『本当に君は馬鹿だな。』
*
「あれっ?」
本日3度目の頓狂な声を上げて、私はぱたぱたと身の回りを探り出しました。
こういう時は焦ってはいけません。調べられる所を順番に探していけば必ず見つかります。
と、聖が言っていたので、私は腰に巻いていた制服のジャケットを外し、ポケットを順番に探り始めました。
どうやら、ジャケットにはないようです。
う~む、と私は唸りました。次はどこを探してみましょうか。スカートのポケットでしょうか。
「しょ~う?「また」無くしもの?」
私がうんうんと唸っているので気になったのでしょう。隣の席のぬえが話しかけてきました。
「また」の所にもう一つ鍵括弧を付けたいくらい強調されてしまいました。でも、それも仕方のない事です。
私は俯いて言いました。
「はい…、またやってしまいました…。ずっと使っていてお気に入りの下敷きだったのですが…。」
「下敷きぃ!?そんなのジャケット探ったって出てくる訳ないじゃん!ていうか高校生にもなってそんなの使ってるわけ!?」
ぬえは制服から飛び出た羽根をぴくっ!とさせて驚きました。う~ん、それにしてもいつ見てもよく分からない形の羽根です。
俯いていると黒のニーハイソックスから覗いている真っ白な太腿が眩しくて、私は顔を上げました。今日もUFOを模したヘアピンがきまった、可愛い顔が覗いています。
ぬえはクラスいちのおしゃれさんで、皆からカワイイと言われているので、下敷きなんて子供じみた物はもう使わないのでしょう。
「でも、私はあれがないと綺麗な字を書くことができないのです。」
そう言うと、ぬえは何故か悲しそうな目をしました。「あんた…そもそも読めるような字じゃないじゃん…。」とか呟いている様な気がしましたが、何の事でしょうか。
時計を見ると、もう次の授業が始まる時間です。次は確か歴史だった気がします。歴史の上白沢先生は板書の量がとても多いので、もし下敷きがなければ授業に出る価値が半減してしまいます。
せっかく私の好きな奈良時代が授業範囲なのに、私はちゃんとノートを取る事が出来ないのです。私は悲しくなってまた俯きました。
その時です。
前の席に座っていた小柄な女の子が、くるり、と振り返って、長方形のぺらぺらを差し出しました。
「これを使うといい。」
玉を転がしたような声で、彼女は言いました。ちなみに、私は毛玉などを転がして遊ぶのが好きです。
差し出されたのは私の下敷きと全く同じものでした。でも私のは隅にちいさく「しょう」とマジックペンで書いてあるので、これではありません。
「わ!凛名さんもこの下敷きを使っているのですね!」
「う…ん。まぁね。」
私の下敷きは、「喘息魔法少女パチュリー」という、小学生のころ流行ったアニメものの下敷きです。昔はよく主人公の必殺技であるロイヤルフレアを撃ちたくて、ポーズを取ってみたものでした。
思わぬ仲間に巡り合い、嬉しくて思わず声を上げてしまいましたが、凛名さんは少し恥ずかしそうにして、ふいっと前を向いてしまいました。丸くて可愛い耳も前を向いてしまいます。
やっぱり下敷きなんて子供っぽいと思っているのでしょうか…。私は少し悲しくなりました。
凛名さんはフルネームだと「凛名津々」さんといいます。とても素敵な名前だと私は思うのですが、みなさんは苗字が下の名前のようだとか、「つつ」は読み辛いと言ってあまり呼ばずに、間のふた文字をとって「ナズ」と呼んでいる事が多い様です。
私も呼んでみたいのですが、なかなか渾名を呼ぶという事は恥ずかしい事で、出来ずにいます。ままならぬものです。
「本当にありがとうございます。お借りしますね。」
向こうを向いてしまった凛名さんに御礼を言うと、凛名さんは振り返らずに言いました。
「礼より先に、君は失せ物を無くす努力をするべきだね。」
失せ物だけに無くせ、なんてさすが凛名さんです。ユーモアにも溢れています。
誰が付けたか、「賢将」なんて渾名もある程です。確かに、赤縁眼鏡がよく似合う、クールな凛名さんにはぴったりだと思います。
その玉を転がした様な声で、私は叱られているのに、少し暖かい気持ちになりました。言葉は確かに厳しいものですが、話し口はとても柔らかくて、ああ、やっぱり素敵な方だな、と思ったのです。
*
ぽわんぽわん。
少し間抜けな音と一緒に、柔らかい風が私の耳を撫でる。
私が貸した下敷きを、寅丸さんが扇いでいるのだ。
この風が彼女の前髪や頬、耳を撫でていると思うだけで、私の耳はじゅうと音をたてて真っ赤に染まってしまう。いや、内側の事だよ。
彼女と同じ下敷きを探して一年、いつか彼女が無くす事を信じリュックに入れ続けて三日。長期戦も覚悟していたが、さすが過ぎる速度で寅丸さんは紛失した。苦節一年の(主に捜索の)努力がやっと報われたのだ。
なんでこんな涙ぐましい努力をしているかなんて、今更述べるまでもないだろう。私は彼女に惹かれているのだ。
束感のある、黄金色の髪。少し強調している眉は、可愛いというより美形としての顔立ちを際立たせる。類い稀なる長身にも関わらずその手足はほっそりと白く、奇跡とも呼べるそのバランスに、私は彼女となら神にも逆らうのも厭わないと感じていた。
まぁ、彼女は寺院の娘さんなので、神仏への謀反は許してくれないと思うが。
そんな完璧すぎる容姿を持つ彼女にも、欠点はある。それも、補っても余りあるというレベルではない程の。
彼女は失せ物のスペシャリストであった。それも金メダル級の。
失せ物メダリストたる彼女の失せ物は、それはもう質量ともに申し分ない。
今日寅丸さんが「あれっ?」と言ったのは3回。私は入学してからの一年半、一日に3回以内に収まった日はない事を知っている。
無くすバリエーションも多岐に渡り、小さな物は文具から、大きなものは御実家にある国宝級の宝塔まで無くしたと聞いている。
落とす場所も様々で、一度は彼女の赤青えんぴつが家庭家室の冷蔵庫の中にあった事もあった。一体どんな壮大な物語が展開されればそんな事になるのか教えて貰いたい。大体、赤青えんぴつなんて久し振りに見たよ。
ここまでくれば感服慧眼の至りだよ、うっかりさん。
とまぁ、内心でそんな軽口を叩いていたが、実際にはそれどころではない。私が彼女と会話ができるのは、遺失物に関する時だけなのだ。
だって、彼女と目線を合わせると、その笑顔が私に向いているというだけで、至る所が真っ赤になってしまい、私はすぐそっぽを向いてしまう。そんな状態では、まともに話しなんてできないじゃないか。
私が彼女に話しかけていいのは、失せ物という口実がないといけないし、彼女に触れていいのはそれを手渡す一瞬だけなのだ。
そんな私に、すぐそっぽを向いてしまう私に、彼女はちょっと寂しそうな顔をしてから、それでも「ありがとうございます、凛名さん。」と笑いかける。
君は、ずるい。
そんな顔されたら、どうしたらいいかわからないじゃないか。
ずるい。ずるい。
でも、好きなんだ。
だから私は、君のなくしものを探す。
君に触れる唯一の接点。君と私を繋ぐ、細すぎる糸。
君の歩いた軌跡を辿り、いつか君の傍に行けると信じて。
隣で、君の手を握って、「君が失せ物をしないように、見張っているのだよ」とか言って、君は少し申し訳なさそうな顔をして、「面目ありません…。」と言って、でも握る手に少し力をいれて、私に「ありがとうございます。」と笑いかけるのだ。
そんな、幻想の中ですら叶う見込みのない夢物語を、私は諦観もしきれずにもがいている。
*
「ただいま帰りました。」
私は誰もいない家に挨拶をしました。今日父上は檀家様のお宅に行っているはずです。
私は自分の部屋に行く前に、仏壇の前に向かいました。本堂のような大きなそれではなく、もっとこじんまりとしたものです。
そこには、私の母上がいらっしゃいます。いえ、もういらっしゃいませんが。ええと、この世にはいらっしゃいませんが、ここにくるとお会いできます。
私が母上と過ごしたのは幼少の頃だけでありました。その頃から私は落し物が多く、父上はいつも厳しく叱りましたが、母上は私の頭を撫で、「大丈夫よ。」と言ってくれました。
「星にも、星の無くし物を見つけてくれる、素敵な人が見つかるからね。」と。
そう母上が仰ると、父上はどうしてか強く叱りつけなくなるのです。母上はすごいなぁ、と思っていると、何時の間にか、私の手に落としたはずの失せ物が握られています。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」そう言って母上は、細い金物の棒を2つ手にして笑うのでした。
私は、そんな魔法使いの様な母上が大好きでした。母上が亡くなった際、 あの不思議な棒は檀家様の御子様に差し上げたと聞いています。母上の形見ですから、本当は私も欲しかったのですが、私には使いこなせないと父上が仰ったので諦めました。ちゃんと使ってくれる人に差し上げた方が、物も母上も嬉しいでしょう。今でも大切にされてればいいな、と思います。
今日もいつものように、母上に学校であった事と、落としたものの報告をしようとしたのですが、先客がおりました。
「来てたのですね、聖。」
そう言うと、ちょこなん、と正座していた先客は拝む手を解き、私の方に向かいました。制服の胸のリボンが少しアレンジされていて、格子状になっているのがとってもキュートです。
「勝手に上がらせてもらってますね。おかえりなさい、星ちゃん。」
付き合いの長い聖は、私が一番喜ぶ言葉を知っています。父上はいつも忙しく働いておりますので、私は帰るといつも一人です。「おかえり」という言葉は、なかなか聞けないのでした。
まるで家族の様で、なんだか嬉しいです。
と、思っていたら、どうやら口に出してしまっていた様でした。聖は何時ものように、ほんわりと笑って言います。
「ふふ…。星ちゃんと私は家族ですよ?」
ああ、聖。大好きです。
「家族同然」ではなく、「家族」と言ってくれる貴女は、本当に聖母の様です。でも仏道の子としてそれはどうかと思うので、言いません。
聖は、私と同じく寺院の子で、父上同士の付き合いから、幼少の頃より仲良くして貰っています。うちと違って大きなお寺ですので、聖はよく御実家の手伝いをしています。ろくに手伝いもせず、失せ物をしてばっかりの私とは大違いです。
「それで、星ちゃん?今日は無くし物は無かった?」
母上に報告をして、座布団を敷いて向かい合うと、そう聖が聞いて来ました。
聖に隠しても仕方がないので私は正直に、3つ無くしてしまいました、と言いました。慌てて、ちゃんと聖に教わったように、探せる所を順々に探していったのですが、と付け足します。
言っていて情けなくなってきて、私はうなだれてしまいました。耳があったらぺたんとしてしまったに違いありません。
でも聖は、「大丈夫ですよ、星ちゃん。」と、まるで母上の様に言って、私を撫でるのです。
どうしてですか?と聞いても、「きっと見つかりますから。」としか言いません。なのに、妙に自信ありげな顔なのです。
どうして聖はこんな表情なのだろう、と私はうなだれるのも忘れてう~ん?と首を傾けましたが、聖はにこにこと笑っているばかりなのでした。
仕方がないので、凛名さんが下敷きを貸してくれた話をすると、聖は「あら!」と言い、「あらあら!」となんだか嬉しそうなのです。なのに、その理由を全然話してくれません。ただ「あらあら」と言うばかりなのです。
挙句の果てに、
「星ちゃんは、ナズちゃんを好きですか?」
なんて聞いてきたのです。私はびっくりして手に持っていた湯飲みを落としてしまいましたが、床に着く前にぴたっ、と止まりました。
さすが聖です。まこと法力というのは天晴れです。
何故だかわからないけれど、油断したらいろいろな所が赤らんできそうで、私はなるべく平静を装ったまま「素敵な人だと思います。」と言いました。
聖がやたらとにこにこしているのが悔しかったので、聖はムラサとばかりいちゃついている、とぬえが噂していた事を聞いてみたら、聖は突然びくっ!として持っていた湯飲みを落としました。どうして自分の時には法力を使わないのでしょう?
