貴方は、自分のしていることの理由を考えるために、そして、なぜ自分が疑問を抱いているかを考えるために立ち止まってはならない。
大事なことは疑問を持つことを止めないことだ。
好奇心はそれだけで存在意義がある。
人は永遠や人生や驚くべき現実の構造における神秘について考えを寄せようとすれば必ず畏怖の念に囚われてしまう。
毎日この神秘のほんの僅かでも理解しようと努めれば、それで十分なのである。
聖なる好奇心を失うな。
成功する人間より価値のある人間になろうと努めよ。
一
ヒロシゲは私を乗せて西へ走る。音もなく、揺れもなく、ただひたすら西に走る。
スクリーンには東海道の宿場町が十分な光量で以って映し出されていた。
こうまで明るいと時間の感覚が失せてしまいそうで困る。と言っても、それもあと十分程の辛抱なのだけれど。
「やれやれ」
一人呟き缶ビールをコクリと一口。高校を出てから一ヶ月くらいしか経ってないんだけれど、なんだかやけに最近はお酒を飲んでばかりいる気がする。まぁいっか。大学生と言えばきっと四捨五入すればそれなりに一人前と呼ばれる類の生き物の筈だ。問題は無い。もっとも、正式には私はまだ大学生じゃあないのだけど、そんな事実はきっと誤差の範囲内よね。
シートに軽く頭を預ける。
地上では茜色と藍色の比率が1:1となっている頃だろうか。
文学の世界ではその様を黄昏と表現してしまうらしい。
「……やれやれ」
やっぱり、スクリーンに映し出されている光景がどうにも眩し過ぎる。
私は溜息と共にそっと目をつむった。
地元を出たのはおおよそ一時間前のことである。
言っちゃあなんだが私は頭が良い。普通の人間が軽く引いてしまうくらいには頭が良い。
五歳の頃に覚えた四則演算は、今では五桁同士のものくらいなら息をするよりも簡単にできる。
義務教育を終える頃には大体の教養は脳に刻み込んでしまっていた。
だから高校はほとんど遊びに行っていたようなもので、けどそれも結局学校側が「勿体無い」とか言い出したせいで一年しかいられなかった。
まぁ、大検とか入試とか、そんなのはクリアするだけなら楽だったんだけど、……正直、そんなに急いで私を大学なんかに送り出してほしくないと思ったのが本音だ。
大学に所属したところではたして何が見つかるというのか。
便利な計算機扱いの末に下らない学位を手に入れたところでそれが何になるというのか。
おそらくきっと、金や社会的地位にはなるんだろう。
けれどそんなものに魅力を感じるかどうかと問われれば、ねぇ?
そういうのよりも、たった一度の人生なんだから、バカみたいな冒険をしてみたいと思うじゃない。
なんて言ったって、地元ではどうにも賛同を得られなかったもので、だからこそ私は今こうしてヒロシゲのシートに身を沈めているわけなのだが。
まったく。誰も彼も本当に、用意されたレールってやつがそんなに羨ましいものなのかしら。
私としては勉強なんて放り投げて飛んだり跳ねたりする毎日を送る方がよっぽど羨ましいしそっちの方が十六歳の女子としてはいたって普通だと本心から思うんだけどねぇ。
とかなんとか捻くれたことを言っちゃう私だけれど、幸いにして親に殴られることなんてなかったし駅まで見送りに来てくれる友達も結構いてくれてたりするので自身が不幸せだとは絶対に思わない。というかこんな環境下で“誰にも分かってもらえない不幸なワタシ”を演じようものなら確実にバチが下ってしまうだろう。
私は幸せだ。
恵まれた環境で生まれ育ち生きてきた。
そんなことは分かっている。
考えるまでもなく分かっているんだ。
「――まもなく、酉京都駅に着きます。皆さま、お忘れ物など御座いませんようお確かめの上――」
車内に響いたアナウンスに呼応して目を開けるとスクリーンには静かなスタッフロールが流れていた。
周囲を見渡せば東京からの仕事帰りであろうスーツ姿の者達がいそいそと荷物を纏めている。慌ただしいことである。
自分はと言えば別段作業をしていたわけでもないのでバッグを開く必要性はゼロ。
片付けるものなどは……、あぁ、一つだけあったか。
「さてさて。新天地はいかがなものかしらね」
缶に残っていたビールを勢い良く喉へと流し込み、私はバッグに手をかけた。
酉京都駅はとにかくスーツ姿の人間が多い。
そもそもこの駅は東京と京都を繋ぐためだけに作られたものだし、それに今は丁度仕事上がりの者が会社から出てくる時間でもあるから当然のことだとは分かっているが、しかしこうも大人でごった返した空間というものはどうにも息が詰まりそうで苦手だ。
「――ふぅ!」
雑多な人込みをくぐり抜けてようやく出口へと至る。
そうして風の吹く方向へと目を向ければ、
そこにはこれまで見たことのなかった街の風景が広がっていた。
空が広い。
それがまず最初に浮かんだ感想であった。
東京には多く立ち並んでいた高層ビルというものが、この街には存在していないのである。
……なるほど。霊都、という呼称がピッタリくる景色と言えるわね。
太古から残る碁盤格子の街の造形。空と山を見せるように背を低くし、そのかわりに地下へと根を張り蠢く建造物達。それでいて古風とも近代的とも言える不思議な光を灯す、なんとも言えない冥く涼やかな空気。
心なしか心臓が鳴るペースが速くなっていることに気付き、私は少しだけ笑って、
そして夜に染まりゆく空を見た。
「時刻は18時4分26秒。現在地は、京都府京都市下京区、酉京都駅」
私の眼はこの霊都でも快調に働いてくれているようだ。
ひとまずは安心、といったところかな。
この眼とも随分付き合いが長いなぁと、少ししみじみと思う。
星を見て現在時刻を、月を見て現在地を割り出すこの素敵な眼。
最初にこの眼の力を意識したのは小学校に入ったくらいの頃だったっけ。
まぁ、大した仕掛けなどがあるわけでもなく実際のところは、ただ昔から星を見ながら計算式を解いていたら自然と相対距離及び時間を算出できるようになっただけなのだろうと今の私は考えているわけだが。
でも、まるで魔法が宿っているかのように思えてしかたなくて、子供の頃からこの眼はずっと私の一番の宝物であり続けている。
今でもこの眼のことだけは誰にも内緒だ。
本当はもう一つ宝物、というか大切な思い出の品があったりするのだが、まぁこれを気に入っていることは家族も知っているから。それじゃあ真の宝物とは言えないわ。
「なんてね。我ながら子供っぽい考えが過ぎるかしら……っと、ここかな」
我が眼に思いを寄せて幾ばくか、気付けば私はこれからの住処となるマンスリーマンションに辿り着いていた。
心持ち急ぎ足で部屋の前まで行き、そして扉に付属してあるデバイスにケータイから個人情報を送信すれば、
カチリ、という鍵の開く気持ちの良い音が鳴った。
お邪魔しまーす――って言うのは変か。
なんにせよ突撃あるのみだ。
うん。データ通りの良い部屋だわ。匂いも好み。我ながら良い物件を見つけられたものね。
んーと? 昨日送った荷物はちゃんと全部届けられてるわね。電気は、オッケー。それに水も……、よし。ちゃんと通ってる。良きかな良きかな。
不備も無く電気も水も使える部屋に遠方からやってきた女子が一人。
となればまずは、
「お風呂でしょっ」
掛けていたショルダーバッグはひとまず部屋の真ん中に置いて、私はバスルームへと向かった。
「んぅ」
満杯にまでためたお湯にザブンと身を鎮めると無意識に声が出てしまった。
私も歳をとったものだなぁ。
約42℃のお湯が約0.59W/(m・K)の熱伝導率で私の身体を幸せにしてくれる。口まで湯船に浸かって呼気を放出するのも悪くない。ぶくぶく。無意味だけどさ。でもこの自由な感触はなんとも心地の良いものじゃないの。
そう、私は今現在とても自由なのだ。
なんと言ったってかの有名な一人暮らしという状況に置かれているのだから。
一人暮らし。あぁ素晴らしき一人暮らしなのである。
ん? 一人、暮らし?
あ。やべ。
そっか。
お風呂上りにすぐご飯が出る環境じゃないんだ。
……完璧にハイテンションが判断能力を塗り潰していたわ。
勢いで風呂に入ってしまったが、よくよく考えなくてもこれはかなり大きな失敗である。いやマジで、今日の晩御飯はどうするんだよ私。
新生活初日からコンビニ弁当とか?
えぇー……。
「いや、まぁ、しょうがないんだけどさぁ」
顔を上げて一人呟くと響くエコーが不思議な感触を私の耳に届けた。
なんというか、
なんというかさぁ。
こうして、ドキドキとかワクワクを無為にして妥協してコンビニ弁当食べながら大学に通って適当に単位取ってそれなりに友達とか彼氏とか作って。
そういう風にして一生に一度の“なにか”が流れていくのって。
なんというか、さぁ。
「それとも私がただ夢を見過ぎているだけなのかしらね」
エコーはただ湯気の中に消えていくだけ。
月も見えず星も見えず。
脳にはただ私のパーソナルスペースが視覚情報として送られてくるのみであった。
「ふぅ」
まぶたを下ろして再び湯船に口まで浸かる。
目を凝らした時に見えるものが煌びやかな希望なのか緩やかな絶望なのか。
今はそれをはっきりと知りたくない。
そんな気分なのだ。
現実逃避?
別に良いじゃないのよ。
目を開けながら夢を見続けるのってそれなりに疲れることなんだから。
ぶくぶく。
二
「――で、あるからして、この歴史深き学府たるK大学に入学された諸君は相応の責務と誇りを持って学徒としての道を歩み、かつ目的地だけではなく脇道に咲く花の美しさにも目を向けることが大切なのであると私は諸君らに――」
なんでどこのお偉いさんも挨拶ってのはこんなにも無駄に長くするのかしら。もしかして突かれたくないトコロを誤魔化す為のテクニックだったり? 学食のパスタランチは550円で間違いなかったと思うけど。
周囲を見てみれば私と同様、学長の挨拶に飽きてあくびをこらえている者が多くいた。
一応今現在行われているのはこの国の最高学府の入学式なんだけれど、……こんなものなのね。
そういえば受験の時もこんな感じの肩透かしを食らった記憶があるわ。このご時世に固有振動数を計算させるなんて出題者としては意表を突いたつもりだったんだろうけれど実際は失笑を買っただけでしょ、あれは。結局私を含め受験者の六割が取ったらしいし。
わざわざ海外から留学しに来る人も多いこの大学だけれど、正直そんな大層なところだとはどうも感じることができない。
……留学かぁ。
もしかしたら国外の大学に行っていた方が面白かったかもなぁ、と今更ながらに思う。
きっとそっちの方が未知との遭遇は多かっただろう。
「以上をもちまして、神亀23年度、K大学入学式を閉会致します」
入学初日に他大学に想いを寄せるなんて、我ながら酷いものだ。
入学式も終わり、学部・学科ガイダンスも終了。大学生としての自由な時間はここからようやく始まる。やれやれである。
度重なる長話に拘束された為か、どうも身体中が凝ってしまっているようだ。
しばらく構内を見て歩こうか。そうすればこの全身に蔓延している倦怠感も有耶無耶になったりしてくれるだろう。
学食とカフェ、生協はチェック済み。我が城となるであろう理学部棟の五号館はガイダンス後に見学し終えたし、理学部キャンパスの他の建物はどうせそう遠くない未来に回ることになるんだろうからまずは選択肢から外しておくとして、……そうだな、他の学部の様子を見に行ってみるのが良いかもしれない。下手に顔を覚えられてからでは中々入り辛くなってしまうこともあるだろう。探検するならきっと、今の内だ。
夕日を彼方に見据え、私は桜並木の下をのんびりと進む。
聞こえてくるのはサークル勧誘の声。おぉ、なんか“これぞ大学”って感じじゃない。
高校ではここまで派手な勧誘は無かったのでとても新鮮だ。
んーと? 被服部、合気道部、オカルト研究会、緋蜂対策室、ブラックマジックパーティに……秘密機関<福猫飯店>? 色々とマニアックだなぁ。っていうか理学部キャンパスにオカルト好きなり黒魔術使いなりが勧誘に来るのってかなり効率悪いと思うんだけど。
まぁ、私はサークルに入るつもりなんて無いんで素通りさせてもらうわね。
失礼します、っと。
理学部キャンパスを出れば前に見えるのは四車線のそれなりに広い道路だ。走る車の数は東京と同様、それ程多くはない。
その脇にあるのはキャンパスは勿論、コンビニだったり牛丼のチェーン店だったり。古めかしい書店や異国情緒溢れる服屋なんかもあったりして中々に見ていて楽しい並びである。
道を渡って文学部棟前の門へ。って、ここにもサークル勧誘に精を出す先輩方がいっぱいいらっしゃるわね。まぁいいや。無視無視。
……あら? 文学部って結構色んな建物持ってるのね。どこから攻めていくのが良いかしら。
ここは言語系の研究棟? じゃああっちの棟は哲学系? ちょっと分からないなぁ。
とりあえず進んで行ってみようか。
なんて思って一歩を踏み出し、そしてなんとなく顔を横に向けて中庭を見ると、
そこには虚空を見上げる金色の髪の女の子がいた。
不意に息の吸い方を忘れた。
茜色に染まりつつある若草の上で髪に手をやりながらどこかを見ているその女の子があまりに綺麗で、それでいて人外の生き物じみた薄気味の悪い雰囲気を放っているようにも感じられて、私の身体は反射的にサイクルをこなせなくなってしまったのだ。
外国の子だからか、あどけない表情というよりはとても整えられた顔かたちをしていて美しいと思えるも、なぜだろう、どこか可愛らしいと感じられる要素も持ち合わせているように見える。大人と子供の境界に佇んでいるような、そんな不可思議な優美さを有したまま彼女は風になびかれていた。歳はきっと一般的な大学一年生と同様の18か19くらいか。もしかしたら私と同じく飛び級をしている可能性もある。となると私の一つ上、17歳だろうか。
いやそんなことはどうでも良い。
何より私が気になったのは、彼女の眼の静けさである。
どこか、限り無く遠い、遥か彼方を見ているようなあの静かな眼が、やけに私の心をざわつかせる。
あんなところで彼女はいったい何を見ているんだ?
「What's the matter?」
気付けば私は彼女に声をかけていた。
「――――…………私に声をかけられたのです?」
やけに反応が鈍い子だなぁ。
というか、日本語話せたのね。
「そう、私が話しかけたのはあなたね。こんばんは。で? こんなところであなたは何を見ていたのかしら?」
矢継ぎ早に言葉を撃ち出してしまったのはきっと心臓のリズムに自然と合わせてしまったからだろう。
戦略の練り込まれていない、あまりに短絡的な行動であることに心中で舌打ちをひとつ。
でもまぁそれを言ったら彼女に声をかけちゃったところから衝動に駆られ過ぎたと評さざるを得ないわけで。
こうなったら後は本能に任せてガンガンいくしかないでしょう。
「……ふむ」
しかし彼女はそんな私の勢いをまるで無視してゆっくりと驚きその後ゆっくりとなにかを納得したような仕草を見せる。
んん? やっぱりこの子、日本語が不得手なのかしら?
「あぁ、言語についての配慮は不要です。私、京都に来て今年でもう三年ですので」
なんだそれなら良かった。
京都歴が三年ということはもしかして三回生の人なのだろうか。それとも入学以前から京都に住んでいたということ?
まぁ良い。そんな下らないことを知りたいわけじゃない。
……今、心を読まれた気もするけど、それもこの際は後回しだ。
「それなら良かった。じゃあ、質問には答えられる筈よね?」
「勿論ですわ」
言って、
「私が見ていたのは、あれです」
彼女が指を向けた先には、
「空?」
夕刻の広い空があるだけであった。
「……えぇ、そうです。この時刻の空って、なんとも形容し難い色を見せるじゃないですか」
恥ずかしがるように笑って言の葉は紡がれた。
「橙色と藍色の中間。昼と夜のない交ぜ。私は思わずそんなものに眼を奪われてしまったのです。ただそれだけ、ですよ」
……なにかの暗喩か?
いやだがしかし、見上げる空には彼女の言う通り形容し難い感じの色がただ在るだけで他にはなにも見当たらない。
なんだ? 彼女はいったい何を言っている?
「随分とロマンチックなものの言い方をするわね。レイリー散乱、の一語で片付けるのは無粋なことかしら」
「レイリー? ごめんなさい、知らない言葉です。私、科学の分野には疎くて」
「あらそう。まぁこっちのキャンパスの人間には馴染みが薄いかもね。要するに太陽の光も簡単にバラバラになっちゃうってことよ」
「そうなのですか。勉強になります」
うーん?
それとも私が穿った見方をしているだけで、実際は彼女がただの不思議ちゃんであるだけ、なのだろうか。
むぅ。この宇佐見蓮子に明確な解を出させないとは。
「そろそろ、風が冷たくなってきましたね」
いったい何者なんだ彼女は。
「おもしろいもので、古き頃の日本人はこの時間帯を誰そ彼と言い表したと聞きます。その言い回しに則れば、この色の下では正体を不明としておく方が風雅なのかもしれませんね」
またも心を読まれた気がする。
不思議ちゃんどころじゃない。彼女はまさか、妖怪なのでは? もしくは宇宙人? エスパー?
なぜだか分からないが、私には目の前の生き物がそんな途方もない存在であるように思えてならない。
理屈もなにもあったものではないが、
しかし、彼女は――
「では、私はこれで失礼します」
一礼をし、くるりと背を向ける。
そして遠ざかっていく金色。
待て、と声をあげるべきだと理性が主張していた。
彼女を逃してはならない。たとえ逃さざるを得ないとしても、もっと情報を、最低でも名前くらいは。そんな思考が閃く。
けれども私の本能はその意見に対して頷くことはなかった。
勘が囁いたのだ。
「これ以上進んでは後戻りができなくなる」と。
“後戻りができなくなる”?
私は今、そんなことを恐れたのか?
そんなツマラナイことに恐れをなして私は今前に進めなかったというのか?
のうのうと日常の内に刺激を求めるだけの生活を送っていていざ“なにか”に触れようという時には怯んでしまう、
口先では捻くれた風に世を酷評する癖に、自分の理解を超えたものに遭遇してしまった時には足のすくみを止めることもできない、
そんな、
そんなただの子供だというのか。
私は。
「……誰が子供よ、誰が」
苛立ちを振り切る為に空を仰ぐも、星はまだ見えてはいなかった。
三
あの金髪の子との邂逅から丁度一週間が経った。
昨日まではガイダンスばかりだった講義も今日からは内容に言及したものとなる。
というか現在進行形で天文学の概論がモニター前の壮年の教授によって説明されていたりする。
資料を提示しながらもそれに頼るだけではなくちゃんと自分の口で噛み砕いた説明をしようとするのはなかなか素晴らしい。きっとあの人は良き教育者なのだろう。
周囲を見回してみるとしっかりと教科書を購入しそしてノートにペンを走らせている学生がほとんどであった。
……皆、ちゃんとしてるなぁ。
私はと言えば、ここ最近は金髪のあの子の情報を追い求めるばかりで、教科書はおろかノートの購入にも手を着けていなかった。
まぁ、前期はどうせ基礎の課程ばかり。
問題は無いでしょう。
目下の事案はやっぱり金髪のあの子、
マエリベリー・ハーンのことである。
あの日からずっと学内を探し回っているのだが、彼女の姿は一度として見かけていない。
ガイダンスが主となる一週目の授業には顔を出すつもりは無いようだ、という情報はつい昨日彼女と同じゼミを取っている子に聞いた話。その子にしたってマエリベリー・ハーンに関して詳しいわけではなかったが、一応の学内における情報は得られた。
名前はマエリベリー・ハーン。
文学部心理学研究室相対性精神学専攻の一年生。
留学試験ではなく一般入試で入学してきた、元からの京都府民らしい。
後はまぁ、「いつもぼーっと変なところを見てる」なり「あまり人と一緒にいるところを見たことが無い」なりというアレな情報も得ることができた。
そもそも相対性精神学というマニアックなものを専攻している時点で重度の変人と判断されてしまうこのご時世である。
それに加えてあの意味不明な言動と魔性に近しい容貌。
周囲の者に距離を取られてしまうのも仕方ないだろうなぁと、しみじみと思う。
かく言う私だって彼女は気持ち悪いと……、いやいや、それは別にどうだっていい。
「――では今回は初回ということでここまでにしておきましょう。次回は二章の最後までいくので、皆さん、振り落とされずにちゃんと付いて来て下さいね?」
おお。チャイム前に講義を終わらせてくれるだなんて、やっぱりあの教授は出来た人に違いない。
取り扱う内容はこれといって目新しいものじゃないけど、この講義は毎週出席してみてもいいかもしれないなぁ。
っと、そんなことは置いといて。
只今の時刻は14時ちょうど。
四コマは空きコマで、次の授業は五コマの16時20分から。
今大事なのは二時間以上の自由時間が存在するというこの事実である。
今日から授業が本格的に始まっている。ならばつまり、マエリベリー・ハーンも今日からは学校に来ているはず。
調べによると今日は二コマに心理学の専門基礎が入っている。普通に考えれば彼女はその講義を受けるために登校しているだろう。そしてそのまま三コマや四コマに他の授業を取っている可能性は大きいと思われる。
アテは無いが、しかししらみつぶしに教室を覗いていけばかなりの確率で彼女を見つけることができるのでは。
この宇佐見蓮子、押されっぱなしのままでのうのうと日常生活を送る程プライドの値が小さい人間ではないのである。
勢い良く教室から出る。
さて、ひとまず向かうは第一教養棟が妥当――
「きゃっ!?」
「っとぉ!?」
――ものすっごい衝撃。
赤色の人間が曲がり角の先からとんでもないスピードで突っ込んできたのだ。
周囲に舞い散らばるのは書類の数々。その中で尻もちをついている赤い人間、
いや、そのような仮称は不要か。
なぜなら私は彼女が誰であるかを知っているのだから。
私に限ったことではない。この大学で彼女の名前を知らない者は誰ひとりとしていないと思われる。
「なによ! あなたも私の論にいちゃもんをつけたいのかしら! 誰が相手だろうと私は絶対に引かないわよ!」
国際物理学会の夢幻伝説、論壇を駆ける赤い彗星、ミス・ストロベリークライシス、etc.
呼び名は数多なれど指す名前はただ一つ。
「魔力は確かに存在するのよ!」
岡崎夢美教授、その人である。
「ええと、別に私は教授に敵対する意思はないですよ?」
「だったら! ぶつかっておいて謝罪の一つもないのはおかしいとは思わないの!」
「そうですね。失礼しました。ごめんなさい」
「お、おぉぅ……!」
なるほど。噂通り、かなり残念な人間だ。
「ったくもー。何してるんだよご主人様」
そこに降ったのは快活な声。
水兵さんのような服を可愛らしくデコレーションして着こなす、男の子のような口調が特徴的な、岡崎教授に次ぐこの大学の有名人。
北白河ちゆり助教授だ。
「お? 誰かと思えば宇佐見じゃん」
ふむ。確か私と北白河助教授、更に言えば岡崎教授が顔を合わせるのはこれが初めての筈だが。
「どうして私の名前を?」
「おいおい、くだらない質問をするなよ。この学部で天才ルーキー宇佐見蓮子の名前を知らないヤツなんてそうそういないぜ。自分でも分かってるだろそれくらい」
「……ま、一応の通過儀礼として、ですよ。でも北白河助教授には無用のものでしたね。すみませんでした」
「別に謝らなくてもいいっつーの。ってか謝るのはむしろこっちの方だし。ごめんな。うちのご主人様、頭良い癖にバカでさ」
「聞こえているわよ、ちゆり!」
ポカリと拳骨が一発。おおう見事なコントだ。やるわね。
流石は18歳にして世界が注目する十研究者に選ばれた岡崎教授と、若干15歳でその研究の全面サポートを行う北白河助教授だ。
なんというか、肝の座り方のレベルが一般人とはかけ離れてる。
具体的には今現在のことね。
「痛いじゃねーか……って、おぉ? ご主人様、なんかまた無駄に注目を浴びてるぜ?」
「あら本当。まだ三限は終わっていないはずだけどこれはいったい」
「概論の授業が今日は早めに終わったんですよ。それで、まぁ」
「なるほど。田村先生の仕業なのね。おのれ」
「おのれじゃないっつーの。ほらご主人様、こんな書類なんかさっさと片付けてお茶でも飲みにいこう」
いつの間にやら、そこらじゅうに散らばっていたはずの書類は全て北白河助教授の手の中で一つの束へと戻っていた。
「あぁそうだ宇佐見。お前には迷惑をかけたことだし、陳謝代わりにお茶の一杯でも飲ませてやるぜ。どうせ四コマまでは予定も無いだろ?」
――は?
