人里に住む半人半妖の教師、上白沢慧音は多忙である。
いつもの歴史編纂や教師の仕事はもちろん、人里の守護者である彼女のもとには侵入者を見張る夜警の役目が定期的に回ってくる。さらに半年ほど前からは、人里と交流の深い妖怪たちの相談役という仕事まで受け持つようになった。
妖怪は人間を襲い、人間は妖怪を退治する。それがこの世界の本来の掟である。しかし最近はこの掟もかなり有名無実化しており、人里で買い物をする妖怪くらいは当たり前、人里で商売を始める妖怪すら出てくるようになった。妖怪兎が販売員を務める置き薬屋や、夜雀の経営する焼き八目鰻屋などはその代表的な例である。現在の幻想郷はすでに、人間と妖怪という種族の壁が薄らぎつつある状況であった。
が――しかし。人と妖怪との接触の機会が増えることは、そのままトラブルの種が増えることをも意味する。
価値観の相違、認識の隔たり。ほんの些細なきっかけでそれが顕在化し、妖怪と人との間に行き違いや相互不信を呼び込む。問題がこじれた末に自警団が出動する事態も増え始めていた。この事態をそのまま放置すれば、人と妖怪との間には、再び深刻な溝が生まれることになりかねない。
ゆえに人里の安寧を願う慧音は、妖怪と人との間に立ち、お互いの仲を取り持つことを決意したのだ。
妖怪兎たちから持ち込まれる相談に応じ、夜雀の愚痴に付き合い、蟲妖怪の仕事の依頼を取り次ぐ。
妖怪嫌いの村人からは「化物教室」と揶揄され、心配性の友人からは「もっと仕事を減らせ」と怒られもしたが、慧音は新しく増えたこの役目に対して、決して手を抜くつもりはないのであった。
そして、冬が深まりつつあるこの日。
「……む?」
呼び鈴の音が聞こえたので、朝食に使った食器を片付けていた慧音は手をとめた。平日の早朝だというのに来客である。
はて、こんな時間にいったい誰が。首をひねりながら玄関へと向かった女教師は、さっそく扉を開け――来客者の姿を認めてわずかに驚いた。
「…………。」
「チルノじゃないか。いったいどうした?」
無言で扉の前に立つ少女は、一年ほど前に知り合った湖の氷精だった。
慧音にとってこの妖精は、妖怪兎や夜雀と並ぶ人間以外の常連客である。もっとも彼女の場合はトラブルの相談に来るわけではなく、家に上がりこんでは絵本を読んだり食べ物を食べたり、たまに書道を習ったりスペルカードルールの練習をしたりと、よく言えば寺子屋の生徒たちの一員、悪く言うなら気まぐれな遊び人なのであった。妖精というものは、そもそもそういう種族ではあるのだが。
さて、そんなよく見知った少女――お気楽で強気、常に威張ることを忘れない唯我独尊な氷精が、今は見たこともないような難しい顔をしている。何か悩みを抱えているような、言い出しにくいことを心の中に溜め込んでいるような、そんな表情。
少なくとも、ただ遊びに来たというわけではなさそうだ。
――ふむ。何かあったか?
黙りこんだままこちらを見上げる少女に、慧音はとりあえず尋ねてみることにした。
「今日はどうしたのかな? 相談事があるなら話してみなさい」
促された少女は、こくんと一つうなずくと、なにやら決意を秘めた口調で話し始めた。
「……あのさ、けーね。教えてほしいことがあるんだけど」
チルノちゃんが帰ってこない。
霧の湖のほとりに、わたしは一人で座っている。
そろそろ夕方に差し掛かる頃合い。雲ひとつない大空は抜けるように澄んでいるけれど、夏のような躍動感はない。それは冬の空が夏ほどには青くないからだろうか。それとも、わたしの同族である妖精たちの姿を見かけないからだろうか。
三ヶ月ほど前までは、秋の実りを喜ぶ仲間たちがそこら中で遊んだり踊ったり歌ったりして賑やかだったのに、今はもうみんなの姿を見かける機会はあまりない。植物や動物たちが眠りにつくこの時期は自然の力が減少するため、ほとんどの妖精は元気を失ってしまうのだ。
もちろん例外はいる。たとえばわたしの友達であるチルノちゃん。
氷を操る彼女は、この季節がいちばん力が強まる。妖精にしては広い行動半径もさらに広くなる。ひょっとすると、この幻想郷のあらゆる場所に行くことができるくらいにまで。
逆に普通の妖精よりちょっと力が強いだけのわたしは、冬の特に寒い日は、それほど遠くに行くことはできない。人里に遊びに行った友達を追いかけるなど不可能なので、ここでこうして大人しく留守番をするしかない。
「はあ~……」
溜息をつくと、白い息が目の前にふわっと浮かび上がった。すぐに冷たい空気と混じり合って、儚く消えて行く。
もう何度、こうして一人で溜息をついたことだろうか。
友人が一人でどこかに出かけるのは今に始まったことではないし、わたしたち妖精にとってそれは珍しいことでもない。気まぐれで自分勝手なのがわたしたち妖精の性質なのだ。仲間がニ、三日姿を消したくらいで心配していては身が持たない。
でも最近のチルノちゃんは、遠出の頻度がだんだんと上がり、また遠出の時間そのものも長くなっていた。今回などは一ヶ月たっても帰ってきてくれないのだ。
心配で心配でたまらないし、それになにより、寂しい。
「チルノちゃん、もうわたしには会ってくれないのかな……」
思わず、そんな愚痴をこぼしてしまう。
昔はあんなに一緒に遊んだのに、なんて独り言をつぶやいてしまう。
チルノちゃんの力が弱かった頃は、こんなことはなかったのに。そんなふうに、昔を懐かしんでしまう。
昔。
そう、大昔だ。
忘れっぽいチルノちゃんは覚えてもいないだろうというくらいの大昔。
わたしが初めて出会った頃のチルノちゃんは、本当にどこにでもいる普通の冬の妖精だった。
冬しか活発に動けず、他の季節は水の下や岩の陰に引っ込んでいるだけだった。春も夏も秋も遊べる他の妖精たちを羨ましがっていたくらいだ。
「なんでみんなはいつでも遊べるのさ? ズルイよっ!」
それがそのころのチルノちゃんの口癖。
昔からワガママだった彼女は、冬の妖精としての宿命を決して受け入れようとはしなかった。暴れる元気もないくせに炎天下に出ようとして、周りから止められるなんてのもしょっちゅうだった。
ダメだよ、冬の妖精は夏の間は大人しくしてなきゃ。わたしがそう窘めても、彼女は聞く耳を持ってくれはしない。そして決まってこう叫ぶのだ。
「あたいがもっと強くなれば、いつでもどこでも遊べるのに!」
そんなチルノちゃんに、他の妖精たちは本気で呆れていた。妖精はもともと頭が良くないものだけど、ここまで物事の道理が判らないバカは珍しい、と。
わたしも内心では呆れていた。本当にこの娘はバカなんだな、なんてひどいことを思ったものだ。
他の妖精たちと違ったのは、それでもチルノちゃんのことを放っておかなかったことくらいか。どうにかして冬以外の季節でも遊ぼうとする彼女に付き合って、わたしは霧の湖の周囲をよくお散歩したものだ。空を飛ぼうとするとチルノちゃんがすぐに元気を使い果たしてしまうから、わたしたちは人間みたいに地上を歩き回った。
「つまんないー。飛びたいよー、暴れたいよー、ねえ大ちゃん?」
「だめだよチルノちゃん、今の季節は我慢しなきゃ。わたしも一緒に歩くからさ、ね?」
わたしが当時のチルノちゃんに付き合う理由は単純だった。弱い妖精をリードすることで優越感に浸りたかっただけだ。飛べない子の歩く速さに合わせてあげて、どんくさい子の強がりに適当に付き合ってあげて。そうしてわたしは、お姉さん気分を味わっていたのだ。
でも。
「地面から見上げると、空って本当に広いんだね」
「ふふん、その通り。春の空はくすんでて、夏の空は広くて、秋の空は高いんだよ。知らなかったでしょう?」
「うん、知らなかった。空を飛んで地面を見下ろしてばかりだと、見えないこともあるんだね」
動けないくせに好奇心旺盛なチルノちゃんは、意外にも、いろんなことを知っていた。
地上から見上げる空の色のこと。岩の下に隠れる魚たちのこと。沼地でぴょんぴょんと跳ねる蛙たちのこと。四季の移り変わりとともに白くなったり茶色くなったりする兎たちのこと。地面の中に住む虫たちのこと。
地に足をつけた視点から眺める自然は、思いのほか多彩で、そしてとても美しかった。
「わあ、大ちゃん! こんなところにお花畑があるよ!」
「あ、本当だ。森に隠れて上からじゃ見えないんだね。綺麗だねー」
「むう。これを全部凍らせるのは結構大変そうね。とりあえず、その辺りからカチンコチンにしてみようか」
「そんなことしたらお花の妖精に怒られちゃうよチルノちゃん。ここから眺めるだけにしようよ」
何かにつけて凍らせたがるチルノちゃんをなだめつつ、わたしは色んな所を歩きまわった。
季節とともにうつろいゆく空の色を楽しみながら、ゆっくりと。
一年中飛び回れるようになったらどんな遊びをしようか。そんなことを話し合いながら、のんびりと。
ずっとチルノちゃんのそばに居たから、わたしが人間たちに悪戯する機会はほとんどなくなってしまったけれど、わたしはそれでも良かった。少しずつ行動範囲を広げるチルノちゃんに付き合っているだけでいろいろな発見があったし、それに新しい妖精たちとの出会いもあったから。チルノちゃんがケンカを売って、わたしが慌ててそれを止めて――というパターンを繰り返すうちに、自然と知り合いも増えていったのだ。
もともと引っ込み思案のわたしは、いつの間にかチルノちゃんをリードする側から、リードされる側に回っていたけれど。
でも、その関係はとても心地良かった。ずっとこんな時間が続けばいい、なんて、そんなふうにさえ思っていたくらいだ。
そんな関係が、何年も、何十年も続いたころ。
チルノちゃんの力は、いつの間にかとても強くなっていた。春でも秋でもわたしと一緒に空を飛び回り、あれだけ嫌っていた夏でさえ問題なく行動できるようになっていたのだ。
「あたいは最強の無敵妖精! 夏なんかに負けるわけがないわ!」
炎天下を得意げに飛びまわるチルノちゃん。その笑顔がとても眩しくて、わたしも一緒になって笑ったものだ。これでどこへでも行けるね、いつでも思う存分遊べるね、と。
それからは、本当にいろんなところを見て回った。
とんでもない広さの幻草原を見つけて、花を摘んだり凍らせたりした。
妖怪獣道に咲くたくさんの桜に見入っていたら、危うく妖怪に食べられそうになったりもした。
迷いの竹林の入り口で正体不明の大火災に出くわして、大火傷しそうになったこともあった。
「チルノちゃん、もうおかしな場所に行くのはやめようよ。妖怪に食べられちゃったら痛くて大変だよ?」
「だーいじょーぶ! あたいは最強だから、次にあんなヤツに出くわしたらチョチョイのチョイでチンプンカンプンさ!」
「意味がよく判らないよ、本当にちんぷんかんぷんだよ……」
「ふふん、わからないの? つまりはね、泥船に乗った気分で安心していいってことよ!」
「泥船だと沈んじゃうよチルノちゃん。まあ、ある意味正しいセリフだけど」
チルノちゃんが無茶な提案を言い出して、わたしがそれを止めようとする。それがいつものパターン。
結局チルノちゃんに引きずられて、わたしも一緒に未知の場所に行く羽目になる。それもいつものパターン。
そして結局危ない目にあって、二人して命からがら逃げ帰る。それさえもいつものパターン。
湖に辿りついたあと、わたしがチルノちゃんに反省を促して、でもチルノちゃんはまるで懲りない。そんなところまでいつものパターン。
でも、それでも。
そんな日々は楽しかった。
川の向こう、草原の向こう、山の向こう。そこにはわたしの知らない世界が広がっていて、わたしの知らない草木があって、わたしの知らない動物たちがいた。
あまり行動的でないわたしは、チルノちゃんに引きずられでもしない限り、そんな世界を見ることはなかったと思う。
ある日わたしは、珍しくチルノちゃんを先導して、名もない山に登ってみたことがある。妖怪の住んでいなさそうな、雰囲気の穏やかそうな山を選んで、ピクニックをしてみたのだ。
人間の真似をしておにぎりを作って、人間の子供用のバックを肩にかけて、山の上までひとっ飛び。
いつもの他愛ないお出かけだけれど、頂上では意外な収穫があった。そこは非常に眺めが良くて、幻想郷の色々なところを見渡せたのだ。
目の前の眺めに興奮したチルノちゃんは、ぶんぶんと両手を振り回す。
「わあ、広いよ! あたいたちが行ったことがない場所が、まだまだこんなにたくさんあるよ!」
わたしはにこにこと笑って応じる。そうだね、広いね。幻想郷がこんなに広いなんて、知らなかったよ。
するとチルノちゃんは急にわたしに抱きついてきた。冷たい身体を押し当てられてびっくりするわたしに、満面の笑みを向けてくる。
「ありがとう大ちゃん! 大ちゃんのおかげだよ!」
え、何が?
