今日も今日とて開かれた宴会の後、霊夢は縁側に座って茶をすすっていた。
目に映るものは境内一面に広がり寝息を立てる死体の山、そして満月に少し足りない明るい月。
壮観ともいえるその眺めに宴の余韻を噛みしめつつ、霊夢は傍らの皿に手を伸ばした。
――カランカラン
「あれ?」
しかし、伸ばした指は空を切り、指先で引っ掛けた空っぽの皿が静寂を破って暴れまわる。
目当てのもの――紫にもらった外界の海苔せんべいは、いつの間にか全て腹の中に消えていた。
「こんなに静かな夜にせんべいなんて、風流なことね」
「あ、紫……」
噂をすれば何とやら、そこへ紫が唐突に現れた。
宴会でも酔いつぶれなかったこの大妖怪は、滅法酒に強く正気を保った霊夢と並んで茶をすするべく、わざわざ家に帰って湯飲みを取ってきたらしい。
だがそれよりも、呆れたような、それでいてからかうような紫の表情が気に食わなくて、
「悪かったわね。どうせ私は花より団子の卑しい巫女ですよぉ~だ」
霊夢は口をとがらせた。
紫は何も言わずに自分で茶を注ぎ、霊夢の横に腰掛ける。
そのまま二人黙って茶をすすっていると、夜は深々と更けていくようだった。
そもそも、何かにつけ人妖が立ち寄って遊んで行く博麗神社では、このような安寧の時はほとんどない。
敢えて言うならばこうして宴会の終わった後か、神社の巫女が寝てしまった後、つまりは夜の短い時間だけであるが、妖々の跋扈する神社で夜のほうが静かというのもおかしな話である。
人妖を問わず惹きつける巫女の影響力がそれだけ大きいものなのだとも言えるだろう。
何を隠そう紫もまた、そんな霊夢の不思議な魅力に憑かれた者の一人だった。
終わらない冬の異変の際に弾幕ごっこをしてからというもの、彼女は毎日神社を訪れては何かしら無為な話で時間を潰す。
話の内容など問題ではなく、霊夢が横にいて共に話が出来ること自体に彼女は喜びを覚えていた。
「ああ、今日は特に月が明るいわねえ」
霊夢のつぶやきは返事を期待するようなものではなくて、それでも紫の心の琴線にそっと触れる。
同感よ、と紫も心の中でつぶやいた。
二人してじっと見上げる月は、全てを覆い隠すほどの深い闇の中で煌々と輝いていた。
「ねえ、最近月の力がいつもより強いように思わない?」
問いかけてくる霊夢の声に、紫は今しがた存在に気づいたかのように霊夢の方へ向き直る。
目が合った。思わずどきりと跳ね上がる心臓を無視して、紫は答えた。
「月の力が?どうかしらね……。霊夢は何故そう思うの?」
「うーん、言葉にしづらいけど、何となくそう感じることがよくあるっていうか……」
「異変のときの勘みたいなものかしら」
「勘。ええ、そうね。ただこれが異変でないこともわかるのよ。異変ならもっと胸騒ぎがするはずだわ」
「まあ異変じゃないに越したことはないわね。じゃあもっと具体的に、月の力を強く感じるのはどんな時?」
「えーと。ほら、例えば満月の夜になったら慧音がワーハクタクに変身して、月の妖精の悪戯が面倒くさくて厄介になって……」
「いつも通りじゃないの」
「……いつも通りね」
そう言って霊夢は可笑しそうに笑った。
その笑顔に紫はいつも魅了されるのだ。月の光に照らされて格別魅力的な笑顔からどうにか目を離し、紫は次の言葉を紡ぐ。
「ただ、最近月の力が強いというのは当たっていると思うわ」
「でしょ?ほらみなさい、私の勘はいつだって百発百中で……」
「た・だ・し。最近と言ってもここ百年くらいのことだけれど」
言葉を途中で遮られた霊夢は一瞬呆気にとられた表情を作り、すぐにがはがはと豪快に笑いだした。
「そうか、百年前から、ね。どうりで月がいつからこんなに強かったか覚えてないはずだわ。うまれた頃からずっとだもん。はぁ、それにしても『最近』だなんて……ぷっ、紫も結構バ」
「お黙り」
失礼なことを言う口はあらかじめ塞いでおく。
こうして口の悪いところもある霊夢だけれど、それだけ自分たちが気の置けない間柄になったということだろうと紫は無理やり自分を納得させた。
「それで、月が強くなった理由は一体なんなのよ。紫が動かないってことは、異変じゃないんでしょ?」
「ええ、あなたが動かないんだからなおさら異変とは呼べないわね。理由は単純で、外の世界の人間が月を忘れてしまったから幻想郷に流れ込んできた。ただそれだけのことよ。」
「月を忘れた?嘘おっしゃい」
そう言って霊夢は不可解そうに空を見上げた。吸い込まれそうな黒い瞳に、少し歪な形の月が映りこむ。
