「ねえ、人間って美味しいの?」
問いを投げかけると、美鈴は目を丸くした。
場所は紅魔館正門前。時は正午を少し回ったあたり。
昼食を運んできて、サンドウィッチを平らげた彼女を見て疑問を思い出した。
ハムとチーズと野菜という極々平凡な中身のサンドウィッチ。
ハムもチーズも野菜も人間を加工した、というわけではない普通のモノ。
パンに塗ったバターも里で買ってきた普通の乳製品である。
だから疑問を思い出した。いつも普通の食事を食べる彼女。人喰いの美鈴。
彼女の食事風景を眺めていて――忘れかけていた疑問を思い出したのだ。
「また随分と唐突ですね」
「紅魔館で純粋な人喰いってあなただけだし」
紅美鈴は人喰いである。昔はよく冗談で食べちゃいますよーと言われたものだ。
実際に食べているところを見たことはないが……お嬢様の話では確かに人喰いらしい。
「まあそうですけど。お嬢様方は吸血鬼ですしねぇ」
私が仕える主、レミリア・スカーレット様は吸血鬼。
食事方法が大きく異なるのだからこの質問の対象外である。
食べようと思えば食べられるよ、とは言っていたのだが。
「でもまた何故にいきなり?」
「純粋な疑問ね。一昨日くらいに思いついてから頭を離れなくて」
「即日訊けばいいのに」
思いついてから一度も彼女に会わなかった、というわけではないので正論である。
しかしそれは出来なかった。忘れていたのだ、彼女が人喰いだということを。
「あなたが人喰いだってことすっかり忘れてたの」
「妖怪のプライドってもんを慮ってください咲夜さん」
思ったままのことを口にしたら半目で睨まれてしまった。
うっかりうっかり。
「それで? なんでそんな疑問を?」
「あなた、いつも私と同じモノを食べてるじゃない。物足りないんじゃないかなって。
人喰いの嗜好をじっくり聞いたことなんてないから推測だけど、味が足りないとか」
「そんなことありませんよ。咲夜さんのご飯は美味しいです」
じっと彼女の緑色の瞳を見つめる。しっかりと見返してくる。嘘を言っている様子はない。
人畜無害そうな顔をしてさらっと大嘘を吐くのだから油断は出来ないけれど。
兵は詭道なりですよ、とか平時に笑顔で言ってのけるのが美鈴である。
「本当ですよ?」
「本当に?」
「いやまあこっそり自分で故郷の料理作ってたりもしますけども」
見つめ続けたらボロを出した。
むう。中華が食べたいなら言えばいいのに。作れるわよ、創作中華になるけれど。
「咲夜さん、マスタードを死ぬほど使った棒棒鶏は棒棒鶏じゃないんです」
神妙な顔で首を横に振られた。不味いわけではないのがまた悔しい、と彼女は唸る。
よくわからないけれど拘りがあるらしい。
「……あ、サンドウィッチのマスタード利き過ぎてた?」
「いやそういうわけではなくてですね」
難しい顔をされてしまった。
「あー、話戻しますけどー。経験上それほど美味しくもないですね」
「なにが?」
「人間が。ってあなたが訊いてきたんじゃないですか」
ふぅんと生返事。美味しくもない、か。人喰いといっても味覚は普通なのかしら。
そんなもの、なんだ。
「昔食べてみたけど、美味しくなかったわ」
「あはは、そりゃ咲夜さんは人間ですもの。人喰いじゃないと」
そういえば私は人間だった。
十六夜咲夜は人間で――彼女の食料である筈だった。
大して美味くはない。そう彼女は言った。なのに彼女は人喰いだ。
それは何故? 本能のようなもの? ……昔は、よく食べちゃうぞと言われた。
いつからか――言われなくなった。
「ねえ美鈴。あなたは今も人喰い?」
「ええ、私は今も人喰いです」
朗らかな笑み。それは、とても捕食対象に向けるものではないように見えた。
