとしても。
仮に見つけたとしても――その草が、望んだ効果を発揮できるかもわからない。
「もし、母親が見つけられたなら。無茶なことをせずに戻るように伝えたい。私にはそれしか思いつかないんだ」
「そうですか、しかし、こちらでも手掛かりがなければ当てもなく歩くことくらいしか」
「あの、さとり様に、慧音先生。つまりは、その子供少しでも元気づけられればいいってことかい? もし母親に会えなかったとしても」
「そうだな、大きく言えばそうなるんだが、何か考えが?」
「ふふん、あたいは機転の利く猫だからねぇ」
ソファーに座り、腕を組みなおすお燐は、鼻をふふんっと鳴らして。
「手紙さ」
「何?」
「だから、手紙だよ。その子が拘るそれの返事を書いてやろうってね♪」
すでに失敗した案を自慢気に語る黒猫の前で、さとりと慧音は思わず顔を見合わせていた。
「それと、もう一つ。さとり様にお願いがあるんですけど……」
人里の、中央通りから外れた場所。
長屋が連なっている狭い裏通りで、いきなり大きな声が響き渡る。
「ありがとうございます! 息子があんなに元気な顔をしたの久しぶりで!」
「ははは、照れるねぇっていうか。イタイ、イタイ」
「す、すみません。つい力が入ってしまって」
涙ぐみ、お燐の手を握るのは、中年まではいかない人里の青年だ。一般的な紺色の和装を着込んだその服から覗く腕は中々引き締まっており、力仕事を生業していることが推測される。嬉しさで加減を忘れた手の力からしても、それは明らかだった。
「慧音先生から、妙な化け猫を紹介されたときはどうしようかと迷ったのですが、決断して本当に良かった」
「はっはっは、若干失礼な物言いが気になるんだけどねぇ。まあいいけど」
ぶんっと、苦笑しながら腕を振り払い、ぷるぷるっと手首を揺らす。細身に見えて比較的身体能力の高い妖怪なので痛みなんて毛先ほども感じないのだが、抗議という意味を込めて眉を潜めてみる。それでも興奮冷めやらぬ男は、ありがとうと言うばかりで一向にお燐の言葉を聴こうとしない。おかげさまで長屋のほとんどの住人がそのやり取りをこっそり覗く始末。
妙な状況に追い込まれたお燐は、仕方なく後ろに控えていたもう一人の人物を振り返る。
「先生、なんとかしておくれよ。人間の扱いはそっちが長けてるんだろう?」
「お前のその言い方もどうかと思うが、わかった。少しこちらで受け持とう」
お燐と立ち位置を入れ替え、慧音が男へと優しく語り掛ける。すると興奮して叫んでばかりだったざんばら髪の男の声が、段々と治まっていく。
「それでは、そちらはもう子供のところに戻ってやれ。今日は仕事もないのだろう?」
「はい、どうもありがとうございました」
最期に男は何度も頭を軽く下げながら身を引き、自分の家の中へと消えていく。そこでやっと肩の荷が降りたのかお燐は胸を撫で下ろして回れ右をする。人間を少しでも安心させるために台車を置いてきたことも、彼女の心的ストレスに繋がっていたのかもしれない。
慧音に向けて揺らす二本尻尾も、 自分の功績にどこか誇らしげだ。
「しかし、ああもうまくいくものか……」
「ま、思い付きだったけどね。あの男の子が手紙を渡すって言う行為をどこで覚えたのかってことを普通に考えてみてね。やっぱり親の姿を見て覚えたんだろうって思ったのさ。で、やっぱり昔にやり取りした母親の手紙が残ってたから、その癖を真似て書いてみたってわけだよ」
「猫の手も借りるとはこのことだな」
「うまいこと言ったつもりかい? まったく、人間なんだからもう少し道具を使う術を覚えて欲しいもんだよ」
「人間という血が混ざると、他人の生活まで踏み込むのを躊躇ってしまうものなんだ」
ばつが悪そうに腕を組む慧音を見て、いたずらっ子の笑みを浮かべる。そのお燐の横に浮かぶうっすらとした炎も楽しそうにゆらゆらと揺れていた。白い頭蓋骨を紫色の炎がぼんやりと隠す、そんな奇妙な物体。人里の中では見慣れない炎である人魂を慧音が指差す。
「しかし、その怨霊という気味の悪いものはどうにかならないのか? 護身用とは聞いているが」
「台車って武器も置いてきたんだから、これくらいは我慢しておくれよ。あたいの言うことを聞いている間はなんの悪さもしないからさ。さっきの子供の前だって、ゆらゆら浮かんでいるだけだっただろう?」
「確かに、それはそうなんだが」
先日、お燐がさとりと慧音の前で手紙と一緒に訴えたこと。
それが、
『身を守るために怨霊の一体を連れて地上を行き来することを許してくれたら、絶対に上手くいく手紙を書いてみせる』
などという、本来なら何の脈絡もない話だった。
もちろん、地底から怨霊を持ち出すことは現在も禁忌の一つであるし、勇儀だってそれを容認するはずがない。しかしお燐がどうしてもとしつこく頼んでくるので、さとりが折れ。期限付き、一体のみの限定で勇儀と地上の代表者に交渉、権利を得たというわけだ。もちろんそこで何かが起きれば、お燐はタダでは済まないことになる。そうやってさとりがいくら脅しても、わかったわかったの二つ返事なのだから。
「物事がうまくいったんならそれでいいじゃないか。あたいだってほら、もう一回手紙を作らないといけないわけだしね」
そうやってお燐に全部任せた結果が、彼女の手の中にあるまた新しい封筒だ。完全に母親が書いたと信じ込み、もう一度お手紙を届けて欲しいと願った。手紙の内容はおそらく、会いたいから早く帰ってきて欲しいとかそういう文言に違いない。
それでも、彼女は足を止め俯き加減で問いかける。
「お前は、罪悪感を覚えないのか?」
「いいや全然、あたいはあの子にとって恩人に等しい。違うかい先生?」
慧音は何か納得がいかなかった。
そうやって軽々と母と子の関係に割り込もうとするお燐の態度が、あまりにも軽い彼女の挙動一つ一つが、親子のつながりを馬鹿にしているようにも感じたのかもしれない。
「それにね、あっちの世界じゃ、良心って尺度だけじゃ測れないものもあるんだよ。あたいにとっちゃ、そんな疑問をぶつけられる方がおかしい話さ。狂っているって言われたらそれまでかもしれないけどねぇ」
ごろごろ、と。空が鳴る。
さきほどまで晴れていた空が水色を遥か彼方に押しやって、暗雲だけを呼び起こす。薄暗い闇に覆いつくされた世界の中、人間たちは家路を急いで裏路地を駆け抜け。
「あの子に何も伝えず。静かに一生を終わらせようとする先生たちの方が、残酷で、罪深くはないのかい?」
降り始めた雨の中、二つの影だけが静止していた。
半身を後ろに向けた火車と、人を愛する半人半獣。
前髪を瞳の上に貼り付けたお燐は一度だけ自虐的な笑みを浮かべ、
「悪いね、嫌われ者の独り言だ。忘れておくれ」
肌に張り付いた服を気にも留めず、それだけを伝えた黒猫が行く。
その背に手を伸ばそうとする慧音だったが、透き通るように繊細な指先はそれ以上を進むのを拒んだ。その小さな体にぶつけられる言葉を持っていないことに気がついたからだ。
「……」
足を進めることも、戻ることも出来ず。
慧音はただ、お燐を見送りながら雨に打たれ続ける。
そんな彼女の頭の上から、
ばさり、と。
少し大きな音がして、雨の雫の感触が消えた。
「濡れますよ」
体に似合わない大きさの唐傘を差し出したのは、彼女の良く知る人物。歴史を司る稗田家現当主だった。
慧音は自分の情けない姿をじっと見つめてから、ふぅっと傘の裏側を見上げる。
何も見えないはずなのに何かを探す瞳はどこか遠くを見つめ、答えを探し続けた。
「……どちらが、正しいのだろうな」
「さあ? 歴史ではどちらも正しいことがあり、間違っていることがありますから。私は私の信念を押し通すと思いますよ」
「盗み聞きをしておいて、偉そうなことを言うものじゃない」
「探究心と言っていただけると」
「よく言うよ」
ようやくその身を動かした慧音は濡れた体を阿求に寄せ、ゆっくりと人里の中を歩いた。
一歩一歩、その足を進める度お燐の言葉を思い返すように。
それからお燐は、ずっと手紙を書き続ける。
お空にばれないように、深夜に筆を取り、一つの怨霊の炎を明かりにして白い正方形の中に文字を並べていく。
怨霊と一緒にそれを持っていく度に子供は喜び、もっともっと、とお燐を求めた。
その姿を父親はこう言う。
『まるで母親がこの場所にいるみたいだと』
落ち着いた顔で、お燐が来るのを楽しみにする。自然な笑顔を見せるようになった子供の体にも良い兆候が現れた。わずかながらに体力を取り戻し始めたというのだ。笑顔と健康の関係というものは証明されてはいないが、感情面の変化が大きいと、人里の医者も竹林の医者も言う。
残り少ない命を一生懸命生きる子の姿、それを見て喜びに包まれる中。
そのあまりの変貌に、父親は喜びと共に疑問を感じ始めた。
あの黒猫は一体なんなのかと。
父親は、話のタネを知っている。
今の状態はあくまでも演技であること、
母親は生きていなくて、お燐が過去の手紙を元に文章を書いていることを。
「ねえ、お父さんにもお母さんの手紙を見せてくれるかい?」
だから、父親は見たことがなかった。
どうせ偽物の手紙だと、わかりきっていたから確認したこともなかった。
化け猫が書く、狂った幻想だと、心のどこかでは馬鹿にしていた。
しかし――
父親はその文面を見た瞬間、全身が震えたという。
瞳から涙が溢れ、しばらく何もできなくなったという。
言葉を発することも、不思議がる子供を撫でることも出来ず、ただ涙を流すことしか出来なかったという。