私が畳を拭いている間、聖は俯いて、「それは、確かに私だけじゃ今回だって星ちゃんの気持ちとか気づけませんでしたよ?水蜜ちゃんがいなければ私はなんにもできませんし…。だってそれは水蜜ちゃんが頼りがいがあるからしょうがないというか…。」とかなんとか私にはさっぱりわからない事をぶつぶつと言っています。
私は、あ、仏道の子が2人だけに仏仏(ぶつぶつ)、なんてどうでしょう?
なんて下らない事を考えるのでした。
う~ん、私にはユーモアのセンスがない様です。誠に残念です。
そんな風に、日暮れ時は過ぎていったのでした。
*
ああ、もう日暮れ時か。
私は窓から見える夕陽の眩しさに、思わず溜息をついた。
橙色の陽が人気のない図書室に差し込み、それは幻想的である。あとは黒髪の薄幸そうな乙女でもいれば絵にでもなるだろう。
まぁ、この学校には幸薄い黒髪の乙女と呼べる学生はいないが。緑髮の神社の子ならいた気がする。
しかし、どれだけ幻想的であろうとも、現実を見渡せばそこにあるのは、本棚と本棚の間に散らかった本と、そこに佇む私である。
私はもう一度立て掛けておいた2本のロッドを手に取り、ダウジングを開始した。下敷きについた、寅丸さんの気配の残り香を頼りにして。
何故だか分からないが、私は昔からある種の勘が冴えていた。失せ物を探す、あるいは目的地までの道のりが分かる、といった類いのものである。
しかしそれはまぁ、多少人より冴えている、というだけで、特別な力、という訳ではなかった。確率論として片付く程度のものだと思う。
故に、私が特定物まで探し当てる事が出来るのは、この2本のロッドがあるお陰である。
先端に東西南北を象ったロッドは、元々私のものではない。ある方から譲り受けたものだが、今はもうその方はいなくなってしまった。
譲り受けたものだからか、私の力が未熟だからか。ロッドを用いても、件の下敷きはおおまかな場所しか分からなかった。
そうやって指し示された図書室にやってきて、目につく場所を探したが見当たらない。仕方なく片っ端から本棚をひっくり返しているという次第である。いや、ほんとにひっくり返しているわけではないよ、もちろん。
諦めきれずにダウジングをしてみたものの、やはり「ここの何処かにある」という感覚しか得られない。私は諦めて、また本棚を探る作業に戻ろうとした。
声がしたのはその時である。
「あら、奇遇ね。」
本棚の陰から突然声がして、私はバッと振り向いた。
「やぁ、『船長』。何の様だい?」
私はなるべく平静を装って尋ねた。もちろん、突然の事で動揺していたというのもあるし、図書室を散らかしていたという背徳めいたものもあったが、それ以上に、私はこの少女を警視していたからだ。
目の前にいるのは、私と同じ制服を着た、私と同じクラスの少女である。
一点、格好に違いがあるとすれば、彼女は水兵のような帽子を被っている。
原則、この学校は制服のアレンジは自由であり、余程逸脱していなければ帽子であっても認められる。
以前、夏場にどこぞのお嬢様が、どうやって手に入れたのか、足の速い桃を飾り立てた帽子をかぶって登校し、当然の様に腐臭をさせ、皆からす巻きにして踏みつけられていた。あの時何故か嬉しそうな顔をしていたのが、私は今でも恐ろしい。
とにかく、この学校において帽子、アクセサリーの類は珍しくはない。しかし、目の前の少女、村沙水蜜はその水兵帽に加え、クラスで委員長を務めており、熱心とも言える程風紀を取り締まる事で有名であった。
故に、皆からなんとなく「船長」と呼ばれているのである。
そして、彼女は私の目からして、必要以上に寅丸さんに近づいている節がある。だから私は警視していた。
「いやいや。放課後に長物持ってうろついてる人がいると聞いたら、ほっとけないでしょ?」
要するに私を探していたのか。全然奇遇じゃない。
「それで私だと決め付けるのは些か尚早ではないかな?別にこのロッドは危険物ではないのだがね。」
私は手にしたロッドを軽く持ち上げて言う。
丁寧な言葉遣いとは、こう言う時に役に立つ。
つまり、「私は君が嫌いだが、私からに突っ掛かる気はないよ。無論、君の方から態々突っ掛かってくれるなら、やぶかさではないがね。」という意思表示である。
そして、彼女もそれを承知の上で、私の勘に触るように撫でつけてくる。
「残念だけど私は、不特定の誰かに危険を及ぼすものは危険物と定義するの。確かに、刀やら鎌やらよりは幾分マシだけど。」
「その定義は幾分包括的すぎるのではないかな。観念的な物まで取り締まる気かね?」
すぐに混ぜっ返す。定義付けの曖昧さを攻めるのは、反駁における常套句だ。
まぁ、どうせ返してくる言葉もわかっているのだが。伊達に賢将なんて呼ばれては居ないのだよ。
「観念的なもの…例えば、思想なんかは、ある種の危険物でしょう?必要があれば取り締まるわよ。」
ま、そう返すだろうね。
まさかこんなやりとりをする為に此処に来るわけがないから、彼女は何か用事があるのだろう。それが分かっているからこそ、無駄な時間が余計に苛立つ。無為は度を過ぎれば、害を及ぼし、無為ではなくなるのだよ。
まぁ、いいわ。そう彼女は言い、私は少し安堵する。
無益な時間は好きではない。
だが、彼女はその後、思いもよらない行動に出る。
「じゃあ、ここにある、星の下敷きは預かっておくわよ?」
ひょい、と。
いとも簡単に。
余りに無造作に。
傍の本棚から取り出した薄い板。
それは、寅丸さんの無くした下敷き。
私と、彼女を繋ぐ、唯一の接点。
とく、とく、とく。
私の鼓動が早くなる。
小さな私の、小さな心臓が波打つ。
顔が、紅くなるのを必死に抑える。
触れるな。
そう、思った。
きっとそんな歪んだ感情は持ってはいけないのだろう。でも、思ってしまった。
それは、私が、私が寅丸さんに、渡すんだ。
ましてや、君なんかに渡させるものか。
触れるな、触れるな、触れるな。
「それを、こちらに渡してくれないかな?」
それでも、なけなしの理性が働いて、私から出た声は、酷く冷静なものだった。
冷静過ぎる程に。
「なんで?」
嫌らしい笑みを浮かべて、彼女が言う。でも、そんな事はどうでもいい。
彼女にどう思われていようが、関係ない。
私は寅丸さんに触れたいんだ。その為なら、誰だって騙す。陥れてみせる。
「それは、私のなんだ。助かったよ、ありがとう。」
まくし立てる様に言って、私は手を伸ばして下敷きを掴もうとする。
しかし、船長はそれをひょい、っと私の届かない高さに持ち上げた。
「ん?これは星のでしょ?私使ってるの見た事あるもの。」
「ああ、寅丸さんも使っていたのか。奇遇だね。私もそれを使っているのだよ。」
「あら、ナズは下敷きなんて使ってたかな?記憶にないんだけど?」
にやにやとした笑みのままで、わざとらしく尋ねて来る。どうでもいい。
「君の記憶になくても、そうなのだよ。いいから、渡してくれないか。」
そうなの?と彼女は言う。
いいからこっちに渡せ。
「じゃ、これは絶対に貴女のなのね?」
「そう言ってるだろう?」
煮え返る腹とは裏腹に返すのは冷ややかな声。
「絶対に?」
しつこいな!
「絶対にだよ。」
ふうん。
にぃ、と。彼女は笑った。
それは、あたかも、勝利を確信した様な。
「じゃあ、貴女は自分の下敷きに星の名前を書くのね。変わった趣味だわ。」
そう言って、下敷きのある点を指し示す。
本当に小さな字。独特の丸っこい、癖のある字。でも見間違える筈がない、彼女の字。
私の好きな人の名前。
見落としていた。
だって、下敷きなんて詳しく見ている筈がない。
私が見ていたのは、彼女だけだ。その横顔すらまともにみれないのに、下敷きなんて、見てる訳がないだろう?
論では返せない、絶対的な証拠。
何も言えない私に、彼女は言う。
「まぁ、まさか貴女がそんな趣味を持ってる訳がないから、これは星のよね?じゃ、私から返しておくから。」
一方的な勝利宣言。
言いたいだけ言うと、彼女はじゃあね、と消えた。
私はただ立ちすくんでいて。
ただ、散らばった本に西陽が射して、その美しいはずの光景は私の気を重くさせたのだった。
*
次の日のことです。
お昼ごはんを食べて、次の授業の教材を机に出したら、やることがなくなってしまいました。
ぬえ達の話にまざっても、オシャレすぎてついていけないし、聖は一輪と食堂に行っています。私は不得手ながらも自分で弁当を作っているので、教室で食べることにしています。
だったら、他のお弁当を持って来ている子達と御一緒すれば良いのですが、私はどうもあの、おかず交換というものが出来ないのです。私のおかずは薄味すぎて皆さんの口に合わないようですし、貰ってばかりだと申し訳なくなってしまいます。
ああ、一度だけ凛名さんと交換した事があるのですが、何度もおいしいと言ってくれて、すごくくすぐったかったです。
凛名さんはちょっとチーズが多めですが、とても料理が上手なので、あれはきっとリップサービスだったのだと思います。
そんな訳で、一人で食べ終った私は、どうしようか考えていました。
私の席は窓際ですので、射し込んでくるお日さまがすごくぽかぽかします。
ぽかぽかしていると、あれがやってきます。私はあまりあれには勝てた事がありません。
そう、睡魔というやつです。
そんな訳で、少し眠たくなった私は、うつらうつら、うつらつつ、とぼーっとしていました。
前の席は空です。なんだか今日は凛名さんが、あまり顔を合わせてくれません。何か失礼な事をしたでしょうか。
少し、淋しいな、と思いました。ちょっとだけ胸がとくん、としました。
?