「コラちゆり。せっかくの師弟水入らずの空間になんだってこんなちんちくりんを混入させないといけないのよ」
そ、そうだ。良いぞミス・ストロベリークライシス。
どういうお考えがあるのかは知らないけど、今の私にはコントに付き合うだけの余裕なんて無いんだ。
用があるのはマエリベリー・ハーンただ一人なのである。
さっさと解放してくれ。
「別に良いじゃねーかよー。いつものティータイムにたまにはスパイスを一つまみ加えるくらい別に大層なことでもなんでもないだろー?」
「ダメよ。コイツに飲ませるだなんて、我がストロベリーティーの無駄遣いとしか言いようがないわ」
「北白河助教授、岡崎教授もこう言っていることですし。それに私、申し訳ないのですけれどフレーバーティーの類は得意じゃないんですよ。ですので」
「ちょっと。ちゆりの淹れる茶に不満があるというのあなたは。その見当違いの趣向、矯正してあげるわ」
えっ。
「ほらどうしたの、さっさと付いて来なさい。物怖じでもしたのかしら?」
なに今の方向転換っぷり。寒気がしたんだけど。
なんと言うか、この人が正真正銘の問題児として扱われるのも納得だわ。
誰かこの人に常識って単語を辞書で引かせてあげてよ。
「あぁそういえば、さっきは騒ぎたてて悪かったわね。謝らせなさい、宇佐見」
面倒なのに捕まっちゃったなぁ。
「そういえば自己紹介が遅れたわね。私は岡崎夢美。天才よ」
「知ってます」
紙一重ってね。
この手のタイプの部屋がハチャメチャに散らかっているものだと思っていたのだけど、そんな私の予想に反して通されたラボは本も機材もスッキリと整頓されていてとても綺麗であった。
きっと北白河助教授が頑張っているんだろうな。
「私も自己紹介がまだでしたね。理学部理学科物理学研究室超統一物理学専攻、宇佐見蓮子です」
「ん、なに? あなたウチの生徒だったの?」
「……ご主人様、覚えてないのかよ。先週、我らが物理学研究室に凄い奴が入ってきたって私言ったじゃん」
「そうだった?」
「そうだった!」
まぁ、彼女が私のことを知らないのもしょうがないことだろう。所詮私は入学して一週間の一年生だし、直接顔を合わせたのもこれが初めてだし、なによりこの人アレだし。
改めて見る。
理学部理学科物理学研究室教授、岡崎夢美。
超統一物理学の世界に身を置きながらも「この世には統一原理では説明できない“魔力”という力が存在している」という「非統一魔法世界論」なるものを主張し出した紛うこと無き変人。
しかし18という歳で高品質の論文をポンポンと仕上げ、そして教授として高い位置に立っている彼女だ。
天才と言い表すことに決して誇張は存在しない。
表情も、そのことを自覚しているからだろう、自信と英気に満ちた笑顔がとてもサマになっている。
純白のブラウスに真っ赤なベストと真っ赤なロングスカートを合わせ、そして真っ赤な髪を結って腰まで流すというド派手な格好も常軌を逸した実力者かつ変人である彼女にはとても良く似合っている気がした。
「で、宇佐見? 我が研究室に来たということは、あなたも魔力に興味を持っているということよね?」
いや、え?
別にそういうことはないんですけど。
この人は話が突飛なものとなりすぎる傾向があるな。
「なんだその顔は。レーザーで額に“肉”とでも書いてやろうか」
怖いなぁもう。
「まったく、誰も彼も超大統一理論なんかに浮かれて……。200年も前にロバート・カーシュナーの発見した第五の力を無視するなど私には到底できないわ。ましてや、その真なる正体に手をかけた私を笑い者にするなんて失笑を超えて怒りの感情しか生まれないわね」
「むう? 第五の力とは、いわゆるダークエネルギーのことですか?」
「マイケル・ターナーはそのように称していたわね。けどそれは過去の名称。今は岡崎夢美が魔力であると提唱しているのよ。覚えておきなさい」
「はぁ」
「なによその顔は」
「生まれつきのものですよ。ご容赦を」
「ふん。生意気な子ね」
「二人ともなにガン飛ばしあってるんだよ。ホラ、ちゆり様特製ストロベリーティーでも飲んで落ち着け」
言って、北白河助教授はテーブルの上にティーセットを乗せたトレーを置いた。
赤い液体が満杯まで入った透明なティーポットとコロコロとした角砂糖が幾粒も収められている透明なシュガーポット。そして温められた白磁のカップとソーサーが三組。それぞれに銀色のティースプーンを添えて。
それらが淀みない手つきで配置され、
そして静かな音を立てて紅茶が注がれていく。
上品な苺の香りが私の鼻をくすぐった。
「ありがとうございます、北白河助教授」
「これくらいで礼は要らんよ。誰かさんのお世話をしてる内に茶を淹れることくらい苦労の内に入らなくなっちまったんでね。さて、ところで宇佐見」
北白河助教授はそっと私の後ろにまわって、
「動くな」
私の首筋に鋭利で冷たい金属を丁寧に押し当てた。
「これは小さくても必殺の武器だ。逆らわないほうが身の為だぜ」
目の前に置いてあるティーカップに指をかけ、口元まで運び、そして軽くすする。
美味しい。紅茶の深みと苺の新鮮な甘酸っぱさが見事に調和してとても上品な味わいに仕上がっている。これまで飲んできたフレーバーティーにあった作りものっぽい味は少しも感じられない。良い茶葉を使っているのが大きな理由なのだろうが、しかしそれ以上に北白河助教授の淹れ方が良いことがこの味の最大の要因だろうと私はなんとなく思った。
うーん、でもやっぱり、
「北白河助教授、とても素敵なお茶なのですが、申し訳ありません。私の子供舌にはもう少しマイルドで甘口なものの方が好みです」
「おう」
「ですので、角砂糖を入れたいのですが、宜しいですかね?」
「まったく。つまらんヤツだぜ」
そして私は首筋にあてられていたティースプーンを右手で掴んだ。
北白河助教授は「やれやれ」と一言だけ呟いて自分の席に座り、
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
「だって、この方がおもしろいじゃん」
岡崎教授の拳骨を食らっていた。
……この二人、観客がいようといまいと、こんなコントをずっとやってるんだろうなぁ。
「おー痛て……っと、悪かったな宇佐見。意地悪しちゃってさ」
「このくらいで気を悪くしたりはしませんよ。しかし、なぜ?」
「“なぜ?”ねぇ。それは何に対しての疑問だ?」
「今の悪戯をした理由、及び北白河助教授が私を茶会に招待した理由の二点について、ですね」
「うん、まぁ、合格としてやるか。褒美として疑問に答えてあげるよ。まずは後者、ここに招待した理由からな」
岡崎教授はもう私に対しての興味を失ったのか、はたまた紅茶に夢中なのか、目を閉じてただティーカップを傾けるだけだった。
それを横目に北白河助教授はクスリと笑い、そんな笑顔のまま、少しも気負うことなくサラリと言葉を放つ。
「お前がマエリベリー・ハーンを追っている理由が知りたかったから」
「マエリベリー・ハーンを知っているんですか!?」
声を荒げテーブルに手を叩きつけるとソーサーが高い音を出して揺れた。
そんな空気振動の中にあっても岡崎教授は目をつむって紅茶を飲むだけで、そして北白河助教授は笑顔のままで。
「質問に質問で返すのはなしだ。で? お前とマエリベリー・ハーンはどんな関係なんだ? やけにご執心のようだが」
……声を荒げるだけで押し通るのは流石に厳しいか。
聞きたいことは山ほどある。しかし、まずはこちらから開示した方が得策だろう。
そもそもこちらはそんなに有用な情報を持っているわけではないのだから、まず損は無い筈。
ここは素直に乗ってあげよう。
「関係も何もありません。ただ、一度彼女と話したことがあるだけです」
「ふうん? どうしてそれだけでアイツのことを気にかけるんだ?」
「それは、勘、としか言いようがありませんね。“彼女は私達には見えない何かを見ている”と、なんとなく思っただけですよ」
「……なるほど」
先程までの笑顔を曖昧にし、北白河助教授は少しだけ困ったような表情を見せた。
そして紅茶に口をつけ、ワンテンポを置いた後、軽く言う。
「あぁ、前者の質問にも答えとくよ。あれはただのイタズラ。それだけだから気にするな」
嘘だ。
今のは十中八九、私とマエリベリー・ハーンの関係の浅さを知ったがゆえの答えであると考えられる。
おそらく先の行動には、私を試す目的があったのではないか。
それも、向けられているのがティースプーンであることに気付くかどうか、などということではなく、もっとスケールの大きななにかに対して。
例えば、私にマエリベリー・ハーンを追いかけるだけの力があるかどうか。ならばその場合の“力”とは何を意味する? 思考能力? それとも戦闘能力の類? 少し思考が飛躍しているか? いや、そんなことはない。北白河助教授の態度は表面上は普通だが、その実、慎重に何かを見極めようとしているように感じられる。そもそも彼女がマエリベリー・ハーンを気にかけている理由は? 周辺を聞き込んでいただけの私とわざわざ直接会話の席を設けた魂胆は? そこにあるのは決して浅いものではない筈。ならばどこまで深いのか。それは現状では計りきれない。であるとすれば“私の知識の届かない深いなにか”が絡み、そして蠢いている可能性は十分に考えられる。
あの時、私はマエリベリー・ハーンを、妖怪、宇宙人、エスパーなど、常軌を逸した存在であると感じた。
普通に考えればただの妄言に過ぎないことである。
しかし、今は普通に考えることが正ではない状況にあるのだ。
まさか、本当に。
笑って棄却できないその可能性。
目の前にいる彼女達は“魔力”を研究していると言う。
魔の力。
なぜそんな大仰な語を用いる?
そこに含まれるものは果たして?
その不可思議な感触は、
それの意味するところは、
「マエリベリー・ハーンは魔力を有している?」
私の言葉が中空に消えるのと北白河助教授が私に小銃を突きつけるのはまったく同じタイミングだった。
特異な形状である。しかし、形が若干違うだけでそれは私が記憶する限り小銃と呼ばれるものに相違無い。
それが私の身体に照準を合わせている。
私の命を貫こうとしている。
刹那、背筋に氷が這ったかのような寒気が走り、頭の中がフラッシュして熱くなるのを感じた。
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
私も北白河助教授も動きを止めた空間で、ただ一人岡崎教授だけは態度を変えぬまま佇む。
「念には念を、だよ。ご主人様」
「わざわざ騒ぎを起こすことのどこが念押しなのやら」
「大丈夫だ。一週間死体を隠し通すくらい朝飯前だぜ」
「ちゆり。私がやめろと言っているのを聞けないのかしら? あなたも随分と生意気になったものね」
「……チッ」
銃が下ろされる。同時に、私は胸を撫で下ろした。
いけないいけない。流石に踏み込み過ぎたか。
だがしかし、これで私がマエリベリー・ハーンに対して抱いた不可思議な感覚がただの気のせいではないことは証明されたと言って良いだろう。
やはり彼女には、“なにか”ある。
「悪かったわね宇佐見。現在私達の研究が大詰めを迎えていてね。それで少しちゆりは神経質になっているようなの。大目に見てあげてくれないかしら」
「……その研究の内容を聞くのはマズイですかね?」
「ふふっ。いやいや宇佐見。あなた、おもしろいわね。ちゆりの評価はさておき私はあなたを気に入ったわ」
「はぁ、ありがとうございます。それで、研究の内容とは?」
「焦らないの。成果を表す段になれば、あなたにも見せてあげるから」
「ご主人様!」
北白河助教授が声を荒げるたのに被さる様にして、三コマの終了を知らせるチャイムが学内に鳴り響いた。
「良いタイミングね。そろそろ行きなさい、宇佐見。ハーンを探すんでしょう?」
はたして何が岡崎教授の琴線に触れたのだろうか。
いつのまにか彼女がこちらに向ける表情には随分な量の喜色が含まれていた。
……なにか気に入られるようなこと言ったっけなぁ。少なくとも、故意には言っていないのだけれど。
まぁ、なにはともあれ成果としては上等だろう。
そもそもが命あっての物種。
それに加えてかなり重要な情報を得られたし、そして岡崎教授とのパイプも作ることができた。
マエリベリー・ハーンの捜索時間を30分犠牲にしただけの価値はあったと言える。
「それでは私はこれで。ご馳走様でした」
「面白いものを見せられる時が来たらこちらから連絡するわ。首を延ばして待っていなさい」
「はい、分かりました」
自室に着いた時には時計の針は既に21時を超えていた。
結局今日もマエリベリー・ハーンに会うことはできなかった。
四コマの時間には文系の一回生が出席しそうな授業のあらかたを見回ったのだが、それでも姿を見ることすらできなかったのだ。
今日の戦果は岡崎教授の研究室での一件で得られたものだけ。
……それだけでもかなりのものなんだから、悔やむことなんてないか。
魔力。
魔力、かぁ。
幼いころは、私はそういうファンタジックなものが大好きだった。
いつだっけ。それが幻想のものだと悟っちゃったのは。
ドキドキを、ワクワクを、未知なるものを求める為に勉強すれば勉強する程強固な現実が私の視界の前に打ち建てられていくのを感じて。
いつだっけ。
それが当たり前だと思ってしまうようになったのは。
魔法なんて本当は無いのだと気付いてしまったのは。
けれど、あの人は。岡崎教授は。きっと私以上に頭が良い筈なのに、そういったものを一心不乱に追い求めていて。
胸の奥が温かくなって、そして少しだけ冷えた。
あぁ。
私は今なにを思ってるんだろう。
私は今どこに行きたいんだろう。
ちっとも言語化できる気がしない。
「……寝よ」
そして私はベッドの上で目を閉じた。
四
「お、宇佐見じゃん」
「げっ」
あの岡崎ラボでの緊張から23時間後。つまりは今。学内のカフェにてマエリベリー・ハーン捜索のスケジュールを練っていた私に北白河助教授が声をかけてきた。
「お前、“げっ”は無いだろ、“げっ”は」
そしてドカリと私の前の席に腰をかける。
「なにか私に用ですか?」
いくらなんでもこの場で私を亡き者にするつもりは無いと思うが。
いやいやしかしこの人と岡崎教授の狙いは私にも分からない。
さて、どうする……?
「あー、そう構えるなよ。私はただお昼を食べに来ただけだぜ。嘘じゃない。でまぁ、店内を見れば丁度お前さんがいたわけだから、ついでに昨日のことを謝っておこうと思ってな」
昨日のことを、……謝る?
「昨日はすまなかったな。私が熱くなり過ぎた。この通りだ」
感慨深さを言葉に乗せて、そして北白河助教授は頭を下げた。
「私達の研究は本当に秘密裏のものでさ。誰にも知られちゃいけないんだ。だから、つい」
え、えーと? 昨日は本気で私を永遠に黙らせようとしていた彼女が一転、こんなに素直に態度を軟化させるだなんて、これはいったいどういうことだ?
「そんな変な顔をするなよ。ご主人様がお前を認めちまったんだ。なら、ブッ飛ばすなんてことは以ての外なんだよ。それだけだ」
顔を上げ、気恥ずかしそうにそっぽを向いて北白河助教授は言う。
その表情、いや、その目は、
「もしかして、岡崎教授に叱られたんです?」
やけに腫れぼったくて、疲れが浮き出ていて。
「……うるせー」
雑踏にかき消える声でそれだけ呟き、北白河助教授は遠くを歩く店員に向かって手を挙げた。
北白河助教授が注文したのは季節限定のプロシュート・パスタ。1000円也。もちろん合成物なのだが、それでも1000円で食べられることが信じられないレベルの美味を誇る生ハムが何枚も重ねられた、今月のカフェの意欲メニューである。
対して私が注文したのは200円のブレンドコーヒー。自動販売機で買うものよりも少しだけ美味しいわね? なんて思える程度の嗜好品だ。
「なんだ? もっと栄養になるもの頼めよ。保たないぞそんなんじゃ」
テーブル上で展開される圧倒的経済格差が妬ましい。くっそう、実際は私の方が年上なのに。これが助教授の力か。
だいたい、私はもう昼食は食べたのだ。食後に一人で思考運動をしていたのだ。そこを勘違いしてもらっては困る。断じて私は貧乏などではない。
「そうそう。ご主人様からお前さんに招待状だ。一週間後の今日、26時に文学部の中庭に来いってさ」
もそもそとパスタを頬張りながらお誘いの言葉はなんでもないことのように投げ掛けられた。
コーヒーカップに伸ばした手を止める。
今の言葉は決して軽いものではない。
北白河助教授があんなとんでもない強硬手段にまで出た程の価値のある研究の成果のお披露目、なのだろうと推察される。
果たしてそこで行われるのはなんなのか。
……それは行ってみないことには分からないか。
それよりも今、というか昨日から気になっていることが一つある。
「岡崎教授は、どうして私を気に入られたのでしょうか」
昨日のティータイムの瞬間まで彼女は私に対して毛ほども興味を持っていなかった、とは言わずとも一杯のストロベリーティーよりも存在価値が劣っていたことは確実だ。それが、北白河助教授とのドタバタの間になぜか彼女は私の評価を上げていた。しかも自身のトップシークレットを開示する程の高いレベルで。
いったい、なぜ?
あの瞬間に私が彼女の興味を引くほどまでの活躍を見せたとは到底考えられない。やったことと言えば深部に足を踏み入れて射殺されかけたことくらい。街まで降りてきた猪みたいなものである。笑われこそすれ、高評価を得ることはないと思われるのだが。
「まぁ、うん。ご主人様だからなぁ」
困った様子を偽装して北白河助教授は幸せそうに笑った。
「お前さんも、やっぱりあの人の言動にはビビっちゃうものかい?」
「驚かないと言えば嘘になります」
「ふぅん? 困ってるなら私から断っておいてやろうか。恐怖の対象でしかない者に付き合うのは苦痛だろ」
「恐怖の対象でしかない、というのは誤解です。あの方は無類の実力を以ってして突飛な研究を進めている。それに対して湧くのは恐怖ではなく興味ですよ。なので一週間後のお誘いは、私はしっかりと受けさせて頂きます」
「そっか」
辞令の飛び交う最中も笑顔は絶やされることなく、そんな状況の中でパスタは容量を減らしていくばかり。
フォークがクルクルと回転して小粋なパスタが螺旋を描く。
私はコーヒーを一口すすった。
「あの人はもしかしたら、私よりもお前を弟子にしたいと考えてるかもしれないな」
そして北白河助教授は「悔しいぜ」と軽く呟く。
柔らかな笑みはそのままで。
「分かりませんね。なぜ私にそこまでの評価が?」
「簡単さ。お前とご主人様には共通項がある。“頭が良い癖にバカ”という、な」
「はぐらかさないでください。それとも、私はただ馬鹿にされているだけ、ということです?」
「なに言ってるんだ。ご主人様と肩を並べることのできる人間が地球上に何人いると思う。ウダウダ言わず、素直にこの高評価を反芻しろ」
「お断りします」
「本当に生意気なヤツだなお前は」
眉尻を下げて、少女が笑った。
「……あの人はもしかしたら、私よりもお前を弟子にしたいと考えてるかもしれないなぁ」
先程紡がれたばかりの台詞が、今度は少しばかりの感傷を上乗せして発せられる。
どこか寂しそうな、それでいて一つまみの熱をまぶしたようなその顔は、秘匿の研究に魂を捧げる助教授のものじゃない。
15歳の、ひとりの女の子の顔。
私よりも一つ年下の、なんてことない、悩み多き思春期のアレコレを有した顔。
それだけだった。
時計の針が止まった気がしたけれどそれが気のせいであろうことは理解している。
ただ、どうしてそんな気がしたのかは、私にはなんとも分からない。
コーヒーの香りが揺れる。
窓の向こうで行ったり来たりする学生達。
ミドルテンポのジャズが店内に流れていて。
「北白河助教授はどうして岡崎教授に付き従っているんですか?」
ふと言葉は浮かんだ。
それに対して北白河助教授は「んー」と軽く唸る。
今ならきっと本音を言ってくれるだろうな、と私は確信めいた思いを持っていた。
偽りなく答えてくれるならもっと意義のある質問をぶつけるべきだったかという考えが現れたけどそれは0.2秒で破棄。実用書が小説よりも有意義かどうかなんて考察することじゃないだろう。
「そうだなぁ」
目の前の少女はそう呟き、そしてパスタをフォークでクルクル巻いて口に入れモグモグモグモグと噛んでゴクンと飲み込みそのまま勢い良く水の入ったグラスも喉へと流し込んで息を軽く吐いて、
「うん」と頷き、
「それは、乙女の秘密だぜ」
花が揺れるように、笑って言った。
五
夜天の下の京。
灯る数多の光の粒はまるで宝石のように見えて。
伝統とテクノロジーとたくさんの人間が詰め込まれたこの地は一種の宝石箱なのかも、と思って「それはないわ」と一人で即座に却下する。
この街にある全てのものがキラキラしているわけじゃない。
つまらないもの、汚いもの、そんなものだっていっぱい存在しているこの街だ。
それを指して宝石箱だなんて言えるのは小学生までだろう。
パンドラの箱。
そう例えるのはどうだろうか。
その内に込められ、咆哮の日を待ち侘びているのは数多の災い。
そしてそれらの奥の奥に存在する最後の一欠片。
それは人々が将来に何が起きてしまうかを知ってしまう「予兆」という名の災厄である、と主張する学説もあれば蔓延してしまった災厄に耐えうることを可能とした「希望」であると言う学説もある。
なんとも不安定な話だ。
「君子危うきに近寄らず」、「触らぬ神に祟りなし」。こういった古来よりの訓示を知っている者ならば近付かないことは当然。箱の中に在るのは猫か蛇か。開けてみなくては分からず、開けてしまっては致命的な状況に陥る可能性だってある事柄だ。
けれど、私ならきっと開ける。
開けないとおもしろいことなんて起きないから。
箱の外部データを幾らこねくり回したところでドキドキもワクワクも得られないことを知っているから。
それはきっと岡崎教授もそうだろう。
というか、彼女は現在進行形で箱の中に飛び込もうとしているわけで。
なるほど。
“頭が良い癖にバカ”、か。
確かにそれは否定できないわね。
そんな私の内実を岡崎教授は買ってくれたのか。はたまた単に同族を見つけて嬉しくなっただけか。
そのあたりの詳しいところは分からないけれど、
結果として私は今宵彼女の傍に立つことを許されたわけだ。
“パンドラ”とは、“全てを与えられた者”という意だ。
才能も安寧も与えられた彼女が好奇心の赴くままに災厄の箱に手をかけてしまったということは、はたしてどういうことだろう。
後世の人間に過ぎた好奇心は災いの元であることを教えるための訓示か。
それとも。
「遅せーぞ宇佐見。私ら二人からのとびっきりの誘いに15分も遅れるとは大層なご身分じゃねーか」
「こんばんは北白河助教授。正確には13分6秒の遅刻、ですね」
「良い度胸だ。これは小さくても必殺の」
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
深夜のキャンパスに拳骨の音が響いた。
「こんばんは、岡崎教授」
「こんばんは。よく来てくれたわ」
「いえいえ、お招きいただきありがとうございます。ところで」
電灯は淡く輝き、周囲を囲む研究棟からはポツポツと窓から光が漏れている。そして月が今宵はとても大きい。そんな薄い明かりのカーテンを纏いながら、
「この巨大な物体はなんなんですか」
ソレは広い中庭を占拠していた。
「これは今宵のナイフとフォーク。可能性空間移動船よ」
可能性空間……移動船!?
「まさか、パラレルワールドとの行き来ができるというのですか!」
「この岡崎夢美が冗談でそんなことを言うとでも?」
「あ、いや。でも、そんな……」
可能性空間。分かりやすく言えば「私達ってこういう状態になってたこともあるよね」なんて想像が現実となっている世界である。ザックリと言ってしまえばパラレルワールドのことだ。
そのような世界が無限に存在することは周知のことであるが、
そこに、移動することができる船、だと?
馬鹿な。そんなことはおいそれと信じられない。どう少なく見積もっても2、3世紀は先の技術だ。
そんなものが……。
「とても信じられない、といった顔ね? そんなに自分の脳に収められていない事柄が疑わしいかしら」
「……はい。可能性空間を移動する船だなんて、いきなり言われても額面通りに受け取ることはとてもできません」
「ふふっ。まぁ、そうよね」
岡崎教授はなぜか嬉しそうに笑った。
「ならば実際に私達がこれに乗って可能性空間へと赴き、そして帰還したらあなたも信じてくれるかしら」
「なっ!?」
まさか、既にこれは実動も可能だというのか!
「先程言ったばかりでしょう。この船はナイフとフォーク。これを使っての今宵のメインディッシュは、可能性空間への渡航よ」
本気、なのだろう。
岡崎教授の常軌を逸した頭脳が彼女特有の突飛な精神の下で全力疾走をすれば可能性空間へ赴くことができる装置を作り出すこともできる、かもしれない。
いや、いやいやいや、冷静になれ、私。
落ち着いて考えてみろ。
いくら彼女でも、そこまでのことを可能とできるか?