きょとんとして聞き返すと、振り回していた手を止めて、チルノちゃんは嬉しそうに告げてきた。
「大ちゃんがいなかったら、世界がこんなに広いだなんて、あたいは判らなかったんだから!」
……その言葉に、なぜかすごく涙腺が緩んだ。
わたしは別に、チルノちゃんに世界の広さを教えたかったわけではない。チルノちゃんと一緒に居たかっただけ。
ただチルノちゃんに手を引っ張られて、たまにチルノちゃんの手を引っ張っていただけ。
どちらかと言えば、この世界の広さを教えてくれたのは、チルノちゃんの方なのに。
「この世界がすっごく楽しいって、そう教えてくれたのは大ちゃんだよ」
なのにチルノちゃんは明けっ広げに笑って、そんなふうに言ってくれる。
そんな友達のことが、とてもとても嬉しくて。
悲しくもないのに、わたしは一粒、涙を流してしまったのだ。
……そのときわたしは、ずっとこんな日が続けばいいと思っていた。
ずっとこんな日が続くと思っていた。
けれど。
また何十年も経つうちに、チルノちゃんの力は際限なく強まっていった。そして彼女が無意識に放つ冷気もどんどん強くなっていったのだ。
夏や春の間はまだいいけれど、冬ともなるとチルノちゃんの周囲は、近寄るのも難しいほどの冷たさになる。多少は力の強いわたしでも手で触れるのがつらいと感じるほどだったから、他の妖精たちは冬の彼女にはまったく寄り付かなくなってしまった。
寒い時期にこそ力を発揮するチルノちゃんは、その性質ゆえに、冬の間は他のみんなと遊ぶことができなくなってしまったのだ。
「冬は退屈だなぁ……」
そのころの彼女は、よくわたしにそう漏らしていた。
そして、その頃からだったと思う。
チルノちゃんが、妖精以外の種族にもよくケンカを売るようになったのは。
ちょうどスペルカードルールが制定されて、力の差がある者同士でも戦いを楽しめるようになった時期だったことも影響しているのかも知れない。
「あんたなんて、英吉利牛と一緒に冷凍保存してやるわ!!」
本当にもう、見境なしだった。異変のときに周囲の者に襲いかかるのは妖精の性質だけど、チルノちゃんはそれとは関係なく、いつでもどこでもどんな相手にでもスペルカード戦を挑むのだ。それこそ博麗の巫女みたいな明らかに力の差のある相手にでも。そして何度コテンパンにされても一向に懲りず、何度でも同じ相手にケンカを売るのだ。
そんなチルノちゃんに、周囲の妖精たちは本気で呆れ果てた。手のつけようのないバカだ、と。そしてチルノちゃんを完全に放っておくようになった。
わたしは呆れなかった。バカだとも思わなかった。本気でチルノちゃんのことを心配して、本気で何度も止めようとした。ケガをさせたくなかったというのもあるし、それに実感として判ったからだ。
チルノちゃんは、どんどん強くなっている、と。
いつもそばに居たわたしは、チルノちゃんの放つ冷気が少しずつ強烈になっていることに気がついた。巫女や魔法使いにケンカを売るたび、コテンパンにされるたび、そして新しいスペルを考えつくたび、彼女の無鉄砲さを補うようにその力は強くなっていく。
強い妖怪や強い人間たちにとっては微々たる変化だったかもしれない。けれどわたしたち妖精にとってみれば、チルノちゃんの力は驚異的なものになりつつあった。夏ですら他の妖精たちを寄せ付けず、気がつけばわたしも、冬のチルノちゃんには触れることができなくなってしまった。
このままチルノちゃんがスペルカード戦を続けて、どんどん強くなっていくのなら。
そのうちわたしは、彼女に近寄ることもできなくなってしまうのではないか。
わたしには行けないような遠いところへ、チルノちゃんは飛んでいってしまうのではないか。
いつのまにか、わたしは心の中でこう願うようになっていた。
「チルノちゃん。お願いだから、もうこれ以上強くならないで」と。
でも結局、そんなセリフを言うことはできなかった。スペルカードルールを心ゆくまで楽しむ友達に、それをやめろと告げることなんてできなかったから。
強くなっていく友達に何も言えないまま、またニ年が過ぎ。
あのころのわたしが抱いた危惧は、今こうして現実のものとなった。
今のわたしには行けない場所――人里に行ったまま、チルノちゃんは帰ってこない。
わたしはこの一ヶ月、ずっと一人きりで湖のほとりに座っている。
「…………」
ちょっとだけ涙が出てきたので、わたしは膝のあいだに顔を埋める。
友人の身勝手さに腹を立てているのではない。これは仕方のないことだ。わたしたち妖精ではもう彼女と遊んでやれないのだから、チルノちゃんが他の遊び相手を求めるのは当然のこと。悪いのは、チルノちゃんの冷気に手も足も出ないわたしたちだ。
それに、これは冬の間だけのことだ。春になればチルノちゃんの力も弱まるから、わたしなら彼女と遊ぶことができる。常に一緒にいるのは寒くてしんどいけど、それでもチルノちゃんと一緒に過ごすことは可能だ。だからきっと、春になればチルノちゃんは帰ってくる。わたしと一緒に遊んでくれる。
――本当に?
「…………っ!」
涙があふれてきたので、わたしは膝頭に顔を押し付けた。
冬が終われば帰ってきてくれる――本当に?
だってチルノちゃんが人里に行ってしまったのは、きっとわたしが弱すぎるせい。わたしが弱すぎて全力で遊べる相手じゃないから、だから対等の遊び相手を探しに出かけてしまったのだ。
だとしたら、もうチルノちゃんは二度と戻ってこない。だってこの場所には遊び相手がいないのだから。人里に飽きたとしても、次は強い妖怪がたくさんいるという妖怪の山にでも行ってしまうだろう。わたしなんかとは二度と顔を合わせないに違いない。
――嫌だ。
そんなの、嫌だ。
ずっと友達だったのに。ずっと友達でいたかったのに。
こんな風に捨てられてしまうのは、絶対に、嫌だ。
でも、じゃあ、どうすればいい?
わたしなんかに何ができる?
遠くへ遠くへと飛んでいく友達を、追いかけることができる魔法の翼。
この背中には、そんなものはありはしない。
「うえっ……ぐす……」
何も解決策を思いつかないままひとしきり泣いた後、わたしは再び顔を上げた。ずいぶんと時間が経ってしまったらしく、すでに空は夕暮れの紅に染まっている。
きょろきょろと、赤くてきれいな空を見回した。もしかしたら気まぐれを起こしたチルノちゃんが帰ってきているかも知れない、なんて淡い期待を抱きながら。
でも、人里の方には何もない。迷いの竹林の方角にも何もない。
やっぱりダメかと肩を落としつつも、念のために「悪魔の館」の方へと視線を向け、
そしてわたしは、こちらへと飛んでくる人影を見つけた。
「チルノちゃ――」
喜びに目を輝かせた直後、すぐに勘違いに気づく。
あれはわたしの友達のシルエットではない。背中には羽根はなく、代わりに頭に大きな三角帽。よくよく目を凝らしてみれば、ホウキの柄にまたがっている。
あれは霧雨魔理沙さん。毎週のようにチルノちゃんがケンカを売り、そしていつも負けている人間の魔法使いだ。
「なんだ……チルノちゃんじゃないのか」
落胆して、わたしはもう一度膝の間に顔を埋めようとし。
そしてふと、気づいた。
チルノちゃんが急激に強くなったのは、あの魔法使いと戦い始めたころからだ。
いつもいつもコテンパンにされながら、それでもチルノちゃんは少しずつ強くなっていった。傷だらけになって負けたあとも、一晩たてば「ふっかーつ!」と叫んで起き上がり、そして少しずつ自らの霊力と冷気とを強めていったのだ。
だったら、わたしも同じことができるかも知れない。
チルノちゃんの真似をして何度もあの魔法使いに挑めば――強くなっていくチルノちゃんに追いつくことができるかも知れない。
わたしが強くなれば、チルノちゃんも帰ってきてくれるかも知れない!
そう思いたった直後には、わたしは地を蹴って空に飛び出していた。
――チルノちゃんと同じことをするだけだ。難しいだろうけど、きっとできる。
そう必死に自分に言い聞かせながら、わたしは魔法使いのもとへと飛んでいく。
あの人とは、わたしも一度だけスペルカードルールで戦ったことがある。一年前の、赤い霧が幻想郷中を覆った異変のときだ。
異変のときに凶暴になる妖精の性質に引きずられて戦っただけだけど、あのときはそこそこ粘れたように思う。もちろん最後は負けてしまって「一回休み」をする羽目になったけれど、でも、まるで勝負にならないというほどではなかった。
力の差は、もちろんある。チルノちゃんが一回も勝てない相手なのだから、わたしが敵わないのは当たり前。負けるのは承知のうえだ。
でも、負けたあとに少しでも強くなれるなら。
チルノちゃんに少しでも追いつけるなら。
怖いのを我慢してでも、戦わないと。
夕焼けの空をふらふらと飛ぶ魔法使いの前に、わたしは思い切って飛び出した。恐ろしさを押し隠しながら、大声で告げる。
「魔理沙さん! あの、不躾ですが、わたしと戦ってくださ」
「うぐっ!?」
「痛いっ!」
そして思いきり正面衝突した。
もちろん目測を誤ったわけではない。相手がこちらに気づかないままふらふらと突っ込んできたのだ。頭と頭がごっちんこ、二人そろって空中で額を押さえてしまう。
……って、なにこれ、変な匂い。
これは……お酒?
「うい~っ、なんだ、チルノかぁ?」
魔理沙さんは頭の痛みからあっさりと立ち直ると、お酒の匂いを撒き散らしながら、こちらの方をろくに見もせず喋り始めた。
「そーいや最近、お前のこと見かけなかったな。私はてっきりあの居眠り門番にでも喰われたのかと思ったぜ。
いやいや、あの門番は人間も妖怪も食わないか。それにチルノじゃあかき氷にするくらいしかできないしな。
冬にかき氷はキツイよなあ。夏なら大歓迎だけどなあ。でもチルノなんか食べたら腹を壊すか、はっはっは!」
どうも魔理沙さんは、完全にわたしのことをチルノちゃんと勘違いしたままらしい。よく判らないことを喋りながら一人で大笑いしている。
これは……ええと、完全に酔っ払っている?
どうしたんだろう。この人が「悪魔の館」から出てくるときは、背中に大袋を抱え、逃げ出すようにして大慌てで飛んでくるのが普通なのに。
「あの、魔理沙さん? ……いったいどうしたんですか、そんなに酔っ払って」
おそるおそるわたしが尋ねてみると、魔理沙さんはようやく笑いを収め、すらすらと事情を説明し始めた。
「んん~~? ああ、ちょっとな。いつものように魔道書をパクるため、じゃなくて借りるために紅魔館に忍び込んだんだが、なんかちょうど宴会の準備をやっててさあ。あそこの住人が総出で待ち構えてやがったんだよ。
で、あっさり捕まっちゃって、咲夜のヤツにはこってり絞られるわ、レミリアのヤツにはメインステージに無理やり引っ張り出されて宴会芸を強要されるわ、フランにはさんざん振り回されるわ、パチュリーには呆れられるわ。もう散々だったぜ。ムカついた私が料理をたらふく食べて飲んでしまったとしても仕方のないことだと思わないか?
ああ、たまにはワインもいいもんだ」
……ええと、途中からよく判らなくなったけど。
とにかく、魔理沙さんが酔っ払っているのは確からしい。
これはチャンスだ。いくらこの人が強くても、こんなにヘロヘロになっているなら、少なくとも一方的に負けることはないはず。
わたしは改めて意を決し、チルノちゃんがやるのを真似して、魔法使いにびしりと指を突きつけた。
「魔理沙さん! 勝負です! スペルカードルールで戦ってください!」
「……あれ? なんか口調がチルノと違うな……」
魔法使いは改めて、わたしをじろじろと見つめてきた。
「なんだ、チルノじゃなくてチルノの相方か。暗くて気づかなかっぜ。
お前が私にケンカを売ってくるなんて珍しいな。っていうか、紅霧事変以来か」
どうも魔理沙さんは、今の今までわたしがチルノちゃんだと本気で勘違いしていたようだ。
彼女はしばし考え込んだあと、ぷはっと酒臭い息を吐き出した。
「ん~~、たらふく飲んで食べた後なんで、あんまり運動したくない気分なんだが……
まあいいか。酔い覚ましに、ちょいと相手してやるよ」
魔理沙さんは余裕の表情でニヤリと笑うと、自分のセット数を3枚と宣言した。そして挑発するようにちょいちょいと手招きしてくる。
明らかに格下の相手だと思われてる。……もちろん仕方のないことだけど。
でも、わたしだって伊達にチルノちゃんのそばにいたわけじゃない。チルノちゃんとこの魔法使いの戦いは何度もこの目で見ているのだ。動きの速さとかクセとか、そういうものはある程度わかっている。そう簡単に負けはしない。
チルノちゃんに習って作ってみたスペルカードを取り出し、わたしは4枚と宣言した。これが今のわたしの最大枚数。
どこまでも澄み切った冬の夕暮れ。わたしと魔理沙さんは、赤く染まった空の中で静かに対峙する。
わたしは呼吸を整えたのち、悠然とたたずむ相手に向かって、いきなりまっすぐに突っ込んだ。
「お?」
意外そうな表情で、魔理沙さんがわずかに後退する。
豪快な所有スペルとは裏腹に、この人は意外に慎重派なのだ。予想外の動きをされたとき、すぐに反撃に出るということはしない。じっくりと相手の出方を見極めた上でカウンターを叩き込むのがこの人の基本戦法。
だからわたしはその癖を逆手にとる。ひたすらまっすぐに間合いを詰めて、至近距離での最初のスペルで勝負に出る!
「行きます! 風符……」
「おお、思ったよりいい動きだが。背中がお留守だぜ」
――え?
あれ、魔理沙さんが、消え――
「こっちだ、こっち」
「へ?」
声のした方へと振り向いてみれば、消えたと思った魔理沙さんがそこにふわふわと浮かんでいた。
何事もなかったかのような顔で。軽くあくびなどしつつ。
……え? あれ?
瞬間移動……じゃ、ないよ、ね。
「おいおい、本当に見えなかったのか?
お前の踏み込みに合わせて横に回りこんだだけだぜ?」
魔理沙さんにそう指摘されて、わたしは唖然となった。
横に回りこんだ……だけ?
見えなかった。
ぜんぜん、見えなかった。
確かにチルノちゃんと戦っているとき、たまにそういう動きをしていたけれど。
遠くから見ていたときでも、速いなあとは思った、けれど。
目の前でやられると、こんなに……見えない、ものなの?
「おいおい、もうビビったのか? 妖精のくせにこの私に喧嘩をふっかけてくるんだから、もうちょいやる気のあるとこを見せてくれよ」
魔理沙さんにそう言われて、わたしは我に返る。
そうだ、今はスペルカード戦の途中なんだ。呆けてる暇なんてない。
レベルが違うなんて判りきっていたこと。最初から覚悟していたことだ。ここでくじけてしまうわけにはいかない。チルノちゃんに追いつくためには、きっとこれは必要なことなんだから。
わたしは勇気を奮い起こし、もういちど魔理沙さんに向かって突撃する。
「今度こそ……! やああああっ!」
「んー、それは通用しないんだがなあ」
スペルを放つ前に、またあっさりと後ろに回り込まれる。やっぱり魔理沙さんの動きは全然見えない。
駄目だ。戦いになってない。チルノちゃんだけじゃなくて、魔理沙さんも一年前よりずっと強くなっているということなのか。
でも、諦めるわけには……っ!
「とおおおお!」
「だからバカの一つ覚えだって。ただ突っ込んでくるだけじゃあ……」
「ええええい!」
「いや、ちょっと待て。人の話を聞け」
「とりゃあああ!」
「こら。せっかく人が忠告をだな。おえっぷ」
「うにゃあああ!」
「いかん、やっぱ飲み過ぎたか。だんだん吐き気が……」
「うえええん!」
「泣きながら突っ込むくらいならさっさと諦めろよ、こっちは調子が悪いんだから……うえっぷ」
――嘘だ、嘘だ嘘だ。
こんなに差があるなんて。チルノちゃんが普通に戦えてたこの人に、まるで手が届かないなんて。
信じられない。信じたくない。こんなにも絶望的だなんて――信じたくない!
涙目で、やぶれかぶれになりながら、わたしは腕を振り回して突進する。
「うわあああん!」
「あー……もう終わらせるぞ。星符・メテオニックシャワー!」
直後、わたしの突進を軽々とかわした魔理沙さんが、わたしの背中に大量の星弾を叩きつけた。
わたしは悲鳴をあげることすら叶わず、あっさりと湖に向かって墜落していく。
一度たりとも魔理沙さんを捉えられず、一度たりともスペルを発動させることもできないまま。
……この人、こんなに強かったの?
こんな人と、チルノちゃんは今まで戦っていたの……?
