人里において飛べる人間は限られており、大抵の者は地に足を着いた生活を送っている。
普段の生活で飛べないことによる弊害を感じることは無く、せめて山の上の神社まで歩くのが億劫だなあ、飛んで行けたらなあとか思うくらいだ。
大分前、人里に住んでいる識者が、もし人間が日常的に飛ぶ生活を送り、また飛ぶ必要のある環境で暮らしているのであれば今の人の形とは違った性質を持つ事になるだろう云々と言っていたのを覚えている。
飛ぶための性質が後天的か先天的かによって身体の特徴に違いが生じるのは理解できた。人里で飛べる者、人間でありながら飛べる者は飛行術を本能で会得したわけではなく、見た目も差異は無い。鳥のように翼で飛ぶ訳ではない。
ただ、妖怪が平然と空を飛んでいるのを見るに、飛行術とは妖術の類であり、人間性を犠牲にして妖怪性を得るものなんだろうとぼんやり思った。
「何考えてるんですか」
不意に声がしたので周りをうかがうと少女がこちらに近づいてきたのが見えた。
一目で妖怪だと分かった。まさか襲って……
「人里ですから襲うような真似はしませんから安心してください。 第一そんな野蛮そうに見えますか?」
何も言ってはいないのに、少女は自分の返事を待たずに考えた事に対して答えてくる。大きな目玉が顔についている両目と一緒にこちらを凝視している。さとり妖怪だと勝手に思った。
「ええ、そうです。 今日は旧都からはるばる人里を訪ねに来たのですが、久々に日光を浴びて気分がいいところ、ちょうど茶屋を見つけたものですから一服しようかと思ったら貴方が何か考えていたもので」
つい読心してしまいました……と言ってきた。それなら考えに勝手に返答がくるのかと思ったら
「人の目があるのに私一人に喋らせて……、それじゃあまるで私が変な人に見えるじゃないですか」
と返ってきた。なるほど、それもそうだ。やはり声を出して話した方がいいらしい。
「それじゃあ暇つぶしも兼ねて自分の話相手になってもらってもいいですか?」
「いいですよ。 空を飛ぶことについてですね」
「はい、空を飛んでいる時はどんな心持なのかと」
「それを語るには私の昔話に付き合ってもらう必要があります」
自分は空を飛ぶ際の心持というのはどういうものか、実際に飛んでいる妖怪に聞けば更に飛行への深い考察が出来るかもという思いで質問したが話は何故かさとりの昔話となった。
――あれはまだ結界で外の世界と幻想郷がとに隔たりが無かった頃の事でした。
さとり妖怪として人間達に恐怖や畏怖を与え、当時の妖怪界隈では正道である行いをし、日々を過ごしていました。
だけど人間側も泣き寝入りするわけではありません。その国一の武士を私のもとに送り出しました。
国一番の武士とて所詮人間、さとりである私に敵うわけがないと、その時の私はさとり妖怪なのに天狗になっていたのです。
……そうして、やってきた武士は私を退治しようと刀を振るいましたが、私には太刀筋が読めているので避けるのは苦労しませんでした。私の涼しげな表情とは裏腹に、武士の方は明らかに疲弊している、苦しそうな表情をしていました。
『人間にしてはよくやりましたが、もう限界でしょう』
『何のこれしき……』
『もうすぐ逢魔が時ですよ?』
『……では我が身惜しまずこの一振りに全霊を懸けよう』
そんなやりとりがあり、武士は壮絶な表情で構えました。これさえ避ければ武士の心は折れると思い私も読心に集中しました。
武士の決意を察知した私は神速の刃に備えるべく回避態勢をとったのですが、武士が声を上げて斬りかかろうとした時
ぷうっ
力み過ぎたのでしょう。武士は放屁してしまったのです。
不意の屁は私にも読めず、戦闘中だというのに笑ってしまいました。
そして気がつくと私の首寸前に刃があり、驚愕しました。
しかし武士はそのまま刀を戻し、鞘に納めてしまいました。
私はひどく狼狽しました。
『何故、首を刎ねなかったのですか?』
『今のは武士道に外れた、云わば外道の剣。 それゆえ礼を失した剣では貴様を斬れぬ』