字は微かに違う部分がある。
わずかながら、漢字のミスもある。
それなのに、言い回しのすべてが。
『彼女』そのものだった。
彼が愛した、彼女そのものだったのだ。
だから父親は、慧音に泣きついた。
もしかしたら、本当に自分の妻は生きていて、あの黒猫と出会っているのではないか。
もしかしたら地底で閉じ込められているのではないか。
それを調べて欲しい、と慧音に訴えた。
けれど、慧音は男に言う。
何を馬鹿なことを口にするのだと、男を叱り付ける。
いままでの協力を見て、そんな世迷言を言うのかと怒鳴った。
妖怪という視点で見ても、火車は生きている人間を攫うことはない。あくまでも死体や、死体に残る霊魂を怨霊とするだけだと。
そこで男は、やっと我に返り、すまないと頭を下げて慧音の元を去っていった。
妖怪が人間に協力するという図式を素直に喜びたい彼女にとっては、お燐の活動はまさに手放しで喜んでいいもの。
歴史として記してもいいほどだと、思っていた。
ただ――
男が持ち込んだ疑問が、慧音の胸に楔を打ち込んだ。
そんないざこざがあったことを知るはずもないお燐と子供は、今日も手紙を交換して嬉しそうに笑う。
立ち上がれるようになった子供が、裏通りをゆっくりと歩き、お燐の服をぎゅっと掴んでくる。
「ねえ、お姉ちゃん。僕ね、明日凄いことするんだって、一気に病気を治しちゃうんだって」
「へ~、凄いじゃないか! そうしたら元気になることが出来るのかい?」
「うん、病気をやっつけてお母さんと一緒に暮らすことが出来るんだって!」
「ほうほう、あたいはそういう人がいないからねぇ。嬉しいことなのかどうかよくわからない」
親がいないなんて、変なの。
子供は無邪気な笑いをお燐に向けて、お燐はそれに微笑みで返し、怨霊はその二人の周囲をゆっくりと回り、紫色の明かりで包み込む。
それに気づいた子供が、それを追い掛けようとするが長い間横になっていた体は急な動きに応えることができず、膝をかくりと折ってしまう。それでもお燐の腕が後ろから子供を受け止めて、ドジだねと大きい声で笑い合う。
その少し上では、怨霊が楽しげにその身を上下させていた。
「でもそんな大掛かりな治療をするってことは、しばらく家には戻ってこれないんじゃないのかい?」
「うーん、そうしたら手紙はどうしよう」
「そうだねぇ、じゃあ留守のときは家の中にこっそり入れておいてあげるよ」
「約束だからね!」
「なんだい? お姉さんが約束を破ったことがあったかい?」
「んー、ないけど」
「じゃあ問題なしだ、ほら、お父さんが戻ってきたよ。これからすぐ出かけるのかい?」
お燐の視線の先で、父親が頭を下げ子供を手招きしていた。
表情は明るい、いつもの顔のはずなのにどこか緊張した、張り詰めた気配を背中に纏っている。おそらくそれこそが、大掛かりな治療というやつの影響なのだろう。
「うん、じゃあいってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
その小さな子供をお燐と、子供より小さな怨霊が見送る。
視界からそのすべてが消えてしまうまで、
ずっと
ずっと
曲がり角が手を繋ぐ親子を奪うまで。
そこで、お燐は改めてふぅっと息を整えた。
「かくれんぼが趣味なのかい?」
「いや、そんな趣味はない。少しだけお前に聞きたいことがあってね」
そちら、ではなく、お前。
その物言いからも、何か刺々しさを感じさせる。
それが何かを察したお燐は、後ろから歩いてくる慧音に細い目だけを向ける。
「あの子の母親というのは、あの世にはいっていない、間違いないな?」
「ああ、閻魔様の情報だ。間違いない」
「火車というのは、霊魂をどうするんだった?」
「ああ、そうだよ。そうやって輪廻から外しちまうのさ。あたいの場合はその怨霊を操ったりも出来るんだけど」
決まりきった情報を確認してくる。
いままでの柔らかい表情とは比較にならない、氷の眼差しで。
「それでは、ここから先は私の仮説だ。失礼な話になるかもしれないが我慢して聞いて欲しい」
「なんだいそんなことかい? 遠慮しないで言っておくれよ」
後数歩前進すれば、お互い触れ合うことの出来る距離。
そこでちょうど傾き始めた空が、茜色をお燐の背にぶつける。
真っ赤に燃える、怒りの色を。
「お前が書いた手紙の中に、過去の情報からでは知りうることの出来ない子供の身体的特徴が記されていたのは何故だ?」
「たぶん偶然だね」
「過去からでは知ることが出来ないはずの、火傷や古傷のことまで話題に上がっていたのは何故だ?」
「偶然だね」
「子供が喜ぶ遊び、子供が好きな歌、子供が好きな食べ物、嫌いな食べ物そのすべてが的中していたのは?」
「おやおや、こんなにも偶然が続くなんて――」
お燐はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
ぶぉんっ、という重い音と共に、慧音の腕が伸びてきたのだから。
それを身軽に飛ぶことで避けたお燐は、屋根の上から瞳を怒りの色に染める慧音を見下ろした。すぐ横に浮かんでいた怨霊と一緒に。
「怨霊にしたな……あの子の母親を……」
「ふ~ん、おっと危ない危ない」
鼻を鳴らしている間に地面を蹴り、浮かび上がる慧音の体。
それをなんとかいなし、お燐は屋根を翔ける。
護衛手段であるはずの怨霊を使うことなく、何度も何度も、慧音の突進を紙一重で避けていく。
薄ら笑いをその顔に貼り付けて。
「あの子の信頼を裏切ったのか!」
「あはは、困ったねぇ。確かにあたいたちは魂を怨霊に変えるけどさ」
横薙ぎの大振りを易々と避け、再び距離を取る。
その動きはまさに猫そのもので、足場の悪さを気にする慧音に捉えられるはずもなかった。
「それが、どうしたっていうんだい?」
「っ! 火焔猫!」
激昂し、頭から突進する慧音。
まさに弾丸そのものになった身体に向かい、何を思ったかお燐も直進し、
ぶつかる寸前で膝を軽く曲げ、一瞬のうちに数回重心移動を繰り返す。
そして慧音がまさに、その細身に直撃すると思われた瞬間。
お燐の体が上下にぶれて、消えた。
「その呼び方はっ、好みじゃないねぇ!」
気が付けば、慧音の後頭部にお燐の足が乗り。
彼女を踏み台にしてお燐が空へと舞い上がる。
そのまま屋根を転げ落ちる慧音を一瞥したお燐は、空中でぱんぱんっと服についた埃を払い。
鼻の頭を、軽く掻いた。
「……悪いね。あたいは、火車なんだよ」
待て、という制止の声を聞かず。
お燐は人里の外へと飛び去っていった。
昼と夜が交差する空の中を。
「やぁ、おつかれさま」
「……はぁ」
「おや? なんだい、元気がないじゃないか」
人里から逃げ帰り、洞窟の前まで差し掛かったところでお燐は大袈裟にため息をついた。わざとらしくと言っても良いかもしれない。
「いまさら何しに来たのさ、お姉さんは」
薄暗くなった世界で、ごつごつとした岩肌に背中を預ける赤髪の女性。
そのちょっとだらけた声音と雰囲気を忘れろと言う方が無理な話だ。
「何って、決まっているじゃないか。勤勉な小町お姉さんは、他の部署の手伝いも喜んでやるんだよ」
「また魂を狩に来たって言うのかい?」
「ああ、そのとおり」
「ふーん」
そこまで会話をしながらお燐はそそくさと洞窟の中に入ろうとする。けれど、その前に大鎌が振り下ろされ進行方向を塞いでくる。
何をするのかと怨霊と一緒に目で抗議しても、何食わぬ顔で通せんぼを続けていた。
その行為が何を意味するのか理解はできていたが、口にするのが億劫だった。
「あの子供の魂だろ? 死因は薬が手に入らないまま無理に治療をしようとして、失敗ってところかな」
「ご名答、よくわかったね」
「ああもう、白々しいねぇ」
「それはお互い様さね。まさかそんな事実を隠しながらあたいに重労働をさせてくれたと思うと、むかっ腹が立つってもんだろ?」
「何のことやらさっぱりだねぇ」
「じゃあ、ちゃんと口にしてやろうかね。ほら、そこの怨霊。その怨霊こそが、あれだ」
振り下ろしていた鎌をもう一度引き戻し、肩に担ぎなおす。
その一連の動作は隙だらけにも見えるが、距離を操ることができる彼女にとって間合いなど意味のないもの。彼女が避けようと思えばその攻撃は空を切るし、その逆も然り。彼女の能力の範囲すべてが攻撃範囲であり、彼女の間合い。
お燐が油断なく構えを取る中で、妖しく瞳を輝かせた小町は、
「あの子供の母親の魂が、変異したものだ」
あっさりと、言い切った。
怨霊はびくりっと、空中で震えお燐の背中へと隠れるように移動していく。
その反応だけでも、小町の言葉の正当性を証明していた。
「ああ、そのとおりさ。あたいだって自信はなかったよ。でもね、慧音先生って人の言葉を聞いてね。最近そういう魂を怨霊にしたことを思い出したのさ」
不自然な空気だった。
怨霊は何かされると警戒しているようだったが、お燐は迷う。
小町が何をしにここに来たのか、まったく理解できなかったのだ。
死神の面子をつぶされた仕返しに来たのかと思ったが、この小町という女性がそんなことをするとは考えにくい。
だから、様子を見るしかなかった。
彼女との会話に付き合うことによって。
「あの魂はね、だいぶ磨り減っていたよ。最初はたぶん慧音先生の言うとおり、純粋に薬草を探しに外に出たんだろう。でもね、知ったんだ。知識のない自分では、薬の材料になる状態で採取することができないってね。だからさ、母親は鬼になったんだ。お姉さんは火車の特性を理解しているだろう?」