いつもはそんな事にならないのですが。
不意に、聖の言葉が蘇りました。
「星ちゃんは、ナズちゃんを好きですか?」
また、とくん、と鳴りました。
えっと、私は素敵な人です、と答えました。
とく、とく、とく。
そう、凛名さんは素敵な人です。素敵なだけじゃくて、えっと、すごく魅力的で、私なんかじゃとても傍に…。
「星?寝てるの?」
不意に声がして、私はびくがばっ!と飛び起きました。
「なんだ、起きてるじゃない。」
私を覗き込んでいたのはムラサでした。
あれ?私は今何を考えていたんでしょうか…?
なんとなく頭がはっきりしません。思い出す間もなく、ムラサは私にぺらぺらしたものを差し出しました。
「ほら、これ。星のでしょ?」
「あれ?」
私のはここにありますよ?そう言って、私は机から下敷きを取り出してムラサに見せました。
「呆れた。星、それは昨日ナズから借りたものでしょ?」
あ、そうだったのでした。
私の手元にある下敷きには、隅にちいさく「なず」と書いてあります。
下敷きの隅に名前が書いてないのが寂しくて、勝手に名前を書いてしまいました。
もちろん、私の名前を書く訳にはいかないので、「なず」と書きました。あとで凛名さんに怒られてしまうかもしれません。
でも、書いたらなんとなくほっとしました。
「失くした事も忘れるなんて末期じゃない。星もいい加減その癖なんとかしないと、ナズに見限られるわよ?」
そうムラサは言いました。
急に出て来た凛名さんの名前に、私はびくっ!としました。出来るだけ、平静を保ちながら問いかけます。出来るだけ。
「ど、どど、ど、どうし、て!凛名さんの名前が出てくるのでしゅか!」
噛んでません。断じて噛んでません。
ムラサは「何取り乱してんのよ…」と呆れた顔をしました。いえ、私は取り乱してなんかいませんよ?
「その下敷き、見つけたのは私だけど、ナズがずっと探してたのよ?放課後遅くまで残って。」
「え…?」
どうして凛名さんが私の失せ物を探すのでしょうか?
確かに、いつも凛名さんがどこからともなく私が落としたものを見つけて来てくれました。
でも、凛名さんはいつも「偶然だから、君が気にする事じゃない」と言っていたのです。
「星、貴女もね、いい加減ナズの気持ちを考えてやりなさいよ。」
ムラサはそう言います。
私の失せ物を探す、凛名さんの気持ち。
それは、もしかして…。
ああ。
私はなんて馬鹿だったのでしょう。馬鹿だけでは足りません。阿呆で、こんこんちきです。
でも、こんこんちきってなんでしょう?
私は凛名さんの気持ちに気付いて、思わず机に伏してしまいました。このままでは凛名さんに会わせる顔がありません。
ムラサが耳元で何か言っていたようですが、全然耳に入りませんでした。
私は、きちんと凛名さんとお話して、謝らなくてはいけない、と考えていたのです。
*
もーいーかい?
まーだだよ。
それは、遠い記憶。
私が、初めて寅丸さんに出会ったあの日。
寄り合いにはほとんど参加しなかったため、おそらく彼女は知らないだろうが、私の家は彼女の寺の檀家だった。
その日は年越しの打合わせで、檀家達が彼女の家に集まっていたらしい。
しかし、そんなもの、一緒に連れて来られた子供達にしてみれば、退屈以外の何ものでも無い。
ましてや滅多に入れない寺の本堂である。暇を持て余した子供達がかくれんぼを始めるには、十分な条件だった。
誰がオニで始めようか、じゃんけんで決めようか、範囲は本堂だけだよ、などときゃいきゃい楽しげに笑う子供達の輪の中に私もいた。
その時、私は初めて寅丸さんに出会った。
母上なのだろう、優しそうな笑顔の御仁の陰に隠れて、こっちを伺っていた、わたしよりも体の小さな女の子。
くりっとした目に、さらさらの髪が綺麗で、私は目が離せなくなった。かわいい子だなぁ、と思った。
「ねぇ、この子も混ぜてあげてくれないかしら?」
そう柔らかい笑顔で女性がいい、おずおずと隠れていた少女が出てくる。
私達に断る理由もなく、かくれんぼが始まった。
思えば、あの時から私と彼女の、鬼ごっこのようなかくれんぼが始まったのだと思う。
子供というのは、放っておけば何時までも遊んでいるものだ。私達もその例に漏れず、陽が暮れるまでずっとかくれんぼをしていた。
だが、陽が暮れれば、私達の遊びとは無関係に、終わりはやってくる。大人達が話し合いを終え、一人、また一人と帰り出したのだ。当然、付いてきた子供も一緒に帰っていき、段々と遊んでいる人数は減って行った。
人が減ってしまえば、かくれんぼは遊びとして成立しなくなってしまう。
私達は次の一回で終わりにしようと決めた。私がオニだったのは偶々である。
一人、一人と見つかった子から、親に連れられ帰っていった。また、見つからなくても、「帰るぞ」と名前を呼ばれれば、顔を出して去って行く。
もう、みんな帰っただろう。
そう私は判断して、自分の親が迎えに来るのを待っていた。
先ほど本堂を覗いて見たら、この寺の住職と私の父親がなにか難しそうな話をしていたので、まだ時間がかかるだろう。私は腰掛けに座り、足をぷらぷらさせていた。
12月の風は少し冷たい。
私は耳をすこしたたんで、膝を抱えて丸くなる。
とっ。とっ。
という小さな足音が、私の耳に入ってきたのはその時である。
振り向くと、そこにはあの、温和な笑みを浮かべていた御仁がいた。手には細長い棒を2つ持っている。
「ね、お願いがあるの。」
そう、彼女は言って笑った。
その笑顔があまりに優しくて、私は気が付いたら頷いていた。
「星を、あの子を見つけてくれないかしら。」
そういえば、あの金髪の子は、見つけていない。
というより、もしかしたら一度も見つかってないのではないか?
ふふっ、と女性は笑うと、私の頭を撫でた。反射的に耳が寝る。
「じゃあ、お願いね。出来れば、あの子の手を握って、離さないでいてくれると嬉しいのだけど。」
気がつけば私の手には2つの棒が握られていた。その長さとは裏腹に、驚くほど軽く、なんというか、とても手に馴染んだ。
そして、握らされた棒に目を奪われている間に、女性の背中ははるか彼方にあった。
霞のような、人だった。
そして私は、2つの棒を手に女の子を探した。
いや、探さなくても、何処にいるか分かっていた。不思議と、いる方に足が向く。そこに必ずいるという確信があった。
たどり着いたのは本堂の外、大きな鐘楼。この寺では、除夜の鐘つきの時以外解放されないはずの場所だ。
「…みつけた。」
上を見上げて呟く。
吊るされた鐘の更に上。どうやって上がったのか、鐘楼の梁の上に彼女はいた。
梁の上にしがみ付くように丸まって、今にも泣き出しそうな顔で。
猫じゃないんだから。
私は尋ねる。
「降りられなくなったんだろう?」
こくこくっ!と小さな彼女は頷く。
「隠れる場所は本堂の中だけだって聞いてなかったのかい?」
今度は頷かずに、今にも涙がこぼれそうな目でこっちを見ている。
「忘れてたんだね?」
しばしの沈黙。
…こく。
小さな肯定。
「それで、誰にも見つけられないままずっと隠れていたんだろう?」
今度は恨めしそうな目でこちらを見ている。
そんな目をしたって、自業自得だろう?
溜息をつく。
一言も発しないままの少女に、私は少しいらついていた。なんで私がこんな面倒な事を。
「君は馬鹿か?」
思わず口に出した。
もちろん、こんな可愛い子だ。悪意を込めて言ったわけではない。
「…ありません。」
「ん?」
蚊のなく様な声が聞こえた。
そして、
「ば、ばかじゃありません!」
今度は強い声。
なんだ、そんな声も出せるんじゃないか。
「どうせ飛び降りられないんだろう?」
「お、おりられます!これくらい、へいきのへいざです!」
意味分かって使ってるのか?
いずれにせよ、こんなに可愛い子に、勢いとはいえ馬鹿なんて言ったのだ。なんだか恥ずかしくて、うしろめたくて、私はあまり彼女の顔を見ない様にしながら、両手をあげて、少しそっぽを向いて言った。
「分かったよ。分かったから、降りてきたらどうだい?ゆっくり、登った順番通り降りてくればいいん…だか…」
言葉は遮られた。
すぐ目の前に君の顔。
え?
とん、と。
胸元に、鈍い感覚。
直後。
どしゃぁ!
いや、実際はこんな可愛らしい音では無かったと思うが。良く怪我しなかったものだ。
つまり、彼女は私の方に飛び降りてきたのである。優に2m以上の高さから。
当時、いくら彼女より私の方が大きかったとはいえ、受け止め切れるはずもない。まだ枯葉が残る地面の上をごろごろと転がった。
「…。」
彼女は私の胸に顔を埋めたまま、何も言わない。
「き、君は本当に馬鹿だな!あんな高さから飛び降りるやつがあるもんか!」
私は思わず怒鳴っていた。
だが、彼女は顔を上げない。
こころなしか、震えている気がした。
「…ぜんぜん、へいきでした。」
ようやく聞こえたのは、そんな台詞。
「平気なもんか!怪我をしたらどうするんだ!」
私はまた叱りつける。今考えれば、同い年の関係にはとても見えなかっただろう。
「…けがなんて、こわくありません。」
なんて事を言う。私は、続けて怒鳴りつけてやろうと、息を吸った。
だが。
「…みつけて、もらえないほうが、なんばいもこわいです。」
吸った私の息は、行き場を失った。
そうか。
かくれんぼは、隠れるための遊びではない。
かくれんぼは、「見つけて貰う」ための遊び。
彼女は、ずっと見つけてもらえるのを待っていた。
誰も探しにこなくて、たった一人で、どれだけ心細かったのだろう。
そして、私が見つけた。
誰かに見つけてもらえること。
それは、どれだけ嬉しかったのだろう。
そして、彼女は、私に飛びついた。
なんだ。
そういうことなんだ。
「もう、大丈夫だよ。」
私は、君の頭を撫でて言う。全然引っかからない、さらさらの髪。
「私が、君を捜すから。いつでも、どこにいても。」
そう言って、手を握る。
君は、顔を上げた。
そして、声を上げて私の胸で泣く。
離さない。
そう、思った。
遠い、遠い過去の話。
君の覚えていない、私を焦がす、初恋の記憶。
*
屋上。雲の流れが早い。
ぼーっとした頭で、私は空を眺めていた。
寝ていたのか。
懐かしい夢を見た、気がした。
雲の山が流れて行く。
ただ、それを眺めていた。いくら眺めても、雲は次から次へとやって来て、終わりがない。
だが、それが良かった。
時計を見る。
針は、午後3時を指していた。
つまり、今は何限目だ?