その武士……いえ彼はどこか恥じた顔でただ私を見つめてそう言いました。
それ以来、私は当時の妖怪の常識からすれば腑抜けと言われる様な日々を過ごしました。だけど退屈だとか辛いだとかは思いませんでした。
屁をした彼が酒や食べ物を持ってやってくる様になったからです。こんな生活もいいかなと思えました……。
「なるほど、それでそれで?」
「その彼が死の間際に『あの外道の剣を誰かに伝承してくれぬか。 あのような、闇に生きる者達と対峙するための剣がこの先必要になるかもしれぬからな』と……」
「大げさですね」
「相手の心を乱し、集中を欠いたところを狙う必殺剣ですよ?」
「で? 誰かに伝えたんですか?」
「今、その義理が果たせました……。 これで私も心安く生を全うできそうです」
さとり妖怪は瞼を下ろし、何処かにいってしまった彼を思い、祈るように手を組みあわせている。
話から察するに自分はその外道の剣の伝承者になったらしい。自分の代で失われるだろうが、どうか許してほしい。
茶屋で出された団子を食べながら今は亡き彼に思いを馳せる。
「ちなみに今の私にその剣は効きません。 天丼ですから」
「分かりましたから、どうか空を飛ぶ心持をお聞かせください」
「まあ、私たち空を飛ぶ者の心持は覚悟を決めていて壮絶な感じです」
これは意外だ。正直、空を飛ぶのは気持ちの良いもので気楽、自由なものだとばかり思っていた。
「激しく誤解していますね。 ……率直に言いますと私たちは屁をするまいと決意しているのですよ」
それはまあ屁を聞かれたら誰だって恥ずかしいし、女性ならなおの事ではないか。
考えを読んだのか、さとり妖怪は溜息を吐いた。
「あのですね、私たちは飛んでいるんですよ。 そんな私たちが飛んでいる時に屁なんてしたら『あの妖怪は屁で空を飛ぶ』だとか『部屋の中で飛ばないでくれませんか、臭うんで』とか言われてしまうでしょう」
「なにをそんなくだらない……」
「いえいえ、全然くだらなくないですから。 今度誰か飛ぶ瞬間、離陸直前の表情を観察してください。 その表情はあの屁をした彼と同じく壮絶なものでしょう」
さとり妖怪は悲しい表情を浮かべ、団子を頬張った。いちいち屁のことを言わなくてもいいのではないだろうか。
目の前の男は私たちの悲しみをあまり理解できていない様である。
団子を咀嚼しながらどうやってこの男に分からせてやろうか思案に耽っていると、向い側の店から天狗が出てきた。
これを逃す手は無い。
「あの天狗をよく見ていてください」
「はあ」
気の抜けた返事だ。安穏とした状態であの天狗を見れるのは、やはり分かっていない様である。
「天狗は足をしっかり閉じていますね。 あれは括約筋を引き締め、そして次の天を仰ぐ動作は離陸の際に何事にも揺るがぬ鋼の精神を保つための儀式的なものです」
「もう人がいないところで飛びたてばいいんじゃないですか」
先人たちに謝らなくてはならないような一言。まだ理解が進んでいない。
「例えを挙げますよ……仕方がない。 秋穣子は人里の人間からの信仰は厚いですが飛行少女からはからっきしです。 理由は簡単、芋を食うと屁が出るからです」
「なるほど!」
「芋はお通じを良くし、美容にもいいと言われますが空飛ぶ少女からしたら禁断の果実なんです」
「あれ根っこですよ」
「昔話の武士も外道の剣と言った通り、屁で空を飛ぶなんて飛行においても外道なんです」
突っ込まれた部分もあったがスルーした。男の様子を見るにどうやら理解してくれたようだった。困った時の神頼みとはまさにこの事なんだなあと、移ろいやすい秋の空に豊穣の神を幻視しつつ団子に手を伸ばした。
団子はもう無かった。
「団子も無いのでこのへんで止めておきましょう」
「団子の御代はどうしますか?」
店を離れるにつれ私を呼ぶ男の声は小さくなる。
私は奇妙な満足感を抱いた。そうだ、たまには歩いて帰るのもいいかなとその日は歩いて帰る事にした。