火車は、悪人の魂しか運ばない。
小町はそれを口にすることなく、頷きだけで応える。
「あの子の母親はね、お金を手に入れようとしたんだよ。身を隠したまま人里の人間を何人か襲うことでね。材料が手に入らないのなら買うしかないからね。同じ仲間である人間を殺し有り金を奪ったんだ。きっと、その途中で失敗したんだろう。最期は魔法の森まで追い詰められて、傷と瘴気でさようならだ」
「道を踏み外す家族って意味では、よくある話だね」
「あのときお姉さんが遅刻しなけりゃ、こんなもの背負い込むことなんてなかったんだけど」
「それは悪かったよ、だからこれだけ根回ししてやったろう?」
「事態をかき回すことを根回しって言わないんだよ」
「はは、違いない。でも、お前さんも大概だね」
いくら会話を重ねても、
いくら裏を探ってみても、
小町の意識はぶれない。
のらりくらりと会話を繰り返すだけで、本当に雑談をしにきただけにも見えた。
だからだろうか。
「責任を感じて怨霊を外に出すなんて真似をしたわけだ。手紙を出すなんて面倒なことを口実に、怨霊である母親を家族に会わせてやった」
「……単なる自己満足だよ」
いつの間にかお燐は構えを解き、近くの岩に腰を下ろしていた。
それを見た小町は、うんうんっと満足そうに頷き、柔らかい土を選んで胡坐をかく。お燐と真正面から向き合う形で。
「怨霊として輪廻から外れちまったこいつはもう、子供と同じ年月を過ごすことは出来ないんだ。たとえ悪人って言っても、それくらいしてやってもいいと思ってね」
同じ死を扱う者として、対立しながらも理解しあう仲間として。
言葉を紡ぐ度、お燐の心の重さが消えていくのがわかる。
「でもね、残酷だよ。連れて行ってやることしか出来ないんだ、あたい。触れさせてやることも声を出させてやることも出来ない。正体をばらすなんてもってのほかで、誰もその魂を母親だなんて思いやしない。一方通行の感情しか作れないんだよ」
腰を落として、膝を抱く。
顔の半分を膝で隠し、声を曇らせる様子はまるで捨てられた子猫のよう。
自分がしたことが本当に正しかったのか、誰も教えてくれないし、誰も判断できない。
それでも、
「お前さんは、優しいってことにしておいやろう」
「そんなことはないよ。目の前に極悪人の死体があったら我慢できずに運んじまうことのある。どうしようもないヤツさ」
小町は笑って言う。
胡坐をかいたまま、膝をぽんっと叩いて言う。
その仕草にお燐も釣られ、自嘲気味に笑った。
「不器用なだけだよ、あたいはね」
「ああ、それこそお互い様だ」
よっこらしょ、と。
若さの欠片もない声で小町は立ち上がり、鎌を持つ手をお燐に向けてやる。
「あたいだって、迷うさ。鎌を振る前も、振った後もね」
その小刻みに震える手を、見せ付けてやる。
魂という限りなく重いモノを奪う、折れてしまいそうな細い両腕を。
「じゃあね、お互いに良い夜になることを祈っておくれよ」
「ああ、神様に願っておくよ」
「一応、あたいも神様だから」
「そんな信憑性の神様誰が信じるもんか」
「ははは、それでいい。それぐらい元気があったほうが火車らしいからね」
またね。
そんな友人の挨拶を残して、小町は消えた。
とうとう仕事の時間になったのだろう。
「さてさて、それじゃあ……あたいもさとり様の小言を聞きにいこうかねぇ」
ばつが悪そうに、笑う少女を励ますように。
一つの怨霊がその背を優しく支えていた。
鳥の声すら聞こえないほど濃い瘴気に包まれた森の中で、女性は大木を背負っていた。腰を地面につき傷だらけの足を放り出し、ぼろぼろの上半身を無防備に晒す。疲労感で鉛のように重くなった体は指の一本すら動かすのを拒絶し、女性の意思に反して荒い息を上げるばかり。生き残るために新鮮な空気を肺に送り込もうといているのに、生命を脅かす瘴気ばかりを受け入れる。弱々しい瞬きは死へのカウントダウンにすら感じ、意識は混沌の中で足掻くことしかできない。
五感が機能しているかも自信がない状況であるのに、
カラカラ、カラカラ、と。
小気味好い音が、聞こえてくる。
段々と、段々と、その場違いな音は大きくなり。
それが車輪の音だと気が付いたときには、女性の間近に一つ気配が生まれていた。
「お姉さん、ご機嫌いかが?」
どう考えても良好とはいかない外見の女性に対し、明るい声が降り掛かる。視力の弱まった彼女の目は『それ』を人影としか受け取ることができず、無意識に唇を動かしていた。
『た・す・け・て』
と、声にならない言葉を、人影にぶつけた。好意的な人間だと信じ込んで。
しかし冷静であれば気付いただろう。
思考回路が正常であれば、疑問を感じただろう。
瘴気が立ち込めるこの場所で、まともな人間が活動できるはずがないことを。
「ごめんね、お姉さん。あたい助ける気なんてさらさらないんだよ。むしろその逆だねぇ。我慢してないでさっさとくたばってくれるとありがたいかな? 姉さんの未来なんて何の面白みもないんだから」
可愛らしい声はくすくす、と笑う。
人間が吸えば生きていられないはずの空気の中で楽しそうに笑う。
「あたいの予想としては一番きつい地獄で永遠に近い時間を過ごして、はい、終わり。え? なになに? 何で自分がそんな目に会うのかって? おかしなことを言うお人だねぇ」
わずかにしか動かない口で、女性が訴える声にならない言葉を瞬時に理解し。馬鹿にするような笑いを繰り返した。笑いながら大げさな仕草で女性を指差し――
瞳だけを鋭く尖らせる。
「だって、お姉さん。人を殺しただろう? 4人、いや5人かな? あたいはそういう匂いには敏感だからね。すぐわかるよ。あんたは人のあるべき道を外れちまったのさ」
鋭い視線をさらに細め、皮肉な微笑を作り出すと。座り込み女性の前でしゃがんだ。
「つまりは、外道だ。そんな薄汚い悪人をもう一つから外すためにあたいがいる。輪廻っていう円から、縁を断つ。ああ、心配しなくてもいいよ。お姉さんはそうやって眠ってれば終わる。ほら、ゆっくり瞼を閉じてご覧」
台車を押してきた小さな影が手を女性の目の前にかざすと、まるで催眠術にでも掛かったかのよう女性の瞼が段々とその力を失い。ぱたり、と両目を隠す。それと同時に全身からも力が抜けその身体を大地へ横たえる。
「さあ、歓迎するよ、お姉さん。今日からあたいたちは地底の仲間だ」
カラカラカラっ、
もう一度森の中に高い音が響いたと思ったそのとき、
二つの影は綺麗さっぱり消え去って。
「……あちゃー、またやられた。こりゃぁ、減俸ものかねぇ」
大きな鎌を持った新たな人影が、何もない空間を見やりながら頭を抱えていた。
「……お空、あなたに新しく与えた仕事はなんだったかしら?」
「はいっ、お手紙や温泉のお土産の配達です!」
広々としたロビーの中、さとりの前でお空が手を上げる。そのあまりの元気の良さに眩暈を覚えたのだろうか。お空を見上げたさとりがくらりっと揺れる頭を右手で支え、首を左右に振る。妖怪の割には華奢な体付きをしているから、そんな姿が自然に見えてしまうのが悲しいところ。
「その配達業務を忘れていたわね?」
「はいっ! お燐が教えてくれたから慌てて届けてきました!」
びしっと右手を上げてより一層はきはきと答える。さらには笑顔すら浮かべるお空に、さとりは頭を抑えつつ眉をわずかに震わせ始めた。お空の横に立っていたお燐は主の変貌に怯えるばかり。尻尾をぴんっと伸ばしたまま、お空とさとりへ交互に視線を配った。
「品物の内容は?」
「温泉饅頭2箱と、温泉卵3個です!」
「時間は?」
「最速で!」
温泉を楽しんだ人たちが、温泉卵や温泉饅頭といったお土産を自分の手で持っていって配るのではまた気疲れしてしまうかもしれない。心が読めるさとりだからこそ思いついたサービスであった。そのお土産に手紙を添えることで、感謝の気持ちもしっかりサポート。その配送員を勤めるのが地上と交流の多いお空とお燐だったわけだが。
「速く届けるために、何か工夫は?」
「全力の八咫烏ダイブで!」
「……品物は?」
「燃えました!」
「さ、さとり様。品物の方は私が届けましたから。ほ、ほら、お空も反省しているようですし、ほら、ごめんなさいっ! て」
「いたいいたいっ! 何するの!」
背中をぴんっと伸ばし、片手を元気良く上げる姿からはどこにもそんな影が見えない。お燐はなんとかフォローをしようと無理やり頭を下げさせる努力をしているが、お空の身体能力のポテンシャルが圧倒的に上であるため。力で頭を下げさせるのも一苦労。
サービスの開始直後からこれでは先が思いやられるというものだ。
「わかりました。新しい業務はもう一度考慮してみますから、それまでは我慢して続けること、いいですね?」
「お任せください!」
「……なんでその台詞が吐けるのか甚だ疑問なんだけどねぇ」
「お燐も、我慢できますか?」
「あぁ~、台車を死体以外に使うのは抵抗ありますけどね。これも仕事のうちとしてやってみせますよ」
敵わないなと、お燐は鼻の頭を指で掻いた。心の読めるさとりは、そこに積もり始めた小さなストレスを敏感に感じ取ることができる。だからこそ表面上は特に変化のないお燐の内側をケアすることができるのだ。
「あなたは溜め込みすぎると、何をしでかすかわかったものではありませんし」
「あー、酷いなぁさとり様。心配しなくても大丈夫ですよ、異変になるようなことなんて何もしませんってば」
「うんうん、あのときのことはお燐しっかり反省してるもんね」
「……」