ええと、と考えて気づく。
もう、午後の授業が終わる時間だった。
こんなに頭が働かないのも珍しい。何を考えても寅丸さんのことに行き着きそうで、頭が考えることを拒否しているのだろう。
結局、船長が下敷きを寅丸さんに渡す場面を見たくなくて、休み時間は全て教室の外にいたし、昼休みはすぐにここに来て、空を眺めていたらいつのまにか寝てしまった。
授業をサボタージュしたのは初めてである。船長になにか言われるだろうな、と考えたが、まぁ、それもいいかと思った。この青々とした空のせいだろうか。やけに清々しい。
さて、荷物は教室だ。取りにいかないと。
私は、立ち上がり、ドアのほうにつま先を向ける。
そこには。
*
「…凛名さん。」
私は、屋上に来ていました。
授業が終わると、直ぐに私は凛名さんを探しに教室を出ました。凛名さんが授業に出ないなんて初めてで、なんだか心配になったのです。
ムラサに怒られないように、かけ足ではなく、早足で探しました。といっても、私にあてなんてなく、もしかしたら凛名さんは具合が悪いのかも知れないと考え、保健室に向かう事にしました。
でも、健康そのものの私は保健室にお世話になったことがありません。うろうろしていたら、いつの間にか屋上に来ていたという次第です。
あ…、あれです。結果おーらいとかいうやつです。
決してなんたら音痴ではありません。
ありません。
「ど…どうして君がここに。」
凛名さんは、突然現れた私を見て驚いたようでした。サボタージュしたのがばれてしまったからでしょうか。普段とてもクールな凛名さんが取り乱している姿は、なんだかとても可愛くて、どきどきしました。
「凛名さんを、探していました。」
言って、私は凛名さんに一歩近づきます。凛名さんは、ビクッと震えました。
それはまるで、体が少し後ろに下がろうとしたのを、無理矢理抑え込んだような。
「どうして、寅丸さんが私を探すんだい?」
台詞はいつもの凛名さんのもの。でも、少しだけ震えていて、どこか複雑な感情が混じったような響きでした。
「凛名さん、私を避けていますね?」
私は強く言います。言葉で凛名さんに叶うわけがありません。だから、有無を言わさないように、逃げ場を作らない様に、強く告げます。
「そ、そんなこと…。」
「ありますよね?」
もう一歩前に出ます。
また凛名さんはビクッとしました。
少し、体が震えている様な気がしました。
早く、早く楽にしてあげなくては。
「ムラサから聞きました。凛名さんが、あの下敷きを探してくれていた、と。」
「それは、だからたまたま…」
「たまたま、じゃありませんよね。凛名さんはいつも私が失くしたものを探してくれていたんですよね?」
「だから…」
言わせません。
そんな辛そうな顔で言う言葉に、どれ程の意味があるのでしょう。
「その事に今更気づくなんて、私はどれだけ馬鹿だったのでしょうか?どれだけ貴女の枷になっていたのでしょうか?」
「…ぁ…。」
わなわなと唇を震わせる凛名さんがどうしようもなく愛しく思えました。
早く、早く伝えなくては。
「私の失せ物を探す貴女の気持ちに、ようやく気付きました。遅すぎるかもしれません。でも私はその気持ちに、答えを出す義務があります。」
だめ、と。
そう、凛名さんが言った気がしました。
でも、ここは超えなくてはいけない一線。
私は告げます。
私の覚悟を。
「凛名さん、私がだらしないから、いつも私のなくしものを探してくれたり、自分のものを貸してくれていたのですよね?もう、大丈夫ですから。 ちゃんと自分で探しますし、凛名さんにご迷惑をかけない様に…」
あれ?
言いながら、私は不思議な感覚に捉われました。
何か違うような気がしました。
凛名さんは私がだらしないから、いつも面倒を見でくれて。
これからは、迷惑をかけたりしないように、しっかりする。
何も、間違っていません。
でも、何か、違う気がしました。
どこかで、それでいいのか、と思っている私がいました。
でも、その私がどこにいるのか、探している暇はありませんでした。
突然、凛名さんが、私に体当たりしてきましたから。
どん、と。
鈍い感触がして、私は後ろに倒れこみました。
どこか懐かしい感覚。
私はあくる日を思い出しました。
ああ、私は本当に馬鹿だったんですね。
*
君がだらしないから、私に面倒をかけていた?
告げられた言葉は、私の心をかき乱すのに十分だった。
君が、あの日の約束を覚えていないのは知っている。
君が、この想いに気づいていないのも知っている。
それでも。
それを直接思い知らされて、平然とした顔をしていられる程。
私は強くなかった。
本当は逃げ出そうとしただけ。
一目散に屋上の出口のドアに走るつもりだった。
ただ、ずっと寝っ転がっていて、動かしていなかった足は、突然の命令に上手く応えられなくて。
気がつけば、私は躓いて、彼女に体当たりしていた。
体格の小さな私だが、突然ぶつかって来たからだろう、寅丸さんは支えきれずに、一緒に倒れこむ。
どしゃ。
あの時よりは鈍い音。
あの時とは逆の立場。
でも、あの時と同じ距離に。
私は今、彼女の胸の中にいた。
「凛名さん?」
そう彼女の声がして。
怖い、と思った。
どいて頂けますか、と言われたら?
彼女が何もなかったかのように、今までありがとうございましたと言って、ここから去ってしまったら?
私は、自分を保っていられるだろうか?
それとも、何もなかった事にして、彼女から離れるのだろうか?
わからない。
わからないから、ただ、怖かった。
こんなに近くにいるのに。
触れられたのに。
だから、彼女の手を握る。
目に見える程はっきり手が震える。
それでも、縋るように彼女の指に、私の指を絡ませる。
顔なんて見れない、ただ、彼女の胸に顔を押し付ける。
離さない。
どう思われたとしても、嫌われたとしても、今この瞬間だけは、この温もりを離したくないと思った。
怖い。
嫌われたくない。
震えが止まらない。
でも、傍にいたい。
そっ、と。
強く彼女の手を握り締めたままの私の手に、優しい感覚。
それは、彼女の方から、ゆっくりと握り締められる感覚。
「ぇ…。」
突き放されても、おかしくない事をしているのに。
彼女に触れてしまっているのに。
声が、聞こえた。
「もう、大丈夫ですよ。」
それは、かつて私が言った言葉と同じ。
「だって、凛名さんが、私を捜してくれるのでしょう?いつでも、どこにいても。だったら、私たちは、ずっと一緒です。」
それは、遠い記憶の中の約束。
思い出して、くれたの…かい?
顔をあげる。
「私は、凛名さんの気持ちどころか、自分の気持ちにも気付けない愚か者でした。いいように甘えて、落し物という隠れ蓑を使って、自分の気持ちを覆い隠そうとしました。」
君は言う。
それは、私だ。
嫌われたくなくて、それでも触れたくて、失せ物を探していた、私と同じ。
失せ物という媒体を通してしか、君に触れられなかった。
「下敷きが、凛名さんでなく、ムラサから渡された事を残念だと思っている私がいました。私が、私を探して欲しいと思っていたのは、凛名さんだという事に気付きました。私はっ…」
少し、言葉を切る。
だめ。
なんてもう、言える訳がなかった。
「私は、貴女が、好きです。並んで歩いて、手を握って、下の名前を呼びたいと、思いました。」
途切れ途切れに。
でも、それは確かに、告白だった。
言った彼女の顔は真っ赤で、恥ずかしさで泣きそうな顔だった。
そうだね。
君だけに、言わせるもんか。
君への想いは、どれだけの言葉を重ねても足りないのだから。
恥ずかしくて、言えなくなってしまう前に、全部言わないと。
だから、語られることのなかった言葉が、堰を切って溢れるのは、一瞬だった。
「私だって、君が好きだっ…!君をどこにもいかせたくないし、君がどこに居たとしても見つける!何を失くしても必ず見つけるから!だからっ…!」
『あの子の手を握って、離さないでいてくれると嬉しいのだけど。』
かつて頼まれた言葉。
今度は、今度こそ、自分の意思で告げる。
「だから、君は私の手を握っていて、くれない…かな?君が零したものは、全部、私が拾うから…。」
手を握って欲しかったのは、彼女だけではなかった。
かくれんぼは、「見つけて貰う」遊び。
でも、「捜させて貰う」遊びだから。
「私は、貴女に、頼ってもいいのですか?」
頼っているのは、縋っているのは、私だ。
それでも、私が彼女の傍にいるには、頼られるくらいしっかりしなくちゃいけない。
だから、一度だけ頷いた。
でも、これ以上は、無理だった。
恥ずかしくて顔が見れない。
「君が、だらしないからいけないんだ!だから、私が探さなくちゃいけないし、傍にいなくちゃいけないんだ!」
そっぽを向いて、私は言う。
顔も耳も真っ赤なのがわかる。
君は、少しだけきょとん、という顔をした。
そして、いつものように笑って言う。
私の大好きな笑顔で。
「そうですね、私はだらしがないので、傍にいて欲しいです。『ナズ』に、私を見つけて欲しいです。」
「ぁ…。」
名前。
「さすがに下の名前を呼び捨てにするのはまだ時期尚早ですね…」なんて、恥ずかしそうに呟いてる。
君は、ずるい。
そんな顔されたら、どうしたらいいかわからないじゃないか。
ずるい。ずるい。
だから、好きなんだ。
「~っ!」
私は、立ち上がって、彼女も引っ張りあげる。私の力では少しだけ重い。そして、彼女の手を取って、早歩きで屋上の出口に向かった。
わわ、と彼女は驚く。
やっぱり顔は見れない。
でも、恥ずかしくても、この手を離す気はなかった。
少しだけ、彼女から握り返される。
その温もりを感じていたら、彼女が私を呼び捨てるのもそう遠くない気がした。
その未来に、少しだけ想いを馳せる。
『隣で、君の手を握って、「君が失せ物をしないように、見張っているのだよ」とか言って、君は少し申し訳なさそうな顔をして、「面目ありません…。」と言って、でも握る手に少し力をいれて、私に「ありがとうございます。」と笑いかけるのだ。』
それは、いつかたどり着く景色。
だから、この手は離さない。
「本当に君は馬鹿だな」なんて、軽口を叩ける未来まで。
*
「あれっ?」
本日3度目の頓狂な声を上げて、私はぱたぱたと身の回りを探り出しました。
こういう時は焦ってはいけません。調べられる所を順番に探していけば必ず見つかります。
と、聖が言っていたので、私は腰に巻いていた制服のジャケットを外し、ポケットを順番に探り始めました。
どうやら、ジャケットにはないようです。
う~む、と私は唸りました。次はどこを探してみましょうか。スカートのポケットでしょうか。
「しょ~う?「また」無くしもの?」
私がうんうんと唸っているので気になったのでしょう。隣の席のぬえが話しかけてきました。
「また」の所にもう一つ鍵括弧を付けたいくらい強調されてしまいました。でも、それも仕方のない事です。
私は俯いて言いました。
「はい…、またやってしまいました…。ずっと使っていてお気に入りの下敷きだったのですが…。」
「下敷きぃ!?そんなのジャケット探ったって出てくる訳ないじゃん!ていうか高校生にもなってそんなの使ってるわけ!?」