可能性空間への渡航。
いくら稀代の天才とは言え流石に分の悪い賭けなのでは。
それは国家レベルの巨大な組織が途方もない年月をかけてようやく完成することのできる装置が必要となる行いなのである。
もし失敗すればその先にあるのは確実な消滅。
そしておそらく失敗の可能性は十分に考えられる程度に存在する。いくら彼女が天才的発想を行ったとしてもそのアウトプットがどれ程しっかりと行えているのか。
少なくとも、学界から追放された学者が個人で作るものでは決してない。
ましてや、実動させるなんて。
「ねぇ宇佐見。今が何時何分かは分かる?」
「え? っと、2時20分ジャストです」
「なら、その10分後の時刻は?」
「2時30分です」
「その答えじゃあ30点。正解は、丑三つ時よ」
丑三つ時。
丑の刻を四分割した際の三番目の時刻。正確には午前2時から午前2時30分を指す。時刻の表し方としては古めかしく、なかなかにアバウトなものだ。
……マエリベリー・ハーンが夕刻を誰そ彼と称したのに、ちょっと似ているわね。
で、それがいったい何だというのだろう。
「知らないかしら。丑三つ時というのは、この世ならざる世界への扉の鍵が最も緩くなる時間なのよ」
……何を言っている?
そんな迷信が物理学者たる彼女になんの影響を及ぼすというのか。
「そんな顔をしないの。これは正しい事柄なのよ。学会の連中は信じなかったけどね。――ちゆり」
「あいあい」
どこか苦笑交じりといった様子で北白河助教授は岡崎教授の背にマントをかけた。
そして、
「刮目しなさい」
岡崎教授は月へと腕を差し向けて、パチンと指を鳴らした。
その刹那、紫電の如き爆音が大気を薙ぎ払い、
苺の色をした閃光が夜空を十字に切り裂いた。
閃光は拡散することなく上空に佇み、十字架にも似たその鮮烈な姿をあますところなく世界に誇示し続けていた。
その十字の中心部に“ひび”が発生して、
空に、少しずつ、扉が開かれるかのように、それは広がっていって、
そこで私はようやく気付いた。
あの何も無かった筈の上空の、今は異常の中心地となっているところは――
「――マエリベリー・ハーンが見ていた空間……」
ここは文学部棟横の中庭。
それはつまり、あの日、私とマエリベリー・ハーンが言葉を交わした場所。
あの日、マエリベリー・ハーンが視線を向けていたのは。
「元々この中庭は微弱ながらも魔力が収束する場所だった。それはあの光の中心にある結界の隙間から魔力が零れ落ちていたから。そんなポイントで結界への干渉が最も近しくなるこの丑三つ時に我が研究の完成形である科学魔法を発動させれば、このとおりよ」
波動を放ち続ける赤い十字架を頭上にして両手を広げ、岡崎教授は笑った。
あたかも世界征服に乗り出した魔王のように。
「ん。予定通りだ。結界への干渉はあと7分30秒で最大値まで達する見込みだぜ、ご主人様?」
「よろしい。では、そろそろ搭乗しましょうか」
不敵な笑顔をそのままに、岡崎教授は仰々しくマントをひるがえし船へと身体を向けた。
と、その時。
「しばしのお別れね、宇佐見」
こちらを背にしたままで岡崎教授は言葉を紡ぎ始めた。
「もしあなたがもう少し早く来てくれてたら色々と可能性世界移動の理論を教えてあげてあげられたかもしれないけれど、しょうがないわね。興味が湧いたのなら自分で調べなさい」
風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ中で岡崎教授の声はなぜか明瞭に私の耳へと届く。
船の横では北白河助教授が急かすような仕草をしようとしながらそれを実行できずに中途半端な姿勢のままこちらに身体を向けていた。
遠くにいるから詳しくは分からないが、なんとなく慈しみの色を携えた目でこちらを見ているように感じられて。
「岡崎教授」
生じたのは私の声。
「なぜあなたは、こんなとんでもないことに身を投じるんですか?」
まったくの無意識に言葉は心から零れていた。
「分かっている者に対してわざわざ解答を与えるのは趣味じゃないのだけれど、まぁ今は特別ということにしてあげようかしら」
勢いをつけて岡崎教授はこちらに身体ごと振り向いた。
「分かってなんていません。これは、私の純粋な疑問なのです。あなた程の力を有している方ならばわざわざこんな危険に踏み込む必要性なんてない。もっと安全なアプローチもあるでしょう。いや、もっと別の生き方だってできる筈です。あなたには選択肢なんて星の数ほどある筈。もっと安全かつ有意義な生き方だってできる筈! なのに、どうしてこんな!」
「宇佐見」
どうしてだか私は声を強く張り詰めさせていた。
疑問が、そして不可解が溢れ出るのを止められない
どうして。
「目を背けるな。宇佐見」
どうして彼女はこんな幸せそうな顔で笑っているんだ。
「あなただって分かっている筈でしょう。最大の幸福というのは」
どうして彼女はこんなに強い表情をしているんだ!
「自身の心に素直になることなのよ」
上空で赤い稲光が激しくスパークした。
十字架の中心は歪な空間の片鱗を映し出している。
周囲の研究室から光がチカチカと点灯するのが確認できた。
「もう一度言うわ。目を背けるな、宇佐見」
そして彼女は轟音の閃く赤い夜の中で、はっきりと笑って言った。
「嘘や言い訳は捨てて自分の心に素直になりなさい。自分の心を騙して生きる人生なんて、絶対につまらない筈なのだから」
「ご主人様! もう限界だ! 乗ってくれ!」
船のデッキから北白河助教授が大声で叫ぶ。
その声に呼応して、岡崎教授は比喩でなく一足飛びで船へと飛び乗った。
「そうそう! 私達が向こうに行ってる間のラボの掃除はあなたに頼むわね! 帰って来た時に我が城が廃墟になっていた暁には特別レポート三万字を課すから!」
最高値に達しようとするエネルギーの真下で岡崎教授は言い放った。
私はただ、立っていることしかできなかった。
「それじゃあ行ってくるわね!」
そしてデッキは閉じられて、
船は芝生上からその巨体を浮上させ、
赤い十字架の中心地へと移動し、
電光がいっそう強く瞬いたその時、
夜空を見ていた私の眼が、
2時30分という時間を認識した。
そしてその夜最大の衝撃波がキャンパスを撃ち貫いた。
爆発した膨大なエネルギーの直撃を受けて吹き飛ばされた私が顔を上げたその時には、船も、十字架も、扉も、なにもかもが消え、いつも通りの夜が元通りに佇んでいるだけであった。
「成功、したの?」
月と星だけが在る夜の空を見ながら呟くと、
「結界の境目が消失したことは確かです。それが何を意味するかは、私には分かりません」
隣に立っていた少女は静かに答えた。
マエリベリー・ハーンがそこにいた。
「いったい、なにがどうなってるのよ!」
大声で問い詰める。
けれど目の前の少女は困ったように笑うばかりで。
「それは私の台詞ですよ。貴女達はいったいどうやってあの結界をこじ開けたのですか。あれ程のサイズの境目なんて見たことがありません」
しかし、こちらの事情を伺おうとしてくる言葉には隠す気の無い真剣味が存在していた。
どうやら彼女もこの事態に困惑しているようである。
しかしそれは私とは異なり、全くの意味不明な事態が生じたが故の驚きではなく、ある程度の枠を捉えていたが故にそれを超えた事態に動揺している、といった風だ。
“あれ程のサイズの境目なんて見たことがありません”。
それはつまり小規模のああいった事象のものは見たことがあるということに他ならない。
しかし、今のこの様子。
岡崎教授の研究には一切関係していなかったことは明らかである。
――周囲に騒音が生じ始めた。
あのような異常事態がキャンパスの中で生じたのである。構内に残って作業をしていた者達が野次馬として出てくるのも、そして警察に通報されるのも、自然な流れと言えるだろう。
「どうやら今宵はここまで、ですね」
騒音を一瞥しながら静かに呟き、金色の少女は背を向けた。
「待ちなさい! こんなのじゃあ何も分からないじゃない!」
去りゆく背に叫びかける。
振り向くことなくクスクスと金色は揺れて、
「私もですよ。世の中は、難しいことばかりです」
優雅な苦笑が為されて、
「あなたはいったい何者なの!!」
こちらがいっそう強く声を上げたとしても、
「理不尽が嫌いなだけのただの学生ですよ」
ゆらりと躱されるだけで、
そして流れるように夜の闇の中へと彼女は消える
「マエリベリー・ハーン!!」
瞬間、私は彼女の名を叫んだ。
「首を洗って待っていなさい! 今度はこちらがあなたを驚かせてあげるわ!」
一瞬だけこちらに振り向いた顔には、思った通りの苦笑が滲んでいたけれど、
それでも彼女は確かに笑っていた。
余裕を見せつけるように。
自分が隔絶した位置にいることを思い知るように。
けれども、なにかを楽しみにするように。
六
明けない夜は無いので朝が来てそして当然昼が来る。
昨夜にあんなことがあったので授業に出る気なんて起こる筈もなかった。
けれど私は理学部棟をカツカツと歩く。
それは偏に“私達が向こうに行ってる間のラボの掃除はあなたに頼むわね”という岡崎教授の大声があったから。
あの極限状態でどうして彼女はそんなことを叫んだのか。
もちろん彼女の吹っ飛んだ思考の為せる離れ業と解釈するのが一番妥当なのだけれど、しかし、どうにも私の勘はその答えを良しとはしなかった。
無性に気になる。
掃除をする気なんてもちろん欠片も無い。ただなんとなく、心の向くままに私は岡崎教授のラボへ足を運んでいた。
「最大の幸福は自分の心に素直になること、ってね」
扉に付属してあるデバイスにケータイから個人情報を送信すれば、
カチリ、という鍵の開く気持ちの良い音が鳴った。
ま、このくらいは想定の範囲内だわ。
問題はこの先。はたして私のデータで扉が開くように設定されていたのは単に掃除をさせる為か、それとも?
扉を開ける。
内部は以前見たよりもいくぶん物が減ったようではあるが、おおよそ変わりはなかった。
可能性空間への旅路に持ち出していったものがそれなりにある、というだけだろう。
向こうで何をするつもりかは気になるが、それはそれ。今は脇に置くべき考えかしらね。
無くなったものに気をかけなければ、眼前に広がるのは整理整頓の為されたデータや書籍が並ぶどこにでもあるラボのそれである。
いや、それは違うか。
どこにでもあるラボにはこんなティータイムの為の茶器や机、本格志向の茶葉なんて無いのが普通だ。
インスタントのものならまだしも、ここまでのものをラボに置くだなんて物珍しいと言ってしまっても……
……?
ストロベリーティーにこうまで傾倒をしている岡崎教授が、はたしてティーセット一式を置いて旅に出るものだろうか。
食器棚には茶器どころか茶葉もそのまま残っていて、
「ん?」
そしてそこには一枚、赤色のメッセージカードも存在していた。
“掃除せよ。されば与えられん”
はいはい左様で。
軽く笑って私は悠々とその指示通りに掃除用具の収められた棚を開く。赤いメッセージカードは右手に持ったままで。
簡易ミスリル製の棚の中にはクリーナーやダスターの類いがこれまたしっかりと整理されており、そして棚の内壁の上方奥には、なぜだか赤い着色がなされたモルタル加工の部位が在った。
その面積は右手に掴むカードと一致する。
そんなわけでメッセージカードとモルタル部を接着させると、棚の横に位置していた壁が開いた。
……いやいや。
あたかもなんでもない風に、なんて改造をしてるのよ。
壁の向こうってペンウッド教授のラボだったはずだけれど、これ、大丈夫なのかしら。
開いた壁の先には、これまでの小奇麗な部屋から一転、機器や資料が30メートル四方のそこら中に散らばる雑然とした研究スペースが広がっていた。
これは……、六次元だか七次元だかの方向に空間位相がズレてる、ということなのかしら。
なんとも、本当になんとも大層な仕掛けである。まるでお伽話の世界みたいだ。
まぁ、これならペンウッド教授に迷惑をかけることにはなっていないだろう。たぶんだけど。
というか、
「本当に常識外れの技術ね」
別の世界へと赴くことのできる装置を開発したのならば高次元干渉なんてお手の物、だということは分かってはいるけれど、でもそれだって理論上の話で。実際に次元を弄って隠し部屋を作るなんてもっと未来にならなければ実現できない仕掛けである筈だ。
それを、あんな当たり前のメッセージカードをキーにして発生させるだなんて、まったくもってとんでもない話である。
そしてそれはこの隠し部屋の構造だけに限らない。
部屋の内部に置かれた機器はどれもこれもまったく用途が見えない複雑なものばかりだ。また、随所に重ねられた書類や資料の類いもオカルトと見間違うが如き異色の論が非常に高レベルな計算と実験、そして考察を用いて書き連ねられている。試しに一冊の手書き資料を手に取ってみるも、……ダメだ、読んで三秒で未知の式にぶつかってしまう。まるで手も足も出ない。たった一冊で判断するのは尚早か、と考えてその隣に積まれていた書を取ってみれば中にはびっしりと達筆? な筆文字が延々と続いていた。江戸時代の書物、おそらくは民俗学もしくは風俗の纏め、である気はするがこれも詳しい解読はまるでできる気がしない。
全てに理解が追い付かない。
言っちゃあなんだが私は頭が良い。普通の人間が軽く引いてしまうくらいには頭が良い。
五歳の頃に覚えた四則演算は、今では五桁同士のものくらいなら息をするよりも簡単にできる。
幼い頃から天才だの化け物だと言われ続け、それを無理に否定する必要性を感じない程度には自分でもそれを事実と捉えていた。
まるでレベルが違う。
本当の天才とは、本物の化け物とは、彼女、岡崎教授のような存在を指すのだ。
それに比べたら私なんかは石ころも良いとこ。
なんとちっぽけな存在であることか。
胸中に冷たい風が吹き流れていくのを感じた。
これまでそこには堅固な城の如きプライドがその姿を立ち誇っていた筈。
けれどいまやそれはただの古い石造りの物体としか認識できない。
鮮烈な輝きを放つ星に比べれば地にあるものは外観が整っていようとサイズが大きかろうとはたまた粗雑な代物だろうと違いなんて見受けられないのだ。
五十歩百歩。
常人よりも五十歩先を歩んでいるからといって、そんなことは天から見下ろせば笑えてくるほどに差なんて無いのである。
あぁ、本当に笑えてくるわね。
所詮私は調子付いていただけのただの子供だった、ってことだ。
滑稽ったらありゃしないわ。
不可思議が乱立する空間で私は一人、薄汚れた床に腰を下ろした。
夜空に浮かぶ巨大な月が偽物であることを私は知っていた。
隣を飛ぶマエリベリー・ハーンがそう教えてくれたからだ。
けれど眠りを邪魔された私にはどうだっていいことである。
しきたりと共に生きる我が心身はなんとも無気力な様相で。
紅白の装束は飛翔と旋回運動により揺れるもそれも微細で。
こんなに省エネルギーで生きるのってどうよ、と思ったり。
髪を伸ばすのも結構おもしろいなぁ、とも思ったり。
流れる夜と弾はロマンチックな様相をしている。
月だけじゃなく星だってとても目に眩しい。
なんとも輝きに満ちた一晩である。
緊張感が無いとも思えるけど。
でも、それでもこの景色は
あぁ、綺麗だなぁと
純粋に羨ましく
思ったんだ
私は
。
それが夢であるということは夕刻のチャイムが教えてくれた。
空の色からしてそれが五コマ終了の音色であったことは明らか。
あぁ、完全に今日はサボっちゃったわ。
いや、うん。それは別にそんなに気にすることじゃないか。一日サボるくらい大学生なら普通のことだろうし。
そんなことよりも、
今の夢は
なぜだか普通ではない印象を受けたのだけれど
いったいなんだったんだろうか。
もしかしたら可能性空間の私とマエリベリー・ハーンの姿だったのかしら?
なんてね。それは流石に乱暴な考えだわ。
私は決してあんな無関心キャラじゃないし、隣で飛んでたあの少女もマエリベリー・ハーンとは似て異なる者であった気がする。あそこまで強力に歪んで厄介な者は私の記憶の中には一人もいない。
じゃああの夢はなんなんだろう、と少しは思わなくもないけれど、結論としてはあれは
ただの夢であるってだけのことは理解している。
それ以上でも以下でもない。
夢分析なんて古典を実行する気も起きない。
ただの夢だ。
けど。
「綺麗だったなぁ」
弾幕を抜け夜を飛び越えるあの感覚はなんとも気持ち良く、そして流れる景色は非常に綺麗だと私は心から思った。
夢のよう。という語はああいうものを指すのか、と一人で頷く。
隣で飛翔するマエリベリー・ハーン似の少女の存在も、厄介と思いつつもそこまで面倒なものではなかった。むしろ――
「――ん?」
隣に積まれた書類を偶然視界に入れるとそれは見えた。
『マエリベリー・ハーンに関する最終報告』
文字だけで小ざっぱりと打ち出された資料がそこにあった。
「ふむ」
手に取らない理由は無い。
マエリベリー・ハーンに関する最終報告
ポイントAの最大結界乖離点の存在を視認していると考えられるマエリベリー・ハーンであるが、結界以外の魔力保有体には反応を示すことはなく、また、EKを用いて試験的に結界の様態を1メートルの範囲に拡張した際も特別な動きは見られなかった。距離50の位置から計測した際のMPは105とカテゴリーAの数値を維持してはいるもののその数値は過去三回の同様の計測にて5以上の変動をしたことはなく誤差の範囲を超える消費がなされていない。以上のこととこれまでの観測結果からマエリベリー・ハーンは結界を視認することができる以外の特筆すべき能力は有していないのではないかと推察できる。よって警戒レベルはC2へと変更し、MP変動の見られた際に対応を行い、それ以外の状態では特別の接触は必要ではないと判断する。
「マエリベリー・ハーンは結界を視認することができる……」
理解しきれない記述もあった中で私が留意したのはその点である。
ほとんど分かっていたことではあるが、これで確定。彼女があの日見ていたのは夕方の空ではなくそこに存在した結界であったのだ。
結界。
オカルトや都市伝説の類いではよく出てくる単語ではある。
世界を隔てる壁であるという説もあれば単に心霊スポットの俗称でもあったりするソレが、本当に存在しているという事実。
今更疑うことは無い。
超常現象を私はこの眼でハッキリと見てしまっているのだ。
この世には私の理解がまるで及ばない不可思議な現象が、おそらくは深部まで、そして広大に存在しているのだろう。
胸の奥で火の灯る音がした。
「この世には私の理解がまるで及ばない不可思議な現象が、おそらくは深部まで、そして広大に存在しているのだろう……」
口に出して言ってみる。
これは、
これは、とても素晴らしいことなんじゃないだろうか。
魔法なんて現実には存在しないと諦めていた私の心を根本から覆す事実なんじゃないか。
歩を進める理由にこそなれ、膝を屈する理由になんてならない事実なんじゃないのか。
城の上空で輝く星は綺麗だ。
屋上まで昇ったのなら、眼下の景色に目を遣るのではなく、天に広がる星空にこそ焦点を合わせたい。
などと自分が考えていることに気付く。
でも、そうでしょう。
私がこんなところまでやって来たのはきっと、何にも遮られていないそのままの星空を見たかったから。
ちょっと前まではビルとかガスとかそんなものに隠されていた星の瞬きが今はこんなにクリアに見える。
それだけでたぶん十分に幸せなことなんだろう。
もしかしたらその圧倒的な眩しさと距離を知ることで絶望をしてしまう心があるかもしれないけれど。
でも、私みたいな、奥の方でこっそりとファンタジーやロマンの存在を望んでいた人間にとっては、見上げる先に遥かな光が在ることは、そこにスモッグや電灯ばかりが見えるよりは確実に希望を感じられて。
胸中の炎がより強く燃える。
そうだ。ここは終点なんかじゃない。呆けてる場合じゃない。自身の理解のできない地に辿り着いたというこの状況は限界ではなく始まりに違いないんだ。
階段を上がり屋上に出て星を見上げ、そして決して手の届かない光の存在を知ったなら、
ならば次はロケットを作れば良いだけのこと。
こんな所で突っ立ってるだけじゃ一生光は手にできない。
ならば、手にできるところまで飛んで行けば良いだけでしょう。
幸いにも此処にはロケットを作る為の知識、技術はこの部屋にゴロゴロと転がっているわけで。
そして、向かうべき航路が見えている者が傍に存在していることも私は既に知っている。
マエリベリー・ハーン。
あなたは星々の世界に飛び込むための扉があることを知っていて、それで何を思ったの?
どうしてあなたはずっと結界を見上げていたの?
どうして、ずっと笑顔を作っていたの?
疑問は尽きない。
奥の方から笑いが込み上げてきた。
あぁ。やはり私はこういう人間なんだ。
星を見ても「綺麗だなぁ」だけじゃ決して終わらない。終われない。どうしたって手に取ってその光の内情を知りたくなる。そんな、どうしようもない人間なんだ。
傲慢と言われても否定のしようがない。
後ろ指を指されても構わない。
私は、私の好奇心を、
「絶対に誤魔化したくない」
思いを口に出し、そして両の頬を手のひらで二度叩く。
“自分の心を騙して生きる人生なんて、絶対につまらない筈なのだから”
あの時の岡崎教授の声が不意に再生された。
彼女の心情が、今なら少しだけ理解できる気がした。
学会に否定されて滲んだアイデンティティーを、きっと彼女は軸に存在する好奇心を存分に輝かせて立て直したのだろう。
そうして彼女はついに可能性空間に飛び出していったのだ。
自分の心に正直に生きて、そしてつまらなさの対極にある行いを実現させたのだ。
私も、彼女のようになれるだろうか。
彼女は18歳。私は16歳。
2年後にあれほどの高みに至れているとは流石に考え辛いけれど、
でも、
「ま、とりあえずは動き出してみますか」
ただ佇むだけ、なんてのは無し。
火はもう焚かれているのだから。
あとはもうロケットと航路を準備すればそれでオーケーなのである。
窓の外に広がる空を見上げる。
「現在時刻は18時12分47秒。今日が終わるまでの約6時間で全体像の把握くらいはしておかないとね」
はたして私はどこまで行けるのだろうか。
そんな考えが笑みとなって私の口元に現れていた。
さてさて、
まずはこっちの山から見ていきますか。
七
「ハロー」
「……こんばんは」
あの隠し部屋には数え切れない程の超有用な資料が存在していた。
例えば、マエリベリー・ハーンに関するデータファイルとか。
生年月日から入試の点数、入学までの経歴等々。
だからもちろん現在住所だって書かれていたりして。
「まさかこういう形で驚かされるとは思ってませんでした」
そんなわけで今私達が会話しているここはマエリベリー・ハーンの住むマンションの正門である。
「あら、あまり寝ていらっしゃらないようなのですが、具合はよろしいのですか?」
相変わらずこちらの心を読んだ発言をする子だ。
見抜かれた通り、あの研究室に籠り始めてから今日までの二日、私は一時間しか寝ていない。第一歩を踏み出すのにすらこんなに時間がかかってしまった。ホント、私ってば頭が悪いわ。
けれど、
「これからあなたにはきっちりと驚いてもらうんだから、人の心配をして今から余計なエネルギーを消費してしまうのはよろしくないわよ?」
行うべきことはもうしっかりと脳に収め終え、そして扱うべき物はこのショルダーバッグの中にちゃんと入っている。
「とびっきりの不思議を見に行きましょう。マエリベリー・ハーン」
しょうがないなぁ、なんて風に目の前の少女は笑みを作った。
一条戻橋。
上京区にある小さな橋だ。
その名称は撰集抄に伝えられている出来事が由来となっている。平安時代の中頃、三善清行という漢学者の葬列が橋の上を通った際にその子供の浄蔵という天台宗の僧が棺にすがり祈ると雷鳴が轟き、そして清行は生き返ったのだとか。
その他にもこの橋に纏わる逸話は多い。
安倍晴明が十二神将をこの橋の下に隠していた。斬罪に処された千利休の首が晒された。大戦中にはたくさんの兵士及びその家族が無事に戻ってくることを願うために訪れた。
そんな、あまりに多くの者が心を触れさせた、幽明の境目が曖昧と伝えられているこの橋には
結界の境目が確かに存在する、とのデータが岡崎教授の手によって纏められていた。
先に述べたように、長い年月の間その橋は“そういう場所”として在り続け、そして現代でもたくさんの人が観光に訪れ、その名は全国の人の知るところにある。なんでもそういった信仰心やそれに近しい感情が存在することで場に魔力が発生するらしい。
正直言って、よく分からない仕組みであると思う。
しかし纏められた報告書群には、もともとこの一条戻橋が岡崎教授の中では可能性世界移動の最有力候補であったことが記されていた。あの人文棟横の中庭よりも存在する魔力の値は6倍もあるとのこと。魔力の値が大きければ“結界の境目を開く”という工程において必要なコストがそれだけ小さくなり、そして安定して境目を開くことが可能なのである。圧倒的にこちらの方が可能性空間へ移動するには容易ではあるのだ。
ただ、どうしようもできない問題点が一つ。
境目はそのこじんまりとした橋に接地するように存在している。周囲には人も建物も多い。ゆえに、あの巨大な船で突撃することは実質不可能なのである。
……あの人ならもしかしたら周囲に何があっても突撃しそうではあるけれど。
しかし、結果としてはその橋以外にも文学部棟横の中庭という場に十分な大きさの境目、そして魔力が存在しているということが判明し、そうしてそこで全てを行った。
ゆえに橋に存在している結界の境目は報告書にあった状態のまま放置されている。
橋に接地した、周囲に人目のある、結界の境目。
可能性空間移動船を寄せることは不可能でも、
私達二人ならきっと――
「楽しそうですね」
隣を歩くマエリベリー・ハーンが不意に声をかけてきた。
私、さっきから一言だって喋ってないはずなんだけど。なんで読み取られちゃうのかなぁ。
見れば子供と遊ぶように彼女はクスクスと笑っている。
「……前から疑問だったんだけど、あなたはどうして心が読めるのかしら」
報告書を読む限り彼女は決して妖怪でも宇宙人でもない。結界の境界が見える以外は普通の人間と一緒の筈。
なのにどうしてこんな芸当ができるのだろうか。
「簡単ですよ。あなたは思っていることがとても表情に出やすいのです」
……は?