「……」
お前が言うな。
二人の無言の視線が重なる。
いったい誰のおかげだと思っているんだろうと。
「と、とにかく。地底の湯の準備が終わったら、即地上へと向かってもらいます。量は昨日より少ないですが、訪問先が多いので気をつけること。いいですね」
「はーい!」
「はいは~い」
対照的な返事を残し、二人はさとりの前から離れようとした。が、
「いえ、やはり別の案でいきましょうか」
「はぃ?」
すぐさまさとりに呼び止められ、元の位置に戻されたのだった。
適材適所という言葉がある。
特に地霊殿のペットたちはその色が濃い。火に強いお空は旧灼熱地獄で温度の調整を行っているし、忍耐力のある者は地底の湯の接客を担当する。つまり特化した個体が仕事を分担することが当然であって。
「こんにちは! 地底の湯です! 山田様からのお土産をお持ちしました」
「あん、こんな朝早くから誰――、ああ、ありがとう。それにしても妖怪にしてはべっぴんさんだねぇ」
不機嫌そうに出てきた中年の禿げた男が、お空の顔と胸を見て表情を緩ませることができたのも適材適所だから。
「お褒めいただきありがとうございます。それとこちらが山田様からのお手紙です。今後とも地霊の湯をご贔屓にお願いしますね♪」
顔を近づけ微笑むお空を見つめて鼻の下を伸ばすのも、お空がその役に適しているからに違いない。ちょっとだけお燐よりも美人だったり、お燐よりも背が高くてスタイルがよかったり、お燐より笑顔がまぶしかったり。
「はいはい、どうせあたいはちんちくりんの皮肉屋ですよ。さとり様の馬鹿っ」
一人一人別れて配った方が効率はいいのだが、お空を一人にするとお土産を燃やしかねない。そのためさとりは結局二人で里を回れと命令し、荷物運びと見張りはお燐、そして挨拶をして手渡すのはお空と役割分担まで決めた。
その理由はもちろん、その方が客受けが良さそうだからであった。しかもそれが、
「ありがとう、こんど私も行かせてもらおうかな」
「地底の妖怪って、怖いのばかりだと思ったけどイメージと全然違うわね」
などなど、さとりの狙い通りの反応であったのが若干お燐を不機嫌にさせる。屈託のない笑みを浮かべられるお空の丁寧な立ち振る舞いに敵わないとは知りながら、対抗意識が芽生えてしまうというものだ。
「誰が演技指導したと思ってるのかねぇ。あたいが本気になれば、人間の10人や20人くらい簡単に……」
「お燐~、後何箇所?」
「ん、次で最後だよ。やればできるじゃないか」
「へへへ~、当然だよ。お燐と組めば何でも上手くいくに決まってる」
「はいはい」
お燐はぷぃっと顔を背けたまま温泉饅頭2箱をお空に手渡した。何だかんだ言いながらもお空に甘い顔をしてしまう自分の意志の弱さと、うっすらと染まった頬を隠すために。対して、最後という言葉を聞いたお空は嬉しそうにお燐の横を歩いた。
「早く終わったら、どこ行こう。お団子屋かな、それとも和菓子屋さん? 久しぶりに霊夢のところにでも行ってみようか!」
「ほらほら、だらしない顔してないで、最後もちゃんと教えたとおりにやるんだよ」
「大丈夫だよ、だって最後はあそこでしょ? えーっと、うーんと……顔しわしわ慧音先生!」
「うん、ちょっと失礼かねぇ、惜しいけど」
「んー、髪わしわし」
「そっちでくるか……」
そうやってなんとかお空が慧音の苗字を思い出させたところで、寺子屋に到着。ちょうど授業の合間だったのでお空は教わったとおりに玄関の前に立ち、続けざまに大きな声で挨拶をし慧音を呼び出した。それを少しはなれた位置で見守っていたお燐はもう大丈夫だと胸を撫で下ろすが、いきなり視界の中でお空があたふたし始める。饅頭二箱を渡したところまでは完璧だったのに、髪の短い男の子が慧音の横に並んだ途端、落ち着きなく周囲を見渡し始める。どうやらお燐を探しているらしい。
「あーもぅ、どうしたっていうんだい?」
「あ、お燐!」
助力をするために駆け足で近づけば、お空の手の中には一枚の封筒が握られていた。ちゃんと渡さないと駄目じゃないかと、当然お燐が注意するわけだが。お空だけでなく、慧音までが首を横に振り、その意見を否定する。
お燐は不思議に眉を潜める中、慧音が何故か視線を落とす。
その先には、いきなり姿を見せた大人しそうな男の子が居て、
「あの、お手紙を届けてくれませんか?」
お燐と顔が合った瞬間、慧音の足で体を半分ほど隠しながらも強い口調で訴えてくる。自分たちは手紙を配達する仕事をしていない、いくらお燐が優しく伝えても首を横に振るばかり。
こうなったら強硬手段、手紙を突き返してそのまま空に逃げてやろう。そうお燐が思い始めた頃、その肩がぽんっと叩かれる。やな予感がして振り返ると、お燐の予想通り満面の笑みの親友がそこに居て、
「一日一円」
「……?」
意味不明な単語を主張する。
「一日一円! って、さとり様がいってた」
「一日一善?」
「そうそう! ソレソレ!」
一文字違うだけでここまで印象が変わるのが恐ろしい。
お燐が脱力感に苛まれていると、お空は封筒を大事そうに抱えて男の子の頭を撫で始める。その姿に一層不安を覚えたお燐は、ちょんちょんっとお空の背中を突付きながら声を掛けた。
「お空、まさか引き受けたいっていうんじゃな――」
「待っててね! 私がちゃーんと届けてあげる!」
「え、ちょ、ちょっと! お空、おくぅぅ~~~!」
どんっと、大きく広げられた翼が空気を打つ。
直後、お空の姿は屋根を軽く超えた高さまで舞い上がり、全速力で人里の上を飛び回る。お燐の手を、力いっぱい握り締めたまま。
「はな、離して! 離してお空! あんたの速さにあたいがついていけるわけなぁぁっ!」
抗議の叫び声をおもいっきりスルーしながら、お空は初めて封筒をまじまじと見つめ。
「……あれ? あて先書いてないや」
脱力感と風圧で薄れ行く意識の中――
そのつぶやきに、お燐は思わず涙したのだった。
そして、その思考が完全に停止する前、お燐の脳裏に浮かんだのは。
お空の顔でも、
さとりの顔でもなく。
俯いたまま子供を見る、慧音の沈痛な表情だった。
ざっざっ……
草むらの中を歩く足音が響くたび、予期せぬ来訪者を恐れて虫たちが声を止める。それに気づいた長身の女性は大鎌を肩に担ぎ直し、平原の上から身を浮かせる。季節はずれに鳴く虫たちの命の灯火、それを邪魔してはいけないと考えたのかもしれない。女性がしばらく動かずに待っていると、再び虫たちが騒ぎ始め。
「寒空に虫の声、悪くないね」
半分ほど欠けた月の下、ススキの生え揃った平原の上で鼻歌を合わせる。儚い歌声の中で宙を舞ってみると、風で揺れるススキたちがまるで外の世界の海原にも見えた。幻想郷の住人の多くに海という単語をぶつけても首を傾げられるだけなのだが。
「あたいには、揺れる湖に見えるんだけどねぇ。お姉さんは何に見える」
「うわぁ、やっぱりいたか泥棒猫」
いきなり地面から声を掛けられて小町は面倒くさそうに顔を歪める。上司である映姫から次の仕事も悪人の魂狩りだと伝えられた時点で、彼女なりに嫌な予感はしていた。
「泥棒猫とは失礼だねぇ、あたいの仕事は死体運びさ。死神様が生きてるうちに魂を刈り取ればお役ご免だよ。この前のはお姉さんが遅刻するのが悪いんだろう?」
「そう言いなさんなって、女はちょっとくらい待つ甲斐性とか、愛嬌が必要だとは思わないかい?」
「あたいみたいな愛らしい黒猫にいきなり泥棒猫って言うわ、あっさり鎌を向けてくるのは愛嬌があるって言うのかねぇ?」
「可愛い動物はすぐ調子に乗るから躾が必要。お前さんとこの烏も可愛いだろう?」
「じゃあお姉さんも可愛いことにしとこう」
「ふふ、あたいみたいなのは美人っていうのさ。勉強になったろう?」
着地すると同時に右手で鎌を握りお燐に向ける。しかしお燐をどうこうしようというわけではなく、その足元にある息も絶え絶えな生き物が目的だった。そもそも本気で争うつもりなら小町はすでに鎌を振り下ろしているだろう。それをしなかったのは、そこにいるお燐とは多少なりとも面識があったから。ただそれだけだった。
「一応あたいが先に見つけた死体予定さんだけど、どうしたい?」
「駄洒落のつもりかい? それとも、縄張りを守っているつもりかい?」
「……もちろん、あたいの獲物ってことさ」
死神と火車。
魂を運ぶものと、死体を運ぶもの。
古くから火花を散らせていた種族が正面からぶつかりあったのだ。この後どうするべきかくらいわかりきっている。
二つの影はお互いの真意を探りながら、うっすらと笑みを浮かべあい。死神は鎌を火車は爪を月明かりの下に輝かせ、
「なーんてね。持ってっていいよお姉さん」
と、そこでいきなりお燐が真横へ身を引き、息も絶え絶えな人間を小町の眼前に晒す。意外な反応に小町が目を丸くしていると、首を振る代わりに尻尾を左右に揺らし始めた。
「死体になる前のやつを運ぶのは決まり事に反するからね。それにさ、一応魂は悪人寄りだけど、そんなに罪も重ねてなさそうだからねぇ、そっちに譲るよ」
にこにこと微笑み、さあどうぞと言わんばかりに地面へ手の先を向ける。そんなお燐を横目で見ながら、小町は無言で鎌を振り下ろし魂を回収した。
「で? 何が望みなのかな、控えめな火車さんは」
「おや、おやおや。いきなり何を言い出すんだい? あたいは普段どおりに寛大な心で獲物を死神に渡しただけじゃないか。お姉さんみたいな立派な死神さんのお仕事の邪魔は、今後一切しないことも約束しちゃおうかねぇ」
キラキラと瞳を輝かせ胸の前で手を組む。
