壁にかかった、見るからに重厚そうな時計は午後一時を示している。この時間の振子の単調な音は、聞く者を眠くさせる作用を持っていた。
衣玖と天子は一室にいた。大人数は招けないが、二人だけなら十分な広さである。畳が敷いてあり、必要最低限のものしか置いていないここは「質素」という言葉がよく似合っている。不便そうに見えるが、部屋の主は「竜宮の使いとして働く者には、このぐらいがちょうどいいのです」と語っていた。
ふわっ、と一つ欠伸をもらす。衣玖は涙の溜まった目をこすった。彼女はうつ伏せに寝そべりながら読書にふけていた。両膝を折り曲げ、等間隔でページをめくり、時折欠伸をする。とても怠惰な時間を過ごしていた。それでも窓から入る秋晴れの日差しに照らされた彼女はどこか気品を感じさせる。もしここに絵師がいたら、間違いなく鉛筆と紙を持ち彼女を写生するだろう。
天子はそんな相手を絶賛ガン見中であった。相手は気付いていないようだが、かれこれ三十分ぐら胡坐をかき、無表情で、黙々と実行している。いくら暖かな日差しに照らされようが気品さは微塵も感じられない。ここに絵師がいたら、間違いなく持っているペンと紙を置いてカウンセラーを呼んでくるだろう。
そんな彼女は何を見ているのか、というと別に衣玖を見ているわけではない。たまたま視線の先にいるだけなのだ。
目に映っているものはもっと小さくて単純なもの。
ガン見しているのは年季の入った衣玖の帽子なのだ。
「ねぇ、衣玖?」
外からうっすらと聞こえる楽しそうな声を天子の問いかけがかき消す。今までの静けさが終わったのは、夢が終わってしまった感覚にも似ていた。
話しかけられたはずの人物は、ずっと本を読んでいるまま返事をしない。まだ夢心地に浸っていたいのか、それとも面倒事を避けているのか。経験論から考えると後者である。
「ねぇ、衣玖ってば!」
「……なんですか? 総領娘様」
不満げにもう一度問いかけられると、衣玖もまた不満げに返事をした。どうやらもう避けられないと観念したらしい。こんにちは、現実。
しかし返事はしたものの、彼女の視線はまだ字面を追っている。
「帽子の中見せて!」
「いやです。もう一度言います、いやです」
「二回も言わなくていいじゃん」
「よく聴いてください、いやです」
「うん、祝三回目だね」
字面を追っていた視線が、ゆっくりと話し相手へと向けられる。そこでやっと二人の目が合った。
嬉しそうな天子とは裏腹に衣玖の表情は仏頂面で、眉間にしわが寄っていた。誰が見ても不機嫌なのがわかる。しかもさっきのしつこく言われた否定の言葉と合わせ考えれば、これ以上の言及を控えたほうがいいのは明らかだった。
「えー、いいじゃん。減るもんじゃないし」
ただ残念なことにこの天人くずれ様は私利私欲のためには引かない。
衣玖が溜息をもらす。
「……なぜそこまで帽子の中が見たいんですか?」
「衣玖ってさいつも帽子かぶってるじゃん? つまりその中には、何か宝物が入っているに違いないじゃん?」
「じゃん?」と聞かれても困る。衣玖のしかめっ面にはそう書いてあった。
しかし内面は驚いてもいた。確かに天子の言うとおり彼女は帽子を四六時中被っている。もしかすると、それを外すのは寝るときと入浴中ぐらいかもしれない。だからこそ帽子について興味を持ったのならわかるのだ。しかし興味の矛先が帽子の内側に向いてしまうのは奇天烈である。
それでも、「なぜそう思うのですか?」と聞くような真似はしない。どうせ相手の理屈は理解できないのだ。長年連れ添えばそのぐらい予想ができる。第一ついさっき、「お昼に桃食べたくないから、peach食べてくる!」というイントネーション抜群の奇跡発言を聞いたばかりである。本人談、「英語で言うと気持ちが変わる」とのこと。
頭をかき、仕方なさそうに衣玖は口を開いた。
「帽子の中には何も入ってません……と言いたいところなんですが、確かに総領娘様が言うとおり宝物が入っているのは事実です」 さらっとした口調で相手の言い分を認める。
「やっぱりね。何か怪しいとは思っていたのよ。それで、何が入ってるの?」