「昔から臨床心理学の分野には興味がありまして、外観からその人の思考内容を判断することは好きではあったのです。けどまぁ、あなた程分かりやすい方にはこれまで会ったことがありませんでしたね」
……え。
「それはつまり、えーと、私がただ幼稚なだけだった、ってこと?」
「そうは言いませんよ。ただ、可愛らしい人だなぁとは思いましたけどね」
え、えぇぇー……。
なんだそれ。さんざん不可思議を発生させていた要因が、こんな、私が子供っぽいっていうだけのことだなんて。
これ、普通に恥ずかしいんですけど……。
「いや、ですから、子供っぽいだなんて思っていませんでしたって」
「よ、読まないでよ!」
「意識せずともあなたの表情が勝手に視界に入ってくるのですからしょうがないでしょう。嫌ならばサングラスでもかけられては?」
「こんな夜にサングラスかける馬鹿がどこにいるのよ……」
はぁ。
我ながら情けない。
世の中に分からないことなんてないなんて思っていて、その実分からないことなんて普通にあって、それが結局自分の不注意から生まれていたものだなんて。
この世に生を受けて16年。結構長い時間を生きてきたと思ってたんだけど、……まだまだ、ってことなのねぇ。
まだまだ。
うん。
私はまだまだ、子供だわ。
「あなた、変わりましたね。少し大人っぽくなりました」
……まったくもう。この子は。
「皮肉は受け付けてないわ」
「いえ、今の言葉は私の本心からのものですよ」
表情を夜に溶かして、語り口は自然なままで。
「だからこそ私は今宵、あなたの誘いに乗ったのでしょう」
ふわりと金の髪は揺れた。
それから私達はいろんな話をした。
彼女の眼のこと。
私の眼のこと。
オカルト考察。
K大に入学するまでの経緯。
一人暮らしの雑務の面倒臭さ。
彼女の得意なお菓子がフランボワーズのタルトであること。
私が家の鍋の中にここ四日間カレーを押し込めていること。
彼女はスキンケアの為に毎晩死海の塩を材料としたスクラブを用いていること。
私はと言えばコンビニで買った洗顔料だけで手早く済ませてしまっていること。
彼女がオンラインの掲示板を怖がっていること。
私が一時期SNSでアイドル視されていたこと。
好きな本。
嫌いな色。
色々。
話題が尽きたわけではない。
けれど、私達は今はもう一言も喋らなくなっていた。
一条戻橋にて。
じっと静かに、夜の中に佇む。
「現在時刻、2時25分30秒」
私は上方に首を傾けて月と星を見て、
「前方20メートルの位置に、非常に大きな結界の境目があります」
彼女は前方から顔を向け結界の境目を見る。
大きな月と満天の星が輝く美しい、暖かな春の夜だった。
「行くんですか?」
雫が落ちるように彼女は言う。
「あなたを驚かせると、とびっきりの不思議を見せてあげると、私は確かに言った筈だけど?」
「そうですが、しかし、そんな意地だけでどうにかなるものでもないと思います」
「意地だけじゃないわよ。ちゃんと準備は済ませてあるわ」
「けれど」
「ねぇ」
そこに平生の笑みはなくなっていた。
夜の光に照らされた姿に得も言われぬ儚さを宿し、不安を帯びた目でこちらを見てくる。
「やっぱり、怖い?」
小さく、本当に小さく、マエリベリー・ハーンは頷いた。
ようやく私は彼女の本当の心にようやく触れることができたんだ。
彼女は妖怪でも宇宙人でもない。特殊な能力を持ってしまった只の人間でしかない。
その力に困惑したことだってあるだろう。
それを誤魔化す為にあんな態度をとっていたのかもしれない。
そうして、ただ眺めるだけの日々を、彼女はずっと。ずっと、生きてきたんだろう。
「私がこういう風に不思議なものを追っかけるようになったのにはきっかけがあってね」
自然と口が動いた。
「聞いてくれるかしら」
今度はこちらの目をしっかりと見据えて、マエリベリー・ハーンはしっかりと頷いた。
「ちょうど十年前になるわね。
私の母方の実家が博麗神社っていう小さな神社の管理をしていて、毎年行ってるんだけど、まぁ、その年も当たり前のようにそこに初詣に行ったの。
本当に寂れた、どこの街にでもありそうな小さい神社よ。この街にある神社仏閣と一緒にされちゃ困るって感じの。
祖父と祖母、叔母さんなんかは忙しそうにしてたしけれど、正直人なんて全然来ないのよ。父も母も手伝いはせずに親戚付き合いだけに勤しんでいたわ。
そういうわけで私もかなり暇だったから境内に一人でぼうっと立って星空を見ていたの。
雲がひとつも無い、澄んだ冬の星空だったわ。
そこにフラリと参拝者が二人来てね。興味深そうに色々と話し込んでいたりして、それで気になって私から話しかけてみたら、なんだかやけに私は気に入られちゃったらしくて、それで三人で結構長い間話をしたのよ。よく分からないけれど、私が二人の知り合いに似てたらしいわ。
その二人は森近霖之助と霧雨魔理沙って名前でさ。
今から思えばかなり変な人達だったわね。
実は私達は人間じゃないんだぜ、なんて台詞を堂々と言ったりするんだから。
あ、ちなみに今のは霧雨さんの言ったことよ。外見は綺麗なお姉さんなのに言葉遣いはまるで男の子のそれで、なんだかすごくおかしかったのを覚えているわ。まぁ、北白河助教授と同じ喋り方をするお姉さん、って認識でオーケーよ。北白河助教授よりも歳は上に見えたけれど、詳しいプロフィールは聞いてないから、詳しいところは分からないわね。
そう。二人の正体は結局最後まで分からなかったのよ。
どこか遠くからやってきただの、やれ魔理沙はなんで付いて来ただの、やれ私がいないと香霖はダメだの、外の世界への興味がどうだのこうだの。……私も子供だったし、変な解釈をしちゃってたんでしょうね。そのあたりはきちんと覚えてないわ。
ただ、さっきも言った通り、なぜだか私は気に入られちゃって、森近さんからおもちゃを貰ったりして。
そして霧雨さんは、空に指をスッと差し向けて、
星を一つ降らせたの。
いきなり過ぎて願い事なんて言えなかったよなぁ、
なんて言って、明るく笑って、そして私の頭をポンポンって撫でて。
精進しろよ、って言って、その後にまた笑って。
そして二人は境内から去って行った。
あの流れ星があまりにも綺麗でさ。
それで私は、この世にはなんだか凄い、魔法の様な素敵なものがあるんだろうなぁって思いこんじゃって、そうして本とか色々見るようになったり勉強もガツガツやりだすようになったのよ。
それがきっと、私の始まり。
捻くれたり遊んだりもいっぱいしたけれど、でも、
私はやっぱり、星を追っかけて、そしてこの手に掴んでみたいのよ!」
思いがけず私は声を強く放ってしまった。
けど、目の前の少女は一度たりとも目を逸らすことなく私の話を聞き続けてくれていた。
そして、ふっと笑う。
「私にはあなたのような強いモチベーションも無ければ語って聞かせられるだけの思い出もありません。子供の頃から結界の境目が見えていて、ただただそれが不思議で、けれど怖かった。私にはどうしようもないから。今だってそう。それだけです」
「大丈夫」
気が付いた時には、
「私が付いてるから」
私は彼女の右手を両手で強く握っていた。
「一緒に、行こう」
私が表情に出やすいからか、それとも彼女の感性が鋭かったからか、
彼女は躊躇いがちながらも、その言葉だけで、ゆっくりと確かに頷いた。
気になって、でも怖くて。その気持ちは私もすごく分かる。分かるよ。
でも、怖いのなら尚のこと、逃げるのはなしにしようよ。
真正面から暴いてやろうよ。
それの正体をさ。
そうじゃないときっと、気持良く笑えないよ。
ね?
右手をショルダーバッグにかけ、左手だけで彼女の右手を握る。
ギュッと、力が込められた。
天を仰ぐ。
「現在時刻、2時28分19秒」
そして私達は同時に足を前に出した。
一歩ずつ確かめるようにゆっくりと石造りの上を行く。
コツ、コツ、と。
やけに音が大きく聞こえる気がした。
「あと、10メートルです」
今更だが、私にはここまで近付いても何も見えないし感じない。
けれど、勘だけはしっかりと反応している。
すぐ近くに、とても大きなものがあると。
それが非常に危険なものであると。
盛大に警報を鳴らしていた。
マエリベリー・ハーンが足を止めた。
「あなたの右半身の前方50センチメートルに、高さ2メートル、幅20センチメートル程の境目があります」
心臓の鼓動が強く響く。
世界の全てがスローモーションになったようにゆっくりと見える。
左手からはマエリベリー・ハーンの震える心が伝播してきた。
けど、逃げない。
私はもう目を背けない。
右手をショルダーバッグの中に入れ、十年前のあの日に森近霖之助から手渡されたものを取り出す。
どこから二等分にしても必ず一色には成り得ない黒白の玉。
それが陰陽玉と呼ばれるものであることを、私は岡崎教授の実験室で知った。
膨大な資料の中でそれに対して語られていたのは「最高クラスの魔力保有体」としての高い有用性。
もちろんそれは計測機器で確かめもした。サンプルとして記されていたA1クラスの魔力保有体の平均値200を圧倒する1600という数値を叩き出したときは本当に驚いた。
岡崎教授の理論によれば、結界の緩い部分に大きな魔力をぶつけることでその接合を一気に引き剝がすらしい。
あの別れの夜に彼女が発生させた魔力値が1150であったことも私は調べた。
ならば、あの時以上に開きやすいとされているこの結界の境目にこの陰陽玉をぶつければ。
これはおもちゃなんかじゃない。本物なんだ。
はたして、これを私にくれたあの二人の正体はなんなのだろう。
……それもこれも纏めて
「全部、解き明かしてみせるわよ」
力を込めて呟き、そして、
私の目が2時29分55秒を認知した。
「いくわよ!!」
とびっきりの力を込めて陰陽玉を前方50センチメートルへと突き出した瞬間、
強烈な電光と尋常ではない風が咆哮を上げた。
暴れ狂うスパークが周囲を薙ぎ氷のように冷たい風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ。
「――っ!!」
衝撃が大き過ぎる。目を開けるのもやっとだ。やはりこれだけの魔力を直接手でぶつけるのは無茶だったか。いや、でも!
「やるしかないでしょう!!」
ここからは根性の勝負である。科学者としては語るに落ちる行いだって? 知るか!
私はここを突破する! それだけ!
吹き荒ぶ風が威力を増す。
これは、結界が少しずつでも開いていっているということだろう。
もう少し!
もう少し!!
もう少――
――マエリベリー・ハーンの左手が私の右手に重なり、陰陽玉を前方に押し込んだ。
光が世界を包んだ。
一瞬を引き延ばした、長い長いフラッシュアウトが続いて、
夢の中に迷い込んだような奇妙な浮遊感がずっと感じられて、
けれど、少しずつ輝度は低下していき、地に足の着いた感触も復活し、冷たい風が頬を撫でて彼方へと飛んでいって、
光が拡散していった先に見えてきたのは
月も星も見えない、不思議な灯りが天井を照らした緩やかな闇と、
静かに降る雪と、
そして、
古めかしい木造の橋だった。
先程まで私達は満天の星空を冠した暖かな春の夜の下で、石造りの橋の上に立っていた筈。
つまり。
「ここがパラレルワールド、ですか?」
マエリベリー・ハーンが私の左手を握ったまま、恐る恐る呟いた。
そう。
私達は、成功したのだ。
むせかえる様な古い木の臭いと容赦の無い雪の冷たさは、お世辞にもロマンチックなシチュエーションとは言えないけれど、でも、私達は本当に世界を飛び超えたんだ。
あぁ、本当にこういうことができるものなんだなぁ。
こういうのって漫画とか小説だけのものだと思ってたりもしたけれど。
そっか、
できるんだ。
できるんだなぁ。
揺らめくように視界が滲んだ。
マエリベリー・ハーンの手を離して前へと歩き出す。
「……どうかされました?」
今だけは彼女に顔を見せるわけにはいかなかった。
今日は彼女を驚かせると決めたんだ。
だから、こんなところで私が涙を流してるところなんて見られたら、本当に格好がつかない。
でもさ。
嬉しくて、
嬉しくて、
自分じゃあもう、どうしようもないんだよ。
止められないんだよ。
「ま、待って下さいよ!」
私に並ぼうとしてくるマエリベリー・ハーンの気配を読み取ってもう一歩前へ。
しばらくはここに留まっていたいと考えもしたけど、その考えは却下しておこう。
ここまで来て前に進むのをためらうなんてのもおかしい話だしね。
さて、橋の向こうにはここよりもずっと明るい光が見える。電灯の光とは趣の異なる、怪しい光を降ろした地。はたしてあちらには何があるのかしら。
行ってみれば分かることよね。
さぁ、気合を入れ直して行くとしましょうか!
「随分と楽しそうね。妬ましいわ」
声が響いた。
「さっきから見てたけれど、あなたたち、人間よね?」
雪の向こうに影が見える。
金髪の、どこかの民族衣装の様なものを着た少女が、
こちらに緑色の眼を光らせていた。
「というか、あなた達の纏っている空気からして外来の者なのかしら。それならここで取って食べちゃっても誰も文句は言ってこないでしょうけれど」
吹く風がいっそう鋭くなった気がした。
冷たい。
身体が途端に震えだす。
いったい目の前の少女はなんなんだ。
「まぁ、なんだかあなた達は誰かさん達に似てるし? 面倒事に繋がっても嫌だから、今日のところは素直に橋守の仕事に従事してあげるわ」
その誰かさん達が怠慢だからあなた達がここにいるのかしら、と思案の呟きを添えた後、こちらへと掌を向けて――
「――危ない!!」
「さっさと元の世界に帰りなさい」
マエリベリー・ハーンの手を掴んだ瞬間、とてつもない突風が叩きつけられて、
そして私達は後方へと吹き飛ばされた。
「ん、ぅ……?」
触れたのは暖かな空気。
目を開ければそこにあるのは月と星と街だった。
現在地、京都府京都市上京区一条通堀川。
現在時刻、2時30分10秒。
……やられた。
どういう方法を以ってかは分からないけれど、私達は境目の向こう側からこちら側まで押し戻されたようである。
「大丈夫ですか? ……っ、あぁ、やはり」
隣ではマエリベリー・ハーンも眼を動かして、
「境目がなくなっています」
橋の上を見て言った。
そりゃあ、そうよねぇ。
一度作用を加えた境目はすぐになくなってしまう、というのは岡崎教授の調べにもあった記述だった。現に人文棟横の境目もあの夜で消えていたのだから、それは確かなことなのだろう。
……むしろ、その境目からこちらの世界へ戻ってこられた今の状況はかなりレアなのではないだろうか。
行きだけでしか使えないと考えていた境目を私達は行きと帰りの二度通ったのだ。
もちろんそれはあの得体の知れない人物の力があってのものだけれど。
それと、先程確かめた時間はなんだ?
2時30分10秒。
その時刻が本当なら私達は10秒にも満たない時間しかあちらに行っていなかったことになる。
体感時間ではもちろんそんな筈はない。
時間の流れの差というものがなんらかの形で関わっているということか。
時空跳躍。まだまだ私の予想すらしていなかった事態は多いようだ。
私達はどこへ行くのか。
どこへ向かおうとしているのか。
ま、それを究明するのが楽しいのよ。
ヘコんでいる暇なんか無い、ってね。
「あぁ、そういえば」
「ん?」
「言い忘れていましたが、私、驚きましたよ。ここまでのことが起きるだなんて思ってもいませんでした。見事にあなたにしてやられてしまいましたね。正直、少し悔しいです」
まったく、この子は。
そんな真面目な顔で、なにをいきなり言い出しちゃうんだか。
あぁ、おかしい。おかしいったらありゃしないわ。ホントに、もう。
春の風が音も無く私達を包んで、そして彼方へと流れていった。
見上げた夜空には沢山の光が煌めいていてとっても綺麗だった。
八
あの夜に失ってしまった唯一の物は陰陽玉である。
あちら側に移った瞬間に生じた爆発によってか、それともあの謎の人物によって吹き飛ばされたことによってか。曖昧な我が記憶が情けない。が、悔やんでも仕方のないこと。陰陽玉を失ったという事実は覆しようがない。それに変わる境目を開く手段はおいおい考えていこう。調べる事柄は元々たくさんある。それに事項を一つ加えることぐらいでガタガタ言ってたらこれから先はやっていけないだろう。
まぁもっとも、あれは私の大切な思い出の品なんだから。
いつかは絶対に取り戻してみせるけどね。
現在時刻は18時9分51秒。
あの夜に得たものは沢山あったけれどその中で一番を決めるなら悩むまでもなくマエリベリー・ハーンからの信頼だ。
浮世離れしたキャラクターは相変わらずだしその癖に“向こう側”に対して恐怖を抱いているというスタンスもそのままだけれど、そんなマイナス要因を打ち消すのには十分な程に彼女の結界の境目を見る能力には有用性が存在している。
また、彼女の知識、考え方にはなかなか面白いものも多い。相対性精神学専攻の学生なのだ。きっと変な事をいっぱい勉強しているんだろう。
使える子である。
……あとはまぁ、話のノリとか妙に合うしね。
現在地は待ち合わせ場所であるカフェの真ん前。
それじゃあオープンセサミっと。
「10分の遅刻なのですけれどなにか私に言うことは?」
開扉に伴っての開口一番がこれである。なかなか彼女のキャラも垢抜けてきたものだ。
「正確には10分13秒の遅刻よ。今日は惜しかったわね、メリー」
「そんな重箱の隅を突くような言葉は求めていません。それに私の名前はマエリベリーです」
「細かいことを言わないの。良いじゃない、メリーで。マエリベリーって名前は長くて面倒なのよ」
「……もう好きにしてください」
「うん、好きにする。あ、私はブレンドコーヒーね」
あの夜から一週間が経った。
その間で私達は不可思議な現象について研究をしたり、カフェで普通にお茶をしたり。随分と共有するものが増えた。
まぁ、こんなのはまだまだ序の口だと私は思うのだけれど。
「それで、今回の呼び出しの理由は? 今日は活動を休みにすることを以前から私は希望していた筈なのですが」
「あー、明日が期限のレポートがあるんだっけ? いいじゃない別に。そんなの一回くらい諦めちゃっても構わないと思わない?」
「私、そろそろあなたに対して敬語を使うのが馬鹿らしくなってきました」
一週間の間に情報のインプットは可能な限り行っていた。しかし、ページを捲れば捲る程に感じ得たのは自らの無知ばかり。
今から考えてみれば、あの時境目に飛び込んだのは本当に無謀だった。
今こうして空調の効いた店内に座っていられるのはただ単に運が良かっただけだったからだ。
一口に境目と言ってもその先に繋がっている世界は訳が分からない程に多様なのだ。アマゾンに飛ばされることもあれば安土桃山時代に飛ばされることもある。並行世界に辿り着くこともあればお伽話の中に潜り込んでしまう可能性だってある。
そこから戻って来られるかどうかはケースバイケースだし、そこで命が潰えてしまうことだって当然の如く考えられる。
あの夜に私の勘がけたたましく危険信号を鳴らしていたのは誤作動などではなかったというわけだ。
けどそれでも、私はあの時の行動を誇りに思うわ。
あの時に境目を超えることができたからこそ今の私がいられるんだから。
あぁ違う。訂正。
あの時に境目を超えることができたからこそ今の“私達”がいられるんだから。
「なに幸せそうな顔してるんですか」
楽しそうに微笑みながら目の前の少女は笑った。
「うっさいわね。それよりも今日の本題よ、本題」
私も似たような顔をしてるんだろうな。
もしかしたら踏み込んではならない領域というものが存在するのかもしれない。
知ることが不幸に直結する事実があるのかもしれない。
まさにパンドラの逸話のように。
あの話で言う箱の役目をこの世界では結界なるものが担っているのではないだろうか。
それを暴くことはよろしくないことなんじゃないだろうか。
もしかしたら私達の世界は誰かの一夜の夢なのかもしれない。
別の所では別の私達が別の物語を紡いでいるのかもしれない。
それがどうした。
それが私の足を止める理由になんてなり得ない。
だって、気になるんだから。
「本題ですか」
「そう、本題。私達って、もう結構一緒にいるじゃない?」
「量的にはそうでもないですが、質的には確かにその通りですね」
「よね。でまぁ、きっとこんな感じの関係なり活動がこれからもずっと続いていくことは想像に難くないわけよ」
「できれば私は静かに暮らしたいんですけどねぇ」
「またまた御冗談を」
「……まぁ、いいんですけど」
岡崎教授も北白河助教授も自己啓発本を読むタイプではないと思うのだけれど、しかしなぜだかあの研究室には一言だけ偉人のメッセージが文字に起こされ、そしてデスクの上の見える位置に貼り付けられていた。
“聖なる好奇心を失うな”
今更クドクドと検索する言葉じゃないわね。
字面のままのメッセージ。
残したのはかの有名な物理学者、アルバート・アインシュタインだ。
分かりやすいものよね。
とは言っても、私もつい音読しちゃったりしたんだけれど。
「さて、本題よ。メリー、私達でサークルを作りましょう」
「サークル? 大学公認の下で動く、ということですか?」
「違う違う、そんな大層なものじゃないわ。ただ、なんとなく名前があった方が格好がつくじゃない?」
「……」
「子供っぽい考えだということは承知済み。でも実際、無いよりは有った方が良いでしょ」
「マトモな名称でしたらね。恥ずかしいものは無くて良いのです」
好奇心を傾けるに値するものはたくさんある。そんなことはもう知っている。
彼方まで散らばる不可思議だらけの秘密の数々。
それを不可触とするために施された封印の数々。
もちろんそれらの事象に限らず、私の知らない物事はまだまだ沢山ある。当たり前のことよね。
あぁ、本当に腕が鳴る。胸が高鳴る。
興味の赴くままに、それらの全てを解き明かしてみせよう。
「他人のアドバイスを受けて、そちらの方が良かった、という経験は素敵なものです。この場合はアーティフィシャルでもなんでもなくて」
「おぉ、いきなり訳の分からないことを」
「あなたの能力を認めつつも牽制を加えているのですよ。それと、あなたと私の文化レベルの差異の明確化」
「ふぅん」
「……はぁ。どうせ既に案は考えてあるんでしょう。言ってごらんなさい」
「あ、敬語が消えた」
「敬いの心が必要かしら?」
「いいえ。距離はゼロに近い方が、嬉しいわ」
つっけんどんな物言いに並行して微笑みが零れた。
特別に言うことじゃないけど私だって現在進行形で笑っている。
さてさて、
「それじゃあ発表するわ」
こんな私達がどこまで行けるのかしら。
ま、それは今後のお楽しみ、ってことで。
「私達のサークルの名前は――――
了
大事なことは疑問を持つことを止めないことだ。
好奇心はそれだけで存在意義がある。
人は永遠や人生や驚くべき現実の構造における神秘について考えを寄せようとすれば必ず畏怖の念に囚われてしまう。
毎日この神秘のほんの僅かでも理解しようと努めれば、それで十分なのである。
聖なる好奇心を失うな。
成功する人間より価値のある人間になろうと努めよ。
――――アルバート・アインシュタイン
一
ヒロシゲは私を乗せて西へ走る。音もなく、揺れもなく、ただひたすら西に走る。
スクリーンには東海道の宿場町が十分な光量で以って映し出されていた。
こうまで明るいと時間の感覚が失せてしまいそうで困る。と言っても、それもあと十分程の辛抱なのだけれど。
「やれやれ」
一人呟き缶ビールをコクリと一口。高校を出てから一ヶ月くらいしか経ってないんだけれど、なんだかやけに最近はお酒を飲んでばかりいる気がする。まぁいっか。大学生と言えばきっと四捨五入すればそれなりに一人前と呼ばれる類の生き物の筈だ。問題は無い。もっとも、正式には私はまだ大学生じゃあないのだけど、そんな事実はきっと誤差の範囲内よね。
シートに軽く頭を預ける。
地上では茜色と藍色の比率が1:1となっている頃だろうか。
文学の世界ではその様を黄昏と表現してしまうらしい。
「……やれやれ」
やっぱり、スクリーンに映し出されている光景がどうにも眩し過ぎる。
私は溜息と共にそっと目をつむった。
地元を出たのはおおよそ一時間前のことである。
言っちゃあなんだが私は頭が良い。普通の人間が軽く引いてしまうくらいには頭が良い。
五歳の頃に覚えた四則演算は、今では五桁同士のものくらいなら息をするよりも簡単にできる。
義務教育を終える頃には大体の教養は脳に刻み込んでしまっていた。
だから高校はほとんど遊びに行っていたようなもので、けどそれも結局学校側が「勿体無い」とか言い出したせいで一年しかいられなかった。
まぁ、大検とか入試とか、そんなのはクリアするだけなら楽だったんだけど、……正直、そんなに急いで私を大学なんかに送り出してほしくないと思ったのが本音だ。
大学に所属したところではたして何が見つかるというのか。
便利な計算機扱いの末に下らない学位を手に入れたところでそれが何になるというのか。
おそらくきっと、金や社会的地位にはなるんだろう。
けれどそんなものに魅力を感じるかどうかと問われれば、ねぇ?