全身を痛みが貫く。くるくると視界が回る。頭を下にして落ちていきながら、わたしはただただ愕然としていた。
レベルが違いすぎる。この人も、そしてチルノちゃんも。
なんて甘い見込みだったのだろう。遠くから見ていただけで二人の力が判っていたつもりになっていた。一生懸命頑張ればなんとかなるかも知れないと思っていた。
……甘かった。甘すぎた。
こんなの、無理だ。
わたしは心の中で絶望の悲鳴を上げる。
「あっやばい、対チルノ用の出力で放っちまった。他の妖精相手だとまずいよな、これ……」
そんなつぶやきを遠くに聞きながら、わたしの意識は闇に落ちていった。
暗闇の中、わたしは一人で動けない。
友達がどんどん遠くに行ってしまうのに。力強く翼を羽ばたかせて、空の向こうに飛んでいこうとしているのに。
黒白の魔法使い。博麗の巫女。
強い強い人間たちに、彼女は何度もケンカを売っていた。何度負けても、何度こてんぱんにされても。
それはきっと楽しいから。全力を出して遊ぶことができるから。
人里の教師。その友人の炎使い。
その人たちと、彼女はいつの間にか仲良くなっていた。
それはきっと面白いから。その人たちが、妖精の知らない色んなことを知っているから。
暗闇の中、わたしはチルノちゃんの背中に手を伸ばす。
他の誰かと一緒にどこかへ飛んでいく友達の背中に、必死に呼びかける。
ねえ、待ってよチルノちゃん。
わたしはもう、チルノちゃんの全力に追いつくことができない。チルノちゃんに新しいことを教えてあげることもできない。
でも、待ってよ。待ってよ。置いて行かないでよ。
わたしはまだチルノちゃんと遊びたいよ。こんなふうに置いていかれるのは嫌だよ。
……でも、チルノちゃんは耳を貸してくれない。いつもどおりに、気ままにどこかへ飛んでいく。
チルノちゃんが暗闇の向こうへ消えていく。わたしを置いて去っていく。
一人ぼっちのわたしは、泣きながら上体を起こした。
「行かないでチルノちゃ――」
「ぐえっ!?」
「痛いっ!」
不意打ちの衝撃。唐突な鈍痛。視界の隅でよろめく誰か。
何が起こったか判らず、わたしはずきずきと痛む頭を抑えて周囲を見回す。
場所は先ほどと同じ霧の湖――の、そのほとりだった。気絶したわたしはこの場所でずっと横になっていたようだ。だいぶ長い間意識を失っていたらしく、周囲はすっかり暗くなっている。頭上に広がる冬の夜空が綺麗だった。
呆然として座り込んでいると、わたしと同じように頭を抑える魔法使いと目が合う。
「あれ、魔理沙さん……?」
「ああその通り魔理沙さんだ。寝起きにしてはなかなかいい頭突きだったぜ。あれか、リグルキック系統の新技か?」
じろりと睨みつけられてしまった。どうも、またこの人の頭とごっちんこしてしまったらしい。
わたしは慌てて魔理沙さんに謝った。
「す、すいませんっ、悪気はなかったんです」
「別にいいけどな。こっちもさっきはやりすぎたし、お互い様か」
言われて、わたしはようやく気付いた。先程のスペルカード戦の結果、わたしは敗北して気絶し、魔理沙さんは勝利したのだ。なのにこの人が立ち去らず、ずっとこの場にとどまっているということは――
「あ、あの、もしかして」
おずおずと、目の前の魔法使いに尋ねてみる。
「わたしを看病しててくれたんですか……?」
「……酔い覚ましも兼ねて、横で見ていただけだぜ。妖精がいくらでも甦るのは知ってるが、あのまま放置して死なれるのは寝覚めが悪いし」
ぷいと顔を横に背けながら、魔理沙さんはそう告げてきた。
……意外だ。いつもいつもチルノちゃんを一方的に倒しては意気揚々と去っていく姿から、ただ乱暴なだけの人だと思っていたけど、実は意外と優しいのかも知れない。この寒い中、ずっとここに残ってくれていたなんて。
この寒い中……寒い……あれ?
わたしは首をかしげた。身体を包む空気があまり冷たくない。いや、温かいと言っていいくらいだ。それに満天の夜空ということは、周囲は真っ暗でなければいけないはず。それなのに魔理沙さんの顔がきちんと判別できるほどの明るさがある。
もう一度周囲をよく見回してみると、魔理沙さんの目の前に八角形の板のようなものが置かれているのに気付いた。手のひらサイズほどのそれから、焚き火よりも暖かい熱と、焚き火よりも明るい光が放たれている。
「これって確か、魔理沙さんがスペルを使うときの……」
「おおっ、よく観察してるじゃないか。その通り、こいつは私の魔法の根幹をなす道具で、ミニ八卦炉って言うんだ。本来は火を起こすのに使うものだが、ビームを放つことも鍋を温めることも山火事を起こすこともできる優れものだぜ」
「はあ……」
「……盗るなよ?」
「盗りませんっ」
言い返してから、ちょっとだけ笑ってしまった。この人がこんな気配りのできる人だなんて思ってもみなかったのだ。あの慎重な戦い方といい、根はとても繊細な人なのかもしれない。
感謝の気持ちを込めて、わたしは魔理沙さんにもう一度ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます、助かりました」
「別にいいってのに。お前ってホント、妖精とは思えないほど礼儀正しいんだな」
「えへへ、よく言われます」
きっとチルノちゃんのフォローばかりしてきたからなんだろうな、なんてことが頭の中に思い浮かんで、わたしはもう一度笑う。
――と、ほっとしたところで、急に痛みがぶり返してきた。頭ではなく背中の痛み、魔理沙さんとのスペルカード戦で星弾を叩きつけられた時のものだ。気が抜けた途端に身体が痛みを思い出したのだろうか。
「いたたた……」
「ほらほら横になってろ、無理するなって。
チルノみたいな単細胞生物ならともかく、妖精がアレを喰らったら普通は致命傷なんだ。意識を保ってるだけでも大したモンなんだぜ?」
「……はい、すいません……」
わたしは大人しく相手の言葉に従って、もう一度身体を横にしたのだった。
――本当に痛い。
痛くて動けない。
チルノちゃんなら、あの程度の攻撃でこんなことになりはしないのに。
楽しかった気分が急に暗転して、わたしはぐすんと鼻を鳴らした。
情けない。酔っ払った魔理沙さん相手に、まるで勝負にならなかった。そしてそれ以上に情けないのが、もうこんな痛い思いはしたくないと自分が思ってしまっていることだ。
たとえ身体が回復したとしても、魔理沙さんとは二度と戦いたくない。わたしの心はぽっきりと折れてしまった。
どうしてチルノちゃんは、こんな痛い思いをしても平気なんだろう。
どうしてチルノちゃんは、何度痛い目にあっても平然と立ち上がれるんだろう。
わたしには……わたしにはやっぱり、こんなの、無理だ。
ぼんやりと空を見上げて、わたしは唇を噛み締める。
どれくらい、そうしていたのだろうか。
月が二回雲に隠れ、三度目に顔を見せたとき、ずっと黙って横に座っていた魔理沙さんが、急にわたしに尋ねてきた。
「おおそうだ、一つ聞かせろ。横になったままでいいから。
お前さ、どうして急に私にケンカを仕掛けてきたんだ? 何か特別な理由でもあるんじゃないか?」
「え……? 理由って」
相手の意図がわからず目を白黒させるわたしに、魔理沙さんはさらに言葉を重ねてくる。
「お前は異変のときくらいしか人を襲わない妖精だった。なら、さっきの戦いには何か理由があるんだろ? 妙に決意の固そうな顔をしてたし」
「それは……」
わたしは困惑して首を振る。どうも魔理沙さんは、さっきのわたしの行動のことを何かの事件がらみだと勘違いしているようだ。実際にはただ、チルノちゃんの力に少しでも追いつきたくて、チルノちゃんのやっていることを真似しただけなのに。
まだアルコールが残っているらしく頬が赤いままなのに、魔理沙さんはとても真剣な表情だ。もしかしたら紅霧事変の時みたいに、事件を自分で解決してやろうと意気込んでいるのかも知れない。
この様子では適当な言い逃れなんて無理だろう。それに誤解を与えたままでは、きっとこの人が迷惑する。
覚悟を決めたわたしは、事情を正直に話すことにしたのだった。
「最近チルノが遊んでくれないから、チルノの真似してチルノみたいに強くなろうとした、ねえ……」
10分後。
わたしが説明を終えると、魔理沙さんは拍子抜けしたような表情を浮かべた。予想していたような事件でなくてがっかりしているのだろうか。それともわたしの浅はかさに呆れているのだろうか。
魔理沙さんはふーむと唸ると、眼を閉じて空を仰いだ。
「なるほど、最近チルノのヤツを見ないと思ったら人里に行ってたのか。やっぱりあの変わり者の先生のところか?」
その言葉に、わたしはこくんとうなずく。
人里の変わり者の先生、と言ったら、この幻想郷では一人しか居ない。半人半妖なのに人間相手に教鞭をとる寺子屋教師、上白沢先生のことだ。
昔は人間だけに味方して妖怪や妖精は追い払っていたけれど、最近は何か心変わりがあったらしく、幼い妖精や妖怪を相手に人間との接し方を教えるようになったのだそうだ。噂では、虫を操る妖怪とか夜雀とかもあの先生のお世話になっていると聞く。
チルノちゃんもその一人で、一年ほど前に知り合ってからずいぶんとあの先生に懐くようになった。一人で何度も人里に遊びに行っていたし、わたしを誘って一緒に行くことも多かった。
わたしだって、あの先生は悪い人じゃないと思う。休みの時間を割いて色々とためになることを教えてくれるし、字の書き方も練習させてもらったし、たまに貰い物を分けてくれるし。あんなによくしてくれる人なら、チルノちゃんでなくても懐くのは当たり前だ。
それに、なによりも。
あの先生とそのお友達は、チルノちゃんよりもずっと強いのだ。冬に遊び相手のいないチルノちゃんが、目を輝かせるのも無理はない。
……でも。チルノちゃんにとってはそれでよくても、わたしにとっては大問題なのだ。
「いつでも人里に遊びに行けるチルノちゃんと違って、わたしは冬の間はあまりここから遠くに行けないんです。だからずっと、ここでチルノちゃんの帰りを待つしかないんです」
「それなら他の妖精と遊んでれば……って、それも無理か。冬の間も自由に動ける妖精なんてそう居ないよな」
天を仰いだまま気まずげに頭をかく魔理沙さんに、わたしはもう一度うなずく。
多くの妖精は、冬の間は温かいところでごろごろして過ごすもの。昔のチルノちゃんが夏の間に涼しいところでじっとしていたように。もちろんチルノちゃんみたいに冬に強い妖精も少数ながら存在するけど、この湖の近くにはそういうお仲間は住んでいなかった。
――いや。
たとえ他に遊び相手がいたとしても、チルノちゃんが居なければ、寂しい。
ちょっと自分勝手だけれど、いつも騒がしいけれど、それでもいつだって強気で、いつだって素直なあの子がいなければ。
「だから、チルノちゃんと同じくらいの力を持ちたいって思ったんです。全力のチルノちゃんと対等に戦えられるようになれば、きっとチルノちゃんも戻ってきてくれるって」
「それで私相手にケンカを、ねえ……。
ちょいと発想がズレてるような気もするが、まあ、判らんでもない。悪くない心意気だぜ」
顔を下ろした魔理沙さんが、わたしを見つめてそう慰めてくれる。
けれど、わたしは静かに首を振った。
「いえ、やっぱり無謀でした。わたしなんかじゃチルノちゃんに追いつけるはずがなかったんです。さっきのスペルカード戦で、それを思い知らされました」
勝負にすらなっていなかった、先程の戦いを思い出す。
一方的に負け続けてはいたけれど、最近のチルノちゃんは魔理沙さん相手に常にいい勝負をしていた。もちろん魔理沙さんだって本気を出してはいないのだろうけど、それでもこの人相手に善戦はしていたのだ。
でも、わたしは魔理沙さんの動きをまるで捉えることができなかった。根本的な力から何から、今のチルノちゃんにはまったく及ばなかった。
改めて、チルノちゃんの凄さを思い知らされる。
昔はわたしの方が強いくらいだったのに。肩で息をしながら炎天下を歩くチルノちゃんに、わたしが速度を合わせてあげていたのに。
チルノちゃんはあっという間にわたしを追いぬいて、手の届かないところへ行ってしまった。そして今なお、強くなり続けている。
そんなチルノちゃんに――どう努力したところで、わたしなんかが追いつけるはずがない。
「……わたしみたいな弱い妖精は、チルノちゃんの遊び相手にはふさわしくないんです。遊び相手がいないから、だからチルノちゃんはこの湖から出ていったんです。二度と戻ってきてくれるわけないんです」
じわっと目の端に涙が浮かぶ。それがこぼれ落ちないようこらえつつ、わたしは上半身を起こした。
魔理沙さんを真正面に見つめて、震える声で告げる。
「チルノちゃんにふさわしいのは、上白沢先生や妹紅さんや、霊夢さんやあなたのような人なんです。
だからその、勝手なお願いですけど、これからはわたしの代わりにチルノちゃんと遊んであげて――」
「ふんっ!」
「痛いっ!」
またもやの唐突な衝撃。理不尽に走る鈍痛。わたしは額を押さえてその場で悶絶する。
これは――ず、頭突き!?
驚愕しながら視線を上に向けると、そこにあったのは、魔理沙さんの怖い顔。
「悪いな、あまりにうじうじうじうじしてるもんだから思わず手が出ちまった。いや手じゃなくて頭だが」
「ひ、ひどいですよ! 妖精虐待ですっ!」
「虐待ぃ? ったく、妖精のくせにいらん単語はよく知ってるな。そのくせ肝心なことが分かってないんだから、ただのバカよりタチが悪いぜ。
――そもそもだな、遊び相手としてふさわしいだの相応しくないだの、なんでそんな話になるんだ?」
大げさにため息をついたあとで、魔理沙さんはわたしの額めがけてびしりと指を突きつけてきた。
突きつけた指でコツンコツンとこちらの額をつつきながら、彼女は続ける。
「ただでさえ頭の悪い妖精の中でも、チルノのヤツはさらに一段階上の……いや三段階……それどころじゃないな。そう、9段階は上の大バカなんだぜ?