「見せることはできないので、口頭でいいですか?」
「別に構わないから、早く教えてよ!」
天子は誕生日に新しいおもちゃを買ってもらう子供のように、目を輝かせていた。
開いているページに栞をはさみ本を閉じる。面倒くさそうな顔で衣玖は頭に乗った帽子の位置を整えた。
「なに? なにが入っているの?」
「帽子の中にはですね……
大脳が入っているんです」
「マサさんがゲロ吐いたぞーー」
外の声がはっきりと聞こえる。会話の消えた部屋にいる二人にとって、それはむしろうるさいほどであった。
衣玖はさっき閉じたはずの本を、もう読んでいる。それを見やる天子は、誕生日プレゼントに欲しかったおもちゃではなく新鮮なキュウリをもらってしまった子供のような、やるせない顔をしていた。
時計の長針がニ回ぐらい動いたころ、やっと天子が喋りだした。
「……なるほど。帽子の内部には少し頭が入るわけだ。そしてもちろん頭の中には大脳が詰まっている。だから帽子の中には大脳が入っている、というとんち回答をしたわけね?」
「その通りです」
「よし、衣玖のあだ名は今から悪徳クソ野郎一休さんね。屏風の虎にでも食べられちゃえばいいのになぁ」
「ではまず屏風から虎を出してください」
「虎じゃなくてそろそろ手が出そうだよ」
衣玖が再び本を閉じた。まったくどうしたものか、と他人事のように考える。
前を向くとこちらを睨んでいる天子がいた。困ったな、と頬をぽりぽりかく。
しばらく見つめ合っていると窓から風が入ってきた。二人の髪をなびかせる。
まるでそれが契機だったかのように衣玖が開口した。
「調子に乗ったのは謝りますから、そう怒らないでください」
返事はない。それでも続けた。
「わかりました。それでは本当の秘密を教えてあげます」
「…………」
「私の帽子の中にはですね…………大切な思い出が入っているんですよ」
「……思い出?」
「ええ、そうです」
衣玖が横になっていた体を起こし、相手に倣い胡坐をかいた。表情はどこか嬉しそうである。
やっと返事をした天子は納得いかないようで、首を大きく傾け訝しげな顔をしていた。 「どういうこと?」
「……できることならずっと覚えておきたい記憶は、誰にでもあります。それらは八十歳、九十歳で亡くなる人間であれば、生涯覚えていることもできるでしょう。しかし私たちの寿命は人間とは比べ物にならないほど長い。悠久といってもいい時間を生ける身にとって、忘れないでいるということは至難の業、いや不可能といっても過言ではない。それでも私には忘れたくない思い出があった。それは大切な人と過ごした時間。それは勇気や元気を与えてくれるもの。だからいつでもどこでも思い返すことができるよう、帽子に宝物をしまったんです」
その声は子守唄を歌う時のように優しく温った。話し終えると無垢な笑顔を浮かべた。
それに応えるように天子も破顔した。言葉を選ぶようにゆっくりと声を出す。
「……素敵な話だね。わかんないけどこっちまで嬉しくなってきたよ。衣玖にも大切な思い出っていうのがあるんだ」
「その言い草は心外ですね。私は根っからの懐古主義者ですよ?」
「そうみたいだね」
おかしそうに二人がくすくすと笑った。
「……それで? その宝物っていうのは何なの?」
衣玖は勿体ぶった仕草で自分の口に指をあてた。
「……誰にも言わないと約束できますか?」
「うん」と天子が力強く頭を縦に振る。
それを見ると、相手は大きく息を吸った。
「私の帽子の中には……」
「中には?」
興奮した様子で天子がごくりと唾を呑む。その音が部屋中に響いた。静寂と緊張がここを満たしていた。
「私の帽子の中には………
記憶を司る器官、つまり大脳が入っているんです」
「おい、イケ? 冗談だろ? ま、まさか……うわー、イケがもらいゲロしたー」 「キャー、イケさーん」
外の声がまたはっきりと聞こえた。部屋から会話が消えた証拠であった。
▲ ▲ ▲
ゆっくりと襖を動かす。音が出ないよう慎重に。人一人通れるぐらいの隙間が開いたとき、そこから部屋の中に入る。そして静かに襖を閉じた。