そういうのよりも、たった一度の人生なんだから、バカみたいな冒険をしてみたいと思うじゃない。
なんて言ったって、地元ではどうにも賛同を得られなかったもので、だからこそ私は今こうしてヒロシゲのシートに身を沈めているわけなのだが。
まったく。誰も彼も本当に、用意されたレールってやつがそんなに羨ましいものなのかしら。
私としては勉強なんて放り投げて飛んだり跳ねたりする毎日を送る方がよっぽど羨ましいしそっちの方が十六歳の女子としてはいたって普通だと本心から思うんだけどねぇ。
とかなんとか捻くれたことを言っちゃう私だけれど、幸いにして親に殴られることなんてなかったし駅まで見送りに来てくれる友達も結構いてくれてたりするので自身が不幸せだとは絶対に思わない。というかこんな環境下で“誰にも分かってもらえない不幸なワタシ”を演じようものなら確実にバチが下ってしまうだろう。
私は幸せだ。
恵まれた環境で生まれ育ち生きてきた。
そんなことは分かっている。
考えるまでもなく分かっているんだ。
「――まもなく、酉京都駅に着きます。皆さま、お忘れ物など御座いませんようお確かめの上――」
車内に響いたアナウンスに呼応して目を開けるとスクリーンには静かなスタッフロールが流れていた。
周囲を見渡せば東京からの仕事帰りであろうスーツ姿の者達がいそいそと荷物を纏めている。慌ただしいことである。
自分はと言えば別段作業をしていたわけでもないのでバッグを開く必要性はゼロ。
片付けるものなどは……、あぁ、一つだけあったか。
「さてさて。新天地はいかがなものかしらね」
缶に残っていたビールを勢い良く喉へと流し込み、私はバッグに手をかけた。
酉京都駅はとにかくスーツ姿の人間が多い。
そもそもこの駅は東京と京都を繋ぐためだけに作られたものだし、それに今は丁度仕事上がりの者が会社から出てくる時間でもあるから当然のことだとは分かっているが、しかしこうも大人でごった返した空間というものはどうにも息が詰まりそうで苦手だ。
「――ふぅ!」
雑多な人込みをくぐり抜けてようやく出口へと至る。
そうして風の吹く方向へと目を向ければ、
そこにはこれまで見たことのなかった街の風景が広がっていた。
空が広い。
それがまず最初に浮かんだ感想であった。
東京には多く立ち並んでいた高層ビルというものが、この街には存在していないのである。
……なるほど。霊都、という呼称がピッタリくる景色と言えるわね。
太古から残る碁盤格子の街の造形。空と山を見せるように背を低くし、そのかわりに地下へと根を張り蠢く建造物達。それでいて古風とも近代的とも言える不思議な光を灯す、なんとも言えない冥く涼やかな空気。
心なしか心臓が鳴るペースが速くなっていることに気付き、私は少しだけ笑って、
そして夜に染まりゆく空を見た。
「時刻は18時4分26秒。現在地は、京都府京都市下京区、酉京都駅」
私の眼はこの霊都でも快調に働いてくれているようだ。
ひとまずは安心、といったところかな。
この眼とも随分付き合いが長いなぁと、少ししみじみと思う。
星を見て現在時刻を、月を見て現在地を割り出すこの素敵な眼。
最初にこの眼の力を意識したのは小学校に入ったくらいの頃だったっけ。
まぁ、大した仕掛けなどがあるわけでもなく実際のところは、ただ昔から星を見ながら計算式を解いていたら自然と相対距離及び時間を算出できるようになっただけなのだろうと今の私は考えているわけだが。
でも、まるで魔法が宿っているかのように思えてしかたなくて、子供の頃からこの眼はずっと私の一番の宝物であり続けている。
今でもこの眼のことだけは誰にも内緒だ。
本当はもう一つ宝物、というか大切な思い出の品があったりするのだが、まぁこれを気に入っていることは家族も知っているから。それじゃあ真の宝物とは言えないわ。
「なんてね。我ながら子供っぽい考えが過ぎるかしら……っと、ここかな」
我が眼に思いを寄せて幾ばくか、気付けば私はこれからの住処となるマンスリーマンションに辿り着いていた。
心持ち急ぎ足で部屋の前まで行き、そして扉に付属してあるデバイスにケータイから個人情報を送信すれば、
カチリ、という鍵の開く気持ちの良い音が鳴った。
お邪魔しまーす――って言うのは変か。
なんにせよ突撃あるのみだ。
うん。データ通りの良い部屋だわ。匂いも好み。我ながら良い物件を見つけられたものね。
んーと? 昨日送った荷物はちゃんと全部届けられてるわね。電気は、オッケー。それに水も……、よし。ちゃんと通ってる。良きかな良きかな。
不備も無く電気も水も使える部屋に遠方からやってきた女子が一人。
となればまずは、
「お風呂でしょっ」
掛けていたショルダーバッグはひとまず部屋の真ん中に置いて、私はバスルームへと向かった。
「んぅ」
満杯にまでためたお湯にザブンと身を鎮めると無意識に声が出てしまった。
私も歳をとったものだなぁ。
約42℃のお湯が約0.59W/(m・K)の熱伝導率で私の身体を幸せにしてくれる。口まで湯船に浸かって呼気を放出するのも悪くない。ぶくぶく。無意味だけどさ。でもこの自由な感触はなんとも心地の良いものじゃないの。
そう、私は今現在とても自由なのだ。
なんと言ったってかの有名な一人暮らしという状況に置かれているのだから。
一人暮らし。あぁ素晴らしき一人暮らしなのである。
ん? 一人、暮らし?
あ。やべ。
そっか。
お風呂上りにすぐご飯が出る環境じゃないんだ。
……完璧にハイテンションが判断能力を塗り潰していたわ。
勢いで風呂に入ってしまったが、よくよく考えなくてもこれはかなり大きな失敗である。いやマジで、今日の晩御飯はどうするんだよ私。
新生活初日からコンビニ弁当とか?
えぇー……。
「いや、まぁ、しょうがないんだけどさぁ」
顔を上げて一人呟くと響くエコーが不思議な感触を私の耳に届けた。
なんというか、
なんというかさぁ。
こうして、ドキドキとかワクワクを無為にして妥協してコンビニ弁当食べながら大学に通って適当に単位取ってそれなりに友達とか彼氏とか作って。
そういう風にして一生に一度の“なにか”が流れていくのって。
なんというか、さぁ。
「それとも私がただ夢を見過ぎているだけなのかしらね」
エコーはただ湯気の中に消えていくだけ。
月も見えず星も見えず。
脳にはただ私のパーソナルスペースが視覚情報として送られてくるのみであった。
「ふぅ」
まぶたを下ろして再び湯船に口まで浸かる。
目を凝らした時に見えるものが煌びやかな希望なのか緩やかな絶望なのか。
今はそれをはっきりと知りたくない。
そんな気分なのだ。
現実逃避?
別に良いじゃないのよ。
目を開けながら夢を見続けるのってそれなりに疲れることなんだから。
ぶくぶく。
二
「――で、あるからして、この歴史深き学府たるK大学に入学された諸君は相応の責務と誇りを持って学徒としての道を歩み、かつ目的地だけではなく脇道に咲く花の美しさにも目を向けることが大切なのであると私は諸君らに――」
なんでどこのお偉いさんも挨拶ってのはこんなにも無駄に長くするのかしら。もしかして突かれたくないトコロを誤魔化す為のテクニックだったり? 学食のパスタランチは550円で間違いなかったと思うけど。
周囲を見てみれば私と同様、学長の挨拶に飽きてあくびをこらえている者が多くいた。
一応今現在行われているのはこの国の最高学府の入学式なんだけれど、……こんなものなのね。
そういえば受験の時もこんな感じの肩透かしを食らった記憶があるわ。このご時世に固有振動数を計算させるなんて出題者としては意表を突いたつもりだったんだろうけれど実際は失笑を買っただけでしょ、あれは。結局私を含め受験者の六割が取ったらしいし。
わざわざ海外から留学しに来る人も多いこの大学だけれど、正直そんな大層なところだとはどうも感じることができない。
……留学かぁ。
もしかしたら国外の大学に行っていた方が面白かったかもなぁ、と今更ながらに思う。
きっとそっちの方が未知との遭遇は多かっただろう。
「以上をもちまして、神亀23年度、K大学入学式を閉会致します」
入学初日に他大学に想いを寄せるなんて、我ながら酷いものだ。
入学式も終わり、学部・学科ガイダンスも終了。大学生としての自由な時間はここからようやく始まる。やれやれである。
度重なる長話に拘束された為か、どうも身体中が凝ってしまっているようだ。
しばらく構内を見て歩こうか。そうすればこの全身に蔓延している倦怠感も有耶無耶になったりしてくれるだろう。
学食とカフェ、生協はチェック済み。我が城となるであろう理学部棟の五号館はガイダンス後に見学し終えたし、理学部キャンパスの他の建物はどうせそう遠くない未来に回ることになるんだろうからまずは選択肢から外しておくとして、……そうだな、他の学部の様子を見に行ってみるのが良いかもしれない。下手に顔を覚えられてからでは中々入り辛くなってしまうこともあるだろう。探検するならきっと、今の内だ。
夕日を彼方に見据え、私は桜並木の下をのんびりと進む。
聞こえてくるのはサークル勧誘の声。おぉ、なんか“これぞ大学”って感じじゃない。
高校ではここまで派手な勧誘は無かったのでとても新鮮だ。
んーと? 被服部、合気道部、オカルト研究会、緋蜂対策室、ブラックマジックパーティに……秘密機関<福猫飯店>? 色々とマニアックだなぁ。っていうか理学部キャンパスにオカルト好きなり黒魔術使いなりが勧誘に来るのってかなり効率悪いと思うんだけど。
まぁ、私はサークルに入るつもりなんて無いんで素通りさせてもらうわね。
失礼します、っと。
理学部キャンパスを出れば前に見えるのは四車線のそれなりに広い道路だ。走る車の数は東京と同様、それ程多くはない。
その脇にあるのはキャンパスは勿論、コンビニだったり牛丼のチェーン店だったり。古めかしい書店や異国情緒溢れる服屋なんかもあったりして中々に見ていて楽しい並びである。
道を渡って文学部棟前の門へ。って、ここにもサークル勧誘に精を出す先輩方がいっぱいいらっしゃるわね。まぁいいや。無視無視。
……あら? 文学部って結構色んな建物持ってるのね。どこから攻めていくのが良いかしら。
ここは言語系の研究棟? じゃああっちの棟は哲学系? ちょっと分からないなぁ。
とりあえず進んで行ってみようか。
なんて思って一歩を踏み出し、そしてなんとなく顔を横に向けて中庭を見ると、
そこには虚空を見上げる金色の髪の女の子がいた。
不意に息の吸い方を忘れた。
茜色に染まりつつある若草の上で髪に手をやりながらどこかを見ているその女の子があまりに綺麗で、それでいて人外の生き物じみた薄気味の悪い雰囲気を放っているようにも感じられて、私の身体は反射的にサイクルをこなせなくなってしまったのだ。
外国の子だからか、あどけない表情というよりはとても整えられた顔かたちをしていて美しいと思えるも、なぜだろう、どこか可愛らしいと感じられる要素も持ち合わせているように見える。大人と子供の境界に佇んでいるような、そんな不可思議な優美さを有したまま彼女は風になびかれていた。歳はきっと一般的な大学一年生と同様の18か19くらいか。もしかしたら私と同じく飛び級をしている可能性もある。となると私の一つ上、17歳だろうか。
いやそんなことはどうでも良い。
何より私が気になったのは、彼女の眼の静けさである。
どこか、限り無く遠い、遥か彼方を見ているようなあの静かな眼が、やけに私の心をざわつかせる。
あんなところで彼女はいったい何を見ているんだ?
「What's the matter?」
気付けば私は彼女に声をかけていた。
「――――…………私に声をかけられたのです?」
やけに反応が鈍い子だなぁ。
というか、日本語話せたのね。
「そう、私が話しかけたのはあなたね。こんばんは。で? こんなところであなたは何を見ていたのかしら?」
矢継ぎ早に言葉を撃ち出してしまったのはきっと心臓のリズムに自然と合わせてしまったからだろう。
戦略の練り込まれていない、あまりに短絡的な行動であることに心中で舌打ちをひとつ。
でもまぁそれを言ったら彼女に声をかけちゃったところから衝動に駆られ過ぎたと評さざるを得ないわけで。
こうなったら後は本能に任せてガンガンいくしかないでしょう。
「……ふむ」
しかし彼女はそんな私の勢いをまるで無視してゆっくりと驚きその後ゆっくりとなにかを納得したような仕草を見せる。
んん? やっぱりこの子、日本語が不得手なのかしら?
「あぁ、言語についての配慮は不要です。私、京都に来て今年でもう三年ですので」
なんだそれなら良かった。
京都歴が三年ということはもしかして三回生の人なのだろうか。それとも入学以前から京都に住んでいたということ?
まぁ良い。そんな下らないことを知りたいわけじゃない。
……今、心を読まれた気もするけど、それもこの際は後回しだ。
「それなら良かった。じゃあ、質問には答えられる筈よね?」
「勿論ですわ」
言って、
「私が見ていたのは、あれです」
彼女が指を向けた先には、
「空?」
夕刻の広い空があるだけであった。
「……えぇ、そうです。この時刻の空って、なんとも形容し難い色を見せるじゃないですか」
恥ずかしがるように笑って言の葉は紡がれた。
「橙色と藍色の中間。昼と夜のない交ぜ。私は思わずそんなものに眼を奪われてしまったのです。ただそれだけ、ですよ」
……なにかの暗喩か?
いやだがしかし、見上げる空には彼女の言う通り形容し難い感じの色がただ在るだけで他にはなにも見当たらない。
なんだ? 彼女はいったい何を言っている?
「随分とロマンチックなものの言い方をするわね。レイリー散乱、の一語で片付けるのは無粋なことかしら」
「レイリー? ごめんなさい、知らない言葉です。私、科学の分野には疎くて」
「あらそう。まぁこっちのキャンパスの人間には馴染みが薄いかもね。要するに太陽の光も簡単にバラバラになっちゃうってことよ」
「そうなのですか。勉強になります」
うーん?
それとも私が穿った見方をしているだけで、実際は彼女がただの不思議ちゃんであるだけ、なのだろうか。
むぅ。この宇佐見蓮子に明確な解を出させないとは。
「そろそろ、風が冷たくなってきましたね」
いったい何者なんだ彼女は。
「おもしろいもので、古き頃の日本人はこの時間帯を誰そ彼と言い表したと聞きます。その言い回しに則れば、この色の下では正体を不明としておく方が風雅なのかもしれませんね」
またも心を読まれた気がする。
不思議ちゃんどころじゃない。彼女はまさか、妖怪なのでは? もしくは宇宙人? エスパー?
なぜだか分からないが、私には目の前の生き物がそんな途方もない存在であるように思えてならない。
理屈もなにもあったものではないが、
しかし、彼女は――
「では、私はこれで失礼します」
一礼をし、くるりと背を向ける。
そして遠ざかっていく金色。
待て、と声をあげるべきだと理性が主張していた。
彼女を逃してはならない。たとえ逃さざるを得ないとしても、もっと情報を、最低でも名前くらいは。そんな思考が閃く。
けれども私の本能はその意見に対して頷くことはなかった。
勘が囁いたのだ。
「これ以上進んでは後戻りができなくなる」と。
“後戻りができなくなる”?
私は今、そんなことを恐れたのか?
そんなツマラナイことに恐れをなして私は今前に進めなかったというのか?
のうのうと日常の内に刺激を求めるだけの生活を送っていていざ“なにか”に触れようという時には怯んでしまう、
口先では捻くれた風に世を酷評する癖に、自分の理解を超えたものに遭遇してしまった時には足のすくみを止めることもできない、
そんな、
そんなただの子供だというのか。
私は。
「……誰が子供よ、誰が」
苛立ちを振り切る為に空を仰ぐも、星はまだ見えてはいなかった。
三
あの金髪の子との邂逅から丁度一週間が経った。
昨日まではガイダンスばかりだった講義も今日からは内容に言及したものとなる。
というか現在進行形で天文学の概論がモニター前の壮年の教授によって説明されていたりする。
資料を提示しながらもそれに頼るだけではなくちゃんと自分の口で噛み砕いた説明をしようとするのはなかなか素晴らしい。きっとあの人は良き教育者なのだろう。
周囲を見回してみるとしっかりと教科書を購入しそしてノートにペンを走らせている学生がほとんどであった。
……皆、ちゃんとしてるなぁ。
私はと言えば、ここ最近は金髪のあの子の情報を追い求めるばかりで、教科書はおろかノートの購入にも手を着けていなかった。
まぁ、前期はどうせ基礎の課程ばかり。
問題は無いでしょう。
目下の事案はやっぱり金髪のあの子、
マエリベリー・ハーンのことである。
あの日からずっと学内を探し回っているのだが、彼女の姿は一度として見かけていない。
ガイダンスが主となる一週目の授業には顔を出すつもりは無いようだ、という情報はつい昨日彼女と同じゼミを取っている子に聞いた話。その子にしたってマエリベリー・ハーンに関して詳しいわけではなかったが、一応の学内における情報は得られた。
名前はマエリベリー・ハーン。
文学部心理学研究室相対性精神学専攻の一年生。
留学試験ではなく一般入試で入学してきた、元からの京都府民らしい。
後はまぁ、「いつもぼーっと変なところを見てる」なり「あまり人と一緒にいるところを見たことが無い」なりというアレな情報も得ることができた。
そもそも相対性精神学というマニアックなものを専攻している時点で重度の変人と判断されてしまうこのご時世である。
それに加えてあの意味不明な言動と魔性に近しい容貌。
周囲の者に距離を取られてしまうのも仕方ないだろうなぁと、しみじみと思う。
かく言う私だって彼女は気持ち悪いと……、いやいや、それは別にどうだっていい。
「――では今回は初回ということでここまでにしておきましょう。次回は二章の最後までいくので、皆さん、振り落とされずにちゃんと付いて来て下さいね?」
おお。チャイム前に講義を終わらせてくれるだなんて、やっぱりあの教授は出来た人に違いない。
取り扱う内容はこれといって目新しいものじゃないけど、この講義は毎週出席してみてもいいかもしれないなぁ。
っと、そんなことは置いといて。
只今の時刻は14時ちょうど。
四コマは空きコマで、次の授業は五コマの16時20分から。
今大事なのは二時間以上の自由時間が存在するというこの事実である。
今日から授業が本格的に始まっている。ならばつまり、マエリベリー・ハーンも今日からは学校に来ているはず。
調べによると今日は二コマに心理学の専門基礎が入っている。普通に考えれば彼女はその講義を受けるために登校しているだろう。そしてそのまま三コマや四コマに他の授業を取っている可能性は大きいと思われる。
アテは無いが、しかししらみつぶしに教室を覗いていけばかなりの確率で彼女を見つけることができるのでは。
この宇佐見蓮子、押されっぱなしのままでのうのうと日常生活を送る程プライドの値が小さい人間ではないのである。
勢い良く教室から出る。
さて、ひとまず向かうは第一教養棟が妥当――
「きゃっ!?」
「っとぉ!?」
――ものすっごい衝撃。
赤色の人間が曲がり角の先からとんでもないスピードで突っ込んできたのだ。
周囲に舞い散らばるのは書類の数々。その中で尻もちをついている赤い人間、
いや、そのような仮称は不要か。
なぜなら私は彼女が誰であるかを知っているのだから。
私に限ったことではない。この大学で彼女の名前を知らない者は誰ひとりとしていないと思われる。
「なによ! あなたも私の論にいちゃもんをつけたいのかしら! 誰が相手だろうと私は絶対に引かないわよ!」
国際物理学会の夢幻伝説、論壇を駆ける赤い彗星、ミス・ストロベリークライシス、etc.
呼び名は数多なれど指す名前はただ一つ。
「魔力は確かに存在するのよ!」
岡崎夢美教授、その人である。
「ええと、別に私は教授に敵対する意思はないですよ?」
「だったら! ぶつかっておいて謝罪の一つもないのはおかしいとは思わないの!」
「そうですね。失礼しました。ごめんなさい」
「お、おぉぅ……!」
なるほど。噂通り、かなり残念な人間だ。
「ったくもー。何してるんだよご主人様」
そこに降ったのは快活な声。
水兵さんのような服を可愛らしくデコレーションして着こなす、男の子のような口調が特徴的な、岡崎教授に次ぐこの大学の有名人。
北白河ちゆり助教授だ。
「お? 誰かと思えば宇佐見じゃん」
ふむ。確か私と北白河助教授、更に言えば岡崎教授が顔を合わせるのはこれが初めての筈だが。
「どうして私の名前を?」
「おいおい、くだらない質問をするなよ。この学部で天才ルーキー宇佐見蓮子の名前を知らないヤツなんてそうそういないぜ。自分でも分かってるだろそれくらい」
「……ま、一応の通過儀礼として、ですよ。でも北白河助教授には無用のものでしたね。すみませんでした」
「別に謝らなくてもいいっつーの。ってか謝るのはむしろこっちの方だし。ごめんな。うちのご主人様、頭良い癖にバカでさ」
「聞こえているわよ、ちゆり!」
ポカリと拳骨が一発。おおう見事なコントだ。やるわね。
流石は18歳にして世界が注目する十研究者に選ばれた岡崎教授と、若干15歳でその研究の全面サポートを行う北白河助教授だ。
なんというか、肝の座り方のレベルが一般人とはかけ離れてる。
具体的には今現在のことね。
「痛いじゃねーか……って、おぉ? ご主人様、なんかまた無駄に注目を浴びてるぜ?」
「あら本当。まだ三限は終わっていないはずだけどこれはいったい」
「概論の授業が今日は早めに終わったんですよ。それで、まぁ」
「なるほど。田村先生の仕業なのね。おのれ」
「おのれじゃないっつーの。ほらご主人様、こんな書類なんかさっさと片付けてお茶でも飲みにいこう」
いつの間にやら、そこらじゅうに散らばっていたはずの書類は全て北白河助教授の手の中で一つの束へと戻っていた。
「あぁそうだ宇佐見。お前には迷惑をかけたことだし、陳謝代わりにお茶の一杯でも飲ませてやるぜ。どうせ四コマまでは予定も無いだろ?」
――は?
「コラちゆり。せっかくの師弟水入らずの空間になんだってこんなちんちくりんを混入させないといけないのよ」
そ、そうだ。良いぞミス・ストロベリークライシス。
どういうお考えがあるのかは知らないけど、今の私にはコントに付き合うだけの余裕なんて無いんだ。
用があるのはマエリベリー・ハーンただ一人なのである。
さっさと解放してくれ。
「別に良いじゃねーかよー。いつものティータイムにたまにはスパイスを一つまみ加えるくらい別に大層なことでもなんでもないだろー?」
「ダメよ。コイツに飲ませるだなんて、我がストロベリーティーの無駄遣いとしか言いようがないわ」
「北白河助教授、岡崎教授もこう言っていることですし。それに私、申し訳ないのですけれどフレーバーティーの類は得意じゃないんですよ。ですので」
「ちょっと。ちゆりの淹れる茶に不満があるというのあなたは。その見当違いの趣向、矯正してあげるわ」
えっ。
「ほらどうしたの、さっさと付いて来なさい。物怖じでもしたのかしら?」
なに今の方向転換っぷり。寒気がしたんだけど。
なんと言うか、この人が正真正銘の問題児として扱われるのも納得だわ。
誰かこの人に常識って単語を辞書で引かせてあげてよ。
「あぁそういえば、さっきは騒ぎたてて悪かったわね。謝らせなさい、宇佐見」
面倒なのに捕まっちゃったなぁ。
「そういえば自己紹介が遅れたわね。私は岡崎夢美。天才よ」
「知ってます」
紙一重ってね。
この手のタイプの部屋がハチャメチャに散らかっているものだと思っていたのだけど、そんな私の予想に反して通されたラボは本も機材もスッキリと整頓されていてとても綺麗であった。
きっと北白河助教授が頑張っているんだろうな。
「私も自己紹介がまだでしたね。理学部理学科物理学研究室超統一物理学専攻、宇佐見蓮子です」
「ん、なに? あなたウチの生徒だったの?」
「……ご主人様、覚えてないのかよ。先週、我らが物理学研究室に凄い奴が入ってきたって私言ったじゃん」
「そうだった?」
「そうだった!」
まぁ、彼女が私のことを知らないのもしょうがないことだろう。所詮私は入学して一週間の一年生だし、直接顔を合わせたのもこれが初めてだし、なによりこの人アレだし。
改めて見る。
理学部理学科物理学研究室教授、岡崎夢美。
超統一物理学の世界に身を置きながらも「この世には統一原理では説明できない“魔力”という力が存在している」という「非統一魔法世界論」なるものを主張し出した紛うこと無き変人。
しかし18という歳で高品質の論文をポンポンと仕上げ、そして教授として高い位置に立っている彼女だ。
天才と言い表すことに決して誇張は存在しない。
表情も、そのことを自覚しているからだろう、自信と英気に満ちた笑顔がとてもサマになっている。
純白のブラウスに真っ赤なベストと真っ赤なロングスカートを合わせ、そして真っ赤な髪を結って腰まで流すというド派手な格好も常軌を逸した実力者かつ変人である彼女にはとても良く似合っている気がした。
「で、宇佐見? 我が研究室に来たということは、あなたも魔力に興味を持っているということよね?」
いや、え?