さらにくねくねと尻尾と腰を揺らし始める仕草をどうやって普段どおりだと受け取ればいいのか。
「はぁ、猫が猫をかぶるな」
「おやおや、駄洒落のつもりかい? それともちょっとだけお願いを聞いてくれるつもりなのかい?」
「わかったわかった、聞いてやるから」
「いやぁ、なんて優しいお姉さんだろうねぇ。あたい感激しちゃうよ」
そう言いながら、もぞもぞと服の中を探り。白い長方形を棒立ちする小町へと差し出した。鎌の柄を杖代わりに持っていた小町は、左手の指でそれを摘み上げると物珍しそうに揺らした。
上から見ても下から見ても、もちろん斜めに持ち上げてみてもそれは封筒にしか見えず。
「……あたい、そういう気とか、ないんだけど」
「あーもう、違うよ! あたいからの恋文のはずないじゃないか。純粋に届けて欲しいんだよお姉さんに」
「なんで?」
「だってお姉さん、そういう能力持ってるじゃないか」
「まあ、そうなんだけどさ」
小町は目を細めもう一度、その封筒を見る。
子供の字と思われる文字が並べられた裏面は普通の封筒と何ら変わりないのだが、表面をじっと見て肩を竦めた。
「あて先っていうか、相手の住所も名前も書いてないのにどうしろっていうんだい?」
「手掛かりならあるじゃないか」
「『お母さんへ』って書かれてもねぇ。目標が何かもわからないのに距離を操るなんて無理だろう?」
小町の能力は目標物の位置をしっかり把握しないと発動しない。
家族だという肩書きはわかっても、見ず知らずの存在をどうやって追跡しろというのか。死神を良く知る火車がそんな思い違いをするのもいささか不自然な話である。
「ま、そっちの方は確かに無理だろうねぇ」
「そっちじゃないって言われてもね。あたいはそんな万能な死神じゃあないよ? 今日だって人手不足だからこっちの業務に回されただけだし」
「でも、あたいじゃ運べない可能性が高くてね」
「火車であるお前さんが運べないって……、ははぁーん、そういうことか。面倒ごとを持ってきてくれちゃって」
「察しがよくて助かるよ、お姉さん。手間かもしれないけど、ちょっと調べておくれよ。約束どおり死神の邪魔はしないようにするからさ」
「わーかった、わ~かった! 約束するよ。その代わりだ、お前さんは絶対妙な真似をしないように」
「嫌だねぇ、お姉さん。あたいが信じられないっていうのかい?」
「そういうわけじゃないさ、でもね」
ぽんっと、いきなりお燐の右肩に小町の手が乗せられた。
距離を操る能力で一気に間合いを詰めたのだろう、鼻先と鼻先が触れ合いそうな位置に小町の顔が接近し、
「あんた、ちょっと評判悪いからね。気をつけな」
風に溶けてしまいそうなほど小さな声音を残し、お燐の視界からその姿は消え失せた。
「……ははは、評判悪くない火車を探す方が難しいと思うけどね」
忌み嫌われた黒猫は、苦笑しながら言葉を受け止め。
何もなかったかのように、魂を奪われた死体を台車に乗せる。
「怨霊はできなくても、お空の役にはたつだろうしね」
そして、手紙を受け取った後のお空の慌てようを思い出し、くすり、と笑った。
母親という生き物は一体どんなものだったか。
長く生きていると、大切だと思っていたものが輪郭しか見えなくなる。自然発生した妖怪ならともかく、動物から変化したものや、性別が分かれている妖怪などは必ず親というものが存在するのだが。
「ねえ、お燐? 私の親ってさとり様、かなぁ?」
「ぶふっ!?」
不意打ちである。
ソファーに腰掛けて紅茶を飲んでいたお燐は、思わず口に含んでいた液体をテーブルの上に噴出させた。
けほけほ、と咳き込んでいると、クッキーを口に咥えたお空が心配そうに背中を撫でる。
「あわてて飲むからそうなるんだよ。めっ!」
「怒りたい、怒りたいけど怒れない……クッキー零してるし」
とりあえず、誰のせいでこうなったかという自覚は皆無らしい。
何故そんな極論に至ったのかと、対面で座るさとりが問いかけると。烏であったときの親の顔を知らないからだと言う。そのすっぽりと抜け落ちた記憶が『お母さんへ』という手紙を見たときの混乱にもつながったと推測される。よって、混乱が治まってからは逆に興味を強く引いたのだろう。
「私を親のように思ってくれるのであれば嬉しいものなのですが、少し違うようですね」
「んー、さとり様はさとり様ですよねやっぱり」
「……あなたの感情は時折よくわからない流れを起こすので困ります」
「はぁ、それがお空の良いところというか、悪いところというか」
お燐が小町に手紙を託してから早三日。何の進展もないまま日々は過ぎ、人里へのお土産の配達も一時休業となった。理由はもちろん、人里に行くとお空の落ち着きがなくなるから。手紙のことを気にして上の空になってしまうのだ。
なので、しばらくは地底の温度管理だけを行い。地上に行くときも博麗神社だけという制限を付けた。困った親友だとお燐は笑うが、さとりからしてみれば理性を持ちながら敢えて行動を起こすもう一人の方が心配の種で、
「人のことを言えたものですか。預かった手紙のためとは言え、死神と交渉を行うなど。閻魔に知れたらどうなると思っているのです」
「殺されるようなことはないと思いますけど?」
「……極論ですね」
「生きていれば幸せとも言いますし。そういう意味ではあの子供の母親は不幸である可能性が高いでしょうね」
「行方不明と報告を受けたはずですが?」
「幻想郷の中で人里から人間が姿を消した。それが一週間続いたのなら生存確率なんてあると思います? どこぞの職業魔法使いや、巫女じゃあるまいし」
一般的な女性が対象ならば尚更だ。何せ野山には妖怪だけでなく野生の獣だって多く生息しているのだ。スペルカードバトルで妖怪から身を守ることができたとしても、言葉を介さない者たちの防衛手段は別に必要だ。それが身体能力であったりするわけで、
「それでお燐は、この世界には届けるべき人がいない。そう思ったわけね」
「ええ、予想ですけどね。まだいろいろ推測できるものはあるけど。そっちは単なる思い付きの代物です」
お空はその意見に何か反論したいのか、口を開きかけては閉じ、また開きかけては閉じるを繰り返す。
『お燐の冷血動物』
『あの子のお母さんは生きてる』
さとりにはその感情がはっきりと伝わるし、お燐だって親友のぎこちなさでおおよそのことは理解しているはずだ。それでも冷たい言い方をするのは、お空のため。お母さんに手紙を届けると宣言したからこそ、お空は責任感を感じている。その強い想いを持つことにより冷静な判断力が曇ってしまうから、お燐がその代役を演じている。
それをどこかで理解しているから、お空も心の中だけで感情を押し止めているのだろう。
つまり、お空もどこかで。
『あの子の母親は死んでいる』
そう考えてしまっているのだ。だからこそ、お燐には証拠が必要だった。はっきりとお空に諦めさせる証拠が。でも、人里でいくら話をかき集めても、目撃証言は得られず。それで白羽の矢が立ったのが、地霊殿とは多少関わりのあるあちらの世界。
一般的に言う『あの世』というわけだ。
「お燐、あなたの意思は十分理解しているつもりです。しかし手段が思いつかなかったとは言え、死神に指示を出すなどという閻魔の真似事はやめなさい。わかりましたね?」
「はぁーい、わかりました」
『あのお姉さんが、ちゃんと返事をしてくれたら考えます♪』
はっきりと見える裏の声を受け、さとりはソファーに深く背を預けると、瞳を閉じてゆっくりと息を吐いた。お空のこととなるとどうしてこう熱くなるのか。理由はわかっていても、旧灼熱地獄を治める立場上素直に応援できるはずもなく。
「ほどほどにしなさい……」
たったそれだけ言うのが精一杯。
そんな主の遠回りな声援を受けて、お燐は嬉しそうに尻尾を揺らした。
と、同時に。
「あら?」
尻尾を振る影がもうひとつ。
ソファーの陰から犬の姿をした妖獣が現れて、口に咥えた封筒をさとりに差し出す。
「ありがとう、よくできました」
封筒を渡した後に頭を撫でられ、わん、と一吼え。軽い足取りで入り口まで行くと、器用に足先で扉を開き出て行った。
誰からの手紙かと、さとりが封筒に視線を落とすと。
「噂をすればなんとやら、ですね」
「おー、約束を守ってくれたんだねぇ」
「はい、どうぞ。お燐」
読みたいという気持ちが溢れていたせいか、先に封を開けるべきさとりがお燐へと手渡す。それを遠慮なく受け取り、裏に書いてあるはずの宛名を確認――
「……え?」
封筒の裏には、死神の名前などなかった。
変わりに、整った字でこんな名前が記されていた。
差出人『四季 映姫』と。
「……えっと、さとり様。開けます?」
「お断りします」
「じゃ、じゃあお空!」
ぶんぶん、ぶんぶんぶんぶんっ!
目にも止まらぬ速さで、お空が首を左右に振る。
確かに、一度異変を起こした後、幻想郷を管理する閻魔様から『ありがたいお言葉』という名前の限りなく地獄に近いお説教を受けたことがあるが、どうやらそれがトラウマになっているらしい。
あのお空が他人の名前をはっきりと暗記しているのがその証拠だ。
「わ、わかったよ。わかりましたよ! 私が開ければいいんでしょう? 開ければ!」
小町に頼んだものが、映姫によってもたらされた。
この意味を理解しながら、鋭いつめで封を切り丁寧に折りたたまれた紙を取り出す。ごくり、と喉を鳴らし、ゆっくりとその紙を開けば、
宛名よりも崩れた字体で、大きな文字が記されていた。
ごめん、ばれた!