自分の友達の力が強いとか弱いとか、あいつのおつむはそんなこと考えちゃいない。世界は全て二進法、友達は友達で敵は敵、あいつにとってはそれだけさ。人里に行ったまま帰ってこないってのも、何か別の理由があるんだろ」
「で、でもだって――」
戸惑いながらも、わたしは魔理沙さんの言葉を否定する。
だって現に、チルノちゃんは一向に帰ってこない。一ヶ月もこの湖を留守にするなんて、そんなことはこれまでなかったのだ。
「チルノちゃんはわたしを見捨てて、人里に行ってしまったんです。今頃はきっと、上白沢先生や妹紅さんと一緒に弾幕ごっこに夢中のはずです。
そう、流れ弾で豪快に周囲に被害をまき散らしながら楽しく遊んでるんです。うっかり人を凍らせたり家を破壊したりして、キャッキャウフフとはしゃいでるに違いないんです!」
「えらいシュールな光景だなソレ。あの教師がそんなことを許すとも思えんが」
呆れたようにぼやいたあとで、魔理沙さんはふうと息を吐いた。まだほんのりと赤い額を巡らせ、何やら考え始める。
「友情のすれ違いか……ふふん、なるほど。こいつは魔理沙さんが一肌脱いでやるべき異変だな。
だが今の私の手持ち魔法だと、うーむ……」
なんだか、そんなことも呟いているようだ。意味はよくわからないけど。
やがて何か考えがまとまったのか、魔理沙さんはわたしをじろりと見やると、妙なことを尋ねてきた。
「お前、魔法の森は行動範囲の中に入ってるよな?」
「え? 魔法の森、ですか?」
唐突な問いをつきつけられて、わたしは困惑の表情を返す。今までのお話と魔法の森に、いったい何の関係があるのだろう。
「いいから答えろって。魔法の森はここから遠くないし、一年中キノコだの怪しい樹木だのが生えてる。ひん曲がってはいるけど自然の力だけは豊富な場所だから、今のお前でも問題なく行けるよな?」
「は、はい。大丈夫だと思います、けど……」
「よおし、じゃあ場所を移動するぜ。この魔理沙さんの魔法で、お前の勘違いを綺麗さっぱり晴らしてやる」
すると魔理沙さんは足元のミニ八卦炉を拾い上げ、傍らに置いてあった自分のホウキにまたがる。さらにはわたしの背中をひょいと掴んで、無理やりその後ろに座らせる。
「あっあの、魔理沙さん? 一体どうして魔法の森なんかに――」
「しっかり掴まってろよ? 飛ばすから」
混乱するわたしを後ろに乗せたまま、魔理沙さんはホウキを急発進させる。わたしに出来たことといえば、振り落とされないよう反射的に魔理沙さんの背中を掴むことくらい。有耶無耶のうちに二人乗りの夜間飛行が始まった。
いや、夜間飛行なんて優雅なものではない。足元を木々が後ろにすっ飛んでいく。あっという間に湖が遠ざかっていく。月明かりしかない闇の中を猛スピードで飛ぶ感覚は、わたしの背筋を氷点下まで凍らせた。何かにぶつかってしまうのではないかと気が気ではない。
「ままままま魔理沙さん、速度超過ですっ、スピード緩めてっ」
「口閉じてろよ、舌噛むぞ?」
返ってきたのはそっけない注意。安全運転という概念を、この人は最初からどこかへ放り捨てているようだ。
闇夜を疾走する暴走ホウキにまたがって、わたしはしばし、恐怖の時間を過ごす羽目になったのだった。
「さーて着いたぞ! ここでお前の勘違いを、この私が綺麗さっぱり――って、おい大丈夫か? 顔色悪いぞ?」
「大丈夫じゃありません……」
10分か、20分か、とにかくそれくらい後。ようやく夜間暴走は終わった。
わたしはふらふらとホウキから降りる。地面に足がつくことがこんなにも嬉しいのは初めてだった。
「そんなに速かったか? 最大速度よりもかなり緩めてたんだが……」
「……お願いですから、次はもう少し遅い速度でお願いします……」
それだけ言うのが精一杯。もうこの人と同じホウキには同乗したくないというのが本音だったけれど、それを正直に言えるほどにはわたしに度胸はなかった。
「ま、いいか。ちょっとそこで待ってろよ? すぐに用件を済ませてくるから」
わたしを置いてずかずかと歩いていく魔理沙さん。その目指す方向を目で追ってみると、木々の間に隠れるようにして家が建っているのに気付いた。こんな辺鄙な場所にあるにしてはずいぶんと小奇麗な、洋風の一軒家だ。ひとつだけある窓から明かりが漏れているから、誰かが住んでいるのは間違いない。
玄関にたどり着いた魔理沙さんは、遠慮する素振りすら見せず、いきなりドアを叩き始めた。
「おーい、いるんだろアリス? ちょいとやって欲しいことがあるんだ、手伝ってくれ」
がんがんがん。
がんがんがん。
夜も遅いというのに、実に荒っぽくドアを叩き続ける魔理沙さん。お酒の勢いもあるのだろうけれど、この人が本当に繊細な人なのか、わたしもだんだん自信がなくなってきた。
その音に我慢できなくなったのか、家の主はすぐに姿を表した。魔理沙さんを跳ね飛ばさんばかりに勢いよくドアを開けて。
「うるさいわねっ、夜中よ! 迷惑だとは思わないの!?」
中から出てきたのは、魔理沙さんと同じ金髪、魔理沙さんと同じくらいの年頃の人だった。人形みたいに整った顔を怒りの赤に染めている。
一方の魔理沙さんは、外開きのドアをひょいと避けると、にやにやしながらその人に話しかけた。
「森の中の一軒家だろ? ご近所さんなんて居ないんだから、うるさくしたって誰にも迷惑は掛からないさ。お前以外には」
「どういう言い草よそれは。あと何この匂い? 酔っ払ってるでしょあんた」
「ぎりぎり飲酒運転にはならない程度のほろ酔い加減。普通だぜ」
「完全に酩酊してるように見えるけどね。で、今日は何の用? 私に喧嘩を売りに来たのかしら」
「いんや、売るのは喧嘩じゃなくて手間だ。ちょいとお前にやって欲しい手間があってな、買ってもらうぜ」
「人に手間を取らせておいて、さらに金銭も要求しようっての? 本気で喧嘩売ってるでしょ、あんた」
一軒家の主人の怒りはピークを迎えつつあった。細長い指をコキリと鳴らして魔理沙さんを睨みつけるさまは、まさに一触即発。いきなりパンチでも飛んでくるのではないかと、後ろで見守るわたしは気が気でない。
けれど魔理沙さんは平然と肩をすくめ、頭上の帽子の中に手をやった。そこから魔法のように何かを抜き取る。
魔理沙さんの手の中に現れたのは、平たくて四角い、あまり見たことない形のガラスの瓶だった。中でゆらゆらと、何かの液体が揺れている。
彼女はそれを、一軒家の主に差し出した。
「仕方ない、このワインをやろう。代わりにこっちのお願いを頼まれてもらうぜ」
「あんたにしては珍しいわね、ちゃんとお土産を持ってくるなんて。まさか盗品じゃないでしょうね」
「そんなわけないだろう、紅魔館の厨房に置いてあったんだ。あんな所に置いてあるからには私用のお土産に違いない」
「……ま、別にいいけどね。私に迷惑がかからないなら」
拍子抜けしたらしい一軒家の主人は、呆れたように首を振った。でも、魔理沙さんの提案は受け入れてくれたみたいだ。腕を伸ばして瓶を受け取り、懐にしまいこむ。
……ええと。この人と魔理沙さんって、意外と仲がいいんだろうか。最初の会話がギスギスしていたからあまり仲が良くなさそうに見えたけど、今は普通に魔理沙さんの相談事を聞き入れているし。
友達、という感じではないけれど、お互いに気心が知れているようではあった。
しばしのやりとりの後、二人の話はまとまったようだ。
「つまり、あんたの書く手紙をその家に届けろ、ってこと? まあそれくらいなら簡単だけど……
あんたね、その程度のことくらい自分でできないの? 一応あんたも魔法使いの端くれでしょう?」
「私は使役タイプの魔法は苦手なんだよ。自分の近くで回る程度の能力を与えるのがせいぜいなんだ」
「破壊力以外の分野ももうちょっと修行なさいな。本物の魔法使いになりたいなら」
「言われなくても検討しておくぜ。……ほら、書き終えたぞ。ちゃんと届けてくれよ」
「はいはい。まったく、いいように人を使ってくれるものね」
溜息をついてから、家の主は右手を掲げ、人差指と中指を踊らせる。と、彼女の後ろから小さな影が飛び出てきた。わたしたち妖精よりもさらに二回り以上小さな人影。
あれは……人形だ。凄い、人形が自分で動いてる!
赤いリボンをつけた洋風人形は、魔理沙さんから手紙を受け取ると、あっという間に夜空に向けて飛び立っていった。たちまちその小さな後姿は闇の中に消える。
一軒家の主は満足気に頷いたあと、魔理沙さんに向き直った。
「人里までは30分、戻ってくるまで一時間、ってところかしらね。
さて魔理沙、人形の帰りを待つまでの間に、私の家まで押しかけてきた理由を聞かせてもらおうかしら」
その問いかけを耳にして、わたしも改めて魔理沙さんに注目する。この人が何をどうするつもりなのか、わたしも全く知らされていないのだ。あの手紙を人里の誰かに届けるためにこの家までやってきたようだけど、一体何を書き込んだのだろう。そしてどこへ届けたんだろう。
魔理沙さんの真意を知ろうと、わたしはその場で耳を澄ます。……が。
「もちろん説明するさ。でもちょっと飲み過ぎたんでな、家の中で休ませてもらうぜ」
「あ、ちょっと!? 勝手に家に上がりこまないでよ!」
相手の抗議もどこ吹く風、魔理沙さんは再びずかずかと歩き出す。家の主を押しのけて室内に入ると、手近なソファに堂々と腰掛ける。
「ふわぁ……。本格的に眠くなってきたな。ちょいと仮眠させてもらうぜ」
「どこまで厚顔なのよあんたは! せめて事情くらい説明なさい!」
「悪いがそれは、そこに突っ立ってる妖精に聞いておいてくれ。んじゃ、お休み……」
大あくびして、わたしの方を指さして、ぱたぱたと手を振る魔理沙さん。そのまま彼女はソファに背を預けると、本当に寝息をたて始めた。
……な、なんという傍若無人。妖精だって悪戯好きな種族だけど、他人の家でここまで我が物顔に振る舞うことはないと思う。魔理沙さんは妖精よりも常識がないのだろうか、それとも妖精よりも神経が太いのだろうか。そして結局、この人の真意が不明のままである点についてはどうするべきなのか。
その場に突っ立ったまま途方に暮れていると、わたしと同じく呆気に取られていた家の主が、こちらの方に振り向いた。
寝入る直前の魔理沙さんの言葉を受けてか、迷うことなくわたしの元へ歩み寄ってくる。
「えーと、妖精さん? 私の名前はアリス・マーガトロイド。よろしく」
「は、はい、よろしく!」
わたしはぴんと背筋を伸ばす。家の主――アリスさんは丁寧に自己紹介をしてくれたけれど、その額には青筋が浮かんでいた。先程の魔理沙さんの振る舞いにかなり苛立っているらしい。無理もないけど。
貧乏クジの予感をひしひしと感じつつも、わたしはただ突っ立っていることしかできない。目の前のこの人は、魔理沙さんと同じくらい強そうだ。逃げ出したところですぐに捕まってしまうだろう。
「妖精さん。悪いけど、そこの人間の代わりに事情を説明してもらえないかしら?」
「わ、判りました、ちゃんと説明しますからそんなに睨まないでくださいぃぃ……」
顔は涙目、心も涙目。
ただ痛い目に遭いたくない一心で、わたしは必死に、今の状況に到るまでの経緯を説明し始めたのだった。
「……はあ。つまり発端は、貴方が魔理沙に喧嘩を売ったことだったと?」
「はい……」
しゅんとうなだれて、わたしは相づちを打つ。
わたしがあんな馬鹿なことをしたせいでこの人まで巻き込まれてしまったのだから、アリスさんにしてみればいい迷惑だったろう。言い訳のしようもない。
「で、貴方が魔理沙に喧嘩を売った原因は、貴方の友達と互角に戦えるくらいに強くなりたかったから、と」
「……はい……」
わたしはますますうなだれる。
魔理沙さんと戦うことで、強くなるきっかけを少しでもいいから掴みたかった。けれども結果は完全に逆。自分自身の弱さを骨の髄まで思い知らされただけだった。
「で、負けてあっさり諦めた貴方を、魔理沙が説教したってワケね。友達に捨てられたなんていうのは勘違いだって」
「……そうです。勘違いだとは思えないですけど」
うなだれる一方のわたしだったけど、そこで顔を上げ、毅然とした声で断言する。
正直、魔理沙さんの言葉には納得できない。気ままなチルノちゃんが、遊び相手のいない湖に戻ってきてくれるはずなんてない。わたしは今でもそう思っている。
「そして、アイツが何のつもりで私に手紙を出させたのかは知らない、と」
「…………すいません」
いったん上げた顔を、再びわたしは下ろす羽目になった。
これについては何も説明してくれなかった魔理沙さんのせいだと思うけど、でもアリスさんに迷惑を掛けていることには変わりはない。
文字通り二重三重の意味で小さくなるわたしを眺めつつ、アリスさんは小さくため息をついた。
そして額に手を当て、黙りこむ。どうも何かを思案しているみたいだ。
「ま、手紙の内容はおおむね想像がつくけどね。送り先はあの先生の家だし。
でも、こっちの問題を片付けないままじゃ片手落ちでしょうに。
まったく考えなしなんだから、あいつは……」
耳を澄ますと、そんなことをぶつぶつとぼやいてる。
意味はよくわからないけど……もしかして、わたしを懲らしめる方法を考えている、のかな?
チルノちゃんも魔法使いは悪いヤツだって言ってたし、何か非道いことをされちゃうかも知れない……!
わたしはあわてて言い募った。
「あ、あの! こんな迷惑をかけてしまってすいません! だからその、ええと……!」
「別にそれはいいわよ。迷惑をかけてきたのは魔理沙であって貴方じゃないし。
それに、困っている者に救いの手を差し伸べるのは魔法使いの役割だしね」
アリスさんがひらひらと手を振った。そしてそのまま、彼女はこちらに視線を戻す。
その表情は怖いものではない。少なくともわたしを懲らしめるつもりはないようなので、少しほっとする。
けれど笑っているわけでもない。なんというか、ひどく真剣な顔だった。
「状況がわかったところで本題に入りましょうか。
貴方の抱えている問題は理解できたわ。けれど、私は魔理沙と違って純粋な魔法使いなの。魔理沙みたいに無条件で貴方を助けることはできない」
え?
えーと、それはどういう意味……
ワケがわからず立ち尽くすわたしに、アリスさんは真剣な表情のまま、
「だから、一つだけ確認させてもらう。
貴方は結局どうするつもりなの? 魔理沙に負けて、心が折れて、諦めて。それでおしまい?」
そんな、予想外の質問を浴びせてきた。
不意打ちを食らったわたしは、ぽかんと口を開けてしまう。
けれどアリスさんは容赦しない。決して口調を緩めず、早口で厳しく問いかけてくる。
「私はね、貴方がどうしたいのかを聞きたいのよ。
言ったでしょう? 私は純粋な魔法使いなの。お節介焼きの魔理沙みたいな親切の押し売りはしない。貴方の答えを聞かないことには何もできないの。
さあ答えなさい妖精。貴方は諦めるの? 諦めておしまいなの?」
「え? え?」
アリスさんのセリフの意味はよくわからない。
わからないけど、でも、とても大事な質問だということは判る。それくらいに今のアリスさんは言い知れぬ迫力があった。
わたしの答え次第ですべての運命が決まるとでも言いたげに、じっとわたしの瞳を覗き込んでいる。
「え、え、ええと……」
蚊の鳴くような小さな声で、わたしは意味のないうめき声を漏らす。
諦めておしまいなのか――なんて言われても、すぐに答えられるわけがない。
けれどアリスさんはこちらの気持ちなど知ったことではないとばかり、矢のように言葉を浴びせてくる。
「貴方の選択肢は三つよ。
ひとつはこのまま諦める。諦めて、離れていく友達を見送る。これは一番楽ね。
あるいはその子に頼み込んで、弱いままでも友達のままでいてくれるよう頼むという手もあるわ。これが二つ目。
そして三つめは――」
アリスさんは、その細い指をしなやかに伸ばしながら、わたしに向かって告げた。
「自分なりに努力して、その子を追いかける。
一番大変で、一番痛い思いをする、一番わりに合わない道ね。
さて、貴方はどの道を選ぶの?」
「そ、それは――」
そんなの、答えはもう出ている。
痛い思いをするのは嫌。怖い思いをするのは嫌。
わたしはチルノちゃんみたいにはできない。怖さを乗り越える勇気なんて持てない。
だから、もう、諦めたのだ。
チルノちゃんに捨てられても仕方が無いことだと受け入れたのだ。
「わたしは、チルノちゃんのことは、もう」
そう。だってもう、仕方ない。
ずっとずっと昔から友達だったけど。
色んなところに一緒に行って、色んなものを一緒に見て、色んな遊びを一緒にしたけれど。
でももう、冬になったらチルノちゃんに触ることもできないから。
どこにでも飛んでいけるチルノちゃんについていくことができないから。
「仕方ないんです。だって、だって、わたしじゃもう、」
わたしでは、今のチルノちゃんの全力を受け止めてあげることはできない。
昔はわたしより弱くて、冬以外の季節では空を飛ぶこともできなかったあの子は、
ただ楽しいことをしたい一心で、頑張って、頑張って、あんなに強くなってしまった。
わたしはもうそれについていけない。人間や妖怪に挑むほどになったチルノちゃんには追いつけない。
「無理なんです。そばにいたくても、わたしは弱くて、弱さを乗り越える勇気もないから、」
だから諦めるんだ。
傍にいたくても、諦めるんだ。
もっと遊びたくても、もっと友達でいたくても、もっとこの手を引っ張ってもらいたくても。
二人で一緒に、もっといろんな場所を見て回りたくても。
わたしは諦めるんだ。何もしないで諦めて、頑張らないで諦めて――
「だから、だからっ――うえっ……」
言葉は嗚咽にかき消された。
あとからあとから涙がこぼれてくる。
これが情けない言い訳だってことは、自分でも判ってた。
悪いのはわたし。チルノちゃんみたいに頑張ることができない自分のせいなのだ。
でも、どうしようもない。どうしようもないじゃないか……!