その途端、暗闇に囲まれた。もう時間は夜の十二時を過ぎている。部屋の主はもう就寝していて、電気が消えているのだ。
しかし準備はしてある。桃の絵が描かれたパジャマを着ている訪問者は、手に持っていた懐中電灯のスイッチを入れ前方を照らした。しかし残念ながらそこにお目当てのものはない。
「どこだろう?」
呟きながら持っている電灯をゆっくりと横に動かす。自分が泥棒みたいなことをしている、と思うと微かに高揚を感じた。高鳴る胸に手をあて湧きでる感情を抑える。
敷いてある布団の上で部屋の主が寝息を立てていたので、枕元も照らしてみたがそこにもなかった。
「……隠しちゃったのかな?」
しばらくするとすると手が止まった。電灯の先には机がある。そしてその上には探していたものがあった。
再び胸が高鳴る。入ってきたとき同様に、音を立てないよう警戒しながら照らした方へと静かに歩き出す。まるでハンターが獲物を捕まえるときのようにゆっくりと、そして確実に。
だがそれがいけなかった。一つのことに集中しすぎて、周りへの注意が散漫になってしまっていた。
机との距離が残り一メートル弱になったとき、部屋が一気に明るくなった。
「何をしているのですか? 総領娘様?」
「へっ?」
水玉模様のパジャマを着ている衣玖が、電気を点ける紐を握っていた。頭の中が真っ白になるが、すぐに彼女が明かりを点けたのだと理解する。
訪問者改め天子は口をぱっくり目をぱっちり開けたまま呆然とする。目を激しく動かしていると、無意識のうちに喉が声を絞りだしていた。
「ど、どうして? ……寝てたんじゃないの?」
「私ですか? いや実はですね、最近狸寝入りごっこにはまっていまして。他者にどれだけ寝ているように見せるか、というゲームです。これが難しくて、特に本物さながらの寝息を立てるのが難所なのですが、総領娘様のリアクションを見る限りどうやら上手くいったみたいですね」
いつもの表情で淡々と語る衣玖を見て、天子は感心すらした。よくぞここまで平然と馬鹿げた嘘を付けるものだ。
だが今はそんな達観視を続けられる状況ではない。まさか昼間の興味が消えず夜に来訪することが見透かされていたとは。平常心を着々と取り戻しつつ、この後のことを考える。
「それで総領娘様はこんな時間にどういった御用で? 何か問題でもあったのですか?」
「私!? え、えーとね私はね……」
や、やばい。いきなりの質問に二度目のパニックに陥る。落ち着くんだ、私。必死に頭を稼働させ、何とかして理由を作り出す。
慌てながら口篭ること数秒、引きつった笑顔を顔に張り付け胸を張った。
「私はス、スパイごっこをしていたの! 知らないでしょう? なんせ私が作ったもん! ルールは……えーとね……誰にも気付かれずに指定地へ潜入するの! いつもなら見つかると相手に麻酔銃打ちこんだり、伝説のボスが教えてくれた体術で落としたりするけど、衣玖は特別に我慢してあげるね!」
「待遇ありがとうございます。でもそのゲームは今日で卒業して下さい。遊びでブラックアウトされる人が不憫すぎます」
「そうだね、もう止めにするよ!」
しどろもどろになりながらも間抜けな嘘を言ってみせる。はっはっはっ、と二人は乾いた笑い声を上げた。それを聞きながら天子の中の誰かが哀れんだ声を出す。お前も人のこと言えないよ、と。
「それじゃあ…」
笑うことにも疲れた頃、天子が視線を前に戻す。衣玖もそちらを見た。
それがまるで合図だったように深い沈黙が起こる。どちらも見ているものは同じであった。
机の上に乗った、衣玖の帽子。
そこからわかるのは相手の次の行動。これから起こる騒動。
片方は帽子を奪いに行くだろう。そしてもう片方はそれを全力で阻止するだろう。
それでも二人ともぴくりとも動かなかった。緊張という糸がピンと張られた一発触発状態の今、全神経を集中させ、互いが相手の出方を窺っているのである。少しでも気を抜けば死ぬ、ここはそんな戦場なのである。
「ねえ、衣玖?」
「……なんでしょう、総領娘様」
長い長い沈黙を破ったのは天子であった。衣玖は返答しながら彼女に目をやる。
「実は最後のわがままを聴いてほしんだ」