美人の小町お姉さんより
そしてそのさらに下段には、
火焔猫 燐、あなたとは『少し』話し合う必要がありそうですね
丁寧な言葉で記された脅迫文が続いていて、お燐はテーブルの上に突っ伏した。
お姉さんの馬鹿、とつぶやきながら。
「お燐、お疲れ~♪」
「もう、誰のせいだとおもってるかねぇ……、あの手紙さえなければ耐久12時間説教地獄なんてものを体験しなくてもすんだのに」
「あはは、はははははははっ!」
「笑い事じゃない」
「うにゅにゅにゅにゅにゅ~~!」
「だからって奇声を上げない」
人里についてから気分が高揚しているのは、仕事が楽しいからというわけではない。あの子供に対し明るい顔で会えるから。お土産配りを再開して寺子屋が近くなるにつれて、お空のはしゃぎようは大きくなるばかり。
「だって閻魔様が見つけてお手紙書いてくれたんだもん。お燐だって聞いたでしょ?」
「ああ、封筒は預かったけどね」
昨日のうちに地霊殿に直々にやってきた映姫は、さとりに簡単な挨拶を行った後お燐の部屋へと足を運んだ。もちろん説教を行うためであり、背中を丸めたお燐はとぼとぼと廊下を進む。そしてとうとう部屋に辿り着き、後は長い長いお楽しみの時間が始まるといったところで、
「命というものの情報を軽々しく外部に漏らすものではありませんが、そちらのペットがしつこく探るようだとこちらの業務にも支障をきたしますから、今回は業務特例に該当すると判断できます。よって、これだけをお伝えしましょう。そちらのいう子供の親の魂は、こちらで処理されてはいません」
閻魔、十王という立場にあるものがそう宣言したのだ。その言葉に嘘偽りなどあるはずがなく、その言葉が意味するのはつまり。
「やっぱり人間って凄いなぁ。どうやって生き残ってるんだろうね」
「ははは、変な能力持ちだと困るんだけどねぇ。いや、恩を売ってこっちの役に立ってもらうっていうのもありかもしれない」
「もう、お燐はやっぱり優しさが足りないよ」
「なに言ってるんだい。あたいの半分は優しさで出来てるのを知らないのかい?」
「えー、じゃあ残りの半分は?」
「おしとやかなお嬢様的成分」
「おしとやかって、死体集めって意味あるんだっけ?」
いつもどおり、話が通じているのかどうなのかよく分からない会話を繰り返しながら歩けば目の前に大きな平屋が見えてきた。今日は仕事が終わってから来たため、ちょうど子供たちが帰る時間のようだ。玄関前近くに集まって、慧音に頭を下げていることからもそれは明白。
午前中だけ勉強して、残りの半日は心置きなく遊ぶのだろう。その半日ほどの自由時間が与えられるのは地底のペットたちの生活習慣と似ていた。
「ほれ、お空。手紙渡しておいで」
ある程度まで近づいた後、お燐はお燐の背中をとんっと押してやる。すると、さっきまで元気だった顔が見る見る不安に染まっていくが、お燐は引かない。首を左右に振るばかりで足を前に動かそうとしない。
自分が引き受けた仕事は、最期まで自分でやってみろ。
見上げる瞳は強い光を放ったまま、まっすぐと親友を見つめていた。だからお空も、一度瞳を閉じて、ぐっと手に持った封筒を強く握り、ぎこちない足取りで慧音の元へ。
それが何かといえば……
『小町から、あなたたちへと託されたものです』
説教の後に映姫から預かった、見たこともない宛名が記入された封筒だった。おそらくその名前は、男の子の母親のもので小町が書かせたものだろう。距離を操る能力であちこち探し回ってくれたのかもしれない。
「あたいとお姉さんの助力、無駄にしたらただじゃおかないからね」
お空の耳に聞こえないようにつぶやき、くすくすっと笑う。
視線の先のその大きな翼を持つ影は、ばいばーいっと騒がしく挨拶を繰り返す子供たちの中へまっすぐ進んでいき。
「こ、こにょまえのおとここここ!」
噛んだ。
しかも目一杯の大声で。
「この前の男の子いますか!」
半分涙声で言い直した頃には、周囲の子供たちからからかわれ、羽をぐいぐい引っ張られる始末。しかし慧音は丁寧にお辞儀をし、指を一本立てて子供たちを注意した。お燐の位置からは聞こえないが、失敗は誰にでもあるから笑ってはいけないと教えているのかもしれない。そして子供たちが、元気な返事を返したのを確認してから。
「……おや?」
また、あの顔をする。
お燐がこの事件に巻き込まれたとき、去り際に見せた少し暗い表情を一瞬だけ見せて、身振り手振りでお空に何かを説明していた。それを聞き取りお空はうんうん、っと真剣そのもので首を縦に振り。
「わかった! ありがとう先生!」
最期には周囲の子供たちと同じように、手を上げてお別れの挨拶をしていた。そしてくるりと振り返り、
「お燐見てた! ねえ、見てた! 私ちゃんと渡せたよ!」
「わかった、わかったからその速度で突っ込むのはやめてほしっ――はぅふっ!」
晴れやかない笑顔で頭から突撃してくるのを見れば成功したと受け取って間違いないのだろう。その破壊力は別にして。
「今日ね、男の子は病気でお休みなんだって。でも、慧音先生がちゃんと渡してくれるって」
「ふむふむ、それはよかったね。お空。あたいはすごく額がひりひりするから、そろそろ地底に戻ってぐったりしたいんだけどいいかな?」
「うん、かえろぅっ! おもいっきり飛び回ってから!」
「えっと、なんかこの映像どっかで見たことあるような気が」
がしっとお空に手を掴まれ、お燐はものすごい速度で空へと連行される。
そして再び意識がブラックアウトするわけだが、お空が元気になったのならいいか、と。
気軽に考えながら、その身を風に任せ――
事件が無事に終わったことを喜んだ。
「……すまない。こんな時間に、失礼なのは重々承知しているんだが」
深夜、お空が眠った頃合を見計らったように、上白沢慧音が門を叩くまでは。
「……手紙が、偽物?」
「ああ、言いにくいことなのだが」
さとりとお燐の前、ソファーに座る慧音は深いため息を隠そうともせず、テーブルの上に例の封筒を置いた。破られたギザギザが目立つ開け口を見せ付けるように。
「ずいぶんと……楽しみにしていたようですね。その破り口からも待ち望んでいたことが推測されます」
「ああ、だからあの子の落胆の様子は手に取るようにわかった。それでも、そちらの優しさを汲み取ったのだろうね。布団で寝込みながら『ありがとう』そう言っていたよ」
「そうですか、いや、しかし」
「まあ、納得できませんよねぇ。あたいだって正直信じられませんし」
「どういうことだ? まるでこれが本物であると確証を得ていたようだが。まさか、母親の居場所を知っているのか!」
まさか、と言った様子で肩を竦め、お燐は口を潤すために紅茶を含む。ここから話す内容は一言一句間違えてはいけない。それだけ重要な意味を持つのだから、一度間をおく必要もあった。
「あたいから説明するけど、あの手紙はね。死神の小町ってお姉さんが四季映姫っていう幻想郷の閻魔様に手渡した物なんだよ。だからある程度信じられるものだと思ってたんだけど……偽物だったなんてこっちが度肝を抜かれるところだよ」
「閻魔が、嘘の手紙を?」
「正確には死神が、と言うべきでしょうね。あの死神は一癖も二癖もあるという話を聞いたこともありますから、こちらを諦めさせるために手の込んだことを行ったのかもしれません」
「ということは、そちらもあの子の母親の居場所を掴んでいないのか……」
「うん、すまないね。先生。あたいたちもこれ以上のことは知らないんだよ」
そうやって素直に答えると慧音が目を伏せ、黙り込んでしまう。静かに数分間ほど瞑想を行ったかと思うと、今度はいきなりソファーから立ち上がり、深々と頭を下げてくる。
何事かと、さとりはあわてて第三の目を大きく開いた。
「……すまない。こんなことを頼むのはお門違いだというのはわかっている。しかし、しかしだ! あの子と母親をもう一度合わせることに協力してはくれないか」
「そんな慌てなくても良いじゃないか、母親の方は手がかりがないからどうしようもないしね。だからせめて子供の病気が治ってから腰を据えて動いた方が良くはないかい? 無理をさせてこじらせたら余計に――」
慧音はそれに反論せず頭を下げ続ける。
その態度を静かに見つめていたさとりは、慧音と同じようにソファーから立ち上がると、ぽつり、とつぶやいた。
「死に至る病……治療は可能だが高額の薬草が必要となる。その母親は薬草を探して里を出た、と?」
「……そうか、隠しても無駄だったな」
「盗み見るようなことをして申し訳ありませんが、そちらのほうが話が早いと思いまして」
慧音は顔を上げ、自分よりも少し小さな地霊殿の主を見下ろす。それでも、悟り妖怪独特の静かな威厳は一瞬上半身を引かせるには十分。その気に当てられて落ち着きを取り戻した慧音は、ぼすんっと再び腰をソファーに沈めた。
「そう、だな。そのほうがいいだろう。その薬に必要な薬草は生息域が限りなく狭くてね。少しでも人間の手が加わると枯れてしまうような繊細さも持っているらしい。だから一年間に摂る量も薬剤師たちによって管理されている」
「あ~あ~、嫌だねぇ。お金ってしがらみは得てして人間を腐らせるだけだって言うのにさ」
「そんなことを言うものではありませんよ、お燐。群れで生活する中では必ず決まりごとがある。その一つが売買という文化なのですから。旧都だって同じようなことをしているでしょう?」
「まあ、そりゃあそうですけど」
一人を救うために甘い顔をすれば、他の誰かを救うときも同じことをしなければいけない。大きな群れになればなるほどその取り決めは厳しくなることくらい、お燐だってわかっている。だからこそ、大切なものは大切、と定めるために高い価値を付ける。
しかもそれが繊細な薬物の材料となれば、専門家にしか扱えない。
もし母親が偶然その薬草を見つけたとしても。
仮に見つけたとしても――その草が、望んだ効果を発揮できるかもわからない。
「もし、母親が見つけられたなら。無茶なことをせずに戻るように伝えたい。私にはそれしか思いつかないんだ」
「そうですか、しかし、こちらでも手掛かりがなければ当てもなく歩くことくらいしか」
「あの、さとり様に、慧音先生。つまりは、その子供少しでも元気づけられればいいってことかい? もし母親に会えなかったとしても」
「そうだな、大きく言えばそうなるんだが、何か考えが?」
「ふふん、あたいは機転の利く猫だからねぇ」
ソファーに座り、腕を組みなおすお燐は、鼻をふふんっと鳴らして。
「手紙さ」
「何?」
「だから、手紙だよ。その子が拘るそれの返事を書いてやろうってね♪」
すでに失敗した案を自慢気に語る黒猫の前で、さとりと慧音は思わず顔を見合わせていた。
「それと、もう一つ。さとり様にお願いがあるんですけど……」
人里の、中央通りから外れた場所。
長屋が連なっている狭い裏通りで、いきなり大きな声が響き渡る。
「ありがとうございます! 息子があんなに元気な顔をしたの久しぶりで!」