「無理、です。無理なんです。だから諦めるんです……諦めたんです!」
「……諦めきれるの? 泣くほど悔しいのに」
「それはっ! それは……」
だって本当は諦めたくない。
眠いところを叩き起されたり、危ないところに連れて行かれたりして、色々と迷惑することもあるけれど。
けれども二人で見て回ったこの世界は、とてもとても美しかったから。
妖精が勝てるはずのないスペルカードルール。
何度負けても、何度痛い目にあっても、それでも挑み続けるチルノちゃんは、とてもとてもカッコよかったから。
だから離れたくない。こんな風に別れるなんて、嫌だ。
「諦めたくなんてありません……チルノちゃんと離れて平気でなんていられません」
ボロボロと涙をこぼしながら、恨みがましい目でアリスさんを見上げる。
この人が悪いわけじゃないと頭で判ってはいたけれど、自分の中に渦巻く悲しみを、どうしようもなく目の前の相手にぶつけてしまう。
「わたしだって本当は諦めたくないんです。
でも、チルノちゃんの冷気は冷たすぎて近づくこともできない。
どこへでも飛んでいけるチルノちゃんについていくこともできない。
こんなのどうしようもないじゃないですか。諦めるしかないじゃないですか!」
「冷たくて近づけない? 遠くへ行けない?
その程度のことなら、ちょっとの努力と工夫でどうにでもなるけどね」
「――え?」
見上げたままで、わたしは再びぽかんと口を開ける羽目になった。
ずっと厳しかったアリスさんの表情が、少しだけ崩れる。その瞳に愉しげな色が交ざる。
「自然そのものである貴方には実感がないかも知れないけどね、あらゆる物事にはきちんとした法則と原理があるの。法則を知り、原理に則って力を行使すれば、最小の労力で最大の効果が得られるのよ。
貴方はそれを知らないだけ。知ってきちんと練習すれば、貴方の力でもできることは沢山あるわ。氷精の冷気を防ぐ程度のことなら、それこそ努力次第で簡単にできるようになる」
「ほ、ホントですか!?」
勢い込むわたしを押しとどめるように、アリスさんが手のひらを広げる。
再び真剣な顔に戻った彼女は、念を押すようにわたしに尋ねた。
「繰り返すようだけど、私は魔法使いなの。貴方の決意を聞く前に貴方を手助けすることはできないわ。
さあ、どうするの? このまま何もせずに諦める?
それとも魔法使いの初歩の鍛錬を受けてみる? 言っておくけど、決して楽ではないわよ?」
「…………」
アリスさんを見上げ、わたしは考え込む。
楽じゃない――それはそうだろう。チルノちゃんみたいに強くなる道が、楽であるはずがない。
でも、もし、何度も何度も痛い目に遭う以外の方法があるのなら。
それならもしかしたら、わたしにもできるかもしれない。チルノちゃんとは別の方法でチルノちゃんに追いつけるかもしれない。
だったら。だったら――!
決然とわたしは顔を挙げた。精一杯の大声で、アリスさんの問いに答える。
「やります。痛いのや怖いのはダメだけど、勉強や練習ならできます。だから教えてください!」
「――OK。ならば私は魔法使いとして、貴方を手助けしましょう」
アリスさんがにこりと笑う。
人形みたいに完璧に整っていた容貌が、たちまち少女めいたものに変わる。
今まで見たことがないほどに、それは素敵な笑顔だった。
その笑みを浮かべたまま、アリスさんは自分の家を手で示す。
「さ、ウチにお上がりなさい。力技だけの魔理沙とは違う、本物の魔法使いのやり方を披露してあげるわ」
――そう。
このときアリスさんは、妖精であるわたしの弟子入りを認めてくれたのだった。
「待たせたわね。じゃ、私の隣に座って」
10分後。
机を移動させたり何かの本を持ってきたり、部屋の真ん中で寝こける魔理沙さんを隅っこの方へ蹴飛ばしたり、それで眠りから覚めた魔理沙さんとまた一悶着起こしていたアリスさんが、ようやく作業の手を止めてわたしを手招きした。どうやら準備が終わったらしい。
ちなみに魔理沙さんは部屋の隅の椅子に移動して、そこでまた眠っている。やっぱりこの人の神経の太さは並じゃないと思う。
まあそれはともかくとして――アリスさんに促されるまま、わたしは彼女の座るソファの隣に腰を下ろす。すると、さっそくアリスさんは手のひらを上に掲げた。
「それでは最初のステップ、冷気を防ぐ練習よ」
アリスさんが口の中で短い言葉をつぶやくと、手のひらの上に大きさ20センチほどの氷の結晶が生み出される。
あまり大きくないけれど、それは冬のチルノちゃんを思わせる強烈な冷気を放っていた。暖炉の火で暖められていた周囲の空気がたちまちひんやりとしたものに変わる。
「自分の霊力を使って、この冷気を防ぐバリアを生み出すのよ。スペルカード戦ができるくらいなんだから、これだって可能でしょう?」
「それは確かに可能ですけど……」
空気の冷たさにちょっと身震いしつつ、わたしは首を横に振った。
確かにわたしでもバリアは張れる。かつての異変のときにも、魔理沙さんや霊夢さんの弾幕をしばらく防げるくらいのものを生み出すことはできた。でもそれは、日常生活でも気軽に使えるという意味ではない。
「わたしの霊力は少なくて、バリアがあまり長持ちしないんです。3分も続けたら力尽きちゃって、しばらく休まないともう無理なんです」
「それは、あらゆる種類の攻撃を防ごうとしているからよ。冷気だけを防ぐものにしておけば、霊力の消費は最小限で済むわ。今の私がしているみたいにね」
そう言って、アリスさんは空いた片手で結晶を支える方の手を指し示す。
わたしがよく目を凝らして見てみると、確かにアリスさんの二の腕あたりまでガードが張り巡らされている。ごく微量の霊力だけど、それは、結晶が放出する冷気だけを完璧に防いでいた。
「世界を構成する力の中から冷気だけを選び出し、それを外に弾きだす。そういうイメージでバリアを作るのよ。貴方は自然の申し子たる妖精なんだから、人間よりも簡単にコツを掴めるはず。さ、やってみなさい」
「は、はい……」
促されるまま、じっと氷の結晶を見つめる。そこから流れてくる力に目を凝らす。
わたしがもともと得意とする力は風。今持っているスペルカードも、自然から風の力を引き寄せて集め、それを弾幕に変換したものだ。
今やるべきは、その逆。わたしを傷つけないように、冷気の力だけを退けるのだ。
「むむっ……」
結晶から流れてくる冷気だけを見つめて、わたしは両手に霊力を集める。
心の中で練ったイメージをもとに、最小限の霊力を放出する。
そしてわたしは、氷の結晶に手を伸ばした。
「えいっ」
ぴたりと手をくっつける。
――つ、冷たい!
わたしは悲鳴を上げて手を離した。そこへアリスさんの指導が飛んでくる。
「ダメよ、絞り込みが足りないわ。もっときちんと冷気だけを弾かないと」
「は、はい」
気持ちを落ち着けて、もう一度心を集中する。
もっとよく見て、もっと力を一点にあつめて……えいっ!
「やった、今度は冷たくない!」
「まだダメね、冷気以外のものまで弾いてるわ。それじゃ無駄が多すぎて30分ともたない。やり直しよ」
ううっ、難しい……。
でもこれくらいのことで弱音を吐いていられない。アリスさんが協力してくれるんだもの、もっともっと頑張らないと。
それに魔理沙さんとスペルカード戦をするときに比べれば、こっちはぜんぜん痛くない。これならいくらでもチャレンジできる。
わたしはもう一度結晶に手を伸ばした……ええい、これなら!
「さっきよりは良いわね。でも霊力を放出しすぎよ。ずっと続けていようと思ったら、霊力消費はもっと抑えなくちゃ」
むう、だったら!
「んー、60点ね。コツは掴めてきてる。ただ、今度は霊力消費を抑えようとするあまり絞り込みが甘くなってるわ。その二つを両立させなきゃダメよ」
なら、これで!
「はい、勢い込むあまり集中が乱れた! 冷静に、クールに!」
クールに、クールに……冷気だけを見つめて、それっ!
「うん、うまく制御できてるわ! 力を自らの意のままに操る、それが魔法の初歩にして真髄! 大事なのはパワーじゃない、ブレインなのよ!」
よおし、それなら!
「そう、いい感じよ! あとはそれを安定させるだけ! さあ、もっともっと続けなさい!」
かくして――
結晶の冷たさに飛び上がること5回。
白熱したアリスさんから怒鳴られること3回。
思わず騒ぎすぎて、寝ぼけ眼の魔理沙さんから茸を投げつけられること1回。
何度繰り返したか判らないほどのチャレンジの果てに。
「――やった!」
冷気の結晶にぴたりと手の平をくっつけたまま、わたしは会心の笑みを浮かべた。
自分でも判るくらいに完璧な出来。ほんの少しの霊力消費で完全に冷気を弾き出している。これなら、冬のチルノちゃんが近くにいても全く問題ないはず。
「アリスさん、できましたよ! ちっとも寒くないし、これならずっと続けられます!」
「やるじゃない……まさかこの短時間でマスターするとは思っていなかったわ」
アリスさんも、少しばかり目を丸くしつつ賞賛してくれたのだった。
そのまま彼女は手の平を閉じ、氷の結晶を消す。と、たちまち漂っていた冷気が消え、元の室温が戻ってきた。
「慣れないうちは一日中バリアを張るのは難しいだろうけど、使い続けていけば、そのうち眠っていても自動で身を守れるようになるわ。まずは座ったままで使用時間を伸ばす練習をなさい」
「は、はい! ありがとうございますっ!」
「ちゃんと練習していけば、そのうち冷気だけじゃなくて熱や土の力も操れるようになるわよ。貴方の友達があまり言うことを聞かないようなら、炎の弾幕であぶってあげるのもいいかもね」
「あ、いや、それはちょっと……」
冗談めかして笑うアリスさんに、わたしも苦笑を返す。いくらなんでも氷の妖精に炎をけしかけるなんて……
あ、でも、チルノちゃんなら割と平気かな? 炎より熱いビームを喰らっても平気だったし。竹林の炎使いの人とも友達だったし。
成功の感慨にふけりつつあれこれと思案していると、アリスさんは笑いを収め、次の話題に移った。
「次は行動範囲ね。自然からもらえる霊力が弱まると、普通の妖精は元気を失ってしまう……こちらの問題はちょっと厄介だけど、解決方法がないわけじゃない」
そしてアリスさんは、わたしの髪の毛を結ぶリボンに手を伸ばした。ほっそりとした指が、黄色の小さなリボンをするすると引き抜く。
アリスさんはそれをじっと見つめながら、わたしに告げた。
「湖から離れることで外から得られる力が弱まるなら、そのぶんをあらかじめ別の場所に溜めておけばいい。たとえばこのリボンね。湖に居るときはここに霊力を少しずつ回しておいて、湖から離れるときはここから少しずつ霊力を引き出す。この方法を使えば、時間は限られるけどかなり遠くまで行けるようになるわ」
「そ、そんなことが可能なんですか?」
「もちろん普通の布ではそんな真似はできないわ。だから私がこのリボンに少しばかり手を加えてあげる。流れこむ魔力を貯めこみ、そして少しずつ取り出せるようにね。こう見えても私、服飾は得意なのよ?」
わたしはまたも、ぽかんと口を開けることになった。
凄い。そんな方法があるなんて。
確かにそれなら、弱いわたしでも行動半径を大きく広げられる。
時間制限があることにさえ気をつければ、冬のチルノちゃんについていくこともできるかも知れない。
「ま、これも要は慣れの問題よ。遠出をするのに慣れていけば、そのうち自然の力が弱くても問題なく行動できるようになる。貴方は妖精にしては霊力制御が巧みだから、リボンの力を借りるのも最初だけで済むと思うわ」
加工の手順を決めるためなのだろう、真剣な表情でリボンを観察するアリスさん。
その横顔を見上げて、わたしは尊敬の念でいっぱいだった。
ほんの数十分前にわたしと出会ったばかりだというのに、この人は、わたしがずっと抱えていた悩みをあっという間に解決してしまったのだ。その鮮やかさは、本当に魔法みたいだった――あ、いや、魔法使いなのだから当然なのだろうけど。
これなら、もしかしたら本当に、わたしがチルノちゃんに追いつくこともできるかもしれない――!
期待に胸をふくらませて、わたしは身を乗り出す。
「アリスさん――いえアリス先生! もっと教えてください! わたし何でもやります、うさぎ跳びでも地獄の千本ノックでも! だからどんどん教えてください!」
「え? いえ、ちょっと待ちなさい。物事には段階というものがあるのよ。ひとつひとつクリアしていかないと」
「待てません! ひとつひとつやるしかないなら10個くらい同時進行でやります! それなら10倍の速度でできますよねアリス先生!?」
「典型的なダメ勉強方法じゃないの、それ。あとアリス先生はやめなさい。私はどこぞの寺子屋教師じゃないのよ」
「でもでも、だったらだったら――」
「いいから落ち着きなさい」
デコピン一閃。アリスさんの細長い指がわたしの額に炸裂した。
あうっ、頭突きほどじゃないけど痛いぃ……
額を押さえて悶絶するわたしを見て、アリスさんはひとつ嘆息した。リボンいじりを止め、身体ごとわたしに向き直る。
「やる気が出ているのはいいけどね。ここからは今までみたいに簡単じゃないわよ?」
「わ、わかってます。でも、こういうやり方ならわたし、いくらでも――」
「ええ、確かに貴方は妖精にしては霊力制御が巧みだわ。努力もできるから見込みはある。けど」
アリスさんの表情が、再び厳しいものに戻った。
「友達と互角に弾幕ごっこができるようになるのが貴方の目標なんでしょう?
それならば、やはり痛い思いはしなきゃいけないのよ」
「え? ……痛い思い、ですか?」
身を前に乗り出したまま固まるわたし。
硬直しているわたしに、アリスさんは真剣なまなざしを向ける。
「そう。強くなるためには、どうしても実戦経験を積まなくてはいけない。
実戦を行う以上、痛い思いをしたり怖い思いをしたりするのは避けられない。
――貴方にその覚悟はあるの?