普段の生活で飛べないことによる弊害を感じることは無く、せめて山の上の神社まで歩くのが億劫だなあ、飛んで行けたらなあとか思うくらいだ。
大分前、人里に住んでいる識者が、もし人間が日常的に飛ぶ生活を送り、また飛ぶ必要のある環境で暮らしているのであれば今の人の形とは違った性質を持つ事になるだろう云々と言っていたのを覚えている。
飛ぶための性質が後天的か先天的かによって身体の特徴に違いが生じるのは理解できた。人里で飛べる者、人間でありながら飛べる者は飛行術を本能で会得したわけではなく、見た目も差異は無い。鳥のように翼で飛ぶ訳ではない。
ただ、妖怪が平然と空を飛んでいるのを見るに、飛行術とは妖術の類であり、人間性を犠牲にして妖怪性を得るものなんだろうとぼんやり思った。
「何考えてるんですか」
不意に声がしたので周りをうかがうと少女がこちらに近づいてきたのが見えた。
一目で妖怪だと分かった。まさか襲って……
「人里ですから襲うような真似はしませんから安心してください。 第一そんな野蛮そうに見えますか?」
何も言ってはいないのに、少女は自分の返事を待たずに考えた事に対して答えてくる。大きな目玉が顔についている両目と一緒にこちらを凝視している。さとり妖怪だと勝手に思った。
「ええ、そうです。 今日は旧都からはるばる人里を訪ねに来たのですが、久々に日光を浴びて気分がいいところ、ちょうど茶屋を見つけたものですから一服しようかと思ったら貴方が何か考えていたもので」
つい読心してしまいました……と言ってきた。それなら考えに勝手に返答がくるのかと思ったら
「人の目があるのに私一人に喋らせて……、それじゃあまるで私が変な人に見えるじゃないですか」
と返ってきた。なるほど、それもそうだ。やはり声を出して話した方がいいらしい。
「それじゃあ暇つぶしも兼ねて自分の話相手になってもらってもいいですか?」
「いいですよ。 空を飛ぶことについてですね」
「はい、空を飛んでいる時はどんな心持なのかと」
「それを語るには私の昔話に付き合ってもらう必要があります」
自分は空を飛ぶ際の心持というのはどういうものか、実際に飛んでいる妖怪に聞けば更に飛行への深い考察が出来るかもという思いで質問したが話は何故かさとりの昔話となった。
――あれはまだ結界で外の世界と幻想郷がとに隔たりが無かった頃の事でした。
さとり妖怪として人間達に恐怖や畏怖を与え、当時の妖怪界隈では正道である行いをし、日々を過ごしていました。
だけど人間側も泣き寝入りするわけではありません。その国一の武士を私のもとに送り出しました。
国一番の武士とて所詮人間、さとりである私に敵うわけがないと、その時の私はさとり妖怪なのに天狗になっていたのです。
……そうして、やってきた武士は私を退治しようと刀を振るいましたが、私には太刀筋が読めているので避けるのは苦労しませんでした。私の涼しげな表情とは裏腹に、武士の方は明らかに疲弊している、苦しそうな表情をしていました。
『人間にしてはよくやりましたが、もう限界でしょう』
『何のこれしき……』
『もうすぐ逢魔が時ですよ?』
『……では我が身惜しまずこの一振りに全霊を懸けよう』
そんなやりとりがあり、武士は壮絶な表情で構えました。これさえ避ければ武士の心は折れると思い私も読心に集中しました。
武士の決意を察知した私は神速の刃に備えるべく回避態勢をとったのですが、武士が声を上げて斬りかかろうとした時
ぷうっ
力み過ぎたのでしょう。武士は放屁してしまったのです。
不意の屁は私にも読めず、戦闘中だというのに笑ってしまいました。
そして気がつくと私の首寸前に刃があり、驚愕しました。
しかし武士はそのまま刀を戻し、鞘に納めてしまいました。
私はひどく狼狽しました。
『何故、首を刎ねなかったのですか?』
『今のは武士道に外れた、云わば外道の剣。 それゆえ礼を失した剣では貴様を斬れぬ』
その武士……いえ彼はどこか恥じた顔でただ私を見つめてそう言いました。
それ以来、私は当時の妖怪の常識からすれば腑抜けと言われる様な日々を過ごしました。だけど退屈だとか辛いだとかは思いませんでした。
