薄汚れた石綿のような暗雲が空一面に広がっていた。
恵みの雨を齎すでもなく、活力を与える光が燦々と降り注ぐでもないなんとも陰鬱な天気である。
博麗霊夢は今にも暗い天を眺めながら、神社の縁側に座って一匹の小さな鴉の羽根を撫でている。
鴉―――先日鳥居の傍で怪我をして飛べなくなっているのを博麗霊夢が見つけた。死にかけているのをほうっておくのも何やら後味がよろしくないと拾って連れ帰り、治療までしてやったのだ。
今日にも放そうと思っていたのがあいにくの天候に戸惑っていた所。それにこの鳥も霊夢の膝の上がどうにも気に入った様子で、その誇り高き翼を触られて一切嫌がりもしない。
羽を優しく撫でる彼女は、また天空の様子をじいっと見つめながら、一人の知り合いの事を、全くとりとめもなく考えていた。
それで膝の上の鴉に、「あなたもいつかは天狗になるのかしら」なんて小さな声で言った。そこには小さきもの、弱きものを慈しむような、静かなまた暖かな眼差しが有った。
「そう簡単には霊変しませんよ」
飛びこむように庭の所に現れた彼女、まさに当人、射命丸文は、言って霊夢に近づいていく。
「ここよろしいですか」と早口で口走れば、了解を得る間もなくさっと隣に座ってしまった。
霊夢は少々面食らいながら、あ、やっぱり鴉天狗ってもとは鴉なんだ、なんて納得して。
「あんたにも、小さな一羽の鴉だった時の記憶なんか有るわけ?」
問われた方は何故か顔をしかめて。
「天狗には山の動物が霊変を得た者の他に、親の天狗から生まれた者も居ります」
「文はどっちなの?」
「前者です」
「そう。覚えてるもんなの? 自分が鴉だった時の事」
今日は、まるで霊夢が新聞記者であるようだった。
そんな巫女に、文は苦笑して、
「いえ、鴉でいる間は、あんまり何も考えなかったものですから」
と。
まだ何事か訊きたげな霊夢を制して、文は「お茶は」と短く言う。
「ああ、ほら、今日はこの子が居るからあんまり動けなくて」
霊夢が膝の上を指差して見せると、文は無言で、勝手知ったる他人の家とばかりにずかずかと台所に向かう。
しばらくして文が少し、いやだいぶ機嫌を悪くした様子なのを霊夢は悟る。
天狗の間では控えられるのが常識の質問だったのかしら。だとしたら悪い事をしたわ。
それからお茶を飲みながらたわいのない話をしていると、霊夢は再び、文の様子がちょっとおかしい事に気がついた。
目線が合わない。相手の目線の方が下に行く。
胸元でも見ているのかと思ったら、違った。
鴉天狗は小鴉を見つめていた。
「どうしたの?」
少し、怒ったような口調になっていたかもしれない。
「あ、いえ、可愛いな、と思いまして」
「記事になりそう?」
「ハイ、博麗霊夢、愛の養育日記、なんて」
慌てて、大層な仕草でノートとペンを取りだす鴉天狗の様子を見て、巫女はからかうようにころころと笑った。
押し黙る文に霊夢は形通りの説明をしてやる。どこでどういう状態で拾ったかとか、今日放そうと思っていたのに、この曇り空でしょ、とか。
文がその言葉を一字一句違う事無くメモしながらも、記事にする気が無い事は傍目にも明らかだった。何しろいつまでたってもお得意のカメラを取りださないし、積極的に質問をする事も無いのだから。
やがてそのまま更に、妙に落ち込んだ様子になったのが、霊夢の目にもはっきり分かった。
「ちょっと、どうしたのよ」
「す、すいません、ちょっと、見てると、うっ……」
顔色は真っ青だった。
「普段は、考えないようにしてるから平気なんですが、今は」
「ごめんなさい。ちょっとからかい過ぎたわ」
「烏だった時の事は……」
もはや落ち込んだ様子などという生ぬるいものではなかった。
射命丸文は全く平時の余裕を失っていた。
急に吹き込んだしんから冷たい風が、戦慄を伝えながら少女の身体を撫でた。
自分の両手で震える肩を抱いた。
その時彼女はまるで一匹の、弱い動物であるかのようだった。
われかつて鴉なりしころ……。
われかつて矮小極まる一匹の小鴉なりしころ……!!