さっきは敢えて確認しなかったけれど、ここから先に進むなら、その覚悟は必要だわ」
「…………」
わたしは何も言えなかった。
乗り出していた上半身をソファに戻し、唇を噛み締める。
……そうだった。
チルノちゃんが人里に出ていったまま帰ってこないのは、遊び相手が近くにいないから。
それを解決するためには、わたしがチルノちゃんと互角の弾幕ごっこができるようにならないといけない。
そしてそのためには、魔理沙さんと戦ったときみたいな思いを、何度も何度も繰り返さないといけないのだ。
意気消沈するわたしに、アリスさんがさらに言葉を連ねる。
「こればかりは本物の魔法使いでもどうにもならない。怖い思いをかき消すことは、まっとうな魔法では不可能なの。
強くなる方法を教えてあげることはできる。さっき冷気の防ぎ方を教えたみたいにね。
でも、恐怖を乗り越える勇気は、貴方自身が自分で身につけないといけないのよ」
「…………。」
ひざの上で、わたしは拳を握り締める。
結局は、そういうことなのだ。
痛くない方法で強くなることなんてできない。
怖さを乗り越える勇気を持てなければ、チルノちゃんと互角には戦えない。
わたしにそれが持てるのだろうか?
たった一回痛い目にあっただけで諦めてしまうようなわたしに。
きつく唇を噛み締める。
ただ黙って、自分自身に問いかける。
さっき冷気を防ぐ練習をした時のように、自分の心だけを見つめて、その想いを測る。
やっぱり、諦めたくない。素直なわたしがそう言っている。
できるわけないよ。弱気なわたしがそう告げている。
心の天秤がぐらぐら揺れる。決心がつかないままの宙ぶらりんが続く。
どうにも決心がつかないまま、答えの出ない迷路を行きつ戻りつしていると。
がんがんがんと、乱暴なノック音が響いた。
先程の魔理沙さんを思わせるやかましさに、わたしとアリスさんは同時にぎょっとする。もちろん犯人は魔理沙さんではない。何しろこの騒音の中でも、部屋の隅っこの椅子にもたれかかって寝息を立てているのだから。
がんがんがんと、ノックはまだ続いている。魔理沙さんの時とは違って、その音色は何か余裕が無い。まるで怖い妖怪に追われた妖精が、助けを求めて必死にドアを叩いているようだ。
と、アリスさんが何かに気づいて立ち上がった。
「……あ、これ、あの子だわ! 帰ってきてたのね!」
わたしのリボンを机の上に放り投げて、アリスさんがドアに駆け寄る。大慌てでドアを押し開くと、転げるようにして外から人形が飛び込んできた。
そう、乱暴にドアを叩いていたのは、一時間ほど前にお使いに出かけたあの人形だった。一体外で何があったというのか、アリスさんにしがみついてガタガタと震えている。
「ちょ、ちょっと!? いったい何があったの!? 落ち着いて事情を説明なさい!」
アリスさんがそう叱りつけると、怯える人形は無言のままで必死に身振り手振りを始めた。声を出さないのは、出す機能を持っていないからだろうか? でもそのぶんを補うように、全身を使ったボディランゲージでアリスさんに何かを訴えかけている。
横で見ているわたしには何が何やら判らなかったけど、主であるアリスさんはきちんと理解できているらしい。人形の仕草にふんふんと相槌を打つ。
やがてその表情は、どんどん険しくなっていった。
「……そう、そうだったの。ずいぶんと怖い思いをしたのね。あとの始末は私がやるから、貴方はゆっくりと休みなさい。本当にご苦労様」
人形の頭を撫でて優しく奥の部屋まで送ってあげたあと、アリスさんは魔理沙さんの方をきっと睨んだ。
いまだ眠りから覚めない魔理沙さんの目の前までつかつかと歩いて行くと、そのそばにある机に拳をぶつけつつ怒鳴る。
「起きなさい魔理沙! 一体どういうことなの、これは!?」
「あー……? なんだよぉ、もう少し寝かせてくれよ。どうせお前の図書館は年中休館状態なんだし……」
「どんな夢見てるのよ、っていうかどういうシチュエーションなのよそれは!?
いやそれはともかく、さっさと起きなさい魔理沙! グリモアの角でどつくわよ、2000ページ分の重量を乗せて!」
「んー? ぐりもあ……グリモアだってぇ?」
むにゃむにゃと目をこすって、魔理沙さんが目を覚ました。
行儀悪くあくびをしてから、ようやくアリスさんと目を合わせる。
「グリモアでどつく? おいおいアリス、魔道書ってのは読んだり研究したり借りてきたりするものであって、人間を撲殺するための道具じゃないぞ?」
「あんたに諭されるまでもないわよ! あと借りてくるじゃなくて盗んでくるでしょ、あんたの場合!」
「ちょっと長期延滞するだけだぜ!」
「胸を張って威張るな! あといいかげん私の質問に答えなさい、一体あんた、私の人形にどんな手紙を持たせたのよ!?」
アリスさんの拳がもう一度机を叩いた。その勢いで四脚の半分が持ち上がり、危うくひっくり返りそうになる。
けれど魔理沙さんは平然としたものだった。どうもこの人、最初からこんな騒ぎになることを予想していたみたいだ。
「手紙? ああ、アレね。なんだよ、送り届けた先で妙なことでも起こったのか?」
「手紙を受け取ったのは、あの氷精――チルノだったのよ! そしてその場で勝手に手紙を読み始めたチルノは、その場でいきなり怒りだしたそうよ。私の人形はあの子にさんざん追い回されて、命からがら逃げ帰る羽目になったわ!」
……え?
チルノちゃん?
魔理沙さんの手紙の送り先って、チルノちゃんだったの?
なにがなにやら判らなくなって、わたしは目を白黒させる。
人里に居るチルノちゃんの元へ手紙を届けたら、突然チルノちゃんが怒りだして、アリスさんの人形を追い回したって……
いったい全体、この一時間の間に何があったの?
呆然とするわたしを、魔理沙さんがちらりと見やった。
ニヤリと笑ってソファから腰を上げ、芝居めいた仕草で帽子の位置を直す。
「まあ落ち着けよアリス。ちゃーんと魔法の種は明かしてやるから。
この魔法の対象は、そこで大口開けてる大妖精の勘違いさ。そいつを一発で綺麗に吹き飛ばすために、ちょいと小細工を効かせたってわけだ」
「勘違い~?」
疑わしげなアリスさんから一旦視線を外すと、魔理沙さんは身体ごとわたしに向き直る。
わたしの瞳を真摯に見つめて、魔理沙さんは口を開いたのだった。
「その妖精の勘違い。それは、自分の友達のことを薄情なヤツだと思い込んでるってことだ」
「え?」
薄情?
わたしが、チルノちゃんのことを、薄情なヤツだと思い込んでる?
魔理沙さんの顔を見上げながら、わたしは今のセリフを脳裏で反芻する。
それってどういうことだろう。わたしは別に、チルノちゃんのことをそういう風に思ってなんかいないのに。
妖精は気まぐれな種族だから、強くなってしまったチルノちゃんがわたしから離れていくのは当然だと思っていただけ。
……それが、間違っているということ?
「言っただろ? ただでさえ頭の悪い妖精の中でも、チルノのヤツはさらに9ランク上のバカだって。どうせ今回の件も、人里で遊びに夢中になってるうちに湖への帰り方を忘れたとか、その程度のことだろ」
ええー……?
そ、そうかなあ……。それはさすがに言い過ぎなんじゃあ……。
わたしが無言のままで抗議の視線を送っていると、アリスさんが横から口を挟んできた。
「で、それとあの手紙と、何の関係があるというの?」
「ほら、こういう場合には古典的な手があるだろ? 二人の友情を確かめるための魔法の手紙ってヤツが」
そのセリフで何かに気づいたのか、アリスさんの視線がますます険しくなった。
両手を腰に当てて、魔理沙さんを睨みつける。
「……あんた、まさか……」
そして、その瞬間だった。
家の外から、懐かしい声が響いてきたのは。
「悪い魔法使いめ、出てこーい! 出てこないとこの屋敷をカチンコチンにするぞぉ!」
「チルノちゃん!?」
一ヶ月ぶりの声を耳にして、わたしは大急ぎで窓に飛びつく。
外は暗くてよく見えなかったけど、家の上をうろうろと旋回する小さな影がわずかに確認できた。
頭の上に飛び出したリボン。6つに別れた硬質の羽根。あのシルエットは間違いない――チルノちゃんだ!
「どうして? なんで急にチルノちゃんが、こんな湖から離れたところへ……」
「なに、簡単さ。あいつが居ついてるっていう寺子屋教師のところへ、例の手紙を届けたんだ。あいつ自身が一番最初に読むことになるとは思ってなかったけどな」
呆然とするわたしの横に並んで立ち、魔理沙さんが解説を始めた。
「さっきも言ったが、あの手紙はただの手紙じゃなくて魔理沙さん特製の魔法の手紙。それを一読したあのおバカは、すぐさま怒り狂って人形を追い回した挙句、この魔法の森まで飛んできたってわけだ」
「い、いったいどんな魔法を使ったんです」
ごくりとつばを飲み込むわたしに、魔理沙さんはちっちっちと人差し指を振る。
さんざん勿体をつけたあとで、彼女は芝居めかした口調で種を明かした。
「簡単な話さ。こう書いたんだ。
大妖精は預かった。帰して欲しければこの魔理沙さんとスペルカードルールで勝負しろってね」
「脅迫状!?」
わたしはあんぐりと口を開け、次の瞬間には怒りだしていた。
め、めちゃくちゃだ、この人っ!
「なっなっな、なんてことをするんですかあなたはっ! いくらなんでもひどいですよ! 悪戯の度を超えてます!」
「あー? 悪戯じゃなくて魔法だぜ」
「魔法でも悪戯でも、どっちにしても悪質です! チルノちゃんが本気にしたらどうするつもりなんですか!? というか、現に本気にしちゃってるじゃないですか!」
魔理沙さんに詰め寄り全力で抗議する。相手との力の差なんてものは、綺麗さっぱり頭から吹き飛んでいた。
ひどい。ひどすぎる。妖怪じゃあるまいし、人さらいのふりなんて悪質だ。妖精だってそんな悪戯はしない。
魔理沙さんに突っかかったのはわたしだけではない。つかつかと歩いてきたアリスさんが、魔理沙さんの胸ぐらを掴んで怒鳴り始める。
「あんたねえぇぇぇ! 何がただ人里に手紙を届けるだけ、よ!? 思いっきり危険な仕事じゃないのよ! あんた私の人形を何だと思ってるの!?」
「そー怒るもんでもないだろ? どうせお前の人形なんて、スペルカード戦のたびに自爆したり特攻したりして跡形も無くなるんだから」
「それとこれとは話が別よ! 自分の研究材料をこんなことで壊されるなんて許せないわ!」
「まあそうカリカリするなって。私だってこれは予想外だったんだ。チルノが手紙を読むのは寺子屋教師が読んだあとだと思ってたからな。まあ事故みたいなものだぜ」
「どこが事故よ、思いきり故意じゃないの!? しかもその氷精は私の家にまで押しかけてくるし! 私の家が壊されたらどう責任をとってくれるのよ!?」
額をぶつけるほどの勢いで怒鳴るアリスさんだったけど、しかしそれも魔理沙さんの余裕を崩すことはできなかった。
へいへい、わかってるって――そう言いたげに首をふると、
「後始末はきちんとやるさ。で、その間……」
アリスさんに胸ぐらをつかまれたまま、魔理沙さんが右手を伸ばす。その手はわたしの肩を掴み――わわっ!?
驚きのあまり声も出ない。魔理沙さんはわたしを掴むと、おもちゃを押し付けるようにしてアリスさんの胸元へ押し込んだのだ。不意を突かれたアリスさんは魔理沙さんから手を離してしまう。
自由の身となった魔理沙さんは、傍らに立てかけてあった箒を手にとりつつ、アリスさんにニヤリと笑いかけた。
「チルノとスペルカードルールしてる間、こいつをきちんと預かっておいてくれよ。大事な人質だからな」
「あんたねえ……」
わたしを抱えたまま、アリスさんがぎりぎりと歯を鳴らす。が、それ以上の追求はせず、がっくりとうなだれてしまった。どうやらとうとうサジを投げてしまったようだ。
何もかも諦めたような溜息をついてから、アリスさんは魔理沙さんに問いかけた。
「……本気で悪の魔法使い路線で行くつもりなの? いくらなんでも、今日のあんたは悪ノリが過ぎるわ。本気で泥酔してるわけ?」
「そうかもな。さすがの魔理沙さんも今日は飲み過ぎた。少しだけ反省はしてる。絶対に謝罪はしないが」
「あんたねえぇぇ……」
「賠償もしないぞ。……あ、ウソウソ。ちゃんと埋め合わせはするって。だからそんな睨むな」
詰め寄るアリスさんを苦笑いでなだめてから、魔理沙さんは視線をわたしに向けた。
ずっと不真面目そうにニヤニヤしていた目元を、急にキリリと引き締める。
大事なことを確かめるように、魔理沙さんは真摯な声で、わたしに語りかけた。
「これで判っただろ? お前の友達は、今でもお前の友達ってことだ。悪い魔法使いにさらわれたと聞いて、人里からここまで一目散に飛んでくるくらいなんだから」
「あっ……!」
そうか、魔理沙さんはそれをわたしに気づかせるために、あんな脅迫状を……!
やっと相手の意図に気づいたわたしが口元を手で抑えているうちに、魔理沙さんは扉を開け放ち、夜空へと飛び立っていったのだった。
箒にまたがった魔理沙さんが、チルノちゃんと同じ高さに舞い上がる。
「よう、早かったな。アリスの人形の速度に追いつくとは、お前もずいぶん……っとと!」
チルノちゃんがいきなり氷塊を投げつけたので、魔理沙さんは慌ててかわす羽目になった。
さらに上空へと逃れる魔理沙さんを、チルノちゃんのシルエットが追う。
「ふざけるなー! あたいの友達をさらうとはいい度胸だ、早く大ちゃんを返せ!」
「おーおー、殺気立ってるね。そんなにあの妖精のことが大事か?」
「そんなん当たり前だろ、ふざけてないでさっさと返せー!」
ますますいきり立つチルノちゃん。
その勢いをそらすように、魔理沙さんが意地悪そうな口調でツッコミを入れる。
「大事な友達のわりには、湖のほとりで一ヶ月もほったらかしだったじゃないか。大妖精のヤツ、寂しそうにひとりで体育座りしてたぜ?」
「……うえ? な、何言ってるのさ!?」
動揺したのか、チルノちゃんの弾幕がわずかに途切れる。その隙をついて魔理沙さんは素早く間合いをとった。
暗闇の中、魔理沙さんのシルエットが何かを取り出す。暗くてよく見えないけど、あれはきっと八卦炉。火を起こしたりビームを放ったり鍋を温めたり山火事を起こすこともできるという魔法のアイテム。
魔理沙さん、本気だ。本気でチルノちゃんと一戦交える気だ……!
はらはらしながら窓越しに様子を伺っていると、魔理沙さんはスペルカード戦を始める前に、さらに挑発するような台詞を重ねた。
「友達よりも、人里に遊びに行くほうが大事なんだろ? なら私が大妖精を誘拐したって問題ないじゃないか。
昔から言うだろ、一人で寂しくしてる子は、悪い魔法使いがさらっていっちゃうってね」
「ちんぷんかんぷんなこと言って誤魔化すなー! 問題大有りだー!
それに、寂しくしてる子をさらっていくのは魔法使いじゃない、妖精さ! 魔理沙の出番なんかないよ!」
「ほう、チルノのくせに一理あるな。だが、それだけでは大妖精は返してやれんなー。
本当に本気で大事な友達なら、私から力づくで奪ってみせろ!」
夜の闇の中に、突如として激しい光がひらめく。八卦炉から放たれたビームだ――チルノちゃん危ない!
「おわっと!」
横薙ぎに払われたそれを、チルノちゃんが危ういところでかわす。ほんの一瞬でも判断が遅れたら大怪我しかねない攻撃――でも、チルノちゃんはまるでひるまない。いつものように。
いや、いつも以上に。
「今日のあたいはこんなんでやられやしないよ!