ぬえは制服から飛び出た羽根をぴくっ!とさせて驚きました。う~ん、それにしてもいつ見てもよく分からない形の羽根です。
俯いていると黒のニーハイソックスから覗いている真っ白な太腿が眩しくて、私は顔を上げました。今日もUFOを模したヘアピンがきまった、可愛い顔が覗いています。
ぬえはクラスいちのおしゃれさんで、皆からカワイイと言われているので、下敷きなんて子供じみた物はもう使わないのでしょう。
「でも、私はあれがないと綺麗な字を書くことができないのです。」
そう言うと、ぬえは何故か悲しそうな目をしました。「あんた…そもそも読めるような字じゃないじゃん…。」とか呟いている様な気がしましたが、何の事でしょうか。
時計を見ると、もう次の授業が始まる時間です。次は確か歴史だった気がします。歴史の上白沢先生は板書の量がとても多いので、もし下敷きがなければ授業に出る価値が半減してしまいます。
せっかく私の好きな奈良時代が授業範囲なのに、私はちゃんとノートを取る事が出来ないのです。私は悲しくなってまた俯きました。
その時です。
前の席に座っていた小柄な女の子が、くるり、と振り返って、長方形のぺらぺらを差し出しました。
「これを使うといい。」
玉を転がしたような声で、彼女は言いました。ちなみに、私は毛玉などを転がして遊ぶのが好きです。
差し出されたのは私の下敷きと全く同じものでした。でも私のは隅にちいさく「しょう」とマジックペンで書いてあるので、これではありません。
「わ!凛名さんもこの下敷きを使っているのですね!」
「う…ん。まぁね。」
私の下敷きは、「喘息魔法少女パチュリー」という、小学生のころ流行ったアニメものの下敷きです。昔はよく主人公の必殺技であるロイヤルフレアを撃ちたくて、ポーズを取ってみたものでした。
思わぬ仲間に巡り合い、嬉しくて思わず声を上げてしまいましたが、凛名さんは少し恥ずかしそうにして、ふいっと前を向いてしまいました。丸くて可愛い耳も前を向いてしまいます。
やっぱり下敷きなんて子供っぽいと思っているのでしょうか…。私は少し悲しくなりました。
凛名さんはフルネームだと「凛名津々」さんといいます。とても素敵な名前だと私は思うのですが、みなさんは苗字が下の名前のようだとか、「つつ」は読み辛いと言ってあまり呼ばずに、間のふた文字をとって「ナズ」と呼んでいる事が多い様です。
私も呼んでみたいのですが、なかなか渾名を呼ぶという事は恥ずかしい事で、出来ずにいます。ままならぬものです。
「本当にありがとうございます。お借りしますね。」
向こうを向いてしまった凛名さんに御礼を言うと、凛名さんは振り返らずに言いました。
「礼より先に、君は失せ物を無くす努力をするべきだね。」
失せ物だけに無くせ、なんてさすが凛名さんです。ユーモアにも溢れています。
誰が付けたか、「賢将」なんて渾名もある程です。確かに、赤縁眼鏡がよく似合う、クールな凛名さんにはぴったりだと思います。
その玉を転がした様な声で、私は叱られているのに、少し暖かい気持ちになりました。言葉は確かに厳しいものですが、話し口はとても柔らかくて、ああ、やっぱり素敵な方だな、と思ったのです。
*
ぽわんぽわん。
少し間抜けな音と一緒に、柔らかい風が私の耳を撫でる。
私が貸した下敷きを、寅丸さんが扇いでいるのだ。
この風が彼女の前髪や頬、耳を撫でていると思うだけで、私の耳はじゅうと音をたてて真っ赤に染まってしまう。いや、内側の事だよ。
彼女と同じ下敷きを探して一年、いつか彼女が無くす事を信じリュックに入れ続けて三日。長期戦も覚悟していたが、さすが過ぎる速度で寅丸さんは紛失した。苦節一年の(主に捜索の)努力がやっと報われたのだ。
なんでこんな涙ぐましい努力をしているかなんて、今更述べるまでもないだろう。私は彼女に惹かれているのだ。
束感のある、黄金色の髪。少し強調している眉は、可愛いというより美形としての顔立ちを際立たせる。類い稀なる長身にも関わらずその手足はほっそりと白く、奇跡とも呼べるそのバランスに、私は彼女となら神にも逆らうのも厭わないと感じていた。
まぁ、彼女は寺院の娘さんなので、神仏への謀反は許してくれないと思うが。
そんな完璧すぎる容姿を持つ彼女にも、欠点はある。それも、補っても余りあるというレベルではない程の。
彼女は失せ物のスペシャリストであった。それも金メダル級の。
失せ物メダリストたる彼女の失せ物は、それはもう質量ともに申し分ない。
今日寅丸さんが「あれっ?」と言ったのは3回。私は入学してからの一年半、一日に3回以内に収まった日はない事を知っている。
無くすバリエーションも多岐に渡り、小さな物は文具から、大きなものは御実家にある国宝級の宝塔まで無くしたと聞いている。
落とす場所も様々で、一度は彼女の赤青えんぴつが家庭家室の冷蔵庫の中にあった事もあった。一体どんな壮大な物語が展開されればそんな事になるのか教えて貰いたい。大体、赤青えんぴつなんて久し振りに見たよ。
ここまでくれば感服慧眼の至りだよ、うっかりさん。
とまぁ、内心でそんな軽口を叩いていたが、実際にはそれどころではない。私が彼女と会話ができるのは、遺失物に関する時だけなのだ。
だって、彼女と目線を合わせると、その笑顔が私に向いているというだけで、至る所が真っ赤になってしまい、私はすぐそっぽを向いてしまう。そんな状態では、まともに話しなんてできないじゃないか。
私が彼女に話しかけていいのは、失せ物という口実がないといけないし、彼女に触れていいのはそれを手渡す一瞬だけなのだ。
そんな私に、すぐそっぽを向いてしまう私に、彼女はちょっと寂しそうな顔をしてから、それでも「ありがとうございます、凛名さん。」と笑いかける。
君は、ずるい。
そんな顔されたら、どうしたらいいかわからないじゃないか。
ずるい。ずるい。
でも、好きなんだ。
だから私は、君のなくしものを探す。
君に触れる唯一の接点。君と私を繋ぐ、細すぎる糸。
君の歩いた軌跡を辿り、いつか君の傍に行けると信じて。
隣で、君の手を握って、「君が失せ物をしないように、見張っているのだよ」とか言って、君は少し申し訳なさそうな顔をして、「面目ありません…。」と言って、でも握る手に少し力をいれて、私に「ありがとうございます。」と笑いかけるのだ。
そんな、幻想の中ですら叶う見込みのない夢物語を、私は諦観もしきれずにもがいている。
*
「ただいま帰りました。」
私は誰もいない家に挨拶をしました。今日父上は檀家様のお宅に行っているはずです。
私は自分の部屋に行く前に、仏壇の前に向かいました。本堂のような大きなそれではなく、もっとこじんまりとしたものです。
そこには、私の母上がいらっしゃいます。いえ、もういらっしゃいませんが。ええと、この世にはいらっしゃいませんが、ここにくるとお会いできます。
私が母上と過ごしたのは幼少の頃だけでありました。その頃から私は落し物が多く、父上はいつも厳しく叱りましたが、母上は私の頭を撫で、「大丈夫よ。」と言ってくれました。
「星にも、星の無くし物を見つけてくれる、素敵な人が見つかるからね。」と。
そう母上が仰ると、父上はどうしてか強く叱りつけなくなるのです。母上はすごいなぁ、と思っていると、何時の間にか、私の手に落としたはずの失せ物が握られています。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」そう言って母上は、細い金物の棒を2つ手にして笑うのでした。
私は、そんな魔法使いの様な母上が大好きでした。母上が亡くなった際、 あの不思議な棒は檀家様の御子様に差し上げたと聞いています。母上の形見ですから、本当は私も欲しかったのですが、私には使いこなせないと父上が仰ったので諦めました。ちゃんと使ってくれる人に差し上げた方が、物も母上も嬉しいでしょう。今でも大切にされてればいいな、と思います。
今日もいつものように、母上に学校であった事と、落としたものの報告をしようとしたのですが、先客がおりました。
「来てたのですね、聖。」
そう言うと、ちょこなん、と正座していた先客は拝む手を解き、私の方に向かいました。制服の胸のリボンが少しアレンジされていて、格子状になっているのがとってもキュートです。
「勝手に上がらせてもらってますね。おかえりなさい、星ちゃん。」
付き合いの長い聖は、私が一番喜ぶ言葉を知っています。父上はいつも忙しく働いておりますので、私は帰るといつも一人です。「おかえり」という言葉は、なかなか聞けないのでした。
まるで家族の様で、なんだか嬉しいです。
と、思っていたら、どうやら口に出してしまっていた様でした。聖は何時ものように、ほんわりと笑って言います。
「ふふ…。星ちゃんと私は家族ですよ?」
ああ、聖。大好きです。
「家族同然」ではなく、「家族」と言ってくれる貴女は、本当に聖母の様です。でも仏道の子としてそれはどうかと思うので、言いません。
聖は、私と同じく寺院の子で、父上同士の付き合いから、幼少の頃より仲良くして貰っています。うちと違って大きなお寺ですので、聖はよく御実家の手伝いをしています。ろくに手伝いもせず、失せ物をしてばっかりの私とは大違いです。
「それで、星ちゃん?今日は無くし物は無かった?」
母上に報告をして、座布団を敷いて向かい合うと、そう聖が聞いて来ました。
聖に隠しても仕方がないので私は正直に、3つ無くしてしまいました、と言いました。慌てて、ちゃんと聖に教わったように、探せる所を順々に探していったのですが、と付け足します。
言っていて情けなくなってきて、私はうなだれてしまいました。耳があったらぺたんとしてしまったに違いありません。
でも聖は、「大丈夫ですよ、星ちゃん。」と、まるで母上の様に言って、私を撫でるのです。
どうしてですか?と聞いても、「きっと見つかりますから。」としか言いません。なのに、妙に自信ありげな顔なのです。
どうして聖はこんな表情なのだろう、と私はうなだれるのも忘れてう~ん?と首を傾けましたが、聖はにこにこと笑っているばかりなのでした。
仕方がないので、凛名さんが下敷きを貸してくれた話をすると、聖は「あら!」と言い、「あらあら!」となんだか嬉しそうなのです。なのに、その理由を全然話してくれません。ただ「あらあら」と言うばかりなのです。
挙句の果てに、
「星ちゃんは、ナズちゃんを好きですか?」
なんて聞いてきたのです。私はびっくりして手に持っていた湯飲みを落としてしまいましたが、床に着く前にぴたっ、と止まりました。
さすが聖です。まこと法力というのは天晴れです。
何故だかわからないけれど、油断したらいろいろな所が赤らんできそうで、私はなるべく平静を装ったまま「素敵な人だと思います。」と言いました。
聖がやたらとにこにこしているのが悔しかったので、聖はムラサとばかりいちゃついている、とぬえが噂していた事を聞いてみたら、聖は突然びくっ!として持っていた湯飲みを落としました。どうして自分の時には法力を使わないのでしょう?