人喰いの理屈なんて、わからないけれど。
「あなたは私を食べてみたくならないの?」
「なりませんねぇ」
即答だった。
なにかしら。なにかのプライドが傷ついたわ。
そりゃあ肉付きが良いとは言えないけれど。
健康的な身体をしている美鈴と比べると、正反対の病的な痩身。
手足など針金のようだと自分でも思う。美味しそうでは、ないだろう。
だから彼女が食べたくない、というのは理解出来ることではあるが――
「咲夜さんを食べたら、きっと私は死んじゃいます」
――理解出来るからこそ、その言葉は理解出来なかった。
食いでがない、美味くなさそう、という理由だったらまだわかる。
なのに食べたら死ぬ? 食べるという時点で反撃はないと仮定してるだろうし……
死後の私が彼女を殺すと? 器用であると自負できるがそんな真似までは流石に出来ないと思う。
「……一応毒はないつもりだけど」
「毒のある人間って見たことないですねぇ」
ああ毒手の使い手とかは別ですけどと注釈が入った。
その注釈はいらない。そんな特殊な人間自体見たことないわ。
毒でもないなら何なのかしら。食われた後に彼女を殺すなんて芸当は出来ない。
妖怪ならそういう真似も出来るかもしれないが私は人間だ。彼女の捕食対象である。
人間を食べる、という前提がある以上どうやっても殺せないと思うのだけど。
とっかかりさえ見えない難問だ。どう考えればいいのかさえわからない。
ただ、ただ――関係ないのかもしれないけれど、何かがひっかかる。
彼女が私を食べると言わなくなったのは、いつだったか。ある日突然言い出さなくなった。
それは、憶えてる。いきなり言わなくなった。完全に捕食対象から外された。
……なんで、そういうことになったんだっけ?
思い出せ。きっと答えはそこにある。私が彼女を殺せる理由。
わけのわからない謎かけの答え。思い出せ。あれは、確か私が……
「咲夜さんは、きっととても美味しいんでしょうね」
声に、知らず俯いていた私は顔を上げる。
美鈴は微笑んでいた。
――美味しい? この、貧相な身体が?
美鈴のような健康的なふとももとかならまだわかるけど、この針金染みた手足が?
平気な顔で、大嘘を吐く美鈴。でも、彼女の翡翠の瞳は嘘でない色を示していた。
ますますわけがわからなくなったのに、何故か……私の心は落ちついてしまった。
答えなんて欠片も見えていないのに、安心して、しまった。
微笑みを――浮かべられるほど。
「不味過ぎて、死んじゃうのかもしれないわよ」
「それはないですね。絶対咲夜さんは美味しいですよ」
いやに自信満々ね? 外れた時の失望が大きいわよ。
彼女の隣に並ぶ形で塀に背を預ける。そのまま雑談を続けた。
「それは経験から? それとも推測?」
「推測、になるんでしょうね。根拠となる経験は無いもので」
「それなのにああも言い切ったわけ? 自信家なのね」
「然程でもないんですが……まあ、これだけは譲れません」
でも、と彼女は笑う。
「実は私、美味しい人間を食べたことがないんですけどね」
「へえ? あなた、結構長生きしてるんでしょうに」
「だから長生きできたんですよ」
笑ったまま。私も、彼女も。
だけど、空気が変わったのを察する。
雑談は終わったと、空気が語っていた。
「――だから、の意味がわからないわ」
笑ったまま私は問いかける。
「美味しい人間を食べてないから、長生きできたということです」
笑ったまま彼女は答える。
「一番美味しい人間っていうのは、その人食いが一番大好きな人間のことなんです」
人喰いの理屈。
私にはわからない。
「多分、そんな美味しいのを食べちゃったら他のが食べれなくなりますね」