別にそういうことはないんですけど。
この人は話が突飛なものとなりすぎる傾向があるな。
「なんだその顔は。レーザーで額に“肉”とでも書いてやろうか」
怖いなぁもう。
「まったく、誰も彼も超大統一理論なんかに浮かれて……。200年も前にロバート・カーシュナーの発見した第五の力を無視するなど私には到底できないわ。ましてや、その真なる正体に手をかけた私を笑い者にするなんて失笑を超えて怒りの感情しか生まれないわね」
「むう? 第五の力とは、いわゆるダークエネルギーのことですか?」
「マイケル・ターナーはそのように称していたわね。けどそれは過去の名称。今は岡崎夢美が魔力であると提唱しているのよ。覚えておきなさい」
「はぁ」
「なによその顔は」
「生まれつきのものですよ。ご容赦を」
「ふん。生意気な子ね」
「二人ともなにガン飛ばしあってるんだよ。ホラ、ちゆり様特製ストロベリーティーでも飲んで落ち着け」
言って、北白河助教授はテーブルの上にティーセットを乗せたトレーを置いた。
赤い液体が満杯まで入った透明なティーポットとコロコロとした角砂糖が幾粒も収められている透明なシュガーポット。そして温められた白磁のカップとソーサーが三組。それぞれに銀色のティースプーンを添えて。
それらが淀みない手つきで配置され、
そして静かな音を立てて紅茶が注がれていく。
上品な苺の香りが私の鼻をくすぐった。
「ありがとうございます、北白河助教授」
「これくらいで礼は要らんよ。誰かさんのお世話をしてる内に茶を淹れることくらい苦労の内に入らなくなっちまったんでね。さて、ところで宇佐見」
北白河助教授はそっと私の後ろにまわって、
「動くな」
私の首筋に鋭利で冷たい金属を丁寧に押し当てた。
「これは小さくても必殺の武器だ。逆らわないほうが身の為だぜ」
目の前に置いてあるティーカップに指をかけ、口元まで運び、そして軽くすする。
美味しい。紅茶の深みと苺の新鮮な甘酸っぱさが見事に調和してとても上品な味わいに仕上がっている。これまで飲んできたフレーバーティーにあった作りものっぽい味は少しも感じられない。良い茶葉を使っているのが大きな理由なのだろうが、しかしそれ以上に北白河助教授の淹れ方が良いことがこの味の最大の要因だろうと私はなんとなく思った。
うーん、でもやっぱり、
「北白河助教授、とても素敵なお茶なのですが、申し訳ありません。私の子供舌にはもう少しマイルドで甘口なものの方が好みです」
「おう」
「ですので、角砂糖を入れたいのですが、宜しいですかね?」
「まったく。つまらんヤツだぜ」
そして私は首筋にあてられていたティースプーンを右手で掴んだ。
北白河助教授は「やれやれ」と一言だけ呟いて自分の席に座り、
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
「だって、この方がおもしろいじゃん」
岡崎教授の拳骨を食らっていた。
……この二人、観客がいようといまいと、こんなコントをずっとやってるんだろうなぁ。
「おー痛て……っと、悪かったな宇佐見。意地悪しちゃってさ」
「このくらいで気を悪くしたりはしませんよ。しかし、なぜ?」
「“なぜ?”ねぇ。それは何に対しての疑問だ?」
「今の悪戯をした理由、及び北白河助教授が私を茶会に招待した理由の二点について、ですね」
「うん、まぁ、合格としてやるか。褒美として疑問に答えてあげるよ。まずは後者、ここに招待した理由からな」
岡崎教授はもう私に対しての興味を失ったのか、はたまた紅茶に夢中なのか、目を閉じてただティーカップを傾けるだけだった。
それを横目に北白河助教授はクスリと笑い、そんな笑顔のまま、少しも気負うことなくサラリと言葉を放つ。
「お前がマエリベリー・ハーンを追っている理由が知りたかったから」
「マエリベリー・ハーンを知っているんですか!?」
声を荒げテーブルに手を叩きつけるとソーサーが高い音を出して揺れた。
そんな空気振動の中にあっても岡崎教授は目をつむって紅茶を飲むだけで、そして北白河助教授は笑顔のままで。
「質問に質問で返すのはなしだ。で? お前とマエリベリー・ハーンはどんな関係なんだ? やけにご執心のようだが」
……声を荒げるだけで押し通るのは流石に厳しいか。
聞きたいことは山ほどある。しかし、まずはこちらから開示した方が得策だろう。
そもそもこちらはそんなに有用な情報を持っているわけではないのだから、まず損は無い筈。
ここは素直に乗ってあげよう。
「関係も何もありません。ただ、一度彼女と話したことがあるだけです」
「ふうん? どうしてそれだけでアイツのことを気にかけるんだ?」
「それは、勘、としか言いようがありませんね。“彼女は私達には見えない何かを見ている”と、なんとなく思っただけですよ」
「……なるほど」
先程までの笑顔を曖昧にし、北白河助教授は少しだけ困ったような表情を見せた。
そして紅茶に口をつけ、ワンテンポを置いた後、軽く言う。
「あぁ、前者の質問にも答えとくよ。あれはただのイタズラ。それだけだから気にするな」
嘘だ。
今のは十中八九、私とマエリベリー・ハーンの関係の浅さを知ったがゆえの答えであると考えられる。
おそらく先の行動には、私を試す目的があったのではないか。
それも、向けられているのがティースプーンであることに気付くかどうか、などということではなく、もっとスケールの大きななにかに対して。
例えば、私にマエリベリー・ハーンを追いかけるだけの力があるかどうか。ならばその場合の“力”とは何を意味する? 思考能力? それとも戦闘能力の類? 少し思考が飛躍しているか? いや、そんなことはない。北白河助教授の態度は表面上は普通だが、その実、慎重に何かを見極めようとしているように感じられる。そもそも彼女がマエリベリー・ハーンを気にかけている理由は? 周辺を聞き込んでいただけの私とわざわざ直接会話の席を設けた魂胆は? そこにあるのは決して浅いものではない筈。ならばどこまで深いのか。それは現状では計りきれない。であるとすれば“私の知識の届かない深いなにか”が絡み、そして蠢いている可能性は十分に考えられる。
あの時、私はマエリベリー・ハーンを、妖怪、宇宙人、エスパーなど、常軌を逸した存在であると感じた。
普通に考えればただの妄言に過ぎないことである。
しかし、今は普通に考えることが正ではない状況にあるのだ。
まさか、本当に。
笑って棄却できないその可能性。
目の前にいる彼女達は“魔力”を研究していると言う。
魔の力。
なぜそんな大仰な語を用いる?
そこに含まれるものは果たして?
その不可思議な感触は、
それの意味するところは、
「マエリベリー・ハーンは魔力を有している?」
私の言葉が中空に消えるのと北白河助教授が私に小銃を突きつけるのはまったく同じタイミングだった。
特異な形状である。しかし、形が若干違うだけでそれは私が記憶する限り小銃と呼ばれるものに相違無い。
それが私の身体に照準を合わせている。
私の命を貫こうとしている。
刹那、背筋に氷が這ったかのような寒気が走り、頭の中がフラッシュして熱くなるのを感じた。
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
私も北白河助教授も動きを止めた空間で、ただ一人岡崎教授だけは態度を変えぬまま佇む。
「念には念を、だよ。ご主人様」
「わざわざ騒ぎを起こすことのどこが念押しなのやら」
「大丈夫だ。一週間死体を隠し通すくらい朝飯前だぜ」
「ちゆり。私がやめろと言っているのを聞けないのかしら? あなたも随分と生意気になったものね」
「……チッ」
銃が下ろされる。同時に、私は胸を撫で下ろした。
いけないいけない。流石に踏み込み過ぎたか。
だがしかし、これで私がマエリベリー・ハーンに対して抱いた不可思議な感覚がただの気のせいではないことは証明されたと言って良いだろう。
やはり彼女には、“なにか”ある。
「悪かったわね宇佐見。現在私達の研究が大詰めを迎えていてね。それで少しちゆりは神経質になっているようなの。大目に見てあげてくれないかしら」
「……その研究の内容を聞くのはマズイですかね?」
「ふふっ。いやいや宇佐見。あなた、おもしろいわね。ちゆりの評価はさておき私はあなたを気に入ったわ」
「はぁ、ありがとうございます。それで、研究の内容とは?」
「焦らないの。成果を表す段になれば、あなたにも見せてあげるから」
「ご主人様!」
北白河助教授が声を荒げるたのに被さる様にして、三コマの終了を知らせるチャイムが学内に鳴り響いた。
「良いタイミングね。そろそろ行きなさい、宇佐見。ハーンを探すんでしょう?」
はたして何が岡崎教授の琴線に触れたのだろうか。
いつのまにか彼女がこちらに向ける表情には随分な量の喜色が含まれていた。
……なにか気に入られるようなこと言ったっけなぁ。少なくとも、故意には言っていないのだけれど。
まぁ、なにはともあれ成果としては上等だろう。
そもそもが命あっての物種。
それに加えてかなり重要な情報を得られたし、そして岡崎教授とのパイプも作ることができた。
マエリベリー・ハーンの捜索時間を30分犠牲にしただけの価値はあったと言える。
「それでは私はこれで。ご馳走様でした」
「面白いものを見せられる時が来たらこちらから連絡するわ。首を延ばして待っていなさい」
「はい、分かりました」
自室に着いた時には時計の針は既に21時を超えていた。
結局今日もマエリベリー・ハーンに会うことはできなかった。
四コマの時間には文系の一回生が出席しそうな授業のあらかたを見回ったのだが、それでも姿を見ることすらできなかったのだ。
今日の戦果は岡崎教授の研究室での一件で得られたものだけ。
……それだけでもかなりのものなんだから、悔やむことなんてないか。
魔力。
魔力、かぁ。
幼いころは、私はそういうファンタジックなものが大好きだった。
いつだっけ。それが幻想のものだと悟っちゃったのは。
ドキドキを、ワクワクを、未知なるものを求める為に勉強すれば勉強する程強固な現実が私の視界の前に打ち建てられていくのを感じて。
いつだっけ。
それが当たり前だと思ってしまうようになったのは。
魔法なんて本当は無いのだと気付いてしまったのは。
けれど、あの人は。岡崎教授は。きっと私以上に頭が良い筈なのに、そういったものを一心不乱に追い求めていて。
胸の奥が温かくなって、そして少しだけ冷えた。
あぁ。
私は今なにを思ってるんだろう。
私は今どこに行きたいんだろう。
ちっとも言語化できる気がしない。
「……寝よ」
そして私はベッドの上で目を閉じた。
四
「お、宇佐見じゃん」
「げっ」
あの岡崎ラボでの緊張から23時間後。つまりは今。学内のカフェにてマエリベリー・ハーン捜索のスケジュールを練っていた私に北白河助教授が声をかけてきた。
「お前、“げっ”は無いだろ、“げっ”は」
そしてドカリと私の前の席に腰をかける。
「なにか私に用ですか?」
いくらなんでもこの場で私を亡き者にするつもりは無いと思うが。
いやいやしかしこの人と岡崎教授の狙いは私にも分からない。
さて、どうする……?
「あー、そう構えるなよ。私はただお昼を食べに来ただけだぜ。嘘じゃない。でまぁ、店内を見れば丁度お前さんがいたわけだから、ついでに昨日のことを謝っておこうと思ってな」
昨日のことを、……謝る?
「昨日はすまなかったな。私が熱くなり過ぎた。この通りだ」
感慨深さを言葉に乗せて、そして北白河助教授は頭を下げた。
「私達の研究は本当に秘密裏のものでさ。誰にも知られちゃいけないんだ。だから、つい」
え、えーと? 昨日は本気で私を永遠に黙らせようとしていた彼女が一転、こんなに素直に態度を軟化させるだなんて、これはいったいどういうことだ?
「そんな変な顔をするなよ。ご主人様がお前を認めちまったんだ。なら、ブッ飛ばすなんてことは以ての外なんだよ。それだけだ」
顔を上げ、気恥ずかしそうにそっぽを向いて北白河助教授は言う。
その表情、いや、その目は、
「もしかして、岡崎教授に叱られたんです?」
やけに腫れぼったくて、疲れが浮き出ていて。
「……うるせー」
雑踏にかき消える声でそれだけ呟き、北白河助教授は遠くを歩く店員に向かって手を挙げた。
北白河助教授が注文したのは季節限定のプロシュート・パスタ。1000円也。もちろん合成物なのだが、それでも1000円で食べられることが信じられないレベルの美味を誇る生ハムが何枚も重ねられた、今月のカフェの意欲メニューである。
対して私が注文したのは200円のブレンドコーヒー。自動販売機で買うものよりも少しだけ美味しいわね? なんて思える程度の嗜好品だ。
「なんだ? もっと栄養になるもの頼めよ。保たないぞそんなんじゃ」
テーブル上で展開される圧倒的経済格差が妬ましい。くっそう、実際は私の方が年上なのに。これが助教授の力か。
だいたい、私はもう昼食は食べたのだ。食後に一人で思考運動をしていたのだ。そこを勘違いしてもらっては困る。断じて私は貧乏などではない。
「そうそう。ご主人様からお前さんに招待状だ。一週間後の今日、26時に文学部の中庭に来いってさ」
もそもそとパスタを頬張りながらお誘いの言葉はなんでもないことのように投げ掛けられた。
コーヒーカップに伸ばした手を止める。
今の言葉は決して軽いものではない。
北白河助教授があんなとんでもない強硬手段にまで出た程の価値のある研究の成果のお披露目、なのだろうと推察される。
果たしてそこで行われるのはなんなのか。
……それは行ってみないことには分からないか。
それよりも今、というか昨日から気になっていることが一つある。
「岡崎教授は、どうして私を気に入られたのでしょうか」
昨日のティータイムの瞬間まで彼女は私に対して毛ほども興味を持っていなかった、とは言わずとも一杯のストロベリーティーよりも存在価値が劣っていたことは確実だ。それが、北白河助教授とのドタバタの間になぜか彼女は私の評価を上げていた。しかも自身のトップシークレットを開示する程の高いレベルで。
いったい、なぜ?
あの瞬間に私が彼女の興味を引くほどまでの活躍を見せたとは到底考えられない。やったことと言えば深部に足を踏み入れて射殺されかけたことくらい。街まで降りてきた猪みたいなものである。笑われこそすれ、高評価を得ることはないと思われるのだが。
「まぁ、うん。ご主人様だからなぁ」
困った様子を偽装して北白河助教授は幸せそうに笑った。
「お前さんも、やっぱりあの人の言動にはビビっちゃうものかい?」
「驚かないと言えば嘘になります」
「ふぅん? 困ってるなら私から断っておいてやろうか。恐怖の対象でしかない者に付き合うのは苦痛だろ」
「恐怖の対象でしかない、というのは誤解です。あの方は無類の実力を以ってして突飛な研究を進めている。それに対して湧くのは恐怖ではなく興味ですよ。なので一週間後のお誘いは、私はしっかりと受けさせて頂きます」
「そっか」
辞令の飛び交う最中も笑顔は絶やされることなく、そんな状況の中でパスタは容量を減らしていくばかり。
フォークがクルクルと回転して小粋なパスタが螺旋を描く。
私はコーヒーを一口すすった。
「あの人はもしかしたら、私よりもお前を弟子にしたいと考えてるかもしれないな」
そして北白河助教授は「悔しいぜ」と軽く呟く。
柔らかな笑みはそのままで。
「分かりませんね。なぜ私にそこまでの評価が?」
「簡単さ。お前とご主人様には共通項がある。“頭が良い癖にバカ”という、な」
「はぐらかさないでください。それとも、私はただ馬鹿にされているだけ、ということです?」
「なに言ってるんだ。ご主人様と肩を並べることのできる人間が地球上に何人いると思う。ウダウダ言わず、素直にこの高評価を反芻しろ」
「お断りします」
「本当に生意気なヤツだなお前は」
眉尻を下げて、少女が笑った。
「……あの人はもしかしたら、私よりもお前を弟子にしたいと考えてるかもしれないなぁ」
先程紡がれたばかりの台詞が、今度は少しばかりの感傷を上乗せして発せられる。
どこか寂しそうな、それでいて一つまみの熱をまぶしたようなその顔は、秘匿の研究に魂を捧げる助教授のものじゃない。
15歳の、ひとりの女の子の顔。
私よりも一つ年下の、なんてことない、悩み多き思春期のアレコレを有した顔。
それだけだった。
時計の針が止まった気がしたけれどそれが気のせいであろうことは理解している。
ただ、どうしてそんな気がしたのかは、私にはなんとも分からない。
コーヒーの香りが揺れる。
窓の向こうで行ったり来たりする学生達。
ミドルテンポのジャズが店内に流れていて。
「北白河助教授はどうして岡崎教授に付き従っているんですか?」
ふと言葉は浮かんだ。
それに対して北白河助教授は「んー」と軽く唸る。
今ならきっと本音を言ってくれるだろうな、と私は確信めいた思いを持っていた。
偽りなく答えてくれるならもっと意義のある質問をぶつけるべきだったかという考えが現れたけどそれは0.2秒で破棄。実用書が小説よりも有意義かどうかなんて考察することじゃないだろう。
「そうだなぁ」
目の前の少女はそう呟き、そしてパスタをフォークでクルクル巻いて口に入れモグモグモグモグと噛んでゴクンと飲み込みそのまま勢い良く水の入ったグラスも喉へと流し込んで息を軽く吐いて、
「うん」と頷き、
「それは、乙女の秘密だぜ」
花が揺れるように、笑って言った。
五
夜天の下の京。
灯る数多の光の粒はまるで宝石のように見えて。
伝統とテクノロジーとたくさんの人間が詰め込まれたこの地は一種の宝石箱なのかも、と思って「それはないわ」と一人で即座に却下する。
この街にある全てのものがキラキラしているわけじゃない。
つまらないもの、汚いもの、そんなものだっていっぱい存在しているこの街だ。
それを指して宝石箱だなんて言えるのは小学生までだろう。
パンドラの箱。
そう例えるのはどうだろうか。
その内に込められ、咆哮の日を待ち侘びているのは数多の災い。
そしてそれらの奥の奥に存在する最後の一欠片。
それは人々が将来に何が起きてしまうかを知ってしまう「予兆」という名の災厄である、と主張する学説もあれば蔓延してしまった災厄に耐えうることを可能とした「希望」であると言う学説もある。
なんとも不安定な話だ。
「君子危うきに近寄らず」、「触らぬ神に祟りなし」。こういった古来よりの訓示を知っている者ならば近付かないことは当然。箱の中に在るのは猫か蛇か。開けてみなくては分からず、開けてしまっては致命的な状況に陥る可能性だってある事柄だ。
けれど、私ならきっと開ける。
開けないとおもしろいことなんて起きないから。
箱の外部データを幾らこねくり回したところでドキドキもワクワクも得られないことを知っているから。
それはきっと岡崎教授もそうだろう。
というか、彼女は現在進行形で箱の中に飛び込もうとしているわけで。
なるほど。
“頭が良い癖にバカ”、か。
確かにそれは否定できないわね。
そんな私の内実を岡崎教授は買ってくれたのか。はたまた単に同族を見つけて嬉しくなっただけか。
そのあたりの詳しいところは分からないけれど、
結果として私は今宵彼女の傍に立つことを許されたわけだ。
“パンドラ”とは、“全てを与えられた者”という意だ。
才能も安寧も与えられた彼女が好奇心の赴くままに災厄の箱に手をかけてしまったということは、はたしてどういうことだろう。
後世の人間に過ぎた好奇心は災いの元であることを教えるための訓示か。
それとも。
「遅せーぞ宇佐見。私ら二人からのとびっきりの誘いに15分も遅れるとは大層なご身分じゃねーか」
「こんばんは北白河助教授。正確には13分6秒の遅刻、ですね」
「良い度胸だ。これは小さくても必殺の」
「ちゆり、誰がそんなおもてなしをしろと?」
深夜のキャンパスに拳骨の音が響いた。
「こんばんは、岡崎教授」
「こんばんは。よく来てくれたわ」
「いえいえ、お招きいただきありがとうございます。ところで」
電灯は淡く輝き、周囲を囲む研究棟からはポツポツと窓から光が漏れている。そして月が今宵はとても大きい。そんな薄い明かりのカーテンを纏いながら、
「この巨大な物体はなんなんですか」
ソレは広い中庭を占拠していた。
「これは今宵のナイフとフォーク。可能性空間移動船よ」
可能性空間……移動船!?
「まさか、パラレルワールドとの行き来ができるというのですか!」
「この岡崎夢美が冗談でそんなことを言うとでも?」
「あ、いや。でも、そんな……」
可能性空間。分かりやすく言えば「私達ってこういう状態になってたこともあるよね」なんて想像が現実となっている世界である。ザックリと言ってしまえばパラレルワールドのことだ。
そのような世界が無限に存在することは周知のことであるが、
そこに、移動することができる船、だと?
馬鹿な。そんなことはおいそれと信じられない。どう少なく見積もっても2、3世紀は先の技術だ。
そんなものが……。
「とても信じられない、といった顔ね? そんなに自分の脳に収められていない事柄が疑わしいかしら」
「……はい。可能性空間を移動する船だなんて、いきなり言われても額面通りに受け取ることはとてもできません」
「ふふっ。まぁ、そうよね」
岡崎教授はなぜか嬉しそうに笑った。
「ならば実際に私達がこれに乗って可能性空間へと赴き、そして帰還したらあなたも信じてくれるかしら」
「なっ!?」
まさか、既にこれは実動も可能だというのか!
「先程言ったばかりでしょう。この船はナイフとフォーク。これを使っての今宵のメインディッシュは、可能性空間への渡航よ」
本気、なのだろう。
岡崎教授の常軌を逸した頭脳が彼女特有の突飛な精神の下で全力疾走をすれば可能性空間へ赴くことができる装置を作り出すこともできる、かもしれない。
いや、いやいやいや、冷静になれ、私。
落ち着いて考えてみろ。
いくら彼女でも、そこまでのことを可能とできるか?
可能性空間への渡航。
いくら稀代の天才とは言え流石に分の悪い賭けなのでは。
それは国家レベルの巨大な組織が途方もない年月をかけてようやく完成することのできる装置が必要となる行いなのである。
もし失敗すればその先にあるのは確実な消滅。
そしておそらく失敗の可能性は十分に考えられる程度に存在する。いくら彼女が天才的発想を行ったとしてもそのアウトプットがどれ程しっかりと行えているのか。
少なくとも、学界から追放された学者が個人で作るものでは決してない。
ましてや、実動させるなんて。
「ねぇ宇佐見。今が何時何分かは分かる?」
「え? っと、2時20分ジャストです」
「なら、その10分後の時刻は?」
「2時30分です」
「その答えじゃあ30点。正解は、丑三つ時よ」
丑三つ時。
丑の刻を四分割した際の三番目の時刻。正確には午前2時から午前2時30分を指す。時刻の表し方としては古めかしく、なかなかにアバウトなものだ。
……マエリベリー・ハーンが夕刻を誰そ彼と称したのに、ちょっと似ているわね。
で、それがいったい何だというのだろう。
「知らないかしら。丑三つ時というのは、この世ならざる世界への扉の鍵が最も緩くなる時間なのよ」
……何を言っている?