「ははは、照れるねぇっていうか。イタイ、イタイ」
「す、すみません。つい力が入ってしまって」
涙ぐみ、お燐の手を握るのは、中年まではいかない人里の青年だ。一般的な紺色の和装を着込んだその服から覗く腕は中々引き締まっており、力仕事を生業していることが推測される。嬉しさで加減を忘れた手の力からしても、それは明らかだった。
「慧音先生から、妙な化け猫を紹介されたときはどうしようかと迷ったのですが、決断して本当に良かった」
「はっはっは、若干失礼な物言いが気になるんだけどねぇ。まあいいけど」
ぶんっと、苦笑しながら腕を振り払い、ぷるぷるっと手首を揺らす。細身に見えて比較的身体能力の高い妖怪なので痛みなんて毛先ほども感じないのだが、抗議という意味を込めて眉を潜めてみる。それでも興奮冷めやらぬ男は、ありがとうと言うばかりで一向にお燐の言葉を聴こうとしない。おかげさまで長屋のほとんどの住人がそのやり取りをこっそり覗く始末。
妙な状況に追い込まれたお燐は、仕方なく後ろに控えていたもう一人の人物を振り返る。
「先生、なんとかしておくれよ。人間の扱いはそっちが長けてるんだろう?」
「お前のその言い方もどうかと思うが、わかった。少しこちらで受け持とう」
お燐と立ち位置を入れ替え、慧音が男へと優しく語り掛ける。すると興奮して叫んでばかりだったざんばら髪の男の声が、段々と治まっていく。
「それでは、そちらはもう子供のところに戻ってやれ。今日は仕事もないのだろう?」
「はい、どうもありがとうございました」
最期に男は何度も頭を軽く下げながら身を引き、自分の家の中へと消えていく。そこでやっと肩の荷が降りたのかお燐は胸を撫で下ろして回れ右をする。人間を少しでも安心させるために台車を置いてきたことも、彼女の心的ストレスに繋がっていたのかもしれない。
慧音に向けて揺らす二本尻尾も、 自分の功績にどこか誇らしげだ。
「しかし、ああもうまくいくものか……」
「ま、思い付きだったけどね。あの男の子が手紙を渡すって言う行為をどこで覚えたのかってことを普通に考えてみてね。やっぱり親の姿を見て覚えたんだろうって思ったのさ。で、やっぱり昔にやり取りした母親の手紙が残ってたから、その癖を真似て書いてみたってわけだよ」
「猫の手も借りるとはこのことだな」
「うまいこと言ったつもりかい? まったく、人間なんだからもう少し道具を使う術を覚えて欲しいもんだよ」
「人間という血が混ざると、他人の生活まで踏み込むのを躊躇ってしまうものなんだ」
ばつが悪そうに腕を組む慧音を見て、いたずらっ子の笑みを浮かべる。そのお燐の横に浮かぶうっすらとした炎も楽しそうにゆらゆらと揺れていた。白い頭蓋骨を紫色の炎がぼんやりと隠す、そんな奇妙な物体。人里の中では見慣れない炎である人魂を慧音が指差す。
「しかし、その怨霊という気味の悪いものはどうにかならないのか? 護身用とは聞いているが」
「台車って武器も置いてきたんだから、これくらいは我慢しておくれよ。あたいの言うことを聞いている間はなんの悪さもしないからさ。さっきの子供の前だって、ゆらゆら浮かんでいるだけだっただろう?」
「確かに、それはそうなんだが」
先日、お燐がさとりと慧音の前で手紙と一緒に訴えたこと。
それが、
『身を守るために怨霊の一体を連れて地上を行き来することを許してくれたら、絶対に上手くいく手紙を書いてみせる』
などという、本来なら何の脈絡もない話だった。
もちろん、地底から怨霊を持ち出すことは現在も禁忌の一つであるし、勇儀だってそれを容認するはずがない。しかしお燐がどうしてもとしつこく頼んでくるので、さとりが折れ。期限付き、一体のみの限定で勇儀と地上の代表者に交渉、権利を得たというわけだ。もちろんそこで何かが起きれば、お燐はタダでは済まないことになる。そうやってさとりがいくら脅しても、わかったわかったの二つ返事なのだから。
「物事がうまくいったんならそれでいいじゃないか。あたいだってほら、もう一回手紙を作らないといけないわけだしね」
そうやってお燐に全部任せた結果が、彼女の手の中にあるまた新しい封筒だ。完全に母親が書いたと信じ込み、もう一度お手紙を届けて欲しいと願った。手紙の内容はおそらく、会いたいから早く帰ってきて欲しいとかそういう文言に違いない。
それでも、彼女は足を止め俯き加減で問いかける。
「お前は、罪悪感を覚えないのか?」
「いいや全然、あたいはあの子にとって恩人に等しい。違うかい先生?」
慧音は何か納得がいかなかった。
そうやって軽々と母と子の関係に割り込もうとするお燐の態度が、あまりにも軽い彼女の挙動一つ一つが、親子のつながりを馬鹿にしているようにも感じたのかもしれない。
「それにね、あっちの世界じゃ、良心って尺度だけじゃ測れないものもあるんだよ。あたいにとっちゃ、そんな疑問をぶつけられる方がおかしい話さ。狂っているって言われたらそれまでかもしれないけどねぇ」
ごろごろ、と。空が鳴る。
さきほどまで晴れていた空が水色を遥か彼方に押しやって、暗雲だけを呼び起こす。薄暗い闇に覆いつくされた世界の中、人間たちは家路を急いで裏路地を駆け抜け。
「あの子に何も伝えず。静かに一生を終わらせようとする先生たちの方が、残酷で、罪深くはないのかい?」
降り始めた雨の中、二つの影だけが静止していた。
半身を後ろに向けた火車と、人を愛する半人半獣。
前髪を瞳の上に貼り付けたお燐は一度だけ自虐的な笑みを浮かべ、
「悪いね、嫌われ者の独り言だ。忘れておくれ」
肌に張り付いた服を気にも留めず、それだけを伝えた黒猫が行く。
その背に手を伸ばそうとする慧音だったが、透き通るように繊細な指先はそれ以上を進むのを拒んだ。その小さな体にぶつけられる言葉を持っていないことに気がついたからだ。
「……」
足を進めることも、戻ることも出来ず。
慧音はただ、お燐を見送りながら雨に打たれ続ける。
そんな彼女の頭の上から、
ばさり、と。
少し大きな音がして、雨の雫の感触が消えた。
「濡れますよ」
体に似合わない大きさの唐傘を差し出したのは、彼女の良く知る人物。歴史を司る稗田家現当主だった。
慧音は自分の情けない姿をじっと見つめてから、ふぅっと傘の裏側を見上げる。
何も見えないはずなのに何かを探す瞳はどこか遠くを見つめ、答えを探し続けた。
「……どちらが、正しいのだろうな」
「さあ? 歴史ではどちらも正しいことがあり、間違っていることがありますから。私は私の信念を押し通すと思いますよ」
「盗み聞きをしておいて、偉そうなことを言うものじゃない」
「探究心と言っていただけると」
「よく言うよ」
ようやくその身を動かした慧音は濡れた体を阿求に寄せ、ゆっくりと人里の中を歩いた。
一歩一歩、その足を進める度お燐の言葉を思い返すように。
それからお燐は、ずっと手紙を書き続ける。
お空にばれないように、深夜に筆を取り、一つの怨霊の炎を明かりにして白い正方形の中に文字を並べていく。
怨霊と一緒にそれを持っていく度に子供は喜び、もっともっと、とお燐を求めた。
その姿を父親はこう言う。
『まるで母親がこの場所にいるみたいだと』
落ち着いた顔で、お燐が来るのを楽しみにする。自然な笑顔を見せるようになった子供の体にも良い兆候が現れた。わずかながらに体力を取り戻し始めたというのだ。笑顔と健康の関係というものは証明されてはいないが、感情面の変化が大きいと、人里の医者も竹林の医者も言う。
残り少ない命を一生懸命生きる子の姿、それを見て喜びに包まれる中。
そのあまりの変貌に、父親は喜びと共に疑問を感じ始めた。
あの黒猫は一体なんなのかと。
父親は、話のタネを知っている。
今の状態はあくまでも演技であること、
母親は生きていなくて、お燐が過去の手紙を元に文章を書いていることを。
「ねえ、お父さんにもお母さんの手紙を見せてくれるかい?」
だから、父親は見たことがなかった。
どうせ偽物の手紙だと、わかりきっていたから確認したこともなかった。
化け猫が書く、狂った幻想だと、心のどこかでは馬鹿にしていた。
しかし――
父親はその文面を見た瞬間、全身が震えたという。
瞳から涙が溢れ、しばらく何もできなくなったという。
言葉を発することも、不思議がる子供を撫でることも出来ず、ただ涙を流すことしか出来なかったという。
字は微かに違う部分がある。
わずかながら、漢字のミスもある。
それなのに、言い回しのすべてが。
『彼女』そのものだった。
彼が愛した、彼女そのものだったのだ。
だから父親は、慧音に泣きついた。
もしかしたら、本当に自分の妻は生きていて、あの黒猫と出会っているのではないか。
もしかしたら地底で閉じ込められているのではないか。
それを調べて欲しい、と慧音に訴えた。
けれど、慧音は男に言う。
何を馬鹿なことを口にするのだと、男を叱り付ける。
いままでの協力を見て、そんな世迷言を言うのかと怒鳴った。
妖怪という視点で見ても、火車は生きている人間を攫うことはない。あくまでも死体や、死体に残る霊魂を怨霊とするだけだと。
そこで男は、やっと我に返り、すまないと頭を下げて慧音の元を去っていった。
妖怪が人間に協力するという図式を素直に喜びたい彼女にとっては、お燐の活動はまさに手放しで喜んでいいもの。
歴史として記してもいいほどだと、思っていた。
ただ――
男が持ち込んだ疑問が、慧音の胸に楔を打ち込んだ。
そんないざこざがあったことを知るはずもないお燐と子供は、今日も手紙を交換して嬉しそうに笑う。
立ち上がれるようになった子供が、裏通りをゆっくりと歩き、お燐の服をぎゅっと掴んでくる。
「ねえ、お姉ちゃん。僕ね、明日凄いことするんだって、一気に病気を治しちゃうんだって」
「へ~、凄いじゃないか! そうしたら元気になることが出来るのかい?」
「うん、病気をやっつけてお母さんと一緒に暮らすことが出来るんだって!」
「ほうほう、あたいはそういう人がいないからねぇ。嬉しいことなのかどうかよくわからない」
親がいないなんて、変なの。
子供は無邪気な笑いをお燐に向けて、お燐はそれに微笑みで返し、怨霊はその二人の周囲をゆっくりと回り、紫色の明かりで包み込む。
それに気づいた子供が、それを追い掛けようとするが長い間横になっていた体は急な動きに応えることができず、膝をかくりと折ってしまう。それでもお燐の腕が後ろから子供を受け止めて、ドジだねと大きい声で笑い合う。
その少し上では、怨霊が楽しげにその身を上下させていた。
「でもそんな大掛かりな治療をするってことは、しばらく家には戻ってこれないんじゃないのかい?」
「うーん、そうしたら手紙はどうしよう」
「そうだねぇ、じゃあ留守のときは家の中にこっそり入れておいてあげるよ」
「約束だからね!」
「なんだい? お姉さんが約束を破ったことがあったかい?」
「んー、ないけど」
「じゃあ問題なしだ、ほら、お父さんが戻ってきたよ。これからすぐ出かけるのかい?」
お燐の視線の先で、父親が頭を下げ子供を手招きしていた。