霊夢は何も言わなかったが、月をみつめて考えていることは容易に想像がついた。
忘れようったってこんなに明るい月のこと、真昼のルーミアよりもみつけやすいじゃない、と。
「もちろん月の存在それ自体を忘れたわけではないわ。忘れたのは、古くから人が恐れ敬い続けた月の力。人間は今、美しい月を自分の物にしようと手を伸ばしているけれど、それでは本質を見失ったままなのよ」
「そんな……」
霊夢はやおら立ち上がって縁側を離れ、紫に背を向けたまま両手を広げて月の光を全身に浴びる。
風を受けてゆれ動く霊夢の黒髪は、妖しい夜の光に良く映えていた。
「だって、夜の月はこんなに、ほら、こんなにも明るいのよ。この光に力を感じないなんて……」
しかし、立ち姿の壮麗さとは対照的に、なんとか紫の言葉を否定しようとする霊夢の様子はどこか余裕を失っているようにも思えた。
「あなたはそう思うでしょうね。でもね、霊夢、外界とはそういう場所なのよ。何百年か前に街灯、つまりは夜を明るく照らす装置が発明されて、人間の世界から夜は無くなった。太陽の光とも遜色ないほどのその灯りの下で人間はずっと、忘れてしまった月の力に気付けないでいるわ」
静寂。紫はそれを自分から破ることはせず、表情の見えない霊夢の反応を静かに待った。
程なくして霊夢の後ろ姿はぽつりとつぶやいた。
「ガイトウ……」
「え?」
「そのガイトウってやつで、夜は明るくなるのね。それこそお月様を忘れてしまうくらいに」
「ええ、そうよ」
「すごいわね。とても便利な装置ね」
でも、と微かに聞こえた気がした。続く言葉が風に吹き飛ばされてしまわぬよう、紫は息を潜めて耳をそばだてた。
――でも、とっても寂しい装置よね。
思わずハッとする。その瞬間、霊夢の悲しそうな言葉が、寂しそうな後姿が紫の世界の全てだった。
目に映る霊夢の後ろ髪が音もなく舞い踊るのを、紫はじっとみつめていた。
次に振り向いたとき霊夢は至っていつも通りで、吸い込まれそうな黒い瞳も、艶やかな黒髪も相変わらず美しいものの、一瞬前まで感じていた妖艶で儚げな様子がそこには感じられなかった。
「あー、ずっと上向いてたから首が疲れちゃったわ。あ、そうだ。ねえ紫、あんたちょっとそこに正座してみてよ」
先ほどの霊夢の言葉に意識をめぐらせ忘我の境にあった紫は、その要求が何を意味するのか理解するより早く、気づけば体の方が従ってしまっていた。
すると、品よく正座する紫の太ももの上に霊夢は自分の頭をそっと乗せ、
「私の特等席よー!」
霊夢の要求は『膝枕』だった。
当然のごとく自分の膝の上に収まる霊夢の顔を見て、紫は思わず顔を赤らめる。
それだけ長い間生きてるくせしていつまで経っても初心よね、と幽々子にはよくからかわれるのだ。
しかしそれは経験の量によるものではなく、持ってうまれた性格なのだから仕方がない。
明るい月の光が赤くなった自分の顔を照らさないよう、紫はただそれだけを願っていた。
「ここなら外の人達の分まで存分に月が見られるわね」
それにしても特等席とは、嬉しいことを言ってくれるものだ。紫は声に出さずに思う。
寿命の違いという壁の存在を考え、紫はこれまで人間と必要以上に親しくならないようにしていた。親しくなればなるほど避けられない別れの時が辛くなるだけだと、人間とは一定の距離を保って付き合って来たはずだった。
ところが霊夢に対してはそうはいかない。霊夢と共にいる時間の魅力に、紫はほとんど抗し難いものを感じていた。
案の定というべきか、霊夢との距離は時が経つにつれ近づいてゆき、自分の思いが単なる一方通行でないことにも徐々に気づいて……。
「ねぇ、霊夢」
放っておけば勝手に暴走して沸騰しそうな思考を断ち切るために、紫は霊夢に声をかけた。
霊夢はぼうっと月に投げかけた視線を動かさないまま答える。
「ん、なーに?」
「今夜の月は十三夜月。満月に幾らか足りないながら、満月と同じくらい美しいとされている月なの。霊夢は今日の月と満月と、どちらの方が好きかしら」
「そんなの、今日の月に決まってるわ」
「あら、どうして?」
「だって、これから先欠けていくだけの月なんて、ただ寂しいだけじゃない」
不完全な月をみつめて言い切ったその様子に、霊夢らしい答えだと感じた。
奔放で何者にも縛られないように見える霊夢は、その実誰よりも寂しがり屋なのだ。
内心の寂しさをうまく外に表せない不器用な少女の姿こそが、心を惹きつける霊夢の不思議な魅力を産み出す物なのかも知れない。紫は常々そう思っていた。