そんな迷信が物理学者たる彼女になんの影響を及ぼすというのか。
「そんな顔をしないの。これは正しい事柄なのよ。学会の連中は信じなかったけどね。――ちゆり」
「あいあい」
どこか苦笑交じりといった様子で北白河助教授は岡崎教授の背にマントをかけた。
そして、
「刮目しなさい」
岡崎教授は月へと腕を差し向けて、パチンと指を鳴らした。
その刹那、紫電の如き爆音が大気を薙ぎ払い、
苺の色をした閃光が夜空を十字に切り裂いた。
閃光は拡散することなく上空に佇み、十字架にも似たその鮮烈な姿をあますところなく世界に誇示し続けていた。
その十字の中心部に“ひび”が発生して、
空に、少しずつ、扉が開かれるかのように、それは広がっていって、
そこで私はようやく気付いた。
あの何も無かった筈の上空の、今は異常の中心地となっているところは――
「――マエリベリー・ハーンが見ていた空間……」
ここは文学部棟横の中庭。
それはつまり、あの日、私とマエリベリー・ハーンが言葉を交わした場所。
あの日、マエリベリー・ハーンが視線を向けていたのは。
「元々この中庭は微弱ながらも魔力が収束する場所だった。それはあの光の中心にある結界の隙間から魔力が零れ落ちていたから。そんなポイントで結界への干渉が最も近しくなるこの丑三つ時に我が研究の完成形である科学魔法を発動させれば、このとおりよ」
波動を放ち続ける赤い十字架を頭上にして両手を広げ、岡崎教授は笑った。
あたかも世界征服に乗り出した魔王のように。
「ん。予定通りだ。結界への干渉はあと7分30秒で最大値まで達する見込みだぜ、ご主人様?」
「よろしい。では、そろそろ搭乗しましょうか」
不敵な笑顔をそのままに、岡崎教授は仰々しくマントをひるがえし船へと身体を向けた。
と、その時。
「しばしのお別れね、宇佐見」
こちらを背にしたままで岡崎教授は言葉を紡ぎ始めた。
「もしあなたがもう少し早く来てくれてたら色々と可能性世界移動の理論を教えてあげてあげられたかもしれないけれど、しょうがないわね。興味が湧いたのなら自分で調べなさい」
風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ中で岡崎教授の声はなぜか明瞭に私の耳へと届く。
船の横では北白河助教授が急かすような仕草をしようとしながらそれを実行できずに中途半端な姿勢のままこちらに身体を向けていた。
遠くにいるから詳しくは分からないが、なんとなく慈しみの色を携えた目でこちらを見ているように感じられて。
「岡崎教授」
生じたのは私の声。
「なぜあなたは、こんなとんでもないことに身を投じるんですか?」
まったくの無意識に言葉は心から零れていた。
「分かっている者に対してわざわざ解答を与えるのは趣味じゃないのだけれど、まぁ今は特別ということにしてあげようかしら」
勢いをつけて岡崎教授はこちらに身体ごと振り向いた。
「分かってなんていません。これは、私の純粋な疑問なのです。あなた程の力を有している方ならばわざわざこんな危険に踏み込む必要性なんてない。もっと安全なアプローチもあるでしょう。いや、もっと別の生き方だってできる筈です。あなたには選択肢なんて星の数ほどある筈。もっと安全かつ有意義な生き方だってできる筈! なのに、どうしてこんな!」
「宇佐見」
どうしてだか私は声を強く張り詰めさせていた。
疑問が、そして不可解が溢れ出るのを止められない
どうして。
「目を背けるな。宇佐見」
どうして彼女はこんな幸せそうな顔で笑っているんだ。
「あなただって分かっている筈でしょう。最大の幸福というのは」
どうして彼女はこんなに強い表情をしているんだ!
「自身の心に素直になることなのよ」
上空で赤い稲光が激しくスパークした。
十字架の中心は歪な空間の片鱗を映し出している。
周囲の研究室から光がチカチカと点灯するのが確認できた。
「もう一度言うわ。目を背けるな、宇佐見」
そして彼女は轟音の閃く赤い夜の中で、はっきりと笑って言った。
「嘘や言い訳は捨てて自分の心に素直になりなさい。自分の心を騙して生きる人生なんて、絶対につまらない筈なのだから」
「ご主人様! もう限界だ! 乗ってくれ!」
船のデッキから北白河助教授が大声で叫ぶ。
その声に呼応して、岡崎教授は比喩でなく一足飛びで船へと飛び乗った。
「そうそう! 私達が向こうに行ってる間のラボの掃除はあなたに頼むわね! 帰って来た時に我が城が廃墟になっていた暁には特別レポート三万字を課すから!」
最高値に達しようとするエネルギーの真下で岡崎教授は言い放った。
私はただ、立っていることしかできなかった。
「それじゃあ行ってくるわね!」
そしてデッキは閉じられて、
船は芝生上からその巨体を浮上させ、
赤い十字架の中心地へと移動し、
電光がいっそう強く瞬いたその時、
夜空を見ていた私の眼が、
2時30分という時間を認識した。
そしてその夜最大の衝撃波がキャンパスを撃ち貫いた。
爆発した膨大なエネルギーの直撃を受けて吹き飛ばされた私が顔を上げたその時には、船も、十字架も、扉も、なにもかもが消え、いつも通りの夜が元通りに佇んでいるだけであった。
「成功、したの?」
月と星だけが在る夜の空を見ながら呟くと、
「結界の境目が消失したことは確かです。それが何を意味するかは、私には分かりません」
隣に立っていた少女は静かに答えた。
マエリベリー・ハーンがそこにいた。
「いったい、なにがどうなってるのよ!」
大声で問い詰める。
けれど目の前の少女は困ったように笑うばかりで。
「それは私の台詞ですよ。貴女達はいったいどうやってあの結界をこじ開けたのですか。あれ程のサイズの境目なんて見たことがありません」
しかし、こちらの事情を伺おうとしてくる言葉には隠す気の無い真剣味が存在していた。
どうやら彼女もこの事態に困惑しているようである。
しかしそれは私とは異なり、全くの意味不明な事態が生じたが故の驚きではなく、ある程度の枠を捉えていたが故にそれを超えた事態に動揺している、といった風だ。
“あれ程のサイズの境目なんて見たことがありません”。
それはつまり小規模のああいった事象のものは見たことがあるということに他ならない。
しかし、今のこの様子。
岡崎教授の研究には一切関係していなかったことは明らかである。
――周囲に騒音が生じ始めた。
あのような異常事態がキャンパスの中で生じたのである。構内に残って作業をしていた者達が野次馬として出てくるのも、そして警察に通報されるのも、自然な流れと言えるだろう。
「どうやら今宵はここまで、ですね」
騒音を一瞥しながら静かに呟き、金色の少女は背を向けた。
「待ちなさい! こんなのじゃあ何も分からないじゃない!」
去りゆく背に叫びかける。
振り向くことなくクスクスと金色は揺れて、
「私もですよ。世の中は、難しいことばかりです」
優雅な苦笑が為されて、
「あなたはいったい何者なの!!」
こちらがいっそう強く声を上げたとしても、
「理不尽が嫌いなだけのただの学生ですよ」
ゆらりと躱されるだけで、
そして流れるように夜の闇の中へと彼女は消える
「マエリベリー・ハーン!!」
瞬間、私は彼女の名を叫んだ。
「首を洗って待っていなさい! 今度はこちらがあなたを驚かせてあげるわ!」
一瞬だけこちらに振り向いた顔には、思った通りの苦笑が滲んでいたけれど、
それでも彼女は確かに笑っていた。
余裕を見せつけるように。
自分が隔絶した位置にいることを思い知るように。
けれども、なにかを楽しみにするように。
六
明けない夜は無いので朝が来てそして当然昼が来る。
昨夜にあんなことがあったので授業に出る気なんて起こる筈もなかった。
けれど私は理学部棟をカツカツと歩く。
それは偏に“私達が向こうに行ってる間のラボの掃除はあなたに頼むわね”という岡崎教授の大声があったから。
あの極限状態でどうして彼女はそんなことを叫んだのか。
もちろん彼女の吹っ飛んだ思考の為せる離れ業と解釈するのが一番妥当なのだけれど、しかし、どうにも私の勘はその答えを良しとはしなかった。
無性に気になる。
掃除をする気なんてもちろん欠片も無い。ただなんとなく、心の向くままに私は岡崎教授のラボへ足を運んでいた。
「最大の幸福は自分の心に素直になること、ってね」
扉に付属してあるデバイスにケータイから個人情報を送信すれば、
カチリ、という鍵の開く気持ちの良い音が鳴った。
ま、このくらいは想定の範囲内だわ。
問題はこの先。はたして私のデータで扉が開くように設定されていたのは単に掃除をさせる為か、それとも?
扉を開ける。
内部は以前見たよりもいくぶん物が減ったようではあるが、おおよそ変わりはなかった。
可能性空間への旅路に持ち出していったものがそれなりにある、というだけだろう。
向こうで何をするつもりかは気になるが、それはそれ。今は脇に置くべき考えかしらね。
無くなったものに気をかけなければ、眼前に広がるのは整理整頓の為されたデータや書籍が並ぶどこにでもあるラボのそれである。
いや、それは違うか。
どこにでもあるラボにはこんなティータイムの為の茶器や机、本格志向の茶葉なんて無いのが普通だ。
インスタントのものならまだしも、ここまでのものをラボに置くだなんて物珍しいと言ってしまっても……
……?
ストロベリーティーにこうまで傾倒をしている岡崎教授が、はたしてティーセット一式を置いて旅に出るものだろうか。
食器棚には茶器どころか茶葉もそのまま残っていて、
「ん?」
そしてそこには一枚、赤色のメッセージカードも存在していた。
“掃除せよ。されば与えられん”
はいはい左様で。
軽く笑って私は悠々とその指示通りに掃除用具の収められた棚を開く。赤いメッセージカードは右手に持ったままで。
簡易ミスリル製の棚の中にはクリーナーやダスターの類いがこれまたしっかりと整理されており、そして棚の内壁の上方奥には、なぜだか赤い着色がなされたモルタル加工の部位が在った。
その面積は右手に掴むカードと一致する。
そんなわけでメッセージカードとモルタル部を接着させると、棚の横に位置していた壁が開いた。
……いやいや。
あたかもなんでもない風に、なんて改造をしてるのよ。
壁の向こうってペンウッド教授のラボだったはずだけれど、これ、大丈夫なのかしら。
開いた壁の先には、これまでの小奇麗な部屋から一転、機器や資料が30メートル四方のそこら中に散らばる雑然とした研究スペースが広がっていた。
これは……、六次元だか七次元だかの方向に空間位相がズレてる、ということなのかしら。
なんとも、本当になんとも大層な仕掛けである。まるでお伽話の世界みたいだ。
まぁ、これならペンウッド教授に迷惑をかけることにはなっていないだろう。たぶんだけど。
というか、
「本当に常識外れの技術ね」
別の世界へと赴くことのできる装置を開発したのならば高次元干渉なんてお手の物、だということは分かってはいるけれど、でもそれだって理論上の話で。実際に次元を弄って隠し部屋を作るなんてもっと未来にならなければ実現できない仕掛けである筈だ。
それを、あんな当たり前のメッセージカードをキーにして発生させるだなんて、まったくもってとんでもない話である。
そしてそれはこの隠し部屋の構造だけに限らない。
部屋の内部に置かれた機器はどれもこれもまったく用途が見えない複雑なものばかりだ。また、随所に重ねられた書類や資料の類いもオカルトと見間違うが如き異色の論が非常に高レベルな計算と実験、そして考察を用いて書き連ねられている。試しに一冊の手書き資料を手に取ってみるも、……ダメだ、読んで三秒で未知の式にぶつかってしまう。まるで手も足も出ない。たった一冊で判断するのは尚早か、と考えてその隣に積まれていた書を取ってみれば中にはびっしりと達筆? な筆文字が延々と続いていた。江戸時代の書物、おそらくは民俗学もしくは風俗の纏め、である気はするがこれも詳しい解読はまるでできる気がしない。
全てに理解が追い付かない。
言っちゃあなんだが私は頭が良い。普通の人間が軽く引いてしまうくらいには頭が良い。
五歳の頃に覚えた四則演算は、今では五桁同士のものくらいなら息をするよりも簡単にできる。
幼い頃から天才だの化け物だと言われ続け、それを無理に否定する必要性を感じない程度には自分でもそれを事実と捉えていた。
まるでレベルが違う。
本当の天才とは、本物の化け物とは、彼女、岡崎教授のような存在を指すのだ。
それに比べたら私なんかは石ころも良いとこ。
なんとちっぽけな存在であることか。
胸中に冷たい風が吹き流れていくのを感じた。
これまでそこには堅固な城の如きプライドがその姿を立ち誇っていた筈。
けれどいまやそれはただの古い石造りの物体としか認識できない。
鮮烈な輝きを放つ星に比べれば地にあるものは外観が整っていようとサイズが大きかろうとはたまた粗雑な代物だろうと違いなんて見受けられないのだ。
五十歩百歩。
常人よりも五十歩先を歩んでいるからといって、そんなことは天から見下ろせば笑えてくるほどに差なんて無いのである。
あぁ、本当に笑えてくるわね。
所詮私は調子付いていただけのただの子供だった、ってことだ。
滑稽ったらありゃしないわ。
不可思議が乱立する空間で私は一人、薄汚れた床に腰を下ろした。
夜空に浮かぶ巨大な月が偽物であることを私は知っていた。
隣を飛ぶマエリベリー・ハーンがそう教えてくれたからだ。
けれど眠りを邪魔された私にはどうだっていいことである。
しきたりと共に生きる我が心身はなんとも無気力な様相で。
紅白の装束は飛翔と旋回運動により揺れるもそれも微細で。
こんなに省エネルギーで生きるのってどうよ、と思ったり。
髪を伸ばすのも結構おもしろいなぁ、とも思ったり。
流れる夜と弾はロマンチックな様相をしている。
月だけじゃなく星だってとても目に眩しい。
なんとも輝きに満ちた一晩である。
緊張感が無いとも思えるけど。
でも、それでもこの景色は
あぁ、綺麗だなぁと
純粋に羨ましく
思ったんだ
私は
。
それが夢であるということは夕刻のチャイムが教えてくれた。
空の色からしてそれが五コマ終了の音色であったことは明らか。
あぁ、完全に今日はサボっちゃったわ。
いや、うん。それは別にそんなに気にすることじゃないか。一日サボるくらい大学生なら普通のことだろうし。
そんなことよりも、
今の夢は
なぜだか普通ではない印象を受けたのだけれど
いったいなんだったんだろうか。
もしかしたら可能性空間の私とマエリベリー・ハーンの姿だったのかしら?
なんてね。それは流石に乱暴な考えだわ。
私は決してあんな無関心キャラじゃないし、隣で飛んでたあの少女もマエリベリー・ハーンとは似て異なる者であった気がする。あそこまで強力に歪んで厄介な者は私の記憶の中には一人もいない。
じゃああの夢はなんなんだろう、と少しは思わなくもないけれど、結論としてはあれは
ただの夢であるってだけのことは理解している。
それ以上でも以下でもない。
夢分析なんて古典を実行する気も起きない。
ただの夢だ。
けど。
「綺麗だったなぁ」
弾幕を抜け夜を飛び越えるあの感覚はなんとも気持ち良く、そして流れる景色は非常に綺麗だと私は心から思った。
夢のよう。という語はああいうものを指すのか、と一人で頷く。
隣で飛翔するマエリベリー・ハーン似の少女の存在も、厄介と思いつつもそこまで面倒なものではなかった。むしろ――
「――ん?」
隣に積まれた書類を偶然視界に入れるとそれは見えた。
『マエリベリー・ハーンに関する最終報告』
文字だけで小ざっぱりと打ち出された資料がそこにあった。
「ふむ」
手に取らない理由は無い。
マエリベリー・ハーンに関する最終報告
ポイントAの最大結界乖離点の存在を視認していると考えられるマエリベリー・ハーンであるが、結界以外の魔力保有体には反応を示すことはなく、また、EKを用いて試験的に結界の様態を1メートルの範囲に拡張した際も特別な動きは見られなかった。距離50の位置から計測した際のMPは105とカテゴリーAの数値を維持してはいるもののその数値は過去三回の同様の計測にて5以上の変動をしたことはなく誤差の範囲を超える消費がなされていない。以上のこととこれまでの観測結果からマエリベリー・ハーンは結界を視認することができる以外の特筆すべき能力は有していないのではないかと推察できる。よって警戒レベルはC2へと変更し、MP変動の見られた際に対応を行い、それ以外の状態では特別の接触は必要ではないと判断する。
「マエリベリー・ハーンは結界を視認することができる……」
理解しきれない記述もあった中で私が留意したのはその点である。
ほとんど分かっていたことではあるが、これで確定。彼女があの日見ていたのは夕方の空ではなくそこに存在した結界であったのだ。
結界。
オカルトや都市伝説の類いではよく出てくる単語ではある。
世界を隔てる壁であるという説もあれば単に心霊スポットの俗称でもあったりするソレが、本当に存在しているという事実。
今更疑うことは無い。
超常現象を私はこの眼でハッキリと見てしまっているのだ。
この世には私の理解がまるで及ばない不可思議な現象が、おそらくは深部まで、そして広大に存在しているのだろう。
胸の奥で火の灯る音がした。
「この世には私の理解がまるで及ばない不可思議な現象が、おそらくは深部まで、そして広大に存在しているのだろう……」
口に出して言ってみる。
これは、
これは、とても素晴らしいことなんじゃないだろうか。
魔法なんて現実には存在しないと諦めていた私の心を根本から覆す事実なんじゃないか。
歩を進める理由にこそなれ、膝を屈する理由になんてならない事実なんじゃないのか。
城の上空で輝く星は綺麗だ。
屋上まで昇ったのなら、眼下の景色に目を遣るのではなく、天に広がる星空にこそ焦点を合わせたい。
などと自分が考えていることに気付く。
でも、そうでしょう。
私がこんなところまでやって来たのはきっと、何にも遮られていないそのままの星空を見たかったから。
ちょっと前まではビルとかガスとかそんなものに隠されていた星の瞬きが今はこんなにクリアに見える。
それだけでたぶん十分に幸せなことなんだろう。
もしかしたらその圧倒的な眩しさと距離を知ることで絶望をしてしまう心があるかもしれないけれど。
でも、私みたいな、奥の方でこっそりとファンタジーやロマンの存在を望んでいた人間にとっては、見上げる先に遥かな光が在ることは、そこにスモッグや電灯ばかりが見えるよりは確実に希望を感じられて。
胸中の炎がより強く燃える。
そうだ。ここは終点なんかじゃない。呆けてる場合じゃない。自身の理解のできない地に辿り着いたというこの状況は限界ではなく始まりに違いないんだ。
階段を上がり屋上に出て星を見上げ、そして決して手の届かない光の存在を知ったなら、
ならば次はロケットを作れば良いだけのこと。
こんな所で突っ立ってるだけじゃ一生光は手にできない。
ならば、手にできるところまで飛んで行けば良いだけでしょう。
幸いにも此処にはロケットを作る為の知識、技術はこの部屋にゴロゴロと転がっているわけで。
そして、向かうべき航路が見えている者が傍に存在していることも私は既に知っている。
マエリベリー・ハーン。
あなたは星々の世界に飛び込むための扉があることを知っていて、それで何を思ったの?
どうしてあなたはずっと結界を見上げていたの?
どうして、ずっと笑顔を作っていたの?
疑問は尽きない。
奥の方から笑いが込み上げてきた。
あぁ。やはり私はこういう人間なんだ。
星を見ても「綺麗だなぁ」だけじゃ決して終わらない。終われない。どうしたって手に取ってその光の内情を知りたくなる。そんな、どうしようもない人間なんだ。
傲慢と言われても否定のしようがない。
後ろ指を指されても構わない。
私は、私の好奇心を、
「絶対に誤魔化したくない」
思いを口に出し、そして両の頬を手のひらで二度叩く。
“自分の心を騙して生きる人生なんて、絶対につまらない筈なのだから”
あの時の岡崎教授の声が不意に再生された。
彼女の心情が、今なら少しだけ理解できる気がした。
学会に否定されて滲んだアイデンティティーを、きっと彼女は軸に存在する好奇心を存分に輝かせて立て直したのだろう。
そうして彼女はついに可能性空間に飛び出していったのだ。
自分の心に正直に生きて、そしてつまらなさの対極にある行いを実現させたのだ。
私も、彼女のようになれるだろうか。
彼女は18歳。私は16歳。
2年後にあれほどの高みに至れているとは流石に考え辛いけれど、
でも、
「ま、とりあえずは動き出してみますか」
ただ佇むだけ、なんてのは無し。
火はもう焚かれているのだから。
あとはもうロケットと航路を準備すればそれでオーケーなのである。
窓の外に広がる空を見上げる。
「現在時刻は18時12分47秒。今日が終わるまでの約6時間で全体像の把握くらいはしておかないとね」
はたして私はどこまで行けるのだろうか。
そんな考えが笑みとなって私の口元に現れていた。
さてさて、
まずはこっちの山から見ていきますか。
七
「ハロー」
「……こんばんは」
あの隠し部屋には数え切れない程の超有用な資料が存在していた。
例えば、マエリベリー・ハーンに関するデータファイルとか。
生年月日から入試の点数、入学までの経歴等々。
だからもちろん現在住所だって書かれていたりして。
「まさかこういう形で驚かされるとは思ってませんでした」
そんなわけで今私達が会話しているここはマエリベリー・ハーンの住むマンションの正門である。
「あら、あまり寝ていらっしゃらないようなのですが、具合はよろしいのですか?」
相変わらずこちらの心を読んだ発言をする子だ。
見抜かれた通り、あの研究室に籠り始めてから今日までの二日、私は一時間しか寝ていない。第一歩を踏み出すのにすらこんなに時間がかかってしまった。ホント、私ってば頭が悪いわ。
けれど、
「これからあなたにはきっちりと驚いてもらうんだから、人の心配をして今から余計なエネルギーを消費してしまうのはよろしくないわよ?」
行うべきことはもうしっかりと脳に収め終え、そして扱うべき物はこのショルダーバッグの中にちゃんと入っている。
「とびっきりの不思議を見に行きましょう。マエリベリー・ハーン」
しょうがないなぁ、なんて風に目の前の少女は笑みを作った。
一条戻橋。
上京区にある小さな橋だ。
その名称は撰集抄に伝えられている出来事が由来となっている。平安時代の中頃、三善清行という漢学者の葬列が橋の上を通った際にその子供の浄蔵という天台宗の僧が棺にすがり祈ると雷鳴が轟き、そして清行は生き返ったのだとか。
その他にもこの橋に纏わる逸話は多い。
安倍晴明が十二神将をこの橋の下に隠していた。斬罪に処された千利休の首が晒された。大戦中にはたくさんの兵士及びその家族が無事に戻ってくることを願うために訪れた。
そんな、あまりに多くの者が心を触れさせた、幽明の境目が曖昧と伝えられているこの橋には
結界の境目が確かに存在する、とのデータが岡崎教授の手によって纏められていた。
先に述べたように、長い年月の間その橋は“そういう場所”として在り続け、そして現代でもたくさんの人が観光に訪れ、その名は全国の人の知るところにある。なんでもそういった信仰心やそれに近しい感情が存在することで場に魔力が発生するらしい。
正直言って、よく分からない仕組みであると思う。
しかし纏められた報告書群には、もともとこの一条戻橋が岡崎教授の中では可能性世界移動の最有力候補であったことが記されていた。あの人文棟横の中庭よりも存在する魔力の値は6倍もあるとのこと。魔力の値が大きければ“結界の境目を開く”という工程において必要なコストがそれだけ小さくなり、そして安定して境目を開くことが可能なのである。圧倒的にこちらの方が可能性空間へ移動するには容易ではあるのだ。
ただ、どうしようもできない問題点が一つ。
境目はそのこじんまりとした橋に接地するように存在している。周囲には人も建物も多い。ゆえに、あの巨大な船で突撃することは実質不可能なのである。
……あの人ならもしかしたら周囲に何があっても突撃しそうではあるけれど。
しかし、結果としてはその橋以外にも文学部棟横の中庭という場に十分な大きさの境目、そして魔力が存在しているということが判明し、そうしてそこで全てを行った。
ゆえに橋に存在している結界の境目は報告書にあった状態のまま放置されている。
橋に接地した、周囲に人目のある、結界の境目。
可能性空間移動船を寄せることは不可能でも、
私達二人ならきっと――
「楽しそうですね」
隣を歩くマエリベリー・ハーンが不意に声をかけてきた。
私、さっきから一言だって喋ってないはずなんだけど。なんで読み取られちゃうのかなぁ。
見れば子供と遊ぶように彼女はクスクスと笑っている。
「……前から疑問だったんだけど、あなたはどうして心が読めるのかしら」
報告書を読む限り彼女は決して妖怪でも宇宙人でもない。結界の境界が見える以外は普通の人間と一緒の筈。
なのにどうしてこんな芸当ができるのだろうか。
「簡単ですよ。あなたは思っていることがとても表情に出やすいのです」
……は?