表情は明るい、いつもの顔のはずなのにどこか緊張した、張り詰めた気配を背中に纏っている。おそらくそれこそが、大掛かりな治療というやつの影響なのだろう。
「うん、じゃあいってきます!」
「ああ、いってらっしゃい」
その小さな子供をお燐と、子供より小さな怨霊が見送る。
視界からそのすべてが消えてしまうまで、
ずっと
ずっと
曲がり角が手を繋ぐ親子を奪うまで。
そこで、お燐は改めてふぅっと息を整えた。
「かくれんぼが趣味なのかい?」
「いや、そんな趣味はない。少しだけお前に聞きたいことがあってね」
そちら、ではなく、お前。
その物言いからも、何か刺々しさを感じさせる。
それが何かを察したお燐は、後ろから歩いてくる慧音に細い目だけを向ける。
「あの子の母親というのは、あの世にはいっていない、間違いないな?」
「ああ、閻魔様の情報だ。間違いない」
「火車というのは、霊魂をどうするんだった?」
「ああ、そうだよ。そうやって輪廻から外しちまうのさ。あたいの場合はその怨霊を操ったりも出来るんだけど」
決まりきった情報を確認してくる。
いままでの柔らかい表情とは比較にならない、氷の眼差しで。
「それでは、ここから先は私の仮説だ。失礼な話になるかもしれないが我慢して聞いて欲しい」
「なんだいそんなことかい? 遠慮しないで言っておくれよ」
後数歩前進すれば、お互い触れ合うことの出来る距離。
そこでちょうど傾き始めた空が、茜色をお燐の背にぶつける。
真っ赤に燃える、怒りの色を。
「お前が書いた手紙の中に、過去の情報からでは知りうることの出来ない子供の身体的特徴が記されていたのは何故だ?」
「たぶん偶然だね」
「過去からでは知ることが出来ないはずの、火傷や古傷のことまで話題に上がっていたのは何故だ?」
「偶然だね」
「子供が喜ぶ遊び、子供が好きな歌、子供が好きな食べ物、嫌いな食べ物そのすべてが的中していたのは?」
「おやおや、こんなにも偶然が続くなんて――」
お燐はそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
ぶぉんっ、という重い音と共に、慧音の腕が伸びてきたのだから。
それを身軽に飛ぶことで避けたお燐は、屋根の上から瞳を怒りの色に染める慧音を見下ろした。すぐ横に浮かんでいた怨霊と一緒に。
「怨霊にしたな……あの子の母親を……」
「ふ~ん、おっと危ない危ない」
鼻を鳴らしている間に地面を蹴り、浮かび上がる慧音の体。
それをなんとかいなし、お燐は屋根を翔ける。
護衛手段であるはずの怨霊を使うことなく、何度も何度も、慧音の突進を紙一重で避けていく。
薄ら笑いをその顔に貼り付けて。
「あの子の信頼を裏切ったのか!」
「あはは、困ったねぇ。確かにあたいたちは魂を怨霊に変えるけどさ」
横薙ぎの大振りを易々と避け、再び距離を取る。
その動きはまさに猫そのもので、足場の悪さを気にする慧音に捉えられるはずもなかった。
「それが、どうしたっていうんだい?」
「っ! 火焔猫!」
激昂し、頭から突進する慧音。
まさに弾丸そのものになった身体に向かい、何を思ったかお燐も直進し、
ぶつかる寸前で膝を軽く曲げ、一瞬のうちに数回重心移動を繰り返す。
そして慧音がまさに、その細身に直撃すると思われた瞬間。
お燐の体が上下にぶれて、消えた。
「その呼び方はっ、好みじゃないねぇ!」
気が付けば、慧音の後頭部にお燐の足が乗り。
彼女を踏み台にしてお燐が空へと舞い上がる。
そのまま屋根を転げ落ちる慧音を一瞥したお燐は、空中でぱんぱんっと服についた埃を払い。
鼻の頭を、軽く掻いた。
「……悪いね。あたいは、火車なんだよ」
待て、という制止の声を聞かず。
お燐は人里の外へと飛び去っていった。
昼と夜が交差する空の中を。
「やぁ、おつかれさま」
「……はぁ」
「おや? なんだい、元気がないじゃないか」
人里から逃げ帰り、洞窟の前まで差し掛かったところでお燐は大袈裟にため息をついた。わざとらしくと言っても良いかもしれない。
「いまさら何しに来たのさ、お姉さんは」
薄暗くなった世界で、ごつごつとした岩肌に背中を預ける赤髪の女性。
そのちょっとだらけた声音と雰囲気を忘れろと言う方が無理な話だ。
「何って、決まっているじゃないか。勤勉な小町お姉さんは、他の部署の手伝いも喜んでやるんだよ」
「また魂を狩に来たって言うのかい?」
「ああ、そのとおり」
「ふーん」
そこまで会話をしながらお燐はそそくさと洞窟の中に入ろうとする。けれど、その前に大鎌が振り下ろされ進行方向を塞いでくる。
何をするのかと怨霊と一緒に目で抗議しても、何食わぬ顔で通せんぼを続けていた。
その行為が何を意味するのか理解はできていたが、口にするのが億劫だった。
「あの子供の魂だろ? 死因は薬が手に入らないまま無理に治療をしようとして、失敗ってところかな」
「ご名答、よくわかったね」
「ああもう、白々しいねぇ」
「それはお互い様さね。まさかそんな事実を隠しながらあたいに重労働をさせてくれたと思うと、むかっ腹が立つってもんだろ?」
「何のことやらさっぱりだねぇ」
「じゃあ、ちゃんと口にしてやろうかね。ほら、そこの怨霊。その怨霊こそが、あれだ」
振り下ろしていた鎌をもう一度引き戻し、肩に担ぎなおす。
その一連の動作は隙だらけにも見えるが、距離を操ることができる彼女にとって間合いなど意味のないもの。彼女が避けようと思えばその攻撃は空を切るし、その逆も然り。彼女の能力の範囲すべてが攻撃範囲であり、彼女の間合い。
お燐が油断なく構えを取る中で、妖しく瞳を輝かせた小町は、
「あの子供の母親の魂が、変異したものだ」
あっさりと、言い切った。
怨霊はびくりっと、空中で震えお燐の背中へと隠れるように移動していく。
その反応だけでも、小町の言葉の正当性を証明していた。
「ああ、そのとおりさ。あたいだって自信はなかったよ。でもね、慧音先生って人の言葉を聞いてね。最近そういう魂を怨霊にしたことを思い出したのさ」
不自然な空気だった。
怨霊は何かされると警戒しているようだったが、お燐は迷う。
小町が何をしにここに来たのか、まったく理解できなかったのだ。
死神の面子をつぶされた仕返しに来たのかと思ったが、この小町という女性がそんなことをするとは考えにくい。
だから、様子を見るしかなかった。
彼女との会話に付き合うことによって。
「あの魂はね、だいぶ磨り減っていたよ。最初はたぶん慧音先生の言うとおり、純粋に薬草を探しに外に出たんだろう。でもね、知ったんだ。知識のない自分では、薬の材料になる状態で採取することができないってね。だからさ、母親は鬼になったんだ。お姉さんは火車の特性を理解しているだろう?」
火車は、悪人の魂しか運ばない。
小町はそれを口にすることなく、頷きだけで応える。
「あの子の母親はね、お金を手に入れようとしたんだよ。身を隠したまま人里の人間を何人か襲うことでね。材料が手に入らないのなら買うしかないからね。同じ仲間である人間を殺し有り金を奪ったんだ。きっと、その途中で失敗したんだろう。最期は魔法の森まで追い詰められて、傷と瘴気でさようならだ」
「道を踏み外す家族って意味では、よくある話だね」
「あのときお姉さんが遅刻しなけりゃ、こんなもの背負い込むことなんてなかったんだけど」
「それは悪かったよ、だからこれだけ根回ししてやったろう?」
「事態をかき回すことを根回しって言わないんだよ」
「はは、違いない。でも、お前さんも大概だね」
いくら会話を重ねても、
いくら裏を探ってみても、
小町の意識はぶれない。
のらりくらりと会話を繰り返すだけで、本当に雑談をしにきただけにも見えた。
だからだろうか。
「責任を感じて怨霊を外に出すなんて真似をしたわけだ。手紙を出すなんて面倒なことを口実に、怨霊である母親を家族に会わせてやった」
「……単なる自己満足だよ」
いつの間にかお燐は構えを解き、近くの岩に腰を下ろしていた。
それを見た小町は、うんうんっと満足そうに頷き、柔らかい土を選んで胡坐をかく。お燐と真正面から向き合う形で。
「怨霊として輪廻から外れちまったこいつはもう、子供と同じ年月を過ごすことは出来ないんだ。たとえ悪人って言っても、それくらいしてやってもいいと思ってね」
同じ死を扱う者として、対立しながらも理解しあう仲間として。
言葉を紡ぐ度、お燐の心の重さが消えていくのがわかる。
「でもね、残酷だよ。連れて行ってやることしか出来ないんだ、あたい。触れさせてやることも声を出させてやることも出来ない。正体をばらすなんてもってのほかで、誰もその魂を母親だなんて思いやしない。一方通行の感情しか作れないんだよ」
腰を落として、膝を抱く。
顔の半分を膝で隠し、声を曇らせる様子はまるで捨てられた子猫のよう。
自分がしたことが本当に正しかったのか、誰も教えてくれないし、誰も判断できない。
それでも、
「お前さんは、優しいってことにしておいやろう」
「そんなことはないよ。目の前に極悪人の死体があったら我慢できずに運んじまうことのある。どうしようもないヤツさ」
小町は笑って言う。
胡坐をかいたまま、膝をぽんっと叩いて言う。
その仕草にお燐も釣られ、自嘲気味に笑った。
「不器用なだけだよ、あたいはね」
「ああ、それこそお互い様だ」
よっこらしょ、と。
若さの欠片もない声で小町は立ち上がり、鎌を持つ手をお燐に向けてやる。
「あたいだって、迷うさ。鎌を振る前も、振った後もね」
その小刻みに震える手を、見せ付けてやる。
魂という限りなく重いモノを奪う、折れてしまいそうな細い両腕を。
「じゃあね、お互いに良い夜になることを祈っておくれよ」
「ああ、神様に願っておくよ」
「一応、あたいも神様だから」
「そんな信憑性の神様誰が信じるもんか」
「ははは、それでいい。それぐらい元気があったほうが火車らしいからね」
またね。
そんな友人の挨拶を残して、小町は消えた。
とうとう仕事の時間になったのだろう。
「さてさて、それじゃあ……あたいもさとり様の小言を聞きにいこうかねぇ」
ばつが悪そうに、笑う少女を励ますように。
一つの怨霊がその背を優しく支えていた。
良い雰囲気のお話です。
きっとこの後さとり様は優しく小言を言った後でお燐を慰めてくれるでしょう。
お燐と小町は、緊張感と馴れ合いがブレンドされたライバルとして良い関係ですね。もっと流行れば良いのに。
四季様は全部わかっていたのでしょうか
お燐は苦労人と言うか、自分から貧乏くじ引いちゃうタイプですね
知らんぷりを決め込めるほど厳しい性格ならこんなことにならずに済んだんでしょうね……
ほんのり切なくて、少しだけ後味のホロ苦さが心地よい作品でした。
こう、理性的で策士家で損得勘定がうまくて、でも感情優先で苦労人で損にしかならなくても自分から貧乏くじを引く。
その上で、「やりたいことをやっただけだ」って胸を張ってる感じが自分のイメージにぴったりでした。