昔の時代の不安と無力に包まれたように、顔を蒼くしていた。
あの頃私は動物であった。
毎日例えば山の木の実や、樹の根を齧って生きていた。
衣服は纏わず、日に一回の行水をした。
糞を素足で丸めていた。本能のままに生きていた。
知性、必死に築きあげたものを、当時持たなかった事を思い出すだけで身体はしんから走るこの寒気、怖気を耐えられない。
ましてやいつ、霊変が解けてあの呪われた時代に戻っていってしまうのだろうかなどと考えたならば。
誰が、それは有りえない事だと、保証してくれるわけでもない。
それらの恐怖、それらの懼れこそが、彼女の心と体とをいまがたがたと震えあがらせる理由なのだ。
人が死について本当に深く考える時のように。
今でも、野生の鴉を見るのは嫌なのだ。それはそう、まるで、『昔の自分を見るようで』……。
ふと自分の心を強く抱きしめ暖めるものを感じれば、博麗霊夢が小さな鴉にしたように、天狗の黒く美しい翼を撫でていた。
憔悴した顔をそっと上げて見たその姿は今や文にとって、まるで楽器を演奏する天女のようで。
……全く自分は幸運であった。
ぬくもりに想起されたのはかの偉大なる霊変であった。
あの時、体の中を一つの鋭い衝撃が突き抜けていったのだった。
それが死の齎すものであるのか、生の齎すものであるのかその時全く判別が付かなかった。
だからといってその強大なものにあらがう事も出来ないので、何も考えないでそれに従ってみる事にしたのだ。
今もそれと、同じ感覚が有る。
……行き先がはっきりわからぬ事には、小さな鴉の身に感じられたあの懐かしい、何やら秘密の、大きな楽しさが有った。
……回復した様子を見て取った霊夢は薄く微笑んで言った。
「……文、ちょっとは落ち着いた?」
「……ええ、心配をおかけして、……本当に申し訳ありません」
「悪い事を、聞いちゃったのかもしれないわね」
その間ずっと、……少しの罪悪感が有ったのだろうか、霊夢は文の背、羽根の付け根から、先端にかけてを丁寧にさすりあげていた。
文が堪え切れぬとばかりに霊夢の胸に飛び込むと、霊夢の方もぎゅっと抱き返した。
縁側に放り出された小さな鴉が黒くつぶらなその瞳でこの二人の姿をいつまでも、じいっと見ていた……。
「その鴉は、私が山へ送りましょう」
すっかり元気になった様子で、文は何処か得意げに言った。
「この天気です。それに私なら、親を探す事もできます」
霊夢は少しだけ考えるような仕草をして、しかし決然と言った。
「そうね、お願いするわ」
と。文は何故だか、そのトーンと視線に艶めかしいものを感じて、……少しどぎまぎとした。
やがて一つの小さな命が巫女の手から鴉天狗の少女の手のひらへと手渡された。
風はやんでいた。
相変わらず重い雲が、天の蓋のように頭上に乗っかっていた。
その下を遠くへ、素早く、なにものかが投げたように、小さな影が飛んでいく。
見送る、一人になった霊夢は、ふう、と、小さく溜息をついた。
それでも彼女の口の端には、優しく暖かい頬笑みが有った。
鳥居を過ぎて少し行った所で射命丸文は最もなすべき事をなした。
すなわち右手の人差し指と親指で左手に包んだ小鴉の、その安息のもとにある首根を捕まえると、「どうせ失われる命よ」などと呟いて、妖怪の強い力でそのままぐっと、首の骨まで砕いてしまった。
かれは苦しそうに嘴を開いたものの断末魔さえ挙げなかった。
その間彼女に表情は無かった。
いつの間にか肩に止まっていた文の使い魔の鴉も文に倣うように、表情を無くしてこの小規模な虐殺を見ていた。
そのまま死骸を放り投げた。もしも博麗霊夢が勤勉で毎日石段の一番下まで箒がけを怠らないなら、明日には無残にも森の動物や虫けらに食われたそれを見つけるかもしれぬ。それでもぜんぜんかまいやしない。そう射命丸文は思った。
何故かって、巫女に鴉の個体を判別しうる能力が無いと思ったからではない。
博麗霊夢がこの鴉をまさに殺させる為に自分に預けた事は明らかで、全く疑いを差し挟む余地すら無い、と思ったから。
……。
……やがて烏天狗の飛び去った後、降り出した激しい大粒の雨が、かなしい死骸の骨の髄に至るまでをじゅんと湿らせた。
生きていたものたちの、代わりに水があたかも魂有るものの如く流れて、雨水は川のようになり、濡れた骨と肉とを、何処か遠くの土地へ運んでいってしまった。
本当に殺させようとしていたんですか?
本当は殺さないですませてくれることを願っていたんじゃないか?
なんというか、この作品の霊夢は、普通に優しく見えるけど、艶めかしい笑みを浮かべてたりしてますし、どうも悩んでしまいます。
あとがきの一文も、よく分かりません。ごめんなさい。
火車考みたいな作風を期待したので残念でした。
あるいは、僕がそれを見いだせない程の難易度設定で、残念でした。
綺麗な話でしたが、どう捉えて良いのか解らなかったので、この点数で失礼します。
よく分からないとこが多い
他にしては尺が短いような
つまりはそういうことなんじゃないかな
自分も畜生のくせに
そういうことな……
病んでるなぁ
哀しいけど……いや、やっぱり哀しい。
コメ28で意味が解った。
読み返したら最高だった。
そのとおりかも知れないけどもそれは関係ないように見える
※28 の言うとおりな気がするな
まぁ、ちょっと気分が悪くなったし、まったく面白いとも感じない