「……はぁ。あなたが最後といって最後だった試しがありません」
「そうだっけ? まあ、とにかくこれから一つわがままを言うよ」
「なぜでしょうね。聴く前から、私はそれに応えてあげられない気がします」
二人が不敵にほほ笑む。そして天子が大きく息を吸った。
時計の振子の音がまるでカウントダウンのように感じられた。
「帽子の中見せて!!」
「駄目です!!」
二人は走り出していた。深夜だというのに足音がうるさい。
もとより距離が短かったおかげで天子はもう帽子に手が届きそうである。
だが衣玖だって負けてはいない。皆から何気に足が速いと定評があるのだ。こちらももう少しで相手の体を掴めそうである。
帽子が握られるのが先か。それを阻止されるのが先か。好奇心が勝つか、秘匿願望が勝つか。
なかなか呆れてしまう戦いがここにはあった。
がしっと手が布地を掴む。力が強すぎてしわが沢山できた。
天子が帽子を手に入れたのだ。あとはその中身を調べれば……
だがそのまま後ろに倒される。
衣玖だ。彼女が相手のパジャマを引っ張ったのだ。
バランスを崩し二人とも転がった。そっからは譲れぬプライドのバトルである。早い話が帽子の奪い合いだ。
「離してよ~~」
「離しません!」
痛い痛いと今にも帽子から聞こえてきそうである。それでも力を弱めることなく、彼女たちはそれを引っ張り合う。
「中に何も入ってないんでしょ!? だったら貸してよ!」
「だから中には大脳が入っているんです!」
「それは衣玖の頭の中にあるんじゃないの? あと昼から大脳大脳うるさい」
「だって真実ですもん!」
「嘘つくな~」
「とにかく離してください~」
二人のパジャマが乱れ始め少々色っぽくなる。ただやっていることがやっていることなので、ピンク色の空気なんてどっかに行ってしまった。
言葉の応酬をしながらも休めず手に力を入れ続ける。帽子は忙しそうに右へ左へ上へ下へ動き回るのであった。
ひらり
終戦の証であった。帽子は疲れたように中から一枚の紙を吐き出した。それが時間をかけゆったりと畳の上に落ちる。
その瞬間お互いの手が止まり、視線がそこに集中した。
写真であった。だいぶ色褪せているところを見ると、昔のものらしかった。
固まってしまった衣玖を尻目に天子はそれを手に取る。
どこかの家の前である。しかしそれはよく見ると自分の家だと気付く。
二人が横に並んでポーズを決めていた。一人は帽子を被っていない衣玖で、もう一人は知らない小さな女の子。だがどっかで見たような気がした。
「誰だろう、これ」
呟いてみるも返事が返ってこないので、天子は単独で考える。写真の少女とにらめっこをしていると、案外すぐに思い出せた。
「あ、これ私だ」
そうだそうだ、自宅のアルバムを漁っているときに見たのだ。天子は納得いった顔で頷く。答えた瞬間、衣玖が揺れたように見えたが気にも留めない。
しかしすぐに表情が曇りだす。再び首を捻り自分の頭に手を乗せた。はて、これはどういった写真なのだろうか。特大のはてなマークが頭の中に出現する。
さっき言った二人が家の前で並んでいる。これはいいのだ。不思議なのはその二人が左手を腰に手をあてがい、右手を上に突き出している。そう、「サタデーナイトフィーバー」と呼ばれるあのポーズをしていることだ。少女は笑顔で、片方は恥ずかしそうに。
天子はうんうんと唸り、考えを廻らす。全然想像できないのでこの時のことを思い出そうともしてみたが、ちっともでてきそうにない。むしろ普段から忘れっぽい者が、子供だった頃のことなんか覚えていたら奇跡である。
珍しく熟考してみるがはてなマークは消えそうになかった。
「総領娘様がそのポーズを取ろうと言い出したのです」
突然の声に驚き横を見る。誰もいない。振り返ってみるといつの間にか衣玖が正座をしていた。そっぽを向いており横顔しか分からないが、ほっぺたと耳が真っ赤である。
「そうなの?」 体を彼女に向け、天子も座る。
そこからポツリポツリと昔話を語り始めた。