「それじゃあ、さ。紫はどっちの月が好きなのよ」
「私?私は……そうね、私も十三夜月の方が好き。理由は同じ、欠けていくのを見たくないから」
聞かれて答えただけだというのに何が可笑しいのか、答えを聞いた霊夢はくつくつと笑い出した。
「ちょっと。何も変なことなんて言ってないつもりよ」
「いやぁ、変じゃないわ。変じゃないのよ。ただ、欠けていくのを見たくないなんて、自分はとっくに満月を通り越して下弦の月なのに何言って……」
「お黙り」
またしても失礼な態度をとる霊夢にぴしゃりと手刀をかますと、あうっと一声上げて笑い声は止んだ。
「私はまだ満たされた覚えはないわ。近い将来そうなるという予定も、ね」
それは、初めて親しくなった人間である霊夢のこと。彼女とはもっともっと近付ける気がするから、まだまだ満ち足りない。
初心でなければ思いを今ここで伝えられるかも知れないが、その必要も感じなかった。
霊夢と共にある将来が続く限り、自分はずっと十三夜月でいられるから。焦る必要はない、と紫は思う。
二人とも沈黙を守ったままで、穏やかな時が過ぎた。
霊夢が寝転んだ体勢で器用に茶をすすること三度の間に、紫はずっと我慢していたことがそろそろ耐え切れなくなるのを感じていた。
「ねえ霊夢」
「なに、紫」
「……いつまでこの姿勢でいればいいのかしら。そろそろ足が痺れてきたのだけれど」
名残惜しさを振り切りつつ伝える。
ひざの上に幸せな重みを感じていたい感情と天秤にかけても良い勝負になるほど、紫の足はひどく痺れ出していた。
「うーん、あとちょっとだけ」
「あとちょっと?どれくらいのつもりよ」
「そうねえ。この月が沈むくらいまでは」
「月が沈む前に私の足が朽ちるわ。それに、そんなこと言っている間に他の誰かに見られたらどうするのよ」
「大丈夫よ。みんな酔いつぶれてだーれも見てやしないわ」
「はぁ。その自信は一体何処からでてくるのかしら……」
しかし、なんのかのと言いつつも紫は膝枕を続ける。煮え切らない天秤に自分の手で裁決を下してしまった形だった。
今の自分の居場所を特等席と思っているのは霊夢だけではない、結局はそういうことである。
「外の世界の人達も、さ。たまには、本当にたまになら月の力を思い出して懐かしく思うことがあるのかな」
唐突に霊夢が問いかける。本人は何気ない風を装って聞いたつもりかも知れないが、肯定してくれと願う必死の表情がその顔に張り付いているように見えた。
だからというわけでもなく、嘘偽りのない本心から、紫は膝の上の霊夢をみつめ返して答える。
「ええ、そうだと思うわ。そうじゃないと寂しすぎるもの」
「そう、そうよね。きっとそうだわ、うん」
霊夢はほっとしたように目を閉じた。そして、今にも眠りにつきそうな穏やかな表情で、
――私にはわかりそうにないわね……。
安堵の中にどこかわびしさを含んだつぶやきに、わからないほうがいいこともあると、そう思った。
霊夢は目に映る月の力をずっと感じていてくれれば良い。懐かしむようなことは霊夢の役目ではないから、と。
互いに自分の特等席に陣取り月見をする二人、だーれも見ていないはずのその姿を未熟な十三夜月が静かに見守っている。
知らない間に傾いた月は先ほどよりもわずかに大きく、少しだけ満月に近づいたように見えた。
そういえば最近月見てないなぁ…
特にこの冬の時期に見上げる月は本当に見とれてしまう美しさがあると思います
そういえばここ1年近く月を見ていない…
ほんとにこの二人には月が似合いますね。
夜に外へ出ると目の前に持ってきた自分の手も見えないくらいの真っ暗闇。
そこで眺めた月は怖いほど近くに見えて、玉兎や嫦娥をそこに見出した酔狂な古代人に
ちょっとだけ同調してしまった子供の頃の自分がいた。実にピュアだね。
思い出させてくれてありがとね、作者様。
俺達が普段ないがしろにしてる分、幻想郷のお月様はさぞかし綺麗なんだろうなぁ。
それと霊夢、別にどうでもいいんだけどそろそろ紫様の膝枕は自重したほうがいいんじゃないかなぁ。
ほら、餓鬼の頃の俺と同じでピュア&初心な紫様の御御足が血行障害を起こしたらマズイじゃん?
ただそれだけ。いやホント、別に羨ましがってるわけじゃねーし。
だがそれがいい
このお話を読んで改めてそういった物を考え直せたような気がします
とても綺麗なお話ですね
昔は公園のベンチで十五夜の日には月見団子を供えて月見をしていた記憶があります。
幽玄の象徴ですね、月は。
素敵な作品でした。