私が畳を拭いている間、聖は俯いて、「それは、確かに私だけじゃ今回だって星ちゃんの気持ちとか気づけませんでしたよ?水蜜ちゃんがいなければ私はなんにもできませんし…。だってそれは水蜜ちゃんが頼りがいがあるからしょうがないというか…。」とかなんとか私にはさっぱりわからない事をぶつぶつと言っています。
私は、あ、仏道の子が2人だけに仏仏(ぶつぶつ)、なんてどうでしょう?
なんて下らない事を考えるのでした。
う~ん、私にはユーモアのセンスがない様です。誠に残念です。
そんな風に、日暮れ時は過ぎていったのでした。
*
ああ、もう日暮れ時か。
私は窓から見える夕陽の眩しさに、思わず溜息をついた。
橙色の陽が人気のない図書室に差し込み、それは幻想的である。あとは黒髪の薄幸そうな乙女でもいれば絵にでもなるだろう。
まぁ、この学校には幸薄い黒髪の乙女と呼べる学生はいないが。緑髮の神社の子ならいた気がする。
しかし、どれだけ幻想的であろうとも、現実を見渡せばそこにあるのは、本棚と本棚の間に散らかった本と、そこに佇む私である。
私はもう一度立て掛けておいた2本のロッドを手に取り、ダウジングを開始した。下敷きについた、寅丸さんの気配の残り香を頼りにして。
何故だか分からないが、私は昔からある種の勘が冴えていた。失せ物を探す、あるいは目的地までの道のりが分かる、といった類いのものである。
しかしそれはまぁ、多少人より冴えている、というだけで、特別な力、という訳ではなかった。確率論として片付く程度のものだと思う。
故に、私が特定物まで探し当てる事が出来るのは、この2本のロッドがあるお陰である。
先端に東西南北を象ったロッドは、元々私のものではない。ある方から譲り受けたものだが、今はもうその方はいなくなってしまった。
譲り受けたものだからか、私の力が未熟だからか。ロッドを用いても、件の下敷きはおおまかな場所しか分からなかった。
そうやって指し示された図書室にやってきて、目につく場所を探したが見当たらない。仕方なく片っ端から本棚をひっくり返しているという次第である。いや、ほんとにひっくり返しているわけではないよ、もちろん。
諦めきれずにダウジングをしてみたものの、やはり「ここの何処かにある」という感覚しか得られない。私は諦めて、また本棚を探る作業に戻ろうとした。
声がしたのはその時である。
「あら、奇遇ね。」
本棚の陰から突然声がして、私はバッと振り向いた。
「やぁ、『船長』。何の様だい?」
私はなるべく平静を装って尋ねた。もちろん、突然の事で動揺していたというのもあるし、図書室を散らかしていたという背徳めいたものもあったが、それ以上に、私はこの少女を警視していたからだ。
目の前にいるのは、私と同じ制服を着た、私と同じクラスの少女である。
一点、格好に違いがあるとすれば、彼女は水兵のような帽子を被っている。
原則、この学校は制服のアレンジは自由であり、余程逸脱していなければ帽子であっても認められる。
以前、夏場にどこぞのお嬢様が、どうやって手に入れたのか、足の速い桃を飾り立てた帽子をかぶって登校し、当然の様に腐臭をさせ、皆からす巻きにして踏みつけられていた。あの時何故か嬉しそうな顔をしていたのが、私は今でも恐ろしい。
とにかく、この学校において帽子、アクセサリーの類は珍しくはない。しかし、目の前の少女、村沙水蜜はその水兵帽に加え、クラスで委員長を務めており、熱心とも言える程風紀を取り締まる事で有名であった。
故に、皆からなんとなく「船長」と呼ばれているのである。
そして、彼女は私の目からして、必要以上に寅丸さんに近づいている節がある。だから私は警視していた。
「いやいや。放課後に長物持ってうろついてる人がいると聞いたら、ほっとけないでしょ?」
要するに私を探していたのか。全然奇遇じゃない。
「それで私だと決め付けるのは些か尚早ではないかな?別にこのロッドは危険物ではないのだがね。」
私は手にしたロッドを軽く持ち上げて言う。
丁寧な言葉遣いとは、こう言う時に役に立つ。
つまり、「私は君が嫌いだが、私からに突っ掛かる気はないよ。無論、君の方から態々突っ掛かってくれるなら、やぶかさではないがね。」という意思表示である。
そして、彼女もそれを承知の上で、私の勘に触るように撫でつけてくる。
「残念だけど私は、不特定の誰かに危険を及ぼすものは危険物と定義するの。確かに、刀やら鎌やらよりは幾分マシだけど。」
「その定義は幾分包括的すぎるのではないかな。観念的な物まで取り締まる気かね?」
すぐに混ぜっ返す。定義付けの曖昧さを攻めるのは、反駁における常套句だ。
まぁ、どうせ返してくる言葉もわかっているのだが。伊達に賢将なんて呼ばれては居ないのだよ。
「観念的なもの…例えば、思想なんかは、ある種の危険物でしょう?必要があれば取り締まるわよ。」
ま、そう返すだろうね。
まさかこんなやりとりをする為に此処に来るわけがないから、彼女は何か用事があるのだろう。それが分かっているからこそ、無駄な時間が余計に苛立つ。無為は度を過ぎれば、害を及ぼし、無為ではなくなるのだよ。
まぁ、いいわ。そう彼女は言い、私は少し安堵する。
無益な時間は好きではない。
だが、彼女はその後、思いもよらない行動に出る。
「じゃあ、ここにある、星の下敷きは預かっておくわよ?」
ひょい、と。
いとも簡単に。
余りに無造作に。
傍の本棚から取り出した薄い板。
それは、寅丸さんの無くした下敷き。
私と、彼女を繋ぐ、唯一の接点。
とく、とく、とく。
私の鼓動が早くなる。
小さな私の、小さな心臓が波打つ。
顔が、紅くなるのを必死に抑える。
触れるな。
そう、思った。
きっとそんな歪んだ感情は持ってはいけないのだろう。でも、思ってしまった。
それは、私が、私が寅丸さんに、渡すんだ。
ましてや、君なんかに渡させるものか。
触れるな、触れるな、触れるな。
「それを、こちらに渡してくれないかな?」
それでも、なけなしの理性が働いて、私から出た声は、酷く冷静なものだった。
冷静過ぎる程に。
「なんで?」
嫌らしい笑みを浮かべて、彼女が言う。でも、そんな事はどうでもいい。
彼女にどう思われていようが、関係ない。
私は寅丸さんに触れたいんだ。その為なら、誰だって騙す。陥れてみせる。
「それは、私のなんだ。助かったよ、ありがとう。」
まくし立てる様に言って、私は手を伸ばして下敷きを掴もうとする。
しかし、船長はそれをひょい、っと私の届かない高さに持ち上げた。
「ん?これは星のでしょ?私使ってるの見た事あるもの。」
「ああ、寅丸さんも使っていたのか。奇遇だね。私もそれを使っているのだよ。」
「あら、ナズは下敷きなんて使ってたかな?記憶にないんだけど?」
にやにやとした笑みのままで、わざとらしく尋ねて来る。どうでもいい。
「君の記憶になくても、そうなのだよ。いいから、渡してくれないか。」
そうなの?と彼女は言う。
いいからこっちに渡せ。
「じゃ、これは絶対に貴女のなのね?」
「そう言ってるだろう?」
煮え返る腹とは裏腹に返すのは冷ややかな声。
「絶対に?」
しつこいな!
「絶対にだよ。」
ふうん。
にぃ、と。彼女は笑った。
それは、あたかも、勝利を確信した様な。
「じゃあ、貴女は自分の下敷きに星の名前を書くのね。変わった趣味だわ。」
そう言って、下敷きのある点を指し示す。
本当に小さな字。独特の丸っこい、癖のある字。でも見間違える筈がない、彼女の字。
私の好きな人の名前。
見落としていた。
だって、下敷きなんて詳しく見ている筈がない。
私が見ていたのは、彼女だけだ。その横顔すらまともにみれないのに、下敷きなんて、見てる訳がないだろう?
論では返せない、絶対的な証拠。
何も言えない私に、彼女は言う。
「まぁ、まさか貴女がそんな趣味を持ってる訳がないから、これは星のよね?じゃ、私から返しておくから。」
一方的な勝利宣言。
言いたいだけ言うと、彼女はじゃあね、と消えた。
私はただ立ちすくんでいて。
ただ、散らばった本に西陽が射して、その美しいはずの光景は私の気を重くさせたのだった。
*
次の日のことです。
お昼ごはんを食べて、次の授業の教材を机に出したら、やることがなくなってしまいました。
ぬえ達の話にまざっても、オシャレすぎてついていけないし、聖は一輪と食堂に行っています。私は不得手ながらも自分で弁当を作っているので、教室で食べることにしています。
だったら、他のお弁当を持って来ている子達と御一緒すれば良いのですが、私はどうもあの、おかず交換というものが出来ないのです。私のおかずは薄味すぎて皆さんの口に合わないようですし、貰ってばかりだと申し訳なくなってしまいます。
ああ、一度だけ凛名さんと交換した事があるのですが、何度もおいしいと言ってくれて、すごくくすぐったかったです。
凛名さんはちょっとチーズが多めですが、とても料理が上手なので、あれはきっとリップサービスだったのだと思います。
そんな訳で、一人で食べ終った私は、どうしようか考えていました。
私の席は窓際ですので、射し込んでくるお日さまがすごくぽかぽかします。
ぽかぽかしていると、あれがやってきます。私はあまりあれには勝てた事がありません。
そう、睡魔というやつです。
そんな訳で、少し眠たくなった私は、うつらうつら、うつらつつ、とぼーっとしていました。
前の席は空です。なんだか今日は凛名さんが、あまり顔を合わせてくれません。何か失礼な事をしたでしょうか。
少し、淋しいな、と思いました。ちょっとだけ胸がとくん、としました。
?