魔理沙、お前はあたいを怒らせた! 人間のくせに妖精をさらうなんて許せない、あたいの友達をさらったのはもっと許さない! あたいの怒りの炎でできた氷を喰らえっ!」
「炎なのか氷なのかハッキリしろよ。――ま、どっちにしろ、私のレーザーで貫いてやるだけだぜ!」
いつも以上に全力を出した二人が、夜の闇のなかでぶつかり合う。
魔理沙さんが繰り出すスペルは、夜を切り裂く流星そのもの。闇を蹴散らすその光は、本当に何もかもを貫きかねない。
けれど今のチルノちゃんは、それをさらに上回っているように見えた。生み出す弾幕はまるで荒れ狂う吹雪のよう。ただそばに近寄っただけで、全身の体温を奪われて凍死してしまいそうだ。
まるで――
負けない、と。
絶対に負けない、と。
全身と全力で訴えているように。
「チルノちゃん……」
視界がにじむ。
窓越しに見上げる瞳から、涙があふれて止まらない。
ああ、わたしはなんてばかだったんだろう。
魔理沙さんの言ったとおりだった。チルノちゃんは何も変わっていなかった。
わたしを助けに来てくれた。わたしを友達だと思ってくれていた。
いつもどおりに真っ直ぐに。いつもどおりに全力で。
なのにわたしは――そんなチルノちゃんの心を疑ってしまった。
自分から離れて、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと恐れた。
でもそれは結局、わたしの弱気の裏返し。チルノちゃんについていくことのできないわたしが、自分で自分に言い訳をしてただけだったんだ。
追いつけないのは仕方ないんだと。
チルノちゃんが強すぎるのが悪いんだと。
そんな風に思い込みたかっただけだったんだ。
「チルノちゃん、ごめん、ごめんね……」
アリスさんの腕の中で、わたしはぐすぐすと鼻を鳴らす。
自分のことがみっともなくてたまらない。情けなくて仕方ない。
溢れる涙を何度も手のひらで拭うけれど、いつまでたっても涙は止まらない。
――と、アリスさんの手のひらが、わたしの頭にそっと触れた。
「大丈夫?」
わたしの頭を撫でながら、アリスさんがそう尋ねてくる。
わたしがこくんとうなずくと、アリスさんは悔しげに空を見上げたのだった。
「今回ばかりは魔理沙のほうが正解だったわね。乱暴でがさつな方法だけど、確かに貴方の誤解を解消してみせた。
――参ったわね。こういうことに関しちゃ、いつもアイツには敵わないわ」
周囲に星弾を撒き散らす魔理沙さんを見つめて、アリスさんは言葉を続ける。
「アイツはね、普段はひねくれ者のくせに、人間関係については妙にこだわるのよ。寂しくしてる子は放っておけないっていうか、ガキ大将気質っていうか……。やたらと他人事に首を突っ込みたがるの。
いつもだったら迷惑極まりないけど、たまにはこうして役に立つこともあるのよね」
憎まれ口を叩くアリスさんだけど、でもその表情はどこか楽しそうだった。
もしかしたらアリスさんも、かつて魔理沙さんに助けてもらったことがあるのかも知れない。
そういう経験があったからこそ、魔理沙さんの無茶な行動に文句をつけつつも、そのお願いを断らなかったのかも知れない。
ああ――そうだった。
わたしもまた、魔理沙さんのおかげで誤解を解くことができたんだ。
アリスさんのおかげで、一歩前に踏み出すことができたんだ。
だったら、一人でめそめそ泣いていてはいけない。きちんと二人に恩返しをしなくては。
―――わたしは、わたしのやるべきことをやらなければ。
腕でごしごしと顔を擦り、涙を拭う。
アリスさんを見上げて、わたしは決然と告げた。
「アリスさん、わたし、チルノちゃんを止めに行ってきます。このまま放っておいたら、チルノちゃんか魔理沙さんか、どっちかが大怪我をしてしまうかもしれません」
「え? 今の貴方が?
……ちょっと無謀じゃない? 放っておいたほうがいいと思うけど」
アリスさんのその指摘は正しいと思う。いつも以上にヒートアップしてるチルノちゃんたちの間に割り込むのはすごく危険だ。下手したら、大怪我するのはわたし自身になってしまうかも知れない。
でも、こんな戦いは止めなくてはいけない。チルノちゃんがスペルカード戦をするのはそれを楽しむためなのに、今のチルノちゃんはちっとも楽しそうじゃない。
それに、
「元はといえば、わたしの勘違いが悪いんです。わたしがチルノちゃんのことを信じてあげられなかったのが原因なんです。だからわたしが止めないと。ちゃんと止めて、チルノちゃんに謝らないといけないんです」
「……それは、本気? ただの強がりじゃなくて?」
真剣に尋ねるアリスさんに、わたしもまた真剣な表情を返す。
「もちろんです。だってわたしは、チルノちゃんの友達なんですから」
「…………」
しばし無言だったアリスさんは、やがて一つ苦笑すると、わたしを抱えていた手を離した。
机に置いていたわたしのリボンを取り上げると、軽く埃をはたいてから、わたしの髪の毛に結びつける。
「貴方の力では、二人の弾幕を長いこと防ぎ止めるのは不可能よ。戦いの場のすぐ外でタイミングを伺って、チャンスがきたら一気に二人を引き剥がしなさい。いいわね?」
「はい」
「さっき教えたことを忘れちゃダメよ。たとえ力の総量が少なくても、きちんと制御できるならどんなパワーにだって対抗できる。弾幕はブレインよ、OK?」
「はい!」
リボンを結びなおしてもらったわたしは、アリスさんにペコリと頭を下げた。
そしてすぐさま、扉から外へと飛び出す。
チルノちゃんと魔理沙さんが戦う冬の夜空へと、大急ぎで駆け上がっていく。
二人の戦いは、まだまだ激しく続いていた。
氷と星が乱れ飛び、吹雪とビームが吹き荒れる。
いつも以上に激しく、いつも以上に荒っぽい戦い。
原因はもちろんチルノちゃんだ。
いつもは勝っていても負けていても楽しそうなのに、今は怒りに顔を歪めて魔理沙さんを追い回している。一方、お酒が抜けきっていないのか、魔理沙さんの動きはいつもよりもにぶい。
このままなら、もしかしたらチルノちゃんは魔理沙さんに勝てるかも知れない。でもきっと、こんな勝ち方をしたってチルノちゃんは嬉しくないはず。それに下手したら、魔理沙さんに大ケガをさせてしまうかも知れない。
――絶対に止めなきゃ。魔理沙さんのためにも、チルノちゃんのためにも。
飛び交う弾幕はひたすらに激しく、割り込む隙はなかなか見いだせない。
それに弾の一発一発がとても痛そうだ。きっと当たったらただでは済まないに違いない。
正直、怖い。魔理沙さんに挑んだ時より、ずっと怖い。
やっぱりわたしは、痛いのは嫌。怖いのは嫌。怪我するかも知れないと思うと、足ががたがたと震えてしまう。これ以上進みたくないと考えてしまう。
けれど。
チルノちゃんみたいに、一人で怖さを乗り越える勇気はなくても。
友達のためになら、勇気を奮い起こすことはできる。怖さを乗り越えて進むことはできる。
だってわたしはチルノちゃんの友達で――そして、これからもチルノちゃんを見守っていたいのだから。
「ふうぅぅ……」
さっきアリスさんと練習した時のように、呼吸を整えて気持ちを落ち着ける。
激しく旋回を続ける二人の動きを、少し上のあたりからじっと見下ろす。
集中するんだ。先を読むんだ。次に二人が何をするのか――いや、チルノちゃんが次にどう動くかを、きちんと予測するんだ。
きっとできる。絶対にできる。
わたしはずっと昔からチルノちゃんと友達だったんだもの。チルノちゃんの戦いを見てきたんだもの。チルノちゃんが次に何をしたいのかは予測できる。チルノちゃんに隙ができるその瞬間を、完璧に読みきってみせる!
「やれやれ、意外とやるじゃないか。ならこいつを喰らわしてやる――魔十字、グランドクロス!」
「今日のあたいにそんなものは効かないよ! パーフェクトフリーズ!」
十字架状に放たれたレーザーを、チルノちゃんが周囲を凍らせて受け止める。たちまちあたりに無数の氷塊が生み出された。
邪魔だとばかりにそれを蹴っ飛ばすと、チルノちゃんはわずかに下がって力を溜め始める。
「お返しだよ! 喰らえ、ヘイル――」
今だ!
自分の周囲にバリアを張りつつ、全速力でチルノちゃんめがけて突っ込む。チルノちゃんが大技を出すよりも早く、そして魔理沙さんが次のスペルカードを取り出すよりも早くチルノちゃんに飛びついて、戦いの場の外に引っ張り出すのだ。
魔理沙さんに怪我はさせない。チルノちゃんにも怪我はさせない。ただその一念で恐怖を押し殺して、わたしは一直線に飛行する。両手から氷を生み出す直前のチルノちゃんに手を伸ばす。
そしてその身体を掴んで――
「ヘイルストーむぎゃっ!?」
「痛いっ!」
本日四度目の衝撃。頭に走る鈍痛。わたしの目の前を星が飛び交う。
わずかに目測を誤ったわたしは、自分の頭をチルノちゃんの額に思いきりぶつけてしまった。
頭がくらくらする。気が遠くなる。痛くてたまらない。泣いてしまいそうだ。でもわたしは歯を食いしばった。こんなところで気絶するわけにはいかない。チルノちゃんを安全なところに連れ出さないと!
どうにか右手でチルノちゃんの腕を掴む。全身の力を込めてその腕を引っ張る。アリスさんの家の玄関めがけて急降下する。
「わわわ、何すんのさ!? ……って、大ちゃん!?」
「チルノちゃん、着地するよ! 気をつけて!」
地面に激突する直前でスピードを緩め、二人して転がるように着陸する。急いで上を見上げ、魔理沙さんが弾幕の手をとめたことを確認し、ほっと安堵する。
そして――
「……え? え? あれ? ……大ちゃん、無事だったの?」
「……うん。無事だよ。心配させてごめんね、チルノちゃん」
びっくり顔のチルノちゃんを、わたしは両手で抱きしめた。
誤解していたことを詫びるために。わたしを助けに来てくれたことに感謝するために。
「チルノちゃん、ごめんね、ごめんねっ。これは全部わたしが悪いの。わたしがチルノちゃんのことを誤解してたのが原因なの」
腕の下の友人の身体は、スペルを放つ直前だったからか、いつもにも増して冷たい。
けれど今のわたしなら、その冷気も怖くない。
精一杯の謝罪と、そして精一杯の感謝の気持ちを込めて、わたしは友達をぎゅっと抱きしめた。
「チルノちゃん、助けに来てくれてありがとう。そして誤解してごめんね。
魔理沙さんはね、わたしの誤解を解いてくれたんだよ。魔理沙さんは悪くないんだよ。だからもう戦わないで!」
「――へ? え、えーと。あれ? 何がどうなってるの?」
まだ事態が飲み込めていないのか、チルノちゃんはわたしに抱きしめられたまま、しきりに首をかしげている。
けれど途中で何かに気づいたのか、あわててわたしの手を振りほどいた。
そして二、三歩ほど後ろに下がると、もう一度首をかしげる。
まじまじとこちらを見つめながら、チルノちゃんはわたしに尋ねてきた。
「……あれ? おかしいな、今のあたいはすごく冷たくなってるはずなんだけど。
大ちゃん、平気なの?」
ああ、そっか。ちゃんとチルノちゃんも気にしてくれてたんだ。
その事実に少し感動しつつ、わたしは相手を安心させるために微笑みを浮かべた。
「うん、大丈夫だよチルノちゃん。アリスさんていう人から、冷気を防ぐ方法を習ったんだ。
だからもう、冬でもチルノちゃんのそばにいられるんだよ!」
「え!?」
文字通りの意味で、チルノちゃんが目をまん丸くする。
心の底からびっくりしている友人に、わたしは少し得意になって言葉を続けた。
「それだけじゃないよ。冬でも湖を離れて遠くまで行ける方法も教えてもらったんだよ。
まだまだ修行が必要だけど、そのうちわたしも、チルノちゃんと同じくらい色んな場所に行けるようになるから!」
「なっ、なんとっ!?」
チルノちゃんが大きくのけぞった。
……なんだろう、これだけいいリアクションをしてくれると、こっちもすごく誇らしくなってくる。
実際は、まだまだぜんぜん大したことをしたわけじゃないんだけど。
大げさなくらいに驚愕の表情を浮かべていたチルノちゃんは、わなわなと震え始め――
いきなりがばちょとわたしに飛びついて、大声でまくしたて始めた。
「凄い! 凄いよ大ちゃん! いつの間に!? どうやって!? どんな方法で!?」
「え……いや、だから、アリスさんていう人に教えてもらって――」
「凄いよ、さすがね大ちゃん! なかなかやるじゃない!