「……天人の取材ということで天狗がここを訪れたことがあるんです。そのとき持っていたカメラという機械を総領娘様は大変気に入ったみたいで、仕組みを知るなり天狗に写真を撮ってくれってお願いしたんです。もちろん相手は当惑していました。それでもあなたが駄々をこねるので渋々了承したんです。すると今度は一緒に映ろうと言って私の手を引っ張り始めました。これまた驚きました。なぜ私なのかと聴いても『衣玖がいい』の一点張りで。仕方ないので私も折れたんです。でも皆がいる前でそのポーズをしようと言われた時は、真剣に断ろうかと思いましたよ」
何となくである。何となく喋っている天子は楽しそうに見えた。
しかしそれが余計に悲しみを深くする。記憶を探ってみたが、そのときのことを思い出すことができなかったのだ。覚えていなかった寂しさと相手への申し訳なさ、それらがまるでナイフのように心へ突き刺さる。
手を強く握り、下を向いた。
「……ごめんね、衣玖。私、覚えていないみたい」
「……そうですか」
溜息が聞こえた。とっても寂しそうで悲哀に満ちていて、今にも消え入りそうな。
握る力が強くなる。このまま無言になってしまうのが恐かった。だから何としても話題を探した。
「……そういえばなんで写真の日のこと話してくれたの?」
「とても考え込んでいた様子だったので」
相手の声は暗かった。しかし挫けまいと天子が明るく相槌を打つ。そして表情を笑顔にした。
「でもすごいよ。よくそんな昔のこと覚えてるね」
そう言うと衣玖の体がまた揺れた。自然と眉間にしわが寄る。何かおかしなことを言っただろうか。
「衣玖の記憶力は抜群なんだね」
またまた揺れ、目から落ち着きがなくなっていく。やっぱりおかしい。しわが一層深くなる。
不審に思いながら天子は何となく視線を下に落とした。
左手が握っていたのは衣玖の帽子。そして右手には……
「あっ」
まるで地震が起きているように衣玖の手と顔が震え始めた。顔の赤みもどんどん増している。
『大切な思い出が入っているんです』
天子の頭の中では昼間言われたことが思い返されていた。
『それは大切な人と過ごした時間』
頬が暑い。触れてみると熱したフライパンのようだった。
『それは勇気や元気を与えてくれるもの』
ゆっくりと顔を前に向けると、両手で顔を覆っている衣玖がいた。
『思い返すことができるよう、帽子に宝物をしまったんです』
「もしかして昼間言ってた宝物ってさ……」
声が震える。それでも天子は言葉を続けた。
「この写真のこと?」
右手の写真を見せる。相手は顔を覆っている両手をゆっくりと降ろし、こちらを向いた。
天子は息を呑む。唇を噛んでいる衣玖の顔は真っ赤で今にも倒れてしまいそうであった。そしてとても不機嫌そうである。しかし目尻には涙が溜まっていた。
押し黙っているのでこれを無言の肯定と受け取る。
「うれしいけど、やっぱり恥ずかしいな」
頬を紅潮させながら天子は照れくさそうに頭をかいた。
「……軽蔑しないんですか?」
ぼそりと呟くように衣玖が言った。
その言葉で目を丸くする。 「どうして?」
「だって……昔の写真をずっと持っているのって過去に縛られてるみたいですし……それに、誰かに自分の写真をずっと持ってられるのって、いやだと思いますし……」
今にも泣いてしまいそうな声だった。上目遣いでこちらを見てくる彼女は説教を待つ子供のようで、いつもの威厳はない。それが可愛らしくてついつい噴き出して笑ってしまう。
「ど、どうして笑うのですか!?」
「ごめんごめん。つい」
怒っているらしいのだが全然怖くなかった。
笑い涙を拭うと、天子はにっこりとほほ笑んだ。
「……過去に縛られるっていうのはさ、後ろしか向かないで歩くのを止めてしまうことだと思うんだ。だから大切な思い出を忘れないようにするのは、きっと悪いことじゃない。衣玖だって言ってたじゃん。誰にも忘れたくないことがあるって。追想することは背徳行為じゃない、今の自分を確立するための大事なことなんじゃないかな」
ポロリと一滴の涙が衣玖の目から落ちる。それを追いかけるようもう一滴落ちた。
「あと私は知らない人に写真を持たれるのはいやだけど、衣玖なら別にかまわないよ」
照れ笑いしながら言うと、相手はすばやく俯いてしまった。それを見てまた声を出して笑う。