「昔から臨床心理学の分野には興味がありまして、外観からその人の思考内容を判断することは好きではあったのです。けどまぁ、あなた程分かりやすい方にはこれまで会ったことがありませんでしたね」
……え。
「それはつまり、えーと、私がただ幼稚なだけだった、ってこと?」
「そうは言いませんよ。ただ、可愛らしい人だなぁとは思いましたけどね」
え、えぇぇー……。
なんだそれ。さんざん不可思議を発生させていた要因が、こんな、私が子供っぽいっていうだけのことだなんて。
これ、普通に恥ずかしいんですけど……。
「いや、ですから、子供っぽいだなんて思っていませんでしたって」
「よ、読まないでよ!」
「意識せずともあなたの表情が勝手に視界に入ってくるのですからしょうがないでしょう。嫌ならばサングラスでもかけられては?」
「こんな夜にサングラスかける馬鹿がどこにいるのよ……」
はぁ。
我ながら情けない。
世の中に分からないことなんてないなんて思っていて、その実分からないことなんて普通にあって、それが結局自分の不注意から生まれていたものだなんて。
この世に生を受けて16年。結構長い時間を生きてきたと思ってたんだけど、……まだまだ、ってことなのねぇ。
まだまだ。
うん。
私はまだまだ、子供だわ。
「あなた、変わりましたね。少し大人っぽくなりました」
……まったくもう。この子は。
「皮肉は受け付けてないわ」
「いえ、今の言葉は私の本心からのものですよ」
表情を夜に溶かして、語り口は自然なままで。
「だからこそ私は今宵、あなたの誘いに乗ったのでしょう」
ふわりと金の髪は揺れた。
それから私達はいろんな話をした。
彼女の眼のこと。
私の眼のこと。
オカルト考察。
K大に入学するまでの経緯。
一人暮らしの雑務の面倒臭さ。
彼女の得意なお菓子がフランボワーズのタルトであること。
私が家の鍋の中にここ四日間カレーを押し込めていること。
彼女はスキンケアの為に毎晩死海の塩を材料としたスクラブを用いていること。
私はと言えばコンビニで買った洗顔料だけで手早く済ませてしまっていること。
彼女がオンラインの掲示板を怖がっていること。
私が一時期SNSでアイドル視されていたこと。
好きな本。
嫌いな色。
色々。
話題が尽きたわけではない。
けれど、私達は今はもう一言も喋らなくなっていた。
一条戻橋にて。
じっと静かに、夜の中に佇む。
「現在時刻、2時25分30秒」
私は上方に首を傾けて月と星を見て、
「前方20メートルの位置に、非常に大きな結界の境目があります」
彼女は前方から顔を向け結界の境目を見る。
大きな月と満天の星が輝く美しい、暖かな春の夜だった。
「行くんですか?」
雫が落ちるように彼女は言う。
「あなたを驚かせると、とびっきりの不思議を見せてあげると、私は確かに言った筈だけど?」
「そうですが、しかし、そんな意地だけでどうにかなるものでもないと思います」
「意地だけじゃないわよ。ちゃんと準備は済ませてあるわ」
「けれど」
「ねぇ」
そこに平生の笑みはなくなっていた。
夜の光に照らされた姿に得も言われぬ儚さを宿し、不安を帯びた目でこちらを見てくる。
「やっぱり、怖い?」
小さく、本当に小さく、マエリベリー・ハーンは頷いた。
ようやく私は彼女の本当の心にようやく触れることができたんだ。
彼女は妖怪でも宇宙人でもない。特殊な能力を持ってしまった只の人間でしかない。
その力に困惑したことだってあるだろう。
それを誤魔化す為にあんな態度をとっていたのかもしれない。
そうして、ただ眺めるだけの日々を、彼女はずっと。ずっと、生きてきたんだろう。
「私がこういう風に不思議なものを追っかけるようになったのにはきっかけがあってね」
自然と口が動いた。
「聞いてくれるかしら」
今度はこちらの目をしっかりと見据えて、マエリベリー・ハーンはしっかりと頷いた。
「ちょうど十年前になるわね。
私の母方の実家が博麗神社っていう小さな神社の管理をしていて、毎年行ってるんだけど、まぁ、その年も当たり前のようにそこに初詣に行ったの。
本当に寂れた、どこの街にでもありそうな小さい神社よ。この街にある神社仏閣と一緒にされちゃ困るって感じの。
祖父と祖母、叔母さんなんかは忙しそうにしてたしけれど、正直人なんて全然来ないのよ。父も母も手伝いはせずに親戚付き合いだけに勤しんでいたわ。
そういうわけで私もかなり暇だったから境内に一人でぼうっと立って星空を見ていたの。
雲がひとつも無い、澄んだ冬の星空だったわ。
そこにフラリと参拝者が二人来てね。興味深そうに色々と話し込んでいたりして、それで気になって私から話しかけてみたら、なんだかやけに私は気に入られちゃったらしくて、それで三人で結構長い間話をしたのよ。よく分からないけれど、私が二人の知り合いに似てたらしいわ。
その二人は森近霖之助と霧雨魔理沙って名前でさ。
今から思えばかなり変な人達だったわね。
実は私達は人間じゃないんだぜ、なんて台詞を堂々と言ったりするんだから。
あ、ちなみに今のは霧雨さんの言ったことよ。外見は綺麗なお姉さんなのに言葉遣いはまるで男の子のそれで、なんだかすごくおかしかったのを覚えているわ。まぁ、北白河助教授と同じ喋り方をするお姉さん、って認識でオーケーよ。北白河助教授よりも歳は上に見えたけれど、詳しいプロフィールは聞いてないから、詳しいところは分からないわね。
そう。二人の正体は結局最後まで分からなかったのよ。
どこか遠くからやってきただの、やれ魔理沙はなんで付いて来ただの、やれ私がいないと香霖はダメだの、外の世界への興味がどうだのこうだの。……私も子供だったし、変な解釈をしちゃってたんでしょうね。そのあたりはきちんと覚えてないわ。
ただ、さっきも言った通り、なぜだか私は気に入られちゃって、森近さんからおもちゃを貰ったりして。
そして霧雨さんは、空に指をスッと差し向けて、
星を一つ降らせたの。
いきなり過ぎて願い事なんて言えなかったよなぁ、
なんて言って、明るく笑って、そして私の頭をポンポンって撫でて。
精進しろよ、って言って、その後にまた笑って。
そして二人は境内から去って行った。
あの流れ星があまりにも綺麗でさ。
それで私は、この世にはなんだか凄い、魔法の様な素敵なものがあるんだろうなぁって思いこんじゃって、そうして本とか色々見るようになったり勉強もガツガツやりだすようになったのよ。
それがきっと、私の始まり。
捻くれたり遊んだりもいっぱいしたけれど、でも、
私はやっぱり、星を追っかけて、そしてこの手に掴んでみたいのよ!」
思いがけず私は声を強く放ってしまった。
けど、目の前の少女は一度たりとも目を逸らすことなく私の話を聞き続けてくれていた。
そして、ふっと笑う。
「私にはあなたのような強いモチベーションも無ければ語って聞かせられるだけの思い出もありません。子供の頃から結界の境目が見えていて、ただただそれが不思議で、けれど怖かった。私にはどうしようもないから。今だってそう。それだけです」
「大丈夫」
気が付いた時には、
「私が付いてるから」
私は彼女の右手を両手で強く握っていた。
「一緒に、行こう」
私が表情に出やすいからか、それとも彼女の感性が鋭かったからか、
彼女は躊躇いがちながらも、その言葉だけで、ゆっくりと確かに頷いた。
気になって、でも怖くて。その気持ちは私もすごく分かる。分かるよ。
でも、怖いのなら尚のこと、逃げるのはなしにしようよ。
真正面から暴いてやろうよ。
それの正体をさ。
そうじゃないときっと、気持良く笑えないよ。
ね?
右手をショルダーバッグにかけ、左手だけで彼女の右手を握る。
ギュッと、力が込められた。
天を仰ぐ。
「現在時刻、2時28分19秒」
そして私達は同時に足を前に出した。
一歩ずつ確かめるようにゆっくりと石造りの上を行く。
コツ、コツ、と。
やけに音が大きく聞こえる気がした。
「あと、10メートルです」
今更だが、私にはここまで近付いても何も見えないし感じない。
けれど、勘だけはしっかりと反応している。
すぐ近くに、とても大きなものがあると。
それが非常に危険なものであると。
盛大に警報を鳴らしていた。
マエリベリー・ハーンが足を止めた。
「あなたの右半身の前方50センチメートルに、高さ2メートル、幅20センチメートル程の境目があります」
心臓の鼓動が強く響く。
世界の全てがスローモーションになったようにゆっくりと見える。
左手からはマエリベリー・ハーンの震える心が伝播してきた。
けど、逃げない。
私はもう目を背けない。
右手をショルダーバッグの中に入れ、十年前のあの日に森近霖之助から手渡されたものを取り出す。
どこから二等分にしても必ず一色には成り得ない黒白の玉。
それが陰陽玉と呼ばれるものであることを、私は岡崎教授の実験室で知った。
膨大な資料の中でそれに対して語られていたのは「最高クラスの魔力保有体」としての高い有用性。
もちろんそれは計測機器で確かめもした。サンプルとして記されていたA1クラスの魔力保有体の平均値200を圧倒する1600という数値を叩き出したときは本当に驚いた。
岡崎教授の理論によれば、結界の緩い部分に大きな魔力をぶつけることでその接合を一気に引き剝がすらしい。
あの別れの夜に彼女が発生させた魔力値が1150であったことも私は調べた。
ならば、あの時以上に開きやすいとされているこの結界の境目にこの陰陽玉をぶつければ。
これはおもちゃなんかじゃない。本物なんだ。
はたして、これを私にくれたあの二人の正体はなんなのだろう。
……それもこれも纏めて
「全部、解き明かしてみせるわよ」
力を込めて呟き、そして、
私の目が2時29分55秒を認知した。
「いくわよ!!」
とびっきりの力を込めて陰陽玉を前方50センチメートルへと突き出した瞬間、
強烈な電光と尋常ではない風が咆哮を上げた。
暴れ狂うスパークが周囲を薙ぎ氷のように冷たい風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ。
「――っ!!」
衝撃が大き過ぎる。目を開けるのもやっとだ。やはりこれだけの魔力を直接手でぶつけるのは無茶だったか。いや、でも!
「やるしかないでしょう!!」
ここからは根性の勝負である。科学者としては語るに落ちる行いだって? 知るか!
私はここを突破する! それだけ!
吹き荒ぶ風が威力を増す。
これは、結界が少しずつでも開いていっているということだろう。
もう少し!
もう少し!!
もう少――
――マエリベリー・ハーンの左手が私の右手に重なり、陰陽玉を前方に押し込んだ。
光が世界を包んだ。
一瞬を引き延ばした、長い長いフラッシュアウトが続いて、
夢の中に迷い込んだような奇妙な浮遊感がずっと感じられて、
けれど、少しずつ輝度は低下していき、地に足の着いた感触も復活し、冷たい風が頬を撫でて彼方へと飛んでいって、
光が拡散していった先に見えてきたのは
月も星も見えない、不思議な灯りが天井を照らした緩やかな闇と、
静かに降る雪と、
そして、
古めかしい木造の橋だった。
先程まで私達は満天の星空を冠した暖かな春の夜の下で、石造りの橋の上に立っていた筈。
つまり。
「ここがパラレルワールド、ですか?」
マエリベリー・ハーンが私の左手を握ったまま、恐る恐る呟いた。
そう。
私達は、成功したのだ。
むせかえる様な古い木の臭いと容赦の無い雪の冷たさは、お世辞にもロマンチックなシチュエーションとは言えないけれど、でも、私達は本当に世界を飛び超えたんだ。
あぁ、本当にこういうことができるものなんだなぁ。
こういうのって漫画とか小説だけのものだと思ってたりもしたけれど。
そっか、
できるんだ。
できるんだなぁ。
揺らめくように視界が滲んだ。
マエリベリー・ハーンの手を離して前へと歩き出す。
「……どうかされました?」
今だけは彼女に顔を見せるわけにはいかなかった。
今日は彼女を驚かせると決めたんだ。
だから、こんなところで私が涙を流してるところなんて見られたら、本当に格好がつかない。
でもさ。
嬉しくて、
嬉しくて、
自分じゃあもう、どうしようもないんだよ。
止められないんだよ。
「ま、待って下さいよ!」
私に並ぼうとしてくるマエリベリー・ハーンの気配を読み取ってもう一歩前へ。
しばらくはここに留まっていたいと考えもしたけど、その考えは却下しておこう。
ここまで来て前に進むのをためらうなんてのもおかしい話だしね。
さて、橋の向こうにはここよりもずっと明るい光が見える。電灯の光とは趣の異なる、怪しい光を降ろした地。はたしてあちらには何があるのかしら。
行ってみれば分かることよね。
さぁ、気合を入れ直して行くとしましょうか!
「随分と楽しそうね。妬ましいわ」
声が響いた。
「さっきから見てたけれど、あなたたち、人間よね?」
雪の向こうに影が見える。
金髪の、どこかの民族衣装の様なものを着た少女が、
こちらに緑色の眼を光らせていた。
「というか、あなた達の纏っている空気からして外来の者なのかしら。それならここで取って食べちゃっても誰も文句は言ってこないでしょうけれど」
吹く風がいっそう鋭くなった気がした。
冷たい。
身体が途端に震えだす。
いったい目の前の少女はなんなんだ。
「まぁ、なんだかあなた達は誰かさん達に似てるし? 面倒事に繋がっても嫌だから、今日のところは素直に橋守の仕事に従事してあげるわ」
その誰かさん達が怠慢だからあなた達がここにいるのかしら、と思案の呟きを添えた後、こちらへと掌を向けて――
「――危ない!!」
「さっさと元の世界に帰りなさい」
マエリベリー・ハーンの手を掴んだ瞬間、とてつもない突風が叩きつけられて、
そして私達は後方へと吹き飛ばされた。
「ん、ぅ……?」
触れたのは暖かな空気。
目を開ければそこにあるのは月と星と街だった。
現在地、京都府京都市上京区一条通堀川。
現在時刻、2時30分10秒。
……やられた。
どういう方法を以ってかは分からないけれど、私達は境目の向こう側からこちら側まで押し戻されたようである。
「大丈夫ですか? ……っ、あぁ、やはり」
隣ではマエリベリー・ハーンも眼を動かして、
「境目がなくなっています」
橋の上を見て言った。
そりゃあ、そうよねぇ。
一度作用を加えた境目はすぐになくなってしまう、というのは岡崎教授の調べにもあった記述だった。現に人文棟横の境目もあの夜で消えていたのだから、それは確かなことなのだろう。
……むしろ、その境目からこちらの世界へ戻ってこられた今の状況はかなりレアなのではないだろうか。
行きだけでしか使えないと考えていた境目を私達は行きと帰りの二度通ったのだ。
もちろんそれはあの得体の知れない人物の力があってのものだけれど。
それと、先程確かめた時間はなんだ?
2時30分10秒。
その時刻が本当なら私達は10秒にも満たない時間しかあちらに行っていなかったことになる。
体感時間ではもちろんそんな筈はない。
時間の流れの差というものがなんらかの形で関わっているということか。
時空跳躍。まだまだ私の予想すらしていなかった事態は多いようだ。
私達はどこへ行くのか。
どこへ向かおうとしているのか。
ま、それを究明するのが楽しいのよ。
ヘコんでいる暇なんか無い、ってね。
「あぁ、そういえば」
「ん?」
「言い忘れていましたが、私、驚きましたよ。ここまでのことが起きるだなんて思ってもいませんでした。見事にあなたにしてやられてしまいましたね。正直、少し悔しいです」
まったく、この子は。
そんな真面目な顔で、なにをいきなり言い出しちゃうんだか。
あぁ、おかしい。おかしいったらありゃしないわ。ホントに、もう。
春の風が音も無く私達を包んで、そして彼方へと流れていった。
見上げた夜空には沢山の光が煌めいていてとっても綺麗だった。
八
あの夜に失ってしまった唯一の物は陰陽玉である。
あちら側に移った瞬間に生じた爆発によってか、それともあの謎の人物によって吹き飛ばされたことによってか。曖昧な我が記憶が情けない。が、悔やんでも仕方のないこと。陰陽玉を失ったという事実は覆しようがない。それに変わる境目を開く手段はおいおい考えていこう。調べる事柄は元々たくさんある。それに事項を一つ加えることぐらいでガタガタ言ってたらこれから先はやっていけないだろう。
まぁもっとも、あれは私の大切な思い出の品なんだから。
いつかは絶対に取り戻してみせるけどね。
現在時刻は18時9分51秒。
あの夜に得たものは沢山あったけれどその中で一番を決めるなら悩むまでもなくマエリベリー・ハーンからの信頼だ。
浮世離れしたキャラクターは相変わらずだしその癖に“向こう側”に対して恐怖を抱いているというスタンスもそのままだけれど、そんなマイナス要因を打ち消すのには十分な程に彼女の結界の境目を見る能力には有用性が存在している。
また、彼女の知識、考え方にはなかなか面白いものも多い。相対性精神学専攻の学生なのだ。きっと変な事をいっぱい勉強しているんだろう。
使える子である。
……あとはまぁ、話のノリとか妙に合うしね。
現在地は待ち合わせ場所であるカフェの真ん前。
それじゃあオープンセサミっと。
「10分の遅刻なのですけれどなにか私に言うことは?」
開扉に伴っての開口一番がこれである。なかなか彼女のキャラも垢抜けてきたものだ。
「正確には10分13秒の遅刻よ。今日は惜しかったわね、メリー」
「そんな重箱の隅を突くような言葉は求めていません。それに私の名前はマエリベリーです」
「細かいことを言わないの。良いじゃない、メリーで。マエリベリーって名前は長くて面倒なのよ」
「……もう好きにしてください」
「うん、好きにする。あ、私はブレンドコーヒーね」
あの夜から一週間が経った。
その間で私達は不可思議な現象について研究をしたり、カフェで普通にお茶をしたり。随分と共有するものが増えた。
まぁ、こんなのはまだまだ序の口だと私は思うのだけれど。
「それで、今回の呼び出しの理由は? 今日は活動を休みにすることを以前から私は希望していた筈なのですが」
「あー、明日が期限のレポートがあるんだっけ? いいじゃない別に。そんなの一回くらい諦めちゃっても構わないと思わない?」
「私、そろそろあなたに対して敬語を使うのが馬鹿らしくなってきました」
一週間の間に情報のインプットは可能な限り行っていた。しかし、ページを捲れば捲る程に感じ得たのは自らの無知ばかり。
今から考えてみれば、あの時境目に飛び込んだのは本当に無謀だった。
今こうして空調の効いた店内に座っていられるのはただ単に運が良かっただけだったからだ。
一口に境目と言ってもその先に繋がっている世界は訳が分からない程に多様なのだ。アマゾンに飛ばされることもあれば安土桃山時代に飛ばされることもある。並行世界に辿り着くこともあればお伽話の中に潜り込んでしまう可能性だってある。
そこから戻って来られるかどうかはケースバイケースだし、そこで命が潰えてしまうことだって当然の如く考えられる。
あの夜に私の勘がけたたましく危険信号を鳴らしていたのは誤作動などではなかったというわけだ。
けどそれでも、私はあの時の行動を誇りに思うわ。
あの時に境目を超えることができたからこそ今の私がいられるんだから。
あぁ違う。訂正。
あの時に境目を超えることができたからこそ今の“私達”がいられるんだから。
「なに幸せそうな顔してるんですか」
楽しそうに微笑みながら目の前の少女は笑った。
「うっさいわね。それよりも今日の本題よ、本題」
私も似たような顔をしてるんだろうな。
もしかしたら踏み込んではならない領域というものが存在するのかもしれない。
知ることが不幸に直結する事実があるのかもしれない。
まさにパンドラの逸話のように。
あの話で言う箱の役目をこの世界では結界なるものが担っているのではないだろうか。
それを暴くことはよろしくないことなんじゃないだろうか。
もしかしたら私達の世界は誰かの一夜の夢なのかもしれない。
別の所では別の私達が別の物語を紡いでいるのかもしれない。
それがどうした。
それが私の足を止める理由になんてなり得ない。
だって、気になるんだから。
「本題ですか」
「そう、本題。私達って、もう結構一緒にいるじゃない?」
「量的にはそうでもないですが、質的には確かにその通りですね」
「よね。でまぁ、きっとこんな感じの関係なり活動がこれからもずっと続いていくことは想像に難くないわけよ」
「できれば私は静かに暮らしたいんですけどねぇ」
「またまた御冗談を」
「……まぁ、いいんですけど」
岡崎教授も北白河助教授も自己啓発本を読むタイプではないと思うのだけれど、しかしなぜだかあの研究室には一言だけ偉人のメッセージが文字に起こされ、そしてデスクの上の見える位置に貼り付けられていた。
“聖なる好奇心を失うな”
今更クドクドと検索する言葉じゃないわね。
字面のままのメッセージ。
残したのはかの有名な物理学者、アルバート・アインシュタインだ。
分かりやすいものよね。
とは言っても、私もつい音読しちゃったりしたんだけれど。
「さて、本題よ。メリー、私達でサークルを作りましょう」
「サークル? 大学公認の下で動く、ということですか?」
「違う違う、そんな大層なものじゃないわ。ただ、なんとなく名前があった方が格好がつくじゃない?」
「……」
「子供っぽい考えだということは承知済み。でも実際、無いよりは有った方が良いでしょ」
「マトモな名称でしたらね。恥ずかしいものは無くて良いのです」
好奇心を傾けるに値するものはたくさんある。そんなことはもう知っている。
彼方まで散らばる不可思議だらけの秘密の数々。
それを不可触とするために施された封印の数々。
もちろんそれらの事象に限らず、私の知らない物事はまだまだ沢山ある。当たり前のことよね。
あぁ、本当に腕が鳴る。胸が高鳴る。
興味の赴くままに、それらの全てを解き明かしてみせよう。
「他人のアドバイスを受けて、そちらの方が良かった、という経験は素敵なものです。この場合はアーティフィシャルでもなんでもなくて」
「おぉ、いきなり訳の分からないことを」
「あなたの能力を認めつつも牽制を加えているのですよ。それと、あなたと私の文化レベルの差異の明確化」
「ふぅん」
「……はぁ。どうせ既に案は考えてあるんでしょう。言ってごらんなさい」
「あ、敬語が消えた」
「敬いの心が必要かしら?」
「いいえ。距離はゼロに近い方が、嬉しいわ」
つっけんどんな物言いに並行して微笑みが零れた。
特別に言うことじゃないけど私だって現在進行形で笑っている。
さてさて、
「それじゃあ発表するわ」
こんな私達がどこまで行けるのかしら。
ま、それは今後のお楽しみ、ってことで。
「私達のサークルの名前は――――
了
まあここで終わるのが一番綺麗なんでしょうけどもw
蓮子の動機とか考えとかがすんなり入ってきてとても楽しませてもらいました。
ただ詰め込んだ設定の全部が活きてない点だけはちょっと残念です。
もっとこの世界の裏側を知りたかったなーと思うぐらいのめり込むことができたので…
もう秘封の続き出ないのかなあ
それぞれのキャラもとても好みでした。
続きを期待します。
秘封の出会いを書いた作品って意外と少ないから新鮮
出来れば霖之助と魔理沙が外に出たときのスピンオフも読みたいw
蓮子&メリーや教授達の確立したキャラクターもさることながら、
仄かに香る幻想郷組もすばらしいスパイスでした
ここまで設定を作っちゃったのならむしろ連載してもいいのよ?いやいやして下さい!
蓮子の気持ちにシンクロせざるを得ない!!!ストーリー全部を通して、「大人になれば不思議なんて忘れてしまうもの、日常の中に埋もれてしまうもの……それでいいのか宇佐見蓮子!自分に素直になれよ!本当に夢を掴める人というのは(ry」という熱い主張が滾ってますよねw
その気持ちは分かった、だから2作目を書く作業に戻るんだ
これからの可能性を読者にゆだねるというのも一つの手だけどここまで書いたならと思ってしまうんだよなあ……設定だけ長大にして終わられると少し残念だったりw
続きはないのかもしれませんが、続編を期待したくなる作品でした。
改行を使った演出も素晴らしかったです!
本文は必要じゃない物を書き過ぎて内容が希釈されてる、もっとスリムに内容を濃く
重要な点、書きたい点とその周囲にあまり落差が無かった、盛り上がる場所はどこだ
あとは個人的な好みの話
夢美のキャラをもっと魅力的にしたら話のつながりが強固になったと思う。難しい話だけどね
蓮子の博麗神社話がかなり唐突に感じた。それならいっそ冒頭に書いて、列車に揺られてる間そんなことを思い出したなんて書いたほうがいい
陰陽玉ってアイテムも思い出云々の理由をつけて実家から持ってこさせれば面白かったはず
総合して、平坦。これを味とは言えない
ここで終わるのがスッキリしているとは思いますが、
それでもこの二人、この世界の続きを見たいとも思いました。
思わずのめり込んでしまいました……。重ねて、面白かったです!
まさかクリアされるとは思わなかったでしょう。
全体的に良く練られた話で非常に楽しめました。3000点という点数が不思議なくらいです。
是非続きが見たいと思いました。
あと、ちょいと助教授の行動に突拍子さと歪さを感じました。
情報の出す順序、そのフォローが足りていなかったのかもしれません。
ここで終わるのでなく、もっと先を、若しくは結末を望みたいとの欲と、魔理沙などの秘封以外の要素を秘封に馴染ませるに当たって描写が不足しているかなと思ったので、20点はお預けと言うことで。