いつもはそんな事にならないのですが。
不意に、聖の言葉が蘇りました。
「星ちゃんは、ナズちゃんを好きですか?」
また、とくん、と鳴りました。
えっと、私は素敵な人です、と答えました。
とく、とく、とく。
そう、凛名さんは素敵な人です。素敵なだけじゃくて、えっと、すごく魅力的で、私なんかじゃとても傍に…。
「星?寝てるの?」
不意に声がして、私はびくがばっ!と飛び起きました。
「なんだ、起きてるじゃない。」
私を覗き込んでいたのはムラサでした。
あれ?私は今何を考えていたんでしょうか…?
なんとなく頭がはっきりしません。思い出す間もなく、ムラサは私にぺらぺらしたものを差し出しました。
「ほら、これ。星のでしょ?」
「あれ?」
私のはここにありますよ?そう言って、私は机から下敷きを取り出してムラサに見せました。
「呆れた。星、それは昨日ナズから借りたものでしょ?」
あ、そうだったのでした。
私の手元にある下敷きには、隅にちいさく「なず」と書いてあります。
下敷きの隅に名前が書いてないのが寂しくて、勝手に名前を書いてしまいました。
もちろん、私の名前を書く訳にはいかないので、「なず」と書きました。あとで凛名さんに怒られてしまうかもしれません。
でも、書いたらなんとなくほっとしました。
「失くした事も忘れるなんて末期じゃない。星もいい加減その癖なんとかしないと、ナズに見限られるわよ?」
そうムラサは言いました。
急に出て来た凛名さんの名前に、私はびくっ!としました。出来るだけ、平静を保ちながら問いかけます。出来るだけ。
「ど、どど、ど、どうし、て!凛名さんの名前が出てくるのでしゅか!」
噛んでません。断じて噛んでません。
ムラサは「何取り乱してんのよ…」と呆れた顔をしました。いえ、私は取り乱してなんかいませんよ?
「その下敷き、見つけたのは私だけど、ナズがずっと探してたのよ?放課後遅くまで残って。」
「え…?」
どうして凛名さんが私の失せ物を探すのでしょうか?
確かに、いつも凛名さんがどこからともなく私が落としたものを見つけて来てくれました。
でも、凛名さんはいつも「偶然だから、君が気にする事じゃない」と言っていたのです。
「星、貴女もね、いい加減ナズの気持ちを考えてやりなさいよ。」
ムラサはそう言います。
私の失せ物を探す、凛名さんの気持ち。
それは、もしかして…。
ああ。
私はなんて馬鹿だったのでしょう。馬鹿だけでは足りません。阿呆で、こんこんちきです。
でも、こんこんちきってなんでしょう?
私は凛名さんの気持ちに気付いて、思わず机に伏してしまいました。このままでは凛名さんに会わせる顔がありません。
ムラサが耳元で何か言っていたようですが、全然耳に入りませんでした。
私は、きちんと凛名さんとお話して、謝らなくてはいけない、と考えていたのです。
*
もーいーかい?
まーだだよ。
それは、遠い記憶。
私が、初めて寅丸さんに出会ったあの日。
寄り合いにはほとんど参加しなかったため、おそらく彼女は知らないだろうが、私の家は彼女の寺の檀家だった。
その日は年越しの打合わせで、檀家達が彼女の家に集まっていたらしい。
しかし、そんなもの、一緒に連れて来られた子供達にしてみれば、退屈以外の何ものでも無い。
ましてや滅多に入れない寺の本堂である。暇を持て余した子供達がかくれんぼを始めるには、十分な条件だった。
誰がオニで始めようか、じゃんけんで決めようか、範囲は本堂だけだよ、などときゃいきゃい楽しげに笑う子供達の輪の中に私もいた。
その時、私は初めて寅丸さんに出会った。
母上なのだろう、優しそうな笑顔の御仁の陰に隠れて、こっちを伺っていた、わたしよりも体の小さな女の子。
くりっとした目に、さらさらの髪が綺麗で、私は目が離せなくなった。かわいい子だなぁ、と思った。
「ねぇ、この子も混ぜてあげてくれないかしら?」
そう柔らかい笑顔で女性がいい、おずおずと隠れていた少女が出てくる。
私達に断る理由もなく、かくれんぼが始まった。
思えば、あの時から私と彼女の、鬼ごっこのようなかくれんぼが始まったのだと思う。
子供というのは、放っておけば何時までも遊んでいるものだ。私達もその例に漏れず、陽が暮れるまでずっとかくれんぼをしていた。
だが、陽が暮れれば、私達の遊びとは無関係に、終わりはやってくる。大人達が話し合いを終え、一人、また一人と帰り出したのだ。当然、付いてきた子供も一緒に帰っていき、段々と遊んでいる人数は減って行った。
人が減ってしまえば、かくれんぼは遊びとして成立しなくなってしまう。
私達は次の一回で終わりにしようと決めた。私がオニだったのは偶々である。
一人、一人と見つかった子から、親に連れられ帰っていった。また、見つからなくても、「帰るぞ」と名前を呼ばれれば、顔を出して去って行く。
もう、みんな帰っただろう。
そう私は判断して、自分の親が迎えに来るのを待っていた。
先ほど本堂を覗いて見たら、この寺の住職と私の父親がなにか難しそうな話をしていたので、まだ時間がかかるだろう。私は腰掛けに座り、足をぷらぷらさせていた。
12月の風は少し冷たい。
私は耳をすこしたたんで、膝を抱えて丸くなる。
とっ。とっ。
という小さな足音が、私の耳に入ってきたのはその時である。
振り向くと、そこにはあの、温和な笑みを浮かべていた御仁がいた。手には細長い棒を2つ持っている。
「ね、お願いがあるの。」
そう、彼女は言って笑った。
その笑顔があまりに優しくて、私は気が付いたら頷いていた。
「星を、あの子を見つけてくれないかしら。」
そういえば、あの金髪の子は、見つけていない。
というより、もしかしたら一度も見つかってないのではないか?
ふふっ、と女性は笑うと、私の頭を撫でた。反射的に耳が寝る。
「じゃあ、お願いね。出来れば、あの子の手を握って、離さないでいてくれると嬉しいのだけど。」
気がつけば私の手には2つの棒が握られていた。その長さとは裏腹に、驚くほど軽く、なんというか、とても手に馴染んだ。
そして、握らされた棒に目を奪われている間に、女性の背中ははるか彼方にあった。
霞のような、人だった。
そして私は、2つの棒を手に女の子を探した。
いや、探さなくても、何処にいるか分かっていた。不思議と、いる方に足が向く。そこに必ずいるという確信があった。
たどり着いたのは本堂の外、大きな鐘楼。この寺では、除夜の鐘つきの時以外解放されないはずの場所だ。
「…みつけた。」
上を見上げて呟く。
吊るされた鐘の更に上。どうやって上がったのか、鐘楼の梁の上に彼女はいた。
梁の上にしがみ付くように丸まって、今にも泣き出しそうな顔で。
猫じゃないんだから。
私は尋ねる。
「降りられなくなったんだろう?」
こくこくっ!と小さな彼女は頷く。
「隠れる場所は本堂の中だけだって聞いてなかったのかい?」
今度は頷かずに、今にも涙がこぼれそうな目でこっちを見ている。
「忘れてたんだね?」
しばしの沈黙。
…こく。
小さな肯定。
「それで、誰にも見つけられないままずっと隠れていたんだろう?」
今度は恨めしそうな目でこちらを見ている。
そんな目をしたって、自業自得だろう?
溜息をつく。
一言も発しないままの少女に、私は少しいらついていた。なんで私がこんな面倒な事を。
「君は馬鹿か?」
思わず口に出した。
もちろん、こんな可愛い子だ。悪意を込めて言ったわけではない。
「…ありません。」
「ん?」
蚊のなく様な声が聞こえた。
そして、
「ば、ばかじゃありません!」
今度は強い声。
なんだ、そんな声も出せるんじゃないか。
「どうせ飛び降りられないんだろう?」
「お、おりられます!これくらい、へいきのへいざです!」
意味分かって使ってるのか?
いずれにせよ、こんなに可愛い子に、勢いとはいえ馬鹿なんて言ったのだ。なんだか恥ずかしくて、うしろめたくて、私はあまり彼女の顔を見ない様にしながら、両手をあげて、少しそっぽを向いて言った。
「分かったよ。分かったから、降りてきたらどうだい?ゆっくり、登った順番通り降りてくればいいん…だか…」
言葉は遮られた。
すぐ目の前に君の顔。
え?
とん、と。
胸元に、鈍い感覚。
直後。
どしゃぁ!
いや、実際はこんな可愛らしい音では無かったと思うが。良く怪我しなかったものだ。
つまり、彼女は私の方に飛び降りてきたのである。優に2m以上の高さから。
当時、いくら彼女より私の方が大きかったとはいえ、受け止め切れるはずもない。まだ枯葉が残る地面の上をごろごろと転がった。
「…。」
彼女は私の胸に顔を埋めたまま、何も言わない。
「き、君は本当に馬鹿だな!あんな高さから飛び降りるやつがあるもんか!」
私は思わず怒鳴っていた。
だが、彼女は顔を上げない。
こころなしか、震えている気がした。
「…ぜんぜん、へいきでした。」
ようやく聞こえたのは、そんな台詞。
「平気なもんか!怪我をしたらどうするんだ!」
私はまた叱りつける。今考えれば、同い年の関係にはとても見えなかっただろう。
「…けがなんて、こわくありません。」
なんて事を言う。私は、続けて怒鳴りつけてやろうと、息を吸った。
だが。
「…みつけて、もらえないほうが、なんばいもこわいです。」
吸った私の息は、行き場を失った。
そうか。
かくれんぼは、隠れるための遊びではない。
かくれんぼは、「見つけて貰う」ための遊び。
彼女は、ずっと見つけてもらえるのを待っていた。
誰も探しにこなくて、たった一人で、どれだけ心細かったのだろう。
そして、私が見つけた。
誰かに見つけてもらえること。
それは、どれだけ嬉しかったのだろう。
そして、彼女は、私に飛びついた。
なんだ。
そういうことなんだ。
「もう、大丈夫だよ。」
私は、君の頭を撫でて言う。全然引っかからない、さらさらの髪。
「私が、君を捜すから。いつでも、どこにいても。」
そう言って、手を握る。
君は、顔を上げた。
そして、声を上げて私の胸で泣く。
離さない。
そう、思った。
遠い、遠い過去の話。
君の覚えていない、私を焦がす、初恋の記憶。
*
屋上。雲の流れが早い。
ぼーっとした頭で、私は空を眺めていた。
寝ていたのか。
懐かしい夢を見た、気がした。
雲の山が流れて行く。
ただ、それを眺めていた。いくら眺めても、雲は次から次へとやって来て、終わりがない。
だが、それが良かった。
時計を見る。
針は、午後3時を指していた。
つまり、今は何限目だ?