いつものクールさがない衣玖はとても乙女に見えた。
「あ、そう言えばお願いがあるんだ」
わざとらしく手を叩いた。
「帽子の中を見せて、というのが最後のわがままではなかったのですか?」
「あれはわがまま。今回はお願いだよ」
「ひどい屁理屈ですね」
顔を上げた衣玖はとても呆れていた。それを見てふふん、と笑う。
「今日一緒に寝よう! 布団も一つで!」
「いやです」
「そうか、これが即答というものか」
「なんで一緒に寝たいんですか?」
「私も良くわかんない。ただなぜか今日は衣玖と一緒に寝たい気分なんだ。ねぇー、いいでしょう?」
「駄目です」
ぶうっと拗ねた声を出し、唇を尖らせる。思ったより残念な気持ちが心に重くのしかかった。
「……と言いたいところですが」
「えっ?」
「今夜は冷えるので湯たんぽが欲しかったところです。特別に認めましょう」
そそくさと立ち上がってしまった衣玖を目で追いかける。彼女はいつもの無愛想面だった。ただ普段と違うのは顔がまだちょっぴり赤いということである。
素直じゃないな、なんて心の中で呟いた。
「ありがとう。じゃあさっそく寝よう!」
「わかりました。敷き直すので少し待ってて下さい」
「ねえねえ、寝てる間はお触りオーケー?」
「やっぱり総領娘様は押し入れの中で寝てください」
「すいません、調子乗りました」
「じゃあ、電気消しますよー」
「アイアイサー」
さっきまでの明るさが嘘だったように真っ暗になる。二人が寄り添うように寝転がった。
「もうちょっとそっちに詰めてくださいよ」
「これ以上詰めると布団から落ちて on the 畳しちゃうよ」
「昼食の時から思ってましたけど、ちょくちょく英語のイントネーション抜群なのはどうしてですか?」
不思議なことに、いつもより狭くなった布団は悪い気がしなかった。
「ねえ衣玖?」
「なんでしょう」
ごろんと盛大に寝がえりを打ち、衣玖の方を向く。彼女の背中が目に飛び込む。
「気になったんだけど、どうしてあの写真を帽子の中に入れてたの? 肌身離さずにいるためなのはわかるんだけど、それならポケットとかでもよかったんじゃないの?」
「あー、それはですね」
その先が続かない。何やら言い淀んでいるようであった。
待っていると、やっと暗闇に目が慣れたようで衣玖の髪の毛が見えた。さらさらとしていて綺麗であった。
「あの帽子も宝物なんです」
ビクンと手が止まる。髪へ伸ばしていた手を引っ込める。危うく本能のまま行動するところだった。
意識を再び会話へと戻す。
「聞いてますか?」
「も、もちろん! い、衣玖には宝物がいっぱいあるんだね!?」
「……何かしようしてませんでした?」
「そんなわけないじゃん!」
表情が見えないのが逆に怖い。声には露骨に怒気が混じっていた。
「それより続き続き」と催促すると、一つ嘆息が聞こえてから話が始まった。
「あの帽子は昔から被っているものなんです。写真を撮ったときはまだありませんが、その後日、手に入ったものです。それでもとってもとっても大事なものなんです」
思い返してみると、写真の衣玖は帽子を被っていなかった。
「そうなんだ」
「帽子についてもっと聞かないんですか?」
「あんまり興味ないなぁ。あ、でもどこで買ったのかは少し気になるかも」
「お答えできません」
「聞いておいて拒否かい。まあいいや。それで話戻すけど、その秘話としまってたことがどう関係があるの?」
衣玖からふふ、と少し誇らしげな笑い声が聞こえた。
「宝物の中に宝物があるって、とっても素晴らしいことだと思うんです!」
どっかで聞いたことがある嬉しそうな声だった。自然と顔がほころぶ。普段私情を絡めた行動をあまり取らない彼女にも、こんな思惑があったんだ。こんなにも喜々とした声で語れる信念があったんだ。そう思うと笑顔が止まらなかった。
「そうだね、それはなんて素敵なことなんだろう」
不意に思い出す。そうだ、さっきの声は昼の時に聞いたんだ。
なら見えなくても今彼女がどんな表情をしてるかはわかる。
あなたは今、子供のような笑顔を浮かべているんでしょう?