屁をした彼が酒や食べ物を持ってやってくる様になったからです。こんな生活もいいかなと思えました……。
「なるほど、それでそれで?」
「その彼が死の間際に『あの外道の剣を誰かに伝承してくれぬか。 あのような、闇に生きる者達と対峙するための剣がこの先必要になるかもしれぬからな』と……」
「大げさですね」
「相手の心を乱し、集中を欠いたところを狙う必殺剣ですよ?」
「で? 誰かに伝えたんですか?」
「今、その義理が果たせました……。 これで私も心安く生を全うできそうです」
さとり妖怪は瞼を下ろし、何処かにいってしまった彼を思い、祈るように手を組みあわせている。
話から察するに自分はその外道の剣の伝承者になったらしい。自分の代で失われるだろうが、どうか許してほしい。
茶屋で出された団子を食べながら今は亡き彼に思いを馳せる。
「ちなみに今の私にその剣は効きません。 天丼ですから」
「分かりましたから、どうか空を飛ぶ心持をお聞かせください」
「まあ、私たち空を飛ぶ者の心持は覚悟を決めていて壮絶な感じです」
これは意外だ。正直、空を飛ぶのは気持ちの良いもので気楽、自由なものだとばかり思っていた。
「激しく誤解していますね。 ……率直に言いますと私たちは屁をするまいと決意しているのですよ」
それはまあ屁を聞かれたら誰だって恥ずかしいし、女性ならなおの事ではないか。
考えを読んだのか、さとり妖怪は溜息を吐いた。
「あのですね、私たちは飛んでいるんですよ。 そんな私たちが飛んでいる時に屁なんてしたら『あの妖怪は屁で空を飛ぶ』だとか『部屋の中で飛ばないでくれませんか、臭うんで』とか言われてしまうでしょう」
「なにをそんなくだらない……」
「いえいえ、全然くだらなくないですから。 今度誰か飛ぶ瞬間、離陸直前の表情を観察してください。 その表情はあの屁をした彼と同じく壮絶なものでしょう」
さとり妖怪は悲しい表情を浮かべ、団子を頬張った。いちいち屁のことを言わなくてもいいのではないだろうか。
目の前の男は私たちの悲しみをあまり理解できていない様である。
団子を咀嚼しながらどうやってこの男に分からせてやろうか思案に耽っていると、向い側の店から天狗が出てきた。
これを逃す手は無い。
「あの天狗をよく見ていてください」
「はあ」
気の抜けた返事だ。安穏とした状態であの天狗を見れるのは、やはり分かっていない様である。
「天狗は足をしっかり閉じていますね。 あれは括約筋を引き締め、そして次の天を仰ぐ動作は離陸の際に何事にも揺るがぬ鋼の精神を保つための儀式的なものです」
「もう人がいないところで飛びたてばいいんじゃないですか」
先人たちに謝らなくてはならないような一言。まだ理解が進んでいない。
「例えを挙げますよ……仕方がない。 秋穣子は人里の人間からの信仰は厚いですが飛行少女からはからっきしです。 理由は簡単、芋を食うと屁が出るからです」
「なるほど!」
「芋はお通じを良くし、美容にもいいと言われますが空飛ぶ少女からしたら禁断の果実なんです」
「あれ根っこですよ」
「昔話の武士も外道の剣と言った通り、屁で空を飛ぶなんて飛行においても外道なんです」
突っ込まれた部分もあったがスルーした。男の様子を見るにどうやら理解してくれたようだった。困った時の神頼みとはまさにこの事なんだなあと、移ろいやすい秋の空に豊穣の神を幻視しつつ団子に手を伸ばした。
団子はもう無かった。
「団子も無いのでこのへんで止めておきましょう」
「団子の御代はどうしますか?」
店を離れるにつれ私を呼ぶ男の声は小さくなる。
私は奇妙な満足感を抱いた。そうだ、たまには歩いて帰るのもいいかなとその日は歩いて帰る事にした。
物語の柱がもっと太かったらなぁ…
シュールな流れのところどころ、我にかえる感じがいいですね。
放屁の剣も実際に使ったら強い気がしてなりません。斬られた方は死んでも死にきれないと思いますけど……。
しっかしくだらねぇw