ええと、と考えて気づく。
もう、午後の授業が終わる時間だった。
こんなに頭が働かないのも珍しい。何を考えても寅丸さんのことに行き着きそうで、頭が考えることを拒否しているのだろう。
結局、船長が下敷きを寅丸さんに渡す場面を見たくなくて、休み時間は全て教室の外にいたし、昼休みはすぐにここに来て、空を眺めていたらいつのまにか寝てしまった。
授業をサボタージュしたのは初めてである。船長になにか言われるだろうな、と考えたが、まぁ、それもいいかと思った。この青々とした空のせいだろうか。やけに清々しい。
さて、荷物は教室だ。取りにいかないと。
私は、立ち上がり、ドアのほうにつま先を向ける。
そこには。
*
「…凛名さん。」
私は、屋上に来ていました。
授業が終わると、直ぐに私は凛名さんを探しに教室を出ました。凛名さんが授業に出ないなんて初めてで、なんだか心配になったのです。
ムラサに怒られないように、かけ足ではなく、早足で探しました。といっても、私にあてなんてなく、もしかしたら凛名さんは具合が悪いのかも知れないと考え、保健室に向かう事にしました。
でも、健康そのものの私は保健室にお世話になったことがありません。うろうろしていたら、いつの間にか屋上に来ていたという次第です。
あ…、あれです。結果おーらいとかいうやつです。
決してなんたら音痴ではありません。
ありません。
「ど…どうして君がここに。」
凛名さんは、突然現れた私を見て驚いたようでした。サボタージュしたのがばれてしまったからでしょうか。普段とてもクールな凛名さんが取り乱している姿は、なんだかとても可愛くて、どきどきしました。
「凛名さんを、探していました。」
言って、私は凛名さんに一歩近づきます。凛名さんは、ビクッと震えました。
それはまるで、体が少し後ろに下がろうとしたのを、無理矢理抑え込んだような。
「どうして、寅丸さんが私を探すんだい?」
台詞はいつもの凛名さんのもの。でも、少しだけ震えていて、どこか複雑な感情が混じったような響きでした。
「凛名さん、私を避けていますね?」
私は強く言います。言葉で凛名さんに叶うわけがありません。だから、有無を言わさないように、逃げ場を作らない様に、強く告げます。
「そ、そんなこと…。」
「ありますよね?」
もう一歩前に出ます。
また凛名さんはビクッとしました。
少し、体が震えている様な気がしました。
早く、早く楽にしてあげなくては。
「ムラサから聞きました。凛名さんが、あの下敷きを探してくれていた、と。」
「それは、だからたまたま…」
「たまたま、じゃありませんよね。凛名さんはいつも私が失くしたものを探してくれていたんですよね?」
「だから…」
言わせません。
そんな辛そうな顔で言う言葉に、どれ程の意味があるのでしょう。
「その事に今更気づくなんて、私はどれだけ馬鹿だったのでしょうか?どれだけ貴女の枷になっていたのでしょうか?」
「…ぁ…。」
わなわなと唇を震わせる凛名さんがどうしようもなく愛しく思えました。
早く、早く伝えなくては。
「私の失せ物を探す貴女の気持ちに、ようやく気付きました。遅すぎるかもしれません。でも私はその気持ちに、答えを出す義務があります。」
だめ、と。
そう、凛名さんが言った気がしました。
でも、ここは超えなくてはいけない一線。
私は告げます。
私の覚悟を。
「凛名さん、私がだらしないから、いつも私のなくしものを探してくれたり、自分のものを貸してくれていたのですよね?もう、大丈夫ですから。 ちゃんと自分で探しますし、凛名さんにご迷惑をかけない様に…」
あれ?
言いながら、私は不思議な感覚に捉われました。
何か違うような気がしました。
凛名さんは私がだらしないから、いつも面倒を見でくれて。
これからは、迷惑をかけたりしないように、しっかりする。
何も、間違っていません。
でも、何か、違う気がしました。
どこかで、それでいいのか、と思っている私がいました。
でも、その私がどこにいるのか、探している暇はありませんでした。
突然、凛名さんが、私に体当たりしてきましたから。
どん、と。
鈍い感触がして、私は後ろに倒れこみました。
どこか懐かしい感覚。
私はあくる日を思い出しました。
ああ、私は本当に馬鹿だったんですね。
*
君がだらしないから、私に面倒をかけていた?
告げられた言葉は、私の心をかき乱すのに十分だった。
君が、あの日の約束を覚えていないのは知っている。
君が、この想いに気づいていないのも知っている。
それでも。
それを直接思い知らされて、平然とした顔をしていられる程。
私は強くなかった。
本当は逃げ出そうとしただけ。
一目散に屋上の出口のドアに走るつもりだった。
ただ、ずっと寝っ転がっていて、動かしていなかった足は、突然の命令に上手く応えられなくて。
気がつけば、私は躓いて、彼女に体当たりしていた。
体格の小さな私だが、突然ぶつかって来たからだろう、寅丸さんは支えきれずに、一緒に倒れこむ。
どしゃ。
あの時よりは鈍い音。
あの時とは逆の立場。
でも、あの時と同じ距離に。
私は今、彼女の胸の中にいた。
「凛名さん?」
そう彼女の声がして。
怖い、と思った。
どいて頂けますか、と言われたら?
彼女が何もなかったかのように、今までありがとうございましたと言って、ここから去ってしまったら?
私は、自分を保っていられるだろうか?
それとも、何もなかった事にして、彼女から離れるのだろうか?
わからない。
わからないから、ただ、怖かった。
こんなに近くにいるのに。
触れられたのに。
だから、彼女の手を握る。
目に見える程はっきり手が震える。
それでも、縋るように彼女の指に、私の指を絡ませる。
顔なんて見れない、ただ、彼女の胸に顔を押し付ける。
離さない。
どう思われたとしても、嫌われたとしても、今この瞬間だけは、この温もりを離したくないと思った。
怖い。
嫌われたくない。
震えが止まらない。
でも、傍にいたい。
そっ、と。
強く彼女の手を握り締めたままの私の手に、優しい感覚。
それは、彼女の方から、ゆっくりと握り締められる感覚。
「ぇ…。」
突き放されても、おかしくない事をしているのに。
彼女に触れてしまっているのに。
声が、聞こえた。
「もう、大丈夫ですよ。」
それは、かつて私が言った言葉と同じ。
「だって、凛名さんが、私を捜してくれるのでしょう?いつでも、どこにいても。だったら、私たちは、ずっと一緒です。」
それは、遠い記憶の中の約束。
思い出して、くれたの…かい?
顔をあげる。
「私は、凛名さんの気持ちどころか、自分の気持ちにも気付けない愚か者でした。いいように甘えて、落し物という隠れ蓑を使って、自分の気持ちを覆い隠そうとしました。」
君は言う。
それは、私だ。
嫌われたくなくて、それでも触れたくて、失せ物を探していた、私と同じ。
失せ物という媒体を通してしか、君に触れられなかった。
「下敷きが、凛名さんでなく、ムラサから渡された事を残念だと思っている私がいました。私が、私を探して欲しいと思っていたのは、凛名さんだという事に気付きました。私はっ…」
少し、言葉を切る。
だめ。
なんてもう、言える訳がなかった。
「私は、貴女が、好きです。並んで歩いて、手を握って、下の名前を呼びたいと、思いました。」
途切れ途切れに。
でも、それは確かに、告白だった。
言った彼女の顔は真っ赤で、恥ずかしさで泣きそうな顔だった。
そうだね。
君だけに、言わせるもんか。
君への想いは、どれだけの言葉を重ねても足りないのだから。
恥ずかしくて、言えなくなってしまう前に、全部言わないと。
だから、語られることのなかった言葉が、堰を切って溢れるのは、一瞬だった。
「私だって、君が好きだっ…!君をどこにもいかせたくないし、君がどこに居たとしても見つける!何を失くしても必ず見つけるから!だからっ…!」
『あの子の手を握って、離さないでいてくれると嬉しいのだけど。』
かつて頼まれた言葉。
今度は、今度こそ、自分の意思で告げる。
「だから、君は私の手を握っていて、くれない…かな?君が零したものは、全部、私が拾うから…。」
手を握って欲しかったのは、彼女だけではなかった。
かくれんぼは、「見つけて貰う」遊び。
でも、「捜させて貰う」遊びだから。
「私は、貴女に、頼ってもいいのですか?」
頼っているのは、縋っているのは、私だ。
それでも、私が彼女の傍にいるには、頼られるくらいしっかりしなくちゃいけない。
だから、一度だけ頷いた。
でも、これ以上は、無理だった。
恥ずかしくて顔が見れない。
「君が、だらしないからいけないんだ!だから、私が探さなくちゃいけないし、傍にいなくちゃいけないんだ!」
そっぽを向いて、私は言う。
顔も耳も真っ赤なのがわかる。
君は、少しだけきょとん、という顔をした。
そして、いつものように笑って言う。
私の大好きな笑顔で。
「そうですね、私はだらしがないので、傍にいて欲しいです。『ナズ』に、私を見つけて欲しいです。」
「ぁ…。」
名前。
「さすがに下の名前を呼び捨てにするのはまだ時期尚早ですね…」なんて、恥ずかしそうに呟いてる。
君は、ずるい。
そんな顔されたら、どうしたらいいかわからないじゃないか。
ずるい。ずるい。
だから、好きなんだ。
「~っ!」
私は、立ち上がって、彼女も引っ張りあげる。私の力では少しだけ重い。そして、彼女の手を取って、早歩きで屋上の出口に向かった。
わわ、と彼女は驚く。
やっぱり顔は見れない。
でも、恥ずかしくても、この手を離す気はなかった。
少しだけ、彼女から握り返される。
その温もりを感じていたら、彼女が私を呼び捨てるのもそう遠くない気がした。
その未来に、少しだけ想いを馳せる。
『隣で、君の手を握って、「君が失せ物をしないように、見張っているのだよ」とか言って、君は少し申し訳なさそうな顔をして、「面目ありません…。」と言って、でも握る手に少し力をいれて、私に「ありがとうございます。」と笑いかけるのだ。』
それは、いつかたどり着く景色。
だから、この手は離さない。
「本当に君は馬鹿だな」なんて、軽口を叩ける未来まで。
ただ、ななせさんの片思いは、切ないけれどどこか温かいものがあるので、こんな風にハッピーエンドにもなり得るんだなー…なんて、思ったりもします。
自分もSSを書きますが、すぐに深刻になるので、羨ましいです!
二次創作の王道かつ使い古されたネタではあるけど、やっぱり面白いよね。
個人的にはシリーズ化大歓迎です。キャラが可愛すぎるぞ!
※「村紗」が沙になってるのはよくある間違いなだけに残念。
いいものですね。。