「さて、そろそろ寝ますよ」
「ちょっと待って。最後にもう一つ疑問が」
「まだあるんですか? もう眠たいんですけど」
「私も眠いよ。でもあと一つだけ」
「……なんですか?」
二人とも声がとろんとしていて眠そうである。それもそのはず、時刻はそろそろ午前一時になろうとしている。もう天子の瞼はくっついてしまいそうだ。それでも彼女は最後の質問を口にする。
「どうして……その思い出がそんなにも大切なの? ……所詮は私のわがままに付き合ったいち記憶なんじゃないの?」
さっきまで安らかだった衣玖の呼吸音が速まる。そして彼女は完璧に閉口してしまった。カチッカチッ、なんていう機械音を立て無愛想に振子が時間を数える。
天子は写真を見たときから疑問だったのだ。彼女が言ってきたわがままは数えきれない。それでも難易様々なそれらを衣玖は黙々と淡々とこなしてきた。要望に応えてくれているときは、弱音を吐かない代わりに笑顔だって見せてくれなかった。当たり前だ、それらを楽しいと感じれるわけがない。写真だってその一環だと思った。
なのに彼女はそれを帽子の中にしまった。宝物としてずっと守ってきた。
それが理解できない。迷惑な行為をされた思い出のどこに価値を見出したのだろう。
無言の部屋の中でしばし考えても答えは出ない。解答を知っているのは背を向け横になっている衣玖だけなのだから。
瞼はもうくっついてしまった。意識はもう夢の中に片足を突っ込んでしまった。
自分から聞いておいて先に寝てしまうのは申し訳ないと思うが、どうやらタイムリミットのようだ。
心の中で呟いた。 『おやすみ、衣玖』
最後に……答え…………知りたかったな……
「き、決めました。言います。恥ずかしくて一回しか言わないので……」
「すぅーすぅー」
「そ、総領娘様?」
ごろんと回転して後ろを見る。そこには夢の世界に入ってしまった天子がいた。
そこで考えに集中しすぎて時間を開け過ぎてしまったことを反省する。もやもやした気持ちを吐きだすように、小さく息を吐いた。
「答え、聞いてほしかったんですけどね……」
寂しそうな笑顔を浮かべる。そしてゆっくりと手を伸ばした。
「その時のわがままだけは特別なんです。私はですね……」
伸ばした手で天子の髪をなでる。とても心地よく感じた。
「私は嬉しかったんです。親でもない私を誘ってくれたのが、手を握ってくれたのがたまらなく嬉しかったんです」
なでる手がかすかに震え始める。感情が抑えきれない。
「あなたの遊び相手を務めている私はいつも無愛想でした。ついつい不満を持ちこんで、ぶっきらぼうに接していたんです。だから当然嫌われていると思ってました。なのに真っ先に私のところに来てくれた。所詮、自分はただの暇つぶし相手と思っていたのに手を握ってくれた。それが嬉しくて……。そのことがあるから…………私は毎日胸を張って生きられるんです……」
ぽとりと何かが衣玖の枕を濡らす。止まらないからどんどん濡れてしまう。拭っても拭っても溢れだす。
「だから所詮はいち記憶なんて言わないでください。あのとき私はあなたから、素晴らしいものをもらったのですから」
まったく、泣くなんてらしくないなと自分を戒める。
涙を拭いきるとなでるのを止め、両手を布団の中にしまいこんだ。乱れた呼吸を整え、目の前の寝顔にぽつりと呟く。
「おやすみなさい、総領娘様。そして素晴らしい思い出をありがとうございます……」
偶然にも天子の顔がふにゃりと笑顔になる。見てる方も自然と顔がほころんだ。
衣玖は瞼を閉じた。なぜだかさっきよりも温かくなった気がする布団の中で、彼女も意識を手放したのであった。
静寂に包まれた部屋にいるのは、幸せそうな寝顔の二人。
それを机の上から少しよれた衣玖の帽子が見守り続けていた。
衣玖さんっていつも帽子かぶってるよなぁ、と思って自分の想像を膨らませてみたのがこの作品です。
楽しんでもらえたら嬉しいのですが……。
それではここまで読んでいただきありがとうございました。
皆様に幸せがありますように……
少し涙腺が崩壊しかけました
素敵な作品でした
100点をやるのにまったく抵抗がねえ!
必要これは俺の人生に必要
言ってきた?
とても素晴らしいいくてんでした!!!
後、外でどんな会話をしてるんだww
お褒めの言葉、誠にありがとうございます。
そして脱字指摘、感謝です。急いで直させてもらいました。
素晴らしい!
今ちょうど1910点なので、
気持ちだけ!
それにしても天子ちゃん忘れっぽすぎでしょうww
感動的です...グスッ