わからないなりに噛み砕いて――記憶を手繰り寄せる。
彼女が私を食べると言わなくなったあの日。
「……だから、長生き」
美鈴と何かを話した、あの日の記憶。
「はい。私はまだ一番美味しい人間を食べてません。まだ死にたくないから食べたくもありません」
「食べたら――死んじゃうから」
「はい。私はこれでもグルメでして、一度いいものを食べたら忘れられないんですよ」
彼女は笑みを深める。
「だから、きっと私は死んじゃいます」
かちりと、全てのピースが音を立てて組み合わさった。
遠い昔、約束をした。
あれは私が紅魔館に来てそれ程経っていない頃。
有象無象ばかりの使用人の中でただ一人毛色が違っていた妖怪に出会った。
程なく私たちは友人になり、そして――――約束を、した。
あの日から、彼女は冗談でも私を食べるなんて、言わなくなったのだ。
自然、笑みが零れる。
あんな拙い約束を未だに守っている彼女が可笑しくてたまらなかった。
あの頃は――まだ、子供だった。子供同然だった。だから気楽にそんな約束をしたのだろう。
子供の約束だ。事実、今の今まで忘れてしまっていたのだから。
彼女の律儀さには、頭を下げざるを得ないわ。
「憶えてたんだ」
呆れた声で告げれば、
「当然です」
誠実な声で返される。
それには流石に、返す言葉も見つからない。
約束の確認を、なんて恥ずかしくて出来ないし。
「何年経っても忘れませんよ」
追い打ちか。やるわね美鈴。もう何にも言えなくなっちゃったわ。
十六夜咲夜の完敗よ。
諸手を上げて降参を示そうかとも思ったけれど、茶化すようで悪いと思い直す。
仕事もあるしもう中に戻ろうか。逃げ出すようで、格好悪いけれど。
塀から背を離し歩き出す。
横目で彼女の笑顔を見てしまう。
彼女の口が開くのを見てしまう。
「咲夜さん」
それは聞いてはいけない言葉。
「もしあなたが死んだら、私が食べてあげます」
文字通りの、殺し文句だった。
ああ、彼女は本当に約束を憶えていた。
きっと一言一句違わずに憶えているのだろう。
思い出した私も、それは同じだけど。
交わした約束。
それは短い誓約の言葉だった。
『死が二人を別つとも、その先にて再会の約束を』
確実に、人喰いらしく、後を追ってくれるなんて。
今思えば酷い約束だ。子供らしい無邪気な毒塗れ。
足を止める。少しだけ振り返って、笑顔を彼女に向ける。
「私の血肉はお嬢様のものだけど」
人食いの理屈はわからない。
けれど。
「――心臓くらいはあなたにあげるわ」
きっとそこが一番美味しいだろうから。
「光栄です」
踵を返す。門を潜る。
私の目にはもう紅魔館しか映らない。
彼女の目には館の外しか映らない。
背中合わせに言葉を交わして一時の別れを。
「それじゃ」
「はい。また後で」
そして、再会の約束を。
つかず離れず、でも心の中では大切に思っている。そんな二人が好きです。
大好きな相手を自分の一部にできるなんて素晴らしいですね。
落ち着いた雰囲気でとても良かったです。
美鈴と咲夜の絶妙な距離感と言い、さり気ない表現から伝う二人の絆があまりにも素敵過ぎました。素晴らしかったです
スラスラと読める点も含め文句なしの100点
咲夜さんは美鈴が死ぬことを望むのか、美鈴は死ぬのか
興味がつきません
読んだら凄く良かったです。
なんと爽やかで口当たりのいい甘さなんだ。
見た瞬間、鳥肌が立ちました。(もちろんいい意味で)
さすがは紅魔館の誇る門番よ。
生き方が
めーさくほのぼのします~
おもしろかったですよ~
しかも最後に。
なんというビターな甘さ。
しかしこの最後の甘さ通り越した想いの現れ、グッときます。