このあたいの最強の冷気を弾くなんて……このあたいでもできるかどうか分からないのに!」
「……できるかどうか分からないの? 自分の冷気なのに」
「ふふん。なにしろあたいは最強だからね! 最強ってことはつまり、誰にも止められないってことだもの!」
「ええとねチルノちゃん、その理屈は色々とおかしいと思うよ」
ああ……なんといういつもどおりの会話。
感動の再会の場面のはずが、あっというまに日常に逆戻り。さすがはチルノちゃんだ。
まあ――でも。
これで、チルノちゃんにも魔理沙さんにも怪我をさせることなく、無事にコトを収めることができたんだ。
何故だか腰に手を当てて威張り始めたチルノちゃんの頭を撫でながら、わたしはほっと安堵の息を付く。
――と。
「何をエラそうにしてるんだか。元はといえば、お前がぷいっと居なくなるのが悪いんじゃないか」
後ろから、チルノちゃんの頭をはたく手ひとつ。
呆れたような表情を浮かべて現れたのは、言うまでもなく魔理沙さんだ。服にはほつれ一つなく、疲れの色ひとつ見えない。先程までチルノちゃんと激しい戦いをしていたとは信じられないほど。
さっきのスペルカード戦では圧されているように見えたけど、やっぱりうまく手を抜いてくれていたんだろうか。
魔理沙さんはチルノちゃんの頭を左手でロックすると、そこに右の拳をぐりぐりとねじ込み始めた。
「ほれ、反省しろっての。お前の友達はお前のせいで大変な目にあったんだからな」
「痛っ! な、なにするんだよ!? あたいが大ちゃんに何をしたって言うんだ!」
「さっきも言ったろ? お前、人里に行ったまま一ヶ月も帰って来なかったんだろうが。
おかげでそいつは、お前が自分のことを絶交したって勘違いしたんだぜ?」
「えっ……!?」
チルノちゃんが絶句する。
彼女はまじまじと魔理沙さんを見上げたのち、わたしの方を見やった。
そのままおずおずと、わたしに尋ねかける。
「大ちゃん、それ本当……?」
「う、うん」
ちょっとだけ躊躇してから、わたしは素直に頷いた。
すると、チルノちゃんの顔がみるみる青ざめる。
「え、えーと……。うーんと……」
魔理沙さんに頭を抱えられたまま、チルノちゃんがうんうん唸っている。
――これは、あれだ。本当に悪いなーと思っているときの反応だ。
謝ろうとして、けれど素直に謝れない。わたしに叱られたとき、チルノちゃんがよくする仕草。
だからわたしは、このあと相手が何をするかもよく知っている。
わたしはいつものように、黙ってチルノちゃんを見守る。
チルノちゃんはとてもバツが悪そうだ。視線がこちらと地面とを行ったり来たりしている。
でも。
やがて決心がついたのか、チルノちゃんは魔理沙さんの腕をふりほどいてから、
「……ごめんね、大ちゃん」
いつものようにペコリと頭を下げて、素直に謝ってくれたのだった。
わたしはいつものように、にっこりと微笑む。
「大丈夫だよ。でも、次からはこんなことはしないでね?」
「うん。気をつける」
ああ、これで一件落着。
わたしが謝って、チルノちゃんが謝って。
何十年も前からずっと、こうして仲直りしてきたんだから。
これで全ては元通り。またいつもの日々を始めることができる。
――いや、違う。
元通りじゃダメだ。いつも通りにしてはいけない。
わたしは視線をチルノちゃんから転じた。
魔理沙さんの背後から、別の人影がやって来る。
「どうやら、収まるところに収まったみたいね」
肩をすくめながら現れたのは、わたしに冷気の防ぎ方を教えてくれた恩人。わたしが前に進むための第一歩を教えてくれた人。
アリスさんはわたしたちを見回すと、魔理沙さんに向かって肩をすくめてみせた。
「仕方ないわね、認めるわ。今日の勝負は貴方の勝ち。やり方はちっともスマートじゃないけれど」
「ふっふっふっ。これで判ったろアリス? あらゆる問題の解決に必要なのはパワーだって」
「そんなわけないでしょ。基本はやっぱりブレインよ。たまに強引さが必要になることはあってもね」
魔理沙さんと何やら言い合いを始めたアリスさんに、わたしは一歩を踏み出した。
精一杯の大声で、感謝を告げる。
「アリスさん、ありがとうございました。本当にお世話になりました。それと、いろいろ迷惑をかけてすいません」
「ま、今回は特別サービスよ。気にしないで」
アリスさんはぱたぱたと手を振る。
その彼女に向けて、わたしはさらに一歩を踏み出した。
『恐怖を乗り越える勇気を持てるのか?』
この人から投げかけられた問いに、きちんと答えを返すために。
「アリスさん、さっきのお話ですけど……。
強くなる方法、わたしに教えてください!」
アリスさんはにこりと笑い、優しくうなずいてくれたのだった。
「いいわよ。魔法使いのやり方を教えてあげる。ただし、私は厳しいからね?」
「はい!」
アリスさんの承諾を得たわたしは、瞳を輝かせて大声で応えた。
――そう。
わたしには、チルノちゃんみたいに一人で怖さを乗り越える勇気はないけれど。
友達のために勇気を奮い起こすことはできる。怖さを乗り越えて進むことはできる。
そして、わたしはチルノちゃんの友達で。
こんなに頑張るチルノちゃんと、ずっと友達でいたいから。
だから今度は、わたしが頑張る番。
今までのチルノちゃんの努力に、きちんと応える番なのだ。
「え? 大ちゃん、そいつの弟子になるの? ……なんで?」
何もわかってないチルノちゃんが、きょとんとした表情で聞いてくる。
わたしはそんなチルノちゃんに振り向き、宣言した。
弱い自分を振り払って、固く固く決意したことを。
「わたしね、もっと強くなるよ。
チルノちゃんといつでもスペルカードルールで遊べるくらいに。
本気のチルノちゃんと互角に戦えるくらいに。
だから、アリスさんに教えてもらうんだ」
チルノちゃんが人間と戦えるくらいに強くなるなら、わたしも人間と戦えるくらいに強くなる。
チルノちゃんが妖怪と戦えるくらいに強くなるなら、わたしも妖怪と戦えるくらいに強くなる。
それがわたしの決意。
今はまだ無理でも、絶対に諦めたりはしない。いつかきっと強くなってみせる。
諦めることなく、くじけることなく、強い人たちを追い続けるチルノちゃんのように。
「あー? 弟子入りするのはいいが、なんでそこで私じゃなくてアリスなんだ?」
と、横から魔理沙さんが不服そうに割り込んでくる。
……すいません魔理沙さん、あなたの教え方にはついていく自信がないんです。
「ま、素直に負けを認めなさい魔理沙。これが魔法使いとしての力量の差ってものよ」
「いきなり威張るなよっ。私は納得行かないぞ、アリスの魔法より私の魔法のほうが派手で見栄えがいいじゃないかっ。
おい大妖精、悪いことは言わないから考えなおせ。そいつから魔法を習ったら陰気病が感染るぞ?」
「誰が陰気よ誰が」
「この陰気な森に住んでいる、陰気な魔法使いのことだぜ」
「あんたもここに住んでる魔法使いでしょうが!」
魔理沙さんとアリスさんがまた口喧嘩を始める。
もっとも、本気でいがみ合っているわけでないことはすぐ判った。
お互いの実力を認め合い、ライバル同士で研鑽しあう。
この人たちは、きっとそういう関係なんだろう。
――わたしもいつか、チルノちゃんと、そういう仲になれるかな。
「大ちゃんが魔法使いの弟子……?
ってことは、あたいの最強の冷気を跳ね返せる大ちゃんがさらにパワーアップするってこと?
大ちゃんから放たれるマスタースパーク……う、それってちょっと負けそう……」
ちらと横を見やると、チルノちゃんは深刻そうな顔して一人でぶつぶつつぶやいている。
何を想像してるんだろう、その口からは「やべえ……早くGクラッシャーを完成させなければ、妖精界の未来が……」なんてセリフが。
何だかよくわからないけど、きっと、もっと強くなる方法を考えているんだろうな。
本当にチルノちゃんは、空に輝く星を目指している人みたいだ。
たどりつけるかもわからないのに、迷うことなく、諦めることなくまっすぐ飛び続ける子。
そんな子についていくのは大変だと思う。
でも、わたしは諦めない。
あなたについていくと決めたのだから。
おほしさまを追うあなたの横で、飛び続けたいと願ったのだから。
だからまず――わたしなりのやり方で、わたしも頑張ってみるよ。
特訓だー、なんて叫びとともに腕を振り上げた友達を見つめて。
静かな決意とともに、わたしは微笑んだのだった。
「……ああ、そういえば、聞くのを忘れてたんだが」
アリスとの口論の途中、霧雨魔理沙は何かを思い出したような顔で振り返った。
特訓だーと叫びながらその場をぐるぐる走り回る氷精の姿に呆れつつ、その少女に問いかける。
「チルノ、結局お前はなんで一ヶ月も帰って来なかったんだ?
まさか本気で道に迷ってたわけじゃないだろうし」
「うん?」
一人で興奮していた氷精は、その台詞で我に返り、立ち止まる。
彼女はそのままその場で腕を組み、悩み始めた。
「……あれ? そういえばあたい、人里で何やってたんだっけ」
「こんな大騒ぎを起こしておいて、覚えてないのかよオイ」
「ちょ、ちょっと待ちなさいっての。あたいくらいの天才になると、この程度のことくらいすぐに思い出せるんだからっ!」
呆れ果てる魔理沙に大声で言い返してから、チルノは必死の形相で思考をめぐらし――
やがてぽんと手を打つ。
「あっそうだ。これを習ってたんだ」
「……これ?」
「ふふん。見ててよ!」
得意げに笑ってから、氷精は両手を胸の前で合わせ、集中し始める。
黙って横で見ていた大妖精が、そこではっと息を飲んだ。
――これは、わたしが冷気を防ぐバリアを特訓した時と同じだ。あのときと同じ集中の仕方だ。
「ていっ!」
チルノが気合を入れると、霊力の流れが一変した。
景色は何も変らない。氷精の姿にも変化は見られない。
だがひとつだけ大きな変容があった。劇的とすら言える違いが。
大妖精が目を見開く。
霧雨魔理沙が軽くのけぞる。
アリス・マーガトロイドが身を乗り出して凝視する。
氷精の身体から漏れ出ていたはずの冷気が、綺麗に消失していた。
今のチルノは、普通の妖怪や人間とほとんど変わらぬ体温になっているのだ。
「どうだっ、凄いだろっ!? あたいね、特訓で自分の冷気を制御できるようになったんだよ!
どんなきちく弾幕も凍らせる程度の冷気から、凍ったみかんも溶ける程度の冷たさまで、今のあたいは完全に自由自在さ!」
「お前……じゃあ、寺子屋教師のところに一ヶ月もいたのは……」
さすがに心底驚いた表情の魔理沙が、搾り出すような声で問いかけると。
チルノは大威張りで腰に手を当て、誇らしげにうなずいたのだった。
「大ちゃんが寒そうにしてたからさ、どうにかしようと思って。
それで、ちょっとけーねにやり方を教えてもらってあげに行ってたのさ!
さすがのあたいも、このあたいの最強の冷気には手こずっちゃって、だいぶ時間がかかったけど」
そして少女はくるりと振り向く。
絶句したままの友人に、にかっと笑いかける。
「これで冬でも冷たくないよ! だからまた、大ちゃんと遊べるね!」
「――――!」
大妖精は、口元に手を当てた。
驚きのあまり何も答えられない。
大妖精からお褒めの言葉をもらえると期待していたチルノは、黙ったままの友人の姿に、怪訝そうに首をかしげた。
立ち尽くしたままの相手を見つめ、小声で話しかける。
「……えーと、どうしたの、大ちゃん? そんなびっくり顔で」
「…………」
「ねっ、ねえっ、なにか言ってよ。もしかして、一ヶ月帰って来なかったことをまだ怒ってる?
ねえ、その、そんなに怒ってるの?」
不安を募らせたチルノは、あわてて友人の顔を覗き込む。
しかし大妖精のほうは、ろくに何も答えられないまま――その場で涙を流し始めた。
「ふええええ~……」
「だ、大ちゃん!? ねえ、大丈夫!? 怒ってるの? 悲しいの!? ねえっ!」
パニックになりかけた氷精の身体を、大妖精は両手で抱きしめる。
涙声のまま、少女は自らの友人に語りかけた。
「怒ってなんかないよ。悲しくなんかないよ。嬉しいんだよ、すごく嬉しいんだよ……
ふええ、うええええ~~……」
がっちりとチルノを抱きしめたまま、とうとう大妖精は大声で泣き出してしまった。
事態が飲み込めないチルノは、ただ困惑の表情を浮かべるしかない。
「大ちゃん……ワケわかんないよ。嬉しいのになんで泣くの? 本当は怒ってるんじゃないの? ねえ……」
「違うよぉ……違うよぉ……わたし、ホントにっ、嬉しくて……うえっ」
「ねえ、泣かないでよ……困るよ、大ちゃんがそんなに泣いたらさ。あたい一体どうすればいいかわかんないよ」
「ごめんね、すぐに泣き止むから……そしてもっと強くなるから。わたし頑張るよ。チルノちゃんのために頑張るよ……っ!」
――そして。
抱き合ったまま途方にくれる二人を見つめて、霧雨魔理沙はやれやれと肩をすくめたのだった。
「ほら見ろ、私の見込んだとおりだ。やっぱり最初から仲違いなんてしてなかったじゃないか。
まったく人騒がせな連中だぜ。こんな勘違いをするなんて、やっぱり妖精は頭が悪いんだな」
「それは違うわね、魔理沙。人間や妖怪でもこういうすれ違いは起こるものよ。
お互い好意を持っていたのに、ふとしたことで誤解が生まれる――そんなのよくあることでしょ?
言葉や態度できちんとお互いの意志を伝えあっておかないといけないのよ、人間も妖怪も妖精もね」
澄まし顔で指摘してくるアリスに、魔理沙は胡散臭そうな視線を送る――が、何も言い返さない。
内心で一理あるなと思ってしまったことを認めるのが悔しかったからだ。
返答をする代わりに、魔理沙は手に持っていた箒にまたがった。魔法使いらしくさっそうとこの場から退場――しようとして、不意に吹いてきた突風に帽子を飛ばされそうになる。あわてて帽子を抑えた途端、全身に寒気を感じて思わずくしゃみをしてしまった。へぷちっ!
「ぬー。チルノの冷気が今頃効いてきたのか? こりゃいかん、さっさと帰らないと風邪を引くぜ」
「急いで帰ったところでやっぱり風邪を引くわよ? 今のあんた、酔っ払ってる上に魔力も体力も消耗してるしね。あの氷精との戦いで」
「ぬぐっ……」
またもや魔理沙は、悔しげにうめくことしかできなかった。怒りのチルノ相手に予想以上に手こずってしまったのは事実で、疲れきったままの状態でこの寒空を飛ぶのは確かにまずい。しばらく寝込む羽目になってしまうだろう。
どうしようかと迷っている魔理沙を見て、アリスはやれやれと肩をすくめた。
「仕方ないわね。ウチでもう少し休んでから帰りなさい」
「あー? アリスがそんなことを言うとはどういう風の吹き回し……痛っ!」
魔理沙の額にデコピンを浴びせた後、アリスは腰に手を当てて、まだまだ未熟な後輩をたしなめたのだった。
「人の親切は素直に受け取りなさいな。普段からそんな憎まれ口を叩いてるから誤解されるのよ、あんたは。妖精のことを笑えないわね」
そして彼女は、いまだおいおい泣いている大妖精と、その大妖精にしがみつかれて困り果てている氷精へと振り向く。
めでたく友情を回復した二人を祝うように、魔法使いはくすりと笑った。
「さ、二人とも。体が温まるまで家で休んでいきなさい。魔理沙が持ってきたワインをご馳走してあげるから」
――さて。
魔法使いに師事した大妖精は、目覚しいスピードでめきめきとその実力を伸ばしていき。
翌年の春に起こった妖精同士の戦争の舞台にて、友人を大苦戦に追い込むことになるのだが――
それはまた別の物語である。
了
Gクラッシャーで思い出しました、貴方だったのか!
素敵な大チル、ありがとうございました。
やっぱり魔理沙は最高だぜ!
過去作も読んでみよう
パルパルする程度の読後感でした!
相変わらず気持ちのいい真っ直ぐを放ってくる作者様のお陰でこちらも気分爽快です。
物語冒頭で語られる大チルの過去話、丁寧な描写でとっても好き。
この描写があったからこそ大ちゃんの苦悩や頑張り、誤解だったとはいえチルノとの和解シーンに
説得力と感動が生まれてきたのだと思ってます。
走り続けるチルノとたまにコケつつ、よろよろしながらも懸命に追い続ける大ちゃん。
それでも二人の距離は広がらないと確信できます。
暴走はするけどきちんとどこかで立ち止まって待っていてくれる子だ、チルノは。
大ちゃんにだってアリスっていう良き師匠と、ひねくれ者だけどお節介な黒白がついているもんね。
最後に、今作位に行間の空白があると個人的には読み易いかな、やっぱり。
次回作、楽しみに待っています。
でも大ちゃん、大戦争ではもうちょっと手加減してください。
ダブルリリーよりとっても避けづらいです……
こういうストーリーが好きです
ただ、大チル、が個人的に無理なんですよね……
タグに書いてあんのに何言ってんだお前って感じですが
アリスとか魔理沙もなんかイメージと違って違和感バリバリでしたし、うーむ、でも読まされるくらい綺麗で丁寧な話だったし……
むちゃくちゃ迷いましたがこの点数にてごめんなさい
しかし、さすがアリスは神綺さんの娘さんだ、貫禄がある(笑)
チルノにそこはかとないカリスマを感じましたw
もっと沢山読みたい
大妖精のひたむきさにやられました。
あと大チルに多いけど、大妖精上げ、チルノ下げが多すぎる。
大チルに魅力を全く感じないのはこんな似たような展開ばかりだから。
文チル、レミチルなどといったカプの方がずっと魅力的